北欧の死神として、世の権力者を震え上がらせた殺し屋がいた。
その男の名はリカルド・ダールマン。高い身体能力と柔軟な肉体で、どんな厳重な警備を敷こうが彼は嘲笑うかのようにそれをすり抜け、標的を暗殺してきた。
北欧を中心にロシア、東ヨーロッパ諸国で活動していたのが名前の由来である。
『死神』という二つ名は大勢の命を刈り取った殺し屋が付けられる、いわばステータスのようなものだが、それを大して広くもない活動範囲の中で獲得し、そして捜査の手から逃れ続けていたリカルドの腕は同業者の間でも高く評価されていた。そしてそれが、彼自身の自慢……いや、誇りであった。
2年前のこと。彼は地元の北欧で、さる政治関係者の暗殺の依頼を受けた。今まで何度もこなしてきた、何の変哲もない仕事だった。
彼が暗殺を計画した場所は宿泊先のホテル。各所に自ら雇ったボディーガードを置き、自らは最上階のスイートルームで愛人を侍らせていた。
しかし、リカルドはこの厳重な警備をいとも容易くすり抜け、ホテルに侵入する。そして内部にいたボディーガードを次々と無力化していった。
廊下を駆け抜け、気づいたボディーガードが短機関銃を向け引き金を引くまでの間に懐に潜り込み、素早い打撃を連続して頭部に放ち気絶させると、そのボディガードを盾にしサイレンサー付きのピストルで2人目を殺害するという鮮やかなやり口。このまま標的のいる部屋に外から出向くつもりだったが、ここで彼に予想外の事態が起こる。
臙脂色の服を着た15歳前後の若いアジア人が、リカルドの前に立ちはだかったのだ。
無関係な子供を巻き込むのは数多くの人間を殺してきたリカルドでも思うところがあったが、彼の殺し屋としての経験が、目の前の少年を殺せと訴えかけた。
その経験に従い、リカルドは殺すつもりで少年に肉薄する。が――――
――直後、彼の視界は下を向き身体をくの字に折り曲げさせられた。
一体何が……。そう疑問に抱いたのとほぼ同時に、腹部に強烈な鈍痛を覚え、そして彼は顔面から床に叩きつけられた。
受け身すら一切取れなかった。腹を殴られ、投げられただけだというのに、何をされたのかすら殆ど把握できないまま、リカルドの意識は遠くなっていった。
次にリカルドが目を覚ましたのは独房の中だった。訳も分からず混乱するリカルドであったが、後に彼は自分を倒したのが銭形平士という中学生の日本人武偵だということを知る。
北欧の死神が低レベルと称される日本の武偵、それも中学生に捕まったという噂は瞬く間に広まっているのは想像に難くない。直接とやかく言われたわけではないが、彼のプライドを粉々に粉砕するにはそれでも充分過ぎるほどだった。
そして、いつか訪れるかもしれない復讐のチャンスを待ちながら、リカルドは服役中、銭形に負けないパワーを身につけた。
だが、リカルドが外に出るには脱獄するしかない。自らを鍛え上げ脱獄の機会をひたすら待つことにしたリカルドだったが、その機会は呆気なくすぐに訪れた。
世界最大規模のマフィアとして名高い
藍幇の力で脱獄したリカルドはその後欠損分隊へ入隊。同時に先端技術で肉体改造を行い、現在へと至る。
結果的に、またも銭形に一蹴されたリカルドであるが、その実力は確かなものだ。故に、たとえ片手が潰れていたとしても、数人の高校生武偵などには遅れを取ることはないのである――――。
◇◆◇
「行くぞ、美羽!」
不二が奈須川に合図を送り、それと同時に彼女はリカルドに肉薄した。
身長差のせいで顔の高さにあるリカルドのボディへと不二はジャブを繰り出す。だが、巨体に似合わぬ素早い動きでリカルドは彼女のジャブを丁寧に躱していた。
(速い……!)
不二がリカルドの動きに息を呑んだ瞬間、彼は左腕を後ろに下げた。
「あーちゃん、下がって!」
先ほどの合図と同時に横に動いていた奈須川が声を上げ、ブローニング
不二が後ろに跳び退くのに一瞬遅れ、リカルドもまた奈須川から放たれた弾丸を回避する。
それと同時に、リカルドは腰に巻いたベルトに仕込んでいた輪の付いた黒塗りの太い五寸釘のような物を抜き取ると、奈須川に向けてワンモーションでそれを投げ付けた。
リカルドの投げた物は中国の峨嵋刺と呼ばれる暗器で、日本では俗に寸鉄として知られている物だ。護身用のそれは先端が丸くなっていて殺傷力が小さくなっているが、勿論リカルドの投げた物は鋭く尖っていて大きさも通常の1.5倍近い代物である。
真っ直ぐ飛んでいったそれは奈須川の額に直撃し、薄暗い中で殆ど目視できなかった飛び道具による反撃を受けた奈須川は怯み、視線をリカルドから外してしまった。
「美羽ッ!?」
奈須川が、不二の呼ぶ声に反応し顔を上げた、その先には――――
――左腕を大きく振りかぶった、巨人の姿があった。
リカルドは左腕を振り抜き、奈須川の小さな躰をいとも簡単にふっ飛ばす。まるで自動車に跳ね飛ばされたように軽々と飛ばされた奈須川は、地面に全身を打ち付けながら倒れ伏した。
その時、彼女の方に注意の向いた不二は、あろうことかリカルドから視線を逸らしてしまったのだ。
「…………ッ!」
ハッとした不二が、視線をリカルドに戻そうとする。だが、もう遅すぎた。
リカルドのアッパーカットが、不二の腹部にめり込む。骨が軋みを上げ、胃液が逆流し、浮いた身体はやがて仰向けになって地面に背中と後頭部を地面に打ち付ける。
一発。たった一発でK.O。今まで相手にしたことのない、絶望的な実力差の相手。
その事実を、不二は痛感せざるを得なかった。Sランクを目指すという漠然とした目標を追いかけ、過去の自分と対比し強くなった気でいた自分に反吐が出た。もしも不二が他の誰かだとすれば、恐らく今の自分の姿を見て嗤うだろう。そしてきっと、ナゴジョの仲間も同じように指を立てて嗤う。
(私は、所詮その程度だってことか……)
半ば、諦めたように自嘲した不二にリカルドが詰め寄る。その手には寸鉄が握られていた。止めを刺そうとしているのだ。
が、リカルドの足が、まだ倒れる不二には手が届かない距離で止まった。その理由とは――――
「――おい連二よォ。俺の言いたいこと、分かってるよな」
「ああ。女が嬲られてんのを黙って見てられる程、俺たちは大人じゃねえ……!」
菊池連二と城戸明、KAR'sを率いるこの2人が、リカルドの前に立ちはだかったのだ。
火の点いた煙草を咥えながら睨みを利かせる両名に、リカルドは少なくとも警戒をしていた。
本来、極東の一部で成り上がっただけにすぎない高校生など、彼にとってはそれこそ蟻と何ら変わりない。蟻を踏むのを気にする人間がいないように、リカルドが彼らに気を掛ける理由は何一つないはずなのだ。
にも関わらずリカルドは警戒し足を止めた。その理由は彼らの吸っている煙草であった。
明の煙草は世間一般で『危険ドラッグ』と呼ばれる、まだ法律で規制できていない新種の薬物であり、その効果は覚せい剤と酷似しているものだった。
リカルドは匂いから2人の煙草が通常の物ではなく、戦闘力を底上げする可能性のある代物だと本能的に察知し、それ故に警戒をしたのである。
しかし、煙草――――つまり、ガスは肺から体内に吸収されるためにどうしても効果が出るのが遅くなってしまう。さらに吸引できるガスの量は媒体の形状からしてさほど多くなく、その効果の程もたかが知れるものだとリカルドは判断した。
「やるぞ連二!」
「おう!」
声を掛け合い、明と連二はそれぞれリカルドに殴りかかりに行く。
しかし、これはリカルドにとって小都合なことであった。
ドーピングの効果が現れるまで少々の時間があるのならば、その間に潰してしまえば何ら問題はない。さらに片手が使えない彼にとって2人相手に自分から潰しにかかるのは相当なリスクを覚悟しなければならないために、先に仕掛ける真似はあえてしなかったのだ。
リカルドは明の鋭い連撃を巨体に似合わぬ俊敏な動きで的確に躱し、反撃の機会を窺っている。僅かな隙を突いて、一撃で仕留めようとしているのだ。
そのことを明も重々承知しているからか、深追いはせず最小限の動きで後ろに下がった。
それと同じタイミングで、連二が助走をつけて左上段蹴りを放った。
さながら歴戦の武偵タッグのような息のあった連携で、リカルドは避けきるのは無理と判断し右腕を出し連二の蹴りを防いだ。無論、手骨が砕けている方の腕であるが故に上手く力を込めることが出来ず、また伝わった衝撃が彼の手に激痛となって襲いかかった。
「ぐおおおおおおお……!?」
苦悶の表情を浮かべるリカルドに、連二は再度リカルドの右半身を狙おうとする。しかし、リカルドは今度は右手ではなく左手を突き出し、連二の脚を掴み取り防いでしまったのだ。
掴まれた脚を軸にして反対の脚で蹴りを放つことも連二には出来たが、体重が乗らないために目の前のこの
が、その時不意に発砲音が鳴り響いた。
狭い密室空間でそれは反響するが、足元を走る地下鉄の騒音に掻き消されほとんど彼らの耳に届くことはなかった。
が、リカルドの左下腹部には、出血の染みが徐々に広がっていた。
「――っはは、まさか当たるとはな。ラッキーだぜ」
笑みを浮かべながらそう呟いたのは、明だった。彼の構えている黒い自動式拳銃――――ジェリコ941の銃口からは、暗い中でも硝煙が薄っすらと浮かび上がっているのが見える。
図体のでかいリカルドに対し連二が細身であり且つ薬物により集中力が増していた上で、明の立ち位置からは射線が完全に通っていたとはいえ、全くの素人である明がいきなりの実戦で狙い通りに当てられたというのは奇跡に等しい幸運である。
しかし、恐るべきことにリカルドは撃たれたことなどなかったかのように連二を放り捨て一瞬の間に明に迫った。そしてまだ生きている左手で明の持つジェリコ941を掴み、スライドの後退を封じる。
そしてそのまま銃口を明後日の方向に無理やり向けさせると、明の開いた右腕に勢いを乗せた自身の右肘を落とした。
「ぐ、があああああああああ!」
前腕の骨が折れ、明は激痛に叫び声を上げる。
リカルドは明のジェリコ941から手を離すと、即座に膝蹴りを腹に入れ明の身体を軽々と蹴り飛ばした。
「明ァァァァ!」
連二が叫び、リカルドに殴りかからんと立ち上がる。
だが、何者かに背後から襟を掴まれ、連二は後ろに引っ張られてしまった。
「無駄死するつもりか、このバカ野郎。引っ込んでろ」
若干怒気を孕んだ声でそう言ったのは、ようやく体が動き出すようになった不二だった。
彼女の受けたダメージも決してすぐ回復するような生半可なものではない。それでも、不二はここで立ち上がらなければならなかった。
いくら薬物の効果が出てきたとはいえ連二1人ではリカルドを相手にすることなどできはしない。そのことを把握しているからこそ、不二は無謀な挑戦に臨まなければならなかった。
しかし、リカルドも無傷ではない。右手が完全に潰れているのに加え、明のおかげで少なくない量の出血をしている。何とかして畳み掛けたいチャンスであった。
「……だが、さっきは助かった。おかげで時間を稼げた」
ナックルダスターを嵌め直し拳を手の平に打ち付けた不二は、背中を向けたまま連二にそう呟きかける。
そして、大きく息を吸いながらゆっくりと半身を引いて構えを取った。その集中力は先程の比ではない。リカルドも極自然に彼女を迎え討とうと受身の姿勢を取る。
そして、不二が動いた。
勢いをつけた渾身の正拳。しかし、去年の響哉や銭形のようにあえてそれを受け止めるような真似をリカルドがするはずがない。彼が充分に引き付けてから回避し、カウンターを叩き込まんとしたその時だった。
乾いた銃声が轟いた。それと同時にバチンッというゴムが切れたような音がし、リカルドの巨躯が傾く。右足のアキレス腱を撃ち抜かれたのだ。
目を剥きながら撃たれた方向を振り返ると、そこには腰を下ろしたままブローニングHPを構える奈須川の姿があった。
相手の油断、そして慢心によって生まれた、たった一度のチャンス。その一瞬を、不二の眼は見逃さなかった。先ほど連二に言った「時間が稼げた」というのは、自分が動けるようになったという意味だけではなく、奈須川との連携も確立できたということだったのだ。
取るに足らない相手だと無視していたリカルドが、まさしく足を掬われる形となり、バランスを崩す。そこへ、不二の渾身のボディブローが明の負わせた弾痕にねじ込むようにして入った。
「うあああああああああ!」
雄叫びを上げ、不二は続けてリカルドの顎に左フックを放つ。それが直撃し、リカルドの顔が傾くと、すかさず不二は右アッパーを放ちリカルドの巨体を浮かび上がらせた。
背中から倒れたリカルドがすぐに起き上がってこないのを見届け、不二は集中の糸が切れたのかその場に膝をついて座り込んだ。
「あーちゃん、大丈夫!?」
脇腹を押さえながら、奈須川がよろよろと歩み寄る。たった一撃受けただけとはいえ、そのダメージは彼女の小さな身体にはあまりにも大きかったようだ。
「ああ、なんとか……それより城戸は?」
「っへ、この程度でくたばるかよ。右腕がイッちまったがな」
振り返った不二に、明は無理やり笑みを浮かばせそう答えた。連二はどうやらかすり傷だけのようだが、念のため後で武偵病院で精密検査を受ける必要があるだろう。
「何か添え木になるような物でもあればいいんだ……が――――」
連二が最後まで言いかけて、突如言葉を失って呆然となった。
その意味を悟り、不二が振り向きながら立ち上がると、その視線の先には――――意識を取り戻したリカルドが、彼らの行く手を阻んでいた!
その眼光は肉食獣のような獰猛さを溢れさせ、額にはくっきりと血管が浮かび上がっている。怒りで我を忘れ、もう一切の油断をしてくることもないであろう『野生』の姿があった。
(万事休すか……!)
まともに戦えるのがほとんど連二だけという状況で、明が死を覚悟し歯軋りした、その瞬間。
鈍い音が響き渡り、リカルドは白目を剥いて俯せに倒れ伏した。何者かに背後から後頭部を鈍器で殴打されたのだ。
「真打ちは遅れて登場する、ってね」
リカルドを背後から襲ったのは、『安全第一』と書かれた黄色いヘルメットを被り両手に金属バットを構えた小田切辰巳だった。
「小田切……! まったく、お前ってやつは……!」
そう言いながら、連二は小田切に歩み寄り彼の背中を叩いた。その表情はらしくなく緩みきっている。
「小田切って言ったか。バットをくれ、城戸の腕が折れてるんだ」
「あっ、ハイ! どうぞ」
小田切は不二に持っていた金属バットを渡すと、自分と奈須川の防刃ネクタイで明の折れた腕に簡単な応急処置を施した。
「ゴメンみんな、遅れちゃった」
来た道から、途中で別れていた鷹見が彼らと合流した。そのボロボロの体を見るに、彼女もまた追手と激しい戦いをしていたのだとすぐに全員が悟った。
「遅れちゃった、じゃねえ! 何だその傷の数は!? 大丈夫なのか! 相手はどこだ!?」
「うん、どれも浅いから平気だよ。追手は手錠をパイプに繋いで『動けなくして』るから大丈夫。それより……こっちはかなり手強かったみたいだね。ヒョヒョ、みんなが無事で良かった」
「ん? 何だ、その笑い方」
「あっ! ううん、何でもないの、何でも」
まだナターリヤの模倣が抜けきってないのか、思わずあの変な笑い方を真似てしまった鷹見は、両手を赤面する顔の前でブンブンと大きく振る。
そんな彼女を見て「変なやつだな」と一言で片付けると、不二はリカルドの手首に手錠を掛けた。
「あの、それより急いで地上に出ましょう。一度下水道に降りて、マンホールから地上に出るとすぐの駐車場に車を用意してあります」
「う、うん。そうだね」
小田切がそう促すと、鷹見は頷いてそう答えた。
しかし、この中で不二だけは僅かに不安げな表情を浮かばせていた。
(怒りで我を忘れていたとは言え、あれほどの実力を持ったこの大男が、背後に接近されるのに気づけなかったなんて……小田切辰巳、何者なんだ……?)
明の肩を持って先を行く小田切の背中を追いながら、不二は彼に猜疑心を抱きつつあった。
しかし、彼のお陰で自分たちが助かったのも事実だ。とにかく今は彼の言ったように、地上に出るのが先決だと自分に言い聞かせ、それ以上疑おうとはしなかった。