「……真由美さん」
「な、なあに?」
「お一人、ですか?」
「そ、そうね」
「……知ってましたね?」
「な、なんのことだかさっぱり――」
「――知ってましたね?」
「……はい」
「全く、何を考えているんですか……」
◆ ◆ ◆
叔母上から箱根へ行けと連絡が来たのは、一昨日のことである。
なんでも
俺はちょうどその時京都にいたので、他の人とは現地集合ということにして一人箱根へと向かった訳だが……。
指定された宿の前で待っていると来たのはなんと真由美さん。
しかもお供も連れず一人だけである。
この時点で嫌な予感がして叔母上に連絡をしたところ。
『真由美さんと会った?ああそう、ちゃんと合流出来たのね。良かったわ』
「……やっぱり初めからそのつもりですか」
『何のことかしら。真由美さんと会ったのは偶然ではなくて?ーーああ、七草家の護衛だとか色んなところの見張りは全部引き剥がしておいたから。好きに過ごしなさい』
「……もういいです」
声に愉悦を滲ませながらそういう叔母上に、俺は通話を切った。
ったく、何を考えているんだか。
いや、考えていることは分かるのだが正気かどうか疑うと言うべきか。
「や、やっぱりわたしがいたらダメ、かな……?」
おずおずとそう尋ねる真由美さんに俺は溜息を吐く。
「……別に、構いませんよ」
そんな言い方されたらダメと言えるわけがないだろう。
途端にパァッと顔を綻ばせる。
「じゃあ、行きましょう?」
真由美さんは俺の腕を取り、宿へと歩いていった。
◆ ◆ ◆
「ご予約の南様ですね?承っております」
一礼する女将さんに真由美さんが首を傾げる。
「南?」
「俺の偽名ですよ」
四葉や司波の名を出したくない時の為に作った偽名だ。
お忍びで何処かへ行く時はこちらの名前の方が多い。
名前の由来?
言わんでも分かるだろうが、まあ達也、和也とくれば南かな、と。
ああ、小・中学と使っていた名前はまた別のものだ。
「では、ご案内します。こちらへどうぞ」
「あ、はい」
案内されるがままに着いていくと、一つの部屋の前で立ち止まった。
「こちらになります。では、ごゆるりとお寛ぎ下さいませ」
「どうも……ってちょっと待った!」
そのまま去ろうとしていく女将さんを慌てて呼び止める。
「何か、不都合でもございましたか」
「あの、ここはどっちの部屋ですか?」
「どっちの、とは?」
「二人で同じ部屋に泊まる訳がないでしょう?……まさか」
「ええ、一部屋でお二人様をとのご予約でしたが」
「……あの、空き部屋などは?」
「ございません。本日はちょうど部屋が埋まっておりまして……」
「そうですか」
一礼して去っていく女将さんを笑顔で見送る俺の心は、荒れに荒れていた。
……あの天然年齢詐称女がッ!!
何てことをしてくれたんだ!!
何かを期待しているのは分かるが、まだ早いだろうが!!
……失礼、少々取り乱してしまった。
しかし、どうする?
ここで帰るというのもちょっとあれだし、他でホテルを探すか?
そんなことを考えていると、真由美さんがおずおずと話しかけてくる。
「あの、わたしは別に構わないけど……?」
「は?」
思わず我が耳を疑ってしまった。
「正気ですか?女が男と同じ部屋で寝るなど、何が起こるか分からない訳でも無いでしょう」
「そ、それは分かるけれど。和也くんなら良いかなって」
「あのですね。俺も男なんですが」
「でも、わたしたちは婚約者でしょ?」
「それは……」
確かに仰る通りだが、しかしまだ結婚前だぞ?
「それに、和也くんはそんなことはしないよね?」
その目は、完全に俺を信用した目だった。
「……そこまで言われたら、部屋を分ける訳にもいきませんね。良いでしょう。俺が理性のある人間のあるべき姿を教えて差し上げようじゃありませんか」
◆ ◆ ◆
部屋は幸い二つの部屋があった。
とはいえその二つは襖で仕切られているだけなので部屋と言って良いかは怪しいが。
取り敢えず最低限着替えは問題なく出来るということが分かった訳だ。
しかし、見たところ片方の部屋は机や椅子などが置かれているせいで布団が敷けない。
となると、隣に布団を敷いて寝ることになるのだろうが……困ったな、今夜は眠れる気がしない。
お互い荷物を置いて座布団に座る。
「……ふぅ、少々疲れましたね」
「そう?東京からは結構近いし、移動もそんなに大変ではなかったけれど」
不思議そうにそう言う真由美さんに、苦笑しながらその訳を答える。
「俺は昨日まで京都にいたんですよ」
「京都に?」
「ええ。詳しいことは言えませんが、ちょっと家の用事で、ね」
曖昧に笑って誤魔化す。
「それより、この後はどうします?この時間から温泉に行くのもあれですし」
「そうねえ……せっかくだから街を歩いてみない?」
「構いませんよ。じゃあ行きましょうか」
◆ ◆ ◆
その後、日中は外を歩いて回った。
真由美さんが前回に比べ今回はやけに大人しいなあと思ったぐらいで、特に何か変わったことはなかったのだが。
問題はその後である。
夕方に宿に帰った俺たちは風呂に入ってから夕食を頂くことにしたのだが……風呂上がりの女性の破壊力を今更ながら思い知らされた気分だ。
血色の良い肌に上気した頬、濡れた黒い髪。
ただでさえ十二分に魅力的な彼女の容姿が何倍にも割り増しして見えた。
当の本人はそんな事を考えもしていないのだろう、料理を美味しそうに食べていた。
「食べないの?」
「……いえ、頂きます」
手を合わせて、まずは手始めにと焼き魚を口に運ぶ。
「……結構美味しいですね」
「ええ。ここの宿にして良かったわ」
「正直、これを食べにまた来たいぐらいです」
焼き加減に塩加減など、全てが殆ど完璧な具合だった。
このレベルは早々お目に掛かれるものではない。
これは他の料理も期待できるぞ?
真由美さんに見惚れていたことなどさっぱり忘れて、目を輝かせて別の料理に手を出す俺なのであった。
◆ ◆ ◆
「すいません、すっかり放っておいて夕食にがっついてしまって」
いやあ、恥ずかしいところを見せた。
料理にはそれなりの拘りを持つ俺なのだが、今回は久しぶりの当たりだったからだろうか。
真由美さんはいいのよ、と首を振る。
「わたしもすごく美味しいと思ったわ。和食は久しぶりだったからかしら」
「そうなんですか?」
「ええ。パーティとかだと食べやすいことが優先されるから、焼き魚とかは特に食べないもの」
まあ、確かに骨を取らなければならないからな。
時間も掛かるし、食べやすいとは言えないだろう。
「ご自宅では?」
「父が洋食の方が好きなのよ。たまに中華かな。わたしは和食も好きなんだけれど、二度手間になってしまうでしょう?」
なるほど。
使用人には必要以上の手間を掛けさせない、というのは真由美さんの優しさなんだろうな。
しかし、和食を食べない理由が嫌いだからというわけではなくそれならば。
「自分で作ったりはしないのですか?俺なんかはたまに献立と違うものが食べたくなったら自分で作りますが」
「……うぅ、料理はあまりやらないのよ」
男の俺が出来るのに自分が出来ないのは女としてのプライドが傷付くのだろうか。
古い価値観だと思うが、でも未だに料理が出来ると女子力高いとか言われるからな。
「……今度、教えて差し上げましょうか?」
「本当に?でも、うーん……」
顎に手を当てて考え込む真由美さん。
一体何に悩んでいるんだ?
「教わるにしても、使用人の前だと示しがつかないしなあ……」
「それなら、うちを貸しましょうか?普通の一軒家ですが、道具はそれなりに揃っているので」
「なら、そうしてもらおうかしら」
途端に顔を明るくする真由美さん。
今の反応を見るに俺の言葉を待っていた感があるんだが……まあ良いか。
「そのうち、真由美さんが上手になったら手料理でも頂きたいですね」
「頑張るから、待っててちょうだい」
そう言って微笑む真由美さんだった。
お読みいただき、ありがとうございました。