遠山キンジにとってHSS――――ヒステリアモードとは、尊敬する兄や父の影響もあり、唯一無敵、絶対最強の能力であると思われていた。
だが、そんな言わば超人と化した自分を相手に(当人は検査だからと否定しているが)引き分けた者が現れた。
その男の名は朱葉響哉。ヒステリア・モードになろうとも、引き分けに持ち込むのが精一杯の、キンジが親族を除いて初めて戦慄を覚えた相手であった。
そんな初めての人物だ、興味というものは自然と沸き上がってくる。キンジはクラスメイトの探偵科の女子に、響哉と出会ったその日のうちに情報収集を依頼していた。
――その翌日の放課後、キンジは響哉の情報を受け取るために指定された報酬を持って女子寮前の温室に足を運んでいた。
この場所はいつも人が少なく、他人に知られたくない密会などで一部生徒が時たま利用する場所になっている。そんな場所に、ベンチに腰を掛けながらキンジを待っていると思われる小柄な女子生徒の人影が1つあった。
「峰、依頼した情報は持ってきたか?」
キンジが声を掛けたその女子生徒の名は、峰理子と言った。緩いウェーブのかかったきめ細かな金髪をツーサイドアップテールに結い、まだ入学して数日しか経っていないというのにその防弾制服はリボンやフリルだらけのものに改造している。彼女はキンジのクラスメイトで、探偵科のAランク武偵である。
「むぅー。理子のことは苗字じゃなくて、もっとフランクに『りこりん』って呼んでって昨日も言ったじゃん。情報あげたくなくなっちゃうよ?」
「……わかった、これからは名前で呼んでやる。報酬も持ってきた。だから理子、情報を売ってくれ」
「かったいなぁ、キーくんは。ま、いいや」
「き、キーくん……?」
初めて呼ばれたそのあだ名に、キンジは思わずぎょっとしながら1歩後退った。彼は幼馴染の星伽白雪にも変な呼ばれ方をしているせいで耐性を持っているつもりだったが、そんなことは全くなかったようだ。
「……ほら、これでいいんだろ」
そう言って、キンジは鞄の中から取り出したビニール袋を理子に手渡した。
それを受け取った理子は、その場でガサガサと音を立てながら中に入っていた物を出し、目を輝かせた。
「わーい! キーくんありがとぉ!」
飛び上がって喜ぶ理子の胸に抱かれているのは、R-15指定の、俗に言うギャルゲー。先日、理子はゲーム屋でこれらの類のゲームを購入しようとレジに持っていった際、店員に中学生と思われ、販売を拒否されていた。
仕方ないからインターネットの通販サイトを利用しようと思い立った矢先、キンジが情報収集の依頼を頼みに来て、『こいつにパシらせたらいいじゃん』と思い立ったわけである。ゲームソフトも2つ3つ買わせたらそれなりの値段になるため、報酬としては悪くなかった。
「じゃ、これ約束の情報」
そう言って、理子は鞄の中からクリップで留められた紙束を取り出した。
「朱葉響哉……2年A組、強襲科のAランク武偵だね。去年の夏にかなり難易度の高い依頼を単身で成功させてるけど、大きな解決事件(コンプリート)はそれくらい。もし戦兄弟契約するんだったらこの人よりとっつぁん先輩の方がいいんじゃない?」
「とっ……誰のことだ?」
「2年B組の銭形平士。キーくんと同じ、強襲科のSランク武偵だよ。今の東京武偵高……ううん、日本にいる全高校生武偵で最強なのはまず間違いなくこの先輩だね。現3年を差し置いて」
「ああ、あの人か」
キンジは思い出したように頷いた。
中学時代は神奈川にいたキンジでさえ、その噂は風に乗って聞いたことがあった。
独特の逮捕術で多くの凶悪犯罪者を捕まえ、犯罪者を震え上がらせた天才武偵。武偵高に入学してすぐいくつもの指定暴力団を単身で壊滅させ、1ヶ月後にこれも単身で武器密輸の現場を抑え一斉検挙。過去に類を見ないほどの活躍をし、その年の全四半期の最優秀学生武偵(MVDA)を獲得。日本の武偵の歴史に残る快挙を成し遂げたことは有名な話で、キンジもそれはよく知っていた。
「そのあまりの容赦のなさから、付いた2つ名が『冷徹なる男(アンフィーリング)』。成功させた任務の多くが1人で行われているから、『他人と感覚が合わない』って意味も含まれてるって噂があるくらい厳格な人らしいよ。もうプロ意識が目覚めてるんだろうね」
「まあ、金貰ってるんだしな。3年になると誰でも意識が変わってくるって先生が言ってたが、あの先輩はそれが早かったってだけだろ」
「上に『異常』がつく早さだけどね。中等部2年と3年の時に架橋生(アクロス)として警視庁や陸自のレンジャー部隊にいたから、その影響が大きいんだろうねー」
「なるほどな」
双方とも、国内有数のエリートが集められた機関や部隊だ。そんな人達と接していれば、自然と意識は高まるだろうと、キンジは納得する。
「……って、銭形先輩はどうでもいいんだよ。朱葉先輩の情報はないのか?」
「ノンノン。焦っちゃダメだよ、キーくん。ここからが凄いんだから。何と、そのとっつぁん先輩に1対1で引き分けてるんだなぁ。朱葉先輩」
「なっ……マジか!?」
直接の面識はまだないものの、さきほど理子が言ったように銭形平士は鬼神の如き戦闘力を持った武偵だ。そんな人物を相手に引き分けに持ち込んだということは、やはりその実力は本物だったという証拠だ。
逆に言えば、自分が最強だと信じて疑わなかったヒステリアモードに匹敵する力を持った者がまだあと1人いるということになるのだが、今のキンジはまだそこまで頭が回らなかった。
「っていうかさ。キーくんこの先輩の情報使って何したいの? 戦兄弟契約でも結びたいの?」
「どうだっていいだろ、お前には」
「確かにそうだけどさぁ、もともと強いキーくんが利用するようなものじゃないよね、戦姉妹システムって。実力のない人が経験もある強い先輩に引っ張ってもらうのが目的で制定されてるのに。それにAランクの先輩がSランクのキーくんを育てるっていうのも抵抗あるんじゃないかな?」
「…………」
理子に正論を言われ、キンジは思わず口を噤んだ。彼女の言う通り、仮にキンジが響哉の戦弟になったとしたら、それは他の同級生のチャンスを奪うことに成りかねない。
「……で、でも、今の時期まで申請なかったんだし、別にキーくんが戦弟になっても誰も文句言わないんじゃないかな!」
キンジの表情が曇ったのを悟った理子は、いつもより更に明るい声色でキンジを励ますようにしてそう言った。
「――俺はただ、話がしたいだけだ。理子、先輩が1人でいる時間はあるか?」
「ふーん……ま、キーくんがそう言うならそうなんだろうね。先輩は毎日かかさず夜にロードワークしてるから、22時くらいに海沿いの道で待ち構えてればいいと思うよ」
「助かった、理子」
「どういたしまして。それじゃあ、キーくん。また明日」
「ああ」
そう返事をし、キンジは理子から受け取った紙束を鞄に入れ温室を後にした。
1人残された理子も、ベンチから立ち上がって女子寮に戻ろうと別の出口から温室を出ようとしていた。
その時、キンジから情報の報酬として貰ったゲームを鞄の中に押し込もうとして、理子はキンジに渡すはずだった響哉の情報がまだ鞄に残っていたことに気付いた。
よく見れば左上の部分に裂かれた跡がある。どうやら鞄から出すときに、これだけがクリップから外れてしまったようだ。
その外れてしまっていた紙に記されているのは、理子が調べた響哉の訓練メニューだった。キンジに急を要すると言われ調査する時間が少なかったためにその全てを把握することはできなかったが、それでも毎日やるにしては多過ぎるほどの量だった。
(改めて見ても、とんでもないハードワークだな。イ・ウーの超人でも3日で嫌気が差すぞ)
そう心の中で呟きながら、理子はビリビリとその場で紙を破り、紙吹雪となったコピー用紙を理子は外に出てから風に乗せて宙に舞わせた。桜の花びらとともに、その紙吹雪はバラバラになりどんどん高く昇っていく。
「さすが、燐さんのお気に入りだね~」
誰に言うでもないその理子の呟きは、まだ少し肌寒い春の空へと溶けていった。