「今からテストを返すぞー。全教科合計の順位も渡すから、忘れないようになー」
放課後前のHR、F組担任の宇津木が間延びした声で生徒たちに言った。
直後、溜息のような叫び声のような、疲れた声がクラスから湧きあがる。F組は成績の良いクラスではなくテストの点数も散々なため、返ってきてもそれは点数を競うためのカードにはならず傷を舐め合うための勘合となるのだ。
とは言うものの、一部には例外というのは存在する。そう、例えば俺の前の席の奴のように。
「響哉ー、あんた何点だった?」
「74点。お前の方こそどうだったんだよ」
「ふふん、聞いて驚きな。98点だ!」
「げぇっ、マジかよ」
ちなみに、返ってきたテストは英語。英語のテストのみ授業が週始まりになかったためHRに返却するという対応になった。俺の他の教科の点数は数学が68、現代文が94、古典が82、生物が98、歴史が78とそこそこ、いや結構いい。現代文は七海と勉強した所が出て点数を稼げたし、生物は武偵高で小夜鳴先生に教わった授業の延長線でなんとかなった部分が多かったと思う。学年順位は104位と惜しくも2桁入りを逃してしまう結果となった。数学でもう少し稼げたら行けたかもしれない。
一方、七海は数学と古典と現代文と歴史で満点を叩き出し、生物だけが97点とギリギリ俺の点数を1下回っただけだった。6教科合計595点とかバケモノかよ。
なお、学年順位は4位。これ以上の奴があと3人もいるのかと思うと頭が痛くなる。
「どうやったらそんな点数取れるんだよ。知恵袋か?」
「ハァ? そんなの使うわけないじゃん。使ってもどうせ翻訳サイト通しただけの間違いが返ってくるだけだし。自分で翻訳した方がよっぽど正確さ」
どんだけ自分に自信があるんだよこいつ。現役高校生でこんなこと言える奴なんてそういないぞ。
俺が内心驚いていると、七海との会話を盗み聞きしていたらしい周りの生徒が慌てたようにヒソヒソと仲間内で内緒話を始める。その顔色はあまり良くない。
七海もそれに気づいたのか、ふと七海の顔を見るとその表情は弛緩し勝ち誇っているようだった。その裏には彼らにやってもいない罪を言い浴びせ続けられた恨みのようなものがあるのだろう。
60点、70点程度であれば確かに頑張ってカンニングすれば取れるかもしれない。しかし、これが90点後半や満点となると、カンニングで取ろうものなら、そのテストの答案を用意しなくてはならない。勿論そんなものを用意できるわけがないため、七海の結果が努力によるものだと、全国平均から見ればなまじ優秀なはずのF組の生徒にも理解できるのだ。
幸せな夢の中にいたら急に現実を見せつけられたような、そんな嫌な感覚が彼らを襲ったことだろう。いつになく神妙な面持ちになり、黙りこんで自分の結果とにらめっこをしている。その沈黙は伝播し、それが教室全体に伝わり行くのにさほど時間はかからなかった。
「何だお前たち、今日は随分静かじゃないか。その方が俺も楽なんだがな。ハッハッハ。じゃあ今日はもう解散だ」
宇津木は笑いながら出席名簿と日誌をまとめて、上機嫌で教室から出て行った。しかしその後も、教室には沈黙が残る。
「な、なあ。今から気晴らしにどこか行かね?」
「お、おう! 俺も丁度どっかに遊びに行きたかったんだ!」
ふと、誰かがそう言い出すとそれに同調する者が現れる。それが流れとなり、クラス内のいくつかのグループも同調して遊びに行く約束を声高に取り付け始める。
だが――――
「お、俺はやめておくよ……期末の成績、ギリギリだったから」
バツが悪そうに、弱々しい声でそう断る男子生徒の姿が近くで見えた。
すると、それを皮切りに僕も、私も、……と申し訳無さそうな表情で遠慮し出すクラスメイトの姿がちらほら現れる。さしずめ、グループ内で1人出るか出ないかと言ったところだろうか。
グループのまとめ役、もとい言い出しっぺの者も、断った彼らに「ノリが悪い」と責めるのではなく、むしろ逆に謝ったりして無理に引き入れようとはしていなかった。
クラスの雰囲気が、さっきまでとは一変した。
元々、彼らも一定の危機感を持っていたのだろう。だが、この期末テストで自分たちと同じF組の中から高得点獲得者が出たと知り、心の余裕が消え一気に焦りが生まれた。そしてその焦りが伝播し、「
この現実を、今まで通り傷を舐め合うことで逃避するか、逃げずに向い合って立ちむかうかで未来が左右する。底辺クラスといえど傍目からは十分優秀な彼らだ、この程度で燃料としては充分過ぎるほどだろう。
「私らも帰るか。っと、その前にキンジのやつにコレ見せて自慢してやろうぜ」
「ははっ、そりゃあいいな」
重苦しいクラスの空気とは対照的に、俺たちは普段と変わらぬ様子で教室を後にした。
◇◆◇
「あら? そこにいるのは北原さんじゃありませんか」
「またあんたらか」
生徒玄関前でキンジが来るのを待っていると、会いたくもなかったあの女子3人組に声をかけられてしまった。先々週くらいに七海にカマかけてきた、いかにもお嬢様という感じのあの女子たちだ。
俺はまた面倒な奴に絡まれたと強烈な既視感に見まわれながら溜息を吐く。また霧生とその傍らに張り付いてる青木や白浪に勘付かれたら厄介なのは自分たちもだというのに、懲りない奴らだ。
「何か用? 鶴見」
「別に大したことはないですわ。ただ、1つ聞きたいことがあっただけですの」
「じゃあさっさと言えよ。何が聞きてえんだ? 数学の最後の問題の解き方か?」
「あ、それ俺も聞きたい」
「あなたはちょっと黙っていてくれます?」
俺に釘を差してから、3人組のリーダー……鶴見はコホンと1つ咳払いをしてみせ、馴れ馴れしい笑みを七海へと向けた。
「北原さん、今年のカンニングは上手くいきましたか?」
まるで事前に打ち合わせでもしていたかのように、傍らの2人もクスクスと笑い出す。前と一緒だ。鶴見が七海を弄り、それに合わせて残りが七海に聞こえるように笑うことで反論のタイミングを逃させ、立場を錯覚させることで一方的に立ち振る舞う。これが彼女たちの常套手段だ。
だが、今の七海はこれまでと違っていた。
「ハァ? 誰がカンニングなんて面倒なことするかっつーの。そんなことするより普通に問題解く方が早いし正確じゃねえか」
「なっ……!?」
いつもなら黙って堪える七海だが、どういうわけか今日はまるで別人のように逆に鶴見たちを煽るようにして反論した。今まで我慢してきたのが今日に来て爆発したのか、はたまた何か心境の変化でも訪れたのか定かではないが、しかし今の七海の方が俺は七海らしいと思った。
「私の点数教えてやろうか? 595点だよ。ところで、てめーらの点数はどうだったんだ? 私のこと馬鹿にするくらいだ、勿論こんな点数余裕で超えてくれるんだろ? あ?」
「F組の落ちこぼれのくせに……そんな点数、取れるわけが――――」
「ほら、これが証拠だ」
七海はキンジに見せびらかすために制服のポケットに4つ折りにして入れていた、5教科6科目の合計点と順位が書かれた紙を3人に付き出した。
「言っとくが、不正行為なんてつまんねえことでこの点数は無理だぞ。理由は言わなくても分かるな?」
「く、くぅぅぅ……ッ!」
後ろから七海の援護をしてやると、3人は悔しそうに顔を歪ませながら俺と七海を睨みつけてきた。一方の七海は紙を折りたたんでポケットに入れながら、勝ち誇った顔で3人を見ている。
「い、いきますわよ!」
これ以上やっても恥をかくだけだと悟ったのか、鶴見たちは踵を返して逃げるように俺達の前から去っていった。
「おととい来やがれ」
鶴見たちの背中に向けて、七海が言い放つ。
「お前、何かあったのか? 前は言われるがままだった気がするんだけど」
「べ、別に何もねーよ。……ただ、響哉がいると、あっ安心できるっつーか、心強いっつーか……」
七海はプイとそっぽを向いて、段々と小さくなっていく声でそう答えた。
まぁ、現役のAランク武偵が隣にいればそりゃあ心強いだろうな。
と、ここでタイミングを見計らったようにキンジが合流する。俺たちの様子がちょっとおかしい事に気付いたのか、首を傾げながら尋ねてくる。
「あれ、2人ともどうしたんですか?」
「なんでもねーよ!」
突然七海に大きな声で言われて、キンジはわけも分からず驚き戸惑うことしかできないようだった。七海と別れた後、モノレールで「何かあったんですか?」と訊かれたが、俺は適当にしらを切って通した。キンジは俺が何か隠していることに気づいているようだったが、深く詮索してくることはなかった。
◇◆◇
北原七海が『自分らしさ』を前面に出したことを響哉は喜んだが、一方で、それがひどく不愉快に感じた人物もまたいた。
さる大企業の令嬢である鶴見秋穂を中心とする、七海によく絡んでくるB組の女子3人である。
彼女たちは通り沿いのスターバックスで時間を潰すことで気を紛らわせていたが、店を出た後も鶴見だけは不機嫌な様子だった。
傍らにいる2人の女子も、いつ鶴見の苛つきが自分たちの方に飛び火してくるかわからないため口を開けないでいた。
「なぜこの私があんな野蛮な雌狐に遅れを取らなくてはならないの……」
鶴見はさっきから誰に言うでもなく同じことを繰り返し呟いている。いつもベッタリと愛想笑いの仮面を張り付かせている彼女とは思えない。そのせいもあってか、一歩引いたところを歩く女子2人も鶴見をフォローできずにいた。
「ちょっと宜しいですか?」
そんな中、空気を読まず鶴見たちに声をかける者が現れた。セールスマン風の、黒いスーツを着たヨーロッパ人の男だ。
鶴見はすぐに笑顔を取り繕い、声のした方を振り返る。だが、その笑顔にも今ではどこか無理をしているような影があった。
「何か私たちにご用でしょうか? キャッチセールスならば丁重にお断わり願いたいのですが」
予め用意された台本を読み上げるように、鶴見は男にそう答えた。彼女も街を歩いていれば何かしらの理由で声をかけられるほどには整った顔立ちをしているため、突然見知らぬ人物から呼びかけられてもすぐに対応できる程度には慣れていた。
「いえいえそんな、セールスだなんて滅相もない。ただ、あなたにとても良い物をプレゼントして差し上げようと声をかけただけでございます」
「生憎ですが、私はそんな言葉に釣られるほど安い女性じゃありませんの」
営業中に色欲に溺れたナンパ野郎か、と思い至り、鶴見が無関心そうに背を向けようとしたその時だった。
「――――気に入らない人が、いらっしゃるのでしょう?――――」
ズン、と胸に重く響き渡るように、男の声が鶴見に突き刺さった。
鶴見は咄嗟に後ろを振り返る。その時にはもう、彼女の仮面は剥がれ落ちていた。鶴見が振り返るのに合わせるように、隣の2人も振り返って男の方を見る。
「あなたに『力』を与えます」
鶴見に一歩詰め寄り、息がかかるほどに顔を近づけて男は言う。その不思議な威圧感に、鶴見は気圧されて一歩後退ってしまった。だが、鶴見の視線は男に釘付けになってしまう。
「それはもう、あなたの物です。それを使って、少し驚かせるだけでいいんです。どうぞ、お幸せに」
そう言って、男は地面にコインを放った。それはキン、キキンと甲高い音を立てて跳ね、鶴見の靴にあたって止まる。
それに気を取られ鶴見の視線が一瞬足下へ向き、また顔を上げると、そこにはもうあの男の姿はなかった。
「な、何だったの……?」
今になって、言い知れぬ恐怖感が鶴見たちを襲う。
ふと気になって、鶴見は足下に転がっているコイン――人の顔のようなものが彫られた銀貨――を拾い、手に取った。
(この銀貨、どこかで……あら?)
鶴見は自分の鞄が開いていることに気付き、慌てて中を確認する。もしかしたら今の男は新手のスリなのかもしれないと思い至ったからだ。財布の中にはカードや学生証も入っているため、それらが盗まれたとなると大変なことになりかねない。
「…………ッ!!」
鞄の中を覗いた鶴見が、はっとしたように目を見開く。そしてすぐさま鞄を閉じ、きょろきょろと辺りを見回した。
「……? どうかなさいましたか、鶴見さん」
「い、いえ……なんでもありませんわ」
「…………?」
どこからどう見ても様子がおかしい鶴見だったが、2人はとくにそれを言及することはなかった。なぜだかはわからないが、鶴見の機嫌が少しだけ良くなったように感じたからだ。
触らぬ神に祟りなし。余計な詮索をしてまた彼女が気を悪くしたりしたらたまらない、と2人は思ったのだ。
だが、この場で鶴見を問い詰め説得しておくべきだったと、この後2人は後悔することになるのだった。