2年前のこと。
夜の港に、2人の武偵の姿があった。
いや、正確にはまだ武偵ではない。その内の1人、彼女――黒坂燐(クロサカ リン)は東京武偵高付属中に所属している、武偵候補生だ。その手には、まだ真新しい『グロック19』が握られている。
「黒坂、緊張するな。いくら初めての依頼(クエスト)だからって、そんなに気張る事は無いんだぞ。ホントなら、こんなボロ倉庫に警備なんて必要無いんだし」
燐より歳が上の、慣れているような雰囲気を持ったもう1人の男子がケータイでメールを打ちながら言った。
「そうですけど、私、1年の頃から成績悪いし…………初めての依頼で失敗するわけにはいかないんです」
「ふーん…………ま、変な問題だけは起こすなよ」
燐は、武偵高付属中の入学試験の時一緒に受験していた幼馴染の朱葉響哉のためにも、立派な武偵とならなければと思っていた。風の噂によれば、響哉は頑張って身体を鍛えているらしい。
だから、響哉が武偵になった時、その傍にいて助けてあげられるようになる事が彼女の目標だった。
しかし、現実とは残酷なものだ。
燐は確かに入試に合格した。しかしそれは、合格ラインギリギリだった。入学した後も、女子という事も差し引いても格闘は人並み以下。射撃はブレるどころか手からスッポ抜けることもしばしば。まさに『おちこぼれ』だった。
しかし武偵になる夢は捨てきれず、弱いながらも必死に周りに喰らいついていった。
正義のため、非力な人を守るため、そして何より、かけ替えの無い幼馴染のために―――――。
そんな彼女が2年になって少し経ったある日、教官から民間の依頼を受けても良いと言われた。
本来なら1年の冬には多くの生徒がその許しが出るのだが、燐の場合は力量の低さから遅れに遅れてしまっていた。
それに、受けても良いとは言われたがその依頼はどれも危険度の低い、というより皆無の、簡単なものばかりだ。
だが、今の燐にはそれはどうでもいい事だった。
少しずつ、少しずつ成長している事が実感できるようで、自分も同期で危険な依頼をいくつもこなしていると有名な男子生徒のようになれると信じていたから。
燐が倉庫の警備をするために入口の辺りから裏に回ると、大型のトラックが倉庫に入っていった。
「…………」
燐は、好奇心で裏口から倉庫内に入り込んだ。解錠は武偵の基本、スニーキングもまた然りだ。
そこには、さっき入っていったトラックと、4人の男がいた。この辺一体は依頼主以外、倉庫の使用予定はなく誰も居ないはずだった。且つこの倉庫は依頼主の指定した倉庫の隣である。なんと燐は、この場所を対象の倉庫だと思い違いしてしまっていた。
「おい! さっさと運ぶぞ!」
男の1人がそう言うと、他の3人は「へいッ!」と大きな声で返事をし、倉庫内の積み荷をトラックに積み入れ始めた。
その光景をなんとなく見ていると……………
ゴトトッ
男達は重ねてあった積み荷の上の方を落としてしまい、その中身が出てきてしまった。
「何やってんだ!!」
「すみませんッ!」
男はすぐにその出てきたモノを積み荷の箱に片付け始めた。
燐は「なにやってんだか……」と呆れるようにその光景を眺めていた。
「仕方ない。手伝ってあげよう」
燐は見ていられなくなり、4人の方に歩き出した。
「すいませーん、手伝いま……す?」
4人は、燐を見た瞬間凍りついた。ある者は焦り、ある者は恐怖した。
燐は、そんな4人の視線を一身に浴び、目を逸らす形で4人の足元に落ちていたモノを見た。
「…………え?」
燐が見た物は、――――合成麻薬(MDMA)だった。
次の瞬間、燐は男の1人によって、撃たれた。
「キャァァ!」
防弾制服のため致命傷ではないが、その衝撃は13歳の身体には痛すぎる物だ。だが、脇腹に着弾した.38スペシャル弾は彼女の内蔵を壊していても不思議ではない。
「クソ! 何でこんな所に武偵が…………! オイッ! トラックを出す準備をしろ!」
燐に発砲した男は、他の3人にそう伝えた。
「コイツはどうしやす?」
「
男の【S&W M360J】の銃口から、続けて銃弾が放たれた。
M360Jの装弾数は5発。残りの4発のうち2発は燐の左肩、そして無防備の大腿を貫き、出血する。未だに何が起こっているのか解らない燐は、傷のせいで回避も何もできずにただやられるだけだった。
それからは酷かった。
男の弾が尽きた後、鉄パイプで男4人がかりで燐を殴り、痛めつけていたのだ。
男達も混乱していたのだろう。その行為は無為そのものだった。
この場合だと燐のグロック19を奪い、頭を撃ち抜くのが彼らにとっての最善だろう。しかしそれをやらなかったのは、捕まる事への恐怖から生まれる混乱だというのが容易に想像できる。
燐は身体を丸め、男達の鉄パイプの連打が止むのをじっと堪えていた。その小さな体は青いアザがいくつもでき、頭からは血が流れている。
燐が、その意識を深い闇に投げだそうとした時……
パトカーのサイレンの音が、倉庫の中に聞こえてきた。
「まずい! ズラかるぞ!」
男たちはトラックに乗り込み、倉庫を出ていった。
だが、このパトカーは偶然近くを通ったというだけで、燐が倉庫の中で死にかけている事など、もう1人の男子すら知る由は無かった。
「……し……らせ…………な、きゃ……」
最後の力を振り絞り、倉庫の外に出ようと彩香は這いずって外に出た。
しかし、そこには誰もいない。男子生徒はこの時、倉庫の近くにはいなかった。燐を捜しに裏の方に行っていたのだ。
「……だ……れ、か…………」
「――随分と、辛そうだね」
今にも力尽きそうな燐の前に、さっきの4人とは違う、歳は20代ほどで180近い長身。整った顔立ちとそれに似合うオールバックの髪型。そしてなにより、只者ではない風格が漂っていた。
「力無き正義は無に等しい――――。そう、思わないかい?」
男は燐に囁いた。しかし、燐にはその囁きに答えられるほどの力は、もう残ってはいなかった。
「私についてくるといい。君ならば、どこまでも強くなれる。この世の悪を挫き、か弱き者も護り、なにより大切な人を助けられるようになるために…………私に、ついてきなさい」
今、死の淵に立たされている燐に、その言葉はまるで魔法のように力を与えた。
さっきまで喋る事もままならなかったのに、燐はボロボロの身体で立ち上がり、しっかりとした口調で言い放った。
「あなたに、ついていきます……そして必ず、強くなってみせます」
いったい、何が彼女をこうまでさせたのか。さっきまで瀕死だった彼女のどこにそんな余力が残っていたのか。その答えはきっと、永久に解らないのだろう――――。
その後、男子生徒によって倉庫内から燐の血液が発見され、しばらくして今回の依頼主が麻薬密売組織だった事が明らかになった。
武偵といえど所詮は中学生。事情がバレても強引に口を封じることは不可能ではない。何よりもまさか武偵に警備を依頼させはしないだろうという先入観を、密売組織は隠れ蓑として利用していたのだ。
燐は倉庫の中で麻薬をトラックに運んでいた光景を偶然発見し、返り討ちにあったものと断定。遺体は発見されなかったが彼女の血が海に続いていたことから密売組織の人間に海に投げられたとして処理された。
結果、彼女はその任務中に起こった異常事態に勇敢に立ち向かったと称され、東京武偵高付属中学殉学者名簿にその名を刻むこととなった。
そして、現在……。アドシアードの翌日。
朱葉響哉は学校を休み、1人広い寮の部屋に籠っていた。
――――彼は、燐が変わってしまった事を自分の責任だと感じていた。
『あの時俺も合格していたら、燐は変わらずに済んだ』と。
2年前にも彼は同じような事を考えていた。
『自分が隣にいたら』、『あの時一緒に合格していたら』、『自分がもっと、強かったら』と。
だからこそ彼は、その責任から強さを求めた。彼女の分まで強くなろうと努力した。
しかし、父親に鍛えられ、あの時とは比べ物にならない強さを身につけたと思っていたのに、待っていたのは2年前と何も変わらない不甲斐無さだけだった。
自分は一体、何のために努力してきたのだろうか。
人に過去は変えられない。しかし過去を恨む事はできる。響哉は過去の自分を、殺したい程に憎んでいた。
そして、彼女が昨日最後に言った言葉を思い返した。
「響哉、強くなるのよ。そして――――いつかあなたも、『イ・ウー』に来きなさい」
過去にそれぞれの道を辿り始めた2人は今、互いの人生の歯車を狂わせる――。
――――それはまるで、呪い合うかのように――――。