今、ここで目の前に広がっている光景をみれば、誰しもが聖闘士同士の闘いの凄まじさを思い知ることになるだろう。
それほどまでにその周辺の様子は信じられない惨状を呈していた。
元は普通の砂浜でしかなかったその場所は、大地に走った亀裂は底が見えないほどに深く、そこかしこに散らばる破片は衝撃に耐えきれずに吹き飛んだ岩盤の残骸である。
しかし、そんな場所に自らの足で立つ者達がいる。
大地を引き裂くような戦闘を繰り広げた張本人。
その拳は空を裂き、その蹴りは地を割ると言われる伝説の闘士、アテナの聖闘士。
掟に反したことで聖闘士の総本山である聖域から命を狙われた四人の名は、ペガサスの星矢、アンドロメダの瞬、ドラゴンの紫龍、そしてキグナスの氷河。
青銅聖闘士にとって、遥か格上の存在である白銀聖闘士達に追われることとなった四人はその力と運、そして予想だにしなかった援軍によって辛くも危機を脱していた。
しかし、未だ自分の足で立っているとはいえ、彼らも皆一様に傷を負っていて、足元に倒れている男達とその様子はさして変わりはない。
星矢達の纏っている聖衣にはあらゆる部分にひびが走り、今にも崩れ落ちそうな様子はもはや聖衣の体をなしていない。
しかし、血を吐く程に傷付いた星矢達とは違い、アイオロスはただ一人軽傷で済んでいた。
聖衣を纏っていないのに、白銀聖闘士との闘いを経ても最も怪我は少なかった。
むしろ、幾つもの闘いを重ねた星矢達傷の方がはるかに深刻だ。
というのも、彼らは白銀聖闘士と闘う直前まで強敵と死闘を繰り広げていたからで、その後すぐに連戦となってしまったのだ。
特にミスティと一対一で闘い、勝利した星矢は、とても一人では立っていられないほどにまで消耗していた。
その他のほとんどの白銀聖闘士はアイオロスと魔鈴が倒してくれたが、その闘いの余波でさえも彼らの傷ついた身体にはこたえるものだった。
ようやく追手の白銀聖闘士も一掃され、これからすぐにでも星矢達には適切な治療を施さねばならない。
だがその時、魔鈴は突然口を開いた。
「ええっ! 聖域に戻るって!?」
「そうさ、あたしはこの結果を聖域に伝えないといけないからね」
「で、でも……」
「あなたはそれでも大丈夫なのですか?」
星矢を遮ってそう言ったのは――――アテナ。
「あんたは……城戸沙織。……いや、聞こえていたよ。本物のアテナなんだってね」
「ええ」
星矢達と闘うことになった原因とも言える少女。
値踏みするような眼差しを向ける魔鈴に対して、アテナの身体からとてつもない小宇宙が立ち上った。
「!!……こ……この小宇宙は…………」
「沙織さん!? 凄い……」
想像を絶する巨大な小宇宙が渦を巻いて沸き上がる。
ただ大きなだけではない。
見る者の痛みを和らげるような、暖かく雄大な小宇宙。
「分かったよ……どうやら本当にアテナのようだ」
今こそ心から認められる。
彼女は正真正銘のアテナであると。
数百年に一度の神々との闘いから、地上を守るために降臨した戦女神であると。
と、その時彼らの足元に横たわる白銀聖闘士達が微かに呻いた。
「…目が覚めたか」
見ると、白銀聖闘士達全員が驚いた様子で立ち上がろうとしていた。
「…俺達は、生きているのか…?」
白銀聖闘士を率いていたアステリオンが、掠れた声で言った。
蹴りつけられて地面に落下した衝撃で、未だ立つことは出来ていない。
だが、その意識ははっきり戻ったようだ。
次々と目を覚ました白銀聖闘士達は互いに顔を見合わせていた。
「そうだ……お前達、アテナに感謝するのだな」
その言葉で、アステリオン達はアイオロスと彼の後ろに佇むアテナの姿に気が付いたようだ。
「ま……まだそれを言うか! アテナは聖域におられる! その女がアテナであるはずが無い!」
あくまでアテナは聖域に存在すると信じるアステリオンに、アイオロスは言った。
「お前達を包む小宇宙を感じても、同じことが言えるか?」
「なに……?」
アステリオンや他の白銀聖闘士達も、自らの身体を包み込んでいた小宇宙に気が付き、目を見張った。
「うっ!」
「ああ……!」
アイオロスに倒されたアルゴルとモーゼス、バベルの三人は、意識を失う直前の最後の瞬間を思い出した。
三人同時にそれぞれの必殺技を繰り出した。
アイオロスの光速拳など大したことは無いとたかをくくって。
しかし待っていたのは、目も眩むような黄金の光。
それが目に飛び込んできた瞬間、閃光の速さで身体を貫いた衝撃が最後の記憶だった。
自分の身体を見る限りでは、白銀聖衣も完膚無きまでに粉砕されており、とてもあの光速拳に耐え切ったとは思えない。
「ま……まさか……」
「この小宇宙が……俺達を護っていたというのか…?」
自分達の身体を保護するかのように、暖かい小宇宙が身を包んでいる。
そしてその小宇宙を発しているのは、彼らが否定したアテナを名乗る少女。
否定が疑惑に変わり、そして確信へと変化する。
「おお……あなたこそ……まさしく……」
白銀聖闘士達が彼女をアテナと認めた瞬間だった。
いつの間にか彼らは皆アテナに向かって頭を下げていた。
知らなかったとはいえ、聖闘士ならば本来守るべき女神に対して拳を向けていたかもしれなかったのだ。
だが、そんな彼らにもアテナは態度を変えることなく語りかけた。
「頭を上げなさい。これはあなた達が聖域の命令を受けて行なったこと。私はそれを咎めるつもりはありません。それよりも、あなた達には私達のことを聖域へ、教皇へと伝えて欲しいのです。私が聖域に向かうということを…」
「わかりました。し……しかし、アイオロスは……」
そう言った白銀聖闘士達は、アイオロスに対して疑いの目を向けていた。
アテナ自身が否定したからといって、長い間聖域でアテナを連れ去ろうとした逆賊だと教えられて男に対して、そう易々とは信じられないようであった。
だが、そんな彼らにアテナは粛然と言った。
「心配はいりません。誓って、彼は逆賊などではありません。聖域でずっと信じられてきたことこそが誤りだったのです。それも……私が聖域に赴けばはっきりするでしょう」
「……わかりました。御言葉に……従います」
「それでは……よろしく頼みますよ」
『ハハッ!!』
こうしてアテナに忠誠を誓った白銀聖闘士達は、聖域へと帰っていったのだった。
――聖域
一人の男が古びた神殿の中を教皇の間へと向かっていた。
身につけているのは聖衣ではなく、聖域において正式な聖闘士ではない者達、所謂雑兵達が着ている雑兵服だ。
だが、その目には他を圧するような強い光が宿っている。
彼の名はアイオリア。
正体はれっきとした黄金聖闘士である。
彼の纏うべき聖衣の名は獅子座(レオ)。
その聖衣に恥じぬ勇猛な男であり、聖域では仁と勇を備えた聖闘士として雑兵に至るまで慕われている。
そのアイオリアが現在、教皇の間に向かっているのは、教皇から呼び出しの命令を受けたからであった。
至急の用と言われたので、普段行なっている聖闘士候補生達の修業を他の聖闘士に任せて教皇の元へと向かっていた。
そして教皇の間に辿り着いたアイオリアは、自分の他にも教皇に呼ばれた者がいることに気が付いた。
既に聖衣を纏って教皇の傍に立つ男。
「ほう……お前も呼ばれていたのか。スコーピオンのミロ!」
「俺達黄金聖闘士が、任務で顔を合わせるとは……珍しいこともあるものだな」
そこにいたのはアイオリアと同格の黄金聖闘士、蠍座(スコーピオン)のミロ。
癖のある長髪を腰のあたりまで伸ばしているミロは、聖域でも明るい性格で知られ、誰とでも気さくに話すのでアイオリアと並んで雑兵や下級の聖闘士にも名が知れている。
一般に黄金聖闘士と言えば、聖域でもその身分は青銅聖闘士とは比べ物にならない。
黄金聖闘士はそれぞれが守護すべき宮を持っているが、中には自分の守護宮から外に出ない者や、聖域に常駐していない者もいたりする。
中には、あまり名前が知られていない黄金聖闘士というのも存在するのだ。
そんな風であるから、黄金聖闘士同士の繋がりというのも様々で、顔を合わせるのが珍しいというのもあながち嘘ではない。
そんな中でも、ミロとアイオリアは割と親しい方ではある。
ようやく二人が揃ったのを見て、教皇は静かに口を開いた。
「フム……聖域内で黄金聖闘士同士が出会うことも少ないからな。それはそうと、今日はお前達に話がある」
教皇からの直接の命令ということで、二人は顔を引き締めた。
「先日、日本で青銅聖闘士共が私闘をしたというのは聞いているだろう。そこで、私は掟を破った連中を処罰するために白銀聖闘士を派遣したのだ」
「その話なら聞いています。それが何か?」
アイオリアが聞き返した。
確かに、その話は数日前に聖域でも噂になっていた。
白銀聖闘士が派遣されたと聞いてからしばらく経っているが、聖域で修業していた星矢を個人的に知っているアイオリアとしては、その後のことが聞こえてこないので不審に思っていたのだ。
しかし、教皇の語ったことは二人を大いに驚かせた。
「全滅!? 青銅聖闘士相手に白銀聖闘士が全滅したと!?」
ミロもにわかには信じられなかった。
普通に考えれば白銀聖闘士の実力は青銅聖闘士の比ではない。
まして、白銀聖闘士達の方が討伐される青銅聖闘士よりも数が多かったのだ。
なのに、白銀聖闘士の方が全滅したとは聖域の長い歴史でも前代未聞だ。
相手の青銅聖闘士とはそれほどまでに強いのか、とミロは素直に驚いた。
「話は最後まで聞け。全滅した訳ではない。命を落としたのは一人だけだ。もっとも、他の全員も敗れたそうだがな」
教皇は二人に諭すように淡々と言った。
教皇自身も、この報告を聞いた時はまず己の耳を疑った。
しかし、段々と話を聞いていくにつれて、驚きよりも戦慄が走った。
確かに報告の通りなら、白銀聖闘士達が全員敗れたのも頷ける。
だがそれは、十三年前の出来事を如実に思い出させることでもあった。
あのアイオロスが生きていた。
そしてアテナも一緒にいるという。
即座に教皇は報告してきた白銀聖闘士達に拳を放ち、この話が聖域に広まらないよう彼らの記憶を消去した。
そして、アテナ達が聖域に始末をつけようと、黄金聖闘士二人を呼び出したのだった。
「かの逆賊アイオロスが、日本で生きていたようなのだ」
『なっ!!?』
まさに晴天の霹靂と言うべきか。
十三年前にアテナを連れ去ろうとして失敗し、死んだと言われていたアイオロスが生きていたというのだ。
それは聖域の者にとってはあってはならないことであり、中でもアイオリアが受けた衝撃は計り知れなかった。
当然であろう。
なにしろ彼は、アイオロスの実の弟なのだ。
聖域では十三年前に逆賊として討伐されたとずっと信じられてきたせいで、かつては逆賊の弟として聖域の者達に謂れの無い蔑みを受けたこともある。
それを覆すために、彼は今まで聖域から下された指令を全力で遂行してきた。
その甲斐もあって、段々と人々の彼を見る目が変わっていったのだ。
その当時、アイオリアはずっと慕っていた兄・アイオロスがそんな凶行を行ったとは到底思えなかった。
しかし、周囲からの冷たい視線に耐えて兄を信じ続けるには彼はまだ幼すぎた。
やがて彼もまた、自分の兄が逆賊だったのだと思うようになっていった。
「そこで本日お前達を呼んだのは他でもない……」
「教皇!」
「むっ……なんだ?」
それまで目を伏せて教皇の言葉を聞いていたアイオリアが、顔を上げ決然と言った。
「その知らせが真ならば……逆賊アイオロスの討伐、このアイオリアに任せていただきたい!」
「ウム……もとよりそのつもりだ。だが、お前だけではない。この度は……お前達二人に日本に赴いてもらう!」
「なんと……黄金聖闘士が一度に二人も出撃せよと!?」
聖域に逆らった聖闘士の討伐としては異例のことに、ミロは驚かずにはいられなかった。
そしてそれは教皇も予想していたのだろう、ミロの反応にも態度を変えることなく続けた。
「なにしろ相手が相手だ。万全を期すために今回はお前達二人を差し向ける。これは命令だ」
「……ははっ」
「わかりました。ならば……私は直ぐに日本へと向かいます」
そう言い放つと、アイオリアは真っ先に教皇の間を退出していった。
後には不機嫌そうな顔をしたミロと、教皇だけが取り残された。
「…よろしいのですか、アイオリアはアイオロスの弟。それが生きていたと知れば、裏切るかもしれませんぞ」
「その心配は無用だ。奴もその件で苦い思いをしている。それに万が一寝返ったとしても好都合だ……」
「は?」
「まあいい。お前も直ぐに日本へと発つのだ。わかったな」
そう言って教皇もその場を離れていった。
その言葉に、ミロは内心で最近の教皇に不審な行動の噂があることを思い出していた。
なんでも、聖域の周辺で最近よく死体が見つかるというのだ。
そして、教皇に仕えているはずの従者が突然行方不明になっているとも聞く。
「俺の思い違いであればよいがな……」
やがて、ミロも教皇の間を後にした。
――日本
現在、アイオロスとアテナは、共に星矢達が入院している病院に居た。
一度撃退したとはいえ、星矢達の身体が治るまでは、再び追手が襲いかかってこないようにと見張りをしている。
星矢達は重傷を負っていたが、幸いにも命に別状はなく、数日で退院出来るようだ。
聖闘士も、肉体的には常人とさほどの違いは無いと言われている。
岩をも砕くような攻撃を全身に受ければ、やはり命は無いのだ。
それが数日の入院で済むあたり、彼らにはツキがあったと言うべきだろう。
最初病院に運び込まれた時は、それまでの緊張の糸が切れたのか意識を失ってしまったが、次の日には既に皆目を覚ましていた。
そしてある日の深夜、アテナとアイオロスは病院に近づいて来る小宇宙を感じとっていた。
近付いて来る小宇宙は二人分。
敵意ある小宇宙を隠さず向かって来ている。
アイオロスは、近くにいるのはその二人だけであることを確認して、様子を探るために病院を出た。
もし、ここにいる聖闘士やアテナを狙って病院内に攻め込んできたら、入院している他の一般人へも被害がでる可能性がある。
病院の前なら大きな広場があり、たとえ戦闘になっても気をつけていれば、一般人への被害は出さずに済む。
そして外へ出たところで、二人の男の姿が目に入った。
「お前はミロ……そして……アイオリアか?」
そこに立っていたのは黄金聖衣を纏った弟と、かつての仲間。
現れたアイオロスを前に、ミロとアイオリアは、しばらくの間動けずにいた。
予め聞いていたこととはいえ、やはり実際にその存在を目にした驚きがあるのだろう。
しかし、やがてアイオリアが静かに近づいて来た。
「本当に生きていたのか……兄さん」
「十三年前に処刑されたと聞かされいたが……まさか生きていたとはな」
アイオリアと並び立つミロは、油断無くアイオロスとの距離を詰める。
二人共最初から黄金聖衣を纏っており、その雰囲気は未だ静けさを保っていたが、臨戦態勢であることは明らかだった。
それを見たアイオロスも、油断無く近付いて行く。
だが次の瞬間、アイオロスはいきなり猛烈な勢いでその場から吹き飛ばされた。
「グハァッ!!」
先に一歩を踏み出したアイオリアが、先手を打って攻撃を仕掛けてきた。
その顔にはアイオロスへの激しい敵意が浮かんでいる。
「覚悟するがいい…………アイオロス。今こそ……弟としてお前を討つ!」
そして、さらに拳を繰り出そうとアイオロスの倒れた方向へと駆け出した。
その様子を後方から眺めているミロには、二人同時に襲うという考えは無いようだ。
未だに倒れ伏しているアイオロスに向かって、アイオリアが叫ぶ。
「立て! 止めを刺してやる!」
だが、アイオロスは立ち上がろうとはしなかった。
立ち上がらないのではなく、立てなかったのだ。
先程の攻撃は別にただの光速拳であり、普通の黄金聖闘士なら一撃受けた所では大して問題は無い。
しかしアイオリア達と違い、今のアイオロスは聖衣を纏っていない。
しかも不意討ちに近い攻撃だったせいで、まともにくらっている。
そのダメージは、決して軽いものではなかった。
「クッ……!」
だがいつまでも倒れてはいられない。
次の攻撃に備えながら、アイオロスはゆっくりと立ち上がる。
「アイオリア……私はお前達の敵ではない!」
「黙れ! 聞く耳持たん!」
完全に対話を拒絶し、尚も攻撃を仕掛けるアイオリア。
しかし、今度の攻撃はアイオロスを捉えることが出来なかった。
小宇宙を高めたアイオロスは、何とアイオリアの放った拳に合わせ、自らも拳を放つことで受け止めたのだ。
その威力が二人の中間地点でくすぶっている。
互いの小宇宙が拮抗し、このまま互角な状態で闘いが膠着するかと思われた。
だが、くすぶっている拳の威力が段々とアイオロスの方へと近づいていく。
「……元黄金聖闘士とはいえ、聖衣も纏わず俺と闘えると思ったか」
「うっ!?」
アイオリアの小宇宙はどんどん高まっていき、ついに押し切られたアイオロスは激しい小宇宙の衝撃で再び地面に叩きつけられた。
しかし、アイオロスはすぐに立ち上がる。
その身体からゆらりと立ち上る小宇宙が、倒れる前よりもさらに大きく膨れ上がっていた。
それに気が付いたのか、更に高まっていくアイオロスの小宇宙に僅かに顔を強張らせるアイオリア。
「クッ……」
「なるほど……お前はもう、聖衣も無しにあしらえる相手ではないのだな」
アイオロスは静かに言った。
だがその小宇宙は強く激しく増大する。
巨大な小宇宙は、歴戦の勇士であるアイオリアでさえしばし息を呑む程の凄まじさ。
「よくぞ成長したものだ……ならば私も、本気でお前と向き合おう!」
「なっ!?」
遂に、極限にまで膨れ上がった巨大な小宇宙が弾けるように爆発した!
その瞬間、富士の山麓から黄金の流星が光と化して飛び立った。
アイオロスの小宇宙に呼応したかのように、空から舞い降りる金色の光。
「あれは……!? ま……まさか!!」
薄れゆく光の中から姿を現したそれは――――
『射手座(サジタリアス)の黄金聖衣!!』
弓矢を構えた人馬を模した黄金の像。
十三年前に行方をくらまし、その所在が分かっていなかった最後の黄金聖衣。
サジタリアスの聖衣は、まるで聖衣それ自体に意思があるかのように、空中で分解しアイオロスの身体の各部に装着された。
射手座(サジタリアス)のアイオロス、十三年振りに黄金聖衣を装着!!
「いくぞ! アイオリア!」
「望むところだ!」
そして、二人同時に全力の光速拳を叩き込む。
黄金聖衣を纏った者同士の激突は、周囲に凄まじい衝撃波を巻き起こした。
強烈な嵐がその場に顕現したかのような、激しい小宇宙の奔流が二人の間に吹き荒れる。
アイオリアとアイオロス、二人の拳の威力は互いの中間で完全に拮抗していた。
くすぶる小宇宙は微動だにせず、さらに送り込まれていく二人の小宇宙によって更に激しくその大きさを増してゆく。
「どうだ……この中間でくすぶる小宇宙を再び押し切れるか!」
「黄金聖衣を纏ったことで、小宇宙がさらに増しているのか……このままでは千日戦争(サウザンドウォーズ)に陥ってしまう…!」
千日戦争――――それは実力が等しい黄金聖闘士同士の闘いの際に、互いが互いに対して決め手が無い状態となってしまい、その闘いが延々と終わらない現象のことを指す。
この現象が起きると、闘っている二人は互いに身動きが取れなくなってしまうのだ。
それに、千日戦争になるほどに拮抗した力を持つ者同士が闘えば、二人共消滅してしまう可能性さえある。
しかし、だからといって力を抜くことも出来ない。
そんなことをすれば、それまでに溜まりに溜まった二人分の小宇宙が一気に襲いかかってくる。
まさに、動くに動けない状況というわけだ。
だが、ここで二人はほぼ同時に動いた。
アイオロスにしてみれば、相手が二人もいる時に一方にはまるで無防備となってしまう千日戦争を選択する訳にはいかない。
互いに消滅する危険を冒してでも、早期に決着をつける必要があった。
アイオリアにしてみても、相手が全力で突っ込んでこようとしているのだ。
そのまま漫然としていては、相手の渾身の一撃を受け切れるはずがない。
期せずして、二人は同じタイミングでそれぞれの必殺技を放つ。
「いくぞ! アトミック・サンダーボルト!!!!」
「ライトニングボルト!!!!」
激しい光が拳に宿る!
二人の拳が、くすぶる小宇宙を光の速さで貫いた!
アイオロスとアイオリアは兄弟だが、かつての師弟でもある。
そんな二人であるから、聖闘士としての闘法は基本的に似通っていて、どちらも主に光速拳による闘いを得意としているのだ。
アイオリアのライトニングボルトも、元はといえばアイオロスの技アトミック・サンダーボルトから派生したようなものである。
その二つが真っ向からぶつかり合い、深夜の病院前広場で炸裂した。
深く抉れた地面には、まるで爆弾の爆心地とも思える巨大なクレーターが出現していた。
災害と言っていいレベルの被害を生み出した原因の二人は、今どちらも地面に倒れている。
黄金聖闘士の全力の攻撃によって発生する衝撃は、最上位の聖衣である黄金聖衣でさえも貫く。
聖闘士とはいえ、身体そのものの強さは常人とそれほどの差は無いのだ。
もし一般人がこんな衝撃を受けたら、身体が粉々になり一瞬で塵となって消滅するだろう。
「うっ……」
小さな呻き声と共に、まずアイオロスが立ち上がった。
その様子は見るからに大きなダメージを受けていて、わずかな衝撃でさえ今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
対して、アイオリアは地面に倒れたまま未だに起き上がってはこない。
しかしその時、もう一つの影が動いた。
倒れ伏したアイオリアを横目に、新たに立ちはだかったのは――――ミロ。
「悪いなアイオロス。このまま容赦無く倒させてもらうぞ。俺達は貴様と闘いに来たのではない。討つために来たのだからな!」
そう言って瀕死のアイオロスに拳を向ける。
次の瞬間、その場に新たな声が響き渡った。
「お止めなさい、ミロ」
そこにいたのは、今の闘いを見て病院から飛び出してきたアテナだった。
手にはいつもの杖を持ち、傷ついたアイオロスを庇ってその場に割って入る。
だが、ミロはその言葉を意に介さず、真っ直ぐにアイオロスの方へと向かっていく。
「お前が城戸沙織か……分かっているのか? 今回の件ではお前にも責任があるのだぞ。アイオロスを倒したら、その後でお前も教皇の元まで連れていく。分かったら邪魔をするな!」
そう言ってミロは、アテナに対して攻撃を繰り出した。
「リストリクション!!!」
ミロの赤く爪を伸ばした指先が、アテナに向けられた。
次の瞬間に放たれる指拳。
だがそれは真横から伸びてきた拳によって阻まれる。
「むっ!?」
止めたのは、アイオロス。
「この……愚か者が……! 聖闘士でありながら……アテナに拳を向けるとは何事だ!」
たった今まで立つことも困難だったはずのアイオロスが、突如放った光速の拳。
「なにっ!?」
瀕死の身体から放たれたとは思えない拳の威力に、ミロは吹き飛ばされそうになる。
だがたたらを踏んで後退しながらも耐えきり、アイオロスを睨み付けた。
「クッ……その女がアテナだと!? 戯けたことを……!」
ミロには、アイオロスが自分を愚弄しているようにしか思えなかった。
なぜならアテナは既に聖域に降臨している。
ミロはまだその姿を見たことは無いが、教皇の口からそのことははっきりと伝えられていた。
それを信じる者にとって、城戸沙織がアテナの名を騙ることだけでも、到底我慢ならないことであった。
だがしかし、そんなミロの心を覆すようなことが起きる。
「な……なんだ!?」
一般人のはずの城戸沙織から発せられる――――凄まじい小宇宙。
しかも、その小宇宙の量が尋常ではない。
並みの聖闘士どころか、黄金聖闘士でさえ太刀打ち出来ない程の、あまりにも巨大な小宇宙。
宇宙すら飲み込むような圧倒的なスケールの小宇宙に、ミロは信じがたい思いで口を開いた。
「信じられん……この小宇宙はまさしく神の…?」
「信じて……頂けましたか?」
そう言って微笑するアテナに、ミロは一瞬呆けたような顔をしたが、すぐに射抜くような鋭い視線で向き直った。
「ならば……それを証明して貰おう! もしお前が真のアテナなら、この俺の拳を止めることさえ容易なはず!」
そう言ってミロは再びアテナに拳を向ける。
アイオロスはそれを止めようとしたが、アテナがそれを遮った。
「分かりました。それであなたが納得するのであれば、私はその拳を受けましょう」
「正気か? 聖闘士でもない者が俺の拳を受ければ、命は無いぞ」
てっきり諦めると思っていたミロは、予想外の返事に面食らった。
だが、目の前でそう答える少女は、ミロの攻撃で命を落とすことは無いと確信したかのような微笑を浮かべている。
その様子を見て、ミロはついに殺す気で拳を放つ覚悟を決めた。
「よかろう……ならばいくぞ!」
膨大な小宇宙が込められた指先から、アテナ目掛けて真紅の光線と化した指拳が放たれる。
「くらえ! スカーレット・ニードル!!!!」
そして――――
「……何のつもりだアイオリア」
アテナに向けて腕を伸ばした体勢のまま、ミロの腕はアイオリアの手によって止められていた。
力を込めて離そうとしても、腕を掴む手は振りほどけない。
「もうよせミロ。黄金聖闘士たるものが、少女一人に大人気無い。たとえ城戸沙織がアテナを騙っているのだとしても、それはやり過ぎというものだ」
「何だと!」
「俺は目が覚めた。闘ってみてはっきりと分かったのだ。十三年前も……そして今でもアイオロスの小宇宙に曇りは感じられない。真にアテナに背く逆賊ならば、いくら兄といえども小宇宙の穢れに気付かぬはずはない。そして城戸沙織がアテナであるというのも、真実だという気がする」
アイオリアの顔からは憑き物が落ちたように、ついさっきまでの激しい敵意は微塵も感じられない。
それどころか、逆に晴れ晴れとしているようにも見えた。
「城戸沙織がアテナだと……お前は教皇を疑うのか?」
「そうかもしれん。俺は今、アテナが既に聖域にいると言った教皇の言葉が信用できん」
「アイオリア……分かってくれたか」
「兄さん……」
アイオロスとて、自分が去った後の弟のことはずっと気になっていた。
しかし、今のアイオリアを見れば、聖闘士として立派に成長したことが良く分かる。
恐らくは、ずっと逆賊の弟として苦しんできたのだろう。
それでも、その心が歪むことも無く育ってくれた。
そのことだけでも、アイオロスの胸に熱くこみ上げてくるものがある。
ようやく、二人の間に肉親としての絆が甦ったのだ。
「……チッ」
その様子を見ていたミロは、やや顔をしかめてはいたが、遂に戦闘態勢を解いた。
これ以上は闘う気が失せたのだろう。
そこにアテナが声をかけた。
「ミロ、そしてアイオリア……私達はこれから聖域の教皇に会いに行くつもりです。あなた達はこれからどうしますか?」
この言葉に二人は顔を見合わせた。
アイオリアにはもう、アイオロスと敵対する気は無い。
ミロとしても、教皇に対する不信感が少しだけ高まっていた。
いずれにせよ、既に二人共この場でアイオロスやアテナに拳を向ける気は無いようであった。
「俺は一度聖域に戻る。そして、教皇に真意を問いただしてきます」
「俺もだ。俺はまだあんたをアテナと認めた訳じゃない。だが……ここは大人しく引き下がるとしよう」
結局、ミロとアイオリアが出した結論は同じものだった。
一度聖域に戻り、アテナ達が到着するのを待つと。
「そうか……だが無理はするな。そして、教皇には用心するんだ。あいつの正体は……いや、このことは聖域に着いてから話そう」
そして日が昇り始める頃に、二人の黄金聖闘士は去っていった。
その後ろ姿を見ながら、アテナは呟く。
「いよいよですね、アイオロス。十三年前のあの日に決着をつけに参りましょう」
その言葉にアイオロスはそっと頷いた。
数日後、アテナを乗せた飛行機が遠くギリシャの地に向かって飛び立っていた。