~夢見る少女の転生録~   作:樹霜師走

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 ※本話は以前掲載していた話と概ね同じ内容です。『キラ・ヤマト』にまつわる大幅なキャラクター崩壊要素が含まれますので、ご注意ください。


『ニュー・オーダー』B

 

 

 深宇宙探査開発機構〝D.S.S.D〟とは、火星軌道以遠領域の探査、および開拓を目的に設立された宇宙開発機関である。

 人類の活動領域、新たなる惑星入植地の発見と開拓を意味する『フロンティアの前進』を理念に掲げ、あらゆる国家・体制・宗教・民族を超越した、中立の英才機関として発足している。

 

 第二次〝ヤキン・ドゥーエ〟攻防戦後、停戦を迎えてから、約八か月ほどが経過し、伝説のMS〝フリーダム〟のパイロットであったキラ・ヤマトは、そのD.S.S.Dに所属する研究員の一人となっていた。

 

 さまざまな経緯については後述する形となるのだが、そのような前進的な機関で働くこと──それはある種の夢のある話であるように思えて、しかし、そこに辿り着くまでにキラ・ヤマトが歩んだ道のりは、決して平坦なものではなかったということを、先に記述しておく。

 

「D.S.S.Dの第一級管制官の資格試験って、この地球圏で、最も難しい試験だって云われているんでしょう?」

 

 とある女性研究員はそう話す。

 話しかけられた方の男性は、都市伝説のような内容を返していた。

 

「ああ、どれだけ優秀なコーディネイターでも、合格するには最低でも『二年』──ナチュラルが受けようものなら、その三倍の『六年』は掛かる難易度だって、もっぱらの噂だぜ?」

「そんな超難関の試験にさ、たったの半年で受かった人がいるんだって! それが彼、キラ・ヤマト!」

 

 話に参加したのは、また別の女性研究員だ。

 

「──俗に云う、類稀なる天才ってヤツ?」

 

 嬌声か、それとも罵声か。

 称賛と皮肉が同量だけ混じったような声音で、女性は語った。

 

「天才か。──イヤな言葉(・・・・・)だね、少なくとも、オレたちみたいな凡人からすれば」

 

 男性研究員は、自嘲したように話した。

 

「うん、たしかに、凄い話だとは思う。ドラマみたいでカッコいいとも思う! ──けど、そういう人って、同じ職場で働きたいとは思わないんだよね……これって偏屈?」

「いや、おかしくはないさ、その感じ方は……」

 

 一般的なナチュラルで『六年』──コーディネイターであれば『二年』は最低でも必要とされる難関試験を、たったの『半年』で突破した人間がいるとなれば、その名は轟き、それこそD.S.S.Dの中で大きな評判を呼び込むことは避けられない。

 稀代の天才、キラ・ヤマト──

 時代の寵児と云っても過言ではない明晰な頭脳を持った、齢十六の少年。彼はその奇跡的な能力のみならず、繊細で甘いマスクをした外見からも多くの女性の支持を集め、そうしていつか、周囲の人間は歴史の偉人になぞらえて彼のことを〝第二のジョージ・グレン〟──『奇蹟の人』と呼ぶようになっていった。

 云ってしまえば、彼という人間はヒーロー中のヒーローだった。持て囃され、弄ばれ、それはまるで道化のように、香具師であるかのように。しかし──

 

「オレなんて、あの試験に合格するためにもう四年も掛けているんだぜ? なのに、アイツは半年……本当にひとっ飛びさ。ふざけた話だよ──血反吐を吐いて努力しているオレの四年間は、いったい何なんだろうな……」

「彼、やっぱりコーディネイターなんでしょ?」

「当たり前さ! ナチュラルが半年でクリアなんてできるかよ!」

「結局、世の中遺伝子ってことなのかな。やだやだ、身の程を思い知らされるみたいでさ──」

 

 最初がどうであったかはともかく、羨望が嫉妬に変わる瞬間は一瞬であり、人間という社会的動物は、外部から来た余所者を手放しで賞賛し続けていられるほど利他的にはできていないらしい。

 オーブ国内に構えられたD.S.S.Dの研究所、同じ研究室に勤めていながら、彼らはすぐ傍らにキラがいようと構わず、このような雑談を日常的に続けていたという。いや、彼らにとっては陰口のつもりなのだろうか? 低俗であること甚だしく、憚らぬ悪意に満ちた言葉の数々は、それでもキラの耳に自然と届き、ただの陰口が露骨な悪口に変わってゆくのに、そう長い時間は掛からなかった。

 キラは、その悪口を聞こえないように努力した。さらなる勉学を重ね、学会に自分の能力を認めさせ、地上を離れて宇宙のトロヤステーションで働けるほどの見識を身に着けたのだ。それまで耳障りに響いていた罵詈雑言という名の雑音、彼のいっときの煩悶は、所詮は他人への嫉妬に時間を浪費する凡人達を地上に置き去りにすることで簡単に解決した。

 キラは学んだ。彼らの言葉に耳を傾ける必要などなかった。彼らのような凡人などは所詮、キラよりも先に生まれただけの、才能のない連中であったから──

 

 

 

 

 

「──周りはいつだって好き勝手云うものよ。少なくとも、あなたの持っている〝力〟は、この世界においては貴重な財産だわ」

 

 同じくD.S.S.D技術開発センター所属の女性技術者、セレーネ・マクグリフはそう語り、キラに向けて激励の言葉を送った。彼女は博識なるコーディネイターの女性であり、ナチュラルとコーディネイターの間で巻き起こる確執や戦争については、無関心な立場を貫いていた。

 セレーネは、キラにとって尊敬に値する人物だった。みずからが一度決めた目標は最後までやり通さなければ気が済まず、そのためなら如何なる努力も惜しまない。沸き立つ探求心と欲望に忠実とも云える彼女の姿勢は、云わば胸をすくように単純明快でもあったらしい。

 

「人間の持つ能力や才能が、世界にとっての〝財産〟である──と、セレーネさんも、やはりそう考えますか?」

 

 そんな彼女の許で部下として勤務していた間、キラはふと、オフの際に口をついで訊ねていた。

 セレーネは少し思案したあと、微笑んで答えた。

 

「原理主義的な質問ね……? 上手な言葉を選び出すのはとても難しいけれど、そうね──あなたも、先の大戦では徴兵された経験があると云っていたわね」

「ええ、まあ……。地球軍の士官として、パイロットをしていた時期はあります」

 

 すべてを語り尽くしたわけではないが、触りだけは打ち明けたことがある。大戦を終わらせた伝説のMSのパイロットであったキラであるが、その名は主にクライン派によって情報統制が敷かれ、世間一般には公表されていないのだ。

 セレーネは淡々と、あくまでも持論に過ぎない内容の言葉を送った。

 

「私から云えるのは、あなたのように素敵な才能を持った人が、あのくだらない戦争の中で散るようなことにならなくて、良かったということだけ。わたしは我の強い性格だってよく云われるけど……そんなんだから、そもそも世界をよくするだとか、他人の立場に則って考えたりするの、苦手なのよ」

 

 それはつとめてセレーネらしい返答であり、キラの苦笑を誘った。

 

「私は、私の夢や目標のことを考えて生きるので精いっぱい。要するに自己本位なのよ。私にはあなたの才能に嫉妬している暇なんてないし、それどころか今、あなたという優秀な部下と一緒に仕事ができる毎日が、楽しくって仕方がないの」

 

 キラとセレーネはこのとき、フロンティアの開拓に必要不可欠と云われた〝ヴォワチュール・リュミエール〟の開発計画に勤しんでいた。それは一般に『惑星間航行用推進システム』とも名付けられた技術で、光パルスの研究と実験を主目的にしている。太陽風から受けた熱量をエネルギーに変換する技術は〝ソーラーセイル〟と呼ばれるのだが、一方で〝ヴォワチュール・リュミエール〟は太陽風のみならず、レーザーや荷電粒子さえもエネルギーに変換することが出来るのだ。

 セレーネが云いたいのは、キラがこの〝ヴォワチュール・リュミエール〟の研究開発チームに参画するようになってから、途端に光明が見え始めたということ。すなわち、研究が大きく飛躍するきっかけを与えてくれたのが、他ならぬ彼であり、本当にたった半年で身に着けたとは思えないほどの彼の明晰さを称賛する言葉であった。

 

「──それが、私の答えよ。あなたに贈れる、その全てなんだと思う」

 

 セレーネ・マクグリフはそう語り、キラに向け、激励の言葉を送った。

 

 

 

 

 

 D.S.S.D技術開発センター保安副部長、エドモンド・デュクロは、かつて『伝説の鬼車長』の異名を持つ地球連合陸軍の軍人だった。第二次〝ヤキン・ドゥーエ〟攻防戦の終結と同時に退役し、D.S.S.Dに天下り就職した経歴を持ち、そんな彼と、キラは個人的な対談の機会を持ったことがあった。

 南米フォルタレザ郊外、D.S.S.D技術開発センターにて、その対談は行われた。

 コーディネイターでさえ最低二年は必要とされる第一級管制官試験を、わずか半年の独学で通過してしまった『奇蹟の人』──第二のジョージ・グレンとの呼び声も高いキラ・ヤマト氏と、エドモンド・デュクロ氏による個人対談。

 

「──エドモンドさんは、どうして停戦後、このD.S.S.Dに?」

 

 戦中は伝説として名を馳せた人物が、その富や名声、一切の地位を捨てて、丸裸の挑戦者として新たな新天地に赴く──

 聞き心地のよい美談のようであるが、エドモンドの三十六という年齢を考えれば、それは踏み切るには相当の覚悟と勇気がいる決断であることは確かだ。キラは以前からエドモンドという人物に相応に興味を持っていて、戦争で活躍した人間が新天地に活路を求めたという意味では、彼自身の境遇とも通ずるものがあったらしく、キラは純粋な関心から、エドモンドに訊ねていた。

 人格者として知られるエドモンドは、キラの質問に対しても真摯に、そして朗らかに笑いかけながら答えていた。

 

「あんまり明確な答えがあるわけじゃないんだ。とりあえず、上を見ておこうかなって」

「〝上〟……?」

「ほら、横を見ると、誰かに嫉妬して自分も欲しくなるだろ? 下を見ると、今の自分で助けてあげられる人が居て、彼らに必要とされてりゃ気持ちはいいけど……もし、自分より弱いものが居なかったらって思う。そのとき、自分は何をやるんだろうってね」

 

 その話は、キラにとって実感のように思えた。

 横を見たとき、人間はそこに自分と並走する他者の存在を見つける。それは理解者であり、好敵手と云える存在だ。競い合い、高め合い、自分自身を切磋琢磨する原動力となりうるもの。だが、それは両者の力関係が均衡に保たれている場合の話であって、程度が過ぎて置き去りにされた者の中では、それまで気高かったはずの競争心は劣悪な対抗心へと変貌し、嫉妬という邪悪な心根に精神を蝕まれる原因ともなり得る。

 

「それに、下ばかり向いているのも傲岸だと思うんだ。優越感てのは、そりゃ気持ちのいいものだろうが、それはつまり、自分より弱い者達を見下している感情と一緒だろ? そういう偏屈な考え方ができてしまう場所に居続けるのも、いかがなもんかと思うしね」

 

 正義感とは形を変えた優越感であり、自分に酔っているだけの陶酔感にもなり得るもの。社会的地位という座椅子にふんぞり返り、弱者を見下すことに満足し、そこで停頓してしまった人間には進歩がない、可能性がない、成長もまた──

 

「──だから、とりあえず〝上〟を向いてる自分を確保しておこうと思ったのさ」

 

 エドモンドはおおよそ、保身や出世と云った権力闘争には関心がないのだろう。

 だからこそ、富や名誉を捨てることに一切の躊躇を憶えず、この新天地にやって来た。そのおおらかとも云える人柄は、期待通り……いや期待以上のものがあったらしく、キラはつられるように朗らかな笑みを返し、この対談そのものが極めて良好な空気感の中で続けられていった。

 

「〝上〟といやあ、お前さんは、まだ地球圏から出た経験はないんだったか?」

「ええ、このD.S.S.Dに入局したのも、つい最近のことですから……」

「それで今は第一級管制官か! はは、本当にとんでもないヤツだよ、お前さんは」

「お気を害されたなら、謝ります」

「いや、いいんだ。オレが云いたかったのは、お前さんも〝上〟の世界に憧れた人間のひとりなんだろう? ってことさ」

「えっ……?」

「見てれば分かるよ」

 

 エドモンドはキラの目を見ながら、真っすぐに力強く云った。

 

「お前さんは、何かに苦しみ、そこから必死に脱却しようともがいているように見える。抜け出し難い泥沼のような場所から、上へ上へと這い上がろうとする〝力〟を感じるんだ。それはまさに、向上心の塊のような男だよ」

 

 図星であったのかどうか、キラはハッとして、指摘された自分に実感を憶えたという。

 エドモンドは笑いかけながら、朗らかに云った。

 

「それは宇宙(ソラ)の持つ〝力〟ってやつさ。お前さんも、宇宙(ソラ)に惹かれてこの局へ入った──違うか?」

 

 もっと先へ……もっと遠くへ……。

 人類史上、そんな願いの許に生み出されたコーディネイター。実際にコーディネイターであるキラが可能性の拡がる宇宙へと魅力を感じるのは、ある意味で自然なことだとエドモンドは云う。

 だが、動機とするには、それはキラの中では少しだけ違っているらしい。彼は自分なりの解釈で、エドモンドへ伝える。

 

「僕がこの局を選んだのは、大層な理由からじゃないんです。僕が民間の中で頑張ろうとすると、その……必死に努力している人達を、バカにしてしまう、みたいで」

 

 出る杭は打たれる、とはよく云ったものであり、キラが何かを努力すればするほど、心ない人々は口を揃えて彼のことを「卑怯者」と糾弾した。天才であるから、自分達とは違うから──

 

「昔からなんですよね、それ。以前は中立のコロニーで暮らしてましたから、ゼミの友達なんかには、よく、自分の能力を隠して生きてきました」

 

 自嘲するキラの目は、必ずしも笑ってはいなかったが、語られた内容そのものは事実だった。

 オーブで暮らしていた頃でさえ、かつてのキラはゼミの仲間らに対し、自分の能力をひた隠しにして生きてきた。自分の力をあえて誇示するようなことはして来なかったのだ。学力にしろ、運動能力にしろ……それはキラ自身も知らず知らずのうちに身に着けていた処世術であったのかも知れない。

 なお、この両氏による対談はD.S.S.Dによって録画され、トロヤステーションの衛星を介して全世界に配信されていた。視聴者たる市民達の中には、戦後オーブの民間企業で働いているサイ・アーガイルの姿もあって、彼はオノゴロの街角に設置されたテレビから流れる当配信に見入りながら、あまりに複雑な表情を浮かべたという。

 

「キラ……」

 

 かつてキラと同じ工業カレッジに通い、彼と同じゼミの学生だったサイ。キラ達よりも一歳年上だったこともあって、自然と彼らのまとめ役になることが多かったサイであるが、その日々の中で薄々と感じ取っていたキラに対する違和感の正体が、いま、目の前のテレビを通して明かされている。

 明らかに誰よりも優秀だった割に、そのことに驕るでもなく、従順で大人しかったキラ。いや、実際は大人しく見せていただけで、心の裡では、やはり自分を殺して生きていた──

 リビア砂漠では、ひとりの女性を巡って暴力沙汰になったこともあった。あのときはキラに腕を捻り上げられたこともあったが、あのとき彼の見せた一辺の凶暴性──「僕に敵うはずがない」と豪語してみせた傲岸さと不遜さ──こそが、あるいは彼の本質的な内面だったのではないか?

 少なくとも、テレビの中に映っている今のキラは、日常の中でサイ達に見せていた謙虚さという仮面を脱ぎ捨て、あらゆる柵から解放されたように清々しく、心晴れやかな面持ちにも見える。仮面を脱ぎ捨てたという表現がいよいよ比喩とは思えないほどに、サイが知っている彼とは別人のようでさえあったのだ。

 ──本当に、遠い世界の人になってしまったんだな……。

 サイは寂しいような表情になるが、そこからはまた、テレビの中で対談が続けられた。

 

「なるほど。それで、それを窮屈に感じたお前さんは、戦後は自分自身を偽らずに活躍できる場所を欲したと──」

 

 理に叶った話だと、話を聞いたエドモンドは思った。

 このD.S.S.Dは、あらゆる国家・体制・宗教・民族の垣根を超え、超難関試験によって優秀な人材のみを登用している。地球圏において最も有能な人材が集結する機関と云っても過言ではなく、他人の目を憚らず、キラが自身の才能を発揮するには理想的──現実はそうでもなかったようだが──な環境と云えるだろう。

 エドモンドは確信づきながら話した。

 

「それはやっぱり、宇宙(ソラ)に惹かれてる、っていうんだよ。不幸な話、正真正銘の天才であるお前さんには、お前さんの〝横〟に立てる人間が居なかったんだ、違うか?」

 

 本人がそれを望んだかどうかはともかく、キラの正体はスーパーコーディネイターだ。最高の技術を用い、最高の美貌と能力を持ち合わせた人間として造り上げられた、至高の天才。

 そんなキラの傍らには、元より理解者や好敵手など存在するはずがない。なぜなら、存在できるはずがない(・・・・・・・・・・)から。キラとはつまり唯一無二の天才であり、彼の土俵に上がって来られる人間など、当世に存在するはずはないのだから。

 

 ──生まれる前から、天才としての人生を確約されたキラ・ヤマト。

 

 それに対して、たとえば生まれながらの天才であるアスラン・ザラを比較したらどうだろうか? アスランの才覚と素養は凡百から頭抜けたものであり、仮に『戦士』としての土俵でキラと争えば、それについては互角に近しい激闘を目撃することも可能かもしれない。コーディネイターとしての性能ではキラの方に軍配が上がるはずだが、実力や経験、ありとあらゆる術でもって、アスランはその軍配を覆すだけの能力を持っている。

 だが、他の土俵ではどうだろう? 戦士ではなく、策謀家、芸術家、音楽家──ありとあらゆる分野の総合力において、キラは極限まで高められた能力を発揮できる異常生命体として設計されており、その意味において、彼はやはり正真正銘の天才(スーパーコーディネイター)なのだ。

 

 ──そう、キラの〝横〟には何もない、彼と肩を並べていられる隣人など存在しない。

 

 彼にあるのは、ただ彼の〝下〟に跋扈(ばっこ)する本質的に彼よりも劣っている者達と、彼の〝上〟に無限に広がる人気のない深淵なる宇宙のみ。だから彼が他の人間と同じように希望を求めようとすれば、それはおのずと後者であり、後者以外にはなり得ないのだ。

 エドモンドは云うが、しかし、以前はそうではなかった。そうではない道を進んでいけるはずなのだと、キラ自身も信じていた。

 

「いたんですよ。本当なら……」

「え?」

「天才じゃない僕のことも認めてくれて──すぐ隣に寄り添っていてくれた子が、いたんです……」

 

 子どものように純粋に笑いかけ、妖精めいた無垢な笑みを向けてくれた金の髪の少女。

 ──だからキラは、天才なんかじゃなくたっていいんだよ。

 救いの言葉は今となっては呪いとなって、今のキラを苦しめ続ける。

 

「──でも、もういません」

「それが、お前さんの苦しみか……?」

「…………」

 

 言葉を噤むキラの沈黙は、エドモンドに答えとして受け取られた。戦争によって心に負った傷は、取り繕ったような慰めの言葉で癒えるようなものではなく、エドモンドはそれを知っていたから、ただ事実を差し出すようにして云った。

 

「先頭を走る者は、いつだって孤独だよ。それは受け入れなきゃならない、世の理ってやつだ」

 

 諭され、頷くキラに、エドモンドは言い募る。

 

「天才はいつの時代も世間から爪弾きにされる。先駆者たる者は、いつだって周囲の無知と無理解と戦わなければならない。かつて、かのジョージ・グレンが、そうであったようにな」

 

 それは、すでに歴史が証明していた。

 

「だが、かと云って希望がないわけではないんだ。ジョージ・グレンが夢を追い〝エヴィデンス〟を持ち帰ったように──もっと先へ(・・・・・)……もっと遠くへ(・・・・・・)……そんな風に望みを持ち続けていれば、いずれは世界そのものに変革を齎すこともまた、不可能なことじゃない」

 

 それもまた、歴史が証明した事象だった。

 

「今のお前さんには、この地球圏が狭すぎて感じられるんだろう? せっかくD.S.S.Dに入局したんだ、機会は無限大にある──チャンスがあれば、もっと〝上〟を……地球圏を脱し別の世界を見に行くのも、いい経験になるかも知れないぜ」

 

 ──別の世界? とキラは反芻した。

 エドモンドはまたも差し出すようにして続けた。

 

「たとえば、直近だと火星圏とかな」

「火星圏、マーズコロニー群ですか?」

「当然、知識としては予習済みか」

 

 その通りだ、とエドモンドは続けた。

 

「火星の社会構造は独特でな。今のお前さんのように、自分が持っている能力に苦しめられる人間が誰ひとりとして存在しない、ある意味で平和な世界だよ」

 

 エドモンドは説き明かした。共同体としては〝プラント〟の形態と通ずるものがあるが、火星圏の入植のために建設されたマーズコロニー〝オーストレール〟は、より少ない人員と、火星の苛酷な環境に対応するために、必要とされる職種に合わせて遺伝子調整されたメンバーが日々コミュニティーのために機能的な生活を送っているという。

 

「遺伝子の特性によって人間を振り分け、役に立たないと思われる人間を一切排除した、ある種の優生学の極致だ」

 

 無能も有能も、凡人も天才も、分け隔てなく平等に生きている世界。

 キラのように飛び抜けた才能を持つ者が弾圧されることはあり得ず、その逆もまた然り、特別に秀でた能力を持たない凡人が糾弾されることもあり得ない。そこで暮らす者はみなが対等であり、対等であるがゆえに、確執も戦争も起こらない。

 

「それって──!」

「ああ──〝運命〟が、全てを支配する世界だよ」

 

 人間は先天的に持って生まれた遺伝子の中に、性別、能力、個性、人生を後天的に左右する様々な情報を秘めている。現代において、人々の遺伝子の中にある塩基配列に書き込まれたデータは、DNAの解析技術によって〝ほぼ完璧〟と述懐できるレベルで解明され、実際にコーディネイターたる新人類は、この遺伝子工学技術を応用することで造り出されているのだ。

 火星に暮らす人々は、この技術を応用して人々の職業適性を診断し、その者の人生そのものに〝役割〟を与えようという革新的な社会秩序を確立させたのだ。

 それは云わば、人生における『正解』とも云えるものであり、たとえば戦士の才能を持つ者は戦士として生き、歌姫の才能を持つ者は歌姫として生きる。選択肢など初めから与えられていない方が、挫折や失敗、人生における無用の苦悩は生まれない。人生の中に分水嶺など存在しなければ、人間はどこまでも幸福な人生だけを歩んでいくことができる──

 

「〝デスティニー・プラン〟……!」

 

 無意識の内に、キラはかつて、みずからが一度夢見たその単語を口にしていた。エドモンドの打ち明けた話は、かつてキラがコロニー〝メンデル〟の中、とある男の研究室で発見し、密かに持ち去ったノートの中に記述されていた社会構想と、よく似た内容についてを言及していたのだ。

 エドモンドは聞き当たりのない……おそらくは公表されたこともないであろうその単語を理解できず、微妙な顔を浮かべたが、しかし、そのとき対談を画面の向こう側で見ていた視聴者のうち、約一名ほど、切れ長の黒い長髪の男性が感嘆の声を漏らしたという。

 

「僕は、その世界に興味があったんです!」

「なら、実際に火星圏へ行き、その曇りのない目で見学して来るといい」

 

 激励のつもりで、エドモンドは無垢な少年のように輝かしい目を浮かべ始めていたキラの背を押し、そそのかした。

 火星で暮らす人々は、自分とは異なる能力を持つ者の欠点を粗探しするではなく、これを美点として謳い合うのだという。そうすることで、本来であれば理解し合えない者同士も、相互に尊び合うことが可能になるのだと。

 

「それが火星のコーディネイター、マーシャンだ。彼らは地球人をテラナーと呼ぶ……そこに希望があるのかどうか、この世界に変革が齎せるのかどうか? キラ・ヤマト──お前さんのその明晰な頭脳で見聞きし、考えて来るといい」

 

 与えられた力を知り、役割を割り振られ、みずからの才能を活かせる場所でのみ機能する世界。

 ──悩み、苦しむこともなく、人生の『正解』そのままに生きる。

 それは、今のキラが何よりも欲していた、彼の人生の道標だった。

 

「行けよ、高みへ。もっと〝上〟の世界へ」

 

 ──お前さんの目指す新天地は、きっと〝そこ〟にある。

 エドモンド・デュクロはそう語り、キラの火星圏への旅立ちを後押しした。

 

 

 

 

 

 

 

 南米フォルタレザ郊外、D.S.S.D技術開発センターにて行われたこの対談は、トロヤステーシヨンを介する中継によって全世界に放送された。

 かの大戦ではキラと共に最後まで戦った、ムウ・ラ・フラガもまた、この放送を目の当たりにした者のひとりだった。

 

「馬鹿野郎……っ! なんで、そうなっちまうんだよ!?」

 

 ムウは放送を見ながら、苛立たしげに強い息を吐いた。

 先の放送の中で、キラが晴れ晴れとした表情で口にした言葉の数々は、彼の人生の隣人を徹底的に傷つける内容のものであった。彼が自虐的、自嘲的に語っていた過去は、つまりは彼のことをそれまで不当に扱っていた者達へ対する怨嗟であり、言葉の形を取った有毒の瘴気に他ならなかった。

 

「キラくん、本当にどうしちゃったの……!?」

 

 傍らのマリューもまた、放送を見ていた。

 その大きな瞳は信じられない、といった驚愕で見開かれ、まるで別人のように変わり果てた──しかし、無垢なる少年のように目を輝かせた──テレビの中のキラの表情を見つめている。

 

「以前までは、こうじゃなかったのに……」

「ああ……」

 

 今となっては成功者であるようにテレビの中で持て囃されているキラであるが、これ以前までの彼は、云わば真逆の、世捨て人という名の廃人だった。

 そもそものキラは、戦後直後から地球に住まう宗教家、マルキオ導師の許に身を寄せていたのである。マルキオは自身の伝道所に多くの孤児を生活させており、キラはそんな彼の許で、母のカリダと共に安穏とした静謐(せいひつ)な戦後の日々を送ることを選んでいた。

 

 しかし、その果てでキラが送っていた生活は、それはそれは凄惨なものだった。

 

 まるで人との交わりを避けるように、人気のない白い浜辺に座り込んでは、誰が好きだったという海を一日中見つめていた。何日も何日も同じことを繰り返し、まるで誰かが海の中から帰って来ることを待ち望んでいるかのような、ひたすら無為に時を過ごす毎日を送っていたのだ。

 それが、かの大戦で負った傷を癒やすために必要な休息であることはムウにも理解できたが、理解できたからといって、納得がいったわけではない。少なくともムウには、それは齢十六歳の少年が、選んでいい毎日ではないと感じられた。

 ムウの身の回りにいる女性達は当時、この問題について消極的な意見を呈していた。ほとんど廃人と云っていいキラの現状を認めた上で、その支援と介護に回ることを選んでしまったカリダはもちろん、今はムウの傍らにいる恋人のマリューでさえ、今の彼には休息が必要なのではないか、と傍観すべきとする立場を示していたのだ。

 

 ──だが、あれが休息と云えるのか?

 ──日がな年中、寂しげに浜辺に座り込んで、茫然とただ海を見つめるだけの退廃的な生活が?

 

 ラクス・クラインはいまは〝プラント〟で頑張っている。カガリ・ユラ・アスハもオーブの復興のために尽力していると聞く──それなのに、彼だけは取り残されたように、出口の見えない混迷の中にいた。

 このままではいけない──と、ムウは、そのやり方が正しかったとは云わないが、キラの胸倉を掴み上げてでも彼を叱った。あの大戦で死んで逝った者達が、今のお前を見て喜ぶのか──と。

 傷を癒やすために必要なのは「休息」ではない。いや、そうすることも必要な場合もあるが、少なくとも、キラが選んだものは違う。彼が日常的に行っている行為は、浮かび上がった傷の周りを激しく撫でまわし、その回復をみずからで遅らせているだけの自傷行為に他ならない。

 傷を癒やすために必要なのは「行動」であり、不躾な云い方ではあるが、気を紛らわせることでしかないのだ。時間が忘れさせてくれるまで何かに没頭し、その結果をもって英霊に報いることでしか、自分を赦したり、救ったりする方法はないのだと、ムウはキラに教えた。

 キラはハッとして、その言葉をたしかに真っ向から受け止め、廃人とも云えるそれまでの生活に、みずからの手で終止符を打つことを決めた──だが、

 

「その結果が、これかよ……」

 

 いざ、キラが本気を出して行動をした結果、彼は社会の中で、心ない人々による激しい差別に直面することになった。才なき者は才ある者を妬み、激しく嫉妬し、これを寄って集って弾圧した。

 その弾圧から逃れるために、キラはさらなる行動を重ねた。さらなる高みへと自身を向上させ、程もなくして(いただき)へと上り詰めすぎた彼は「才能のない者は切り捨てればいい」という、彼にとっては正当な解決方法を導き出すに至ったのだ。

 

「今のあいつは、天才としての自分を過剰に求めてる──」

「キラは奇しくも、それを実現させるだけの能力を現実に持っていますから……」

 

 ムウの傍らに、このときはトールもいた。

 変わり果てた親友の表情を見て、愕然としていたのはトールとて同じだった。

 

「持っている……いや、ずっと持ってたんだ。でも、知らなかった(・・・・・・)、あのときは」

「あのとき自分が天才じゃなかったから、あいつはステラを救ってやれなかったと思い込んでいるんだ……!」

 

 善かれと思って施したムウの叱咤は、結果的には罪だったのか。疲弊した少年の傷を理解せず、そんな彼を強引に奮い立たせ、すでに壊れかけていた彼を俗悪な社会の下に解き放ってしまった。繊細だったはずの少年の心を、強大な悪意から身を守るための狂暴な野心へと変貌させてしまった。

 

「情けねえよ。なんだって、こんなことになっちまったんだ──」

 

 このときのムウは、その奇跡的な直感力から、この先でキラが何をしようとしているのかを判然と思い描き、想像することができたという。

 おおよそキラの目論見は、実際に火星で執り行われているという〝運命〟に則った社会秩序を、この地球圏にも導入することにある。差別や偏見などによって不当に扱われる者を排除し、秩序にそぐわない者は淘汰、矯正させてしまおうという算段であるが、ムウとしてはおぞましい限りだった、そのような世界のどこに、自分達が求め続けた〝自由〟があるというのか?

 少年は、いや人間とは、この半年という短期間でこうも変わってしまうのか? 社会の中で浴びせられた無理解による罵声の数々は、少年の心をこうも捻じ曲げ、歪めてしまうものなのか?

 

 ──いや、違う!

 

 ムウは気付いた。これは、たったの半年間で起こったキラの心境の変化などではない。

 キラ自身が対談の中で述べていたように、これはキラ・ヤマトの人生──そのはるか昔から鬱積していた恥辱。自分という天才を侮辱し続けて来た者らに対する、明らかな叛逆なのだ。

 

「──これは、キラによる復讐だ」

 

 これまで彼の尊厳を踏みにじり、その存在と価値を軽んじてきた者達──

 ラウ・ル・クルーゼの告発によって明らかにされてしまった、ムウも含めた、彼よりもはるかに劣っている全人類に対する。

 

「そんなッ……!」

 

 無気力な廃人に落ちぶれていたことで、ムウは気付かなかった。キラの抱えた心の闇を──その絶望の深さと昏さを。

 キラはいま、全世界へと、はっきりと憎悪を叫んだ。

 望みもしない〝力〟を自分に与えたこの世界の身勝手さと、それによって自分を苦しめ続けた理不尽な現実、人々、運命──その全てに対する復讐の念をもって、彼は声高に叫んだのだ。

 

『この地球圏に、僕の居場所はない』──と。

 

 キラはこの不完全な世界が破壊されることを望んでいる。奇しくもそれは、彼自身が闇の中へ葬ったラウ・ル・クルーゼと同じように。

 それでもラウと決定的に違っているのは、そうして破壊された世界を、キラはみずからの手で設計し直すことを渇望していることだろう。この世の創造主たる神として、遺伝子こそが王となって君臨する世界、その最高位に立つ、最高の遺伝子を持ったコーディネイターとして。

 

「なにが、〝第二のジョージ・グレン〟だ」

 

 人々は、類稀なる天才をヒーローとして崇め、弄び、讃えるだろう。

 歴史は繰り返す──

 その称号が、いよいよ比喩ではなくなって来ていることに気付かないまま。

 

「ふざけている場合じゃない……」

 

 この世を大いなる混迷の中に導き入れた、かの原初の天才(ファーストコーディネイター)と同じように、キラ・ヤマトという次世代の天才(スーパーコーディネイター)は、またしても世に大いなる混沌を齎す怪物になりかけているのに。

 誰もそのことに気付かない。テレビの画面の向こう側で、ただ面白がって、ただ珍しがっているだけで。

 

 ──あいつを、止めなければ……!

 

 責任感か、使命感か、ムウは決然と考える。

 しかし、今の自分達に何ができよう? もはや、キラの居場所も分からない自分達に。あるいはキラは、もう二度と手の届かない、はるか『高み』へ行ってしまっているかも知れないのに──?

 

 

 

 

 

 

 

 キラはみずからの秘書に車を運転させ、海沿いの道を辿っていた。

 じつに有意義だったと思える南米郊外フォルタレザでの対談を終えて、彼は多忙なスケジュールの中で、なんとかオーブへの寄り道をする時間を作っていたのだ。辺りはすっかり夜の闇に解け、海沿いの街灯のない道路では、夜空に星明りが美しく輝いている。

 

『だからキラは、天才なんかじゃなくたっていいんだよ』

 

 燦然と輝く星々の瞬きを見上げながら、キラの脳裏にふと、ひとつの声が浮かび上がった。

 

「違う」

 

 それは、星の名を持つ少女が自身に伝えてくれた言葉──

 なぜ、今になって思い出すのか? キラはわずかに自嘲しながら、独語のように小さく云った。

 

「違うよ、ステラ」

 

 天才じゃなかったから、僕はきみを救ってあげられなかった。

 闇の中に生まれ、みずからを殺して生きた、仮面の男はこう謳った。

 

『真実を知り、常軌を逸したその異能(ちから)を示してしまった君達はもう、平和の中(みんなのところ)へは戻れない! 弾き出され……押し潰され……いつか、私と同じ絶望を味わうことになる!』

 

 すべては彼の云う通りだった。

 

「僕は、天才じゃなきゃいけなかったんだ」

 

 彼こそが、他の誰よりも正しかったのだ。

 

「きみのためにも──そうだろ? ステラ……」

 

 その問いかけに、答えを与えてくれる者はもういない。

 ステラは、キラが殺したのだ。本来であれば救えたはずの命を、彼が見殺しにしてしまった。

 その表現には決定的な誤りがあったが、結果として助けることが出来なかったのは事実であったから、彼の考え方がこの表現から動くことはあり得ない。

 

「僕はきみの墓標と、この〝力〟に誓ったんだ。もう二度と、同じ過ちを繰り返さないって」

 

 叶わぬ夢に絶望するくらいなら、初めから正しい道を。

 そうすれば、僕は君と出会うこともなかった。

 そうすれば、こんなにも苦しい思いをせずに済んだのだ。

 

「僕は天才として生まれたから、なるよ──これからは。誰にも越えられない天才に」

 

 挫折も迷走も、苦悩も失敗も必要ない。

 ──自由な意思、希望?

 そんなものは戯言だ──

 

「もう、誰にも僕を越えさせない。誰も僕には追い付けない」

 

 ──全ての答えは、遺伝子の中に刻まれているから。

 

「僕はなるんだ。人類の夢に──最高のコーディネイターに」

 

 そのために、やらなきゃならないことがもうひとつだけある……。

 車はそのまま海沿いを走り、かつてキラが生活を送っていたマルキオの伝道所に辿り着いた。

 

 

 

 

 

 

『名を捨てたい』──と。

 

 最初、カリダ・ヤマトは、みずからの息子が何を云っているのか理解するのにしばしの時間を要したという。

 深夜頃になって、キラが久しく空けていた旧家──このマルキオの伝道所に帰ることを知らされていたカリダは、マルキオの子ども達を寝かしつけたあと、妙な予感に騒ぎ出している胸を押さえて、キラの帰りを待っていた。このとき、キラが久々に地球に戻ってきていることを知り、その姉に当たるカガリもまた、時間を見つけて伝道所へとやって来ていた。

 玄関のドアが開いて、迎えに上がる。しかしキラは、用意されていたテーブルのイスに座るでもなく、カリダに向けてそう云い放ったのだ。

 

「おまえ、どういう、ことだ……?」

 

 言葉によって受けた衝撃が大きかったのは、むしろカガリの方だったかも知れない。

 キラはあくまで淡々として、感情の抑揚すら伺えない平坦な声音で話を続けた。

 

「カガリ、僕は、コーディネイターなんだ」

「は……!?」

「──きみと違って、僕はコーディネイターなんだよ」

 

 そのときカガリの手は、キラの頬を打っていた。

 殴られた頬にひりひりと灼けつくような痛みを感じながら、キラはぶたれた頬をさすりつつ、どこか諦念した様子でカガリに訴えかける。

 

「暴力に訴えるのはやめてよカガリ。仮にも政治家になったんだろう」

「おまえ……!?」

「それとも本気でケンカしたいのか、きみじゃあ僕には勝てないよ」

 

 やれやれとまでは云わなかったにせよ、あまりにも自然、さも当然であるかのように、相手を見下すその論調──

 現実感のない声で発された断言は、果たして高言だったのか。キラは自身がぶたれたことには何ら衝撃を受けていないような、あまりに熱のない佇まいのまま、言葉を続けた。

 

「……社会見学といったところか。表現としては稚拙だけど、僕は火星に行く。きっとそこに、僕の探し求める理想郷があるから」

 

 こんな所に、長居するつもりはない──

 はっきりとそう宣告するキラの姿は、カリダから見てひどく遠く見えた。テレビに映るキラの言動に妙な危機感を憶えたときから、薄々と感じ取ってはいたが、それでもカリダは胸騒ぎがただの杞憂として終わらなかったことを知り、悲壮な表情になる。

 

「今日はその門出を前に、お別れを云いに来たんだ。カガリ、そして母さ──カリダ・ヤマトさん」

 

 わざわざ云い直した辺りは、彼の中にもまだ幾ばくかの動揺と良心が残っていたからだと、カリダは信じたかった。信じたところで、このあとに起こることを思えば、それは何の慰めにもならなかったが。

 

「僕が『キラ・ヤマト』を名乗るのも、今日で最後にしたいんだ。あの放送を見てくれたっていうのなら、きっと理解して頂けるはずだ──僕はもう、自分を偽って生きることはしたくない」

 

 表情という表情を失った男の揺れない目、光を失った目に、カガリはゾッとしていた。

 

「偽るだと……? 何が偽りだ! キラおまえ、何を云ってるんだ!?」

「偽善であり、欺瞞だよ、キラ・ヤマトという名前そのものが。だって僕は、ヒビキ博士の息子なんだよ? 平凡な庶民の家庭の、ヤマト家の子どもじゃな──」

 

 云い終わる前に、またしてもカガリはキラを殴っていた。キラは、そうされて当然の言葉をたったいま口にしていた。カリダという女性の慈しみを、優しさを、これまでの想いのすべてを、踏みにじる発言をしていたのだ。

 

「おまえ──ッ!?」

 

 批難というには失望の混じり過ぎた目を、カガリはキラに──みずからの『弟』に向けた。

 そう、たしかにキラはヒビキ氏の息子──

 キラの母親はカリダではない。いやそれどころか、キラに母と呼べるような人物はそもそも存在しない。コロニー〝メンデル〟に打ち捨てられていた無機質な培養槽から生み出され、朽ち果てた無数の『失敗作』の犠牲の上に生を受けてしまったキラには、彼にとっての『姉』であるらしいカガリの母親、ヴィア・ヒビキすら、そう呼ぶには値しないのだから。

 それはラウ・ル・クルーゼによって告発された最悪の真実。しかし、キラにとっては残酷すぎる事実をひた隠しにして来たのも、カリダの子を思う家族としての親心からだ。仮に本当の親子ではなくとも、カリダはキラを我が子のように愛し、彼を守るためにやさしい嘘をつき続けて来た!

 ──それなのに……!

 キラの中にも恩があって、情もあるはずだった──にも関わらず、そのような言葉がキラの口からこぼれ落ちるとは思いたくなかった。カガリがそう感じているくらいであれば、カリダが受けた衝撃は言葉以上のものであったろう。

 

「やめてって、云ったよね」

 

 警告はしていた、とばかりに、殴られ損をし続けるキラではなかった。二度にも渡って天才を殴ったその腕を悔やませるように、次の瞬間、キラは逆手でカガリの腕を捻り上げていたのだ。性別の差か、はたは姉に対する温情か、程度は軽いが、カガリが苦悶の声を挙げるには十分な痛み。

 目の前で行われた姉弟による暴力劇を目の当たりにして、カリダが思わず、数歩としてあとずさる。その拍子に、テーブルの上に置いてあった菓子箱が床へと落ちた。最愛の息子が帰ることを事前に知らされていた母親が、我が子のためにと用意したケーキが入っていた、大切な箱が──。

 落ちた箱は跡形もなくひしゃげ、それはまるで、カリダの心そのものが潰れていく様だった。悲鳴を挙げなかったのは、失意と絶望が全てに勝ったからか──

 

「ヒビキ博士が与えてくれたこの〝力〟で、僕は世界のために役立ってみせる。今まで誰にも成しえなかったことを、僕はやり遂げてみせる」

 

 もっと先へ……もっと遠くへ……もっと高みへ……!

 言葉の意味はともかくとして、キラの気迫と剣幕に、このときのカガリは圧倒されていた。ここまで歪んだ決意があるのかと、彼女はただ驚くことしか出来なかったのだ。

 それと同時に、もはや自分達ではこの男を止められないと、カガリはそのとき、そのことを本質的に理解してしまったという。もはやこの男には、誰の言葉も通じない──

 キラは誰の意も介さない。なぜなら彼が敬虔(けいけん)と信じているものは、彼自身に役割と運命を記し与えた、彼の中の最高(ヒビキ)の遺伝子だけだから。

 

「なんで、なんで、こんな……!」

 

 戦中、彼が恋い焦がれるほど慕っていたステラという名の少女ですら、今の彼を止めることは不可能であると、そうカガリが確信してしまえるほどに、彼の抱えた心の闇は深かった。

 あるいは現実は違うのか? もしもこの場にステラがいたら、この男をこの場に踏み留めることもできたのではないか? 大切な少女を目の前で喪ってしまった絶望が、彼の理想と輝かしいはずの未来に暗い歪みを生じさせ、彼女を救えなかった不完全な自分と、そんな自分を育ててしまった不完全な世界への憎悪をかき立てたのだとしたら──?

 力なくその場にへたり込み、カリダは悲鳴にも似た嗚咽を混じらせた声で、そのか細く、あまりに頼りない手を弱々しく伸ばした。

 

「まって、キラ……! おねがい、いかないで……」

「今までありがとう、カリダさん。あなたに背を向けてこそ、僕はこの道を歩めるんだ」

 

 みずからの分水嶺で、それは彼がみずから選び取った『道』──

 ──頼りないヤマト姓への離別(おわかれ)を。

 ──情けない過去の自分への決別(さよなら)を。

 背徳者が貫く覇道、背に徳があればこそ──

 

「今まで僕を育ててくれて、愛してくれてありがとう」

 

 でも、もう大丈夫だから──

 青年は自分にとって親愛なる者達を切り捨てて、彼女達に背を向けた。押し潰され、ぐしゃぐしゃに砕け散ったケーキ、母の心に気付くこともなく、決して手の届かぬところへ去って行くその男に向かって、カガリは呆然と、次のように訊ねることしか出来なかったという。

 

「おまえは、誰だ……?」

「僕はキラだよ。キラ・ヒビキ(・・・)──」

 

 偽りの仮面を脱ぎ捨てて。

 偽りの名前も切り捨てて。

 人類の最高位に君臨する男は、確信と自負、天才としての矜持をもって解答する。

 

「人類の夢、最高のコーディネイターを造り出した天才科学者、ユーレン・ヒビキ──」

 

 人は何を手に入れたのだろう──

 ──その手に、その夢の果てに……?

 

「──その彼の、狂気(ゆめ)の息子だよ」

 

 人類のすべてに失望し、混じり気のない憎悪と狂気に据わった目。

 夢見る少女を裏切るような、夢を忘れた少年が────

 ────変わり果てた『弟』の姿が、そこにはあった。

 

 

 

 





 運命篇後を描いた劇場版はさておき、運命篇において原作とは別ベクトルに突き抜けたキラ・ヤマトを描こうと思ったときに、作者の出した答えがこれです。
 彼の元々の出生、持っている能力、そしてヘリオポリスをはじめとする卑屈で臆病だった日々を偲べば、彼がデュランダルの提唱する「デスティニー・プラン」肯定派に傾く可能性は決して低くはない、と考えました。

 ここから暫く、彼は火星に旅立ち本編からはフェードアウト。オマージュ元は『Zガンダム』における、同じ天才パプティマス・シロッコ。木星帰りの男です。




 ────余談ではありますが、アスランに関する設定は絶対に練り直す必要があるだろうと劇場版を見て思い知らされたので、戦後篇については以前と掲載順を変更してお送りしています。

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