「ほら、タオル。そこで適当に寛いでてくれ。私はシャワー浴びてくるから」
「ああ」
俺は七海にそう返事をして、手渡されたタオルを制服の濡れた部分に当てながらリビングのソファに腰掛けた。
ここは都内でも有名な高級タワーマンションで、七海はその一室で1人暮らししているのだという。1LDKでもこれは1人暮らしには広すぎるようで、しんと静まり返った廊下に響く足音がやけに大きく聞こえた。
部屋の内装はとても簡素なものだった。リビングには横長のソファとクッション、大型のテレビとガラステーブルや観葉植物が置かれているだけで、目立ったものは他にない。来客の想定などは、最初からあまりされていないようだ。
(にしても、女子の部屋っていうのは何でこうもいい匂いがするんだろうな)
普段から火薬や何かの薬品の匂いが染み付いた校舎や部屋で生活しているからか、武偵高の生徒は臭いに関してとても敏感になる。それも相まってか、この部屋の匂いが気になって仕方がなかった。
じっとしているのがやけに辛く感じてきたので、俺はテーブルの上に無造作に置かれていたリモコンのボタンを押してテレビを点けた。少しして、画面に夕方のニュースが映し出される。
『――次のニュースです。昨日夜9時半頃に起きた、千葉市のコンビニでたむろしていた高校生3人に同じ高校に通う男子生徒が拳銃を発砲するという事件について、加害者の男子生徒が所持していた「道端で知らない人から押し付けられた」と証言していることが、千葉県警の発表により明らかになりました。これと似たような事件が都市圏を中心に数件報告されており、警察ではもし拳銃を押し付けられるようなことがあればすぐに最寄りの警察署か交番に駆け込むようにと市民への指示を仰ぎました。こちらについては後に特集として、6時頃詳しく説明します。次のニュースです……』
ニュースキャスターの女性が、VTR映像を交えて淡々とニュースを読み上げていく。
(確か、似たような事件があったような……)
あれは去年のクリスマスイブのこと。俺と雅が現行犯逮捕した、自動式拳銃を持っていたひったくり犯の供述に似ている。
あの日を境に拳銃を配り歩く男の情報は途絶え、捜査も難航し完全に行き詰まっていると聞いていたが――――まさか最近になって、また起こり出すなんて。
犯人は何らかの理由で暫くの間大人しくしていたのか、それとも模倣犯の仕業か。いずれにせよ、今後の街中での警備体制はより一層強化されることとなるだろう。俺たち武偵高の生徒も駆り出されるかもしれない。
日本も物騒になったものだ、と日本一物騒な高校に席を置いている俺が考えていると、シャワーを終えた七海がリビングのドアの前から俺に声をかけてきた。
「どーした、恐い顔して」
「何でもない。ってか、なんだよその格好は」
今の七海の服装は、黒い半袖のTシャツにショートパンツという、随分肌の露出の高いラフな姿だ。制服よりもボディラインがくっきり表れるため、七海の体つきの良さが普段以上に表に出ている。
「なに? 興奮してんの?」
「そんなわけないだろ」
「つまんねーの」
首にかけたタオルを髪に当てながら、七海は冷蔵庫を開けて中からペットボトルに入った飲みかけの清涼飲料を一気に飲み干した。風呂上りの俺とやってることが同じというのは、名門校に通う女子生徒としてはどうなんだろうか。
「そういや、七海の両親ってどんな仕事してるんだ?」
「父は県議会議員よ、神奈川の。母は銀行員で、このマンションを用意するくらいわけないわ」
また随分と高収入な職業がポイポイ出てきたもんだ。確かにそんな家庭なら、べらぼうに学費の高い高校に通いながら娘1人を高級マンションに1人暮らしさせることくらい簡単だろう。金持ちって凄い。
「そんなことより、さっさと教科書とノート出しなよ。教えてあげるから」
「おう、頼むよ」
そういや勉強教えてもらいに来たんだっけ。七海の家が衝撃的過ぎて頭の中からそこら辺のことが吹き飛んでいた。
七海に言われて俺がテーブルに教科書とノートを広げている間に、七海は俺の隣に座ってきた。シャンプーの良い香りが、彼女の方から漂ってくる。
「ほら、どこが分かんないの?」
「……え、えーと、ここから教えてくれ」
さっき、七海に「興奮してんの?」と訊かれて「そんなわけない」と返したが、ここまで近くに寄られると流石に緊張くらいする。髪が動く度にいい匂いがするし、火照った体から上る蒸気が、血行が良くなり紅潮する頬が、Tシャツの胸元から僅かに覗く胸が、俺の平常心を保てなくする。
「ほら、よそ見しないでちゃんと聞きなさいよ!」
ちょっとだけ目を逸らすと、七海に手の甲をシャーペンの柄の方でペシッと叩かれた。誰のせいで勉強に集中できないと思ってるんだ。
しかし、ちゃんと真面目にやらないと、わざわざ俺なんかのためにテスト前の貴重な時間を割いてくれた七海に申し訳ない。他人の好意を踏み躙るようなことをするのは絶対にやっちゃいけないことだ。
一度大きく息を吸って、ゆっくりとそれを吐き出すことで、眼下のノートに意識を集中させる。
「悪い、七海。もう一回最初から説明してくれ」
「え、あ……うん。ここは――――」
◇◆◇
――俺が七海に勉強を教えてもらい始めて、数時間が経った。
七海は俺が解いた教科書の演習問題を見て、目を丸くしていた。
「凄いな、響哉。まさかここまで飲み込みが早いとは思わなかった」
「いや、お前の教え方が良かったおかげだよ」
中学の時の先生が、「自分がこなした量に質の2乗を掛けあわせたものが理解の方程式だ」と受験勉強が本格化してきた時に言っていた。
質とはつまり、勉強のやり方と集中力のことで、それさえ良ければ短時間でもいい結果を残すことができるという意味だ。無論、ちゃんと量もこなさなければいけないのだが。
七海の教え方はとてもわかり易く、馬鹿ばかりの武偵高で一緒に馬鹿をやっていた俺にもよく分かるように丁寧に教えてくれた。
おまけに幾つもの死線を超えて培ってきた俺の集中力も相まって、全く無駄のない理想的な勉強ができたというわけだ。
「いつの間にかすっかり遅くなってたな」
荷物をまとめ、スマートフォンの画面を確認すると、時刻はもう8時半だった。武偵高の寮に戻ったら9時前頃になっているだろう。
「あ、帰る前にちょっとトイレ貸してくれ」
「廊下に出てすぐ左にあるから、さっさと行ってきな」
「サンキュ」
何時間も座りっぱなしで凝り固まった身体を慣らしながら、俺はリビングを出て廊下に出た。すると、廊下の先の部屋のドアが少し開いているのに気づいた。
その僅かな隙間から俺の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある1冊の本の表紙。黄色い表紙に赤文字で大きく見出しが書かれたそれは、遠くからでもすぐにそれだと判別できるものだ。見間違いということはないだろう。
俺はその本に引き寄せられるように、トイレを素通りしてその部屋の前に行き、音を立てないように部屋の中を覗いた。
好奇心もあった。俺も思春期の男子だ、同年代の女子の部屋がどうなっているか気になるのも不自然じゃないだろう。
だが、それよりも、俺の勘がこの部屋には何かがあると疼いたのが大きい。
中は本棚と机、クッションとベッドがあるくらいで、特に目立ったものはない普通の部屋だった。おそらく、ここは七海の寝室だろう。部屋自体には何の異常は見受けられない。
だが、問題は本棚の中身だった。
俺も持っている武偵の本だけでなく、ガンマガジンや逮捕術の教本など、およそ普通の女子高生が読みそうにないジャンルの本が本棚を埋め尽くしていた。その上にはモデルガンらしき黒い自動式拳銃のような物も置かれている。
「…………」
俺はそっと扉を閉め、足音を立てないよう注意を払いながらトイレに入ってさっさと用を足してリビングに戻った。
そこでは、七海が携帯を弄りながらソファにふんぞり返っている。俺が戻ってきたのに気づくと、すぐに携帯を閉じてソファから立ち上がった。
「今日は助かった。また頼むよ」
鞄を拾って肩に掛けながら俺が言うと、七海は少し照れくさそうにしながら視線を泳がせた。
「べ、別にあんたの勉強見るくらい訳ないけどさ」
「なあ、七海。お前…………何で武偵辞めたんだ?」
何気ない様子を装いながら、俺は七海にそう尋ねた。
すると、彼女の表情がみるみる曇っていき、虚ろな目をさせてそっと右耳に指を当てた。
「中学の時、訓練の事故で耳切っちまってさ……それを知った親に無理やり辞めさせられて、秀桜に入学させられたんだ」
「そういうことだったのか……」
七海が秀桜に通いながらもこんな身なりをしている理由がわかった。彼女は、両親に、学校に、周囲に反抗しているんだ。
七海はこの性格だから、きっと武偵を辞めさせるという両親の決断に猛反対したに違いない。だが、父親が県議会議員だと言っていたから、何らかのツテを駆使して辞めさせられたのだと容易に想像がつく。
少々過保護な気もするが、親にとっては子供が危ない橋を渡るのは見過ごせないのだろう。七海の両親の気持ちも、分からなくはない。
その真っ直ぐな愛情が、愛する娘を苦しませているというのは皮肉な話だ。
「でも、そんな傷があるなんて分からなかったな」
「イヤーカフスで隠してるのさ。小さい切り傷だから」
「なるほど。悪かったな、嫌なこと聞いちまって」
「いいって、別にもう気にしてないし。それに……響哉にはいつか話すつもりだったから」
「…………」
2人しかいない広いリビングに、静寂が訪れる。それが数秒か、はたまた何分か続いてから、耐えかねた俺が口火を切った。
「じゃあ、俺は帰るよ。何かあったら言ってくれ。できることなら解決してやるから」
「はっ、頼む相手が逆じゃない? あんたにできることくらい、私1人でも余裕だっての」
「言ってくれるな、コンチクショウ。んじゃ、またな」
「おう」
そう別れを告げ、俺は七海のマンションを後にした。
夕方頃から強く降っていた雨は止み、外灯が足元を照らす中、俺の頭上には半分に欠けた月が小さく空に浮いているのが見えた。
雨上がりの湿った風が肌を優しく撫でる。だが、今の俺にはその感覚がとても不快に感じられた。
『響哉にはいつか話すつもりだったから』
別れ際、七海が言っていた言葉が頭の中を巡る。
それが何を意味するのか、少し考えればきっと分かることはできた。。だが俺は、それを考えようとしなかった。
――それが、きっとお互いのためになると信じて。