「ゴン、ボヤッとすんなよ。人の心配してる場合じゃないだろ」
「うん……」
「この霧だ、一度はぐれたらアウトだぞ」
うひー、ほひー、うわーっと多彩なバリエーションの悲鳴が湿原に木霊する。
そんな中、キルアは試験官であるサトツの姿を見失わないよう注意を促す。
「ゴン行きたいの?」
「……」
ゴンのソワソワっぷりからして、次に取るであろう行動は明白。
近くで悲鳴が聞こえるか、知っている者の悲鳴を聞けば駆け出すに違いない。
念の為に安全装置としての釘を刺しておく。
「オイ、ナップまで何言ってんだよ」
こいつは誰にも止められないと思う。
残念だけどゴンのブレーキはカスカスだ。
──ってぇぇぇぇええええ
聞き覚えのある悲鳴。
おそらくレオリオ。
すぐにでも踵を返して、向かおうとするゴンの手首を掴み、止める。
死を間近で嫌と言うほど見ていると、今や原作の流れがどうのと記憶を辿る事すら出来ない。
ゴンを止められるのかどうか、その確認をすべく正面からそのご尊顔を確認する。
無理っぽい。
「ゴン?」
「……あの悲鳴、レオリオのだと思うから、オレ行って来る!」
「へいへい」
「ってオイ、お前まで行くのかよ!」
仕方がない。
駆け出すゴンを見失わないよう、すぐ後を走る。
背中越しにキルアの声が聞こえてきたが、返事はせずにその場を去る。
「場所、わかる?」
「うん。レオリオの香水の匂いを辿るから大丈夫」
「オッケー」
どう考えてもヒソカが受験生を襲っている。
おそらくレオリオも襲われた内の一人。
この展開の発端や結末に関して、あまり記憶がない上にそもそもあっただろうかが疑わしい。
俺が介入した所為でレオリオが襲われたかもしれないという懸念は、もう考えない。
どうしたって何らかの影響は周囲に撒き散らすんだ。
考えたって意味がない。
プルプルと震える両手両足は動き続ける事で黙らせる。
「──気ィ長くねーんだよォオー!」
はっきりと聞こえて来たレオリオの絶叫。
かなり近くまで来ていたようだ。
ゴンが駆ける速さを更に加速させ、手にした釣竿を振りかぶる。
俺は俺で、ヒソカの死角となる方向を計算して移動する。
すぐに存在がバレるだろうけど、もうやるしかない。
──ドコッ
ヒソカのこめかみへとゴンが振るった釣竿の先に取り付けられた重しが当たる。
衝撃によってヒソカが態勢を仰け反らせる。
その拍子に背後を取られ、窮地であったであろうレオリオからゴンへとヒソカの視線が向けられた。
当然、俺はスニークミッションを発動しているので体勢を低くしてコソコソと移動している。
「やるねキミ♣ 釣竿、か……面白い武器だね♥ ちょっと見せてよ♦」
「テメェの相手はオレだ!」
あ、バカ。
せっかくゴンが作った命懸けの隙を無にするかのように、レオリオが手にした棒切れを振り上げヒソカへと襲い掛かる。
──ゴッ
ヒソカの左アッパーがレオリオの右頬を捉える。
ニ回転半に加えて捻りを入れたレオリオは、宙を舞う。
レオリオの体が地に触れる前、ゴンはヒソカへと向かって踏み込み、釣竿を振りかざすと頭部目掛けて横薙ぎにする。
早い。
マンモス早すぎて目で追うのもギリギリ。
そんな超絶速度でヒソカはしゃがみ込み、ゴンの釣竿を回避する。
同時に伸ばされるヒソカの左手がゴンの首元を掴もうと、動く。
「仲間を助けにき──」
ヒソカがゴンのみに意識を向けた一瞬を狙い、手近にあった石を投げつける。
狙いはゴンの首元を掴もうと伸ばされた、ヒソカの左手首。
次いで、すぐ様、手にしたナイフを抜き放ち二人の下へと駆ける。
ヒソカの左手首よりやや上、肘と手首の中間辺りに命中した石が作り出した間隙を利用して、一気に詰め寄る。
力は籠めず、出来うる限りの速さを意識して斬りかかる瞬間、微笑を浮かべたヒソカと目が合う。
案の定、器用にも手を交差させ、右手の人差し指と中指の間でナイフの刃を悠々と挟み取られる。
一連の流れの中、その隙を突いて、ゴンが後方へと飛び退る。
逃れる際にゴンがヒソカへとつま先で蹴りを放り込むも、顎を引いたヒソカに軽く回避されている。
そんなやり取りを尻目に、俺もすぐ様ナイフの柄から手を放し、後方へと飛び──
「ダメだよ♠ キミは逃がさない♣」
「ナップ!」
「さっき話を聞きそびれちゃったからね♥」
回避されるのは想定していた。
だからこそ、ナイフの軌道を歪にしてやった成果だろうか。
なんてのはウソだ。
それは後付で、ビビって震えてしまい手元が狂ったのが幸いしただけ!
だが、戦果としてヒソカの指先が少し切れている。
頭が回る奴であれば、ナイフの刃に毒でも塗っておくんだろうけど、クソ!
ペロリと指先の血を舐め取り、笑みを浮かべるヒソカ。
ゴンの時とは違って、ヒソカは既に左手で俺の首元を掴んでいる。
クソ、俺も逃げるつもりが一瞬で捕まってしまった。
「な、なんですか? 話って」
「くっくっく♦ キミ達は兄弟かな?♠」
一次試験の前、トンパとのいざこざについて聞かれるものかと思ったが、意外な質問に驚く。
周囲に散乱する死体を前に、こんなどうでも良い会話を振って来るヒソカの瞳には狂気が色濃く宿っている。
「いや……違う、ます」
「フーン……これ見えてるかい?♣」
少し切れた人差し指を突き立てるヒソカ。
この程度の霧、加えてこの至近距離であれば勿論、見えてますとも。
マジマジとヒソカの指にある傷口や爪、指紋の一本一本を凝視する。
コクコクと頷き返答する。
対してヒソカは意外そうな表情を浮かべる。
「綺麗な指、だと、です」
「……ありがと♥ キミ達も合格♦」
「え?」
目と口を、目一杯左右に広げて、たぶん笑っているであろうヒソカ。
そのヒソカの口から合格だと言い渡され、首元を掴まれていた手が放される。
ゴンも俺も、声を合わせて戸惑いの声を上げる。
──ピピピピピ
ヒソカの体から電子音が鳴り響く。
トランシーバーのようなものを腰元から取り出すヒソカ。
その動作の中で、ナイフの柄を俺の手に乗せてくる。
何やらやり取りを終えたヒソカが転がったままのレオリオへと近づき、肩に担ぐ。
って、レオリオって生きてるのか?
ヒソカが死体を埋葬するようには見えないが……。
ん?
ややレオリオの体が痙攣しているのが見えた。
どうやら、生きているようだ。
「──キミ達だけで戻れるかい?♠」
ゴンも俺も、同時に頷く。
「イイ子だ♣」
レオリオを担いだまま、濃い霧の中へと姿を消すヒソカ。
俺とゴンは何も口にせず、しばらくヒソカが去った霧を眺めていた。
「ゴン! ナップ!」
クラピカが慌てた様子で駆け寄ってくる。
彼のこういう仕草はあまり見られないかもしれない。
目をキョロキョロさせて、アワアワする姿はイケメンであるのに中々にコミカルだ。
状況を軽く説明し終えると元のクラピカにすぐに戻った。
残念に思いつつも、やはりこっちの方のクラピカでないとダメな気もする。
「だー! マジで死ぬかと思った……ってあの状況はお前だけでも逃げろよ!」
「そっちこそ! あれってオレを逃す為だったんでしょ! お互い様だよ!」
「オイオイ、お前達……」
さっさと二次試験会場へと向かおうと、走り出す中、先の件でゴンに対して注意する。
お前があの場面で逃げないなら、身を削った意味がまったくない。
ゴンの性格からして逃げろって言うのは無理難題ではあるだろうけど、たまには言う事を聞いて欲しい。
俺のそんな考えを他所に、ゴンとクラピカが言葉を交わす。
ゴンはヒソカが言った合格という言葉の意味を引きずっている。
それに対してクラピカがヒソカなりに経験や勘に基づいて、同じ臭いを感じ取ったのだろうと答える。
一定の納得を見せたゴンは更に続ける。
眼前に迫り来るヒソカ、対峙して悟った死を前にした時の感情。
「──オレ、あの時少しワクワクしたんだよね」
「ハァ……」
「ナップ……」
ダメだ。
こいつはある種の病気だ。
盛大に零れ落ちた俺の溜息を見てか、クラピカが言葉を詰まらせている。
「ナップはワクワクしなかった?」
「うん。あそこまで力の差を感じちゃうとなぁ……何したって敵わないって、それ以外は考え付かなかった」
「うーん、オレが変なのかな?」
湿原の中、そこら中に騙され命を落とした受験生を横目にしつつ、ゴンが首を傾ける。
「そういう感覚をあのヒソカ相手に抱くのはなぁ……クラピカの顔見りゃわかるでしょ」
「……」
「それは何となく……でも、ナップも少しはワクワクしたかと思ってたんだよね」
きっぱりと俺はワクワクなんてしなかったと伝えたはずだ。
それでも食い下がってくるゴン。
さっきのヒソカとのやり取りの中、俺が笑顔でも浮かべていたんだろうか?
「何を根拠に……」
「何となく。そうかなって……少し笑ってなかった?」
「……んなわけないだろ」
ゴンの言葉を聞き、クラピカが「マジで?」という疑いの目を向けてくる。
こちらも目で「ちげーよ」と訴えるも、クラピカの目から疑いの色は消えない。
これ以上、否定したところでもう疑いは晴れない。
というより、晴らす必要もない。
もうヒソカを相手にしないようにしつつ、この試験を乗り越える事だけを考えよう。
それからは頭を切り替え、黙々と走る。
だいぶ走った頃だろうか、死体を見る数も減ってきた。
霧も晴れ、あと一時間もせずに太陽が真上に差し掛かるであろう、その時。
──ある
ヒソカと相対して感覚が極限まで研ぎ澄まされているからかもしれない。
直感で“ある”と確信する。
その次に視覚で確認すべく周囲を見渡す。
一秒たりとも無駄には出来ない。
番号札を胸元につけた、頭部を失くした受験生と思しき死体に当たりを付ける。
その死体が所持していただろうカバンの中の荷物が、その場にバラ蒔かれている。
散乱した荷物の中に、ひとつだけ光り輝く物体を捕捉する。
間違いなく、お菓子。
それも上質と言っても良い、日持ちするであろう有名なチョコ系スナック。
「へ、へへへ……」
「オイ……どうした」
「あー……」
封を切って、口元へと運ぶ。
久しぶりに感じるチョコ特有の深い甘さ。
頭の芯から甘くなっていく感覚を覚え、全能感に包まれる。
慌てずゆっくりとチョコの風味と食感を堪能して、目を開ける。
知らぬ間に目を閉じていたらしく、視界には頭部を失った死体が映る。
この貴重な菓子の提供者たる死体へと向けて、感謝の念を込め手を合わせる。
「……ごち、そうさまでした」
「ナップ、行くよー」
「……」
先ほどまでは陰鬱で陰惨な印象しかなかった湿原が、今は輝いて見える。
お菓子の持つ素晴らしさを再認識。
慌てて食べてしまった反動だろうか、頭の中がスースーとする。
じめじめとした遠くに見える沼……食えないかな。
何やらゴンが俺の体を引っ張っているらしい。
軽くトリップしているなぁと自覚するも、引かれるのに任せて歩を進める。
──グゴゴゴゴ グルルルル
まだまだ小さく見える建物から聞こえて来た、くぐもった唸り声。
その唸り声を知覚して我に返る。
遠目に人の群れが見えるので、湿原の動物が暴れているわけでもなさそうだ。
二次試験がもう開始されているのかは、ここからではわからない。
「どうやら間に合ったようだな」
試験官の姿は見当たらない。
クラピカの安堵したような言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。
立ち止まらず、三人で受験生の群れの中へと歩を進め、レオリオの姿を探す。
「げっ」
首の後ろに感じた強烈な視線。
視線の方向へと振り返れば、そこには腕組みして佇むヒソカが居る。
思わず漏れた声が聞こえたのか、ヒソカの右眉がピクリと跳ねる。
眉を上げつつも、少し離れた木陰をくいと指差すヒソカ。
その指し示す方角には手足をだらしなく伸ばし、ぼけーっとした顔で座るレオリオ。
ゴンとクラピカがそちらへとすぐに駆ける。
ヒソカに対して頭を少し下げて、運んでくれた事に対して礼をする。
返礼なんて期待していないので、先行した二人の後に続く。
いや、そもそもレオリオをぶっ飛ばしたのはヒソカだ。
クソ、ちょっと良い事があったからってボンクラになりすぎだ、俺。
気を引き締めようと決意するも、たぶん今の俺はにやけているに違いない。
「──どーも湿原に入った後の記憶がはっきりしなくてよ。何でオレ、こんな怪我したんだ?」
クラピカがぽけーっとしたままのレオリオの傷の具合を確かめ、事情を聞いている。
それに答えるレオリオの言葉を聞いて、クラピカがゴンと俺に目配せする。
この目は……なるほど、真実は言うな、かな?
「何もなかった事にしとこ」
よくわかんない、って顔のゴンへとそっと耳打ちする。
何やら抜け落ちた記憶を探り続けるレオリオには、俺達の姿は見えていないようで、突っかかっては来ない。
「はい。カバン」
「オ! オメェが持ってきてくれてたのか、助かったぜ」
「拾ったのはゴンだよ。中は見てないけど、ビン? みたいなのは割れちゃったかも、ごめん」
手にしたままのレオリオのカバンを、半裸のままの彼に手渡す。
中には替えの衣類でも入っているだろうし、早く服を着た方が良い。
ナイーブな部分を寝ている間にでも蚊に刺されたのか、痒そうだ。
「へ、気にするな! 消毒液がちっとダメになってるだけで……お、ほとんど大丈夫だ。重ねて礼を言うぜ、ナップ、ゴン」
俺から手渡されたカバンを開け、中身を確認していくレオリオ。
案の定、中にワイシャツが入っており、それを羽織る。
一連の動作は自然ではあるが、乳首の辺りを時折、掻く姿が地味にくる。
「ねね。何でみんな建物の外にいるのかな?」
そういや、何でだっけ。
確か、ここからは二次で、内容は……えーっと、狩りと料理だっけな。
ビッチっぽい人が試験官だってのは覚えている。
「──中に入れないんだよ」
「キルア!」
「よ」
スケボーを小脇に挟み、ゴンの疑問の声に答えるキルア。
この登場の仕方、こいつハンサムだな。
雰囲気やら言葉のチョイス、見た目も含めてハンサム度が高い。
将来、色んな意味で色んな人々をヒィヒィ言わせるに違いない。
「──香水のニオイを辿ったー!?」
「うん」
「お前……やっぱ相当変わってるな」
「そうかな?」
いやいや、キルアも相当な変わり者だろ。
ハンサムでお菓子中毒とか、大人になったらどうする気だ。
「で? 何で中に入れないの?」
「見ての通り。変な唸り声はするけど、全然出てくる気配はないしさ」
「正午から二次試験がスタート? って意味かな、アレ」
「じゃね? とにかく、待つしかないだろうな」
大きな建物の入り口らしい戸の上に、掲げられた板には“正午スタート!!”と汚い字で書き殴られている。
何が正午にスタートするかは、状況的には明白ではあるが……。
事務的な連絡くらい、しっかり伝えろよと変な所で憤りを感じる。
看板の上、窓を挟んで更にその上に掛けられた時計が針を進める。
カチリと二本の針が頂点で重なるのと同時、大きな戸が軋む音を立てつつ開かれる。
くぐもっていた唸り声が鮮明となり、耳に届いてくる。
現れたのは一人用のソファに腰掛ける露出度の高い衣服を纏う女。
その背後に座す、大男。
実に卑猥な光景に眩暈を覚える。