7月24日……今日は俺とキンジが潜入調査に来ている秀桜学園の終業式の日であり、それと同時に俺達の任務の最終日でもある日だ。
茹だるような暑さの中、台場からここまで通う生活とも遂におさらばとなる。
「おーっす!」
俺とキンジが正門から学園に入り生徒玄関までの道のりを歩いていると、七海が挨拶代わりに後ろから背中を叩いてきた。
びっくりしながらも後ろの七海の方を見ると、彼女の髪が金髪ではなく黒髪へと変わっていたので、さらに驚かされた。
「お前、髪染めたのか」
「私もそろそろ変わらなくちゃって思ってさ。……その、似合う?」
「ああ。よく似あってるぜ。なあ、キンジ」
「はい。制服ともよくあってると思います」
俺とキンジで絶賛してやると、七海は頬を赤く染めながら嬉しそうな表情を隠すために俯き気味になりながら「あ、ありがと」と小さな声で呟いた。髪を染めたからか、些細な仕草も新鮮に感じる。
「にしても、北原先輩、なんでこんなに暑いのにそんな元気でいられるんですか?」
「家から5分くらいなら平気さ。学園内にはミストもあるし」
「羨ましい限りだぜ……」
俺たちはというと、駅からここまで徒歩で15分かけて来ている。おまけに通勤ラッシュと重なって、電車の中は乗車率200パーセントという地獄。インドみたいに外に張り付いて乗った方が快適なんじゃないかと最近では思うようになった。
「それじゃあ、俺はここで失礼します」
「おう」
生徒玄関先で、学年が違うため下駄箱の位置が離れているキンジとはここで別れる。とは言っても、今日は1限目はLHR、2限目3限目は体育館に集まって全校集会という日程なのでまたすぐ会うことになるのだが。
「ん……?」
俺が下駄箱に外靴を片付けているその隣で、七海は訝しげな表情で下駄箱の中を見ていた。
「なんだ? 虫の死骸でもあったのか?」
「やめろよ気色悪ィ……何でもない。私の気のせいだったみたいだ」
七海は上履きを下に向け、踵の部分をトントンと手の平で叩いた。どうやら下駄箱の中に虫か何かがいたように見えたのかもしれない。
「そういやさ、響哉」
俺が靴を履き替えようとしていた時、思い出したように七海が話しかけてきた。
「あんたとキンジ、交流生ってことで秀桜に来てるってことは、今日までなんだろ? ここへ通うの」
「……察しがいいな」
「このくらい、少し考えれば誰でもわかるさ」
そう言ってフッと笑う七海だったが、その裏にはどこか寂しそうな影があるように見えた。
「大丈夫か? 俺とキンジがいなくなっても」
「ちょっと……寂しい、かな」
七海はしおらしくしながら、視線を下に落とす。
「でも、きっと平気。だから響哉は心配しないで」
「心配なんてするかよ。お前がそんなタマか?」
「それもそうだな!」
七海はそう言ってニッと笑った。その表情には、さきほどまでの影はもうない。
俺達はいつも通り、他愛のない会話を交えながら2年F組の教室へ向かった。
◇◆◇
「明日から夏休みだが、あまり羽目を外し過ぎないように。あと、体調管理にも気をつけるんだぞ。成績が振るわなかった者はきちんと勉強して遅れを取り戻すチャンスだ。各自、向上心を忘れないように。では、解散!」
宇津木先生の生徒たちへの言葉で、最後のSHRは締めくくられた。
教室内は生徒たちのものとなり、廊下にも響くくらいの喧騒で包まれる。先日の期末テスト返却でクラス内の意識は確かに向上したが、しかし夏休みとなるとその気持ちの高揚を抑えこむのは難しいようだ。
「あーっ、やっと終わった」
「1ヶ月とちょっとか……思ったより短かったなぁ」
「響哉も結構楽しんでたよな。武偵なんか辞めて、秀桜にくる?」
「そいつは無理だな。俺には目的があるから」
「ふーん。残念」
言葉とは裏腹に、七海はさも気にしている様子もなく、いつも通り鞄を肩にかけて椅子から立ち上がった。
「私、今からちょっと寄るとこあるから玄関で待ってて。すぐ終わると思うから」
「ああ、わかった」
「じゃあ、また後で」
七海はそう俺に告げて、急いで教室を飛び出して行った。
一体何の用事なのかは知らないが、ここで考えていても仕方がない。玄関ではキンジが待っているかもしれないので、荷物を全てまとめ終え特にやることもなかった俺は教室を出て生徒玄関に行くことにした。
生徒玄関の方へ行くと、案の定キンジが携帯を弄りながら、柱に背中を預けて退屈そうにして待っていた。
「キンジ!」
すぐに俺はキンジに声をかけた。キンジはすぐに携帯を閉じ、俺に向き直って床においていた鞄を手に持つ。
「あれ? 北原先輩はどうしたんですか?」
「何だか知らねえが用事があるんだとよ。すぐに来るって言ってたからそれまでここで待――――」
俺が言葉を続けようとした、その時だった。
乾いた発砲音がして、俺とキンジに電流が走った。
音源までの距離はそう遠くない。方角は……西側、特別教室棟の辺り。キンジもそこまでは分かるようで、焦りを滲ませた表情で西側を見ていた。
他の生徒もその発砲音には気付いていたが、陸上部のスタートピストルの音か何かと思い至ったようで、誰かのいたずらだと軽く流していた。
今の時間はまだ全ての部活動は始まっていないはずだ。スタートピストルは炸薬を逐一人の手で籠めなければ発砲できず、炸薬自体も暴発の可能性も低い。
だとすれば、誰かが作為的に持ち出して発砲するしかないのだが、そんなことをするような生徒が秀桜にいるとは考えにくい。
だが拳銃による銃声だったとすれば、生徒の悲鳴がないというのも不自然だ。秀桜は高校にしてはかなり広い敷地面積を誇っているが、案外どこにでも生徒の目というのはある。拳銃を持って撃っている人物を見ようものなら、学園中に聞こえるくらい大きな叫び声が上がってもいいはずだ。
それは、つまり――――
「キンジ、特別教室棟屋上だ。急ぐぞ!」
「は、はい!」
校舎の屋上は人の出入りが少ない。特に今日みたいな早く帰れる日はわざわざ行く者など皆無だ。
さらに、化学室や物理室などの実験教室や音楽室や美術室などの限られた用途でしか生徒や教員が利用できない、または入室できない教室が並ぶ校舎となれば、それだけ生徒と教員の足も及ぶ可能性が低い。
秘密裏に何者かが企みを遂行するのには、もってこいの場所だ。
俺とキンジは外靴のまま校舎内を駆け抜ける。まばらに廊下を歩いている生徒には申し訳ないが、今の俺たちにはそんな些細な事を気にしている余裕は一切なかった。
七海は元武偵だ。拳銃をつきつけられるのが日常な世界に身を置いていたことのある彼女なら、適切な対応を取れないことはないと俺は信じている。
――だが、それ故に事態が悪化してしまう可能性を、俺は危惧していた。
脇目もふらず俺が角を曲がると、そのすぐ近くに下校しようとしていた赤いフレームのメガネを掛けた女子生徒とすれ違った。確か、隣のクラスに入っていくのをいつだったかに見た記憶がある。潜入調査のためある程度人の出入りなどには注目していたため、明るい色のメガネを掛けている彼女のことは思い出しやすかった。
すぐそこに音楽室があり、大きな黒い箱を大事そうに抱きかかえているということは、吹奏楽部か何かに所属しているのだろう。確か、中学の時にトランペット等の楽器をあんな箱に入れていたのを見たような憶えがある。
その女子生徒は「キャッ」と短い悲鳴を上げ怯えたように目をぎゅっと瞑って身体を竦ませていた。そこへ、俺の一歩後ろをついてきていたキンジが走ってきて彼女に正面からぶつかってしまったのだ。
走っていたキンジを受け止めるほどの力を持たない女子生徒は背中から倒れ、キンジも彼女に乗り上げる形で倒れてしまった。俺は一度、逸る足を止めて倒れた女子生徒とキンジに怪我がないか確かめようと近付く。
その時、俺はようやくそれを理解した。キンジの顔が、その女子生徒の胸に埋まってしまっていることに。
(たしか、前にもこんなことがあったような……)
俺が強烈な既視感を感じていると、キンジがゆっくりと女子生徒の上から起き上がった。そしてフッとキザな笑みを浮かべながら彼女に右手を差し伸べた。
「すまない。俺たちは今、とても急いでるんだ。見たところ怪我はないみたいだけど、立てる?」
「は、はい……?」
訳もわからないといった様子で、とりあえずキンジの手を握った女子生徒はキンジによって立たされる。そこへキンジが優しい声で「またね」と言い残し颯爽と立ち去っていくのを放心状態で見届け、腰を抜かしてまた座り込んでしまうのを、俺はキンジの隣を後ろを向いて走りながら見ていた。
「……たまに、お前がわざとやってるんじゃないかと疑う時がある」
「変な言いがかりはよしてくださいよ、響哉さん」
キンジは苦笑いを俺に向けながら走っている。
だが、キンジが今HSS状態になったのは嬉しい誤算だ。おかげで時間を食ったが、キンジがこの状態ならその遅れも取り戻せるかもしれない。そう俺が思った時だった。
「……ッ!?」
特別教室棟3階の廊下の真ん中で、俺とキンジは揃って足を止める。
「これは一体何の真似だ……青木、白浪ッ!」
廊下の先に、身の丈ほどはあろうかという長刀を右手に持ちながら佇む青木と、その隣で腕を組んでいる白浪に向かって俺は叫んだ。
それに対し、青木は鋭い眼光を向けながら、敵意の篭った声色で答えてきた。
「創真の命令により、誰もこの先を通すわけにはいかない」
「ふざけてんじゃねえぞこの野郎……! お前が退かねえならぶっ倒してでも進んでやる!」
屋上へと上がる階段にはこの廊下を通る以外の道はない。屋上へ行くには、この場で青木と白浪をどうにかしなければならなかった。
覚悟を決め、俺が懐に仕込んでいたホルスターのP2000に手を伸ばすと同時に、青木が長刀の鞘を捨てて俺に迫ってきた。
(速い――――ッ!)
青木の速度に、俺は驚愕に目をむいた。今からP2000を抜いて構えたとしても、間に合うかどうかは五分に近い。
……が、俺が拳銃を抜くよりも速く、隣にいたキンジが即座に緋色のバタフライ・ナイフを展開し青木に飛びかかった。
予想していなかった
キンジはそれをナイフの峰で受け止めた。その防御を押し崩すため、腕に力を込める青木に対し、キンジもまた青木の刀を精一杯押し返していた。
「響哉さん! こいつの相手は俺が引き受けます!」
「わかった、任せたぞ!」
俺はキンジと鍔迫り合いになっている青木の横を駆け抜ける。だがその先には、抜刀した白浪が刀を上段八相に構え走ってくる俺を待ち構えていた。
「この先へは行かせない!」
白浪の言葉には気迫が篭っていた。しかし、俺はそれに動じずそのまま白浪との距離を詰めていく。
俺が白浪の間合いに入る直前、刃を返した彼女の刀が上段から振り下ろされた。
しかし、第六感でそれを見切っていた俺は振り下ろされている刀の腹を右掌で払うようにして軌道を逸らし、自身も左へ跳びながら躱す。
「邪魔を――――」
そして、窓の手前に設けられている落下防止用の手すりを掴み、僅かに浮き上がっている身体を両腕で更に持ち上げながら脚を腹の前に畳む。
「するなぁぁぁッ!!」
俺は怒号にも似た叫び声を上げながら、畳んでいた脚を一気に伸ばして白浪の右上腕に渾身の両足蹴りを炸裂させた!
白浪の50キロもないと思われる軽い身体はふっ飛ばされ、生徒会室の扉に叩きつけられる。扉はその衝撃に耐え切れず壊れ、白浪の下敷きになる形で教室の方へ倒されてしまった。
教室の床に倒れた扉の上に仰向きになっている彼女の引き締まった細い体から力が抜け、気を失っているのを確認してから、俺は後ろを振り向かず先を急ぐ。
今のキンジは身体能力を約30倍に飛躍させるHSS状態だ。相手が青木でも時間を稼ぐくらい簡単にやってくれることだろう。
だから俺は、キンジが時間を稼いでいるその間に事態の収集を図る。
俺は一気に階段を駆け上がり、屋上へと繋がる扉を勢い良く開けた。
その先には、こちらに背を向けている霧生創真と、離れた場所から怯えた表情で身体を震わせている鶴見の取り巻きの女子2人、そこから少し離れた場所で腰を抜かしながらこちらを見る鶴見。
そして――――
「うそ……なんで、響哉が…………ッ」
――――虚ろな瞳を俺に向けながら、右手に黒い拳銃を携えた七海の姿があった。