SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

353 / 356
前回のあらすじ

カーチェイスして大災害


遅れながら更新させていただきます

お詫びとなりますが、英雄、鬼、獣……3つの書を準備しました。

いずれから読んでもOKです。ある書では分からなかったことが、ある書では分かる……といったことがあるかもしれません


Episode21-15 アクイ ノ モノガタリ 獣の書-上

 死臭に満ちた屋敷から次々と遺体が運び出されていく。

 だが、その多くは墓標に名を刻まれることはない。教会は彼らを無縁墓地の葬るだろう。だが、闇に生きた彼らが墓の下で眠れるだけでも贅沢であると考える者は多い。事実として、遺体を搬送する教会の者達も表情にこそ見せていないが、決して良い感情を抱いていないはずだ。

 スイレンの拉致未遂……いいや、拉致事件後、教会の介入によって一応の決着が付いた。複数の組織によるスイレンの拉致と暗殺未遂は、教会が楔を打った事で今後は表立った行動は封じ込められるだろう。

 戦略級ユニークスキル≪ボマー≫には多大な被害と費用をかけるだけの価値があったのかもしれないが、結果はご覧の有様である。独断専行ならば粛正であり、そうでなくても組織内における権力闘争に利用されて派閥の勢力図は大きく変動するだろう。

 だが、何にしても終わりつつある街……特に貧民街には甚大な被害を及ぼしたのだ。死者総数は不明だが、100人や200人では足りないだろう。そして、彼らの復興支援は滞るに違いない。3大ギルドは『お悔やみ』を表明し、生贄の羊を吊すだろう。それが身内か、適当な犯罪ギルドか、それは定かではないが、教会は生半可な対応で見逃すはずが無く、3大ギルドは相応の出血を強いられるに違いない。

 

「貴方にはがっかりよ。スイレンちゃんを攫われるなんてね」

 

 そして、オレもまた高級娼婦スイレンのパトロンであるエバーライフ=コールのカリンに叱責を浴びる立場だ。なお、警備を担当していたシャークマンは心神喪失と個人裁量で多大な人員と物資を投入した責任という2つの理由でこの場は欠席している。

 屋敷を見て回ったカリンはキセルを咥え、スイレンの私室前の廊下にて、オレに向かって非難の視線を投げる。まぁ、そうだろうな。メイドやコックは全滅。屋敷はボロボロ。そして、肝心のスイレンは取り戻したとはいえ拉致されてしまったのだから。

 

「弁解は致しません。スイレンさんが拉致された責任はオレにあります」

 

「あら、殊勝な心がけね。だったら、屋敷修繕費用とスイレンちゃんの拉致された賠償請求をしてもよろしいかしら?」

 

「それは――」

 

「申し訳ありませんが、賠償請求は認められません。サインズ傭兵雇用規約第3項に基づき、依頼範囲内における人的・物的損害の賠償を傭兵に請求する事は禁じられています」

 

 オレが受け答えするより先に、カリンの前に堂々と立ち塞がるのはグリセルダさんだ。淡いピンクのレディーススーツを着た彼女の登場に、スリットが入った扇情的な赤いドレスと毛皮のコートを着たカリンは、挑戦的な眼差しを向ける。

 

「初めまして、彼のプロデュース及びマネジメント担当のギルド黄金林檎リーダーのグリセルダです」

 

「カリンよ。規約は存じ上げているわ。ただし、依頼範囲内とは何処までを指し示すものかしら? 私はスイレンちゃんの警護をお任せしたのだけれど、彼は失敗して拉致を許してしまった。幸いにも奪還は出来たけど、職務怠慢ではないかしら?」

 

「請け負ったのはスイレンさんの身辺警護です。確かに彼女の拉致されましたが、当方の過失とは考えておりません。こちらの傭兵は多数の襲撃者を相手取り、シャークマン率いるジェネラル・シールズと協力して迎撃に当たりました。敵対戦力を考慮し、また拉致されたスイレンさんを奪還した実績を考慮すれば、むしろ報酬以上の働きをしたと断言できます。あと、既に言質は取ってありますが、カリンさんはシャークマン氏より提案された警備システムの導入に反対されたとか。むしろ、外聞を気にして万全の警備を拒絶したそちらの過失であると当方は考えております」

 

 ……うわーい。握手して笑顔のまま言葉で殴り合ってやがる。カリンとグリセルダさんは声音こそ穏やかであるが、責任の所在について互いに矛を向け合っている。

 

「それでもなお、こちらの傭兵に責任があると仰るならば、サインズを通して請求をお願い致します」

 

 依頼達成率100パーセントなんて傭兵はいないし、要望を完璧にこなし続けられるはずもない。そうなると依頼主よっては傭兵の責任を追求するわけであるが、依頼失敗や満足度に左右されて報酬の減額や賠償請求などされたら堪ったものではない。

 そこでサインズの出番だ。手数料を貰う代わりに傭兵を守るのが仕事である。もちろん、傭兵が依頼において怠慢や意図して被害を拡大した場合は相応の対処に出るが。

 傭兵が背負うべき依頼失敗におけるペナルティはあくまで報酬面だ。依頼内容にもよるが、後払い制の成功報酬が主だ。依頼失敗すれば報酬はもちろんゼロである。後は評判が落ちるので、それだけ良質で旨味のある依頼を得られるチャンスを失うことになる。誰も失敗率が高い傭兵に依頼はしたくない。当たり前だ。

 サインズはしっかりと各傭兵の実績はもちろん、総合・各分野における依頼成功率と満足度を傭兵カタログに掲載している。依頼主はそれらを見て、支払う報酬と相談しながら傭兵を指名するのだ。まぁ、指名しなかった場合はサインズが報酬や適性等々を考慮して傭兵に依頼を斡旋するのだが。

 ちなみにオレの場合、依頼達成率は高いが、実績面はほとんどクローズド状態だ。大ギルドからの秘密依頼だったり、依頼内容の非公開希望だったりと、表立って結果を残せる依頼は数える程しかない。

 

「ふふふ、冗談よ。【渡り鳥】は取引・交渉が苦手と噂を耳にしたから真偽を知りたかっただけ。わざわざマネージャーさんが化粧も疎かに駆けつける辺り、どうやら本当だったようね」

 

 オレの目線ではスーツには皺1つなく、髪型も決まっているグリセルダさんであるが、カリンの指摘が図星なのか、それとも言い返す必要がないのか、無言で相対する。

 グリセルダさんの無反応を楽しんだのか、カリンはキセルの灰を背後の秘書が持つ灰皿に落とすと友好的な笑みを浮かべる。というか、あの秘書は灰皿係でもあるのか。

 

「この件はサインズにも連絡してあるし、そもそも私は直接の依頼主ではない。いいわ。スイレンちゃんの護衛を引き続きお願いね。ジェネラル・シールズの鮫男は使い物にならないみたいだし、貴方が頼りよ」

 

 ……シャークマンも大活躍だったんだがな。訂正したいのだが、実際に心神喪失で離脱しているのでどうしようもないか。

 去って行くカリンの背中を見届けたグリセルダさんは盛大な溜め息を吐いて右手で顔を多い、指の間からオレを睨む。

 

「とんでもない事態になったわね」

 

「申し訳ありません」

 

「貴方を責めていないわ。元よりろくでもない依頼だったものね」

 

 セサルがマダム・リップスワンを焚き付けて、クラウドアース名義で依頼したスイレンの護衛。だが、実際には護衛終了と同時に暗殺依頼にシフトする件についてはマネージャーであるグリセルダさんとも協議済みだ。

 グリセルダさんは良い顔をしなかった。≪ボマー≫には3大ギルドのパワーバランスを変えかねない脅威でもあるからだ。デメリットを知るオレからすれば欲しくもないが、組織が十二分な資本を背景に運用するならば絶大な効果を発揮する。まさしく戦略級ユニークスキルに相応しい。

 

「どう見ているの?」

 

 庭から運び出されていく暗殺者の遺体を割れた窓から見下ろすグリセルダさんの問いに、オレは多くの意味を悟る。

 

「レベル60前後。装備は集団による暗殺に特化されていました。相応の訓練・経験を積んだ手練れ揃い。装備は統一規格を使用。間違いなく大ギルドの暗部でしょう。人相書きから表面的な身分は洗い出せるでしょうが、装備・遺品からは決定的関係を暴き出すことは不可能でしょう。ですが、規模が違う。個人の暗殺の域を超えた被害をもたらしました。教会の追及は免れないと思います」

 

 むしろ、3大ギルドのパワーバランスを守る為にも、そして教会も3大ギルドに対して抑止力を得る為にも、今回の事件の隠蔽工作に協力する代わりに≪ボマー≫の管理を申し出るかもしれない。

 

「まぁ、妥当なところね。教会も馬鹿じゃないわ。最大限に利用するでしょうし、私にも今回の事件について公表しないようにお願いがあったわ。見返りとして相応の便宜を図ってくれるそうよ。3大ギルドからも何故か『今後の依頼についての協議したい』って、わざわざお高いレストランでランチやディナーのお誘いがあったわ」

 

「露骨ですね」

 

「それだけ取り繕うことも出来ない大失態なのよ。大ギルドの上層部も馬鹿じゃない。今回の件は1部の馬鹿の行動、あるいはクーデターの類いでしょうからね。≪ボマー≫を巡って暗部をぶつけ合っていたのに、今度は粛正祭りよ。どれだけ大組織であろうとも出血と消耗は免れないわ。大幅な組織改編もあり得るかもしれないわね」

 

「粛正となると、オレの出番ですか」

 

「……普段ならそうでしょうけど、今回ばかりは依頼できないでしょうし、そもそも貴方には護衛の仕事がある。たとえ300万コル積まれても護衛期間中は断るわ。受けた依頼を蔑ろにして別の依頼に励むなんて貴方の流儀に反するでしょうし、何よりも【渡り鳥】の信用問題……ブランド価値を下げるわ」

 

「なるほど。分かりました」

 

 つまりオレはスイレンの護衛に集中すればいい。もとい、首を突っ込むな、口を挟むな、全て自分に任せろとグリセルダさんは笑顔の圧力をかけて念押しをしている。大人しく従うべきだし、オレもわざわざ火中の栗ならぬ手榴弾を掴もうとは思わない。そもそも政治うんぬんは門外漢だしな。

 

「世論はどうですか? 貧民街もそうですが、繁華街やクラウドアースの事実上の支配下である歓楽街にも被害がありました」

 

 血と暴力と爆炎は日常茶飯事のDBOとはいえ、最近は3大ギルドと教会を中心とした社会安定が実っていた。クリスマス歓迎ムードも合わさり、かなりショッキングな事件だったとは思うのだが。特に巨大クリスマスツリーが危うく倒壊しかけたわけだしな。

 

「それがおかしい位に報道規制『されていない』のよ」

 

「…………」

 

「これだけの被害だと隠蔽不可能。だったら、メディアと風聞をフル活用した情報操作に切り替えたと見た方が良さそうね。既に各新聞で貧民街にて『詳細不明の大型ゴーレム』が大規模な被害をもたらしたと1面トップで報道しているわ。ラジオもこの話題もお盛んね」

 

「社会不安を煽って、どういうつもりなのでしょうか」

 

「既に表立って処断する生贄の羊は準備されている、という事でしょうね。大ギルドの支配体制に反対を表明し、支持を集めて勢力を拡大させているレジスタンスもある。幸いにもスイレンさんと≪ボマー≫の件は伏せられている。それらしい理由を付けて、証拠をでっち上げて、教会が協力するだけの取引を3大ギルドが持ち出せば、ひとまずは収まりが付く」

 

 いや、いやいや、いやいやいや! そんな馬鹿な!? 当事者でもあったオレが言うのもなんであるが、これから戦争が始まるのではないかと思うほどに、暗黙の非戦闘地域で派手な花火を打ち上げたんだぞ!? それを簡単に収拾できるものなのか!?

 

「貴方って、言葉にはしないけど、顔には本当に意外と出るわよね」

 

「……失礼しました」

 

「悪い事じゃないわ。貴方は大ギルドや教会よりも厄介な秘密主義だもの。だから、表層であっても貴方の感情や思考が分かるのは喜ばしいどころか、微笑ましくて安心するわ。だから絶対に交渉・取引は勝手にしないでね」

 

 再三に亘って念押しされ、オレは無言で返す。ほら。善処しますとしか言えないから。約束したら破るだろうから。

 

「できるわよ。適当なレジスタンスを『被害も鑑みない凶悪テロリスト』として報道して、彼らに資金・技術援助していた内部協力者を粛正したと大々的に報じて3大ギルドのお偉いさんが頭を下げて、適当に降格人事して、各種保証を明示して、被害を受けた貧民街への支援を行う教会に大々的な寄付をする。そして、センセーショナルな『新しい話題』を提供すればいい。そうね、たとえば件の凶悪テロリスト殲滅に、3大ギルドが合同で部隊派遣を行う……とか」

 

「その程度で……まさか……」

 

「クゥリ君、人間はね、『その程度』で騙されるの。無意識でも『騙されたい』と願うものなのよ。誰もが貴方のように己の力だけで降りかかる火の粉を払い除けられるわけじゃない。強大な庇護が必要なの。教会が精神の拠り所なら、3大ギルドは社会基盤の大黒柱。点が3つ揃えば面となって安定するように、教会も現状の三つ巴を維持したいはず」

 

 グリセルダさんは空中を指でなぞって三角形を描くと、まるで子どもに算数を教えるように政治力学を語る。

 

「強気の要求を飲ませるでしょうけど、今回の件の『真実』を公表する事は無いわ。ギルド間戦争なんていう、いずれ避けられない最悪のシナリオが待っているとしても、少しでも『平和』を長引かせる為にね。それに今回の被害は結果的に教会の求心力を高めるのにも役立つ。教会剣をギルド化したばかりですし、教会は有利な取引をして手打ちでしょうね」

 

「エドガーが頷くでしょうか」

 

「教会は大きくなったわ。エドガー神父の求心力は絶大だし、発言力も無視できないけど、教会の運営は彼1人で担われているわけではない。教会は修道会、教会剣、聖歌隊の3つで成り立っているの。この中でエドガー神父が最も影響力を持つのは、聖堂の警護や治安維持活動を担う教会剣。慈善活動などの教会の表立った活動、それを支えるのに不可欠な金勘定を仕切るのは修道会。葬祭や文化的活動、聖遺物探索を担う聖歌隊」

 

「確か、実質的トップは修道会から選ばれる……でしたっけ?」

 

「ええ、そうよ。なにせ、人数も活動内容も最も多いのが修道会なのだから当然ね。聖歌隊は教会剣や修道会に比べて規模も役割も弱いけど、同列として扱われている以上は、おいそれと公表できない教会にとって重要な何かを担っていると見るべきね」

 

 少し脱線したわ、とグリセルダさんは付け加えたが、むしろ現状の教会の在り方をグリセルダさんの見識で語られるのは有り難い。なにせ、オレはどれだけ情報が入ってきても、エドガーという強烈な人物を知っているだけに、エドガー個人で教会がある程度は方針が決まると思い込んでしまっている節があったからだ。

 

「エドガー神父は修道会の管轄である孤児院の運営にも関与しているし、聖歌隊にも顔が利いてかなりの発言力があるみたい。在籍は教会剣というだけで、実際には修道会にも聖歌隊にも大きな影響力を持つ人物なのは間違いないわ。でも、教会が大組織となってしまった限り、彼らの信じる教義における神の代行者であろうとも、全てを支配することができないの」

 

「神の代行者……ですか」

 

「『灰より出でる大火を迎える』のが教会の教義。大火こそが彼らの信じる神に同義の存在。それがDBOにおける最初の火に根拠を持ったものなのかもしれないわ。だったら、聖遺物探索を使命とする聖歌隊が同列に扱われるのも納得がいく。でも……私にはどうしてもエドガー神父が信仰する『神』は、DBOに基盤を持ったものではないように思えるのよね。だからこそ、妙な説得力があるというか……だからこそ、こんなにも急速に人々の精神的支柱として信仰と信徒を集められたと思えるのよ」

 

「DBO根拠のものでしたら、暗月みたいなシステム的に『実利』を提供できる誓約を中心にして発足させればいいですからね」

 

「……たまに気付かされるけど、貴方って本当に発言しないだけで、ちゃんと考えてるのよね」

 

 呆れるグリセルダさんだが、オレとて熟慮して行動しているつもりだ。だが、オレは単純に頭脳労働向けではないと自覚しているし、余計な発言で混乱を生んだ挙げ句に問題を捻れさせたくないだけである。というか、個人的見解さえも望まれない限りはなるべく話したくない。面倒臭くて疲れる。そういうのは頭が良くて口が達者な人のお仕事です。

 

「エドガーが見出した『神』とDBOの要素を絡めているのが神灰教会の教義ね。神父と名乗り、教会内の運営が修道会なのも、彼がカトリック教徒『だった』からなのでしょうけど、はたしてどんな『神』なのかしら。元の信仰を捨てるどころか利用して神灰教会を設立する程の狂信の対象。個人的興味はあるわ」

 

「まぁ、エドガーを狂信者に変えてしまった『神』ですからね。きっと、ろくでもない『神』ですよ」

 

「ふふふ、そうかもしれないわね。まぁ、詰まるところを言えば、エドガー個人は教会に影響力を持っていても、組織間の折衝や運営管理は彼個人で全てを担っているわけではない。無下には出来ないけど、丸呑みにもできない。教会内でも教義の解釈で割れて宗派が生まれつつあるみたいだし、何にしても数が増える程に個人の限界にぶつかるのが人間社会の特徴ね。エドガーの信仰がどれだけ崇高で純粋であろうとも、人間が集団化する限り、権力闘争、利害関係、思想対立……人が人であるが故の宿命からは逃れられないわ」

 

「そうですね。でも、嫌いではありませんよ。個人であろうと組織であろうと、迷走して、挫折して、間違って……それでも、何度でも何度でもやり直そうとする。恥知らずだと嗤われようとも、過去の教訓から学んでいないように繰り返しても、信念は汚泥で塗れようとも、願望は腐臭を漂わせようとも、今度こそはと前進する『人』の在り方は……愛おしいです」

 

 グリセルダさんに指摘されたからだろう。胸に手をやり、オレもたまには内心とやらを言葉にしてみる。案の定、グリセルダさんは口を開けて硬直してしまっていた。ほら、だから駄目なんだよ。

 

「……分かってはいたけど、貴方って多面かつ極端よね。あら、嫌だ。なんか変な信仰心が芽生えそうよ。エドガーの同類になっちゃうわ」

 

「クヒヒ、信じて生贄とか捧げちゃいますか?」

 

 冗談っぽく問いかければ、グリセルダさんも道化を演じるように恭しく頭を下げる。

 

「ええ、もちろん。仕事が終わる頃にはクリスマスだし、何かプレゼントでも準備しておくわ。だから、十分に注意しなさい。大ギルドも大きな動きは取れないでしょうけど、自棄になった馬鹿は読めないわ。貴方は大丈夫でも、遅れを取ればスイレンさんが今度こそ拉致・殺害される」

 

 真剣な眼差しで忠告を受ける。ああ、その通りだ。スイレンが拉致されたのは、いかなる状況であれ、オレの失態だ。最適解を選べていれば、彼女を危険に晒すことも無かった。キリトならば、きっと……

 

「ええ、分かりました」

 

 仕事が山積みのグリセルダさんも長居できない。立ち去ろうとしたが、足を止めて振り返る。

 

「『アレ』についてはこちらでも解析しておくわ。まぁ、貴方の読み通りに十中八九で黒でしょうけど」

 

「……そうですか」

 

「ええ、そうよ。想像通りでしょうね。でも、やることは変わらないわ。今の貴方はスイレンさんの護衛。それ以上でも以下でもない。他の全ては無視しなさい。彼女を害する全てを例外なく滅しなさい。来たるべき時まで……」

 

 今度こそ失せたグリセルダさんの言い残しに、オレはどうするべきかと壁にもたれかかって腕を組む。

 ひとまずグリムロックから追加装備の手配は行った。護衛用装備が仇になったからな。魔剣はさすがに無理だが、それ以外の武器なら準備可能だ。あれ程の大規模襲撃はさすがに無いと信じたいし、そう簡単に許すつもりもないが、万が一もあり得る。

 来たるべき時……スイレンの暗殺は確定事項だ。今回の件を受けて、ヴェニデ……もとい、セサルも依頼調整を行うだろう。

 だが、オレのやるべき事は変わらない。スイレンを守る。それが仕事だ。

 

 足を運ぶのは1階の厨房だ。私室の風呂場に遺体があったので、スイレンには厨房にて休んでもらっている。

 

「あ、【渡り鳥】さん」

 

 拉致されている最中は襲撃が入浴中だった事もあり、バスローブ姿だった彼女であるが、あれだけド派手に暴れ回ったのだ。白いバスローブは灰と埃で汚れきってしまった。彼女自身も泥と煤塗れだったので、従業員用の風呂で体を清め、毛糸のカーデガン、それにチェックのロングスカートという、オフの彼女を知るオレとしてはイメージに合う地味な格好だ。

 鮮やかな金髪も今は暗い茶色であり、化粧も抑えてあり、分厚い眼鏡をかけている。彼女が高級娼婦スイレンであると見抜ける人物は皆無だろう。

 パンを囓り、コーンスープを飲み、ストーブで暖を取る。昨夜は彼女を巡って多くの死者が出たのであるが、見た限りでは精神的動揺はない。単純に思考が追いついていないだけか、意図して考えないようにしているのか、あるいは……いや、止そう。

 オレの視線に気付いたのだろう。スイレンはやや頬を紅潮させながら立ち上がる。

 

「ど、どうかな?」

 

「お似合いですよ」

 

「……あ、あははは。少し傷つくな。でも、こっちが本当の……私、なんだよね。『スイレン』はカリンさんがプロデュースしてくれた虚像……偽物だから……」

 

「たとえカリンさんが男心を掴む為にデザインした虚像だとしても、『スイレン』を肉付けしたのは貴方です。貴方が自分の仕事に心から誇りを持ち、お客様を大切にしているならば、本物や偽物の区別は要りません。今の単にオンオフの切り替えです」

 

「……【渡り鳥】さんって、優しいね」

 

「優しくありません。人並みのありふれた意見を述べた迄です。それに、私室ではよれよれのジャージ姿なのを披露している人間が今更どんな格好をしようとも新鮮味も驚きもありません」

 

「そっか。うん、なんとなくだけど……【渡り鳥】さんの事が分かってきた」

 

 何故か嬉しそうに苦笑いするスイレンは、ひとまずは問題ないな。

 さて、見る限りでは厨房にスイレンだけだ。狙撃されないように窓から離れた場所で休んで貰い、なおかつ誰にも寄りつかせないように指示しておいたのであるが、先の拉致がある。護衛を残さないはずがない。

 オレはスイレンの傍らにある大きな段ボールを見下ろし、無言で贄姫を鞘に入れたまま突く。

 

「ふぎゃ!?」

 

 貫通した段ボールの中で悲鳴が上がり、思わず嘆息した。剥ぎ取って見れば、眉間が割れて血が噴き出し、大の字になって倒れている灰狼の姿があった。

 

「ま、マスター……?」

 

「段ボールの配置が不自然だ。偽装も甘い。気配を殺せていない。攻撃に対処も出来なかった。3点だ」

 

「じゅ、10点満点……ですか?」

 

 涙目になりながら起き上がって正座する灰狼に、オレは冷徹の眼で見下ろす。

 

「10000点満点だ」

 

「酷い!?」

 

 思わず悲鳴を上げたのはスイレンだ。耳を垂らし、萎びた野菜のように項垂れる灰狼を慰めるように頭を撫でる。

 

「さすがに厳しすぎる……と、思うな。私が、その……口出しするのはお門違いかもしれないけど、灰狼ちゃんも頑張ってたと、思うし……せめて100点満点の3点で……」

 

 ……100点満点の3点というのも辛辣な評価だと思うのであるが。事実として灰狼はまたも衝撃を受けている。

 

「それに、いきなり暴力は……灰狼ちゃんは【渡り鳥】さんのサポートユニット……なんだし……もっと大切に……してあげた方が……」

 

「灰狼に任せたのはオレが離席している間の護衛です。隠れ潜み、襲撃者に備えるのは評価点でした。灰狼の容姿は目立ちますから。ですが、それ以外はお粗末で落第です。それに初撃に対処できなかったのは完全に油断です」

 

「わ、【渡り鳥】さんだったから安心したんだよ、きっと。そうだよね、灰狼ちゃん?」

 

「……灰狼はマスターの足音、呼吸、ニオイ、気配、全てを憶えています。間違えるはずがありません。ですが、それに慢心して警戒を怠ったのは灰狼であり、マスターに変装した暗殺者である危険性を考慮していませんでした」

 

 ふむ、この短期間でオレと判別するデータ収集を大まかに完了していたか。これは評価を改めねばならない。だが、同時にオレと他プレイヤーと区別する方法はあくまで五感に大きく依存するという事だ。サポートユニットだからと特別な識別が成り立つわけではないのだな。

 オレに変装した場合も含めて、この穴を突かれる危険性は幾らでもある。逆も然り。オレも別人・モンスターが灰狼に変装・変化していても識別する特殊な方法はない。いや、まぁ、敵意や害意があったら本能的に察知できるかもしれないが、それに頼るのもな。

 やはり幾らか対策を準備しておいた方が良いな。合言葉は鉄板か。五感は……後遺症で当てにならないかもしれないが、情報収集はすべきか。あとは仕草等々もよく観察しておかないとな。

 まったく、普段はお独り様のオレにサポートユニットなど……とも思ったが、こうして得てみると考えさせられる事が多い。これはこれで役立つ経験になるか。灰狼のことをとやかく言う資格はオレにも無いのかもしれない。

 

「灰狼はマスターに有用性を認められていながら、マスターのご期待を裏切りました。も、申し訳……あ、ありません。申し訳……ひっく……申し訳ありま……ひっく!」

 

 オレの無言の思考時間を誤解したのだろう。灰狼は泣きじゃくり、スイレンは彼女を抱きしめてオレに非難の眼差しを向ける。

 

「【渡り鳥】さん!」

 

「……すまなかった。少し、いや、かなり厳しく評点してしまった。そうだな。確かに、100点満点中の3点くらいにしておくべきだった。それに、攻撃するにしても、加減をしておくべきだった」

 

 まったく、スイレンは気が強いのか弱いのか。オレの謝罪に、灰狼は目を丸くして、首を横に振る。

 

「い、いいえ! 灰狼が期待を裏切ったのが――」

 

「オマエは十分に応えてくれた。今度はオレがオマエのマスターとして相応しいか証明する番かもしれないな」

 

「…………」

 

 オレの発言に、何故か灰狼はショックを受けた表情で狼耳をピンと張る。あれ? 何か不味いことを言っただろうか。

 

「マスター……もしや、わざと『マスター失格』になって、合理的に灰狼を追い出そうと……だって、灰狼は有用性を……!」

 

「そうなの!? ひ、酷すぎるよ、【渡り鳥】さん! サイテーです!」

 

「誰がそんな回りくどいリストラみたいな真似をするか」

 

 疲れる。アレだ。お独り様ばかりだった弊害がここぞとばかりに出てる。キリトみたいに互いの距離感を分かってないのも拍車をかけている。

 

「灰狼、オマエはオレの何だ?」

 

「サポートユニット……です」

 

「そうだ。オレはオマエを認めた。契約もした。オマエはオレの『武器』だ。オレは自分の武器を使い潰す。どんな性能であれ、信じて扱う。オマエは有用性にこだわるが、オレはオマエの評価がどれだけ上下しようとも、それだけは変わらない。仮に手放す時が来ても、虚言を弄するつもりはない。それがオレの武器に対する礼儀だ」

 

 たとえ、グリムロックにとってもイレギュラーだとしても、オレは自分で扱うと決めた武器を全力で使い潰す。もちろん、自我を持つ灰狼とは昨夜の契約に則った運用になるが、それでもオレ自身の向き合い方は変わらない。

 

「もう1度尋ねる。灰狼、オマエはオレの何だ?」

 

「サポートユニットです! マスターの武器です!」

 

 笑顔で灰狼は答える。少しだけ微笑んだオレは頷いた。

 

「でも、マスターは灰狼に契約を破らせようと画策しますよね? それは礼儀に反しないのですか? 卑怯ではないのですか?」

 

「嘘は言っていないだろう。あと傭兵にとって卑怯は褒め言葉だ」

 

「マスタぁあああああああああ!?」

 

 まぁ、オレも本気で灰狼に契約を破らせようと騙すつもりはない。灰狼もそれは分かっているのだろう。だからこそ、涙を拭った彼女の眼は真っ直ぐにオレを射貫いていた。こういう目は……なんというか……疼くな。血で濡らしたくなる。

 

「……仲が良いんだね。羨ましい」

 

「付き合いはまだ短いので連携には難がありますし、互いに知らない部分も多くて困っていますがね」

 

「ですが、灰狼はマスターに有用性を認められたサポートユニットとして、誠心誠意でお応えします。それが灰狼の存在意義なのですから」

 

 大袈裟だ。契約はさせたが、オレの為に死ぬ価値などない。むしろ、彼女のようなサポートユニットに相応しいのかどうか、オレの方が厳しい採点をされる側だ。

 

「でも暴力はよくないよ。訓練だとしても、あまり傷つけないようにしてあげないと。特に顔は駄目。灰狼ちゃんだって女の子なんだから」

 

 訓練だからこそ傷ついておくべきだとオレは思うのだが、確かにその通りかもしれないな。灰狼は敵ではないのだから。

 

「そうですね。やはり、さすがにやり過ぎ――」

 

「いいえ、その心配には及びません、スイレンさん」

 

 と、普段の感情を殺した無表情となった灰狼は感情を抑制した声でオレに背を向けるとスイレンと向き直る。

 

「灰狼は甘んじて受け入れます。全てはマスターが灰狼を思ってのご指導なのですから。そう、『灰狼の事を真摯に考えてくれた』証なのです。斬られようと、刺されようと、殴られようと、蹴られようと、首を絞められようと……マスターに思われてこそ」

 

 初対面でオマエがグリムロックを斬ろうとした時は、敵性と判断して額を叩き割ったんだがな。あれは灰狼にとってノーカウントなのだろうか。

 だが、サポートユニットとしての刷り込みなのか、少し気になるな。武器は信じて運用するが、自我を持つとどうしても裏切りのリスクが生じる。まぁ、最初から裏切りを想定して運用するのも面倒臭いし、灰狼はスイレンを殺すような思考には至らないと短い付き合いでも分かったので大丈夫だが、スイレンに懐きすぎると暗殺時に問題となる。

 まぁ、今回が初任務だ。オレの依頼の性質を考えれば、サポートユニットとして運用するならば避けられない課題だ。今回のケースから彼女にも選択の余地を改めて与えるのも、使い手であるオレの役割だろう。

 

「なので、至らない部分がありましたら、いつでも灰狼に『ご指導』をお願いします」

 

 振り返った灰狼は無表情かつ無感情の声であったが、熱を帯びた視線を向けていた。

 えーと、戦闘訓練時には徹底的に痛めつけるつもりではあるのだが、そこまで堂々と宣言されてしまうと、色々と気まずいのであるが。

 それに何故かは分からないが、スイレンが同情にも似た眼差しをオレに向けている。

 

「ねぇ、【渡り鳥】さんって、面倒臭い女の子に絡まれやすい、とか……ない? ちょっと、危ない女の子に……」

 

「……失礼ながら、まずはご自身の胸に手を当ててみるべきでは?」

 

 クラウドアースの施設を爆破して職員を虐殺して指名手配され、正体を隠して高級娼婦となり、出会い頭に切腹未遂を起こし、仕事とプライベートの精神落差が激しく、ユニークスキル≪ボマー≫を持つばかりに終わりつつある街を危うく火の海にする大惨事の中心にいた女が面倒臭くないと言い切れるものならば、やってみろ。

 

「それよりも、これから先ですが、安全が確保されるまでエバーライフ=コールが準備したセーフティハウスに潜伏します」

 

「そうですか。【渡り鳥】さんに従います。ほら、わ、私は素人だから……そういうの、分からないし……」

 

「ですが、先の襲撃を踏まえ、エバーライフ=コールが準備したセーフティハウスは既に露見している危険性を考慮し、セーフティハウスには影武者を使い、オレ達は独自に潜伏する事になりました。カリンさんからも了承は得ています」

 

 スイレンと背格好が同じ女に変装をさせて敵の目を欺く。同時にエバーライフ=コールからも隠れ潜む事で、情報漏洩からの襲撃も防げる。

 カリンがオレの提案を了承したのは、どうやら昨夜の大立ち回りのお陰のようだった。まぁ、セーフティハウスでまた同じような事が起きれば、今度は余計に被害を生む事になるからな。

 

「問題はスイレンさんの素性ですね」

 

 スイレンは『高級娼婦スイレン』と擬態することよって、≪ボマー≫保持者リンネである事を隠していた。オレは記憶にある写真のリンネと今のスイレンを見比べる。

 やはり、というか当たり前なのであるが、よりリンネとして判別できる。リンネは今も指名手配中であり、賞金稼ぎやユニークスキル目当ては彼女の容姿を頭に叩き込んでいるだろう。まぁ、だからこそ灯台下暗しというか、高級娼婦とは考えたものだ。容易には接触できず、先入観を欺く。見習いたいものだ。

 だが、『高級娼婦スイレン』というフィルターが外れ、髪の色も化粧も服装も『本来の彼女』に近づけたとなれば、当然ながら擬態効果は期待できない。

 

「いっそ顔を焼きましょうか。火傷で顔を潰すのは常套手段ですが有効です」

 

「あ、だったら、ちょっと待ってください」

 

 スイレンは両手を合わせて笑むと、化粧道具を手に取る。

 30分後、スイレンの左顔面にはまるで毒や病に蝕まれたかのような紫色の痣や壊死した皮膚の化粧が施されていた。スイレンは左目を中心にして包帯を巻く。絶妙に包帯の隙間からも壊死した皮膚の化粧が見えているのは、彼女が培った演技力に裏打ちされた演出だろう。

 スイレンは最後に元々かけていた大きな丸眼鏡をかける。【身隠しの眼鏡】であり、オレの教会服のフードと類似した顔を隠す効果がある。

 

「いかがですか?」

 

「驚きました。確かに化粧の方が良さそうですね」

 

「じゃあ、次は【渡り鳥】さんだね。私以上に目立ちますから。ふ、フヒ、フヒヒ……【渡り鳥】さんを化粧して、着せ替え人形……す、すごく興奮します……!」

 

 涎を垂らすな、汚い。尻尾の毛を逆立たせる灰狼を下がらせて、オレは無用だと首を横に振る。

 

「ご安心ください。これでも素性を隠して依頼に従事するのはよくある事なので。いえ、それどころか日常なので」

 

「……日常、なの? 正体を、隠すのが?」

 

「暗殺対策です。素顔を晒していると暗殺しようと企む方々が多いので」

 

「私が言えた義理じゃないけど、大丈夫なの?」

 

「ええ、ご安心ください。全て返り討ちにしているので」

 

「そ、そうじゃなくて……!」

 

 さて、最後は灰狼だ。彼女も彼女で目立つ。なにせ狼耳と尻尾だ。デーモン化でも獣人型はあるにはあるので見慣れたプレイヤーも多いのであるが、低燃費とはいえ日常的にデーモン化している者はいない。なんか装備で獣耳化とか尻尾とかもあるそうであるが、レア過ぎて目を引く。

 いっそ切断する方針も検討したのであるが、彼女には未知が多いし、狼耳も『耳に形状は類似した別器官』であり、彼女の能力とも関与が確認されている。安易に能力低下を及ぼす選択肢は排除すべきだ。

 

「これに着替えろ。グリセルダさんに持ってきてもらった」

 

 準備したのは灰狼の体格に合わせたロングスカートのワンピースと耳付きパーカーだ。尻尾は窮屈かも知れないが、スカートの中に隠せるだろう。緊急ではあったが、グリセルダさんが見繕ってくれたものだ。まぁ、逆に言えば連絡すれば即座に入手できるだけの流通が既にDBOにあるという証左でもある。

 

「召喚を解除していただければ、灰狼は……」

 

「敵勢力は未知数だ。護衛任務において、オマエの索敵能力は有効だ。使わない手はない」

 

 それに灰狼というカードは既に知られているからな。敢えて伏せ続ける必要も無い。むしろ、彼女という戦力を意識してくれる分だけこちらも立ち回りやすい。

 着替えた灰狼はパーカーを羽織ってフードを被れば、狼耳を綺麗に誤魔化せている。悪くないだろう。

 

「あ、これ借りますね」

 

 灰狼の変装道具の余りであるニット帽を被ったスイレンは、灰狼の両肩を掴んで引き寄せる。

 

「設定は地味姉と反抗期妹のシスターズ……でどうかな?」

 

「ふざけているのですか……と言いたいところですが、潜伏生活は事態が収拾するまでなので、設定は必要ですね」

 

 まぁ、こういう時に備えてマニュアルは幾つかあるのだが、お独り様のオレ専用しかない。

 厨房のドアがノックされ、解錠して確認すればカリンだった。彼女の背後にはスイレンの影武者が緊張した面持ちで控えている。背格好も体型も似ているな。髪色も髪型も似せてある。これならば近距離から直視しない限り、そう簡単には分からないだろう。

 

「準備はできたかしら?」

 

「ええ、いつでも」

 

 灰狼の召喚を解除し、スイレンに教会のフード付きマントを投げ渡す。わざわざ教会が検分に来てくれているのだ。利用しない手はない。

 正面玄関からカリンとスイレンの影武者に見送られ、オレは教会の人間に偽装したスイレンに連れられて大聖堂を目指す。途中で人通りが激しい大通りに出るとスイレンの手を引いて暗がりに入り込み、マントを彼女から剥ぎ取ると火が燻っているドラム缶の中に押し込んだ。

 

「も、勿体ない……」

 

「残しておいても面倒です」

 

 廃墟の暗がりにて、装備画面から防具を切り替える。濃紺のミリタリージャケットと黒ズボン、そして髪を纏めてキャスケットを被る。靴も安っぽいブーツだ。眼帯も普段使いではなく、医療用の安物を準備した。こういう時にこの義眼は目立つが、敵が未知数である以上は安易に切り替えられない。

 武器は暗器で纏める。ブーツにはワイヤー射出機構が備わった【アンカーナイフP1】を2本が隠され、手首には分厚い針を射出する【影針】を左右に仕込んである。地味な装備であるが、これらはあくまで潜伏用装備だ。コンセプトは『非戦闘員』である。

 最後に赤いマフラーを巻いて口元を隠す。オレはくるりと回ってスイレンに微笑む。

 

「いかがですか?」

 

「……い、印象が全然違う。普段もその格好なの?」

 

「まさか。もっと効果的な格好ですよ」

 

 エドガーが準備した教会服は本当に有り難い。あれを着ているだけで教会を敵に回したくない連中はおいそれと近寄ってこないからな。

 オレ達が向かうのは下層でもある程度の収入を得る者達が暮らす区域……【下流街】だ。富裕層などの上流階級の街である上層と比較した皮肉を込めた通り名である。

 下流街で暮らすのは最低レベルでも衣食住を確保できたプレイヤーだ。街は華やかさも清潔感もあるとは言い難いが、暮らしにくいわけではない。

 低賃金であろうとも就労し、またレベルアップに励む下位プレイヤーの多くが暮らす。大ギルドは治安改善の為に、まずは下層の貧民街をいずれは下流街に置換していく計画を立てている。

 下流街で暮らすプレイヤーは努力、幸運、借金……いずれか、あるいは全部で、どれだけの苦労があろうとも『人間らしい生活』を手に入れている。たとえ、1つ間違えれば貧民街に転がり落ちるとしても、精一杯に生きている。

 DBOのプレイヤー人口は増加を辿っている。その分だけ『戦える人間』の数は増えているが、『戦えない人間』の割合は増加を辿っている。

 DBOにおいて、レベル80以上の上位プレイヤー、レベル21以上80未満を中位プレイヤー、レベル20以下を下位プレイヤーと区分した場合、下位プレイヤーは全体の6割を占め、上位プレイヤーはたったの2パーセント、残りが中位プレイヤーである。

 上位、中位、下位の区分分けの基準となるのは最も高いレベルを保持するトッププレイヤーとなる。各大ギルドのトッププレイヤーのレベルから割り出すのだ。トッププレイヤーのレベルが高まれば高まる程に、上位プレイヤーに区分される割合は減っていく。高難度のDBOでは、レベルが高まる程に高レベルプレイヤーの数は減少するのが常なのだ。

 もはやDBOの正確な人口を計測するのは難しい。10万人とする説もあれば、30万人と答える者もいる。100万人を超えているのではないかと嘯く者もいる。

 仮に30万人としても、上位プレイヤーは6000人。これらの大部分は大ギルドや教会に所属している。その中でもレベルと装備だけ見繕って攻略経験の乏しいプレイヤーの割合は増えつつある。PvPやGvGばかりを意識して、攻略とネームド戦における活躍が見込めないプレイヤーが増えているのだ。フロンティア・フィールド産のFネームドに遭遇し、上位プレイヤーの団体様が全滅しかけた……という報道があるくらいだからな。だが、それでも幾らかマシである。

 中位プレイヤーは……正直に言えば分からない。モンスターからドロップアイテムを、ダンジョンやフィールドで多種多様なアイテムを収拾すれば、ある程度の生活は維持できるからだ。だが、向上心の高い生え抜きの中位プレイヤーは下手に養殖された上位プレイヤーよりも強い。故に中位プレイヤーでも注目株には大ギルドのスカウトマンが足を運び、好待遇で引き抜くのだ。価値次第では所属するギルド丸ごとお買い上げ……なんて事もある。

 下位プレイヤーは貧民プレイヤーとほぼ同義なのであるが、正確には違う。上・中・下の区分はレベルを基準にしたものであり、必ずしも資産の指標ではないからだ。

 たとえば、ディアベルにしてもサンライスにしても初期から最前線で戦ってきた優秀な指揮官であり、また戦士である。だが、サンライスの腹心にして太陽の狩猟団のナンバー2であり、頭脳を担うミュウのレベルはせいぜいが60前後だろう。今の彼女は指揮官ではなく文官としての役割が強い。クラウドアースなど、上層部は武闘派など1人もいない。まぁ、だからこそセサルという軍事顧問が外付けでいるのだろうが。

 

『太陽の狩猟団も大きくなり過ぎて、攻略も含めた方針決議には僕みたいな戦闘員と小隊の指揮官程度では口出しできないんだよね。会議にすら呼ばれないよ。団長と副団長の信頼関係があるから、僕たち現場の声を団長が会議で物申してくれているし、団長のカリスマがあってこその統率もあるから辛うじて……って状態さ。最近は団長にはトップを務める品格と責任が無いから罷免すべきだ……なんて意見もあるそうだよ。まぁ、副団長がいる限りは実現しないだろうけどね』

 

 ラジードがそんな愚痴を漏らしていた事もあった。ラジードはサンライス、ミスティアと並ぶ太陽の狩猟団にとって貴重な人材だ。清廉な人柄、爽やかな容姿、確かな実力と実績がある。熱血暴走馬鹿のサンライスとは異なる信頼を集めている。だが、それと運営や方針に口出しできるかは別問題だ。

 上位プレイヤーは衣食住に困らないし、相応の贅沢も可能であるし、大ギルド所属ならば装備・アイテム面でも自腹を切る事は無い。だが、個人資産は決して高くないのだ。簡単に言えば高給取りのサラリーマンのようなものである。

 決して少なくないダンジョンの攻略とネームド撃破に貢献したラジードに、まともにダンジョンにも入ったことがない下位プレイヤーの幹部が命令を下す……なんて事も珍しくないどころか普通であり、彼らの方がラジードよりも好待遇だ。

 まぁ、組織運営においては現場……戦闘能力や探索力が役に立つかと問われれば違うし、現実世界においても技術者よりも経営を担う役員の方が高給取りだ。

 たとえ、下位プレイヤーであろうとも商売で成り上がって莫大さ資産を持つプレイヤーはいる。彼らは富裕層として数えられ、DBOの経済どころか攻略事情にも大きな影響力を与える。大ギルドもそうした商業ギルドを無視できないからだ。むしろ、大ギルドもまた商業ギルドとしての側面を持つ。

 戦わなくてもいい。戦わなくても生きていける。それは喜ばしい事なのだろう。血を流すべきなのは『戦える人間』であるべきであり、また『戦うしかなかった人間』であればいいのだ。食い扶持を求めて、武器を握り、毎日のように積み重ねられていく死体1つになるしかないと分かっていても……だ。

 傭兵だって同じだ。オレ達は高額報酬で動くとされているが、大ギルドや有力ギルド、大商業ギルドがオレ達に支払う報酬で彼らは傾かない。雇えるだけの財力が当然として備わっている。

 DBOにおいておいて上中下といった『レベル』を基準とした区分は、結局のところは目線の1つに過ぎない。

 貧民街にいつ転げ落ちてもおかしくない、辛うじて人間らしい生活にしがみつく者達の街……下流街。人々の顔は明るく、暗く、虚ろで、だが幸せを追い求める。いつ訪れるかも分からない完全攻略を目指すよりも今日の夕飯と明日の朝食の方が大事なのだ。

 それでいいのだろう、とは思うつもりだ。オレ自身も攻略のあれこれにはほとんど関わってない身だ。というか、まともに攻略関係の依頼を受けた事ってあっただろうか。記憶が灼けて確かではないが、無かったと思うぞ。なにせ、グリセルダさんが必死になって『まともな功績』をオレに与えようと四苦八苦しているくらいだ。

 剣を握るよりもつるはしを握ってレア鉱石を掘り当ててボーナスを狙う方が安全だし、戦場よりもデスクで成り上がる方が豊かな生活と地位を手に入れられる。DBOにおいて大戦力を確保する大ギルドさえも実戦経験不足の者達が上層部で割合を増やしつつあるのは当然の結果なのだろう。

 

(クヒヒ、愚かよね。彼らは目を背けているだけ。ここは戦場。砂上の都は血で濡れれば崩れ落ちるのが定め。道徳は緩く、法の秩序は外れ、根底には暴力が息づく。力無き者が支配者である理屈が成立するのに、人類がどれだけの歳月と犠牲を積み重ねたのか、上辺だけを享受してきた者達には理解できない)

 

 嘲笑するヤツメ様に、そう言ってやれないでくれと溜め息を吐く。たとえ、DBOに放り込まれようとも、思考には現代教育と道徳観がある。

 それに権力も財力も『力』だ。確かにDBOでは、銃火器と戦術・戦略兵器によって個人の武勇が発揮されなくなった現代とは異なり、個人の戦闘能力は大きな意味を持つ。だが、突出した個人に及ばなくても、権力と財力で質を底上げして数を補えば覆せる。いずれの大ギルドも突出した個人戦力の育成よりも、装備と訓練を積んだ安定した質と膨大な数を頼りにした軍団に注力していったように。

 それはDBOだからではない。生物という枠組みにおいて不変の真理だ。人間は特に知性と理性を持つが故に、その傾向が強く出るだけだ。

 

(だからアナタも嗤うのでしょう? 権力も財力も『力』。だけど、権力も財力も人間が生み出したまやかし。社会が生み出した幻想。生物にとって根源的な『力』とは『暴力』に他ならないのだから)

 

 嗤う? オレが嗤っている? マフラーに隠された口元に触れたが、退屈な真一文字だ。そんなオレを見て、ヤツメ様は嘲う。

 

「【渡り鳥】さん?」

 

 足を止めてしまったからだろう。スイレンがオレを覗き込んで心配そうに見つめる。

 

「……気にしないでください。少し考え事をしていただけです」

 

 頭を切り替えろ。スイレンの護衛が最優先事項だ。DBOも人間社会も関係ない。

 壁面は路上より湧き出す蒸気のせいで冬場でも湿って苔生し、正面玄関は汚くみすぼらしい。足を踏み入れば、ゴミが散乱して蜘蛛の巣も張られ、埃塗れのネズミの死体が転がっている。

 6階建てアパートであり、1LKで手狭であり、オレの傭兵寮の半分の面積もない。備え付けはシャワーだけであって浴槽はなく、木製の簡素なベッドが1つあるのみ。

 

「……質素だね」

 

「家具は以前の住人のものをそのまま買い取りました。一通り揃っています。ラジオもありますからご自由に」

 

 テレビはさすがにDBOでも高級品だ。おいそれと準備はできない。まぁ、ラジオがあるだけでも贅沢というものだ。

 

「前に住んでいた人はどうなったの?」

 

「死亡しました。そうした物件を買い取ってキープしておいたんです」

 

 名義はもちろんオレではない。グリセルダさんが何重にも迂回してオレの所有物だとバレないように工作してある。

 

「壁は薄そうだね。声に注意しないと」

 

「ご安心ください。防音コーティング済みです。窓も防音防弾製で、スナイパーキャノンならば1発は耐えられます」

 

 傭兵にとって隠れ家は必須だ。オレは数が少ない方だろう。細工してある床板を外せば、各種ハンドグレネード、地雷、更には『お喋りパーティセット』もある。

 武器はハンドガン、アサルトライフル、ショットガン、マシンガン、レーザーライフル、ハイレーザーライフル……銃火器は一通り揃っているな。近接装備はイジェン鋼の大剣、イジェン鋼の太刀、イジェン鋼のハンドアックス……イジェン鋼シリーズだけか。

 狙撃ポイントは敢えて1カ所ある物件を選んだ。意図して立ち入るような場所ではない。後で地雷を設置しておかないとな。それから夜間と外出時にはトラップも仕掛ける。燃料は……火竜の唾液か。まぁ、火力の底上げには使えるだろう。

 

「ああ、そういえば≪ボマー≫で高威力の爆薬を作成できるのでしたね。よろしければ――」

 

 振り返ったオレはベッドに腰掛けたスイレンが俯く姿を見て口を噤む。

 感情を殺した表情と目だが、影は否応なく彼女の澱んだ内心を露わにしている。あるいは、それさえも演技なのかもしれないが、オレに判断する材料はない。

 

「失言でした。お許しください」

 

「ううん、いいの。爆薬だね。作れない事もないよ。どんなものからでも爆発物を作れるのが≪ボマー≫の強みだから」

 

「必要ありません」

 

「気にしないで。私は――」

 

「いえ、そうではなく、後で経費請求されたくありませんし、そもそも『護衛対象のスイレン』さんが≪ボマー≫を使えるはずがありませんから」

 

 彼女の正体が≪ボマー≫保持者のリンネだとしても、オレが護衛しているのは『高級娼婦スイレン』だ。今ここで≪ボマー≫を使ってもらって後々の厄介事を増やすのは避けたい。

 

「やっぱり、【渡り鳥】さんは……優しい……ううん……違うか。【渡り鳥】さんは……」

 

 背中からベッドに倒れたスイレンは、途端に苦笑いを発する。

 

「硬いベッドって久しぶり」

 

「贅沢に慣れると怖いですよね」

 

「ベッドは1つしかないけど、ま、ままま、まさか……一緒に?」

 

 頬を赤らめるスイレンに、オレは今までの護衛生活で同衾していないだろうと発言するのも面倒臭くなって溜め息を吐く。

 

「それこそお気になさらずに」

 

 オレは眠らない。眠れない。スイレンがベッドを自由に使えばいいだろう。

 

「食料は十分にあります。3週間は籠城できますね」

 

「缶詰ばかり。しかも……お、美味しくなさそう」

 

「栄養価重視です」

 

 食品には栄養価という隠しパラメータがある。食事量を取れば餓死は免れるが、栄養値が低いとデバフが付く。STR・DEXにマイナス補正、スタミナ回復速度減少、スタミナ消費量増加、被ダメージ倍率増加などだ。まぁ、1回の食事が貧相だった程度ならば問題ないが、それが続くと効果は大きくなる。そして、必要な栄養値はレベルに応じて高まる。

 つまり、高レベルプレイヤーほどに質の伴った食事を恒常的に取らねばならないのである。まぁ、それなりの食事を取れば、苦も無く栄養値はクリアできるので、高レベルのプレイヤー程に意味を持たなくなるのであるが、問題は貧民プレイヤーだ。

 貧民プレイヤーが成り上がれない理由の1つが栄養値不足だ。最低品質の餓死を免れるだけの食事では足りないのだ。ただでさえ貧弱な下位プレイヤーが更に弱体化する負のスパイラルから抜け出せなくなる。

 まぁ、レベル10くらいまでならば、終わりつつある街の周辺でモンスターを倒しながら稼げば、栄養値をクリアできないなんてあり得ない。

 オレの場合、味覚がほぼ死んでるので、腹持ちして栄養価が高ければそれでいい。結果、味を犠牲にした安上がりかつ長期保存と腐敗対策の食事ばかりになる。

 とはいえ、ここに備蓄されている缶詰は幾らかマシだ。オレの普段の保存食に比べれば『食べられる味』らしい。グリセルダさんも隠れ家の備蓄食料なので、あくまで保存期間を重視して採用したが、あまり良い顔をしていなかった。具体的にはヨルコが一口食べて酒で口直しした程度には不味いらしい。

 

「牛肉……鯖……鶏肉……バリエーションは揃ってるけど……」

 

 牛肉の缶詰を開けたスイレンはニオイを嗅ぐと顔を青くする。

 

「や、薬品臭が……! こ、これ、人の食べ物じゃない……! 貧民街で食べてた残飯よりも喉を通らないよ……!」

 

「ああ、そういえば貧民街にいたと仰ってましたね」

 

 クラウドアースの施設爆破後、貧民街で娼婦として生きていた所をカリンに拾われたんだったな。ならば舌が肥えただけだろう。残飯とか雑草のスープとかよりはマシ……のはず。

 

「ちなみに、これも食べますか? オレが普段食です」

 

 パッケージを開けてゴムの塊のような保存食を差し出せば、スイレンがふらりと魂が抜けたように体を傾かせ、だが気丈に踏ん張る。

 

「も、もしかして……わ、わわわ、【渡り鳥】さんって生活力が無い人なの?」

 

「失敬な。リアルでは炊事洗濯掃除は人並みに出来ます」

 

 それに食事だって毎日のように保存食や缶詰だったわけではない。ユウキが食事を作りに来た時やグリセルダさんにお呼ばれしたり、最近だとキリトやラジードと外食もある。

 そもそも≪料理≫スキルが無ければ、まともに調理できないDBOが悪いのだ。適当に肉を焼いて、適当に食材を突っ込んでスープを作るくらいはできるので、わざわざ≪料理≫スキルを取ろうとは思わないだけだ。

 

「お買い物しましょう! 調理器具が揃ってるんですから、私が調理します!」

 

 いつになく強気で熱弁され、だがオレは護衛として首を横に振る。

 

「外出は極力控え――」

 

「お料理しましょう……ね?」

 

 だが、スイレンがオレの頭を掴み、エドガーにも匹敵する『にっこり』で脅迫する。あ、あれ? おかしいな? オレの体……もしかして、震えてる? なんか、スイレンから、鬼セルダさんと同類のオーラが……!?

 トラップを仕掛け、オレはキャスケットを深く被り直すと出発する。

 DBOで食材を購入するとなると市場か店だ。

 中層の市場はDBOでも最大規模であり、あらゆる質と種類の食材が取引される。高級食材から一山幾らまで多種多様だ。個人客だけではなく、飲食店の大きなアピールにもなる競売も見られ、ある種のエンターテイメントも提供している。屋台も隣接しており、ここで食事を済ますプレイヤーも多い。まぁ、昨夜はそんなプレイヤーだらけの場所を爆走して爆炎を立ち上らせたんですけどね!

 そして、もちろん商店もある。わざわざ市場まで足を運ぶのも面倒だったり、逆に市場には並ばない食材を得られたり、スーパーマーケットのように何でも揃っているので便利だったり、と利用価値は様々だ。

 ちなみに市場は誰でも出店できるのではなく場所代を支払わねばならない。元々は大ギルドが取り仕切っていたのであるが、今は商業ギルド協会の管理下にあり、多額の『お布施』によって教会剣による警備が行われている。なので、市場で馬鹿をやらかすとは商業ギルド協会に加盟する全ての商業ギルドを敵に回すという事であり、当然ながら出店している個人経営者の怒りを買うという事であり、治安を預かる教会の顔に泥を塗るという事なのだ!

 うーん、スイレン奪還の為とは言え、オレは顔バレしていただろうし、しばらく市場では顔を隠すべきだな。というか、モンスターバイクに思いっきりジェネラル・シールズのエンブレムが入っていたし、彼らの方が今頃は糾弾されているかもな。まぁ、事態が事態だけに教会がフォローを入れているかもしれないが。

 

「もちろん市場に行きましょう。下流街からも市場までの道が整備されているらしいですし、それに見てください」

 

「……ケーブルカーか」

 

 スイレンが指さす先にはケーブルカーのホームがある。

 終わりつつある街は乱開発によって高低差が激しい立体構造となってしまっている。それ故に各所で崖が出来てしまっており、1歩間違えれば真っ逆様だ。壁面を流れる下水の滝など名物でも何でも無く、何処でも見られる。

 そうした高低差を少しでも解消して移動を楽にするように、ケーブルカー事業が始まった。ちなみに3社の競合であり、もちろん3大ギルドがそれぞれのバックについている。うん、コイツら本当に争うのが好きだな! まぁ、闘争こそが成長なのだから別にいいのだが。

 

「はい。そ、その……乗ってみたくて……駄目、ですか?」

 

 相変わらずペースが掴めない女だ。急激に自信を無くした様子で問われ、オレは無言でケーブルカーを待つ列に並ぶ。

 こんな事なら灰狼を召喚しておくべきだったな。まぁ、灰狼は昨夜の戦いもある。まだ休ませておきたいから今はいいだろう。

 

「お客さん、少ないですね」

 

「市場までの道が整備されたならば、そちらを使うでしょうからね。わざわざ運賃を支払ってまで乗るのは、アイテムストレージに入りきらない買い物か、それともお金を払うように楽を選べる余裕がある人です」

 

「だったら……廃線になってしまうのでしょうか」

 

「ならないでしょう。何だかんだで、こうした路線は不可欠ですから」

 

 終わりつつある街は変わり続ける。レベルの格差と貧富の差を如実に現していく。

 だが、終わりつつある街は増え続けるプレイヤー人口の受け皿としてキャパシティを超えてしまった。今は誤魔化せているが、人口が増え続ければ深刻な食料、水、土地不足に悩まされる。誰もが想起の神殿より別ステージに移住できるわけではない。出来たとしても、移住先での生活コストは終わりつつある街とは比べものにならないし、また不便だ。

 大ギルドがフロンティア・フィールド攻略に勤しむのは、完全攻略の手がかりを探す以上に、まさしく開拓の必要性に迫られての事なのだろう。

 なぁ、キリト。オマエはもしかしたらこの世界で完全攻略を本気で志している最後の1人なのかもしれない。誰もが心の奥底では諦めてしまっていて、あるいはオレのように漠然としてしか意識していなくて、だからこそ、オマエの前に進もうとする意思は尊いのだろう。

 さすがに傲慢か。キリト以外にも志す者はいるだろう。ディアベルだって忘れていないだろうし、サンライスにしてもそうだ。探せばきっと多くの灯火が残っているのだろう。だが、それでも、アイツのように馬鹿正直に前へ進もうとしているのは……

 

「如何でした?」

 

「思っていたよりも揺れて、少し怖かったです」

 

「では、帰りは歩きにしましょう」

 

 スイレンに左手を差し出す。昼間だろうと市場は混雑しているはずだ。逸れてしまっては護衛失格である。スイレンは恭しく礼を取ると俺の手を取った。

 昨夜の騒ぎが嘘のように市場は盛況だった。痕跡は残っているが、そんなものは知った事ではないとばかりだ。

 

「お昼は屋台にするとして、今夜は何が食べたいですか? 私が作ります」

 

「お好きにどうぞ。館では自由に料理など出来なかったでしょうから」

 

「……ご存じですか? 食べたいもの、行きたい場所、やりたい事、それらを尋ねた時に1番困る返答は『何でもいい』なんですよ。減点です」

 

 スイレンは指を立ててオレにウインクする。本当にスイレンという人物が分からない。気弱だったり、強気だったり、クレイジーだったり、ワガママだったり、聖母だったり、気持ち悪かったり、なんか馬鹿だったり、馬鹿だったり、馬鹿だったり……本当に分からない。

 

「では鍋にしましょう。簡単ですから」

 

「最後は余計だと思いませんか?」

 

「……鍋がいいです」

 

 これでよろしいですか!? オレが気怠げに答えれば、スイレンは満足して頷く。本当にペースが分からない!

 

「鍋♪ 鍋♪ お・な・べ♪ やっぱり冬はお鍋ですよね♪」

 

 ご機嫌のスイレンであるが、途端に足を止めて唇を震わせて顔を青ざめさせる。

 どうした? まさか襲撃か!? この人混みの中で……いや、連中は見境がない!

 

「ご……ごめん、なさい。浮かれて、しまって……わ、私……お金……持って、ません、でした」

 

「後で経費として請求するのでお気になさらずに」

 

 財布の心配なんかしないでくれ。まぁ、だからといって高級食材を馬鹿みたいに買われても困るのであるが。

 

「ほらほら、見てらっしゃい! お鍋にぴったり! 海坊主が獲ってきたばかりの【牛王蟹】だよ!」

 

 丸々と太った蟹を両手に持ってアピールする店主の謳い文句に吸い寄せられるスイレンに付き合い、オレも水槽に入った牛王蟹を観察する。ふむ、確かに新鮮みたいだな。

 

「お、美味しそう……」

 

「おう! たったの2000コル! 2000コルだよ! お買い得さ! どうだい、お嬢さん!?」

 

「2000コル……うーん、どうですか?」

 

 まぁ、お高い食材だろうな。物価は日々変動しているし、一概には言えないのだが、下位プレイヤーの1日の食費は平均500コルだ。4日分の食費と考えれば十分に高級食材の部類だろう。ただし、下位プレイヤーからすれば……だが。

 良心価格で知られるワンモアタイムでさえ、珈琲付きランチを注文すれば500コルはするのだ。まぁ、サインズ本部の隣に居を構えるにしては味は良くて、お安く、なおかつ店員が素晴らしいのである。うん、そりゃ暗黙の聖域扱いも納得だな。

 本当の高級食材とは1個で3万コルの果実とか、1羽で20万コルを超える兎ちゃんとか、そういうものだからなぁ。うん、傭兵はハイリスクハイリターンだけど、別に富裕層じゃないんだよねって言い切れる理由だよね!

 依頼は高難度化し、経費が嵩んで報酬は事実上の減額。それなのに装備は高額化。だから独立傭兵も専属に鞍替えする。世知辛い。

 

「構いません。2匹……いいえ、3匹ください」

 

 まぁ、色々と考えたが、経費で落ちるんだし、深く悩む必要はないな。

 

「毎度あり! そっちの可愛い妹さんの一声に感謝して、雌を3匹だ! 卵たっぷりだよ!」

 

「…………」

 

 ふーん、『妹』さん、ね。思いっきり男物を着てるんだけどなぁ。いや、それ以前にオレは男なんだけどなぁ。その鼻に蟹の鋏を挟み込んで野郎か。

 

「ち、違います!」

 

 だが、スイレンは声を震わせながら否定して、オレの右腕に抱きついた。

 

 

 

「わ、私の……カレシです!」

 

 

 

 顔を真っ赤にしたスイレンの爆弾発言に、オレは思わず思考がフリーズしかける。

 待て。フォローしてくれてのは素直に感謝しよう。だが……何だって? カレシ? カレシって……あのカレシ? 恋人という意味でもカレシ?

 

「あ、ありゃ!? そいつは済まねぇな! 顔を隠しちゃいるが、声とか雰囲気がもう美少女オーラが溢れてたもんでね! おじさん誤解しちゃった! よーし、じゃあサービスだ! 牛王蟹のお鍋にぴったりの、おじさん秘伝の魚肉団子を付けてあげよう!」

 

 申し訳なさそうに店主はオマケしてくれて、これも上客を逃さない商魂あっての戦略なのだろうと分かっていて、だがひとまず頭の整理をしなければならないとオレは判断して、スイレンの手を掴んで足早に立ち去る。

 

「ご、ごめんなさい」

 

「いえ、オレの不注意でした。出発前に『設定』をちゃんと――」

 

「カレシよりも……夫婦の方が……よ、よよよ、良かった、ですよね?」

 

 おい、この女は何を仰ってるの? 照れながら地雷原にハンドグレネードを投げるような真似をしないでよ。

 落ち着け。ひとまず、落ち着け。所詮は設定だし、恋人だろうと夫婦だろうとスイレンの狂信的ファンの耳があるわけでもない。そもそも変装している彼女をスイレンと結びつけられるはずもない。よって問題は無い。

 

「夫婦は証明を迫られた時に面倒です。恋人でいきましょう、『スイ』」

 

「スイって……ああ、私の名前ですね。じゃあ、私は……クー?」

 

「それは愛称なので使ってもらったら困ります。そうですね……では……『リク』でお願いします」

 

 まったく、オレとしたことが。偽名や関係諸々の設定は出発前に済ませておくべきだっただろうに! やはり、スイレンにペースを崩されているのか?

 

「リク……リク……リク……うん、馴染ませました。これから私達は『恋人』です。よろしくお願いしますね、リク」

 

 笑顔を咲かせるスイレンは、果たして演技か否か。前者であって欲しい気がした。願望だった。

 しかし、スイレンがどうして高級娼婦となれたのか、何となく分かってきた気がする。彼女は聖母のように振る舞うだけで高級娼婦となり得たのではない。それは相手の弱みや苦しみを引き出す技術であり、そこから相手が最も望む姿を演じていたのかもしれないな。

 ……あれ? だとするならば、スイレンはオレの願望から件の演技を? ま、まぁ、確かに? サインズの傭兵紹介文には今も彼女募集中と記載があるわけだが?

 今も自然と腕を組むスイレンは、物珍しそうに市場を見て回り、鍋の食材を買い込んでいく。腕を組むという事は体を密着させるということであるが、彼女の豊満な膨らみもまた押しつけられるわけで、健全なる男児ならば相応しい反応は幾らでもあるのだろうが、オレの場合はひたすらに脂汗が滲む。

 なんだろう。この女……今まで出会った事が無いタイプの危険人物だ。ホストやホステスに破滅まで貢いでしまう理屈を1万倍濃度にして血管に直接注入してくるみたいな感じだ。

 買い物を終え、食材をアイテムストレージに収納したオレは、スイレンと並んで徒歩にて帰路につく。約束通り、屋台で昼食を購入した。串焼きを頬張るスイレンは子どもっぽく色気も感じさせない。本当にこの女、何なの?

 ……ああ、駄目だ。キリトを猛烈に呼びたい衝動に駆られる。こういう面倒臭い女はアイツに任せておけばいいんだよ。どうせヤンヤンホイホイなんだからさ。いや、まぁ、スイレンは別にヤンヤンじゃないみたいだけど、分類が違うだけだろ!? オマエの領分だろ!?

 

「……やっぱり、迷惑でしたよね」

 

「カレシですか? 問題ありません。男女が同棲するならば最も疑念を抱かれにくい設定です」

 

「だけど、わたり……リクが困惑してるみたいで、申し訳なくて……」

 

 顔に出ていたのか。失敗したな。自分の顔を右手で撫で、オレはひとまず彼女を安心させるべく微笑む。

 

「いえ、むしろ謝るべきなのはオレの方なんです。お恥ずかしながら、異性と付き合った経験も無く、上手く演じられるかどうか……」

 

 これは心からの不安要素だ。いつものように『とりあえず敵性対象と遭遇したら手足を千切って無力化して頭の良い奴を呼ぶ』が通じない。

 

「そう、だったんですか。リクはモテると思ったんですが……」

 

「残念ながら、『女性から』の告白は1度しかしてもらった事がありません」

 

「え? お受けにならなかったんですか?」

 

「……彼女の死に際だったので」

 

「ごめんなさい」

 

「いえ、失言でした。わざわざアナタに言うべきことではありませんでした」

 

 ユイ。オレに初恋を捧げてくれた少女。オレが殺した。この手で殺した。後悔はしない。彼女の『命』を侮蔑することになるのだから。

 

「ちなみに、スイから見て、オレはどうですか?」

 

「異性として、ですか? そうですね。とても綺麗で女性としての自信が無くなってしまいますけど、アリ寄りのナシですよ」

 

 まぁ、期待はしてなかったがな。しかし、こうなるとユイは本当に男を見る目がなかったのだなと痛感する。

 

「でも、私も男の子と付き合ったことがありませんし。それに、私には……リクが『分からない』ですから」

 

「分からない?」

 

「ええ。まるで万華鏡を覗いてるみたいで。だから、たとえ偽りの関係だとしても、これから一緒に暮らすのですから、少しでも理解できるように頑張りますね」

 

「相互理解は重要です。オレも善処しましょう」

 

「だったら、もっと恋人っぽくいきましょう。ねぇ、リク?」

 

 市場の時とは逆に、スイレンがオレへと左手を差し出す。

 本当に理解できない女だ。オレは必要ないと分かっていても、彼女の申し出も受ける事にした。

 まだ微かに感覚を残す右手は、確かにスイレンの温もりに触れて、少しだけ強張ったのは……隠し切れなかっただろう。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 大聖堂の1室、壮麗なる大絵画が飾られたるは限られた者しか踏み入ることが許されない秘密の部屋だ。

 描かれているのは『灰』と『大火』。人も、土地も、魂も灰となり、だが生まれたる大火によって光と闇は再び分かたれていく様は、心を揺さぶるものが存在する。

 だが、芸術と宗教は切っても切り離せないものである。芸術という人の感情を動かすツールによって信心を芽生えさせ、合理的思考の放棄を植え付けるのは宗教の常套手段だからだ。

 神は存在しない。ミュウは隣に立つエドガー神父に気づき、好意を前面に出したビジネススマイルを浮かべる。

 

「素晴らしいですね。私は芸術に疎いですが、これは名画と呼ぶに相応しいかと」

 

「亡き同志ウルベイン殿の遺作です。彼は大火とは何たるかを見出せませんでしたが、信仰の模索……在り方の探求はこのエドガーを超えておりました。今も昔も、そしてこれからも、ウルベイン程に灰より出でる大火を迎える油の注ぎ手はおりますまい」

 

 アノールロンドの戦いで亡くなったウルベインを悼むエドガーは、ミュウを手招きして心痛な面持ちの、現在のDBOの支配者が腰掛けるテーブルに案内する。

 聖剣騎士団の団長ディアベル。

 クラウドアース現議長ベルベット。

 神灰教会の創設者エドガーと現教皇【アナスタシア】。

 犯罪ギルドのまとめ役、チェーングレイヴのリーダーのクライン。

 そして、太陽の狩猟団より、団長サンライスの名代として副団長のミュウが着席する。

 

「皆様、お集まりいただき感謝致します」

 

 挨拶するのは教皇アナスタシアだ。彼女は修道会の長であり、本来ならば纏うべきは白を基調とした教会服なのであるが、彼女が纏うのは黒だ。まるで喪服のようであり、事実としてベールを被って薄く顔を隠しているが、それは完全に隠れるものではなく、彼女の端正で優美な顔立ちだが、何処か人間的感情を欠落したような目をしていた。

 

「光栄ながら主催を務めさせていただきます、アナスタシアと申します。まずはお手元の資料をご覧ください」

 

 ミュウはテーブルに置かれた分厚い冊子を捲り、思わず嘆息が漏れ出そうになった。

 高級娼婦スイレン……いいや、≪ボマー≫保有者リンネを巡って起きた破壊に次ぐ破壊と殺戮は、教会の逆鱗に触れてしまったようだった。

 詳細な被害状況と被害総額、復興・保証にかかる費用の試算。3大ギルドであろうとも、おいそれと支払える額ではない。

 

「教会は被害を受けた貧民街の復興に全力を注ぎます。遺体の損壊が激しい為、正確な死者数の統計は取れませんでしたが、判明している限りでも611名の死亡が確認されました。また、副次的でありますが、居場所を終われた貧民によるトラブルも多発しており、死者数は加速度に増加するものかと思われます。教会は全力で治安維持活動に当たっており、また皆様の献身のお陰もあって、パニックは防げています」

 

 教会は教会剣をギルド化したばかりであり、3大ギルドを刺激しない為にも活動は粛々と進めていく予定だったのだろう。だが、事が事だけに外聞もへったくれも無く動き回り、教会は絶大な支持基盤を得つつある。

「≪ボマー≫……恐ろしいユニークスキルです。大きな厄災をもたらす、器に足りぬ者達には過ぎたる『力』。そう思いませんか、神父?」

 

「ええ、まさしく。このエドガーも同意見です」

 

 ならば教会の怒りは何か? 

 貧民が虐殺された事か? それもあるだろう。

 クリスマスという教会にとって最大行事を前にして水を差された事か? それもあるだろう。

 辛うじて保たれていた社会秩序が崩壊し、DBO初期のような混沌が解き放たれる事か? それもあるだろう。

 

「死天使信仰。確かに問題だね」

 

 ディアベルが教会の無言の圧力に、ひとまずは白旗を揚げる。戦略的敗北だ。ここで教会と政治的駆け引きを持ち込むなど周りが見えていない馬鹿がする事である。何せ、此度の件で3大ギルドはいずれも教会に心臓を刺されてもおかしくない汚点を握られてしまっているからだ。

 もちろん、≪ボマー≫の獲得にミュウも水面下で動いていた。だが、同時に≪ボマー≫の危険性も考慮し、根回しも進めていた。

 劇薬。先の野犬統率とは個体とは比べものにならない猛毒! 戦略級ユニークスキル≪ボマー≫と大ギルドの資本力の相性は良すぎるのだ。いずれかの大ギルドが保有すればパワーバランスが崩壊しかねない程に。

 だからといって教会の管理下にするのもまた危うい。教会も人間の集まりである以上は人並みに欲も感情もある。教会が覇権を握る為に動き出したならば≪ボマー≫は絶大な効果を発揮するだろう。

 故にミュウは、最悪の場合はリンネを地下深くに死ぬまで幽閉しても構わないと考えていた。太陽の狩猟団の利益となり、ギルド間戦争勃発時には軍団の総合火力を大幅に引き上げるだろう。生産系に直結するユニークスキルの恐ろしさである。だが、仮に≪ボマー≫を得たとなれば、聖剣騎士団もクラウドアースも……教会さえも結託して、≪ボマー≫を活かすより先に太陽の狩猟団を潰しかねない。

 謀略には向かないサンライスにも、だからこそ≪ボマー≫の発見を包み隠さず明かして説得していた。彼の名の下で正規部隊を動かし、リンネを捕縛し、公表した上で≪ボマー≫の封印を3大ギルドと教会の共同で行おうと画策していたのだ。

 だが、サンライスを『武勇しか頭にない突撃馬鹿』と嘲笑し、優秀な頭脳を持つ自分たちこそが支配者に相応しいと考える者たちが増長しつつあった。彼らを抑える為にも、ミュウは自分こそがサンライスの頭脳であり、また彼は神輿なのだとアピールした。他でもない、サンライスがいなければ、現状の太陽の狩猟団は敢えなく瓦解するからだ。

 戦場にも出ず、頭脳労働と人脈と話術だけで成り上がった者達は何も分かっていない。今もDBOを支配するのは『暴力』であり、だからこそ人心を動かすのは戦場で活躍する英傑だ。

 サンライスは馬鹿である。だが、槍を握れば無双の武勇を発揮し、仲間を鼓舞し、また戦術的指揮は図抜けている。

 仮にサインライスが太陽の狩猟団のトップの座を追われたならば、彼を慕う多くの者が立ち上がってクーデターを起こすだろう。鎮圧はできる。犠牲を強いてでも抑え込むことは出来る。だが、大幅な弱体化は免れず、その隙を聖剣騎士団やクラウドアースが見逃すはずもない。

 だが、『頭の良い』と自惚れた者達は何も分かっていない。自分たちが先人の流血と知識の上に成り立つ現代国家の基盤を引き継いでいるという幻想に浸っている。

 違うのだ。DBOは強大なモンスターが跋扈し、個人が超絶した武力の獲得を可能とし、未開拓の広大なフィールドと謎が立ち塞がっているのだ。安定しているようにも思える終わりつつある街の繁華街にさえ、ただの1つとして『法』は機能していないのだ。

 ミュウが計画していたのは教会と強力し、揺るかに立法府を設立し、DBOに法の秩序を敷く事である。聖剣騎士団も、クラウドアースも、教会さえも、同じ目的を共有しているだろう。だが、行動に移れないのは歩み寄れない思想の違いであり、既に組織として大きくなり過ぎたからである。

 聖剣騎士団、太陽の狩猟団、クラウドアース。それぞれが全く異なる『国家』を目指している。皮肉にも、3大ギルドのいずれも先見性があったからこそ、増えすぎた人口管理には法を施行できる国家という共同体が必要だと判断したのだ。フロンティア・フィールドの開拓もまたその一環だ。教会と明文化したギルド独立の自由を背景に、フロンティア・フィールドで疑似国家の誕生を目論んでいるのである。

 古き時代より宗教と法整備は深く結びついていた。いかなる宗教であれ、求心力を持つならば利用しない理由はない。教会という人民の精神的支柱となるシステムを利用し、3大ギルドという『大国』と有力ギルドという『中堅国』や『小国』が増え続ける人口と資源を管理する。

 たとえ、ギルド間戦争が起きたとしても被害を最小限に抑え、なおかつ『覇権国家』となる道筋を準備し、太陽の狩猟団を母体とした『国』にこそが完全攻略という建国神話と未来の選択権を確保する。それがミュウの計画だったのだ。

 元より帰るべき現実世界がないならば、この程度までは考慮しておかなければならない。互いに言葉にせずとも、ディアベルも類似した発想に至っている確信はあった。それは今の戦略的敗北で教会に頭を下げる姿勢を選んだ事からも明らかだ。

 だからこその劇薬! どうしてこのタイミングで≪ボマー≫という戦略を左右しかねないユニークスキルが現れた!? ただでさえ聖剣という、教会の権威を削りかねない存在が、有り難くももう1つの権威であった【黒の剣士】とセットで教会の下にいくという、逃した魚は大きかったが、最も丸く収まる結果を得たのに、どうして!? ミュウはテーブルの下で静かに拳を握らずにはいられなかった。

 

「死天使信仰……存じ上げていますわ。この世全ての理不尽な死の理由を一個人である愚かな信仰だとか」

 

 口を出したのは紫色のレディーススーツに身を包んだ50代前後の女だ。ベルベット……ベクターの後釜となったクラウドアースの現議長である。

 

「馬鹿馬鹿しい。【渡り鳥】という個人に死の理由を押しつけるなんて。自己の不利益と努力不足を認められない言い訳だわ」

 

 鼻を鳴らすベルベットを見て、ディアベルが一瞬だけミュウと視線を合わせる。彼女も阿吽で頷く。

 この女を喋らせてはいけない……! ベルベットが議長になったお陰でクラウドアースは弱体化し、切り崩し工作も順調なのであるが、この場面においては最悪だ。教会を怒らせてはならない。自分達の喉元に短剣を突きつけられているのだと自覚しなければならない!

 

「ええ、教会としても個人を『死天使』として神格化する動きには危機感を募らせています。我々がお迎えせねばならない『灰より出でる大火』と『死天使』は相反するもの。喩え、どれだけ理不尽で無意味であったとしても、個々の死の理由を結びつけてよいものではないのです」

 

 微笑みながら告げるアナスタシアの声音には感情がない。だからこそ、感じずにはいられない怒気!

 

(不味いですね。情報通りというわけですか。修道会トップにして教皇アナスタシア。普段はトップでありながらエドガー神父を中心として教会との折衝を任せていましたが、彼女もエドガー神父の『同類』と)

 

 即ち、時として合理性が全く通じなくなる狂信者だ。これにはディアベルもさぞかし頭痛の種を増やしたことだろう。この時ばかりはミュウとディアベルは共同戦線を張らねばならないと無言の一時休戦と協調を盟約する。

 

「お恥ずかしながら、太陽の狩猟団でも死天使の信徒は増加の一途を辿っています。【渡り鳥】さんの容姿、戦闘能力、そして此度はたった1人で未知の大型ゴーレムを――」

 

「未知? はて、おかしいですな。このエドガーが派遣した調査隊によれば、件の大型ゴーレムには興味深い素材が使われていたのか……そう、たとえば……太陽の狩猟団製のパーツが使われたソウル・リアクター……とか」

 

 エドガーの『にっこり』にミュウはビジネススマイルを崩さない。だが、崖際に追い詰められたと次に出すカードを考える。

 

「あら! でしたら、貧民街を焼き払ったのは太陽の狩猟団の責任ということかしら?」

 

 ここぞとばかりに責任追及を狙うベルベットだが、本来ならばライバルに一太刀浴びせるチャンスを逃さないはずの聖剣騎士団のディアベルが沈痛な面持ちで発言を求める。

 

「腹の探り合いは止めましょう。まずは件のゴーレムですが、ソウルリアクターは確かに太陽の狩猟団製ですが、各種特殊兵装にはクラウドアースの技術が使用されていました。こちらが証拠の資料となります」

 

 ディアベルが提出したのは、明らかにスパイが盗み出しただろう、クラウドアースが隠し持つ占有技術だ。ベルベットは目を見開いて唇を震わせる。

 

「ど、どういうことですか!? これを提出する意味を貴方は――」

 

「ええ、認めましょう。クラウドアースの技術者より『買い取り』致しました。失礼ながら、大型ゴーレム用兵装開発部門よりベクター派を不当に冷遇したのはよろしくありませんでしたね。技術者は前線戦士とは性質こそ異なりますが、プライドの塊です。小金以上に貴方への復讐心で売っていただけましたよ」

 

「……なっ!?」

 

「ああ、それと既に彼らの身柄はこちらで保護致しました。無意味な追及は避けるべきかと」

 

 クラウドアースとの関係悪化を避けられない一手だ。だが、ディアベルが打たねばならなかったのは、先のゴーレムによる破壊と虐殺は関与しておらずとも、襲撃においては類する致命的ダメージを受けてしまっているからだろう。

 

「……告白します。先のゴーレムは、太陽の狩猟団とクラウドアースにて共同開発を行っていた実験機となります。ベースは中型ゴーレム・スカベンジャー。これをベースに大型機を開発し、終わりつつある街のラボにて起動実験を実施しておりました」

 

 ミュウは一息で言い切る。重圧のように押しかかる空気に飲まれまいとしながらも、最善の選択肢を探す。

 

「ふむ、なるほど。しかし、大型ゴーレムをどうして終わりつつある街で?」

 

「市街地におけるステルス機能……実地データの収集を目的としていました。市街戦を想定していましたので」

 

「なるほど。終わりつつある街はDBOでも最大の都市なのは言うまでもありません。情報集積には最良であったと」

 

 エドガーは笑顔であるが、見方を考えればアナスタシア以上の怒気を発しているとも言える。彼はその気になれば、ディアベル以外の全員を瞬殺できる実力者だ。故に迫る死の気配も桁違いだ。

 だが、ミュウとして戦場を離れて久しいが、幾多の死線を潜り抜けた身である。そうでなければ副団長としての発言力の裏付けにはならない。サンライスを慕う猛者たちがミュウの言葉に不満ながらも従ってくれるのは、サンライスが認める側近というだけではなく、彼女も命懸けで戦って太陽の狩猟団を初期から支えていたという実績に敬意を払っているからだ。

 ディアベルもミュウも命の重みを……強大なモンスターに……ネームドに仲間を殺される瞬間を、迫る死を体験した上で、人間を数字と見て、命を駒として扱う事を選んだ。そういう意味では、ディアベルとミュウは対等であり、理解者でもある。

 ベクターは戦場に出る人間ではなかった。だが、彼には軍事統括顧問であるセサルの薫陶が過分に行われていたのだろう。ディアベルやミュウと同じ次元ではないにしても、大ギルドのトップに相応しいだけの目線と意識を有していた。

 だが、ベルベットは違う。ベクターを追い落とす政争によって、安全圏にいたまま、トップの座を得た者だ。

 

「ええ、認めましょう。アレは太陽の狩猟団とクラウドアースによる共同開発によるものです。ですが、開発ラボは太陽の狩猟団の私有地であり、技術者を派遣こそしていましたが、起動と発進には時間を要します」

 

「つまり、クラウドアースは開発に関与こそしているが、此度の厄災には無関係である……と?」

 

「≪ボマー≫の獲得に我々も動いていました。いずれかの勢力かは分かりませんが、逸った動きを見逃せず、指示を待たずに現場が動いてしまったのは認めます。ですが――」

 

 瞬間、ミュウの視界を『赤』が舞った。

 エドガーの得物である両刃剣。柄尻からも刀身を持つ、使い手を選ぶ特異な武器であるが、エドガーは柄の中心部で分離し、2本の片手剣としても運用を可能とする。

 その内の1本がベルベットの右手の甲を貫き、テーブルに串刺しにしていた。

 何が起こったのか。呆けていたベルベットであるが、ダメージフィードバックが襲ってきたのだろう。顔面を醜く歪める。

 

「ぎぃぁああああああああああああああああああああ!?」

 

 ただただ苦しみを訴える絶叫。それに対して、本来ならばエドガーの凶行を真っ先に止めねばならない教皇アナスタシアは、まるで小犬が近所のおばさんに吼えるのを目にしたように、上品に口元を隠して笑う。

 

「あらあら。エドガー神父、ここは『話し合いの場』。暴力はいけませんよ。この地において血、肉、悲鳴……即ち『命』とは、我らがお迎えする『灰より出でる大火』に捧ぐ油の源。何1つとして無駄にしてはなりません」

 

「おお、このエドガーとした事が! つい怒りを抑えきれず! どうかお許しください、アンバサ!」

 

 アナスタシアではなく『灰より出でる大火』に懺悔するエドガーの姿はまさしく狂信者そのもの。ベルベットは狂ったように悲鳴を上げて剣を抜こうとするが、エドガーのSTRで突き刺された刃は容易に抜けず、貫通ダメージでじわじわとHPが減る恐怖によって正気を失いかけていた。

 

「おい、そろそろ『話し合い』に混ざっていいか?」

 

 ベルベットに突き刺さっていた剣を抜いたのは、見るに見かねたディアベルではなく、昼寝でもしているかのように沈黙を保っていたクラインだ。

 

「回りくどい『脅し』はもういいだろう。今回の件は3大ギルド様全部が関与してる。ゴーレムは確かに馬鹿でかい被害を起こしたが、それは本質じゃねぇだろ。教会が得た求心力以上に、貧民街を中心に死天使信仰が爆発的に広まっちまった事だろうが」

 

 ディアベルは最初に答えを述べた。ミュウは最初から把握していた。だが、ベルベットだけはこれがいつもと同じ『政治』だと勘違いしていた。

 違う。これは教会による『断罪』なのだ。狂信者による罪と罰の所在を求める審問だ。

 教会は確かに政治ができる組織だ。だが、同時に彼らは自分達が『信仰』によって成り立っていると理解している。教会の強みは『DBOにて唯一無二の最大宗教』である点だった。現実世界から持ち込まれた既存の宗教も存在したが、死と狂気が蔓延するからこそ、この地で掲げられた神灰教会は魅了にも等しい精神支柱となった。

 喩え、教義の見解の違いから宗派は分裂しようとも同じ神灰教会ならば、まだ良かった。だが、死天使信仰は木っ端の異常にして異教でありながらもじわじわと密やかに拡大し、此度の件でついに爆発してしまったのだ。

 母体となる組織を持たない、まさしく『信仰の原形』の姿のまま、これまで慈善活動という『投資』を行っていた貧民において、死天使信仰は急速に拡散してしまった。

 たとえ、表向きは神灰教会の信徒であっても、影では死天使の信徒であると叫ぶだろう。そして、彼らはついに此度で明確に同志を得た事によって活動を開始するかもしれない。

 故に教会は此度に限り、政治は度外視した態度を取るだろう。取引ではなく一方的な要求を突きつける。

 だが、それでも本来ならば政治的取引は幾らか通じるものだ。組織を預かる者とはそうでなくてはならない。だが、最悪というべきか、教会のトップはエドガーと同類! ベクトルは同じか分からないが、狂信者なのだ。

 

(……そもそも、どうして『個人』が宗教化するのか理解できません。いえ、さすがは全プレイヤーの希望の象徴ともなれる【黒の剣士】の元相棒と讃えるべきでしょうか)

 

 何にしても規格外である。本来ならば暗殺命令を下したいが、成功するビジョンが見えず、傭兵と依頼主という関係を保てるならば使い道があるので躊躇うのがミュウの本音だ。

 

「ひぃ……ひぃ……!」

 

 血を流す右手を押さえて涙を溢れさせたベルベットを、クラインは冷酷とも思える眼差しで見下ろす。

 

「つーわけだ。アンタじゃ役者不足だ。次はベクターを……いや、セサルを呼べ。そもそも白馬鹿っていう世界焦土ナパーム弾をぶち込むように、マダムに根回ししたのはアイツだ」

 

「ああ、やはり噛んでいましたか。ヴェニデの動きが怪しくて見張っていて正解でしたね」

 

「まったく、あの男はこの状況すらも楽しんでいそうで質が悪い」

 

 得心がいったミュウと悩めるディアベルは、心の底から互いを同情する。この場はあくまで『始まり』に過ぎない。教会の要求を持ち帰って幹部を招集して審議し、粛正に次ぐ粛正をして、組織を再編成し、再発防止に努め、多額の出費をしなければならない

 

「教会からの皆様への『お願い』を申し上げます。教会は全力を注いで事態の収拾を目指しますが、皆様のお力が不可欠。カバーストーリーはお任せ致します。3大ギルドは『教会を中心とした秩序の構築に全力を注ぐ』と公言をお願い致します」

 

 大きく出たが、ミュウとしては問題ない。元より教会を精神的支柱とした秩序の構築を目論んでいたからだ。ただし、教会が改めて要求したという事は、これまでよりも大きな『証』を示さなければならない。

 

「次に、お恥ずかしながら、復興には多額の資金を要します。皆様の『信仰心』にご期待申し上げます」

 

 これも問題ない……とは言い切れないが、飲まねばならないだろう。わざわざ試算を出した資料を提供されている時点で分かりきっていた事だ。

 

「そして、此度の騒乱の火種となった≪ボマー≫を教会の管理下に置くことをお許しください」

 

 難題だ。≪ボマー≫が教会の管理下に入る事を説得するのは難しいだろう。戦略級ユニークスキルを教会に譲渡するとなれば、相応ノ取引を成立させなければ組織内の『頭の良い人間』は黙らせられない。

 

「管理下とは具体的にどうするのかな?」

 

 ディアベルも尋ねねばならなかったのだろう。彼の質問に、アナスタシアとエドガーは性質の異なる『にっこり』で応じる。

 

「2度と厄災をもたらさぬように、教会の威信にかけて封印致します。具体的には……そうですね。手足を千切って、目と耳を塞ぎ、大聖堂の最下で命尽きる日まで生かし続けましょうか。如何ですか、神父?」

 

「ええ、よろしいかと」

 

 死んだ方が救いとなるだろう。はたして、その役を担うのはリンネか、それとも彼女から≪ボマー≫を受け継ぐ誰かか。

 だが、教会がいつでも利用できる立場にあるのはやはり危うい。しかし、ミュウはここで異を唱えることはできない。それはディアベルも同じだろう。

 

「最後になりましたが、チェーングレイヴには特にお願い申し上げますが、死天使信仰の拡大を防いでいただけないでしょうか。死天使信仰は人の歩みを止める祈り。必ずや、此度以上の災いを招くでしょう」

 

「いいぜ。死天使信仰は裏でも疫病みたいに広まりつつあったからな。どうにかしないとならねぇとは思ってた。だが、この中でチェーングレイヴだけは≪ボマー≫を巡った馬鹿騒ぎの被害者だ。教会も相応の手助けをしてくれるんだろうな?」

 

 クラインはこの中で自分だけには交渉権があると理解して、アナスタシアに、そしてエドガーに要求する。

 

「ええ、もちろん。死天使信仰を食い止めていただけるのでしたら、教会はチェーングレイヴへの支援を惜しみません。皆様もお目こぼしをお願い致します」

 

 チェーングレイヴは勢力を盛り返す強大なパトロンを手に入れ、教会は裏の支配者として今再びのし上がらんとするチェーングレイヴの手綱を握れる。

 やられた。クラインだけは事前に教会と打ち合わせを済ませていたのだろう。ベルベットが刺されたのは予定外だとしても、3大ギルドの眼前で、堂々と教会の後ろ盾を得たと見せつけてきたのだ。

 痛烈な一撃を受けたのはクラウドアースに違いない。チェーングレイヴを切り捨てる方針だったはずが、よもや教会の援助を受けて裏の支配に乗り出すなど考えてもいなかったはずだ。

 またベルベット個人も『政治』で成り上がってきた人物であったが故に、まさか『政治のテーブル』と思い込んでいた場所で血を流すなど考えてもいなかっただろう。教会への不信を深めて個人的報復に組織を用いるか、それとも根回しして教会に嫌がらせするか。

 ミュウがアドバイスするならば、どちらもオススメしない。教会の強みは武力でも財力でもなく『信仰』だ。それも金や権力で取引できない、本物の狂信がDBOという環境のせいで根付きやすい。

 教会があくまで理性的かつ合理的判断がするのは、信仰に関与しない利害関係である場合だ。ミュウにとってさえも、よもや教会の舵取りを担う重要人物2人が根っこからの狂信者など悪夢でしかないのだから。

 

(しかし、チェーングレイヴですか。セサルとの繋がりを利用して教会に取引を? 考えすぎ? ですが、本気で教会を利用して影響力を取り戻そうというのならば、悪魔と契約したようなもの。この男はそれが分からない程に馬鹿ではないはず)

 

 教会なのに悪魔扱いとは我ながら嗤えないとミュウは苦笑を堪える。

 何にしても情報が足らない! 切れるカードがない。アナスタシアと握手するクラインは、これから裏の大物として再び息を吹き返すだろう。そして、教会がわざわざチェーングレイヴを取引相手に選んだのは、クラインには提供できるカードがあったからだ。

 そもそも此度の暴走の連鎖は何だ? 偶然か? それとも意図して起こされたものなのか? だとするならば? ミュウはひとまずカバーストーリーとして、3大ギルドで協力して討伐する哀れな羊を準備せねばならないと思考を巡らせた。

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

 静かだ。動きが無いにも程がある。オレは隠れ家のアパートの屋上の貯水タンクの物陰にて【都市部迷彩マント】を頭から被り、周囲を警戒しながら、今宵も寝ずの番についていた。

 隠れ家に移り住んで1週間。教会の主導で復興支援は進み、貧民街があった場所には仮設住宅の建設が進んでいる。実際に請け負うのは建設ギルドであるが、入札は公平に行われた。また復興スピードを重視した為に、多く建設ギルドが十分な利益確保をした上で従事し、教会の支持は鰻登りだそうだ。

 だが、もちろん、それだけの莫大の資金を何処から調達したのかと問われれば3大ギルドに違いない。それこそ、3大ギルドであっても大打撃を受ける資産の放出が余儀なくされたはずだ。グリセルダさん曰く、今回の件は結果的に、大ギルドに与する商業ギルドの発言力を強めることにもなるだろうとの事である。

 政治も経済もよく分からないが、大ギルドは大組織にして大戦力を保有するからこそ、単体ではもはや成立しないという事なのだろう。クラウドアースは元よりギルド連合なので聖剣騎士団や太陽の狩猟団とは異なるが、だが今回の件で大きな政変がありそうという事だ。

 表向きの犯人はレジスタンス【青の砂漠】だ。主にクラウドアースに矛先を向けていた組織であり、娯楽街のクラウドアース建設中のテーマパーク崩壊を上手く利用したのだろうな。まぁ、カバーストーリーには興味が無い。だが、彼らは元より大ギルドに刃向かう道を選んだのだ。まぁ、無実の罪でテロリストとして憎しみの矛先を向けられるのは心外だろうがな。

 問題は3大ギルドの注力だ。教会に対して土下座状態だ。青の砂漠の討伐についても、傭兵から正規部隊までフルに投入して殲滅を目論んでいる。まぁ、口封じも必要なのであろうが、3大ギルドが足並みを揃えて隠蔽に乗り出しているのだ。

 人々は分かりやすい矛先に縋る。3大ギルドよりも倒されるべき悪役に相応しいテロリストを求める。青の砂漠はこのペースならばクリスマス前に、1人の例外もなく殲滅されるだろう。

 ひとまず≪ボマー≫についてはまだ公表されていないが、スイレンの正体がリンネだと明かされるのは時間の問題だろう。その時、≪ボマー≫を手に入れるのはクラウドアースなのか定かではない。だが、スイレンは何にしてもまともな結末を迎えないだろう。

 グリセルダさん経由の情報であるが、青の砂漠の殲滅の為に3大ギルドは合同作戦を取るようだ。ヴェノム=ヒュドラの時とは違う。お遊び抜きの本物の殲滅線に赴く覚悟のようである。

 青の砂漠か。反大ギルドを掲げるレジスタンスであり、比較的穏健派が肩を寄せ合って成長したと資料には記載されている。とはいえ、レジスタンスとは大なり小なり裏から支援している存在がいるものだ。青の砂漠にしても、彼ら自身は知らずとも、大ギルドのいずれかが背後に潜んでいる。

 大ギルドは大きくなりすぎた。結果、容易に他ギルドに対して攻勢を仕掛けられなくなった。だからこそ、陣営内の有力ギルドによる代理戦争であり、レジスタンス=テロリストを使って嫌がらせをする。そして、使われる側であるはずの有力ギルドもまた支援する犯罪ギルドなり何なりがいて……という捲っても捲ってもどす黒い裏しかない。

 まぁ、だからこそヴェノム=ヒュドラの異常性が際立つのだが。大ギルドさえも完全ノーマークでありながら、あれ程の規模と技術力……何か絡繰りがあるはずだ。それもかなりろくでもない事実が潜んでいるだろう。

 管理者絡みも疑ってアルシュナを探るのも1つの手だが、オレ自身が管理者とかと関わり合いになりたくないしな。というか、管理者と関係がある時点で色々と自分でも嫌になる。

 何にしても、青の砂漠は『健全なレジスタンス』だろう。大ギルドが把握し切れていない情報があるとしても、後れを取ることはないはずだ。規模がどれほどのものかは知らないが、3大ギルドの連合ならば早期決着は揺るがないだろう。

 教会が仲裁に入り、3大ギルドは事態を隠蔽し、生贄の羊は惨殺され、人々はクリスマスという幻想を求めて『日常』を演じる。あの日、あの夜、あの瞬間……1部とはいえ貧民街が焼き払われたというのに。たった1機のゴーレムによって、100人や200人では足りない死者が出たというのに。

 夜間に人口密集区域で大型ゴーレムが火器を使用して暴れれば、どれだけの被害を及ぼすのか。大ギルドは貴重なデータを手に入れた事だろう。死者が膨れ上がったのは時間帯もあるが、レベルが低い貧民プレイヤーが犠牲者になった点が大きい。このデータを基にして、より効率的に殺せるゴーレムの開発が進むはずだ。

 ふと考える。1000年にも及ぶ血の営みがあろうとも、それ以上に人類は技術を進歩させ、知識を集積し、思想を育成してきた。個々では歩みを止め、俯き、立ち上がれずとも、人類という種族は前進を続けた。ならば、一族単位の『血』は人類の英智に対して如何なる意味があるのだろうか。

 

「マスター」

 

「勝手に持ち場を離れるな」

 

 声をかけられるより先に腰の贄姫の鍔に指をかけていたオレは、振り返らずに灰狼を責める。

 夜間は灰狼がスイレンの傍に控え、オレが屋外で周囲を警戒する。各種トラップが仕掛けられた隠れ家はちょっとした要塞であるし、オレが外で警戒をしておけば奇襲にも対処できる。

 

「申し訳ありません。スイレンさんにこちらをお届けするように申しつけられまして」

 

 灰狼がオレの隣に座ると差し出したのは保温ポットだ。金属製のマグカップに注がれたのは珈琲である。

 

「スイレンさんはマスターを心配されていました。ちゃんとお休みになっていらっしゃられないので」

 

「安心しろと伝えろ。脳は適度に休ませてある」

 

 アルヴヘイムの頃に比べれば余裕綽々だ。仮面男との戦いで限定受容した反動は残っているが、余力はある。

 

「珈琲は貰っておく」

 

 湯気を揺らす珈琲を口にしても味はしない。買ったのは安物だから大した味ではないと分かっていても、水を飲むよりも『無味』を感じてしまって……憂鬱になる。

 

「マスター、差し出がましいとは思いますが、ご忠告申し上げます。護衛任務とは、護衛対象の精神もまた守らねばならないのではないでしょうか。もう1週間以上もまともにお眠りになっていらっしゃいません」

 

 昼間はスイレンに付きっきりだし、夜は寝ずの番だからな。怪しまれて当然だし、そんな護衛に不安を覚えるなという方が無理もあるか。

 だからといって寝るフリをするのもな。余計な隙は作りたくない。どうしたものか。

 

「……そっちは何だ?」

 

 差し出されたのは珈琲入りポットだけだが、灰狼の背後には別の包みもある。オレの指摘に対し、灰狼は崩れぬクールフェイスのまま、だが視線は明確に泳がせる。

 腕を伸ばして掴み取る。中身はおにぎりだ。具材が目に見えてしまう程に不格好である。

 

「……そ、その、灰狼は……灰狼はまだ……料理になれていないものでして……その……あの……!」

 

 羞恥なのか、顔を真っ赤にして涙目になって俯く灰狼に、オレは隠しもせずに溜め息を吐く。

 

「オマエがどれだけ高性能のサポートユニットだろうと、初めての料理でいきなり三つ星シェフも吃驚の腕前を披露されても反応に困る。それに、初めてにしては上手に出来てるくらいだ」

 

 そういえば家事も出来ると豪語していたな。だが、初挑戦のおにぎりの見た目は惨敗といかずとも判定負けのようだ。

 だが、何にしてもオレには味を感じるがことが出来ないのだがな。一口食べて、米と梅の食感だけは口内に広がるが、灰狼に対して気の利いた発言はできない。

 

「先に言っておく。オレは五感の喪失・異常がある。味覚についてはほとんど残っていない。感想は言えないぞ」

 

「……! やはり、そうだったんですね」

 

「『やはり』?」

 

「灰狼はマスターが多くの身体トラブルを抱えているという『懸念』がありました。何故かは分かりませんが、灰狼にはぼんやりと疑いがありました。信じたくはありませんでしたし、マスターに質問するのは……その……無礼かと思いまして……」

 

 DBOの知識についてはグリムロックが設計時に入力していたのだったな。灰狼はイレギュラーだが、入力された知識は受け継いだ。もしかしたら、オレの状態についても明文化せずとも入力があったのかもしれないな。

 気まずい沈黙が流れるより先に、1個目のおにぎりを呑み込んで、2個目を掴む。

 

「……味は分からん。だが、女の手料理に『不味い』と答える度胸などオレにはない。それで勘弁してくれ」

 

「格好悪いです、マスター」

 

「だったら別の奴に喰わせろ」

 

 おにぎりを頬張るオレに、灰狼は膝を抱えながら恥ずかしそうに笑う。無表情クールを装う割に、感情が見え見えで、ちょっとした事で表情にまで露わになる。根本的に嘘・演技が苦手なのだろう。

 

「眠らないのも五感が失われているからなのですか?」

 

「別件だ。言っておくが、気を抜けば10秒と待たずして眠れる自信がある」

 

「だったら……」

 

「眠りたくないんだ」

 

 僅かな微睡みさえも、目覚めた時には『オレ』ではなくなっていそうで、『獣』になってしまいそうで、だから縁が必要なのだ。

 オレが目覚めた時には『オレ』で、まだ『人』の皮を被れていると自覚できる楔……それがユウキなんだ。

 

「灰狼には分かりません。ですが、マスターは眠るのが怖いのですね」

 

「さぁな。もう分からない。分かりたくないのかもしれない」

 

 おにぎり、ご馳走様。包みを丁寧に畳み、珈琲を飲み干してマグカップを灰狼に返す。

 

「持ち場に戻れ」

 

「……はい」

 

 喋りすぎたな。灰狼には不確定要素が多すぎるのに、情報を渡しすぎた。灰狼からの漏洩も想定しておかなければならないし、五感の喪失・異常は知られても何とでもなる……とまでは言い切れないが、対処は可能だ。

 問題なのはオレ自身だ。これは油断なのか? クリスマスが近付いて心が緩んでしまっているのか?

 考えても意味が無い。だからこそ、ユウキに無性に会いたくなるのかも知れない。

 ユウキに触れたい。言葉を交わしたい。涙と嗚咽と痛みで汚して、恐怖と絶望で味付けされたながらも『人』の輝きを失わない血を啜り、命を貪りたい。

 飢餓が大きくなっている。血の悦びが必要だ。だからこそ、『獣』を律する鎖と首輪を求めるのだろう。

 冬の冷えた空気は仮想世界の星空にも透明感を与え、夜は澄み切っていた。だが、終わりつつある街は眠らない。故に星の光を阻害する人の灯が煩わしいのだ。

 朝日が昇るより前にトラップを解除する。スキルではなくお手製なので解除も手間はかかるが、逆に言えばスキルで探知されにくいので効果的だ。

 スキルにしても装備能力にしてもシステムによる補佐であり、能力を拡張させるからこそ、自前の技術・知識はより問われるものだ。システム外トラップはスキル・装備能力に依存性が高いプレイヤーほどに引っかかる。

 

「あ、おはようございます」

 

「…………」

 

 まだ空は白み始めたばかりだというのに、スイレンは起床済みだ。シャワーも浴びたのだろう。髪には寝癖もついておらず、化粧も変装も済ませてある。

 小さなテーブルには3人分のスクランブルエッグとベーコン、それにトーストが出来上がっている。最後にコーンスープを添えて完成のようだ。

 

「ベーコンは灰狼ちゃんが焼いたんですよ。さぁ、どうぞ」

 

「…………」

 

 まぁ、毒味は要らないか。システム外トラップとスキル・装備能力の依存の危険性を論じたばかりであるが、パラサイト・イヴには抗体獲得という能力がある。暗器としてセットした薬レベル以下を無効化するというものだ。

 オレが現在セットしているのはヨルコお手製の【複合毒】だ。レベル2の毒・麻痺・睡眠のデバフを蓄積させるものであり、個々のデバフ蓄積性能は低く、だが使用可能時間が長い。パラサイト・イヴには劇毒という特殊デバフがあるし、あくまで後退獲得を視野に入れたものだ。

 市場に流通している毒、麻痺、睡眠は主にレベル2までだ。レベル3ともなると高級品であり、相応の素材が求められる。レベル4ともなれば希少品だ。レベル5は現時点ではユニーク級の素材が必要になる。

 モンスターでもデバフ特化でもない限りはレベル4を使ってくることはないので、レベル3まで対策しておけばひとまずは安心である。レベル2では不足が生じるが、それでも保険程度にはなるだろう。

 何よりもオレの防具はデバフ耐性が高い。というか、ソロを常とする傭兵にとってデバフ耐性は必須だ。なにせ、麻痺と睡眠は即死に直結するし、オレのようにVITにポイントを割り振っていない低HPには総ダメージが固定の毒は極めて有効だからな。

 ゲームシステムの常であるが、HPと防御力のどちらを優先するかは割と難題だ。防御力を高めれば受けるダメージは少なく済むし、HPが高ければ防御力を多少軽視してもタフだ。この辺りはプレイスタイルにもよるが、ダメージ割合が高ければ高い程にアバター破損のリスクが高まるので、VITと戦闘スタイルと装備重量から最もバランスの取れた防具の選択をするのが最良だろう。

 DBOのダメージ計算は面倒臭いのだが、防具によっては様々な効果がある。たとえば、物理・属性のダメージを数値・割合で確定カットするとかは一般的だ。それらはダメージ計算後に適応される。

 ただし、どれだけダメージカットされても1割未満にはならず、またダメージ1を下回ることはない。そして、そもそもとして現状でも最高品質の全身甲冑であろうとも、水準レベル1の犬ネズミの攻撃さえもダメージ1にすることは出来ない。

 まぁ、最近はスミスのラスト・レイヴンのソウル・アーマーのように、プレイヤーにダメージ判定が到達する前に攻撃を遮断・吸収するバリアの研究が最も熱いみたいだな。グリムロックも何やら試作があるらしく、白夜の狩装束に実装したいと興奮気味に語っていた。

 まぁ、つまりは攻撃・回避特化のオレでも防具の防御性能を決して軽視しているわけではないのだ。

 

「食料の備蓄はありますので、わざわざ作られなくても結構です」

 

「分かってるけど……暇だったから……つい……」

 

 申し訳なさそうに謝るスイレンに、オレはこの1週間を狭い室内で缶詰生活になっている彼女のストレスを慮る。

 暇潰しの雑誌や本は購入してあるが、同じ籠の中の鳥でも、庭園付きの屋敷と狭いアパートの1室では雲泥の差だ。ましてや、窓からの景色さえも最悪であり、浴槽無しのシャワーのみである。

 

「……マスター」

 

 鋭い犬歯でベーコンを噛み千切る灰狼の訴えに、オレはそろそろ折れるべき時かと嘆息する。

 

「今のところ隠れ家を特定された気配はありませんが、そろそろ移動の頃合いだと思っていたところです。敵性勢力の炙り出しも兼ねて、終わりつつある街を回るのも良いかもしれませんね」

 

「そ、それって……!」

 

「お望み通り、スイレンさんの希望する『プラン』を実施しようかと思います」

 

 以前にスイレンが語っていた死ぬ前にやりたい事リストの消化だ。実は隠れ家に移動した当初から内々には進めていたが、踏み切るべきか悩んでいた。

 だが、1週間も音沙汰無しとなると逆に不気味すぎる。オレの警戒が足りないかもしれない。そこで、スイレンの希望を叶えてストレス消化するのに合わせて、敵性勢力の動きを探るのも目的だ。

 正直に言えば、大ギルドが暗部を本気で動かしたならば3日目には襲撃があるだろうと踏んでいたのだ。だが、予想に反していずれの勢力も仕掛けてくるどころか、隠れ家を特定した様子もない。まぁ、簡単にバレては隠れ家の意味もないのであるが、だが過信するのも、大ギルドを過小評価するのも危うい。

 どちらにしても隠れ家を変更する予定だったのだ。現状を探る為に、敢えて街を歩くのも悪くない。

 もちろん、リスクは伴う。先の襲撃から察するに、敵性勢力は市街と無関係者への被害に配慮していない。だが、スイレンが希望するプランに危険度の高い場所はいずれも教会剣による警備・巡回が強化されている。今度こそ教会と全面戦争に及ぶどころか、DBOで保たれている秩序は完全崩壊するだろう。

 そうなれば、≪ボマー≫を得ようとも大損害は免れず、また≪ボマー≫を得られたかった陣営は赤字では済まない。リスクとリターンの計算からも、行動を移すとは考えがたい。

 とはいえ、馬鹿が大馬鹿をするのが世の中だ。次に大ギルドが……たとえ1部の暴走であろうとも襲撃してきた場合、オレはスイレンの護衛という立場から、攻撃的防衛に方針をシフトする。スイレンを害する勢力の戦力を削ぐ。

 これはグリセルダさん経由でサインズには通達してある。サインズは積極的反対の立場を表明したようであるが、攻撃的防衛は護衛の範疇であるという規定があるらしく、確たる証拠さえあれば問題ない。

 たとえトカゲの尻尾切りで済むとしても、こちらが徹底して殲滅すれば脅しにはなるはずだ。『使い捨ての駒』が無くなれば、情報漏洩のリスクが高まる身内を使うしかなくなる。それまで追い詰める。何人、何十人、何百人、何千人だろうと殺す。

 傭兵が政治的配慮と我が身可愛さで護衛対象を蔑ろにする方が信用問題だ。まぁ、グリセルダさん曰く、こちらの覚悟を示すだけで万が一も避けられるらしいので効果はあるそうだが、最悪のケースも考慮して根回しはしておくそうだ。

 まぁ、そもそもとして、大ギルドはいずれも粛清で大忙しのようなので、馬鹿が大馬鹿する前に消されるだろうというのもまたグリセルダさんの見解だ。まぁ、粛清に関しても大元になっただろう大ギルド内の権力者や繋がった商業ギルドの抹殺までは『組織となりすぎた』今の大ギルドは踏み切れないだろうとも言っていたがな。

 

「ほ、本当に……いいの? 迷惑じゃないの?」

 

「ええ、もちろん。むしろ、アナタを『餌』にして現状を確認する意図も含まれますので」

 

 オレの包み隠さない発言に、スイレンの頬は引き攣ったが、嬉しさが勝ったのだろう。クローゼットを空けるが、変装の地味服しかなくて絶望した様子だった。

 

「折角のデートなのに……あ、違うよ!? もちろん、【渡り鳥】さんと私が恋人なのは、護衛のお仕事に必要な対外的な設定で……そもそも大っぴらにするものじゃなくて……で、でもでも……ふ、フヒ……フヒヒ……デートかぁ」

 

 決行は明日だ。今日は灰狼と当日の護衛について擦り合わせを行う。

 幸いにも裏道を通らないで済むのでルート取りは容易い。だが、その分だけ人通りは多いのですれ違い様の暗殺や狙撃に注意しなければならない。

 灰狼には隠れて同行して貰い、いつでも援護射撃できるポジションを確保して貰う。逆に言えば、敵性勢力からすれば灰狼は厄介であり、先に彼女を排除しようとするだろう。だが、灰狼は高い再生力・耐久力も持ち味の1つだ。灰狼には暗殺対策を徹底させ、警鐘代わりに役だって貰う。

 

 

「主に想定される暗殺は背後からの暗器による心臓破壊や頸部切断だな。あとは頭部破壊も警戒しなければならないが、オマエの頭が頑丈なのはオレがよく知ってる。たとえSTR特化の大槌や特大剣でもない限り即死はしないだろう。まぁ、動けずに2撃目で死ぬだろうがな」

 

「ですので、仮に頭部にダメージを負って戦闘不能になった場合、こちらの警報装置を使用してマスターに危険を連絡する。それが灰狼の役目ですね」

 

「2人とも……怖いよ」

 

 オレと灰狼が大真面目に灰狼瀕死前提のプランを作成しているのに、スイレンはドン引きしているようだった。

 

「灰狼ちゃんが犠牲になるなら……わ、私は……反対、するよ?」

 

「別に灰狼の死亡が確定しているわけではなく、灰狼が死亡しうるダメージを受けた場合の対処です。この程度は、隠れ家に引きこもっていようといまいと変わりません」

 

「そ、そうなの?」

 

「灰狼はマスターの為に死ぬことは許されていませんが、マスターのお役に立つ為に死に瀕する危機に二の足を踏むつもりはありません。灰狼の存在意義はマスターのお役に立つこと。それこそがマスターの武器の本懐です」

 

「誰もそこまでは求めていない」

 

 胸を張って生意気そうに存在意義を語る灰狼の出鼻を挫いておく。涙目になった灰狼がなんだか癖になりつつあるな。こう、なんていうか、暗い高揚感がある。もっともっと涙と悲鳴と血で染めたくなる。

 

「取り寄せた試作武器だ。オマエ専用に設計されたスナイパーライフル。セミオートで装弾数は12発。オートリロードは32秒と長い。威力よりも牽制を目的としている。有効射程距離がスナイパーライフルにしては短めだ。オマエの体格とSTRを考慮した折り畳み式を採用したから射撃精度は決して高くない。状況次第では使い捨てろ。オレが許可する」

 

 どうしても折り畳み式や合体式は射撃精度が落ちて反動が大きくなるからな。これらの問題をクリアするには技術と素材の両方をクリアしなければならない。

 今回はあくまで試作品であり、灰狼のスペック次第では専用装備の作成も進むだろう。特に先の騎乗クラッキングはグリムロックの琴線に触れたらしいからな。

 

「説明は不要かも知れないが、射程距離、有効射程距離、最適射撃距離、精密射程距離、実有効射程距離に注意して運用しろ。環境情報による偏差にも気を払え」

 

「かしこまりました」

 

 専用の背負うタイプのケースより速やかに取り出して構える練習をする灰狼を、スイレンは興味深そうに見守る。

 

「銃って扱いが難しいんだ。装備している人が……多いから……メジャーだと思ってた」

 

「……≪銃器≫は便利ですからね。ですが、実際には多くのプレイヤーがポテンシャルを引き出せていません」

 

 射程距離は銃撃が届く距離。有効射程距離は効果的なダメージが見込める距離。最適射的距離は最もダメージが引き出せる距離。精密射程距離はプレイヤーのステータスや技量、環境要因によって常に変動する距離だ。オレはこれら射程距離の概念をスイレンに説明する。

 

「使用火器、戦闘スタイル、射撃目標によって、いずれの射程距離を重視するかは変化します。たとえば、命中率やダメージの大小を不問とするならばシンプルに射程距離だけを重視すればいいでしょう。射程距離ギリギリともなれば失速し、弾道もブレ、ダメージも本来の1パーセントも出せないでしょうが」

 

「それって意味があるの?」

 

 隠れ家の床下に準備されていたオレの銃に触れようとしたスイレンを睨んで制止する。装備しなければ使用できないが、護衛対象兼警戒対象でもあるスイレンに触れさせるつもりはない。

 

「『弾幕を張る』。この1点に尽きます。ダメージよりも近付かせない事を目的とするならば射程距離を基準にするのはおかしくありません。ただし、弾幕を張り続けるには相応の人数とコストがかかります。たとえば、最も安価な粗鉄の弾丸でも1発4コル。100発撃つだけで400コルも消費します。仮に粗鉄の弾丸が装填できる安価で低品質のライフルの有効射程距離ギリギリで全弾クリティカル部位に命中させても野犬さえ倒せないでしょう」

 

 一般的な野犬の撃破で得られるコルは2コル。ノーマルドロップの毛皮ならば3コル、牙ならば6コルで売れるだろう。レアドロップの上質な毛皮や牙ならば上乗せ2コルといった所だ。まぁ、ドロップ率は渋いので、ノーマルドロップの毛皮でもドロップ率上昇のバフをかけていなければ、せいぜい3割といったところだ。

 

「有効射程距離を重視するならばら撒きですね。命中率よりもダメージを重視した場合……目標が大型であれば有効射程距離を最重要視する戦術は間違いではありません。命中率を無視して撃ちまくってHPを少しでも削る。銃を扱うプレイヤーの大多数は有効射程距離を最重要視しています」

 

 命中率は目を瞑って、とにかく数撃てば当たるでダメージを稼ぐ。悪くはないが、非経済的であるし、近接ファイターと組んでいるならば連携を阻害する。だから死亡率が最も高い。何せ、モンスターでも銃撃で怯まずに突っ込んでくることもあれば、回避したり、物陰に隠れて銃撃を凌ぐことも平然とやってくるのだから。

 ただし、装弾数には限度がある。オートリロードの時間もある。弾代は馬鹿みたいにかかる。銃の修理代も嵩む。連射しすぎれば銃身がオーバーヒートして耐久度激減のペナルティが付く。

 最も安全に見えるが故に最も人気が高く、だが最も死亡率が高くて最も非効率な運用だ。まぁ、とにかくばら撒いてダメージを与えられるからな。ライフルやアサルトライフルが人気な理由だ。

 床下にあるイジェン鋼の狙撃弾を灰狼に渡す。専用弾は文字通り特定ジャンルにしか使用できない純弾であるが、より性能を引き出すことが出来る。

 聖剣騎士団もイジェン鋼製の銃弾はまだ市販しておらず、入手する為にはイジェン鋼のインゴットを購入して作成するしかない。そうなれば、作成時のランダム要素などで安定した性能はなかなか望めない。

 同じ素材を同じ設備で作成しても性能に変動が生じる。極論を言えば、最高純度のイジェン鋼で最低純度のイジェン鋼の性能しか持たない銃弾が出来るのだ。

 これがコストをかけてもいい近接武器ならば、グリムロックも技術と素材運用で最高純度の最高の性能を引き出すことは出来る。だが、消耗品の銃弾に高コストをかければどうなるかは言うまでも無い。財布が死ぬ。

 対して大資本はどうなのか。1回で100発分のイジェン鋼の銃弾を作成したとしよう。その中で求める基準に到達する銃弾が作成できるのは5回に1回だとする。つまり、500発分作成して400発は無駄になる。これらを素材に戻すとしても回収出来るのはせいぜい100発分。残る300発分はコストとして消える。

 銃弾を作るのにも炉の燃料代、設備の消耗、人件費がかかる。もちろん大前提に素材代も。これが消耗品には大体同じ理屈がかかる。まぁ、≪薬品調合≫だと燃料代みたいにコルはかからないが、1回に1個しか作成できないので、大量生産には向かない。

 たとえば、ヨルコがナグナの血清1個を作るのにかかる時間は約30分だ。1時間かけても2個しか作れない。ナグナの血清の作成難易度は高いのもあるが、素材を無駄にすることなく確実に作るとなれば、これくらいの時間というコストをかけねばならない。

 では大ギルド場合は? 素材の無駄を承知で大量生産を行う。大量の廃棄を伴いながら大量生産を行う。優秀な薬師を10人雇うよりも、コストがかかる設備を稼動させられる100人の平凡な薬師の方が効率はいいのだ。それに薬は銃弾や矢と違って作成時の性能ランダム要素が乏しいからな。基本的に成功か失敗だけだ。その代わり、成功率は素材のランダム要素にも左右されるので、素材を大量生産にして均一化を図っている。うん、金と人数の暴力だな!

 銃弾にしても矢にしてもボルトにしても、素材と時間を惜しまない優秀な鍛治屋がいれば高品質を揃えられる。ただし、そんなものを利用できるのは莫大な個人資産と時間的猶予を持つ者だけだ。グリムロックの仕事スピードはイカれているが、腕は2本で弟子も従業員もいない。むしろ、手製の投げナイフを準備してくれているだけでグリムロックは優秀すぎる。

 まぁ、だから先の仮面の男と戦った時、投げナイフ全消耗はグリムロックに悲鳴を上げさせたのだが。在庫はあるにしても余裕があるわけではないのだからな。投げナイフに関しては業務委託も本気で検討中らしい。

 とにかく大量生産品に関してはどう足掻いても大資本には勝てない。あくまで個人経営の鍛治屋・薬師が勝てるのはハイスペックの数量限定品かオーダーメイドだ。それに関しても、試行錯誤回数が圧倒的に多く、研究環境が整っている大資本の有利だ。

 オレの投資もあるので黄金林檎は規模にしては研究・開発・生産のいずれも環境が整っている方であるが、それを差し引いてもグリムロックやヨルコは大ギルドからすれば技術面のイレギュラー扱いらしい。

 

「下位プレイヤーで≪銃器≫所有者が多いのは、『数を揃えれば本人の実力に目を瞑っても、ある程度の運用が可能』だからです。本人の戦闘適性が低くても、射撃サークル内に入れた目標を撃つことはできますから。有効射程距離まで目標を引きつけて、数に物を言わせて撃ち殺す。それが無理でも弾幕を張るだけで、対人ならば十分に牽制にはなりますから」

 

 防御力に対してスタン耐性の伸びはそこまでじゃないからな。ただし、銃撃は大型火器やショットガンの近距離フルヒットを除けば、クリティカル部位に命中でもしない限りはスタン蓄積性能はそこまで高くない。クリティカル判定だって初弾限定だからな。銃と銃弾によって初弾判定のクールタイムが決まっており、これが消化されていない間にクリティカル部位に命中させてもクリティカル判定にはならない。

 連続着弾システムによって、初弾が命中した部位に連続着弾させればダメージ及びアバター破損させやすくなるが、逆に言えば的を絞らずに撃ち続ければ、最低限のダメージしか与えられずに、アバター破損もスタンも狙えない。

 だからこそ、下位プレイヤーに集団戦法を取らせるのだ。個人の技量が求められる効率を数でカバーするのは常なのだから。現実の戦争と同じだな。

 あと、やはり五感による恐怖心の植え付けは大きい。充満する火薬の香り、耳を突き刺す銃声、マズルフラッシュと着弾の火花。HPと防御力から計算して耐えられる『かもしれない』と分かっていても飛び出せない。

 戦国時代や鎌倉時代ならばいざ知らず、死ぬかもしれないのに弾幕に身を晒すメンタリティを得るのは難しいものだ。こういう時はやはりコミュニティに対する帰属意識や愛着心が重要であり、家族や友人といった後方の人間の有無は大きいのだろう。昔の人はよく考えながら戦争していたのだなと痛感する。

 

「対象から距離を取って戦えるので恐怖心が薄れる。トリガーを引いているだけで『戦っている』と自分に言い訳できる。だから下位プレイヤーには≪銃器≫が好まれる傾向にあります。初期ならばともかく、今は≪銃器≫を解放するイベントも1000コルほど積めば誰でもやらせてもらえますから」

 

 まぁ、イベントをクリアしないといけないのだがな。≪銃器≫が解放されるイベントは様々だが、最も安全で簡単なのが1つが射的ゲームだ。次々に出現する的を撃つだけの簡単なイベントであり、クリアポイントに到達すればスキル解放される。終わりつつある街内には大ギルドが設置したスキル獲得を可能とする射撃場で受けられるのだが、使用料は500コルだ。まぁ、イベント時はスキル為しでも銃が使えるのだが、公式設置イベントではないので銃の修理費や弾薬と言った経費がかかるからな。

 それなりの規模のギルドならば、ギルドポイントを消費して≪銃器≫・≪光銃≫を獲得出来るイベントを設置できる射撃場を作成できる。だから裏社会でも射撃場は経営されている。大ギルドも別に制限はしていないらしい。そもそも、スキルを解放したいだけならば、それなりのレベルに到達したプレイヤーならば大ギルドの目を掻い潜って幾らでも可能だからな。まぁ、わざわざ隠したい意図がなければ、そんな回りくどい真似もしないのだが。

 大ギルド経営の射撃場のイベントは1回でクリアできるものではない。的の配置を事前に教えられても、余程にセンスがあっても10回はかかるそうだ。つまり、下位プレイヤーが≪銃器≫を欲しいならば、スキル解放だけで5000コルも投資しなければならない。

 オレには分からないが、わざわざ≪弓矢≫よりも≪銃器≫を欲しがるのは、必要となる技術の差だろう。同じく射撃サークルによるシステムの補佐があっても、矢を射るのに動作は要るし、相応の戦況判断が必要となる。数撃てば当たるも難しい。より『狙い撃つ』という動作が必要になる。また、≪銃器≫と違って必要ステータスを満たしただけでは火力を引き出せない。ステータスボーナスを乗せるステ振りやソードスキルの運用も求められる。

 これが普通のゲームならば『楽しみ』になるだろう。だが、DBOはデスゲームだ。死ねば終わりだ。ならば、大半のプレイヤーが最もステ振りしたがるのは生存率に直結するVITであり、次にスタミナのCON、最後に逃げ足のDEXだ。お目当ての銃が使える最低限のステータスを得て、残るリソースを生存重視で注ぎ込む。

 それは正しいのだろう。だが、必要ステータスを揃えたからと言って最高のパフォーマンスが出来るわけではない。STRがなければ反動抑制ができず、TECは射撃精度に影響する。

 結果、量産されるのは有効射程距離でばら撒く事がせいぜいの下位のプレイヤーだ。まぁ、彼らはまだ職にありつける側だ。『使い捨ての駒』として警備に雇ってもらえる。仲間が死んでも生き延びて、運良くモンスターでもプレイヤーでも殺害できれば経験値も得られれば、また成長ポイントを割り振ってより安全を確保できるようになる。出世の道も開ける。運が続ければスキル枠も解放されるだろう。

 何にしても下位プレイヤーで近接ファイターを志す者は少ない。現実とは違って射撃無双できないのがDBOなのに、どうしても距離を取って戦える道を選んでしまうのだろうか。スミスやシノンのような射撃特化技能があるわけでもないのに。

 ……結局は恐怖が勝るのだろう。敵に近付かなくていい。仲間と撃っているだけで連帯感が生じて安心する。そして、同じプレイヤーが相手ならば殺してる実感が薄れる。

 スミスが前にぼやいてたな。訓練された軍人であっても実際の命中率は低いとか何とか。人間は無意識に人命を奪う忌避感と罪悪感から狙い撃てなくなるそうだ。

 

「スキルを選ぶのは自由なのに、死にたくないって気持ちが制限しちゃうんだね」

 

「本当に死にたくないなら生産系スキルの獲得をオススメしますよ。特に比較的安全な農地や工場勤務ならば安給与でも死亡率は高くありません。他にも≪清掃≫を取れば家政婦や清掃業者になれますし、≪採掘≫関連スキルがあれば鉱山で働けます。まぁ、鉱山は危険度が経営者と場所で天地の差があるのでオススメしませんが」

 

「そんなに違うの? 同じ鉱山……なのに?」

 

「まったく違います。たとえば、単体では素材価値が最も低い鉄鉱石ですが、これも数を揃えれば優秀な素材を加工する為のベース素材・サブ素材になります。ですが、鉄鉱石がメインで算出する鉱山は水準レベルが低めです。外れの屑石も多く、産出率は高いとはいえませんが、比較的安全な鉱山です。水準レベル100の鉱山ならば、命の危険と引き換えに相応の稼ぎが期待できるでしょう。それでも命を張るだけの対価が得られているとは思えませんが」

 

 イジェン鋼のインゴット1つを作成するのにも、多くの素材を組み合わせなければならない。専用の設備で素材Aと素材Bを使うことでイジェン鋼が出来るならば、素材Aを作る為に素材Cと素材Dが、素材Dを作る為に素材Eと素材Fが……といった具合だ。

 当然ながら素材の精製設備にも製造・保守コストがかかる。更に製造に必要な部品にも……というループが続くのだ。

 もちろん、そうした手間をレア素材ならば省けるかもしれない。だが、生産コストを考慮すれば、人件費を抑えて多量の鉄鉱石を集めた方がいいのだ。

 あと、修理をコルだけでやろうとすると馬鹿みたいな額がかかるからな。修理素材として多量の鉄鉱石を消費するのは珍しくない。鉄鉱石で作成した修理用インゴットも販売されているしな。加えて修理時間や修理時のバフ諸々を考慮すれば切りが無い。

 ただし、耐久度を回復させる修理とは違って破損を直す修復の場合は必須素材が要るのでまた別問題だ。むしろ、深刻なのはこっちだな。レア素材を使用している程に修復必須素材もレアリティが高い。

 だから、大量生産品には同時に修復必須素材で儲けるといった考えも当然のように生まれるわけであり、商売とは手間暇がかかる程に成立するものだと思う次第である。

 

「……とはいえ、コルを中心にした経済がもうすぐ終わりますよ」

 

 コルは通貨であると同時に消耗品だ。≪鍛冶≫による修理・修復・製造の全てに燃料費という形でコルの消費が求められる。他にもコルが要求される場面は多い。そうしてシステム的に消費されたコルは完全消滅する。

 NPCにアイテムを売ればコルは得られるが二束三文だ。しかも固定のNPCに同一アイテムを売却しすぎれば『値崩れ』という現象が起きる。鉄鉱石10個で1コルの買い取りだったのが、鉄鉱石100個で1コルといった変化が起きる。

 大ギルドや有力ギルドは莫大なコルを保有しているが、供給と需要の割合が釣り合わなくなる。そこで最近になって大ギルドや教会が中心となって貨幣を鋳造しようとしている動きがあるのだ。

 たとえば、市場価格1000コル相当の金貨を鋳造する。だが、黄金のNPC換金率は既に低い。金貨1枚では1000コルと交換できない。

 大半のプレイヤーはコルを何で消費しているのかと問われれば、プレイヤー間取引だ。プレイヤーメイドの商品を購入し、プレイヤーメイドの料理を食べ、プレイヤーメイドの建物に住む。コルを通貨にしてプレイヤー間で取引している。

 コルを『システム的現金』で確保しておきたいのは戦闘や生産をメインとするプレイヤーだ。もっと言えば、経営者と戦闘メインのプレイヤーなのである。戦闘メインのプレイヤーにしても、装備の修理や修復、都市外でのNPCとの取引に必要なのであって、生活の過半では必要ない。

 受付嬢のヘカテさんからも『いずれはコルが換金対象となるかもしれない』という話を聞いたことがある。具体的には傭兵の現在の主な報酬はコルであるが、専属傭兵を中心として各大ギルドが発行する通貨に切り替えられ、やがて独立傭兵にも波及するだろうというものだ。

 そうなった場合は金本位制度のようにコル保有量で発行通貨が決定されるのか、それとも管理通貨制度となるのか。何にしても、3大ギルドによる秩序は強固なものとなるだろう。

 そもそもアイテムを売却できるNPCは全て3大ギルドに抑えられているし、売却価格を引き上げるスキルを会得できるイベントも厳格に管理されている。ギルド専用イベントと多量のギルドポイントを消費して入手できる、アイテム換金率が高い【貧富の箱】というNPC商人の代用となるアイテムは3大ギルドしか持っていない。

 つまり、装備だろうと素材だろうとコレクターアイテムだろうとプレイヤーに売るしかないのがDBOの実状だ。そして、DBO人口は増えすぎて貨幣たるコルが不足している。だからといって大ギルドや有力ギルドはコルを放出するわけにもいかない。なぜならばシステム的通貨であると同時に消耗材なのだから。

 何にしてもプレイヤーが貨幣を発行するしかない。もうカウントダウン間近です、はい。どんな腐れた制度で運用されようとも、お金の利便性と魔性を知ってしまった人間は物々交換の時代には戻れないのです。

 ギルド発行通貨制度が成立した場合、多くの問題が噴出し、同時に新たな秩序の1歩が敷かれる事だろう。それが賛美される事なのかどうかはまた別の話だ。

 というか、そもそも現実社会の経済・通貨システムをそのまま持ち込めない理由が多いんだよな。こればかりは途方もない時間をかけてトライ&エラーを繰り返すしかない。リアル技能持ちに経済や財政に詳しい奴もいるだろうし、そういう専門知識と経験を持ち合わせた頭の良い連中に任せておくのがⅠ番だ。

 

「……どうでもいい」

 

「マスターの『どうでもいい』って知識と考察による熟成の末の思考放棄ですよね」

 

「短い付き合いなのによく分かるな」

 

「そういえば、何ででしょう?」

 

 自分で言って自分で疑念を持つな。不可思議そうに首を傾げる灰狼は放っておくとしよう。

 

「灰狼ちゃんの言ってる事、なんとなく分かる気がする。【渡り鳥】さんって私達が思ってる以上に色々な事を考えてるんだろうなって。ただ言葉にしないだけで……だから、勿体ないよ。言葉にしないと……伝わらないことってたくさん、あるはずだから」

 

「口は災いの元。オレの場合は不利益に発展する場合が多いのでご遠慮します」

 

「残念。【渡り鳥】さんの考えや気持ち、もっとちゃんと知りたかったのに」

 

 スイレンが母性に富んだ笑みを浮かべ、オレは視線を逸らす。そんな顔をされてもオレは喋らないぞ。

 ベッドの上で片膝を抱えたスイレンは、灰狼に弾倉への手動リロードの練習をさせるオレから目を離さない。そんなに面白いものでもないだろうに。

 

「意外と面倒見も良いよね」

 

「…………」

 

「灰狼ちゃんには厳しいけど、期待の裏返しというより誠意の表れ。義務とも責任とも違う」

 

「…………」

 

 この女、オレが言い返さないと分かってやってるな。別に苛立ちはしないし、怒りもしないし、興味も無いのだが、灰狼の方が気してオレの顔をチラチラと見上げている。

 狭い住居だ。他にやることがないので話し相手が欲しいのも理解している。それはこの1週間で何かと無駄話を振られて十二分に味わっている。

 

「とても誠実な人。うん、そうだね。【渡り鳥】さんが頑なに『優しくない』って否定する理由……ちょっぴり分かった気がする」

 

 好き放題に言ってくれる。オレが溜め息を吐けば、スイレンは苦笑した。

 

「私も【渡り鳥】さんと同じみたい。考えた事、思った事、感じた事……素直に言葉にしても……自分も他人も傷つけるだけだよね」

 

「当然です。思考や心をそのまま言語や態度で放出していれば、人類なんて滅んでいますよ」

 

「そうだよね。当たり前だったよね」

 

「ですが、心の内を隠し続ける者が信頼を得られないのも事実です。思考や感情を全て吐き出してぶつけるとはまた異なる。心を解き放って言葉を紡ぎ、行動で示す。それこそが信頼を生む方法の1つです」

 

 オレにあるのは信用だ。積み重ねた死体と結果で示す信用はオレが傭兵をやっていく上で最後の砦だ。どれだけの悪評があろうとも、依頼主を裏切らず、依頼の達成に全力を尽くしてきたからこそ、オレは傭兵として戦える。

 だが、信頼はないのだろう。信頼はロジックでは生まれない。非合理的な感情によってもたらされる身勝手な指向性だ。心理学を利用すれば容易いと言うかも知れないが、テクニックで得た仮初めの信頼はテクニックでしか維持できず、故に反転しやすい。使い捨てるならばそれでいいかもしれないが、同時に同じ知識を持つ者からは看破されるリスクも伴う。

 人の心理・思考を操作できると思い上がった策士は、同時に知識によって支配され、利用され、瓦解され、全てを失うものだ。故に人の信頼を無意識に集める天性の素質……人心掌握のカリスマには、心理学を利用したテクニシャンは決して勝てない。残酷に言ってしまえば、天才の真似を努力家がしたところで身の丈不相応であり、破滅を招くだけだ。

 キリトは信頼させる。剣を振るう勇姿に、駆ける背中に、跪く弱々しさに、人々は希望を感じ、信頼を寄せる。人の上に立つタイプではないし、そんな真似をした瞬間に転落人生確定しているようなものだが、個人として信頼を集めて不特定多数の心理に指向性を与えられるので、組織を運営する人間からは厄介であり、同時に排除にはなかなか踏み込めない面倒臭さがある。

 

「無理して信頼なんて得ようとするものではありません。信頼は感情という土壌で芽生え、信用は実績という果樹に実る。100年かけて培った信用が1日足らずで生じた信頼に屈することもあれば、逆もまた然り。信頼と信用は別物で両立するものなので、どちらも得るのが最善ですけどね」

 

 ああ、無駄話が過ぎた。さすがは高級娼婦だ。話させるのが上手い。オレもまんまと術中に嵌まってしまっていたか。彼女の動作、話し方、目線までもが誘導させるものならば、いっそ五感を捨てれば彼女の正体が分かるのかもしれないな。

 

「……やっぱり、【渡り鳥】さんって噂とは違う……ね。ちゃんと自分も周囲も考えてる」

 

「1つ忠告しておきますが、思考と感情に基づいて行動が決定づけられるわけではありません。知性に基盤を持つ合理的判断とも感情由来の非合理的選択とも乖離した行動を取るものです」

 

「そんな事……ある?」

 

「ありますよ。合理と非合理が矛盾することなく融合した、生物にとっての原初の判断材料……本能と呼ばれるものです」

 

 さて、こんなものでいいだろう。何も無意味にスイレンと長話をしていたわけではない。灰狼の手動リロードの訓練から幾つかの課題も見つけた。

 灰狼は小柄だ。となると火器も軽量・小型化が求められる。瞬間火力よりも総火力による支援を優先し、機動力を殺さないものが要求される。

 ストックに装弾するブルバップ式サブマシンガンも悪くないかもしれない。いっそばら撒くタイプは貫通性能が低くて削りに特化したヒートマシンガンやパルスマシンガンも選択肢に入る。

 武器サイズとプレイヤーの体格は死活問題だ。防具はある程度の自動調整機能が付いているが、武器のほとんどはサイズ変更不可だからな。体格に見合わない武器はSTRがクリアしていても扱いにくいものだ。

 灰狼専用火器はいずれも彼女の体格に見合わせたものであるが、まだまだ手探りだ。オレからの細かいオーダーはグリムロックにとっても今後の開発方針に大きな影響を与えるだろう。

 

「これが明日のプランです」

 

「……細かい。分単位で目的地と進路が管理されてる。デートでこんなプランを渡したら……フラれるよ?」

 

「デートではなく護衛プランなので問題ありません」

 

「でも、私はデートのつもりだから」

 

「……好きにしてください」

 

「あ、照れた。うん、また1つ分かっちゃった。【渡り鳥】さんって……意外とツンデレ」

 

 誰が照れているだと? 勝手に判断しないでもらいたいものだ。溜め息を飲み込んでいる内にグリセルダさんからメッセージが届く。

 どうやら3大ギルド……特にクラウドアースからスイレンの護衛中止の要望が入ったそうだ。ただし、サインズはこれを拒否しているそうなのだ。

 クラウドアース経由の護衛依頼であるが、より正確に言うならばクラウドアース所属のマダム・リップスワン『個人名義』の依頼でもあるのだ。あくまで依頼主は『クラウドアース』ではなく『クラウドアース所属のリップスワン』なのだ。

 以前のサインズならば細やかな規定違反を承知で要望を受理したかもしれないが、サインズは独立性を保つべく組織改革に乗り出したばかりであり、ここで3大ギルドの圧力に負けたとなれば、サインズという『中立』を謳う傭兵管理組織への信用が完全に失われてしまう。

 信頼と信用の話になるが、傭兵達でもサインズを信頼している者は稀だ。親身になって話してくれる受付嬢や各仲介人などには個人的信頼を持ち合わせていても、サインズという組織には血の通った情を持っているはずもない。そもそもランクだって政治的配慮が過分に含まれているしな。

 だが、極論でも何でもなくランクとは名誉にして宣伝だ。生死に直結するものではない。より良い依頼と報酬を得る為にランクを重要視する傭兵は多いが、同時に政治的配慮もあるという前提が成り立っているので、そこに誰がどのように介入しようと、不満は口にしても受け入れる。

 故にサインズの信用失墜とは、傭兵にとってサインズに登録するメリットを上回る不信が発生した場合だ。

 傭兵にとってサインズに登録するメリットは何か。宣伝効果、依頼斡旋、報酬担保、報復抑制などが主にある。ならば信用を損なう行為とは何か。それ即ち『騙して悪いが』……つまりは依頼を利用した罠だ。

 サインズには依頼内容を精査する義務がある。依頼内容が分からなければ、傭兵に依頼を斡旋する際の仲介料も算出できない。仲介料と傭兵毎の基礎報酬額を合算して依頼費用の額面が決まるのである。要はサインズにとって、依頼内容の精査はあらゆる思惑・感情を除外したドライなビジネスであらねばならない。

 その点で言えば、太陽の狩猟団は上手い。専属以外には情報精度が低く、内容も虚偽にならないグレーゾーンかつ各種ボーナス規定をを組み込んだ依頼を出す事で、専属以外の傭兵をより安値で最大限に利用しようとする。だが、そんな太陽の狩猟団でも依頼内容が虚偽と判断されないラインを守る。殺しにかかる依頼をする事はあっても罠には嵌めない。そもそも『死ね!』と副音声が聞こえる依頼を受理するかどうかは傭兵の判断だしな。専属傭兵には拒否権が無い場合もあるが、だったら意図して失敗してもいいわけだしな。そもそも自分を殺そうとした組織からの信用なんて要らないしな。

 傭兵にとって初動である依頼受理の時点で信用を失う。もちろん、事前調査は傭兵にとっても必須であり、依頼に合わせた情報収集も要求されるが、それも絶対ではない。緊急依頼のように調査・情報収集をする時間が無い場合も多々ある。

 人間の作業だ。ミスはある。事実として、オレも先にヴェノム=ヒュドラによってクラウドアースと偽った依頼で『騙して悪いが』されたばかりだ。緊急依頼ともなれば、サインズにとっても精査する時間は無い。依頼主として得た情報が間違いで誤った依頼をして意図せずに傭兵を窮地に陥れる場合もある。

 傭兵がサインズに向ける信用とは、政治・金・脅迫に屈して依頼内容の虚偽が分かっていながら傭兵に斡旋する、または依頼に従事した傭兵の情報を流して危機をもたらす、といった実に曖昧なものだ。

 サインズがこの曖昧な信用を得たのは、まさしく実績の積み重ねだ。理由は何であれ、依頼内容に虚偽があった場合は傭兵と依頼主の間に立って補償の交渉を行う。作為的なものであるならば報復も辞さない。そんな一貫した態度と結果でサインズは信用を得た。

 サインズがDBOにおいて唯一無二の傭兵斡旋事業を独占できているのは、依頼主……顧客を集められる能力とブランドがあるからではない。傭兵が信用して登録しているからだ。依頼主に騙されるのは100歩譲っていいとしても、サインズに騙されたとなれば、待つのは実力行使だ。

 故にサインズは信用を失うか否かの瀬戸際だ。3大ギルドの介入があると従業員に暴露され、大反発を招き、組織改編で再出発をして辛うじて傭兵の信用を繋ぎ止めたのに、ここで依頼規定を無視してオレに護衛中止を通達すれば、瞬く間にリークされて瓦解するだろう。

 ……暗殺シフト前提の護衛依頼という真っ黒な依頼であるのは今更なのだが、サインズによる傭兵斡旋事業崩壊のトリガーになりかねないとか、本当に勘弁してほしい。

 まぁ、サインズにとっても傭兵を派遣できる唯一の中立組織というのは、教会の権威にも負けない強みだ。これを失えば傭兵という事業成立に必須の資産を損なうことくらいは計算できる。賄賂、ハニートラップ、脅迫、暗殺など幾らでも考えられるが、簡単には折れないし、傀儡が生まれても処断する。

 何よりも3大ギルドや教会にとっても『今』はサインズが中立であってもらわねば困る。傭兵という組織外の戦力を十二分に活用できる現環境は捨てがたいものだからだ。

 あと、サインズの後釜を準備とか普通に無理だしな。不可能だ。なにせ、サインズ以外が傭兵斡旋事業を立ち上げても、傭兵は信用しないしな。というか、傭兵って依頼主を基本的に信用していない奴らばかりだからな。依頼主の足りない信用をサインズが担保することで成り立っているのである。

 オレには分かる。何せ、これだけ記憶が灼けているのに依頼主に騙されたのは両手両足の指の数を合わせても足りないくらいだし、報酬の未払いや値切りは数知れず。サインズに登録するメリットは傭兵にとっても確かにあるからこそ、この踏ん張り時を応援したいところだ。

 ……まぁ、オレの場合は真っ黒なクローズド依頼ばかりだから余り関係ないんだけどな! サインズでも1部上層部しか情報閲覧できない依頼ばかりなんだけどな! 逆に言えば、それだけサインズは3大ギルドの急所を押さえているので、これらのカードをフル活用してでも中立を守るのだろうが、オレには関係ないね!

 

「クラウドアースが動く……か」

 

 サインズに出来るのは保証金を出して自発的に辞退をオレに促すくらいだろうが、サインズの内部情勢次第ではそれすらも無いかもしれない。

 仮にクラウドアースが本気でスイレンを奪いに来る、ないし殺害を目論むならば、こちらも相応の対処をしなければならない。

 ……ミディールをぶち込んでやるのも悪くないかもな。取り寄せておくべきか? いや、止めておこう。さすがに終わりつつある街の地上でミディールを撃った日には巻き込まれて何人死ぬか分かったものではない。

 夜更けには明日が楽しみで寝付けていなかったスイレンも寝息を立て、灰狼も明日の警備に備えて彼女の傍で銃を抱えたまま体を丸めて眠っている。

 明日にはこの隠れ家も廃棄する。念入りにトラップを仕掛けてから出発だ。仮にこちらの足取りを追われたとしても、まずは打撃を与えて恐怖心と警戒心を植え付ける。

 屋上に移動して空を見上げれば灰色の空で覆われていた。月光は届かず、静かに雪が降り注ぐ。どうやら本格的に積もるようだ。

 

「100人だろうと1000人だろうと関係ない。殺すだけだ」

 

 スイレンを拉致されるなどという失態は2度と犯さない。

 彼女を殺すのはオレだ。オレでなければならないのだ。

 

 

▽       ▽        ▽

 

 

 新聞を捲ればテロリスト・青の砂漠を非難する報道で一色。

 ラジオを付ければ3大ギルドの足並み揃えた対応への賞賛。

 道行く人々は教会の慈善活動と治安維持に感謝。

 気持ち悪い。修復が進む黒鉄宮跡地の巨大クリスマスツリーを眺めながら、アスナは典型的なプロパガンダ戦略に辟易する。

 

「誰も疑問を覚えないの?」

 

 大ギルド所属プレイヤーを狙う【首狩り】を追うパートナーであるスミスは、マントのフードで素顔を隠すアスナへと紙コップの珈琲を差し出しながら苦笑する。

 

「民衆とは社会安定と生活維持を切に願うものだ。現DBOにおいて、3大ギルドは大資本と大戦力を有する。最低限の発言力を有する下位・中位プレイヤーは、3大ギルドの支配構造によって衣食住を供給されている人間が過半数だ。だとすれば、小火程度の街の被害と生活に直結しない貧民の犠牲に対して、わざわざ時間も思考も費やす義理はない」

 

 世間はクリスマス歓迎ムードを取り戻しているが、貧民街では数百人規模の死者を出した大騒動である。だが、驚くほどに終わりつつある街は平静そのものであった。

 

「残酷で愚かよ」

 

「そうかね? いつの時代も圧倒的大多数が慈善行為を示せるのは、生活と精神の余剰リソースを割り振れる時だけだ。アフリカの絶対的貧困に喘ぐ幼子を、日本で相対的貧困に喘ぐ若者が『衣食住は最低限確保されているから』というだけで助ける道理が成立するかね?」

 

「それは……」

 

「キミとて守るべきものがあり、物事に優先順位を付け、切り捨てる覚悟をしているはずだ」

 

 頭では分かっている。だが、心は理解を拒んでいる。スミスに反論できないアスナは珈琲に口を付け、だがやはり言葉を呑み込むことはできないと彼を睨む。

 

「でも、理不尽を許してはいけないわ」

 

「……若いな。だが、私のような偏屈で冷めた目でしか世の中を見ることができないおじさんを黙らせるには十分だ」

 

 スミスはアスナを賞賛するが、彼女からすれば未熟だと馬鹿にされているようにしか聞こえない。

 

「誤解しないでもらいたいが、私とて今回の件については思うところもある。貧民街で大型ゴーレムが暴れだ。1部とはいえ、貧民街は焼け野原となり、数百人の死者が出た。情報によれば、『彼』がゴーレムを撃破していなければ、数十倍にも及ぶ被害がもたらされていただろう」

 

「…………」

 

「ああ、キミが苛立つ理由の1つは『それ』か」

 

 世間は青の砂漠を悪と断じ、3大ギルドによる討滅を正義の執行だと支持するように煽られている。教会は公式発言を控えているが、此度の被害に対して3大ギルドから莫大な額の寄付があった旨を発表し、深い感謝を表明することで、3大ギルドを擁護する立場を無言で示している。

 政治を理解する者ならば、3大ギルドと教会の間で裏取引があったのだろうと勘付くだろう。

 だが、同時に政治を理解するからこそ、今回の騒動を3大ギルドが起こしたメリットを理解できず、教会が仲裁に入ったとしても原因は何だったのか思いつかない。

 非合理な選択を、人間も組織も取るものだ。そもそも合理性を追及すれば善悪という概念こそ不要であり、非人道的選択が優位に立つのが常だ。そして、それが結果として未来性の欠落に繋がる。

 一切の感情と道徳を排除すれば、社会的弱者は切り捨てる、ないし使い捨てることこそが最も合理的である。そして、それを社会的弱者は社会という構造の為に受容しなければならない。あらゆる個人の思考・思想を制限し、社会全体の成長と維持を『健全』に保つことこそが最優先されねばならない。

 

「ここ数日で貧民街では急速に死天使信仰が広がっている。被害は軽微だった表では彼の大暴れが取り沙汰されて、青の砂漠と同等かそれ以上の『元凶』扱いだ」

 

 ならばこそ、厄災と理不尽と不可解を収束させる信仰とは度し難いものである。アスナは拳を握らずにはいられない。

 

「あらゆる死の因果を1人に集約させて、それで何が救われるの? 確かに【渡り鳥】くんは騒動に関与していた。でも、原因ではないはず」

 

「大多数が因果関係を気にするのは、自身に利害関係が生じる時だけだ。実に珍しく、3大ギルドは【渡り鳥】くんにヘイトを集めて情報操作していないが、元より土壌はあった。彼が厄災に関与しただけで、被害の主因であるという印象が常に優先されて、事実関係が広まっても認識を改めることはできない」

 

 スミスが腋に挟んだ雑誌を広げる。典型的なゴシップ雑誌であるが、【渡り鳥】について読者の恐怖心を煽る過激な特集が組まれている。見出しだけでは、まるで【渡り鳥】が貧民街を焼き払い、数百人を虐殺したかのようだった。

 

「虚しいまでに救われるさ。死後に極楽浄土や天国に行けるからという理由で信仰にのめり込むのではない。死ぬ最後の一瞬まで心の平穏を与え、存在意義をもたらしてくれるからこそ、信仰はいつの世も形を変えて現れる」

 

 理屈は分かる。だからこそ拒絶したいのだ。アスナは珈琲を飲み干し、紙コップをゴミ箱に捨てる。

 

「それに被害者には悪いが、今回の件は貧民街にとってプラスに働くだろう。教会は莫大な寄付を元手にして大規模な支援活動を行っている。12月でご覧の通りの雪空だ。温かい食事と毛布が支給されるだろう。教会がもたらした大需要を受けて市場は活発化し、富が循環する」

 

「被害を受けた貧民街が再開発されれば、それだけ新たな雇用も生まれる。分かってる。分かってるわよ。それが経済なんだって……分かってるわ」

 

「それでも割り切れない。キミは実に善人だ。その心を大切にしたまえ。ただし、政治家や活動家でも目指すのでないならば他人には見せるな。利用されるだけだ」

 

「警告してくれるスミスさんも善人側よ」

 

「キミを味方につけるのは私にとって利益があるからこそだ」

 

 社会への不満をどれだけ口にしても、行動に移すだけの余裕などない。スミスの言う通りだとアスナは天を仰ぐ。今の自分がすべき事は、被害を受けた貧民街で無償の慈善活動に参加する事では無く、教会から請け負った有償の仕事で【首狩り】を追跡する事だ。

 

「【首狩り】は3大ギルドの上位プレイヤーばかりを狙う辻斬り。だが、どうやら殺害されたプレイヤーには共通点があったな」

 

「犠牲者の多くは殺害される前に散財しているわ」

 

「貴金属などの換金性の高いアイテムに費やし、その多くを『贈与』で消費している……か」

 

「ええ。普段は酒場にも行かない堅物だった人が娼館に足を運ぶようになったり、ホストに貢ぐようになったりね」

 

 アスナ達の推理は『犠牲者が死を偽装している』という方向でほぼ固まっている。

 彼らはまず私財を換金性の高いアイテムにし、娼館や水商売にのめり込むフリをして、従業員にご機嫌取りの贈与という方便で秘密裏に移動する。

 そして、定められた日にわざと夜間に人通りが少ない場所で単独となり、【首狩り】に殺害されたように見せかける。

 遺体は背格好を似せた他人だ。事前に本物の装備を身につけさせ、身元を明らかにするアイテムを所持させて殺害する。自身は外見だけ似せた装備で偽装する。

 首を持ち去るのは死の偽装を誤魔化す為だ。ただし、装備、アイテム、背格好、首無し、遺体の損壊という条件を揃えても死の偽装を看破される危険性がある。

 ならばどうするか? スミスとアスナは遺体を検分した検死官を疑った。

 犠牲者は聖剣騎士団とクラウドアースであり、太陽の狩猟団からはまだ出ていない。これは検死官の抱き込みがまだ太陽の狩猟団では済んでいないからだ。

 

「犠牲者を担当した検死官は、聖剣騎士団・クラウドアースどちらもギャンブルで多額の借金を抱えていた」

 

「検死官の人数は決して多くないわ。夜勤の日に死を偽装すれば、自ずと彼らが遺体は本人だと認定してくれる」

 

「ほぼ当たりだろう。問題はどうやって証明するかだな。遺体は全て墓の下で、掘り返したところで骨すら残っていまい」

 

 DBOはどれだけ現実世界以上の質感を有していても仮想世界であり、埋葬された遺体はポリゴンの欠片となって消え去る。ましてや、神灰教会はその名の通り、火葬を是としており、犠牲者の遺体は1人残らず灰となっている。

 墓標と一体化した遺品だけが埋まっており、それは死の偽装を決定づける証拠にはならない。

 

「私財の移動に利用された娼婦やホストを洗ってみる?」

 

「やる価値がないとは言わない。脅せば吐くかもしれないが、所詮は末端だ。証言の信用性は低い。私が気になるのは、推理通りであるならば、ビジネスとして成立するものではない、という点だ」

 

 当初はスミスもアスナも、上位プレイヤーが最前線の恐怖から逃れる為に死を偽装したのではないだろうかと予想した。

 だが、上位プレイヤーと言っても所持する財産はたかだ知れており、一生の衣食住に困らない程の額にはならない。上位プレイヤーに到達した高いレベルを用いて目立たぬ程度の稼ぎを得るにしても、死を偽装した者は大ギルドに発覚するかもしれないリスクを承知で実行するリターンが無ければならないはずだ。

 

「考え得るのは情報や技術。だが、犠牲者はいずれも戦闘職ばかりで、重要な情報を握ってる幹部でも技術者でも無い。何が流出したかなど、さすがに我々では調査できない。憶測の域を出ない」

 

「やっぱり、犠牲者本人を捕まえるしかないわよね」

 

 大ギルドの上位プレイヤーばかりを狙う辻斬り【首狩り】など存在せず、死は全て偽装であったと証明するならば、犠牲者を生きた状態で突き出すのが最も手っ取り早い。

 死の恐怖に屈した彼らをわざわざ見つけ出して、恥と罪を白日の下に晒す。躊躇いが無いといえば嘘になるが、この偽装トリックには遺体となった真の犠牲者が不可欠だ。

 偽装遺体にされたのは消えても騒ぎにならない貧民プレイヤーだろう。もしかしたら、家族や仲間の為に自分の命を売りに出したのかもしれない。だが、死の恐怖から逃れる為に、別の誰かが死んで遺体を偽るなど、アスナには受け入れられなかった。

 

「もっと単純に、組織的犯行ではなくて、死の恐怖から逃れたいと望んだプレイヤー同士が結託しただけ……とは考えられないかしら?」

 

「検死官が抱えてる借金は相当な額だ。犠牲者はいずれも上位プレイヤーだが富豪というわけではない。大ギルド所属の上位プレイヤーとは言い換えれば高給取りの会社員のようなものだ。資産家ではない。ギルドから支給された装備を売却すれば小金を作れただろうが、いずれも偽装工作の為に回収されている」

 

「偽装後の生活も考慮すれば、検死官に支払えるお金なんて知れてるわよね」

 

「生命保険にも加入していた犠牲者もいたので、受取人の金の動きも探ってこそみたが、不審点は見当たらなかった。大ギルドも馬鹿ではない。上位プレイヤーが次々に暗殺されたんだ。暗部を動かして裏取りくらいはしているだろう」

 

 何処から調べたのか、犠牲者の私財の明細を差し出され、アスナは渋い顔をした。

 犠牲者が死を偽装したのは状況証拠からも確率は高い。だが、同時に偽装したにしては噛み合わない点が多い。

 

「事件は快楽街で発生していたが、先の事件で警備が厳重となった今は鳴りを潜めるだろう。正直に言わせてもらえるならば、打つ手が無い」

 

 肩を竦めて八方塞がりだと告げるスミスに、アスナは溜め息で応える。

 大ギルドも教会も【首狩り】を追うなど二の次だ。上位プレイヤーの育成にはコストがかかるのは確かであるが、補填できないわけではない。

 

「せめて次の犠牲者の目星さえ付けば何とかなるんだけど……」

 

「共通点は『大ギルド所属の上位プレイヤー』だけだ。もしかしたら我々が認知していない犠牲者もいるのかもしれないがね」

 

 今ある情報と推理を協会に提出するだけでも評価は得られるだろう。だが、アスナとユイは教会の保護下にあらねば生きていけない身だ。アスナが正体を明かせるならば選択肢も増えるのであるが、現状では教会から少しでも価値を認められ、安全と稼ぎを得なければならない。

 万が一に備えて教会に把握されていない隠れ家も準備しなければならない。隠遁生活に備えた資金も確保していなければならない。アスナの装備は教会からの買い取りであるが、個人の武力を確保し続けるならば、装備の更新も怠ることはできない。

 

「ひとまず換金ルートから探ってみるとしようじゃないか。手がかりを残しているような間抜けの犯行とは思えない大胆さだがね」

 

 アスナ達が赴くのは裏市場だ。今では立体構造化し、貧富の差をそのまま示すように、上層、中層、下層、最下層と分けられている終わりつつある街であるが、原型を残す旧市街などの区画が存在するように、かつての地下ダンジョンもまた変わらず残っている。

 プレイヤーによる乱開発によって街とダンジョンを繋ぐ入口が継ぎ接ぎとなっており、またダンジョン表層も変化しているが、変わらず地下ダンジョンの核とも呼ぶべき深部は不変であり、何者も最奥に辿り着けていない。

 そうしたかつての原型を残す区画の1つが裏市場だ。DBO初期から中期にかけて、犯罪ギルドが幅を利かせて築いた巨大な地下街であり、盗品、危険性の高いドーピングアイテム、依存性がある麻薬アイテム、更には人身売買に至るまで、あらゆる悪徳が詰め込まれている。

 多くの犯罪ギルドが店舗を構えており、縄張り争いもしており、大ギルドも教会も裏市場に関してはアンタッチャブルを貫いている。

 嫌悪感を隠せないアスナであるが、スミス曰く、裏市場では多くの有用なアイテムや情報を仕入れられる。傭兵にとって切っても切り離せない場所だ。

 また裏市場は犯罪ギルドの縄張り争い……逆に言えば裏の秩序がある意味で快楽街以上に強固に築かれている。ルールさえ守り、強盗・詐欺・強姦などのリスクを無視すれば、そこまで危険ではないとの事だった。

 

(犯罪が横行していても『殺人』が少ない分だけ安全なんて……)

 

 まるでバザーのように、広げた風呂敷に並べられているのは危険な薬や怪しい素材、そして意外にも武具や防具も多い。

 盗品と一概に言ってもプレイヤーから強奪したものばかりではなく、ダンジョン・フィールドで死亡したプレイヤーの遺体から剥いだ商品も並んでいる。逆に言えば、プレイヤーを殺害して奪った商品も並べられている事も多々ある。

 DBOにおいて、遺品は回収者に権利がある。たとえば、傭兵は敵対者を殺害して装備・アイテムを奪い取って依頼を継続するなど珍しいことではないらしく、スミスも弾薬や爆弾を奪い取って依頼を達成した事は1度や2度では無いとの事だった。

 死亡したプレイヤーの遺体が残るようになってからは遺体・遺品回収業も本格化された。仲間・恋人・家族の遺体・遺品も回収出来ずに逃げ帰り、体勢を立て直すのに莫大なコストを要するのは中小ギルドの常だ。

 だが、遺体・遺品を回収して高値で売りつける、あるいは遺品を闇市で売り捌く為に、死亡率の高いダンジョン・フィールドに潜るプレイヤーも多く、そうしたプレイヤーはスカベンジャーと呼ばれており、強盗プレイヤーとは区別されている。

 死によって経済が回る。DBOにおいて命は軽いのか、あるいは元より命とはこの程度の重さだったのか。

 時代と地域によって命の重さは変わる。命の価値は平等ではない。どれだけ綺麗事を並べたところで、命の価値は主観と客観によって変動し、統一された評価など存在しない。

 自分にとって大切な人は、誰かにとって石ころ以下だ。

 死なないで欲しいと大切な人に願われた自分は、誰かにとって生きていようがいまいが問題にならない無色透明だ。

 命の優先順位を付けられない者は最も残酷で救いようがない愚者だ。

 

「……ふむ」

 

 いかなる効果があるのか、色彩豊かな壺を並べた露天商の前を通過したスミスが眉を顰めた。

 

「情報屋によれば、壺屋で青斑の壺を売値から27%値引き交渉をし、断られたら金蛇が描かれた黒壺を12%値引きで購入すれば、件の換金屋の場所と合言葉を得られる・らしいのだが……」

 

 スミスの指摘でアスナは思わず壺屋を振り返ろうとして、だが、些細なミスを犯せないと堪える。

 

「青斑の壺が無かったのね?」

 

「ああ。壺屋が出し忘れたという線も否定しきれないがね」

 

 人間だ。間違いや失敗があって当然である。だからこそ、スミスも判断を保留しているのだろう。だが、楽観視すべきではないのも事実だ。

 表だろうと裏だろうと腹は減る。盗品が並ぶ裏市場であろうと料理を提供する屋台が激戦を繰り広げる飲食エリアがあり、スミスは毒々しい紫のソースがたっぷりかかった魚肉の串焼きを買ってくる。

 簡素な木製の長テーブルには、ここが犯罪ギルドの縄張りであるはずなのに、和やかに談笑するプレイヤーで溢れている。彼らの多くは盗品や後ろ暗い情報を目当てに集まっているが、何を恥じるでもなく堂々としていた。

 アスナは事情が事情の為、常に顔を素顔を隠している。スミスもまたスミスも顔・名前共に広く知られた高名な傭兵だ。

 最も理想的な傭兵。大ギルド・サインズが人型最強ネームドと認定した【竜狩り】オーンスタインを事実上の単独討伐した男。大きすぎるネームバリューは安全を確保するのにも有効であるが、余計な警戒心も生む。故に彼もまた『仕事』であるからこそ容姿を隠すようにフード付きマントを羽織っている。

 

「アンナくんは『裏』を誤解しているな。確かに犯罪ギルドが取り仕切ってはいるが、DBOにおいて反社を取り締まる法律などない。『裏』が『表』に進出するのは大ギルドの沽券と面子に関わるので全力で潰すが、暮らす我々がどう利用するかは自由だ。名も知られていないプレイヤーがどれだけ裏市場を活用しようと誰も咎めんよ」

 

「でも、『犯罪』ギルドなんでしょ?」

 

「『罪』を定義する法律も法執行機関が無いのだから、犯罪ギルドなど、人々が印象で付けた名称だ」

 

 屁理屈ではないのだろう。アスナは周囲に充満する空気から実感する。

 最初の1人が誰かを殺した時、人々は殺人と罵ったのかもしれない。だが、捕まえる警察も、裁く為の裁判所も無いならば、罰を与えるのは誰なのか。

 正義を語る者が剣を振り上げた時、知恵ある者は叫ぶ。『それは私刑だ』と。

 

(アインクラッドとは違う。DBOは現実世界で機能した遵法意識と道徳観が麻痺……ううん、否定するように設計されている)

 

 たとえば、DBOでも人気の高いプレイヤーに【若狼】の異名を持つラジードという青年がいる。爽やかな容姿と明るく正義感の強い人柄から、太陽の狩猟団の顔の1人として、男女問わずに多くのファンを持つ。実力も高く、最近ではDBO最強プレイヤー談義にも名前が挙げられるようになった。

 アスナも遠目から見た限りであるが、人気なのも頷ける人物だった。裏表の無い、良い意味で嘘や腹芸ができない人物なのだろうと好意的に信頼できる魅力もあった。

 だが、彼の公開された功績を見れば分かるように、看過出来ない凶悪な犯罪ギルド、『テロリスト』と認定された組織の壊滅が挙げられる。そして、彼は明確に人の命を奪っている。

 仮に日本の法律が有効であるならば、彼は何の権限もない組織の命令に従って人命を奪った。ましてや、『テロリスト』認定された組織は、手段は間違ってるにしても、目的は大ギルドが敷く支配体制と攻略の事実上の独占の否定である。彼らを『テロリスト』として討つなど許されない。いずれも過剰防衛・私刑と断じられるだろう。

 だが、誰も疑念を持たない。アスナさえも否定できない。そもそもとして、法律が有効であるならば、アスナもまた銃刀法違反だ。

 ステータス、スキル、装備、モンスター……数えれば切りが無い『現実世界には無い要素』がある限り、既存の法律など無意味なのだ。

 個々の道徳心だけを頼りにして何とか秩序が機能していたSAOは、1万人超という『少人数』であり、なおかつゲーム設計そのものが秩序と道徳を保全し、なおかつ『現実世界に帰還する方法』が最初から公開され、何よりも『現実に肉体を持たないプレイヤー』などいなかった。

 だが、DBOは違う。既存の法律が機能しない環境は道徳を否定して欲望を優先するメリットを後押しする。暴力こそが血路を切り開いて栄光を手に入れる手段であると明確にし、『力』に裏打ちされなければ支配は成立しないと否応なく気付かされる。そして、横暴な支配者の下であろうとも秩序が構築された社会は安心すると人々に理解させる。

 混沌で生き抜けるのは一握りの強者だけなのだから。そして、アスナという個人は武力という意味で強者に位置するが、社会的地位は間違いなく弱者だ。ユイはどれだけ特許を持とうとも小さな子どもだ。

 

(でも、それでも、私は……)

 

「相変わらず、キミは納得できないようだな。『彼』と本当にそっくりだ。いや、ともすれば『彼』よりも強情だ」

 

 キリトの事だろう。アスナは心の内を見透かされ、スミスを思わず睨みそうになるが、それは馬鹿馬鹿しいくらいに幼稚だと自身を戒める。

 ユイという守るべき者が出来たからこそ、否応なく受け入れねばならない現実がある。アスナは不満も不安も呑み込むように串焼きを手に取り、丁寧に一切れずつ口に入れていく。

 

「ふむ、やはりキミは育ちが良さそうだ。ふとした瞬間に見せる気品や動作で、どのような教育を受けてきたのか分かるものだ。作法に厳しく、高水準の教育を幼少から施されたようだね」

 

「どんな生まれだろうと、どんな環境で育とうとも、人間は『今』で評価されるべきよ」

 

「詭弁だな。だが、『今』はそういうことにしておこう」

 

 癪に障る物言いであるが、突っかかるのも馬鹿らしいとアスナは吐き出しそうになった言葉を噛み潰す。

 

「それで、どうするの? 換金ルートに接触できないなら……」

 

「抜かりないさ。別の情報屋から換金を請け負った連中の居場所を手に入れた」

 

 スミスが串刺しを盛った紙皿の裏より正方形に畳まれた紙切れを取り出す。

 単なる腹拵えではない。串焼きをせっせと焼いて売り捌いているようにしか見えない男は、その実はスミスと繋がっている情報屋だったのだ。

 アスナが『アンナ』と名乗り、素顔を隠して我が身を偽るように、誰もが秘密を持つ。もしかせずとも、アスナの隣で豪快に炒飯を食む男も、後ろを通り過ぎた革装備の妙齢の女も、『アンナ』を内定する大ギルドや教会の暗部かもしれないのだ。

 

「警戒を怠るのは言語道断だが、疑心暗鬼もまた愚か極まりないぞ」

 

「……分かってるわ」

 

 何も変わらない。今までも、これからも、何も変わらない。アスナは深呼吸を1つ入れて平静を取り戻す。伊達に幾多の死線を潜り抜けていない。

 だが、とアスナは拭えない心の底から湧き出す恐怖心を意識する。

 生きるか死ぬかの戦場よりも遙かに安全が確保されているはずの、形だけでも秩序が人間社会が保たれている、今まさに自分がいるこの場所の方が……ともすれば現実世界の日本の方が……遙かに恐ろしいのだ。

 ああ、これが『弱さ』なのだ。アスナが恐れるのは戦場ではなく社会なのだ。密やかに、密やかに、密やかに、魂を腐らされていくという自覚があるからこそ、恐ろしいのだ。

 

「連中は隔日で『窓口』を移動している。『窓口』で合言葉を告げればアジトに案内してもらえるというわけだ。だが、どうやら明朝予定されていた『窓口』の場所と合言葉に関する情報の更新がなかったようだ」

 

「それって……」

 

「アジトの位置情報も買ってある。では、行くとしようか」

 

 最初からアジトの場所が割れているならば、わざわざ『窓口』を経由して接触しなくてもいいのではないか、とも思うところであるが、スミスとしてはあくまで穏便に済ませておきたかったのだろう。また、複数の情報屋を駆使して、情報の確度・深度をわざと散けさせているのだろう。

 最も理想的な傭兵とは、単純に戦闘能力だけで裏打ちされた評価では無いという事なのだろう。情報収集とそれを成す人脈の時点で、アスナはまだ土俵にも上がれていない。いや、素顔を隠し続ける彼女では絶対に到達できない。

 

(私が『アスナ』である事を隠し続ける限り、安全は担保されない。教会の仕事をどれだけ請け負って、利用価値があると評価を得られても、そんなの綱渡りに過ぎない……分かってるわ。それくらい自覚がある)

 

 だが、だからこそ、アスナにとって自分の正体を知るスミスは大きな利用価値がある。彼から利用価値と信用を手に入れることができれば、彼を通して『アンナ』としての人脈を手に入れられる。

 他にも手段として、自分の正体が露見する切っ掛けとなったグローリーもいるが、彼は良くも悪くも行動原理がアスナには理解しがたい人物だ。正直に言えば近寄りたくなかった。

 だが、単純な利用価値では、即効性が高く、場合によってはスミスよりも遙かに価値が高い人物とのパイプをアスナは有している。

 他でもないクゥリだ。DBOでも腫れ物どころか劇物扱いされているが、アスナがその気になれば彼から多くの情報や物資を低コストかつ低リスクで手に入られるだろう。理由は単純明快だ。彼は取引・交渉が大の苦手であり、なおかつ約束・契約には酷く律儀であるからだ。

 しかし、アスナにも譲れないものがある。彼女は見てしまった。アスナとキリトの再会させない為に、たとえ親友の心に大きな傷痕を残すことになろうとも、悲劇を止める為に、死体とも見間違えそうになる程に傷だらけになることを厭わなかった姿を見てしまった。

 たとえ、それが甘さと罵られることになろうとも、クゥリを利用してまで手に入れたいとは思わない。

 だが、とアスナは悲しみにも似た予感を覚える。追い詰められ、クゥリを利用する以外にユイを守れる手段がなくなった時、アスナは恩人よりも娘を選んでしまうのだろう。そして、それを知ったところで、クゥリは怒りも憎しみも覚えず、むしろアスナを讃えるような微笑みを浮かべるのだろう。

 そして、そんなイメージが容易く鮮明に描ける自分に自己嫌悪を隠せなかった。

 どれだけ取り繕ったところで、アスナは聖人ではない。万人に愛を注がない。貧民も富民も区別無く救う慈悲の手を持たない。

 だからこそ、『最悪』に行き着かない為に手を打ち続けねばならないのだ。1つでも多くの情報を……自分とユイを守る為の『武器』を手に入れねばならないのだ。

 裏市場から離れ、スミスが案内したのは倉庫街だ。クラウドアース系列の商業ギルド【フロック=クロック】が経営する貸倉庫街であり、DBOでも堂々の第1位のシェアを誇る。

 

「警備が厚かったり薄かったり……変な場所ね」

 

「フロック=クロックの経営方針だ。『秘密を持つならば中身は守らない』。預かる荷物を公開しないならば、フロック=クロック側で警備も行わない。警備は自主雇用だ。ここ最近は警備を専門とするギルドも乱立しているからな。心が折れてダンジョンに潜れなくなったドロップアウトは多いし、最初から最低限のレベルを手に入れたら警備職を目指すつもりだったプレイヤーは更に多い」

 

 この男からは気が滅入る話題に事欠かない。闇だらけで隠れてもいない、単なる事実に過ぎず、アスナも少なからずは把握しているのであるが、それでも耳に入れると重みが違うのだ。

 

「傭兵からすれば競合相手でしょ?」

 

「むしろ、仕事の種が増えて助かるがね。彼らがターゲットを守るから排除する為に私を雇い、また彼らでは守り切れないから私を雇う」

 

 捉え方次第では人でなしこの上ないのであるが、傭兵とは昨日まで談話していた同業者とも殺し合う事もある。ましてや、スミスは独立傭兵であり、専属傭兵のような組織によって対立が避けられた同業者はいない。同じ独立傭兵も、専属傭兵も、いつでも命を奪い合う対象になりかねない。

 故に雇用主に『何』を守らされているのか知らされてもいない警備ギルドが立ちはだかったところで、所詮は知らされていない下っ端に過ぎないと彼は排除するのだろう。

 そして、当然ながら警備ギルドにもヒエラルキーは存在するはずだ。成功して資本・戦力・評判を揃えた警備ギルドならば、相手を選んで仕事を請けることが出来るようになり、傭兵を差し向けられるような案件は限りなく避けられる。むしろ、根回しすることが出来る立場になる。

 逆に仕事を選べない新興や零細はもちろん、後ろ暗い仕事ばかり請けすぎて沼から抜け出せなくなった犯罪ギルド同然まで墜ちたならば、常に死のリスクが付き纏うのだ。

 フードで顔を隠しても感情が漏れ出てしまったのだろう。スミスは喉を鳴らして笑う。

 

「安心したまえ。傭兵を動かすには大金が要る。わざわざ小物の競り合いに派遣されることはない。傭兵が派遣されるとは、大事になる前の火消しか、もしくは大事になってしまったからこその『隠滅』だ。後者はどちらかと言えば傭兵でも裏の案件でね。『広告塔』を兼ねた、スポットライトを浴びる傭兵にはお鉢が回ってこない汚れ仕事だ」

 

 暗にキリトには縁遠いと安心させられ、だが同時に白の傭兵を想起させられたアスナは思わず口を開く。

 

「汚れ仕事ばかりする傭兵はどうなるの?」

 

「いずれは切り捨てられる。傭兵は武力があっても、財力も権力もない。あくまで我々は大組織が興じる遊戯盤の駒だ。最近は大ギルド以外もそれなりの規模さえあれば、質はともかく暗部を保有している。わざわざ傭兵を使わずとも片付けられる案件は増えた。傭兵を使って始末する事に意味がある仕事とは、つまりそういう事なのだよ」

 

 依頼主が公開されない裏仕事。サインズというほぼ公的組織を通じて依頼するからこそ、逆に決して依頼主まで遡らせる決定的な証拠を掴ませない。暗部以上に辿られる心配は無く、なおかつ露見しても傭兵という個人が真っ先に闇を被ってくれる。

 そして、不都合な事実を知りすぎた傭兵は口封じされる。

 

「最近だと、【暗殺者】の異名を持ったマルドロか。汚れ仕事を引き受けすぎて、まともな仕事はなく、暗部の成熟と共に用済みとなり、いずれは始末される側になっていた。私の掴んだ情報では、最後に誰の手を取ったか知らないが、大博打に出て死んだ」

 

「……止めればいいじゃない。どうして、わざわざ傭兵を続けるの? 傭兵としてではなく、ちゃんとしたギルドに所属できれば、そんな真似しなくていいじゃない!」

 

 思わず語尾を強めてしまったアスナは、自分に感情的になるなと命じるも、堪えきることができなかった。アスナの声を聞き、倉庫街の利用客の注目が集まる。

 

「お客様、どうかなされましたか?」

 

 首から下げた身分証にはフロック=クロックのエンブレム……時計を抱えた舌を出したカエルが描かれている。

 

「気にしないでくれ。私が利用料を支払うと言ったら臍を曲げてしまったんだ。男の見栄が癪に障ってしまったようでね」

 

「ああ、なるほど! レンタル料金のトラブルは倉庫街の常ですからね。分かりますよ、お客様。フロック=クロックのモットーは『秘密を持つならば中身は守らない』ですが、個人・零細ギルド向けサイズならば、24時間警備サービス込みとなっております。見たところ……卑しい話ですが、懐も温かいご様子。1つを割り勘するよりも、いっそプライバシーも兼ねて2つ借りられては?」

 

「考えておこう」

 

 商魂逞しく営業を忘れない従業員に、手短に社交辞令を述べたスミスはアスナを引き連れて歩き始める。

 倉庫街は多くのプレイヤーが利用している。マイホームに装備・アイテムを相当数ストックするにはそれなりのコストをかけねばなら無いからだ。

 

「……ごめんなさい」

 

「謝らなくていい。私もお喋りが過ぎた。いかんな。『彼』やキミみたいな若者といると、必要も無い事まであれこれ教えたくなってしまう。私にも悪い癖ができたものだ」

 

「感謝してるわ。私は……認めたくないくらいに知らない事、気付きたくなかった事、受け入れられない事が多いって、貴方と話していると突きつけられるの。守りたいものがあるのに、優先順位だって分かってるのに、それでも……」

 

「やはりキミは青い。だが、尊い。それでいい。諦めなければならないと分かっていても、諦めたくないという気持ちを持ち続ける。選択と結果はどうであれ、それもまたキミの美点だ。たとえ、それがキミの心を余計に苦しめる腫瘍になるとしても」

 

 美点であり、同時に弱点であると明確に指摘するスミスは、だが何処か嬉しそうに見えたのは気のせいではないのだろう。

 この男は皮肉屋であり、冷笑家であり、だが情熱とも違う温かな何かを確かに持っている。だからこそ、アスナは苦手意識を持ちながらも語らう事に意味と価値を見出せている。

 

「先程の質問だが、傭兵なんて人格・性格に致命的な問題を抱えた、組織に属せない社会不適合者ばかりだ。多額の報酬に釣られて傭兵になっても、篩にかけられてしまえば、精神が病んで辞める」

 

「…………」

 

「私も組織では生きられない人間だ。いや、もう組織では生きたくないのだろうな。飼い殺しにされた方が、怠惰に生き延びられると分かっていても……な」

 

 スミスという人間の確かな本心を垣間見せた悔恨と矜持。大人の余裕を絶やさない男がふと見せる、まるで冬の寒風のような乾いた寂しさは、普段の度量の広さとは相反し、無意識に母性がざわつく。

 

(この人がなんでモテるのか、分かった気がするわ)

 

 傭兵という実力と小金持ちというDBOの優良物件。思わず甘えたくなってしまう大人の風格。皮肉屋にして冷笑家でありながら、微かに見せる情が風味を利かせたハードボイルド。そして、弱さや脆さとも違う、本人が既に乗り越えてしまっているからこそ感じさせる寂しさ。打算と女心を揺れ動かし、母性を刺激してしまうのだ。

 だが、だからこそアスナは思う。この男すらも胃を痛める、彼女の正体を見破ったグローリーという予測不能な大馬鹿がどれだけ規格外なのかを。

 

「さて、どうやらここのようだな。やはり警備は無し……か」

 

 スミスが足を止めたのは、縦横10メートル、高さ6メートル程度の角張った金属製の倉庫が等間隔で並び、それぞれが金網で仕切られた区画だ。これまでは大型の建物に、個人・零細ギルド向けの貸倉庫が詰め込まれた区画だったが、ここからは警備に関して完全自己責任となる。

 故に他の倉庫の敷地に侵入すれば警備員に捕縛されるか、最悪の場合は問答無用で殺害されるだろう。ただし、スミスとアスナならば生半可な相手では徒手格闘でも制圧できるので、その気になれば侵入し放題である。

 

「貸倉庫がアジトなんて、大胆ね」

 

「そうでもない。この前も盗賊ギルドが盗品の保管に堂々と使っていて、皆殺しになったばかりだ」

 

「…………」

 

「遵法意識も道徳規範も無い。金を支払えば誰にでも貸す。犯罪ギルドだろうと何だろうとな。そうしてシェアを拡大して巨万の富を築き、DBOでも強大な影響力を手に入れた。ちなみにフロック=クロックが支持しているのは、現クラウドアース議長のベルベットだ」

 

 頭が痛い。これが政治なのは分かっているが、目眩を覚えるのは仕方がないだろう。アスナも政治を知り、また扱う側の人間であるが、それでも感情として受け入れられるかは別なのだ。

 腫瘍と評したスミスは的確だ。この調子で一々真っ正面から受け止めてしまっていては、いずれ心を病むことになるだろう。そして、今のアスナにとって、心の拠り所はユイであるが、心を癒せる相手はいない。

 会いたい。キリト君に会いたい。アスナは思わず強く願ってしまい、何を馬鹿なと己を恥じる。それこそが『弱さ』だと己を罵る。

 

「ふむ……鍵はかかっているな。窓には鉄格子。これでは入れないが……仕方あるまい」

 

 スミスは壁に金属製の小箱を設置すると距離を取って手元のボタンを押す。小さな爆発が起きて液体が放出され、壁の1部が溶解する。泡立つ大きな音が立っているが、左右の倉庫の警備員は見向きもしない。

 職務範囲外。契約していない倉庫がどうなろうとも知った事ではない。正義感を振りかざしても損しかない。故に動く道理もない。理屈は分かっても、無反応を装える彼らに、アスナは思わず頬を引き攣らせた。

 

「私の常識……いつになったら更新されるのかしらね」

 

「大事にしたまえ。今のキミは実に『まとも』だ」

 

 金属製の横開きのドアをスライドさせ、倉庫内に踏み込んだスミスの後に続いたアスナは突然の異臭に右手で鼻と口を押さえる。

 

「『窓口』と合言葉の更新が無く、警備は不在で、警報装置は切られていた。まぁ、『皆殺し』が妥当だと思っていたが、遺体を処分していないとはな。冬場で助かった。腐敗は抑えられている」

 

 倉庫内には男女合わせて20人を超えるだろう遺体が倒れ伏していた。

 常に複数人が生活していたのだろう。小型発電機、冷蔵庫、簡素であるがシャワールームも設けてある。テーブルには血飛沫を浴びたトランプが無造作に散らばっており、空の酒瓶が転がり、ゴミ箱には残飯が詰め込まれている。

 金属製の棚には換金性の高いアイテムがずらりと並んでいる。物取りではない。アスナは必死に冷静を努めて遺体を直視しようと気張る傍らで、スミスはフードを脱ぐと煙草を咥えてライターで点火する。

 これだけの死体を前に喫煙!? 信じられないアスナとは違い、この程度の遺体は日常茶飯事だとばかりに、床を染める乾いた血を指で拭う。

 

「正確な死亡推定時刻まではさすがに専門外で割り出せないが、殺されたのは昨夜。ブレーカーと発電機が破壊され、突然の暗闇に混乱している内に……といったところか」

 

「遺体は……うっ! く、首が無いわ。傷口はとても綺麗……鋭利な刃物で切断されたみたい」

 

「そのようだな。この切断面から察するに、高斬撃属性によるものだ。傷口の状態から基本属性は含まれていない。特殊属性となると検視の専門家が必要になるが、大よそ【首刈り】による犯行と共通点が確認できる。さて……」

 

 顎を撫でたスミスは眉を顰める。【首刈り】と共犯だろう換金組織が同様の手口で殺されたのだ。疑念も当然である。

 

「雑だ。【首刈り】はどうしてわざわざ自分の手口だと証拠を残した? 状況を見る限り、抵抗させる余地もなく殺し尽くした。これだけの人数を一方的に短時間で殺害したのは間違いない。凄腕だ。近接暗殺に限定すれば私以上……クゥリ君に匹敵する技量がある」

 

「さらりとクゥリ君を物差しに使わないでくれる?」

 

「事実だ。銃火器を用いたならば私も負けていないが、近接戦に限定した暗殺ならば、私よりもクゥリ君が上だ。合計26人を、恐らくは10秒以内に皆殺し……それも全員が首以外に外傷はない。彼らのレベルは不明だが、即死させる高威力の斬撃を的確に頸部に、それも暗闇で短時間の間に入れ続ける芸当……私が知る限り、彼以外には不可能だ」

 

 

 アスナが思い返したのは、つい先程の傭兵が汚れ仕事を行うという話題だ。昨夜、この場で白の傭兵が殺戮を繰り広げる光景を想像して、否定できない自分に吐き気を催す。

 

「いや、彼ではない。高級娼婦スイレンの護衛依頼中だと聞いている。それに先の貧民街の壊滅に深く関与した彼を動かすのはリスクが大きい。それに彼にしては仕事が綺麗すぎる」

 

「これの何処が『綺麗』なの?」

 

「……キミはクゥリ君に幾ら好意的だから言葉を選びたいが、彼の暗殺はプロフェッショナルとは言い難いものがある。まるで死にゆく者達の心を試すように、恐怖を刻み込んで殺す。照明を落としてから闇討ちなどしない。頸部切断と短時間を両立させた上で、彼らを恐怖で心を破壊し尽くして殺す」

 

「そんな事……!」

 

「聞いた事はないかね? 彼に殺された者の顔は一様に恐怖で人相が歪んでしまっている……とね」

 

 否定しようとしたアスナが思い出したのは、彼とDBOで……改変アルヴヘイムで初めて遭遇した時の事だ。

 約束の塔の頂上でアスナを殺そうとしたクゥリは、彼女にこれ以上と無いほどの恐怖を植え付けた。寸前で思い止まり、アスナを生かす方針に切り替えたようだったが、あの時に味わった恐怖は今もアスナから拭い切れていない。

 それでも! アスナはあの時味わった恐怖よりも、SAOで彼と繰り広げた鬼ごっこを、傷だらけになってもアスナを生かす形でキリトの悲劇を止めようとした姿を、DBOでの彼女をサポートしてくれた献身を、何よりも信じたいと願う。

 

「たとえ、貴方が言うクゥリ君が『事実』だとしても……それでも……私は彼の事を……そんなバケモノみたいに言って欲しくないの」

 

「随分と肩入れするな。余りオススメしないぞ。死天使など愚者の信仰だが、彼は常に厄災に巻き込まれるタイプだ。彼自身は嵐に耐えられ、逆に喰らい尽くすとしても、傍にいる者はただでは済まない」

 

「そうね。そうだと思う。でも……放っておけないの」

 

 アスナ自身も分からない。

 断じて女として惹かれているわけではない。友情ともまた違うだろう。仲間意識とも異なる。

 鬼ごっこをしていた頃に感じた、まるで追いかけてもらって嬉しいかのような背中。

 キリトの悲劇を止める為に、傷つき倒れそうになった我が身をまるで配慮しない、死ぬまで止まらないかのような危うさ。

 単純に優しさとは言い難い、世話焼きでありながらも相手を自分から突き放そうとする……寂しさを浸した眼。

 

「詳しくは言えないけど、私にとってクゥリ君は……危なっかしくて見ていられない……弟みたいな存在なの」

 

「妹と訂正しなくていいのかね?」

 

「真面目な話で茶々入れないで。確かに性別が分からなくなる時はあるし、今でも本当は女の子なんじゃないかって疑ってるけど、ともかく私はクゥリ君を……信じてあげたいの。彼は恐怖『だけ』をもたらす『バケモノ』なんかじゃない。誰かが信じてあげないと、彼が忘れないように言い続けてあげないと、本当に『皆に望まれたバケモノ』になってしまいそうな気がするの」

 

 ああ、これだ。言葉にすることでようやく気づけた。アスナが漠然とクゥリに抱き続けていた不安はこれだったのだ。

 アインクラッドで初対面して逃げられた時、追いついて、手を伸ばして、後ろから抱きしめてあげなければ、何処か遠くに行ってしまいそうだった。

 大丈夫。私は『ここ』にいるよ。そう言い聞かせてあげなければいけなかった。

 不思議と確信にも近しい後悔があった。あの日、あの時、アインクラッドでクゥリとの鬼ごっこを制していれば、大きな何かが変わった気がするのだ。

 

「誤解しないでもらいたいが、私も彼を『バケモノ』と評しているわけではない。正真正銘の『イレギュラー』だとは確信しているがね。もしかせずとも彼こそ、サーダナが提唱した……」

 

 瞬間、スミスの目に冷徹な光が宿る。クゥリを殺すべきか否か、一切の感情を排した損得勘定だけで判別する眼だ。背筋が凍ったアスナに、スミスは悟られたと気付いたように冷笑する。

 

「殺しはしないさ。『今』ならば殺しきれる。だが、『今』以上に成長した場合、私でも『賭け』に出なければ殺しきれまい」

 

 DBOにおいて、クゥリを確実に殺せると言い切れる者がどれだけいるだろうか。ラストサンクチュアリ壊滅戦以前であったならば、残虐性だけが取り上げられる、実力は傭兵でも並か高くてもトップ勢に数歩劣るという評価だったが、今や誰も彼もが人の形をした厄災のような扱いである。

 アスナの目を見て、大口を叩いているわけではないとばかりに、忌々しいまでに余裕を見せた歪な笑みをスミスは浮かべる。この男にはクゥリを必殺に至らしめる策と準備が整えられているという事だろう。

 だが、同時にスミスでも必殺の域は現状が限界であり、クゥリが更なる『力』を見出した時、この男でも博打に出なければ勝てないとも示していた。

 殺せる内に殺す。短い付き合いであるが、スミスはリスクマネジメントを欠かさない人物でもあるとアスナは理解している。危険視するクゥリを野放しにするだろうかと危ぶむ。

 

「警戒しなくても、私はかつて『殺さない』と判断した。仕事と正当防衛『以外』ではね。自分の選択……責任は負うつもりだ」

 

「本当に? スミスさんを信じていいのね?」

 

「信じる信じないは自由だが、私は選択の責任を放棄するつもりはない」

 

 吸いきった煙草を、テーブルに置いてある血が溜まった金属製の灰皿に放り捨て、スミスは肩を竦める。

 

「しかし、この期に及んで彼の心配とは……やはり似たもの同士というわけか。キリト君とキミは惹かれるべくして惹かれたというわけだな。胸の内に譲れぬ同じ志があり、だが己では埋められない足りぬモノを互いに求める。理想的な関係だろう。故にキミの欠落は彼を狂わせた」

 

「…………」

 

「キミの死の責任と罪を問うてるわけではない。背負うべき罪も、受けるべき罰も、全てはキリト君だけのものだ」

 

「それでも、私は死ぬべきじゃなかった。キリト君のことは思い出せなくても『分かる』。彼はきっと……私の死を……正しく受け止めきれなかったはず。そんな『強さ』を持っている人なら、私はきっと……こんなにも好きにならなかったはずだから」

 

 皮肉にも自信を持って告げられるのは、キリトの相棒を務めたというクゥリを徐々に、より深く知る機会が増えたからだ。

 アスナも『強さ』を求めた。自分の『弱さ』に負けない為に戦い続け、その中で『力』を手に入れ、『強さ』を育てた。

 だが、クゥリは『強すぎる』のだろう。決して心折れることなく、故に心身がどれだけ傷つこうとも止まらず、親類友人伴侶全てが死に絶え、世界の滅びが決定づけられた袋小路の地獄であろうとも戦い続け、運命という神すらも食い破るのだろう。

 自分がおぞましく感じてしまうまでに、アスナは悟ってしまった。自己嫌悪を抱く程に。

 だからこそ、気付けたのだ。決して心折れずとも、傷が癒えることなく進み続けるならば、傷口は膿み、零れる血は毒となって世界を蝕むのだろう。誰もが死を望めば望む程に傷つければ傷つける程に、毒の血は際限なく世界を染め上げるのだ。

 それは滅びの予感。『誰か』がそうなる前に止めねばならない。問題は『止め方』だ。アスナは大多数が望む最も安易な手段を否定したいだけだ。また、安易な手段を選んで成就できるとも思えないという根拠のない焦燥もあった。

 

「さて、『無駄話』はこれくらいにしよう。我々もいつまでも事件現場に居座るわけにもいかない。キミの名義で教会の連中を寄越してもらえると助かる。これはどうやら私が思っていた以上の面倒事だからね。こう見えて、私の評判も着々とまずい方向に転がっている。世間では最も理想的な傭兵などと称されているが、些か『力』を見せすぎてしまってね。大ギルドの上層部を中心に、徐々に危険視する声も大きくなっているからな」

 

「スミスさんが? 危険視ってどういう――」

 

「それが私の罪であり、いずれ下される罰だ。それまでに身辺整理を済ませて、なるべく罰が周囲に害を及ぼさないようにしたいのだがね」

 

 スミスは新しい煙草を咥えて火を点けると、たっぷり肺を汚すように吸う。

 

「だが、生憎と政治も経済も専門外だ。独り身の世渡りには慣れていているが、過ぎたものを背負いすぎた」

 

「貴方の口から謙遜が出るとは思わなかったわ」

 

「事実だからね。私なんて、キミよりも少しばかり人間の汚点を見過ぎて、すっかり性根が捻くれてしまっただけだ。弛まぬ知識と経験の集積によって、キミは私よりも秀でた政治力と見識を手に入れて、私を老害だと蔑む日が来るだろうさ」

 

 だが、それは1、2年先の話ではなく、より時間をかけてアスナが辿り着いた境地で下すべき審判の日だ。スミスはそう言いたいからこそ、アスナを再三に亘って若い、青い、未熟と告げるのだろう。

 逆に言えば、家柄、教育、実践の三拍子が揃っているアスナでも、無策で踏み込めば瞬きすら許されずに食い尽くされる伏魔殿があるのだ。それこそがDBOの支配層が繰り広げる政争であり、経済の最前線である。

 どれだけ知識と経験があろうとも所詮は一兵卒に過ぎないという立ち位置のスミス。

 ユイの居場所の為に戦う決意をしながらも、DBOで暮らす人々に意識改革を求めているアスナ。

 根本においてスミスは何処までも忠実に『戦士』であり、アスナが目指す行き先は『政治家』なのだろう。

 だが、『今』のアスナには剣を捨てられない。戦場に背を向けて、舌戦と策謀を張り巡らせるテーブルに歩めない。それこそが若さであり、またアスナにとって『今』だからこそ不可欠な経験にして未来の武器となるからだ。

 

「やはりキミは頭が回る」

 

 アスナの一瞬の内に駆け巡った思考を読み取ったように、スミスは酷薄に、皮肉を潜ませて笑む。だが、同時に確かな期待と乾いた温もりも同居していて、不思議と不快感はなかった。

 

「以前に評した通り、キミはより多くの『誰か』を救える人間だ。だからこそ忘れるな。キミが救えずに切り捨てねばならなくなった時、キミ以外の『誰か』が手を貸してくれるならば、キミには救えずとも、『誰か』が代わりに救ってくれるかもしれない。そして、その時が来たならば恥も外聞も無く頼れ。迷惑をかけろ。後で利子をつけて返せるだけの才覚と能力がキミにはある」

 

「……私も前に言ったけど、本当に『先生』みたい。そんなにも私を……ううん、『私達』を心配してくれるなんて、やっぱり貴方は悪い人じゃない。良い人でもないのでしょうけどね」

 

 最後の付け足しは満足に至るものだったのか、スミスは喉だけ鳴らして笑った。

 その後、アスナの連絡によって教会より教会剣が到着し、現場検証が始まる。どうやらリアル職で警察や法務関係に携わったプレイヤーを教会は積極的に人材雇用しているらしく、DBOのシステムに合わせた道具・薬品が使用される。

 件の貧民街大被害と治安維持、更にはクリスマスに向けた準備で教会のキャパシティは完全にオーバーしているはずであるが、わざわざエドガーが直に派遣を要請してくれたらしく、明らかに睡眠不足の隈を刻んだ目を隠す眼鏡を鈍く光らせながら、肩や頭に積もった雪を払い除けもせずに担当者の男は報告を述べる。

 

「死亡推定時刻は昨日の22時から24時。お見立ての通り、抵抗する間もなく殺害されていますね。倉庫の配電盤と持ち込みの発電機の両方が破壊されている事から、内情に疎い外部の犯行で間違いありません」

 

「どういうこと?」

 

「発電機からは照明器具に配電されていませんでした。闇討ちするならば発電機まで破壊する必要はありません」

 

 むしろ、発電機を破壊する分だけのタイムロスが生じてしまう。担当者の見解は間違いないだろう。スミスは顎を撫でると眉を顰める。

 

「配電盤の位置は他の倉庫と同位置で間違いないか?」

 

「ええ。同一設計の量産モデルですからね。間取りから配電図に至るまで全く同じです」

 

「犯人は他の倉庫から配電盤の位置は掴めていた。でも、倉庫内に持ち込まれていた発電機からの電力供給についは無知だった。つまり、犯人はこの倉庫を根城にしていた換金グループとは無関係ってこと?」

 

「そうとも言い切れまい。単純に発電機からの配電を知らずにいただけとも考えられる」

 

 この倉庫で殺されたのが換金グループでも監禁ルートと金勘定を仕切る、言うなれば内政組であったならば、【首刈り】は実働担当の現場組だ。仲間内であっても、わざわざ発電機の配電まで知るはずもない。

 だが、仮にそうであるならば、余程にお粗末な計画だったか、あるいは緊急性を要する、もしくは衝動的な犯行だったのか、どれかになる。

 

「侵入経路は倉庫裏側の窓ですね。出入口は正面のドア1つですが、窓は鉄格子付きで縦35センチ、横120センチの窓が正面ドアを除く3方向の壁に備え付けられています。換気口も疑いましたが、人間が出入りできる大きさではないので除外しました。格子が外された痕跡を発見しました。ほぼ確定でしょう」

 

「警報器は作動しなかったの? 窓から侵入したら気付くはずよ」

 

「高熟練度の≪気配遮断≫と隠密ボーナスが高い装備ならば可能ですよ」

 

「昨夜は冷え込んでたわ。倉庫内にはストーブもある。窓が開けられたら冷気が流れ込むはず。たとえ、気配を悟られなくても、温度変化は誤魔化せない」

 

 アスナの鋭い指摘に、担当官も言葉が詰まる。だが、スミスは馬鹿馬鹿しいと嗤った。

 

「アンナ君、キミの悪い癖を指摘してあげよう。この世の圧倒的大多数の人間はキミほどに賢くないし、勘も鋭くなく、怠惰で、誘惑に弱い。特に組織として脆弱ならば尚更だ」

 

「……どういう事?」

 

「トランプ、酒瓶、積まれた本のほとんどがポルノ雑誌。彼らは警戒を完全に怠っていた。それこそ外に立つべき見張りさえも『寒いから』なんて呆れた理由で、倉庫内で暖を取っていたのだろうさ」

 

 そんな馬鹿な。開いた口が塞がらないアスナに、担当官が苦笑いする。

 

「でしょうね。彼らは少しばかり金儲けの手段を持ち合わせていただけで、組織としての統率も規律もない。暴力・知識量・人脈に秀でた『だけ』のリーダーに引っ張られるだけ。リーダーのトップダウンか行き当たりばったりの現場判断で、組織運営なんて考えてもいなかったしょう」

 

 倉庫内に残っていたのか、表紙が血で染まった帳簿を担当官から渡されたアスナが目にすれば、素人目の彼女でも分かる杜撰を通り過ごした内容だ。

 

「少なくとも彼らには簿記どころか家計簿という概念さえも無かったようですよ。こんなお粗末な帳簿……まぁ、『組織ごっこ』をしている連中からはよく見かけますが、ここまで酷いのは初めてだ」

 

「……吐き気がしてきたわ」

 

「ああ。確かにこれは想像以上だ」

 

 帳簿を覗き込んだスミスは眉間に皺を寄せる。彼もここまでとは思っていなかったのだろう。

 

「まだ推測の域ですが、彼らは典型的な寄せ集め……切り捨てられる前提で結成された、尻尾の先端ですよ。だから、わざわざ計画を練るまでもなく始末するのは理解できるのですが、それにしては手際と乖離しすぎている」

 

「だから外部の犯行か。何者かが【首刈り】の犯行と見せかけて皆殺しにした」

 

 だとするならば、今まさに運び出されていく遺体袋のどれかには本物の【首刈り】が詰められていたのかもしれない。考えすぎだと切り捨てられない直感がアスナには働いていた。

 大ギルド所属の上位プレイヤーばかりを狙った【首刈り】。

 被害者が殺害前に行った高額アイテムの贈与。

 換金組織の皆殺し。

 絶大な技量と相反した下調べ不足から推測される外部犯……【首刈り】騙り。

 

「我々は残された情報から彼らの売却ルートを洗います。倉庫内で確認されたアイテムには最大で50万コル相当の高額アイテムもありました。これだけを捌き、なおかつ換金の資金を持つとなると、相応のバックがいるのは間違いありません」

 

「裏市場には単純に流せる物量や品ではないとは思っていたが、やはりか」

 

「ええ。裏オークションも視野に入れないといけませんね。そうなると、大ギルドのお偉いさんや金持ちも関わってくるので、下手をしたら圧力が……っと、噂をすればクラウドアースのお出ましだ」

 

 担当官が眠気を堪えるように欠伸を噛み殺したのと同じタイミングで、酷く不機嫌な様子で20名を超える武装した兵士を連れた、黒髪を七三分けにした男が倉庫内に踏み込んでくる。

 

「教会剣の諸君、ご苦労だった。現場は我々クラウドアースが引き継ぐ。押収した証拠品と捜査資料を提出し、迅速な撤収をお願い申し上げよう」

 

 スーツの上から防寒コートを羽織った、歩き方1つで戦い慣れていないと分かる男からの、頼む態度ではない高圧的な要求にアスナは目に不快感を露骨に宿すが、素顔を隠すフードのせいで彼に届くことはない。

 

「襟のバッチ……なるほど。クラウドアースの治安維持管理官様が直々にお出ましとは、息は上がっていませんが、随分と駆け足で来られたようですね」

 

 担当官の挑発する物言いに、七三分けは表情1つ変えずに、背後の兵士たちを倉庫内に踏み入らせる。

 

「ここはフロック=クロックの経営敷地内だ。我々はフロック=クロックの正規の要請で捜査を委任されたが、見たところ諸君らは……ルールを知らない無知な愚者か、あるいは人間の高等な社会秩序を理解できぬ野良犬のようだ」

 

「許可は取っていますよ。エドガー神父からこの通り」

 

「教会といえども私有地に無断で踏み入って現場を仕切るなど横暴もいいところだ。非常事態ならば一定の理解を示すのは道理であるし、反対もしないが、今この状況が該当するとは思えんな」

 

 担当官が取り出した書類に目を通した七三分けは突き返す。

 その後は担当官と七三分けの言い争いが数分続き、やがてこの場は教会側が引き下がることになり、全ての捜査資料と証拠品を差し出す事になった。

 

「この事はエドガー神父に報告しておきます。とはいえ、ちょっと分が悪いですね。筋を通しているのはあっちですから」

 

「ごめんなさい。私がお願いしたせいで……」

 

「謝らないでください。連中は隠蔽するつもり満々でしょうからね。こりゃフロック=クロックもグルだった……なーんて妄想だと笑い飛ばせないかもしれません」

 

 現クラウドアース議長のベルベットにとって、フロック=クロックは強力な支援者だ。今回の【首刈り】騒動に噛んでいるならば、隠蔽に動いてもおかしくない。

 だが、仮にクラウドアースないしフロック=クロックが仕掛け人だとするならば、何にしても大組織が黒幕の割には換金組織が杜撰である。

 スミスが指摘した通り、アスナの視点で判別するからこその違和感なのか。判別材料はクラウドアースに持って行かれてしまった。アスナもスミスも手詰まりである。

 

「証拠も資料も全部持って行かれましたが、頭の中身までは奪えません。【首刈り】事件を追う手がかりになるかは分かりませんが、重要な情報が2つあります」

 

 倉庫街から1歩踏み出し、見送っていたクラウドアースの兵士達にひらひらと手を振った担当官は、スミスとアスナに視線を合わせずに口だけ動かして小声で告げる。

 

「1つ、事件後に何者かが侵入しています」

 

「ほう。どうして言い切れる?」

 

「足跡ですよ。あれだけの惨劇を起こした実行犯は血を踏んだ足跡さえも残していない。だが、そうとは知らない『誰か』が後から正面から無駄に痕跡を残さない見事な≪ピッキング≫で正面から侵入し、乾ききる前の血を踏みつける『ミス』を犯した。そうとしか思えない足跡でした」

 

「推測が混じっているが、信じるに値するな。犯人は完璧主義とは程遠いが、自身の腕に絶対の自信を持つ人物だ。そんなくだらないミスを許すとは思えない」

 

「もう1つは倉庫内に残っていたアイテムで、昨日の換金品の中で確認できなかったアイテムがありました。チェックはまだ1度しかしておらず、もしかしたら倉庫内の何処かに隠されていたのかも知れませんし、ブツがブツだけに連中が使ったかもしれませんが……」

 

 担当官の物言いからして消費アイテムなのだろう。担当官と別れの握手を交わしながら、アスナは教えられる。

 

「大ギルドと教会が大々的に禁止指定した麻薬アイテム……ヴェノム=ヒュドラの資金源にもなっていた甘蜜の水金だ。もう数少ないだろう高純度品だよ」

 

 確かに麻薬アイテムならば、規律も何もない連中ならば使っていてもおかしくないだろう。だが、これ以上は生産されない高純度品ともなれば途方もない価格となる。幾ら彼らでも一時の快楽よりも莫大な利益を優先するはずだとアスナは信じたかった。

 

「ふむ、甘蜜の水金か。後から侵入した輩が盗み出したか」

 

「それとも【首刈り】模倣犯か」

 

 2人の結論は出ている。闇討ちによる短時間の殺戮を成功させた人物がわざわざ甘蜜の水金だけ持ち去るという真似をするだろうか。狙いはそれだったとしても、後から悟られないように、より徹底的に現場を荒らしておくはずである。

 故に前者。後から侵入した人物は甘蜜の水金を目的として倉庫を訪れた。何処から仕入れたのか、あの倉庫にあると掴み、駆けつけたのだろう。そして、見張りがいない、明かりもないという状況に無人ではないかと疑い、鍵を≪ピッキング≫スキルで開き、踏み入って殺人現場を目撃した。

 所持も取引も禁じられている麻薬アイテムだ。目当てを得たならば、通報しようとは思うまい。その後は何食わぬ顔で施錠して立ち去ったのだろう。

 

「倉庫街には監視カメラもあるにはあるが、高い隠密ボーナスがあると映像もぼやけてしまう。看破するだけの性能を有した高性能品を、賃料も安い区画に設置はしていまい」

 

「遺体を検死すれば甘蜜の水金を使用したかどうかも分かったかもしれないけど、クラウドアースは開示しないでしょうね」

 

 教会を逸って呼んだのは失敗だったか。指示したのはスミスであるが、気付かなかったのはアスナも同じである。

 いや、この男がそんなケアレスミスを犯すだろうか? 先程の指摘の通りならばアスナの考えすぎかもしれないが、だがこの男は過小評価できる相手ではない。

 怪訝な眼差しが届いたのだろう。大通りに踏み入って人の往来に加わったタイミングでスミスが意地悪く口元を歪める。

 

「安心したまえ。クラウドアースに通じる情報屋にはメール済みだ。すぐにでも検死報告書も継続的な捜査情報も手に入る。単純に教会経由、クラウドアース経由よりも、1度かち合わせた後の方が動きは分かりやすい」

 

「……何処までが筋書きなの?」

 

「教会とクラウドアースが争うまで予定通りだ。問題は時間だよ。我々が踏み入ってから教会を呼ぶまで約5分。教会が到着まで約90分。クラウドアースが派遣した治安維持管理官付きは更に60分後。約2時間半といったところか。まぁ、あの担当官もクラウドアースの管理官も知らされていないだろうが、上では話し合いが付いていたはずだ」

 

「つまり、エドガー神父は最初からクラウドアースと争うのを前提に許可を出した。そういうことなの?」

 

「それ以外にないだろう。貧民街大被害の真相は不明だが、大ギルドと教会はちょっとした緊張関係にあるのは間違いないだろう。双方共に小さな軋轢でも防ぎたいはずだ」

 

「貧民街の件でリードしているのは教会側。だから、バランスを保つ為にも教会が折れた姿勢を見せた?」

 

「やはりキミは政治が分かる人間だな。上が暗室で協議したところで、下は意に介さずに感情で語る。打算も通じぬ不和はやがて大きな問題の予兆となる」

 

「戦争も遠因は政争でも原因は現場の暴走なんてよくある話よね」

 

「歴史を学んでいるようで何よりだ。大ギルドもそれを恐れている。ギルド間戦争が起こるとするならば、上が開戦の火蓋を切る号令を出すのではない。政治も経済も理解していない、感情のままに引き金を引いた名も無き誰かによって始まるだろうさ」

 

 上層部は取引と合議で済ますつもりでも、油に点火した下々の暴走は抑えきれず、組織の瓦解を防ぐ為に破滅の戦争へと乗り出していく。アスナには嫌になる程に歴史が証明していると目眩がした。

 

「何がどうなったのか知らないが、教会に対して3大ギルドは決して小さくない負債を背負わされた。それこそフロンティア・フィールドの開拓事業に支障を起こしかねず、陣営内の商業ギルドの発言力を高める事になりかねない程に収支バランスもくずれたる程にな。そうでなければ、あれだけの被害を前代未聞の3大ギルド協働の大支援で封じ込めなど出来んよ」

 

 大問題が問題になっていない程の、損得計算を度外視した支援活動と哀れな生贄を滅する『ヒーローショー』。世間をクリスマスムードに合わせて強引に沈黙させるには手腕だけではなく金も要るのだ。

 

「教会は『やり過ぎた』。何が教会のバランス感覚を失わせたのか知らないし、知りたくもないが、ともかくクラウドアースとの間に取引があったのだろう。今回の件は表向きでも教会が折れて、3大ギルドは教会に平身低頭しているわけではないという分かりやすい『証拠』が必要だった」

 

「……神父は良い人よ。頭も良い。でも、理解できない狂信者なのも確か。あり得ない話じゃないかもしれないわ」

 

「それに、今回の件はもしかせずとも布石になるかもしれないしな。支配層が目指すDBO社会の次のステップ。その為には……やれやれ、傭兵も無関係ではいられんな」

 

 この男には何処まで見えているのか。戦場と社会、両方の見識と経験が桁違いである。そして、この男でも見通せないDBO支配層という政治の暗闘は、正しく人間という知性を得た社会性生物の業そのものだろう。

 

「言ってるだろう? キミは青い。だからこそ成長できる。私程度が見破れる闇など、キミならばすぐにでも昼間のように見通せるようになるはずだ」

 

「……見えるようになって、私は『私』でいられるの? 私は『私』を認められるの?」

 

「さぁな。そんな弱音を真っ正面から受け止めてくれて、キミを守ってくれる人間さえいれば、少なくとも自分を見失わない道はあるだろう。私はごめんだがね」

 

 ハッキリとした物言いに、むしろアスナは救われた気分だった。

 この男はあれこれアスナに残酷なまでに多くを教えてくれる一方で、決してアスナの傍に立つ人間ではないと告げてくれている。自身の利害によっては容赦なく切り捨てるだろう。

 だからこそ、アスナにわざわざ言葉にして指摘してくれているのだ。自分の教えをどう活用するかは彼女次第なのだから。

 

「ありがとう」

 

 アスナから思わず零れた素直な謝辞に、スミスは初めて面食らったように目を見開いた。

 

「スミスさんは嫌がるだろうけど、私は心から貴方を『信じる』ことにしました。これからどんな協力も惜しまないつもり。約束するわ」

 

「ど、どういう風の吹き回しかね?」

 

「言葉の通りよ。もうスミスさんと裏の読み合いは止めにするの。貴方は自分が思ってる以上に、私を簡単には切り捨ててくれない人だって信じられたから」

 

「私にとって、より大きな利があるか、害が上回れば切り捨てる。それが分かっていてもかね?」

 

「ええ。貴方は損得勘定でまず判断するのでしょうけど、貴方がクゥリ君を『殺さない』と判断したように、貴方にも心があって、感情で時に動く。それって、とっても普通に人間じゃない。貴方はロボットじゃない。合理的判断だけを下さない。だったら、まずは私が心を開かないと……私から歩み寄らないと駄目だから」

 

 以前の……SAOログイン前の自分ならば、こんな選択はしなかった。アスナは言い切れる。

 確かにDBOは残酷なまでに死が蔓延し、狂気に満ち溢れて、人の業が渦巻いている。それはアスナに確かな成長をもたらしている。

 だが、DBOを渡り歩く為の心を鍛えてくれたのは、忘れてしまったキリトと過ごしたアインクラッドの日々なのだと断言できる。彼女にとって何よりも『強さ』の意味を教えてくれたのは、死と狂気に支配されたDBOではなく、何処か夢物語のような切なさが確かにあったSAOだった。

 たとえ、戦いの果てに迎えたのが死の結末だったとしても、自分の死後に如何なる地獄がアインクラッドを食い荒らしたとしても、決して否定できない『真実』なのだから。

 

「……やれやれ。キミや彼を前にしていると、自分はやはりおじさんなのだと思い知らされるよ」

 

「スミスさんだって若いわよ。体に心は引っ張られるって言うし、まずは髭を剃って若作りに励んだらどう?」

 

「年齢以上に若く見えてしまうのがコンプレックスでね。御免被るよ」

 

「いいじゃない。コンプレックスをどうやって克服するのか試してみるのも楽しいはず」

 

 フードで顔は見えずともアスナが悪戯っぽく笑っているのは感じ取れたのだろう。スミスは不機嫌に煙草を咥える。

 

「これだから若者は……。3日どころか3分で化けてしまう。手に負えんよ」

 

 この男が初めて心からアスナに白旗を揚げた。アスナは上機嫌に彼の口から煙草を奪い取る。

 

「それと、私が傍にいる時は歩き煙草禁止。言ったでしょ? 私、煙草が嫌いなの。吸うのは構わないけど、時と場所を考えて」

 

「キミは私の娘か。いや、確かにキミくらいの年齢の娘がいてもギリギリあり得る年齢なのだが……」

 

「あ、それもいいかもね、『パパ』♪」

 

「止めたまえ。キミの本名を大声で叫んでもいいんだぞ」

 

 本気で嫌がられ、アスナは悪戯が過ぎたと肩を竦める。

 だが、こうして冗談と悪戯が出来る程度にはスミスに心を許し、また彼のお陰で心に余裕を持たねばならないと意識を改めることができた。

 ユイを本気で守りたいならば、アスナが『アスナ』を見失い為にも、彼女には寄る辺となる者が必要なのだ。

 頭が疼く。記憶の穴が軋む。それこそがキリトなのだと魂が訴えているかのように。

 

「……ひとまず、甘蜜の金水を持ち去った者を追うとしよう」

 

 政治に振り回されてもやることは変わらない。スミスに首肯したアスナは次の手がかりを追う。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 DBO最古のプレイヤー経営のスイーツ専門店にして、彼が切り開いた荒野の後を続いた多くの挑戦者を今も置き去りにするのは、テツヤンの店。その名の通り、テツヤンという無表情の男が切り盛りする、DBO屈指の人気店だ。

 朝8時開店、閉店6時半。早ければ夜明け前の5時から客は並び、限定商品の争奪戦を繰り広げる。

 使われている素材にも技術にも妥協はなく、故に値段は相応であるが、テツヤンの方針で客ならば貧富の差無く対応し、たとえ店ごと買い取れる富豪であってもルール・マナー違反は許さない。

 絶大な人気と相反して、個人経営を貫き、小さくも落ち着いた雰囲気の店構えを、どれだけ周囲の環境が変わろうとも維持し続けている。

 ワンモアタイムが経営方針や看板娘のお陰で傭兵や関係者の憩いの場として暗黙の誓いで守られた最後の聖域であるならば、テツヤンの店は他の追随を許さないスイーツの鉄人の技量だけによってDBOの社会圧力をはね除けた壁無き不落の要塞である。

 テツヤン自身は真っ当な依頼であれば、大ギルドだろうと零細ギルドだろうとお料理教室からメニュー考案まで引き受ける。ならば彼は如何にして暴力が物を言うDBOにおいて、ワンモアタイムとも並ぶ立ち位置を、全く正反対のアプローチで獲得したのか。

 単純明快。テツヤンが作るスイーツの次元は文字通り異なるからだ。DBOにおいてオーパーツ級。下手をせずとも、グリムロックなどのHENTAIを上回る規格外だからだ。

 テツヤンの何が規格外って? まだろくに食材の発見も生産も配合もできていなくて、器具も調味料もまともなものが調達できなかった、どれだけ金を積んでも大雑把な味付けの食べ物以外はまともに食べられた時期に、駅前一等地で構える店で提供されるような、ガイドブックでは真っ先に紹介され、新メニューの度にSNS拡散不可避でお祭り騒ぎになるようなスイーツを平然と作り上げちゃった事なんだよ!

 甘くもしつこくなく、まるで雲を食べてしまったかのようなふわふわ生クリーム。

 どろりと舌を蹂躙しつつも、水を飲ませるような暴力的な圧力はなく、脳まで溶かすようなチョコレートソース。

 一口で分かる、熟練にして天才だけが行き着ける境地だと食欲が殴りつけられるシナモン。

 どうせ洋菓子だけだろと嘲っていた愚者の群れを土下座させて、腹出し屈服からの土下座リターンをさせた、古きに忠実で新たな高みに到達した和菓子ラインナップ。

 へっ! 俺は甘いものに興味なんてない辛いの大好きっ子! え? 柿ピー? 激辛チップスまで? 実は全てテツヤンが考案していた? おい、コイツをDBOの至宝に認定しろ。今すぐだ!

 テツヤン。それはある意味で、大ギルドも、教会も、HENTAIも、善人も悪人も、裏も表も関係なく、彼を失ったら『食』という究極の娯楽を失うという『恐怖』と魅了されたプレイヤーの『崇拝』によって、本人の意図せぬ護身が完成しているプレイヤーである。

 

「だから、思うんです。彼はやりたい事をやっているだけなのに、口にはしないけど迷惑しているのでは……と」

 

「リクって面倒臭い思考してるよね。疲れない?」

 

 アナタだけには言われたくない。一心不乱でテツヤンの店でも店内食限定メニューである3段ケーキを1人で頬張るスイレンに思わず真顔になってしまった。

 3段ケーキは、1段目がショートケーキ、2段目がラズベリーケーキ、3段目がチョコレートケーキとなっている。8センチ、7センチ、6センチと大きさも異なっており、一見すればアンバランスなのであるが、各層で食べても美味しい。全ての層を纏めて食べてもバランスが崩れることなく絶品という、もう訳が分からない奇跡の産物……らしい。

 なにせオレは食べていない。もとい食べたところで味はしない。なのでスイレンがご満悦に味わう姿を見ながら、味もしない珈琲を飲む以外にやる事はない。

 スイレン待望の外出日。今日はかねてより彼女が希望していた『死ぬ前にやりたい事リスト』の消化である。

 もちろん大ギルドの動きを探ることも予定に入っているが、こうして連れ出してみれば、やはり彼女のストレスも限界に近かったのだろうと改めて分かり、判断には間違いなかったと確信する。

 護衛対象が缶詰のストレスに我慢しきれずに暴走して……からの依頼失敗は、傭兵にとっても珍しくないケースだ。そもそも護衛なんてマダム・リップスワンを除けば滅多にないオレにとって、あくまで他の傭兵の経験談なのだがな。

 

『マスター。0942、オールグリーン』

 

「0942報告了解。ミッションを続行する」

 

 左耳に装着したインカムから灰狼の報告が届き、ほとんど口内で完結する小声で首輪型マイクで伝える。

 灰狼は猫耳改め狼耳パーカーを被り、テツヤンの店を見張れるポジションで狙撃待機している。

 今のところは問題ない。だが、灰狼の索敵能力では大人数から尾行のプロを絞り出せるかは不安が残る。

 灰狼の索敵能力は言うなれば範囲限定レーダーだ。効果範囲内のアバターからオブジェクトに至るまで暴き出す。ただし、極度に高い隠密ボーナスの場合は精度が下がり、索敵対策が施された施設内などでは効果が下がる。

 故に高精度を保つ為には効果範囲を縮小しなければならず、実用性が狭まる。

 ならばどうするか。灰狼には広範囲モードで索敵を実施させ、情報を細かく精査するのではなく、俯瞰するように心がけさせた。

 たとえ隠密ボーナスが高かろうとも群衆に紛れれば、それが仇となって不自然な『空白』を生む。索敵対策が施された施設・車両ならば不透過性で警戒できる。

 個々の認知ではなく、全体像を把握する事によって違和感を拾い上げ、目標……スイレンの身辺安全を確保する。

 灰狼は優秀であり、訓練は積ませたが本格的には行えていない。これが実地初挑戦ともなれば緊張も合わさる。だからこそ、オレは灰狼に気負わぬように伝えた。あくまでスイレンの護衛はオレの役目であり、僅かでも違和感・危険を察知した場合は灰狼より連絡を受ける手筈になっている。

 要は怪しいと感じたら自分で考えず、真っ先に報告しろ。それだけである。だが、それだけで効果は十分のようだ。

 

(……ワタシの糸は護衛に不向きって分かってるわよね?)

 

 弛んで穴だらけの導きの糸を張り巡らせたヤツメ様の傍らで睨んでいる。

 うん、だよね。スイレンは範囲外だよね。むしろ、灰狼以上にオレの方が駄目駄目だよね。

 固定された隠れ家ならばともかくとして、こうも移動中となるとな。オレを避雷針代わりにして戦意、殺意、害意を向けられるという黄金方程式も通じにくい。

 故に灰狼のバックアップは正直有り難い。意識を研ぎ澄まし、ヤツメ様がやる気無く作った隙間を埋めるのに役立っている。

 とはいえ、スイレンの護衛として張り付くオレを除外して、スイレンだけを意識することが出来るかどうか。仮にスイレンだけを狙えても、ヤツメ様ならばオレが巻き込まれると嗅ぎつければ導きの糸で絡め取る。故に思っている程に穴はない……はず……だけど……なぁ?

 

(ねぇ、食べていい? 食べていい? 甘くて蕩けて悶えそうなお菓子、食べていい?)

 

 スイレンが頬張るケーキを? それともケーキを食すスイレンを? ああ、どちらもですか。ですよね、ヤツメ様。

 もう駄目だ。このヤツメ様、テツヤンの店に入ってから『食』しかまともな反応を見せない! どうやら店に充満する『食』の悦楽、欲望、執着が余程に刺激しまっているらしい。

 集中だ、集中。珈琲を飲む。うん、味しないね! 味覚が死んでるからね! 当然だよね! HAHAHA!

 

「……もう少し楽しい顔、して欲しいな。折角のデート……なんだから」

 

 しょぼりしたスイレンに、何がデートだと叫びたいが、彼女の中ではデートということになっているらしいので否定はしない。

 スイレンとの協議の末、服装に関しては隠れ家の時から変わらず地味服で継続になったが、演劇の『悪魔の騎士と盲目姫』だけはお高い劇場なので逆に目立つ為、足を運ぶ前に衣服を調達する事になっている。

 化粧込みとはいえ、『高級娼婦スイレン』としての容姿は知られている為に、オシャレはなるべく控えてほしかったのだが、彼女には秘策があるらしい。直前まで秘密とのことだが、効果が見込めないと判断したら却下してやる。

 

「はい、あーん♪」

 

 唐突にスイレンはケーキ3層をフォークで切り分けてオレに突き出す。

 

「…………」

 

「あーん♪」

 

「…………」

 

「あ、あーん……だよ?」

 

 最初は自信満々だったが、オレの無表情の眼差しに耐えられなくなったのか、最後は涙目になって声が萎む。そうだよ。それがアナタだよ。久々の外出だからって浮かれて調子に乗るな。

 ……って、オレは何をやっているのだ。スイレンが元気付いて自信を持つ分には構わないではないか。こうして彼女から行動を取れるようになったのは立派な進歩だ。

 だからと言って、オレが応じる義理など……ハッ!?

 全身に突き刺さるのは殺意? いや、なにこれ? 他のテーブルに腰掛ける女性の方々より厳しい視線が注がれているのですが。

 ちなみに今日のオレは普段の変装用の教会服ではない。単独ならば人避けと素性隠しで使えるのであるが、スイレン護衛となるとそうもいかない。

 髪は纏めてキャスケットに押し込み、スイレンの施した化粧でそばかすを付け、反射率の高いレンズを採用した分厚い眼鏡を装着し、左目にはシールタイプの医療用眼帯を装着している。服装は分厚い安物ジャケットに赤いマフラーで口元を隠す。もちろん店内でも珈琲を飲む時以外は緩めない。

 変装としは合格点であり、事実として店内客で疑う素振りはない。オレも変装には幾らかの自信があったのであるが、スイレンによるコーディネートと化粧の補正がかなり大きいようだ。

 

『【渡り鳥】さんが教えて貰った変装術と高級娼婦としてお客様を騙し続けた私の独学のコラボレーション。ふ、フヒ……これ、もしかせずともサイキョーかも……? フヒヒ!』

 

 洗面所で嬉々とオレに化粧を施すスイレンは実に狂気が垣間見えていたな。灰狼も怯えていたぞ。

 と、ともかくだ。ここでオレがあーんに応じなければ、この針の筵からは解放されないというわけだ。だが、別に応じるメリットがあるわけでもないしな。

 

「リクさん、私達はきっと傍目から見れば『カップル』なんだよ? きっと、そうに決まってるんだよ? だから、逆に躊躇ってると周りに怪しまれちゃう」

 

 そんな馬鹿な。周囲には確かに男女セットのお客様もいて、確かにいかにも恋人同士といった雰囲気だが、だからといって全員が全員そうではないだろう。性別の垣根無く入店できる門構えであるテツヤンの店だが、男は1人でスイーツ店に入れないという恥ずかしがりも必ずいるはずだ。仕方なく付き合ってくれた女友達と来ちゃったヤツもいるはずだ!

 

「あのね、この3段ケーキ……『カップル専用』なんだよ? 知らなかった?」

 

「…………」

 

「リクって凄く強いのに……ううん、きっと、だからこそ、こういう『普通』の部分は……とっても甘い。このケーキみたいに♪」

 

 こ、これが高級娼婦の実力……だと!? 完全に手玉に取られている!? してやったりと笑みを浮かべるスイレンに、オレは仕方なくフォークごと千切る勢いでケーキを喰らう。

 

「美味しい?」

 

「……ああ。チョコレートの甘さ、ラズベリーの甘酸っぱさ、でもショートケーキの上質な生クリームが最後は包み込んでくれる。まさに完成された味だ」

 

「へぇ、食レポとしては30点かな?」

 

 オレに何を期待しているのだ。ともかく食べたのだ。もう解放して欲しい。珈琲を飲んで気分を落ち着けようとすれば、スイレンは指を伸ばす。

 ああ、どうやら無理に食べて頬にクリームが付いてしまったようだ。自分で取れると払い除けようとするが、スイレンはまるですり抜けるように身を乗り出して、オレの頬を撫でるようにクリームを指で掬い取る。

 

 

 

 

「でも、『味覚がない』にしては頑張ったから、オマケで100点満点にしてあげる」

 

 

 

 

 地味な変装を台無しにするような、蠱惑の笑みと眼差し。オレだけに聞こえる彼女の囁きに動じる必要などない。

 

「……いつから気付いていたのですか?」

 

「お鍋を囲った時から。感想を訪ねた時の反応に『ラグ』がなかった。準備していた台詞パターンを、私の問いと表情に合わせて、タイミングを計算して言ってたんでしょ? 演技は下手だからこそ、反応を機械化しておく。食の感想なんて、余程に感想が欲しい相手に振る舞った手作り料理でもない限り、定型文と当たり障りのない反応で誤魔化せる。だって、余程に不味くない限り、演技なんて必要ない分野だから。相手は演技なんて想定しない」

 

 だが、スイレンの目は誤魔化しきれなかった。オレの反応がスイレンから読み取って最適化されたパターン化であると分析し、初日で見破っていたという事だ。

 やはり恐るべき観察眼だ。これがあったからこそ、スイレンは高級娼婦として不動の地位まで上り詰めたのだ。

 

「それで、わざわざこのタイミングを狙った理由はなんですか?」

 

「うーん、私からの挑戦状……かな」

 

「…………」

 

「深い意味で捉えないで。リクは私を守る。私はリクに守られながら『デート』する。それでいいの」

 

 意味が分からん。だが、オレの味覚がないなど知られたところでカバーできる。確かに周知されたら、より使いやすい味付き毒薬とか混入される事になるだろうが、それならそれで殺意たっぷりのお陰で察知できるからな。むしろ無意識でも隠すのが杜撰になるだろうし。

 

「さぁ、次はマユユンのライヴだよね。握手できたらいいなぁ……」

 

 スイレン。本当に彼女は何なんだ? 自信が無く内気な読書好きで、だが聖母の如き包容力で客を魅了し、突拍子もない行動を取れる自殺未遂者で、だが時折見せるのは活力を漲らせた夢見る少女そのもの。あと時々、謎の狂気を迸らせて嬉々とオレを弄くり回そうとする。

 そして、彼女は≪ボマー≫として大量殺人を為し遂げたリンネでもある。

 全てが乖離し、だが混在し、違和感を与えながらも不思議と矛盾の不快を与えない。

 名探偵が散らばるヒントから真犯人を探ろうとしたら、全てが別々の人間を犯人と示し、だが実は全員が同一人物であると種明かしされて、だが辻褄が合わず、しかし真実はそれしかないと推理の諦めを強要するような不可思議さだ。

 

「やっぱり女の子同士って最高だよねー」

 

「うんうん! 悶えるわー!」

 

「百合、いい」

 

「ああ、イイ」

 

 あと、なんか妙に盛り上がってるお姉様方や爽やかにパフェを嗜む野郎ズとか、意味不明な発言を連発している。テツヤンの店はいつから客層が変化したのだろうか。まぁ、記憶が灼けてるしな。気にしないでおこう。

 

「ねぇねぇ! マユユンのライブまで、どうする?」

 

「開場は11時30分なので、それまではスイに興味がありそうな書店で時間を潰す予定です。とはいえ、移動時間を除けば1時間ほどしかありませんが」

 

 さすがに都合良く大型ライヴがあるはずもなく、新規開店したバイキング・レストランにて、マユがミニライヴを開く予定があると情報を掴み、グリセルダさんに無理をしてもらってテーブルを確保したのだ。

 マユはDBOでも3本指に入る人気アイドルであり、同時にHENTAI鍛治屋の1人に数えられる。だが、彼女は自分の歌と踊りが必要ならば駆けつけるフットワークの軽さも持ち味であり、気分が乗れば彼女からすれば格落ちする舞台であっても、自分という存在で強引に価値を引き上げてしまう。

 皆に愛される『偶像』であろうとする。悪意ある暴言が聞こえるとしても、彼女は耳を貸さない。それ以上に彼女を愛する愛多数のファンの声を信じているのだろう。あるいは、心無い言葉で傷ついたとしても、癒やせる何かを持っているのかもしれない。

 

「警備……緩いね」

 

「DBOでも書店は数少なく、金銀宝石と同等かそれ以上の価値があるのですがね」

 

 オレ達が訪れた書店は【Book Castle】という、ロンドンの片隅から建物を輸送してきたかのような趣のある書店だ。緑色の塗装は程良く褪せて剥げ、ショーウィンドウには童話や神話の本が客寄せ用に飾られている。

 DBOにおいて現実世界由来の書籍は貴重品なのは言うまでも無いことであるが、それ以外のDBO産であってもやはり貴重である。

 書店では万以下の値札は付いていない。本にはバフ・デバフを発揮するものもあるからな。たとえば、【グウィン王とシース公爵~太陽の光と鱗のない白竜は如何にして外戚となったのか~】というサブタイトルで語りすぎの歴史書は、保有しているだけでMYSとINTが1ポイントだけ上昇する。

 1ポイントとはいえ、持っているだけで効果を発揮するのだ。わざわざブック・ホルスターを装備にオプションで付けて、持ち運ぶ魔法使い・アンバサは少なくないだろう。

 他にも色々とあるらしく、魔法・奇跡の触媒と並んで何かと使い道があるらしい。まぁ、オレは純粋に読み物か情報収集以外には使わないがな。わざわざ身につけても重りになるデメリットの方が大きすぎる。

 スイレンもまた本は本として価値を見出しているのだろう。彼女が手に取っているのは、放浪の騎士、病に冒された聖女、そして魔女を巡る物語だ。

 第3巻か。どうやら連載ものであるようだが、プレイヤーメイドではないだけに入手できるかどうかは探索とドロップ率次第だ。

 

「聖女を助けようとした騎士は、でも救えなかった。聖女しか見ていなかった騎士を堕落させようとした魔女は、でも聖女を失った騎士にいつしか執着していた。この物語の終わりはどうなると思う?」

 

「どうでしょうか。7巻でも完結していないようですし、3巻と序盤で聖女が亡くなれているところを見るに、騎士と魔女が単に結ばれてハッピーエンドだけはないでしょう」

 

「夢も救いも無いね。騎士は魔女に生きる意味を見出して、魔女は騎士を通して愛される事を知った。そんな誰も傷つかない結末で……私はいいと思う」

 

「騎士は魔女を想い、だからこそ苦しむ。聖女を救えなかった絶望が、聖女を忘れて魔女と生きる足枷なる。そんな気がします」

 

「聖女を愛したからこそ、魔女を愛することを選べるんだよ」

 

 妙に強弁するスイレンは、騎士と聖女と魔女の物語を気に入ったようだが、値段を見て青くなり、立ち読みすらも気分が悪くなったのか、罪悪感を打ち消すように安価の詩集を手に取った。これ、経費で落ちるだろうか。

 だが、忘れないでいただきたい。この書店は最も安価でも万超えである。

 

「ご、ごめん、なさい。そう、だよね。5万コルって……大金、だよね」

 

「あちらに比べれば0が2個少ない分、安く見えても仕方ありません」

 

 ちなみに騎士と聖女と魔女の物語は200万コルでございます。ユニークソウルの売却価格かな? いや、最近はもっと高いらしいけどさ。そんな高価な本を立ち読み可能なスタイルで販売するなと強く申し上げたい。

 

「これも素敵なんだよ。【銀騎士レドの詩】。彼は巨人と【岩のような】ハベルと友誼を交わし、幾つもの冒険を経て、素敵な詩を残してるの。これもその1冊。でも彼は最後に何処へ旅立ったのか、誰も知らないんだって」

 

「深淵に呑まれたのでは無いでしょうか」

 

「今日のリクって辛口?」

 

「英雄と呼ばれた方々の末路には色々と思うところがありまして、はい」

 

 キリトには悪いが、『英雄』なんて自他を不幸にする称号の代表例のようなものだ。

 英雄であろうとする者は道を踏み外し、英雄であれと望まれた者は道に縛られる。

 英雄と冠したが故に疎まれ、英雄と成り得たからこそ厄災に挑む。

 

「英雄譚なんて、大なり小なり悲劇で終わるものですよ」

 

「……そうかな。私は……ハッピーエンドが好き。どれだけ望まれなくても、批判されても、蔑まれても、英雄には幸せになる権利がある」

 

「……義務とは言わないのがスイの美徳ですね」

 

「『幸せになる』のは義務じゃないから。望むとも望まずとも、気付いたら手に入れてるものが『幸せ』なんだよ」

 

 銀騎士が遺した詩集を抱きしめたスイレンは、白濁の吐息を漏らしながら灰色の雪空を見上げる。降り止まぬ雪は聖夜に向けて街を白く染めて美しく彩るだろう。だが、その一方でもたらされる寒気は多くの貧民プレイヤーを凍死に追いやるだろう。

 

「『幸せになろう』って努力しても不幸になるだけ。人間は満足しない。すぐに慣れてしまう。美味しい料理、高値の衣服、絢爛な宝石、理想の伴侶……それらを目標にして手に入れたとしても、足りなくて、飢えて、乾いて、最後には全てを台無しにしてしまう」

 

 実感が伴っているとも、あるいは虚無に満ちた諦観とも捉えられるスイレンの物言いに、だが彼女の細やかな本心が混じっているような気がした。

 

「では、『幸せになる』にはどうすればいいのでしょうか?」

 

「なれないよ。今の自分は『幸せ』なんだって気付かないのが幸せなの。『幸せ』を実感するのは、失われる間際か、後か、そのどちらかだから。同じ理由で今が『不幸』だって気付くことも不幸なんだよ」

 

「少々暴論ではありませんか」

 

 たとえば、愛する人と結ばれた時、巨万の富を手に入れた時、戦地から故郷に帰れた時、夢と理想を実現した時、人は確かに幸福感を覚えるのではないだろうか。あくまで普遍的な意見であるが、スイレンの持論は尖りすぎているように思えた。

 オレの指摘にスイレンは何も言い返さなかった。あるいは、言い返す価値すらもなかったのか。

 

「……知りたくなかった。幸福も不幸も『誰か』と比較するから感じるんだよ。皆が苦しんでいれば不幸だなんて思わない。皆が笑えていれば誰も幸福なんて考えもしない」

 

 いいや、違う。スイレンは僅かな迷いの眼で、だが冷たく吐き捨てた。

 

「知りたくなかったんだよ。『幸せそうに笑ってる誰か』なんて……見たくなかったんだよ」

 

「…………」

 

 やや早足になったスイレンを、だがオレは手を掴んで止める。

 驚いて振り返ったスイレンは何かを期待するような眼差しで、だがオレは誤解するなと伝えるべく溜め息を吐いた。

 

「お店の場所、お分かりになるので?」

 

「あ……」

 

 先行されるのは護衛としても不味く、なおかつ行き先不明の歩みともなれば危うい。今のところは灰狼から警告もないが、大ギルドやそれに準ずる組織の目と耳が何処に潜んでいるかも分からないのだ。

 

「ごめん、なさい。少し感情的になっちゃった」

 

「いいえ。お気になさらずに」

 

「……ねぇ、腕を組んでもいい? もう私は先走らないように」

 

「申し訳ありませんが、緊急事態に備えて両腕はなるべく自由にさせておきたいので」

 

「…………」

 

 ノータイムの切り返しにスイレンの頬が痙攣する。護衛の観点からすれば当然の判断だ。

 

「リクって外見以上に性格と言動で恋人が出来そうにないね。会った事も話した事も無い女が言い寄ってきたら気を付けた方がいいよ? 絶対にお金目当てだから」

 

「お金で愛は買えませんが、愛を育む切っ掛けは得られますし、愛を失わないで済むのも事実です」

 

「それは恋人がいない言い訳にはならないよ」

 

 驚くほどに挑発で濡れた唇を歪ませるスイレンは、また新たな表情を見せてオレを惑わせる。

 本心を垣間見せたと思われたが、演技だったのかもしれないと懐疑心を抱かせる。

 

「私に『時間』があったら、リクの恋人……なってあげてもいいのに」

 

「冗談でも止めてください。高級娼婦の身請けなんてハイリスクノーリターンです」

 

「え? リターンゼロなの?」

 

「失敬。さすがに言い過ぎました。計測できないだけで、あるかもしれませんね」

 

「やっぱり、リクって今日は辛辣。でも……」

 

 そっと伸びたスイレンの手がオレの頬に触れる。

 拒もうと思えば出来た。振り払うのは簡単だった。だが、彼女の冷たく凍えた手はまるで焚き火の温もりを求めるかのようで、遠ざける気にはなれなかった。

 そうだ。気まぐれだ。オレの頬を撫でるスイレンの手つきには確かな驚きがあった。こんなにも簡単に触れさせてくれるとは思っていなかったのだろう。

 

「いいの? 私には『アレ』があるんだよ? 今ここでリクの頭を吹き飛ばすことだって――」

 

「スイには出来ませんよ」

 

「私は貴方が思ってるよりも、ずっと残酷で、愚かで、救いようのない悪人だよ。どうして言い切れるの?」

 

「それは……いいえ、今は止めておきましょう。もうすぐ予約の時間です」

 

 スイレンは自身を悪人と宣った。救われるべきではないとも己を罵った。

 演技か否かは関係ない。彼女の本心が何処にあるのかも分からなくて構わない。

 

「オレは護衛です。アナタを守る。アナタを害する全てから守る。アナタが何者であって、過去に何をして、未来に何をしようとも、今この瞬間を守り続けるのが仕事です」

 

「リクは揺るがないね。うん、最初からずっと変わらない」

 

 スイレンは何故か満面の笑みを浮かべた。彼女の笑顔の理由が分からなかった。

 マユがミニライヴを行うのは大通りに面する一等地に居を構える大型レストランだ。敢えて安っぽさが際立つ外観であり、バイキング形式というだけあって店内も広々としていて団体客を収容できる広間から個人客向けのカウンター席まで、幅広い客層に対応できるようだ。

 小さなステージも設けられており、どうやら今回のライヴ限定ではなく、恒常的にショーを開いて集客するつもりなのだろう。

 

「いらっしゃいませー」

 

 ドアを潜ってオレ達に、営業スマイル全開のウェイトレスが応対する。グリセルダさんから受け取ったチケットを差し出せば、ライヴステージを視界の右端で捉えられる微妙なテーブル席に案内される。

 まぁ、さすがに正面の特等席の確保はできないし、目立つ真似はしたくないからな。これが限界だろう。

 大衆向けバイキングというコンセプト通り、敢えて高い食材は使っていないようだ。だが、DBOの食糧事情を考慮すれば、バイキング形式を維持するには大ギルドや有力ギルド、大手商業ギルドのコネがなければ無理だ。

 マユをライヴに呼べる。基本的に仕事には貴賤無しのスタイルを貫く、歌って踊れて戦えるアイドルのマユだが、やはり強力なパイプがなければ不可能だろう。

 

「どうしたんですか?」

 

 と、オレが店についてあれこれ考えていれば、スイレンが先程とは打って変わって不機嫌そうにオレを睨んでいた。

 既にほぼ満員でマユの登場を待つばかりであり、皿に盛った料理を腹に詰める以外にやることもないのだが、スイレンはフォークを突き刺したニンジンをボリボリと囓りながら、人を殺せそうな程に鋭い視線を向けている。

 

「……リクもそんな綺麗で可愛いけど、やっぱり男の子なんだなーって思って」

 

「は?」

 

「ウェイトレス、可愛いよね。私と違って、本当に可愛い人たち。私なんて化粧で誤魔化してるだけの、根暗な駄目女だもん」

 

 スイレンの指摘通り、確かにウェイトレスは外見を採用基準にしているに違いないと断言できる程度にはレベルが高い。やや際どいスカートの短さや大胆に胸元を見せつけるデザインの制服を見事に着こなせるプロポーションも素晴らしい。

 

「……でも、デート中に他の女の子をジロジロ見てほしくないよ」

 

 俯いて涙目になるスイレンに、そういう誤解をしているのかと思わず頬杖をついて溜め息を吐く。

 

「別にウェイトレスの方々を観察していたわけではありませんよ」

 

 説明するのも面倒臭いが、オレは店の背後関係や経営者のコネについて考察していた、とらしくない程に細かく明かす。うん、ここまで思考中の内容を吐露するなんて、キリト相手にもやった事ないぞ。疲れる。

 不機嫌から一変して、それはそれで呆れたとスイレンが脱力する。

 

「リクの頭の中ってどうなってるの? いつもそんな面倒臭いことばっかり考えてるの?」

 

「…………」

 

「黙秘しても目が泳いでるよ」

 

「……別に、いつも考えているわけではありませんよ。常に思考を巡らせ、知識を集積し、推測と予想を繰り返す。ほぼ無駄になりますし、役立った経験もほとんどありませんが、万が一はありますから」

 

 そもそも頭脳労働はオレの担当では無い。もっと頭の良い人に丸投げすればいい。分かっているのだ。

 だが、考えずに行動すれば多くの血を流す。いや、考えて行動しても血の海になるのは毎度のことなのだが、暴力だけに頼らないで済む事もある……かもしれない。

 そう、これはオレが『人』の皮を被り続ける儀式のようなものなのだ。最後は全て踏み躙り、切り裂き、噛み砕き、食い千切ればいいという根底があるからこそ、必要なルーチンなのだ。

 

「でも、嫌だよ。わ、私と……きょ、きょきょ、今日はデート……なんだよ?」

 

「デートではありません」

 

 顔を赤らめながら上目遣いをしてきたスイレンを一刀両断し、オレは珈琲を嗜む。味も何もしないが、今日は割と嗅覚の調子がいいので香りは楽しめる。うん、安物だな。味も大した事はないだろう。

 

「……ねぇ、リクの好みって何なの?」

 

「そうですね。ココアにはマシュマロたっぷりですが、珈琲は意外とブラック派なんですよ。その方がお菓子の甘さが際立つので」

 

「珈琲の好みじゃなくて! お、女の子の好み……だよ?」

 

 何が悲しくて護衛対象の、それも高級娼婦に自分の女の子の好みを語らねばならないのだ。だが、ロールキャベツを食みながら熱く、だが不安そうな視線を注ぐスイレンを邪険に扱うことも出来ず、マユの一刻も早い登板を望みながら口を開く。

 

「普通ですよ」

 

「仕事柄ね、分かるんだよ。好みを聞かれて『普通』って答える人ほどに普通じゃないって」

 

「偏見たっぷりですね。でも、オレは本当に普通ですよ。健全なる男子の見本です」

 

 通り過ぎる黒髪ボブのウェイトレスを横目に、仕方なく明かすことにした。

 

「年上で、落ち着いていた性格の、包容力のある方でしょうか」

 

 あと、胸は大きい方が好みです。だけど、さすがにスイレンにはそこまで言えない。

 

「ちなみにリクって何歳? 14? それとも15?」

 

「……20です」

 

「え!?」

 

 信じられないとばかりにスイレンはオレを舐め回すように観察する。

 

「どう見積もっても、せいぜい10代半ば……かな?」

 

「よく言われます」

 

 まぁ、こればかりは仕方ないと諦めている。加齢で外見の成長を待つしかない。それだけの『時間』があるかは置いておかねればならないがな。

 

「そっか。20……年下なのは分かってたけど……意外と近かったね。私、今年で23」

 

「そうですか」

 

「それだけ?」

 

「それ以外にどのような反応をしろと?」

 

 珈琲を飲み干すオレに、何故かスイレンはまたしても嬉しそうに笑う。この女は本当に何なのだ。

 スイレンから更なる質問が飛ばされるより先に、ステージにカラフルなスポットライトが降り注ぎ、なんちゃって大和撫子系アイドルに恥じない、歌うのにも、踊るのにも、戦うのにも不便そうな和服姿でマユが登場する。

 

『ハロハロ♪ 今日はお招きいただきありがとうございます! 皆のアイドル、マユユンだよー♪』

 

「きゃぁあああああああああああああああああ! MA・YU・YU・N! MA・YU・YU・N! ぴぎゃぁあああああああああああああああああああ♪」

 

 発狂したスイレンがバッグから取り出したペンライトを両手に構えて立ち上がり、オレは思わず肩が跳ねる。素で驚いたぞ! 聖剣モードのランスロットと戦った時以来くらいに驚いたぞ!

 しかもこの反応はスイレンだけではない。マユの登場以前は和やかに食事をしていた他の客達まで熱狂して離席し、準備してたとばかりに陣羽織やペンライト、マユの写真が貼られた団扇を掲げる。気付けば着席しているのはオレだけではないか!

 こ、これが……これが『アイドル』! 正直に言おう。舐めていた。かなり見くびっていた!

 大音響の中でも自己主張が激しい砂糖菓子のように甘ったるい歌声。まるで耳から糖分を脳へと注ぎ込まれるような感覚だ。

 それだけではない。ダンスも完璧だ。動きにくい和服……振袖姿でありながら、日本舞踊ではなくアイドルらしいカロリー消費の激しいダンス! だが、衣装は僅かと乱れない! なんちゃってであろうとも大和撫子を冠するのはこれこそが理由とばかりに!

 肌の露出は最低限であるからこその過剰なまでに供給される艶やかさ! 舞い散る桜こそが映えるだろう儚い愛らしさが強みの容姿とは異なる、笑顔、笑顔、笑顔のパワー! そして、曲調はひたすらに甘々のドロ甘ポップ!

 5曲で終わりのはずがアンコールで6曲、7曲、8曲と増えていき、ついには12曲目でようやく我に返ったらしい経営者がストップをかける。

 

「握手! 握手したい! リク!?」

 

「無理です」

 

「あーくーしゅー!」

 

「無理です」

 

 マユの親衛隊がどれだけ潜んでいたのやら。『マユユン☆命』と背中に書かれた、ピンク色の陣羽織を纏った集団が既にステージ近辺を封鎖している。

 と、そこでマユの視線が不意にオレ達へと向けられる。彼女はマイクを右手に、軽やかに宙を舞うと親衛隊を跳び越える。着地の瞬間にはまるで星が飛び散るかのような愛らしい仕草まで完璧だ。これが……これが『アイドル』……! 視覚エフェクトではなく、脳が勝手にエフェクトを作り出しているというのか!?

 

「……ふーん……へぇー……ほぉーう」

 

 マユはオレ達の席まで近付いてくる。憧れのマユが間近に迫り、心臓が耐えられないとスイレンは顔を真っ赤にして両腕をバタバタと振るって暴れる。駄目だ。完全に思考がショートしている。

 

「マユのライヴ、何か不満だった?」

 

 マユはスイレンではなくオレに問いかける。これはどういう事だ?

 

「お客さん、マユをずーっと見てたけど、まるで集中してくれていなかったもん。教えてくれたら嬉しいなーって☆」

 

 右目をVサインで囲いながら尋ねてくるマユに、オレは思わず生唾を飲む。いつの間にか、スイレンを含む客全員からの視線が注がれていたからだ。

 

「もしかして、マユの歌に惹かれなかった? 趣味に合わなかった? つまらなさそうには見えなかったけど、心ここにあらずっていうか……マユを見ているけど見ていないっていうか……」

 

 鋭い。確かにマユのライヴには人を惹き付けるパワーがあった。だが、オレはあくまで護衛だ。マユのライヴに気取られるわけにはいかない。熱中するスイレンに大部分の意識を配分していた。

 だが、ステージ上のマユにはそれが不自然に浮いて見えたとでも言うのか!? ミニライヴとはいえ、これだけの人数がいたんだぞ!? 1人くらい着席していても人垣に埋もれるだろうに!

 

『マユユンのライヴの何が不満なんだ!? 事と次第によっては生きて帰さんぞ!?』

 

 と、いった具合の圧力ボイスが聞こえてきますね、はい。もう無言なのがいっそ清々しいくらいです。気分は圧力鍋に生きたまま放り込まれた蜘蛛ですよ。

 あと、何気にウェイトレスさんとかも物凄い剣幕なんですけど? あれ? もしかして制服可愛いとかお給料とかじゃなくて、マユのライヴ目当てだったんですか? もしかして、マユさんは定期開催契約を結ばれてらっしゃるとか?

 あ、あれ? もしかせずとも、狂信レベルのファンしかここにはいない!? スイレンさえも『あり得ないんですけど』って汚物を見るような目をしてるんですが!?

 

「あー……えー……そのー……」

 

 考えろ。考えるんだ。ここで選択ミスをすれば血の惨劇は免れない! さすがにこの数に袋叩きにされたら……いや、返り討ちできないことも……それに店外の灰狼から援護射撃も期待できるしな。

 

 

 

「……ま、マ・ユ・ユ・ン。マ・ユ・ユ・ン」

 

 

 

 考え抜いた末に、オレの口から飛び出したのは、遅れてきたマユユンコールでした。

 どう考えても選択ミスだろ!? 今更になってマユユンコールとか無意味で無駄だろ!? もう少し頭を使えよ、オレ!

 でもしょうがないだろ!? アイドルのライヴとか行ったことないんだよ! 経験があったとしても記憶が灼けてるんだよ! 血も憶えていないんだよ!

 

「リク」

 

 慈母の笑みでスイレンが差し出したのは……マユの顔がプリントされた団扇だ。

 やるしかない。やるしかないんだろ!? 分かってるさ!

 

「マ・ユ・ユ・ン。マ・ユ・ユ・ン。マ・ユ・ユ・ン……」

 

 虚しい。虚しい。虚しい! でも、精一杯に右手を振るうよ! 団扇を持ちながらな! 誤魔化せないとしてもな!

 

『お労しいです、ますたぁあああ……』

 

 止めろ。同情するな。無視しろ。インカムから聞こえる灰狼の慰めに、オレは顔を真っ赤にしながらマユユンコールと共に腕を降り続ける。

 

「マ・ユ・ユ・ン」

 

「マ・ユ・ユ・ン☆」

 

「MA・YU・YU・N♪」

 

 いつの間にかマユユンコールが伝染していく。やがて、それは熱狂の火種となる。

 音圧! 全身を圧迫する情熱のマユユンコールの末に、マユは再びステージに上がるとマイクを回す。

 

『ファンの皆様に応えて、もう1曲……いっくよー☆』

 

 もう好きにしてくれ。両手で顔を覆い、体を小さく丸めて≪気配遮断≫をオンにする。スイレンさえ守れたら、もうそれでいいよ。それでいいんだよ。

 

 

 

 

「ふひ、フヒヒ……マユユンと握手……わ、私みたいなゲロ拭き用ボロ雑巾にも劣るゴミカスが……マユユンと握手しちゃったよ……!」

 

 そして、ご満悦のスイレンと共に解放されたのは午後3時過ぎだった。もう料理などそっちのけだよ。客も店員も経営者も、最後には店外にいた通行人まで巻き込んでの路上ライヴに発展だよ。暴動かと鎮圧に駆けつけた教会剣まで一糸乱れぬオタ芸を披露し始めた時はいよいよDBOの薄氷秩序も終わりかと覚悟したよ。

 

「しかし、本当に人気なんですね……マユユン」

 

「クリスマスライヴのチケットが金塊よりも、ユニークソウルよりも高価格で取引されてるって噂だもん」

 

 DBOでもエンターテイメントの発展はめざましい。クラウドアースは特に力を入れていて、ほぼ独占状態にあったのであるが、民意を掴む為に他の大ギルドも本腰を入れつつあるし、大商業ギルドは広告塔としてもアイドルを採用している。というか、傭兵にアイドル活動させようとか言い出した大ギルドの幹部がいたとかいなかったとか。

 つまり……来るのか!? DBOアイドル戦国時代が!?

 いやいやいや! あり得ないだろう。さすがにないだろう。お忘れでは無いだろうか? つい先日には旧市街と貧民街の1部が焼け野原になって数百人が犠牲になったんですよ? 危うく大通りも火の海になりかけたんですよ? それなのにアイドル戦国時代って……アイドルって……ねぇ?

 でも、何故だろうか。楽しそうに歌って踊るマユと熱中するファンは、たとえ死と狂気に満ち溢れたDBOであっても、決して失われていないものがあると教えてくれるようだった。

 

「次は演劇だね。フヒヒ……」

 

「演劇という名のライヴじゃありませんよね?」

 

「違うよ。ふひ……怯えちゃって……可愛いなぁ」

 

 べ、別に怯えていない! ランスロットやミディールを相手にした時と同じくらいに追い詰められたなんて……絶対に違う!

 

「オレには……あまりにも馴染みが無くて……戸惑いが大きかっただけです」

 

「だったら行けばいいよ。リクは自由で、やりたい事が出来るだけのお金もあるんだから」

 

 自由……か。確かに独立傭兵という意味では、いずれの勢力にも属さないオレは自由なのかもしれない。

 だが、窮屈で、息苦しい。飢えと渇きは際限なく大きくなり、鳴らす顎はいつしか涎すらも干からびている。

 

(飢餓は決して消えない。感じるでしょう? 飢餓はアナタの獣性を引き出すけど、絶食で痩せ細れば狩りは為せない。また同じ失敗を繰り返すの?)

 

 ヤツメ様が嘲う。見渡せば『餌』が幾らでもあるではないかと腕を広げる。

 

(苦痛と悲鳴と涙が程良く染み込んでくれそうなお肉♪ 絶望と恐怖が濃密に溶け込んでくれそうな血♪ 食べたくて、食べたくて、食べたくて仕方ない。分かるわ。だって、ワタシはアナタ。アナタはワタシ)

 

 スイレンの顎を撫で、喉を食い千切りたくて堪らないようにヤツメ様が舌舐めずりする。

 

「……リク?」

 

「何でもありません」

 

 飢餓が漏れ出してしまったのか? スイレンは1歩遠ざかって……いいや、間合いを詰め寄って心配そうにオレの肩に触れようとする。

 だが、咄嗟に距離を取る。落ち着け。思い出せ。スイレンは護衛対象だ。殺してはならない。殺してはならない。殺してはならない。『その時』が来るまで殺してはならない!

 

「申し訳ありません。少し……気分が……やはりあのような熱気には慣れていなかったものでして……」

 

「そう。だったら、休む? 私なら――」

 

「お気遣いだけで結構です」

 

 スイレンにとってラストチャンスかもしれないのだ。彼女が望む演劇を、オレのせいで台無しにするわけにはいかない。

 しかし、問題はこれより向かう劇場はいわゆるお高い部類であり、今の変装……よくて下位プレイヤーの精一杯のオシャレ位ではオシャレ門番にNGを喰らうということだ。

 だからといってオレはともかくとしてスイレンが着飾れば、それこそ『高級娼婦スイレン』だと発覚する恐れがある。何せ、彼女が本気で着飾って化粧をした姿なのだから。

 これは当初より難題だったのであるが、スイレンには秘策があるらしく、彼女は雑誌を片手にオレを連れて行ったのは、ファッション関連の店舗が並ぶ、大通りのオシャレ街だ。

 ま、眩しい!? DBOファッションの最前線であり、富裕層が暮らす上層と重なるエリアということもあって治安は良く、終わりつつある街でもトップクラスに華やかなのであるが、行き交う人々のオシャレパワーがインフレしている!

 地味の3乗といった格好のオレ達は明らかに異物として注視されている。というか、警備の方々が集まり始めている。ここは下手にフル装備だったら警備に囲われるような場所なのだ。

 灰狼は……無事に潜入しているな。警備の目を上手く掻い潜っているようだ。評価を改めねばならない。彼女の隠密能力は秀でている。

 スイレンがオレの手を引いて入店したのは、クラウドアース系列の洋服店だ。

 店員は明らかに貧相な格好をしたオレ達を怪しんだようであるが、スイレンが何かを差し出すと営業スマイルに切り替わる。

 

「な、何をお渡しになられたので?」

 

「常連さんの名刺だよ。この店がお気に入りだって聞いてたから」

 

 ……この女、外見の第一印象を人脈パワーでねじ伏せやがった。そういうパワープレイが可能ならば、オレも幾らか楽になる局面があったのだがな。いや、オレでは有効活用できないから同じだろうけどね!?

 だが、ここで客の名前を使うのは果たして吉か凶か。店員は信じてくれたようだし、オレ達を変装している訳ありと勘違いしてくれているのかもしれないが……不安だ。

 スイレンは店員と何やら相談すると試着室に入る。オレが閉ざされたカーテンの傍らに控えれば、店員は怪訝な表情を浮かべるが無視する。試着中に拉致・殺害されたら目も当てられない。

 

「リク、どうかな?」

 

 試着室から出てきたのは、濃紺のスーツに身を包み、短めの髪を綺麗に整えた麗人だ。元がスイレンだと知るオレでも目を疑う程に、360度何処から見ても先程までの『下位プレイヤー・スイレン』とも『高級娼婦スイレン』ともかけ離れている。むしろ、中性寄りの男性にしか見えないイケメンパワーを感じる!

 鮮やかな銀髪も合わせて、まるで王子様のようだ。あと、厚底靴なのだろうが、身長も地味にスイレンの方が元から高かった……から……なぁ!? だから、普通に170センチはあるだろう身長でオレを見下ろすな!

 

「あー……アー……アぁー……こんなものかな、リク?」

 

 低めの声を出し、お茶目にウィンクするスイレンは、言うなれば『王子様スイレン』だ。ファッション雑誌から飛び出してきたモデルのようだ。店員さん達まで黄色い声を上げていらっしゃる。

 

「じゃあ、次の店に行こうか」

 

 振る舞いも完璧に男だぞ!? オレは支払いを済ませるとスイレンに連れられて、別の店に入る。

 

「……ここは?」

 

「ロリータファッション専門店」

 

「いえ、そうではなく、スイはもう変装済み……ですし……どうして……ここに……用が?」

 

「嫌だなぁ、リク。本当は分かってるんだろう?」

 

 オレの肩を抱くスイレンの振る舞いは、女の子慣れしたイケメン男そのものだ。

 ま、まさか……!? 背筋に悪寒が走り、血の気が引く。まずい。まずいまずいまずい! 聖剣解放したキリトよりも危機的状況に追い込まれているぞ!?

 

「私は『男装』したんだ。だったら、リクはもちろん『女装』してこそ、変装は完璧になる。そうだろう?」

 

「その道理は通りません!」

 

「まぁまぁ、そう言わずに♪ ふ、ふひ、フヒヒ……やっと……やっとリクを思う存分に……!」

 

 おい、王子様モードが剥がれてるぞ!? 残念な中身が漏れ出てるぞ!? 逃げ出そうとするオレをがっちりホールドしたスイレンは、まるで心意を発動しているかのようなマッスルでオレを店内に引きずり込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、マイ・プリンセス。麗しの君。思った通り、最高だよ……!」

 

「うるさい。ぶっ殺すぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、1時間と待たずして、オレは赤を基調としつつ、黒いリボンをたっぷりと使ったロリータファッションによって汚染された。

 

「うーん、ウィッグなのが残念だなぁ。時間さえあれば……! でも、さすがはリク。金髪ツインテ縦ロールがここまで似合うなんて反則だよ……!」

 

「死ね」

 

「しかもファッション眼帯がむしろ似合いすぎる! 普段から黒生地で金糸刺繍の眼帯を装着しているだけはあるよ! あんな高難度眼帯がパーフェクトマッチングしているんだから、むしろこの程度のファッション眼帯はリクに全く追いついていないよ!」

 

「死ね」

 

「あ、これ! 傘! 傘を差して! くるりと回って微笑んで! そう……そう……ひぁあああああああ! もう! ここで! 死んでもイイ!」

 

 男装が台無しになるくらいに悶絶して、両腕をクロスさせて自分を抱きしめる、もとい封じ込めるスイレンは、涎を自重することもなく垂れ流して床で暴れ回っている。

 本来ならば通報ものなのだが、店員が1人に残らず涙を流して両膝をつき、天を仰いでいるのは何なんだ?

 

「我々の神はここにいた」

 

「ロリータファッションの行き着く先」

 

「宇宙が見える」

 

 駄目だ。完全に精神がイカいれてやがる。というか、ウィッグとはいえ頭に付けたデカリボンが邪魔だ。さっさと外したい。というか、靴がさすがに動きにくい。これで護衛しろとか難易度調整間違ってるぞ。

 

「あ、ちょっと待ってね。アイシャドウをもうちょっと濃くして……うん……完璧! これで誰も『リク』だって気付かないはずだよ!」

 

「気付いてもらいたくないです」

 

 これは仕事、仕事、仕事、仕事、仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事シゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴトシゴト……オシゴト!

 良し。もう大丈夫。そして灰狼よ、どうしてずっと黙っている? 笑うならば笑え。何かしらリアクションをしろ。その方が気楽だ。

 

 街を歩けば悪目立ち。当たり前だ! 今のスイレンはスーパーモデル級なのだから!

 

「か、かわいい……!」

 

「ああいうゴテゴテした服は苦手なはずなのに、胸が締め付けられる」

 

「糞! 見せつけやがって! 隣のイケメン死ね!」

 

 ……何故かヘイトがスイレンの方に注がれてるな。おい、男共、騙されてるぞ。このイケメンはお前達の憧れの高級娼婦様だぞ。

 

「女装させたリクを隣に歩かせてカレシ面……く、癖になりそう……!」

 

 そしてヘンタイだぁあああああああ!? 演技だよな!? 演技だと言ってくれ、スイレン!

 そのまま優越感たっぷりのスイレンにエスコートされながら、オシャレ門番が待ち構える劇場を余裕で突破し、大金を叩いて買った2階の個室に到着する。

 舞台を一望できる。狙撃の心配も少ない。値は張ったが、これまでで1番の安全だ。さすがに灰狼は外で待機しているがな。

 

「機嫌を直して。ご、ごめんね? 少し調子に乗っちゃった……」

 

「別に気にしていませんよ。『仕事』ですから」

 

「目が死んでるよ……」

 

「『仕事』ですから」

 

 感情含有率ゼロの返答に、スイレンは反省の色を見せたのは一瞬だ。すぐに男装台無しの粘ついた笑みを浮かべる。

 

「フヒヒ……でも、本当に可愛いなぁ……! リクって、顔だけじゃ無くて、肩幅、腰、尻、太股……もう全身が骨格からして男とは思えないよ。ねぇ、本当は噂通りの女の子なんじゃ――」

 

「染色体XYですが何か?」

 

 それよりも間もなく演目が始まる。スイレンご希望の『悪魔の騎士と盲目姫』だ。

 パンフレットは購入済み……もとい、チケットが最高ランクだけに、椅子に置いてあった。

 

「リクは先にパンフレットを読む派?」

 

「気分次第ですね」

 

「……そっか」

 

 スイレンはパンフレットの表紙だけを眺める。やがて、薄らと照明が落ちていく。屋外よりも危険は少ないが、大ギルドならば富裕層に多少の犠牲者が出てもスイレンの拉致・暗殺を決行してもおかしくない。灰狼とも通信状態は良好であり、問題は特に起きていないが、だからこそ警戒が必要だ。

 演劇には余り興味が無い。だが、さすがはクラウドアース所有の劇場で公演しているだけあって、素人の目でも役者の実力が如実に実感できる。

 肉体の有無に関わらず、プレイヤーはいずれも現実世界における知識・技能・記憶を有する。これらリアル知識・技能はDBOにおいて生活基盤を得られるかの最初の関門となる。有用性の高い希少知識・技能の持ち主ならば、大小問わずにあらゆるギルドが好待遇で迎え入れるからだ。

 だが、頭の中の知識とは曖昧になるものだ。たとえ専門職であろうとも全てを暗記しているわけではない。DBOには本もパソコンもスマートフォンも持ち込めない。

 役に立たない技能もある。たとえば、溶接工としてベテランだとしても、DBOでは≪鍛冶≫・≪工作≫・≪建築≫といったスキルが必須であり、手順も工具の扱いも異なる。彼らの技能は応用が利くとしても即座にリターンが得られるものではない。

 あの役者達も、肉体の有無は問わずして、確かに情熱と執念で演技力を身につけ、舞台に立つことを至上とした住人なのだろうと感じ取れる。

 スイレンも演技達者だ。もしかせずとも演劇の経験があるのだろうか。いや、今更だな。リアルだろうとDBOであろうと今のスイレンはトッププレイヤーや大ギルドの幹部さえも欺き、手玉に取るだけの演技力を身につけている。

 スイレンは目を輝かせて舞台に熱中している。これさえも演技だとは思えないし、思いたくない……のかもしれない。まったく、オレもスイレンにすっかり振り回されているというわけか。

 さて、舞台のストーリーであるが、ある小国が大国と戦争となった。小国の王には末娘の盲目の姫がいて、身分の低い騎士は恋をした。祖国と姫を守るべく、騎士は戦場に赴いたが致命傷を負ってしまう。

 瀕死の騎士の前に悪魔が現れる。悪魔は騎士を誘惑する。体の半分を渡せば命を助けてやろう。百万の軍勢を屠る英雄にしてやろう。騎士は契約を結んで死の淵から蘇り、大国の軍を次々と打ち破った。

 だが、騎士は日の光が失せた夜になると体を悪魔に奪われる。騎士の体を奪った悪魔は英雄として姫に近付く。悪魔の狙いは姫の魂だったのだ。

 悪魔は言葉巧みに、姫に契約を迫る。夜の間に悪魔は暗躍し、救国の英雄となった騎士と姫の婚約は王も認めるまでになった。

 姫の魂を悪魔に奪わせたくない騎士はは教会に悪魔憑きである事を告白し、魂の救済の為にも火炙りを求めた。だが、教会も王も認めなかった。救国の英雄が悪魔憑きであると認めれば、小国の正義は地に落ち、戦争した大国のみならず、後ろ盾になってくれた国々まで敵に回すことになるからだ。

 騎士は自らの手で油を被り、火に身を投じた。だが、悪魔の契約で自殺はできなかった。絶望した騎士に悪魔は囁く。姫の魂を諦める代わりに、毎夜1人ずつ、全部で1000人の無垢なる魂を捧げろ、と。

 騎士は次々と子どもを殺して魂を奪った。やがて、騎士は『悪魔の騎士』と恐れられるようになった。多くの高名な騎士が戦いをい挑んだが、誰も悪魔の騎士には勝てなかった。

 やがて999人分の魂が集まった。悪魔は嘯く。最後の魂は姫の子がいい。小国は声が似た騎士の偽物を準備して、目の見えない姫に信じ込ませて結婚させていたのだ。

 国を守る為に悪魔と契約し、姫を守る為に邪悪に墜ちた。だが、功績も挙げておらず、犠牲も払っていない偽物が愛する姫と結ばれ、子を作っていた。悪魔の騎士は、今再び悪魔に誘われる。姫の魂を奪いたければ奪うがいい。そうすれば彼女はお前のものだ。

 悪魔の騎士は姫の前に現れる。目を治す代わりに魂を自分に捧げろと持ちかける。だが、姫は愛する救国の英雄を裏切るわけにはいかないと悪魔の騎士を拒絶する。

 自分こそが本物の救国の英雄なのだと悪魔の騎士は叫ぶ。だが、姫は信じない。出会いの夜、盲目の自分に愛を囁いてくれた騎士を信じていると宣った。

 そして、悪魔の騎士は姫を殺して魂を奪った。駆けつけた衛兵が見たのは、満月を背に本物の悪魔となった騎士だった。

 

「バッドエンドですね」

 

「バッドエンドだね」

 

 以上、感想でした。もうなんか……胃もたれするような悲劇だった。これでもかと好転しない展開に、役者の迫真の演技も合わさって、石でも食べたような気分である。

 これが大人気とか、DBOの住人はやはり精神が病んでいるのではないだろうか。いや、役者の皆様は全力を尽くして素晴らしいとは思いますが、それはそれとして、影響されやすい人間ならばしばらく鬱状態になってしまうだろう。

 

「騎士は可哀想だったね。お国の為に頑張ったのに、恋したお姫様が好きになったのは悪魔で、偽物と結婚して……」

 

「『力』では幸福になれないという事かもしれませんね」

 

「悪魔と契約した騎士は哀れで愚かで、大切な人を自分で殺して本物の悪魔になった。お姫様が本当に盲目だったのは真実だった。もしも……もしもお姫様が騎士の真実に気付いてあげられたなら……救いはあったのかな?」

 

「ありませんよ」

 

 姫からすれば、騎士が自分の事が好きだったから守る為に悪魔と契約したなど知る由もないし、願ったわけでもない。姫が好きになったのは愛を囁いてくれた悪魔であり、騎士など最初から眼中にない。

 

「愚かで哀れで救いようがない騎士と何も見えていなかったお姫様の物語。それ以上でもそれ以下でもない、皮肉に満ちた悲劇にして喜劇です」

 

「辛辣だね。でも、私は騎士もお姫様も救われて欲しかった。どれだけ荒唐無稽であってもいい。最後は笑顔で終われるハッピーエンドが良かった」

 

 駄作では無い。むしろ良作にして傑作だ。DBOでこれ以上の劇を望めるのはいつになるか。あるいは永遠に機会は巡ってこないかもしれない。だが、それはそれとして、スイレンの好みではなかったようだ。

 

「でしたら、次は質を落としてでも笑える喜劇を――」

 

「…………」

 

「失言でした。申し訳ありません」

 

「……いいよ。そうだね。『次』があれば、今度は世間の人気に囚われず、もっと自分が好きな劇を見る事にする。どれだけ素晴らしくても、バッドエンドは嫌だから」

 

 愚かで救いようがない馬鹿だな、オレは。スイレンに気を遣わせるとは最悪だ。

 

「ねぇ、リク。もしもリクが登場人物だったら、騎士とお姫様を救える?」

 

 オレの正面に回り込んだスイレンの唐突な質問に面食らい、だが先程の無礼もあってか、無視することも出来ずに深く考え込む。

 

「救えませんね」

 

「えー!? どうして!?」

 

 そこまで驚くことか? 期待した回答を得られなかったスイレンに、オレは思わず自嘲を漏らす。

 

「『救えない』から。オレが『オレ』である限り。いいや、オレが『オレ』でなくなったとしても……ハッピーエンドなんて……あり得ません」

 

 殺した。殺した。殺し続けた。踏み躙って、砕き壊して、殺し尽くした。

 血に汚れながら死に感謝を告げる者たちもいた。だが、彼らは『辿り着けなかった』。スイレンが望むような……生きて、笑って、救われる……幸せになれるハッピーエンドには届かなかった。

 

「オレは物語の最後に登場する、観客の皆様より罵倒必至の、全てを台無しにして悲劇に貶める理不尽な『バケモノ』。強引にハッピーエンドへと持って行けるのは『英雄』の役割です」

 

 そして、『バケモノ』を倒すのは『人』より出でる『英雄』だ。『人の意思』でこそ『バケモノ』は倒されてこそ意味があるのだ。

 

「さぁ、大聖堂に行きましょう」

 

「うん。その前に着替えないと。さすがにこの格好で墓地は不謹慎だしね」

 

 ……オレとしたことがすっかり忘れていた。今は金髪立てロール、薔薇型眼帯、フリフリレースたっぷりの赤ロリ姿(傘装備付き)だった。自覚しただけで魂が抜けそうだ。思い出したくなかった。

 男装から元の下位プレイヤー風地味女子姿に戻ったスイレン。対してオレはいつもの教会服だ。聖堂街にある神灰教会の本拠地である大聖堂ならば、こちらの方が逆に目立たずに済むからだ。

 灰狼からは特に問題なしの連絡を受け、オレとスイレンは並んで聖堂街を踏みしめる。

 浮浪者1人いない、宗教色が濃い街並みは教会の統治下にある事を知らしめる。ここで狼藉を行おうとする馬鹿はいない。巡回するのはギルド化して戦力強化と規模拡大が進む教会剣だ。銀色の甲冑には教会のエンブレムが施された聖布を装着しており、まさしく騎士といった風貌は、すっかり騎士らしさを失ってしまった聖剣騎士団のかつてを思い出させる。

 既に夕暮れ時であり、街灯に照らされた雪道を踏みしめる人々も体を強張らせている。今夜は冷え込むだろう。だが、クリスマスが近いということもあってか、大聖堂へと礼拝に向かう信徒は多い。あるいは、どれだけ平静を装い、大ギルドや教会が隠蔽に努めようとも人々の根底には不安と恐怖が根を張っているからか。

 大聖堂の敷地内には孤児院や霊園がある。霊園の中には無縁墓地もあり、大人数が死んだ場合は慰霊碑が建てられる。慰霊碑は霊園入口付近に設置されるが、時が経つと霊園の奥にある慰霊庭園という専用の区域に移動される。

 教会公認の花屋が寒空の下で荷車に花を積んでいる。花束を1つ購入したスイレンは設置された地図を見ながら慰霊庭園の位置を確認すると、オレの案内は敢えて欲せずに、自分の足で向かう。

 幸いと言うべきか、慰霊庭園は無人だった。立ち並ぶ慰霊碑の数は目に映るだけでも軽く30を超えている。総数は倍でも足りないかもしれない。

 それだけ凄惨な事件があった……というわけではない。これまでの死者を偲ぶ意味合いで大ギルドが協働で設置した慰霊碑もある。ここ最近で最も真新しいのは霊園正面に設置されたヴェノム=ヒュドラの港砦の件で亡くなった人々を偲ぶ3大ギルド合同慰霊碑だ。それもいずれはこの慰霊庭園に移されるだろう。

 スイレンが向かったのは小さな、見窄らしいとも言い換えられる、簡素な慰霊碑だった。大ギルドや教会が設置したものではない。名も無き人々が善意で金を集めただろう、DBOで死んだ人々を憂う慰霊碑だった。

 どうしてスイレンがこの慰霊碑の存在を知っていたのか、尋ねるのは無粋だろう。彼女は慰霊碑の前に花束を捧ぐと手を合わせる事も、黙祷する事もなく、淡々と降り注ぐ雪を被りながら、凍てつきながらも微かに濡れた眼差しを注ぎ続けた。

 

「今日はありがとう、【渡り鳥】さん」

 

 偽名で呼ばないのは安全配慮の観点からよろしくないが、ここが最後であるし、大聖堂の敷地内で愚行を犯すならば、それこそ個人・組織を問わずに破滅しか待っていない。それにこの状況ならばスイレンを守り切ることはオレでも可能だ。故に見過ごす。

 

「護衛ですから」

 

「うん。そうだよね。【渡り鳥】さんにとって私の護衛は『仕事』。それ以上でも以下でもない。だけど……嬉しかった」

 

 帽子を脱いだスイレンは慰霊碑からようやく目を逸らして雪雲に覆われた夜空を見上げる。慰霊庭園を照らす外灯は弱々しいが、だからこそ彼女の顔に夜の濃い影が映えた。

 

「カリンさんに言われるままに高級娼婦を演じた。お客様は私が演じる幻想に心を許し、一夜でも夢を見る。誰もが望む『高級娼婦スイレン』は『私』じゃないって……私はお客様を騙しているんだって……苦しかった」

 

「…………」

 

「でも、【渡り鳥】さんは認めてくれた。『高級娼婦』という役を演じる『私』を真っ直ぐに見てくれた。私の過去も今も関係なく、『仕事』だからこそ『私』を……」

 

 そんな大層なものではない。買い被りだ。オレは護衛として当たり前をしただけであり、精神不安定であった彼女に助言らしい助言をした覚えもなく、むしろ辛辣な物言いの方が多かったような気さえもしている。

 

「【渡り鳥】さんが守ってくれる。それだけで夜は眠れるようになった。悪夢を見なくなった。私の居場所はここなんだって思えたんだ」

 

 改めてオレに振り返ったスイレンは深々と頭を下げる。

 

「ありがとう。私のやりたかった事……叶ったよ。【渡り鳥】さんが叶えてくれた」

 

「…………っ」

 

 前髪をぐしゃりと掴み、オレは言葉を呑み込む。

 これまでの違和感。スイレンの言動。そして、今の彼女の……涙で濡れた笑顔。

 情報を整理……『したくない』。推論を口にして事実として認識したくない。彼女の選んだ『真実』を尊重したい。

 ならばこそ、オレはフードを脱ぎ、素顔を晒した上でスイレンに恭しく頭を下げる。左手は心臓の鼓動を掴むように胸へ、右手は振るって肩に水平に、そして優雅に腰を折る。だが、視線だけは決して相手から外さない……狩人の礼。

 

「『護衛』として当然の事をしたまでです」

 

「……【渡り鳥】さんは優しいね」

 

「オレは優しくなんかありません。『優しい人』ではありません」

 

「そっか。うん、そうかもしれない。【渡り鳥】さんは優しすぎて、だからこそ優しくなれない。こんなにも真っ直ぐに『私』を認めてくれる人が……優しいなんて、許さない」

 

 スイレンは袖で涙を拭うと改めて帽子を被り、跳んでオレに近付く。

 

「そうだ。お礼! 今日は私のワガママで振り回したから、お礼させて」

 

「仕事の範疇なので、個人的謝礼を受け取るのは些か憚れるのですが」

 

「【渡り鳥】さんって生真面目だね。でも、そういうところ……好きだよ」

 

 軽々しく好きとか言うな。男を手玉に取ることに限定すれば、スイレンはオレが出会った中でも間違いなく頂点なのだ。警戒するに決まってるだろう!

 

「うーん、じゃあキスは? わ、私でよければ、【渡り鳥】さんの初チューの相手になってあげても――」

 

「申し訳ありませんが、ファーストキスは経験済みです」

 

「え!? 嘘だぁ!」

 

 失礼な女だ。そんな驚かなくてもいいだろうに……って、動揺が過ぎるぞ!? スイレンが明らかにこの世に存在してはならない異物を見るような目をしているぞ!?

 

「わ、【渡り鳥】さんにチューしようなんて頭がイカれた人が私以外にいるなんて……か、考えられないです!」

 

「ぶち殺すぞ」

 

「いいよ。【渡り鳥】さんに殺されるなら、きっと後悔なんてないから」

 

 スイレンに笑顔で切り返されて言葉を失う。この女は本当に何処までが本心で何処からが嘘なのか、あるいは全てが演技なのか、本当に見分けが付かない。

 

「でも、私達って……少しは……な、仲良くなれたよね? ふ、ふひ、フヒヒ……」

 

 粘ついた笑みで脅迫するように確認を取るスイレンに、オレはたっぷりと60秒の沈黙の末に目線を逸らす。

 

「認めたくありませんが、そうかもしれませんね」

 

「やった! だったら、仲良くなれたお礼を受け取って」

 

「……仕方ありませんね。キス等を破廉恥な行為以外でお願いします」

 

 途端にスイレンの笑みが干からびて自嘲が滲み出る。

 

「……娼婦時代が1番真っ当な生活をしていた私にそれを言うなんて、【渡り鳥】さんは残酷だね」

 

「アナタが高級娼婦として人気になったのは、情事以外の武器があったからこそですよ。たとえば……」

 

 ふと耳に届いたのは大聖堂から微かに響く聖歌だ。クリスマスに向けて追い込みをかけているのだろう。

 

「……歌」

 

「え?」

 

「歌を……教えて……くれませんか。お恥ずかしながら、音痴……でして……」

 

 エドガーとの契約でクリスマスには聖歌独唱が決まっていて、歌詞が書かれた譜面をもらっているのだが、全く練習していないのだ。いや、そもそも自分が音痴だと分かっているからこそ練習する気力がないというか……ね?

 

「音痴? え? 本当に? そんな綺麗な声をして……ぷ……ぷぷ……っ!」

 

「いっそ嗤った方が非礼になりませんよ?」

 

「わ、嗤わないよ。ただ意外だっただけ。そうだよね。美声だからって歌が上手とは……ぷぷ……か、限らない……よね」

 

 だから嗤えよ。もう嗤ってくれよ。その方が気楽だよ! 顔が熱くなるのを感じ、オレはフードを深く被って隠す。

 

「いいよ。【渡り鳥】さんの言うとおり、お客様は歌をよく誉めてくれた。私の歌声、とても落ち着くんだって」

 

「ありがとうございます」

 

「感謝はNG。これは私のお礼なんだから」

 

 スイレンに楽譜を渡せば、彼女は真剣な眼差しで外灯を頼りに読み込む。

 

「これが歌いたいの? 聖歌だね。確かにちょっと難しいかも。でも、【渡り鳥】さんの美声で歌えたら、きっと素敵になるはず。まずは歌ってみて。ほら、周りには誰もいないから恥ずかしがらずに」

 

 夜の霊園は元より人気が無く、奥地の慰霊庭園ともなればオレ達だけだろう。まぁ、何処かで灰狼が潜んでいるかもしれないのだがな。

 息を吸い、楽譜を手に喉を震わせる。

 聖歌に込める感情がまだ見つかっていない。その時が来るまで、オレは何を歌声に織り込めばいいのか分かっていない。

 ならばこそ、今ここで込めるのは先程のスイレンの後ろ姿だ。所作は無くとも、彼女が心から願っただろう慰霊の姿だ。

 歌い終わったオレに、スイレンは呆然と立ち尽くしていた。完全に言葉を失っている。目を見開いて唇を震わせている。

 

「音痴なりに頑張ったので、何かしら反応をいただけたら助かるのですが……」

 

 思わず下手に出るオレに、スイレンの頬を一筋の涙が流れる。そ、そこまでショックだったか!? 音痴過ぎて脳がイカれてしまったのか!?

 

「そっか。『そうだった』んだ。ふ、ふひ、フヒヒ……も、もしかして、これって私だけ? もしかせずとも『私』だけ……なのかなぁ?」

 

「何がです?」

 

「今まで人前で歌った事ある?」

 

「……何度かありますが、もう生きてる人はいないでしょうね」

 

 基本的に音痴だから歌わないからな。少なくともプレイヤーでは聞いた事があるヤツはいないはずだ。うん、だからこそ、エドガーからの依頼はね、地獄の扉を開く事と同意義なんだよ。オレに聖歌独唱させてクリスマスを台無しにしようとか、どんな企みがあるのかと疑っているよ。

 

「ねぇ、『クリスマスの聖女』って知ってる?」

 

「名前くらいは。しかし、どんな人物だったかまでは……」

 

 クリスマスの聖女なる噂話があるのは知っているのだが、内容まで把握していない。だが、むしろそれこそが望ましいとばかりにスイレンはオレの両肩を掴んだ。

 

「知らない方がいいよ! 絶対に! その方がきっと……うん……きっと!」

 

「逆に気になりますが、今は追及しません。それで、ご指導の程ですが……」

 

「あ、うん、そうだよね。確かに音痴なんだよね。音程が狂っているというか、こう……わざとじゃないのは分かるんだけど、まるで自分で綺麗な川の流れを濁流の渦にしちゃってるような……」

 

「説明不能な音痴というわけですね、分かりました。諦めます」

 

 エドガーとの契約は聖歌独唱であって、聖歌独唱を成功させろという無茶振りではないからな。成長も矯正も不可能な壊滅的音痴であり、それを期待されてのオーダーならば、望み通りにクリスマスを公害レベルの音痴で汚染するだけだ。

 

「あ、諦めないで。でも、不思議だよね。楽譜は読めてるんだよね?」

 

「ええ。ピアノを弾ける……ものでして……他人には聞かせられませんが」

 

 聞いた人たちの精神が狂って自殺談義を始めちゃったんだよなぁ。どうやらオレの演奏には人の心の闇を表面化させて死に追いやるとかいう、ちょっと意味が分からないデバフが付与されているようなのだ。

 

「下手だから?」

 

「いいえ。自慢ではありませんが、人並み程度には演奏できているはずです」

 

「だったら音感はあるはず。音程が狂ってるのは何でだろう。うーん、もう1度歌ってもらっていい?」

 

 いつになく真剣に、真摯に、本気を感じる眼でスイレンは指導を始める。

 オレの拙い歌声に、スイレンは瞼を閉ざして耳を澄まし、歌い終わる度に考え込みながら円を描くように歩き回り、再びオレに歌うように指示する。

 

「やっぱり、『歌えないように』矯正されてる」

 

「は? 意味が分かりませんね」

 

「私も分からない。でも、そうとしか考えられない。多分、無意識下の癖付けだと思う。歌うと音程を外して『歌えない』ようにしてあるんだよ」

 

 わざわざ下手に歌うように? そんな事をして何の意味がある? 得なんて1つもない。呆れるオレに、スイレンは自分の喉を数度叩いてみせる。

 

「私と一緒に発声して。落ち着いて、ゆっくりと、歌詞は意識せずに、音程だけに集中して」

 

 スイレンの歌声にオレは自分の歌声を被らせるのが申し訳ないのだが、彼女の指導に従って音程だけに集中する。

 

「うん、綺麗に声が出てた。もう1回」

 

 スイレンの額がオレの額に触れる。吐息がかかる近距離で、スイレンは妖艶とは程遠い、客に見せる聖母とも異なる、まるで羽毛のような柔らかく温かな笑みを描く。

 

「意識して。【渡り鳥】さんの頭の中……自分でも気付かない奥底に歯車がある。噛み合っていない。ゆっくりと、落ち着いて、調整してみて。呼吸しやすいように……自分の中で作り上げた旋律を望んだままに紡げるように……」

 

 疑いはいらない。素直にスイレンの言葉に従う。

 喉の震えが穏やかになる。気道の異物が取り除かれたように、歌声が喉を通り抜ける。呼吸さえも忘れて、歌声をスイレンと重ね合う。

 1時間。あるいは2時間。もしくはそれ以上の時間が経ったかもしれない。歌いすぎてオレの顔には汗が滲み、スイレンもまた同様だった。

 

「……えへへ、私が『初めて』なのかな?」

 

「何がですか?」

 

「【渡り鳥】さんの……『本当の歌声』を聞いたのは……私が……そう信じていいんだよね?」

 

 分からない。記憶は灼けているし、幼き日の思い出は残っていないのに等しい。だが、燃え滓は訴える。

 

「そうかもしれませんね。アナタが『初めて』かもしれません」

 

「そっか。うん。だったら……分かる気がする。誰かは分からないけど、どうして【渡り鳥】さんから『歌』を奪ったのか。私……きっと……でも、後悔しないよ。私は間違っていない。【渡り鳥】さんに『返してあげる』ことができた。『本当の歌声』……大事にしてね」

 

 オレから離れたスイレンは肩に降り積もった雪を払い除ける。

 

「帰ろう。私のあるべき場所へ。私達の……あるべき形へ……」

 

 それはスイレンなりの別れの言葉だったのかもしれない。彼女は最初から自分の運命を受け入れていて、だからこそ結果は同じでも結末は選びたかったのかもしれない。」

 

「晩ご飯は何処かで食べて帰りたいな。灰狼ちゃんには1日寂しい思いをさせたから労ってあげないと」

 

「外食は却下です」

 

 まだ護衛期間は残っている。彼女を守り続けよう。それが『仕事』なのだから。

 慰霊庭園を、霊園を、大聖堂を、聖堂街を通り抜けて、オレ達が潜伏する次なる隠れ家へと向かう。

 

 

 

 だが、隠れ家の前には教会剣が並び立っていた。

 

 

 

 待ち伏せ。スイレンはまだ気付かれていない。オレも察知されていない。

 

『マスター』

 

「報告不要だ。離脱する。プランD4の第3ポイントで合流を――」

 

 彼女を連れて逃げだそうとするが、不意に背後からの気配を感じて拳を握る。

 

「そこまでよ」

 

 だが、聞き知った声で制止がかけられ、スイレンを背後に庇いながら拳を止める。あと数ミリで顔面に穿鬼が叩き込まれそうになっていた教会剣らしき全身甲冑の男は腰が抜けて尻餅をつく。

 

「……グリセルダさん」

 

 この隠れ家を知っているのは連絡を取り合っていたグリセルダさんだけだ。教会剣が張り込んでいる時点で、大聖堂という本拠地にいたオレ達が確保されていないのは彼女から情報が漏れたとほぼ確定していたのだが、よもや本人もいるとはな。

 裏切りか? 脅されたのか、それとも取引か。何にしてもやる事は変わらない。スイレンを守る。

 

『こちら灰狼、いつでも狙撃できます。マスター、ご指示を』

 

 グリセルダさんは強いが、トッププレイヤーには及ばない。教会剣は目視できるだけで18人。囲われているが、突破はできる。問題は今日の隠れ家に選んだのは、敢えて大通りからそう離れていないアパートという点だ。人通りが相応にある以上は派手な戦いは避けねばならない。

 武器はパラサイト・イヴを除いてオミットしているが、獣血簒奪を使用すれば教会剣から奪い取れる。武器には困らない。

 

「……止めなさい。彼らに敵意はないわ」

 

 オレの思考を読んでか、グリセルダさんが諸手を挙げて戦闘の意思がないことを示す。

 

「裏切っていない前提でお伺いします。教会剣の包囲を連絡しなかった意図は何ですか?」

 

「クラウドアースと教会の合議で、マダム・リップスワン名義の護衛依頼を『教会監視下』に変更するなんて……認めないでしょう?」

 

「もちろん。サインズは了承を?」

 

「必要ないわ。サインズが受理した依頼は護衛であり、内容は『期間内のスイレン嬢の心身の安全を確保する事』よ。場所を含めた環境の指定はない。クゥリ君さえ納得してくれたら教会の監視下に彼女を置くことは問題ないはずよ。アナタが話を聞いてくれるかどうかは賭けだったけどね」

 

 表面だけ撫でれば筋は通っている。だが、認められるものか。」

 

「護衛として、教会の管理下にスイレンさんを置く事に強い懸念を表明し、これを拒否します。お引き取りを」

 

「クゥリ君。もうクラウドアースと教会で話は付いてるのよ。マダム・リップスワンが戻れば正式に依頼完了の通達が届くわ。早ければ明日の朝にでも! アナタの仕事はもう――」

 

「ならば、明日の朝に出直してもらえるでしょうか。依頼完了後ならば彼女の心身に責任を負う義務はありませんので」

 

 オレの物言いに、背中に隠れたスイレンが縮こまる。だが、それが仕事だ。護衛が終わればスイレンを守る理由は無い。

 

「メールをしなかったのは、事情を説明してもオレが了承しないと分かっていたからでしょう? そして、明日の朝というのも定かではない、あくまで予定。一刻も早く彼女を教会の監視下……いいえ、『管理』しなければならない理由は何ですか?」

 

 ヴェニデ……いや、セサルはどう動いている? そもそも今回の依頼は護衛後に暗殺のセットだ。だが、彼も想像していなかった終わりつつ街の被害は、予期せぬ流れを生み出したというのか。

 

「やれやれ、さすがは【渡り鳥】。マネージャーの説得にも応じないか」

 

 グリセルダを押しのけて現れたのは、他とは異なる、より精巧で高品質だろう銀色の鎧を身につけた男だ。兜を装着しておらず、赤毛のドレッドヘアであり、アフリカ系の血が混じっているような肌と顔立ちだ。左右の腰にはそれぞれ刃渡り60センチ程の曲剣である。

 教会剣は変形武器を好んで扱う傾向にある。この男も例に漏れないだろう。見た目で判断するのは禁物だ。

 

「教会剣所属、大聖堂警護隊・副隊長の【ジャガーヴォック】だ。主な任務は大聖堂及び聖堂街の治安維持だ」

 

 礼儀正しく握手を求めるジャガーヴォックだが、それに応じる理由はない。

 

「これでも教会剣では古株でね。積極的に活動に参加してくれているラジードとは仲良くさせてもらっているし、他の連中に比べれば貴方に対して偏見を持っていないつもりだ。そう、傭兵【渡り鳥】は話し合いが通じる相手だとね」

 

 ラジードを通じてオレについて幾らか把握している、という事か。だが、怯えるスイレンは背中から離れようとしないように殺気立つ教会剣の面々は明らかに彼女へと強い恐怖を覚えているようだ。オレに対してはそれ以上だな。だが、奇妙な事にオレに対して恐怖を覚えていても殺気立っているのは半数程度であり、残りの半分は恐怖はあってもまるで殺意はない。むしろ、これは……いや、どうでもいいか。

 

「誤解しないでもらいたい。我々の目的はスイレン嬢の『保護』だ。貴方も当事者ならば分かるだろう? 彼女を巡り、終わりつつある街に多大な損害がもたらされた。教会の介入で沈静化は図られたが、それも絶対とは言い難い。貴方個人では、スイレン嬢を守り切ることは出来たとしても、今度こそDBOの秩序が完全崩壊しかねない惨事を防げない」

 

「興味ありませんね。オレが引き受けた依頼は彼女を守る事。彼女を害する者達がたとえ何百人、何千人、何万人殺そうとも、この街を火の海に変えようとも、彼女を守るのが仕事です」

 

「……参ったな。話し合いはできるが、ここまで覚悟が決まってるとは傭兵でも筋金入りだ」

 

「当然よ。私の傭兵なのだから。依頼を途中で投げ出すことも、手抜きをすることもないわ」

 

 説得する側のグリセルダさんが誇らしそうなのに頭痛には耐えられないといった顔をして嘆息する。

 

「我々は内密に、彼女の『正体』と『保有スキル』について情報開示されている。大ギルド間のみならず、いずれの勢力が有しようとも秩序の崩壊は免れない危険なスキルだ。大ギルドさえも手にすれば暴走しかねない程にな」

 

「だから教会が管理する、と? 傲慢ですね。大ギルドも教会も、結局はどちらも人間が集まって運営された組織です。大義・理想・信条が異なろうとも、人間である限りは同じ選択肢が常にあるのが道理」

 

「……認めよう。教会さえも『あのスキル』を手に入れれば、いかなる凶行に及ぶか分からない。だが、少なくとも大ギルドのいずれかに手にあるよりも、御しきれない中小ギルドが有するよりも、犯罪ギルドが用いるよりも、安全であるはずだ」

 

「本当よ。彼女の生命は保障されるわ。いいえ、『守られなければならない』。教会の管理下、3大ギルドも与した監視体制で、決して『あのスキル』が誰の手にも渡らないようにしなければならないの」

 

 やはりセサルにも予期しきれなかった大被害。それによる教会の介入か。セサルとしては≪ボマー≫を何としても手に入れたかったが、彼でも覆せない大組織の合意が先んじて取られてしまったのだろう。ヴェニデも武闘派かつセサルというカリスマに率いられているとはいえ、クラウドアースの1部でしかないからな。

 だが、どうする? これはこれで『最悪の展開』に近いな。オレの推測が正しければ……だが、語ったところで覆しようとがない状況だ。これだけの大組織を巻き込んでいるのだからな。

 結果は変わらないとしても結末は変えられる。殺すことしかできないとしても、救えないとしても。

 

「スイレン嬢には公式上死亡していただく。もちろん、貴方の経歴には傷を付けないように配慮しよう。彼女の死が告知されたとしても依頼失敗という汚点は残らない。加えて慰謝料も支払う準備もある」

 

 ジャガーヴォックは逸りそうになる部下を右腕を伸ばして制止しながら、あくまで理性と契約を重んじる姿勢を示す。嫌いでは無い。嫌いではないが、応じるわけにはいかない。

 スイレンを連れて逃げ切るのは難しい。会話している間に包囲網が完成されている。グリセルダさんは灰狼の存在を把握している。既に予想される狙撃ポイントに教会剣を派遣させていてもおかしくない。

 手札はある。方法もある。グリセルダさんを含めてこの場の全員を皆殺しにすればいい。絶対に足取りを掴ませず、依頼完了までスイレンを守りきるにはそれしかない。グリムロック・ヨルコとは決裂することになるが、依頼遵守が優先だ。

 だが、それは最後の手段だ。まだ明かされていない謎がある。周囲を見回せば、教会剣による封鎖が完了している。これならば近隣住民に被害は及ばないだろうし、より踏み込んだ話をしても問題ないだろう。

 

「どうして、そこまで急ぐ必要があるのですか? グリセルダさんが明かしさえしなければ潜伏が失敗することはありませんでした」

 

 今日は終わりつつある街を動き回ったが、その間にオレも灰狼も尾行や包囲を察知していなかった。潜り抜けただけかもしれないが、些か考えにくい。そうなるとグリセルダさんに緊急で取引が持ちかけられたと推測するべきだ。

 それならば不完全な封鎖・包囲も納得がいくし、リスキーな手段を用いたのも納得がいく。一見すれば待ち伏せしているようだったが、グリセルダさんが教会剣を隠れ家に案内し、オレを説得するプランを詰める予定だったのかもしれない。

 隠れ家をグリセルダさんが訪問し、単独で説得を持ちかけた方が成功率は高い。このような威圧する状況を作り出すのはオレに対して得策ではないと承知しているからだ。

 つまりは想定外の緊急事態。スイレンを早急に確保しなければならない事情があると言う事か。

 

「状況は理解しました。余程に切羽詰まった、強引な手段も辞さない緊急事態のようですね」

 

「……驚いた。グリセルダ女史の言う通り、こちらの意図を汲み取ってくれるとはな」

 

「試したんですか? 不愉快ですね」

 

 ジャガーヴォックが素直に感嘆する様子に、オレは思わず眉を顰める。グリセルダが怒気を込めて咳払いすれば、ジャガーヴォックは顔を引き締めて腰を折った。

 

「謝罪しよう。決して舐めていたわけではない」

 

 グリセルダさんが敢えてオレに説明しないのはアリバイ作りか。事情は把握しているが、巻き込まれてもメリットがない。報酬に見合わない事態というわけか。

 さて、そうなると大ギルド絡みか。≪ボマー≫を諦めきれない馬鹿共が動き出したのだろうか。

 

「スイレンさん」

 

「……いいよ。【渡り鳥】さんをし、信じる……から」

 

「ありがとうございます」

 

 教会は大聖堂にスイレンを移送し、万全の体制で警護するだろう。だが、教会にとって彼女は最優先ではない。教会の理念と存続を必ず優先する。下手を打てば護衛期間中に彼女は再び拉致され、あるいは殺害される。

 そして、教会の管理下において、オレはスイレンに対して自由なアプローチを護衛として取ることは不可能だろう。

 

「灰狼、プランF」

 

『了解しました。マスター、ご武運を……』

 

 オレは瞬時に教会服の内側からスモークグレネードを取り出す。交渉が上手くいっていると思っていたグリセルダさんとジャガーヴォックは目を見開く。

 スモークグレネードから放出されるのは赤い煙だ。グリムロックに頼んで準備してもらった催涙ガスだ。効果は低いが、通常の煙幕よりも攪乱効果が高い。

 今の内だ。周囲の地形は把握してある。隠れ家周辺の逃走経路が灰狼と昨日の内に入念な打ち合わせ済みだ。その中にはグリセルダさん経由で情報漏洩した場合の対処プランも含まれている。

 プランF。灰狼が単独でスイレンを伴って逃走し、オレが現場で包囲・追跡を攪乱する。合流予定のアジトはグリセルダさんも含めた黄金林檎は全く知らない、オレが完全隠蔽した隠れ家だ。

 灰狼の逃走を援護する為に別種のスモークグレネードを放る。効果は低いが、長時間滞留する、通称・ミストグレネード。その名の通り、広範囲を濃霧で視界を悪化させ、含まれた物質によって反響効果をもたらす攪乱重視の新型グレネードだ。グリムロックのオリジナルであり、まだ試作品の為にグリセルダさんも性質を把握していない。

 更に駄目押し。クラウドアース製のスタングレネード! 強烈な光と音を発生するオーソドックスだが、ミストグレネードとの相乗効果によって光は濃霧に拡散し、音は強烈に反響する!

 

「落ち着け! 3人防御陣形を維持しろ!」

 

 ジャガーヴォックは部下に攻撃・捕獲ではなく防御を指示した。やはり部下の安全を配慮するタイプか。

 スモーク、ミスト、スタンの3種のグレネード効果範囲外にも人員を割いているのは想定済みだ。当然ながらこの手の対策を施した装備を身につけているだろう。もしかせずとも目視で捉え、狙撃を狙っているかもしれない。

 だが、オマエはミスを犯した。相打ち覚悟で広範囲攻撃を繰り出し、スイレンの逃走とオレの自由を奪うべきだった。

 

「クゥリ君!」

 

「動かないでください。ジャガーヴォックさんが死にますよ?」

 

 さすがはグリセルダさん。トッププレイヤーに及ばずとも修羅場を潜り、またオレのマネージャーとして次なるアクションを想定していたか。だが、間に合わなかったな。

 霧が晴れた頃にはスイレンの姿はなく、ハンドガンをオレに突きつけたグリセルダさん、そして氷雪の大鎌で首を刈られる寸前のジャガーヴォックが露わになった。

 ジャガーヴォックのこめかみに汗が垂れる。だが、武器を抜こうとしなかったのは悪くない判断だ。その時は両腕を肘から切断していなければならなかった。

 ハンドガンを構えるグリセルダさんの眉間に皺が寄っている。教会剣の面々も副隊長を人質に取られて身動きできない。当然ながら、スモークを無効化する視覚補助装備を身につけていた人員を配置していたとしても、副隊長が人質に取られた光景は確認できたはずだ。灰狼とスイレンの逃走を見逃す事になっただろう。

 これが大ギルドの暗部相手だったらこうもいかなかった。上司だろうと同僚だろうと犠牲にして目的を達成したはずだ。

 だが、教会剣はギルド化したばかりであり、人員増加による組織拡充を急速に行っている。だからこそ、上司や仲間を犠牲にする判断は下せない。

 上司や仲間を犠牲にしてでも目的を達成する是非。ギルド化以前の古株、協会内における再編による配置換え、スカウト、募集、様々なルートで掻き集められた。たとえ教会を守るという高尚な理念を建前にして統率されているとしても、迅速な現場判断をするには責任の所在が浮いている。

 以上よりジャガーヴォックを人質に取れば、確実に10秒単位の硬直が生まれる。それだけあれば、灰狼ならばスイレンを連れてプランFに従い、尾行を撒いて隠れ家に移動できるだろう。

 

「……貴方のその頭のキレ、普段から発揮してもらいたいものね」

 

 そして、オレの思考を分析できたのはグリセルダさんは嫌みたっぷりに、オレは微笑みで返す。

 

「戦闘や殺し合い以外に期待しないでください」

 

 副隊長を犠牲にはできない。だが、スイレンを追わねばならない。ジャガーヴォックの部下達は武器を構えてオレを包囲している。攻撃のタイミングを見計らっているのだろう。

 ジャガーヴォックのレベルは不明だが、装備からして即死はないとも判断しているかもしれない。だが、相手がオレともなれば過小評価で行動することはできない。悪名と実績のお陰で想定以上の硬直を維持できるな。

 

「私はいつまで、こうしている、べきなのかな? 部下に下がるように命令した方が――」

 

「では、今だけ黙っているか、永遠に黙るか、どちらかを選んでいただいてよろしいでしょうか?」

 

 オレは確かに政治、交渉、取引は大の苦手だ。ならば最初からテーブルに着かないだけだ。話を聞かないだけだ。『力』で踏み躙るだけだ。オレにはそれしかないのだから。

 

「……状況を説明するわ。それでどう?」

 

「興味ありません。オレの仕事はスイレンの護衛。教会の監視・管理下では依頼を全うできない。スイレンの心身の安全を維持できない。ならば障害となる全てを排除する。それだけです」

 

 灰狼の能力は大よそ把握できたが、大ギルドの暗部クラスの追撃を受けたらスイレンを守り切れない。この硬直状態も維持し続けられない。

 最も簡単なのはジャガーヴォックはもちろん、この場の教会剣とグリセルダさんを殺害して攪乱する事だ。だが、最善手ではないな。さて、どうしたものか。ジャガーヴォックだけ殺害して首を持ち歩いてヘイトを稼ぐか? いや、組織として行動しているならば効果はあまり見込めないな。

 

「3大ギルドの合意で、スイレン……いいえ、リンネが保有する≪ボマー≫を教会の管理下に置く事が決定したわ。それに伴い、組織内の≪ボマー≫獲得を目論む勢力の抑制……応じない場合は排除が開始されたのよ」

 

「…………」

 

「その過程で黄龍会の背後関係が明らかになったわ。リンネを……≪ボマー≫を狙う黄龍会ははある大ギルド傘下の商業ギルドとの繋がりも明らかになったの。爆薬関連のね。まだ未確定だけど、黄龍会を操ってるのはヴェノム=ヒュドラと想定されるわ」

 

 なるほどな。黄龍会はヴェノム=ヒュドラの手駒だが、ヴェノム=ヒュドラの狙いはビジネスか。≪ボマー≫を獲得して強力な爆薬を製造し、繋がりのある商業ギルドに売却する。件の商業ギルドはこれを利用して新商品を販売しつつ、ヴェノム=ヒュドラを通じてレジスタンスに横流しか。

 強力な爆弾を用いれば、それに対処すべく新商品が求められる。新たな装備が、アイテムが、建築素材が要求される。開発元ならば対策はしやすい。レジスタンスの活動を煽ることでより大きなビジネスチャンスを掴むというわけか。

 大ギルドも裏では各レジスタンスを支援して敵対する陣営の削ぎ落としをしている。言うなれば代理戦争の1種だ。逆に言えば制御下にある火種でないならば容赦なく踏み潰して消火する。延焼して大火事になる前に。

 だが、≪ボマー≫がもたらす破壊は、言うなれば歩兵が活躍する第1次世界大戦の戦場に21世紀のミサイルをぶち込むような行為だ。大ギルドの生産体制に組み込まれたならば、保有する陣営が覇権を握るが、犯罪ギルド……ましてやヴェノム=ヒュドラの手に落ちればどうなるか。

 事情は読み込めた。教会が焦っている理由は、大ギルドが潰し損ねたのだろう。裏にいた商業ギルド、手先になっている黄龍会、そして最下層の巣穴が出張ってきたヴェノム=ヒュドラが≪ボマー≫を奪うべく最後の賭けに出たのだ。

 さて、ここで問題となるのはグリセルダさんを経由してスイレンの確保に動いた点だ。オレという個人の護衛では不安があると思っての行動か。それとも何としてもスイレンを確保せねばならない事情があったのか。

 ジャガーヴォックの目を見る。死の恐怖を踏破した戦士の目だ。同時に教会の教義に殉じる狂信者の輝きがある。エドガーの同類だ。だが、同時に彼のこれまでの言動から教義の為ならば異教徒を皆殺しにするような過激派ではない確率は高い。

 氷雪の大鎌の刃が突きつけられたジャガーヴォックの首。いつでも刈り取れる、生死の狭間にある人質。『人質』……か。

 

「……誰を人質に取られているんですか?」

 

「やはり、頭が回る……! 噂は当てにならんな」

 

 ジャガーヴォックが引き攣った笑みを浮かべるが、オレはさっさと答えろと氷の刃を首に僅かに食い込ませる。

 

「……『無差別』だ。黄龍会は≪ボマー≫を引き渡さなければ、終わりつつある街で無差別攻撃を行うと脅迫してきた。デモンストレーション付きの映像媒体と一緒にな」

 

 終わりつつある街は大ギルドと教会による秩序が最も敷かれた、全プレイヤーにとっての共通拠点だ。それを著しく破壊する行為とは全プレイヤーを敵に回すことになる。

 だが、貧富の差が激しく別れ、また先の旧市街と貧民街の悲劇さえも闇に隠すならば、下層・最下層の住人は中層・上層の被害はむしろ内心では歓迎しているだろう。

 だからこそ解せない。終わりつつある街ではトラブルが日常茶飯事だ。ヴェノム=ヒュドラと件の商業ギルドの支援を受けた黄龍会が暴れれば、確かに被害はあるだろうが、先のスイレン争奪戦のような大ギルド級の戦力を暴れさせても終わりつつある街は健在なのだ。

 それこそゴーレムを複数投入でもしない限りには不可能であり、だからといって先のゴーレムを何機も投入できるだけの資本があるわけでもない。

 件の商業ギルドが粛清を前にして自棄になったとしても、事前に配置でもしていない限りはゴーレムを暴れさせるなど不可能だ。あんなものが何機も終わりつつある街に隠してあるとは思えない。

 ヴェノム=ヒュドラ、無差別攻撃、教会の焦り……想定されるカードは少ない。最も対処が難しいのは……やはり『アレ』か。

 

「『症状』を教えてください」

 

「グリセルダ女史、実に噂は当てにならんな……!」

 

「私も驚いているわ」

 

 ヴェノム=ヒュドラにはユニークスキル≪操虫術≫を保有している。ザクロはあくまで個人戦力……暗殺・戦闘に限定したが、本領はむしろ≪ボマー≫と同類だ。即ち、生産・研究施設において効果を発揮する技術系ユニークスキルである。

 

「【テラ・モスキート】が終わりつつある街に多数持ち込まれている。フロンティア・フィールド生息のモンスターで、母体から無数の蚊を放出し、吸血攻撃を仕掛けてくる。≪調教≫による捕獲例は無し。大ギルドの見解では≪テイマー≫以外でプレイヤーの制御下にあるなどあり得ないとの事だ」

 

 そういえば、ザクロは≪操虫術≫を隠蔽していたのだろうか。確か太陽の狩猟団の専属だったはずだ。情報公開していたならば、太陽の狩猟団は≪操虫術≫の存在を隠していることになる。まぁ、今はどうでもいい。

 

「吸血攻撃にはレベル2の麻痺蓄積もある。従来の虫除けでは効果がない。温暖な湿地帯に生息するモンスターだから寒冷下では蚊の行動範囲・攻撃頻度も下がると予想されているが、あくまで予想だ」

 

 湿地帯となると下水道か。灰狼の逃走ルートには下水道も含まれている。些か不味いが、アイツの電磁索敵フィールドならば蚊の群れにも対処できる。

 

「テラ・モスキートには弱点がある。生息地で群生する【水銀蓮】だ。これを用いた香の準備を進めているが、最低でもあと24時間かかる……! だが、黄龍会は明日の朝までに≪ボマー≫の引き渡しを要求している!」

 

 面倒な真似をしてくれる。だが、事情は飲めた。件の商業ギルドも黄龍会も追い詰められているのだろう。裏で操るヴェノム=ヒュドラに脅されでもしているのか。仮に≪ボマー≫を手に入れても待ってるのは破滅だというのに。

 教会は≪ボマー≫の優先継承権を持つプレイヤーを予め準備し、黄龍会に取引に応じるつもりだろう。もちろん、≪ボマー≫がヴェノム=ヒュドラの手に亘らないように保険をかけた上で、だ。それまでには終わりつつある街の『最低限』をカバーできるだけの水銀蓮のお香を準備する。

 まぁ、普通に考えて準備できたとしても広大・複雑な終わりつつある街全域をカバーできない。上空から散布するにしても限界がある。そうなると貧民街・旧市街は被害を免れないだろう。まぁ、ヴェノム=ヒュドラも終わりつつある街全域を襲えるだけのテラ・モスキートを、それもろくに暖房施設もない貧民街で活動させられるとは思えない。

 スイレンさえ渡して時間を稼げれば、テラ・モスキートを使った無差別攻撃は無力化できる。

 どうでもいい。くだらない。オレにとって重要なのはスイレンの保護だ。邪魔するならば殺す。それだけだ。

 

「事情は分かりました。だからこそ、協力に応じるつもりはありません。貴方達のプランはスイレンさんの犠牲で成り立っている」

 

「リンネは≪ボマー≫を用いて虐殺した重罪人だ。それを庇うのか?」

 

「殺した人数だけならばオレが上です」

 

 スイレンの罪で説得しようとしても無駄だ。元より法など存在しないDBOにおいて、絶対的な理はただ1つ。

 

「今この瞬間は『力』こそが全てだ。オレはスイレンを『守る』と契約した。妨害する全てを排除する。教会の上層部に伝えろ」

 

 氷雪の大鎌を霧散させる。ジャガーヴォックが解放され、攻撃を仕掛けようとする部下達だったが、彼は腕を伸ばして制止する。悪くない判断だ。もしも攻撃していれば、オマエ以外の全員を殺して『見せしめ』にするところだった。

 

「クゥリ君!」

 

「プロデュース契約を打ち切りたければご自由に。違約金を希望なさるならばサインズにお届けを。では!」

 

 まずは灰狼と合流し、スイレンを守り切るプランを組み立て直す。尾行を振り払うべく、オレは雪が舞い散る終わりつつある街を駆け抜け、人の往来へと潜り込んだ。




獣の書・下巻に続く

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。