夜。
明かりの無い執務室で、はやては革張りのソファに足組みし腰掛けていた。
卓上の書類は全て処理済みであり、はやては頬杖をしながら、床につく片足で左右に椅子を振り子のように回している。
溜息。
足に軽く力を込め、椅子を回転させ、はやては硝子窓の向こうの夜景に目をやった。
機動六課の隊舎は海に面しており、はやての執務室からも常日頃海が見えている。
当然のごとくこの日もそうで、隊舎が発する光に照らされ、漆黒の海が僅かに明るく染まっていた。
はやてが虚ろな瞳でそれを見やっているとパチン、という音とともに照明が数度明滅。
執務室が明かりに照らされ、はやて視界は伸びた影法師が窓で途切れる光景となる。
「主、目を悪くしますよ」
「ん……。悪いなぁ、リィン」
言ってはやては再びソファを回転させ、リィンフォースに目をやった。
彼女はいつもの、触れれば切れそうながらも、その奥に愛情を感じる表情をしていた。
愛おしい家族の姿に、自然はやての心が僅かに軽くなる。
しかし同時、僅かに暗い感情が沸き上がってくるのを押さえきれなかった。
闇の書事件。
かの事件ではやてとヴォルケンリッターが生き残ったのは奇跡と言われた。
これまで例外なく主を呪い殺してきた闇の書が相手なのである、当然の評価といえよう。
しかし、詳細を調べるうちに、はやては奇跡が一つでは無いことに気づいた。
はやてが闇の書の暴走の中でも正気を保ち、闇の書にアクセスできたこと。
これだけでもはやてとヴォルケンリッターが生き残ることのできる奇跡だったのだが、それだけではリィンフォースが生き残ることは無かったのである。
リィンフォースが生き残ったのは、Tの存在が故であった。
Tのいっそ理不尽ともいえる、この夢幻世界を作り替える程の奇跡。
それがあってこそ、リィンフォースは生き残ることができたのである。
いわばリィンフォースは、はやてがTに借りがある生きた証明なのだ。
「……どうしました? 主はやて」
「なんでも……ううん、秘密や」
はやては笑みを作り、立てた人差し指を唇の前に。
軽く装った筈の行動だったが、それでもにじみ出る苦悩は隠せなかったのだろう、リィンフォースは真一文字に口を結ぶ。
内側で悲痛さをかみ殺す様であった。
はやては、Tについての真実を家族に伝えていなかった。
リィンフォースもヴォルケンリッターも、そもそもがプログラム体である。
元々設定付きで生まれたというのに、今更Tの妄想で設定付きで生まれたと知って、狂う事は無いだろう。
はやてが闇の書の主だった事がTの妄想による物だと知っても、耐えられるに違いない。
だがしかし、それでもはやてはTとこの世界の真実を伝えられなかった。
何故なら。
——八神はやては、Tを殺す気だからである。
八神はやては、決して恵まれた幼少時代を送ってきた訳では無い。
幼い時分に両親を失い、施設では笑顔を覚えるまでは孤独に過ごした。
どんなにつらくとも笑顔を崩さない事をやっと覚えたと思えば、今度は両足の麻痺。
暗い物を押し隠して必死で笑顔を作っていたはやては、それなのに孤独に9歳の誕生日まで生きる事となったのである。
辛かった。
苦しかった。
このまま一生が過ぎるのかと思うと、ふと笑顔を作る力が途切れ、眠りに落ちるまで泣き続けた事とて両手で数え切れないほどある。
それでも家族と出会えたから、はやてはようやくこれまでの苦しさを正面から認める事ができるようになった。
だが、しかしである。
はやてが三提督の目を盗み3脳の隠していたデータを覗き見た所、はやての両親を殺したのは最高評議会議員の判断による物であった。
ギル・グレアムにはやてを見つけさせ、闇の書ごと凍結封印をする計画に誘導する為である。
つまり、はやてが両親を失い施設に入ったのも、両足が麻痺したのも、やっと手に入れることができた家族も、全てはやてが闇の書の主であったが為。
そしてそれは当然、避け得ぬ運命などではなく。
Tの妄想により、はやては闇の書の主として生まれたきたのだ。
ふざけるな、とはやては言いたかった。
認めている筈だった。
向き合えている筈だった。
苦しかった幼い時代を、はやてはどうにか受け入れる事ができている筈だった。
はやてが闇の書の主として生まれたのは避けられない運命であり、過去に拘らずに今を生きる事が大事だと、この10年で受け入れる事ができた筈だった。
けれど、やっと受け入れた運命がただのTの妄想だと知って。
故にはやては、この世界がTの夢の世界だなどと、認める事ができなかった。
はやてにとって両親の仇であった3脳と同じ思考だというのは癪に障るが、それでもこみ上げてくる感情は止められないのだ。
矛盾している事は、はやてにも分かっていた。
もしこの世界がTの妄想であるのならば、Tを殺す事は世界を滅ぼす行為である。
対し、もしこの世界がTの妄想ではないのならば、Tを殺す事は無実の生まれてから初めてできた親友を殺す事である。
Tを殺す事で解決する事は何も無く、Tを殺せば凄まじいデメリットが生じるだけだ。
けれど、はやてはTの事を思うと殺意を抑えきれなかった。
理屈では無いのだ。
ただでさえTは、はやての初めての友達であったすずかを自殺させた要因であり、はやての兄代わりだったヴェロッサを発狂死させた要因である。
はやては、Tと直面して殺しにかからない自信が無かった。
だから。
それ故に。
「……ごめんな、リィン、本当に秘密なんよ」
「そう、ですか」
はやては家族にTの真実を伝える訳にはいかなかった。
はやてが今の家族と出会えたのは、Tの妄想に寄る物である。
それなのにはやてがTを憎む事は、今の家族を否定する事に繋がりかねない。
それだけは、家族を裏切るような事だけは、はやてにはできなかった。
故にはやては、一人密かにTへの殺意を育ててゆく事となるのであった。
*
フェイト・テスタロッサは、機嫌がよかった。
外から見てもそうなのだろう、会う人皆から何か良い事があったのか、と聞かれるぐらいで、よっぽど自分は幸せそうな顔をしているんだな、とフェイトは思う。
思いながらも食堂へたどり着き、今日のランチパスタを頼んで窓際の席へ。
時間帯的に空いている食堂で、フェイトは窓に時折視線をやりながら、ゆっくりと楽しんでパスタを口にする。
六課ができた頃はあまりの美味しさに無言で食べる事に集中してしまったが、今ではゆっくりと味わえるぐらいの慣れが出てきた。
しかし慣れてもそれはそれで美味しい物で、幸せを噛みしめるようにフェイトは食事を続ける。
そこにカツカツと、床板を叩く足音。
「む、テスタロッサ、相席を頼んでもいいか」
「あ、どうぞ、シグナム」
言って、シグナムは和風定食を持ってフェイトの向かいに座った。
それからシグナムは怪訝そうな顔をしたものの、すぐに食事に向き合い、両手を合わせいただきます、と言って食べ始める。
一口食べて、すぐに口元を緩めて見せた。
「やはりここの食事は絶品だな。主も、よくここまでの腕前のコックを用意できたものだ」
「はい、同感です」
と、料理への賛辞を口火に、2人は談笑を始める。
フォワード陣の訓練の事から他愛ない日常の話になり、そういえば、とシグナムが言った。
「そういえば、テスタロッサ。最近やたら機嫌が良いと聞くが、本当のようだな」
「えぇ、会う人皆に言われるんですよね。そんなに分かりやすいですか?」
「男でもできたのかと噂されていたぞ?」
「まさか」
冗談交じりに言うシグナムに、苦笑するフェイト。
男ができたと言うのは少し違う。
対象は男だが、関係はできたというより気づいた物だし、色気のある話ではない。
その言葉を内心に止めおくフェイトに、シグナムが続ける。
「まぁそうだろうが、エリオが本気にして、変な男に騙されていないだろうか、心配していてな。普通逆だろうに」
「う……。心配かけちゃってますかね。今度時間が取れたら、エリオとお話しないと」
なのは方式じゃなくてですけどね、と付け加えるフェイトに、シグナムが薄く笑った。
ふとフェイトは、その笑顔もまたTの妄想によって作られた物だと言う事実を思い出す。
フェイトにとって、この世界がTの夢であるという事実は歓迎すべき物であった。
なぜなら、この世界がもしTの夢であると言うのならば、プレシアもまたTの妄想によって生まれたという事だからだ。
つまり、この世に存在しなかったアリシアが、唯一Tの内にだけ存在していたのと同然だったように。
すでにこの世に存在しないプレシアは、今や唯一Tの内にだけ存在しているも同然なのだ。
Tはフェイトにとって、初めての友達であり、この世で最も大切だった母であり、自分のオリジナルである姉でさえあるのだ。
その事実は、驚くほどフェイトにとっての救いとなっていた。
フェイトの持つアリシアの記憶は、母との絆は、全てT生誕以前の出来事である。
つまり全て、Tの妄想設定である。
ならばフェイトはルーツを無くした事を逆恨みし、Tに殺意を抱いてもいいと言うのに、何故かそうは思わなかった。
多分それ以上に、うれしかったのだろう、とフェイトは己を分析していた。
母がTの内側に存在している事が。
結局最後まで自分の事を見てくれなかった母相手に、まだ繋がりを持てるチャンスがある事が。
ふと、フェイトは思考に耽っていた事に気づいた。
じっと見つめてくるフェイトに、シグナムが小首をかしげ、フェイトはなんでもない、と返す。
再び料理を口にする幸せな作業に戻り、シグナムと言葉を交わし始めた。
会話しつつも、マルチタスクでフェイトは思う。
先ほどフェイトはエリオを話をすると言ったが、これからエリオやキャロに世話を焼くことも少なくなるだろう。
なぜなら、フェイトはその身全てをTに向けて捧げるつもりであったからだ。
3脳がそうであったように、真実を知った人間全てに殺意を向けられるであろうT。
その彼を、この世の全てを敵に回してでも守ろうと心に誓ったからだ。
たとえなのはが相手であっても、はやてが相手であっても、エリオやキャロが相手でさえあっても。
Tの為なら、誰であろうと切るつもりがあったからだ。
当然、覚悟なんてできていないし、フェイトは実際に自分がそれをすれば泣き崩れてしまうだろうという事も分かっていた。
けれどそれでも、Tの事は。
T=母=姉の事は、それぐらいに大切で。
ふとフェイトは、最後まで自分を見ようとしなかった母と母を求めた自分の関係が、今の自分とエリオとキャロとの関係に似ている事に気づいた。
Tの為に被保護者を見捨て、Tだけを見ようとする。
その母との類似性に、嬉しいとさえ思ってしまう自分は、なんだかもう病気みたいだな、とフェイトは思うのであった。
*
夜の帳が降りた光景に、僅かに紫色の光が混じっていた。
光は夜空を僅かに染めるだけで、世界は影と闇で満ちている。
そこに、亀の如き速度と重さで太陽が僅かに顔を出した。
朝焼けの強い光が、鮮烈な朱となって世界を染める。
海を。
機動六課の隊舎を。
そして高町なのはを。
「……もう、こんな時間かぁ」
早起きして機動六課隊舎の屋上に立っていたなのはは、目を細めながら言った。
普段から朝は自己鍛錬の時間に充てているのだが、今日はどうしてだろうか、いつもより早く目が覚めたからか、そんな気にはなれなかった。
朝焼けをゆっくりと眺めながら、なのはは物思いに耽る。
夢幻世界の真実は、未だになのはの心を強く揺さぶっていた。
3脳の言うこの真実が本当に確かならば、なのはどころか人類に救いは無い。
何時消えるか分からない世界で、自分たちの過去がTの妄想設定に寄る物だと思いながら生きていける程、人間は強く無い。
おそらく、アリサがそうしているように心を殺した生き方をするしか生き残る術はなく、そしてそんな生き方をする人間ばかりになれば社会は維持できなくなる。
その後は想像したくも無い無秩序が待っている事だろう。
そしてTが真実を知ったとして、なのはたちに都合の良い行動をしてくれるとは限らない。
一体この世の誰が、起きれば消えてしまう夢の中の登場人物の言葉に、真摯に向き合ってくれるだろうか。
ただでさえなのはとてそれができるかどうか分からないというのに、夢のメカニズムは夢幻世界と現実世界とで違うかもしれないという。
Tが現実世界で何らかの犠牲を払わねばならない場合、恐らくは確実にTはなのはたちを無視して目覚める事を選択するだろう。
例え真実を知りながら発狂も諦観もしていないなのはたち3人が特別視されているとしても、それを覆す事まではできないと思われる。
溜息をつきたくなる現実に、それでもなのははじっと朝焼けを見つめていた。
今日という1日が始まる合図に、心の奥底が照らされてゆくのを感じる。
「けど、まだ一つだけ、希望がある」
なのはは、考える。
過去がTの妄想設定である事はどうしようもない。
こればかりは、そもそも当事者となれないなのはにとって解決する以前に、完全な認識を持つ事すら難しいだろう。
けれど、何時この世界が消滅するか分からない、という事だけは。
希望というのもおこがましい、ほんの僅かな救いだけはあるのだ、となのはは考える。
元々、人はいずれ死ぬ。
全て無くなる。
人格も魂も何もかもが闇に還り、完全な無となる。
それでも、人は今を生きる事ができている。
それは恐らく、今この瞬間を生きる刹那的な心地よさからだけではない。
何かが自分を記録してくれて、それが何時までも伝えられてくれる、という事からでもあるのだとなのはは考えていた。
たとえば、なのはの教導は生徒に受け継がれる。
生徒はなのはの教導に影響を受けた生き方をし、それが誰かに引き継がれてゆく。
そうやってなのはの生き方は、薄れながらもなのはの想像がつかない程遙か未来まで受け継がれてゆく事だろう。
人は無に還るが、その影響は永く残っていく。
それが生きる者への救いだとなのはは考えており、その考えがなのはを教導隊に就かせていた。
故になのはは、思うのだ。
例えTが目を覚ました瞬間にこの夢幻世界が消え去ったとしても、一つだけ現実世界に残る物がある。
Tである。
なのはの幼なじみで、一番の友達だった青年である。
その彼の記憶に残る事ができれば。
印象深い夢が時たまそうであるように、Tが現実世界に戻ってもなのはの事を覚えていてくれれば。
現実世界のTと関わった人々に、なのはの影響が受け継がれてゆくのならば。
その時、なのははせめて、満足な最後を迎える事だけはできるのではないだろうか。
そしてそれは、なのはだけの利益ではない。
なのはが関わり、影響を受けてきた星の数ほどの人々の歴史を伝えていく、バトンとなり得るのだ。
無論この夢幻世界全ての事を覚えておいて欲しいのが実情だが、さすがにそれは無理がある。
対しなのはたち3人はTにとって特別視されており、覚えておいてもらえる可能性は高いだろう。
それ故に。
——たっちゃんに、私の事を覚えておいて欲しい。
奇しくもアリサが10年前に出した物と同じ答えが、なのはの胸に宿っていた。
それは救いと言うのには儚すぎたけれども。
それがなのはの出した、たった一つの冴えないやり方であった。
*
「——Tに、私の事を覚えておいてもらうのだよ!」
叫ぶスカリエッティの言葉に、呆然とチンクは佇んでいた。
全身の力が抜けてゆき、思わずその場に膝をついてしまう。
涙すらぽろぽろと零れはじめ、全身がぶるぶると震え始めた。
体の奥底にある熱い何かが全身に伝い、体が沸騰しそうだった。
そんなチンクを尻目に、スカリエッティは白衣を翻し一回転。
左右非対称の笑みを作り、続けた。
「それが娘に美学に反した改造を施してまで、Tにとって最大の敵であろうとする理由さ」
「そんな、事の為に……」
にやにやと見つめてくるスカリエッティに、歯を折れそうなぐらいに強く噛みしめ、チンクは呻く。
チンクは、Tがどのような存在か知らなかった。
危険度S級生体ロストロギアであり、幾多の人間を発狂させた恐るべき存在である事は知っているが、その程度である。
スカリエッティとTの間にどんな関係があるのかは分からないが、言葉面だけ聞けば、ただの同性愛者の一方的な妄想にしか聞こえない。
そんなことの為に妹たちは改造されていったのか、とチンクは怒りのあまり震える。
チンクの妹たちは、スカリエッティの事を信じていた。
彼女たちはトーレのように兵器としての生き方に準じていた子ばかりではなく、むしろ人間的な生き方にどこか憧れている子も多かった。
そしてそんな子たちがスカリエッティの元で戦う理由は、彼が父親だからであった。
スカリエッティが己を作ってくれた事に恩を感じていたからであった。
具体的に改造後を教えられないままに改造への同意を求められ、それを承諾したのも、彼を信頼していたからなのだ。
なのに、スカリエッティは。
「そんな、くだらない理由で……!」
灼熱の思考に踊らされ、チンクは叫ぶ。
チンクの妹たちは、その精神をも改造されていた。
感情の薄かったオットーたちのような妹は影響が薄いが、ウェンディたちのような快活な子は強い影響を受けている。
記憶の混濁、前触れの無い躁鬱の切り替え、虚ろな表情の多さ。
今は大量の薬剤を用いてどうにか正気を保っている所で、チンクの目にはあと半年持つかも分からないぐらいに酷い状態だった。
にやにやとした笑みを続けるスカリエッティをこれ以上前にしていると、チンクは自分を抑え切れそうに無かった。
念のためにと武装は解除されており、室内には静かな目でこちらを監視するウーノが居る。
彼女が自己改造を望んでいたのはチンクも聞き及んでおり、彼女の戦闘能力が無いままだと考えるのは愚の骨頂。
ここで反旗を翻すのは、得策では無い。
沸騰した思考をどうにか押さえきり、チンクは勢いよくこの場を走り去る。
背後から響く、スカリエッティの哄笑から逃れんばかりに。