SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

351 / 356
前回のあらすじ

カーチェイスして大災害


遅れながら更新させていただきます

お詫びとなりますが、英雄、鬼、獣……3つの書を準備しました。

いずれから読んでもOKです。ある書では分からなかったことが、ある書では分かる……といったことがあるかもしれません


Episode21-13 アクイ ノ モノガタリ 鬼の書-上

 突き刺すような凍てつく空気に相応しい舞い落ちる雪。

 谷間に彫り込まれたるは巨大な仏像達。かつては信仰の地だったのだろう。だが雨風に晒され、緩やかに朽ちていくのみ。

 参拝客はいない。だが、信仰を知らぬケダモノ達は我が物顔で占拠する。

 猿。猿。猿。見渡す限りに猿ばかり。冷えた大気から守る獣皮と獣毛は分厚く、また大仏と大仏の間を飛び回る跳躍力は人間では手さえも届かず落下する谷間を渡り跳ぶ事ができる。

 落ち谷・深部、菩薩谷。その名の通りの仏像という人工物が彫り込まれた谷は、手入れ無き間に自然の侵蝕で朽ちて埋もれ、また猿たちに支配されている。

 この地を攻略する方法は2つ。谷間で地道に渡れる場所を探して行き来するか、1つ間違えれば落下死確定の仏像や木々を頼りに飛び移るかである。

 ステータス次第ではあるが、広い谷間において跳び回るには、相応のDEXと抑えた装備重量が必要となる。加えて雪による滑りも考慮すれば、微調整が常に求められるだろう。

 男は跳ぶ。迷い無く跳んで、それは半ば『飛ぶ』に等しい。だが、それは脚力に頼った跳躍のみであらず。

 左手で掴むのは鉤縄。鋭い3本爪の鉤縄を僅かな取っかかりに引っかけ、全身を使って引っ張り、跳躍に合わせて宙を舞う助けとする。

 

〔来るぜ、エイジちゃん!〕

 

〔分かってる〕

 

 男は……エイジは防寒効果のある襟巻で口元を隠しながら、鉤縄を使った空中移動中に襲いかかる『銃撃』を、身を捻って躱しながら仏像の掌に着地する。

 頭上より襲いかかるのは猿。だが、右手に持つのは刃毀れしたカタナだ。剣術と呼べるものではないが、猿の力で振り回されればむしろ鈍った刃の方が恐ろしい。叩き斬らんとばかりにエイジを四方から襲い来る。

 これに対してエイジは右手の得物、ダーインスレイヴを振るう。回転斬りで囲い込もうとした猿7体を同時に吹き飛ばし、続く銃撃……火縄銃を構えた猿に左腕を向ける。

 瞬間に猿の頭部が背後に反り、ノックバックする。瞬時に火縄銃に鉤縄を引っかけ、引き寄せて脳天から股にかけて裂く。

 1メートル程の体格の猿たちの耐久は低いが、攻撃力は高めに設定されている。高い機動力で谷間を動き回って翻弄し、縄張りに入り込んだ侵入者を排除する。

 菩薩谷の猿たちは、かつてこの地に住んだ人々から学び取ったのか、カタナや火縄銃といった人間の武器を器用に扱う。特に菩薩谷の下層の毒沼地帯には人間とほぼ同体格の二刀流の白猿がいて、トリッキーな動きとタフネスで攻撃してくる。その強さは下手をせずとも上位プレイヤーの近接剣士すらも上回りかねないものだった。

 だからこそ試練となる。エイジは猿たちの群れに爆竹を放り、激しい光と音と煙でスタンさせる。

 鬼火の剣・【瑠璃蛇】。呪術の火蛇の如く地を走る瑠璃火を放つ。瑠璃蛇は猿たちを吹き飛ばし、またガードした1体と衝突すると炸裂する。

 続く援軍の猿たちにエイジは左腕を向ける。それだけ次々と猿たちの頭部に何かが命中して吹き飛ばされる。

 それは太矢……クロスボウのボルトである。ただし、極めて小型……ダーツとサイズであり、矢羽根は無いに等しい。

 エイジの左手の籠手は不格好で洗練されていないが、やや大型化している。そこにはクロスボウ機構が組み込まれていた。命中精度は低いが、貴重な射撃手段である。

 また攻撃力は低いが、不足は無い。ボルトを使い切ると手首の仕掛けを起動させてボルト・カートリッジを弾倉の如く籠手から排出し、腰の新たなボルト・カートリッジを差し込む。

 籠手の射出口から放たれるのは【焙烙ボルト】だ。その名の通り、命中すれば爆発を起こす。DBOでは一般的に流通している爆裂ボルトと同類であるが、威力も範囲も劣る。所詮は真似た粗悪品である。

 通常で使用するのは【金剛屑】を利用した【金剛ボルト】。名前は厳ついが、DBOのプレイヤー市場……特に大ギルド製の純物理属性ボルトと比べても最低ランク品にも届いていない、せいぜいが中位プレイヤーが『質より数』で大量購入するだろう性能だ。

 だが、それでも貴重品である。エイジは猿を一掃すると谷間の割れ目から金剛屑を採掘する。素手による鉱石系アイテムの採掘はレアリティ・ランク・数共に悪くなるが、ツルハシさえもまともに手に入らない環境なのだから仕方ないのだ。

 

「はぁ、ひもじいねぇ……今日も猿を倒して、お手で屑石集めか」

 

「文句を垂れるな。鉱石も火薬も薬草も、ここが1番効率が良いんだ。それに鉤縄の訓練にもなる」

 

 エイジが鬼火の剣を習得し、鉄砲砦を突破してから300日が経過した。落ち谷の深部である菩薩谷は猿の領域である。

 無名の剣士と幾度となく戦い、ついに左腕の籠手が修復不可能の破損をしてしまった。耐久度回復ならば仏師でも可能だが、破損に関しては修復素材が不可欠であり、蠱毒の穴では入手不可能だったのだ。

 そこでムライが作った加工設備で素材加工を行い、仏師に設計図を渡す事で、籠手にクロスボウ射出機能を組み込んだのである。

 威力・射程は期待していなかったが、基礎設計が優秀なのか、エイジの想像以上に役立つものだった。

 だが、ムライが何も1から10まで設計したものではない。このクロスボウ内蔵機構は大部分が元から存在したものを利用しているのだ。

 荒れ寺にはエイジやムライ以外の、脱出すらも諦めたプレイヤーがいる。僅かばかりのメシに縋り付き、時間加速の影響から来る情報過多による疲労を軽減する為に、焚き火の周囲で死人のように丸まってぼんやりと1日過ごしている者達だ。

 ムライは魚の干物や干し肉を交渉材料にして彼らから装備を買い取り、それらから使えそうな部品を頂戴することでエイジの火だ腕の籠手を修復・改造したのである。

 あくまで酒の対価だとムライは宣っているが、あそこまで精力的に動かれると怪しまずにはいられない。だが、時間をかけてクロスボウを試したが、特に仕掛けらしいものはなく、純粋に武器として仕上がっていた。

 鉤縄に関しては消耗品である。最初は鉄砲砦付近で集めた藁と鉄屑で作り、何とか低耐久の使い捨て品だった。鉤縄で鉄砲砦を何度も落下死しかけながら突破し、菩薩谷に到達してからは、金剛屑で鉤爪を、【菩薩谷の猿毛】で縄を作っている。

 採掘・採取も終わり、エイジは菩薩谷の最深部……痩せ細った枯木が立ち並ぶ水場を崖上から見下ろす。

 水場の深さはせいぜい踝まで。エイジのTECではDEX下方修正は避けられないが、致命的では無い。問題なのは水場の奥にいる、こちらに背を向けて丸くなっている白い大猿だ。

 首には人間が用いるサイズとは思えない巨大な太刀が突き刺さっている。本来ならば即死・瀕死の傷であるが、大猿は微動していることから生きている。

 考えられる事は1つ、落ち谷のネームドだろう。だが、エイジは安易に挑まない。今日も観察だけで済ませ、ご丁寧に水場の前に置かれた鬼仏から帰還する。

 

「……戻ったようじゃな」

 

 今日も仏を彫る仏師に愛想は無い。だが、それはエイジも似たようなものである。軽い会釈で済ませ、雪積もる野外に出ると、倒れた灯籠に腰掛けて先端に火がついた丸めた樹皮を吸うムライを見つけると、ノータイムで眉間に皺を寄せた。

 

「……そんなに侘しいなら吸えばいいじゃないか。まだ残ってるんだろう?」

 

「分かってねぇなぁ。残り少ないからこそ、記念すべき日に吸うんだよ」

 

「たとえば?」

 

「俺が運動アルゴリズムの謎を解き、茅場晶彦に一泡吹かせてやる時さ」

 

「だったら一生来ないだろうな」

 

 エイジの辛辣な切り返しに、ムライは否定も怒りも見せずに苦笑した。その態度が彼の情熱を知るからこそエイジには気に食わなかったが、わざわざ言及するまでもない。

 

「鉤縄の耐久度が低すぎる。もう少し何とかならないのか? それに取り回しも悪い」

 

「おいおい、言っただろ? だったら≪鞭≫を取れ。そうすりゃ、もう少しまともな性能になる」

 

「貴重なスキル枠を消費するわけにはいかない」

 

 素材を変えたことで耐久面は改善されたが、鉤縄を持ち続けることで左手が使えなくなるのだ。クロスボウと同じく籠手に内蔵してもらいたかったが、さすがに無理があるらしく、腰にぶら下げているのだが、これがなかなかに動きを制限しているのだ。

 

「縄の厚さと長さがネックだな。言っておくが、クロスボウ機構だって、元々あったものをなんとかスリム化して強引に組み込んだものだ。ぶっ壊れたら修理できない。ボルトを生産できるようにしただけでも俺の大手柄だと思うんだがな」

 

「……感謝はしてるさ。ほら」

 

 エイジは溜め息を吐き、アイテムストレージから【猿酒】を取り出す。木の溝を切り取ったかのような杯には酒が満たされている。

 猿酒。それは猿が集めた果実に雨水が溜まって出来たとされる天然の酒だ。半ば伝説に近しい代物であるが、菩薩谷の猿は低確率でドロップする。

 火を噴く程に辛口の酒であり、味も雑だが、不思議と魅了される。猿酒を嬉々と受け取ったムライはアイテムストレージに収納した。

 ムライは得た酒を振る舞わない。研究の間に1人で楽しむのだろう。それはそれで構わないが、時々であるが、仏師の視線を感じるような気がするエイジは、約束があるとはいえ、仏師との友好関係を保つ為にも彼にも酒を渡したかった。

 

(わざわざ酒がアイテムとして多種も得られるのには理由があるはずだ。やはり、最重要なのは仏師殿か?)

 

 とはいえ、ムライに臍を曲げられては補給が困る。ボルトも鉤縄もムライが作った設備で素材の加工が不可欠なのだ。無い無い尽くしの環境で、≪鍛冶≫・≪錬金術≫・≪工作≫といったスキルを有するムライは荒れ寺でオンリーワンの人材なのである。

 ムライに補給を依存したくない。だが、彼がいなければ立ち行かない。エイジは拳を握り、荒れ寺に戻る。

 

「もう行くのか? メシは? 少しは休めよ」

 

「結構だ。時間が惜しい」

 

「おいおい、もう何日まともに休んでないんだ? いい加減にしないと脳がぶっ壊れるぞ」

 

 ムライが追いかけてエイジの肩を掴むも、彼はそれを荒々しく振り払う。

 

「この程度で休んでいられない」

 

「そんな死人みたいな顔色でよく言うぜ。なぁ、ノイジス?」

 

 ムライの傍らにあった食いかけの干物を啄んでいたノイジスは、翼を羽ばたかせるとエイジの頭に着地する。

 

「おうおう! もっと言ってやってください、ムライの旦那! エイジちゃんが24時間戦います宣言してるせいで、俺様まで休む暇は無いぜ!」

 

「だったら休んでて構わない。最近は僕だけでも何とかなる場面も増えたしな」

 

 事実だ。以前はノイジスのサポートが無ければ、いつ死ぬかも分からない瀬戸際も多かったが、ここ最近は菩薩谷でもエイジ単身で安定して突破できている。

 慢心ではない。だが、だからこその焦燥がある。ここ最近のエイジは安定して各ダンジョンから生還できている。だが、1つとしてクリアできていないのだ。

 成長が頭打ちになっているのではないのか? 限界に到達してしまったのではないか? 戦闘数に対して経験値も得難い蠱毒の穴ではレベルという目に見えた成長も遅々としているのも原因だった。

 無名の剣士とも毎日のように戦っているが、1度としてHPバーの1本を削れた事は無い。回生が無ければ、何回死んでいるのか分からない程だ。

 エイジが無名の剣士の動きを憶えれば、無名の剣士はそれ以上の対応をしてくる。無名の剣士は戦闘の記憶を継続して保有するのだ。エイジが強くなっても、無名の剣士はそれに対応する手札を揃えてくる。新たな策が通じるのは1度限りであり、エイジはそう幾つも手札を増やせない。

 

(持ち込んだ火薬は残り少ない。エドガーから貰った護符も残り僅か。回復アイテムさえも現地入手と生産品に頼らないといけないなんてな)

 

 今のエイジの生命線となっているのは、孤影衆が出現する城で入手できる、60秒間の効果極小のオートヒーリングを得る【苦い丸薬】。そして、菩薩谷で集めた薬草でムライが作ってくれた、HP2割を5秒かけて回復する【落ち谷の薬水】だ。

 丸薬は焼け石に水であるが、アバター修復効果であり、流血対策として機能する。だが、薬水は集めた素材の量に見合わない生産数と効能である。

 ムライは≪薬品調合≫も持っているが、さすがに本業では無く、また道具も無い。素材の加工設備についても品質劣悪で素材価値に見合っていないものしか作れないのは暗黙の了解である。

 仏師から補給できるとはいえ、せいぜいが食料と投げナイフのような攻撃アイテム程度だ。毒消しも購入できるが割高であり、菩薩谷で薬草収集した方が良い程であった。

 止まない頭痛と倦怠感、指先が震えて動きに精彩が欠ける時もある。

 体は……脳は休息を要求している。エイジもそれは分かっている。だが、同時に理解している。何も為せないままに1度でも休めば、底なし沼に嵌まるようにして2度と立ち上がれなくなる気がするのだ。

 

「お前さんも懲りんな」

 

 優しい顔の仏像から転移しようとしたエイジの背中に仏師が声をかける。

 気怠く顔だけ振り返ったエイジに対し、仏師の目は彫る仏像に注がれている。

 

「お前さんの牙は長さも鋭さも数も半端。それでは奴らの妄執と切望を食い千切れん」

 

「……諦めろと言うのか?」

 

「さぁな。じゃが、改めて考えてみることじゃ。お前さんの牙の使い方をな」

 

 発想が足りない。そう言いたいのか? エイジはいつものように無名の剣士の記憶に転移しようとして、だが変更する。

 視界不明瞭の霧に包まれた森。ネームド戦なのは間違いないが、正体を1度として掴めておらず、帰還も容易だ。だからこそ、鍛錬にならないと後回しにし続けた。

 そう、『鍛錬』だ。エイジが蠱毒の穴に身を投げたのは『力』を得る為だ。死闘の中で鍛錬を重ねる事だ。

 無名の剣士との繰り返しの戦いで確実に技術は磨かれ、実力を身につけた。今では多勢の猿を相手取っても戦い抜ける。孤影衆のHPバー1本目を削りきって撃退もできる。

 だが、そこから先には踏み込めていない。天井を感じ取って打ち破られないでいる。

 無名の剣士にしても『回生』があるからこそ何度も挑めているようなものだ。だが、それはルーチンワーク化していないか? 自分の技術を磨く為の修練の1部と化していないか。

 上位プレイヤーと準トッププレイヤーの差は何だ? 準トッププレイヤーとトップレイヤーの壁は何だ? トッププレイヤーとネームド単独討伐者の違いは何だ?

 重ねた鍛錬か? 蓄積した経験か? 専用の装備か? いいや、違う。全ては要素に過ぎない。何にも勝るのは確固たる自分の道を歩んでいる事だ。

 エイジは抜いたダーインスレイヴを見つめる。ネームドの能力をラーニングする事を可能とした、DBOでも希有なる強みを持った、レギオン由来のユニークウェポン。だが、使ってみれば分かる。全く同じ能力をぶつけ合えば、必ず負けるのがダーインスレイヴなのだ。

 無名の剣士相手に鬼火の剣では勝れない。同じ技をぶつけ合ったとしても、練度と理解の差で圧倒される。

 孤影衆に毒手は通じない。真っ向から毒手同士を競り合わせても、押し負けるか、ラーニングでは太刀打ちできない深奥で呑み込まれる。

 

「相変わらず、ビュンビュンと飛び回りやがって。で、どうする? エイジちゃんに秘策はあるのか?」

 

「…………」

 

「おいおい、無策で挑もうってなら無謀だぜ。ここは幸いにも命の心配が無いんだ。さっさと帰ろうぜ」

 

「……いいや、ここで奴を殺るぞ」

 

 認めねばならない。才能の限界を悟らねばならない。自分は【黒の剣士】のような無双の戦士にはなれず、【渡り鳥】のような最凶の傭兵と同じような戦い方は出来ないのだと。

 己の最大の武器をより高みに押し上げて敵を打倒する正道こそが【黒の剣士】。数多の手札で圧倒し、ありとあらゆる手段を用いて全てを滅ぼす邪道こそ【渡り鳥】。どちらも極みに至れる資格を持つからこそ選べる道だ。

 エイジは認める。自分には正道であろうと邪道だろうと到達することは出来ない。己の内に高みに手をかける才能はない。

 だが、それは負けを認めることではない。今この瞬間まで這ってでも、這ってでも、這ってでも前に進んで来たのだ。ならば、何を迷う必要があるというのだ。

 アイテムストレージから取り出したのは深淵の指輪。使うべきだと分かっていながらも、まるで最後の一線を守らねばならないという矜持が邪魔をしていた。

 

「ここで分からなければ、僕の負けだな」

 

 仏師が伝えたかった事を見出せねばどうなるか。エイジは深淵の指輪の闇に呑まれ、プレイヤーとは呼べぬ怪物同然となった以前の持ち主を思い出し、だからこそ装備する。

 何も起きない。そう思ったのも一瞬であり、深淵の指輪を通して血がどろりと重たく濁った泥水に置換されたかのような圧力が全身に帯び、脳髄が不愉快な生温い何かに浸される。

 

「エイジちゃん!? お、おい、こりゃ何だ!?」

 

 ダーインスレイヴを通してノイジスにも深淵が伝播しているのか、だが影響は小さいらしく、両手両膝をついて地面に突っ伏すエイジの周囲を飛び回る。

 止めろ。『うるさい』。ノイジスの羽ばたきが異様に大きく聞こえる。いや、違う。うるさいのは自分の心臓の音だ。

 震える足で立ち上がる。だが、視界の端で何かが蠢いている。

 虫だ。闇から這い出て意識を食む虫だ。だが、エイジはダーインスレイヴとより深く繋がる。スレイヴに強引な接続強化は危険だと忠告されているが、意識を喰らう闇に対抗するには、精神力をより具体的に抵抗力として変換する手段が必要なのだ。

 自分には心意が無い。仮想世界において『人の持つ意思』を『力』として発揮する『都合のいい奇跡』は起こせない。むしろ、奇跡を否定し続ける者なのだから。

 エイジがFNCでありながら戦える理由。精神が恐怖を上回り続ければアバター操作を可能とするシステムの根幹を成すのがレギオン・プログラムだ。視覚警告という形でエイジに最適化されたせいで、レギオン・プログラムがもたらす超直感は失われたが、中心となる歯車は変わっていない。

 深淵の汚染と拮抗する。『何か』が脳髄に語りかけている。『何か』がエイジの意識の主導権を奪い、根本的な目的意識を変質させようとしている。

 

「『火』を……消さない……と」

 

 立ち上がろうとしたが意識を刈り取られそうになってバランスを崩し、片膝をついた額を左手で押さえる。

 

「エイジちゃん、目が……!」

 

「……目?」

 

「右目の瞳が崩れて……白目が黒く……こりゃ深淵か!? 早く指輪を外せ! 俺も詳しくねぇが、ソイツはヤベェ! 剥げ竜が不死の研究で弄くり回した闇の……!」

 

 闇。そうだ。これは深淵だ。エイジはこの指輪がやはりただの装備アイテムなどではなく、DBOの枠組みから1歩外れていながらも、DBOの根幹を成す物語の中心にあるものだと悟る。

 だが、『要らない』。エイジを誘惑する『何か』は深淵の最奥に至った存在だと悟る。望めば絶大な恩恵を与えるだろう。これまでのエイジならば迷わず食いついただろう。

 それでは駄目だ。スレイヴに導かれてレギオンの片鱗を宿し、『ユナ』の仇だろうと頭を下げてライドウより武技を学び、破滅を悟りながらもエドガーから教会の恩恵を受けた。

 ここに来て深淵の指輪に……闇に与することに何の迷いがあるか? ああ、本来ならば、あるはずもない。だが、エイジには分かっている。ここで深淵さえも取り込もうとも、牙は届かない。

 超越者。【黒の剣士】や【渡り鳥】、ライドウといったエイジでは触れることさえも出来ない高みに到達した存在。そして、超越者に至る挑戦権を有した者達にもエイジの手は一生かけても届かない。

 どれだけネームドの能力をラーニングしようも、無名の剣士との戦いで基礎能力を高めようとも、回生という切り札を手に入れようとも、決して到達することはできない。

 

「お……おぁあああ……あぁあああああああああああああ!」

 

 吐き出された血反吐は、だが深淵の泥。憎悪を燃料にしたレギオン・プログラムがもたらす闘争心でも深淵の侵蝕に競り負け初めているのだ。

 まだだ。まだ負けていない! エイジはダーインスレイヴを逆手に持ち、刀身をその手で掴むと躊躇いなく自分の腹を刺し貫く。

 肉を斬る感触では無い。まるで汚泥に突き立てたかのような違和感だ。アバターが……血肉が闇に食い荒らされている。

 

「闇を……払うのは……光なら……!」

 

 瑠璃火! エイジの手元から生じた瑠璃火がダーインスレイヴの刀身を伝って傷口から浄化するように燃え広がる。全くの自殺行為の中で、エイジは瑠璃火に包まれて焼かれながら闇の中で意識を潜る。

 瑠璃火、それはイザリスの罪の1つ。闇を払う光の炎でありながら、だが闇への憧憬を持つが故に似た性質を持つ。たとえ、エイジの既知のシステムの外側から襲い来る深淵であっても、いや、だからこそ『込められた意味』が何にも増して効果を発揮するかのように、拮抗の助けとなる。

 後はHPがゼロになるか否か。エイジはその間に『何か』の誘惑を打ち負かして深淵の指輪の掌握……いや、その先を見ようとする。

 弾き主体の体制崩しからの必殺の一撃。ラーニングした能力と蠱毒による瑠璃火の付与。ノイジスというサポートユニットと回生。それらがあっても超越者にはなれない。

 

「ち、チクショォオオオオ! 大馬鹿野郎! エイジちゃんを死なせないぜ!」

 

 HPゼロ。回生によってHPが半分回復し、ノイジスが消えていく。

 死なせない。死にたくない? いいや、違う。最も怖いのは……負ける事だ。

 まだ負けていない。まだ負けていない。まだ負けていない。そうやって繰り返し続けて這うことが出来なくなることだ。

 

「僕は……僕はあの日から……ずっと……」

 

 スレイヴの手を取った時、ようやく立ち上がれた気がした。

 弱者であろうとも出来る事があるのだと『ユナ』の手を取った時、自分の足で歩いている気がした。

 だが、何もかも幻だったのだ。這い続ける芋虫が自分もいつか空を舞えるのだと竜に抱いた夢想だったのだ。

 

「ユナ……『悠那』……僕は……」

 

 ああ、キミは空を舞う翼を持っていた。より多くの人を救う歌を届けるという願いは、僕には眩し過ぎた。

 たとえ、戦えずとも、道半ばで倒れようとも、キミの心は……魂は……いつだって天上の星のように輝いていたんだ。エイジは憎悪で焼かれた思い出の中で、ユナの夢を奪った自分への変わらぬ憎しみを見つけ出す。

 蛹を経ても芋虫だ。蝶にも蛾にもなれなかった。エイジは瑠璃火に焼かれながら深淵に蝕まれる中で、ようやく仏師の言わんとしたことを理解する。

 数多の者は空を見上げる。空を飛ぶ超越者達に夢を見て、いつかは、やがて自分も同じ所に至るのだと足掻く。そうして限られた者だけが至れるのだ。

 這ってでも、這ってでも、這ってでも目指す。高みに? いいや、地を這う虫はようやく見つけたのだ。

 息も出来ない暗闇。だが、空の支配者達を覆す唯一無二の領域を。

 

 深淵。それは闇の世界。どろりと生温い人間性に見出された、水面に見た光の届かない闇。

 

 だが、それは深淵とはまた似て非なるものだ。

 

 エイジは直感する。これは自分が最初にたどり着いた境地ではない。自分にはそんな独創性も発想力も無い。そして、そこから先を引き出せるものをエイジ自身は持っていない。

 だから、今度はエイジが導く番だ。自分にFNCを克服する術を、ラーニング能力を、視覚警告を……多くを与えてくれたならば、今度は自分が刻み込む番なのだ。

 

「僕は……『空』を目指さない」

 

 温かく包み込むような陽光も、冷たくも優しい導きの月光も、空に宝石のように輝いて星明かりも……要らない。

 それは地底の底から噴き出すマグマのような憎悪の熱に滾られながらも、陽光も月光も星明かりさえも届かない世界。

 

 

 

 

 深海。深淵という概念から外れた、ひたすらに深く、深く、深く潜り続けた先に見た、もう1つの宇宙。

 

 

 引き抜く。盛大な血飛沫が腹から飛び散り、同時に全身を焼いていた瑠璃火が消え、また深淵の侵蝕が停止する。

 

「……ようやく、見えた」

 

 人々は空に太陽を、月を、星を見て天上を目指す。だが、己の足下に何があるのかを知らない。

 深海だ。光が届かぬ深みだからこその冷たさであり、煮え滾った地熱の渦であり、そして育まれるのは異形なる牙だ。

 長くなくても良い。鋭くなくても良い。数が多くなくても良い。それは牙の本質であらず。牙とは食い千切るものであり、砕き散らすものであり、磨り潰すものなのだ。

 瞬きの間に千切れないならば、砕けないならば、潰せないならば、食らい付き続ければ良い。長くも鋭くも多くもない牙であろうとも、強靱なる顎で挟み込み、深海に引きずり込むのだ。

 刹那、エイジの意識に何かが割り込む。ダーインスレイヴから伝わった熱にして冷たさが何かを見せる。

 

 

 

 

 天上を煌めくのは星と夜。それを映すのは深淵を孕んだ海面。

 

 いや、それは本当に正しいだろうか。深海より浮かぶ命の光、それこそがやがて空を満たしているのではないのか。水面に移し込まれているのは満天か、それとも深海より浮かび上がった光こそが夜を彩る星だというのか。

 

 星の空と海の狭間にて、『誰か』が踊っている。『誰か』はエイジに気付いたように足を止める。

 

 星と空と海。太陽と月を拒絶した、闇でありながらも光が確かにそこにある世界で、『誰か』は……純白は優しく微笑んだ。エイジが空を見上げるのではなく、すぐ傍の海……その深みに気付いた事を喜ぶように。

 

 

 

 

 

 祈りと呪いと海に底はなく、故に全てを受け入れる。

 

 

 

 

 

 エイジはHPが赤く点滅しているのを目にし、丸薬を食んで緩やかな回復を行う。

 ダーインスレイヴを通して伝わってきた、エイジを蝕もうとするレギオン・プログラムの奥底に隠された『何か』は、決してエイジを食い荒らそうとするのではなく、むしろ抱擁にも似た受容を垣間見せた。

 だが、それはきっと重要ではないのだろう。エイジが見たのは深海の時代。憎しみの熱であろうとも『何か』が育まれる、深淵の闇とは解釈が異なる闇だ。

 ならばこそ、更に深く、深く、深く潜ろう。憎しみが『力』を求めるままに。

 

「もういい。もう……『見えた』」

 

 HPを完全回復させたエイジは霧の森を飛ぶ謎のネームドを見据える。もちろん、姿形は目に映らない。だが、そこには確かにいるのだ。エイジは焙烙ボルトを連射し、周囲を吹き飛ばす。木は破壊不能オブジェクトであるが、霧は流動する。

 これだけ攻撃してもダメージ判定らしきものはなく、また攻撃にも移ってこない。エイジはこのネームドが謎解き型であると判断する。倒し方を見つけ出さなければ一生かけても蠱毒の穴から出られない、考え無しに戦うことしか出来ない者を嘲う、後継者らしい嫌がらせである。

 必要なのは暴力よりも知力。それもまた『力』だ。敵の能力を暴き、対策を立て、仕留める戦術と戦略が問われる。

 推測。敵の姿形が見えないのは、不可視だからか? 答えは否だ。エイジは確かに霧の中を飛び回る『何か』を見ている。輪郭からして猛禽の類で大きさは大人程度だ。だが、HPバーやネームドの証である名前は目視できていない。

 理由。このモンスターは姿形をぼんやりと見せて存在を薄く認知させつつも、こちらの攻撃を全く通じないというコンセプトがあるからだ。最大の目的はプレイヤーの物資の消耗である。エイジもムライが準備した設備で品質劣悪ながらも辛うじてボルトや回復アイテムを得られているが、それでもレベルには不相応な性能だ。

 そもそもとして、蠱毒の穴に侵入時に強制戦闘が1回。その後もダンジョン攻略も含めて最低でも5回のネームド戦を経て、再びコドクに挑まねばならない。

 仏師から購入できるのは食料や最低限のデバフ回復アイテムだ。素材を持ち込めばアイテムも作成してくれるが、荒れ寺の設備が設備であるだけに大したものは作れない。

 エイジの左籠手がそうであるように、激しい戦闘で、それもソロ専用において補給が厳しい中で、幾ら撤退が可能な戦いがあるとはいえ、あまりにもネームドの数が多い。

 エイジは最初から間違えていた。食料も豊富に獲得出来る。ある程度のアイテムも自力で補給できる。仏師が装備を修理してくれる。時間加速と撤退できる環境は鍛錬になる。そう思っていた。

 だが、この霧に隠れるネームドこそが教えてくれている。『全ては1発勝負で決めろ』である。

 時間をかけた鍛錬によって、基礎能力は高められた。だが、仏師や各ダンジョンでのアイテム補給を当てにしてはならない。もしも補給がどうしても必要であるならば、『別口』から行えとこれ見よがしに説明されている。

 そもそもとして、どうして蠱毒の穴はソロ専用なのに、複数のプレイヤーが荒れ寺で共存できるのか。エイジはここにも『蠱毒』

の意味を覚える。

 本来は1人で全てのネームドを倒すのではなく、複数名のプレイヤーが個々の実力で単独撃破し、最終的にユニークスキルを持ち帰る1人を巡って殺し合うというコンセプトだったのだろう。

 エイジは考える。蠱毒の穴に仕込まれた悪意は『パーティないしギルドにおけるバトルロワイヤル』だ。複数人で意気揚々と蠱毒の穴に入り込んでしまったプレイヤー達は、ソロで各ネームドを討伐しなければならなくなる。だが、生き残れるのは1人。いや、そうではなくともネームド戦ともなれば物資の減りは激しい。回復アイテム1個を巡って、昨日まで背中を預けていた仲間を後ろから刺す。

 愛、友情、仲間意識……全てをゴミのように捨てて奪い合って殺し合う。ユニークスキルはオマケの景品だ。悪意と殺意に煮込まれて生き残った1人……最強の毒虫だけが蠱毒の穴を出て、そして熟成された呪いをDBOに撒き散らすのだ。

 そう考えれば過剰な時間加速も納得がいく。裏コンエプトは『パーティ・ギルドという親しい間柄におけるバトルロワイヤル』であるならば、時間加速は檻となる。なにせ、他の……後から来る仲間以外のプレイヤーから物資を奪って先延ばそうという発想が通じなくなる。

 食料等の微々たる補給を可能とするのは、むしろ補給ができるという安心感の分だけ、その後のコンセプトを理解した時の絶望が深まるからだ。今のエイジのように、無い無い尽くしとなり、僅かばかりの互いの生命線を奪い合う。

 だが、後継者にとって予想外なのは、蠱毒の穴を管理したエバーライフ=コールがほとんど攻略を目指さなかった事だ。時間加速や情報収集で蠱毒の穴の特性こそ把握していたが、島送りのようにプレイヤーを送り込むだけだった。

 後継者はさぞや退屈だったに違いない。仲間同士の醜い殺し合いが始まると嬉々と待ちわびていれば、始まったのは戦う気力さえもない、焚き火を囲って貧しいメシを食すプレイヤーが落ちてくるだけなのだから。

 ある意味で、大多数の貧民プレイヤーからすれば、娯楽が無い以外は、貧民街よりもまとな生活なのかもしれなかった。自分たちの命を奪う犯罪プレイヤーもいなければ借金取りもいない。犯罪ギルドやコミュニティの縄張り争い事もない。モンスターさえも出現しないのだから。

 

(だからこそ、コイツはある意味で無名の剣士以上に凶悪だ。試行錯誤で必ず消耗を強いられる。攻撃アイテムや補助アイテムの補給は絶望的だからな)

 

 推測1、霧に溶ける能力か? だとするならば、空間内の霧を吹き飛ばす、ないし対象を霧から隔離しなければならない。

 

(違うな。霧に溶けているというよりも『攻撃が当たった瞬間に霧と同化している』ように見える)

 

 観測する。ボルトを盛大に使い捨て、猛禽の霧化したタイミングではなく、次の出現までの時間を計測する。

 

(時間は03秒から0.1秒未満。だが、再出現ポイントまでの距離はほぼ均一か。霧化から再出現までの時間差はなんだ?)

 

 更にボルトを惜しみなく消費する。だが、猛禽は攻撃を仕掛けてこない。これも不気味だ。孤影衆にしても無名の剣士にしてもエンカウントすれば即座に敵対して攻撃を仕掛けてきた。だが、霧に隠れる謎の猛禽はエイジからどれだけ攻撃を受けても反撃を仕掛けてくる素振りが見えない。

 あるいは、既にエイジに攻撃を仕掛けているのか? 否だ。攻撃してこない事が攻撃なのだ。あくまで物資の消耗こそが猛禽による攻撃そのものなのだ。

 故に推測2、能力が攻撃命中時に霧に溶ける能力ならば、攻撃後の移動地点を割り出せばカウンターできるのか?

 

(攻撃に対してオートで霧と同化するならば、攻撃命中と同時に周囲の霧を吹き飛ばしたらどうなる?)

 

 焙烙ボルトとは別に拵えた手投げ用の焙烙玉。ボルトの命中と爆発範囲を計算し、猛禽の霧と同化するタイミングに炸裂させる。

 見えた。猛禽は霧と同化しているのではない。霧状になって移動しているのだ。爆発で霧が吹き飛ばされる中で、白い靄だけが拘束で移動する瞬間を目撃する。

 霧化している最中は外部からの影響によって拡散しない。実体を霧状にしてあらゆる攻撃を素通しにするといったところなのだろう。加えて爆発の熱による蒸発も見られない事から、霧は霧でも水蒸気ではなく粒子状のソウルといった外部からの干渉を遮断した状態と呼ぶべきだろう。

 

(『攻撃に対するカウンターで発動』し、『発動中は無敵』。残る謎は、移動距離はほぼ一定なのに、どうして出現時間に格差があるのか、だな)

 

 心理的圧迫に呑まれるな。これは力押しで倒せる相手ではない。この敵の本質は謎解き……パズルだ。限られた物資を消耗して如何に手数を抑えて謎を解き明かすかの戦いだ。エイジは冷えた思考を維持し、焦燥を感じる事なく、じっくりと取り組む。

 

(オート発動ならば使用回数限界があるはず。どれだけ消耗を抑えて命中させ続けられるかが肝になる。だけど、あくまで能動的発動ならば……!)

 

 だが、どうやって奇襲を仕掛ける。相手は霧の中を自在に飛び回って輪郭以外を認識させないのだ。逆にエイジの方が奇襲され放題の環境である。

 

「……違う。発想を変えろ」

 

 求められるのは柔軟な視点。エイジにとって視覚が制限された環境であるからこそ、霧を吹き飛ばそうとして、だが同時に霧化されて回避される。

 必要なのは環境の変質。エイジは猛禽の飛行ルートとタイミングを計算すると、自分に最接近する瞬間を見計らい、周囲へと多量の爆竹をばらまく。

 激しい音と光……そして何よりも煙。エイジの周囲環境が霧ではなく煙に満たされる。

 これで対等。これでそちらも見えないはず! エイジは鉤縄を投げ、ついに確かな重みを掴んだ感触を握りしめる。

 

「捕まえた」

 

 それは白い霧の中でどうして目視できなかったのかと疑いたくなる程に黒い羽を持った巨大な烏だった。<薄井の森の迷いがらす>という名を持ったHPバー2本のネームドである。

 よくよく見れば羽に切り込みがあり、そこから僅かな霧……霧状のソウルが滲み出ている。だが、鉤縄が引っかかったことで逃げ出すことが出来ていない。

 どうして? エイジは分析する。鉤縄は食い込んでいるからか? だが、攻撃に対して能動的に発動するならば、今の状態からも即座に脱出できるのではないのか? 爆竹が作り出した煙幕が無い今ならば自分が鉤縄で捕まった事は認識して霧化を発動できるはずだ。

 

「……弱点は『認識外で受けた拘束攻撃』か」

 

 羽がから霧状のソウルが滲み出ているのは能力を発動させようとしている証。だが、鉤縄が食い込んだ状態が単なるアイテム攻撃ではなく『拘束状態』とシステム的に判別され、霧化を阻害しているのだ。

 エイジは鉤縄を一気に引き寄せて迷いがらすを地面に叩き付ける。そして、その烏と呼ぶには大き過ぎる体躯を踏みつけにするとダーインスレイヴを突き立てる。

 鳥類特有の甲高い絶叫が上がり、だがエイジは気にすることなくダーインスレイヴのエンジンを起動させ、破壊力を引き上げながら斬り上げる。

 血を撒き散らしながら木に叩き付けられた迷いがらすのHPバーが削りきられる。重たい攻撃のつもりだったが、まさか一撃で削りきれるとは思っていなかったエイジは拍子抜けよりも危機感を募らせる。

 瞬間に迷いがらすのスピードが一気に上がる。これまでとは異なり、明確にエイジに対して攻撃するべく爪を振るう。

 頬を裂かれたエイジはダメージの低さに驚いた。確かに回避したが思わぬスピードで回避行動が遅れてしまった。傷は決して浅くない。だが、その割にはダメージは微々たるものだ。

 毒のようなデバフ攻撃? いいや、違う。迷いがらすは再び狩りでもするように霧に忍んで突撃してくる。

 今度は対処できる。エイジは爪をダーインスレイヴで弾こうとするが、接触した瞬間に迷いがらすの姿が霧化する。

 やはりオートではなく能動的カウンター回避! 霧化したかと思えばエイジを突き抜けていく。どうやら多少の障害物……プレイヤーのアバターくらいならば素通りできる霧化のようだった。

 だが、今までと違うのは周囲にばら撒かれた羽だ。それらは切り込みから朱が滲んでいる。

 爆発。羽の1枚1枚が着火したかと思えば業火となり、迷いがらすが霧化して通り過ぎた空間全てを焼き焦がす。

 

「パズルゲームは終わりか!」

 

 謎解きだけでクリア。そんな甘いわけがない。秘密を知った者は殺すとばかりに迷いがらすは執拗にエイジへと攻撃を仕掛けてくる。

 先程のように爆竹で視界を奪うか? いや、通じないだろう。先程までの迷いがらすはエイジの攻撃が全く通じないという油断、慢心があったからこそ罠に嵌まってくれた。だが、今の迷いがらすにはどんな時でも霧化を発動するという心構えが出来ているように思えた。

 羽の爆発はダメージも大きい。近距離でわざと攻撃に当たって無敵移動付きのカウンター攻撃とは、順当にして凶悪な強化である。

 ならば持久戦か? いや、それも通じないだろう。霧の中で何かが蠢いている。それは人であり、狼や狐といったケダモノだ。

 より凝縮して、霧の中でもあってもなお濃い霧が形となり、それらは鍬といった農具を持った人の形状となり、あるいは牙を持つ獣を模る。

 想定外ではない。迷いがらすのメイン攻撃はあくまでカウンター。爪の攻撃も貧弱ならば、別の部分でプレイヤーに圧迫をかけるのは想定通りだった。

 霧の幻影は次々と生み出されてエイジに襲いかかってくる。ソロ専用でありながら数の暴力だ。だが、この程度ならばネームド戦において可愛いものである。

 まずは幻影の数を減らす。幸いにも耐久面は脆い。ダーインスレイヴで2回も攻撃すれば霧に戻る。スタミナというタイムリミットを考慮しなければ、生産数を上回るだけ減らし続ければ、数で圧殺されることはなくなる。

 だが、エイジは迷いがらすの真の恐ろしさを味わう。エイジが幻影を減らそうとした瞬間、突如として彼の周囲に迷いがらすの朱染めの羽が舞う。

 幻影という数の暴力。プレイヤーが取れる選択はほぼ1つ、幻影を『攻撃』で減らす事だ。こちらの攻撃に対し、迷いがらすは霧に紛れて接近することでわざと攻撃に接触し、カウンターを発動させたのだ。

 

(能動的カウンター能力……これが本質か!)

 

 そうだ。カウンターだ。最初から迷いがらすの攻撃の本質を最初から見抜けていたではないかとエイジは後悔を噛み締める。

 無敵回避は攻撃にこそ有効だ。相手の攻撃を霧化で透かし、的確なポジションを取ってカウンターする。回避から次なる攻撃へと繋げられるからこそのカウンター能力なのだ。

 

 加えて炎の攻撃は強制カウンター判定になるらしく、ダメージが大きい。エイジのHPは2回の炎カウンターによって2割を斬っていた。更に爆熱による衝撃で動きが鈍ったところに幻影が群がる。

 これが迷いがらす戦における死の理想型なのだろう。囲われた瞬間にエイジはダーインスレイヴを振るう。それだけで彼の周囲で凝縮された瑠璃火の刃が

 

「鬼火の剣・【瑠璃の渦雲渡り】」

 

 連続斬撃が生み出す真空刃で周囲の空間を裂く。それが本来の渦雲渡りであるが、無名の剣士は瑠璃火を得たことで別の形で次元させた。それは彼が呪術と剣術の組み合わせで到達した、秘伝の異形である。

 鬼火の剣は言うなれば瑠璃火専用のソードスキルのようなものとして機能している。無名の剣士が編み出した瑠璃火を融合させた剣技、あるいは剣技の域を完全を外れて呪術と呼ぶべき武技である。

 所詮は無名の剣士が魅せる『本物』とは比べるべくもない猿真似の劣化。故に鬼火の剣の神髄は己の手で如何にして瑠璃火を用いた武技を編み出すかにある。

 だが、たとえ劣る猿真似であろうとも、倣うことでこそ全ての真髄である。エイジは無名の剣士との戦いで殺人剣とは何たるかを知ることができた。

 瑠璃の渦雲渡りで周囲の幻影を一掃したエイジであるが、瞬きの間に彼の周囲を朱の羽が舞う。

 範囲無差別攻撃など能動カウンターのカモだ。弱くとも数の暴力として機能するからこそ、プレイヤーは一掃できる範囲攻撃を選ぶ。それを容赦なく突くという、実に合理的な判断である。

 合理的判断。逆を言うならば、『読みやすい』とも言える。

 霧がらすの判断は満点の正解である。これで仕留められるならば良し。そうでなくとも次の攻撃チャンスは幾らでも巡る。

 無敵回避を有したカウンター能力。幻影を利用するにしても『それ以外を持たない』からこその選択肢の乏しさ。

 だが、何よりも迷いがらすにとって予想外だったのは、エイジの持つ切り札を想定できなかった事である。

 

 

 

 

 

「ラーニング【霧がらす】」

 

 

 

 

 

 朱の羽の爆発をラーニングした霧化移動能力で脱し、霧に紛れるという迷いがらすの強みをそのまま奪って頭上を取ったエイジは迷いがらすの胴体にダーインスレイヴを投げつけた。

 第1段階で既にダーインスレイヴは迷いがらすのクリティカル部位を……心臓を刺し貫いている。能力も確認済みであるならばラーニング可能だ。そして、エイジは既に分析の段階で自分がどのような能力をラーニングするのか判別できている為、1発勝負においても迷う事は無い。

 放られたダーインスレイヴによって地面に縫い付けられた迷いがらすは暴れる。突き刺した状態で『拘束』』すれば、もう逃げることは出来ない。だが、残る幻影が迷いがらすにトドメを刺す前にエイジへと群がる。

 着地したエイジは左拳を掲げる。毒手は蠱毒融合によって瑠璃火と化し、左手に凝縮している。

 このまま迷いがらすに叩き込めば終わりだ。だが、エイジは先を見据えて、危惧すべき状況だからこそ実用性を確認する。

 拳の先に現れたのは黒い球体。深淵の指輪がもたらす『闇』。エイジはまるで闇を叩き潰すかのように拳を迷いがらすに振り下ろす。

 炸裂した闇に毒手で溜め込まれた瑠璃火が着火する。闇を燃料にして瑠璃火は眩い爆発となって周囲へとドーム状に広がる。

 迷いがらすは肉片となって飛び散り、幻影と構成する周囲の霧は消し飛ぶ。

 

「やはり、瑠璃火と闇は相性が良い」

 

 瑠璃火は闇を浄化する炎だ。ならば闇は瑠璃火を強化する『燃料』になる。

 エイジは悟っている。自分は無名の剣士以上に瑠璃火を純粋に武技として昇華させることはできない。エイジにはそこまでの『剣』の才覚が無い。

 無い才能に頼る必要こそ無いのだ。エイジは自分の周囲からにじみ出す闇……泥というよりも重圧を伴った油のような水……深海の力を、ダーインスレイヴを通して制御する。

 鬼火の剣は瑠璃火のソードスキルのようなものだ。ソードスキルそのものではない。瑠璃火を制御して様々な形と範囲を与えるものだ。

 故に併用可能。蠱毒融合によって瑠璃火を宿したラーニング能力を自分の望んだ形に変異させる。毒手を瑠璃火の炎に変え、瑠璃火の大爆発の中心にいながらもエイジは無傷だった。

 

「『我流』鬼火の剣・【地獄門】」

 

 ソロ専用とはいえ、初の単独ネームド撃破。エイジはファンファーレを鬱陶しく思いながらシステムウインドウを開く。

 ネームドの撃破報酬として得られたのは3つ。

 まずは瑠璃火のエネルギー量を示す形代の増加。HPバーの下に1個しかなかった形代が2個に増えていた。

 次に【戦いの記憶『迷いがらす』】である。用途は2つ、【迷いがらすのソウル】に変換するか、【形代を増やす】か、【≪瑠璃火≫を拡張する】か、である。

 ソウルにすれば持ち帰って素材にするも良し、砕いて経験値にするも良し、売却してコルにするも良し。汎用性は高いだろう。

 形代を増やすならば単純に瑠璃火をより多用できるようになる。単純ではあるが、持久力の引き上げは無視できない。

 そして、拡張とは≪瑠璃火≫の能力を増やすことが出来るようだった。

 

「『増やした形代と拡張した能力は、殺害された場合、殺害したプレイヤーに譲渡される』……か」

 

 ソウルにするのがお得だ。だが、形代と拡張も捨てがたい。エイジが悩んでいると、周囲の空間が輪郭を失い始める。主たる迷いがらすを失って崩壊が始まったのだろう。

 霧に飲まれた森は、霧となって曖昧となり、溶けて消えた。

 転移特有の浮遊感の後、エイジは暗闇を開くように瞼を開ける。

 優しい顔の仏像がまず目に映り、エイジは荒れ寺に戻ってきたのだと悟る。次に卵の殻を被り、丸々と太った雛のような幼体となったノイジスの信じられないといった様子に顔を顰める。

 

「おいおい、嘘だろ。なんで自殺紛いから霧の森の主をぶっ殺してんだよ!? それに闇は!? 闇を手懐けたのか!?」

 

「……うるさい。後で説明する」

 

 ノイジスからすればエイジがいきなり闇に蝕まれて自殺しようとしたようにしか見えず、また感じられなかっただろうが、エイジは停滞を打ち砕く為に、これまで避けていた指輪の使用に踏み切ったのだ。

 代償としてダーインスレイヴとのリンクを強化しなければならなかったが、得られた『力』に比べれば己の心身を削るなど軽いものである。

 エイジは装備画面を開き、ひとまず深淵の指輪を外そうとするが、小さな異変に気付く。

 

(指輪の名前が変わってる。【深海の指輪】……か)

 

 深淵ではなく深海を知った。闇の解釈が異なった。故にもはや深淵の指輪ではないのだろう。ステータス上昇効果は失われてしまっているが、オートヒーリング、アバター修復速度、スタミナ回復速度、魔力回復速度といった、回復・再生に特化されたバフ効果があるようだった。

 また、誓約が変更されている。今のエイジの誓約は焔狩りだ。誓約スキル≪闇の従属≫は攻撃・効果範囲拡大の特殊闇属性エンチャントとなっている。ただし、このスキルを保有する限り、光属性に対して弱体化するデメリットがあるようだった。

 

(使い方がある程度は手に取るように分かる。これが深淵の……いや、深海の指輪の力か)

 

 鬼火の剣・地獄門は闇の衝撃波を瑠璃火の燃料とすることで破壊力を増幅させた。瑠璃火が闇を燃やす特性を持つならば、使い方次第では戦術を増やせる。

 深海の指輪で得たタフネスと瑠璃火強化。そして、迷いがらすからラーニングした能動的カウンターの霧がらすだ。相手の攻撃が自分に命中した瞬間に霧化し、高速移動が可能になるというものである。ただし、拘束状態では発動しないのは迷いがらすで実証済みであり、過信はできない。

 霧がらすは使う度にスタミナを消費するのだが、ラーニング能力の説明の限りでは、最大移動可能距離はDEXに応じ、またジャストタイミングで発動すると再出現までの時間が短縮化され続け、スタミナ消費も大幅に軽減される。

 移動距離は一定だったのに出現までの時間がバラバラだったのは、迷いがらすの発動がジャストタイミングだったか否かの違いだったのだろう。

 エイジの体感では霧がらすのスタミナ消費は大きい。連用すればスタミナの枯渇は速まる。だが、完全に相手の攻撃を見切った上で発動すればスタミナ消費は軽減され、なおかつ出現までの時間短縮=高速移動としても機能する。

 研究は必要になるが、大きな武器となるのは間違いないだろう。エイジは荒れ寺を出ようとして、だが足を止めて仏師の真横に腰を下ろす。

 

「ようやく僕の牙の使い道が分かった。感謝する」

 

「お前さんが自力で手に入れた牙だ。せいぜい自分自身が喰われないように気を付けることだな」

 

 深海の指輪の事は知らないはずだ。だが、エイジを直視せず、掘り続ける仏像だけに眼を向ける仏師には同情とも異なる何かがあるような気がした。

 無視しても構わないのだろう。だが、エイジはダーインスレイヴを差し出し、仏師との語らいを望む。

 

「見事な剣だ。絡繰りには覚えがある儂じゃが、これほどに精巧な仕組みは知らぬ」

 

 アーチボルドの作とはいえ、大部分の機構はジャンク品だ。それでも精巧と言わしめるのは時代による技術レベルの差か。修理で耐久度回復を行う仏師の褒め言葉に、エイジは自分の右目を手で覆う。

 感じる。すでに右目の瞳は蕩けて崩れておらず、闇にも蝕まれていない。だが、気を抜けば溢れ出そうな……豪雨で決壊しかけているダムのような危うさがある。

 ダーインスレイヴによって人間でもレギオンでもない出来損ないの何かになってしまった。そして、深淵の正当なる誘惑を拒んだ事で、闇の眷属となることさえも蹴った。

 そうして手に入れた『力』がある。だが、まだまだ足りない。もっと力が必要だ。残されたカードは1枚。使えるか否かは問題ではない。ダーインスレイヴと深海の指輪、この2つを使用した状態で最後のカードを切らねばならないのだ。そうしなければ、永遠に敗者のままだ。

 

「……一杯やるか」

 

 ダーインスレイヴを返却した仏師に誘われ、エイジはお猪口を借りる。

 仏師が床板をずらして取り出したのはどぶろくだ。驚くエイジを尻目に、仏師は彼の手にあるお猪口に注ぐ。

 仏師は自分のお猪口に溢れる程に注いだどぶろくを口にし、じっくりと味わうように瞼を閉ざしてぼそりと呟いた。

 

「何処でこれを?」

 

「ムライ……奴が『手付け』だとな。お前さんが欲してた新たな鉤縄……そいつを実現するには骨が折れるのでな」

 

「…………っ!」

 

「このような場所じゃ。銭よりも余程に価値がある。奴はそれをよく分かっておる」

 

 自分で飲む為ではなく、交渉材料として酒を欲していたのか。エイジはムライの真意が分からずに困惑する。

 蠱毒の穴から脱出できるのは1人だけだ。ムライは時間を欲して蠱毒の穴に籠もっているはずだ。≪瑠璃火≫を持ち帰ろうと企むエイジは彼にとって障害でしかないはずだ。

 だが、ムライはエイジに契約を持ちかけ、最後まで生かすという条件の下で協力し、なおかつ酒を自発的に振る舞って見えぬサポートまでしてくれていた。

 黙って酒を口にするエイジに、仏師は何か語りかけることもなく、だが左腕を……肘から先が無いそれを毟るように掴む。

 

「疼くのか?」

 

「まぁな。この腕は、この酒を好きな御方に……斬り落とされたのじゃ」

 

 物騒な話だ。だが、仏師の目には憎悪も憤怒もなく、故にエイジは戸惑う。単なる年月を重ねて思い出になったのではない、今もなお続く感謝の念があったからだ。

「斬って……くださったのじゃ。飲まれかけた、儂の為にな……」

 

「何に飲まれかけたんだ?」

 

 エイジの問いかけに、仏師は過去を明らかにする気はないとばかりに酒を煽る。

 

「……修羅」

 

 そして、絞り出された一言には彼の人生の全てが凝縮されているような気がして、エイジは呼吸が止まりそうになる。

 恐怖ではなく、威圧でもなく、後悔ですらなく、故に仏師はエイジを見ることなく、だが彼に対して明言する。

 

「信じるか信じないかは、お前さん次第じゃが……せいぜい気をつけな。修羅の影にな……」

 

 再び仏像を彫る音が静寂を刻み、エイジは荒れ寺を出発してムライが住まいである竹林の奥へと向かう。

 相変わらず研究は進展していないらしく、ムライは壁に打ち付けられた用紙を睨んでいた。

 

「……やっと1体、倒した」

 

「そうかい。やったじゃねぇか」

 

「次は孤影衆を倒す。その次は大猿だ」

 

「ボルトや焙烙玉がいるな。数は少ないが出来ている。大事に使うことだな」

 

 ムライが指さした木箱を開ければ、あと2回はネームド戦に耐えられるだろう、薬やボルト、攻撃アイテムが詰まっていた。

 迷いがらすでは回復アイテムよりもボルトや爆竹を大量消費した。次の戦闘ではなるべく抑えたいが、出し惜しみはできない。エイジは補給を済ませると、ムライは革袋を投げ渡す。

 

「これは?」

 

「黒松脂を乾燥させて粉状にしたものだ。焙烙玉や爆竹の材料として使うには火力が強くて、今の素材と設備じゃどうにもならねぇんだ。お前がどんな戦い方をしてるのか知らないが、爆薬を多用してるみたいだからな。最近は酒もよく集めてくれるし、まぁ、俺なりのサービスってやつだ」

 

「おぉ! やったじゃねぇか! エイジちゃんはここ最近ずっと爆薬不足に悩んでたからな!」

 

 言葉通りに受け取って喜ぶノイジスを睨んで黙らせたエイジは、無言でムライの喉元にダーインスレイヴを突きつける。

 

「ちょ……エイジちゃん!? やっぱり闇に蝕まれて狂っちまったのか!?」

 

「黙れ。僕は正気だ。正気のつもりだ。だが、アンタは何なんだ?」

 

「…………」

 

「僕は確かに武器や道具の融通を依頼した。対価として酒を渡すと約束した。だけど、お前の考えが分からない。お前に何の得がある? 仏師殿に酒を振る舞って……融通を利かせて……それで……何の……」

 

「お前、やっぱり糞真面目な奴だな」

 

 ムライは笑うとダーインスレイヴを無視して岩肌に近づくと打ち付けられた研究資料を撫でる。

 

「お前との約束を守る為には酒を通貨にするのが最も手っ取り早かった。俺の取り分はしっかり貰ってるしな。むしろ、お前が正直過ぎるんだよ。馬鹿みたいに手に入れた酒は片っ端から渡しやがって。この場所で酒がどれだけの価値があると思ってんだ」

 

「僕には酒に何の価値もないだけだ」

 

「お前は頭が良い。酒の利用価値くらいすぐに気付いたはずだ。だが、お前は律儀に俺に酒を渡した」

 

「嘘も吐くし、騙しもするが、自分の生命線を危うくする程に馬鹿じゃない」

 

 エイジの切り返しに、ムライは心底から嬉しそうに、あるいは悔しそうに笑い声を上げた。それは不思議と不愉快ではなく、むしろ哀愁を覚えてしまい、エイジはダーインスレイヴの切っ先を下げる。

 

「やっぱり、お前は『良い奴』だよ。いいや、違うか。『良い奴だった』んだろうな」

 

 ムライは懐から紙くずにしか見えない煙草の紙箱を取り出し、だがやはり吸うには勿体ないと首を横に振る。

 

「俺は『悪い奴』でお前は『良い奴だった』。それでいい。それでいいのさ」

 

 その後、ムライはエイジに何かを語りかけることもなかった。

 エイジは考える。また1体、次のネームドを葬ってくれば、彼は何か語ってくれるのではないだろうか。毒にも薬にもならない無駄話をしてくれるのではないだろおうか。

 期待しているのか? いいや、そんな馬鹿な。心を許してなどいない。ムライを殺す。殺す以外の選択肢はない。ならば、わざわざ思い入れを抱く必要が何処にあるというのだ? エイジはそれこそ愚かであると鼻を鳴らす。

 

 本当は分かっている。くだらない感傷などあるはずがないと自分に言い聞かせたくなるくらいには、ムライという個人に対して興味以上の……同族嫌悪を抱いてしまっているのだ。

 

「『どうでもいい』んだ。もっと『力』を……!」

 

 だからこそ、欲するのは『力』だ。

 

 くだらない興味も、息詰まるような感傷も、脳髄を引っ掻くような過去の想起も、全て深海の奥底で憎悪に飲まれてしまえばいいのだと『力』を求める。

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

 むせかえるような血のニオイ。散らばるのは破壊されて『中身』を撒き散らした人間だった肉塊。そして、四方八方から注がれるのは熱を帯びたスポットライトの光だった。

 エバーライフ=コールが保有する裏闘技場の1つ。多額の借金を抱えたプレイヤー同士が『素手』で戦う、正方形かつ四方をロープで囲んだ、多くの人が親しみを持つ模範的なデザインである。

 とはいえ、元を辿ればエバーライフ=コールが設計したものではない。素手による殺し合いを催していた犯罪ギルドの1つより組織基盤ごとエバーライフ=コールが買い上げたものだ。

 DBOの表社会は3大ギルドと教会によって成り立つが、裏はDBO原初の混沌が今も根付いている。いや、むしろ裏こそが本性と呼ぶべき暴力と享楽を残している。

 DBO初期はギルドが持つ影響力も支配力も絶対ではなく、また現状のような3大ギルドと教会による秩序の構築などまるで予想されていなかった。

 誰もが個人の実力で自由に生き、あるいはねじ伏せ、または支配ができた。個人の才覚1つで何でも出来るような全能感がそこにはあった。

 無論であるが、DBOの絶望的な難易度や3大ギルドの登場によって、人間は社会を構築し、社会に帰化し、社会に安堵する生物であると証明された。

 だが、現実世界がそうであるように、人間は光の当たらぬ闇を求める。公平・公正・平等こそが尊いと謳いながら、理不尽と不病と格差に愛おしさを覚えるのだ。法と道徳の秩序こそが人類種の進歩の証と宣う口で、横暴と欲望で満たされた甘い蜜を食むのだ。

 

「お買い上げしてもらった『商品』の用途にクレームをつけるつもりはないけど、さすがに気分が悪くなるわ」

 

 散らばる人体パーツはかつてこの闘技場で名を上げていた選手達だ。彼らは情け無用のファイターであり、時として殺人も辞さない闘争心の塊だ。

 エバーライフ=コールは倫理観からかけ離れたショーを開催するが、大半はより健全性を保ったエンターテイメントだ。

 どれだけ刺激的なショーでも恒常性が確立されれば価値が薄れる。あくまで残虐ショーは客寄せの一環に過ぎず、安定した収入は再利用可能な選手によって成立する。

 この闘技場の選手は≪格闘≫スキルの所持と中堅レベルに到達した戦闘慣れしたプレイヤーばかりだ。出場理由は借金ばかりではなく、モンスター相手ではなかなか発揮しきれないリアル技能の格闘術・武術をより効率的に活かして稼ぎを得ようとする野心的なプレイヤーも多い。

 売却されたのは借金持ちの選手ばかりであり、生殺与奪をエバーライフ=コールが握っていたものばかりであるが、安定した客寄せを約束していた、決して少なくない数の人気選手も含まれていた。

 故に売却には損失を上回るだけの支払いがあってこそ成立したのであり、売却先で彼らが非業の死を遂げることもまた予見できた上でサインをしたのであるが、それでもこうして目をかけた選手が物言わぬ死体となるのは気が滅入るものだった。

 

「……カリンか」

 

 かつて闘技場で声援と共に確かな栄誉を得たファイター達を殺戮した者は、気怠げに前髪を掻き上げながら、ボディガードを連れながらリングまで降りてきたエバーライフ=コールの女主人……カリンへと剣呑な視線を向ける。

 墨汁で染め上げたかのように艶の無いボサボサの髪は野獣のようであり、普段は面白Tシャツとジャージズボンとサンダルというふざけきった格好をする男、ライドウ。だが、今は上半身裸体であり、下半身は血を啜った白い道着の下衣を履いている。素足で指は血と肉を捉えてもなお滑らぬ不動を思わせる姿は、まるで大地に爪を立てる猛獣のようだった。

 

「足りない。この程度はまるで足りない。錆落としにもならない。使えないゴミ共が」

 

 辛うじて原形を残していたファイターの頭部を踏み潰し、血と脳症を撒き散らしながらライドウは不満を口にする。

 DBOでも最強の近接格闘のプロであるライドウ相手に素手で善戦できるプレイヤーは、たとえ上位・トップ・傭兵の全てを含んでも3人といないだろう。なにせ、ライドウは格闘攻撃だけでDBOに跋扈する数多の強敵を葬ってきた『怪物』なのだ。

 誰かが恐れと共に噂する。クラウドアースにとって最高のカードはユージーンであるが、ジョーカーはライドウである、と。ライドウに首輪を付けて、いつでも制御不能の狂犬をけしかける事が出来るという圧力をかけられるのは大きな強みだった。

 だが、プレイヤー人口の増加に伴い、突出した個人戦力は運用の変化を余儀なくされた。現実世界において、社会の成熟と並行した組織・技術の発展と共に個人の武勇が重要視されなくなったのと同じ道を辿った。

 とはいえ、現実世界とDBOでは個人の武勇の価値が異なる。拠点に潜入させて内部から破壊工作させれば絶大な効果を発揮し、補給線といった小規模戦闘においては確実な戦果を約束し、適切なタイミングで投入すれば敵陣を食い破る突破口を生み出す。

 たとえば、アームズフォートや強大なゴーレムには相応の人員と犠牲を求められるが、これを単体で膠着・撃破できるというだけで戦術・戦略的価値が生じる。1人で戦局を左右する時代は終わったが、今もなお形や色を変えて傭兵のニーズは存在する。

 ならばこそ、現在の傭兵に求められるのは雇い主のオーダーに対して従順であるか否かだ。『最も理想的な傭兵』とされるスミスは、雇い主のオーダーを完璧にこなす傭兵として最高の評価を受けている。表裏の意図を見抜き、雇い主の要求に完璧に応える彼こそが最高の傭兵だと推す者は多い。

 実力こそあるが、個人の主義思想と存在そのものが象徴・権威ともなりつつある【黒の剣士】キリトは、傭兵としては極めて扱い難く、だが手を引くには価値が高すぎるというのが共通見解だった。彼が実質的に教会の専属となったのは、獲得に動いていた3大ギルドのいずれにとっても落胆であり、同時に安堵であっただろう。最も無難な勢力のカードとなったのだから。

 ライドウはキリトと同類である。個人主義かつ変人揃いで、組織にいてもマイナス要素にしかならない社会不適合者ばかりの傭兵において、絶対的に個人の信条と心情を優先し、雇い主のオーダーを全く無視した行動を取りかねない危険性、ないし取った実績があるからだ。

 似たり寄ったりの傭兵もいるが、キリトとライドウはどちらも個人の域を逸脱した実力者である点が共通しており、ライドウの場合は特に普遍的な道徳観念に基づいた行動を取らないという点において、殊更に厄介である。

 故にライドウはいずれクラウドアースからも放逐されるのではないかと囁かれている。こうしてカリン……裏の住人である犯罪ギルドとも親交を深めているのが何よりの証拠かもしれなかった。

 だが、カリンは知っている。ライドウは一見すれば気まぐれかつ自由奔放であり、最悪の倫理観と我欲によって己の行動指針を決定する人間であるが、その実は損得勘定ができるタイプだ。我欲を優先するにしても後先考えないわけではなく、利害の計算もして立ち回る狡猾さも兼ね備えている。

 故にライドウは信頼できずとも信用できる点は多々あるのだ。だからこそ、ビジネスライクを超えて個人的な交友も幾らかあるカリンは、彼の見せる変化に戸惑いがあった。

 カリンがパトロンを務める高級娼婦スイレンの誘拐未遂事件。その後、ライドウはこれまでの退屈凌ぎの享楽優先の方針から自己研鑽へとシフトしたのである。

 虎はどうして強いのか? 虎だからだ。生まれた瞬間から絶対強者といったオーラを絶やさないライドウが、更なる高みに至らんと動き出した。

 ライドウが本気を出せばDBOの攻略は劇的に変化するとカリンは常々惜しんでいた。ライドウは探索に不向きな性格ではあり、昨今の攻略のメインであるフロンティア・フィールドには適さないが、それでもなお余りある個人の武勇は強大だ。

 どれだけ組織力が拡張しようとも、攻略においては依然として個人の実力は有効だ。良質な戦力を喪失し続け、今や3大ギルドにおいて最も『質』の劣化が著しいとされる聖剣騎士団において、攻略に多大な貢献をしているのがたった1人の傭兵であるように、むしろ組織力が通じない『フロンティア』がそこにはある。

 本気のライドウならば、クラウドアースの攻略事情を大きく変えるだろう。彼の評価を新たにするだろう。

 だが、ライドウは攻略に微塵の興味も見せない。戦いには享楽以外の自己研鑽を求めるようになったせいで、むしろ扱い難さが増したとさえも言えた。

 

(アンタだけはそんな目をしないと思ってたのに。男ってのはどいつもこいつも……)

 

 ライドウの明確な目標を射貫いた瞳にカリンは胸が掻き毟られる。

 

「人間ってやっぱり数より質だわぁ。蛆がどれだけいようと腐肉に集る蠅以外になりはしない。竜にも鷹にも……鳶にすらなれない」

 

「だったら辻斬りでもしたら? プレイヤー人口がどれだけ増えようとも強者の絶対数はそうそう変わらない。ううん、むしろ装備や教育体制が整った分だけ、突出した個人は生まれ難くなっている。平均値の上昇の弊害ね」

 

「カリンってさぁ、経営者としては優秀だけど、戦士としては二流だよねー」

 

「これでもその辺の有象無象相手なら後れを取らないつもりよ。だけど、戦闘のプロに比べたら素人に毛が生えたものでしょうね。特にアンタは対人戦において最強格。ユージーンも【黒の剣士】もアンタが相手だったら10分と生きていられるかどうか」

 

 カリンの偽りなき本音だった。ユージーンもキリトも傑物だ。単独でネームド討伐できるなど才能や努力では片付けられない領域に踏み込んだ超越者だ。まさしく神話や伝説で語られる英雄だ。

 だが、英雄は無敵ではない。存外に呆気ない最期を迎えるのが常だ。

 そして、ライドウは英雄ではない。彼らと同じ超越者ではあるが、決して『英雄』の資格を持たない者だ。闇に息づき、私欲と悪徳を貪って暗躍する影の住人だ。

 

「準備の手間暇を惜しまなければ、ユージーンを殺すのに3分とかからない。だけど【聖剣の英雄】様はそう簡単じゃない。アレは盤面を俯瞰するタイプでも引っくり返すタイプでもない。ゲームの内容自体を変えるタイプだ。将棋をしていたはずが囲碁に。サッカーをしていたはずが野球に。しかもローカルルール付きでな。俺が1番嫌いなタイプ」

 

「あら、存外に高評価なのね。興味が湧いたわ」

 

 カリンは皮肉なしでキリトを賞賛した。ライドウにここまで言わせる人物はそうそういない。

 

「えー。カリンってば、相変わらず男の趣味悪ーい」

 

「それで、実際の所はどうなの? 天衣無縫にして唯我独尊のライドウ様が真面目に鍛錬なんて、明日にはネームドが軍団になって降下してくるのかしら?」

 

「あー、クリスマスとかそういう面白いイベントありそうだよねー。燃えるわー」

 

「……冗談でもごめんよ」

 

 冗談でしかない最悪を超える最悪もDBOならば明日にでも突拍子もなくあり得るかもしれない。そんな不安感を常にプレイヤーは爆弾のように抱えている。

 だからこそ死天使信仰は密やかに信徒を増やし続けるのだ。誰もが求めているのだ。死と厄災と絶望にわかりやすく縋れる理由を求めるのだ。

 

「じゃあ、エイジくん育成ゲームは終わり? 彼、可哀想ね。生きて戻れないだろうけど、帰ってきても貴方の眼中にはもうないなんて」

 

「それは雑魚くん次第かなぁ。必要最低限の武技と生存能力は身につけさせた。後は『解釈』次第さ。『都合のいい奇跡』に縋らない弱者が『力』を求めた先にどうなるのか、俺にとっても『奴』を仕留める上で有用なモデルケースになる」

 

 リングのコーナーにもたれかかったライドウは意外にも高評価の発言をして、カリンは思わず面食らう。

 ライドウにとってエイジは玩具だ。自分に復讐しようとする、身の程も弁えない蛆虫であり、嘲笑の対象だとばかりに思っていたからだ。

 

「それはそうと、カリンもヤバいんじゃないのー? スイレン……≪ボマー≫の件は3大ギルドも教会も神経質になってる。俺としては、『奴』と最高の殺し合いができる準備と舞台が整うまで、余計な茶々入れしてほしくないんだよねぇ」

 

「……『何処かの誰かさん』が依頼をこなしてくれていたら、面倒事は最小限に済ませられたのだけどね」

 

「そりゃ可哀想に。全裸で土下座して足を舐めるなら、知り合い料金で尻拭いしてあげるけど?」

 

 ……ぶち殺してやりたい笑顔ね。自慢の長舌を垂らしてカリンに低頭を求めるライドウに、裏でも3本指に入る規模と戦力を保有する犯罪ギルドの長といて、カリンはキセルを咥えながら悠然と作り笑顔で応じる。

 

「その心配は要らないわ。『何処かの誰かさん』が思った通りに動かないなんて前提の前提の大前提。教会を巻き込んで3大ギルドに楔を打ち込んだ。この状況を作り出せただけで次策は機能するわ」

 

「あっそ」

 

 大した興味など最初から持っていないのだろう。ライドウはリングから飛び降りると無造作な足取りでカリンに近づく。

 背後のボディガード達の走るのを感じ取り、カリンは先んじて右手を掲げて彼らに制止を命じる。ライドウは正当防衛という建前も無しに、気に食わない、退屈、目障りといった理由だけで殺すだろう。

 普段のライドウならばカリンとの利害関係から横暴を働かない。それだけの頭が回る。だが、今のこの男はたった1人を殺すことだけに全神経を注いだ猛獣だ。最低限の関係維持ができるギリギリの範囲内で暴力を行使するだろう。

 逆に言うならば、ライドウは如何なる状態であろうとも私欲に損得勘定を絡める。実に人間的思考に則っているという事だ。

 

「ねぇ、1つ訊いてもいいかしら?」

 

「んー? なにー?」

 

「エイジくんにどうしてそこまで入れ込むの? 歯牙にもかけない弱者は玩具扱いのアンタらしくないわ」

 

 単なるお気に入りの玩具なのかとも思えば違う。悪徳と私欲の指針で動いているにしても、エイジに対してはやや過剰な肩入れにも思えた。

 自分を殺しに来る復讐者を育てるというゲームはさぞかし退屈凌ぎになるだろうが、だが今のライドウの態度は明らかに遊戯の範疇を逸脱している。

 ライドウは自分を曲げない。自己を確固たるものにするルールに基づいて行動する。だが、それは断じて他者に対して誠実であるものではない。あくまで自分に正直である事なのだ。

 

「ゲームだよ。俺にとって、雑魚くんはゲーム以上でも以下でもない。結果が分からないゲームだからこそ楽しいのさ。そう言うカリンはどうなのぉ? 本当は期待してるんじゃないのぉ?」

 

「……そうね。期待しているのは私の方か」

 

 あっさりと認めるカリンに、ライドウは退屈だとばかりに鼻を鳴らして去って行く。

 

「帰ってきなさい、エイジくん。貴方が帰って来てくれたら、私はようやく……ようやく、自由になれる」

 

 それは祈りに似た懇願で、だが呪いの如き哀願である。故にカリンは自分の情けなさに失笑した。

 

 

▽      ▽        ▽

 

 

 悪趣味な黄金城、天守閣。金糸が縫い込まれた畳、金箔を贅沢に遇った屏風、天井には本物の金で鱗を模って立体図にさせた龍が描かれている。

 贅沢を極めた、まさしく富の頂点。だが、城主の虚しさを伝えるように空気は冷え切っていた。

 

〔どうする!? また追加だぜ!?〕

 

 しかし、今だけは違う。炎の熱と毒の悪臭と鋼の火花が生と死に満ちた闘争を充実させる。

 エイジは汗を散らしながら、連続蹴りを繰り出した孤影衆の最後のミドルキックを見切って踏みつけ、喉にダーインスレイヴを突き入れるとエンジンを駆動させながら脳天まで裂いて絶命させる。

 ネームド戦【孤影衆】。黄金の城に出現する全ての孤影衆を『撃退』する事によって天守閣の扉は開き、そこではこれまで撃退した全ての孤影衆との戦闘になる。

 最初は3人だったが、およそ2分毎に1人ずつ追加される。1人で数を相手取らねばならず、なおかつ慎重に立ち回れば決して広くはない天守閣で数の暴力によって圧殺される事になる。

 これまでは1対1ならばHPバー1本を削りきることが出来た孤影衆であるが、ここでは個々が得意とする強力な特殊攻撃を備えたまま、エイジを数で物を言わせて殺しにかかる。

 たとえば、エイジが初めて戦った忌み手はラーニングした通りに毒手の攻撃が特に強力であり、攻撃力・毒蓄積・範囲共に他の孤影衆を上回る。

 他にも手裏剣の攻撃力・速度が秀でている者、攻撃力強化と防御力強化のバフを交互に使用する者、口笛で犬を続々と出現させて操る者など多種に亘る。

 だが、単体の性能は人型ネームドでも決して高くない。下位に相当するだろう。だが、孤影衆は仲間意識が強く、連携攻撃に余念はない。また、仲間が倒されても怯まず、むしろ死体を利用してでも勝利を掴もうとする。

 たとえば、エイジが放ったボルトを畳に転がる仲間の遺体を盾にして防ぐ、といった柔軟な対処も平然と行う。

 だが、エイジは一呼吸と待たずして放ったボルトを追いかけるようにして接近し、仲間の遺体を盾にすることで自らの手で視界を封じた【孤影衆・太刀足】を遺体ごと斬る。

 

「わ、我らの【追い斬り】を……!」

 

 忍びの剣・追い斬り。主に近・中距離の射撃攻撃を追いかけるようにして斬撃を浴びせる射撃と近接を絶妙なタイムラグで浴びせる妙技だ。無論、射撃攻撃に追いつくだけの足が必要になり、高速で飛来するボルトに匹敵するだけの脚力を実現するDEXをエイジは有していない。

 ならば『ソードスキル化』すればいい。その為のOSSである。エイジはボルトの射出動作と踏み込みからの加速をひたすらに反復練習して登録した。

 だが、OSSにしても速度が足らない。故にエイジは小さな仕掛けを施してある。バトルブーツの踵にカートリッジ式の保存容器を仕込んであるのだ。

 保存容器といっても棒状のほとんど外観からは分からないものであり、内容量は僅かだ。だが、そこに深海の指輪で発生させた闇の重油を『貯蔵』してある。これを足の動作で放出したタイミングで瑠璃火に着火させ、爆発的な加速を手に入れるのだ。その名も我流鬼火の剣・歩法【影瑠璃】である。

 これに加えてバトルスーツのもたらす超加速も付け足せば、OSS・放ち斬りは要求する水準を実現する。複数のパターンを登録する事によって多様性を持たせている。

 だが、OSS化したことによる見切られた場合のリスクも向上した。故に火力よりも使いやすさを重視しており、ダメージソースよりも攻撃と同時に間合いを瞬時に詰める、どちらかと言えば攻撃を兼ね備えた≪歩法≫のソードスキルといった仕上がりである。結果、硬直時間は最小で済ませられる。

 だが、ソードスキル化したことによるライトエフェクトの付与とサウンドエフェクトの強化はエイジにとって『都合がいい』のだ。敢えて攻撃力の微下方修正を受け入れても、ランダム決定するライトエフェクトを瑠璃火と同じカラーにすることによって、また派手なサウンドエフェクトによって隠れることで、ある予備動作を巧妙に隠せるのだ。

 鬼火の剣・瑠璃蛇。前方に地を走る、追尾・炸裂する瑠璃火を放つ鬼火の剣は、威力こそ申し分ないが、溜め動作とスピードの遅さから知能が高い相手には対処されやすい。スピードは本家の火蛇には及ばず、追尾性は黒炎版である黒蛇には届かない。光属性という強みさえなければ、火蛇にも黒蛇にも強みがない劣化版である。

 だが、放ち斬りのモーションに溜め動作を組み込むことによって、瑠璃火を超至近距離から放つという荒技を可能としたのだ。

 背後から接近していた孤影衆に放ち斬りを使えばあっさりと忍者刀でガードされ、馬鹿正直だと嘲笑されるよりも前に瑠璃蛇が開放されて爆炎に呑み込む。

 

〔よっしゃ! これで9人目!〕

 

 黄金の城にいた孤影集は全部で12人。残るは太刀足、忌み手、そしてまた出現していない足槍である。

 ノイジスは実体化し、孤影衆がエイジの背中を狙うのを防ぐ。大型モンスターの一撃ならば無理でも、スピード重視の孤影衆の斬撃ならばノイジスの竜爪でも防げる。

 

「うひゃあああああ!?」

 

 だが、小柄のノイジスでは一撃を防ぐのが精一杯であり、連撃ともなればみじめに躱すしかない。だが、その間にエイジは左腕から空になったボルト・カートリッジを排出し、新たにセットする時間を得る。

 

「この野郎! 俺様はこんな惨めなナリでも古竜様だぞ!? もっと敬いやがれ!」

 

 ノイジスが翼を広げて叫べば、全方位に瑠璃火を伴った衝撃波が放たれる。古竜とそれに連なる眷属が保有する竜の力の解放。それに瑠璃火が伴っているのだ。ダメージは小さいが、奇跡のフォースのように敵を遠ざける効果が本命だ。

 考えようによっては極めて強力な技だ。小柄で飛行速度もそれなりにあるノイジスが敵に接近して不意に発動させれば、回避を強要し、あるいは体勢を崩すことができる。

 だが、孤影衆はエイジの動きを読んだ上で回避行動を取る。こちらがどのような攻撃を仕掛けても対処できるという自信がある。

 それはどうだろうか。エイジはノイジスに鉤縄を飛ばし、彼が爪で掴むと同時に跳ぶ。

 宙を舞ったエイジは太刀足を目で捉える。対空迎撃態勢を取る太刀足と着地狩りを狙う忌み手という死地が出来上がる。

 だが、これでいい。両者を間合いに捉えたエイジはノイジスを霊体化させて待避させると刃を振るう。

 周囲を巻き込む連続斬りが生み出すのは瑠璃火の刃、鬼火の剣・瑠璃の渦雲渡り。エイジが繰り出した無差別範囲斬撃に太刀足は飲まれ、忌み手は削られる。

 だが、太刀足はHP3割を残して踏み止まり、忌み手も軽傷だ。思わず舌打ちを鳴らしそうになったエイジの肩に忌み手の放った手裏剣が突き刺さり、血を垂れ流しながらも迫った太刀足の蹴りがこめかみを打つ!

 

〔エイジちゃん!〕

 

〔問題……ない!〕

 

 否、ガードが間に合った。ギリギリで左腕を蹴りの間に挟み込んだエイジが頭から血を流しながらも存命だ。

 太刀足はその名の通り、蹴りの威力が他の孤影衆よりも強力だ。最大攻撃である全身を使った回転蹴りならば、頭部を一撃粉砕もあり得る威力である。

 だが、幸いにも速度重視であり、押し込まれこそしたがガード判定となったお陰で、エイジのHPは3割ほど消し飛ぶだけで済んだ。

 回復させる暇を与えない、太刀足と忌み足の怒濤の連撃。足を止めれば囲まれて死ぬ。2人の熟練の忍びに対し、エイジは喉元を刃が掠める寸前、左手で印を組む。

 瞬間にエイジの姿が霧となる。舞い散るのはすぐに霧散する黒い羽根であり、それだけがエイジの移動の軌跡を描く。

 霧がらす! 霧化して太刀足の背後を取ったエイジは右手逆手に持ったダーインスレイヴを心臓に突き入れる。片手剣の単発系EXソードスキル【シャドウ・キル】。同名スキルが≪短剣≫にも存在する、いわゆる暗殺系ソードスキルである。これは相手に発見されていない状態で背後から攻撃した時、火力ブーストがかかるという≪暗器≫に似た特性を付与するソードスキルである。

 EXソードスキルの通り、魔力を消費するが、それ以上に発動条件を満たしていなければ強制硬直するというリスクを背負わなければならない。水銀の槍が習得方法を隠匿するEXソードスキルの1つである。

 エイジは霧がらすのラーニング後、ムライや猿を相手に実験を重ねた事で性能と特性を分析を完了した。

 霧がらすによって霧化した場合、強制的にフォーカスロックが解除される。これによって相手は一時的にエイジを未発見状態になるのだ。

 これは【渡り鳥】が独特の歩法によってフォーカスロックを外し、また高い隠密ボーナスを利用する事で認識外から一方的に攻撃する、独自の殺戮術の一端をラーニング能力で実現することができる。

 霧がらすで相手の背後を取り、シャドウ・キルで致命ダメージを与える。これが霧がらすの基本戦術となる。ただし、霧がらすは『ダメージ判定』が発生するまさにその瞬間でなければジャスト発動にはならず、膨大なスタミナが奪われることになる。

 故に霧がらすに求められるのは相手の攻撃に対する完璧な見切りであり、また恐怖の踏破だ。エイジはただでさえFNCという恐怖に対するハンデを抱えている為、より発動難易度は高まる。

 だが、出来た。エイジのシャドウ・キルで絶命した太刀足が倒れ、残るのは忌み手のみ。黄金で煌めいていた天守閣は今や10人の孤影衆の遺体と血によって染め上げられていた。

 

「よもやこれ程までに……抜かったのはこちらか」

 

 忌み手はエイジが初めて遭遇した孤影衆だ。彼からラーニングした毒手はエイジにとっても強力な武器となった。故にエイジは彼を倒すのに妥協をしない。

 敬意も侮蔑もない。突き動かすのは更なる力の欲求であり、根源にあるのは憎悪のみ。

 どちらが先に動いたか。忌み手が繰り出すのは無論、最大攻撃である毒手。これに対してエイジは真っ向勝負を挑む……義理などない。

 毒手を放つ間際に爆竹を正面に放り、音と光と煙で五感を狂わせる。それでどうにかなる忌み手ではないが、エイジは左足だけの影瑠璃で強引にカーブを描きながら忌み手の背後を取る。【渡り鳥】が己の体だけでステップの軌道を曲げるのに対し、エイジは仕掛けの特性を利用して擬似的に再現する。

 だが、ここからはオリジナルだ。反応してきた忌み手の毒手が顔面を掴むより先に、残る右足の蹴りを忌み手の腹へと穿つ。全身を捻りながらも、孤影衆の蹴り技から学び取ったミドルキックは、だが彼らに比べれば威力不足だ。それはSTRの差であり、ネームドとプレイヤーの差であり、何よりも技量の天地の差だ。

 

「爆ぜろ」

 

 ならば別で補い、また上回ればいい。右足の踵の闇重油カートリッジは杭のように打ち出され、同時に瑠璃火が着火して炸裂する。蹴りと炸裂を同時に受けた忌み手は怯み、そこにエイジは左手で発動させた毒手を繰り出す。

 己の名になる程に極めたはずの毒手。だが、エイジという毒手の使い手とは二流どころか三流によって、忌み手は腹の傷口を連続で抉られ、両膝をつき、前のめりになって倒れた。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 右踵の闇重油カートリッジを排出し、新たなカートリッジを接続する。カートリッジを破壊・廃棄が必須となる【影瑠璃・牙】は強力であるが、カートリッジの消費が必須だ。通常時ならば補充できるが、物資が乏しい蠱毒の穴では製造にも一苦労である。ムライが作成できたカートリッジは決して多くない。

 だが、敢えてカートリッジ製にすることによって、機動力に加えて攻撃力も得た。なお、エイジの発想ではなく、ムライの発案による改良である。

 

〔だ、大丈夫かよ。足がイカれちまったんじゃねぇのか?〕

 

「まだ動ける範囲だ」

 

 ただし、改造の対策が出来ていない。ダメージこそ負っていないが、右足には違和感が広がっている。爆破の指向性・反動対策が不十分どころか施されていないのだ。仕込めただけでもムライの設計案と素材の加工、実現してくれた仏師には文句を言えない。

 何よりもバトルスーツの肉体強化に対してエイジがまだ追いついていない。ソウル・リアクターから供給されるエネルギーがバトルスーツを通してアバターの動作を拡張・強化する。だが、エイジが制御し切れていない為に、全身の各部位が裂傷して出血していた。

 300日以上も制御に時間をかけてもなお使いこなすには至っていない。自分の無才ぶりに嫌気が差すが、だがあともう1歩で我が物に出来そうなのも事実だった。

 必要なのは切っ掛けだ。エイジは障子を斬り裂き、ついに現れた最後の孤影衆・槍足と対峙する。

 

「皆の仇、討たせてもらうぞ」

 

 端的に恨み言をぶつけられ、エイジは槍足の全身が赤いオーラで包まれるのを目にする。

 槍足は他の孤影衆に比べ、突出した能力はなく、満遍なく強化されたオールラウンダー型だった。だが、彼は最後に現れる孤影衆として、その真の能力を解放するのだ。

 エイジの首を狙った忍者刀の一閃はまるで猛獣の爪の如き重さ。繰り出される連続蹴りの1発1発が太刀足の渾身の蹴りに匹敵する。そして、速度さえもが他の孤影衆を軽く凌駕する。

 11人の孤影衆はそれぞれ突出した能力を持ちながらも時間制限付きの数の暴力。だが、槍足だけは人型ネームドとしての真髄を見せるようにエイジに反撃の糸口を与えない。

 槍足の名の由来となっただろう、まるで槍のように穿つミドルキックは、それだけで影瑠璃・牙を超える迫力がある。毒手こそ使ってこないが、代わりに手裏剣を惜しみなく使用し、エイジの追い斬りとは比べものにならない精度で肉薄にする。

 槍足の刃が頬を掠める。毒が塗られており、レベル3の毒が蓄積する。これぞ忍びとばかりに槍足は絡め手も使うのだ。

 だが、エイジは冷静だった。心静かに、斬撃の1つ1つを丁寧に弾き、蹴りをいなして最後のミドルキックを見切って踏みつけ、飛び退きながらの手裏剣を躱して間合いに入る。

 斬。槍足の胸をダーインスレイヴが斬り上げる。槍足のHPバーが目に見えて減少する。

 

〔こ、これは……コイツ脆いぜ! 攻撃もスピードも滅茶苦茶だが、その分だけ他の連中より脆い!〕

 

 赤いオーラを纏った強化の代償なのだろう。槍足のHPは他の孤影衆の半分といったところか、とエイジは目算する。

 槍足は遠退いて犬笛を吹こうとすれば、こちらの番だとエイジは放ち斬りで迫る。忍者刀で防いだ槍足だが、犬を召喚することができず、じわじわと天守閣の壁際に追い詰められる。

 それでも負けない。槍足は忍者刀を逆手に持って斬り上げ、同時に右足の蹴りでエイジの横腹を打つ。だが、霧がらすを発動させたエイジは霧化して頭上へと舞い上がる。

 

 両手剣の単発系ソードスキル、ヘルム・ブレイカー。落下距離が長ければ長いほどに威力が増すソードスキルであるが、この場合は霧がらすによる上空移動からの急行落下攻撃としての旨味を手に入れる為であり、狙い通りに斬撃は槍足の左肩から胴へと食い込んでいく。

 血飛沫を撒き散らしながら槍足が踏み止まる。散った11人の孤影衆にかけてエイジを倒すという気迫があった。

 だが、エイジは槍足の連続蹴りを丁寧に弾き、ついにバランスが崩れた槍足へと≪片手剣≫の単発系ソードスキル、ファースト・エッジを浴びせる。ソードスキルの強烈な突きを喉に見舞い、エイジは痙攣する槍足から刃を引き抜く。

 倒れた槍足に背中を向けながらエイジは血塗れのダーインスレイヴを背負った。

 残量HP3割、丸薬は幾らか使ったが、ほぼ回復のタイミングは無かった。エイジはようやく一息を吐けば、孤影衆の記憶を手に入れ、輪郭を失う黄金の城から追放される。

 荒れ寺に戻ってきたエイジに、仏師は何も言わなかった。彼もまた会釈だけで済ませ、ムライの住処に向かう。

 

「おいおい、ふざけんなよな。コイツ1本作るのに、俺がどれだけ酒を使ったのか、分かってんのか!?」

 

「だが使わないと負けていた」

 

 闇重油カートリッジの消耗にムライは頭を掻きながら叫び、エイジは悪びれることなく補充を要求する。

 闇の重油を蓄積する。簡単には言うが、深海の指輪で生み出された重油の如き闇を内容しなければならないのだ。相応の素材が必要であり、加工する技術と施設の両方が不可欠だ。ムライはこれを他プレイヤーから酒と交換した装備をジャンクして準備し、また機構として仕込んだのである。

 

「カートリッジは全部で5本! 実験で1本使っちまって、今回で更に1本! 残るは3本だ。そもそも素材もあり合わせで設備もろくにないから、カートリッジの消耗自体も考慮すれば……!」

 

「あと2戦が限界か。残るは白い大猿、無名の剣士、それからまだ見ぬネームド……あとはコドク。かなり厳しいな」

 

「そもそも今回だって、エイジちゃんはギリギリだったんだぜ? 回生無しは偉いが、孤影衆も強かったが、無名の剣士はそれ以上で時間制限付きだ! 今のままじゃ、どうやっても勝ち目がねぇんだよ!」

 

 ムライとノイジスの両方に追い詰められている事実を突きつけられ、エイジは羽織る碧のコートを握りしめる。コートの裾は破れ、袖は解け、およそ損耗が激しく、防御力の低下も著しい。耐久度を回復できるとしても、修復素材がない以上は破損すれば修理できないのである。

 

「クロスボウ機構も限界だ。無理矢理仕込んだものだからな。弦やら何やらボロボロだ。だからといって修理したくても素材がない。ジャンクで何とかしようにも、焚き火を囲ってる奴らのめぼしい装備は全部いただいた。どうしようもないぜ、こりゃ」

 

 だったら技量でカバーする、と言えないのがエイジの現実だ。

 実力は磨かれ、迷いがらすと孤影衆を倒すに至った。だが、損耗はそれ以上に激しい。ダーインスレイヴにしても刃毀れが著しく、エンジン機構も性能が大幅に低下してしまっている。むしろ、使い物になっていないのはアーチボルドの腕の高さのお陰だ。

 

「諦めろ、とは言わないが、そろそろ首が回らなくなってきたって自覚しろよな」

 

「それでも止まれないさ」

 

 無名の剣士を倒す切り札はある。だが、無名の剣士の性質上、使って倒しきれずに時間切れとなれば、次は無い。元より装備の限界が来ているならば、挑戦は1度限りである。

 切り札を増やす必要がある。エイジは孤影衆の戦いの記憶を使い、≪瑠璃火≫の能力を開花させる。

 新たに増えた能力は【形代流し】だ。これは自分のHPを捧げることによって形代ゲージを回復させるというものである。

 使用HPは3割であり、形代ゲージを2つ回復させることができる。連続で最大3回使用可能であり、使用回数の回復には1回分につき60分のクールタイムが必要である。

 戦闘中にHP3割は大きいが、場面によっては強力な形代回復手段となる。現時点で形代の回復方法は敵を攻撃するか倒す、あるいは時間経過以外にないのだ。

 孤影衆を倒した事でエイジの形代ゲージは3つになった。元々の3倍と考えれば多いが、今にして思えば形代ゲージ1つでは戦闘に用いるにはあまりにも乏しい。

 

(このまま順当に倒せば更に3つ増える。だが、コドクも瑠璃火の使い手だからな。瑠璃火が何処まで通じるか……)

 

 孤影衆や迷いがらすには瑠璃火が通用したが、無名の剣士は明確に瑠璃火の使い手である。まず間違いなく瑠璃火を用いた攻撃は半減以下のダメージとなるだろう。この時点で今の消耗しきった状態では不利なのであるが、エイジは現時点で無名の剣士を倒しきれるとは思っておらず、故に切り札を増やす為にあと1体はネームドを倒さねばならない。

 狙うのは白い大猿だ。エイジはムライが作った爆竹を全てもらい受けて出発しようとするが、ノイジスがムライの隣から頑なに動こうとしなかった。

 

「いーや! 俺様は何処にも行かないぜ! 忍者軍団をぶっ倒してすぐに大猿退治だぁ? ふざけんじゃねぇぞ! ストライキだ、ストライキ! 俺様にも休みを寄越せ!」

 

「……古竜のくせにストライキなんて概念を知ってるんだな」

 

「おうよ! 糞剥げ竜も人使いが荒かったからな! 公爵の書庫では100年に1度はストがあったぜ! それで剥げ竜は有休制度の導入をして、それがアノールロンドにも伝わって全世界に――」

 

 腕ならぬ翼を組んで語るノイジスに、エイジは白竜シースに対する神秘の念が崩れる音を聞いた。

 魔法の始祖。不死の探求者。グウィン王の外戚となった古竜の裏切り者。だが、その実はDBOの歴史において初めて有休制度を実施した経営者!? ふざけるな! エイジは頭痛がして思わずへたり込みそうになる。

 

「まっ、そういうわけだ。今日は休んで1杯しようぜ? お前みたいな真面目くんにはお酒を飲んでストレス解消する日が必要なんだよ」

 

「……そんな事、言ってる暇があるのか? 研究はまだ終わっていないんだろう? あと3体ネームドを倒せば、僕はお前を殺す。義理人情は期待するな」

 

「期待しちゃいねぇさ。だけど焦ったって答えは出ねぇよ」

 

 ムライは猿酒をエイジに突きつけると酌にしようと笑いかける。ノイジスは既に自分の猿酒に顔から突っ込んでおり、エイジは大きな溜め息を吐いて石を椅子代わりに腰を下ろした。

 仏師のようにお猪口はない。木の虚を切り取った杯を満たす猿酒を、そのまま口にして独特の雑味が特徴の辛口を味わう。

 人間や神の手で作られた酒ではない。猿が木の虚に集めた果実と溜まった雨水で発酵したのが猿酒だ。あくまで珍品であって、酒としては決して高品質ではない。

 だが、それでも猿が自然に作った酒というインパクトは何にも勝るのだろう。とはいえ、エイジにとってはただの酒なのだが。

 

「かー! 辛い!」

 

「辛いぜ!」

 

 ムライは火を噴く勢いで叫び、ノイジスも歓喜のままに吼える。1人と1匹は長年の友のように酒を味わう中で、エイジは無言でアイテムストレージの整理をしながら猿酒を口にする。

 

「おいおい、おーい! そりゃねぇだろ! 酒の席でお仕事は抜きだろ!」

 

「引っ付くな」

 

 酒臭い息を隠しもせずに肩を組んできたムライを煩わしく追い払おうとするエイジに対し、彼はアルコールで澱んだ目をエイジが展開するシステムウインドウに向ける。

 

「……前々から気になっていたんだが、これ何だ?」

 

 エイジも普段ならばシステムウインドウの第3者視認を無効化しているが、ムライの酒チェックの為に蠱毒の穴では有効にしている。ムライが指摘したのは、アイテムストレージ容量を食いこそしないが、何に使われることもなく保管されている品である。

 

「何でもいいだろ。ただの……約束だ。『力』を得て必ず戻る……約束の証だ」

 

「ははーん! アレか? カノジョとの思い出の品か?」

 

「違う。カノジョなんていた事が無い」

 

 エイジの澱んだ吐息に込められた断言に、ムライはそれこそ信じられない様子で後退った。

 

「お、おいおい、マジかよ。そのツラで?」

 

「陰気な顔で悪かったな」

 

「皮肉か! ノイジスちゃん、聞いたか!? エイジ坊ちゃんはこのツラでカノジョの1人も出来た事無いんだとよ!」

 

「エイジちゃんは変人だからなー。フツウの女には重すぎるんじゃねーの?」

 

 ノイジスの実感が籠もった発言に、それもそうかと髭だらけの顎を撫でながら納得したムライは、だがやはり勿体ないと嘆息して胡座を掻く。

 

「お前ってアレか。初恋をいつまでも引き摺るタイプか」

 

「……さぁ、もう初恋だったかもよく分からない。あの時の感情も思い出せない」

 

 何もかも憎しみに塗り潰されてしまった。今になっては、ユナへの気持ちは羨望にして憧憬に過ぎず、無知で無力だった自分は愚かにも区別できていなかっただけなのではないかとさえも考えている。

 だが、ムライはそれこそ馬鹿らしいとエイジの胸中を見抜いたようには鼻を鳴らす。

 

「恋に決まってるさ」

 

「……何で、言い切れる?」

 

「俺がそうだった。所詮は私利私欲の為に利用しているだけ。自分の野望と理想を叶える為の道具に過ぎない。そうやって、何度も何度も自分の心と向き合って結論を出したつもりが、何もかも取っ払ってみれば……なんてことない。惨めったらしい執着があったんだよ。誰にも触れさせたくない、俺だけを理解していればいいっていう醜い独占欲があったんだ」

 

「……退屈な話だ」

 

「そうだな。俺なんて、所詮はその程度の底が浅い男だ。だから茅場晶彦に先を越された。アイツの技術に触れれば分かる。アイツの知性の深奥と願望の狂気を理解する事は出来ずとも、アイツの在り方の理解者は……ずっと傍にいて、アイツもそれを分かった上でやり遂げたんだろうなってな」

 

 猿酒を煽るムライには明確な悔しさが滲んでいた。技術者としても男としても敗北して、それでもなお止まれない意地しか残せなかった憐憫があった。

 

「会いたい人がいる。自分の感情がどうであれ、会いたい女がいる。それでいいんだよ。お前の気持ちなんて関係ねぇさ。きっと、お前が会いたい女は、お前を待ってくれているさ」

 

「どうして言い切れる? 彼女は『僕』を見てなんかいない。ずっと傍にいたはずなのに、僕は『彼女』をまるで理解していなくて、彼女も『僕』を最初から見てなんかいなかったのに……」

 

「面倒臭い生き方してるな。まぁ、それは俺も同じか」

 

 空になった猿酒の杯を捨てたムライは、酒で火照った顔を冷ますように雪を混じった風を気持ちよさそうに全身で受け止め、すっかり酒が回ってひっくり返っているノイジスの腹を枕代わりにして寝そべった。

 

「それでも約束したんだろ? だったら生きて帰れ。邪魔する全てをぶっ殺してな」

 

「……言われなくても帰るさ。『力』を手に入れてな」

 

 ノイジスもムライも気持ちよさそうにいびきを掻く中で、エイジは泥水のように溜まった疲労感と消えない頭痛の奥底で何かを思い出そうとする。

 だが、憎しみは想起を邪魔して、脳裏を引っ掻く何かが煩わしくて、エイジは瞼を閉ざす。

 

「もっと『力』を……」

 

 まだだ。まだ僕は戦える。まだ負けていない。そう繰り返して立ち上がり、荒れ寺へと戻っていった。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 彼女は可憐で世間知らずの乙女だった。

 追いかける夢もなく、描きたい夢もなく、裕福な家庭で育った女だった。

 狙っていた男は多かっただろう。だが、彼女には両親が準備した学友がいつも両脇を固めていた。自分で手に入れたのではない、生まれた時から与えられていた繋がりが彼女の温かな鳥籠になっていた。

 世間の広さと厳しさを知らず、人間が抱える闇と欲望を知らず、自分の心に溜まっていた鬱屈と活力を知らず、彼女はレールの上を歩く人生を是としていた。

 

『重村教授は夢物語が過ぎるわ。仮想世界なんて、実現するわけがない』

 

 聞き流せば良かったのだ。あの頃は誰もが夢幻であると信じ込んでいた。SFの産物であり、具現するにしても自分たちが老いぼれになる頃だろうと諦めていた。大真面目に仮想世界を講義の題材にしていた重村教授さえも直近の未来に実現するなど欠片も考えていなかったはずだ。

 だが、自分は……自分たち親子は違う。人生を注いで研究し続けて基礎理論の構築にまで至った。

 普段ならば気にも止めなかったはずだ。そもそもが自分は数少ない友人の伝手を使って忍び込んで講義を拝聴した部外者だ。彼女も単位目当てと僅かばかりの好奇心で参加したに過ぎない素人だ。わざわざ口を挟んでトラブルの火種を作る必要はない。

 

『聞き捨てならないな。重村教授は俺の父の古い友人で先見性は確かだ。何よりも、キミが知ろうとしていないだけで、VR技術の研究はキミが生まれるより前から始まってるんだ。15年以内には普及しているさ』

 

 上品に友人達と笑い合っていた所に突っかかってきた見ず知らずの男に酷く驚いたのは間違いない。

 自分の無責任な発言が他者の逆鱗に触れてしまったと察したのだろう。彼女は謝罪を口にした。親にも怒られた事は無く、友人にとも諍いを起こしたことがないだろう彼女にとって、貧相で粗野な風貌をした男に凄まれるなど初めての経験だったのだ。

 泣き出した彼女に慌てふためき、彼女の友人達に怨敵のように睨まれ、だが彼女は自分が悪いのだと親に連絡しないで欲しいと願い出て、いつの間にか大学の食堂で男女2人っきりで向かい合っていた。

 

『仮想世界は本当に実現するのですか? もしも実現すれば、現実の自分とは違う別の誰か……全く違う人生を……誰にも迷惑をかけることない自由を体験できるのでしょうか』

 

『可能だ。仮想世界が実現した時、人間は本当の自由を手に入れる。性別も、身分も、貧富も、国籍も、過去も関係なく、全く新しい自分を手に入れられる』

 

 振り返ってみれば、あの頃の自分は思想に何の深みもなく、技術の実現を馬鹿正直な情熱だけで追い求めるガキだった。仮想世界が生み出された事によって、世界にどれだけの影響が及ぶのか、試算すらもしていなかった。

 経済に、軍事に、文化に、どれだけの変革をもたらすのか考えてもいなかった。後になってみれば、この時点で茅場晶彦には遠く及んでいなかったのだ。

 

『もっとお話を聞かせてくださいな。私、仮想世界に興味を持ちました』

 

 彼女との関係が始まった。重村教授の講義が待ち合わせとなり、彼女に仮想世界の技術的な基礎を明かした。知られたところで問題のない部分であり、彼女に隠された意図があっても問題ないと判断した。

 彼女は熱心に仮想世界の実現した場合の未来を問いかけた。彼女のお陰で仮想世界の探求から世界に及ぼす影響についても考える視野が広がった。

 

『あの……父とお会いになりませんか。父も元々は技術畑の人間で、今は経営者ですが、でも貴方みたいな若くて情熱溢れる研究者には好意を抱くはずです。ええ、間違いなく!』

 

 世間知らずのお嬢様。繰り返した仮想世界の個人教義がいつの間にか男女の逢瀬にすり替わっていた。父から受け継いだ研究と呪いのような執念に唾を吐きかけられたような気がして、気分が悪かった。

 

『是非とも。研究者としてだけではなく、貴女を想う1人の男としても』

 

 彼女が望む関係。定められたレールを歩くだけだった彼女が偶然にも得た自由の証が自分だった。だから利用することにした。彼女の純粋なる恋心も、自由を渇望する鬱屈も、何もかもを研究資金に変える魔法にしてしまおうと企んだ。

 彼女の両親に対するプレゼンは一世一代の大勝負だった。見せられるカードの全てを使い、自分たち親子が研究し続けた、誰もが馬鹿にして嘲った仮想世界の実現はもう間もなくなのだと力説した。

 彼女の父親は町工場から日本でも有数のエレクトロニクス産業の代表取締役にまで上り詰めた立身出世であり、だからこそ仮想世界の実現は決して夢物語ではなく、また大きなビジネスチャンスでもあると判断したのだろう。

 個人的なパトロンから始まり、やがて会社が後ろ盾となり、提携企業や嗅ぎつけた外資もまた協力を申し出るまでに3年とかからなかった。

 彼女の父親は夢に投資を惜しまず、だが同時に父親として頑固だった。自由意思を尊重して恋人である事を認めこそしたが、決して表沙汰にすることを許さなかった。

 仮想世界が実現が世間に公表されて認められた時、婚約を許す。それが唯一の譲歩であり、彼女は舞い上がった。自分ならば必ず出来るはずだと鼓舞し、また私生活においても献身的に支えるようになった。

 良家の子息の良き妻として振る舞うはずだった料理を口にさせ、パトロンが得て必要性に迫られた社交界では名代として活躍し、熱心な勉学によって仮想世界実現に必要な知識を1人の技術者としても会得していった。

 人形のように着飾られるだけの女が生気を得て、初めて自分の人生を謳歌している姿は、実に滑稽だった。利用されているだけとは知らずに馬鹿な女だと嘲った。

 いいや、自嘲だった。仮想世界の実現こそが親から子へと受け継がれてきた悲願であり、それ以外に何もない空っぽな自分とは違って、自分の意思で選び、自分の意思で愛する彼女があまりにも眩しくて、温かくて、苦しくて、彼女の夢であり続ける事がいつの日からか気力の源になっていた。

 ようやく手に入れた潤沢な資金と最新の研究環境。理解者にして同志も増えれば、敵も現れる。世界を変えかねない技術の種ともなれば産業スパイは事欠かなかった。時としては彼女が害される事もあったが、出資に名乗りを上げたKISARAGIから派遣された、荒事を生業とする人間離れした凄腕の専門家のお陰で大事には至らなかった。

 時間と空間と情熱と危機を共有する。見目麗しい異性ともなれば、研究にだけ心身を注ぎ続けることなどできなかった。心の繋がりは体の交わりを求め、明るみになれば破滅すると分かりながらも止まれなかった。

 ああ、やはり負けていたのだ。夢を実現する為ならば何もかも捨てる事が出来た茅場晶彦とは違い、大事な人が出来てしまっていた。捨てられない感情を抱え込んでしまった。

 ようやく試作機が完成し、完成の目処も立って出資者や研究の同志と大いに盛り上がっている時、何の前触れもなく終わりの鐘は鳴り響いた。

 茅場晶彦による斬新かつオーバーテクノロジーと呼ぶべきVR技術とデバイスの発表だ。重村ゼミ出身というだけで大した後ろ盾も研究環境もないはずの天才は、業界の誰にも知られることなく人脈を形成し、ゼミの仲間の僅かばかりの助言を除けば、ほぼ単身でVR技術のハードもソフトも研究開発を完了していた。

 世界初のVRデバイス、ナーヴギアの発表。VRの生みの親である茅場晶彦が開発主任を務めるVRMMORPG、ソード・アート・オンラインの告知。世間は仮想世界の実現という熱狂に飲まれた。その影で、たった1人の天才に屈した、数多の敗北者がいることさえも知らずに。

 茅場晶彦が生み出したVR技術とは系統が異なり、故に未熟で稚拙な子供騙し。他でもない自分自身で認めてしまった。認められなかった父は意固地になってSAOのベータテストに参加して心が折れて自殺した。

 世間の嘲笑に晒されながらも夢を追いかけた親子の戦いは無意味と化し、彼らの夢に投資した多くの資本家は怒りよりも同情をした。

 

『キミ達親子は間違いなく天才だった。情熱も本物だった。だが、同じ天才というカテゴリーでも、茅場晶彦はノイマンと同格の……人類史を変革する程の天才だった。気落ちするなとは言わないが、お父様と同じように自分の命を絶つなどという馬鹿な選択だけはしないでくれ。キミの頭脳は間違いなく我が社の宝であり、これからの日本を……いや、世界を牽引するだけの人材なのだからな』

 

 あれほどに結婚に反対の立場だった彼女の父親さえも、よくぞ健闘したと褒め称え、『茅場晶彦が創造したVR技術』という戦場で日本市場のみならず、世界を相手取って存分に戦って貰いたいと激励した。

 世界は変わった。たった1人の天才によって生活モデルの一新が迫られ、産業革命に匹敵する労働環境の変化がもたらされ、軍事バランスさえも変動させかねなかった。

 彼女は慰めた。父の自殺は残念だったと。どうか自分も安易な選択をしないでもらいたいと。両親もようやく結婚を認めてくれたから、これからは家族として一緒にいたいと。

 だが、認められなかった。

 父は情けなくも茅場晶彦に屈した。いや、自分も心では分かっている。自分たちの研究は遠く及ばなかったと技術者だからこそ認めねばならなかった。

 だが、父が生涯を費やしたからこそ、自分もまた突き進んだからこそ、茅場晶彦が引き起こしたSAO事件は理解しきれず、また彼が残した多くの技術的ブラックボックスに大いなる謎を感じずにはいられなかった。

 全てを捨てた。捨てねば追いつけなかった。いや、世界を変えた天才に、自分が何を捨て身軽に影さえ踏むこともできないと分かりながらも走らねばならなかった。

 魅了されたのだ。茅場晶彦が生み出したVR技術の美しさに魅入られたのだ。それがどうしようもなく許せなかったのだ。

 

『貴方の夢は私の夢。諦めないで、村井さん。私はいつだって貴方を支えます。いつの日か、村井花梨となる女として、いつまでも、いつまでも、いつまでも……』

 

 自分以上に情熱と愛を以て、必ず夢を実現するはずだと信じてくれた彼女を裏切ってしまって、それがどうしようもなく怖くて、天才に挑まずにはいられなかったのだ。

 ああ、自分は愚かにして敗北者なのだろう。醜くも認めずに足掻き続ける。『まだ負けていない』と繰り返しながら、足掻くしかできないのだ。

 

「馬鹿な女だぜ」

 

 解析した膨大なVRデータが脳に直接送り込まれ続ける頭痛はいよいよ意識をまともに保てるか否かの領域に到達しつつある。正気を保てるのもあと僅かだろう。ムライは枕代わりにしていたはずのノイジスの姿がなく、またエイジの影も形もないことから、彼らは出発したのだろうと悟った。

 どれだけ眠っていたのだろうか。欠伸を噛み殺して冷たい小川で顔を洗い、ムライは煙草を吸いたい口の侘しさを堪えながら荒れ寺を目指す。

 途中で焚き火を囲っているはずの心折れた者達とすれ違う。死んだ魚よりも濁った目をした彼らはもはや蠱毒の穴から脱出する気力など残っていない。だが、ムライが取引材料で振る舞った酒が僅かばかりに活力を取り戻させたのか、たまにこうして焚き火から離れて顔を見せることも増えた。

 

「ムライさん、あのいけ好かないイケメンくんはもう出発しましたよ。懲りずによくぞまぁ……死に場所でも探してるんですかね」

 

 痩身の男はエイジを嘲う。彼らの多くはエバーライフ=コールによって蠱毒の穴に突き落とされた、首が回らなくなった債務者だ。エバーライフ=コールが他の犯罪ギルドから借金をした債務者を買い取り、蠱毒の穴の調査に利用したのだ。

 自業自得の愚者だ。返せない金は借りるべきではない。だが、夢を追いかけるには大金が要る。故に成功者の出発点は債務者であるのが常だ。

 

「アイツは馬鹿だが、本物の馬鹿だ。もう2体もネームドを撃破してる。俺は確信してるね。次も帰ってくる」

 

「……だったら、早くに始末しないといけませんねぇ」

 

 涎も乾いた口内も隠しもせず、痩身の男はムライに懐から取り出した麻袋を差し出す。

 

「ほーう。麻痺薬の材料か。大した道具もないここだと調合難易度は高めだが、俺なら何とか1回分は作れそうな数があるな」

 

「ええ、そう見込んで集めました。あのガキはアンタを信用してる。メシに混ぜちまえば、多少の苦みだろうと気付かれないはずだ」

 

 エイジは強い。いや、強くなった。ムライどころか焚き火を囲んでる者達が全員で挑んでも勝てるかどうか怪しい程に。

 脳を酷使するほどに戦っているが、驚くほどに眠りが浅い。まるで心も体も休めようとしない。自分を追い詰め続ける事によって成長しているのだ。

 故に寝込みを襲うよりも麻痺状態にして動けなくさせて殺すのが手っ取り早い。毒とは違い、麻痺と睡眠はプレイヤーにとって即死に等しいデバフだ。麻痺状態の所で袋叩きにすればいい。あるいは四肢を縛り上げて谷底に突き落としてしまえばいい。

 

「麻痺時間はデフォルトで30秒だが、スキルや防具の耐性次第で減少する。奴の麻痺時間に見当はついてるでしょう?」

 

 プレイヤーにとって武器以上に防具の各防御力・デバフ耐性は秘密にしなければならない生命線だ。ある程度の資産があるプレイヤーは市販品でも独自のカスタマイズを施すのが常である。

 大ギルドや有力ギルドなどは装備の統一規格を進めているが、これは絶大な資本力と高い技術力でカバーできるからであり、また整備性や生産性を優先して戦力を確保する方が優先度は高いからだ。

 ムライは防具改造という体裁でエイジの装備情報を丸裸にしている。その上で集めた麻痺薬の材料を考慮して計算する。

 

「作れてレベル1の麻痺薬。これだとせいぜい10秒が限界だな。レベル2だったら18秒はいけたんだか」

 

 耐性値が高ければ高い程に効果時間は短くなるのが麻痺の特徴だ。ムライの試算に痩身の男は満足げに頷く。

 

「10秒あれば、手足を縛り上げるくらいできる。頑丈な鎖を『いつも通り』に手配をお願いしますぜ」

 

「安心しろ。準備はできてる」

 

 ムライの即答に、痩身の男は腹を抱えて笑う。エイジの抗いを無意味だと嘲笑する。

 

「アイツも馬鹿な野郎だ。さっさと諦めていれば死なずに済んだものを」

 

「そう言ってやんな。お前も焦ったからこそ、わざわざ持ちかけてきたんだろう?」

 

 今までネームドを倒せるプレイヤーなどいなかった。自滅するか心折れるかのどちらかだった。

 だが、エイジは2体のネームドを倒した。時間をかけて蠱毒の穴の特性を理解し、実力を付け、ギリギリまで追い詰められながらも反撃を開始した。

 

「ムライさんが余計な真似をしなければ、何処ぞでくたばってただろうに」

 

「……色々と思うところがあったのさ。まさか本当に倒すとはなぁ」

 

 酒を取引材料にして装備を買い取り、エイジを増強させたのは紛れもなくムライだ。だが、いずれも性能劣悪であり、使いこなしたのはエイジの装備の癖を研究する地道な努力のお陰である。

 

「……努力が実るって事は、アイツも才能がある側なんだろうな」

 

「だったら目を覚ましてやらないといけませんねぇ。下手に才能がある奴は才能が無い奴よりも絶望するもんですよ。何せ、『本物』との差を分かっちまうなんて悲劇ですからねぇ」

 

「経験があるのか?」

 

「これでも昔は甲子園を目指した球児なんですよ。名門校でレギュラー争いできるくらいには努力もしたし、才能もあったつもりです。だけど、分かっちまった。努力だけではどうにもならないモノがあるってね」

 

 苦い青春だと肩を竦める痩身の男の意見にムライは全面的に肯定の立場である。

 才能が無い者は時として幸福だ。努力し続けられる夢を見られるのだから。やり続ける事に楽しみを見出せる事もあるのだから。だが、才能がある者は理解する。自分とは比べものにもならない、天に愛されたとしか思えない才能の差を思い知る。

 努力は前提条件だ。天才は努力しないのではない。努力の質が異なるだけだ。ムライの父が生涯をかけ、ムライが青春を捧げた時間を足しても、茅場晶彦の才能に基づいた努力には及ばなかった。

 

「『本物』には敵わない、か。そうだな。それはきっと、アイツも分かってるさ」

 

 エイジの目は幾度と無い挫折と絶望を経験した者の目だ。ムライはそれをよく知っている。

 人生の全てを注いで研究し、体を壊してもなお息子に夢の成就を託した、だが最後には心折れて自ら命を絶った父の目だ。最後の最後に、SAOのベータテストに参加する寸前までの父の目だ。

 

「最後は砕けちまうのかなぁ。だったら、その前に引導を渡してやるのが優しさって奴なのかもな」

 

 抗って、傷ついて、それでもと諦めないで、挙げ句に心は砕け散る。それでも夢や理想を追いかけずにはいられないのだろう。

 ムライは痩身の男から受け取った麻袋をアイテムストレージに収納すると背を向け、だが別れ際に足を止める。

 

「なぁ、これだけの量をお前だけで集めたのか?」

 

「馬鹿言わないでください。俺にそんな気概はありませんよ。これは皆で集めたもんです」

 

「……ハッ! 救いようがねぇな。他人の足を引っ張る時だけ動けるなんてよ」

 

「それが人間ってもんですよ。アイツが勝ち続けたら、俺も、皆も、アンタも死ぬ。『死にたくない』って気持ちに間違いがあるなんて言わせませんよ」

 

「そうだな。その通りだな。誰だって『生きたい』に決まってるよな」

 

 痩身の男の願いは正しい。『生きたい』から努力を惜しまない。普段は焚き火から動けない死人のような輩でも、必死になって他者を殺すべく麻痺薬の材料を集める。

 ムライは雪を踏みしめて荒れ寺を訪れる。薬の調合に必要な道具を仏師から得る為に。

 

「お前さんか」

 

「……エイジはもう出発したみたいだな」

 

「まぁな。ようやく自分の牙の使い方が分かったみたいじゃ」

 

「そうかい」

 

「じゃが……」

 

 本来ならば喜ぶべき事なのだろう。だが、仏師は言い澱んで仏像を彫る手を止める。ムライの影が仏師に重なり、故に彼の仏と向き合い続ける姿に闇を覚える。

 故に理解する。違うのだ。エイジの目は父の目ではない。夢を叶えようと無謀だろうとも足掻き続けた者の目ではない。夢を諦めきれず、ならばこそ心砕けて自殺した男の目ではない。

 

「仏師殿、俺にはやる事がある。やらないといけねぇんだよ」

 

「懺悔なら余所でしな。儂は生臭ではない」

 

「……だな」

 

 生きたい。死にたくない。それが正義だと言うならば、抗い続ける者を殺すのは正義なのか。ムライは昼も夜もない、暁も黄昏もない空に星を求めた。

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

 落ち谷には淡く雪が舞い散る冷たさと澱んだ空気が同居する水場がある。踝程の水位と痩せ細った枯木が乱立し、巨大な白猿が背を向けて座する最深部だ。

 1度落ちれば容易には戻れない崖下にあるが故に、挑めば勝つ以外の選択肢はない。だが、エイジの場合には別の懸念もある。

 

「エイジちゃんよぉ、本当に奴にするのかよ。今までの傾向だと主を倒した記憶にはもう行けねぇんだぜ!? 物資補給ができる落ち谷は最後にした方がいいんじゃねぇか!?」

 

 エイズの頭上で飛ぶノイジスの指摘通り、既に主を失った霧の森と黄金の城には転移できなくなっていた。酒といった娯楽品のみならず、薬を補給できた黄金の城を探索できなかったのは大きな痛手である。逆に霧の森では得られるものは無いに等しかったので問題は無い。

 落ち谷は薬、ボルト、火薬といった製造・調合素材が得られる貴重なステージだ。落ち谷を攻略するとは即ち補給が絶望的になるという事である。

 ならば、既に正体と撃破条件が明らかになっている無名の剣士か、あるいはもう1つの未知である般若の仮面が導くステージを攻略する方が順序として正しい。

 

「『休息』はともかく『補給』はもう考えるべきじゃない。僕も装備も限界が近い。それに無名の剣士を倒すにはカードが要るし、情報が全くないステージに飛び込むのはリスキーだから最後に回したい」

 

 ムライに指摘された通り、左籠手に仕込まれたクロスボウ機構は消耗による破損間近。防具には明確な性能低下が見られる。ダーインスレイヴの『外装ブレード』も刃毀れが著しく、エンジンも元の性能の半分も引き出さない程に損耗してしまっている。

 エイジも激しい目眩と頭痛、何よりも長期に亘るダーインスレイヴとの接続強化による意識侵蝕、深海の指輪の精神汚染により、まともに戦える時間は限られていた。

 

「…………っ!」

 

 まただ。また『笑い声』が聞こえる。それは蜘蛛の足音にも似て、魂を貪られているかのような心地をもたらす。エイジは胸に苦しさを覚え、両膝をつく。

 

「エイジちゃん!? やっぱり限界が……!」

 

「まだだ! まだ僕は戦える!」

 

 視界が黒く澱む。深海の囁き声が聞こえる。白い腕が伸び、エイジの首に絡みつき、最奥へと招こうとする。

 ふざけるな! エイジは腕を振り払おうと上半身を反って天を仰ぎ、口で大きく何度も冷たい空気を吸い込む。

 深海には至ろう。だが、己の手で潜るのだ。誘われるのではない。引きずり込まれるのでもない。己の意思で深みに潜るのだ。そうであらねば繰り返しだ。弱者のまま、いつまでも這い進むだけの虫だ。

 這ってでも、這ってでも、這ってでも、前に進む。たとえ、行き着く先が空に瞬く星さえ見えない深海であろうとも、『力』を手に入れられるならば!

 

「だけどよぉ、キツいぜ。エイジちゃんだって聞いてただろ? ムライの旦那……エイジちゃんを殺す算段を立ててたぜ?」

 

「……僕が脱出を目指す限り、最初から分かりきっていた事だ」

 

 ムライと痩身の男の会話をエイジは木陰で聞いていた。酒を抜く為に風に当たっていた時、偶然にも彼らの接触を目撃してしまったのだ。

 タイミングは分からない。だが、ムライはエイジに麻痺薬を盛り、動けなくなったところを縛り上げて谷底に突き落とすつもりだろう。落下死ならばレベル・装備の差も関係ない。PKの常套手段である。

 幸いにもムライからは干物を十分に買い込んである。物資の補給はできないとはいえ、ムライにはまだ利用価値がある。今は騙されたフリをしておくのが最善策である。

 

「でも分からねぇなぁ。ムライの旦那はどうしてわざわざエイジちゃんに協力したんだ? エイジちゃんを始末したいなら、協力を断っておけば、何処ぞでくたばってたはずだぜ」

 

「蠱毒の穴の性質上、自棄になって暴走したり、物資の略奪したりで殺されるリスクがある。未然に防止する為……にしては理由が弱いな」

 

「やっぱり、ムライの旦那とちゃんと話し合うべきじゃねぇか? 俺様は孤高の古竜だから友竜はいねぇが、剥げ竜に裏切られる以前に、古竜同士で連携を取れていれば、グウィン共にも負けなかった。常々だが、そう思ってるんだ」

 

「……ムライの対処を決めるのは奴を倒してからだ」

 

 ムライの真意は不明だ。だが、蠱毒の穴から生きて出られるのは1人だけならば、結末は変わらない。ムライは死に、エイジは生きる。それ以外の選択肢は無い。

 腹を括る以前の1本道だ。エイジは胸の苦しみを取り払い、大猿が待つ水場に降り立つ。

 周囲は切り立った崖で覆われた水場は大猿とのデスマッチリングに相応しい。痩せ細った枯木は軽く殴っただけで倒木しそうであり、およそ障害物としては機能しないが、鉤縄を引っかければ戦いを上手く運べるだろう。

 大猿の首には巨大な刀が突き刺さっており、傷口の周囲だけ白毛が赤黒く染まっているが、血は完全に止まっている。およそ生物として死亡していなければおかしい状態だが、この程度で生死の区別をつける程にDBOにおいて外観は当てにならない。

 

〔行くぜぇえええええええええええええ!〕

 

 無防備に背中を晒す大猿に、エイジは左手に止まったノイジスを瑠璃火で燃え上がらせて火の鳥の如く突進させる。

 背後からの強襲を受けた大猿はゆっくりと起き上がり、凶悪な貌を見せつける。大きく割れた牙は血が付着し、目は腐敗したように濁って目脂で塗れている。まるでゾンビのようであるが、確かに生の息吹が宿っている。

 HPバーは2本、その名は【獅子猿】! 全高8メートルにも及ぶ白い大猿は、猿の軽快さに巨体ならではのパワーを併せ持って水場で跳ね回る。

 圧倒的体格差を活かし、獅子猿はエイジへと右、左、右と拳を振り下ろす。丁寧に躱してカウンターを入れようとしたエイジだが、不意に振り回された右腕が迫り、ダーインスレイヴで弾くもパワー負けして押し飛ばされる。

 

〔さすがにコイツのパワーを弾きで対応するのは悪手だ!〕

 

〔だからと言って、カウンターを狙い続けられる程に僕の回避力は優れていない〕

 

 ならばどうするか? ガードも弾きも相性が悪く、獅子猿の猛攻を避け続けてカウンターを入れられないならば、純粋な機動力で振り回す迄である。

 ソウル・リアクター起動。最初から出し惜しみしない。バトルスーツはエイジの動きを拡張し、スピードを引き上げる。ただし、バトルスーツとの連動しきれなければ、待っているのは自傷であり、そして自滅である。

 更にステータス出力を引き上げる! エイジは一呼吸でSTR・DEXの出力を5割で安定させる。その分だけバトルスーツの加速制御は困難となるが、獅子猿に勝つにはこれくらいのリスクを背負わねばならない。

 いいや、違う。エイジはこれまでの積み重ねを思い返す。土壇場で出来ないのでは意味が無い。カードを増やす為には、実戦で有用性を証明する他にないのだ!

 水飛沫を上げて駆けるエイジに、あろうことか獅子猿は8メートル級という巨体でありながら追いつかんと駆ける! いや、跳躍を含めた総合的機動力は獅子猿が上である。

 だが、小回りは絶対的にエイジに分がある。ただし、それはエイジがバトルスーツと連動性を高レベルで保つという前提がある。

 青く光る電子回路の輝きが迸り、バトルスーツの人工筋肉がエイジの動きを拡張する。これだけでも体への負荷はもちろん、制御は困難を極めるが、そこにアバター操作能力が求められるステータスの高出力化が合わされば、高難度化する。

 バトルスーツの人工筋肉による運動拡張とステータス高出力化。もたらされる制御の高難度化は加算ではなく乗算だ。

 

『コイツの開発者はおよそ安定性をぶん投げてる。「素材以上の高性能」を求めた結果、装備にも使用者にもリスクを課す。修理素材が無い以上、お前より先にガタがくるのはコイツの方だぜ』

 

 ああ、うるさい。うるさい。うるさい! クロスボウ機構を組み込んだ際に、ムライが口にした忠告が頭に浮かぶ。皮肉にも、それが集中力を研ぎ澄ます事実に苛立たされる。

 

『連動率90パーセントを切れば「軽度」の、80パーセント未満で「重度」の人体損壊。で、だ。バトルスーツに使われてる人工筋肉の消耗増加・損耗リスク増大のラインは85パーセントってところだ。いいな? 人体は……アバターは時間経過と回復アイテムで治せる。だが、武器も防具も耐久度回復の「修理」は出来ても損壊を直す「修復」は無理だ』

 

 多少の人体損壊は深海の指輪でカバーできる! バトルスーツから飛び散る自身の血に舌打ちを堪えながら、獅子猿のデンプシーを間合い外に離脱して孤を描くように駆けて躱し、背後を取って×印を描くように斬ったエイジは口内に溜まる自分の血を噛み締める。

 皮膚・筋肉の裂傷といった表面的なダメージよりも深刻なのは内臓・骨の損壊だ。特に足の骨が折れれば著しく戦闘能力が低下する事になる。

 

〔タフなお猿さんだぜ! だが、この調子なら……!〕

 

 獅子猿を正面を霊体状態のノイジスが飛び回って気を散らした隙に背中を斬りつけるエイジに、獅子猿は尻を向けると放屁する。着色された汚らしい暗緑の煙は悪臭そのものであり、またレベル3の毒が蓄積する。

 菩薩谷の下は毒沼地帯だ。植生の影響で毒を持っているのか? 分析するエイジに対して、まともに嗅いでしまったノイジスは涙目になって落下する。その間に獅子猿は大きく跳び上がり、尻を毟ると拳大程の糞を掴み取り、隕石の如くエイジを狙って投げつける。

 

「下品な攻撃だな! 猿らしいといえばらしいが!」

 

〔それでも品性が足りねぇぜ! 燃やしてやりな、エイジちゃん!〕

 

 言われずとも! エイジは剣先を下げて体を捻り、全身を巡るSTRエネルギーを束ねる。

 

「『我流』鬼火の剣・【火刃】」

 

 剣先に宿った瑠璃火は振るわれた刀身と共に弧を描き、波動の如く刃となって飛ぶ。

 それはまるで聖剣の基本能力である光波のようであるが、実態は凝縮されて半物質化した瑠璃火である。

 瑠璃火を刃にして彼方まで飛ばす。簡単なようであり、だがその実は無名の剣士も実現できなかった御業だ。

 イザリスの罪の1つ、光属性の炎である瑠璃火は凝縮すれば黒炎の如く物理的な性質を発揮する。無名の剣士はこの性質を利用して周囲に嵐の如く瑠璃火の刃を展開したり、斬撃の間合いを伸ばしたり、飛ばした炎の破壊力を高めたりした。瑠璃火を融合させた武技の総称が鬼火の剣である。

 だが、幾度となく戦っても、最も安易に考えつくはずの『固めた瑠璃火の刃を放つ』という技がなかった。あくまで刀から瑠璃火を放出し続けて斬るといった攻撃手段しかなかった。

 理由は単純である。瑠璃火は手元を離れると急速に拡散する性質があるのだ。たとえ、刃のようにして固めて放っても外縁から瞬く間に崩れていく。命中させても瑠璃火の炸裂を生むだけであり、刃としての性質を発揮し難い。

 では、どうしてエイジは無名の剣士では実現できなかった光波の如く瑠璃火の刃を飛ばす技を会得したのか。

 瑠璃火が拡散するのは放たれた後のエネルギー供給が行われないからだ。ならば『燃料』と共に放てばいい。エイジにはそれができる。

 深海の指輪が与える攻撃範囲拡大の闇属性エンチャント。それをダーインスレイヴのエンジンを通して刀身に伝導し、斬撃と共に放つ。本来ならば威力・衝撃を増幅させるエンジンによる強化機構であるが、深海の指輪と組み合わせる事で闇の波動の放出機構ともなる。

 それだけでは攻撃力は微々たるものであり、無いに等しい。だが、瑠璃火の凝縮を維持する燃料として見るならば別だ。特に深海の指輪のもたらす闇は重油のような粘性があり、燃料としては最適である。

 そして、火の刃は飛の刃となった。顔面から瑠璃の火刃を受けた獅子猿は耐えようとして、だがそれが仇となる。闇の燃料が尽き、また獅子猿の顔面という障害物によって潰れた火刃は拡散して元の炎の性質に戻って獅子猿を焦がす!

 顔面が瑠璃火で燃え上がった獅子猿が落下し、チャンスだと迫るも獅子猿は駄々っ子のように両腕を振り回しながら全身を揺さぶってエイジを近づけない。立ち上がった獅子猿は咆吼を上げて威嚇するも、すでに正面にエイジはいない。

 獅子猿の頭上より強襲したエイジは脳天から脊椎を裂くように背後を斬り下ろす。近寄れないと踏んだエイジは鉤縄を使って枯れ木を伝い飛び、獅子猿が起き上がるタイミングで頭上を取ったのである。

 だが、これも何度も通じる攻撃ではない。獅子猿によって水場の枯れ木は次々と薙ぎ倒されている。3次元移動はそう何度も出来ない。

 

〔そっちが屁と糞が毒なら、こっちはこれだぁああああ!〕

 

 ノイジスが獅子猿の頭上で舞えば、実体化して毒々しい緑のオーラを爪で襲いかかる。

 ノイジスと毒手の融合能力【毒爪】。その名の通り、ノイジスの竜爪にレベル3の毒が帯びるというシンプルな能力だ。孤影衆のように毒耐性が極度に高い相手には通じないが、そうでなければ毒状態も狙える、ないしプレッシャーになる、パッシブでも通じる燃費の良さが際立つ能力である。

 ただし、毒爪の使用にはノイジスの実体化が不可欠だ。故にノイジスが撃破されて回生を失う危険性もある。だが、ノイジスはうるさいだけの竜モドキではない。

 獅子猿が幾ら掴みかかっても軽やかに躱し、逆に毒の爪で白毛で守られた肉を裂く。1人と1匹の間にアイコンタクトは必要なく、エイジは真っ正面から獅子猿の懐に入り込む。

 毒手! エイジの左手に毒々しい緑のオーラが帯び、エイジは獅子猿の腹に掌底を1発、2発と叩き込み、最後に力を溜めた貫手を穿つ!

 獅子猿の口から絶叫が漏れ、また毒状態となってじわじわとHPが減る。

 毒は固定値ダメージであり、HPが多いモンスター程に有効性が薄れる。レベル3の毒ともなれば、レベル100級で通じるものだ。秒間ダメージでこちらが何もせずともじわじわとHPが減るのは心理的に余裕を与える。

 また毒は流血システムの追加によって再注目されている。毒状態ではアバター修復速度が低下する。これを利用することで、毒状態によって、流血のスリップダメージとアバター破損による防御力低下を長引かせるのである。

 エイジがこれだけ斬りつけても、白獅子は傷を負っても血をほとんど流していない。流血のスリップダメージは期待できない。だが、アバター破損による防御力低下は免れない。

 獅子猿はHP量こそ多いが、防御力は決して高くないというのがエイジの斬った手応えだ。斬って、斬って、斬り続けて、アバターを傷つけて防御力を低下させ、また毒状態にして修復速度を低下させるのは妙手である。

 だが、獅子猿は毒と傷で怯むどころか怒り狂い、より激しく暴れ回す。前転するように飛びかかったかと思えば、エイジが回避行動を取った先に右手を伸ばし、彼の体を掴み取る。

 しまった! 握り潰されるより前に、エイジは自爆覚悟で焙烙ボルトを放つ。林檎のように潰されて内臓を撒き散らすより先に、掌の内側で炸裂した爆発に怯んだ獅子猿はエイジを2,3度地面に叩き付けると放り投げる。

 枯木を打ち砕きながら水場を囲う崖の壁に激突するより先に姿勢制御し、地面にダーインスレイヴを突き立て、火花と水飛沫を散らしながらブレーキをかけてエイジは自分の腹の肉が抉れているのに苦悶の表情を浮かべる。

 大した殺傷力が無い市販の花火。だが、それも握り拳の内で着火させれば肉を飛ばす威力を発揮する。逃げ場のない爆発は獅子猿の掌とエイジの腹の双方を爆ぜさせた。

 だが、使った焙烙ボルトの威力が低かったからこそ、また機動力重視とはいえ防具にも助けられ、エイジの腹から腸が零れ出ることはなく、また獅子猿の掌も分厚い皮膚が敗れているだけで済んでいる。

 

(崩落ボルトが威力不足のお陰で命拾いするなんてな)

 

 丸薬を食み、エイジは微々たるオートヒーリングを付与する。深海の指輪は回復・再生のバフを特に付与するが、その中でもアバター修復速度上昇の効果が秀でている。オートヒーリングも実用性の範疇であるが、バトルスーツによって自傷し続けるエイジにとってはアバター修復速度の上昇は最も恩恵が大きい。

 いや、その発想が間違っているのだ。高い連動率を保てていれば自傷も自壊も心配しなくていいのだ。だが、エイジは間違った発想だとしても、それは見解の1つに過ぎないとカテゴライズを瞬時にやり直す。

 獅子猿はエイジの負傷を見て、跳躍すると空中側転して遠心力を加えた右ストレートを繰り出す。まともに受ければタンクでもダウン必至だろう攻撃は水面を弾き、底の岩盤を砕く。瓦礫を伴った津波が発生し、エイジは辛うじてまだ残っている枯木へと鉤縄を引っかけて移動し、獅子猿を睨む。

 空中でボルトを射出するも、獅子猿は左右に機敏に動いて回避し、逆にエイジの着地を狙って飛びかかる。

 ここだ。エイジは左手で印を組み、霧がらすを発動させる。エイジを狙った獅子猿の右拳を霧となって通り抜け、背後を取ると≪両手剣≫の単発系ソードスキル【ハイアップ・】を繰り出す。切っ先で地面を捉えて力を溜めると一気に斬り上げる単純なソードスキルである。単純に威力に優れ、また対象の重量次第では宙に浮かす事も可能だ。

 だが、獅子猿という超重量級相手では浮かす効果は期待できない。ならばエイジの狙いは? それは地面を抉るという性質にあった。

 獅子猿の右踵を狙った事で、膝裏から太股の半ばまで裂いたエイジに、ダメージを受けた右足を軸にして振り返ろうとした獅子猿であるが、抉れた地面に僅かなラグを生み、その間にエイジは『準備』を終えている。

 左手に出現させたのはガラスのような半透明の姿をした斧だ。ラーニングして会得したゴーレムの斧である。力を溜めた斧の片手斬りは振り返った獅子猿の右膝を砕き、斧の勢いを利用して飛び上がったエイジはダーインスレイヴと斧で同時に袈裟斬りを繰り出す!

 斧・連ね斬り。腹を抉られた獅子猿はそれでも襲いかかるが、エイジは顔面めがけて爆竹を放る。激しい光と音と煙が獅子猿を一瞬だけ怯ませ、その間に火薬をばら撒き、左手の呪術の火で瞬くの炎の武器をエンチャントする。

 爆閃! 火薬の爆発と炎属性を帯びた一閃が爆竹に驚いて前屈みに獅子猿の顔面に入る。燃え上がる顔面を掻き毟る獅子猿の額にエイジは情け容赦なくダーインスレイヴを突き入れる!

 

(ラーニング失敗? まだネームドの固有能力を見せていないのか?)

 

 ダーインスレイヴのラーニング条件はユニーク・ネームドの固有能力を目視し、対象のクリティカル部位に刺突する事だ。獅子猿もどれだけ大きくとも猿だ。頭部か心臓がクリティカル部位のはずである。

 だが、これまでの獅子猿が見せた攻撃は格闘攻撃・放屁・糞投げだ。毒を与える放屁や糞投げはラーニングしても気分が悪いだけに不発はありがたいが、だが同時に獅子猿がまだ底を見せていない証拠かも知れず、故にエイジは意識を研ぎ澄ます。

 獅子猿が単純に固有能力をもたない肉弾戦特化ならば、それもまた良い。だが、凶悪な固有能力を持っているならば、極めて危険な相手となるだろう。

 まずはHPバーを1本削り尽くす! エイジは攻撃の手を緩めず、獅子猿を当初の予定通りに機動力で振り回し、着実にダメージを重ねていく。

 獅子猿は一見すれば獣らしく考えなしに乱雑な戦い方をしているように見えるが、その実は幾つかの癖がある。

 たとえば、連続で攻撃を浴びれば背後に飛び退き、こちらが攻め込まないならば一気に距離を詰めて反撃してくる。前方への拳を振り回しの最中に背後に回り込もうとすれば腕を振り回してバックアタックにカウンターを取ろうとする。こちらが顔面攻撃を連続で与えると敢えて大きく仰け反って距離を取る。

 AIならではのパターン化とは違う、生物としての癖のようなものだとエイジは感じ取った。

 人間とて同じだ。パターン化は出来ずとも行動には癖が必ず存在する。呼吸とも呼ぶべきリズムが存在する。

 弾きとは相手の攻撃のリズムに合わせて衝撃耐性を……体幹を削り取って致命の一撃を与える戦法だ。

 

(分かってきたぞ)

 

 ライドウや【黒の剣士】は『自分のリズムを押しつける』タイプだ。自分の譜面に相手の攻防を巻き込んで主導権を支配しようとする。言うなれば能動的に相手を振り回していく……主導権を奪い取る戦い方だ。

 だが、エイジの戦法は『相手のリズムを利用する』タイプだ。一見すれば受動的で押し込まれるようにも見えるが、相手の譜面そのものを使って攻勢に移れる。故に相手の隙に面白いように攻撃が入っていく。

 そして、辿り着いたからこそ分かる。【渡り鳥】は『相手のリズムを支配する』タイプだ。自身もまた嵐の如く破壊的に攻め込み、相手の一挙一動全てを自分の譜面を喰らい尽くして我が物にしてしまう。故に攻撃しようとも当たらず、それどころか手鼻を挫かれ、あるいは攻撃した瞬間にはカウンターを喰らう。なにせ自分の譜面は全て【渡り鳥】の1部となってしまっているのだから。

 押しつけようとしたリズムは喰われ、またリズムを利用しようとしても呑み込まれる。驚異的かつ絶望的な先読みによってこそ成り立つ、『自分のリズム押しつける』と『相手のリズムを利用する』の完全なる融合だ。断じて両立ではない。完全に1つとなっている、あり得ぬ異形の業だ。

 少しずつ、1歩ずつ、確かに『力』を手に入れるからこそ分かるライドウや【黒の剣士】といった選ばれた強者との実力差。そして、視野が広がったからこそ感じずにはいられない【渡り鳥】の不気味なまでに底知れない『力』の在り方。それらがエイジに笑みをもたらす。

 手に入れてみせる! 空を羽ばたく翼はなくとも、太陽の温もりも、月の導きも、星の加護もなくとも、闇しか満たさない深海でこそ得られる『力』を!

 

〔いい加減に……倒れやがれぇえええええ!〕

 

 ノイジスが獅子猿の後頭部を毒爪で抉り、ついにHPバーの1本目が失われる。大きく飛び退いた獅子猿は歯を剥き出しにすると胸を張り、水面が爆ぜる程の咆吼を轟かせる。

 

「おい……おいおい! 冗談だろ!?」

 

 ノイジスが脳内通話ではなく、その口で絶望を告げる。

 エイジの背後で地響きが発生したかと思えば、獅子猿よりも一回り小さい茶毛の大猿が出現していた。同時に獅子猿が幾度となく両手を地面に叩き付け、あろうことかその腕に瓦礫を突き刺して籠手のように補強する。あまりにも強引な強化に呆れるが、エイジは冷静な判断力を失わない。

 

「これで2対2だな」

 

「へへ、嬉しいねぇ。俺様もちゃんと戦力にカウントしてくれるってか? んな冗談言ってる場合かぁああああああああああ! 自慢じゃねぇが、俺様とエイジちゃんは1人と1匹で1つ! せいぜい2対1.1だ、馬鹿野郎!」

 

「泣き言を口に出来る暇があるなら茶色の方を足止めしろ。その間に獅子猿を仕留める!」

 

「無茶言うな! あんな図体を俺様のプリティ・ボディでどうやって止めろってんだよ!」

 

 こういう時だけ竜の威厳をかなぐり捨てるノイジスに嘆息しつつ、エイジは挟み撃ちしてきた獅子猿と大猿の間を縫って躱す。

 この大猿……雌か? 獅子猿の番だろうか? だが、何かがおかしい気がした。エイジはひとまず中距離で削るべく火刃を大猿に放つ。

 大猿は回避が間に合わず、右腕で防ぐ。だが、右腕はあろうことか瑠璃火で大いに燃え上がり、大猿は悲鳴を上げる。

 

「……なるほどな。ノイジス、朗報だ。あっちの猿は『幽霊』だ」

 

「だから何だよ!? 生きてるようにしか見えない幽霊のお猿さんでもデカさは正義だろうが! デカいはパワーだろうが! デカいのはおっぱいだけで十分だろうが!」

 

 竜にとってもセクシャルアピールポイントは胸なのか? エイジはそんな冷静なツッコミを堪える。

 

「瑠璃火は浄化の火。闇の眷属とゴースト系に効果を発揮する。大猿には瑠璃火が通じる。後は分かるな?」

 

「分からねぇ!」

 

「……獅子猿の攻撃を潜り抜けて、大猿を瑠璃火で滅ぼす! 勝負は3分だ。やるぞ!」

 

 獅子猿は補強した両腕を荒々しく振るう。破壊力はもちろん防御効果も付与されており、ダーインスレイヴを振るうも火花が散って刃は食い込まない。たたでさえ外装ブレードが刃毀れしているダーインスレイヴでは斬れない。

 エイジの刃を獅子猿が止めれば、大猿が両手を組んで上空からハンマーのように振り下ろしながら降下する。大きく跳び、左手で地面を掴んでアクロバティックに着地したエイジを大影が覆う。

 即座に獅子猿がその巨体を活かしてプレスを仕掛けてきたのだ。ギリギリで範囲外の逃れようとするも、衝撃波と瓦礫を浴びてHPが削られる。

 吹き飛ばされた先に大猿は水没した枯れ木をなげ槍の如く投擲する。如何に痩せ細って脆くなった枯れ木とはいえ、大猿の膂力で投げられたならば破壊力は絶大だ。

 次々と飛来する枯れ木を躱し続けるエイジだが、獅子猿は上空から糞を投擲する。

 悪臭が漂う中で直撃を回避したエイジの正面を取った大猿のアッパーが顎を掠める。一撃KOをイメージさせる大振りをバック転で躱したエイジは空中でボルトの狙いを付ける。

 放たれたボルトは瑠璃色の炎を宿し、大猿の右目を射貫く。咄嗟にボルトに瑠璃火をエンチャントさせて放ったのだ。闇の重油を纏わせればより強化できるかもしれないが、今のエイジでは瞬時の同時コントロールは難しい。練度が不足しているのだ。

 いや、それは言い訳だ。エイジ自身の消耗……時間加速による脳の消耗がいよいよ限界に到達しつつあるのだ。指先の感覚を一瞬だけ失い、ダーインスレイヴが危うく零れ落ちそうになる。

 

「エイジちゃん!? だから休めって言っただろ!? 半日寝たくらいで回復するわけねぇだろうが!」

 

「休んだら……もう動けなくなる。僕は……止まれない。止まりたくないんだ!」

 

 エンジンを全開にし、威力と衝撃を高めた一撃を大猿の頭部に叩き込む。血飛沫を上げた大猿は飛び退き、守るように獅子猿が間に入ると巨体を活かしたショルダータックルを放つ。まともにガードしたエイジはそのまま押し込まれて崖の壁に叩き付けられる。

 

「がっ!?」

 

 吐血したエイジに、獅子猿は容赦なく拳の連撃を振るう。エイジは何とか両足で地面を捕らえ、STR出力を全開にして弾く。

 獅子猿の両手が瓦礫で補強された事によって、弾く度に巨大な火花が散る。1度でもガード判定となれば押し潰される極限の状況で、エイジの意識は研ぎ澄まされる。

 連撃の中で獅子猿の右腕のディテールが増す。視覚警告だ。エイジはそれが地面を滑るような掴み攻撃だと判断し、大きく跳んで逆に獅子猿の頭を踏みつけ、背後でエイジが抜け出した場合のカウンターに備えていた大猿を見据える。

 

「ノイジス!」

 

「おうさ」

 

 ノイジスを左手に止め、瑠璃火を纏わせて放つ。胸部に直撃を受けた大猿は全身が瑠璃色に燃え上がり、鎮火させるように転がり回るが、光属性の浄化の炎は水では消えない。

 踏みつけられて背後に回られた挙げ句、守るはずだった大猿に手痛い攻撃を浴びせられた獅子猿は反転しながら左拳を叩き付ける。だが、エイジは影瑠璃で加速して一気に離脱する。

 

「ぐが……!?」

 

 だが、無理な体勢での加速は体と人工筋肉の連動がズレて負荷は右脛に集中し、危うく折れるところで体勢を整える。また、連動失敗の反動は内臓にも及び、獅子猿のショルダータックルのダメージも合わせて血が吐き出される。

 それだけではない。右側を中心にして視界が黒ずんでいる。深海の指輪……闇の汚染だ。また、ダーインスレイヴを握る右手が熱い。まるで血管が熱せられているかのように、じわじわと肘に、肩に、ダーインスレイヴの侵蝕が広がっている。

 レギオンにすらなれなかったなり損ない。次に暴走すればどうなるか分からない。スレイヴの警告を思い出し、身震いし、だがエイジは牙を剥く。

 それがどうした? どれだけ捧げようとも『力』を手に入れると決めたのだ。憎しみのままに!

 

「もっと『力』を……!」

 

 丸薬も薬水も使っている暇はない。エイジに飛びかかる獅子猿に視覚警告が発動する。プレスではなく掴み攻撃だ。スライディングで獅子猿の腹下を抜け、待ち構えていた大猿の水面を散らす連続パンチに、エイジは敢えて弾きで対応する。

 鉄のような体毛が舞う中で、エイジは大猿の連撃の末に見せた刹那の隙に左手を突き出す。五指の貫手は禍々しい毒のオーラを纏い、だがそれは瑠璃火に変じる。

 瑠璃貫手! 毒手を瑠璃火でエンチャントし、更に収束させることで物理的性質を帯びさせ、左手の貫手そのものが槍の如く、ノイジスが瑠璃火で焼き抉ったまま傷口が癒えていない大猿の胸の中心を貫く!

 温かな肉を抉り、肋骨を砕き、心臓に到達する。

 

「爆ぜろ!」

 

 瑠璃火を解放する。凝縮された瑠璃火は解放され、拡散して炎の性質を取り戻し、体内より爆発的に広がって大猿を内側から破壊し、また焼き尽くす!

 獅子猿の痛烈な悲鳴が轟く。それは大猿のHPがゼロになった証だった。倒れた大猿は瞬く間に塵となって霧散する。最初から幽霊ですらない幻だったと獅子猿を嘲うかのように。

 

「あとは……お前だけだ!」

 

 番を失い、怒りと悲しみのままに暴れる獅子猿に対してエイジは……そしてノイジスは冷静だった。エイジが1つ1つ丁寧に傷を負わせれば、ノイジスが毒爪で抉る。

 

「エイジちゃん!」

 

 ノイジスが声を上げれば、エイジは頭上に焙烙玉を投げる。それをキャッチしたノイジスは舞い上がり、獅子猿の頭上からいつでも投下できるとプレッシャーをかける。

 煩わしいと腕を振り上げれば、その隙にエイジががら空きの腋を薙ぎ払い、傷口に焙烙ボルトを連射する。焙烙ボルトは浅い傷口に刺さった先から炸裂して醜く広げる。絶叫を迸らせて下がれば、先回りしたノイジスが焙烙玉を顔面に投下して視界を奪い、その間にエイジはボルトを放つ。

 瓦礫で強化された腕を振るってボルトを叩き落とす獅子猿だが、ボルトの影となったかのように駆けたエイジに反応しきれずに腹を薙がれ、そのまま空中蹴りを放たれる。

 追い斬りからの影瑠璃・牙! 右踵のカートリッジが杭のように傷口に潜り込み、闇の重油を瑠璃火が一気に燃焼して瑠璃火の爆発を起こす。

 

「どりゃぁああああ! いい加減に毒になっちまいな!」

 

 1度デバフになるとモンスターは耐性が上昇する。毒は比較的に1度目は発動させやすいデバフだが、それでもネームドとなれば2度目の耐性上昇は大きい。だが、ノイジスの毒爪は的確に傷口を抉る事で効率的に毒を蓄積させていた。

 2度目の毒状態に獅子猿が焦る。だが、焦燥と冷静がギリギリのバランスを保っているエイジは意に介さずに、獅子猿の攻撃のリズムを読む。

 相手はただのAIではない。状況によって、心理状態によって、こちらの行動によって、常に考えて次の手を打ってくる『生きている』存在だ。

 譜面は一定ではない。繰り返しではない。常に変化を続ける。だが、癖は必ず存在するならば合わせられる! エイジは跳び上がりからの糞投げより先に着地地点に急行し、火薬を撒き散らす。

 それは読んでいるとばかりに獅子猿が両腕でガードを取る。爆閃を浴びた経験から取った行動は、だがエイジの狙い通りだった。

 

「火薬は撒いただけさ」

 

 ガードで視界を自分で閉ざした獅子猿の首に突き刺さる巨大なカタナの柄に鉤縄を引っかけたエイジは跳び上がり、STR出力を全開にしてカタナの柄を握る。

 獅子猿のHPは残り1割を切っていた。この状況ならば押し切れる! エイジは確信を持ってカタナを全力で押し込む。だが、獅子猿は最後の力を振り絞ってエイジを掴む。

 勝った! 獅子猿は勝ち誇って凶悪に笑い、エイジを挽肉に変えようと握力を強める。

 だが、エイジの死への恐怖も無い……いや、勝利を確信した冷たい眼差しに獅子猿の目が見開かれる。

 

 

 

「任せた、ノイジス」

 

「おうよ!」

 

 急降下で威力を高めた毒爪が狙うのはカタナの柄。最後の駄目押しはノイジスという小さな竜モドキによって為され、カタナは回転すると獅子猿の首を切断する。

 エイジを手放した獅子猿は、それでも生きているように胴体を唸らせ、だが前のめりになって倒れた。

 ファンファーレが鳴り響く。エイジは片膝をつき、深呼吸をした。スタミナは危険域であり、形代はほぼゼロだ。形代流しを使う暇もなかった。

 

「どうだ、見たか! この俺様の雄志を! 猿の分際で古竜である俺様に勝とうなんざ1000年早いんだよ!」

 

 獅子猿の遺体に着地したノイジスは翼を広げて示威しているが、エイジはどうでもいいとばかりに溜め息を吐く。

 

「ギリギリだったな」

 

 全身から血が滴るのは獅子猿の攻撃のみならず、連動性が足りずに肉体が裂けている証拠だ。連動性不足の反動で全身の骨が砕け折れる寸前であり、内臓は潰れているらしく、咳き込む度に血が吐き出される。

 

「まっ、ギリギリで済んだのはエイジちゃんも強くなった証拠じゃねぇかな? お猿さん2体同時でも全く怯まないどころか弱点を看破して速攻で1体を落とす……成長したぜ!」

 

「運が良かっただけだ。光属性が弱点なんて、見え透いた『イージーモード』だしな」

 

 瑠璃火を確定で得られるダンジョンで、わざわざ光属性が弱点の番を出すなど難易度調整にも程がある。茅場の後継者の不気味なまでの配慮には鳥肌が立ちそうだった。

 それにしても長い。システムウインドウで得たアイテムなどをチェックしていたエイジは、時間が経っても輪郭を崩さない世界にクリア判定には別の条件があるのかと獅子猿の遺体に背を向けて見回しへ変化を探るも、特に何もない。

 

「ノイジス」

 

「仕方ねぇな! 俺様がちょっくら見回ってきてやるよ!」

 

 ノイジスが上空から周囲を探る間にアイテムに何かあるのかと確認すれば、【獅子猿の記憶】を見つける。アイテム説明欄に何かあるのかとエイジは読み進める。

 

「『この記憶は使用する事で形代ゲージの増加か≪瑠璃火≫の能力解放ができるが、ソウルと交換することは出来ない』か」

 

 ソウルを得られる程のネームドではなかったという事だろうか。だが、エイジの体感では迷いがらすはもちろん、数の暴力だった孤影衆よりも格段に強かった。

 瞬間、エイジの視界が暗くなる。深海の指輪を使用した闇の汚染かと思ったが、違う。エイジに大きな影が覆い被さっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 振り返るとそこには、右手に己の首を切断した巨大なカタナを握り、左手には切り落とされた頭を掴んだ、首無いにもかかわらず立ち上がった獅子猿の姿があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 完全に突かれた虚は反応を鈍らせる。同時にエイジはDBOの悪辣さを改めて思い知る。

 ネームド【首無しの獅子猿】に名を改め、だが首の切断面に頭部を押しつけた首無し獅子猿は、切り離された頭部を……その口を動かす。

 猿叫。それは戦において味方を鼓舞し、また敵を慄かせる恐怖をもたらす叫び。その名の通り、猿の如く叫ぶことを意味する。

 故にこれは正しく猿叫にして猿狂。猿の絶叫は空間を歪める波動となって解き放たれ、エイジを呑み込む!

 多段ヒットのダメージが一気に襲いかかり、エイジのHPは瞬く間に削られる。だが、それだけではない。呪いの蓄積だ。猿狂の範囲内から脱せらずに至近距離からまともに浴びたエイジの呪いは蓄積する。

 瞬間、エイジのFNCが蠢く。体の自由が完全に奪われ、エイジは過呼吸に陥る。

 首無し獅子猿は確かにスプラッター的恐怖心を煽る。だが、それでたじろぐエイジではない。ならば、これは?

 レベル1の呪い【怖じ気】。エイジも知らない呪いだ。だが、症状は分かる。全身がまるで恐怖で竦み上がったように震え、まともに動かなくなったのだ。擬似的な麻痺症状だろう。

 エイジのFNCは恐怖に対して理性ではなく本能的に反応してアバターの制御が出来なくなるというものだ。故に、恐怖を模したアバターの強制的動作不良によって脳が恐怖に負けたに先んじて反応してしまい、ダーインスレイヴによる闘争の打ち消しのハードルを上回ってしまったのだ。

 首無し獅子猿の猿狂の範囲外から脱しきれず、HPは削り尽くされた。

 エイジは倒れ、水面を全身で激しく打ちながら沈む。

 本来ならばエイジの足掻きはここで終わる。だが、周囲を探る為に上空にいたノイジスは、実体化こそしていたが猿狂の範囲外にいた。それがエイジの生命線となる。

 

「エイ、ジちゃ……ん! コイツ……ヤベェ……ぞ……油断するんじゃ……!」

 

 ノイジスが消えながら散っていく。だが、ノイジスと生命を共有するエイジは全身を濡らしながら立ち上がる。

 回生。エイジはHPを半分だけ回復させて再戦を可能とする。

 首無し獅子猿、HPバーは1本。エイジは笑って嗤う。

 悪辣にも程がある。獅子猿と首無し獅子猿を全く別のネームドとして登録することで、獅子猿を倒した後にファンファーレとリザルト画面で戦闘終了を告知して油断させるなどおよそ悪意を持った所業だ。

 だが、全く聞かなかった話ではない。数こそ少ないが、ネームドのHPバーを全て削った後に名前を変えて復活するケースもある

。代表例が【竜狩り】オーンスタインだ。そして、更に少ないが、撃破後してファンファーレとリザルト画面で油断させたところに新たなネームド乱入で大打撃を受けたケースも存在する。

 故にこれは油断。レベルと実力を身につけた気になっても、ネームド戦を初めとした最前線の経験が絶対的に足りなかったが故の死だ。

 だが、エイジは死なない。1度だけならば死なない。たとえ、周囲に後ろ指を指されようとも、邪剣ダーインスレイヴでコドクからノイジスと共に奪い取った『力』だ。

 ここからはノイジスのサポートは無し。またスタミナや魔力が回復したわけではない。ネームド撃破によって形代だけは全ゲージが回復しているのは僅かばかりの慈悲か。

 首無いリビングデッドならば瑠璃火の餌食だ。間合いを取ったエイジは火刃を放つも、獅子猿は身の丈もあるカタナを振るって弾く。だが、続く瑠璃蛇は右足に直撃する。

 ダメージ、ほぼ無し。いや、それどころか獅子猿の白き体毛には僅かに瑠璃色の火の粉が散っている。

 迷いがらすや孤影衆は使ってこなかったが、無名の剣士は瑠璃火を組み合わせた剣技を編み出していたように、たとえネームドであっても瑠璃火を扱う。今回は無名の剣士と同ケースらしく、だからこそのネームド撃破による形代回復かとエイジは舌打ちした。後継者には慈悲など期待するだけ無駄なのであると改めて悟る。

 これまでの猿の軽快なフットワークと巨体のパワーを活かした攻撃ではなく、首無し獅子猿はカタナを振るう剣士として襲いかかる。だが、問題はその動きだった。

 剣士と呼ぶにはあまりにも異形。体を不自然に捩らせ、不気味なまでに地を這って刃を振るったかと思えば、大きく跳躍して胸から着水すると転がるようにして足下を大きく薙ぎ払う回転切りを放つ。

 

(この動き……何なんだ!?)

 

 エイジもこれまで多くの剣士と対決した事はあるが、これは剣士の真似をした何かだ。斬撃を潜り抜けて首無し獅子猿を斬りつけるもダメージはまともに入らない。瑠璃火が鎧として機能しているのだ。

 剥ぎ取るならば闇属性か? いや、闇を燃やす特性がある瑠璃火では効果が薄いだろう。エイジが狙うのは剥き出しの首の断面であるが、張り付けば首無し獅子猿は断面に頭部を押しつけ、猿狂を解き放つ。

 幸いにも予備動作があるお陰で回避は出来るが、1つ間違えればまともに多段ヒットでHPを削られ、また呪い状態になる。幸いにも回生のお陰でレベル1の呪いは解呪されているが、脅威の蓄積性能と多段ヒットのせいで防具の呪い耐性など紙切れ同然だ。

 ただでさえ防具性能が落ちている状態で、ダメージよりもデバフ蓄積に重点を置いた多段ヒット攻撃は最悪だ。だが、冷静さを取り戻したからこそエイジの腸は憎悪で煮えくり返っていた。

 

「1度で死なないなら、何度でも殺すまでだ」

 

 スレイヴはレギオンとしての『力』をエイジに託した。たとえ、空っぽの憎しみであろうとも何かが生み出せるはずだと信じた。そして、エイジはFNCを克服して戦える術を手に入れた。

 だが、獅子猿の猿狂がもたらす呪い・怖じ気はスレイヴの魂を侮辱した。彼女の託した憎しみに唾を吐きかけた。エイジはどんな理由であれ、ダーインスレイヴを握って初めてFNCに完全に屈してしまっていたのだ。

 絡繰りが分かったからノーカウントなんて理由にはならない。エイジは己の呪うように憎む。

 足りなかった。獅子猿に合わせた闘争心だったからこそ首無し獅子猿に猿狂による逆転したFNC発動に耐えきれなかったのだ。

 

「憎悪の闘争を。憎悪による殺戮を。憎悪の闘争を。憎悪による撃滅を。もっと寄越せ、ダーインスレイヴ。『僕』を喰らえ……!」

 

 這ってでも、這ってでも、這ってでも……前に! 憎しみだけを頼りに前に進め! たとえ、深海に潜り沈むことになろうとも!

 

「ソウル・リアクター……フルパワーだ」

 

 ステータス出力全開。エイジはフルパワーのソウル・リアクターから供給されたエネルギーが人工筋肉に伝達され、過去最大にエイジの動作を拡張するのを感じる。

 刹那でも連動しきれなければ骨は砕けるどころか四肢は千切れ飛びかねない衝動。だが、エイジは臆することなく眼前の首無し獅子猿と剣劇を繰り広げる。

 首無し獅子猿は明確に首の断面を守っている。だが、獅子猿には有効だった爆竹には反応すら示さない。何かが決定的に変化したのだ。

 そもそもどうして首がないのに動ける? いや、DBOでそれを言い出したら切りが無いのであるが、同時にDBOなりの理屈が準備されてもいるのだ。故にエイジは憎悪で加熱しながらも冷静に分析を続ける。

 だが、獅子猿の時点でパワー負けして連続弾きは限界があったのだ。ソウル・リアクターをフルパワーにしても足りない。絶対的に足りない。STRエネルギーで弾ききれない!

 これが白の傭兵のように流水の如く受け流して自在に逸らす事が出来たならば、首無し獅子猿のパワーも意味を為さなかっただろう。だが、エイジは知らず、また出来ない。持てる技術とカードを費やし、長さも数も足りない牙で食らい付くしかない!

 

「どうした? この程度か!? ダーインスレイヴはまだまだ『僕』を喰らえるのに、遅れを取るのか!?」

 

 エイジは深海の指輪より闇を引きずり出す。今やエイジの右目は黒く血走り、また瞳は蕩けて醜く崩れて黄ばんでいた。

 だが、エイジは止まらない。闇属性の範囲拡大エンチャントを『防具』に発動させる。本来ならばせいぜいが格闘攻撃の範囲拡大……毒手と組み合わせた応用技の地獄門のような戦法がせいぜいだろう。

 本来ならば、それで終わる。だが、エイジはソウル・リアクターを汚染した重油のような闇を瑠璃火で燃焼させ、限界以上の性能を引き出させる。

 バトルスーツの電子回路の模様の光の色が青から瑠璃へ。そして、エイジの動きに付随して瑠璃の火の粉が舞い散る。

 ソウル・リアクター……【オーバーパワー】。フルパワーの先へ。エイジのパワーとスピードが更に引き上げられ、首無し獅子猿との剣劇が……弾きが成立し始める!

 横腹が『爆ぜる』。獅子猿の攻撃ではない。バトルスーツの人工筋肉の運動拡張にエイジが追いつけず、連動がズレた事で右脇腹の肉が潰れたのだ。

 まだだ。まだ僕は戦える! まだ負けていない! 装備の性能にも、深海の指輪にも、ダーインスレイヴにも……何もかもにも負けていない!

 

「おぉおああああああああああああああ!」

 

 弾く。弾く弾く。弾く弾く弾く……弾く! エイジの正確無比かつ首無し獅子の奇天烈な剣技の譜面を読んだ弾きはついに衝撃耐性を削り尽くし、体勢を崩させて絶対的な隙を晒す!

 前のめりになって倒れた獅子猿の首の断面に連撃を浴びせる。ダメージは通るが、思っていた程ではない。長期戦になるとエイジが奥歯を噛んだ時、傷の断面……肉が不気味に蠢く。

 

「まさか……!」

 

 だが、エイジが試すより先に獅子猿は飛び起きる。弾きによる衝撃耐性を抜いた怯みは有効であるが、正攻法ではない。本来ならばダメージがほぼ通らない胴体に攻撃してスタン蓄積するタイプの攻略だろう。

 それに付き合う気は無い。使用者を傷つける意図しかない暴力的な加速の中で、エイジは水飛沫を上げながら加速し、並走すら出来ない首無し獅子猿を置き去りにして跳ぶ。

 首無し獅子猿の斬撃……カタナの刀身を踏み出しにして更に跳び、肩に着地するとダーインスレイヴを突き刺し、エンジンを激しく稼動させる。瑠璃火を纏った衝撃が解き放たれ、ダメージを増幅させるも、これでも足りない。『届いていない』のだ。

 右膝が砕けかける。だが、ギリギリで連動したエイジは耐え抜き、だが口から血反吐が飛び散る。

 このままでは深海の指輪のアバター修復速度もオートヒーリングも間に合わない。

 制御しきれないのか? 鍛錬も才能も何もかも足りないのか!? これ以上の時間が必要なのか!? エイジは他でもない落ち谷で猿と駆け回った日々を思い返す。

 ダーインスレイヴの侵蝕の熱が肩まで広がる。意識が刻まれる。蜘蛛の足音が聞こえる。

 いいや、それ以上に脳裏に響くのはライドウの嘲笑だ。

 

「ああ、そうだな。そうだったな、ライドウ」

 

 エイジは最後の爆竹を使って煙幕を張り、その間にシステムウインドウを操作する。

 

「痛みがあるからこそ学べるんだ」

 

 痛覚遮断機能……解除。途端に内臓が潰れた、骨に亀裂が入った、肉が引き裂けた痛みが全身を支配し、脳髄を焼き尽くす。正しく痛みに意識を奪われそうになったところで、エイジは口角を釣り上げる。

 

「そうだ! 痛みだ! 痛みが……『痛み』こそが弱者を強者に至らせる糧になる! そうだろう!? あは……あははは……アハハハ……クヒャヒャ! クヒャ……アハハハ!」

 

 一瞬だけ自分ではない『何か』の笑い声が漏れて、だがエイジは脳髄を這う蜘蛛の足音を己の存在証明たる憎悪の炎っで焼き払って自我を取り戻す。

 

「僕は『僕』だ! どれだけ喰われようとも! 僕が『僕』である証が『これ』だ!」

 

 レギオンですらないなり損ない。それでいい。それ以外の何者でもありたくない。『悠那』も『ユナ』も助けられなかった『僕』はそれでいいんだ。

 

「もっと『力』を……!」

 

 

 憎しみのままに『力』を求めて闘争を貪る! それこそ、僕が『僕』たる証明だ! エイジは全身を余すことなく浸す痛みの中で、新たに生じる痛みから自分の制御の甘さを掬い上げ、『微調整』を繰り返す。

 バトルスーツの人工筋肉との連動。既にエイジは『届いていた』のだ。必要なのは気づきだった。皮肉にも……いいや、エイジを指南したからこそ、切っ掛けを授けたのはライドウの教えだった。

 痛みがなければ人は学ばない。体でも心でも同じだ。痛みと『痛み』だけが成長をもたらすのだ。

 首無し獅子猿は全身をくねらせ、天高く掲げたカタナに全体重をかけた振り下ろし。本来ならば回避優先の攻撃だが、エイジは目を見開いて腰溜めにしたダーインスレイヴを振るって弾く。大技を弾かれた首無し獅子猿は再び衝撃耐性を抜かれて大きく怯む。

 通常斬撃ではダメージが薄い。だからと言って刺突でも効果が今ひとつだった。ならば打撃属性かとも思ったが、エイジは首無し獅子猿の……いいや、獅子猿の『正体』を暴いていた。

 発想の源はコドクだ。コドクもまた恐ろしい外観と能力ながらも核となるのは小さな虫だった。

 エイジは左手に瑠璃貫手を発動させ、首無し獅子猿の首の断面に突き入れる。肉を掻き分け、首の更に奥……胴体まで潜り込ませるとついに首無し獅子猿の核を掴み取る。

 それは多足にして長い体躯……まるで百足のような何かだった。獅子猿の胴体内部のどれだけの体積を奪っていたのかも分からぬ巨大な百足モドキを引っ張りだし、エイジはダーインスレイヴを突き刺す。

 首無し獅子猿のHPがこれまでに無く削れ、大ダウン状態となる。百足モドキは首無し獅子猿の胴体に逃げ隠れたが、エイジは一呼吸と共に≪片手剣≫の連撃系ソードスキル【ヒート・スパーク】を繰り出す。シンプルな素早い7連突きのソードスキルであるが、エイジが気に入っているのはスキルコネクトのし易さだ。

 ヒート・スパークに続けて≪両手剣≫の回転系ソードスキル【クラウン・ダンス】。大きく振りかぶっての袈裟斬りからの上半身だけを使って大きく円運動をして遠心力を乗せた斬撃を上乗せする、周囲を薙ぎ払う回転系でありながら、あくまで前方攻撃に集中させる特異なソードスキルだ。

 更にスキルコネクト、≪両手剣≫の突進系ソードスキル【ハンティング・レイ】。体を大きく後ろに反らし、勢いをつけてからの前傾姿勢からの全力突きだ。他の突進系と決定的に違うのは攻撃命中後も『多段ヒット』となる性質であり、突進中の命中持続時間が長ければ長い程にダメージは伸びる。

 最高ヒット数レコードはユージーンの『16』。比較的にソードスキルを命中させやすい大型かつタフなドラゴンだからこそ叩き出せたヒット数だ。

 エイジは超至近距離で首無し獅子猿の首断面にハンティング・レイを押し込む。

 

「あぁああああああああああああああああ!」

 

 残量スタミナの全てを使った連続ソードスキル。ここで仕留めきれなければエイジはスタミナ切れで動けなくなる。エイジはエンジンをフル稼動させ、威力増幅の衝撃と共に瑠璃火を放出して追加ダメージを与え続ける。

 ヒット数は瑠璃火の衝撃を合わせれば30を超えていた。刀身の根元まで突き刺さったダーインスレイヴは、青白いライトエフェクトとエンジンから刀身に伝導して放出される衝撃を帯びた瑠璃火によって、エイジも含めた巨大な槍のように機能する。

 だが、首無し獅子猿……倒れず! HP1割未満ではあるが耐え抜き、悠然と立ち上がってスタミナ切れのエイジへと勝利の刃を振り下ろす。

 もはや体は動かない。だが、エイジは笑う。笑ってみせる。

 まだ、もう1つ残っている! カートリッジの交換を済ませていない為に左足分しか残っていないが、エイジは影瑠璃・牙を『地面』に対して発動させ、炸裂の反動を利用して跳び上がる。

 鼻を削ぐか否かと瀬戸際で首無し獅子猿の刃を躱す。だが、首無し獅子猿はエイジの苦し紛れの反撃を読んでいたとばかりに首断面へと頭部を押しつけていた。

 猿狂! 周囲を吹き飛ばす猿の咆吼! 呪いを帯びた波動は直近にいたエイジを呑み込む。スタミナ切れによる強制クリティカルダメージによってエイジは呪いになるまでもなく肉体は消し飛ぶ。

 消し飛ぶはずだった。だが、エイジは笑う。

 首無し獅子猿の首の断面に突き刺さった焙烙ボルト。エイジは影瑠璃・牙で跳び上がった時点で首の断面へと左腕を向けて焙烙ボルトを射出していた。

 圧力の逃げ場がない密閉状態ならば、たとえ低威力の焙烙ボルトでも破壊力が増幅される。他でもない首無し獅子猿自身が己の頭で蓋をした。

 炸裂。猿狂には遠く及ばない爆音が、だが首と頭部の傷口を抉り、必殺の攻撃を不発にさせる。

 ついに首無し獅子猿は前のめりになって倒れ、首の断面から痙攣する百足モドキを露出させている。スタミナ切れで動けないエイジは、ゼロになった首無し獅子猿のHPバーがゆっくりと白いゲージを回復させているのを見る。

 トドメを刺さねば復活するのか。エイジはスタミナ切れの体を何とか起こそうとするが、まるで自分の体ではないように命令を聞かなかった。

 ふざけるな! エイジはダーインスレイヴを咥え、水を派手に散らしながら這い進む。何度も何度も鼻や口に冷たい水が入り込みながらも瀕死の首無し獅子猿に迫る。

 残り数秒で回復しきる。首無し獅子猿が復活する。その間際にエイジは震える足で立ち上がり、咥えたダーインスレイヴを逆手で握りしめると倒れるようにして百足モドキの頭部に突き刺し、瑠璃火を噴き上げる。

 

「これで……僕の……!」

 

 勝ちだ。今度こそ首無し獅子猿は撃破され、ファンファーレと共にリザルト画面が表示され、ゆっくりと塵となっていく。世界の輪郭が崩れる。

 転移の中でエイジは思う。獅子猿は番の亡霊がいながらも寂しく1匹で水場にいた。あそこには何があったのだろうか。何か守りたいものがあったのだろうか。

 いや、そもそも番の亡霊がいたとして、それは孤独を癒やすのだろうか。もう失われた証だというのに。

 頭を失い、体を百足モドキに支配され、猿ではなく剣士のように、まるで這う虫のような動きで戦う様は、どうしても生への渇望を見出せなかった。

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

 全身は血塗れかつ負傷とスタミナ切れでまともに動けない。オートヒーリングによって生かされているが、アバター修復速度が間に合わない程のダメージはスリップダメージとギリギリで均衡が取れている状態だ。

 いつでも殺せる瀕死だ。ネームドを撃破しただろうエイジの帰還に、ムライは隠し持つハンドガンを意識する。

 正直に言えば、エイジがネームドをここまで撃破するなどまるで信じていなかった。高い実力と恐ろしいまでの鍛錬から、1体くらいは倒せるかもしれないと予想していたが、よもや3体も撃破するなど想定外だった。

 本当に蠱毒の穴をクリアするかもしれない。湧き上がるのは恐怖か興奮か、どちらにしてもアバター修復とスタミナ回復が間に合うまで動けないエイジは、今まさに仏師の隣で体を投げ出して倒れていた。

 近づくムライに、エイジの背中に陣取る、卵の殻を被った雛鳥のような姿になったノイジスが威嚇する。

 

「ムライの旦那ぁ。それ以上はエイジちゃんに近づくんじゃぁあああねぇぞ?」

 

「おいおい。どう見ても治療が必要だろ。お前には回復能力が無いんだ。ほら、見せてみろよ」

 

「今のエイジちゃんは限界の限界だ。ムライの旦那を疑っちゃいねぇが、最低限に回復するまで守るのがパートナーの役目ってもんだ」

 

 疑念の眼差しを向けるノイジスに、ムライは時間をかけて警戒心を解いたはずなのだが、と頭を掻く。死闘の直後という事もあって緊張を残したままとは言えない反応に、勘付かれたかとムライは平静を装って肩を竦める。

 

「嫌われたもんだ。なぁ、仏師殿?」

 

「知らん。儂は仏を彫るのに忙しい」

 

「誰も彼も愛想がねぇな、おい。エイジ、お前はどうなんだ? 手助けはいるか?」

 

 まぁ、返答は分かっているがな。ムライは身動き1つしないエイジに問いかければ、彼は驚く程に静かな目で彼を射貫いた。

 

「ああ、治療を頼む」

 

「へいへい、俺は退散すると……は? 何だって?」

 

「治療を……頼む。何度も、言わせないで……くれ」

 

 普段のエイジならば断固として拒絶するはずだ。如何なる心境の変化か。ムライは脂汗を滲ませ、仏像を彫る仏師を隣に、ノイジスの監視の下で仰向けになったままのエイジを起こす。

 エイジはボロボロの青いバトルコートを脱ぎ、密着性の高いバトルスーツを脱ぐ。ムライも驚く人工筋肉繊維であり、これがエイジに驚異的な運動能力を付与するが、代償として僅かな連動のズレで自傷する、開発者の正気を失う装備だ。

 安定性を考慮せずに性能だけを追及した装備は確かに存在する。素材のポテンシャルを極限まで引き出すならば、使用者を考慮しないのは常だ。だが、この装備は違う。使用そのものが常にリスクを伴う、安定性を考慮しないのではなく意図して欠落させて安全性を損なわせた代償で性能を引き上げたものだ。

 留め具を外し、上半身のバトルスーツを分離する。薄い籠手を外し、手袋をまず外す。次に手首から肩までのパーツを、そして首から腰までを覆う人工筋肉繊維のバトルスーツを脱がす。

 べちゃり、という音がした。ムライも呼吸を失う程にエイジの血を啜った人工筋肉繊維は、まるでエイジを貪り喰らうように肉体に食い込んでいた。脱がされて上半身裸体になったエイジは、アバター修復中でありながら、皮膚という皮膚が剥げ、あるいは焦げていた。

 だが、特に酷いのは両腕だ。ムライも知っていたが、エイジの右腕にはまるで亀裂のような傷痕があり、左腕は火傷のような痕跡が残っていた。

 右腕の傷痕の全てがなぞるように裂け、また亀裂が更に広がって膿んでいる。ムライが膿に触れれば高熱を帯びており、逆に火傷してしまいそうだった。

 何が起こっている? エイジが只者ではない事を薄々勘付いていたムライであるが、エイジに無言で睨れる。桶に冷水を溜め、決してボロボロの手拭いで傷口を拭う。エイジが奥歯を噛み締める姿に、ムライは喉を鳴らして笑う。

 

「痛覚遮断……切ってるのか」

 

「ああ。必要だったんだ」

 

「馬鹿野郎。痛みでショック死してもおかしくねぇぞ」

 

「死んだらそれまでだ。だけど、僕は死なない。痛みでは死なない。止まれないさ」

 

 DBOでは呪いの傷では無い限り、痕も残さず治癒するのが通例だ。だが、プレイヤーに強い心理的負荷をかけたダメージは傷痕が残るとも言われており、実例も確認されている。

 エイジの両腕の傷はまさにその類いだろう。だが、それ以外にもエイジの体には大小様々な傷痕があった。

 

「薬草で消毒する。その方が治りは早い。かなりキツいから覚悟しろ」

 

「助かる」

 

 薬液に浸した手拭いをエイジの背中の傷に押しつける。奥歯を噛んで悲鳴を堪えるエイジに、ノイジスは警戒を強めるが、ムライは心配するなと薄く笑う。

 

「もう痛覚遮断を機能させたらどうだ? その方が幾らか楽だ」

 

「いいや、まだ必要だ。痛みが……染み込むまで、ようやく得た『力』を忘れないように……もうしばらく……」

 

「ストイックだねぇ」

 

「ムライほどじゃない。僕は頭が良くないから出来る手段でやりくりするしかないだけだ」

 

 いつになく素直に受け答えするエイジに、ムライは面食らいながらも傷口を洗っていく。

 

「この傷は戦いで、か?」

 

「いいや。ほとんど、現実世界からの持ち込みだ」

 

「格闘技でもここまで傷つかねぇぞ。若く見えるが、リアルは戦場帰りの軍人か?」

 

 日本人に見えるが、海外で従軍経験があるのかもしれないと疑うムライに、エイジは自嘲する。

 

「ただの馬鹿だよ。喪失感に耐えられないで、街を迷って、喧嘩して……警察や病院の厄介になったのも1度や2度じゃない」

 

 ああ、そういう事か。柄の悪い連中とも喧嘩をしたのだろう。刃物、あるいはガラスの類で背中を抉られた痕跡があった。1つ間違えれば脊椎を損傷してもおかしくない。

 自暴自棄だったのだろう。だが、自殺はしなかった。いや、出来なかったのかもしれない。自殺できない程に『自分』を見失ってしまっていたのかもしれない。

 

「……生きた屍だった。でも、今は、這ってでも前に進める」

 

「そうか。ん? この傷は随分と古いな」

 

 エイジの右肩……肩甲骨付近の古傷に目敏く気付いたムライに、彼は芳しくない顔をした。

 

「それは……」

 

「言えよ。楽にはならないが、俺の好奇心は満たされる」

 

「正直な奴。別にいいさ。つまらない思い出だよ。無力だったガキが誰かを守ろうと驕った傷だ」

 

「女か?」

 

「…………」

 

「そうかそうか! 女かぁ! そうだよなぁ! 惚れた女はついつい体を張っても守りたくなる。それが男だよなぁ!」

 

 数少ない止血包帯でエイジの上半身を覆い終えたムライは、下半身もやるかと尋ね、だがさすがに自分でできるとエイジに断られる。

 

「安心したぜ。お前にはちゃんとあるんだな。自分が傷ついても守りたいものが」

 

「……違うな。守りたかったんだ。『守れなかった』んだ」

 

 エイジの無感情の声音に、だがムライは単なる喪失ではないと悟る。

 失ったのは間違いない。だが、完全に手放したわけではない。むしろ、触れられる距離にあるからこその苦痛がそこにはあった。

 

「……アレか。惚れた女にはもう男がいるのか? そのパターンか!? 見えたぜ。その女、幼馴染だな!?」

 

「なっ……!?」

 

「お前の好みだからギャルじゃねぇな。清楚で可愛い系だが芯の強いタイプ……優等生の人気者っぽそうだな。クラスカーストは高め。堅実思考だけど追い詰められたらぶっ飛んだ行動を取るお前みたいな奴が惚れるとなると……夢見がちで行動力があるな」

 

「……心意か!? 僕の思考を読めるのか!?」

 

「ばーか。この程度では人生経験と俺の頭脳なら分析できる。なんだかんだで、お前とは色々と話をしてるからな。演技は上手いが、まだまだ人生経験が足りねぇぞ、青年♪」

 

 いや、正確には『まとも』な社会経験の不足だろう。甘いも酸っぱいも知らず、死闘に重ねた死闘という血の苦み……普通の大人とは比べものにならないくらいに、若い身でありながら負の経験を積み過ぎている。それ故に視野が酷く歪んでしまっている。

 そうした若者はDBOに多かった。日常的な死と戦い、そして剥き出しの人間の狂気と欲望に影響されない方がおかしいのだ。

 

「え、エイジちゃん……ドンマイ! 女なんて星の数だぜ! 美声でイザリスの娘にすら熱ーいラブコールを受けた俺様が言うんだから間違いない!」

 

 ああ、確かに『熱い』だろう。イザリスの娘ともなれば炎の使い手なのだから。ムライは苦笑し、いつしか警戒していたはずのノイジスを交えてエイジを弄る。

 

「好きなら奪い取れよ。それとも何か? もう子持ちか? 奪うにしても人妻だとなぁ、色々と社会的に面倒が……」

 

「そうじゃない。だけど、何にしても僕なんて眼中にないよ。彼女が好きなのは……好きになるのは……『僕』じゃない。きっとアイツの方だ」

 

 それは諦観にも似た確信であり、同時に未練を感じさせない程に乾ききった笑みだった。

 

「見殺しにした僕より、死地にまで助けに来てくれるアイツの方を好きになる決まってる。無力で守れなかった僕より、奇跡を引き起こしてでも守る為に戦うアイツの方が……」

 

 拗らせてるな。ムライは顎髭を撫で、我関せずの仏師に目を向ける。

 

「仏師殿! 最年長として助言はないか!?」

 

「知らん。儂は色恋沙汰に疎いものでな。じゃが……」

 

「「じゃが?」」

 

 ハモったムライとノイジスに熱い視線を注がれ、仏師は煩わしいと嘆息する。

 

「人の本心など容易に見えぬが、隠された本音は日頃の思わぬ仕草に滲むものじゃ」

 

「なるほどねぇ。そりゃ確かに。だとよ、エイジ! 帰ったらアピールだ! 幼馴染が何だ! いっそ押し倒しちまえ!」

 

「馬鹿を言うな。そんな真似ができないし、するつもりもない。そもそも、僕自身がもう……彼女にそんな感情を抱けないんだ」

 

「……そうかよ。でも、『約束』したから後生大事にアイテムストレージに準備してるんだろ?」

 

「ただの約束だ」

 

「それでも繋がりだ。まだ切れちゃいねぇさ。頑張れ、若者! 当たって砕けろ! それで無理なら新しい出会いを探せ! お前なら選び放題だって!」

 

 ファッション雑誌の表紙を飾っても違和感が無いルックスだ。やや冷たい印象が強い顔立ちであるが、意表を突かれた時に覗かせる表情は年齢不相応の子どもっぽさを感じさせる。特に笑えば破壊力は高く、ギャップにやれる女子は多いだろうとムライは分析した。

 

「疲れたから、少しだけ休む。治療してくれて助かった。行くぞ、ノイジス」

 

 去って行くエイジを見送ったムライは、どぶろくを取り出すと仏師と『茶』を楽しむべく、勝手に床板を外してお猪口を取り出す。

 

「自分の魅力に気付いていないというよりも、根本的に興味も価値も見出していないタイプだな。ああいうタイプは異性に外見よりも内面をタイプなんだよなぁ。面倒な人生を送ってるぜ。もっと楽しめばいいのによ」

 

「……お前さんとて、苦行を自らに強いておるじゃろうに。とやかく言える筋合いではないぞ」

 

「はぁ? 俺はいつでも自分勝手に生きてきたさ。エイジとは違う」

 

「自分に『自分らしく』と課すこと程の苦しみ」

 

 お猪口をムライから奪い取った仏師の一言に、ムライは笑みのまま引き攣る。

 

「お前さんが『何』を求めて蠱毒の穴に踏み込んだのかは知らん。聞いても儂には解せんじゃろう。じゃが、お前さんは『自分らしく』と律する余り、逆に己を見失っておるように儂には映った」

 

「皺の数は伊達じゃないってか。さすがは仏師殿」

 

「茶化すではない。彼奴はようやく牙の使い方を覚えた。これまで蓄えた技と経験は瞬く間に血肉となり、彼奴を強くする。じゃが、儂には分かる。彼奴の行き着く先は儂と同じ……『鬼』よ」

 

「…………」

 

「儂は斬ってもらった。この腕と共に儂の『鬼』……修羅は死んだ。じゃが、業は消えぬ。1度でも『鬼』になった者は逃れられぬ宿命よ」

 

「仏師殿、俺には斬れないぜ。覚悟うんぬんじゃない。実力が無い」

 

「じゃろうな。お前さんには期待せんよ」

 

「助かる。だけど、エイジなら……」

 

 だが、そこまで言いかけて、ムライは苦笑して呑み込んだ。『その時』が来るという事は、自分の死が覆せぬ分岐点を過ぎた後という事だ。

 生きねばならない。やらなければならない。その為に手を尽くして心を許す隙間を作ったのだ。万が一の保険の為に、今日まで協力してきたに過ぎない。

 エイジが道半ばで倒れずに突き進むのであるならば、ムライは怪物の爪牙でも武人の技でもなく、人間の爛れた悪意でエイジを仕留めるまでだ。

 

「負けられないのは俺も同じなんだよ、エイジ」

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

 傷は癒えたが、スタミナ切れの状態で僅かとはいえ強引に動いた反動か、指先の痺れが消えない。また、時間加速の高密度情報通信の影響で頭痛から倦怠感までピークに到達している。もはや気力だけで繋ぎ止めている状態だ。

 ベストコンディションは望めない。ならばせめてベターに。故にエイジは竹林で時間をかけて、目を閉ざして情報量を制限して体を休ませ、だが意識だけは研ぎ澄ましてイメージの反復練習を繰り返した。

 だが、それ故にあれこれと余計な思考が混じる。

 ユナは【黒の剣士】とアルヴヘイムで行動を共にしている。他にも同行者がいるとはいえ、寝食を共にするとなれば自然と距離は近くなるだろう。特にユナはエイジと違ってコミニケーション能力が高い。発声が出来ずとも十分に人間関係を構築できる。

 エイジも噂は聞いている。【黒の剣士】はあちらこちらで女関係を築いているらしく、彼に惚れ込んでいる女性は数多だ。颯爽と危機に駆けつけて助けてくれる【黒の剣士】は、まさに地獄に現れた救いの騎士だろう。

 既に2度も命を助けてもらっているユナが【黒の剣士】に惹かれない理由は無い。本人も憎からず思っているからこそ、戦闘指南役を願い出て、また依頼の長期同行を希望したはずだ。

 最愛の人を失って久しい【黒の剣士】もまたユナに惹かれてもおかしくない。だが、女性関係に問題がある彼はユナを1番に想ってくれるだろうかと問われれば不安が残る。

 いや、1番では無くとも1番に等しく【黒の剣士】は我が身を危険に曝け出しても守るだろう。依頼でも無く、自分に何のメリットもなく、傷つくだけであろうとも、見過ごせない……守らなければならないという他ならぬ自分の意思で戦うだろう。

 エイジとは根本から異なる精神性だ。まさしく英雄だ。そして、英雄は色を好む。女事情が惨憺たるのはある意味で納得である。

 ユナも【黒の剣士】の1番になりたいとは想わないだろう。ユナは優しい女の子だ。【黒の剣士】が傷ついた時に寄り添って癒やし、また奮い立たせるだろう。それだけの輝かしい人間性があるとエイジは認めている。

 だからこそ憎むのだ。その歌で多くの人を救いたいという願いをユナから奪い取った自分は、決して許されるべきではない、彼女にとっての邪悪だ。そして、エイジ自身が終わることなく憎み続けるのだ。

 そうした憎しみの連鎖にエイジは安堵する。決して消えることがない憎しみに安心し、それ自体を憎むという更なる憎しみを生む。

 憎しみ。それが思い起こさせるのはスレイヴだ。

 あの食いしん坊の事だ。食費は早々に使い果たして今頃は飢えと戦っているかもしれない。もしかしたら餓死しているのではないかと心配になる。

 ダーインスレイヴを通じて会話できるが、1度でも使えばスレイヴはグロッキー確定だ。エイジ自身にも現状では負担がかかる為に使うわけにはいかない。

 だが、スレイヴはエイジにとって、再び戦う為の多くの手助けをしてくれた相棒だ。彼女の空っぽの憎しみの理解者は自分しかいないと驕らずに言い切れる。

 邪剣ダーインスレイヴで『力』を手に入れる事こそがスレイヴに対する礼儀だ。

 

「リアルタイムだと、クリスマスまで1週間を切ってるのか」

 

 帰ったらユナとの約束を果たして、それからどうしようかとエイジは考える。スレイヴには豪華な……いいや、食べ放題のレストランに連れて行くのも悪くないだろう。ユナは……人付き合いが上手い。クリスマスパーティの約束は入れているだろうが、彼女の性格を考えればエイジを誘うかもしれない。その時に自分は断り切れるビジョンが浮かばなかった。こういう時のユナの推しは強すぎるのだ。

 

「狸の皮算用もこれくらいにしておかないとな。僕はまだ『弱い』。未来より目先の勝利だ」

 

 残るネームドは最低でも3体。無名の剣士、般若の仮面にいるだろう未知なるネームド、そしてコドク。獅子猿を倒した消耗からの立て直しを考慮すれば、あと3体はかなり厳しい戦いを強いられる。

 特に無名の剣士は強制的短期決戦だ。様子見する暇も無く攻め続けるしかない。故にカードを揃えたのだ。

 未知なるネームドを撃破して更にカードを増やすこともできる。だが、エイジは頃合いだと判断する。未知なるネームドも脅威であるが、それ以上に現状から更なる消耗で手数が減るリスクの方が大きいのだ。

 影瑠璃とクロスボウは無名の剣士戦で打ち止めだろう。エンジン機構も無名の剣士戦次第では機能不全に陥りかねない。コートは防御力を残しているが、破損は著しい。バトルスーツの人工筋肉もさすがに修復が必要だ。

 獅子猿と首無し獅子猿は別々のネームド扱いであり、あの戦いで形代ゲージが2つ増えている。また、獅子猿の戦いの記憶を使うことで、エイジは≪瑠璃火≫の能力を1つ覚醒させていた。

 増やせたカードは2枚。新たな≪瑠璃火≫の能力と首無し獅子猿からラーニングした能力だ。エイジはここが正念場だと立ち上がる。

 視線を感じる。荒れ寺の茂みから少なからず見張っている。心折れた者達だろう。3体目のネームドが倒された事をムライがリークしたのは確定だ。

 既に癒えたが、ムライに治療してもらった事を思い出し、エイジは荒れ寺に踏み入るより前に足を止める。

 あの時、ムライを試したわけではない。エイジ自身も余裕がなく、一刻も早く窮地を脱する為に治療が必要だった。ムライならばまだ殺さないだろうと確信していただけだ。

 それだけだ。エイジはそう繰り返し、だが胸の疼きに苛立つ。

 

「仏師殿、頼む」

 

 念には念を。エイジはダーインスレイヴを預けて仏師に修理を願う。

 

「刃毀れもそうじゃが、絡繰りが焼け付いておる。次の戦いでコイツは終いじゃ」

 

「……そうか。何とかする方法はないか?」

 

「代用の部品があれば、ムライの手を借りれば何とかなるじゃろう」

 

 代用の部品か。エイジはアイテムストレージを探り、そして獅子猿からドロップしたアイテムに目星をつける。

 

「これは使えるか?」

 

 エイジが差し出したのは【細指】だ。女の忍びの指らしく、指に付けた穴に息を吹き込むことで音が鳴る仕組みになっている。素材系アイテムのようであるが、さすがのエイジも使い道を見出せなかった

 

「お前さん、これを何処で?」

 

「倒した大猿から手に入れた」

 

「ふん……猿の腹の中とはな」

 

 仏師はエイジを見上げ、だが何も言わずにダーインスレイヴの整備を終える。とはいえ、刃毀れさえも直せない為に、あくまで装備の状態を尋ねただけだ。これが目安となる。

 

「別れの挨拶も無しか」

 

 と、出発間際に荒れ寺に踏み入ってきたのはムライだ。相変わらず木の皮を丸めた煙草代わりを咥えている。エイジはダーインスレイヴを背負い、無言で優しい仏様の前に腰を下ろす。

 

「要らないだろう。僕は負けられない」

 

「そうだな。気張ってこい」

 

 どうしてだ? どうして笑って送り出せる? エイジは拳を握らず、だが生温い疑惑を胸に転移する。

 

「いよいよだな。奴さんは他の連中とは格が違うぜ。それはエイジちゃんが1番分かってるはずだ」

 

「ああ。だけど、それは言い訳にならない」

 

 迷いがらすはギミック戦。孤影衆は数の暴力。獅子猿はパワーとタフネス、そしてDBOお得意の不意打ち再起動。いずれも強敵ではあったが、無名の剣士戦のコンセプトは超短期決戦だ。

 これまでの戦闘経験から耐久面は孤影衆単体よりもやや高い程度。だが、技巧派であり、他のいずれも上回る瑠璃火の使い手だ。何せ、エイジがこれまで強敵を葬ってきたのは少なからず彼からラーニングした鬼火の剣のお陰なのだ。

 同じ鬼火の剣ならば無名の剣士に決して勝てない。だが、エイジは自分の牙の使い方を見つけ、そして鬼火の剣もまた己に合わせてマイナーチェンジした。同じ高みを目指さず、1つの武器として割り切った。

 それでも無名の剣士と繰り返し戦い続けた。修練と割り切って斬り合った。だからこそ分かる。無名の剣士はまだ底を見せていない。

 鳥居を潜り、扉を開き、本堂を進み、倒れた女の遺体を越えて扉を開く。

 鬼仏が鎮座する柱が並ぶ空間にて、エイジは松明で蝋燭を灯す。蝋燭の火がもたらす影は何より濃く、重なり合って1人のサムライをこの世に受肉させる。

 

「貴公か。久しく顔を見せぬから何処ぞでくたばったかと思っていたが……」

 

 話す時間はなく、また語らうこともない。互いの命を奪い合う刃こそが全力で死合う応答だ。エイジの迷いないダーインスレイヴの斬撃を、真っ向からカタナで受け止めた、右目が亡者化して闇の空洞となった無名の剣士は見開く。

 

「なるほど。もはや剣で語らうのみ、か」

 

 火花を散らして軽々とエイジを押しのけた無名の剣士は草履で床を踏み躙り、かつてない程に殺気を迸らせる。

 無名の剣士はこれまで終わらぬ鍛錬の相手として回生を持つエイジに価値を見出していた。だが、今は違う。自分の命に届きうる、死合いに相応しい、自分の願いを絶つ『敵』として認識したのだ。

 逆に言えば、瞬きの間にエイジの成長を感じ取った無名の剣士に油断も慢心もない。エイジはノイジスに霊体化を維持させる。毒爪で攻撃させるには実体化させねばならないが、無名の剣士は周囲を切り裂く瑠璃の渦雲渡りが使える。格好の餌食だ。

 故にノイジスはここぞという場面での攻撃を担ってもらう。エイジは影瑠璃で無名の剣士との間合いを詰めながら、ソウル・リアクターをオーバーパワーでエネルギー供給を行う。

 

「…………っ!」

 

 自傷はない。高い連動率を維持し、エイジは運動拡張されたパワーとスピードで無名の剣士に斬りかかる。だが、真っ向勝負では無名の剣士は華麗に捌き、むしろエイジの斬撃を弾く。

 無名の剣士のカタナに瑠璃火が迸る。一振りで前方に瑠璃火が津波となって解き放たれるも、エイジは鉤縄で柱の金具を捕まえて跳んで避け、そのまま柱に着地すると影瑠璃で急行して斬りかかる。

 無名の剣士の頬が裂ける。先にダメージを与えたのはエイジだが、目に見えてHPバーが減るほどではない。だが、先制を許した事に無名の剣士は微かに笑う。

 

「よくぞここまで……練り上げた」

 

 無名の剣士がその場にカタナを突き立てる。鬼火の剣・瑠璃の嵐だ。カタナを伝導して瑠璃火が周囲を焼き払い、そこから更に呪術の炎の嵐の如く瑠璃火が火柱となって解放される。

 だが、無名の剣士は逸れで終わらない。舞い散る瑠璃火を斬撃で絡め取り、巨大な炎刃にしてエイジを襲わせる。

 

「鬼火の剣【瑠璃の嵐・逆鱗】。貴公には初めて見せる技だったな。これはまだ学べておるまい?」

 

 完全の初見の攻撃。本来ならば対処できるはずもない。

 だが、エイジは凌いでいた。ダーインスレイヴのエンジンをフル稼動させ、瑠璃火を散らす衝撃を放つ斬撃で凝縮されて刃と化した炎刃を弾いたのだ。

 視覚警告。攻撃の間際に無名の剣士の必殺を見破り、対処に至った。逆に言えば『全てが必殺になり得る実力差』では視覚警告は通じないが、無名の剣士の技が『強大な必殺攻撃』として認識できるまでに実力差を詰めたのだ。

 完全初見の技を完璧に対処された動揺はあったが、それで怯む無名の剣士ではない。瑠璃火ではなく純然たる剣技でエイジを押し込むべく間合いを詰めようとする。

 だが、エイジはボルトを放って牽制する。いや、牽制と無名の剣士は錯覚した。

 追い斬り。ボルトの影を追って繰り出された斬撃に無名の剣士から黒ずんだ血が飛び散る。寸前で体を捩って回避したが、それでも胴を薙がれたのだ。

 無名の剣士もやられたままでは終わらない。放ち斬りで駆け、エイジが反転するより先に瑠璃火を纏った刃を放つ。斬撃はエイジの背中を裂き、血が舞う。

 ここで普段ならば様子見から回復を狙うが、エイジは止まらない。無名の剣士戦は刹那の時間を争う。鎬を削る中で、エイジと無名の剣士、双方は絶え間なく血を流す。

 だが、斬って斬られてのダメージレースならば、回復無しでは、ネームド相手にプレイヤーは負けるのが常だ。エイジにはユージーンの≪剛覇剣≫や【黒の剣士】の≪二刀流≫と聖剣といった高火力を常時維持できる術がない。ダーインスレイヴは衝撃発生エンジンが組み込まれて強化されたとはいえ、≪片手剣≫と≪両手剣≫を併せ持つ器用貧乏なのだ。

 故に追い詰められているのはエイジだ。だが、焦りは無い。喜びもない。憎しみに基づいた『力』を求める冷静さだけがエイジを突き動かす。

 

〔エイジちゃん、『まだ』か!?〕

 

〔『まだ』だ。もう少し削り取る!〕

 

 対する無名の剣士は笑う。最高の鍛錬相手との最後となる死合いで己を更に高められるという笑みを浮かべている。

 だが、不思議だ。迷いがらす、孤影衆、獅子猿といった強敵を倒してきたからか、これ程の実力を持つはずの無名の剣士からライドウといった『強者』の覇気を感じないのだ。

 むしろ、ムライや自分と同類……負けを認めない敗者のような冷たく乾いた闘気だった。

 

 無名の剣士の瑠璃の渦雲渡り。エイジとは密度と威力が違う全方位に繰り出される瑠璃火の刃を回避し、エイジは腰溜めから火刃を放つ。刃から離れても拡散せずに凝縮して固められた瑠璃火に無名の剣士は見開く。

 

「…………」

 

 無名の剣士の気持ちは手に取るように分かった。鬼火の剣を極めているのは自分の方なのに、自分では得られなかった火刃をエイジが会得した。それが許せないのだ。

 人間臭い。終わらぬ鍛錬を己に課して『力』を求めているはずなのに、無名の剣士の技の1つ1つはまるで誇示するような悲鳴が聞こえるようだった。そうまで感じ取れるのはエイジもまた『力』を手に入れたからだ。

 

「どうした? 貴公の方が流した血は多いぞ。この首を落とすにはまだ足りぬ」

 

 饒舌だ。だが、それは苛立ちだ。エイジは更にプレッシャーをかけるべく、敢えて間合いを取る。

 我流……いや、もはや自分の鬼火の剣だ。エイジは一呼吸と共に火刃の連撃を放つ。

 鬼火の剣【火刃・連弾】。小さな火刃を連射することで数で押し切る火刃である。1つ1つが小さく低威力であるが故に、凝縮維持距離も短く、故に間合い次第では相手に当たる前に拡散して炎の性質を取り戻す。

 無名の剣士が迎撃する直前で全ての火刃が爆ぜたように。瑠璃火でダメージを与えられることは、瑠璃火使いの無名の剣士には望めない。ならば最初から攻撃の補助と割り切る。

 瑠璃火を目潰しに使い、エイジは鉤縄を無名の剣士のカタナに引っかける。このまま武器奪取できればよし。パワー負けして引っ張れるも良し。結果は後者であり、瑠璃火が消えると同時にエイジは引き寄せられる。

 だが、鉤縄は千切れる……否、切断される。無名の剣士が狙ったタイミングより早くエイジは空中で姿勢制御を取り戻す。

 1枚目のカードは獅子猿の戦いの記憶で解放した瑠璃火の能力【形代流し・黒転】。己を傷つけて形代を補給する白い刃の形代流しとは真逆の、相手を傷つけることで形代を回復する黒い形代流しだ。

 儀式用の短剣であり、切れ味は望めない。あくまでダメージを与えるのではなく形代回復の為の能力だからだ。

 だが、エイジの場合は違う。彼には≪瑠璃火≫とラーニング能力を組み合わせる蠱毒融合がある。

 今まではラーニング能力に瑠璃火を付与していた。試しに逆転……瑠璃火を毒化させられるかとも試したが不可能だった。これは恐らく瑠璃火に対してラーニング能力が優位性を持たないからだ。

 ならば瑠璃火から分岐した能力である形代流しには? 瑠璃火そのものは待たないが故に付与可能であったが、そもそも形代流しは相手にダメージを与えずに自分を傷つけて形代を回復させるものだ。回復系のラーニング能力ならばまだしも攻撃系では自傷ダメージを増やす以外に意味は無い。

 だが、形代流し・黒転はダメージ自体は微々たるものでも敵を傷つける為のものだ。故に通る。ラーニング能力の付与の恩恵はある!

 毒手融合! 黒い形代流しは禍々しい毒のオーラを帯びてエイジの左逆手で握られる。エイジはダーインスレイヴと毒形代流しの連撃で無名の剣士を攻める。

 

「ぬ……!」

 

 無名の剣士の喉元を毒形代流しが掠める。だが、それで退く無名の剣士ではない。気迫と共に踏み込む。

 

「鬼火の剣【瑠璃天変】」

 

 一振りで自身を中心に台風のような瑠璃火の渦を引き起こす。それらは細やかな凝縮された瑠璃火の刃を含み、巻き込まれれば瑠璃火に焼かれるだけでは無く、全身を細やかな瑠璃火の刃で削られる。

 まだエイジが会得していない、鬼火の剣の上位技。ガードこそしたが巻き込まれたエイジの全身はズタズタに裂かれ、足下に血溜まりができる。

 

「鬼火の剣【月下轟々】」

 

 八相の構えからカタナの切っ先より瑠璃火が放出され、天井を埋め尽くし、瑠璃火の刃が降り注ぐ。

 降り注ぐ雨に濡れずに駆けられる者はいない。傘を差しても刃の雨は突き破る。そして、地に落ちた瑠璃火の刃は炎となり、周囲一帯を浄化の炎で焼き尽くす。

 これもまた鬼火の剣の上位技だ。エイジは使いこなせていない。まるで鍛錬が足りない。無名の剣士と同じ境地に至るには、瑠璃火を御する才覚と途方もない鍛錬が必要だ。

 

「ふむ、片割れに救われたか」

 

 エイジの頭上で翼を広げて実体化したノイジスの竜の咆吼。衝撃波と瑠璃火が伴う範囲攻撃でエイジの頭上で傘となった。ただし、月下轟々の持続時間の方が竜の咆吼を上回り、ノイジスは手傷を負っている。

 

〔まだまだ大丈夫だが、予定外の傷だ。もうカバーできねぇぞ!?〕

 

〔あともう少しだ。あともう少しで整う……!〕

 

 回復の猶予はない。深海の指輪のオートヒーリングを頼りに戦闘を続行する。だが、無名の剣士は柱の間を縫うように駆けて近接戦に応じず、瑠璃蛇でじわじわとエイジを嬲る。

 

「もはや死に体と貴公と斬り合うまでもない。これにて終いだ」

 

 合理的かつ強敵と認めたからこその殺意。エイジは嬉しさも苛立ちもなく、影瑠璃で強引に間合いを詰めて斬りかかる。

 

「絡繰りで鬼火を用いた加速か。くだらぬ。その程度は己が技量で為さずしてどうする?」

 

 足下で瑠璃火を爆ぜさせ、急加速で跳び上がった無名の剣士が冷徹にエイジを見下ろす。

 装備が進歩すればその分だけ自身の技量は求められない。それもまた1つの道理だろう。

 だが、エイジは思い返す。ムライが頭を悩ませて組み込んでくれた影瑠璃のカートリッジ機構は、むしろエイジの技量を高める鍛錬の礎となった。より強力な装備となったからこそ、より真摯に戦いと向き合えた。

 無名の剣士が頭上で繰り出すのは瑠璃の渦雲渡りだ。影瑠璃で接近したエイジはすでに瀕死だ。回避しきれない範囲攻撃ならば、深手ではなくとも仕留められる。エイジを殺すべく動いたからこその帰結だ。

 

「まずは1つ」

 

 エイジのHPを奪い尽くして回生を消費させる。無名の剣士の思考は読める。

 鍛錬相手ならば無名の剣士はここで瑠璃の渦雲渡りを使う事は無かった。楽しむように単発の大技を使った。

 

「ノイジス」

 

 嵌まった。エイジは確信を込めて口で名を呼ぶ。ノイジスはエイジの正面で翼を広げる。

 

 

 

「【霧火の結界】」

 

 

 

 ノイジスを中心にして展開されるのは瑠璃火を宿した黒い羽根。エイジは羽根が舞う結界の中で無名の剣士の渦雲渡りに斬られる。だが、斬られた端から霧がらすが発動し、無名の剣士の背後を取って逆に斬り返す。そして、その間も渦雲渡りで斬られてまた霧がらすが発動する。

 

「こ、これは……!?」

 

 気付いた時には遅い。エイジも使い手だから分かる。瑠璃の渦雲渡りは一閃にて周囲に瑠璃火の刃の乱撃を生む。より使い手の無名の剣士ならば1度の斬撃でより多く、より長く瑠璃火の刃を展開する。

 そして、霧火の結界はノイジスが瑠璃火の宿った黒い羽根を散らした結界を生み出し、その中ではエイジは『オート』で霧がらすが発動し続ける。

 結界の時間は僅か5秒。性質さえ知っていれば攻撃を止めるか抜け出せば終わる。だが、今度は無名の剣士にとって完全初見となり、嵌まれば脱出不可能だ。

 無名の剣士は四方八方からエイジに裂かれる。防ぐことさえままならず、全身を斬られた無名の剣士は、だが霧火の結界の真の恐ろしさを知る。

 迷いがらすは霧化した際に残した羽根で炎を爆ぜさせた。そして、瑠璃火を宿した霧火の結界も同様だ。

 エイジが霧がらすを発動させた回数だけ羽根は猛る時を待つ。結界終了の5秒と同時に、巨大な火柱となって無名の剣士を呑み込む!

 如何に瑠璃火に……光属性に耐性があるとしてもこの火力だ。タダでは済まない。狙い通りに全身からどす黒い血を流した無名の剣士は瑠璃火で焦がされていた。

 エイジ、HP残量3割。無名の剣士、HPバー1本目2割。エイジはチャージを終えた影瑠璃で接近し、対する無名の剣士は逆手に持ったカタナを振るう。

 鬼火の剣【虎炎の風】。虎を模した瑠璃火を正面に放ち、まるで咆吼の如く爆風を放つ、瑠璃火そのものではなく生み出された衝撃波で攻撃する鬼火の剣の上位技だ。

 だが、エイジは止まらない。ノイジスがエイジの背中に張り付いている。彼の背中を押して爆風を突き進ませてくれる。

 

「ひ、ひぇええええええ! エイジちゃん! これヤベェよ!? 俺様消し飛んじゃう!」

 

 違う。単純にエイジを盾にしているだけだ。ノイジスのHPがゼロになれば回生が発動しなくなる。手傷を負ったエイジを先に倒れさせてでも生き延びるのは合理的ではあるが、エイジは思わず顔を顰めた。

 だが、これでいい。エイジは左手に生み出したゴーレムの破砕の斧を振り下ろす。

 単純な破壊力ばかりに目を惹くが、本質は衝撃波を解き放つ破壊の刃だ。虎炎の風を真っ向から拮抗し、途切れた瞬間にはエイジは跳び上がって連ね斬りに移っていた。

 これもお前には見せていない技だ。エイジは単純に無名の剣士を相手にして鍛錬していたのでは無い。彼が記憶を引き継ぐ事を逆に利用して相手の手札を暴き、逆に自分の手札を隠蔽したのだ。

 故に無名の剣士は知らない。破砕の斧の威力を知らない。連ね斬りでダーインスレイヴと共に振り下ろされる攻撃の重さを知らない。

 ガードしたカタナを押しのけ、斧と剣は無名の剣士を袈裟斬りにする。どす黒い血飛沫を上げた無名の剣士のHPバーの1本目が削り尽くされる。

 そして、2本目……最後のHPバーが蠢く。

 

「……終われぬ」

 

 無名の剣士の傷口が急速に塞がれる。ネームド特有のHPバー以降の防御力強化と再生作用だ。

 

「極めねばならぬ。鬼火と剣術の融合を……我が悲願を……まだ辿り着いておらぬ」

 

 無限の鍛錬で求めるのは夢幻。だが、鬼気迫る発言のはずなのに、無名の剣士は変わらぬ仏頂面であり、まるで感情が宿っているとは思えなかった。

 

 

 

 

「……何故、鬼火の剣を極めるのだ? 何故……だ……?」

 

 

 

 

 そして、他ならぬ無名の剣士自身が違和感を吐露する。

 右目の闇の空洞は亡者化の証。右目以外は人間としての風貌を残していても、思考と記憶は幾らか亡者化してしまっているのだろう。鬼火の剣を編み出し、極めようとした理由を見失ったのだろう。

 エイジは何故か親近感を覚えた。憎しみのままに『力』を求める自分を無名の剣士に重ねた。

 だからこそ倒さねばならない。無名の剣士を超えて強者に至らねばならない。

 

「何故……まぁ、良い……これで良い」

 

 顔を左手で埋めた無名の剣士は天を仰ぐ。

 瞬間にエイジは袈裟斬りにされていた。何が起こったかも分からぬままに、エイジのHPはゼロになる。

 

「こ、こまでか……後は頼むぜ、エイジちゃん……!」

 

 回生! 倒れる寸前で踏み止まったエイジは、だが回生を知る無名の剣士は攻撃の手を緩めずに危険から逃れていない。

 見えた。無名の剣士の背後でまるで守護霊のように絶つのは瑠璃火で構成された不動明王だ。いや、仏教には詳しくないエイジは特定できないが、不動明王に類する瑠璃火の守護霊がいた。

 

「鬼火の剣、奥義【守護顕現】。もはや貴公の剣は届かぬ、散れ」

 

 無名の剣士が背負う不動明王はエイジに刃を振るい、また鎖を放つ。瑠璃火で構成されているとはいえ、それはあくまで内部であり、見た目は動く仏像のようだ。

 瑠璃火の動力源にして己の守護霊を実体化させているのか? エイジは考察こそが分析だと判断し、そして思い至る。

 瑠璃火はイザリスの罪の1つ。闇を滅する為に闇に近づき過ぎた浄化の炎だ。故に凝縮すれば黒炎の如く物質的性質を持つ。だが、闇にはより顕著な特徴がある。

 闇術とは仮初めの意思を与える技だ。闇関係は驚く程に死よりも生に関する力が多い。それこそが闇の本質だと言わんばかりだ。

 いや、それは真実なのだ。闇より生まれた者達が始まりの火から王のソウルを見出した。光の住人であっても、グウィンもイザリスもニトも闇から生まれたのだ。

 深海。それは生命を育む闇の本質。故に瑠璃火を育てる燃料として最適であり、より回復・再生に特化されている。エイジは答えが最初から自分の手持ちの知識で得られたのだと悟る。

 不動明王は瑠璃火を極めた無名の剣士が辿り着いた奥義に相応しい。己の守護霊に仮初めの生命を与えて具現しているのだ。凝縮された物質的な性質を帯びた瑠璃火こそが肉体を構成させているのだ。

 無名の剣士は変わらず無双。鬼火の剣の上位技を平然と乱発し、不動明王もまた鬼火の剣を繰り出すのみならず、高リーチの剣と捕縛の鎖を振り回す。

 剣は霧がらすで凌げるが、掴み・捕縛だろう鎖には通じない。エイジは襲い来る4つの瑠璃蛇を躱しきれず、左手で印を組んで霧がらすで回避する。

 

「なるほど。貴公だけでも発動できるのか」

 

 霧となって逃れたエイジを追いかけた無名の剣士はカタナのリーチを伸ばす瑠璃火の刃でエイジを攻め立てる。

 

「鬼火の剣【瑠璃蛇・八岐大蛇】」

 

 無名の剣士が繰り出すのは8つの瑠璃蛇。だが、それらは根元で1本に繋がっている。火柱はまるで意思を持つ8つ頭の大蛇の如くエイジに襲いかかる。

 無名の剣士は短期決戦。逃げていては勝てない! エイジは回復した右足の影瑠璃で接近し、まだ見せていない影瑠璃・牙を左足で放つ。

 決まったはずのミドルキックからの爆発。だが、無名の剣士は左の手の甲から生み出した鏡面の如く極まって研ぎ澄まして凝縮された瑠璃火の菱形の面で受け止める。

 

「鬼火の剣【火封鏡面】」

 

 影瑠璃・牙をガードするだけで無く、その破壊力を利用して瑠璃火に指向性を与え、細やかな瑠璃火の刃を伴った爆風としてカウンターする。それはまるで砕けた鏡が爆発であり、影瑠璃を放ったエイジの左足をズタズタに裂く。

 だが止まれない。不動明王の刃が迫る。エイジは弾くも、その間も無名の剣士は自由だ。エイジの腹を薙ぐべく一閃するも、ギリギリで黒の形代流しでガードする。

 カードはまだある。だが、無名の剣士は無傷だ。HPバーの2本目は1ミリも削れていない。エイジの攻撃はまるで届かない回避重視で分析に徹したくても短期決戦の性質がそれを許さない。

 最初から無謀だったのか? ああ、決まってる。全てが無謀だった。エイジはこれまでを振り返る。

 NPC扱いされた巡回警備に甘んじていれば良かったのだ。傭兵など目指さなければ良かったのだ。グローリーと協働などすべきではなかったのだ。『ユナ』を守ろうなど驕るべきではなかったのだ。ライドウに頭を下げて弟子入りさせてもらうべきではなかったのだ。『悠那』を助けようと動くべきではなかったのだ。蠱毒の穴など無謀を極みだと分かっていたのに入るべきではなかったのだ。

 否定。否定。否定。エイジは否定する。ユナを誘ってSAOにログインすべきではなかったのだ。彼女を現実世界に返そうと攻略組を目指すべきでは無かったのだ。

 否定して、否定して、否定して、エイジは2つの黄昏に行き着いた。

 あの日、あの時、上級生に虐められていたユナを見ていられなくて、喧嘩を挑んだ夕焼けの光。

 あの日、あの時、チンピラに囲われていたスレイヴに発破をかけられて、血で手を汚した夕焼けの闇。

 

 何度繰り返しても、未来が分かっていても、エイジはユナの前に立つだろう。拳を握るだろう。

 何度繰り返しても、未来が分かっていても、エイジはスレイヴの手を取るだろう。邪剣を握るだろう。

 

 ああ、ならば全ての否定は無意味だ。エイジは這い続ける。這ってでも、這ってでも、這ってでも前に進むだろう。それでいいと望んだのだから。

 バトルスーツの連動……良好。オーバーパワー……維持。辛うじて拮抗するのはエイジがこの状態でも最上の状態をキープし、なおかつ不動明王のパワーでも弾きが有効であるSTRエネルギーを解放できているからだ。

 ならばどうするか? 更なるパワーとスピードを手にすればいい。だが、ステータスの高出力化は望めない。訓練は積んだが、6割の壁は厚い。

 禁忌のカードを切る。『ジョーカー』はまだ使えないならば、無名の剣士を押し込む『力』がいるのだ。

 深海の指輪を解放すると同時に、エイジは蕩けて崩れた黄ばんだ瞳が座する右目から闇の汚染が広がり、ダーインスレイヴを通じた侵蝕が右胸部まで及んだのを悟る。

 それでも、それでも、それでも……そうだとしても!

 

「深海の指輪、解放」

 

 エイジは左拳を床に叩き付け、闇を解き放つ。深海の闇がエイジを覆う。

 

 

 

 

 

 

 

 

「デーモン化……発動!」

 

 

 

 

 

 

 デーモンとはイザリスの混沌より生まれた異形の命。そして、デーモン化とは自らの在り方をデーモンに近づける。

 スレイヴとの協議でデーモン化は封印扱いだった。レギオン化はデーモンシステムを利用しており、レギオンにすらなれなかったなり損ないのエイジは、デーモン化が正常に発動する見込みが薄かったからだ。下手をせずとも暴走のリスクが高すぎた。

 だが、事情を知らないライドウはデーモン化をエイジに与えた。それは明確な『力』だからだ。使うかどうかはエイジの手に委ねられた。

 最初から使うつもりだった。ここぞという局面で切るカードだった。だが、躊躇し続けたのはスレイヴがエイジにデーモン化を封じるべきだと意見した時の、彼女の何処か期待していない眼差しがあったからだ。

 スレイヴは最初から分かっていたのだろう。エイジは必ずデーモン化するのだと。そうしなければ『力』を手に入れられないならば、彼ならば使うはずだと信じていたのだ。

 ならばエイジがすべき事は1つ、デーモン化を完全に制御する事だ。エイジは自身の姿が変異するのを感じた。

 変異を終えたエイジの姿は、完全なる異形の人型だった。おおよそ人間らしい外観を幾らか残すデーモン化において、限りなく獣魔化に近しかった。

 全身は青黒い外殻に覆われ、間接部や表面には瑠璃色に輝く血管が浮かび上がっている。五指は鋭い爪を有しながらも人間に近しい。

 頭部は獣とも竜とも区別できぬ、だが何処かレギオン似て、だが異なる、悪魔や鬼といった表現が相応しく禍々しい。口は裂けて牙が並び、赤い舌が隠される。正面を見据える双眸は、だが透明な膜で覆われている。右目の瞳は蕩けて崩れて黄ばみ、また白目は黒く血走っていた。

 背中から伸びるのは大小3対の翼。中心の翼だけ大きく、上下の補助翼として小さい。それは竜に似て異なり、悪魔のような高鞠の如く、だがやはり異なる中途半端さを持つ。

 肩甲骨の中心に当たる部位からは瑠璃の光を宿した靱帯で外殻を結合させた触手が尾の如く1本だけ靡いている。

 異形でありながら何にも到達できなかった半端。竜にも、獣にもなれなかった、だが人であることを捨ててしまった悲哀そのものでありながら獰猛なる業そのものだった。

 その姿は多くを想起させながらいずれにも至らせぬ、だが呼ぶべきは『鬼』こそが相応しかった。

 エイジが握るのはダーインスレイヴ。だが、絡繰り仕掛けの改造ではない。核となる下のダーインスレイヴを中心として、噴き出す瑠璃火が凝縮して大刃と化している。

 見るべき者が見れば、こう呼ぶだろう……『聖剣』である、と。ダーインスレイヴを核として噴き出す瑠璃火を固めた大刃は、まさしく聖剣であるが、考えるべくもなくデーモン化がもたらす帰結である。

 ダーインスレイヴを生み出したのはスレイヴではない。武具創造……『聖剣を模した』能力を有するレギオン、ギャラルホルンである。彼女がスレイヴのレギオン能力を変換して生み出したのが邪剣であるならば、使い手がレギオン化でも利用されるデーモン化をすれば、邪剣の『真の姿』が解放されるのは道理である。

 

「なん……だ……それ、は?」

 

「答える理由は無い」

 

 呆ける無名の剣士は、だが倒すのみであるとカタナと不動明王を操る。

 鬼火の剣の上位技と不動明王の破壊と捕縛。2つが合わさった無双の極地。

 そのはずだった。だが、エイジは単純なスピードで懐に入り込み、暴力的なパワーで不動明王の剣を弾いて押し返す。

 あまりにも接近しすぎて剣が振るえない。だが、格闘にも心得がある無名の剣士は柄尻でエイジを殴らんとするも、それよりも先にエイジの右拳が無名の剣士の左頬を打ち抜いた。

 瞬間にエイジの肘から爆ぜたのは瑠璃火。デーモン化で融合したオーバーパワーを供給するソウル・リアクターであるが、人工筋肉とも一体化したエイジは外殻がもたらす運動拡張も引き継いでいる。だが、それだけでは終わらない。

 全身の細胞を浸すのは闇の重油。深海の指輪を解放した事によってデーモン化も合わさって常にガソリン満タンの状態だ。そこに瑠璃火を着火させ、更なるパワーとスピードを手に入れたのだ。

 無論、代償はある。外殻は亀裂が入って肉が吹き飛んだ。デーモン化して強化されていながらも『耐えきれない』パワーだ。足にしても同様で血が零れ落ちている。連動率の問題では無い。単純に耐えきれないエネルギー供給なのだ。

 これが純粋なステータス高出力とその補助であったならば、最低限の安全対策が施されていたならば、こうはならなかっただろう。だが、元よりバトルスーツは素材の質を補うべく、素材以上の性能を引き出すべく安全性を排除して安定性を捨てた。ならば、この結果は当然だ。

 だが、再生する。回復と再生に特化された事によって、自壊した傍から復元される。

 

「オォオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 

 エイジは吼える。竜にも獣にもなれなかったなり損ないは、『鬼』の雄叫びを上げる。

 ダーインスレイヴを振るうだけで火刃が放たれる。不動明王で防ぐ無名の剣士に対し、エイジは両手で握ったダーンスレイヴの切っ先を向け、まるで弓の弦を引くように上半身を反る。

 繰り出すのは≪両手剣≫の突進系ソードスキル、ハンティング・レイ。だが、ライトエフェクトを完全に塗り潰す瑠璃火の放出がダーインスレイヴより行われ、巨大な瑠璃火の槍となってエイジは突撃する。

 不動明王の剣が激突する。だが、多段ヒットの性質が幸いし、不動明王の剣が揺れ、ついにガードが崩される。無名の剣士はカタナで応じるも、更なる放出を高めたダーインスレイヴの瑠璃火が威力を引き上げ、受け流しきれずに直撃する。

 突き刺さったダーインスレイヴから瑠璃火の噴出という追加攻撃も含めた多段ヒットダメージを受け、無名の剣士は歯を食いしばる。悲鳴を上げることなく耐えきろうとしたが、ハンティング・レイの終わりと同時にエイジは左手に出現させていた黒の形代流しで追加の斬撃を浴びせる

 ソードスキルの硬直を回避したのでは無い。肩甲骨の間から伸びる触手が自立運動し、地面に突き刺さってエイジの体を動かしたのだ。

 あくまで攻撃では無く体幹制御と補助の触手だ。エイジは更なる憎しみを投じて『力』を求める。

 翼もまた飛行の為では無い。闇の重油の貯蔵を担っている。逆に言えば、瑠璃火を着火させれば超加速を得られる。それを制御する為の上下の補助翼だ。

「オォアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 

 もはや言葉は要らない。『人』でも『獣』でもない『鬼』は吼える。目前の敵を、確かなる情念……憎悪が『力』を求めるままに殲滅する。

 だが、無名の剣士も見切り始める。破壊力を高めた真・ダーインスレイヴであるが、無名の剣士は己の技量だけで再現できる。瑠璃火を刀身に放出させて固め、巨大な炎刃を維持する。不動明王という手数も合わされば、依然として有利なのは無名の剣士!

 まだ届かないのか。まだ足りないのか!? 不動明王の剣がエイジの左肩を抉る。鎖が捕縛し、柱へと叩き付け、無名の剣士が繰り出す鬼火の剣がエイジの額を叩き割る。

 絶対的な実力差。それこそが弱者と強者の境界線だ。覆せぬ一線がそこにある。ならば、デーモン化を行使し、また邪剣が聖剣の域に辿り着こうとも勝てないのは、純粋なるエイジの力不足であり、覆せぬ弱肉強食の掟があるからだ。

 深海の指輪がもたらす絶大な回復と再生も追いつかない火力と連撃で倒す。無名の剣士はシンプルだ。対するエイジはデーモン化の致命的な弱点を悟る。

 エイジ自身がダーインスレイヴによる闘争でFNCを制御している関係上、デーモン化制御時間の減りが極端に早いのだ。SANに余りポイントを割り振っていないエイジでは3分と待たずして獣魔化するだろう。

 獣魔化しても倒す? 否だ。それは敗北だ。敵に勝ててもその後に待つのは敗北だ。モンスター化だ。ならばエイジは勝ち目を残す為にデーモン化を解除する。

 暴走気質はあるが、あくまで慎重なのがエイジだ。それこそが彼を生かし、彼を成長させ、彼を敗北させ続けても変わらない。

 

(あと、もう少し……あと1つでも……深手を負わせることが出来たなら……!)

 

 無名の剣士はエイジの真似だとばかりに足下で瑠璃火を爆ぜて加速し、エイジの顎に膝蹴りを穿つ。そのまま空中で瑠璃火を帯びた斬撃を放ち、エイジがダーインスレイヴで受け止めると間髪入れずに不動明王の剣で突く。ガードの隙間を縫った不動明王の巨大な剣はエイジの胴体に縦に突き刺さり、そのまま押し込んでエイジを串刺しにする。

 

「これにて、今度こそ……終いだ」

 

 無名の剣士は消え入れそうな声で無感情に呟けば、エイジは不動明王の剣から発せられた瑠璃火で焼かれる。瑠璃火が全身に伝導した今のエイジには瑠璃火は通じないが、霧火の結界と同じく強引に火力で上回るつもりなのだ。

 焼かれる。焼かれていく。浄化の炎の中でエイジは旅の終わりを感じる。

 ノイジスは勝つと信じて託したはずだ。申し訳ない。だが、強者にはなれなかった。それが全てだ。

 

 沈む。

 

 沈む。

 

 沈む。

 

 闇の深みへと沈む。いや、憎悪の炎の底へと沈む。

 

 ここは深海の底? 闇が……憎しみが重油のように広がり、絶えず憎悪の炎を燃え上がらせる。

 分からない。どうして、こんなにも憎しみは消えないのか。唯一理解でいるのは、この憎悪は単純に他者へと向けられるのでは無く、己を焼き焦がし続けているという事だ。他者を傷つけるのは憎悪が『力』を求める衝動……この炎が溢れるからだ。

 憎悪の炎とは『力』の欲求。根源たる闇の重油のような憎悪はどれだけ燃やされても無くなることはない。

 ああ、当然だ。エイジは笑う。憎悪の底で嗤う。傷ついた体から流され続ける血こそが憎悪なのだ。這い続けて抉れた傷から流れる血こそが闇にも見紛う憎悪その者なのだ。

 エイジはダーインスレイヴを探す。だが、憎悪の君が授けた邪剣は何処にもない。確かな繋がりは感じるはずなのに。

 エイジは憎悪の底で這い続ける。這ってでも、這ってでも、這ってでも前に進む。より『力』を求めて。

 

「もっとだ!」

 

 吼える。悲しいまでに愚直に、エイジは己の憎悪が生んだ憎悪の炎に焼かれながらも、その中に『力』を求める。

 

「もっと『力』を……!」

 

 まだだ。まだ足りない。デーモン化の更なる先へ。全てを失う事になろうとも『力』を求める。

 憎しみの炎はエイジに『力』を求める衝動をもたらし、だが同時に際限なく傷つけて血を流させる。這い続ける限り、より血が多く流される。

 それでも止まらない。止まれない。渦巻く憎悪の炎の中で、エイジは鈍い銀色の光を……エイジの憎悪では無い別の憎悪を見つける。

 ダーインスレイヴ。色も形もない空っぽの憎しみ。

 都合のいい奇跡には頼らない。ダーインスレイヴを通じてエイジは辿り着く。憎しみが行き着く先へ。何も為せず、何も生まないなど言わせない。自分こそが彼女の憎しみが生み出した『力』だ!

 もっとだ。もっとだ。もっと『力』を寄越せ、ダーインスレイヴ! スレイヴもそれを望んでるはずだ! エイジは吼え、憎悪のままに『力』を求めて手を伸ばす。

 

 ダーインスレイヴの刃に触れる間際で何かがエイジの手を包み込んだ気がした。

 

 それでも、エイジは手を伸ばす。何を傷つける事になろうとも、何を壊す事になろうとも、何を失う事になろうとも、這い続けるのだと決めたのだから。

 指先を何かが濡らす。温かい何かだった。

 血だ。温かくて優しい涙のような血だった。

 見えない『誰か』がいる。際限なく憎悪の炎が噴き出す憎悪の底に誰かいる。

 いるはずがない。エイジは嘲う。ただひたすらに『力』を求める。

 嘲おうとして、刹那に憎悪の炎が荒れ狂う中でも確かに輝く光を見た。

 一房だけ編まれた淡い茶の前髪。それは初めて出会った時から変わらない強情の証。

 太陽のような大きな温もりも、月のような冷たくも優しい導きでも無く、それでもいつだって静かに輝いてくれる星の光のような瞳。

 自分が伸ばし続けた手の爪が肉を抉り、腕も体からも血を流しながらも、それでも微笑む彼女は、両腕と体を使ってエイジの伸ばし続けた……いつだってダーインスレイヴを握り続けた右手を抱きしめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は『ここ』にいるよ、エーくん。

 

 

 

 

 

 

 

 声は聞こえずとも、彼女は……『悠那』は確かにそこにいて、そして確かに伝えてくれた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは瞬きの夢……死に際に見る走馬灯か。

 ブラックアウトしていたエイジの意識は再び研ぎ澄まされる。不動明王の剣に貫かれて焼かれる中で覚醒する。

 ある者は不運と嘆くだろう。迫った死に際に意識を取り戻すなど恐怖の檻そのものだ。

 だが、エイジは吼える。不動明王の剣を掴み、万力を込める。

 不動明王の剣に貫かれて壁に串刺しにされた今は拘束状態で霧がらすによる脱出は出来ない。また、エイジがデーモン化状態のパワーでも不動明王の剣を引き抜くことは出来ない。

 完全なる詰みだ。そう、エイジのデーモン化の特徴が驚異的な回復力と再生力でなければ……である。

 エイジが動かすのは剣では無い。己の体だ。不動明王の剣を起点として、エイジは自身の体を抉りながら不度明王の剣から強引に引き剥がす!

 

「ハァ……ハァ……ハァ……!」

 

「……何故に、そこまで、抗う?」

 

「さぁね。でも……」

 

 分からない。エイジは『力』を求めている。今この瞬間だって変わりない。だからこそ、より強大な『力』を得る為に脱出を試みただけだ。

 だが、疼くのだ。たとえ、死に際に見た都合のいい夢だったとしても、憎しみの底で……彼女はいた。エイジの手をとってくれた。

 喜び? 悲しみ? 怒り? 分からない。何も分からない。憎しみがあるだけだ。荒れ狂うのは憎悪の炎だけだ。

 

「『約束』……したんだ。『帰る』って……『約束』したんだよ。約束や契約は守れって、うるさい相方がいるから……必ず、帰らないと……」

 

 たとえ、そこに何の意味も無いとしても、それでも『約束』したんだ。エイジは牙を剥き出しにして、3対の翼を広げる。

 もはや時間が無い。これが最後の攻防となるだろう。エイジは翼の闇の重油を拡散しながら瑠璃火で炸裂させて超加速する。

 不動明王の鎖と無名の剣士の瑠璃蛇。エイジは鎖を屈んで躱し、地を走る瑠璃蛇を火刃で裂く。

 

「む……」

 

 ならばと無名の剣士と不動明王の同時の虎炎の風。瑠璃火ではなく衝撃波でエイジを吹き飛ばそうとするが、触手をアンカーのように突き立てて耐え抜く。

 愚直なる突進。無名の剣士は馬鹿正直に付き合うつもりは無いと距離を取り、上半身を捩る。

 鬼火の剣の上位技、瑠璃天変。広範囲に広がる瑠璃火の円撃。細やかな瑠璃の刃を含んだそれをエイジは跳び越えんとする。

 だが、空中では回避できないと踏んだ不動明王の突きが迫る。

 見えている。視覚警告で判断したエイジが取ったのは≪格闘≫の回転系ソードスキル【孤月脚】。正面に前転しながら踵落としを繰り出すシンプルでありながら対空迎撃もできるソードスキルであり、自身を大きく浮かす効果もある。

 ソードスキルのシステムアシストは物理エンジンの上位に当たる。故に空中で突きを躱し、なおかつ踵落としという形で踏みつける! 不動明王の大剣の切っ先は地面へと向かい、そしてエイジは不動明王の剣の刀身を駆ける!

 不動明王が剣を薙いで振り下ろすより前に、エイジは空中で舞う。迎撃の態勢を取った無名の剣士が繰り出すのはいかなる技か。だが、エイジには関係ない。

 真の姿を解放した邪剣ダーインスレイヴではなく、握るのは左拳。毒手を瑠璃火に変換させ、極限まで凝縮させる。そして、体内の闇重油を炸裂させる。

 

「地獄門」

 

 無名の剣士が放った瑠璃火は掻き消す程の、彗星の如きエイジの左拳が無名の剣士の眉間に激突し、そのまま後頭部から地面に叩き伏せ、それでもなお止まらぬ拳が打ち抜かれる。ドーム状に拡散する瑠璃火の波動が無名の剣士の全身を打ち、また不動明王を揺るがす。

 

「がぁ……がぁあああああああああ!?」

 

 ついに無名の剣士より漏れた絶叫。同時にエイジは制御時間のリミットに迫ったデーモン化を解除し、倒れかけた体を両足に力を込めて踏ん張る。

 止まれない。止まるわけにはいかない。這ってでも、這ってでも、這ってでも……前に!

 

「止まれない……んだ!」

 

 吹き飛ばされた無名の剣士も膝はつかない。額を砕かれてどす黒い血を流しながらもカタナを構える。不動明王と共に最後の戦いに挑む。

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

 何故だ。

 何故だ。

 何故なのだろうか。

 異形の姿を解いた、忍びの体術のみならず、数多の武技と絡繰り仕掛けを使う剣士に、無名の剣士は違和感を覚える。

 違う。違和感の発生源は自分だ。思い出せない何かだ。

 何にしてももはや奴は鍛錬の相手ではない。鬼火の剣を極める障害となる敵だ。全力で葬らねばならない。だからこそ奥義を解禁したのだ。

 

 いいや、それこそが違和感だ。どうして鬼火の剣を極めねばならないのだったか。

 

 ひたすらに『力』を求めた。その手段が鬼火の剣だった。

 だが、どうして鬼火の剣を欲したのか。無名の剣士は迫る若き剣士を見据えながら、まるで墨汁がゆっくりと白紙を染めるように思い出していく。

 

 

 

 

 無名の剣士にも名前はあった。大層な家名に対して勇ましさも雅さも足りぬ平凡だった。

 血脈を辿れば雪国の大名であるが、太平の世では神社にて禁忌を守る武門の一族として有名だった。

 父母共に厳格であり、禁忌を守るべく、先祖伝来の剣技を物心付いた時から学んだ。

 父から賞賛を1度として聞いた事は無かった。母から笑顔を1度して向けられた事は無かった。

 物覚えは悪い方ではなく、才能もあるつもりだった。足りぬ分は鍛錬で補った。同年の門下生が独楽を回して遊んでいる時に木刀を振るい、餅を食んで月を愛でる時に書を捲った。

 13を数える年頃には免許皆伝は間もなくまで行き着いた。もはや門下生にも師範代にも負けない剣の腕を手に入れた。先祖に恥じぬ武技と教養を身につけ、禁忌の守り手として家督を継ぐに足る器にようやくなり得て父母も安心させられると思いながらも、まだまだ足りぬと鍛錬を続けた。

 そんな折りである。巷で噂の道場破りがやってきた。如何なる流派かも分からぬ剣技で師範代も圧倒し、父との決闘を申し出た。だが、それは許さぬと立ちはだかり、一閃の前に意識を刈り取られた。

 目覚めた時には終わっていた。道場破りは純粋な実力こそ父を上回ったものも、小手先と知略で敗れ、まだまだ自分も未熟と認めた。そして、気に入った父によって門下生となることになった。

 道場破りは一夜と待たずして同じ釜の飯を喰う仲になった。門下生の多くは反対したが、道場破りの大らかな人格と卓越した武芸に魅了され、朝を待たずして仲間として迎えた。

 怒りは無かった。むしろ、心強い同門を得たと素直に喜んだ。彼の武技は我流で癖こそ強かったが参考になり、先祖伝来の剣技を磨く助けとなった。

 だが、元が道場破りだ。道場の外に出れば、浪人に難癖をつけられていた。彼は自分の家名を出して場を鎮めた。まだ家名を背負うに足りぬが、同門の仲間を守る為ならば己の信条を呑み込んだ。

 

『どうして逃げなかった? 貴公の足ならば容易いだろう』

 

『木偶の坊のくだらん輩に道を譲るのも、背を向けるのも、剣も拳も振るうのも馬鹿らしいではないか』

 

 唖然とした。そして、大いに笑った。何たる豪胆さだろうか。憧れにも近しい友情を覚えた。彼の隣に相応しい、家名に負けぬ男になろうと新たな目標を見つけた。

 その後も何かと問題を起こす彼の隣で取りなすのが自分の役目となった。

 友は瞬く間に技を吸収し、父を超えた。自分より先に免許皆伝に至ったのは悔しかったが、それ以上の偉大なる天才の誉れを讃える事を選んだ。

 その後も友は気まぐれか、道場に居座った。年月が経て新たな門下生が増える頃には、友を大いなる先達として慕い、また彼を嫌う者はいなかった。

 友はよく西の海を見渡せる海岸に散歩へ出かけた。彼がこの地に至ったのは偶然では無く、西へ西へと旅していたからだった。

 

『西に何を目指す?』

 

『まだ見ぬ敵と謎、そして我が剣を捧げるに相応しい主だ』

 

『貴公は都の出身だったな。それ程の腕だ。仕官は容易であろう。よもや内府では不服と申すか』

 

『戦乱の世ならばいざ知らず、今の内府は腑抜けよ。武芸よりも算盤が出来ねば立身できぬとはな。西では既に不死の兆候があると聞く。この地も遠からず災いに見舞われように』

 

 遠く、遠く、遠く、西へ。海を渡って大陸へ至り、更に西を目指して行き着くのは名も失われた巡礼の地。最初の火が起きたとされる聖地だ。もはや神の名は失われて久しいが、かつて偉大なる英雄が火を継いで世界の闇が祓われたと伝承にはあった。

 一族が守る禁忌も西より流れ着いたものだ。元は北の雪国の出自であったが、この地の守り人と血が交わり、禁忌を守る使命を得たのだ。古文書によれば、西より参った白き竜の使いが今も禁忌の底に囚われているとの事だった。

 

『……イザリスの罪の1つ、鬼火か。今も白き竜の使いが封じられているならば気になるが、わざわざ災いを解き放つものでもあるまい』

 

『ああ、なるほど。貴公は己の武を頼りに西を旅したいのか』

 

 図星だったのか、友の返答はなかった。だが、それこそが答えだろうと彼の隣に立って西の海を眺めた。

 

『その時は某も連れて行ってはくれまいか。貴公に勝てる者はこの国にはおるまい。西で武者修行しようにも貴公の口と態度はそれこそ災いの元。手助けが要ろう。西で腕を上げ、いずれは武勲を掲げて国に帰ろうぞ』

 

 西の果てを旅しよう。かつて始まりの火が起こった聖地を巡礼しよう。多くの冒険と戦いを経て土産話をたくさん持って帰ろう。

 

 

 そうすれば、父は褒めてくださるだろう。母は笑ってくださるだろう。

 

 

 夏の終わり、一族の秘宝を納めた倉より札で封じられた長巻が友に差し出された。

 戦乱の世で数多の血を啜り、魔の力を得たとされる妖刀だ。瞬く間に精気を吸われ、正気を失って亡者となると語り継がれていた。この妖刀の封印を受け継ぐのは一族の当主の証だった。

 それが自分では無く友に試されている。これは事実上の廃嫡の宣告であった。

 友が道場に住み込んでから……彼に父が心から武技を褒め称え、母が笑顔で食事を振る舞う姿から、この日が来るのだろうと悟っていた。

 友は見事に妖刀を受け取り、だが封印を破った。周囲が騒然とする中で、友が亡者となって襲うならば、父母を守らねばならぬ、亡者に墜ちた友の誇りを救わねばならぬと立ち上がった。

 だが、友は平然と妖刀を御した。先祖の誰にも出来なかった偉業を為し遂げたのだ。

 何故このような無謀をしたのか。問われた友は妖刀を手に馴染ませながら答えた。

 

『封じるよりも私の武具である方が安全ではありませんか』

 

 呆然とした父はだが高々と真の武者であると賞賛し、母は腰を抜かしながらも後に恥じらう程に大笑いした。

 友の偉業は瞬く間に国中に広まった。彼には多くの助けを求める依頼や貴族の難題、そして内府からの仕官の誘いがあった。

 だが、友の目は常に西の海に向けられていた。そして、彼が密やかに旅支度をしているのに気づき、その時がやって来たのだと自分もまた準備を整えた。

 夜が更け、やがて空が白み、もしや時を誤ったかと友の部屋を訪ねてみれば、だが無人であり、書き置きが束になって残されていた。

 別れの挨拶も無しに旅立つ旨の謝罪が記されていた。妖刀もまた自分が封印を解いてしまったからこそどうしようもなく、故に持ち去る狼藉を許して貰いたいともあった。

 厳格なる父はあっぱれと笑って褒めて、母もまるで我が子の出立のように涙を流して笑んだ。後に知ったことであるが、父母は正式に跡取りとして友を養子に迎える打診をしていたとの事だった。

 書き置きは個々人にもあった。父、母、道場仲間、飯炊きの侍女、通っていた茶屋の夫婦、神社で遊ぶ童達。いずれも友にとって親しい者への別れの言葉があった。

 だが、自分には無かった。もしや、約束を違えて1人で出立して罪悪感と友人だからこそ言葉は不要という信頼かとも思ったが、友の部屋の整理をして違うのだと悟った。

 小まめに付けられた友の日記。そこには父母の名が、道場仲間の名が、飯炊きの侍女の名が、茶屋の夫婦の名が、神社で遊ぶ童の名が記されていた。何がどうあったのか細やかに残されていた。

 だが、そこには自分の名前は無かった。友は1度として名を記していなかった。

 いや、1回だけ……最初に助けた日、『先生の倅』とだけ書かれていた。

 ああ、そうか。旅路に誘わぬのは当然だ。友は『友』ではなかったのだ。自分は彼を最も信じ、憧れ、親しんでいたが、彼からすれば要らぬのに付き纏ってくる『道場主の息子』だったのだろう。日記にも名を刻まず、書き置きを記す必要も無い……『他人』だったのだ。

 何が足りなかったのか。友という跡取り候補を失い、再び自分が禁忌の守り手として家督を継ぐだろうと思う中で、如何なる感情かも分からぬ淀みが腹に溜まっていた。

 だが、父は遠方の親戚……禁忌を守る剣技も知らぬ童を養子として迎えると告げた。友がいない今、父に匹敵しうる剣士は自分だけのはずなのに、血が繋がり、また物心付いた時から剣を磨き、書を捲って学問を身につけた自分では無く、剣を握ったこともない子どもを跡取りとして教育すると宣ったのだ。

 騒然とする道場で、父は納得がいかぬならば剣を取れと申し出た。だが、誰も父には勝てぬ。勝てる見込みは自分だけ。だが、父は熟慮した上で意向を示したに違いない。賢い母が隣にいながら誤った判断をしたはずがない。

 ならば足りぬのは己の武技だ。禁忌を守るに足る剣士であると父に証明する事だ。

 海を渡り、大陸で早速あれこれ問題を起こしながらも武芸で黙らす友ではなかった友は、名を改めて『アーロン』とし、名声を高めていた。そして、アーロンの名声にあやかり、多くの者が神社を訪れるようになった。

 その内の1人に西からの流れ者がいた。大沼という逸れ者が集う、呪術が栄えた土地より渡ってきたらしい呪術師は、禁忌に大層な興味を示していた。

 イザリスの娘、クラーナ。それこそが呪術の祖であるとし、故にイザリスの罪が封じられた伝説にも興味があったのだ。だが、禁忌の守り手として封印を見せることは許されず、故に伝承だけで納得いただく事にした。

 伝承を聞かせてもらった礼に呪術を教えようと呪術師は申し出た。だが、自分は剣士で呪術は門外漢だと断った。

 

『イザリスの罪ともなれば強大な火であるはずだ。呪術の造形を深めるのは封印を維持する上でも不可欠では無いかな?』

 

 なるほど、一理ある。また禁忌を守るともなれば剣が通じぬ輩……妖術使いとも戦わねばならない。剣技だけでは守り切れないかもしれない。父母も戦で落命するかもしれない。

 呪術の火をもらい受け、そして驚いた。自分には呪術の才覚があったのだ。教えた呪術師すらも腰を抜かす程に、瞬く間に学び取っていた。

 だが、父は呪術を見せても納得しないだろう。どうすれば、父は自分を認めてくれるだろうか。考え抜いた末に思いついた。

 

『そうか。呪術と剣技、2つを1つに合わせれば良いのだ』

 

 先祖伝来の剣技に呪術を組み合わせた、全く新しい武技が生み出された。幾つかの技を編み出した後に、父母を招いて道場にて披露した。

 これぞ新たな武技! これぞイザリスの罪を守るに相応しい炎の剣技! 騒然とする門下生や師範代を気迫で黙らせた父は立ち上がり、そして彼を殴り飛ばした。

 

『破門だ。出て行け』

 

 聞き間違いかと思った。自分の何がいけなかったかと頭を下げて請うた。

 

『我らが守るのは西より流れ着いた災いの火! なのにそのような妖術を剣技など……恥を知れ!』

 

『では彼は……アーロンはどうなのですか!?』

 

 アーロンは妖刀を手にした後、受け継がれた剣技のみならず、数多の武技を混ぜ合わせた我流とし、なおかつ妖刀の力を用いた異形の剣技を編み出した。父はそれを英雄の御業だと賞賛した。

 父は答えなかった。分からぬ愚図など跡継ぎにも息子にも相応しくないと言わんばかりに背を向けた。その日の内に荷物を纏め、都の路銀と下宿先となる絵師を紹介したのは親心か、それとも野盗に墜ちて家名の恥となるのを防ぐ為か。

 都までの道中で、幾度となく太陽と月と星に問いかけた。自分の何が悪かったのかと。

 旅の途中で野盗に襲われた村と出くわした。炎の剣技で救えば、喜ばれて歓待された。妖術などでは無く、誉れある剣技として認められた。

 ああ、どうしてだ。どうして父母は認めてくださらなかったのか。都へは向かわず、呪術師の教えの通り、自然の中で呪術の火と向かい合い、剣技との融合を試みた。

 幾つもの技を編み出した。だが足りぬ。父母を認めさせるにはまだ足りぬ。

 野盗を斬った。妖魔を斬った。いつしか山に住まう『鬼』だと誤解され、派遣された浪人を、武士を、内府の軍を打ち破った。

 足りぬ。足りぬ。足りぬ。これでも足りぬ。並の呪術の火では足りぬ。『力』が足りぬ。これでは認めてもらえぬ。

 ああ、誰に? 右目が痒い。よく思い出せない。

 必要だ。もっと『力』が必要だ。強大な火を組み合わせねばならぬ。そうだ。災いの火だ。

 アーロンは妖刀をより安全にする為に我が物とした。それは褒め称えられた善行である。ならば自分も同じ道を辿ろう。イザリスの罪を我が物とし、一族を封印の任から解放するのだ。

 戻ってみればかつて同じ釜の飯を喰った仲間が、幼き頃より稽古をつけてくれた師範が、そして父が立ち塞がった。都までの道中で『鬼』が出ると民の噂になっていたが、姿形から自分ではないかと疑っていたのだ。

 

『何しに来た』

 

『災いの火を御して鎮めに』

 

『愚か者め』

 

 どうして斬りかかる? 刃を向けた門下生を斬った。師範を斬った。そして、父すらも刃を振るい、だからこそ斬り返した。さすがに父は勇ましく、一太刀では倒れず、刀身に纏った気を刃として放った。

 このような技は知らない。免許皆伝では得られぬ、一子相伝の秘技か。気刃は噂に聞く聖剣を目指して編み出された剣の深奥。それを主とする流派もあると聞いていたが、秘伝の剣技として一族でも練り上げられていたとは知らなかった。

 

『父上も妖術使いではありませんか。何が気の刃だ。ご存じですか? それも西ではソウルの業と呼ばれるそうですよ。呪術とは違えども、父上が嫌い、アーロンをお認めになった妖術です』

 

『だからお前は愚か者なのだ。どうして都に上らなかった? どうして剣を捨てなかったのだ?』

 

 もはや言葉は不要。父の全身全霊、渾身の気刃はあまりにも鈍く、遅かった。炎は打ち消し、そのまま熱せられた刃は父を討った。

 社を潜り、本殿に至り、扉を開いて進めば、薙刀を構えた母が立ち塞がった。

 

『なりませぬ。なりませぬ! 災いの火を解き放ってはなりませぬ!』

 

『ご安心を、母上。災いの火を御しましょう。アーロンがそうしたように』

 

『なんと愚かな!』

 

 愚か、愚か、愚か。そればかりだ。聞き飽きた。母を無視して扉を開こうとするも、頑なに退かない。だが薙刀の切っ先は震えていた。

 

『ええ、そうです。愚かな倅です。武も学も、父と母を喜ばせることもでなかった愚者でありましょう』

 

 もはや父は斬った。血塗れに刃を振るい、どうか退いてくれと再度申し出る。

 母は涙を流し、薙刀をその場に突き立てた。ああ、ようやく認めてくれたのか。そう思った矢先、母は彼を抱きしめた。

 

『ああ、愚かなのは私達でした。どうか許してください。私達は恐ろしかったのです。貴方が「鬼」になってしまうのではないかと恐れていたのです』

 

 母は語った。武芸にも学問にも才覚が足りぬが努力で補う我が子に不安を覚えていた。その様はまるで鬼の如く、1つ間違えれば修羅の道を歩むのではないかと危惧していた。

 そんな折りに現れたアーロンという逸材。ああ、息子も諦めてくれるだろうと喜んだ。だが、余りにも才覚溢れたアーロンは西へと旅立ち、忘れていた恐怖が蘇った。

 我が子が鬼になったならば、それを斬るのは親の役目。そんな業があって堪るものか。遠方より何とか養子縁組を取り付けた矢先に、息子が火と剣を組み合わせた殺人剣を編み出した。

 

『私達が愚かでした。貴方とちゃんと向き合わねばなりませんでした。私達の愚かさが……貴方が鬼になってしまうのではないかという恐怖に負けた心の弱さが……貴方を本物の「鬼」へと変えてしまった』

 

 これを憶えていますか。母が懐より取り出したのは絵だ。幼子が描いた拙い、だが確かに父母だと分かる絵だ。

 

『貴方は絵師になりたがっていた。だけど、跡継ぎである貴方にそれを許すわけにはいかなかった。筆を取り上げ、剣と書を押しつけた。だから……だから、せめて「鬼」となる前に、貴方の願いを……』

 

 何だ、これは? 母は何を言っているのだ? では、私を破門にしたのは、幼き日の私の願いを叶える為だというのか。

 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな! もはや幼き日の夢など忘れた! 私は家を継ぐ為に全てを注いできた! それなのに、勝手に鬼になると恐れ、勝手にアーロンという跡取りを見つけ、勝手に養子を取り、勝手に破門にし、勝手に夢を追えと放逐したというのか!?

 気付けば母は血溜まりに倒れていた。絵は炎によって灰となり、母の屍を踏み越えて扉を開き、そして封印された災いの火……鬼火を守る暗闇の縦穴を見下ろした。

 身を投じた闇の中で思い返した。

 父に褒めてもらいたかった。母に笑ってもらいたかった。

 

『ほう。存外に絵心があるではないか』

 

『まぁ、本当に。お上手な事』

 

 ああ、もう願いは叶っていたのだ。幼き日に、忘れていた過去の彼方に、父は褒めて認めてくれていた。母は笑ってくれていた。

 私が家督を継がんとした日から、父と母を苦しめていたのだ。

 どうすれば良かったというのか。どうすれば正しかったというのか。どうすれば……どうすれば……どうすれば!?

 

 ああ、足りぬ。

 

 まるで足りぬのだ。

 

 きっと『それ』さえあれば辿り着けるのだ。

 

『もっと「力」を……!』

 

 封じられた災いの火……鬼火を我が物として受け継がれた剣と1つにする。その極みの果てに至るのだ。

 

 

 

 

 

「おぁああああああああああああああああ!」

 

「はぁああああああああああああああああ!」

 

 互いの最後の全力。もはやどちらもあと一太刀で倒れるだろう。

 もはや己の名を思い出せぬ剣士は鬼火を解き放ち、不動明王を操り、剣戟で火花を散らす。対する若人は異形から元に戻り、鬼火の大刃から元の絡繰り仕掛けの剣になって斬りかかる。

 地力はこちらが上。持久もこちらが上。膂力は不動明王込みならば拮抗。速度では負けるか! 剣士は剥き出しの感情を乗せた顔で吼え、鬼火の刃を周囲に解き放つ瑠璃の渦雲渡りを放つ。

 

『これぞ渦雲渡り。遙か古、我らがこの地に至るより前、雪に閉ざされた谷間で受け継がれた秘剣よ』

 

 本来ならば己の体のみで神速に至った刃で真空波を巻き起こす。それこそが渦雲渡りだ。だが、鬼火と融合したことで本来の極みが失われてしまった。もはや元の渦雲渡りを如何にして放つのか思い出せない。

 不動明王の剣が振るわれる。だが、若人は身を屈めて躱し、続く鎖を曲芸の如く避け、放たれた鬼火を瑠璃の刃で相殺する。

 どうしてだ? どうしてだ? どうしてだ!? どうして某は得られなかったのだ!? 父はアーロンには教えたのだろう。一子相伝の秘技を……気刃の極意を伝えたのだろう。

 欲しかった。教えて欲しかった! 鬼火を得ても辿り着けなかった!

 互いに満身創痍。次が最後と分かる攻防。剣士が繰り出すの月下轟々。回避不能の鬼火の雨だ。

 だが、そうはさせぬと若人は瑠璃の刃を放ち、更には左手に仕込まれた太矢を放つ。不動明王がそれを防ぐも、炸裂した太矢が煙幕となって若人を失う。

 何処だ!? 何処にいる!? 剣士は目で追いかける。鉤縄を使い、柱の金具を利用して宙を舞う若人を捉える。

 月下轟々では間に合わぬ! 切り替えた剣士は鬼火を放って鉤縄を焼き切り、宙に投げ出された若人に不動明王の鎖を振るう。だが、若人は鎖が当たる直前で太矢を放ち、その爆発で体を吹き飛ばして逃れると着地し、最後の力を込めて間合いを詰める。

 だが、剣士は聞き逃さない。太矢を放つ左腕の絡繰り、明らかに壊れた異音が聞こえた。もはや使えない。迫る若人に、剣士は礼儀も敬意もなく、『力』を求めた鬼として刃を振るわんとする。

 瞬間、若人の左手が印を組む。見逃さない。霧となって逃れる術だ。薄井の森に似た力を持つ猛禽がいると聞く。攻撃が当たれば特異な羽根で霧となり、姿を隠す御業を持つと。

 印を組んでから短時間しか発動を維持できまい。印を組んでいる間ずっと使えるならば、左手は印を組み続けていれば無敵だからだ。直前で刃を止めた剣士に若人は目を見開き、間合いを取った剣士は若人の印が崩れた瞬間に不動明王の剣を振り下ろす。

 だが、若人は霧となる。黒い羽根を散らして霧は剣士を突き抜ける。そして、霧化の最中にばら撒かれた羽根が鬼火を発して焦がす!

 幸いにも鬼火に耐性がある剣士では致命傷に至らない。だからこそ鬼火の煌めきは混乱を助長する。

 何故? 何故だ? 何故に霧化できるのだ!? 混乱した剣士は、だが1つの答えに行き着く。

 

(……騙りか! よもや『印を組まねば発動できない』と騙す為に、わざわざ手間をかけていたのか!?)

 

 光を帯びた突きが自身の背後から迫っているのを感じた。剣士は極限の状態で僅かに熟達の先読みが機能し、若人の必殺を受け流すことに成功する。

 この技、外せば大きな隙があるとみた。若人は突きの体勢のまま硬直している。それは僅かな時だろうが、がら空きの首に剣士は刃を振るおうとして、だが間合いの外……思わぬ突きの威力で押し流されていたと悟る。

 これでは刃が届かぬ! 鬼火を纏わすのも間に合わない! 焦る剣士は、だが父が最期に見せた刃を思い出す。

 

 鬼火ではなく気刃。刀身を走った青白い光は刃となって解き放たれた。

 

 呆然とする若人の首が気刃によって切断される。

 

「卑怯とは言うまいな」

 

 鬼火の剣を極めようとした身でありながら、切り捨てた父より受け継がなかった秘伝を土壇場で会得するとは……因果なものだ。剣士は念には念を入れて、回生の力を持つ若人の肉体を鬼火で燃やし尽くそうとする。

 その念入りな始末の思考が仇となった。

 落ちていく若人の首、それを他ならぬ若人の手が頭髪を掴み取り、己の傷口に押しつけたのだ。

 瞬間に剣士は思い返す。気刃が命中する寸前、若人の首は切断される前に『分離』したのだ。

 何故? 分からない。剣士には分からない。だが、それこそが若人の持つ鬼札だと悟ったのは、人とは思えぬ、まるで猿のような咆吼が若人の口から放たれた時だった。

 波動は剣士の全身を蝕み、そして吹き飛ばす。血肉を抉り取っていく。

 最期は剣技では無く妖術で倒れるか。剣士は背中から倒れ、右手に握るカタナが塵となっていくのを見届ける。

 

「…………」

 

 若人に賞賛を残そうとしても声はもはや出ず、視界はぼんやりと薄れていく。

 

 

 

 父上、貴方のようになりたかった。先祖より受け継いだ使命を全うする剣士でありたかった。

 

 母上、貴方のようになりたかった。優しくも厳しく、多くの人を温かく導ける者でありたかった。

 

 アーロン、貴方のようになりたかった。貴方の『力』は余りにも眩しすぎて、貴方の語る『夢』は余りにも美しかった。

 

 

 

 薄れる視界の中で、首を接合した若人が見下ろしているのに気付き、薄く笑いかける。

 ああ、剣を交えたから分かる。彼もまた自分と似て非なる、だが鬼の道を歩んでいるのだろう。その先は何1つ報われず、失われるばかりだと知らないのだろう。

 いや、あるいは既に悟っているのか。右目の蕩けて崩れて黄ばんだ瞳は静かに剣士の死を看取らんとしていた。これこそが自分の末路だと永久に憶えようとしているかのように。

 だからこそ……鬼の道を進んだ先達だからこそ、剣士は散りゆく中で最後の力を振り絞る。

 どうして自分の守護霊が不動明王なのか。本当は分かっていた。

 自分は悪鬼なのだ。討たれるべき鬼だったのだ。崩れゆく不動明王は剣を手放し、それは真っ直ぐに剣士の胸を貫いた。

 鬼となり、だが穴蔵に隠れ潜んで刃を研ぐばかりで前に進めていなかった。その挙げ句がこの様だ。『力』を求めても、手に入れられるだけの器を育てられなかった。

 

 たとえ、鬼の道を歩むとしても、自分のようにはなるな。剣士は無言で若人にそう伝えると己の鬼火によって焼き払われた。

 

 

▽     ▽      ▽

 

 

 勝負は既についていた。だが、それでも無名の剣士は自らの瑠璃火で散ることを選んだ。

 何を伝えたかったのか、エイジには理解できた気がした。言語化はまだ無理だが、伝えたかった想いだけは今のエイジならば受け止められた。

 

「ぐっ……!?」

 

 全身の傷口が開き、エイジは片膝をつく。最後の蝋燭は消える間近であり、あと10秒と時間は残っていなかっただろう。

 霧がらすは印を組まねば発動しないというフェイク、そして首無し獅子猿からラーニングした【猿狂】。この2つのカードが無ければ倒しきれなかった。特に最後の、無名の剣士が放った瑠璃火ではない斬撃を飛ばす攻撃には肝を冷やした。ギリギリで攻撃の軌道に首を差し出し、欺くタイミングで猿狂を発動できたのはギャンブルに等しい綱渡りだった。

 

(印を組まないと霧がらすが発動できないんじゃない。印を組まないと精度が落ちるんだ)

 

 印を組むのはいわゆる発動のルーティーンだ。これで霧がらすの発動を体に染み込ませる事でタイミングをコントロールしているのである。単純に才能不足を補う術だった。

 故の1発勝負。出来るか否かの瀬戸際の戦いだった。印無し霧がらすと欺き猿狂。どちらも成功しなければ勝てない強敵だった。

 だが、不思議と無名の剣士は『強者』ではないような気がした。実力は確かにその域に到達いていたはずだろうに、何故かそう感じてしまっていたのは、彼の最期で理解できた。

 戦いの記憶を手に入れたエイジは崩れる世界の輪郭を見届ける。

 

「まーたボロボロだな!」

 

 そして、転移後すぐに視界を占拠したのは、エイジの帰還を待ち侘びていた様子のムライだった。

 思わず渋い顔をしたエイジの頭に、幼体化したノイジスが着地する。

 

「やったぜ! やったぜ、エイジちゃん! よくあんなバケモノを倒せたな!?」

 

「ほほーう。やっぱり無名の剣士は凄腕だったか。そりゃそうだよな。お前が300日間近く毎日のように戦いを挑んでは、第1段階も突破できなかった相手だからな」

 

「……うるさい」

 

 脱力して腰を下ろしたエイジは煙を上げるダーインスレイヴと壊れた左籠手のクロスボウ機構を見比べる。

 察したムライはエイジの左腕を掴み、そして嘆息する。

 

「コイツはここまでだな。修理は無理だ。剣の方は……仏師殿!」

 

 呼びかけられて手を止めた仏師は気怠そうに目を向け、エイジに持ってこいと無言で告げる。

 ダーインスレイヴをじっくりと観察した仏師は静かに首を横に振った。

 

「絡繰りがイカれておる。直すには別の素材が必要じゃ」

 

「この前の指はどうだ?」

 

 エイジがアイテムストレージから指を差し出すが、さすがに無理だと仏師は嘆息する。

 

「使えぬことも無いが、この指はできて『繋ぎ』。せめて、核となる『指輪』があれば……な」

 

 ジロリと仏師がムライを睨めば、彼は溜め息を吐くと頭を掻く。

 

「ちょっと待ってろ。エイジ、お前は休んでろ。後で治療してやる」

 

 獅子猿戦同様にエイジはボロボロだ。だが、エイジは精神の余裕を取り戻す為にも速急に装備の補填が必要だった。

 ダーインスレイヴのエンジンと外装ブレードは限界を迎え、クロスボウ機構が破損して使用不可。影瑠璃発動の為の闇の重油貯蓄カートリッジもゼロだ。

 焙烙玉や鉤縄は残っており、丸薬や薬水も余っているが、こうもネームド戦が連発すれば使い切るより前に生きるか死ぬかの戦いである。

 

「お前さん、知ってるか?」

 

 悩むエイジに、仏師は到達に尋ねる。

 

「この寺は……隙間風が酷い」

 

「……分かった」

 

 エイジは荒れ寺を出ると仏師が彫った仏像を山積みにした壁側・・・・・そこにある亀裂の反対側へと向かって息を潜める。

 ノイジスも空気を読んでか、名に反して口を閉ざしている。いや、正確に言えば、エイジが更に両手で彼の嘴を押さえ込んでいた。

 

「あれ? エイジは?」

 

「小川で傷を洗ってくるそうじゃ」

 

「そうか。ほらよ、【泣き虫】だ」

 

 ムライが仏師に投げ渡したのは小さな木製の指輪だ。指輪の穴はエイジが手に入れた細指にマッチするだろう。

 ならば猿に喰われたくノ一の指輪か。それをどうしてムライが持っているのか。疑惑が生まれる中で、仏師は指輪を受け取るとダーインスレイヴに合わせる。

 

「これなら使えるじゃろうて。図面を起こせるか?」

 

「時間をくれ。性能は落ちるだろうが、あと『3戦』分は何とか耐えられるように直す」

 

 3戦? 残るは般若の記憶のネームドとコドクだけだ。まだ他にもネームドがいるのかとエイジは身構え、またムライが何を知っているのかと身構える。

 

「……消えねぇんだろ、怨嗟の炎は」

 

「消えぬ。抑えておるだけじゃ。じゃが、それも限界じゃろう。『6つ』の守りはいよいよ外れ、儂の記憶が溢れ出す。鬼火の抑えが消えれば怨嗟の炎が蘇るじゃろう」

 

「俺が斬る……って、言ってやれれば良いんだがな。この指輪を手に入れた奴をぶっ殺したのも、酒で眠ってる間に縛り上げたお陰だしな」

 

 ムライが泣き虫の指輪を指で弄りながら嗤う。

 6つの守りと泣き虫の指輪。エイジはもしやと考える。蠱毒の穴……荒れ寺が挑めるネームドは6体だったのではないだろうか。そして、エイジの到着前に誰かが1体を倒し、その誰かをムライが暗殺したのではないだろうか。

 

「お前さんの失敗は、あの坊主が隙を見せなかったことか? もう彼奴は止まらん。最後の守りを倒すじゃろうて。目を見て分かった。あれは自分の牙の使い方が分かっただけじゃねぇ。牙の『極み』に至る切っ掛けを得た。彼奴は強くなる」

 

「……だな。何だかんだで俺にも隙を見せねぇしな。最後に薬を盛って殺せるかどうか……いや、違うな」

 

 ムライは恥ずかしそうに嗤う。

 

「俺はまだ負けていないって足掻く『フリ』をしているだけで、もうとっくに負け犬だ。エイジは『良い奴だった』んだろうな。捨てちゃいけないモノを捨てて『力』を手に入れた。結果を出していった」

 

 ムライは泣き虫の指輪を握った右手で拳を作って見つめる。

 

「なぁ、仏師殿。アイツはアンタと同じで『鬼』になるのか? 修羅って奴に墜ちるのか?」

 

「……修羅ばかりが鬼ではない。じゃが、鬼の道を選び、進んでおるのは確かじゃ」

 

「そうか。だったら、せめて、俺は……アイツが鬼の道を進む『苦しみ』になりたくねぇよ。俺みたいな本物の負け犬とは違う。傷だらけになっても前に進む事を選んだ。今も1番の『敵』と向き合えていない俺とは違って、たとえ正道ではなくとも、光が当たらぬ道だとしても、進み続けるアイツの邪魔に……なりたくねぇんだ」

 

「気兼ねなく殺される為に『悪党を演じる悪党』か。まぁ、それも良かろう」

 

 ムライは去って行く。エイジは息が出来ずに青い顔をしているノイジスを解放し、荒れ寺に戻る。

 

「盗み聞きさせて……どういう、つもりなんだ? 僕は……!」

 

「『知りたくなかった』ならば聞かぬじゃろう。お前さんは『知りたかった』んじゃ。彼奴の本音が……な」

 

 仏師の核心を突く正論にエイジは黙る。黙って腰を下ろし、仏を彫る仏師の音色に耳を澄ます。

 

「仏師殿、最後の記憶を打ち破ったら……どうなる?」

 

「…………」

 

「どうなるんだ?」

 

「その時が来れば、分かるじゃろう。じゃが、頼めるならば……」

 

 仏師は仏を彫り続ける。手を止めることなく、1つ1つに念を込めるように。それは過去の悔恨か、現在の責任か、未来への信託か。

 いいや、いずれでも無い。エイジには仏師がどうして仏を彫るのか分かった気がした。

 

「お前さんが斬ってくれ」

 

 エイジは無言で応えた。

 ああ、時間とは残酷だ。エイジは荒れ寺を見て、どれだけ時が経とうとも太陽も月も見せぬ灰色の空に吐息を漏らす。

 無心で殺すには、ムライにも、仏師にも、余りにも接しすぎた。

 だからこそ、己の内で湧き出す憎悪にこそ憎悪するのだ。彼らに抱くべき感情さえも塗り潰すが故に。




鬼の書・下に続く。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。