もし青銅が黄金だったら   作:377

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第二十七話 聖域防衛線

 丁寧に磨き上げられた鏡のように光さえも反射するたった一枚の薄壁が、その場を仕切り見事に二つの空間へと隔てていた。

 即ち、漆黒の輝きを放つ冥衣を装着した冥闘士と黄金の聖衣を纏った聖闘士の二つに。

 一方には十人以上もの冥闘士の軍勢がズラリと並び、壁の向こうに遥かに続く十二宮を突破し聖域を壊滅させんと戦意を漲らせている。

 そしてその壁を挟んで冥闘士と対峙しているのは、第一の宮を守護する黄金聖闘士アリエスのムウ唯一人。

 今まさにこの場所で、冥闘士の歩みを止めて侵攻を防いでいる障壁は彼の小宇宙により生み出されたものである。

 クリスタルウォールと呼ばれるその障壁は、それ自体が強固な壁であると同時に如何なる攻撃をも完璧に反射し跳ね返すと言われている。

 冥闘士達とムウとの間は、ほんの少し足を進めて手を伸ばせば届きそうな程の近しい距離でありながら、ムウの張ったクリスタルウォールに阻まれ、彼らはその一歩を踏み出せずにいた。

 手を出す者もいるにはいたが、その拳が壁を破壊し十二宮への道を開くことは無かった。

 

 「ぬう……! あのような薄壁一枚で我らに足止めをかけるとは……恐るべき男よアリエスのムウ」

 

 サイクロプスのギガントは明らかに焦りと苛立ちとを含んだ様子で、壁の向こうに涼しい顔をして佇んでいるムウに目をやった。

 気がつけば既に味方の攻撃が止まっている。

 何度拳を叩きつけても結局クリスタルウォールにはひびの一つも入ることが無いので、遂にギガントの元まで戻ってきてしまったのだ。

 ギガントはそれを見て舌打ちしたくなった。

 実は先のギガントの号令に従ってムウに攻撃を仕掛けたのは冥闘士全員ではない。

 便宜上ギガントが指揮官のように振る舞ってはいるが、厳密には聖域に攻め込んで来ている冥闘士達に上下関係は無く、冥闘士の質もまちまちでギガントの命令を忠実に実行するのは主にギガントよりも実力が下の連中である。

 ギガントに匹敵もしくは上回る力を持つ冥闘士達は最初から命令を聞く気が無いのか、後方に控えてギガント達がクリスタルウォールに手こずるのを見ているだけで自分からは動こうとしない。

 しかし従う気が無いとはいえ、別段知らぬ仲でも無い訳で、同じく冥王ハーデスに仕える冥闘士として全く自分に協力しないという事もないだろうと考えたギガントは、一歩退き彼らに声をかけようとした。

 その時、それまで目の前の敵に対して手を出そうとしなかったムウが突如口を開いた。

 

 「いい加減に理解したか。このムウのクリスタルウォールはお前達のような冥闘士には到底破壊不可能だということが」

 

 「な……なにい!?」

 

 「お前達がこのまま大人しく聖域から退くのなら、私は命まで奪うつもりは無い。早々に聖域から立ち去ることだ」

 

 殊更に挑発する風でもなく、淡々と言い聞かせるようなムウの言い草に、ギガント達冥闘士の自尊心は大いに傷付けられた。

 

 「クッ……おのれ調子に乗りおって! そんな壁の一つや二つ木っ端微塵に打ち砕いてくれるわ!」

 

 「まだ続ける気か……ならばこちらも容赦はしない」

 

 「我ら冥闘士を舐めるな!」

 

 そんなムウの態度に、ギガントら冥闘士達は怒り狂ってクリスタルウォールを目掛けて突進してきた。

 

 そしてムウは冥闘士達の攻撃を見極め迎え撃つべく小宇宙を高める。

 だが冥闘士の先頭が再びムウの目前にまで迫った瞬間、後方からの何者かの声がその突撃を止めた。

 

 「待ちな! そいつの相手は俺がする!」

 

 「むっ!? お前は!」

 

 数人の冥闘士達と共にムウに飛びかかろうとしていたギガントが、その場で立ち止まって振り返った。

 その視線の先にいた者。

 このタイミングで名乗りを挙げた冥闘士、それは――――

 

 「お前は……地伏星ワームのライミ!!」

 

 姿を現したのは小柄な男だった。

 暗い顔つきで薄ら笑いを浮かべたまま、ライミはギガント達を抑えてムウの前に進み出る。

 その冥衣の背中からは、筒状に伸びた触手のような金属質のパーツが伸びていて、その先端には目玉のように光るレンズと小さな鉤爪が見える。

 

 「ヒャヒャヒャ、どうやらあいつはお前らの手には負えないようだな! あいつの始末は俺がやる。お前らはそこで黙って見てな!」

 

 そう言うや否や、ライミはその背の触手で地面を抉り作り出した穴の中に吸い込まれるようにして消えていった。

 

 「むっ……地中へ!?」

 

 「フフフそうか。ライミの奴め考えたな。確かに地中ならばクリスタルウォールの影響は無い! 今こそ全員でかかれ!」

 

 「来るか……!」

 

 一斉に突っ込んでくる冥闘士に対してムウが身構えた。

 だが次の瞬間、ムウの足元の石畳を突き破ってライミの触手が現れた。

 

 「なにっ!?」

 

 咄嗟に躱す間もなく、高速で動き回る触手がムウの五体に絡み付く。

 それに気をとられた隙に前面に展開していたクリスタルウォールがガラスのように砕け散った。

 

 クリスタルウォールとは小宇宙の障壁。

 常に小宇宙を込め続けなければその強度を維持することは出来ない。

 ライミの締め付けと一瞬の気の緩みによりクリスタルウォールは冥闘士にも破壊可能なまでに脆くなっていた。

 

 「よし! 白羊宮を抜けるぞ!」

 

 「クッ……待て!」

 

 敵勢を白羊宮の前に釘付けにしていたクリスタルウォールが消え去ったことにより、ギガントを先頭にした冥闘士達は一気に宮へと雪崩れ込んだ。

 彼らは動きを封じられたムウには目もくれず、白羊宮を駆け抜けていく。

 ムウはと言えば、身体を強烈に締め付ける触手のせいで一歩も動けない。

 

 「いかん! この触手を何とかしなければ!」

 

 このままでは白羊宮をそれこそ素通りされてしまう。

 ムウは、身体を拘束する触手を破壊しようと全身に力を込めた。

 だが五体を縛る触手の力を跳ね返すどころか、更に強さを増した拘束によって全身に痛みが走る。

 

 「ヒャヒャヒャ、無駄だアリエス! このライミの手にかかれば黄金聖闘士など赤子も同然というものよ!」

 

 地の底から耳障りな声が届く。

 ライミは未だ地中に潜んだまま、触手のみでの攻撃を続けている。

 しかし触手だけとはいえ、ムウの纏う聖衣がギシギシと音を立てる程にその力は尋常ではなく、並の聖闘士や雑兵なら締め殺すのも訳は無いだろう。

 完全に身動きのとれないムウの姿に気を良くしたのか、ライミは調子に乗って地中から新たに数本の触手を出現させる。

 

 「ククク……もはや動けまい。その状態でこいつをくらえばどうなるかな?」

 

 そう言ったかと思うと、一瞬の内に一本の触手が凄まじい勢いで伸びる。

 ムウの顔面を掠めるようにして一気に突き進んだ触手は、白羊宮の柱の一つに命中し石造りのそれを軽々と貫いた。

 

 「うっ!?」

 

 その予想以上の威力にムウは思わず息を呑む。

 聖衣の上からならばまだしも、聖衣に守られていない部分に受ければ致命傷となりかねない。

 そして恐らくは今の触手の一撃と同等の力を込めた攻撃を数本同時に繰り出すことも可能。

 

 「ヒャハハ見たかぁ! お前にもあの柱のように風穴開けてやるわ!」

 

 果たしてそれが合図だったのだろうか。

 ライミの操る触手は一気にムウを目掛けて襲いかかった。

 

 そして次の瞬間、触手はムウの動きを封じている拘束を貫き――――何も無い空中を通り抜けた。

 

 「はあっ!?」

 

 指一本動かすことさえ出来ない位の力で強力に締め付けていた。

 現にムウはライミの操る触手を破壊してそこから抜け出すことも出来なかった。

 ならば何故、どうやって今の一撃を躱したというのか。

 

 しかしそんな疑問がライミの頭をよぎったのもほんの僅かな時間でしかなかった。

 彼が驚きを口にしたのは、捕らえていたムウの姿が消えたこと以上の理由があったのだから。

 

 「ば……バカな……触手が止まって……いやそれどころか……か……身体が全く動かんだとぉ!?」

 

 空中で彫像の如くピタリと静止した触手から、もがくようなライミの声が聞こえてきた。

 その声に応えるかの如く、固まっている触手からやや離れた場所にムウが姿を現す。

 

 「お前の動きは既に封じた……もはや自分の意志で動くことはできん。地の底から引きずり出してくれる!」

 

 「な……なにい!? うわあぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 触手が突き出ていた石畳が突如爆発したかのような轟音を上げて吹き飛んだ。

 そして地面に大穴が開くと、そこから叫び声と共にライミが一気に飛び出した。

 強引に地中から引っ張り出されたせいで冥衣のあちこちが欠けている。

 だがムウはそれだけでは終わらず、更にライミを拘束したまま空中に吊り上げる。

 

 「さて……お前との闘いに長々と付き合っている時間は無い」

 

 「な……なにをぉ!?」

 

 「このまま勝負を着けてやろう」

 

 そう言ってムウが念じると、宙に浮かんだライミの身体が動き始めた。

 そして物凄い勢いで下向きに加速する。

 

 「うぎゃっ!」

 

 鈍い音と共に激突した地面がその衝撃で大きくへこむ。

 そして大地に突き刺さって呻くライミが再び宙に持ち上げられたかと思うと、今度は真横に向かって急加速していく。

 

 「次は壁だな」

 

 無情に告げるムウの言葉で、ライミの次の目的地が白羊宮の壁に決まった。

 ムウのサイコキネシスによって全身の動きを奪われたライミは、その言葉通り白羊宮の分厚い壁に一直線に加速する。

 

 しかし、ライミが壁に叩きつけられる直前。

 ライミの身体は激突するはずの壁の一歩手前で空中に静止していた。

 

 「ほう……私のサイコキネシスを遮るとは……!」

 

 壁に激突させられようとしていたライミを止めた力は、ムウのそれと同じくサイコキネシスによるもの。

 そしてそれを行った者の正体に、ムウは既に心当たりがあったのだろう、即座に居場所を特定して小宇宙の出所に目を向ける。

 

 「出てこい。そこに潜んでいるのは分かっている……先程私の動きをサイコキネシスで封じたのはお前だな」

 

 ズルズルと重い物が這って進むような音。

 果たしてそれは現れた。

 だがそれは一体何と呼べば良いのだろうか。

 現れたモノは、どう見ても人の形をしてはいなかった。

 それは液体と固体の中間の、まるで意志を持った黒い泥の塊のような身体の表面に、丸く光る瞳の無い目玉のような宝玉を幾つも埋め込んだグロテスクな姿をした何かだった。

 

 「お……お前は!」

 

 そこでようやくムウのサイコキネシスから解放されたライミが、驚いたような声で叫んだ。

 

 「……パピヨンのミュー!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「こ……これは一体……まさかこれも冥闘士だというのか?」

 

 ムウは、突如目の前に出現した謎の物体の正体が冥闘士であるのかどうかを図りきれずに困惑していた。

 ライミの言ったミューとはこれのことなのだろうか。

 見た目からはとても冥闘士とは、いや生き物とすら思えないその異様な姿に、様々な考えが脳裏に渦巻き混乱する。

 だが同時に、ムウはその物体から発せられる強い小宇宙を確かに感じていた。

 故に、警戒しつつも一歩退いて様子を見る。

 

 しかし意外にも、その答えはすぐに判明することとなった。

 ミューが自ら名乗ったのだ。

 

 「そう……パピヨンのミューとは私のこと。そしてあなたの言った通り冥闘士です」

 

 どこから出しているのかは分からないが、自ら積極的に名乗りを上げるミューの声は、やはりそのドロドロの物体から聞こえてくる。

 目の前の存在が冥闘士であることは間違いない。

 

 「むう……このような冥闘士が存在するとは……」

 

 あまりにも奇怪なその姿に、ムウはしばし絶句する。

 

 だが次の瞬間後ろに向かって跳躍すると、足元に見覚えのある触手が突き刺さった。

 

 近付いてきたのは、石の壁に激突する寸前でムウのサイコキネシスによる縛りから抜け出たライミ。

 地面に叩きつけられたダメージによるのか、肩で息をしながらもその目は爛々とした不敵な光を放っている。

 

 「はぁ……はぁ……へへへ……これで二対一だ。今度こそ逃げられんぞぉ!」

 

 そう言ってライミは冥衣から伸びる無数の触手を展開する。

 対してムウは、努めて冷静な表情を崩さないようにしていた。

 真っ正面からライミとミュー、二人の冥闘士と対峙して尚その小宇宙は微塵も揺るぎはしない。

 

 「くらえ! ワームズバインドォ!!!」

 

 冥衣と同じ硬質の外殻に覆われた無数の触手。

 その一つ一つが超スピードで迫り来る。

 

 そして更に畳み掛けるようにしてミューも動いた。

 体表に浮かぶ球体が妖しく輝き、怪光線が放たれる。

 

 「アグリィイラプション!!!」

 

 岩をも砕く触手の連撃と、正体不明の光線がほぼ同時にムウを襲う。

 だが技を放ってしまった後で二人は見た。

 ただじっと佇んでいるだけのように見えたムウの背後に沸き上がる凄まじいまでの小宇宙を。

 

 「うっ!?」

 

 「ひいぃっ!?」

 

 小宇宙が導く星座の軌跡。

 それはまさしく天空を翔る黄金の牡羊(アリエス)。

 

 「受けよ……大いなる星屑の拳を……スターダストレボリューション!!!!」

 

 ムウの頭上より弧を描いて飛来する流星群。

 幾多の光弾と化した星の欠片が、敵の攻め手を撃ち砕く!

 

 目前に迫っていたライミの触手は砕け散り、ミューの放った光線さえも切り裂いてムウの拳は突き刺さる。

 冥闘士が身に纏っている冥衣の硬度は相当なものではあるが、それでもスターダストレボリューションの威力には耐え切れない。

 冥衣の残骸のような破片を撒き散らしながら、二人の冥闘士達は地面に倒れ込んだ。

 

 だがその直後、倒れたはずのミューの身体を突き破って何かが飛び出した。

 

 「なにっ!?」

 

 見るとそれは巨大な芋虫にも似た姿。

 そしていきなりその口から吐き出された白い糸状のものがムウに絡み付いた。

 

 「こ……これは……!?」

 

 咄嗟に手で振り払おうとするも、それは柔軟にまとわりついて離れない。

 それどころか全身を覆い尽くすように更に広がっていく。

 

 「この糸から逃れることは出来ません。そしてやがては呼吸さえも塞ぐのです」

 

 「な……なにい!?」

 

 「フフフ……これで終わりです。シルキースレード!!!」

 

 ミューの口から放出される粘着質の糸の量が一気に跳ね上がりムウを包み込んだ。

 視界を白く染める程の圧倒的な量を前に徐々に身体の動きが鈍くなり、そして意識が薄れていく。

 

 まずい。

 

 ムウがそう思った時にはもう既に手遅れだった。

 白羊宮の床に、ミューの吐いた糸による大きな白い繭が倒れる音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アリエスのムウが守る白羊宮を越え更に十二宮の奥へと進んだ冥闘士達は、第二の宮・金牛宮の前に到達していた。

 白羊宮と同じく、神話の時代より続く石造りの荘厳な宮がそこに聳え立っている。

 しかし、その肝心の金牛宮からは何の気配も感じられない。

 もちろん宮の内部は暗くなっていて、入り口からはそこまで見通せる訳ではない。

 だが、それにしても物音一つ無いその様子は、冥闘士に何事かと思わせるには十分なものだった。

 

 しかしその時、十二宮が手薄、という先程のムウの言葉が彼らの脳裏をよぎる。

 当然の帰結として、この金牛宮は今、無人になっているのではないかという考えに辿り着く。

 それならば、と冥闘士達は先の白羊宮での遅れを取り戻すため、我先にと金牛宮に向けて一斉に駆け出した。

 行く手を阻む聖闘士のいない宮など何の障害にもならない。

 冥闘士達は勢いよく突っ込んでいった。

 

 そう――――真っ先に金牛宮に突入した冥闘士数名が、聖域全体に響く程の轟音と共に発生した黄金の衝撃波によって、冥衣を粉々に砕かれ吹っ飛ばされるのを目にするまでは。

 

 「なんだ!?」

 

 その時、金牛宮に黄金の光を纏った人影が現れた。

 それは小宇宙と聖衣が織り成す闘志の証。

 冥闘士達の目には果たしてどう映ったのか。

 

 「あ……あれは……牡牛座(タウラス)の黄金聖闘士!?」

 

 巨大な壁を思わせる剛健たる体躯は正しく黄金の野牛・タウラスのアルデバラン!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白羊宮――――そこの床には今、何か白い塊が転がっていた。

 その塊の見た目は、蚕の繭によく似たものだ。

 だがその辺の虫の繭とは明らかな違いがある。

 それは繭の大きさ。

 大人ですら余裕で中に入れるであろうその大きさは、この世のものとは思えない。

 

 ピシィッ!

 

 繭に亀裂が走った。

 次の瞬間、内部から繭を突き破って飛び出したのは黄金の籠手を着けた手刀。

 

 「クッ……ハアッ!」

 

 そしてそれと同時に繭自体も卵の殻が割れるように散り散りになって吹き飛んだ。

 

 「危なかった……脱出がほんの少し遅れていたら目を覚ますことはできなかった……」

 

 ミューが放った糸によって半ば意識を失っていたムウは、完全に気を失う寸前に、己の小宇宙を込めた手刀で辛くも殻を破りそこから逃れることに成功した。

 もし万が一繭の中で意識を失えば、永久に脱出することは叶わなかっただろう。

 改めてその恐ろしさに戦慄させられる。

 だがその時ムウはある異変に気が付いた。

 

 「どうしたことだ……あのミューとかいう冥闘士の小宇宙を感じない」

 

 ライミの小宇宙は既に途絶え、物言わぬ亡骸として転がっている。

 しかしムウを糸の中に閉じ込めた張本人・パピヨンのミューの小宇宙が感じられなくなっていたのだ。

 この先の金牛宮に進んだような気配も無い。

 

 聖域に攻め寄せてきた冥闘士でも、指折りの強大な小宇宙を放っていたミュー。

 そんな小宇宙の持ち主があっさり命を落としたり、聖域から引き下がるとはとても考えられなかった。

 

 『フフフ……さすがは黄金聖闘士』

 

 「むっ!?」

 

 『シルキースレードは最初から時間稼ぎのつもりでしたが……これほど早く抜け出すとは』

 

 「テレパシーか……一体どこから……?」

 

 ムウはしばし白羊宮の内部を見回す。

 すると、さっきまでは確かに存在していなかったものが見つかったではないか。

 

 「これは……私を閉じ込めていた繭か…? いや、違う……そうか……!」

 

 無造作に地面に転がされていたムウの繭とは違い、それは何本もの白羊宮の柱に糸を貼り付け、その間にぶら下がるようにして宙に浮いた状態で固まっていた。

 それを見て、ムウの中でこれまでのミューの異様な姿が一つに繋がった。

 

 『そう……これが私の正体。私は全ての冥闘士の中で唯一、進化する冥闘士。あなたと全力で闘うために、この繭の中で私は完全体へと進化する!』

 

 中から繭が砕け散った。

 そして現れたのは、それまでの異形とはまるで異なる姿だった。

 すらりと伸びた手足に、人型でありながら背に巨大な蝶の羽をあしらった漆黒の冥衣。

 

 「これが私の本当の姿。地妖星パピヨンのミュー!!」

 

 不定形の時よりも、芋虫の時よりも、遥かに強大さを増したその小宇宙。

 

 「なるほど、完全体という言葉に嘘は無いようだな」

 

 緊張を伴った二人の小宇宙が静かに燃える。

 

 「それでは……まずは小手調べからいきましょうか」

 

 そう言ってミューが片腕を振り上げると、ムウの立つ床の周囲が歪な円を描いてひび割れていく。

 

 「ゆけ!」

 

 一気に石畳の床がムウを乗せたまま競り上がった。

 同時に真上の天井が崩落し無数の岩石が雪崩を打って叩きつけられる。

 

 しかし――――

 

 「無駄だ」

 

 「えっ?」

 

 間の抜けた声を上げたのはミュー。

 空中で停止した石畳の上に天井から落ちてきた岩石が浮遊し静止している。

 

 「な……なんと!」

 

 「これは返してやろう」

 

 「うおっ!?」

 

 ムウの頭上で静止した岩石が、一直線にミューに向かって投げられた。

 

 「クッ!」

 

 宮の床に次々と落下する岩石群をヒラリと躱してミューは地を蹴り、サイコキネシスで自らの身体を空中に浮かび上がらせる。

 だが次の瞬間、目前に迫っていた石板が腹部に激突した。

 

 「グハァッ!」

 

 その石板は、ミューが床から引き剥がしムウの足場となっていた石畳。

 凄まじい速度に回転を加えたそれを、円盤投げの要領で叩きつけたのだ。

 

 ミューを背後の壁に打ち付ける勢いで投げられた岩盤は、ミューの身体と共に壁に衝突して粉々になった。

 

 「グッ……やりますねぇ」

 

 軽く陥没した白羊宮の壁から身を起こすミュー。

 だが息つく間もなく再びムウの前に引きずり寄せられた。

 

 「さて、お前達が十二宮に攻め寄せた訳を聞かせてもらおう。口を割らなければこのまま倒すだけだがな」

 

 「そんな脅しに私達冥闘士が乗ると思いますか?」

 

 「そうか。ならば仕方あるまい」

 

 「ううっ!?」

 

 ミューの足がゆっくりと地面を離れていく。

 そしてある高さまで浮かび上がった所で止まった。

 

 「な……何を……」

 

 そう言いかけた時、ミューが突然自分の身体を軸にして横向きに回り始めた。

 最初はゆっくりと、そして徐々に速く。

 回転するミューの顔が分かる位の速さからやがてはコマのように、そして遂にはその姿が見えなくなる程の速さに。

 

 「うっ……うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 「その回転は加速し続ける。お前が死ぬまで止まることは無い」

 

 既に常人ならば手足が引きちぎれる程の速さで回転するミューに、ムウは背を向けて言った。

 結果として、ムウのサイコキネシス能力はミューのそれに勝っていたのだ。

 しかし――――

 

 「むっ?」

 

 回り続けるミューを置き去りにして、白羊宮から立ち去ろうとしたムウの横を何かがひらひらと通り過ぎた。

 それは幻想的な光で出来た白い蝶だった。

 白い光線で空中に描いた絵が、そのまま動き出したかのような不思議な蝶だ。

 

 だが問題はそこではない。

 その蝶の出所は――――

 

 「なにい!」

 

 振り返ったムウが見たのは、蝶と同じ白い光に包まれ回転するミュー。

 しかもその回転が段々遅くなっていき――――遂には止まった。

 

 「フフフ……サイコキネシスでは勝てませんか」

 

 ミューを包む白い靄のような光が蝶に姿を変えてムウに近寄っていく。

 

 「ならば別の手でいくまでのこと」

 

 その速度はあまりに遅い。

 しかし、徐々にまとわりついてくる蝶を見てムウは、何故かそれを知っているような気がした。

 正確には、似たようなものを見たことがあるような気がしてならない。

 

 「くらえ……」

 

 『そうだ……これは』

 

 ミューの小宇宙が蝶を媒体として膨れ上がった瞬間、ムウの背筋に冷たいものが走った。

 

 「フェアリースロンギング!!!!」

 

 『積尸気か!!』

 

 冥府へ導く死蝶の光!

 溢れる波動が生命を引き裂き、地獄へ連れ去る致命の衝撃!

 

 ミューの小宇宙を合図に、ムウの身体に取り憑いた蝶――――フェアリーを巻き込み凄まじい衝撃が突き上げた。

 白羊宮の床や壁には傷一つ付いてはいない。

 だがそれにも拘らず、一瞬にしてムウの姿は掻き消されていた。

 

 しかし残ったフェアリーは何かを求めて一方向に集まっていく。

 

 「無駄ですよ……フェアリーはどこまでもあなたを追いかける。逃げることなど出来はしない」

 

 フェアリーが集まりつつある丁度その場所に、ムウが姿を現した。

 身体には早くもフェアリーがまとわりつき始めている。

 

 「私のサイコキネシスはあなたには及ばない。だがあなたのテレポートに追いつくのは無理でも、追いかける位なら出来る。さあ行けフェアリーよ!」

 

 「クッ……スターダストレボリューション!!!!」

 

 ミューが生み出すフェアリーを目掛けて繰り出す光速の拳。

 しかし、それはこの世のものでは無い証なのだろうか。

 ムウの放った拳はフェアリーを相殺するどころか、ものの見事にすり抜けた。

 それだけではない。

 フェアリーはおろか、ミューを狙ったものさえ命中した手応えが無いのだ。

 

 「バカな……!?」

 

 テレポートで回避しているのか、或いは光速の動きを体得しているのか。

 それすら分からないまま、成す術無くミューのペースでことは進んでいく。

 

 「フェアリースロンギング!!!!」

 

 二度目の衝撃。

 冥界の底まで繋がっているようにも見える、白い光の柱が立ち上る。

 しかし、これもムウは躱していた。

 デスマスクの積尸気冥界波と違い、発動に時間が掛かるものの、瞬時に発生する衝撃に対して一瞬でもテレポートが遅れてしまえば命は無い。

 それをギリギリ首の皮一枚で躱しているというのが現状だ。

 

 「クッ……噂以上の凄まじいテレポート能力。だがそれがいつまで持つか!」

 

 それまでフェアリーの追跡に任せて殆ど動かなかったミューが、遂に直接ムウに襲いかかった。

 

 「くらえーーーー!」

 

 接近してフェアリーを放てばムウの周囲に留まるフェアリーはすぐに十分な数に達する。

 つまり、今までと異なるタイミングで技を放つことが出来る。

 

 三度目の衝撃が走る。

 だがまたしても不発に終わり、フェアリーがムウを冥界へと飛ばすことは無かった。

 

 「全く……いつまで逃げ続けるつもりですか。いい加減私もこの闘いに飽きてきましたよ。次の全力の一撃であなたをこの世から消し飛ばしてあげましょう!」

 

 度重なるムウのテレポートに不機嫌さを隠さず、脱兎の如く飛びかかるミュー。

 浮かび上がるフェアリーは既におびただしい数になっている。

 恐らく次にムウを射程に捉えた瞬間にもフェアリースロンギングは発動するだろう。

 

 「それは私とて同じことだ。準備は整った……もはや逃げる必要は無い」

 

 「フン、減らず口を――――」

 

 その言葉の続きは――――無い。

 ミューと、そしてフェアリーは同時に空中で動きを止めていた。

 

 「何だ……これは一体!?」

 

 「それはクリスタルウォールの変形……クリスタルネット」

 

 クリスタルウォールと同じ極薄の鏡のような壁が、蜘蛛の巣のようになって白羊宮の一角に出現していた。

 そこに捕らえられたミューとフェアリーは、まるで磔にされたように動けない。

 

 「クッ……たとえ動けなくとも全てのフェアリーが捕まった訳ではない! 残りのフェアリーを使うことは出来る!」

 

 「……いくぞ!」

 

 ムウの小宇宙が爆発する。

 

 「くらえ! フェアリー――――」

 

 「スターライト――――」

 

 「動くな」

 

 だがその瞬間、またしても動きが止まる。

 強大なサイコキネシスが、ミューとムウの二人を押さえつけていた。

 

 「ムウ、拳を収めよ。パピヨン、お前もだ」

 

 ミューを磔にしていたクリスタルネットが一瞬にして破壊される。

 

 「!?」

 

 「フフフ……どうやら立場が逆転したようですね。今度こそあなたも終りだ。行けフェアリー!!」

 

 ミュー自身は動けなくともフェアリーは動けるし操ることも出来る。

 ムウが動けない以上、ミューの攻撃を防ぐのは不可能――――唯一人の男を除いては。 

 

 「お前も止まれと言ったはずだ」

 

 「うっ!?」

 

 ミューの攻撃を止めているのは、サイコキネシスでも何でもない。

 それは男の放つ圧倒的な威圧感。

 

 「ムウに手を出すのは私が許さん!!」

 

 「なっ!?」

 

 「星屑の海に呑まれて散れ! スターダストレボリューション!!!!」

 

 ムウの使うものと寸分違わぬ流星の如き拳がミューの冥衣を叩き割った。

 

 「あ……貴方は……!?」

 

 男の全身を覆っていた衣が落ちる。

 どことなくムウに似た眼差しに、淡い翠がかった髪を腰の辺りまで伸ばしている。

 そしてその身に纏うのはムウの黄金聖衣と瓜二つなアリエスの冥衣。

 

 「貴方は……大恩ある我が師シオン!!」

 

 そこに立っていたのは、十三年サガの手によって命を落としたはずの人物。

 老師と同じく前聖戦からのたった二人の生き残り。

 伝説の聖闘士――――前教皇アリエスのシオン!

 

 

 

 

 

 


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