もし青銅が黄金だったら   作:377

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第二十五話 VS海将軍 (後篇)

 ――北氷洋

 

 たった今、この場に現れた青銅聖闘士の氷河が伝えた、聖域に冥王ハーデスの配下の者達が攻め込んで来ているという知らせに、聖闘士であるカミュのみならず、ポセイドン側のアイザックも息を呑んだ。

 海底へ発つときに、聖域から黄金聖闘士が七人も不在となることに不安が無かった訳ではない。

 しかし、聖闘士の中でも最強の者達がこれだけ多数で海底に向かい、即座にアテナを取り戻すことが出来れば問題は無いと考えて、カミュ達はやって来たのだ。

 

 「まさかこれ程までに早く冥王軍が動き出すとはな……氷河、お前はどうやってここに?」

 

 「治療を受けていた四人の中で、俺が最初に目が覚めたのです。その直後に、敵が聖域に向かってくるのを感じたアイオロスが……本格的に攻め寄せる前に、海底に向かった黄金聖闘士達にこのことを伝えてくれと」

 

 「そうか……分かった」

 

 聞き終えたカミュは、すぐにその場で意識を集中した。

 セブンセンシズを介したテレパシーならば、海底にいる全ての黄金聖闘士に光の速さで伝達することが出来る。

 全員に繋がったことを感じ取ったカミュは、氷河から伝えられた聖域の状況を語る。

 

 『皆、聞こえるか。たった今、私の所に氷河が現れて聖域からの伝言を伝えてくれた。……冥王ハーデスの侵攻が始まったようだ』

 

 『なにぃ!!』

 

 『なんと!』

 

 『それは真かカミュ!』

 

 事態の急転に黄金聖闘士達の困惑した声が響く。

 

 『恐らくは、な』

 

 黄金聖闘士が聖域を発ってから、まだそれほどの時間は経っていない。

 誰もが予想出来ない程の、信じられない早さで敵は現れたのだ。

 

 『クッ……ならばどうする! 何人かは地上へ戻るか!?』

 

 『いや、ムウやアルデバラン達がいる。聖域もしばらくはもつだろう。既に柱を破壊した者は、海底神殿のアテナの元へ急ぐのだ!』

 

 『だがそれでは……』

 

 『信じるしかあるまい……彼らを』

 

 黄金聖闘士達全員にその報は伝わった。

 予測を越えた状況にそれぞれが驚愕しつつも、彼らが目的を見失うことは無かった。

 即ち、アテナを救うということを。

 

 テレパシーでの通信を終えると、カミュもまた眼前に聳える北氷洋の巨大な柱を砕こうと立ち向かう。

 両腕をしっかりと組み合わせ、天高く屹立する柱に向けて小宇宙を高め最大限の凍気を放出する。

 

 「行くぞ……オーロラエクスキューション!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 猛烈な勢いで迸る凍気の激流に曝された柱の表面を、極低温の氷壁が音を立てて覆い尽くしていく。

 絶対零度に限りなく近いと言われるカミュの凍気によって、海底世界を支え、破壊するのは不可能とされた柱は、分厚い氷に閉ざされて完全に沈黙した。

 しかし。

 

 「いかん……これでは……!」

 

 未だ凍気を放ちながら、氷結していく柱を見てカミュが呟いた。

 凍気による戦闘スタイルは、攻撃に防御にと対人戦での汎用性は高いものの、今回のように、こと柱を砕くというような場合には、いわゆる物理的な破壊力がどうしても足りない。

 柱を凍結させるまでが精一杯で、破壊するまでには至らないのだ。

 

 「クッ……ダメか!?」

 

 凍気を放出し続けるカミュの両腕から力が抜けていく。

 長時間にわたり意識的に小宇宙を高めた状態を維持するのは、肉体的な負担が大きい。

 それは黄金聖闘士たるカミュでさえも例外ではなく、蓄積していく疲労によってか、徐々に呼吸も乱れ始めていた。

 少しずつではあるが、小宇宙が揺らぎ、凍気の勢いも衰えていくのが分かる。

 

 だが、その時だった。

 

 「我が師カミュ! 及ばずながら、この俺も助太刀します!」

 

 カミュの左後方から、力強い凍気が立ち上った。

 

 「氷河!」

 

 そしてもう一方からも、氷河のそれをやや上回る激しい凍気が吹き上がる。

 

 「うっ……ぐっ……我が師カミュ、この俺も……!」

 

 「アイザック……!」

 

 「カミュ……あなたとの闘いで分かった。この戦の帰趨はもはや明らか。そして、地上を狙う冥王ハーデスは我ら海闘士にとっても相容れぬ大敵。ならばせめて、共通の敵に向かうあなたのために……あなたに授かったこの力を使いましょう!」

 

 アイザックの、そして氷河の小宇宙が大きく膨れ上がる。

 己の背に感じる二人の弟子の成長、知らず知らずの内に熱いものが頬を下る。

 

 「よくぞ言ってくれた……お前達はいつまでも私の弟子だということに変わりは無いぞ。ならばこそ、この私が……こんなところで膝を着くような、無様な姿を晒す訳にはいかないな……!」

 

 衰えかけていたカミュの小宇宙が力強さを取り戻し、更にその勢いは強く激しく爆発する。

 

 立ち上る三つの小宇宙。

 共にシベリアの氷原で力を磨いたカミュ達が放つ小宇宙、その一つ一つが混ざり合い重なり合って生み出されるそれは、三位一体と化した極限の凍気!

 

 「行くぞ! 氷河! アイザック!」

 

 カミュが、氷河が、アイザックが、渾身の凍気を拳に乗せて!

 

 「舞え! 白鳥!」

 

 「くらえ! 北海の拳!」

 

 「アクエリアス最大の凍気を! 今ここに!」

 

 激しく高まる小宇宙、そして大気を震わす無限の凍気が一つに重なり迸る!

 

 『ホーロドニースメルチ!!!!

 

  オーロラボレアリス!!!!

 

  オーロラエクスキューション!!!!』

 

 氷に覆われた柱に極大の凍気が炸裂する。

 そして遂に北氷洋の柱に、亀裂。

 柱全体を覆い尽くした巨大な氷塊の中心から放射状にひび割れが広がっていく。

 やがて柱は、キラキラと光る小さな氷の粒となって砕け散った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――南大西洋

 

 頭上に広がる海の底から、霧雨のような細かい水滴が降りしきる中、ここ南大西洋にも戦いの気配が迫っていた。

 柱の守護者、海魔女(セイレーン)のソレントは近付いてくる強大な小宇宙を敏感に感じ取り、常に携帯している愛用の横笛をそっと唇にあてた。

 すると戦場には不似合いな、それこそ舞台の上で大観衆を前に演奏されるのが相応しい、よく澄んだ優雅な笛の音が海底に木霊する。

 しばらくその笛による独奏は続いたが、やがて演奏は終わりを告げ、最後の調べの余韻が消え去ると同時に辺りは再び静寂に包まれた。

 しかし、その静寂を破る者が現れる。

 

 「ほう……見事な笛の音。この私が思わず聞き入ってしまう程に……海闘士にしておくには惜しい腕だな」

 

 「君にこの笛が分かるのか? フフ……無粋な輩と思っていた聖闘士の中にも、少しはましな者がいるようだ」

 

 「なに、美しいものを美しいと認めただけのこと。敵だからといって、私はそこまで狭量ではない」

 

 今すぐにでも戦場と化すかもしれないこの場所で、男はうっすらと微笑んでいるようにも見えた。

 だがその直後、男の放つ気配が一変する。

 

 「しかし、残念なことだ。その笛がもう世に聞こえることも無い。君はここで息絶えるのだ……この私、ピスケスのアフロディーテの手によって!」

 

 薔薇の香りと共に現れた黄金聖闘士!

 天地の狭間に輝きを誇る美の戦士、ピスケスのアフロディーテ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姿を見せたアフロディーテに対して、ソレントは緩やかな動作で笛を構えた。

 流れるような指使いが、先程にも勝る美しい旋律を奏でる。

 

 「止めたまえ、もうこれ以上その笛を披露することは出来ないと言ったはずだ。だが、せめてその美しい音色に敬意を表して、苦しまぬよう一息で葬ってやろう」

 

 その時、アフロディーテの手には、どこからともなく一輪の薔薇の花が出現していた。

 アフロディーテからソレントに向けられた薔薇の色は、黒。

 指先に軽くつままれただけの花からは、ソレントでも軽々しく仕掛けることを躊躇させるような、一種異様な迫力が込もっているのが見てとれる。

 

 ソレントが怯んだのも無理は無い。

 アフロディーテが突きつけている漆黒の薔薇の花は、生身の人間に向けて放てばそれこそ容易に肉を裂き骨を砕く程の威力を秘めているのだ。

 

 「くらうがいい……全てを噛み砕く黒薔薇! ピラニアン・ローズ!!!!」

 

 地を裂き進む黒薔薇の脅威!

 アフロディーテの手元を起点に、黒い螺旋を描く花びらが猛スピードでソレントに迫る。

 

 「クッ!」

 

 ソレントは笛を吹くのを止めることなく、器用にそのまま後ろへ跳躍することで黒薔薇を躱した。

 

 だがその時、回避して足元に突き刺さるはずの薔薇が、突如生き物のように向きを変えてソレントに絡み付いた。

 

 「なっ!?」

 

 捉えられた部位から黒薔薇が徐々に身体を侵蝕し、更なる力で締め上げる。

 

 ソレントの全身を覆っている鱗衣が、花びらの触れた箇所から激しく削り取られて散っていった。

 そして盛大に鱗衣の破片を撒き散らして、ソレントは地面に倒れ込んだ。

 

 「愚かな……海闘士になどならなければ、長生きも出来ただろうに」

 

 大量の黒薔薇に包まれて横たわるソレントに向かって、アフロディーテは小さく呟いた。

 ほんの少しだけ、哀悼の色がよぎる。

 人並み外れた容姿を持つアフロディーテにとって、他の何かに心を動かされたことは少ないのかもしれない。

 

 だが次の瞬間、その目が大きく見開かれた。

 視線の先には、笑みさえ浮かべる余裕を持ちながら、悠然と立ち上がるソレントの姿。

 更に驚かされるのは、その身体が殆ど傷付いていないことか。

 あれほど破片が飛び散っていた鱗衣の傷も、良く見れば表面だけのものであり、内部に届く程の深い傷には至っていない。

 

 「バカな……確かにピラニアン・ローズはお前を噛み砕いたはず……これは一体……?」

 

 いくらソレントが奏でる美しい音色に微かに心を奪われたとはいえ、そんなことでアフロディーテは手心を加えたりはしない。

 だがそれにも拘らず、ソレントはほぼ無傷で立っているのは何故か。

 止めた訳でもなく、まして跳ね返した訳でもない、まともに受けていたにも拘らず。

 

 「フッ……驚いたか? 私が君の放った黒薔薇を受けたのに、こうして立っていられることに」

 

 「……!」

 

 心なしか、笛の音が大きくなったような気がする。

 一体いつまでそうしているつもりなのか、笛が止むことも無くソレントは一向に攻撃を仕掛けてくる気配が無い。

 

 次第に音が大きくなり、アフロディーテは苦痛を覚え始めた。

 いや、音が大きくなったというよりも、むしろ頭の中に直接響くような感覚。

 つい先程までは、あれほどの称賛し聞き入っていた音色が、今となっては酷く耳障りだ。

 何かが、おかしい。

 だんだんと重くなっていく身体を支えながら、アフロディーテは耳を押さえたくなる衝動に駆られたが、どうにかそれを抑え込み、脂汗を流しつつも再びソレントに薔薇を向ける。

 しかし、その薔薇はソレントに向かって投げつけられる前に、ポトリとアフロディーテの指先から零れ落ちた。

 

 「うっ……く………何だこれは!?」

 

 顔を歪めて苦悶の声を上げるアフロディーテ。

 彼の頭に騒音のように響き続ける笛の音が、一層その強さを増して苦しめる。

 

 「私の鱗衣は海魔女(セイレーン)、海魔女とはその美しい歌声によって人間の心を惑わし、死に至らしめる魔物のこと。同様にこのソレントの笛の音色を聞いた者には死あるのみ」

 

 止むことの無い笛の響き、頭を直に締め付けるような激痛が走る。

 だがそれに負けじと、アフロディーテは再び薔薇の花を構えた。

 

 「フン、下らぬことをべらべらと……ならばそのうっとうしい笛の音から止めてやろう!」

 

 ソレントの笛を止めるため、アフロディーテは二度目の黒薔薇を放った。

 ソレントの身のこなしなら躱されるかもしれないが、少なくとも聞いているだけで体力が奪われていくこの音色を、一時的には止められる。

 

 しかし高速で迫る黒薔薇の牙を、今度は避けるでもなくソレントはあっさりと片手を突き出し弾き飛ばした。

 

 「なにっ!?」

 

 岩をも噛み砕く黒薔薇が、笛の音を止めるどころかいとも容易く弾かれた。

 言葉を失うアフロディーテに対して、ソレントは冷静に言い放つ。

 

 「敵を倒すだけではない。この笛は敵の五感や、小宇宙さえも低下させる。今や君の力は普段の半分にも満たないのだ!」

 

 ピラニアン・ローズで止めを刺せなかったのも、身体が鉛のように重く感じられるのも、全てはソレントの仕業。

 徒に笛を吹いていただけでは無かったのだ。

 この場に現れた時から既に、アフロディーテに対する攻撃は始まっていた!

 

 「むぅ……海魔女(セイレーン)のソレント……その名の通り、何と恐るべき男よ……!」

 

 もはや立っていることも辛い。

 今にも膝を折ってしまいそうな程に。

 そこに、ソレントが更なる追い討ちをかける。

 

 「フフフ、今までのは小手調べに過ぎん。さあこの音色で君の身体を塵と砕いてやろう!」

 

 小宇宙を乗せた旋律が、巨大な衝撃と共に迸る。

 

 「聞け、死のメロディーを! デッドエンド・シンフォニー!!!」

 

 流麗な調べとが空気を震わし、引き起こされる破壊の音響!

 魔笛の威力が五体を突き抜け、アフロディーテを吹き飛ばす!

 

 神経を逆撫でするような音波に強烈な衝撃波を伴ったそれは、全身を引き千切る程の威力で叩きつけられた。

 その凄まじさは、黄金聖衣ですら完全には威力を殺すことは出来なかったことからも分かる。

 

 「グハァッ……!」

 

 肉体と精神の両方が軋み、悲鳴を上げていた。

 ソレントが奏でる笛によって身体能力や小宇宙が低下した状態で、アフロディーテは大地に激突する。

 

 「ほう」

 

 ソレントが小さく声を発した。

 その目の前では、地面に叩きつけられたものの、何とか片膝で立ち上がるアフロディーテの姿がある。

 立つには立った。

 だが、もはやアフロディーテの受けたダメージは重傷と言えるものであり、その身体には限界が近付いていた。

 

 「今の一撃を受けてなお、立ち上がろうとする体力が残っているとは……その強靭さ、流石は最強と称えられる黄金聖闘士というだけのことはある」

 

 悠然と笛を構えたソレントがアフロディーテを見下ろしている。

 

 「しかしあと一吹きで君の命は消し飛ぶぞ。今更足掻いた所で無駄な抵抗に過ぎん」

 

 「クッ……!」

 

 アフロディーテの手には白い薔薇が握られていた。

 それは手元を離れた瞬間に、敵の心臓目掛けて飛ぶ必殺の薔薇。

 その白い花びらが相手の血で赤く染まる時、その者は絶命する。

 

 だが今や、その白薔薇を構えるアフロディーテの指先は震え、アフロディーテ自身も深手を負った状態で、それが戦況を覆す一手となるかは、かなり微妙な所だった。

 外すせば間違いなく命を落とすのはアフロディーテの方だ。

 かといって、ソレントに隙の見えない今、いきなり投げつけたとしてもまた弾かれる可能性もある。

 相手よりも早く、そして確実に命中させる、アフロディーテは慎重に機を伺いながら、ただそれだけを心に決め祈るような気持ちで白薔薇を持つ手に力を込めた。

 

 そして、乾坤一擲の白薔薇を放とうとしたまさにその時――――アフロディーテの耳にあるテレパシーが飛び込んで来た。

 

 曰く、『冥王軍の侵攻が始まった』、と。

 

 その瞬間、アフロディーテの目に力が戻った。

 

 今、この危地にあって自分自身の力の他に恃むものなどあるはずも無い。

 まして何かに祈るのは己の弱音に過ぎない。

 

 闘いに敗れ、命を失うという恐怖からではなく、それ以上に強い気持ちが――――負けられないという思いが、アフロディーテの身体を支える。

 ここで倒れてしまえば、地上が水没の危機に晒されるだけではない。

 これから本格的に始まろうとしている冥王ハーデスとの戦にも遅れを取ってしまう。

 

 そんなことは、許されない。

 負けたくないのではない、負けられないのだ。

 

 ただ一度、かつてアフロディーテと同じ黄金聖闘士を相手に敗北を喫した時とは違う。

 自らの信じる正義を懸けて闘ったあの時とは、背負うものが違う。

 

 地上に生きる者全てを、災いをもたらす邪悪から守るのが聖闘士の使命。

 そのためにならば、かつて教皇に成り済ましていたサガに与することも厭わなかった。

 そして今こそが、真に地上を守るため闘う時。

 

 それは、今にも倒れそうな身体を引きずってでも立ち上がり、命を捨てて敵に立ち向かうには十分過ぎる理由!

 

 「なっ……なにぃ!?」

 

 アフロディーテの小宇宙が爆発する。

 それを見たソレントの顔に、初めて驚愕が走った。

 

 しっかりと自分の足で立つアフロディーテから、瀕死の身体とはとても思えない強烈な小宇宙が放たれている。

 

 「驚いた……まさかデッドエンド・シンフォニーを受けても立ち上がってくるとはな。だが、それでこそ私の相手に相応しい。今度こそ全力のクライマックスで君の息の根を止めてやるぞ!」

 

 ソレントの笛が演奏を再開――――しなかった。

 

 「うっ!?」

 

 驚くソレントだが、強張っているのは表情だけではない。

 つい先程まで何事も無く素晴らしい音色を奏でていた指が、痺れて力が入らない。

 ともすれば笛を落としてしまいそうな程に。

 

 呆然とするソレントの前で、薔薇を構えるアフロディーテの姿が目に入った。

 その色は、赤。

 

 「そ、それは……!」

 

 投げられた薔薇が、ソレントを甘い香りで押し包む。

 

 「私の持つ薔薇には幾つか種類があるのだ。このロイヤル・デモンローズの香りは相手の五感を奪い、陶酔の内に眠るような死を与える」

 

 漂ってくる薔薇の香りにソレントが気付いて愕然とした。

 

 そうこれは――――最初にアフロディーテが現れた時から、その身に纏っていた香りだということに。

 

 「ロイヤル・デモンローズの毒は遅効性。故に、こうして効果が出るまでに時間が掛かってしまうのが難点だが……間に合ったようだ」

 

 「うぅっ……この蠱惑的な香り……このままでは意識さえも……!」

 

 しかし、全身に痺れがゆっくりと広がっていき、自身の優勢が消えつつある中で、ソレントもまた強い視線をアフロディーテに叩きつけた。

 

 「だ……だが忘れるな……! 君とて、死の淵に立たされているのは変わらないということを!」

 

 ソレントが残りの力を振り絞って口元に笛を添えた。

 アフロディーテに残された力が僅かであることは見抜いている。

 絶対的に有利であった立場が崩れただけで、与えたダメージが消えた訳ではないのだ。

 あと一撃を加えることが出来れば、枯れ木が倒れるようにアフロディーテの命は潰える。

 

 「行くぞ! ピスケス…………!?」

 

 その時、ふとソレントはアフロディーテが手中の薔薇を天に向かって掲げているのが見えた。

 

 何をしているのかと訝しんだ次の瞬間、ソレントの視界が漆黒の薔薇で覆い尽くされる!

 

 「なにぃ!」

 

 黒薔薇の花びらが、ソレントの周囲を取り巻き大渦を作り出していた。

 渦を構成する一つ一つが、触れたものを噛み砕き削り散らす脅威の黒薔薇。

 その圧倒的な量に、ソレントは目を剥いた。

 

 「私の薔薇は私自身の小宇宙によって生み出され、敵を駆逐する。全小宇宙を込めればこの位の量、自在に操ることなど造作もない!」

 

 轟と唸りを上げて牙を剥くその様は、まさしく竜巻。

 螺旋に宙を飛び続ける黒薔薇は、アフロディーテの一声で一斉にソレントへと襲いかかる。

 このままではいずれにせよ脱出は不可能。

 だが、ソレントは最後の音色を奏でるべく笛を構えた。

 

 それを見たアフロディーテも、届くかどうかといった小さな声で、そっと呟いた。

 

 「やはり……引かぬか…同じ戦士として、その見事な闘志には頭が下がるというもの。ピスケスのアフロディーテ、全力でこの黒薔薇を見舞ってやろう!」

 

 「フッ……笑わせるな! 海将軍の名に懸けて、この一吹きで君の命を絶つ!」

 

 双方これが最後の一撃!

 

 「くらえ! デッドエンド・クライマックス!!!!」

 

 「舞えよ黒薔薇! ピラニアン・ローズ!!!!」

 

 花びらが舞い大竜巻が、その中心へと崩れ落ちる!

 

 黒き花弁を吹き飛ばし、音の衝撃が全てを砕く!

 

 ソレントの笛から発せられる音色が、振動を起こして舞い散る花びらを寄せ付けない。

 薔薇を全て吹き飛ばしてしまえば、アフロディーテにまで必殺の音色は届く。

 

 しかし、アフロディーテが生み出した黒薔薇の量は、ソレントの予想を遥かに超えていた。

 ソレントが、雪崩を打って迫り来る大量の花びらを、音の衝撃のみで支え続けることは――――出来なかった。

 

 「うわぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 全身を覆う鱗衣が、今度こそ粉々に砕け散っていく。

 断末魔の叫びと共に、小宇宙も旋律も、全てが黒の向こう消え去った。

 

 漆黒の薔薇は地面を大きく抉りつつも、遂に倒れたソレントの周りに静かに散っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒薔薇の中にソレントが倒れるのを見届けたアフロディーテは、そのままゆっくりと柱に相対する。

 アフロディーテ達の任務は、柱を守る海将軍を倒すだけでは終わらない。

 限界が近い身体を極限まで高めた小宇宙で無理矢理支え、アフロディーテは柱の周囲に螺旋を描くようにして再び黒薔薇を飛ばした。

 ピラニアン・ローズによって柱には次々に浅い傷が生じ、それが次第に亀裂へと成長していく。

 

 そして、全体に隈無く亀裂が広がった所で、ふとある気配に気付いたアフロディーテはその手を止めた。

 うっ、と小さな呻き声がして、ソレントが薔薇の中で目を覚ましていた。

 

 「生きていたか。運のいいことだ」

 

 顔をそちらへ向けることも無く、声だけを掛けるアフロディーテ。

 対してソレントは、地に伏したまま言った。

 

 「と……止めを……刺さないのか……?」

 

 アフロディーテの小宇宙は既に殺気を孕んでいない。

 ソレントにもそのことは容易に察知出来たが、敢えてそう尋ねてみた。

 

 すると、アフロディーテはその手に白色の薔薇を生み出した。

 

 カカッ、という硬質な音、ソレントの耳元に白薔薇が突き刺さる。

 

 「私は、既に立つ力すら無い者を相手に命を取る気は無い。最後に放ったピラニアン・ローズ……あれは私が全力で、殺す気で放ったものだ。それでも尚生き長らえたのは、君の運の良さからか。いずれにせよ、君にもはや闘う力は無い。大人しく、そこでじっとしているのだな」

 

 言い終えると同時に、柱の中心に向けてアフロディーテの手から白い筋が走った。

 急所を貫くブラッディ・ローズ。

 それは、相手が物言わぬ柱であっても変わらない。

 深々と突き刺さった薔薇の茎の根元から、大きく広がる深い亀裂。

 当然のように、南大西洋の柱は中心から綺麗に崩れ落ちた。

 

 そして海底神殿に向かうため、南大西洋を去ろうとしたアフロディーテだったが、そこに唐突にソレントが声を掛けてきた。

 

 「ピスケスのアフロディーテ……せめて最後に、君に伝えておきたい事がある……」

 

 「なんだと?」

 

 ソレントの口調があまりに真剣なものだったためか、アフロディーテもつい足を止めた。

 

 「私達海闘士は皆、海皇ポセイドンの理想郷を築くために、ここ海底に集まったはずだった。だがしかし、私だけは知っているのだ。ポセイドンの不在をいいことに、海闘士達を影で操っていた男がいることを……」

 

 もはや立つこともできない身体で、ソレントは絞り出すように声を続けた。

 

 「その男の名は、海龍(シードラゴン)。我ら海将軍の中でも、最も油断のならない男だ。私はこれまで我らが主の望みのためだと思い、あの男の言う通りに動いてきたが……今こそ確信した。あの男は……海龍は、ポセイドン様への忠誠から動いていたのでは無い! 海龍こそが、この戦いの首謀者なのだ!」

 

 同じ海将軍に対する言葉とは思えない程、ソレントからは強い感情が溢れていた。

 ポセイドンが現れるまで、いや現れてからも実質的には海底の全てを取り仕切っていた男、海龍。

 押し殺していたその男に対する疑念が、今こそ確信へと変わったのだ。

 

 今だ完全には覚醒していないポセイドンを旗印とし、自らの指揮でアテナとその聖闘士達に闘いを挑んだことからも、その野望が窺い知れる。

 

 「クッ……!」

 

 主たるポセイドンのためにと、何人もの同胞が命を落としたこの戦いの実情が、たった一人の男の命令によるものであったなどというのは、ソレントにとって許せることではないのだろう。

 かつての自分と、どこか重なるその姿。

 

 彼の思いを汲み取ったのか、アフロディーテはソレントに対して力強く言った。

 

 「余計な心配は無用だ。その海龍とやら、ただでは済むまい」

 

 「海龍は鱗衣に呼ばれて戦士となった私達とは違うのだ! 海龍の力を侮っては……」

 

 だがソレントの言葉を、アフロディーテはその途中で遮った。

 

 「フッ……まるで問題は無い。既にその海龍の元へは、ある男が向かった…………我ら黄金聖闘士の中でも最強の力を持つ男がな!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――北大西洋

 

 ここ北大西洋では、他の海域とは比べ物にならない程の、激しい戦闘の跡があちこちに見て取れた。

 その中心に鎮座している巨大な柱を除けば、一つとして原型を留めている建造物は存在していないのではないか。

 ともかく、そこかしこで地面が捲れ上がり、辺り一面に大きな傷跡を晒していた。

 

 そしてその真っ只中で、相対する二人の男。

 一人は、目深に被ったマスクが顔を半ばまで覆い隠していて、その顔は定かではない。

 だが鱗衣を纏っていることから、この海域を守る海将軍であるのが分かる。

 言うまでもなく海龍(シードラゴン)。

 海龍は、彼を鋭い目で睨み付ける男を見下ろしながら、口元に薄ら笑いを浮かべているようにも見えた。

 

 「ククク……やはりとは思っていたが、貴様は相変わらずだな。まさか黄金聖闘士を率いて乗り込んでくるとは思わなかったぞ。かつて聖域を乗っ取ろうとしておきながら、今更アテナに尻尾を振るとは……所詮貴様は中途半端に善と悪の狭間で苦しむ愚か者よ!」

 

 海龍の肩から先が消え、一瞬の内に拳が振り抜かれた。

 拳から放たれた衝撃は、原子を砕く威力と光の速さで突き進む。

 

 だが海龍と対峙する男は、軽く片手をかざすだけで簡単にその衝撃を弾くと、その身に纏う黄金聖衣が輝きを増した。

 

 「お前に言われるまでも無い。そんなことは私自身が一番良く分かっている。そんなことよりも……いい加減茶番は終わりだ。そろそろ聞かせてもらうぞ……一体何故お前が生きて、しかもあろうことか海皇ポセイドンになど付き従っているのか…………マスクを取って答えよ! 我が弟、カノン!!」

 

 「うっ!?」

 

 腰まで届く長髪を風に靡かせ、一瞬の隙を突いて繰り出した指拳の一撃でカノンと呼ばれた男、海龍のマスクを吹き飛ばしたのは――――ジェミニのサガ!

 

 そして、吹き飛んだマスクの下から現れた海龍の顔。

 サガの言ったことは間違いではなかった。

 そこにいたのは、たった今目の前で対峙している相手、ジェミニのサガと瓜二つの顔立ちをした男。

 そう、まるで生き写しのように。

 

 「フッ……生き別れた双子の弟を見た割に、さして驚いてはいないようだな」

 

 海龍――――いやカノンは、先手で放った光速拳を弾かれ、マスクが飛んだだけとはいえ一撃を入れられたにも拘らず、その態度を崩すことはなかった。

 或いは、この程度のことは予め分かっていたのだろうか。

 険しい表情で立つサガに比べて、その顔にはまだ余裕が見えた。

 

 「クックック……茶番か……確かに俺と貴様は同じ力を持っているのだ。こんな小競り合いではいつまで経ってもケリは着かんが………これを見ても同じことが言えるかな!」

 

 「何……?」

 

 カノンの手に膨大な小宇宙が集約する。

 宇宙の彼方に存在するという、あまりに巨大過ぎるが故に自らの作り出す重力に耐えることが出来ずに潰れていく星々のように、その小宇宙の高まりは限界を超えて収縮し始める。

 自重で崩壊した星の結末は、全てを呑み込み破壊するという超新星爆発。

 

 その超新星爆発によって発生する凄まじい力を、生身の体で放つ男がここにいる!

 

 「受けろサガ! ギャラクシアン・エクスプロージョン!!!!」

 

 サガの足元が大きく爆ぜる!

 星をも砕く銀河の爆風!

 

 「うおぉぉっっ!?」

 

 信じられない威力の衝撃が下からサガを突き上げた。

 サガも、まさかカノンがこれを放ってくるとは思ってもみなかったのだろう。

 その凄まじさにサガの身体は木の葉のように吹き飛んだ。

 激しい爆風にも意識を保っていられたのは、サガ自身もこの超絶技を習得していたおかげか。

 しかし空中で体勢を立て直したサガの目に、とんでもないものが飛び込んで来た。

 

 「ククク、俺の技は貴様からの借り物ばかりではないぞ!」

 

 カノンの手が空中で大きな黄金の大三角を切る。

 光の三角形に囲まれた部分、その空間が捻れ、大きく異次元へと口を開けた。

 

 「俺が守護する北大西洋には、魔の三角地帯と呼ばれる海域が存在する。そこを通り過ぎる船や飛行機は、ことごとく異次元に引きずり込まれて二度と脱出することは出来ずに、この世界から消え失せるのだ。それを今、見せてやろう!」

 

 尚も空中に留まり続ける黄金の三角形が、その大きさを増してサガを呑み込む。

 

 「落ちろ! 時の狭間に! ゴールデン・トライアングル!!!」

 

 黄金の三角形が空間をねじ曲げ、時空の彼方を呼び寄せる!

 

 三角形はサガを呑み込むと、歪んだ時空と共に姿を消した。

 

 「ククク………サガめ、時空の果てに消え去ったか! 最も厄介な奴が居なくなったわ! 後はポセイドンに任せておけばそれでいい。海底に現れた黄金聖闘士は全滅。これで……これで俺の野望は達せられも同然だ! ウワーーッハッハッハ!!」

 

 サガが異次元に消えたのを見て、勝利を確信し高笑いするカノン。

 しかし次の瞬間、捻じれた時空が逆回転して再び開く異次元への扉。

 

 「ハハハッ…………なっ!?」

 

 カノンの他に異次元を操る力を持つ者などこの男しかいない。

 再び口を開けた異次元から姿を現したのは――――サガ!

 

 「クッ……しぶとい奴め! くらえ!」

 

 異次元空間から戻ってきたサガに、勢いよく突撃して拳を見舞うカノン。

 しかしその拳がサガを捉えることは無く、カノン渾身のストレートは手首を取られて逆に返しの一撃を受ける。

 下方から上空へと、打ち上げるようにして放たれた痛烈な一打に、宙を舞ったカノンの視界が反転する。

 

 「カノンよ、聖域から逃げ出し海皇の走狗に成り下がったお前の技が、この私に通用するとでも思ったか!」

 

 今度はサガの小宇宙が次元を曲げた。

 先程カノンが繰り出した技、ゴールデン・トライアングルを上回る巨大な空間が口を開ける。

 

 「見るがいい……次元を操るとはどういうものかをな!!」

 

 「うっ……うおぉっ!」

 

 「異次元へと飛んでゆけ! アナザーディメンション!!!」

 

 空間がねじ曲がりその先に、ぽっかりと黒い穴が空いたかのように異次元が覗いている。

 そしてその空間から発せられる引力の強さは、カノンのそれを遥かに凌ぐ。

 凄まじい引力に、カノンの足が遂に地面を離れようとしていた。

 

 「チィッ……おのれぇ!!」

 

 カノンは再び小宇宙を爆発させ、サガの作り出した異次元をその爆風で空間ごと吹き飛ばした。

 空間の歪みが消し飛ばされ、カノンにかかっていた引力も消失する。

 しかし――――

 

 カカァッ!!

 

 その瞬間、カノンの頭脳を一条の光線が突き抜けた。

 

 「な……!?」

 

 一瞬の内に全身が硬直して、カノンの動きが止まる。

 

 「お前に幻朧拳をかけた。さあ話してもらうとしよう、今までお前が何をしてきたのかをな」

 

 そうサガが告げた瞬間、カノンの脳裏には十三年前のある出来事がフラッシュバックしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――十三年前、聖域

 

 「なんだと!? もう一度言ってみろカノン!」

 

 怒声と共に、サガの拳が唸りを上げて突き刺さった。

 手加減はしているのだろう。

 なにしろ黄金聖衣を身に付けたまま殴られたのに、俺は生きているのだから。

 

 「アテナを……教皇を殺せだと!? お前は自分が何を言っているか分かっているのか!」

 

 またしてもサガの拳が飛ぶ。

 

 だが、分かっていないのはお前の方だ。

 このままいけばアイオロスが教皇の座につくだろう。

 そうなればお前は、その下に付くことになる。

 ならばいっそのこと、その前にアイオロスを殺してしまえばいいではないか。

 アテナや教皇まで殺せば完璧だ。

 そしたらお前に逆らう者は居なくなる、この地上の全てを手に入れることが出来るのだぞ。

 

 「ええい! もはや聞く耳持たん! 心を入れ換えるまで、スニオン岬の牢獄で頭を冷やせ!」

 

 馬鹿な!

 お前はみすみす目の前のチャンスを手放すと言うのか。

 昔からそうだ。

 お前はいつでも、自分の望みを力で押し通そうとはしない。

 そうするだけの力は十分あるにも拘らずだ。

 そんなところが、俺は気に入らない。

 

 だが、俺は知っているぞ。

 サガ、お前は常に他人の前では善であろうとする。

 そのために、自分の心を深く押し殺しているのが。

 そしてその心の奥底には、この俺と同じく悪の魂が眠っているということをな。

 

 「おのれサガ! 俺はお前の耳元で邪悪への誘惑を囁き続けてやるぞ! 覚えておけ! お前の本質もまた紛れもない悪なのだ!」

 

 投獄された俺は、サガの後ろ姿に向かって牢の中から叫んだ。

 しかしサガはこちらを振り向きもせずに去ってゆく。

 そして二度と、サガが俺の前に姿を現すことは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 スニオン岬の岸壁の下に作られた岩牢は、強力な封印が掛けられているために、この俺の力を以てしても破ることは不可能だった。

 黄金聖闘士数人がかりならば、この牢から脱出することが出来るだろうが、今の俺には関係の無いことだ。

 

 この牢獄の環境は厳しい。

 日に数度、海が満潮となり、普段は足元にある水位が一気に上昇し、牢を海水で満たすのだ。

 

 一体何度死にかけただろう。

 潮が満ちる度に、そう思った。

 しかしそんな時に、幾度となく大きな暖かい小宇宙を感じた気がする。

 まるで、俺を守ってくれているかのように。

 

 そして牢に入れられてから数日後、俺の身体はとうとう限界を迎えていた。

 冷たい水に長時間浸かった身体は、芯から凍えていた。

 もはや感覚そのものが薄れてきているのが分かる。

 だが、五感が低下していたからこそ見えるものがあったのだ。

 

 「こ……これは……?」

 

 岩牢の奥深く、そこから漂ってくる微かな小宇宙。

 全身の感覚がここまで衰えていなければ、到底それに気付くことは無かっただろう。

 なけなしの力を振り絞り、小宇宙の源を探っていくと、牢の最奥の壁の向こうから来ている。

 軽く叩いてみると、壁の向こうは空洞のようだ。

 

 「ここなら………今の俺でも砕けるかもしれん」

 

 外界へ出ることが出来るかもしれない一縷の可能性。

 それに賭けて、最後の力で小宇宙を高め、そして岩壁目掛けて拳を放つと壁は――――見事に崩れた。

 

 

 

 

 

 

 「これは……し……知っているぞ……これが伝説の……海皇ポセイドンの三叉の鉾か!」

 

 崩れた壁の向こうに広がる空洞の中に眠っていたのは、いつか伝説に聞いたことのある海皇の鉾。

 聞くところによれば、かつて起こったアテナとポセイドンの戦争で、勝利したアテナがポセイドンの武器である鉾を封印したということだ。

 

 その鉾が今、目の前に。

 

 気が付くと、岩に突き刺さった鉾に手をかけていた。

 刃の部分にとても古い紙の札――――血文字で書かれたアテナの封印が貼り付けてあったが、力を入れて柄を引くと難なく引っこ抜くことが出来そうだった。

 

 そして、鉾を抜いた。

 その瞬間、鉾が物凄い力で海へと引き寄せられた。

 柄を握ったまま、俺は鉾に引きずられて海に飛び込み、やがて意識を失った。

 

 

 

 

 

 目を覚ますとそこは、頭の上に海が広がる海底の都市だった。

 手にはまだ、海皇の鉾がある。

 恐らくここが、ポセイドンの都アトランティスか。

 地上ならば空のある所に海が見えるというのが海皇らしい。

 見回してみれば、辺りには聖域のように神話の時代の建造物も並んでいる。

 

 やがて自然と、海底の建物の中でも一際目を引く巨大な神殿に足を向けていた。

 奥へ奥へと進んでいくと、やがてとある大広間のような場所に辿り着いた。

 そこには、様々な海の魔物を模したオブジェが安置されていた。

 数えてみると、全部で八つある。

 

 そこでまた思い出した。

 かつてポセイドンがアテナと争った時、ポセイドンの兵士は皆、鱗衣と呼ばれる鎧を纏っていた為に、当時生身の体で闘っていた聖闘士達は非常な劣勢に立たされたという。

 そしてその鱗衣に対抗して作り出されたのが、現在の聖衣であると。

 目の前のオブジェが、或いは鱗衣なのだろう。

 

 やがて鱗衣の中で最も奥に安置されていたものが、目についた。

 それは手に鉾を持つ、雄々しい神の上半身を象った鱗衣。

 その神々しさ、これがポセイドンの鱗衣と見て間違いないだろう。

 ふと見ると、ポセイドンの鱗衣のある台座の下に、小さな壷がある。

 その壷にも、やはり古いアテナの封印が施されていたが、鉾と同様に長い年月が過ぎたせいでその力も弱まっているのか、簡単に札を剥がせた。

 

 その時だった。

 

 ポセイドンの鱗衣が、突然声を発したのは。

 

 「オ……オォォォォォ……! ここは……どこだ……お前は……何者だ…!」

 

 聞く者にとてつもない畏怖の念を植え付けるような、絶対的な威厳に満ち溢れた声。

 その声を発している鱗衣を確認する間でもなく、まさしくポセイドンのものであることが否応なしに理解される。

 咄嗟に跪き、内心の震えをなるべく外に出さないようにして、ポセイドンの問いに答えていく。

 

 しかし跪いて応えを返す内に、ポセイドンが再び目覚めるのは大分先のことだと分かった。

 暫くは、人間の依り代の中で眠っているつもりだということも。

 

 その瞬間、頭の中に何かが閃いた。

 

 ひょっとして、このままポセイドンを眠らせたままにしておけば、その配下の海闘士達を好きに操ることが出来るのでは?

 

 成り行きで海将軍の一人である海龍を名乗ることになったが、他の海将軍の力を集めれば聖域に闘いを挑むことも可能ではないか?

 

 最初にポセイドンの下に集まった海将軍として、他の海闘士や海将軍達の上に立つことは不可能ではない。

 

 「フッ……フフフフフ……」

 

 ポセイドンの意識が消えた後、一人で立ち尽くしていると、込み上げてくる笑いを抑えることが出来ない。

 

 そうだ。

 

 俺自身の力に加えて、海闘士さえも支配下に置けば、地上を征服することも夢では無い。

 

 「フ……フハハハハハッ!! そうだ! これだけの力があれば……海も! 地上も! このカノンが支配してくれる!! サガよ、待っているがいい! この俺こそが全ての支配者となるのだ!! ウワーーハッハッハ!!」

 

 

 ………………

 

 …………

 

 ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ハッ……!?」

 

 カノンの思考が、たった今陥っている現状に追いついた。

 今はまだ、サガと闘っている最中だということに。

 

 「なるほど……お前はそうして、海闘士を率いて地上を征服しようとした、という訳か」

 

 いつの間にか、膝を着いたカノンをサガの方が見下ろしてした。

 その顔からは、何の感情も読み取ることは出来なかったが、ただ凄まじい小宇宙だけが全身から立ち上っている。

 

 その姿を見ていると、カノンの胸の内に徐々に怒りにも似た感情が湧き上がり始めた。

 それは、己が十三年を懸けて成し遂げようとしたことが、ことごとく無に帰そうとしている事からくるものか。

 それとも、かつてカノンをスニオン岬に幽閉したにも拘らず、遂にはカノンが唆した事を実行して教皇を殺害し、アイオロスやアテナさえも亡き者にしようとした男が、今アテナの聖闘士として現れたことへの思いか。

 或いは、その両方。

 

 「ふざけるな……」

 

 「……」

 

 「ふざけるなよサガ! あの時俺を悪だとして処分しておきながら、結局は俺が言った通りのことをした貴様が、のうのうと聖闘士としてやって来て今また俺の野望を潰すのか!!」

 

 カノンの拳が走った。

 その拳は狙い通りにサガの顔面を捉えたがしかし、サガは微動だにすることなく受け止めていた。

 硬い岩を殴ったような、拳の感触にカノンは歯噛みする。

 

 「クッ……何のつもりだ! 俺の拳など通用しないとでも言いたいか!」

 

 「そうではない。だが、私はお前をスニオン岬に送りながら、結局はお前の言った通り自らの悪を抑えることが出来なかった男だ。お前にも私を殴る権利はある」

 

 「なんだと……?」

 

 神妙な顔でそう言うと、サガは自分を殴りつけた拳に手を伸ばしたが、カノンはまた拳を掴み取られることを恐れて引いた。

 そして再び睨み合う両者。

 先手を取って仕掛けたのは、やはりカノンだった。

 

 「今更俺に……俺にその言葉を信じろと言うか!」

 

 所構わずカノンは拳で殴りつける。

 それに対してサガは、雨霰と繰り出される拳の一つ一つを丁寧に捌いて有効打を与えない。

 そして攻撃を一通り捌くと、間髪入れず体勢が崩れたカノンの胴体にカウンター気味に入れられたサガの剛拳が、カノンを柱に叩きつけた。

 

 「グアッ……!」

 

 「カノン……お前の言う通りだ。このサガとて、自らの悪心ゆえに犯した罪の大きさはお前にも劣らん。お前が悪だ、などと言うつもりは毛頭無い」

 

 「フン、当たり前のことをいけしゃあしゃあと! 貴様は――――」

 

 しかしその瞬間、カノンの身体が凍りついた。

 サガから放たれている小宇宙が――――これまでの比ではない。

 

 のしかかる重圧はまるで地球の重力が増したかのよう。

 

 「だがな……そんな私をアテナはお許し下さった。罪を償い、そして闘えと。だからこそ私は…………言葉ではなくこの拳で示そう! お前が引き起こしたこの戦いが……いかに愚かであったのかをな!!」

 

 「なっ!?」

 

 立ち上る小宇宙そのものが既に爆風の如し。

 その全てが掲げた掌の上に集中していく。

 

 「受けよ……このジェミニのサガ最大の拳を。見せてやろう、ジェミニの神髄を!!」

 

 サガのその一言が、重みを持ったかのようにカノンの身体を地面に縛り付ける。

 カノンの目の前で、膨大な小宇宙が一点に集中し――――弾ける。

 

 「う……うおぉおおお!」

 

 「銀河に散れい! ギャラクシアン・エクスプロージョン!!!!」

 

 星も砕けよとばかりに振るわれた、その衝撃は銀河爆砕!

 カノンも柱もまとめて砕く、その驚愕の破壊力!

 

 耳を聾する爆音、そして全身が砕け散るような痛み、崩壊する柱を見ることも無く、カノンの意識はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「…………柱を破壊した者は、海底神殿のアテナの元へ急ぐのだ」

 

 うっすらと、何者かの声が届くと同時に、急速にカノンの意識が覚醒した。

 だが目覚めたのは意識だけ、カノンはすぐさまその場から飛び起きようとしたが、全身に受けたダメージによって敢えなく膝を着いた。

 

 「……目は覚めたか」

 

 「グッ……何の用だサガ」

 

 既に破壊され、瓦礫と化した北大西洋の柱の残骸が見える。

 カノンにしてみれば、サガがここに来た目的はもう達せられているはずだ。

 なのに、何故サガは未だにここに留まっているのか、カノンには分からなかった。

 

 「そう身構えるな。ただ、お前に聞きたいことがまだ残っているのでな」

 

 「聞きたいこと……だと?」

 

 「お前が解放したというポセイドン。それを封じていた壷というのはどこにある?」

 

 「!!」

 

 「今、私に届いたテレパシーによれば、既に海将軍の大半は敗れたようだ。ならば残りは海皇ポセイドンのみ。だがその壷無くしては、例え黄金聖闘士と言えども神に太刀打ちすることは出来ないだろう」

 

 「俺がその在処を……お前に教えるとでも思うか?」

 

 せめてもの意趣返しのつもりなのか、カノンはそう言ってニヤリと笑う。

 

 「愚か者め……お前がその場所を言わなければ、アテナは死ぬかもしれん。お前は命を救われた恩さえも忘れるのか?」

 

 「なに……?」

 

 サガの言い放った聞き捨てならない言葉に、カノンは思わず耳を疑った。

 

 「俺が……アテナに……? 何を言っている?」

 

 それは、あまりにも荒唐無稽と言うしかなかった。

 

 「お前の命はかつてアテナに救われている。そう言ったのだ」

 

 「馬鹿な……俺が聖域にいた時、アテナはまだほんの赤子に過ぎなかったのだぞ!」

 

 正気かと尋ねたくなるような事だと、カノンが感じたのも無理は無い。

 しかしサガの言葉は続く、それが紛れもない事実であるということを伝えるために。

 

 「お前は、スニオン岬で何度も小宇宙を感じたと言ったな」

 

 「確かにそうだが……しかし……」

 

 「お前が感じたその小宇宙こそが、アテナの小宇宙よ。そうは思わぬか」

 

 カノンの記憶に甦る、スニオン岬の牢獄の中で感じた雄大な小宇宙。

 

 「あれが……アテナの小宇宙だと……?」

 

 身体を包み込むようにして冷たい海水からカノンを守ってくれた、あの時の小宇宙をサガはアテナのものだと言う。

 カノンは、アテナがソレントに付いて海底へとやって来た時の小宇宙を思い返していく。

 敵意は無いが恐ろしいとソレントは言っていた。

 だがカノン自身が見たアテナの姿はどうか。

 すると、それがカノンの記憶にある小宇宙と――――重なった。

 

 「うぅっ……まさか……そんなことが……」

 

 段々と鮮明になっていくかつての記憶は、カノンのその考えが間違ってはいないことを裏付けているかのよう。

 理性がどれほど否定しようと、既にカノンの心は本当にアテナによって自分は命を救われたのではないか、という方向へと傾いていた。

 

 「聖域にいた時から、アテナはスニオン岬で死にかけていたこの俺を……?」

 

 まさかと思う気持ちもある。

 むしろそう思って当然なのだろう。

 しかし考えれば考える程、その思いはカノンの中で、却って確信に変わっていった。

 

 これまでカノンがアテナに対して抱いていた、所詮は聖闘士に命令を下すだけの神だという、侮蔑に近い感情。

 もしサガの言ったことが事実ならば、そう考えるとそれらの感情がまるで消え去ってしまったかのようで。

 

 「そんな……ことが……」

 

 記憶の彼方と交差するアテナの存在が、真実となってカノンの心を強く打った。

 全く見ず知らずの存在であったカノンに対して、しかも当のカノンはアテナを殺せとさえ考えていたのに。

 

 まさしく、常にサガの陰に隠れ、兄への劣等感の裏返しから自分には悪の心しか無いと嘯いていたカノンの心に、穏やかな光が射し込んだようだった。

 こんな自分でも、アテナは気にかけてくれていたのだと。

 カノンはまるで憑き物が落ちたようにただ呆然とするしかなかった。

 

 そしてその表情の変化に、それ以上の内心の変化を見てとったサガは、見計らったように穏やかにカノンへと声を掛けた。

 

 「気付いたか…………カノン、ポセイドンを封じる壷の在処、教えてくれるな」

 

 カノンにとって、つい今しがたまで自身の中に蟠っていたサガや、その他様々な事についての負の感情、そのことごとくが、今となってはとても卑小なものにしか感じられない。

 幼い頃の、兄サガやアイオロス、地上を守り闘う聖闘士達への憧れのような感情が甦る。

 

 ……俺は……もしも許されるならば……

 

 「分かった…………兄さん」

 

 カノンはサガに、封印の在処と、そして自らの思いを伝えていた。

 

 

 

 

 


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