一面、岩の世界であった。
辺りは扁平な岩石で埋め尽くされており、土が見える場所など存在しないに等しい。
空は雲一つ無い快晴で、空気は刺すような冷たさだ。
それら全てがどこか無機質で、はやては何とも言えない顔を作る。
そんな生命無き世界の中、多くの魔道師がはやてより離れた上空に待機していた。
高町なのは。
フェイト・テスタロッサ。
クロノ・ハラオウン。
愛しき騎士達。
加えて管理局の武装局員達が、十数人杖を構えて待っている。
はやては、瞼を閉じた。
短い生涯の記憶が、はやての脳裏を走馬燈のごとく過ぎ去る。
はやてが物心ついた頃、すぐに両親は他界した。
交通事故で亡くなったらしいが、はやては両親の事を詳しくは知らない。
知らないが、はやては両親を亡くした事で、無償の愛を捧げてくれる存在を失ってしまった。
代わりとなる存在も親戚が居ないはやての前には現れず、はやては孤独となったのだ。
その事が凄まじい速度ではやての精神を蝕み、はやては笑顔の無い暗い子供になる。
そしてはやては施設に預けられる事になり、いじめの対象になった。
足を引っかけられたり、無視されたりするのは序の口。
時には悪戯ではやての食事を無くさせたり、物を隠したり、水をかけたり。
酷い時には、職員に見えない部分を殴ったり蹴られたりもした。
はやては、そんな中で処世術として笑顔を取り繕う事を覚える事になる。
笑顔でいれば、いじめは少しずつだが無くなっていった。
時にはなんで自分だけ自然のままの感情をさらけ出せないのか、と世間の不公平に涙も零したが、はやては歯を食いしばって笑顔を続けた。
そしてはやては足を悪くした。
度重なる不幸にはやては泣き叫びたかったが、施設時代の経験がその無意味さを語っている。
はやては作り物の笑顔を浮かべ、病院の先生やヘルパーへとにこやかに微笑んだ。
同世代の子に車椅子に乗っている事を揶揄されたり暴力を振るわれる事すらあったが、はやては笑顔を絶やさなかった。
怖かったのだ。
再びいじめられる日々に戻る事が。
大人達は言う。
はやてちゃんは立派ね。
はやてちゃんは笑顔でいい子ね。
そう言われるたびに、本当の自分を引っ込めたままに生きるはやては、劣等感を感じた。
世の中にはどんな目に遭っても笑顔で居られる良い子が居るのかもしれない。
だがそれは、自分では無いのだ。
自分はただの、処世術として笑顔を覚えただけの、悪い子なのだ、と。
はやては人と対話する事に控えめになり、代わりに本を読むようになった。
本ははやてに向かって話しかけてこないし、こちらも笑顔を向ける必要が無い。
だからはやては本を読み続け、そうこうするうちに家族というものに憧れを持つようになった。
自分には居ないけれど、家族同士では心が通じ合っており、何も隠さなくても良いのだ。
全てをさらけ出せるのだ。
こんな暗い子でも、受け入れてくれるのだ。
そう信じ、はやては手慰みに家族ができた時の準備を始める。
初めに、料理を自分で作るようになった。
洗濯も掃除もできる限り自分一人でできるようになり、明るい話をできるよう、元々好きだったバラエティ番組もより見るようになった。
家族が自然に発生する筈など無く、こんな準備など無駄なのだとはやては知っていたが、それでもその行為は少しだけはやてを慰めてくれた。
しかし、家族は突然に現れたのだ。
ヴォルケンリッター、はやての愛しき騎士達。
初めははやては騎士達の物騒な雰囲気が、どこか施設で自分をいじめていた子供達に似ていて、正直言えば怖かった。
だからはやては、仮面の笑顔で騎士達に接した。
家族と言うのは、憧れていたから咄嗟に出た言葉に過ぎない。
はやては内心騎士達に当惑しながら、彼らを家族として扱った。
だが、当惑は最初の内だけであった。
騎士達は誰もが愛おしくなる個性を持っており、はやてはすぐに彼らに惹かれていった。
はやては彼らを世話するのが楽しくて楽しくて仕方が無くて、踊り出したくなるぐらいの気持ちで彼らの家族として振る舞う。
すぐにヴォルケンリッター達との距離は縮まり、はやては胸がいっぱいになった。
そんなある日、シグナムははやてに蒐集を命じてほしいと言う。
それさえあれば、はやての足は治るのだ、と。
久しく、はやての内側に暗い感情が生まれた。
足さえ、足さえ自由ならばはやてはもう少し明るい人生を歩めた筈だ。
仮面のような笑顔を貼り付けて生きる必要など、無かった筈だ。
そんな衝動がはやての内側を駆け巡った。
だが、とはやては思うのだ。
そんな事が果たして、目の前の凜々しくも優しい剣士に誰かを傷つけさせるような、酷い事をさせる事と釣り合う成果になり得るのだろうか。
否。
決定的に否である。
故にはやては、シグナムの問いに否と答え、彼女の頭を撫でてやった。
愛おしい体温がはやての体に伝わり、生命の鼓動がはやての心を癒やす。
はやては不意に、騎士達との生活の中で、仮面をかぶっているという自覚無しに笑顔を作っていた事に気づいた。
何時しか、はやては自然と笑顔を作れるような人間になっていたのだ。
シグナムがはやてに感謝の言葉を告げるのに頷きながら、はやては静かに思った。
感謝するのは、自分の方だ、と。
愛しき騎士達、彼らを愛する事ができた自分の方こそが、彼らに感謝するべきなのだ。
果たしてはやてが騎士達の言う通り優しい人間だったとして、はやてを優しい人間にしてくれたのは、その騎士達なのだから。
そう思いつつも、その言葉を告げるのがまだ恥ずかしくて、はやてはただただシグナムを抱きしめ続ける。
夜空の星と、野生の猫の瞳だけがそんなはやてを見つめ続けていた。
そんな生活にも、何時しか転機は訪れる。
闇の書の主である事が管理局にばれてしまい、収容される事になった事。
騎士達が自分の命の為に、約束を破ってでも戦い続けてくれていた事。
そして何より、はやてはTと出会ったのだ。
はやてにとって、Tは初めての同世代の友達だった。
施設時代にはいじめられてばかりで、通院時代には病院に居る同世代の子供に友達を作る気力のある子は居なかったのだ。
ヴィータは同世代と言うより妹のような子だし、すずかとは一度食事を共にしたが、どちらかと言えばこれから友達になれるかも、と言う感覚である。
そんな中、四六時中同じ施設で出会うTは、友達と言って何の遜色の無い少年である。
すぐになのはやフェイトと出会う事にもなったが、蒐集で忙しい彼女らよりもTとの接点の方が多かった。
Tはなかなか独特の感性を持った子であった。
料理の仕方はへんてこだし、比喩も常人を逸した謎の方法ばかりとり、何を言っているのか分からない時も多々ある。
だが、不思議とTは優しかった。
足の悪いはやての気遣ってほしい部分と気を遣わないでほしい部分とを即座に察し、それを気にかけてくれるのだ。
はやてのギャグには独特の感性ながらも反応は欠かさないし、どんなに疲れていてもはやてに対し適当な対応をする事は無い。
はやては、家族を抜きにすればTに最も親しみを感じるようになっていた。
「……せやから、きちんとせなぁな」
呟く。
瞼を開くはやて。
胸の奥からいっぱいの空気を吸って吐き、手を目前へ。
あらかじめ摘出してあった少量の、蒐集すれば闇の書が完成するリンカーコアへと。
「蒐集」
眩い輝きが、はやての持つ闇の書へと吸い込まれた。
直後、闇の書が覚醒する前に、リーゼ姉妹と呼ばれる凄腕の使い魔がかけた、特殊な魔法とやらが発動する。
これによって闇の書の手綱をとりやすくなるというそうだ。
意識を強く持とうとした瞬間、はやての内側を凄まじい孤独感が襲った。
全身がそぎ落とされて、心だけになってしまったかのような孤独。
鋭利な寒さどころか、体を縮めて震わせる事しかできないような恐ろしさ。
来て、とはやては思わず叫んだ。
——シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ!
家族達に声をかけようとするも、声に鳴らない声が漏れるだけに過ぎない。
手を伸ばそうにも、家族達は暴走開始に巻き込まれて闇の書の走狗とならないよう、離れた位置に居る。
涙がはやての目尻に溜まり、はやては思わず叫んだ。
——たっくん!
直後、はやての目前に転移魔方陣が出現。
ぽいっ、と中からアースラで見守っている筈のTが放り出された。
思わず手を伸ばすはやてと、何のことやらと言う顔で思わず手を取るT。
直後、黒い光がはやてとTを包む。
瞬き程の瞬間の後、2人が居た筈の場所には、一人の銀髪の女性が立っていた。
*
アースラの空間投影モニターに、幾重にも閃光が走る。
黒い閃光を、様々な色の光が飛び交い押さえ込もうとしていた。
闇の書の意思と、なのは達との激戦である。
それを背景にし、アースラ内部でもまた一つの戦いが行われていた。
「……どういうおつもりでしょうか、グレアム提督」
一時的にアースラの艦長を任ずる事になったグレアムに対し、副艦長であるリンディが問いかける。
リーゼ姉妹がはやてにかけたという魔法は精神錯乱系の魔法であり、更にTを強制転送した魔方陣の魔力光もリーゼ姉妹の物であった。
どう考えても、グレアムの仕業である。
リンディは、息子からデュランダルと引き替えに渡されたS2Uを手に。
他のアースラクルー達も、魔法戦闘が可能な者はデバイスを手に立ち上がる。
すでにグレアムの不可解な言動はアースラの全クルーに伝達してあったのだ。
とはいえそれでも現実にグレアムの乱心を目にし、ショックを隠せない人間も少なくない。
リンディもまた、デバイスを握る手が震えるのを押さえられなかった。
そんなリンディ達に、目を細め何のことも無いかのようにグレアム。
「さて、アルカンシェルの発射準備をしたまえ」
「ぐ、グレアム提督、何を……!」
リンディが叫ぶと同時、ブリッジの転移装置が七色に輝く。
咄嗟にリンディが阻止しようとするも、遅かった。
先頭に現れた局員が恐るべき速度でバインドを発動、リンディの動きを拘束。
続けてアースラクルーが次々に捕縛され、代わりに転送されてきた局員達が位置につく。
「馬鹿な、乗っ取り!? 何を考えておられるんですか、グレアム提督っ!」
「乗っ取りも何も、これは最高評議会の決定だよ」
言われてリンディは気づいた。
現れた局員達の服に刺繍された文様は、最高評議会直属部隊の印。
管理局でも噂以上の事は誰も知らない、裏の部隊と言われる存在。
「さて、改めて命令しよう。アルカンシェルの発射準備をしたまえ」
「イエス、サー!」
「待って下さい、あそこにはまだたくさんの人がっ!」
「大丈夫だ、発射準備と同時に強制転移の準備も進めている。発射前に闇の書の意思とはやてくんとあれを除いた全員を収容できるさ」
何処か朗らかにすら聞こえるグレアムの声に、リンディは思わずぺたんと座り込んでしまった。
口を幾度か開け閉めし、それでもなんとか問う。
「Tさんを殺す為に……はやてさんを犠牲に?」
「あぁ」
「何故ですか!? なんで、どうしてっ!?」
信じられなかった。
Tをあのグレアムでさえも殺そうとしており、更にそれにはやてを犠牲にすらしてみせるつもりなのだ。
あの健気で優しい、9歳の少女をである。
そんな事を許すわけにはいかないと思うリンディであったが、最高評議会直属の部隊を前にリンディは無力であった。
歯ぎしりをするばかりで何もできないリンディを捨て置き、準備は進んでいく。
そんな中、アースラの中で何が起こっているのか分からないクロノ達の映像で、変化が起きる。
「提督、八神はやてが闇の書を掌握しましたっ!」
「何!? Tは、あのおぞましい“あれ”はどうした!」
叫ぶグレアムに応えた訳では無いのだろうが、はやての叫びがサーチャーの音声通信を通じて聞こえた。
「私たちが防衛プログラムを分離する事は、今すぐにでもできる。でも、たっくんを闇の書の夢から分離しようとしておるんやけど、そっちがまだできないんやっ! 方法すらまだ……っ!」
最初こそいきり立ったグレアムであったが、その言葉が後半になるにつれ落ち着きを取り戻す。
安堵のため息をさえつき、椅子に深くこしかけた。
指組みに足組み、視線を上から下にやりつつ、ほくそ笑みながらグレアムは映像を見つめる。
「闇の書の夢による精神拘束を続けたままの、アルカンシェルによる物理的消滅……。これならば奴を、Tを殺せる筈……!」
邪悪としか評しようの無い笑顔を作るグレアムに、リンディは思わずぽろりと涙を零した。
夫の恩師であるグレアムの事を、リンディは半ば父のように慕ってさえいたのだ。
そのグレアムの変貌ぶりは、一体どうした事か。
折れそうな程に細い声で、リンディは問うた。
「何故……、何故Tさんをそんなに殺そうとするのですか? 彼はジュエルシードを飲み込んでしまっただけの、ただの人間では無いのですか?」
グレアムは、体を動かさずに視線をだけリンディに向けた。
堅い声。
「君は本当に、私たちがTとしか呼べない“あれ”を、同じ人間だと思っているのかね? 正体を知れば、発狂するか自殺するしか無いであろう、“あれ”を」
「な、何を言って……」
「君は気づいていないのか? 私たちが“あれ”をTとしか呼べない事を。その名前を思い浮かべても、アルファベットのTをしか思い浮かべる事しかできない事を」
「……え?」
言われて、リンディは目を瞬く。
T。
アルファベットのT。
その両方を思い浮かべて初めて、リンディはTの事をアルファベットのT一文字でしか思い浮かべられない事に気づいた。
恐るべき事実に、それが何を意味しているのかすら分からずとも、リンディの背筋が総毛立つ。
T。
T。
T!
そうとしか評せないあの少年は、一体何だと言うのか。
リンディの疑問が弾けるよりも前に、画面に動きがあった。
「糞っ、Tめ! まだアルカンシェルのチャージは終わっていないと言うのに、何かしでかすつもりかっ!」
叫ぶグレアム。
その視線の先の画面には、闇の書の闇が黒い光球となり、宙に浮いているのであった。