甘い香りのする部屋であった。
天井は高く面積も広い部屋なのだが、窓が一つも無く、何処か淀んだ空気がとどまっているようになのはは感じる。
ローテーブルを間に、アリサと向かい合ったソファに座った3人は、じっとアリサを見つめていた。
アリサは、パジャマ姿であった。
薄く軽い素材で出来たパジャマはボタンが半ば開いており、奇妙に色気ある鎖骨や、胸元の下着が垣間見える程。
気怠そうにアリサはテーブルの上のカップを手に、やや寝癖混じりの髪をかき上げ、紅茶を口にした。
音も無く紅茶を一口二口、口内を湿らせカップを戻す。
視線をなのはらへと順番にやり、それからアリサは口を開くのであった。
「なるほど、話は分かったわ」
最高評議会議員の死から数日、なのは達は強引に休暇を取り、地球を訪れていた。
3脳の居た部屋は恐るべきセキュリティに守られており、その存在を知る者さえ殆ど居ない。
その僅かな知る者である伝説の三提督は、3脳の死を発表しないと決めた。
彼らの判断していた仕事を徐々に減らし、影響力を無くしてゆく事にしたのだ。
何せその存在からして違法性の高い存在である、下手に死を発表すれば重箱の隅をつつかれる可能性が高い。
闇は闇に葬られるべきだ、というのが三提督の考えである。
最も、なのはたちがTの情報をロックし隠蔽するのが間に合わなければ、彼らとて発狂してしまい、闇に葬られていたのだろうが。
そして真実を知る者であるアリサに、なのはたちはこれまでの経緯を伝えた。
アリサは数分ほど考えを纏め、それからその気怠げな視線でなのはたちを見やる。
「3人とも、すずかとは関係のある人間だし、当然Tとも関係が深いし。あんた達には私の知る真実を伝える必要があるわね」
言ってアリサは、手を組み前屈みになる。
自然上目遣いになり、服は重力に引かれ、なのはたちの視界には彼女の下着が露わになった。
うっすらと桃色がかった下着が、豊満に成長した彼女の胸部を覆っている。
僅かに火照った肌はほんのりと赤味がかっており、下着と綺麗なグラデーションを作っていた。
所々に浮いている汗粒が艶やかな肌を時折滑り、その肌の滑らかさを物語っている。
同性であるなのはでさえ頬を赤くする程の、妖艶さであった。
密かに戦慄するなのはに構うでもなく、アリサは言った。
「時系列順に話すわ。闇の書事件が終わって、たっちゃんが地球に戻ってきた頃から話すわよ」
「うん、数日アリサちゃんとすずかちゃんと一緒に居た時だね」
「えぇ。まぁ、気づいた細かい理由は要らないだろうし、省略するわ。兎に角結果として、私はたっちゃん……Tが創造神であり魔王であり、唯一の人間であると気づいた」
言ってアリサは、遠い所を見る目になる。
小さなため息。
「私はすぐに、その事実が私を殺す毒になる事にも気づいた。保険はかけたけど、本当に怖かった。周りの人間の存在意義の喪失に加えて、何時Tが目を覚まして世界が滅ぶかも不明。世界が何時滅ぶか分からないっていうのは普通に生きていても同じ事だけれども、それを身近に感じ続けるっていうのは正直キツイわね」
「うん……。確かに、そっちの側面も強烈だよね」
相づちを打つフェイトに、なのはも内心で同意する。
3脳は己の過去が設定である事に拘っていたが、Tとほぼ同時かそれ以降に生まれたなのは達にとって、より重要なのは何時世界が滅ぶか分からない事である。
アリサの言う通り世界が何時滅ぶかなんて人類の誰にも分からない事だ。
だが、あの気まぐれなTが世界を滅ぼすスイッチに指を置いており、いつでも押せる状況にあるというのは、心臓に悪すぎる。
しかも、スイッチを持っている事に無自覚だというのがそれに拍車をかけていた。
「そしてその恐怖に耐えられなかった私は、せめて一緒に恐怖に耐える人が欲しいと、すずかにTの真実を話した。Tの正体とこの世界の真実を」
「それじゃあすずかは……」
「えぇ。私がTの正体を教えたせいで、死んだ」
血を吐くような表情できっぱりと言い切るアリサに、なのはは胸の奥が軋むのを感じる。
アリサのせいじゃあないと言いたかったなのはだったが、気休めにしかならない上に、そうなれば責任を転嫁されるのはTである。
未だTに対しどんな態度を取って良いのか混乱しているなのはは、迂闊にTに罪をかぶせられない。
それでも気遣いたいと言う気持ちだけは確かで、なのははアリサの為に何か言おうとしては、言葉が見つからずに口を閉じる事を繰り返す。
そんななのはを苦笑気味に見守り、続けるアリサ。
「すぐに私は、このままでは私も死んでしまう可能性が高い事に気づいたわ。かつての私は、自分の人生全てに誇りを持っていた。それはこの夢幻世界の社会では良いこととされているけれども、Tの正体を知った上で生き続けるには邪魔にしかならない。だから私は、生きる意欲を薄くする事で、それを逃れたわ。設定付きの人間の事を深刻に考えないよう、人への興味を減らし。何時世界が滅んでも良いよう、毎日心残りを作らない人生を設計してね」
「それじゃあ、アリサちゃんが引きこもっていたのは、すずかちゃんが死んだからじゃあなくて……」
「Tの正体を知ったから、と言えばいいのかしらね、この場合」
勿論すずかの事も少なからずあったけれど。
そう続けるアリサに、なのは達は絶句する他無い。
単純にすずかの死にショックを受けた為引きこもったのだと思っていたアリサだが、そこまで計算し、生き残る為に引きこもっていたとは、完全に予想外であった。
Tの真実は、そうまでしなければ生き残れない程なのか。
ならば自分たちは、自覚なしに既に狂っているのではあるまいか。
様々な疑問が錯綜する3人を捨て置き、アリサは言う。
「それからはTの真実とすずかの死の真実を、引きこもったままという制約の中で探していったわ。色々手はあったからね、そこそこ真実に近いだろう事実は引っ張りだせたわよ」
言って、アリサは背をソファに預け、足を組んだ。
掌を指しだし、指折り数える。
「Tの正体に気づいたのは、私が知る限り10人。プレシアさん、グレアムさん、私、すずか、3脳、あんた達3人。このうちグレアムさんと3脳、あんた達3人については省略するけど、残りの人間が何故Tの正体に気づいたのか、気づいてどうしたのかは、おおよそ憶測できている」
「え、母さんも!?」
悲鳴を上げるフェイトに、アリサはこくりと頷いた。
金糸の髪が揺れ、怪しい照明をゆらりと反射する。
「順番に話すわよ。まずプレシアさんから。Tはあの瞳に映る意思の中に、この世界の全ての命を宿している。当然よね、Tはこの夢幻世界を夢みている張本人、全ての命はTの内側にも位置しているわ」
「そう……なの?」
疑問詞。
なのはには今一、Tの内側に自分たちが存在するというイメージが沸かない。
それに苦笑気味に、アリサ。
「そうね、イメージしづらいでしょうけど、まぁとりあえずそう考えておいて頂戴。で、プレシアさんの愛していたアリシアは、設定だけで実はこの夢幻世界に存在した事は一度も無い。故にアリシアが実在している場所は、たった一つ……」
「まさか……」
「……Tの内側だけよ」
なのはは思わず視線をフェイトへ。
ひゅ、とフェイトが息を呑み、同時に顔を真っ青にする。
つまり、それは。
「プレシアはTがアリシアを含む事に気づいて、それ故にTの事を愛していたのよ。実際、Tの事を神だと言っていたし。ただ、魔王にして唯一の人間である事にまで気づいていたかは、今となっては分からないけれどね」
「それじゃあ、母さんは……」
「Tそのものに惚れた訳じゃあない。今も昔も変わらず、アリシアを愛し続けていただけよ」
フェイトは安心したような驚いたような、奇妙な表情を作った。
なのはは思わず彼女を支えようとすらするが、直後フェイトは、何故だろうか、うっすらと微笑んでみせる。
目を細め、口角をあげたその表情は、どうしてか少し不気味でさえもあった。
思わず手を伸ばすのを躊躇するなのはを捨て置き、アリサは続けて口を開く。
「続いてグレアムさんは省略だから、私になるか。私がTに気づいた理由は、詳細を話すとあんた達まで発狂する可能性があるから、保留で。ただ、補足する事実はあるわ」
「えっと……。っていうと?」
アリサは紅茶のカップへ手を伸ばし、一口、二口。
喉を脈動させ、赤褐色の液体を嚥下する。
「Tは、この世界を夢だとは思っていない。けれど何となくは現実世界の記憶を持っている。で、Tの出した結論は、自分は転生したんだ、だそうよ」
「て、転生? 転生って、輪廻転生の転生?」
「えぇ」
短く答えるアリサに、自信無さ気にフェイトが問うた。
「えっと、輪廻転生って、確か死んであの世に言った魂が、もう一度この世に生まれてくる、っていう考えだよね?」
「えぇ。Tの場合は、記憶を保持した転生だと思っていたようよ」
いやいや、と思うなのはだったが、少しTの立場を想像する。
眠りに落ちたら赤ん坊になっており、眠りに落ちる以前の記憶を曖昧ながらも持っていて、成長を続けていくのだ。
なのはもそうなれば、転生を疑う事もあり得るだろう。
するとTの体験は、転生の夢を見ている、という事になる。
夢幻の転生。
夢幻転生。
納得の色を見せるなのはに、続けてアリサ。
「で、続いてすずか。まずあんた達3人に聞くけど、夜の一族って単語、知っているかしら?」
「いや、知らへんけど」
「私も知らないわよ」
と、続けて首を横に振るはやてとフェイト。
しかしなのはは眉間に皺を寄せ、過去の記憶を掘り起こす。
「そういえば、お兄ちゃんがそんな単語を言っていたことも、あるような無いような……」
「そう、なのはなら知っているかもとは思っていたけどね。夜の一族っていうのはまぁ、いわゆる吸血鬼のような種族の事を指す言葉よ」
「……吸血鬼って?」
疑問詞を呟くのは、フェイトである。
流石に地球出身では無いフェイトの知る所では無かったのだろう。
アリサは一つ頷くと、流暢にしゃべり出す。
「フィクションなんだけど、血を吸って生きる長寿の存在で、基本的に人類の敵とされているわ。夜の一族は別に人類の敵って訳じゃあないけどね。長命で人間離れした身体能力があって、個人によって種類は違うけど、超能力の類も持っているみたい。代わりに人間、特に異性の生き血を取らないと長生きできないみたいだけどね」
「それって、つまり……」
話の流れに気づいたなのはに、アリサは断言してみせた。
「月村家は、夜の一族よ」
言われ、なのはは思わず目を白黒させる。
が、言われてみれば思い当たる節が無い訳でもない。
すずかは魔力強化したフェイトに比類しうるぐらいの身体能力があり、加えて体育の授業で誰かが怪我した時など、血に過剰反応していた事があった気がする。
流石に10年前の事なので記憶も曖昧だけれど、と言いつつ告げるなのはに、アリサは頷いた。
「こう言っちゃ難だけど、よくこんな荒唐無稽な話を信じられるわね」
「う〜ん、完全に信じた訳じゃあないけど」
「荒唐無稽と言えば、Tの真実もそうだったし」
「まぁ、3割ぐらいしか信じられてないけどなぁ」
なるほどね、と肩を竦め、続けるアリサ。
「で、すずかはその夜の一族である事で、凄い悩んでいたみたいなのよ。本人とはもう話せないから、忍さんとかからそれとなく聞いた感じからなんだけど……。でも、それなら納得いくわ」
「えっと、何が?」
「すずかが死を選んだ事よ」
絶句。
思考が停止するなのはらに、気怠げな表情を僅かに顰め、アリサが言う。
「だって、夜の一族という設定は、Tの妄想に過ぎなかったのよ?」
「……あ」
理解が追いつき、なのはは背筋が凍るような思いをした。
では、まさか、と信じたくないが故に思考を停止させようとするが、それよりも早くアリサが言葉を紡ぐ。
「自分が夜の一族に産まれたのも、姉が夜の一族として苦しんできた事も、全てTの妄想による物で、どうしようもない運命によるものでも何でも無かった。そしてすずかは、それからの一生、皆の生まれ持った不幸は全てTの気紛れで背負わされたものだと知って生きなければならない。勿論、それを秘密にしたままでね」
言って、アリサは再び紅茶を口に。
その合間に、なのはは言われた言葉を頭の中で整理する。
確かに、重い事実ではある。
例えばなのはに関して言えば、父と兄と姉が受け継ぐ御神流の剣術はTの妄想だ。
当然その信念もTの妄想であり、その信念に従い父が大怪我をしたのもTの妄想のせい。
故になのはが幼い頃、良い子にならなくちゃと心に刻み込まれたのもTの妄想のせいであった。
最も、なのははその時Tと出会って寂しさは薄れたので、複雑な感情ではあるのだけれど。
それでも、思わずなのははぽつりと漏らす。
「でもそれは、誰にも相談せずに死んじゃう程の事だったの……?」
「……私も偉そうに講釈しているけれど、これはただの憶測よ。本当にそれだけの理由だったのか、それとも他に理由があったのかは分からないわ」
「他の理由……?」
思わず反芻したなのはに、アリサは表情を陰らせた。
吐き捨てるように、小声で呟く。
「もしかしたらすずかは、Tの、たっちゃんの事が……」
言って、アリサは瞼を閉じ頭を振った。
それからすぐに、今までの話題を押しやるかのように口を開く。
「さて、Tの正体への気づき方はもういいでしょう。次は私に対する質問タイムでどうかしら」
言われ、なのはは何となくアリサが何を言おうとしていたのかを察し、故に話を流す為に頷いた。
それは両隣のフェイトとはやても同じである。
3人の首肯を受け、アリサが薄く微笑んだ。
そこになのはが手を上げ、質問する。
「はい、なのは」
「たっちゃんの驚異についてだけど、アリサちゃんの認識はどうなっているのかな」
こくりと頷き、アリサは再び気怠い顔に。
両腕を開いてソファの上に置き、脚を組み替えた。
「Tの驚異は主に2つ。一つはT生誕以前に生まれた人の記憶が、Tの妄想による設定である事。一つはTが起きればこの世界が崩壊してしまうだろう事。この2つよ」
ぴん、と指を2本立てるアリサ。
「前者はどうしようもない事だから、真実を隠蔽する他無い。今話したいのは後者、この世界が滅ぶのを阻止する事についてよ」
「それって、たっくん本人に言って夢から覚めないようにしてもらう訳にはいかへんのかな?」
はやての言葉に、アリサは首を横に振る。
「それは最後の手段よ。自覚さえあれば恐らくTはこの夢幻世界で万能、もしかしたら夢から覚めないようにできるかもしれないけれど、その前に夢を自覚したせいで目が覚めてしまうかもしれない。そんな賭けは最後の最後、どうしようもない時にすべきよ」
「ま、そーなるか」
「で、世界の崩壊を阻止する方法については、Tに聞くしかない、と言う他ないわ」
「えぇ?」
思わず顔をしかめるなのはたちに、涼しい顔でアリサが告げる。
「何せ、この夢幻世界と現実世界とでは、睡眠や夢のメカニズムが同じかどうかも分からないのよ? そして私たちは現実世界の情報はT経由でしか知る事はできない。だからTに自分は転生者であると信じさせながら、現実世界での真実を絞り出す他ないわ」
「あー、そう、なのかな?」
疑問詞をあげるなのはに、アリサはやや目を鋭くした。
唇を舌で湿らせ、告げる。
「言っておくけど、現実世界はこの夢幻世界とまるで別物の可能性もあるのよ? Tは明らかに狂っているように見えるけれど、本当に狂っているのはどちらなのかすら、私たち夢幻世界の住人には判断できない。たとえば万有引力の法則ですら、本当は荒唐無稽なTの妄想理論に過ぎないのかもしれないわ」
「そんな訳……!」
「あるわ。この世界は妄想にしては恐ろしい程に理論的な世界だけれど、この夢幻世界においてでさえ、理論に説明がつくことは正当性に関与していない。理屈なんて頭の良い学者ならいくらでもひねり出せるしね。まぁ、重力が妄想とまではいかなくても、この世界がなんかの作品を元に作られた妄想かも、ぐらいは覚悟しておいたほうがいいわよ」
「何かの作品って……」
と疑問詞を浮かべるなのは達に、アリサは冷笑した。
「Tと一番付き合いの長いなのはが魔法に出会ったのが少女時代だったんだし、『魔法少女リリカルなのは』なんてアニメでもあったのかもね」
「あのねぇ、アリサちゃん……」
思わず顔をひくつかせるなのはに、苦笑気味のフェイトとはやて。
その表情を見て満足したのか、ニコリと微笑むと、アリサは続きを口にする。
「アニメは冗談だけど、あんた達3人は明らかに特別扱いされているわ。分かるでしょう? Tがこの夢幻世界で最も身近に居たのは、あんた達よ。特に、10年前の別れの後も、Tはあんた達とニアミスし続けている。加えて、あんた達は真実を知りながらも発狂の兆候が殆ど無いわ。それ故に、あんた達には何か、この袋小路の絶望を打破する可能性が秘められているのかもしれない」
「私、たちに……?」
言われ、なのはは気づいた。
そういえば真実を知った中で、何の対策も無しに発狂を免れているのは、なのは達3人だけである。
唯一生き残ったアリサも、世捨て人のような生活をしなければ死んでいただろうと話していた。
となれば、矢張り自分たちはTにとって特別な存在であるらしい。
あの気紛れなTに、変わらず特別な存在があると言う事は違和感満載だが、事実はそう示していた。
「ま、私やすずかも特別な存在の一人だったのかもしれないけれど、すずかは逝ってしまったし、私は見ての通りドロップアウト組。正直言って、発狂せずにいるだけでももう限界よ。だから、情けないかもしれないし、無責任な事だけれど……」
言って、アリサは脚を解き、身を乗り出した。
甘い香りが近くなり、うっすらと火照ったアリサの肌が距離を近くする。
妖艶な空気のまま、アリサは告げた。
「たっちゃんとこの世界の事は、あんた達3人に全て託すわ」