地鳴りが響いていた。
光の薄い海底世界が揺れ動いている。
その根源とも言えるものは唯一つ。
天の彼方から流れ落ちる大瀑布、或いはこの地球を覆い尽くす海原を思い起こさせるような、正しく神にのみ許された圧倒的なその小宇宙。
大地を、空気を震わす途轍もない小宇宙の波動が、今まさに海皇ポセイドンという存在から放たれていた。
神たるその存在の前に立つのは、眩い黄金の鎧と小宇宙を身に纏う六人の戦士。
人の理を越えた邪悪から地上の平和を守るため、戦神アテナの名の下に闘う最強の聖闘士達。
だがしかし、その最強を謳われる黄金聖闘士でさえも、海底神殿の玉座にて立ちはだかる神の姿に畏怖を覚えずにはいられなかった。
それは人ならば、いやこの世に存在する生物なら誰もが抱く自然な感情であろう。
世界を創造し、そこに住まう万物を生み出したのは神。
大神ゼウスを筆頭とした神々の最高位、オリンポスの霊峰にて十二神が一柱に列せられるのが海の支配者にして海皇の名を持つポセイドン。
依代の肉体を借りているとはいえ、その身から発せられる小宇宙は人間の生み出すそれとは比べ物にならない強大さを秘めている。
鉾を振るえば海を裂き、その進む道が大河となる。
それが――――海皇ポセイドン。
ポセイドンの前に立つ黄金聖闘士は六人。
即ちアイオリア、ミロ、シュラ、カミュ、シャカ、そしてアフロディーテ。
全身に黄金に輝く小宇宙を漲らせ、神ポセイドンに立ち向かう。
海底世界を支えていた七つの柱は既に無く、残る最後の一本はもう目前にある。
目指すはポセイドンの背後に聳え立つ大柱・メインブレドウィナ。
神を乗り越えその先へ。
幽閉された、女神アテナを救うために。
『いくぞ!!』
六人の叫びが一つになった。
高まる小宇宙が気流となって神との狭間で鬩ぎ合う。
立ち上る黄金のオーラを、しかしポセイドンはその身一つで押し返す。
「フッ……愚かな……」
空間を押し固めたような重苦しい圧力が、神殿の床を割りながらゆっくりと拡大していく。
身体が石になったかのような、手足に重りを括り付けられたような。
それほどの強烈なプレッシャーが黄金聖闘士達にのし掛かっている。
だが動かなければ、進まなければ。
彼らの足元の石畳が乾いた音を立てて弾けた。
次の瞬間、神殿の中で何かが爆ぜる。
駆け抜ける黄金の閃光。
ポセイドンの周囲に細く張り巡らされた無数の光の軌跡が走る。
秒間一億、その拳ひとつで原子を砕く光速拳が神殿の壁や床を粉砕しながら突き進む。
だが届かない。
糸を引き千切るように容易く、輝線を瞬時に掻き消す烈風の小宇宙。
天より墜ちる白い雷撃。
地を裂き進む聖剣一刀。
雷鳴轟く小宇宙が迫り、万物を断ち切る一閃が襲う。
それらは――――それらは、ポセイドンの身に触れる間もなく霧散した。
あらゆる物体を噛み砕く漆黒の刃。
真紅の筋を引いて迫る光弾。
空気をすら凝固せしめる最強の凍気。
巨大な洪水が立ちはだかるもの全てをを押し流すように。
全てが圧倒的な力の前に消し飛んだ。
勢いのままに襲い掛かる猛烈な衝撃。
その凄まじさは彼らに立つことをすら許さない。
一人、また一人と黄金の鎧が宙を舞い地を穿つ。
そこに立っているのはただポセイドンのみ。
ほんの僅かな時間の出来事だった。
六人の黄金聖闘士全員が大地に叩き付けられたのは。
「所詮は人間。身の程を弁えずに何度向かってこようともお前達の拳が私に届くことは無い」
静かではあるが、海皇の言葉には大海を抑えつける確かな威が湛えられていた。
ポセイドンの握る三叉の大鉾が天に向けられる。
恐ろしいまでの巨大な小宇宙がその先端に集約されていくのを、倒れた黄金聖闘士達は黙って見ていることしかできなかった。
轟く稲妻をその手に集約させたような、溢れんばかりのエネルギーがその鉾先から発せられている。
その余波ですら、強大な圧力を伴い海底全土を振るわせる程に。
海皇の腕が振り降ろされる。
その瞬間がはっきり見える。
だが時間が停止したように黄金聖闘士達は動かない、いや動けない。
正しく頭上の海がそのまま落ちてきたかのような。
次元を越えた圧倒的な力の奔流が彼らの傍に炸裂した。
世界が閃光と衝撃に埋め尽くされ、視界の全てが目も眩む程の白一色に染まる。
音は消え去り、押し退けられた空気が爆風となって打ちつける。
全てが消え去った後、その場に残ったのは倒れ伏す六人の姿だった。
瓦礫の中に動く人影が六つ。
震える手足が地面を掴んでいた。
「グッ……こ……これが海皇ポセイドン……! 俺達とは……まるで次元が違う……!」
「信じられん……正しく人智を超越している…………」
血を吐くような声と共に微かに顔を上げる六人。
残された体力を振り絞り、何とか身体を動かそうと己の手足に力を込める。
激しい痛みが意識を覚醒させつつあった。
這いつくばりながらではあるが、徐々に身体を起こしていく。
未だ彼らの目の光は失われてはいない、だが。
「奴の前では……八十八の聖衣の最高位、最強と謳われるこの黄金聖衣ですら歯が立たないというのか……?」
軽く見やっただけでも既に黄金聖衣の半分近くにまで亀裂が及んでいる。
腕や肩のパーツが吹き飛んでいる者も少なくない。
聖衣と、小宇宙と、肉体を盾にして尚、辛うじて命を取り留めるのがやっと。
だがそれさえも幸運であると言える程に、海皇の力は想像を超えた凄まじいものだった。
神殿の大広間は最早原型を留めていない。
無残に抉られた地面と今にも崩れ落ちそうな柱や壁面が悲鳴を上げている。
「ほう……今の一撃を受けてまだ立つ力があるとはな。だがそれも無意味なことだ」
ゆっくりとポセイドンが動き始めた。
血反吐の中から立ち上がろうとする聖闘士の姿を見ても、その小宇宙や表情には何の揺らぎも無い。
彼らのことなど眼中にもないというように、ポセイドンは己の背後に聳えるメイン・ブレドウィナに向かう。
「見よ。メイン・ブレドウィナはじきに満ちる。アテナの命はもはや風前の灯。あのメイン・ブレドウィナの中で、アテナはこの海底世界の永遠の礎となるのだ。もはやお前達にアテナを救う手立ては無い」
アテナの幽閉されているメイン・ブレドウィナには尽きる間もなく世界中の水が流れ込んでいる。
その水が内部に満ちるのもそう遠いことではない。
アテナの命が尽きればもはやポセイドンの侵攻を止めるものは地上に存在しない。
この世の全てが、海の底に没することになるだろう。
「ま……まだだ……」
「む……?」
地面を削る音がする。
ポセイドンが振り返った先で目にしたのは、再び自らの足で大地を踏みしめ立ち上がった聖闘士達の姿。
どれだけ力の違いを見せつけられようとも、そこに誰一人として怯む者などいない。
何度傷付き倒れても、同じ数だけ立ち上がる。
心の炎が燃えている限り、諦めるという言葉は無い。
それが――――アテナの聖闘士!
「どこまでも無駄な行為を繰り返すか。いや、もういい……死ね!」
ポセイドンの鉾を持つ手に力が満ちる。
大鉾の先から溢れ出す巨大な小宇宙の塊が激流と化して襲い掛かった。
海を裂き、山をも砕く一撃。
しかし、その一撃は聖闘士達の命を奪うことなく弾け飛ぶ。
「むっ!?」
黄金聖闘士の周囲に立ち上る煌めくような黄金の光。
一体どこに、これだけの力が残されていたというのか。
血と汗に塗れた満身創痍でありながら、これ程の小宇宙が一体どこから――――
「まだアテナの命は消えてはいない! この身を懸けてでも、絶対に救って見せる!!」
「今この瞬間にも、闘いの中でアテナの帰りを待つ者達がいるのだ……!」
「我らの目的はあくまでメイン・ブレドウィナよ。一瞬……ほんの一瞬だけでいい。ポセイドンの動きを止めさえすれば……!」
見据えるのは立ちはだかるポセイドンのその先、海底の巨塔。
未だかすり傷一つ無いポセイドンに対して、既に彼らは満身創痍。
止めるどころか一撃を加えることすら奇跡に等しい。
「確かに奴自身は無傷。だが付け入る隙はある」
「ああ。我ら黄金六人の力を全て集結すれば……必ずや!」
拳を引き力を溜めるアイオリア。
真紅の光を指先に灯すミロ。
小宇宙の全てを以て己を研ぎ澄ますシュラ。
閉ざされた視覚と小宇宙を解放するシャカ。
白く輝く凍気を全身に立ち上らせるカミュ。
香気を纏い一輪の花弁を海皇に向けるアフロディーテ。
漲る小宇宙を一身に、鉾を手に執り仁王立ちするポセイドン。
「それがお前達の最後の抵抗となる。黄金聖衣諸共に……塵も残さず砕けて散れい!!」
『いくぞ!』
『燃え上がれ! 俺達の小宇宙!!』
黄金の聖衣を纏った六人が、光の矢となり突き進む。
咆哮と共に爆発する小宇宙。
それぞれの拳が、ただ一点に向かって炸裂する。
ポセイドンの瞳が光った。
迫り来る威力を受け止めるべく三叉の鉾が動く。
あらゆる角度から猛進する光の拳。
それが、ポセイドンの直前で結集した。
六つの小宇宙が連なりあい、高めあい、折り重なって遥かにその輝きを増す。
正面に押し寄せる激流に向かって、ポセイドンは手にした大鉾を投擲するかのように真っ向から大きく振りかぶった。
巨大な二つの荒ぶる力が激突する。
神の力が込められし一撃が、光の小宇宙を撃ち抜こうと放たれた。
ぶつかり合った瞬間に海底を駆け巡る衝撃と轟音。
その時、ポセイドンは見た。
力の中心から迸る閃光の背後に浮かび上がる星々の軌跡。
黄道十二宮に数えられる六つの星座が今、一筋の流星となって駆ける。
「むうっ!?」
驚愕に染まったのは海皇。
その瞬間、聖闘士達に向けた鉾に加わる圧力が一気に膨れ上がった。
全力で振り抜いた鉾がその手の中で激しく震えている。
だが遂に抑えきれずに限界を超えた。
「な……なにぃ!?」
甲高い金属音と共にポセイドンの手から三叉の鉾が弾け飛ぶ。
回転しながら宙を舞い、地面に突き刺さる大鉾。
呆然とそれを見つめるポセイドン。
『今だあーーーー!!』
叫んだのは果たして誰だったか。
無防備となったポセイドンに向かって殺到する黄金の光。
心の奥底から果てしなく湧き上がる黄金の小宇宙が、神をも貫く嚆矢となる。
『ライトニング・ボルト!!!!
エクスカリバー!!!!』
光速の衝撃が走る。
全身のエネルギーを一弾と化し、全霊を以て拳に乗せて叩き込むその一撃は正に渾身。
押し止める間もなく鱗衣を貫く拳の威力に、ポセイドンの身体が浮き上がった。
同時に正中線を両断する軌跡で振り降ろされる聖剣が一刀の下に斬り伏せる。
剣閃が肉体を突き抜け真下の地面を切り裂いた。
マスクが宙を舞い、中心から真っ二つに割れ地に落ちる。
『フリージングコフィン!!!!』
纏わりついた霜塵が一瞬にして敵を封じ込める巨大な氷棺へと変貌する。
煮え滾る溶岩すら氷結させ得るであろう極大の凍気。
しかしそれでも神の肉体を拘束するには至らない。
即座に亀裂が入り内側から爆発するように破砕された氷塊の中から姿を現すポセイドン。
だが展開された大曼陀羅の戦陣がその頭上を抑え、強烈な重圧と共に地面に叩きつける。
『天舞宝輪……全五感剥奪!!!!』
光が消える。
音が消える。
匂いが消える。
味が消える。
全身の感覚が消える。
受けた者は立つことも、動くことも出来ず、ただ生命あるだけの廃人となるバルゴのシャカ最大の奥義が海皇ポセイドンの五感を消し去った。
そして最後の一手。
ポセイドンの鱗衣に刻まれた唯一の傷。
天蠍の星座を象る十四の傷跡を完成させる真紅の心臓目がけて一指を伸ばす――――その時。
「おのれ……! この海皇ポセイドンに……人間如きが傷を付けるなど許さぬ!!」
『なにっ!?』
突如としてポセイドンの目に光が戻った。
シャカの放った天舞宝輪の陣を打ち砕き、目前に迫っていたミロの右手を掴み取る。
砕け散る黄金聖衣。
ポセイドンの形相が一変する。
「死ねい!」
『そこだ! ブラッディ・ローズ!!!!』
カァッ!!
空隙を縫って白い筋が大気を引き裂き突き刺さる。
中心。
正にスカーレット・ニードル最大の致命点である心臓の位置を穿つ純白の薔薇一輪。
ミロの腕がポセイドンの手を振り払い、薔薇の根本を突き抜ける。
『スカーレット・ニードル・アンタレス!!!!』
真紅の輝線が白い薔薇ごと蠍の心臓を貫いた。
星座の形が十五の傷を駆け巡り、亀裂となって刻まれる。
砕ける、海皇の鱗衣。
驚愕の表情もそのままに、ゆっくりと背後に崩れ落ちるポセイドン。
その周囲には鱗衣の破片が舞っている。
倒れたポセイドンはまるで精気を失ったようにピクリとも動かない。
あの凄まじいまでの小宇宙が抜け殻となったかのように消えていた。
神殿を抜けるのは今。
六人はポセイドンには脇目も振らず駆け出していた。
玉座の脇を一気に走り抜ける黄金聖闘士達。
その行く手に立ちはだかるものは無い。
最後に残された役目はメイン・ブレドウィナを破壊することだけだ。
アテナを、地上を救うために。
「この中に……アテナが……!」
「ぐずぐずしている暇は無い! やるぞ!」
ポセイドンがアテナの身柄を封じたメイン・ブレドウィナの誇る圧倒的な威容の前にしばし息を呑む聖闘士達。
これまで砕いてきた支柱とは大きさも強度も桁が違う。
天を衝くように真っ直ぐに伸びた柱の頂は遥か彼方で大海を支えていて目にすることもできない。
これを今から砕くのだ。
原子をも破壊する聖闘士の拳で。
囚われたアテナが水中に没するその前に。
『砕けろ! メイン・ブレドウィナ!!』
並び立つ六つの小宇宙が、今一度巨塔の前に結集する。
だが次の瞬間、背後から襲い掛かった落雷の如き衝撃が小宇宙を掻き消し彼らを吹き飛ばした。
「そこまでだ」
後ろを振り向き確認する間でも無い。
たった今対峙していた時よりも遥かに上をいく超絶の小宇宙。
皹の入った鱗衣に身を包みながらも、その王者の風格は微塵も失われてはいない。
「まさか……!? もう目覚めたというのか……!」
「なんという小宇宙よ……先程の数百倍にも膨れ上がっている……!」
雰囲気さえも豹変していた。
これが本来あるべき神の姿なのか。
「今ようやく、完璧にこの目が醒めた。我が心、我が小宇宙、そして成すべきことも。聖闘士よ、人の身でありながら私の前に立っていることを光栄に思うのだな。我こそ…………海皇ポセイドン!!」
振り抜かれた三叉の鉾が、黄金聖闘士達の目前にまで迫っていた。