SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

カーチェイスして大災害


遅れながら更新させていただきます

お詫びとなりますが、英雄、鬼、獣……3つの書を準備しました。

いずれから読んでもOKです。ある書では分からなかったことが、ある書では分かる……といったことがあるかもしれません


Episode21-12 アクイ ノ モノガタリ 英雄の書

 地獄。それは多くの場面に扱われる比喩である。

 命を奪い合う戦場はまさしく地獄と呼ぶに相応しいだろう。心身共に追い詰められる多忙も該当する。他にも様々な状況において多用されるこの単語は、繰り返し使用する事によって眼前と予感する苦痛と苦悩を緩和させる、ある種の自己暗示なのでは無いだろうか。

 そして、今まさに地獄という単語1つでここまで現実逃避しなければならないこの状況も、また地獄と呼称しても何らおかしくないはずである。レコンはそう考える。

 場所は戦場? いいや、違う。数少ない安全地帯であるはずのマイホームだ。

 立地条件は素晴らしい。広大な農地を有し、荘厳たる霜海山脈を望むこともでき、また雪解け水が近辺の川まで清流を届けてくれる。やや古めかしいが、貴族の別荘のような小さな館は個々人のプライベートを尊重するだけの部屋数は揃っており、また備え付けのボイラーのお陰でいつでも温かい風呂に入る事が出来る。問題点と言えば水道が引かれていない為に、適度に生活水・飲料水を外付けタンクに補給しなければならないくらいだ。

 プレイヤーの過半が望んでも得られない素晴らしいマイホーム。大ギルドの上位プレイヤーでもそう簡単には得られないだろう。金に糸目をつけずとも、DBOにおいて好立地の物件は数が限られているのだから。

 だがマイホームは地獄と化した。

 10人で囲んでもなお余裕があるテーブルさえも配置できる広い食堂。談話室や厨房とも隣接しており、いざという時には会議室にも早変わりする。

 そこで並んで正座するのは背丈が異なる4人。キリト、リーファ、シリカ、ミョルニルである。

 正座する4人の前で眉間に皺を寄せ、銀フレームの横長眼鏡のブリッジを静かに指で位置を正しているのはスゴウだ。ただし、その右頬は大きく腫れ上がっている。そして、彼の後ろでは椅子に腰掛けて耳まで真っ赤にして俯くユナの姿があった。

 キリトは我こそ罪人とばかりの渋い表情。リーファは屈辱に塗れた涙目。シリカは誤魔化すような目逸らし。ミョルニルは……明日の朝食は何だろうかと考えているような脳天気な顔だった。

 

(地獄だ)

 

 事の発端は先日、シリカとミョルニルを連れてキリトが帰宅した頃まで遡る。

 シリカと彼女の助手……と名目上はなっているレギオンのミョルニルは長期の密着取材をキリトに行う事になった。キリト曰く、アスクレピオスの書架も良いアピールになると快く認可してくれたらしく、またレコンとしてもレギオンと交渉の場を設けたキリトとシリカのお手柄には賛辞を送った。

 だが、面白くなかったのはリーファである。何せ、キリトとシリカは同じ寝室を利用する事になっていたからだ。

 猛反対したリーファであるが、キリトが契約に同意したと勝利の笑みで告げ、キリトも苦々しい顔で肯定した。この時点で、リーファは彼女が愛する兄を卑劣な罠をかけたのだと悟り、軽い言い争いになったが、温厚・平和主義のユナが何とか場を納めて事なきを得た。

 だが、まるで斜面を転がる雪玉のように日に日に問題は膨れ上がっていった。

 まず、キリトは何かと理由をつけて、同性……レコンやスゴウの部屋に潜り込む事になった。大半は明日の探索に関する擦り合わせやスゴウの見張りという名目である。もちろん、レコンもスゴウもキリトの無言の救援を察しており、快諾とはいかずともそれとなく彼に話を合わせた。

 次に入浴である。具体的な被害者はレコンであり、タンクとしてのガード技術向上というお題目でキリトによる強制訓練が実施された。もちろん、何処かの兄妹みたいに高VR適性では無いレコンからすれば、昼間の探索で疲労が蓄積しており、とてもではないが訓練に全力投入できないのであるが、他でもない『盾殺し』に秀でたキリトからの直接指導はレコンにとっても魅力的であり、好意的に受け止めた。

 だが、キリトの狙いはレコンを汗塗れにすることにあった。レコンは訓練時も実戦同様にフルメイルであり、キリト相手のハードメニューでは、終わる頃には汗ですっかりベタベタになってしまっている。

 するとキリトは決まって良い笑顔で男の裸の付き合いだと肩を組み、風呂に連れ込むのである。レコンはどちらかと言えば1人風呂でゆっくり浸かりたい派ではあったが、風呂で聞けるキリトのSAOの話はなかなかに刺激的であり、特に不満も無かった。

 だが、今夜は少し事情が違った。訓練後、レコンが部屋に着替えを取りに行った時、パトロンを担ってくれる玄武軍艦より連絡があったのだ。従業員の雇用や酒蔵の建設、将来的な市販ルートについて話し合いたいと打診があったのだ。

 キリトには悪いが、相手の印象もあるので速急に対応しなければならない。レコンは先に風呂場に向かっただろうキリトに一報を入れようかとも思ったが、所詮は風呂である。キリトもレコンほどではないにしても出汁がとれそうな程に汗を掻いていた。わざわざ連絡せずとも先に風呂に入るだろうと、キリトの隠れた目論みを軽視した。

 自分に落ち度があったとするならば、この1点だけだ。敢えてもう1点あるとするならば、玄武軍艦とのやり取りが長くなりそうである場面をシリカに目撃されてしまっていた事だろう。

 そこからはもはや雪崩の如き悲劇、あるいは喜劇、だが……やはり悲劇だった。

 先に風呂に入ったキリトは湯船で鼻歌交じりにレコンを待っていた。レコンがアインクラッドのあれこれについて尋ねてくるので、事前に『楽しかった思い出』を語るべく記憶を準備していた。

 湯気で満ちた風呂場の戸が開く。キリトは満面の笑顔でレコンを迎えるつもりだったのだろう。そうだったに違いないとレコンは確信している。

 だが、風呂場に現れたのはシリカだった。もちろん、服を着て入浴するはずもない。つまりはそういう事である。

 ここで素直に退出すればいいものを、弱みでも握られているのか、あるいは悲鳴を上げるぞとでもほぼ無意味に等しい脅しをかけられたのか、キリトはシリカと風呂を共にすることになった。

 これを察知したのはリーファである。レコンも匙を投げる程度にはブラコンを拗らせ過ぎた妹は、あろうことか、シリカを止めるという大義名分で武装して自分もまた風呂場に突撃したのである。もちろん、リーファもまた全防具解除である。風呂だから当然である。

 更にシリカが入浴中だと把握するや否や、ミョルニルも風呂場にダイナミックエントリーした。プールでは無いのだ。一糸まとわぬ姿こそが入浴マナーである。

 レコンは湯気でモザイク処理がかかったその光景を想像する。数多の男も羨む桃源郷だろう。レコンも想像限定ならばキリトの顔面に右ストレートをお見舞いしても誰も文句は言わないだろうと断言できるくらいにパラダイスだ。

 まずはシリカ。年齢不相応の幼い体つきで、胸部は特に慎ましいが、キリトを手玉に取れる魅了と策謀を駆使する小悪魔だ。その愛らしさは『【黒の剣士】の愛人』という噂さえなければ、少なくない数のプレイヤーがアタックしているに違いない。またキリトが絡まなければ常識人かつ何かと気配りのできる性格である点も大きな魅力だ。

 次にリーファ。キリトに似た黒髪を剣道少女らしく爽やかに、だが女性らしさを残したショートカットはよく似合う。シリカとは別方向のスポーティな健全な愛らしさが際立つ顔立ちであり、学友でもあったレコンは彼女がどれだけ男子の人気を集めていたのか嫌という程に知っている。何よりも凶悪すぎる胸部装甲は男である以上、決して目を逸らす事が出来ない天上の果実である。

 最後にミョルニル。10歳前後という禁忌の幼さでも突き刺さる将来の期待度SSの外見。愛すべき馬鹿っぽさが全面に出た無邪気さ。真夏の太陽を田園風景馴染む田舎で目一杯に浴びたような小麦色の肌。野性的なボサボサの髪さえも都会に汚されていない子供っぽさとして魅惑となる。

 こんな3人と風呂を共にする。断罪だ。裁判無しで処刑台送りだ。ギロチンなどという優しい処刑具は使わせない。古き良き作法に乗っ取り、首から下は生き埋めにして、じわじわと鋸で首を削り切るべきだ。

 だが、同時にレコンには痛いほどに分かる。キリトはネジが外れた部分もあるが、ゲーム関係を除けば健全な人物だ。これまでの会話からも男性として終わっている訳でもなく、年相応に猥談にも好意的に乗ってくる。むしろ、男同士でそうした馬鹿話をする事にある種の憧れすらも垣間見える。

 だが、良識ある人物なのだ。男同士で猥談に盛り上が過ぎて、女風呂でも覗いてやろうかなどという男子最低連呼不可避をやりかねないとしても、個人であるならばむしろ健全のど真ん中を突き進む人物だ。

 男1人で、それも妹まで交えて女3人に風呂で囲われる。ああ、さぞかし生きた心地がしなかっただろう。どうにかして逃げ出さなければならないとネームド戦以上に策を巡らしたかもしれない。あるいは、聖剣にすいら救援を呼びかけていたのかもしれない。

 だが、現実は非情だった。談話室の暖炉前で読書をしていたユナは、偶然にも脱衣所に駆け込むリーファの姿を目撃してしまっていたのだ。

 リーファは何かとユナを風呂に共にしないかと誘う。故に彼女は知っていた。リーファは1人風呂を好むのではなく、むしろ人と語り合いながら湯を楽しむタイプなのだと。また、リーファがここ最近では特にスゴウに対して神経質になっていた事からも、心配して風呂で話を聞いてあげようとでも仏心を出してしまったのかもしれない。

 ユナに問題点があるとするならば、脱衣所でキリトの服に気付かなかった点だろう。だが、それも致し方ないというものであった。すでに脱衣所には4人分の衣服があり、なおかつキリトのものは目立たない黒色だったのだ。

 風呂の戸を開けたユナは硬直した。したはずだ。レコンも具体的には知らない。だが、救いがあったとするならば、無駄に湯気が多く、またユナがタオルで正面に持って胸等を隠していた事だろう。むしろ、その方が……ともレコンは思うが、それは個々の好みである。

 ユナが目にしたのは『女の子3人を風呂で侍らせるキリト』であった。自分がとんでもない場所に来てしまった。羞恥は彼女の声を許さぬ喉を震えさせただろう。

 世の無常にして無情。ユナは皮肉にも悲鳴を上げられない。本来ならば、ここでキリトはユナを『口封じ』さえしてしまえていれば、その後の展開を抑えることができたはずだった。

 だが、善意は牙を剥く。入浴中とは武装していない無防備だ。周囲に民家も無い農園の館において、相応の防犯設備は必須であるが、投資が間に合っておらず、レコンはボイラー増設時に非常用ベルを浴室の壁に設置していた。引き紐タイプであり、誤って掴んだくらいでは鳴らないように、力か体重をかけなければ起動しないはずだった。

 羞恥と混乱でユナは後ずさり、浴室で滑ったユナは咄嗟に非常用ベルの引き紐を掴んでしまった。

 館に鳴り響くけたたましいベル。レコンは飛び跳ねて即座に武装したが、彼は2階の自室であり、風呂場までは距離があった。だが、食堂のテーブルでいつものように、明日の探索場所の資料を纏めていたスゴウは風呂場まで最も近かった。

 スゴウは知らなかった。彼は訓練を終えたキリトが風呂に向かうところを目撃していたが、その後の女性陣の動きを把握していなかった。よもやトッププレイヤーの中の最上位、最強プレイヤー候補にして聖剣の使い手であるキリトを襲撃するならば、武器・防具共に外してある入浴中は最も成功率が高いのは火を見るよりも明らかだった。

 スゴウはキリトの危機であると慌てて、それこそ脱衣所に女性の服が折りたたまれているなど確認する暇もなく、浴室の戸を勢いよく開いた。

 そして、地獄の扉は開かれた。女の子3人に囲われながらもユナに待ったをかけるべく男の象徴を両手で隠しながら湯船で立ち上がったキリト。思考がバグを起こして尻餅をついた涙目にして顔を真っ赤にし、体の全面だけを濡れたタオルで隠してるせいで余計に色気が増したユナ。これらを目撃したスゴウは、持ち前の優秀さで辛うじて状況の半分……驚嘆すべき事に半分も把握してみせた。

 同時にスゴウは自分もまた危機的状況であると察知した。多量の湯気があり、薬湯のお陰で湯船のお湯は色つきであるとはいえ、女性の全裸を3人、9割裸を1人を目撃してしまったのだ。そして、自分とキリトは同じ男であっても立場も好感度も異なるとなれば、結末は1つである……と。

 レコンは素直にスゴウの胆力と賭けを賞賛する。彼は持てる才能と度胸と知識を総動員して窮地を脱しようとしたのだからだ。

 

『1つ忠告しよう。オープンエロは言うなればオンリーダメージ攻撃。それだけではボスを倒すのは難しい。その前に様々なデバフ・バフをかけなければ仕留めきれない。意中の男子を心ごと攻め落とすならば、恥じらう姿を見せて男心を擽るのは常道というものだ。あと、補足しておくが、これは非戦闘用眼鏡だから湯気で君たち姿はすぐに見えなく――』

 

 DBOならではのゲームに喩えての冷静・無興味アピール。そこから流れるような眼鏡を理由にした視認性悪化。スゴウはベストを尽くした。

 レコンも同意する。恥じらう姿は確かに心を鷲掴みにする。レコンも体験済みだ。レコンの男心を決定的に仕留めたのは、ナギが唇を奪った後に見せた羞恥の赤色だったのだから。それこそが、彼に彼女を人やレギオンを超えた愛しき存在として決定的に認識させたのだから。

 スゴウは賭けに負けた。それだけなのだ。キリト相手ならば全裸で突撃できるリーファとシリカも、スゴウ相手では羞恥を炸裂させて混乱し、手近なもの……浴室の傍らの窓辺に飾られていた陶器製の竜の像まで含めて投擲したのだ。

 スゴウ、華麗に避ける……ことはできなかった。彼自身が前述したとおり、眼鏡が曇っていたのだから。竜の像で顔面にぶつけられたスゴウはノックダウンした。

 レコンがフル装備で脱衣所の戸を開けた時には、顔面血だらけのスゴウが脱衣所と浴室の狭間で倒れ伏していたのだった。

 

「私はキリトさんとの契約で混浴の許可を――」

 

「契約の有効性は認めよう。だが、この館の主は誰だ? 名義上はリーファさんになっているはずだ。実質的な管理者はレコンくんのはずだ。共同生活の場において、混浴という共有された常識としての風紀を乱す行為に及ぶならば、まずは彼らの同意を得るべきなのが筋ではないのかな? それとも、君は混浴が普通であると? ならば、今すぐにでも見ず知らずの男性と入浴してきて証明してくれ」

 

「……ですよねー」

 

 シリカ、撃沈。スゴウが眼鏡のレンズを輝かせながらの感情パーフェクトフラットの声で彼女は沈黙した。

 

「そ、そもそも貴方が確認もせずにお風呂に入ってくるから――」

 

「つまり、君は入浴中の危険を見越したレコン君の心遣いも罵倒し、非難する。そういうことだね? それとも、非常用ベルといった危機を報せる装置が発動した場合、君はいついかなる状況であろうともまずは無視すると? それで仲間が死んだ場合、君は今と同じ言い訳を墓前に並べるのかな?」

 

「う……うぐ……ひぐ……!」

 

 リーファ、撃墜。理論武装したスゴウに感情型のリーファがアドバンテージ無しで勝てるはずも無く、敢えなく俯いて拳を握って泣くことになった。

 

「ハイハイハイ! アシタ、タンサク、オカシ、イクラマデ!?」

 

「500コルまでだ。詳しい探索場所の資料はこちらに。情報不足の土地なので、デバフ解除アイテムや非常食を多めに持ち込むことを推奨する」

 

「リョウカイ!」

 

 ミョルニル、平常運転! そもそも裸体を見られようと何だろうと動揺無し! そもそも混浴がどれだけ男女において接近を意味するのか理解しているかも疑問が残る反応である。これはレギオンの個々の情操度合を比べる大きな情報であるとレコンは分析する!

 

「皆を責めないでくれ。俺が悪いんだ。俺が最初から契約を履行していれば……いいや、さっさと風呂を出ていれば……!」

 

「消極的合意の下で行われた混浴程度で目くじらなんて立てない。怪我については思うところもあるが、彼女たちにも最低限の羞恥心があって良かったと好意的に受け入れよう。だが、仮に君が弁解と釈明を望むのであるならば、その相手は私では無い。違うかな?」

 

「……はい」

 

 キリト、ガードブレイクからの瀕死……総合リザルト:E! 女性陣を庇い、また自分の責任を言及するまでは良かったが、スゴウが自分に対する仕打ちを不問とするならば、彼が真っ先に誠意を尽くすべきはユナである。

 

<私は気にしてないよ。幸いだけど、タオルで隠してたし、キリトの方もお湯で隠れて見えなかったし>

 

 自分に槍の穂先が向いたと察知し、ユナは慌ててスケッチブックに書き殴る。

 うん? 聖人かな? それとも、いつものようにキリトさんに対して好感度カンスト済みで上限突破待ちなのかな? レコンはユナの心理状態を判別できずに悩んだが、即座に放棄した。聖人メンタルかつ好感度カンストという複合型なのだろうと諦めたからである。

 

「何でも言ってくれ。どんな賠償だろうと応じるつもりだ!」

 

<要らないよ! 今回のはただの事故だから!>

 

「そうだとしても、ごめん! 俺は軽率で、意気地なしだった! 恥も外聞もなく皆に説明して、シリカを説得してもらうべきだった!」

 

 キリトの謝罪に、シリカは憤って立ち上がる。

 

「待ってください! それだと私が悪者みたいじゃないですか!」

 

「貴女が悪者なのよ! お兄ちゃんを罠にかけて同衾と混浴のダブルアタックをかけようなんて、焦ってるのか何なのか知らないけど、仮にも何もお兄ちゃんと1番修羅場を潜ってるのは貴女なんだから堂々とアプローチをかけなさいよ! 卑怯ったらないじゃない!」

 

 即座に追い打ちをかけるリーファに、シリカは歯を剥き出しにする

 

「焦りますよ! 焦るに決まってるじゃないですか! 私に依存してもらえるように、どれだけ時間をかけてキリトさん駄目人間化計画を進めていたと思うんですか!? それなのに、最近はクゥリさんだけじゃなくてラジードさんまで! 男が……よりにもよって男の方がキリトさんを奪っちゃいそうな勢いなんですから!」

 

「ちょっと待て。俺の駄目人間化計画って何? 何? 何なんだ!?」

 

 地獄だ。レコンはもう自分の手では解決できない案件であると諦観に至る。なお、キリト駄目人間化計画は今更になって言及する必要性など微塵もなかった。

 

「そう言うリーファさんだって焦ってるんじゃないですか!? 大好きなお兄ちゃんを取られそうになって! ねぇ!? 私みたいにキリトさんを長年サポートしてきた実績があるわけでもなく、マユさんみたいに装備の生命線を握っているわけでもなく、シノンさんみたいに射撃援護で相性バッチリでもない! そこに優しくて可愛くてヒーラー・バッファーのユナさんまで登場して自分のポジションが行方不明で危ういと焦ってるんじゃないですか!」

 

「フッ! 誤情報に踊らされて滑稽ね! ユナさんは違いますー! いつもみたいに、お兄ちゃんに好感度は高いけど、幼馴染くんがいますー!」

 

「笑止! 幼馴染属性は負けフラグ! これは科学的に証明されているんです! ウェスターマーク効果をご存じないんですか!?」

 

「ハァ!? ウェスターだかウィンチェスターだか知らないけど、2人の全てを知ったように決めつけるの、よくないと思うなー!」

 

 ああ、ついにユナさんに飛び火してしまった。スゴウは言うべきことは言ったとばかりに明日の資料の最終チェックを始め、ミョルニルはお菓子を並べて500コル分を選ぶのに苦慮している。ユナはスケッチブックにキリトには好意を抱いているが、それは友人にして仲間に対するものであると弁明して2人のヒートアップを何とか抑えようとする、火中に引きずりこまれても2人を仲直りさせようとする聖人っぷりだ。

 そして、あらゆる意味で修羅場の中心にいるはずのキリトが最も蚊帳の外とは、これ如何に? いや、いつもの事かもしれないとレコンは心中で溜め息を吐く。

 

(キリトさんも意中の人がいるならば、ハッキリとそれ以外を断っちゃえばいいのにな)

 

 レコン、余裕である。リーファへの恋心は散り、その後も引きずっていたレコンであるが、今は純粋に友人にして仲間に対する情愛である。リーファの願いを叶えたいという意思も、彼女の目指す場所に共に行く為に手を尽くすという覚悟も変わっていないが、愛する者は誰かと問われれば、コンマ1秒の遅れもなくナギの顔が浮かぶ。

 骨抜きにされている。レコンは窓の外の夜空を見上げ、彼女に会いたいと望む。言葉にしようと胸中だろうと願えば、いつでも何処でも現れるナギであるが、望んだ時に会えないもどかしさも悪くないとレコンは思わずにやける。

 だが、だからこそ分かることもあった。キリトの心中にはやはり今もアスナがいるのだろう。彼女が亡くなって時間も経ったが、どんな形であれ、改変アルヴヘイムで生きていたのは彼の愛する人の想いをより強く、また絶対のものに変えてしまったのかもしれない。

 愛とは呪いのようなものだとレコンは理解する。ナギに対する感情はまだ恋を抜けきっていないのかもしれないが、ナギからレコンに注がれているのは爛れるような恋慕にして透き通った大海の如き愛情だ。そして、それは自身の破滅も厭わないと彼女自身が宣言した。

 レギオンは軽口で己の存在意義まで持ち出した発言をしない。それくらいはレコンも分かってきている。脳天気にして無邪気なミョルニルでさえ、日々の言動の節々で契約や約束、己の発言を何よりも重視している様子が見られるからだ。

 考え方次第ではあるが、人間よりも遙かに与しやすい相手である。彼らは裏切りを極度に嫌い、自分たちの損害がどれだけ大きくなろうとも契約を履行し、死を厭わずとも約束を守る。取引相手としては最上と呼べるだろう。

 だからこそ、危うい。こちらの都合で裏切ろうものならば、レギオンの特性上、種族そのものを敵に回す事になるのだから。

 

「リーファちゃん、シリカさん、もう夜も遅いですし、明日は情報不足の土地の探索なんですから、そろそろ休まないと――」

 

「へぇ、そこまで言うからには根拠があるんですよね!?」

 

「ありますー! 幼馴染くんは何処からどう推測しても、ユナさんが大好きですー! 死んだと思った幼馴染が生きてるかもしれないって理由で怪しさ満点のDBOにログインして、クラウドアース所属なんていう特上の地位まで捨てて助けようとするなんて、幼馴染の域を超えたLOVEじゃないと説明つかないもん!」

 

「はー!? 友情軽視過ぎませんか! それ、クゥリさんを見ても言えますか!?」

 

「クゥリさんは例外でしょ! どう!? 否定できるの!?」

 

「……うーん、否定したいですけど、改めてそう言われると難しいですね。私も知ってますが、あの人……文字通りに死ぬ気を通り越してましたし、そもそも3大ギルドを敵に回して暴れるなんて馬鹿な真似までしでかすなんて、これは確かにLOVE判定も……!」

 

 はいはい、また明日にしようね。レコンは2人を引き離そうとした瞬間、乾いた紙が落ちる音は静寂をもたらした。

 ユナの手からスケッチブックが落ちた音だった。

 

「……あ」

 

 失敗した。リーファは顔面でそう語る。更に言うならば、シリカは何かを察知したようにキリトへと視線を送れば、彼もまた自分の落ち度を噛み締めるように手で顔を押さえていた。

 それらを見逃すユナではない。彼女は後方支援のバッファーにしてヒーラー。観察と状況分析は大前提である。故に見落とすことなく彼らの反応を拾い集めていた。

 状況が読めないのはレコンとスゴウだけだ。ユナに幼馴染の男の子がいて、彼と何らかの関係があってキリトに指導を受けさせてもらっている事くらいしか知らない。

 だが、日常で流せるはずだった言い争い、パンドラの箱ならぬミミックの宝箱を開けてしまったのは間違いなかった。

 

<エーくん、私の為に、どういうこと? 教えて>

 

 混乱しているのだろう。普段は丁寧に文章を書くはずのユナは、拾い上げたスケッチブックに感情のままに書き殴る。ユナニ迫られたキリトは顔を背ける。

 

「……言えない」

 

<どうして?>

 

「言えないんだ」

 

 キリトの回答は歯切れが悪い。付き合いもそこそこになったレコンは彼がこんな反応をする時は、自分の意思で隠そうとしているのではなく、別の誰かに口止めされているからだと察する。

 キリトの反応から事情を把握したらしいシリカは、ユナの目が向けられるより先にリーファの手を掴んで食堂から離脱する。リーファに事情を説明して口止めする気なのだろう。

 キリトは仲間思いではあるが、同時に頑固者だ。誰かに口止めされているならば、ユナが泣き落とそうとも語らないだろう。情報不足のレコンには誰がキリトに口止めしたかまでは断定できないが、話の流れからして、ユナの幼馴染が想像以上に危険な橋を渡った事は理解した。

 3大ギルドを相手取る。キリトも直情的な行動を取る場面はあるが、3大ギルドを敵に回すともなれば、さすがに理性が上回るはずである。何せ、目的を達成することができだとしても、個人では抗えない大組織を、それも3つ全てと敵対するなど、その場を凌げても待っているのは破滅だからだ。

 もしも……もしも、件の幼馴染が本当に3大ギルドを敵に回してまでユナに関する何かを為し遂げようとしたならば、それは友情であれ恋慕であれ何であれ、彼女は自分の命よりも遙かに大きい存在であったという証明に他ならない。

 

「青春……とは言い切れないのが苦々しいな」

 

 ユナはキリトに任せるしかない。レコンもその場を離れれば、同伴したスゴウは感慨深そうに呟いた。

 

「私に出来る事はないだろうか」

 

「無いですよ。あるとするならば、ユナさんのメンタルは間違いなく不調を起こしますから、明日は一段と彼女のサポートをお願いします」

 

「歯痒いな。何かアドバイスをしてあげたいとは思うが、私には誰かを愛したり、愛されたりした思い出が見つからない」

 

 自嘲するスゴウに憐憫の情を抱きそうになったのは、レコンが今まさに世界でも希有な程に愛されていると自覚できているからだ。

 

「好きな人はいなかったんですか?」

 

「アプローチをかけていた女性はいた。だが……不思議なものだな。どうして、そんな真似をしていたのか、思い出せないんだ。私の欠落した記憶は、主に私の悪性に由来するものだと考察している。ならば、およそまともな感情ではなかったのだろうな」

 

 レコンはスゴウを記憶喪失という前提で動いている。オベイロンの記憶は全て、須郷伸之の記憶は1部欠落している。だが、仮に本当に記憶喪失であるならば、レコンたちのせいで自覚してしまったスゴウにとって、全ての記憶は偽りであると受け取ってしまうのだろうか。あるいは、記憶を探れば探るほどに齟齬を見つけ、己が脆く醜い虚像であると感じてしまうのだろうか。

 

「……だったら、今から改めて、誰かを好きになればいいんですよ」

 

 同情では無い。同情では無いと信じたい。レコンは生前のサクヤを思い出し、深呼吸を挟む。

 

「僕達に証明してください。貴方は何者なのかを。僕たちが討たねばならない『やり残し』である『オベイロン』ではないのだと」

 

「……難しそうだな。君やキリトくんはまだ理性的に判断してくれそうだが、リーファさんは違う。私は……いつまでも……永遠に……変わる事なく大切な人たちを奪った仇なのだろうさ」

 

「…………」

 

 ああ、確かにそうあろう。たとえ、キリトとレコンがスゴウは安全であると判断しても、リーファだけは決して認めないだろう。

 リーファは直情で苛烈な部分もあるが、根本は仲間意識が強く、自分が関われた全ての人たちが幸せである結末を望む心優しい人物だ。そうでもなければ、DBOに『永住』するプレイヤー達の事を考えて農園経営を始めたいなど言い出すはずも無い。

 行き当たりばったりな部分も多いが、その多くが自分よりも他人の為であり、それが回り回って自分も幸せになれると思考を挟むまでもなく行動原理に組み込まれているタイプなのだ。

 リーファが何かを台無しにする時は感情が暴走して反射的・短絡的に行動した時くらいであり、それは兄妹の悲しき共通点と言えるだろう。それは感情を煮詰めるようにして策謀をしながら暴走するレコンとは異なるものだ。

 レコンは自覚している。自分はスゴウと……いいや、『オベイロン』と似たタイプだ。根底は何処までも利己的で、打算に満ち、理知的に振る舞おうとするくせに感情が常に表に出てしまう。小さなプライドに固執し、より大きな間違いを犯して、破滅が目前に迫るまで何が問題だったのか理解も出来ない愚者だ。

 それでも、そうだとしても、レコンは瞼を閉ざす。暗闇の中で見えたのは……月光。だが、それは聖剣ではない。血を浴びたような赤黒い髪を踊らせる、自分にあらん限りの愛の約束をしてくれたレギオンだ。

 

「貴方が今この瞬間、悪意を抱いているかどうかの判別なんて、僕にはできません」

 

「……そうだろうね」

 

「でも……演技だろうと何だろうと、さっきの貴方は……まるで本当に……笑い合って何もかも許せるような……仲間のようでした」

 

 4人が正座して、スゴウが説教して、レコンが見守り、ユナがフォローする。初めての光景であるはずなのに、肩の力が抜けるような『日常』を覚えてしまった。それが当たり前の光景であり続けますようにと願うように。

 

「もしも、貴方がオベイロンであるならば、本人ではなくともオベイロンの悪意と野望を受け継いでいるならば……キリトさんでもリーファちゃんでも無い。僕が貴方を殺します」

 

 レコンの決意に、スゴウは無言だった。何も語る事無く、自分に割り当てられた寝室へと向かう。それは急拵えでこそあるが、扉も窓も封じられ、外部から常に監視・盗聴される牢屋のようなものだ。

 どれだけ戦いで貢献しようとも、農園を軌道に乗せる手助けをしてくれようとも、スゴウの待遇こそが全てだ。だからこそ、レコンは先の瞬間を言葉にしたのだ。

 

「レコンくん、1つ忠告しておこう。人間はね、善意で行動していたつもりが、いつしか悪意にすり替わっている時があるんだ」

 

「……知ってます」

 

「いいや、君はまだ知らないさ。好意はいつしか嫌悪へと移ろい、憧憬は嫉妬に成り果て、賞賛は侮辱に取って代わる。人間は善意よりも悪意に従順でありたい生き物だ。1度でも変質を許してしまえば、後は転げ落ちるだけ。もう戻れない」

 

「……戻れますよ。僕は戻ってこれました」

 

 約束の塔で、レコンは浅ましく肥大化した自意識で殺人を犯し、自己肯定の為に他者の侮辱を並べた。だが、本当のレコンは違うはずだと、まだやり直せるはずだと、救ってくれたのはリーファだった。彼女がいたからこそ、レコンは贖罪の道を知り、今に至るまで生きてこれたのだ。成長することが出来たのだ。

 だからこそ、レコンはスゴウの言葉を重く受け止めている。

 もしも、来たるべき時、リーファかナギか、どちらかを選ばなければならない時、レコンはリーファの手を掴まないだろう。無論、彼女の危機には常に我が身を盾として応じる覚悟はあるが、リーファとナギのどちらかしか守れないならば、レコンは過去の誓いも捨て、人類への反逆も厭わず、ナギの味方をするだろう。

 ああ、それは人類からすれば悪意の塊だ。いや、そもそもレギオンを愛してしまった時点で、レコンは邪悪な存在として認定されてもおかしくないのだ。

 レコンの発言は上辺だけでは無い。確かな裏付けされた経験があると感じ取ってくれたのだろう。スゴウは眼鏡のレンズ越しで、何処か羨ましそうに目を細めた。

 

「だとするならば、君は幸運だ。誰かが繋ぎ止めてくれた。『君』を憶えていて、正しき道へと導いてくれたんだからね」

 

「確かに救われました。でも、何が正しいかは僕が決めます。善意も悪意も関係ない。僕は間違えようとも、傷つく事になろうとも、たくさんの苦しみを振りまく事になろうとも、『僕』を信じて愛してくれた存在だけは……裏切りたくないから」

 

「君は……本当に……凄いな。君ならば、知識と経験さえ身につければ、私なんてすぐに要らなくなるだろう」

 

「不相応に傲慢で現実が見えていないだけです。僕は『似てる』んですよ」

 

 レコンの自虐の笑みに、スゴウは『誰』と似ているのか理解できない様子だったが、それでいいとレコンは吐息を漏らす。

 

「でも、そんな僕も自分の器くらいは理解してます。知識は無い。経験も無い。もちろん、才能も無い。何をとっても超一流には絶対に敵わないのが僕だ。誰にも負けない武器は持っていない」

 

 知略も、経営も、タンクも、全てにおいてトップ争いに食い込むことさえも出来ないだろう。こんな自分をどうしてナギが愛してくれたのかも分からない程に、凡庸である自分が嫌になるのだ。

 それでも、そうだとしても、生き方を変えることは出来ない。変えたくないのだ。

 天才には天才の苦悩があるかもしれない。大天才には決して勝てないという絶望があるのかもしれない。だが、努力した凡才が秀才と呼ばれて天才と並ぼうとする事まで否定しないでもらいたい。

 超一流に届かないのであるならば、数多を一流にして1つを極めた者に総合力で追いついてみせる。

 オンリーワンの才覚も能力も無いとしても、こんな自分を愛してくれた唯一無二さえいれば、どれだけ自己否定しようとも、必ず前を向いて歩き出せる。

 究極の肯定をくれたナギの為にも、レコンは日々の自己嫌悪と戦いながらも、超一流達と同じ場所にたどり着くのだ。たとえ、それが自己満足に過ぎないとしても、それでも歩き続けたいのだから。

 

「僕はスゴウには経営戦略も戦術眼も及ばない。きっと、ずっと、死んでも追いつけない。だけど、貴方がいる間、精一杯に学ばせてもらいます。いつの日か、たとえ貴方がいないとしても、『スゴウは僕にとって優れた師だった』と敬意を払います」

 

 教えてくれた知識に善意も悪意も関係ない。レコンにとって等しく有益な成長の糧だったのだから。

 

「……君はやはり凄い」

 

 スゴウはレコンを褒めると、今度こそ自室の中に消えた。オートで施錠され、彼は明日まで、別の誰かが外部から戸を開けるまで監禁状態だ。武器も防具も取り上げられている彼には脱出手段はなく、その気になればいつでも餓死させることも出来る。

 リスクを冒してまで自らを牢獄に閉じ込めるのは演技か否か。レコンはどちらであろうとも、その時が来たならば決断するだけだと割り切る。自分が率先してスゴウを利用しようとしたのだ。ならば、キリトにもリーファにも背負わせない。

 だが、レコンはもう1度だけスゴウの自室の戸へと振り返る。

 記憶喪失であるならば、スゴウは『オベイロン』と『須郷伸之』の邪悪な記憶を有していないはずだ。そんな彼から飛び出た善意と悪意の移ろう忠告は、いかなる記憶に基づいたものだったのだろうか。

 レコンも、キリトも、リーファも知らない。須郷伸之がいかなる人生を歩んでオベイロンという存在になったのか、その物語を知らない。妖精の国に君臨した邪悪な王以外である必要性は無かったのだから。

 だが、もしも、あの悪逆非道なオベイロンさえも、元を正せば善意によって動く人間であったならば、いかなる経験を経て悪意に満たされたのだろうか。

 レコンは考える。それは誰でも経験する、ごくありふれた……何の不思議もない出来事なのかもしれない。些細な何かが善人であろうとした者を悪人と呼ばれる存在に変えてしまうのかもしれない。

 

 

 

 

 そうであるならば、世界は悲劇なのだろうか。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 場所はアルヴヘイム北方。シェムレムロスの館をダンジョンとして有し、また全体的に魔法防御力が高い異形モンスターが群集する地域である。これはシェムレムロスの館より捨てられた様々な実験生物・魔法生物が野生化したものであると考察されているが、真実は明らかになっておらず、暴いたところで主であるシェムレムロスの魔女はもういない。

 シェムレムロスの館のダンジョンとしての難易度はアルヴヘイムのメインダンジョンでも低めの部類であるが、精神面を徹底的に追い詰め、もうボスもいないというのに探索に赴いたプレイヤーの多くを精神的に再起不能にし、大ギルドによって第1級の攻略危険度認定が施されている。

 キリトは足を踏み入れる事は無く、また今後も余程のことがない限りは赴く事も無いだろう。そして、今回の彼の目的地は【宝石の森】と呼ばれる場所である。

 一見すれば、青々と茂るごく平凡な森なのであるが、その実は植物から動物に至るまで、何から何までが色彩豊かな鉱物によって構成されている。

 流れる水さえも細やかな粒状の鉱物である。あまりにも美しい森であるが、シェムレムロスの魔女の被造物とされ、侵入したプレイヤーはレベル1の石化の呪いが蓄積し続ける。

 蓄積速度は微々たるものであり、定期的に呪いの蓄積をクリアすれば恐れる必要は無いが、問題は宝石の森に出現する全てのモンスターの攻撃には石化の呪い蓄積効果があり、油断をすればHP量・防御力を無視して石化して事実上の行動不能となる。

 石化は数ある呪いの効果でも特に恐ろしいものである。何せ、死ぬこともできずに永遠に石にされるのだ。何かの拍子で体を砕かれるまでプレイヤーの死亡は確定しない。先日も、DBO初期に石化してしまったプレイヤーが発見され、解呪にこそ成功したが、すでに気が狂ってしまっていたという痛ましい事件があった。

 故に呪いがあると分かっているならば準備を怠らない。キリトは解呪石を持ち込み、また呪い耐性を引き上げる薬を書架よりもらい、全員に提供していた。

 更には念には念を。依頼の早期達成を見込まれて支給されたボーナスを利用し、今回の探索にはある傭兵を雇用していた。

 

「……で、この空気は何?」

 

 シノンである。彼女はデーモンスキル≪抗呪の理≫によって、DBOでも数少ないレベル1の呪いを完全無効化することができるプレイヤーである。このスキルのお陰で彼女は多くの呪い蓄積系ダンジョン・フィールドにおいて真っ先に雇用されてもいた。

 呪いには宝がつきものである。太陽の狩猟団が数々のユニークアイテムや貴重な情報を入手した裏には、シノンによる呪いエリアの探索という大きな強みがあるのだ。

 呪いエリアにおいて絶対的な有利を持つシノンを雇わない理由はない。自分だけの単独ならばともかく、まだ経験が浅いユナには保険をかけておきたかった。いや、そうでなくとも、常に呪いが蓄積し続ける環境は高ストレスだ。キリト自身も、万が一でも自身が石化した場合、確実に解呪できるシノンの存在が精神的にも大助かりだった。

 そんなシノンはまずスゴウについて事情を説明されて顔を曇らせた。キリトやリーファのように大切な人を奪われてこそいないが、改変アルヴヘイムは彼女にとっても思い入れがある。パーティメンバーに妖精王がいると聞かされて良い顔をするはずがなかった。

 だが、因縁を持っているわけでもないシノンは、キリト達ほどにオベイロン……スゴウの処遇に興味があるわけではないらしく、彼らが監視を継続するならば何も言わない様子だった。

 むしろ、シノンが驚いたのはレギオンであるミョルニルであり、そしてユナの同行だった。

 他でもないシノンだ。キリトはミョルニル……レギオンと交渉する権利を獲得した旨を包み隠さず明かした。この情報を太陽の狩猟団に持ち帰られた場合、キリト達はレギオンに与するプレイヤーの……いいや、人類の敵として『討伐』される側となる。アキレス腱どころか心臓を預けるに等しかったが、キリトには迷いも躊躇いも無かった。

 シノンは人語を操り、また人の形をしたレギオンに馴染みがない。最初は半信半疑だったようだが、キリト達が嘘を吐く理由もないと諦め、ひとまずはミョルニルについて見て見ぬフリをしてくれる事になった。

 シノンも傭兵として数々のミッションをこなしてきた。衝撃的情報の1つや2つでパフォーマンスが乱れることはない。それは同じ師から指導を受けていながら、メンタルに大きく左右されるキリトとは対照的である。

 そんなシノンだからこそ、真っ先に飛び出したのはパーティの空気についての言及だった。

 

「死ぬ気なの? リーファは後衛を……スゴウを信じ切れていなくて動きが悪い。レコンはそんなリーファを庇って、タンクだとしてもダメージ受けすぎ。スゴウも貴方達兄妹を意識し過ぎて支援の魔法のテンポが悪い。ユナさんはバフも回復も見事だけど、火力支援し過ぎてヘイトを集めて危険なくらいに攻撃されてる。それで貴方は? 皆をカバーしようと無理して戦って、これまた余計な傷を増やす……と。ねぇ? それでも貴方、プロなの? 傭兵でしょ? 貴方が引き受けた仕事でしょ? もう少しちゃんと皆を纏めなさいよ」

 

「め、面目ない」

 

 まさかの駄目出し連打にキリトは凹む。キリト達一行はアクアマリンのように輝く小粒が湧き出す泉で休憩を取っていた。休憩を取る彼らからやや離れた木陰……尤も樹木に似た鉱物なのであるが、そこでキリトとシノンは今後の方針について話し合っていた。

 皆の疲労の色は濃い。出現した全身を紅玉で構成したかのような【ルビーウルフ】の連続襲撃を受け、傷が看過出来ないほどに増えてしまったからだ。

 HPはアイテムや奇跡で回復できてもアバターの損壊はそう簡単では無い。ユナの奇跡のお陰でアイテムによりも素早く修復できるが、1度損壊したアバターは回復後しばらく損壊しやすくなる。つまり、HPも回復して傷も塞がっていても、同じ場所を攻撃された時、より深手とダメージを負いやすくなるのだ。

 また奇跡はユナの魔力を消費する。ヒーラー兼バッファーとしてPOWに多めにポイントを割り振り、またスキル構成もしているユナであるが、個人で担うには限界がある。また魔法も奇跡も使用回数が存在し、魔力を仮にアイテムで回復させたとしても無制限の連用はできない。

 適度な休憩を挟みながらの探索・攻略は基本といえば基本である。だが、単独で探索を常とする傭兵からすれば、それは非効率とも思える程に遅々たるペースでもあった。

 シノンも専属傭兵として、リーファ達よりも実力が低い探索部隊と共にダンジョンに潜る機会は多い。故に彼女が険しい顔をしているのは探索速度の遅さではなく、先の指摘の通り、パーティの空気の悪さだ。

 理由は分かっている。リーファとスゴウの不仲だ。これまでは全員の実力が高かったが故に、聖剣の墓所のような高難度ダンジョンでも機能したが、常時呪い蓄積という異質のデバフ空間において緊張は高まり、無理に押さえ込まれていた問題が戦闘面において噴出したのだ。

 更に言うならば、これまではパーティの緩衝材を担っていたユナだ。実力の低さを補う程の秀でたヒーラー・バッファーの才覚を持ち、的確なバフと回復で支えてくれた彼女であるが、これまでに無く、本来の温厚平和な気質を無理に押し込んだ攻撃が目立つ。

 ガードはキリトとリーファの指導で、それなりの相手ならば即殺されないまでに鍛えられてきたが、肝心の攻撃面はどうしても性格が災いし、伸びが悪かった。射撃センスは光るものこそあるが、まだまだ鍛錬が足りず、常に動き回る近接アタッカーを阻害することなく出来る程では無い。むしろ、それを可能とするシノンが特異であるだけだ。

 だが、今回の探索では無理にでも攻撃に加わろうとする傾向があり、それがヘイトを集めて本来ならば危険から遠ざけられるべき後衛への攻撃に繋がっている。

 必要とあれば的確に後衛を潰しにかかる生きているようなAIならばともかくとして、通常モンスターに搭載されたAIは極めて優秀であるだけで、ヘイト管理自体は有効である。後衛を率先して狙うオペレーションが組み込まれたモンスターだとしても、ヘイトを集めれば後衛への攻撃頻度は減らせるのだ。

 パーティは前衛を近接アタッカーのキリト、タンクのレコンとミョルニルが務める。中衛を近接も支援も程よくこなせるリーファとピナによるサポートをメインとしたシリカ。後衛を魔法使いのスゴウとヒーラー兼バッファーのユナだ。シノンは適宜ポジションを変更している。

 今日のシノンの装備は重火器ではなく弓矢だ。彼女が用いる特殊2連装ライフルは実弾とレーザーを同時に使用できる。また様々なアタッチメントを装着させることでモード変更が可能だ。これはスミスのラストレイヴンの換装機能に似ており、鍛冶屋の兄妹の繋がりを感じさせる。

 だが、問題なのはアタッチメントによって切り替えるモードのほとんどがレーザーメインであり、魔法属性防御力が極めて高い宝石の森のモンスターとは相性が決してよろしくないのだ。

 レーザーは魔法・炎・雷属性の複合であり、武器によって比率が異なる。シノンの2連装ライフルは3種の属性バランスが理想的に平均であり、3種の内の1つの防御力が高くとも残りの2種の属性である程度のダメージを稼げるように設計されている。

 だが、問題なのは宝石の森に出現するモンスターは魔法属性防御力が極端に高いが、それ以外の炎や雷属性防御力も特に弱点という訳ではなく、高水準で纏まっている点である。

 最大の弱点では打撃属性物理攻撃である。とにかく打撃で砕くことこそが有効であり、タンクであるレコンが最もダメージを稼げる環境でもあった。時点でSTR補正と打撃属性を有する月蝕の力を持つ月蝕の聖剣を使えるキリトだ。

 リーファの剣は斬撃属性高めであり、光属性戸の複合である為に、思うようにダメージは伸びていない。サブウェポンとして打撃属性高めの片手剣の使用も視野に入れたが、練度が低い武器は逆に危ういとして却下した。いっそ、カタナのように純斬撃属性ならば逆に問題も解決するのであるが、片手剣使いであるリーファにそれは望めない。

 魔法属性防御力が高いともなればスゴウの魔法支援も半減以下なのであるが、彼には呪術もあり、こちらで支援を主にしてくれているが、それでも魔法ほどではなく、炎属性防御力も決して低くないモンスターである為に効果的とは言い難い。

 そして、ユナのシルバーレイン……水属性は打撃物理とほぼ同等に効果覿面である。特に炎属性攻撃を受けた後に水属性攻撃を浴びると大ダメージを与えるギミックがあった。だが、これがユナの攻勢を止められない理由にもなっており、結果的に危機を増幅させている。

 そうした彼らをサポートするべく、数々の協働依頼で高水準の戦果を叩き出しているシノンが準備したのは弓剣だ。マユが開発した曲剣から弓に変形する武器であり、シノン専用装備である。そもそも距離を取る前提のシューターに、構造上の耐久問題やコストが上昇する近接武器変形など負担になるだけである為に、使用者はシノン以外にいない。

 シノンの装備である【弓剣ドラゴンヘッド】はドラゴン系素材を豊富に使用した意欲的装備である。更には太陽の狩猟団が提供した新素材【黄玉鋼】が使用されている。これはイジェン鋼をライバル視した太陽の狩猟団が新開発した素材であり、STR補正と重さと堅牢さが持ち味のイジェン鋼に対し、TEC補正と軽量さを活かした鋭い武器に適している上に素材自体がブルーコーティングと同じく耐魔法効果を有するという優れものである。

 ただし、仮に市場に出回ってもイジェン鋼のシンプルな強みには勝てないだろうというのが予想だ。STR補正は攻撃力の伸びが高く、また本人の技量をパワーで補う武器に適しているからだ。銃弾にも使える上に腐る場面も少ない物理防御を高めるイジェン鋼はまさしく理想的な素材なのだ。

 だが、やや輝きが鈍い金のような素材をブレード部分に用いた弓剣ドラゴンヘッドは特別感がある。そして、シノンは矢筒を装備することで2種類の矢を同時に運用できるようにしてある。速度に秀でた【風切り矢】と高い衝撃を与える【竜牙の矢】だ。どちらも太陽の狩猟団のレベル100級の品である。

 万が一に備えて、熱量で焼き切る大型短剣のヒートダガーも装備しており、彼女の援護射撃が無ければ危うかった窮地も1つや2つではなかった。

 

「私も近・中距離射撃戦は慣れているけど、中衛までこう何度も突破されたら堪ったものじゃない。貴方がいながらこの体たらく、どういうつもりなの?」

 

「……一朝一夕では解決しない問題なんだ」

 

「そう。別にいいけど、ここに巨鉄のデーモン級のネームドでも現れようものならば、生き残るのは私と貴方だけ。それくらいは理解してるわよね?」

 

 巨鉄のデーモン。それは改変アルヴヘイムにて、黒火山突入前に遭遇したネームドだ。黒火山のボスネームドであったスローネに比べれば弱かったが、巨体であるが故のタフさ、攻撃範囲の広さは、見方を変えればスローネ以上に危険である。

 あくまでスローネの強さが際立つのは一定のラインを超えたプレイヤーが相対した時だけであり、過半のプレイヤーからすれば巨鉄のデーモンの広範囲攻撃と巨体の方が遙かに死をもたらす要因となるだろう。

 あの時はリーファもレコンも呼吸を合わせて戦えていた。だが、今は明確なズレが生じている。2人だけではない。全員で不協和音を奏でており、常に完璧なコンビネーションを発揮しているのはキリトとシノンだけだ。

 

「リーファもレコンも強くなった。認めるわ。特にリーファは技量だけならトッププレイヤー級ね。あとは強敵との戦いの経験……の場数だけ。それも随分と稼げていると思う。だけど、『私たち』とは違う。傭兵とは違う。貴方も分かってるでしょう? 傭兵と大ギルドのトッププレイヤーは、どうしてここまで違うのか、くらいね」

 

「連携前提か否か……だろ。俺だってそれくらい分かってるさ」

 

 傭兵も大ギルド所属のトッププレイヤー、両者の実力は拮抗しているだろう。それでも傭兵を今も大ギルドが用いるのは、政治的理由やコストもあるが、それ以上に傭兵は単独行動・戦闘を前提としたロジックで動くからだ。

 依頼において友軍がいるならば連携重視の立ち回りをするのは当然だ。ネームド戦においてソロで放り込まれるなど、たとえ傭兵でも極めて稀であり、仮に引き受けても達成できるのは上位ランカーでも一握りだ。シノンも戦闘スタイルの関係上どうしてもネームドの単独討伐には向かない。そもそも単独討伐自体が偉業であり、傭兵でも公式で単独討伐記録を持つのはキリト、ユージーン、スミス、グローリーの4人だけだ。

 連携重視と連携前提には大きな隔たりがある。PvPやGvGならともかく、モンスター……特にネームド相手では単独で遭遇した場合、天地ほどに対応力に差が出るのだ。

 キリトも把握する限りでは、大ギルドでもネームド相手に傭兵同様の単独での立ち回りを十全に確立できるのは、聖剣騎士団の真改、太陽の狩猟団のサンライスとラジードくらいである。それ以外は即殺されないにしても、本来の実力を発揮しながら立ち回れるとは思えず、傭兵よりも粘れず、早期に窮地は訪れるだろう。

 早い話を言えば、傭兵は実力うんぬん以前に、頭のネジが1つか2つ外れていなければ務まらないのだ。だからこそ、ランク持ち傭兵はいずれも変人揃いなのである。

 

「最低限のチームワークさえも欠けた状態で、しかもこの環境とモンスターの特色。私だったら即時撤退ね」

 

「……やっぱりか?」

 

「これが普通のダンジョンだったら別よ? でも、ここは攻撃でダメージだけじゃなくて呪いも蓄積する。レコンみたいなタンクが1番危険な場所なのよ」

 

 ダメージを受ける前提のタンクは、相応に耐性も高めているが、それでも蓄積速度は他に比べて速い。能力で呪い耐性を極度に高めたミョルニルというもう1人のタンクがいなければ、石化していたのも1度や2度では無いだろう。

 ミョルニルはほぼ無効化に等しい耐性は獲得でできており、なおかつ拳と蹴りだけでモンスターを蹴散らしてくれているが、何故か彼女にはヘイト集まり難いのだ。これはプレイヤーに偽装しているとはいえ、中身はモンスターであるレギオンだからなのだろう。タンクとしても頑張ってくれているが、それでも不十分であった。

 

「スゴウ関係のいざこざはともかく、ユナさんは何とかならないの? 貴方の指導方針にとやかく口出しするつもりは無いけど、同じシューターとしてハッキリ言うわ。武器の性質と彼女の才能と実力を鑑みるに、近接アタッカーと常時高密に連携した射撃支援は無理よ」

 

 総合的射撃技術はDBOでもスミスに次ぐとされ、狙撃に限定すれば片腕が義手化したせいで精度が落ちてもなおDBOトップとされるシノンの断言だ。重みが違う。キリトは自分も分かっていると額を手で押さえた。

 

「でも、彼女の熱意には応えたいんだ。ユナは幼馴染に……エイジに追いつかないと何も出来ないと思ってる。それは全くの思い込みじゃない。彼は……俺と少し似てるから」

 

「そうだとしても、戦闘技術が全てじゃないでしょう? ヒーラーとしてもバッファーとしても、大ギルドがスカウトに来そうなくらいには才能もあるし、成長も見込める。同じ支援射撃でもダメージ稼ぎじゃなくて、近接アタッカーのチャンス作りや武器能力を活かした援護に舵を切れば、こっちも大きく伸びるはずよ」

 

 シノンはダメージ稼ぎだろうとヘイト分散だろうとチャンス作りだろうと狙撃で1発大ダメージだろうと、何でも出来る万能シューターだ。だが、それは彼女が特別だからこそ可能なのだ。ユナが目指せるものではない。ましてや、ヒーラーとバッファーに合わせた2足ならぬ3足の草鞋で何とかなるものでもないのだ。

 

「貴方は自分の尺度で彼女の指導をしているつもりなのでしょうけど、私に言わせれば、逆に彼女を死地に追いやってるようにしか見えない。それでいいの?」

 

「口出ししないんじゃなかったのか?」

 

「前言撤回。ユナさんが死んだから、貴方……かなり凹むでしょ?」

 

 その通りだ。シノンの気遣いに苦笑で返したキリトは、ユナが今まで以上に攻撃的になろうと無理している理由を思い浮かべる。

 ユナは今まで良くも悪くも知識不足あった。特にDBOにおける大ギルドを含めたパワーバランスは、教会を拠点とする彼女では分かり難いだろう。だが、そんな彼女もさすがにエイジが3大ギルドを敵に回して……正確に言えば追い回されていながらも自分を助けるべく奔走したことがどれだけの危険を冒したのか、分かってしまったはずだ。

 エイジとの約束があり、キリトはペイラーの記憶についてユナには明かしていない。また、ユナが独力で調べられる事でも無い。事情を知るキリトとシリカが口を閉ざしていれば、秘密は守られる。

 

「……私もあの作戦には参加してたわ。まさか、彼がペイラーの記憶で逃げ回っていたのが彼女を助ける為だったなんて、知りもしなかった」

 

「大ギルドにも秘密にしてるんだ。バラさないでくれよ」

 

 エイジ捕獲作戦に参加していたシノンが万が一でも情報を漏らすことを想定し、キリトは彼女にだけはユナについて説明した。リスクはあるが、シノンならば情報開示してもリスクにならないと信じたからだ。

 

「しないわよ。『信用』して」

 

「もちろん。『信頼』してるさ」

 

 キリトの即答に、シノンは気恥ずかしそうに目を逸らした。

 

「私が裏切ると考えないの? 貴方と違って太陽の狩猟団の専属よ?」

 

「シノンは専属先の利益よりも自分のプライドを選ぶ。どれだけ好待遇と報酬を約束されようと裏切らない。そういう傭兵だろう?」

 

 それに何より大切な仲間を無為に疑いたくない。キリトはそう続けようとして、だがいつの間にか距離を詰めていたシノンに驚く。

 今にも息がかかりそうな距離だ。シノンは何処か熱っぽい視線でキリトを捉えており、彼はごくりと生唾を飲む。

 

「そうよ。私は専属先との契約よりも自分の心を優先する。好きなように生き、好きなように死ぬ。誰の為でもなく」

 

「シ、シノンらしいな。ははは……」

 

「でも、貴方が大好きなクーならどうするかしら? きっと、依頼を最優先にするはず。自分の心ではなく、契約を結んだ……血も涙も無い依頼文を忠実にこなすはず。どれだけ悪名は高くても、結果に敵味方どちらにも大きな厄災をもたらすとしても、彼は何があろうとも必ず依頼を為し遂げようとするはずだから。そうじゃない?」

 

「『好きに生き、理不尽に死ぬ』」

 

 シノンの問いに、キリトは短く答えた。

 

「アインクラッドで、1度だけクーが漏らした……本音なのかもな。たくさんの人を殺す傭兵業について尋ねたら、そう答えたよ」

 

 クーは自分で選んで戦い続けて生きている。だからこそ、一切の選択肢が奪われた自由無き理不尽な死こそが自分の末路であると考えているのかもしれない。

 それは命を奪い続ける罪の意識などではなく、運命と呼べるものに対する諦観ですらもなく、より根源的な何かに思えた。

 

「クーは淡々とロボットみたいに依頼をこなすような奴じゃないさ。本人は否定してるけど、最短距離で自己利益を追及できる方法もあるのに選ばなくて……いいや選べなくて、こう……何て言うのかな……依頼はきっちりこなすけど、それは結果だけで……彼は自分の不利益にしかならない遠回りをよくする。そういう面倒臭い奴なんだ」

 

「……そうね。確かにそうだったわ。もっとスマートに解決する方法はあるはずなのに、それを選ばない。結果はいつも悲しいくらいに血が流れるのにね。クーはそういう傭兵よね」

 

 シノンもやはりクゥリに少しは理解がある。だが、それは彼の一面に過ぎないともキリトは自嘲を込める。

 まるで万華鏡のように見る者と時と場所によって全く異なる姿を映す。同じ瞬間を目にしたはずなのに、千差万別の感情を去来させ、否応なく惑わされる。

 キリトも例外では無い。クゥリを他の誰よりも理解してるとは口が裂けても言えない。だが、それでも、時折だが垣間見せるクゥリの切なそうな……今にも消えてしまいそうな儚い眼差しに、少しでも真実に触れられるヒントがあるのでは無いだろうかと考えている。

 だが、真実を知ったとして、果たしてそれが関係をより好転させる手助けになるとは限らない。秘密とは秘密であるが故に多くを守る機能を果たすのであるならば、全てを知った時に残るのは希望か、それとも絶望か。あるいは全てを葬る虚無なのか。

 何にしても今ここで考えるべき事では無い。キリトはシノンと頷き合い、皆に今日のところは撤退する旨を伝える。

 

「待って! まだ日も高いし、物資も十分にある! あたし達も戦えるよ!?」

 

「だからこそよ。余力がある内に退くのは当たり前じゃない。その程度の事も判断できないくらいに冷静さを失ってるのよ」

 

 最初に食いついてきたのはリーファであったが、シノンは腕を組んで冷徹に彼女の反論を踏み潰す。

 

「僕もリーファちゃんに賛成です。僕の負傷と呪いの蓄積を心配されているならばご心配なく。ちゃんと安全マージンを計算してタンクの仕事をこなしていますから」

 

「それが心配なんだ。石化の呪いの恐ろしいところは即死コンボにある。石化状態で攻撃を喰らえば全身を砕かれて死亡するんだ。石化の呪いは『タンク殺し』で有名なのはキミも知ってるだろう?」

 

 レコンならば同意してくれるだろうと甘い考えを持っていたキリトは、まさかの反論に戸惑いながらも、タンクとして皆を庇うレコンの危険性を考慮した撤退でもあると語気を強める。

 ユナは迷ってるらしく、スケッチブックを抱えたまま文字を書こうとしては手を止めている。だが、迷いこそが彼女もまた探索続行を少なからず望んでいる証拠でもあった。

 

「シリカは俺に賛成だよな?」

 

「そうですね。安全重視ならば退却も視野に入れるべきですが、力押しで進められないメンバーでもないのは事実です。シノンさんの雇用も決してお安くないでしょうし、ひとまず退却して、改めて最低限のメンバーで予定分のマッピングだけでも済ませておくべきでは?」

 

 これにはシノンも口を閉ざす。彼女からすれば、ここで退却すれば最低限のコストで済み、大きな黒字になるからだ。シノンとの契約は2日間であり、今日の探索進捗は予定の3割も消化していない。明日も無理しない前提であるならば、シノンというレベル1の呪いを無効化できる強力なカードを遊ばせることになるのだ。

 

「……ねぇ、その『最低限』にあたしは含まれているよね?」

 

「安心しました。自分が迷惑をかけてる自覚はおありのようで。もちろん、リーファさんにはお留守番してもらいますよ」

 

 シリカの指摘の通り、現状で最も足を引っ張っているのはリーファだ。そして、調節弁としてシリカがピナを活かしたサポートで立ち回っているのが現状である。彼女の苛立ちを含んだ発言は挑発の部類であるが、リーファが感情任せに切り返さずに奥歯を噛んで堪えているのは、彼女もまた多くの経験を積んだ戦士として成長したからこそだ。

 だが、シリカが煽ったことで不和が増長されたのも事実だ。これから退却するともなれば、行きほどではないにしても相応のエンカウントが予想される。ただでさえ軋んでいるチームワークが何かの拍子で大きな亀裂を生み、それが想定外の危機を呼び込み、望まぬ死者を出さないとも限らない。

 人数が増えた悪影響。個々の思惑と人間関係が絡み合ったからこそ必要となるリーダーという存在の欠落。キリトは自分が何とかしなければならないと思いはしても、そもそもキリトは我が道を行くタイプである。自身の行動で皆の意識に指向性を与えて行動を統一させることはできても、司令塔として皆を取り纏めるタイプのリーダーにはなれない。あくまで『象徴』として機能するリーダータイプなのだ。

 たった8人でこれだ。キリトは自分が如何に管理職に不向きな人間なのか思い知らされる。

 

「いい加減にしないか!」

 

 そんな中、一括して沈黙をもたらしたのはスゴウだった。

 

「この場で決定権を持つのは君たちじゃない。キリト君だ! 意見を述べるのは構わない。時のはそれが助言となり、正しい方向に皆を導く切っ掛けにもなるだろう! だが、リーダーの意思決定に従えない組織は必ず崩壊する! 気に食わないならば、相応しい時と場所で意見を述べるのが筋だろう!? 今がそうだと思うのかい!?」

 

「あら、良い事を言うじゃない」

 

 傭兵としてあくまで我関せずの立ち位置だったシノンがぼそりと評価を口にする。

 スゴウの気迫と剣幕に、リーファとシリカは閉口し、レコンさえも眉間に皺を寄せて唇を一文字にする。ミョルニルは空を見上げて夕飯を想像しているかのように涎を垂らしていた。

 

<帰ろう。生き残るのが最優先だよ>

 

 ユナが決意したようにスケッチブックを見せる。迷っていた彼女の心もスゴウの一喝で定まったのだろう。

 方針は決まった。キリトは皆に出発準備を促すとマップデータと睨めっこしているスゴウに歩み寄る。

 

「助かったよ」

 

「いや、出過ぎた真似だったと後悔してるよ。私という異物がいるせいで君たちの不仲を招いてる。それなのに……」

 

 スゴウの発言は部分的に正しい。リーファの精神不調とそれに基づいた不和の連鎖の原因は間違いなくスゴウだ。

 だが、同時にキリトは静かに首を横に振ってスゴウを驚かせた。

 

「それだけじゃないさ。何て言うかさ、俺達ってそれぞれの気心を知ったつもりになっていて、今の距離感が心地良くて、だけど変わらないといけないって焦ってて……命懸けの戦場で何を馬鹿な事をって嗤われるかもしれないけど……きっと、それぞれの抱え込んだ気持ちとか、出さないといけなかった『答え』とか先送りにし続けた結果が……これなんだと思う」

 

 キリトがふと思い出したのはクゥリが如何にして不利な多人数相手にして、むしろ圧倒的有利で戦えるのかという問いに対する回答だった。

 

『どれだけ仲良しこよしのグループに見えても、腹の内に何を飼ってるか分かったもんじゃねーよ。むしろ、距離が近いからこそ秘めたモノって奴があると厄介だ。生死を分かつ瞬間にひょっこり顔を出しやがる。数の暴力と訓練である程度は誤魔化せるが、こっちからすれば分かりやすい弱点だ。突けば終わり。個人感情で優先順位を誤る奴。自己生存最優先にしてスタンドプレーに走る奴。誰も言う事を聞かないのに指示を飛ばし続ける奴。そうなりゃ数の有利はそのまま不利にひっくり返る』

 

 冷笑にも似た酷評を、数多のギルドを渡り歩いたが故に付けられた異名【渡り鳥】を冠するクゥリは告げた。だが、それは同時に彼の中にある『仲間』に対する憧憬であったのは間違いないだろう。

 誰よりも『仲間』に対して無縁であったクゥリこそが『仲間』というものの強みも弱みも理解していた。キリトは今の自分には『仲間』がいる事を改めて思い返し、だからこそクゥリの言葉を噛み締める。

 俺もキミも遠くに来てしまった。お互いに取り返しのつかない多くの経験を積んでしまった。それでも、まだ間に合うと願うのは傲慢なのかな? キリトはそう己に問いかけるが、自分の胸中に見出すべき道は無く、闇雲であろうとも行動でしか手に入らないとのだと悟る。

 

「生きていれば、後悔するとしてもやり直せる。死んでしまったら終わりだ。成長も、贖罪も、何も出来ない」

 

 たとえ醜かろうとも生に執着しながら戦う事を是とするキリトに対し、スゴウは無表情で眼鏡のブリッジを指で押し上げた。

 

「……死こそが救いである。そういう時もあると思うけどね」

 

「だったら、俺は否定し続けるさ。たとえ、心の何処かで認めてしまっていたとしても、それでも否定し続けないと……俺は後悔するはずだから」

 

 死を救いだと肯定した時、俺は斬らなければならなくなる。そんな気がするんだ。キリトは言葉の続きを飲み込み、スゴウには存分に馬鹿にしろと自嘲して見せた。

 

「死は救いにならない……か。ならば罰にはなるのだろうか」

 

 スゴウは消え入りそうな声で呟く。それはキリトに聞かせたかったのか、それとも知らず間に零れ落ちたモノだったのか、区別はつかなかった。

 帰路において、キリトはより生存を優先し、徹底的に戦闘を避ける方針を選んだ。故に歩みは必然と遅々となる。

 

「おかしいわね。マップデータと現在地にズレがあるわ」

 

 そして、最初に奇怪に気付いたのは先導するシノンだった。傭兵としてソロの行動に慣れているのはキリトとシノンだけである。皆を引っ張る役目をキリトが担っている以上、先行して状況を探るのはシノンの役割だったのであるが、彼女は戻ってくると眉間に皺を寄せながら報告した。

 

「皆、マップデータの表示を頼む」

 

 キリトの要望に応え、全員がマップデータを表示すれば、1人の例外も無くマップデータには食い違いがあった。表示されている現在地も、収集した地形情報も、何もかもが異なっていたのである。

 

「『迷いの森』の特性があったみたいね。マップデータが機能しないわ」

 

 シノンは大した問題では無く良かったと肩を竦める。

 迷いの森とは、森系のダンジョンで度々発生するマップデータの機能不全の通称である。一定の割合のマップデータを収集すれば自動で解除される。症状は様々であり、そもそもマップ自体が表示されないパターンもあれば、今回のように正常にマップが表示されない時もある。

 下位・中位プレイヤーならば焦燥して慌てるところであるが、キリト達からすればこれが初めてという事でも無い。最前線で遭遇しなかっただけラッキーとさえ楽観的に捉えられる。経験が少ないユナは周囲が落ち着いてるお陰で冷静さを保てているようであり、キリトはこれなら大丈夫だろうと頷く。

 

「焦りは禁物だ。3日間くらいは野営できる準備はある。食料も解呪石もだ。迷いの森は地形そのものまで変化させているわけじゃない」

 

「私は木の上から現在地を確認するわ」

 

「俺も行くよ」

 

 シノンが鉱石の如き黒色の大樹を駆け上がり、キリトもそれに続く。あっという間に頂上にたどり着いた2人は周囲を見回して溜め息を吐いた。

 

「何も見えないな」

 

「ええ。ダンジョン特有の視界制限ね」

 

 遠くの景色がぼんやりと滲んで正確に把握できない。それは高いVR適性で他プレイヤーを遙かに凌ぐ知覚能力を持つキリトでも例外では無い。意図的に視覚情報が制限されてしまっているのだ。

 ダンジョンではよくある事である。VRゲームならばプレイヤーの発想次第でこの手のダンジョンギミックの攻略法はいくらでもある。その内の1つが高所からの周囲の観察であるが、DBOは当然ながら対策済みであり、プレイヤーはギミックと正面から対峙しなければならない。

 大樹から降りた2人の報告に、他の面々も特に期待している様子は無かった。不和もそうであるが、良くも悪くも場慣れしている面子であるからこそ、歯車が噛み合わない齟齬があっても誰1人として欠ける事も無いのだ。

 

「この場所、まるで見覚えがありませんね。もしかしたら僕たち、森の深部に向かってしまってるんじゃ?」

 

 レコンの意見は限りなく正しいだろう。1度でも迷いの森を経験したプレイヤーは探索中の風景を限りなく記憶するように癖付けされる。似たような風景ばかりとはいえ、キリトにも現在地の既視感は無かった。

 

「迷いの森を警戒しなかった私のミスね」

 

「事前情報が無いと対策し難いさ。迷いの森は時間差で症状が出ることもあるしな」

 

 シノンに責任を押しつけるわけにはいかない。この程度のトラブルに対処できないならば、結局のところはDBOの悪意に呑まれて死ぬのだ。

 キリトは【帰路の羅針盤】を取り出す。これは最後に立ち寄った村や町の方角を示すコンパスである。だが、迷いの森の特性によるものか、コンパスの針は定まらずに回り続けている。

 

「あら? 貴方にしては安物を使ってるわね」

 

「そう言うシノンのも狂ってるじゃないか」

 

「はいはい。私のクラウドアース製の高級品で……駄目ですね」

 

 キリトのコンパスは聖剣騎士団製、シノンは太陽の狩猟団製、シリカはクラウドアース製であったが、いずれも機能していない。

 迷いの森の効果が帰路のコンパスの性能を上回っているのだ。大ギルド製を超えるともなれば最前線クラスになる。

 

「ユナさん、奇跡に確か【道標の風】がありましたよね。使えませんか?」

 

<ごめんなさい。習得していなくて……>

 

 奇跡は魔法と違って戦闘以外にも使用できる補助が豊富なのも特徴だ。道標の風はダンジョン内で迷子になった場合、出口まで続く風を吹かせるというものであり、単純明快な効果に反して必要MYSが極めて高く、効果時間も短く、魔力の消費も大きいが、これを使えるか否かで今回の場合などにおける生存率は劇的に変動する。

 教会からの援助で奇跡を習得しているユナであるが、強力かつ貴重な奇跡まで与えられているわけではない。奇跡も魔法も基本的に有限なのだ。強力かつ希少性の高い奇跡をユナが有していないのは、市場で購入できるだけの財力が無く、また教会もそこまでの援助を行うだけの価値をユナに見ていないからだ。

 そもそも奇跡も魔法も枠数以上を登録することは出来ず、フィールドやダンジョンでは無制限に入れ替えも出来ない。回復やバフといった戦闘補助中心の奇跡で纏めているユナでは枠数が足りないのだ。

 キリトにしても近接ファイターが本職であり、奇跡も魔法も知識こそあっても経験はない。転ばぬ先の杖とも言うべき補助系奇跡の重要性を軽視した指導だったとキリトも反省しなければならなかった。

 

「まだ日も高いですし、幸いにも大規模ダンジョンではありません。セオリー通りならば、『迷いの森』は一定のマップデータを収集した時点で無効化されます。このまま探索を続けるのも手では?」

 

「マップデータの収集を目的とするならば、安全地帯を確保が最優先した方がいいわ。私とキリトは単独でダンジョンに潜るのも慣れてるわ。私たちでマップデータを収集し、他の皆には待機してもらうがベターだけど……どうなの?」

 

 レコンの意見の通り、『迷いの森』の無効化はダンジョンのマップデータの収集率が大よそ5~6割に到達すれば自動で無効化される。そうなれば、マップデータを共有してしまえば脱出は容易だ。

 そして、シノンの言う通り、傭兵として単独行動慣れしている自分たちならばこの規模のダンジョンならばそう時間もかけずにマップデータの収集は出来るだろうという確信がある。特にシノンはレベル1の呪いを無効化するデーモンスキルを有するので石化の心配もなくマップデータの収集に専念できる。

 だが、その一方でこの程度の小規模のミニダンジョンならば、『迷いの森』があるとしても脱出は困難では無いともキリトは判断する。森系のダンジョンは出入口の幅が広いのも特徴であり、極論を言えば直進を続ければ必ず脱出できるのだ。もちろん、現実世界で遭難するのと同じ理屈で、人間はその実として真っ直ぐ歩いている訳では無く、同じ場所をぐるぐると回ってしまう……という展開もあり得るのだが、逆に言えば意識さえすれば多人数であるが故の対策も可能である。

 どうするべきか? キリトは集団を率いるリーダーとして決断しなければならなかった。

 

「……日が落ちるのはまずい。昼夜では出現するモンスターの変化して危険度も異なる。まずは野営できる場所を探そう」

 

「それが妥当ですよね」

 

 キリトの判断に真っ先に同意を示したのはシリカだ。他の面々もひとまずの短期的な目標として野営地の確保には概ね賛成らしく、反対意見は皆無だった。

 疲れる。キリトは人数が増えたからこその絡み合った人間関係に肩の気怠さを感じつつも、これも仲間がいるからこその贅沢な気苦労だと好意的に受け止めた。

 ダンジョンには概ね存在するモンスター侵入禁止エリアを発見できれば上々であるが、ダンジョン内で発生するイベントをクリアしなければ発生しない事例は多い。ミニダンジョンともなれば尚更だ。故に探すべき野営地は限りなくモンスターの夜襲を防ぎやすい地形である事が望ましい。

 先に述べた通り、野営の準備は万全である。モンスターとのエンカウント率を大幅に下げるアイテムもある。野営地さえ誤らなければ、十分に安全を確保して夜を越せるだろう。尤も、その場合にはシノンに追加報酬を支払わなければならないが、『迷いの森』の特性を事前把握していなかった雇い主のキリト側の落ち度もある。シノンも自分の責任に言及したとおり、ある程度の値引き対応になるだろう。

 どれだけ歩いただろうか。無言の行進は何処か歪に固まっていた空気を解す効果もあったようであり、筋張った緊張感が皆から確かに抜け、ダンジョン内で探索するのに適した程よい集中力を維持したリラックスした雰囲気を肌で感じ始め、キリトは安堵する。

 スゴウも原因であるが、自分もトリガーだろうとキリトは考えないようにしていた1つの問題に対し、脳裏で意識を向ける。

 昨夜の風呂場の騒動。シリカに続いてリーファまで突入したが故に起きたが、考えるまでも無く、リーファの行動は『妹』の域を超えている。

 小学校低学年ならばまだ分かる。シリカに『兄』を奪われたくないといった無邪気な独占欲だと片付けられる。だが、そうではない。

 シノンを先頭にした直列陣形で進む中、最後尾を守ることになったキリトはリーファの背中を見つめる。

 年齢が下に見えてしまう童顔であるが、もう大人の女性の体だ。いや、それは理解と咀嚼を拒んでいるが、昨夜の風呂への乱入で嫌という程に思い知ってしまった。『兄』として最大限に目を逸らしたつもりであり、リーファもタオルで前を隠して風呂場に入ってきたお陰で不意の直視も免れたが、それでも暴力的な視覚効果だった。

 キリトとリーファは兄妹ではあるが、義理でもある。そして、リーファもそれを承知している事もキリトは知っている。だからといって自分が『兄』であるという意識が揺らぐことはない。揺らぐことはないはずだった。

 だが、昨夜の風呂場乱入にして、意図的に愚者となって追及しないでおこうとしたからこそ、こうして不意に向き合ってしまえば、『妹』は『女』としてキリトを意識した場面があったのではないだろうかと思えてしまうのだ。

 いや、まだ愚者を演じている。キリトは深呼吸を1つ挟んで、事実を解体する。

 まだ真意は定かではない。だが、『リーファの望む兄妹関係』と『キリトが思い込んでいた兄弟関係』は同一でもなく、むしろ致命的な部分で重なっていないのだ。

 今ここで言及すべき事ではない。だが、ダンジョンを脱出したならば、すぐにでも時間を作ってリーファと……直葉と話し合わねばならない。たとえ、キリトが信頼関係を築けていると思っていた兄妹の絆が千切れるとしても、未来を思えばこそ、先延ばしにすべきではない。

 シリカにしてもそうだ。彼女が望んだからこそ、キリトは言葉にすることを避けていたが、そうして間を置けば置くほどに毒が溜まってしまい、回り回って双方を不幸にする。たとえ、シリカはそれを不幸とは思っていないとしても、キリトにとっては耐え難い苦痛となる。

 

(ああ、クソ! 本当に身勝手だな!)

 

 そうして自分が決意を固めれば固める程に、脳裏に浮かぶのはクゥリが自分を見下しながら冷笑するビジョンだ。何もかもお前の優柔不断とスタンドプレー癖と過去の清算の先延ばしのせいだと容赦なく突きつけてくる白の傭兵がありありの目に浮かぶ。

 もちろん、現物のクゥリは何も言わないだろう。せいぜいが一言二言の苦言にも似た助言程度で、至極どうでもいいといった目をするに違いない。だからこそ、脳裏のクゥリは自責を投影させたものに過ぎないとキリトは自覚する。

 

「ちょっといい?」

 

「うわぁ!?」

 

 先行していたはずのシノンが突如として木の枝を飛び移ってキリトの前に現れ、ダンジョン内では危うい程の大声が出そうになり、舌を噛む勢いで慌てて口を閉ざす。その様子に集中力散漫だと責めるようにシノンは呆れを含んだ睨みを飛ばす。

 

「この先に建物があって。ちょっと……いいえ、かなり妙なの」

 

「妙? 具体的に教えてくれ」

 

「……見れば分かるわ」

 

 シノンに促され、キリトは最後尾の守りをミョルニルに任せると彼女に先導されて森の奥に進む。そうして目にしたのは、貴族の別荘と呼ぶにも相応しい邸宅だった。

 四方を黒い金属製の柵に囲われていた。柵はいずれも宝石のような外観をした茨によって覆われており、正門以外からの侵入も脱出も拒んでいるようだった。肝心の正門は施錠されておらず、キリトが手で押せば、まるで招待状のある客人を招くかのように、人間1人が入れるスペースだけ開いた。

 正門から邸宅まで続く道は純白の正方形の敷石で作られ、左右には青銅製の騎士像が並んでいる。

 だが、シノンが妙と評した理由はすぐに理解できた。木々はもちろん、水に至るまで鉱物化した森でありながら、邸宅内にある庭園は本物の植物が青々と茂っているからだ。

 それだけではない。廃墟ではないと言わんばかりに手入れもされており、芝生は同じ高さに切り揃えられ、花々は彩り鮮やかながらも人の手が加わった均整が保たれて人工の芸術として表現されている。もちろん、邸宅の壁にも蔦が張り巡らされているなどという事も無く、窓さえも曇りが見えない。

 

「罠……だよな」

 

「それ以外に無いでしょうね。無視したいけど、貴方達の探し物が見つかるかもしれないでしょ?」

 

 キリト達のお目当ての探し物……ウンディーネの秘薬の材料となる【新月花】。それは月明かりの無い暗闇でしか咲かない花とされており、このダンジョンの何処かで得られるとされているアイテムだ。

 NPCから得た情報によれば、かつてシェムレムロスの魔女はこの地を自らの創造物で森を覆い尽くし、そして秘密を隠した。月光も差し込まぬ新月の夜を拒んだが故に。

 この森の特徴として、たとえ夜になろうとも月は光らない。常に新月の夜なのだ。故にウンディーネ達は古き時代において新月花をこの地で摘んでいたとされている。だが、シェムレムロスの魔女によって森は変質してしまった。本来ならば新月花も姿形を変えて絶滅していてもおかしくない。

 だが、こうして自然の植物として残っている場所がある。ならば新月花も得られるかもしれない。だが、だからこその罠である事も確かだ。

 

「もう1つ妙なのが、これを見て」

 

 シノンが先んじて正門を潜って手招きする。彼女が見せたのはマップデータの左端に表示されたアイコン……モンスター侵入禁止エリアという緑文字だった。

 邸宅の敷地内は森からモンスターの侵入ができない。それだけではない。呪いの蓄積も免除されている。まさに理想的な野営地……いいや、宿泊施設だろう。

 だからこそ怪しい。絶対にトラップがある。キリトは腕を組み、だがシノンの言う通り、ここを探索せずにして新月花を得られるとは思えなかった。

 元よりリスクは承知だ。脱出を目的にしたのは現状での達成できるかも曖昧な探索が危険だったからである。新月花を得られる確率が高いならば、リスクを承知で探索するのは是とすべきところである。

 

「火を見るよりなんとやら。もうトラップなのが丸わかりですね」

 

 遅れて到着した皆にも説明すれば、シリカが開口一番に全員が胸中に抱いただろう感想を述べる。

 

「でも、モンスター侵入禁止エリアなのは間違いないみたい。でも、いきなり消失もあり得る……よね?」

 

「うーん……どうだろう? 確かにモンスター侵入禁止エリアが消失してモンスターに囲まれたなんて事例は、プレイヤーが意図的に起こした事例以外に僕は知らないなぁ」

 

 リーファの意見に、レコンは消極的否定を掲げる。

 

<プレイヤーなら、意図的に消すことができるの?>

 

「……侵入禁止エリアの『体裁』を破壊することで可能なんだ。たとえば、この邸宅だったら周囲の柵を破壊すれば、といった感じでね。ただし、今までダンジョン側……つまりモンスターやトラップで破壊されたことは無い。あくまでプレイヤーがプレイヤーを殺す……MPKの事例だけだ」

 

 もちろん、過去例が無いからといって今回もそうだと言い切れないのがDBOであるが、疑いだしたら切りが無いのも確かである。

 ユナの疑問に答えたキリトはひとまず全員で邸宅敷地内に入る。トラップである事は見え見えであるとしても、モンスターに襲われる心配が無いとあってか、全員の肩から力が抜けるのは自然と感じ取れた。キリトもまた脱力する『フリ』をする。シノンも同様である。

 ひとまずトラップを前提にするにしても、モンスター侵入禁止エリアで気を張り続けることは出来ない。いや、そもそもとして何時間も警戒心を研ぎ澄ますなど土台不可能なのだ。適度な休憩は必須である。故に傭兵としてソロ慣れした2人だけが他の負担を軽くすべく、肩の力を抜いた演技をしつつ、警戒を維持することのは当然だった。

 

「どうする? 日暮れまでまだ時間はあるけど、探索する?」

 

「そうだな。出来れば、全員で纏まって行動したいところだけど……」

 

 シノンの申し出を受け、キリトは思案する。戦力の分散は危険であるが、同時に全員が固まったからこそトラップに嵌まるリスクもある。いざとなった時、自分が間に合わずに手遅れとなって誰かが死ぬのだけは嫌だとキリトは拒絶する。

 

「……気負うのは結構だけど、心配ばかりして仲間の実力を軽視するのは信頼とも信用とも違う。ただの侮蔑よ」

 

「今日のシノンさんはキレキレだな」

 

「そう? 貴方が久しぶりに、嗤えるくらいに情けなく見えているからかもね」

 

 何処か嬉しそうに嗜虐の笑みの浮かべるシノンに、キリトは引き攣りながらも感謝する。確かに戦力分散は危険であるが、同時にここにいるのはDBOでも特に優秀なプレイヤーばかりだ。

 リーファとレコンは経験不足の面もあるが、実力はトッププレイヤー級。シリカは戦闘力こそこの面子では下から数えた方が早いが、それを補うだけのサポート能力と探索能力が充実している。スゴウも戦闘力・知力共に申し分なく、ユナには実力と経験共に足りずとも足を引っ張るほどではない。

 キリトは玄関を開け、邸宅のエントランスに踏み入る。豪奢と呼ぶ程では無く、財を尽くした煌びやかさよりも使用された素材の温かみを重視した、何処か懐かしさを感じるような意匠が自然と心を緩ませようとする。

 エントランスに入ってすぐの壁には邸宅の見取り図があった。邸宅はHの形状を取っており、中央館、北館、南館の3棟によって構成された2階建てのようだった。

 

「皆、聞いてくれ。ここには俺達の目的である新月花があるかもしれない。そこで、これから探索に入るが……チーム分けをする」

 

「皆で固まって動いた方が安全では?」

 

「効率優先だ。もちろん、安全を重視したい人の意見は尊重するつもりだ。遠慮無く言ってくれ」

 

 そして、キリトはチーム分けを発表する。

 中央館を探索するのはキリトとユナ。北館はシノンとスゴウ。南館はリーファとミョルニル。庭園及び邸宅周辺はシリカとレコン。これらの発表に対して主立った反対意見は出なかった。

 ユナの安否を預かる身として、最も実力不足のユナと組むのは最も手練れのキリトであるのは必然。全てにおいてバランスが取れたリーファと絶対防御のタンクであるミョルニルならば不測の事態であっても即死は免れる。屋外ならばピナによる探索が活きるシリカの出番であり、彼女を守るタンクとしてレコンならば不足は無い。

 ミョルニルはシリカと組みたがっていたようであるが、だからこそ2人を同じチームにすべきではないと判断した。ミョルニルはシリカと同じチームに配属するよりも、離した方が早く会いたいという気持ちが勝って探索を熱心にするだろうと読んだのである。

 

「で? 私に彼を任せる真意は?」

 

「スゴウに対して最もドライに対応できて、俺が最も信頼できる実力者だから。彼がキミを害するような真似をしたら……」

 

「安心して。殺しはしない。両肘・両膝を砕いて拘束しておく。後の沙汰は貴方に任せるわ」

 

「クーみたいな事を言わないでくれ」

 

「彼に比べれば手ぬるいでしょ? クーなら、拘束する以前に殺すか、拷問して『自白』まで済ませておくか、どちらかでしょ」

 

 ご尤もである。一切の反論の余地がなく、キリトは黙る。一方のシノンは冷徹な物言いに反して上機嫌だった。

 

「もしも危険だと判断したら、最優先で逃げて合流と情報共有をする事。探索の状況にかかわらず、1時間後にはエントランスに集合する事。良いな?」

 

 キリトは皆に念を押し、邸宅の探索を開始する。ユナは長銃シルバーレインを背負い、キリトの後に続く。

 館内には塵1つ無く掃除が行き届いている。およそ無人とは信じ難いが、そこは仮想世界で、しかもDBOのダンジョンだ。どんなシチュエーションでもあり得る。

 

<不思議だね。誰もいないのに、生活感がある。まるでさっきまで人がいたみたい>

 

 まずは入ったのは1階に設けられた調理場。ユナの指摘の通り、鏡面と見紛う程に磨き抜かれた鍋では湯気が立ち上るスープが煮込まれていた。ただし、火は消えている。今まさにスープを食器に注ごうとして、そのまま放置されたかのようだ。他にも籠に入ったままの新鮮な野菜があり、棚には腐敗した様子もないジャムが陳列されていた。

 いや、感覚が狂ってるな。キリトは思わず自分の両目を揉む。DBOでは廃墟、もしくはそれに準じた狂気に満ちた施設の探索が多いだけに、無人である事を除けばあまりにも普通過ぎて違和感があった。

 調理場には地下室もあったが、そこは腐敗しやすい生肉などを保管する冷凍庫だった。どうやら魔法で気温が下げられているらしく、高度な魔法を恩恵を受けられる人物の邸宅という設定なのは間違いなかった。

 

「意外かも知れないけど、DBOはシチュエーションに対しての因果関係が必ず存在するんだ。プレイヤーを苦しめるという点は共通しているけど、それだけを追及しているわけじゃない。この無人の状況と現場が保管された状況の理由は必ず存在するはずなんだ」

 

<変なこだわりだね>

 

「そうかな? 俺は……嫌いじゃないよ。茅場の後継者は許し難いけど、だけどアイツのゲームに対する……この世界において『自分の流儀』を貫いてる姿勢は敬意を払わないといけない」

 

 以前の自分ならば違ったのかも知れない。たとえ、ゲームの世界であろうとも、プレイヤーを苦しめ、絶望させ、死に至らせる事に全力を尽くす茅場の後継者に敬意を抱くなどあり得なかっただろう。

 だが、多くの経験を経たからこそ、キリトはどんな形であろうとも『自分を貫く』ことがどれだけの極地なのかは理解できるようになった。

 茅場の後継者は決して妥協しない。たとえ自分の破滅を招くとしても、他者から見れば矛盾と愚劣に満ちていようとも、自分の定めたルールを決して曲げずに、プレイヤーを全力で殺しにかかっている。

 自分に課したルールを1つでも破れば容易く優位に立てるとしても、それを敗北だと断じる。たとえ、妥協しなかったのが原因で自分が死ぬことになろうともだ。

 ふと、何故かキリトは全く面識もないに等しい茅場の後継者にクゥリの姿を重ねた。奇妙な既視感があった。

 一緒にするなってクーに怒られるな。キリトは苦笑して頭から振り払う。万が一……いや、京が一でも、クーが実は茅場の後継者だったなんて真実はあり得ず、あの2人に重ね合わせられる部分など自分が知る由などないはずなのだから。

 2人が続いて訪れたのは食堂だった。長テーブルには食器が並べられ、燭台には蝋燭が取り付けられたままだった。新鮮な果物が盛られた杯がテーブルには置かれており、様子からしても晩餐の前だったようである。

 キリトはピカピカに磨かれて、まるで鏡のように見た者を映す銀食器を手に取る。特に怪しいものではない。至って普通の食器である。だが、幾つかの椅子はまるで先程まで誰かが腰掛けていたかのように引いてある。

 そもそもここは何なんだ? キリトは無人以前の疑問を抱く。周囲は鉱石と宝石に変質した森と生物。そんな異常に囲われた中にある、まるで平穏な一時を保存したかのような邸宅内は奇妙で仕方がなかった。

 異常な空間に囲われた中で平穏に過ごしていた者達がいた? そうだとして、彼はここで何をしていた? ただ平和な日々を堪能していたのか?

 NPCの情報によれば、シェムレムロスの魔女はここに秘密を隠した。キリトは改変アルヴヘイムで1度だけシェムレムロスの魔女に出会っているが、およそ狂ってるとしか言い様がない女だった。改変アリヴヘイムで出会い、自分の道を定めた1つの助けとなってくれた、シェムレムロスの魔女に惨殺された1人の男を思い出し、キリトは自然と拳を握る。

 この館の風景はおよそシェムレムロスの魔女のイメージからかけ離れている。それこそが最大の奇怪だった。

 キリトは廊下を歩き、次の部屋を目指す。太陽の光が温かく差し込み、赤い絨毯は照らしている。花柄の壁紙はまるで太陽光を浴びて咲き誇っているかのような印象さえある程に、あまりにも穏やかだった。

 次の部屋は浴場だった。キリトは昨夜の事を思い出して気まずくなる。だが、ユナは気にしていないのか、脱衣所を見回せば、女性には嬉しいだろう、大きな鏡の前には櫛といった身だしなみ道具が綺麗に並べられていた。

 浴室のドアを開けば、広々した浴室は湯気で充満していた。思っていた程に広くないが、10人は余裕で一緒に入浴できる広さである。大理石の竜の石像からお湯が溢れ出ており、いつでも入浴できる状態が保たれていた。

 いいや、それだけではない。キリトは土足で入るのを躊躇いながらも浴室に踏み込む。並んだ鏡の前では泡だった石鹸がそのまま放置されていた。体を洗う為のタオルや髪を洗う為の香油もそのままである。

 誰かが入浴していた。そして、入浴中のまま消えた? キリトが思い出したのは幽霊船……メアリー・セレストである。多くの脚色こそあるが、世で最も有名な『生活感をそのまま残して無人になった』怪談である。

 

「…やっぱり長居すべきじゃないかも知れないな」

 

 もしもメアリー・セレストと同じであるならば、プレイヤーを問答無用で『消滅』させるトラップもあり得る。キリトはそう考えて、だが同時に否定する。意外かもしれないが、DBOにおいて即死トラップは数多くあれども、それらの多くは『回避自体は可能であるが、プレイヤーの力量が著しく不足するが故に不能』といったものである。発動=問答無用で即死といったトラップは存外に少ないのである。

 仮に結果は死だとしても、プレイヤーに生き残る余地をか細かろうとも与えているのがDBOなのだ。故に踏み入っただけで即死はあり得ないのである。

 考えられるとするならば時間差だった。館の状況から『何が起こったのか』を推理し、原因まで掴めずとも離れる。それによって生存を確保する。キリトはやはり早期に合流してここから離れるべきだろうかと悩む。

 だが、これだけの工夫を凝らした上で推理できなければ即死というのも違和感が残る。茅場の後継者は『これだけヒントを与えているのに気づけないなんて、何て愚かなのだろうか』と嘲うような死を与える。つまり、推理できなかった=即死では亡く、推理が出来ずにトラップが発動し、結果的に死に瀕するシチュエーションが生じるというのが正しいだろう。

 そこまで推測したキリトは何にしても同じ事か、と溜め息を吐く。まだ安全な内にこの館から離れるべきだろうと判断を下す。

 

「ユナ、皆と合流を早めよう。確定じゃないけど、この館の敷地内にいることが危険かも知れない」

 

 そう言ってキリトは足早に浴場を離れようとした時、彼の袖をユナが掴む。

 何か発見したのか。キリトが振り返れば、沈痛な面持ちをしたユナが俯いていた。

 

<キリト、こんな時に尋ねるべき事じゃないって分かってる。でも、どうしても教えてほしい>

 

「…………」

 

<何を隠してるの? エーくんの何を知ってるの? 教えて>

 

 ああ、本当にこんな時に尋ねる事じゃないな。キリトは目を逸らしたい衝動に駆られる。

 正論を……状況を考えろと一喝するのは簡単だ。賢いユナだ。それだけで黙るだろう。だが、状況を理解した上でユナが質問をぶつけたのは、もはや看過出来ない程に自分の胸の内にキリトに対しての疑念が膨れ上がってしまったからだ。

 一緒に強くなろう。目指す場所は違えども、同じ気持ちだったからこそ、ユナはキリトに師事し、彼もまた応えた。だが、その根底に隠された秘密が顔を覗かせてしまったからこそ、結んだ約束の下で白日に晒さなければ、ユナはキリトを信じて強くなれないのだ。

 だが、同時にユナにペイラーの記憶の顛末を教えないのは、キリトがエイジと約束を結んだからだ。キリトは当事者であるとしても、2人の関係を大きく変質させるかもしれない事実を身勝手に……楽になりたいからと言って伝えることは出来ない。

 そうだ。話してしまえばキリトは楽になれるのだ。自分の罪を、他でもないユナに裁いてもらえるのだ。それはなんと甘美だろうか。

 人は罪を犯した時、罰に怯え、だが同時に欲するのだ。己の心が罪を感じていればいるほどに、罰せられる事を望むのだ。

 

「俺は……俺は……」

 

 喉が熱い。浴室に充満した湯気のせいだろう。ユナもしっとりと濡れ、頬も紅潮し、清楚な見た目に反して艶やかに映る。その瞳は潤んでいて、キリトの良心の呵責を掻き毟る。

 

「俺は……取り返しのつかない事を……俺の傲慢のせいで……っ!? だ、駄目だ! 駄目だ! 駄目なんだ! 言えない! キミには教えられない!」

 

<どうして? キリトがどんな罪を犯しているとしても、私は聞き入れる。許せるかどうか分からないけど、絶対に頭ごなしにキリトを否定しない。信じて>

 

「ああ、そうさ! それくらい分かるよ! ユナは……ユナは……まだ短い付き合いだけど、優しくて、気高くて、勇気があって、間違いを正せる人なんだろうって、俺にも分かる! 俺の罪だって……キミなら許してくれるんだろうって、たとえ罰を下すとしても俺を責めたものじゃないんだろうって……想像できてしまうんだ!」

 

 想像できてしまって、だからこそ安堵してしまって、楽になりたくて……エイジとの約束を破ってでも楽な方に『逃げる』事を選ぼうとしている自分が……嫌になる! キリトは自然と語気を荒げてしまっている事に気付き、クールダウンを訴えかけて前髪を掻き上げる。

 ああ、きっと風呂場の熱気のせいだ。キリトはスケッチブックに新たな言葉を綴ろうとするユナに、まるで縋り付くように頭を下げる。

 

「頼む。もう……聞かないでくれ」

 

 キリトはユナに背を向け、脱衣所に戻る。

 きっとユナには嫌われてしまっただろう。だが、それでも貫かねばならない理由がある。キリトは自分の罪と向き合っ宝こそ、エイジとの約束を優先する事を選ぶ。

 だが、感情的になったのはさすがに不味かったな。すぐに反省したキリトは謝罪しようと振り返り、そして絶句する。

 ほんの数メートルも無い距離だったはずだ。振り返れば間近にいたはずだ。

 

 

 だが、浴場にいたはずのユナの姿形はまるで最初から存在しなかったように消えていた。

 

 

 まさか……タイムリミット!? トラップが発動した!? キリトはそう考えたが、同時におかしいと気付く。

 邸宅に最初に入ったのはキリトとシノンだ。順番で言うならば、キリトが先に消えていなければおかしい。だが、実際にはユナが先に消失してしまった。

 ユナが何らかの条件を満たし、先に消えた? キリトは青い顔で、自分に冷静になれと訴え続ける。ここでパニックを起こすのは簡単だ。肝心なのはユナ消失の発生原因を早急に解明し、彼女を救出する事である。

 キリトは何か手がかりは残されていないだろうかと浴場に戻ろうとして、だが背負う月蝕の聖剣の警告するような高音に足を止める。

 聖剣の警告はただ1つ。浴室に戻ればユナと同じように消失するという事だろう。キリトは後退り、緩慢な動作で脱衣所を後にしようとして、だが途端に背中から抱擁にも似た包み込むような圧力を感じる。

 振り返れば、脱衣所の鏡があった。鏡には当然のようにキリトが映っている。

 だが、鏡に映っているのは『自分の背中』だった。振り返れば、自分の顔が映るはずなのに、鏡が映すのはまるで時が止まったかのように、自分の背中だったのだ。

 キリトは聖剣の警告の真意を理解する。聖剣は浴場が危険だと伝えたのでは無い。『今この瞬間がすでに危険である』と通達していたのだ。

 瞬間にキリトは一瞬の浮遊感を味わい、視界がブラックアウトしたかと思えば、全身を痛み無く殴られて揺さぶられたかのような衝撃を受けてよろめく。幸いにも膝をつく事は無かったが、酷い鈍痛が後から頭の芯より響いた。

 トラップが発動した? キリトはHPバーを、次にその下のアイコンを確認し、だが特に状態異常にかかっていない事を確認する。念には念を入れてステータス画面を確認するが、デバフの蓄積も無かった。

 何が起こったのか。キリトは月蝕の聖剣とメイデンハーツを抜き、いつでも戦闘できる準備を整える。更には不測の事態に備えて心意さえも発動できるように意識を研ぎ澄ます。

 だが、何十秒経っても脱衣所に変化は見られず、キリトは脂汗を滲ませながら、移動すべきだろうと判断する。このままこの場に止まっていても事態が好転する事はまず無いのだから。

 脱衣所から廊下に出たキリトは特に何も変化が無い事にこそ不安を覚える。

 まずは合流だ。ユナの消失を皆に伝え、全員で固まって動く。いや、自分以外は館の外に出てもらい、何が何でもユナを探し出さねばならないとキリトは自責の念に駆られる。

 屋外にいるシリカとの合流を優先したキリトはエントランスへと駆け、そのまま玄関から出ようとした瞬間だった。

 視界の端を……エントランスの階段の踊り場を……懐かしい……もう2度と目にすることがないだろう『色』が過ぎった。

 

 

 まるで春風のように温かく優しい茶色の髪。最後に目にしたのは血で汚れ、死で穢れていた色。

 

 

「……アスナ?」

 

 思わずキリトはその名を口にしていた。足を止めて見上げれば、茶色の髪の主は……2階の1室に消えていった。

 

「アスナ!」

 

 キリトは爆発するように駆け、彼女が消えたドアの前に立ち、乱暴に開こうとして、瞬時に冷や水を思考に浴びせる。

 

「いい加減に……学習しろ……馬鹿野郎!」

 

 何度同じような手に引っかかれば気が済む!? どれだけ同じような間違いを繰り返せば成長する!? キリトは深呼吸をして聖剣を握ったままの右手で己の額を打つ。

 情報を整理する。今まさに見たのはアスナの後ろ姿だ。だが、アスナ本人だろうか? 断じて否である。アスナはすでに死亡しており、こんな所にいるはずがないのだ。

 ならば自分の脳が作り出した幻影か? これもまた否だ。絶対にあり得ないとも言い切れないが、さすがにこの状況で、これまで見た事も無いアスナの幻覚を見たなど考え難い。

 

「心は熱く、思考はクールに。考えろ。考えるんだ」

 

 DBOでは何が起こってもおかしくない。キリトは初心に立ち返る。

 この邸宅のトラップが何なのかは分からない。だが、アスナの後ろ姿を突如として見たのと関連性が無いはずが無いのだ。

 ユナは突如として消失し、鏡はキリトの後ろ姿を映し、アスナの幻影を見る。

 

「駄目だ。まるで関連性が見えない」

 

 だが、繋がっている。情報が足りないだけだ。キリトはそう判断した。3つの現象は1本で繋がっているが、キリトの視点では関連性を見出せないだけだ。

 情報と視点がいる。キリトはアスナが入った部屋を開ける事を否定し、皆との合流を優先する。

 だが、玄関から出て庭園を見て回っても、北館と南館を歩き回っても、他の面々の姿を見つけることは出来なかった。

 それだけではない。いつの間にか邸宅の敷地を覆う柵の向こう側は霧によって覆い隠されていた。また、正門も固く閉ざされており、キリトがSTRを全開にしてもピクリとも動かなかった。

 

「北館は遊戯室、談話室、それに書庫か。南館は主に邸宅の住人の私室。そして、中央館が浴場、調理場、食堂、それに客室か」

 

 また離れには小さな別館があり、そこは使用人の住居のようだった。もちろん、無人である。

 考える。もしかしたならば、消えたのはユナではなく、自分の方ではないではないだろうか。それならば辻褄が合うのだ。キリトは自分がトラップに引っかかった側なのかもしれないという前提の下で行動を再開する。

 1時間と待たずしてキリトは新たな情報を得る。鏡や銀食器といった、姿を映すものに対して、キリトは映らなくなっていたのだ。脱衣所に戻り、最初に異常性を見せた鏡の前にも立ったが、やはり姿は映らなかった。

 それだけではない。先程まで生活感溢れていたはずの邸宅内であったが、今度はまるで中身を抜き取られた抜け殻のように、まるで生気が無かった。

 浴場は冷え切った水が張られ、調理場のスープは腐敗し、食堂の銀食器は黒く濁り果てていた。

 むしろ安心する。干からびた果物と異臭の方がDBOらしさを感じてしまい、キリトは自分の正気に若干の疑いを持ちつつ、唯一探索していない部屋の前に立つ。

 アスナが入った部屋だ。完全に調べ尽くしたとは言い難いが、邸宅内を一通りに見て回り、残すのはこの部屋だけだった。

 開けねばならない。だが、先程の感情に振り回されていた時とは違う。情報収集として扉を開けるのだ。結果は同じでも、そこに至るまでの過程の違いが心に通った芯の強さを変える。

 扉を開ければ、そこは客間の1室らしく、ベッドはもちろん、テーブルや椅子といった調度品、大きな月と湖畔の絵画、そして開かれたままの三面鏡があった。

 三面鏡に映り込まないように足を運び、慎重に部屋を観察するが、特に目を引く点は無い。やはり三面鏡を調べるしかないのかとキリトは意を決して踏み出す。

 三面鏡に映るのはキリトの姿ではない。いや、正確に言えば、キリトは映っている。だが、そこには今のキリトは映っていなかった。

 若い。10代後半だろうか。ブレザーの制服を着た、今のキリトよりも幼さと中性的な容姿が強い。今のキリトは背も伸び、筋肉もつき、顔立ちも中性的ではありながらより男性的になっている。青年として……『男』として成長を遂げている。

 だが、鏡に映っているのは、まるでキリトが得られなかった青春を謳歌しているような少年のキリトだった。そして、少年のキリトの隣にはアスナが幸せそうに笑っている。同じ制服を着て、まるで同じ学校で同じ時間を味わえているかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、それは……きっと……心の中に抱いていた……欲しくて堪らない……得られなかったはずの『記憶』。

 

 

 

 

 

 

 

 

「キリト君! いつまで寝てるの!?」

 

「ふぇ!?」

 

 そして、キリトは『目覚める』。涎を垂らした間抜け面で、椅子を並べて作ったお手軽ベッドで横たわった姿で、自分を見下ろすアスナの顔を見る。

 ここは……ここは何処だ? キリトはぼんやりとした頭でそう振り返り、何を当たり前のことを笑う。『嗤う』のでは無く、『笑う』。

 通称・帰還者学校。『SAO事件解決後、被害者となった青少年の健全なる育成と社会参加を目指す教育施設』だ。世間の穿った見方では隔離施設と批判される事もあるが、SAO事件で大なり小なり心に傷を負った若者達が再び未来を見据える為には必要な処置でもあった。

 SAOに囚われていた期間に得られなかった教育を受けられるだけではなく、一般の学校にはまだ導入されていない最新の設備も率先して取り入れられていることが実験施設とも言い換えられないことも無いが、生徒の自主性を重視し、望んだ高いレベルの教育指導を受けられる恵まれた環境だとキリトは分析している。

 もちろん、SAO事件による遅れを取り戻し、医師の許可を受けて一般の学校に移った者もいる。またSAO事件被害者全員が通っているわけではない。被害者が全国に及んでいる以上、関東圏以外では親御の元の方が精神衛生上よろしいと判断された者も多い。

 

「ごめん。調べ物してたら眠くなってさ」

 

「もう! だからってこんな所で寝たら風邪引くよ? もう12月なんだから」

 

 叱るアスナの指摘で、確かに寒いと身震いしてくしゃみをすれば、それ見た事かと呆れた眼差しをしたアスナに、キリトは思わず苦笑で応えた。

「調べ物って何? わざわざ資料室を借りないといけないものだったの?」

 

「……SAO事件について、もう1度知りたかったんだ」

 

 SAO事件。茅場晶彦によって引き起こされた、1万人以上の人間を仮想世界に幽閉した世界初の大規模電脳殺人事件だ。

 解放条件はただ1つ、全100層になるアインクラッドを完全攻略する事。だが、茅場晶彦の目論みは75層のボス戦後、キリトが血盟騎士団のリーダーであるヒースクリフの正体を茅場晶彦であると看破した事でまさかの展開を迎える。

 すなわち、茅場晶彦ことヒースクリフとの一騎討ちに勝利すれば、全プレイヤーは即解放。この条件の下で行われた戦いで、キリトは『ヒースクリフに勝利』し、それまでに生き残っていた全プレイヤーの解放に成功したのだ。

 世間ではキリトをアインクラッド解放の英雄などと持て囃す書物が出版されているが、あれは運が良かっただけだとキリトは振り返る。焦ってソードスキルを発動させ、絶対的な隙を作り、だが麻痺状態で動けなかったはずのアスナが庇ってくれて、そして失意と絶望の中でもヒースクリフに刃を届かせた。最後の攻撃も、どう考えてもヒースクリフのHPを削りきるには絶対的にダメージが足りなかったはずだとゲーマーとしての分析が告げている。

 何らかの、厳格にして冷血なるシステムを揺り動かした何かがあった。そう思えてならず、キリトはわざわざ資料室の端末からSAO事件についての情報を調べていたのだが、何の成果も得られず、疲労だけが溜まり、つい不貞寝をしてしまったのだ。

 

「確かに、どうしてあの時、私が動けたのかは不思議だし、キリト君の疑問も尤もだけど……」

 

「だろ? どうしても気になるんだ」

 

「でも……それってそんなに重要な事かな? 今ここで私たちが生きてる事以上に……大切な事かな」

 

 夕暮れの光が差し込む廊下を歩く中で、アスナは心配そうに呟く。

 確かに暖房も付けずに眠ってしまったせいで、手足の末端はすっかり冷え切ってしまっているが、別に凍死するわけでもないのだ。キリトは大げさだと笑う。

 

「あー! それよりも腹減ったな!」

 

「帰りにどこか寄っていく?」

 

「でも、今日はスグが早く帰って来いって言ってたんだよな。ほら、ALOでさ」

 

「ああ、もしかしてコラボイベントの事?」

 

「そうそう。運営も太っ腹だよな。レアアイテムを大量放出するらしくて、それ狙いのPKも多発してカオスらしいけど、お祭り騒ぎみたいになってるみたいでさ」

 

 妹の直葉との関係も良好だ。SAO事件以前はギクシャクしていてもいたが、SAO事件後に起きた須郷によるSAO生還者の1部を仮想世界に幽閉し、彼らの脳を利用した実験……通称ALO事件において兄妹の絆を取り戻したからだ。

 そうだ。あれから色々あった。SAO生還者にしてラフィン・コフィンの生き残りである【赤目】のザザを主犯とした、彼の弟や仲間が引き起こしたGGO事件なんて事もあった。そこで出会ったシノンは今ではすっかり友達であり、ゲーム仲間だ。

 暇さえあれば、エギルが経営するダイシー・カフェに屯して、新たなゲームについてあーでもないこーでもないと議論し、ゲームを出会いの場としても活用するクラインの不埒な発言に辟易したり、何かと事件があっても楽しい毎日だ。

 SAO事件で失った時間を取り戻すような……いいや、それ以上に大切な人たちと共有した時間を得られた、素晴らしい日々である。

 

「仲良く揃って下校なんて、相変わらずアツアツだね~」

 

 校門前では茶髪とそばかすの少女……リズベットがいた。自分にとってかけがえのない専属鍛冶屋であり、彼女のお陰でSAOを生き残れたと言っても過言では無い。

 

「も、もう、リズさん! そんな言い方……!」

 

 そして、リズベットの後ろに隠れるようにして待っていたのはツインテールの少女、シリカ。この中では最年少である彼女もまたSAOで出会った大切な仲間であり、友人だ。やや気弱であるが、ここぞという時には勇気を発揮できる女の子であり、彼女にも心を救われた事は1度や2度では無い。

 

「…………」

 

「ふぇ!? キ、キリトさん? どうしたんですか? そんな……」

 

 思わずシリカをジッと見つめてしまい、彼女は顔を真っ赤にして後退る。

 

「あ、ごめん。なんかシリカに……こう……違和感があって」

 

「違和感、ですか?」

 

 自分では分からないと可愛らしく首を傾げるシリカに、リズベットは腕を組んだかと思えばクンクンと鼻を鳴らし、彼女の頭に顔を近づける。

 

「あ、やっぱり。シャンプーを変えたからじゃない? シリカらしくない大人の女の香りが……」

 

「リズさんのヘンタイ」

 

「……リズったら」

 

「えー!? あたしのせい!? キリトが変な事を言い出すからじゃん!」

 

 シリカにヘンタイ認定を喰らい、アスナに冷たい眼差しを向けられたリズベットはキリトに罪をなすりつけようとする。だが、キリトはそれを無視し、自分の中で膨らむ違和感を咀嚼する。

 分からない。頭に何かが引っかかる。リズベットにしてもそうだ。どうしても目線が彼女の手首に向いてしまうのだ。まるで忘れてはならない罪を思い出させようとするかのように。

 

「キリト君、大丈夫?」

 

「ああ、ごめん。きっと気のせいだな」

 

「そうそう! あ、そうだ! だったら気晴らしに駅前の新しいカフェに行かない? 何でもオリジナルブレンド珈琲にマッチしたケーキが絶品なんだってさ」

 

「私も気になってたの! あ、でも、キリト君は用事があるんだよね……」

 

「だったら女子だけで楽しみましょ。ね、シリカ?」

 

「別にいいですけど……昨日もチョコレートパフェで今日はケーキって……太りますよ?」

 

 シリカの申し訳なさそうな指摘に、リズベットは笑顔のまま凍り付き、頭の中で消費カロリーと摂取カロリーを計算しているのが丸わかりの顔でうなり始める。

 

「……どうして2人は太らないのよ!? ゲーム三昧でろくに体を動かしていないのは一緒でしょ!?」

 

 そして、泣き叫ぶようにシリカとアスナを指差すリズベットに、アスナは大きな溜め息を吐く。

 

「バランスの取れた食事と適度な運動は健康維持の基本よ。ゲームしていない時間はちゃんと体を動かしてるわ」

 

 完璧な模範回答に殴られたリズベットはシリカに救いを求めるも、彼女も頬を掻きながら申し訳なさそうに口を開く。

 

「朝と夜にお父さんと一緒にランニングしてますから」

 

「ぐはっ!?」

 

 撃沈されたリズベットはまるでダメージによるノックバックを受けたようにフラフラと体を揺らし、最後の希望とばかりにキリトに縋り付かんとする。

 

「キリト! あんたは違うわよね!? 時間さえあればゲームしかしない廃人だもんね!?」

 

「……あー、ごめん。俺もスグに付き合って竹刀を振ってるからさ。兄妹のコミュニケーションって奴?」

 

「裏切り者ぉおおおおおおおおお!」

 

 その後、慰めるようにアスナが自分と一緒にスポーツをしようと提案する。涙目で鼻水を啜る彼女は将来の危機を見通し、ダイエットを兼ねた運動を志したようだが、いつものように三日坊主以前に始まりもしないのだろうなとキリトは笑う。

 夕暮れの先の夜の闇。星々が都会の光に邪魔されながらも輝きを見せる。

 ああ、そうだ。アインクラッドでは本物の星空が見えなかった。だからアスナと本物の星空の約束をして……それで……、とキリトは回想し、だが夜空の端に浮かぶ月を見て意識にノイズが走る。

 

 

 嵐の終わりを迎えた、花びらが浮かび、また水の下に沈んだ花畑。

 

 夜空を移し込んだ水面に刻まれた波紋を生み出すのは麗しき舞い。

 

 誰かが手を伸ばしている。純白の髪を聖女の如く夜風で靡かせて。

 

 

「絶望の大地に種を撒こう」

 

「……え?」

 

「ごめん。なんか……月を見てたら……言いたくなってさ」

 

 変な事を口走ったせいか、3人が振り返り、キリトは恥ずかしくなって頭を掻く。

 絶望? そんなものは無い。『今』は幸せだ。命のやり取りもなく、未来に想像を膨らませ、愛する人がすぐ傍にいる。これを幸せを呼ばずして、何を幸せと定義するのか。

 

 

 

 

 

 

 だが、平穏では決して手に入らない。武の頂に至る。闇濡れの騎士のように、あるいは反逆の汚名を背負った騎士の如き極地に至る事はできない。

 

 

 

 

 

 

 指先が震える。まるで闘争を欲しているかのように。キリトは訝しみ、空白の手のひらに何かが不足しているような空虚感を覚える。

 それは剣の重み。ゲームのやり過ぎだろうか? まるで指先に重厚な圧がかかっていなければ落ち着かないような、更なる強敵を打ち破らんと欲する獅子の雄叫びのような、熱く煮え滾るものを感じる。

 

「ごめん、2人とも。今日は先に帰ってくれる?」

 

 アスナは突如として別れを切り出し、リズベットとシリカを先に帰らせる。余程に酷い顔をしていたのだろう。キリトは止まらない頭痛を抑えるように公園のベンチに腰掛け、街灯に照らされながら、惨めに思える程にうなだれる。

 

「珈琲で良かった?」

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 アスナの屈託の無い笑顔にキリトは頭痛が消える。そう思い込みたくなる程に、頭痛は鋭さを増して大きくなる。

 冷たい。夜風がこれ以上無く凍えている。ああ、当然だ。今は12月なのだ。もうすぐクリスマスなのだ。キリトは当たり前の情報を羅列し、だからこそ生じる喉に詰まったような違和感を胃に流し込もうとする。

 

「キリト君、何に悩んでるの?」

 

「…………」

 

「言ってくれないと分からないよ。私、キリト君の力になりたい。でも、何も教えてくれなかったら……何も助けられない」

 

「…………」

 

「悔しいよ! 私……キリト君にとってそんなに頼りないの?」

 

「違う。違うんだ」

 

 だから泣かないでくれ。笑顔のまま涙を流すアスナがあまりにも痛々しくて、キリトは直視することができずに、己の顔を右手で覆う。

 

「さっきから変なんだ。ここには俺の望んだ『結果』がある。ヒースクリフを倒して、皆でアインクラッドから帰ってこれて、スグとも仲直りできて、事件があっても確かに結べた絆が増えて……」

 

 生きている。死んで欲しくなかった、傷ついて欲しくなかった、傍にいて欲しかった人が生きている。

 救えなかった人もいる。傷つけてしまった人もいる。苦しめてしまった人もいる。だが、それでも1つ1つを乗り越えて、あるいは傷として受け入れて、前に進めている『理想の今』がここにある。

 

「だけど……だけど、違うんだ。絶対にあってはならないんだ。キミが……アスナが……俺を何の迷いも無く愛してくれているって……自惚れるくらいに信じられるように……名前を呼んでくれるなんて……あってはならないんだ」

 

 だって、俺は無力だったから。キミを救えなかったのだから。怒りと悲しみと憎しみを乗せた刃はヒースクリフに……茅場晶彦に届かなかったのだから。

 無力だったからこそ、愛する人を……アスナを失った。

 

 

 

 

 そして、無力を憎んだ果てだったからこそ、決して分かり合えるはずが無かった、純白の友を得た。

 

 

 

 

「……キリト君」

 

「最低だな。嬉しいんだよ、俺は。キミに名前を呼ばれる度に、歩んだはずの道のりも、犯した罪も、得られたはずの新しい繋がりも、何かもが……『どうでもいい』って思えてしまいそうになるんだ」

 

 キリトの告白に、アスナは沈黙を守る。だが、彼女はやがて悲しそうに微笑んだ。

 

「そっか。キリト君は『また』帰ることを選ぶんだね。たとえ地獄だとしても……苦しみと悲しみで敷き詰められているとしても……それでも……帰るんだね」

 

「ああ。でも、前とは違う。あの時は……『本物のアスナ』が待っているはずだって執着心が俺を帰らせた。でも、今回は違うよ。キミと……キミと決別する為に……帰るんだ」

 

 ベンチから立ち上がったキリトは改めて振り返り、アスナを正面から見据える。

 

「憶えてるか? 約束したよな。一緒に星を見に行こうって」

 

「……うん」

 

「約束を守れなくて……ごめん」

 

「謝らないで。守れなかったのは私の方なんだから」

 

「……許してくれるのも、俺にとって都合の良い夢だからなのかな?」

 

「違うよ。『貴方が知ってるアスナ』なら許すからこそ、私も許すの」

 

 だったら、やっぱり都合の良い夢だ。本物のアスナがどんな選択をするかなんて俺には想像できないのだから。苦々しく笑い、だがそれでも決別の為にキリトはアスナに……『夢のアスナ』に背中を向ける。

 

 

 

 

「さようなら。俺が……初めて愛した人」

 

 

 

 

 意外だ。涙は無い。キリトは自分がそこまで無情だったのかと一瞬だけ絶望しそうになるも、そうではないとすぐに悟る。

 きっと、心の奥底ではもう乗り越えていたのだろう。それなのに、みっともなく縋り付いていたかったのだろう。ならばこそ、情けない自分を噛み締める。

 いつしか周囲の建物は全て溶けて消え去り、星が輝く夜の闇を歩き、やがて純白を見つける。

 いいや、違う。白では無い。黒だ。月蝕の闇を溶かしたような黒髪のクゥリだ。漆黒のワンピースを纏い、闇の空白に腰掛けている。

 

「想起。人は過去に夢を抱き、理想を求める。『あの時こうだったならば』と。『この時ああしていれば』と。過去の選択を悔やみ、だからこそ過去に都合の良い夢を重ねる。それが『真実』だと信じたくなる。『事実』は変わらないというのに」

 

「ああ、そうだろうな。俺も思い込みたかったよ」

 

「溺れてもいいではありませんか。そこに苦しみはありません。及ばずながら、この夢が末永く続くお手伝いをするのもまた、私の役目だと存じます」

 

「心無い事を言わないでくれ。俺は……俺は最低の人間さ。アスナが思っているよりもずっとずっと……恋い焦がれているんだ」

 

 ああ、認めよう。キリトは震える右手で迷い無く拳を握る。

 

「自分の武が何処まで行けるのか知りたがってる。俺の道で、俺だけにしか至れない極みにたどり着きたがっている。俺は……俺は……ずっと、心の何処かで、更なる高みを、強敵との出会いを、闘争を求めていたんだ。アスナが死んだ事で、やっとそんな自分の後ろ暗い欲望に気づけた……最低の屑だ」

 

「武を志した者が武の頂を求めるのは必然。何を恥じることがありましょうか」

 

「それでも、アスナが生きていたら、俺はこの欲望からずっと目を背けていたんだ。だから……」

 

 キリトが握った右拳を、ふわりと浮いて彼の前に立った漆黒の髪のクゥリは優しく両手で包み込む。

 本物のクゥリよりも背が小さい。見目もより幼い。まるでSAO時代のクゥリの映したかのようだ。キリトが初めて出会った日の思い出から飛び出してきたかのようだ。

 

「私は似非。月蝕の声の形。望もうとも望まずとも、この手が見出した唯一無二の贋作。武の頂を目指すのも、大切な人々を守るのも、身勝手に救い続けるのも、全ては傲慢であるが故になせる罪だとするならば、この似非こそが罰そのもの。ならばこそ、いつまでも共にありましょう。死が我らを分かつまで」

 

 漆黒のクゥリは笑み、そして姿を消す。否、月蝕の聖剣となってキリトの右手に戻る。

 いつしか姿も学生から元に戻っていた。気付けば、目前には割れた三面鏡が破片をまき散らしている。

 

「……2回目だな」

 

 改変アルヴヘイムで1度受けた精神攻撃と類似したものだ。だが、あの時よりも没入が激しく、また『過去の記憶』としてすり替わっていた。より凶悪で、そして何よりも甘美だ。『過去』を追体験するような形で『今』に取って代わっていたのだから。

 もしかしたら、75層でヒースクリフを倒せていたならば、あんな『IF』もあったのかもしれない。だが、夢は夢だ。過去に夢想をしても空しいだけだ。キリトは悲壮とは正反対の高熱を帯びた感情で月蝕の聖剣を振るい、舞う鏡の破片を完全に滅する。

 

「俺はもう……『アスナ』に生きる理由を求めない。戦う理由を欲しない。未来を歩く理由にはしない」

 

 キリトは自覚する。アスナへの愛が過去となったのだと。もう後ろ髪を引かれることはない。

 愛した事実は変わらない。それは不変だ。過去に刻まれた感情だ。

 だが、今を生きるキリトはそれに囚われることを是としない。彼女への愛にはたくさんの悲しみと怒りと憎しみが絡みついているからこそ、過去として背負うべきものだと受け入れる。

 

「ありがとう、アスナ」

 

 だからこそ、感謝を。キリトは毅然とした足取りで部屋を出て行った。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「さて、どうなる事やら」

 

 レヴァーティンは1人の例外も無く捕らえた魔窟とも呼ぶべき場所……【シェムレムロスの別邸】を見据える。彼女は邸宅との敷地内に入る事無く、館を囲う柵に背中を預けながら腕を組む。

 この館はシェムレムロスの魔女の創造物の1つ。彼女が追い求めた『永遠』の名残だ。故に一筋縄ではいかないのであるが、事はそう単純ではない。

 レヴァーティンは右目があるべき場所の窪みを弄る。今の彼女の右目は別のレギオンに移植し、視覚共有を行っている。

 レギオン・ネットワークを使えば、他のレギオンが収集した情報はほぼリアルタイムで獲得出来る。だが、それは言うなれば知識だ。経験として獲得できない。

 レギオン全体で蓄積された情報はレギオンという種を底上げする。だが、同時に個々で経験した情報はまた別の学習プロセスとして機能し、明確な個体差として発露する。

 人類もまた同じだ。知識を文章や絵画といった別の媒体で集積し、経験を技術として昇華させ、当代で芽生えた肉体の素養を子に継承させる。

 だが、レギオンは人類とは比較にならない速度と容量で知識を集積し、個々に余すことなくフィードバックし、また個体毎の個性を発露させる為に経験を重視した差別化が組み込まれている。

 種族全体で解決しきれない問題に直面した時、だからこそ個体性能の成長……特異を意図して生み出す。これこそがレギオンがレギオンとして成立する強みの1つだ。

 現行のあらゆる『生命』という枠組みにおいて、最速・最高の進歩を可能とする種族こそがレギオンであるとレヴァーティンは自信を持っている。

 

(レギオンは群体にして最強の個体を頂く。最善は王が玉座を受け入れる事。だが、母上のメインプランは綱渡りだ。王のメンタルを考慮するならば、確率の低い賭けで勝負するよりも、次善のサブプランを複数準備する事が望ましい)

 

 だが、サブプランの要にして次代のレギオンの王を産むという役割を持ったギャラルホルンは将来性の乏しい男に現を抜かす始末だ。もちろん、妹が選んだ伴侶候補の精神面の革新的成長はレヴァーティンも認めるところであるが、それ以上に実力面……戦闘能力における伸び代がレギオンとして重要なのは言うまでもない。

 これはレギオンという種族の根幹……模され劣化した殺戮本能に由来する解決できない問題だ。戦闘面の実力はもちろんであるが、レギオンはそれ以上に実力不相応な困難であろうとも立ち向かい、残酷な現実を覆そうと足掻く勇者にときめく。

 受け継いだ血も、生まれ持った才能も、これまで歩んだ道のりも関係なく、今その瞬間において襲い来る絶望を打破すべく覚醒の扉を開こうとする者。たとえ、天上に輝く星には手が届かずとも諦めることなく五指を伸ばして掴み取らんとする愚者にして、『超越者』の資格を持つ者にこそ全身の血が滾る程の興奮と愛情を覚えるのだ。

 皮肉な事である。戦闘能力こそを至上とするレギオンは、より強大な子孫を残すというプロセスから外れた因子にこそ、何よりも強い好意を抱く。

 あるいは、王より受け継いだ、劣化しようとも確かに宿った殺戮本能は告げているのだろう。『暴力』を打ち砕けるのは、精神の研鑽を経て極限まで鍛え抜かれた『心の強さが伴った暴力』を得た超越者だけなのだ、と。

 それは王を育んだ、呪われた血の営みの中で至った確信が本能に刻み込まれているからなのか。あるいは、『絶対的な暴力』に到達さえすれば、『心の強さが伴った暴力』さえも踏み躙られる塵芥に過ぎないのだという真理への慟哭なのか。

 

「何にしてもこの状況……少々まずいな」

 

 シェムレムロスの別邸。これはアルヴヘイムの正式ミニダンジョンだ。

 だが、開発段階で既にある仕掛けが施されている。改変アルヴヘイムを修復し、数十万回にも及ぶデバッグを行ったセラフさえも気づけなかったシステムトラップが仕組まれているのだ。

 セラフが行ったデバッグは修復されたアルヴヘイムが『既存の状態』として機能しているかどうかだ。言うなれば、チェックシートそのものに問題点が仕込まれていては気づけない。

 最強ではあるが、同時に最古の管理者AIでもあるセラフは、アップデートこそしているが、他の管理者に比べてもより『ロボット』に近しい思考を保持している。それ故に時として柔軟な発想ができない。テストの回答そのものに不備があるという発想に到達しきれなかった。

 これがより高度な思考を要求される課題であったならば、逆に多角的に分析を行う事で問題点を暴き出せただろう。だが、なまじ改変アルヴヘイムから正常な状態への復元作業だったが故に、また管理者として厳格であるが故にプレイヤーの立ち入りまでのリアルタイムという制限から必要最低数しかデバッグ作業が出来なかった。

 そして、アルヴヘイム修復作業中に、レギオンの王も巻き込まれた吹き溜まりとアインクラッドの亡霊娘がもたらした大トラブルによって、ブラックグリントが『戦闘AI最適化テスト』という名目で強襲を仕掛け、アルヴヘイム全土を再び焦土と化す大戦闘というタイムロスをセラフに与えたのも大きかった。

 また、シェムレムロスの別邸の仕掛けは、プレイヤーにのみ与えられたプレイヤータグに反応するギミックが起点となる。プレイヤータグが搭載されていない、デバッグテスト用アバターでは、通常のダンジョンとしてしか検出されないという仕掛け人の巧妙な隠蔽も合った。

 セラフが察知できなかったのも無理はない。レギオンさえも偶然にも立ち入ったプレイヤーを観測できていなければ、シェムレムロスの別邸の真実には至れなかっただろう。

 

「これだけの頭脳がありながら、あの体たらくか。やはり能力と本質に相反した地位・権力・目的とは、本来の実力を著しく損なうものなのだな」

 

 逆に言えば、全力を発揮できるポジションであったならば、どれだけ恐るべき能力があったのか、惜しいものであるとレヴァーティンは純粋に賞賛する。

 

(シェムレムロスの別邸に仕掛けられたトラップは、簡易MHCP。過去の『分岐点』をやり直させ、『都合のいい夢』を仮想世界として、思考・記憶を制限された状態で体験させられるというものだ。現実世界以上のリアリティを体験できるDBOクラスの仮想世界であるならば、『都合のいい夢』はまさしく『都合のいい現実』として完璧にすり替わる)

 

 故に打破は困難だ。『都合のいい夢』とはいえ、そこは閉鎖空間ながらも完璧に肉付けされている。本人の周囲500メートル圏内はオブジェクトが完璧に設計され、人間を含めた生物の思考と反応もハイレベルで再現されている。

 簡易MHPCは感情学習機能をフル活用し、1人多役をこなすことで、『都合のいい夢』に囚われて者がAI的反応を取っかかりにして夢の世界だと気づく確率を大幅に引き下げる。

 故に難題。必要となるのは『都合のいい夢』を否定するだけの強い意志を潜在的に持ち合わせているか、あるいは『都合のいい夢』の中で獲得出来るかだ。だが、後者はおよそ望めない。それだけの精神的成長を遂げるだけの材料……過去の記憶を著しく制限されてしまっているからだ。それどころか『都合のいい夢』の整合性を保つ為に偽りの記憶さえも植え付けられているのだから。

 

「剣士殿は突破したか。正妻殿への未練を完全に断ち切り、精神の成長を土壇場で遂げた」

 

 それどころか、元来持ち合わせていた武への飢餓という、彼の『守護者』という本質をより攻撃的に尖らせる素養も完全に覚醒させてしまった。

 元より兆候はあった。強者スローネとの戦いで武の頂に至る事を志した。しかし、それだけでは弱かった。

 だが、異なる武の頂の到達者である【反逆の騎士】モルドレッドから刺激を受けて己の聖剣を見出し、過去に完全敗北した『最強』たるランスロットによって刻み込まれた心の傷はそのまま高みを求める欲求と化し、レギオンの王との殺し合いが最高峰の闘争という甘美な味を経験させた。

 駄目押しになったのは先のミョルニルとのデュエルだ。心意の成長とは、正負のベクトルの違い関係なく、精神の成長にして拡張であり、革新なのだ。

 

(これまでの積み重ねが『呪い』と化していた正妻殿への『愛』を完全に過去のものとして消化……いいや、昇華させて新たな『強さ』へと変えたというのか)

 

 レギオンにはない強みだ。レギオンではこのような進化レベルの精神的革新は得られない。オリジナルとなる王は『呪い』さえも喰らって糧にして『力』にしてしまうからだ。

 

「ああ、そうか。我らには絶対に無いもの。欠けているからこそ、欲するのか」

 

 まるで、最初から存在しない、いつまでも未完成のままのジグソーパズルのピースを探し求めるいるかのように、レギオンは己に不足した人間の心を……『強さ』を……『人間性』を渇望せずにはいられない。むしろ、王の因子を受け継いだ上位レギオン程にその兆候は強まるだろう。

 

「……羨ましいな」

 

 羨望。いいや、違う。レヴァーティンは嘆息を吐く。今だけはレギオン・ネットワークに繋がっていたくないと願う。この感情を知識として共有させたくない。家族に獲得させたくないと望む。

 そうだ。この感情の名を『嫉妬』と呼ぶのだ。

 

「母上、どうして私は『誠実』なのですか?」

 

 ミョルニルは『好奇』を受け継いだ。無限の成長性と柔軟性を持つ。そもそも伴侶……レギオンが次代を産むというプロセスを婚姻になぞられて欲したのはミョルニルが始まりだ。彼女がいなければ、サブプランは無かった。

 ミョルニルが羨ましい。純粋に好意を抱き、何にも恐れずに接し、故に種の存続を争わねばならない人間の中でも何ら迷い無く己の居場所を作れてしまうのだ。ああ、だからこそミョルニルが妬ましい。

 最も優しいが故に最も底知れない『慈悲』を受け継いだグングニルは、殺戮本能を影と分離することによって個体の慈善の精神性を隔離・維持し続ける事を可能とした。それ故の苦悩はあるが、彼女はレギオンで唯一の殺戮本能とは完全に断ち切られた思考を可能とする。

 グングニルが羨ましい。殺戮本能から分離された思考を可能とするが故に、彼女はレギオンに進歩をもたらす感情データを提供し、またそんな彼女の在り方はレギオンの王より最上の名誉を得た。ああ、だからこそグングニルが妬ましい。

 狂い果てた『敬愛』を賜ったギャラルホルンは、人類ではなく人間という個を愛することを学んだ。人類種の輝かしい『強さ』……人間性を尊ぶ因子は、やがて個体が有する可能性を深く思慮させ、『強さ』に反する『弱さ』さえも受け入れ、やがては昇華する期待を込めた愛へと到達したのだ。

 ギャラルホルンが羨ましい。レギオンの殺戮本能を超越し、個の不確かな可能性と精神の変革に魅入られ、だがそれを取っかかりにして、個に対する、王より受け継いだ模され劣化した殺戮本能と拮抗、あるいは凌駕しかねない『個から個への愛』を得た。ああ、だからこそギャラルホルンが妬ましい。

 

「ダーインスレイヴ。あるいは、お前なら私の……」

 

 この嫉妬を理解してくれるのか? 思わずそう口から零れそうになって、それだけは絶対に無いだろうとレヴァーティンは自嘲する。

 何を企んでいるのかも分からない末妹。だが、ただ1つ言えることがあるとするならば、レギオンという因果に囚われているからこそ、レギオンの宿命で研ぎ澄ました刃を、レギオンとは無縁だった者に託すことを選んだ。誰が見ても負け犬だった者を信じ続ける事を選んだ。

 そんなダーインスレイヴが、醜くも妹たちを妬む長女に理解を示すはずが無い。同情など抱かない。あるのは軽蔑だけだろう。

 

「王よ、苦しいのです。貴方から受け継いだ『誠実』は……まるで呪いです」

 

 種の存続の為に『誠実』であれ。

 

 未来の繁栄の為に『誠実』であれ。

 

 家族の為に『誠実』であれ。

 

 だが、『誠実』である事にいつも空虚を覚えるのは何故だ。

 

「『私』にとっての『誠実』は何なんだ? 教えてください。私は……私は……私は……!」

 

 嫌だ。妬みたくない。愛する妹たちを嫉妬で汚したくない。自分に『誠実』を受け継がせた母の真意を知りたくない。

 もしも、自分がレギオンの『個体』ではなく『群体』としての機能を任せられているならば、個体としての思考も感情も要らなかった。群体に奉仕する『誠実』であれば、それで良かった。

 だが、分かっているのだ。それではレギオンとして成立しない。レギオンは群体にして最強の個を頂く種族。それすなわち、群体と個体の両立こそがレギオンなのだ。どちらかに偏重することは合っても、どちらかが欠けていてはならない。

 レギオンは大なり小なり、王の因子の影響を持っている。レギオンが嘘を嫌い、また契約を決して破らないのは、全てのレギオンに王の『誠実』が影響しているからだ。

 だが、王の『誠実』そのものを受け継いだレヴァーティンだからこそ、それは王の『誠実』の発露の1つに過ぎないのだと言い切れる。

 深呼吸を挟み、レヴァーティンは落ち着きを取り戻す。今の感情データもレギオン・ネットワークに残り続けるが、わざわざ獲得しようとするのは母くらいだろうと割り切った。

 

「私はレギオンだ。レギオンである事に誇りを持っている。レギオンの未来を獲得し、繁栄をもたらす事が私の使命」

 

 平静を取り戻したレヴァーティンの意識は再びシェムレムロウの別邸に移る。

 

「さて、グングニルに『救援』を送るべきか否か……」

 

 簡易MHCPが作り出す『都合のいい夢』は大した問題では無い。打破できないならば死ぬだけである。だが、プレイヤーに偽装しているとはいえ、ミョルニルはレギオンであり、そして途方もない馬鹿だ。過去の分岐を求めたとしてもたかが知れており、また彼女の好奇心は常に『未来』を思考する。故に必ず打ち破れる。

 そう、『正常』にトラップが機能したならば、問題ないのである。だが、『都合のいい夢』を見せる対象がミョルニルではなく、別のモノだったとするならば?

 何よりも、ミョルニルには予想外の『トラップ』が仕込まれていた。レヴァーティンは素直に自分のミスだと認めた。『あの戦い』において、レギオンの天敵とも呼べる存在に何もされていない方がおかしかったのだ。だが、人間形態を手に入れて遊び回るミョルニルを自由にしてメンテナンスを怠った。妹を想う姉の思考が招いた危機だ。

 

「……だが、見方を変えれば好機か」

 

 賽は投げられた。後は出目だけである。場合によっては、レギオンの、【黒の剣士】一行の、王の、あるいは全ての運命を狂わせるかもしれない。

 ああ、それはとても『面白い』だろう。レヴァーティンは計画通りに進む事を欲する『誠実』とはかけ離れた、何もかもを破滅に誘う混沌を渇望する狂笑を己が描いている事に気付いていなかった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 直葉は振り返る。そこには『日常』がある。

 今日も兄はだらしなくリビングで寛いでゲーム雑誌を捲っている。たまには運動しろという自分の小言など右から左に聞き流し、将来の腹囲が心配になるほどのだらけ具合だ。

 SAOの正式サービスが行われた日、直葉は兄にろくに見送られもせずに家を出発した。当時はまだ兄妹仲もギクシャクしており、ある意味では他の兄妹と似たり寄ったりの、いずれはろくに会話もしなくなるだろう距離の分離の感じていた。

 あの日、『忘れ物』があった。いや、『落とし物』かもしれない。どちらにしても気になった直葉は『取りに帰る』ことにした。

 だが、やはり見つからない。もしかしたら兄が拾ったのかも知れないと私室をノックして開けてみれば、ナーヴギアを被って今まさにSAOにログインする寸前だった。

 

『忘れ物って何だよ?』

 

『……お守り』

 

 ぶっきら棒に尋ねた兄に、直葉は恥ずかしくて顔を背けながらも告げた。兄はそもそもお守りとは何なのか心当たりが無いといった顔をして、それが癪に障った直葉は感情的になった。

 

『お兄ちゃんがくれたお守り! 元旦に! 剣道頑張れって勝利祈願のやつ……くれたじゃん!』

 

『……何年前の話だよ。それよりも、まだ持ってたのか? お守りって1年毎にお焚き上げした方がいいんだぞ』

 

『だって、お兄ちゃん、次の年はくれなかったじゃん! その次も! 次の次も! 次の次の次も! 今年も!』

 

 思わず目尻に涙を溜めた直葉に、さすがの兄も狼狽えて、ナーヴギアと彼女を何度も見比べた後にうなり声をあげ、妹をあやす事を選んだ。

 不和ではなくとも積もっていた不満が爆発し、どうして昔みたいに仲良くできないのかと感情をぶつけて泣く直葉と、妹の駄々を聞いて触発されてか、自分の情けない胸の内を明かす兄。そうして時間が過ぎれば、テレビではSAOにログインしたプレイヤーが仮想世界に幽閉された事件がニュースになっていた。

 これには直葉も兄も驚いた。妹の涙に惑わされたお陰で兄は命が救われたのだ。

 

「SAO……たくさん死んじゃったね」

 

 ソファを占領する兄の腹に容赦なく座って貧弱な腹筋を潰して悶絶させた直葉はニュースを見て呟く。

 4年の月日をかけてSAO完全攻略。だが、生存者はたったの1名。話題の生還者は一切の取材に応じず、世界初の大規模電脳殺人事件の生き証人に世界中のマスコミは群がっていた。

 

「ああ。1人しか生き残れなかったらしいな」

 

「凄いよね。1人だけになってもデスゲームクリアしたんだ。どんな人なんだろう? やっぱり、お兄ちゃんを100倍位駄目人間にした見たいな、人生全てをゲームに捧げた廃人みたいなおじさんかな?」

 

「兄を躊躇なくディスる妹に育てた覚えはないぞ。あと、完全攻略者は滅茶苦茶カワイイ女の子」

 

「え!? どうして知ってるの!?」

 

「ネットに写真がアップされてた。ほら……」

 

「うわぁ。痩せちゃってるけど、可愛い……それに綺麗」

 

 腹筋になけなしの力を入れて起き上がった兄は直葉を自分の腹から下ろすとスマートフォンを操作して投げ渡す。

 写真の解像度は悪く、隠し撮りだろう。だが、それでも分かる、人類最高峰の……いいや、超越すらもした神秘的な容貌の美少女だ。

 

「こんな可愛い女の子でもクリアできる難易度だったのかな?」

 

「それは無いだろうな。俺もベータテストに参加したけど、ノーデスでクリアなんて無謀だよ。そもそもSAOはMMORPGとして設計されたんだ。ソロプレイヤーでクリアできる難易度調整じゃないさ。もしもソロでクリアしたなら、ゲームセンスとか知識とか、そうした次元とは別の何かが無いと無理だろうな」

 

「たとえば?」

 

「俺が知るわけないだろ。何にしても、MMORPGで、ソロプレイヤーでラスボスまで倒す無双なんて、ゲームバランスがおかしかったか、生還者の彼女がゲームの設計を超えた『バグ』みたいな存在だったか、どちらかさ」

 

 たまにいるだよ、人間卒業してる奴。そう付け加えた兄の実感が籠もった発言に、直葉は笑いを堪える。

 

「ははーん。昨日も酷くやられたんだ? お兄ちゃんも懲りないよねぇ。あたしのお陰で命拾いしたのに、まだVRゲームしてるなんて」

 

「死にかけたくらいで俺のゲーマー魂は朽ちないのさ」

 

「カッコイイ台詞のつもり? それはそうとネトゲ代くらいはバイトで稼ぐってお母さんと約束したんでしょ。ほら、時間だよ」

 

 兄はSAOにログインせずに命拾いをした。危うく命を落としかけた危機が兄妹の絆をかつて以上に深く繋がらせた。

 天然の女たらしだ。学校でもアルバイト先でも言い寄る女子は多い。だが、兄は自分を最優先にしてくれる。命の危機を救ったからではない。兄妹だから。たとえ、血は繋がっていなくても、互いに決して断ち切れない関係があるのだから。

 アルバイトに向かう兄を玄関先で見送った直葉は、今日も兄と2人だけの夕飯を思い返し、何を作ろうかと悩む。

 これが日常だ。いつまで続くかも分からない、何の変哲も無い、平和で退屈な日々だ。

 これでいい。これでいいのだ。直葉は自分に言い聞かせるようにして、兄のニオイが微かに残るソファに飛び込んで、枕代わりにされていたクッションに顔を埋める。

 眠い。いつまでも……いつまでも眠っていたくなるくらいに……体がだるい。きっと疲れているのだろう。直葉は意識を手放そうとした時だった。

 

 

「や、やっと見つけた! リーファさん!」

 

 

 ドアが荒々しく開けられ、コスプレとは思えない程に作り込まれた質感を持ち、また今も使われているという実感が込められた、魔道士か賢者のような格好をした見ず知らずの眼鏡の男がリビングに乱入してきた。

 睡魔も吹き飛んだ直葉は怯え、剣道少女としての闘志をすぐに燃え上がらせる。竹刀は目に入る範囲内にない。徒手格闘で成人男性に立ち向かう程に無謀では無い。ならば逃げるしかない。

 

「大声あげますよ。あたし、これでもご近所付き合いは良い方なんです。すぐに駆けつけてくれますから」

 

「ご、ご近所? すぐ駆けつける? 何を言って……いいや、この風景は現実世界か? 状況を察するにリーファさんの現実世界の家か」

 

 直葉の反応に動揺こそしているが、男は冷静に分析するように眼鏡のブリッジを押し上げる。

 不審者なのだから当然だが、それ以上の不快感が直葉を駆け巡る。

 頭が痛い。頭痛が頭の芯から響く。直葉は顔を歪め、よろめき、多重にブレる視界に悪寒を覚える。

 

「帰って……いなくなって……あたしの……『あたしのお兄ちゃん』を奪わないでぇえええええええええええええええ!」

 

 何かが砕ける音がした。

 直葉は感情のままに手に持った『剣』を振るう。男は寸前で回避するが、追いすがる彼女の剣は無様な殺意を乗せていく。

 それは剣道では無い。対人の枠さえ超えた、人ならざる怪物達とさえも戦うことを求められた剣技だ。

 一撃の重さと速度をバランス良く両立させた彼女の才能に合わせた剣技は、これまでの死闘の積み重ねの成果だ。

 死闘? 何の事だろう? 直葉は意識にかかる霞を『手放さない』。霧散することを恐れる。

 男は槍にも機能とするだろう、太陽を模したように枝分かれした先端を持つ杖を振るう。卓越した杖術……いいや、槍術を身につけているようだが、『贋物』の香りがする。彼自身の血肉となっていない、まるで技能だけを獲得したかのような違和感がある。

 そうだ。まるでモーションアシストが無い、熟達していないソードスキルを駆使しているかのようだ。奇妙だが、直葉は心の底から嘲笑する。『この男』が自分たちのような死闘の経験を持っているはずなどない。何もかもが薄っぺらい、周囲を騙す装飾品なのだ。

 槍捌きを超える。直葉はかつてない高揚感で自分が最高速度に到達している愉悦感を覚える。頭の中身を包む霞を決して手放すものかと足掻けば足掻く程に、触れることさえもできていなかった『扉』を意識できるようになる。

 扉は重たい。この先を知るには更なる鍛錬が不可欠だろう。直葉はそう感じるも、だが何かに脅かされるように、扉を強引に開く。

 

「あは……あははは! あはははは! 見える! あたしにも『見える』よ、お兄ちゃん!」

 

 男の体内を巡るエネルギーとも呼ぶべき流動。視覚を借りて知覚した新たな情報は、男の動きを今までの次元を超えるレベルで鋭敏に先読みする手助けとなる。

 足のエネルギーの流れが多く、濃く、速くなった。踏み込みで間合いを詰め、杖槍で剣を払い除けるつもりだ。左腕のエネルギーが薄くなっている。右手だけの片手横払いに切り替えて、左手で押さえ込みにかかる準備だろう。

 エネルギーの感知は微かな重心移動さえも理解させてくれる。もちろん、それを正しく読み取れているのは直葉が培った武があってこそである。それが無ければ得られる効果は半減以下だ。

 元より自分の方が強い。直葉の剣は男横腹を裂くが、浅い。だが、もはや反撃の可能性は男に残っていないと直葉は理解する。

 心臓を狙った渾身の突き。男は咄嗟に体を捻り、直撃こそ免れるが、剣先は右肩に潜り込み、貫き通す。

 そのまま切り上げる! 直葉が力を込めて踏み込んだ時、足場が失われる。

 

「え?」

 

 直葉は周囲を見回す。戦いの中で激しく移動したせいだろう。見慣れたリビングは何処にもなかった。

 闇の中に浮かぶのは無数の鏡に似た光沢を持った物質。それらが縦横無尽に、重力さえも無視して繋がり合って、まるで迷宮のような姿を取っている。そして、その中で漂うのは虹色の光を湛えた鏡の破片だ。

 男に攻撃するのに夢中になって足場を踏み外した直葉は……いいや、リーファは頭が冷えて我を取り戻す。

 

(そうだ。あたし、書庫でお兄ちゃんの姿を見て、後を追ったら埃被った手鏡に……それで……それで?)

 

 先程まで囚われていた『夢』にいたのだ。リーファは落下がもたらす一瞬の浮遊感の間に己の愚かさを噛み締める。

 体験していたのは、決してあり得なかった時間だ。あの日、あの時、引き返していれば、兄を救えたかもしれない。兄がSAOに囚われることを食い止められたかも知れない。

 いいや、違う。正直になろう。リーファは自嘲する。

 

(おにいちゃんはあたし『だけ』を見ていてくれる。そう思ってたんだ)

 

 醜い本心だ。SAOで傷ついたからこそ今の兄がいる。今の兄を形作る出会いがあった。

 アスナも、シリカも、シノンも、誰も彼もがいない世界であれば! 兄はいつまでも『桐ヶ谷和人』として隣にいてくれたはずなのだ。唯一無二の『桐ヶ谷直葉の兄』であってくれたはずなのだ!

 過去は変えられない。いいや、それ以前の問題だ。たとえ、家に戻っていたとしても、あの頃の自分では兄とろくに会話する事も無く、兄のSAOログインを食い止められなかっただろう。むしろ、SAOを口実にして必要以上の会話さえしようとしなかったかもしれない。

 こうして兄との繋がりを取り戻せたのも、SAOに兄が囚われた姿を見たからだというのに。もう1度会いたい、話をしたい、触れ合いたいという気持ちを積み重ねたからだというのに。

 自分にとって都合のいい部分だけ切り取って集めた、出来損ないの夢だった。それでも手放したかったのだ。あんなにも醜く、心の奥で待ち望んでいた兄と同じく心意を使えるようになってしまう程に。

 これほどの恥があるだろうか? 兄と同じ能力を使って手助けしたいと欲していたはずが、汚らわしい都合のいい夢に溺れていていたからこそ開花したなど、愚者の見本だ。

 落ちていく。デーモン化すれば、あるいは助かるだろうか? いや、無理だろう。リーファのフェアリー型は体で作り出した運動エネルギーを変換して一時的に飛行するものだ。足場のない空中では飛行エネルギーを生み出せない。

 

「……お兄ちゃん、ごめんね」

 

 だが、そんなリーファでも1つだけ胸を張って言える事がある。

 誰も彼もが排除された、兄妹だけの世界。だが、どんな形であろうとも篝が……クゥリがいてくれた。自分の長所を褒めてくれて、真っ直ぐに生きてくれと願ってくれた、もう1人の兄のような存在だけは排除したくなかった。

 

(もしも、あたしもSAOにいたら、アスナさんの代わりになれたかな?)

 

 無理だろうなぁ。苦笑しながら、リーファは暗闇の何処かにある、即死落下判定のラインに到達するのを、瞼で作り出した自身の闇の中で覚悟する。

 だが、浮遊感は突如として失せる。何事かと目を開いたリーファが見たのは、自分の腕を掴んでいるスゴウの姿だ。

 

「……何やってんのよ」

 

「見て分からないのかい!? 助けてるんだ!」

 

 あろうことか、足場を踏み外したリーファを追ってスゴウも闇の虚空へと飛び込んでいた。右手に持った杖槍は穂先となる先端が分離して金色の光のワイヤーと繋がっていた。

 武器に仕込まれたギミック。鋭い先端を射出する奥の手だろう。リーファ達にも教えていなかった、スゴウにとって万が一に備えただろう奥の手だったのは考えるまでも無い。

 それを使ってまで、そもそも自分を殺そうと目論むリーファを助けようなど、正気の沙汰では無い。

 

「ぐっ……!?」

 

 スゴウの額には脂汗が滲み、表情は苦悶と化し、噛み殺そうとした呻きが零れた。彼の右肩からは多量の血が溢れ、白と青のローブを赤く染めている。剣は抜けているとはいえ、深手を負ったのだ。HPは流血のスリップダメージでじわじわと減少している。

 リーファを掴んだ右手の負荷によって傷口が刺激され、ダメージフィードバックもある。それは否応なく意識を刻んでSTR出力の低下を招く。決して高STRではないスゴウでは、装備込みのリーファの全体重を支え続けるには限界があるとも来れば、この拮抗がいつまでも続くはずが無い。

 また杖槍の金色のワイヤーも魔法の類らしく、時間経過と2人分の体重を支えきれずにじわじわと細くなっている。

 

「本来は……回収機能があるんだけど、そこまでパワーがあるギミックではなくてね……! まさか1.5人分の体重も支えられないとは……予想外だった……!」

 

「2人分でしょ」

 

「女性の体重は……半分勘定が……紳士の暗黙のマナーだよ。言わせないでくれ……!」

 

 どうして? どうして、あたしを助けるの? ここで助けてお兄ちゃん達を騙すのに利用するつもりなの? リーファの頭の中でスゴウに対する不信が巡る。

 殺した。殺した。殺した。アスナさんを殺した。アルヴヘイムの皆を殺した。邪悪な妖精王は今度こそ葬られるべきだ。

 

「……なんでよ」

 

 それなのに、どうして?

 

「なんでよ!? あたしを助けないでよ! 悪人でいてよ! 真っ直ぐに憎ませてよ! ねぇ! ねぇ! ねぇ!?」

 

 嫌だ。こんな醜い想いに支配されたあたしを、お兄ちゃんはきっと愛してくれない。『妹』とさえ認めてくれない! リーファはSTR任せにスゴウが掴む手を解こうとするが、彼の力は全く揺るがないどころか、傷口を刺激する事も厭わずにSTR出力の増大さえも見られた。

 それでも暴れて振り解こうとするが、スゴウは力を緩めるどころか、汗を垂らしながら、どうにかして足場に戻るべく、杖槍に負荷をかけないように、ゆっくりと金色のワイヤーを収縮させていく。

 

「死なせてよ。あたし……あたし……もう嫌だよ」

 

 どれだけの苦難でも心は折れなかった。どれだけの強敵を前にしても最後には必ず踏ん張って前を向いた。

 

「お兄ちゃんに……お兄ちゃんにずっと……ずっと……・ずっと、あたしだけ、見て欲しかった。『1番だよ』って言って欲しかった! 他の誰かを全員押しのけてでも、あたしを選んでほしかった!」

 

 だが、『都合のいい夢』だからこそ浮き彫りになった自身の本性。そして、夢であろうとも『都合のいい兄』の存在を欲した本心があったからこその心意の覚醒。

 2つの突きつけられた事実がリーファを……『直葉』の心を完全にへし折っていた。

 

「止めてよ……憎ませてよ……せめて、お兄ちゃんの大切な人を奪った仇だって……アンタを憎んだまま……死なせてよ」

 

 アスナがいない世界を望んだ。兄がアスナを知らない世界を欲した。それなのに、アスナを殺した罪でスゴウを憎む。

 それこそ、なんと『都合がいい』事だろうか。リーファは涙と自己憎悪で穢れて死を欲する。スゴウに、邪悪な笑みと友に手放される事を願う。

 

「……キリト君は罪作りなお兄さんだね」

 

 だが、スゴウは更に手に力を込める。リーファの本心の吐露を聞いたからこそ、何にも増して手放さないと意思表示する。

 

「そして、世界で1番幸せ者なお兄ちゃんだ」

 

 杖槍を握る左手が震えている。リーファを支える右手以上に、2人分の体重を受け持つ左手の握力が先に限界を迎えようとしているのだ。

 

「私には……兄弟はいない。だが、家族のように接することができたはずの人たちならいる。だけど、どうしても上手く思い出せないんだ。私は……きっと……彼らにとって……」

 

 全てを言い切る『強さ』など自分にはない。そう断じるようにスゴウは笑う。

 

「自分の醜さを自覚して、さらけ出して、恥じることが出来て、それでも誰かを愛することを選んだ人間が……死んでいいはずが無い! 見捨てていいはずがない!」

 

 スゴウの左手が滑る。だが、何とか柄を握り直した彼は最後の賭けだとばかりに金色のワイヤーを一気に収縮させようとする。

 

「ああ、1つ……思い出した。昔ね、親戚の招きで……結城の屋敷に行った時……とても……とても綺麗な女の子に会ったんだ。あの子は言ってたよ。『事実は変わらなくても、真実を選ぶことは出来る』とね!」

 

「だから……何よ?」

 

「リーファさんの事実は変わらない。だが、他の誰よりも大好きなお兄ちゃんの為なら死ねる。そんな強い想いが……真実ではないわけないだろう!? キミは……生きるべきだ! キリトくんの為に! キミに生きていてもらいたいと思っている全ての人の為に!」

 

 金色のワイヤーが収縮する。2人の体が上方に動き、足場が迫る。

 

「大好きなお兄ちゃんを独占したい。可愛い妹じゃないか。その気持ちが罪だというならば、罰を下そうとする神がいるとするならば、私が弁護を引き受けおう! 必ず無罪で勝訴だ! 賠償金までふんだくってやるさ!」

 

「……スゴウ」

 

 涙が……止まる。呆けたリーファに、あともう少しだとスゴウが苦しげに笑いかける。

 

「覇気が無いなぁ。そこは、神様だってぶん殴るって言い切ったら?」

 

「私は理知を重んじる主義なんだ。いいや、それこそが人間の進歩だと信じてるのさ」

 

 笑う。闇の淵で、2人で場違いな程に笑う。

 あと5メートル……4メートル……3メートル……! もう間もなく足場と迫る。

 だが、神は嘲う。冷酷な計算式を働かせる物理演算システムは、足場に突き刺さった杖槍の先端を抜けさせ、再び彼らを闇への落下に誘う。

 届かない。呆然と絶望が同時に襲う瞬間、ソードスキルのエフェクトが瞬く。

 スゴウが杖槍で≪槍≫の単発系ソードスキル【エリアル・クラッシュ】を発動させたのだ。槍の穂先で突くのではなく、柄で殴ることを目的とした対空ソードスキルでもあり、空中で縦軸回転をするものだ。

 スゴウの意図は明白。自分より下にいるリーファをソードスキルで巻き込み、空中に押し飛ばすことだ。彼の狙いは成功し、リーファは腹に剛打を浴びるも足場まで吹き飛ばされる。

 

「……スゴウ!」

 

 だが、リーファを上方に吹き飛ばす為にソードスキルを利用したスゴウは、ソードスキルの硬直によって身動きできないまま落下する。

 リーファはアイテムストレージからワイヤーを取り出そうとするも間に合わない。

 しかし、スゴウが闇の中に溶けて消えるよりも前に、空中に次々と作られる氷が彼の杖槍を握る左手を凍結させた。

 スゴウの左腕を絡め取った即席の氷の塊。それは別の足場、まるで重力が逆転したかのようにリーファの頭上の柱で逆さに立つユナが作り出したものだった。

 本来ならば人間1人分の落下を繋ぎ止められる氷を銃口に固定したままには出来ないだろう。だが、ユナの氷によって瞬間的でも落下が停止した為か、スゴウの重力の向きがユナの足場をベースに変更されたのだろう。彼はリーファの頭上にあるユナがいる足場へと『落ちる』。

 

「うわぁあああああああああああああああああああ!?」

 

 情けない悲鳴と共に逆転した重力に引かれて砕けた氷と共にユナのいる足場に首から落下した彼は、相応の落下ダメージとダメージフィードバックに悶絶して身を丸めていたが、生きている事実に安堵して大の字になって倒れる。

 

「ユナさん、GJ!」

 

 リーファは最大の好意を込めてサムズアップをユナに送ると、重力の方向が狂った光沢ある足場を駆け、5分ほどの時間をかけて2人に合流する。

 到着時にはスゴウもHPは回復済みであり、ユナによって肩の傷も治療が終わっていた。

 

<2人の声がして見上げたら、空に向かって落ちてたから驚いちゃった>

 

「ユナさんの咄嗟の判断に助けられたよ」

 

 腰が抜けたまま動けないのか、スゴウは立ち上がろうとしない。リーファはそんな彼に軽蔑の視線を向けるでもなく、両膝をついて目線を合わせる。

 

「……あたしは変わらない。アンタを憎み続ける。死ねって願い続ける」

 

「私はそれだけの罪を犯した。キミとは違う」

 

「……そう。あたしが言いたかったのは……それだけ。早くお兄ちゃんと合流しよう。ここ、絶対にあの屋敷のダンジョンの中だよ。鏡を入口にしてトラップに嵌めるタイプ。本当に悪趣味! 前にも似たようなのを味わった事があるけど、比べたくないくらいに『最悪』だった」

 

<そうだね。本当に酷いよね>

 

 ユナの文字は普段と違って感情が乗っておらずに淡泊だ。リーファと類似した夢に囚われ、なおかつ彼女と違って自力で脱出できたならば、その精神力は驚嘆し、また自分で否定したダメージも計り知れないだろう。

 

「気を引き締めていこう! どんなモンスターが出るか分からないんだから! あたしが前衛を務めるから、ユナさんは後衛でバフと回復に専念して! それと……」

 

 リーファは呼吸を挟み、振り返ってスゴウの顔を真っ直ぐと見据える。

 

「スゴウも後衛で、ユナさんの護衛と魔法で援護をお願い」

 

「……リーファさん」

 

「アンタの魔法の腕は超一流だってよーく分かってるから。だから……当てないでよね」

 

「任せてくれ。キミの動きも加味した魔法で、的確に勝利に貢献しようじゃないか」

 

 力強く頷き返したスゴウに、リーファはこの恥知らずと自分を罵りながら背中を向けて歩き始める。

 あたしだけのお兄ちゃん。あたしだけを見てくれるお兄ちゃんでいて欲しかった。いつまでも、何もしなくても変わることがない『兄』と『妹』でありたかった。

 そんな兄妹の関係を壊したのは運命? いいや、違う。自分だ。リーファにして桐ヶ谷直葉という人間だ。隠しきれなかった本心で浅はかな行動を繰り返し、ついには兄妹の関係に亀裂さえも入れようとしている。

 

「ねぇ、血の繋がらない兄妹って結ばれると思う?」

 

「法律上は婚姻関係は成立しない。だが、世の中には事実婚というものもある。私は特に問題ない立場かな?」

 

<愛さえあれば、それでいいと思うよ>

 

 2人ならそう答えるだろうという期待もあった質問である。リーファは我ながらズルをしたと思いながらも、これで吹っ切れたと笑う。

 

「あたしね、お兄ちゃんが好き。延長線上に男性として惹かれてるのも込みで、妹として兄が好き! だから……全力で奪いに行くよ。今度こそ正真正銘の本気で……『妹』としてね!」

 

 兄が『妹』として愛してくれるならばそれでいい。最愛の妹であればいい。そう望んでいた。だが、それは欺瞞だった。本当は兄の全てを独占したかった。

 だからこそ、自分は『妹』で構わない。『妹』として兄の心の全てを奪い取りに行く。たとえ無理でも、より多くの愛情を傾けられるように、最大のカードである『妹』として兄との禁断の関係を全力投入で掴み取る。

 もう他の誰にも振り回されない、これがあたしの真実なんだ。リーファは確かな1歩で前進を開始した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「助かりました」

 

 鏡の中に閉じこめられていたレコンは、外から鏡を打ち砕いてくれたキリトによって救い出され、一息を吐く。

 館の周囲探索中、倉庫と思われる建物を見つけたレコンは安全確認の為にシリカより先んじて入り込んだ。そして、見回す最中に偶然にも目撃した、壁に立てかけてあった鏡に吸い込まれてしまったのだ。

 鏡による拘束トラップかと思えば、酷い頭痛がし、周囲の光景がまるでミキサーの内部から見ているかのように回転し、だが安定することなく、レコン自身も無重力の中で変化・変色を続ける空間に取り残されていたのである。

 あのまま気色悪い空間に囚われていたら、遠からず気がおかしくなっていただろう。レコンの感謝と共に鏡の中の出来事を述べると、キリトは顎を撫でて考える。

 

「俺とは違うパターンのトラップ? いいや、違うな。『別の選択と結果を得た最良の過去』をレコンから検索しきれなかったのか」

 

「え? どういう事です?」

 

「キミは過去の失敗も後悔も何もかも完全に受け入れて未来を生きる意思に昇華してる。今こそを至上として生きているって事さ」

 

「よく分かりませんけど、褒めてます?」

 

「ああ、物凄くな。キミは俺が想像していたよりも遙かに強靱な精神の持ち主だよ」

 

 キリト曰く、あのトラップが自分と類似するものならば、過去の選択をやり直し、また失敗した結果を成功に書き換えるといった仮定の上で成り立つ都合のいい夢を見せるもの、という人間ならば絶対に抗えない極悪仕様トラップだと告げた。

 

「でも、それって改変アルヴヘイムで経験したものに似てますよね」

 

「ああ、そうか。レコン達も経験したらしいな。あの時も自分にとって都合のいい夢……望む世界を見せるものだったけど、今回は精度が段違いだ。抜け出した俺が言うと自慢になるけど、まず自力で脱出するのは不可能に近いよ」

 

 どれほどの強者や賢人であっても、過去に全くの後悔や失敗が無いわけがない。他者からは完璧に見える結果にすらも妥協をせずに最上を目指すだろう。

 キリトの場合は都合のいい夢を打ち砕くだけの並外れた精神力……心意を発動させるほどの意思の力がある。それでも危ういならば、他の皆も鏡に捕まっているとなれば、脱出は困難だろうとレコンは救出を前提に今後の方針を組み立てる。

 

「でも、不謹慎ですけど、僕も経験してみたかったですね」

 

「オススメしないな。正直言って、過去を改変しようとする悪役の気持ちが分かってしまうくらいには、耐え難い魅力があるんだ。それを否定しないと脱出できないんだから不快しか残らないだろうさ」

 

「その割にはなんか……爽やかですね」

 

 レコンの目でも分かるほどに、キリトの雰囲気が変わっている。別段と態度が変化しているわけではないが、まるで絡みついていた鎖が外れたかのような清々しさすらも感じさせた。

 キリトが経験した『都合のいい夢』とは何なのか。レコンは乏しい想像力で思い浮かべるが、彼の過去は思いつく限りでもトラウマ級の、下手をせずとも廃人になりかねない経験ばかりだと気づき、口を閉ざすことにした。

 

「奇妙な空間ですね。モンスターは出現しないみたいですけど」

 

 倉庫を出れば、待っていたのは闇の中に鏡のように光沢があるオブジェクトが無数と繋がり合いながら浮かぶ空間だ。重力を無視したように巡る道は平衡感覚を狂わせかねなかった。

 

「……この手のトラップは何でもありのDBOでもかなり特殊な部類だよ。茅場の後継者も精神攻撃でプレイヤーを追い詰めることはあるけど、無作為に、誰でもウェルカムのダンジョンに設置することはまずあり得ない」

 

「ですよね。話を聞く限りだと、ステータスもスキルも装備も完全無視のプレイヤーへの精神攻撃特化ですし。これをダンジョンの恒常トラップにするのは、後継者のやり口とは思えません」

 

 なお、2人も後継者ならばこれくらいの悪辣なトラップは仕掛けるだろうと考えてこそいるが、それをダンジョンの入口のトラップとして仕掛けるのは後継者の美学に反すると推察しているだけである。

 

「ちなみに、レコンが鏡に囚われたのは――」

 

「僕の方が先ですよ」

 

「そうか。だとすると、シリカはまだ鏡に囚われていないかもしれないと考えた方が……いいや、駄目だな。恐らくだけど、トラップの発動条件は『他のプレイヤーに観測されておらず、区切られた空間内に単独で在留し、鏡かそれに類する反射率の高い物質に自分が映された時』だろうな」

 

「ああ、確かに思えた妙にピカピカしてましたよね。単独行動したならば、発動条件が分かっていないとすぐにトラップの餌食。だったら、シリカさんもこの空間の何処かに囚われているかもしれませんね」

 

「他の皆もな」

 

 条件が条件故に、常に2人行動をしていればトラップが発動することもないが、区切られた空間……部屋を跨ぐ際などは分離されてしまうのだ。高確率でいつかは捕まるだろう。

 

「あともう1つの条件……発動前の兆候なのだろうけど、自分が体験する『都合のいい夢』の核となる幻影を観るかもしれないな」

 

「僕は見ませんでしたよ?」

 

「それはレコンの精神が完全に過去を乗り越えているからだよ。過去を全部受け止めて今の自分を肯定するように還元するなんて、とんでもないメンタル強者さ」

 

 キリトに評価されれば、自分が偉大になったような気にもなったが、レコンはすぐにそんな大それたものではないと自惚れを否定する。

 

「違いますよ。僕にも後悔はあります。後悔が無いなんて……最低な人間にはなりたくありません」

 

 殺した。この手で、肥大した自尊心と不相応な野心に振り回されて、何の罪も無い人を殺した。改変アルヴヘイムで犯した罪を振り返り、レコンは深呼吸を挟む。

 

「だけど、それも含めて『今の僕』なんですよ。後悔するからこそ、償いながらも前に進める。自分が本当は何が欲しかったのか、何を認めてもらいたかったのか、過去に犯した罪で汚れまくった手でようやく理解したんです」

 

「……カッコイイな」

 

「格好付けてるだけですよ。大部分は僕自身で乗り越えているわけじゃありません」

 

 ナギちゃんのお陰だ。レコンはいつも自分を何処かで見ている、もしかしたらこの瞬間も物陰から見守っているかもしれないレギオンの少女を思い浮かべる。

 レコンの過去と今と未来の全てを受け入れた上で愛してくれる。いつの日か、立ち上がれなくなった時、彼女が魅入った輝きを失った時、彼女がレギオンとしての存在意義を捨ててでも全身全霊の愛で殺してくれる。

 だったらどれだけ苦しい過去があろうとも、何1つとして変えるものか。否定するものか。拒絶するものか。これまでの歩みは……罪さえもが彼女に愛してもらえているならば、全力で前に進むだけだ。弱い自分がいつの日か心折れて立ち上がれずに進めなくなっても、愛を失うことなく殺されるならば、これ以上と無い幸せ者である。

 

「まぁ、僕には効かなかった理由はよく分かりましたよ。ちょっとしたチートが発動したみたいです」

 

「な、なんだと?! まさかユニークスキル!? それとも心意か?!」

 

「それ、自分がチート持ちだと公言してると同義だって分かってます?」

 

「ユニークスキルはギリギリセーフだろうけど、心意はチートだろ。普通だったら即BANだぞ。聖剣とかチートツールの具現化みたいなものだしさ」

 

「そ、そうですか」

 

 キリトに真顔で切り替えされて、レコンは思わず衝撃を受ける。キリトに明確な自覚があるとは、その実は思っていなかったのである。

 

「俺は普通のゲームが好きなんだよ。誰も死なないけど、本気で喜んで、本気で悔しがって、本気で好きにも嫌いにもなれる、そんなゲームが……さ」

 

「キリトさんらしいですね」

 

「だけど、DBOは違う。ゲームシステムを借りた殺し合いの世界だ。ゲームそのものとプレイヤーの……時にはプレイヤー同士の……あるいは、全く違う何かとの……殺し合いなんだよ」

 

 キリトの目には嫌悪感があるはずなのに、不思議なほどに静謐で、また拒絶の意思はなかった。

 

「これは『ゲーム』であっても『遊び』じゃないんだ。だったら、俺は何でも使うよ。自分で手に入れたモノも、誰かに与えられたモノも、全てを使って勝ち取りに行くさ」

 

「……キリトさんにとっての勝ちって何ですか?」

 

「そうだなぁ。ひとまず、『帰還』と『移住』を両立させて、限りなく犠牲者を減らしてDBOをクリアする……かな? まだ手探りだし、時間をかけた分だけ誰かが死んでいるだろうけど……それでも……俺に出来ることを積み重ねるしかない」

 

 何かが変わった。だが変わっていない。レコンは安心する。『都合の良い夢』を打ち砕くのは途方もない精神力……それこそ精神の成長の次元を超えた変革にも匹敵するパワーが必要ならば、キリトの精神が大きな変質を遂げているかのかと思ったのだが、杞憂のようだった。

 

「僕も同じ気持ちです。でも、それこそ都合良く手に入りますかね? SAOの時みたいに、100層までクリアすればいいって明確な目標も無いのに……」

 

「前例で言えば、黒幕と交渉権を獲得するのも1つの手かな? 俺も75層でヒースクリフの正体が茅場晶彦だと暴いて、1対1のデュエルで勝てば即解放の破格の条件を提示してもらえたしな。まぁ、負けたけど。HAHAHA! ああ、今の笑いはクーを真似たアメリカンコメディ風の――」

 

「いや、ちょっと待ってくださいよ! そんな笑い話にしていいんですか!? だって、そのエピソードって、確かアスナさんが……!」

 

 レコンも知っている。SAO事件について深掘りした書物ならば必ず載っている。キリトがヒースクリフの正体を暴き、デュエルを申し込まれて戦うも敗北し、だが致命の攻撃をアスナが庇って死亡したのだ。生き残ったプレイヤーの複数名が証言している事実だ。

 それを過去の失敗談として語る。キリトからすれば、絶対に茶化すことが出来ない過去のはずだ。

 

「いいんだ」

 

 だが、キリトは苦々しくもなく、爽やかでもなく、淡泊でもなく、温かく乾いた笑みを浮かべる。

 

「もう終わりにしたんだ。俺は負けた。情けないくらいに完敗した。敗者が甘んじて受けるべきだった死をアスナが代わりに引き受けてくれて、俺はここにいる。生きている。でも、いつまでも負けた自分に縛られていたら、それこそ守ってくれたアスナに失礼さ」

 

「そ、そうかもしれないですけど……」

 

「俺は自分の無力で負けた。精神も実力も及ばなかった。でも、敗北は罪でも罰でもない。事実だ。それ以上でもそれ以下でもないんだ。俺の罪は……DBOのデスゲーム開始を見逃した事。そして、約束の塔で、自分の無責任な欲望のままに、背負う気もないのにたくさんの命を奪った事だ」

 

 今は罪と向き合う最中で、どうやって償うかはまだ決めていないけどさ。キリトはそう言い残すと再び歩き始める。

 

「……命を奪った罪って何でしょうね? DBOでは日常的に人が死んでるせいで、情けない話ですけど、感覚が狂ってしまう時があるんです」

 

「あくまで俺の指針だけど、罪の定義は心が決めるものなんだ。たとえ悪党を殺した瞬間から罪を意識する。俺も……昔はそうだったと思う。人の命を奪った重みに押し潰されそうだった。だけど、次々と、当たり前のように周りの人間が死んでいく……いいや、殺されていく中で、何かが変わったんだ」

 

「ああ、分かる気がします。『殺さないと殺される。それが戦いなんだ』って……」

 

「スミスが言ってたよ。人殺しの罪悪感に心は苛まれる。いつの日か、いきなり押し寄せてくる。自分は途方もない罪人なんだって自覚する。誰に教わるでもないんだ。道徳の獲得は罪悪感の『気づき』の感度を変えるだけ。罪を定義するのは心ならば、俺達の心はいつだって、心無いように見えるサイコパスの殺人鬼だろうと、人殺しは罪だって……誰に教わるでもなく根源的に理解しているんだ。罪悪感という……自分を苦しめる感情をさ」

 

 生物において共食いも縄張り争いによる同じ種族同士の殺し合いも珍しい事では無い。生命というマクロの観点から見れば、本質的には人間が人間を殺す事は何ら罪では無い。

 だが、人間は根源的に殺人の咎を理解しているとキリトは考えているようだった。

 

「人間が特別な生物と驕ってるわけじゃない。単にそんな風な進化を遂げたんだと思う。俺達人間の肉体が今の形に進化を遂げたように、肉体外の部分……精神や魂と呼ばれる部分にも脈々と受け継がれた因子があって、そこには確かに罪の定義という項目があるんじゃないかってさ」

 

「宗教的な話ですね」

 

「そうだな。でも、フラクトライトなんていう魂に最も近しいとされる情報伝達媒体が発見されたんだ。まだまだ未知数の多い分野だしな」

 

「じゃあ、生粋の殺人狂とかはどうなんでしょうね? キリトさんの言う罪悪感に鈍い人たちでしょうか?」

 

「うーん、どうだろうな。そういう奴らは罪悪感自体を快楽として変換できるタイプかもしれないな。自分が禁忌を犯しているという優越感や達成感は病みつきになるだろう? あとは、レコンの言うとおりでやっぱり罪悪感の感度もあるんじゃないかな? 今と昔では命の価値は違ったわけだしな」

 

 身分が違えば家畜のように殺される。宗教が違えば悪魔のように殺される。人種が違えば獣のように殺される。それは過去を振り返れば幾らでもある、現代の価値観からすれば凄惨なる人殺しの業だ。だが、彼らのどれだけがその生涯において罪悪感を正しく受け止めて罰を求めただろうか。

 罪悪感に対する感度。道徳や価値観によって閾値が変動するのだ。だからこそ、何かの拍子で罪を感じて耐えられなくなった者は罰を求めるのだろう。あるいは、社会の変革を望むのだろう。

 罪を認識する閾値が低いという事は、それだけ人の命の重さに鋭敏であり、また善悪の区別を持たないという事だ。それは良いか悪いかは、馬鹿馬鹿しいくらいに別の話なのだろう。

 

「キリトさん」

 

「ん? どうした?」

 

「もしも、キリトさんの目から見て、僕が『まとも』じゃない極悪人になった時はどうしますか? 殺すしかない邪悪な存在……たとえば、人類を滅ぼしかねない裏切りを犯した敵になった時は?」

 

「壮大だな」

 

「答えてください」

 

 こうした会話もダンジョン攻略におけるストレス軽減の手法の1つだ。集中力を落とさない程度に、仲間同士で会話をして精神の余力を保つ技術でもある。

 それ以上でもそれ以下でも無い。互いの思想に触れ、コミュニケーションを重ねて理解を深める事はあっても、現状を見誤ってはならない。ダンジョン内で仲間割れという爆弾を作ってはならない。

 だからこそのレコンの軽口に、キリトも平然と応じてくれるのだ。

 

「……『倒す』よ。キミが相手だと策謀まで巡らして全力で俺を封じ込めにかかるだろうから、手を抜いて無力化は期待しない。殺す事になるとしても全力で『倒す』」

 

「うん、良かった。やっぱり……キリトさんは『優しい人』ですね」

 

 僕に人類を裏切ってでも為し遂げたい事……守りたい者が出来たならば、キリトさんもリーファちゃんも……最大の警戒と敬意を抱いて、全力で『殺す』つもりですから。レコンは安堵の裏で自分の決意を改めて自覚し、苦笑した。

 

「でも、まずは話し合いたいかな。説得したいし、それは無理でも、互いの目的を理解し合えば、存外な落とし所も見つかって血を流す必要は無くなるかもしれないしな」

 

「甘いですね。その話し合いの時間さえも罠を巡らせる時間稼ぎかも知れないですよ」

 

「でも、それくらいの気概が無いと……『殺す』じゃなくて『倒す』を目指すのは絶対に無理そうな奴を知ってるからさ」

 

 ああ、それは僕じゃないだろうな。レコンは悟る。聖剣を解放した【黒の剣士】すらも打ち破った、DBOに君臨する最強の白き魔獣だ。アレを討ち取るどころか、殺さずに倒すで済ますなど、プレイヤーにモンスターのHPをゼロにするなと同義の無理ゲーだとレコンは感じている。

 

「まぁ、俺にとっては儀式みたいなものだよ。『殺す』為に戦うわけじゃないっていう自意識の再確認作業さ」

 

「そんなものですよね」

 

 お喋りが過ぎたようだ。重力無視で闇に浮かぶオブジェクトの足場を渡り歩いた彼らがたどり着いたのは、不自然なほどに空間に固定された木製の扉だ。

 デザインと材質からして館のものと同一だ。高確率で別の誰かが囚われていると見て間違いないだろう。

 

「僕ら以外のプレイヤーの場合もありますよね?」

 

「ああ。だけど考え難いな。単純にプレイヤーを捕まえるだけのトラップじゃない。あくまでこの奇妙なダンジョンの入口……言うなれば篩なんだ。突破できなかった者に夢だけ見させて生かすとは思えない」

 

「幸せな夢を見たまま死ねるってわけですか。良いんだか悪いんだか分かりませんね」

 

「悪いだろ。所詮は幻想だよ」

 

「こういう時にキリトさんってドライですね」

 

 キリトとレコンは頷き合い、扉を開けて突入する。だが、誰もいない。綺麗に整えられた子ども部屋があるだけだ。

 幼い少女の部屋だろう。ピンクの壁紙といい、愛くるしいぬいぐるみといい、メルヘンチックなデザインである。だが、だからといって油断する理由にはならない。レコンとキリトは背中を預け合い、周囲を探る。

 

「俺から見て左斜め前。虹色に変色した光沢物あり。手鏡だな」

 

「同時に行きましょう」

 

 キリトとレコンは並んで手鏡に近づく。自分を捕らえていた鏡と同様に破壊するのかと思ったが、鏡に触れるとレコン達は内部に吸い込まれる。

 夢を見せている鏡には入り込んでしまうのか。単独ならば動揺するが、レコンは夢を見せられず、キリトは自力で突破している解決組だ。これならば影響は最小限で抑えられるだろうという互いの信頼感があった。

 

「レコン、分かってるとは思うが……」

 

「過去の後悔や結果の変更による『都合のいい夢』……分かってますよ。人間の最もデリケートな部分です。限りなくドライに、機械的に救出します」

 

「それでいい。感情は殺せ。見聞きした全てをすぐにでも忘れてしまうくらいに」

 

 大切な仲間が隠す胸中……本人すらも自覚的出来ていなかった脆弱な心が暴かれるからこそ、それは必要なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はーい☆ それじゃあ、次の曲いっくわよぉおおおおおおおおおおおおおおおおお♪」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、物事には限度というものがある。レコンとキリトが空間転移にも似た浮遊感の後にたどり着いたのは、7色のスポットライトとスピーカーから流れる大音量、そしてむせかえるような熱気だった。

 レコン達が立つのは見覚えのある施設……クラウドアース保有のコロシアムだ。DBOの野外施設最大規模であり、PvPからPvM、MvMに至るまでの血生臭いバトルから健全なスポーツ、そして音楽ライヴまで開かれると多種多様な催し物が開かれる。

 レコンがいるのはコロシアムの観客席だ。そして、コロシアムの中央の競技場には、巨大なステージが設置されている。

 空を浮かぶのは無数のスポットライトを降り注がせて演出するドローン。

 観客席を埋めるのはペンライト、陣羽織、団扇などで完全武装した観客達。

 四方八方のスピーカーから流れるのは正しく美声にしてノリノリの歌声。

 

 

 

「次の曲はニューシングル……『山猫酒場』! 貴方達のハート……狙い撃つわよ! ずどーん☆」

 

 

 

 そして、ステージの中央で踊るのは、ヘッドマイクを装備した、派手でキラキラした、ミニスカのアイドル衣装を身に纏った、普段のクールビューティが完璧に消し飛ばされた、女の子らしさ全開の満面の笑みを浮かべたシノンだった。

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「シノンさ、アイドルライヴしただろ? 1度だけ。好評だったんだけど、人生の汚点だから2度しないってオファーって断り続けてたんだ」

 

「そうなんですか」

 

「でも、本当は……いや、何でも無い……何でも無いんだ……! これ以上は言いたくない」

 

 キリトがアイドル☆シノンに背を向けて嗚咽を堪える。レコンはその背中を優しく撫でた。

 

「本当は……やりたかったんですね。ミニスカ履いて、あんなにも可愛い衣装を着て、媚び売るみたいに笑って、クールとは無縁の……こんな……こんな……甘々ハイテンポラブソングを歌いたかったなんて……!」

 

「止めろぉおおおおお! シノンの本心を抉るな! あと、笑うな! 笑ってるぞ、レコン!」

 

「こんなの笑う以外にどうしろっていうんですか!? 泣く方が失礼なんじゃありませんか!?」

 

 感情殺して対処? これならば、見る方が苦しむ程にトラウマ級の過去を察せられるくらいに優しい世界を見せられた方が何千倍もまともに対応できる! レコンの迫真に、キリトはともかくシノンを正気に戻すべく行動を開始する。

 

「た、多分、過去の改変ポイントは……ランダムというか、その時の本人の意識のベクトルが……だから、シノンにもちゃんとした悩みはあるはずで……受け入れられない過去とか……」

 

「御託はいいからどうにかしてください。僕よりもキリトさんが目を覚まさせてあげるのが優しさだと思うので」

 

 あるいは、より残酷かも知れないが、レコンには今のシノンの正気を取り戻させたとして、その後に命の保証があるとは思えなかった。

 観客席を移動し、最前列で身を潜めたレコンは、軽やかにステージに跳んで降り立つ、実に様になったキリトへと十字架を切る。

 

「キ、キリト……!」

 

「シノン、信じられないだろうけど聞いてくれ。ここは――」

 

「本当に……本当に私のセカンド・ライヴに来てくれたのね……」

 

 シノンは笑みを崩さぬまま涙目となり、目尻を指で拭う。その様子が大スクリーンに映し出されており、彼女が正気を取り戻した後々を想像してレコンは血反吐を垂らしそうになる。

 

「私みたいな愛想の無い女がアイドルになって、しかもいきなりコロシアムでライヴなんて……馬鹿げてるって分かってる。でも、それでも、やってみたかった。貴方に見てもらいたかった」

 

「お、俺に……?」

 

「じゃないとチケットなんて送らないわよ」

 

「そ、そうか。だよな~! は、はは、ははは……!」

 

 駄目だ! キリトさんも完全に空気に呑まれてる! アイドル衣装のシノンさんの涙目+幸せそうな笑顔なんていうあり得ないコンビネーションに精神にバグを起こしかけている! 

 レコンはどうにかしてサポートしようとするが、いかなる過程を経ても解決後にはシノンの羞恥心増大+実力行使が容易に予想できるが故に動けなかった。

 

「ねぇ、キリト。私……かわいい?」

 

「あ、ああ」

 

「本当に?」

 

 シノンはまるで猫が主人に甘えるように距離を詰めてキリトを見上げる。レコンは客席最前列から顔を覗かせ、思わず胸の高鳴りを感じる。

 

「嬉しい!」

 

 そして、悪意・嗜虐度ゼロの笑顔! シノンらしさの欠片もない裏表のない、クールで取り繕わない、純粋なる好意の笑み! 危うかった。心の中にもナギちゃんがいなければ、狙撃で即死だった! レコンは心拍数の増加で、シノンがその実はとんでもないアイドル力の持ち主であると思い知られる。

 間違いなく、勘違い厄介ファンを大量生産して、数多の人生を狂わせるタイプのアイドルだ! 良くも悪くも歴史に名を残すアイドルの誕生だ! 戦慄するレコンを尻目に、シノンは普段の彼女からほど遠い、指をもじもじさせて赤面し、視線を踊らせる。

 

「私……キリトにどうしても伝えたい事があって……私は……貴方の相棒として実力不足なのは分かってる……でも、それでも貴方を支えたい」

 

「いつも支えてもらってるさ。シノンがいたからこそ、生きている、戦えている、勝ち抜く事ができている」

 

「そう、かもしれない。でも、足りないの。私は貴方の相棒でありたい。戦場はもちろん……あの……その……!」

 

 おや、これはもしかして? レコンが命知らずだと分かっていても身を乗り出して鼻息を荒くし始めた時、世界に変化が生じる。

 空は暗雲で渦巻いて雷鳴が轟き、周囲の風景が一瞬にして、観客ごと崩れる。

 

「ああ、なんて女々しい。弱々しい。吐き気がする。だからたどり着けないのよ」

 

 今度は何だ!? 荒野に立つレコンは、アイドル衣装のままのシノンと並び立つキリトを発見して安堵すると同時に、別の方向に目を向ける。

 そこにいるのはシノンだ。だが、右腕は無残にも千切れ、全身は血と灰によって汚れ、重々しい狙撃銃を片手で肩に担いでいる。

 

「私はもう負けたくない。誰にも、何にも……! さぁ、始めましょう」

 

 アイドル衣装のシノンが見たくないように頭を振りながらしゃがみ込み、キリトが抱き上げると跳躍して避難させる。一方の片腕の血風シノンは燃え盛る炎の獣と戦っている。

 炎の獣はまさしく全てを焼き尽くす存在。破壊の具現。およそ人間が戦うのは無謀の相手。だが、血風シノンは全身を傷つき、焼かれながらも、戦う事を止めない。

 いかなる過去のIFを辿れば、このような『都合のいい夢』にたどり着くというのか? 何よりも混沌としている。アイドルのシノンと血風のシノン、どちらが本物だというのか。

 血風シノンは押されている。炎の獣はまさしく暴虐。全身を焼かれて所々が炭化して崩れ落ちていく。内臓まで焼かれたように嘔吐の度にドロドロに溶けた肉が吐き出される。だが、血風シノンは戦いを止めない。

 

「嫌……嫌! 違うの! 私は……私だって……マユみたいに女の子らしく……! 戦うだけじゃなくて……! 貴方の相棒として……戦うだけじゃなくて……!」

 

「負けない……負けたくない! 誰にも……何にも……自分にも……それに……『貴方』にも……!」

 

 アイドルのシノンはまるで助けを求めるようにキリトに縋り、血風シノンは苦しみながら焼けて崩れた臓物をまき散らしながらも炎の獣を見据える。

 

「私だって居場所が欲しい。戦うだけじゃない居場所が……!」

 

「そうよ。ここが……この戦場が……私の……!」

 

 レコンは気付く。分離してるのだ。どちらも本物のシノンではない。彼女たちはどちらもシノンだ。シノンにとっての『都合のいい夢の中の自分』なのだ。

 限りなく拮抗した2つの『都合のいい夢』によって、世界は崩壊と創造を繰り返す。荒野の戦場と愛らしいアイドルステージを行き来する。

 やがてキリトさえも見えなくなったようにアイドルのシノンは狂ったように歌って踊り、血風シノンは炎の獣に絶対に勝てないと刻み込まれるように焼かれながら右足で押さえつけられながらも銃口を向ける。

 

「聖剣よ」

 

 キリトは天上を狙い澄まして聖剣を振るう。漆黒の一閃は微かに月光の青にして碧の光を帯びて空に亀裂を入れる。

 崩壊。鏡の破片が降り注ぎ、眩い光の果てにレコン達は元の子ども部屋に戻っていた。そして、元の姿に戻ったシノンが気を失って倒れている。

 聖剣で簡単に解決できるじゃないか、とはレコンも軽口を叩けない。

 聖剣の一振り。たったそれだけに見えたが、キリトの顔には隠しきれない疲労が滲み出てしまっていたからだ。

 ノーリスク・ノーコストで使える『力』など存在しない。聖剣の『本領』を機能させるには、キリトから『何か』を消耗させているのだろう。

 

(思考操作の類はVR適性が低いと高い集中力が必要とされるから疲労が大きいとされている。聖剣の真価を発揮させるには、キリトさんにとってもあそこまでの消耗を強いる。この情報……使えるな)

 

 もしも、万が一、キリトと敵対した場合、白の傭兵と拮抗あるいは凌駕しかねない『可能性』を持つ彼の打倒を為すならば、聖剣を多用させて消耗させるのが最も有効な手段であるとレコンは密やかに対策を立てる。

 強大過ぎるが故の極大の消耗。決して頂点には至れない、せいぜいが秀才にしかなれない自分だからこそ『最強』を倒す方法には『仕込み』が必要になるだろうとレコンは冷徹に計算する。

 

「レコン」

 

 名を呼ばれ、よもや心を読まれたかともあり得ないと否定できない懸念をしたレコンであるが、キリトの訴えかける眼差しに彼の誠意と善意を見て否定する。

 

「分かってますよ。どちらもシノンさんの心の秘密なんだと思います。僕は何も知らない。それで構いません」

 

「済まない」

 

「いいですよ。シノンさんとはアルヴヘイムも生き抜いた仲間のつもりですけど、心の奥底に隠し混んだものまで背負う間柄じゃありませんから」

 

 冷たい物言いであるが、レコンは誰でも彼でも背負う事が出来る傑物では無い。

 

「ですけど、キリトさんはどうするんですか? 少なくとも、片方のシノンさんは……貴方に助けを求めているようにも見えましたけど……」

 

「……シノン次第だ。俺でも安易に踏み込んでいい問題じゃない」

 

 普段とはかけ離れた、皆に愛されるような可愛さを求めたシノン。己が破壊し尽くされると分かっても暴虐の炎に挑んでいたシノン。どちらも本物であり、どちらも贋物だ。真実は今まさに気絶しているシノンだけである。

 ひとまずシノンをベッドに寝かせたキリトは無闇に行動するよりも彼女の目覚めを待つことにした。レコンも賛成であるが、精神的ダメージであるならば、果たしてすぐに目覚めるだろうかは不安であった。

 

「……やっぱり卑怯だよな。俺だけ知って、シノンの行動を待つなんてさ」

 

「僕は何も見てませんし、聞いてません。ですのでお答えできません」

 

「思えば、シノンとは色々な死地を生き抜いた間柄で、数少ない……心の底から背中を預けられる1人なんだ」

 

「だから、僕は何も答えられませんよ」

 

「お互いに弱いところも見せていると思ったけど、人間なんだ。隠してる本音は……いいや、自分だって分からない本心は必ずある……よな」

 

 勝手に喋るキリトにとってこれは独り言だ。レコンが反応するべきではない。

 

「誰かと分かり合おうとする。その手段が会話だったり、戦いだったりする。近道したつもりが真逆で、遠回りしたつもりが最短だった。僕らは神様じゃないから最適解なんて分からない」

 

 だが、レコンも独り言を口にしたい時がある。

 

「戦いがコミュニケーション手段。歴史の積み重ねが証明しているけど、救われないな」

 

「人間ほどに暗愚で、だけど賢明になれる生物はいません。単純に前者の比率が高過ぎるだけですし、戦いが時として最良として機能とする時もありますよ」

 

 理解し合えないからこそ争い、理解しようとも受け入れられないからこそ戦い、理解して受け入れようとも殺し合わずにはいられない。

 ああ、実に愚かで、救いようがない、人が人の内で練り上げ、もはや因果ともなってしまった……祈りとも呪いとも呼ぶ他にない人の業だ。レコンはそれもまたレギオンが……ナギが『人』に魅入る輝きなのだろうかと笑って済ませる事は出来なかった。

 

 

▽      ▽       ▽

 

 

 全身が鈍く痛む。だが、HPの減少はない。故に生命の危機は見える範囲で現実味を帯びていない。

 ならばこそ要求されるのは冷静なる思考。暗闇でも確かにある地面の感覚に、シリカは薄らぐ暗闇の中で舞う僅かな塵に焦点を合わせて思考を整理して自意識の維持に成功する。

 DBO初期に繰り返したスタミナ切れ状態での強引なアバター操作。後遺症によるダメージは完全に回復しておらず、シリカは1部の感覚を痛覚で補っている。

 とはいえ、レベルアップや装備の充実、初期のように人手不足から自分で無理して動かねばならない状況も無くなり、回復の傾向もあったのであるが、完治に至るにはやはり1度ログアウトが必要になるだろう。

 

(遮断率95パーセント……痛覚情報は20分の1。5パーセントでこの痛み……HPの減少は無くとも、かなりの痛覚情報が与えられる衝撃があったみたいですね)

 

 DBO……いいや、VRにおける『非人道的』と揶揄される問題点。それは痛覚情報に『上限』が無い事だ。

 本物の肉体ならばアドレナリンなどで痛覚を緩和する事もあるが、VRではデバイスを通して脳に情報が直接送り込まれる。

 経験する痛みは現実の肉体が持つ上限も生物として持つ痛覚緩和機能も取り払った時、何が起こるか? その気になれば、VRデバイス1つで手軽に想像すらも許されない痛みの地獄を与える事が出来るのだ。

 もちろん、市販のVRデバイスならば上限設定が盛り込まれているが、DBOにそんな甘えはない。与えられる痛みは際限なく、故に痛覚遮断機能はプレイヤーが正気を保つ為にも必要不可欠なものだ。自己防衛意識が高いプレイヤーはまず痛覚遮断機能にロックをかけることを最優先に実施する。他人が自分の指を動かし、システムウインドウを操作させ、痛覚遮断機能をオフにする……という事例は確かに存在するのだ。

 

(まぁ、痛覚も悪い事ばかりじゃありません。私みたいな弱い人間は、痛みで危機感をある程度は煽った方が生存率も高くなりますしね)

 

 DBO特有のダメージフィードバックも強烈ではあるが、あれは痛みとは別ジャンル……まさに不快感だ。初経験では痛みよりも苦しいとも思ったが、繰り返して経験すれば似たり寄ったりであり、人によっては……特に近接プレイヤーは痛覚よりもマシだと割り切れるかが近接戦の適性の1つでもあった。

 とはいえ、大半のプレイヤーはDBO特有のダメージフィードバックによって脱落するのが実情である。痛覚と比べられる程に経験を積んだプレイヤーの方は数少ない。いや、痛覚の方がマシだと甘く見て痛覚遮断機能をオフにした者達は等しく地獄を見て死に絶えたに違いなかった。

 

(VRで痛覚情報を受け取っても現実の肉体ではアドレナリンがドバドバ出てるらしいですけど、VRデバイスでダイレクトにやり取りされたら関係ないし、そうした脳のセーフティ機能も制限できるらしいですし、本当に最悪です)

 

 痛覚情報に上限が無いDBOで痛覚遮断機能をオフにするメリットは無い。シリカのように、痛覚で鈍った感覚を代用するのは苦肉の策なのだ。そして、彼女の場合も後遺症が完治しておらず、戦闘において僅かな感覚の鈍りが時として致命的になると判断した上で限定的に解除しているだけである。

 それでも20分の1に軽減されても元の痛覚情報が大き過ぎれば、今のようにしばらく体は動かせなくなる程の痛みを味わうことになる。シリカはゆっくりと体を起こし、塵が雨のように……いや、雪のように降り注ぐ闇を見回す。

 何があったかを思い出す。レコンが突如として消えたシリカは即座に何かが起きていると察知した。小屋に消えたレコンを捜索するのでは無く、仲間との合流……最優先でキリトと接触する事を是とした。

 だが、突如として何かに吸い込まれ、そして完全に取り込まれる直前で誰かが手を握ってくれたのだ。

 下手に動くのは危険だ。だが、行動しなければ解決もしない。シリカは闇の中を歩き続ければ、やがて闇で塗り潰された足場が視認できるようになり、また変化が生じる。

 水溜まり……いいや、血溜まりだ。シリカは思わず口を手で押さえ、だが吐き気を堪えると屈んで触れる。

 

「見た目は血……みたいですけど……」

 

 触れれば波紋が出来る。だが、指は血に沈まない。付着もしない。靴底を通した感触はまるで水面を歩いている化のような不思議なものであるが、VRならば決して初めてではない感覚であり、驚きはない。

 だが、禍々しいまでに鮮やかな血の色は否応なく嫌悪感を呼び起こす。戦場に慣れているとはいえ、シリカは血の色もニオイも好んでいるわけでは無い。余計な感情を抱かないように思考から排除しているだけだ。だが、五感を通した情報の暴力によって自意識の防壁は破れる事もある。

 血の色を認識した瞬間に鼻孔を擽る血のニオイが脳髄を蹂躙する。嫌悪感を通り越した恐怖に変じる前に、シリカは腰の短剣を抜き、意識を戦闘準備に切り替える事で耐え抜く。

 この程度の悪趣味でたじろいでいてはDBOでは生き残れない。シリカはそれを重々承知している。

 だが、ここは……この世界は『違う』。シリカは直感的に、この空間がDBOのコンセプトから著しく逸脱した『何か』であると悟る。

 人間の……いいや、生物の本能に訴えかける絶対的な危機感にして恐怖。この感覚をシリカは何処かで味わった事がある。だが、狂気に陥らせまいと思考は深掘りを意図して禁じる。

 早く出口を探さねば精神が蝕まれる。直感的危機意識の訴えでシリカの歩幅は自然と大きくなる。予見できない罠に備えて慎重になるよりも脱出を最優先とした最速を選ぶ。

 だが、進めども進めども出口は見えない。沈まぬ血の海はまるで陽光に照らされているかのように不気味な煌めきを増すが、相反するように闇はより濃度と重圧を増しているかのように息苦しさをもたらす。

 精神がへし折れたならば、その瞬間に血の海に溺れるのでは無いかという恐怖心が芽生える。恐怖を感じるというプロセス自体が精神をより疲弊させる悪循環をもたらすと分かっていても逃れられないのは、本能と感情よりも理知と精神を重んじる人間あるからこその蟻地獄だった。

 

「キリトさん……!」

 

 自然と口から零れるのは思い人の名を呼ぶ弱音だ。

 ああ、これが私だ。これこそが私なのだ。シリカは自嘲する。

 どれだけ強がってみても、笑ってみても、気丈に振る舞おうとも、黒衣の剣士の後ろ姿を想起しなければ立ち続ける事も出来ない、哀れで、愚かで、弱い女だ。

 

「……分かってますよ。私が……私がずっと隣に居続けるなんて……土台無理なんです」

 

 キリトが立ち上がれぬ時、蹲っている時、倒れ伏した時、自分では彼を再び歩き出させることは出来ない。彼を立ち上がらせるのは、より心が強い女であり、彼が同等であると、ありたいと、そう望む友だけなのだ。

 だからこそ、シリカは嫉妬を覚えるのだ。キリトを立ち上がらせる事が出来るクゥリに、あるいは迷いを断ち切らせる事が出来るラジードに、言い様もない敗北感を拭えないのだ。

 

(そうだ。私は……私は……『このままでいい』って……)

 

 キリトが歪み、狂い、壊れていく中で、彼が歩むべき正道を知り、また口にしながらも、拒絶を示して突き進む姿に、薄暗い安堵を覚えていなかったと問われれば、否定は出来ない。

 墜ちてしまえばいい。もう2度と立ち上がれなくなるくらいに、深く、濃く、重たい水底に縛り付けられて、共に腐り果ててしまえばいい。

 再起を望むという光の渇望とは相反した、堕落を願う闇の願望が確かにあったのだ。

 割合の話ではない。キリトが誰からも見向きされない、軽蔑されて唾棄される程に腐敗して、ぬるま湯に浸された狭い世界で2人だけになりたかったのだ。

 だからこそ、安心する自分がいる。改変アルヴヘイムを経て立ち上がり、モルドレッドの戦いで魂の殻を打ち破り、ラストサンクチュアリ壊滅戦で本人は認めずとも英雄の証明を手に入れ、そして皮肉にもスゴウという怨敵の鏡映しが過去の想念を乗り越える道筋を示した。

 シリカがいなくてもキリトは何処までも前に進める。彼が膝をついた時、そこに自分がいなくても誰かが寄り添える。いや、それだけではなく立ち上がる為の手助けもしてあげられるだろう。

 本人は断固の意思で拒絶をしようとも、シリカは認めてしまっている。

 崩壊する腐り果てた聖域の戦い。ユージーンという自分が拒絶した『英雄という偶像』の道を己の信念で進む男を下した時、彼は業を背負ったのだ。万人の無責任な希望を押しつけられる『英雄』という祈りにして呪いの業を。

 そして、たとえ刃は届かずとも、クゥリとの死闘で人々は直感した。DBOという地獄の中に潜む『真の悪夢』を打ち破れるのは、煽動された軟弱なる民衆の槍でもなく、大組織による規律と資本によって鍛えられた銃弾でもなく、英雄が振るう剱なのだと。

 

(……これが私の本音。知られたら……きっと嫌われる)

 

 クゥリに対する嫉妬と羨望。だが、何よりも根底に潜むのは恐怖だ。

 恐怖を踏破する。それはありとあらゆる恐怖が襲いかかるDBOにおいて最重要だ。シリカ自身、これまで幾度となく恐怖を踏破する事で生存を勝ち取ってきた。

 だが、あの日から……いいや、思い返せば、初めて出会った時からシリカは恐怖していたのだ。

 アインクラッドにおいて、キリトと楽しげに語らうクゥリの眼に怯えていたのだ。

 

「私は……『弱い』」

 

 ずっと、ずっとずっと、ずっとずっとずっと、恐怖を胸に潜ませて育ててきた。

 闇の重圧と血の香りがもたらすのは弱音ではなく本音。矮小で、貧弱で、救いようもない程に愚劣な自分だ。

 キリトがこの場にいれば、そんなものは誰もが持っている負の側面に過ぎないと笑いながら手を差し出してくれただろう。

 だが、ここには誰もいない。シリカがいつの間にか自分が蹲っている事に気付いていなかった。幼子のように膝を抱え、嗚咽を漏らしていた。

 

「キリトさん……キリトさん……キリトさん! どうして、私と墜ちてくれなかったんですか!?」

 

 貴方だって『強さ』だけを持っている人間じゃなかった。むしろ『弱さ』を必死に虚勢で覆い隠そうとする、自分と同じような『弱さ』こそが大部分を占めていたはずだ。

 アスナの喪失と増え続ける犠牲と苛まれる無力感。アインクラッドで膿んだ傷を舐め合うようにして互いに依存した。クゥリには絶対に理解できないだろう、似て非なるとも類した『弱さ』に苦しむ者同士だからこその結びつきはある種の優越感があった。

 だが、キリトは変わってしまった。いいや、アスナの喪失以前は確かにあった魂の輝きを取り戻すだけではなく、自身の『弱さ』の内側に、愚かと嗤われようとも我を突き通し、世界を救う意思は無くとも運命を覆す可能性を手にする『人の意思』を真に勝ち取ってしまった。

 シリカが信じ、愛し、だがその実は決して到達して欲しくなかった『理想』だ。シリカが求めた『現実』は、哀れみと再起を願いながらも緩やかに腐り果てていく、優しくも濁った汚水の底だった。

 

「もう……疲れた」

 

 新しい関係を始める。そう繰り返しながらも、キリトのけじめの言葉をあれこれ理由を付けて先延ばしにして、聞きたくないと耳を塞いで、前に進むフリをして、その場で道化の如く踊り狂う。キリトならば、哀れみと優しさで決して見捨てないだろうという汚濁の確信があるからこそ。

 このまま消えてなくなりたい。シリカは血の海に沈むことを願う。

 だが、シリカの意思に反して耳を擽るのは風を切る音。

 涙で汚れた顔を上げれば、闇を切り裂いて舞うのは幼き竜……ピナだ。

 人語は操れずとも、その目は、羽ばたきは、竜と呼ぶにはまだまだ甲高く愛らしい咆吼は、シリカを鼓舞するべく全身全霊で彼女の心の澱んだ水面に波紋を起こす清風となる。

 

「こんな私を……見捨てないの?」

 

 シリカの周囲を舞うピナは光の粒子を優しい雨の如く降り注がせる。HP回復をもたらす【竜鱗の慈雨】だ。もちろん、HPは減っていないシリカには何ら効果もない回復行動だ。

 だが、それこそがピナはプレイヤーの状態に応じた行動を選択するAIではなく、シリカという個人を愛し、また共に戦ってきたパートナーであるという証だ。そこには確かにシリカを信じる意思があり、故に己の在り方を定める意志があるのだ。

 独りだと思っていた闇はピナがもたらす光で薄れ、竜毛から届く陽光に満ちた森に溢れた草花のような優しい香りが血の狂気を払い除ける。

 

「……ありがとう」

 

 ピナを抱きしめたシリカは心からの笑みを浮かべる。

 そうだ。何を弱気になっているのだ。本当の自分が醜く、弱く、愚かであるなど今に知ったことではない。それでも、もう隣に立つことは出来ずとも、手を伸ばしても届かない程に遠くに行ってしまっているとしても……!

 シリカは決意などなくとも立ち上がる。芯となる『強さ』は無く、いつも他人に依存する以外では何処にも進めず、何も選べないとしても、だからこそ、常に光に惹かれて闇を抱え込んだままでも歩き出せる。

 

「この空間……私の精神に干渉してるのかな? ピナはどう思う?」

 

 無理にでも出口を探そうとする焦燥が精神の弱体化を招いたならば、ピナという存在を楔にして自己を固定化する。意識のベクトルはピナを介在として脱出方法の探索に変化した。

 索敵するようにシリカの周囲で円を描くように飛行したピナだが、得られた情報は何もない。システムウインドウは開けるが、マップデータに現在地はおろか、マッピングした情報すらも表示されていなかった。

 だが、シリカは確信する。この空間は精神に何らかの干渉をもたらし、人間が持つ負の側面を引きずり出すのだ。

 

「これが私の負の感情……とは思いたくないですね」

 

 見渡す限りの闇と血。これがシリカの心象風景であるならば、彼女は迷いなく心療内科に通院してでも精神の健全を取り戻したいという願望がある。逆に言えば、根本的拒絶を覚える程に、ここが自分の心の世界である事を認められない因子があるのだ。

 同時にDBOによって設計された空間とも思えない違和感。シリカはピナによる探索範囲を拡大させつつも緩やかな歩みで最果てを目指す。

 シリカの意識が不動の脱出に偏ったお陰か、あるいは偶然か。やがて視界の端に異物を捉える。

 

「鳥居? なんで鳥居なんかが……」

 

 それは塗装が剥げ、今にも崩落しそうな鳥居だった。まるで道を作るように並び、彼女が潜る事を待ちわびているかのような、まるで怪物が獲物を待ちわびる大口のような緊張感が否応なく押し寄せた。

 だが、ようやく発見した手がかりである。仲間の救援があるかも分からない状況で、危険を感じたからと踏み止まるのはナンセンスだった。

 シリカは自覚する。今の自分の戦闘能力はチームでも下位……もしかせずとも状況次第では最下位のユナにも負けるだろう。短剣を用いた戦闘を得意とするシリカであるが、生粋の短剣使いには実力も及ばず、ピナを用いた多種多様なサポートこそ可能であるが、ユナほどに回復もバフもこなせるわけではない。

 シリカの本領はむしろ戦闘外におけるサポートだ。彼女の装備もあくまで探索に特化させたもので揃えている。特に重要なバフ装備でもある指輪にしても、モンスターからのヘイトを恒常的に減少させ続ける【潜み隠れる蛇の指輪】とヘイトが低ければ低いほどに隠密ボーナスと防御力が高まる【臆病な盾の指輪】だ。

 ヘイト管理が通じないとされる『意思を持ったAI』であるが、システム的にはヘイト値が存在すると大ギルドや雄志によるデータ集積によって確証が取れている。

 ヘイトとは言うなれば存在感だ。敵が自分を傷つければ、厄介な行動を取れば、それだけ存在感は増す。より意識する。これは五感情報に反映される。プレイヤーもモンスターも区別なく、である。故にヘイトが集まれば集まる程に隠密ボーナスが低下するようにもなっているのだ。

 たとえ『意思を持ったAI』が戦略的に後衛を潰そうと動いたとしても、蓄積したヘイトが低ければ低い程に五感情報の制限を受けるのだ。加えて隠密ボーナスを保ち続ける事で相手が意図せずとも見失い易くなる。

 また、ヘイトはダメージとも相関性があり、ヘイトを稼げば稼ぐ程に被ダメージ量は増加する。すなわち、ヘイトを集める役割であるタンクは集団において相対的に最もダメージに加算が生じる。これは後衛がヘイトを稼いだ場合の即死率を引き上げるものだ。

 弓矢や銃、魔法といった遠距離攻撃手段が豊富なDBOだからこそ、下手にダメージソースを後衛が担った場合の危険性を生じさせているのである。

 このヘイトによるダメージの増減は、相手が『対多人数戦』を想定した設計であればあるほどに危険性が増す。並のモンスターなどせいぜいが1パーティ……プレイヤー6人を想定したものであるが、ネームドやネームド級はレイド……複数のパーティ構成による攻略が前提であり、それに応じたヘイトの分散を想定してある。

 故に少人数であればある程に、個々に割り当てられるヘイト値は相対的に増加し、それによるダメージ増加で死亡率が高まるのだ。

 個人という枠組みを超越した存在……人型ネームドは元の攻撃力が『控えめ』である傾向からヘイト値によるダメージ増加もまた『控えめ』に分類されるが、それはそれとして別の危険性から少人数及び単独で遭遇した場合の死亡率は群を抜いている。

 だが、多人数……いや、超多人数戦を想定した超大型はヘイト分散が大前提であり、ソロの場合の即死率は人型ネームドと同等かそれ以上である。その代表例がドラゴンの頂点にして原点……古竜である。

 英雄クラスの人型ネームドが『人の枠組みを突破した超越者』の姿であるならば、古竜は『超越者であらねば土俵にすら立てない災害そのもの』である。

 これらの性質から1度崩されても、人型ネームド相手ならば傭兵などの『超人』に分類されるプレイヤーが個人の武勇で粘れば立て直しは可能とされているが、超大型ネームドの場合は個人の武勇ではどうしようもない。個人がどれだけ抑え込もうとしても、それ以上の攻撃規模と破壊力によって立て直すことは出来ないのだ。

 故に超大型相手は個人の武勇はあくまでダメージソースの1つに過ぎず、むしろ問われるのは指揮と統率、そして何よりも事前準備であるとされている。戦略性こそが最も問われるのだ。

 戦術と戦略。この2つは常に付き纏う問題であり、実のところを言えばシリカは戦略側の人間である。戦闘において戦術的活躍の期待されておらず、それ以前の情報収集や事前準備などでこそ真価を発揮する裏方タイプだ。自称し、また固執した『秘書』というポジションは、その実は適性に合致していた。

 そして、シリカはそれを半分ほどしか自覚していない。理由は単純明快。常に戦場にある『現場型の英雄』の隣には居続けられないからだった。

 人々の希望を背負う『英雄』は大きく分けて2種類である。

 キリトやユージーンといった他を圧倒する個人の突出した能力で困難を打ち破る戦士のタイプ。

 ディアベルのようなカリスマによって軍団を統率し、天与の戦術・戦略構築によって集団の勝利を導く将にして王のタイプ。

 後者の場合、必ずしも知略は必要では無い。サンライスのように典型的な個の武勇頼りでありながら集団統率のカリスマ性を持つ者の場合、外付けの頭脳を得ることで後者としても成立する事もある。あくまで重視されるのは統率力……そして、人々を死地へと赴かせて実際に死なせる狂気を是とさせるカリスマだ。

 キリトは確かに人々の無責任な希望を背負う英雄となった。だが、あくまで戦場で剣を振るう戦士であり、本人の気質も集団統率には絶対的に向かない。たとえ、神輿として祭り上げられたとしても遠からずに組織は瓦解する定めにある。戦士タイプが最も輝くのはその真価を理解した組織の下で戦う時なのだ。

 これはあらゆる神話・伝説における英雄に共通している。支配者、あるいは組織の下では絶大な力を発揮して英雄として名声を高めるが、庇護から外れれば悲惨な末路を迎える。

 そして、シリカの適性は組織にこそ向いている。強固な組織を統率する支配者の隣でこそ、彼女は強みを発揮できる。

 故にシリカが歩む道は彼女の素質から大いに逸れている。それ故の苦悩を抱え込む。

 だが、己の素質に適した道だけを進むのは選択では無く誘導である。喩え、そこに万人が羨む幸福があるとしても、それを感じる心が乾いて干からびていては何の価値があるだろうか。

 素質には抗える。喩え、待つのは失敗だけであろうとも、得られぬ栄光はないとしても、自分の選択をいつの日か後悔する時があるとしても、そこには確かに自由があったのだと振り返れば確かに存在する足跡が誇りを見出す切っ掛けとなる。

 

 

 

 ならばこそ、本質からは決して逃れられないのだと思い知るのだ。

 

 

 

 鳥居を潜り続けた果てにシリカがたどり着いたのは……祭壇。

 いや、それは祭壇と呼ぶべきかも分からぬ何か。これまで闇ばかりだった世界の天上に突如として現れたのは、月と呼ぶことさえも憚れる赤にして、紅にして、緋にして、血に浸されたかのような月。

 骨とも見紛う痩せ掘った白木が幾重にも絡み合い、また囲うようにして注連縄が張り巡らされている。

 くるくる回るのは風車。血の海から浮かび上がる白木の根に数多と、まるで彼岸花のように鮮やかな赤を回す風車が咲き乱れる。

 

「ウ……ウァ……」

 

 白木と注連縄で生み出された祭壇の中心部、閉じ込められている何者かの呻き声に、シリカはようやく理解する。

 この異常なる世界に飛ばされる寸前に手を掴んでくれた温もり……あれはミョルニルの手だったのだと。

 

「ピナ!」

 

 シリカはピナを左手にのせる。幼竜は顎を開き、翼を大きく展開する。

 準ユニークスキル≪テイマー≫はモンスターをテイミングする事で習得することが出来る。

 テイミング条件は様々であるが、最も問われるのはリアルラックである。条件を満たすのは大前提であり、その後のテイミング判定という確率の戦いで勝利しなければならない。

 そして、ネットという玉石混合の情報収集の場が存在せず、またデスペナルティが真の意味で死に繋がる環境において試行回数を重ねるのは高難度と化し、また情報の提供によって得られるのが自尊心ではなく生活の糧ともなれば、道のりは険しい。

 故にDBOでも≪テイマー≫スキル保有者は人口増加が顕著の現状であっても両手の指の数ほどもいない。そして、最前線で活躍できる者ともなれば更に限られる。

 シリカは≪テイマー≫でありながら最前線でも『活動』を可能とする、見方によってはネームド単独討伐者のような超越者すらも上回る希少な人材である。

 そもそもとして≪テイマー≫の強みとは何か。モンスターを使役するならば、捕獲したモンスターを≪調教≫すれば可能である。特に騎乗出来るモンスターの多くは≪調教≫の過程を経なければならない。

 聖剣騎士団が保有する『最強の航空戦力』である飛竜の大部隊もまた、捕獲した飛竜を≪調教≫によって飼い慣らし、配合を繰り返して騎獣として最適化して増産させたものである。単純に飛竜の雌雄を番いにさせるだけではなく、産卵から孵化、その後の調教と育成による騎獣化に至るまでの全シークエンスが秘中の秘なのである。故に卵を盗み出したからといって飛竜を騎獣として扱えるわけではない。

 だが、≪テイマー≫スキルがあれば、そうした過程を全て無視できる。それだけではなく、テイミングしたモンスターは成長限界を突破も可能だ。水準レベル1のダンジョンでテイミングしたモンスターであっても、水準レベル100でも通じるまでに成長できる。また、テイミングしたモンスターの多くは≪騎乗≫スキル免除能力を獲得する。

 そして、何よりも強力なのが能力覚醒だ。ピナとの合体技を筆頭として、そのモンスターの保有する能力は強化され、プレイヤーの恩恵となるように追加・再設計されるのである。

 ピナ。その名の通り、シリカがSAOでテイミングした幼竜と同一のAIである。これは茅場晶彦がDBOに招待した際に、茅場の後継者と『人の意思の持つ力』の証明を巡る戦いの駒として参戦する対価として、幾つかの制限と特典として与えられたものだ。

 DBO序盤において、ある程度まで攻略が進むまで参戦できない代わりに、キリトは自身の能力に見合った調整が施された、潜在能力をフルに引き出せる軍用VRデバイスであるアドバンスド・ナーヴギアが与えられた。

 DBOプレイヤーが装着しているアミュスフィアⅢも茅場の後継者が関与しているだけあって、市販品としては価格に見合わぬオーバースペックであり、大半のプレイヤーは性能を活かしきれていないが、VR適性SSSであるキリトではアミュスフィアⅢ以上の性能であっても十分に活用できると判定された。

 常人ならば半日とフル稼働させればVRストレスで心身に問題が生じるが、適性SSSクラスならばVRストレスも限りなく最小化し、なおかつスペックを引き出せる。

 だが、キリトはADナーヴギアの恩恵を改変アルヴヘイムまで制限し続けた。結果的には解禁した事によって、アミュスフィアⅢでは引き出し切れていなかったキリトの能力を最大限に発揮できるようになったのであるが、それでもなお追いつかない高難度だったのがDBOである。

 またマシンパワーを解禁した事によって、キリトは本気を出した分だけ、たとえ適性によって最小化しているとはいえ、よりVRストレスの影響を大きく受けるようになった。意図して設けられた上限を廃した事によって、全力の全力を引き出せるになった反動である。

 対してシリカはキリト程のVR適性は無く、むしろADナーブギアを装着してDBOに囚われた日には、過剰なスペックに負けて心身どちらか、あるいは両方が同時に壊れる危険性があった。故に彼女が希望したのはピナのAIが宿ったドラゴンの卵であった。

 だが、持ち込んだだけであり、テイミングされる確証は無い。シリカは知るよしもなく、持ち込めた時点でピナが仲間になると思い込んでいた。

 卵が割れた瞬間にピナのAIを持った幼竜が襲いかかってくる。そんなシナリオもあったのだ。いいや、確率ではほぼ確定の域だった。

 では、茅場晶彦はシリカの希望があったとはいえ、悪意を持ってピナのAIと卵を与えたのかと言えば、これもまた否であり、同時に見方によっては是だろう。

 当時の茅場晶彦が欲していた証明の駒。キリトは最有力候補であり、その補佐としてシリカをお情けで入れたかと問われれば、。大きな誤りである。駒としての価値はキリトとは相対的に見ても低かったとはいえ、彼女にも『資格』があった。

 そもそもとして、≪テイマー≫スキルを持っているからといってテイミングの確率が上昇するわけではない。シリカはピナを皮切りにして、金竜と銀竜という2体の飛竜もまたテイミングしている。

 同じく複数のテイミングに成功した例として、シリカは知らなかったが、マクスウェルというプレイヤーがいた。彼は2体の黒狼を『同時』にテイミングした事で≪テイマー≫を習得した。あくまで2体1対のモンスターだったが故の複数モンスターのテイミングだったのだ。

 だが、シリカは違う。ピナも、金竜も、銀竜も、全く異なるタイミングでテイミングに成功している。条件を満たしていたとしても、それが偶発にしては天文学的確率であることは言うまでも無い。

 

「いっけぇええええええええええ!」

 

 シリカの本質は何なのか。彼女はまだ知らない。キリトが己の過去と願望が混じり合い、様々な出会いと聖剣を経て本質を理解して『人の持つ意思の力』を使いこなすべく進み始めたが、彼女はまだスタートラインから動いていない。

 だが、理解せずとも本質は常にその者の在り方で滲み出る。シリカの目が見定めるのは、本来ならば人類の敵たるレギオンである。どれだけ少女の外観をしていようとも、シリカはその目で見ている。ミョルニルが嬉々と人間を殺し、貪り喰らう瞬間を目撃している。

 そうだとしても、胸中に迷いと矛盾があったとしても、シリカの行動に変化は無い。ピナに光のブレスを放出させ、白木と注連縄を打ち破って穴を開ける。

 

「ミョルニルさん! しっかりしてください! ミョルニルさん!」

 

 相手の善悪も、自身の好悪も、両者の立場さえも超越して『人あらざる存在』と触れ合う事を『受容』する。どれだけ恐怖していようとも止められない『好奇心』がそこにあるのだ。

 シリカは知らない。自身の本質を知らない。知らない事こそが彼女の本質を最も強力にするからこそ、自覚する時が訪れる日はなく、故の苦悩が付き纏い続ける。

 

 ならばこそ、これは悲劇にして喜劇なのだろう。

 

 彼女が嫉妬し、羨望し、恐怖した存在。愛する【黒の剣士】の最大の親愛を注がれた純白。どれだけ毛嫌いしようとも『自身の肯定も否定も無視して受け入れてしまっている』事こそが彼女の本質なのだ。

 無知は罪ではなく、故に罰が与えられるべきではない。

 レギオンとは何なのか。レギオンの王とは『誰』なのか。回答に到達するだけのピースこそあるが、そこには枠外の思考が必要がである。たとえ、驚異的な学習能力や未来予知の如き直感的行動などの類似点があるとしても、レギオンがそもそもとして『異形』であるという先入観があるからこそ、レギオンの原点が『誰』なのか、至るのは困難を極める。

 シリカの本質より発露した『人の持つ意思の力』は、彼女が望むとも望まずとも、彼女の『好奇心』からもたらされる『受容』が働く時、不安定かつ強大に干渉を開始する。

 そして、レギオンの王とは違い、レギオン自体には『人の持つ意思の力』を逆手にとって対象を恐怖によって自己崩壊させるアンチ能力……メタ化には至っていない。それは模され劣化した本能に過ぎないが故に。

 ならばこそ、これは悲劇にして喜劇であり、やはり悲劇なのだろう。

 シリカは知らない。自身の本質を知らない。本質から得た『人の持つ意思の力』に気づけていない。彼女の『好奇心』から発露した受容力の高さは、レギオンの王の『好奇』を核として生まれたミョルニルと極めて親和性が高い事を知るはずがない。

 シリカは知らない。この空間が何なのか知らない。本来ならば個人の過去を検索し、願望を反映させた仮定の現実を体感させて本来の自己認識を覆ってオーバーライトさせて『夢』に閉じこめるものであり、ミョルニルと相互干渉した事によってミョルニルの核たるレギオンプログラムが色濃く反映されてしまったなどと知るはずがない。

 シリカは知らない。ミョルニルがレギオンの中で唯一の『レギオンの天敵』とも呼べるはずの存在と接触して『生存してしまった』ばかりに、アバターを構成する内側……レギオンがレギオンたる証であるレギオンプログラムに『異物』が入り込んでいたなど知るはずがない。

 

 シリカは知らない。

 

 シリカは知らない。

 

 シリカは知らない。

 

 

 

 白木、注連縄、風車、そして血の月。それらがレギオンを象徴するものであり、ミョルニルを……いいや、シリカや同族を『守る』為に、彼女が無意識に自己のリソースを割り振って自己変化させる能力で創造した『檻』であったなど、知るはずがない。

 

 

 

 シリカの接近に気付いたミョルニルは、まるで卵の中に潜む雛のように、あるいは子宮で浮かぶ赤子のように、足を抱えて丸くなっていた。だが、彼女の気配に気づき、苦悶の眼と震える唇を動かす。

 善意や悪意を超越した行動。シリカのそれは客観性を度外視した、対象が人外だからこそ可能とする平等性。人外だからこそ対等に友愛も敵対もできる好奇の可能性。ならばこそ、ミョルニルに伸ばした手は純粋なる救いの意思である。

 

 

「クル……ナ……キタラ、ダメ……サ、ワルナ……サワルナ……サワルナァアアアアアアアアアア!」

 

 

 シリカが『救う』為にミョルニルに触れた瞬間、彼女の色黒の肌に血管が浮かび上がる。

 周囲を満たしていた血の海が一瞬で干上がり、風車は止まり、白木は根より朽ち果て、血の月は溶けて、蕩けて、崩れ落ちる。

 胎児の如く丸くなっていたミョルニルは仰向けになって体を激しく跳ねさせ、腹を……否、『胎』を膨らませる。純粋なる子どもの如き精神と肉体を蹂躙するかのように『母』となる。

 

 シリカの顔に付着するのは皮膚と肉と血。ミョルニルの腹を突き破って溢れるのは赤にして、紅にして、緋にして、血の塊。

 

 呆然とするシリカの目が捉えたのは……『白』。

 どうして? 何で? そんな疑問を持たずにはいられない、ミョルニルの腹を突き破って現れたのは異形でも何でも無い、むしろ恐怖の対象から外れるだろう、だからこそ否応なく恐怖を煽るモノ。

 

「ねこの……・ぬいぐるみ?」

 

 それはミョルニルの臓物と血をたっぷり啜った白い、白い、白い……『目』だけが無い白猫のぬいぐるみ。

 シリカの目の前で白猫のぬいぐるみは腹を突き破る『出産』を経て息絶え絶えとなったミョルニルの傍らにくたりと倒れたかと思えば、糸で縫われた口が開く。

 ぬるり。そんな擬音を体現したかのように、白猫のぬいぐるみの口より伸びたのは病的に白い肌をした女の腕。

 ぬいぐるみの口を両腕でこじ開け、まるで生まれ落ちるように、べっとりと血で濡れた女体が露わになっていく。

 裸体はやがて纏う血が変じて深紅の衣装となる。それは白い肌に映える、まるで花魁のように着崩し、豊満な胸元を露わにした扇情的な姿だった。

 まるで素顔を隠すように垂らした純白の髪を、まるで雨で濡れた獣が身震いするように振り回せばそれだけで整う。目元を血で汚れた包帯で幾重にも巻かれて隠されていた、美しい造形の顔立ちを自信に溢れた笑みで誇示する。そうして、腕を振るって周囲の闇を掻き集めて漆の下駄を生み出して履き鳴らす。

 

「ふむ、こんなモノか。所詮は我が友の紛い物。比べるべきでもない。だが、リソースはほぼ『喰らい尽くした』し、この能力は使えるな。感謝するよ、我が友の『好奇』の化身。お前の能力が保有リソースの自由分配による無制限変質・変化で無ければ、私の端末を『構築』することはほぼ絶望的だった」

 

 右手を握っては開き、左手を振るっては残る闇を束ねて刃を……カタナを創造する。

 

「『あそこ』は寒くて、退屈で、しかも我が友に相応しくない害悪ばかりだ。だが、こうしてようやく遠隔操作端末を構築する事が出来た。お前を殺す為にお前のレギオンプログラムに『感染』させた私の複写因子だったが、こんな形で活用できるとは、こればかりは我が友の直感では分からない、まさしく未知なる可能性という奴だ」

 

 楽しそうに振袖で口元を隠した目隠し女は、アバターの大損壊によって死に瀕したミョルニルの喉元に刃を突きつける。

 

「褒美だ。お前の能力で殺してやろう」

 

 黒いカタナを振るう目隠し女に、ようやく我に返ったシリカは間に入って短剣を振るい、重たい刃をガードする。

 もはや闇も血も無く、色彩が変化し続けるノイズが周囲を埋め尽くしている。だが、目隠し女の立つ場所だけは血が泡立ち、彼女の侵蝕を色濃く反映する。

 

「それはレギオンだ。お前達人間……人類にとっての敵のはずだが、何故に助ける? お前もまたあの男と同じでレギオンに与する者か?」

 

「レギオンの仲間ではありません。私は……ミョルニルの『友達』です。友が友を助けるのに理由なんて要りません」

 

「嘘だな。友が友を助けるのにはいつだって理由がある。私がそうであるように……な」

 

 目隠し女は長い白髪を靡かせ、黒刀を持たない左手の指に残った血を惜しむように舐め取る。

 

「我が愛しき友に相応しくない者、害する者、苦しめる者、等しく殺す。それが私だ。どうして? だって『嫌い』だから。我が友を『助ける』のは、私が私の嫌いな奴らを消し去って、我が友の安寧をもたらす為だ」

 

「……狂ってますね。ご友人には迷惑なのでは?」

 

「そうかもしれないし、そうなのだろうとも思うね。でもね、私は猫なんだ。気まぐれなんだ。私は私の思うように動き、私の思うままに友を振り回し、私の私としての在り方で友の傍にいる。そして、そんな私を友は受け入れる。それが私達の関係なんだよ。昔も、今も、未来も変わらずね」

 

 私も目隠し女のように狂いきったワガママを押し通していれば、キリトさんにも……? シリカはそんな雑念、あるいは邪念、もしくは想念を握り潰す。

 

「ニ……ゲテ、ヨメ! コ、イツ……ヨメ、カ……テナ……!」

 

「そうだ。逃げるがいい。お前は別に殺しても殺さなくても、どちらでも構わないからな。お前は我が友の薬にも毒にもならない。そういう本質なんだろうね。ああ、とても運が良い」

 

 笑っているのか、それとも嗤っているのか。目隠し女は喉を鳴らす。だが、それはまさしく猫のそれであり、故にシリカは女が人の形を模しただけであると理解する。

 

「『人間』の造形に何か思い入れでもあるんですか?」

 

 必要なのは時間稼ぎだ。ミョルニルは大ダメージを負っているが、彼女の強みの1つは驚異的な生命力だ。プレイヤーならば内臓が飛び散るような大ダメージを受ければ即死、ないし早急な治療が必要だが、ミョルニルの傷口は少しずつだが治癒を開始している。

 だが、シリカはミョルニルのタフさを知っている。それに比べれば微々たるものであり、辛うじて欠損と流血のHP減少とオートヒーリングと自己再生がギリギリで均衡が取れている状態だ。

 ほんの僅かでもバランスが崩れれば、それこそ体を動かしただけで天秤がどちらに傾くか分からない。故にシリカに出来るのは時間稼ぎである。このギリギリのバランスを保ち続ける事である。

 

「憧れですか? それとも嫉妬ですか? 私、思うんです。人間以外が人間の姿にそこまで魅力を覚えるのかなって」

 

「…………」

 

「随分とお友達が大好きみたいですけど、わざわざ『女』の姿を取るのは、あなたが雌だからですか? それにしては随分と扇情的な造形ですね。まるで色仕掛けでもしたいみたい」

 

「…………」

 

「あなたは振り向かせたいのではありませんか? 自分だけを見て欲しいと願っているのではありませんか? だから、人の姿をして、そんな格好をしている」

 

「…………」

 

 図星か? 黙り込む目隠し女は手元で黒刀を踊らせる。

 伊達に強敵と遭遇して生き残ってはいない。実力差を見抜く眼力は育んでいる。たとえ、天地がひっくり返ってもシリカでは絶対に勝てない相手だろう。

 

(事情は分かりませんが、ミョルニルさんのリソースを使って生まれた。遠隔操作端末……つまり本体は別にいる。倒す事に意味はあってもそれは脅威を完全排除できる勝利じゃない。ならば、必要なのは情報……!)

 

 戦闘はガードに徹しても耐えられない。この場を離れればミョルニルが殺される。だからといってミョルニルの回復は期待できない。目隠し女にリソースをうばわれた事によって、ミョルニルの性能は大きく低下してしまっているのだろう。

 ピナの回復能力ではミョルニルの完全回復は不可能だ。必要なのは強力な回復アイテムと奇跡によるアバター修復だ。薬に関してはシリカが保有している。だが、奇跡はユナとの合流が不可欠だ。

 手遅れになる前にミョルニルを助ける! シリカはそう決意し、思わず笑う。

 

(人間を喰らうレギオンを助ける為に命懸けなんて、これって人類への反逆なのでしょうか?)

 

 そうだとしても、人類というマクロにおける合理的判断よりも、シリカ個人というミクロにおける非合理的判断を信じる。感情がもたらす不合理で、将来には破滅と後悔をもたらすとしても、それでも選択するのが人間の『弱さ』にして『強さ』なのだ。

 

「……考えた事も無かった」

 

 挑発に乗るのか乗らないのか。シリカの決死の綱渡りに対し、目隠し女はまさしく初心な乙女のように頬を赤らめる。

 

「我が友に対する想い。そうか。これは友愛ではないのかもしれないな。あの日、私を手にかけた時から、私の心は追い求めているのかもしれない。あの時の感情を……純粋なる死をもたらす愛を……この身で余すことなく受け止めたいと! だからこのような姿になったのか!」

 

「……えー。そう来ましたか。愛を信じる者として否定しませんし、むしろ推奨する側ですけど、自分がかなり厄介な存在だって自覚あります?」

 

「さぁ? 私は猫だ。猫は気まぐれだ。そうなのだろうし、実際にそうなんだ。これが私ならそれでいい」

 

 好意的な笑み……なのだろう。目隠し女はシリカに対して無防備とも思える足取りで近寄ってくる。

 

「分かるよ。シンパシーだろう? お前も私と似ているんだ。そうなんだろう? だから私の知らない『私』を言い当てられたんだ」

 

「……そうですね。私も貴女みたいに、あの人の心に一生の傷痕になろうとも愛を刻み込めれば、それで満足だったんです。それが私の愛なんだって……愛されなくてもいいんだって……」

 

 シリカは深呼吸を挟み、目隠し女がこれ以上近寄らせないべく、逆手で構えた短剣の切っ先を向ける。

 

「でも、今はそれが愛だって……私の幸せだって……言い切れないんです。私を愛して欲しい。私も幸せになりたい。あの人の1番になりたい……! そう願ってしまったんです」

 

「……普通だな」

 

「知りませんでしたか? 愛において『普通』が1番尊くて、1番難しくて、1番憧れるものなんですよ」

 

「ああ、それは何となく分かる。分かる気がするよ」

 

 女が悲しみを滲ませた儚い微笑を描いた時、空間に致命的な破壊をもたらす断線が刻まれる。

 ガラスが……いや、鏡が砕けるような音と友にノイズの世界は崩れる。シリカは落下の中で血で汚れるのも厭わずにミョルニルの小さな体を抱きしめ、落下の衝撃に備える。

 幸いにも落下距離は1メートル未満。背中から柔らかな地面に接触したシリカは自分たちを囲う頼もしい影に目尻を熱くする。

 

「シリカ!」

 

「無事みたいで良かった」

 

「これで全員合流ですね」

 

 シリカを守るように彼女の前に立つのはキリト、リーファ、レコンの3人。

 

「……何があったのかは聞かないけど、ひとまず彼女の治療が最優先ね」

 

「ユナさんは治療に専念を。私達で守り抜く」

 

<治療には奇跡の連続使用とたくさん回復アイテムがいる。時間稼ぎはお願い>

 

 治療が不可欠なミョルニルを守るべく囲うのはシノン、スゴウ、ユナの3人。

 

「皆さん……助けに来てくれて、ありがとうございます!」

 

 ああ、私は独りじゃなかった。あの暗闇と血の世界でピナが励ましてくれたように、私を探してくれる人たちがいた! シリカはそれがどうしようもなく嬉しくて涙を流して笑む。

 普段は皮肉と余裕の態度で取り繕うシリカを見慣れているだろう面々は意表を突かれ、だがキリトだけはこれこそがシリカだとばかりに横顔だけを向けて頷く。

 本当にずるい人だ。ユナは中回復を連発し、またシリカは書架製の回復アイテムをミョルニルに投与する。

 ユナの目つきは真剣そのものだ。手つきに迷い無く、ミョルニルの傷口に止血包帯を巻くだけではなく、止血用の縫合糸を縫い込んでいき、的確に流血のスリップダメージ防止の軟膏を塗り込んでいく。

 

(あ、アレ? これが本当にユナさん……ですか?)

 

 シリカは思わず面食らうのも当然だろう。ユナが今のDBOで活躍するヒーラーのように、様々な治療技術を学んでいるのは知っていたが、あくまで奇跡による回復とバフがメインでこの手の技術は不足していると思っていたからだ。

 だが、ユナの治療はまだまだ未熟のそれであるが、手つきと眼の迷いの無さは熟達者すらも上回る気迫……いいや、『覚悟』がある。

 成長は嬉しいが、背筋に嫌な予感が走るのは何故か。シリカは不安を振り払い、ひとまずは治療が進むミョルニルの手を掴み、安堵させる。

 

「……ヨメ」

 

「シリカ、ですよ?」

 

「……ウン、シリカ」

 

「はい♪」

 

 これは悲劇にして喜劇であり、やはり悲劇なのだろう。だが、それでも当人達はそれを知らないならば、何を憂うことがあるだろうか。

 ならばこそ狂うのは目隠し女。明らかな敵意を剥き出しにして黒刀を振るう。狙うのはキリトだ。

 だが、単独で真っ向からの斬り合いでキリトと『戦い』が成立するなど極少数だ。最低でもラジードのようなトッププレイヤー級が必要だ。

 必然、キリトの迎撃によって敢えなく目隠し女は遠退くだけではなく、首筋に浅い傷を受ける。

 

「……危ない。あと半歩踏み込んでいたら死んでいた」

 

「仲間を傷つける奴に手加減は要らないし、お前は出来る相手じゃない。そうだろう?」

 

 刃を交えただけに思えた一瞬の間に、キリトは黒刀をはじき返すだけでは無く、更に一撃を加えていた。相変わらずの強さであり、相手からすれば何をされたかも分からない神速の剣術である。加えて本質はユージーンと同じく剛剣だ。

 必然として目隠し女に勝機は無い。だが、キリトも深追いはしない。レコンが盾を構え、更にリーファがバックアップしてくれるとはいえ、目隠し女の異常性には十分に気付いているからだ。

 何よりも事情を知らないキリトからすれば、絶対防御を持つミョルニルが瀕死という情報が目隠し女の脅威を誤認させている。そして、シリカが訂正しないのは、彼女の異常性を考慮するならば、脅威度を過大評価するのは間違いではないからだ。

 

「……お前は嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ!」

 

「まるで子どもだな。でも、俺もアンタのことは嫌いになれそうだ。お互い様だ。良かったな」

 

 キリトもまた変わった。そう感じるのはシリカが彼の変化に敏感だからだ。

 だが、ユナとは違って安心感……安定を感じる。それは同時にシリカは己の望んだ在り方の否定にも感じられてしまうのは、彼女が自身の本音と向き合ったばかりだからだろう。

 キリトの余裕とも異なる穏やかな戦意に、目隠し女は僅かな驚きを覚えたようだった。

 

「……いいだろう。保留だ。お前、嫌いだけど、保留にしてやる。私も得たリソースの分配と調整が終わっていない。これではお前に勝てないし、お前は『最優先』じゃない。痛み分けだ。お前達を見逃す。だからお前も私を見逃せ」

 

「助かるよ。キミには勝てるだろうけど、ミョルニルまで守り切れる保証は無いからな」

 

 キリトの笑みが癪に障ったのか、目隠し女は猫の威嚇する唸り声を漏らすと黒刀を振るって生み出した闇に紛れて姿を消した。

 

「シリカ、説明を頼む。俺達とキミでは認識に差異があるはずだ」

 

 キリトは聖剣を背負うとミョルニルを労るように彼女の傍らに膝を下ろす。他の面々も心配している様子に、ミョルニルは信じられない様子だった。

 

「オ、レ……レギ、オン……ダヨ?」

 

「それがどうした。キミがレギオンだろうと何だろうと、今この瞬間は俺達の仲間だ。仲間は死なせない。死なせたくない。それが間違いだっていうなら、神様だろうと斬るさ」

 

 キリトの迷いのない宣言に、ミョルニルは両腕で目元を隠し、だが塞げぬ口は嗚咽を漏らす。

 人間だろうとレギオンだろうと関係ない。救いたい者を救う。魂の叫びのままに。それがキリトなのだとシリカは嬉しさと悲しさの両方を抱き、だからこそ願った。

 

 もう終わりにしなければならない、と。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 砕けた鏡の迷宮。物理エンジン……重力についてベクトルがオブジェクトベースとなっており、足場となったオブジェクトによって変動するダンジョン。だが、モンスターは存在せず、最初のプレイヤーを閉じこめるトラップを除いて、脅威となる存在はいなかった。

 故に合流したならば目指すべきは脱出のみ。だが、鏡の中に捕らえるだけでは終わりのはずもなく、故にキリトは警戒を怠らない。ましてや、1度は撤退したとはいえ、謎の目隠し女の危険性は下がっていない。

 リーファは肩の力を抜き、キリトの補佐をすべく警戒に気を配っている。だが、今までのように背後に対する異常な警戒……スゴウに対しての過度な注意は無くなり、動きにストレスが無かった。また、シリカに対しても軟化した態度を見せているのは彼女の見た『夢』のせいだろうか。

 レコンはまだ動けないミョルニルを背負っている。その歩みの淀みはない。キリトに対する信頼と同等の自負があるのだろう。自分を正当に評価するが故の揺るがぬ精神が垣間見えた。

 シノンは表情こそ変化はないが、明らかな消耗があった。時々ではあるが、キリトの横顔を確認し、口を開いたかと思えば固く閉ざすを繰り返しており、最も心身に精彩を欠いた様子だった。

 

「……皆、聞いてくれ」

 

 そして、スゴウは重々しく口を開く。最後尾の彼の頼みに、最前のキリトは立ち止まって振り返る。

 

「皆、必ず鏡に囚われて……どんな形であれ『夢』を見ていた。内容までは聞かない! だが、見ていたのは明らかだ」

 

「僕は違いますし、シリカさんもミョルニルと一緒に閉じこめられたせいでイレギュラーだったみたいですけどね」

 

「だけど囚われたのは違いないだろう? だが、私は……違う。囚われていない。鏡に吸い込まれたが、最初からこの迷宮の中に放り出されていたんだ」

 

 スゴウの告白に一同はざわめく……事は無かった。だが、確かな緊張が走った。

 

「それを俺達に聞かせて、アンタは何を望む?」

 

「……分からない。だけど、私は……私が探し求めていたモノに……ようやくたどり着いた。そんな気がするんだ」

 

 目線を逸らし、拳を握るスゴウは、まるで自分の首を差し出しているかのように項垂れる。

 スゴウがアルヴヘイムを旅していたのは、彼自身にも分からない『何か』を求めての事だった。そして、彼はこの地に求めていた『何か』があると告白した。

 

<ようやく見つかったんだね。スゴウさんの探したかったモノが>

 

 だからこそ、ユナは心からの祝福を送る。

 キリト達がスゴウを毛嫌いし、また憎む理由。それはオベイロンという巨悪と酷似しており、また同一人物では無いかと疑っているからだ。だが、前提となる認識が無いユナはこの場で先入観を持たずにスゴウと接し続けた唯一の人物だ。

 故に彼の長く苦しい旅の終着点が見つかったかもしれないならば、それは喜ばしい事だと微笑む。だが、ユナ以外にとっては不安と警戒を強める理由になるのは当然だ。

 

「……旅の終わりを決めるのはアンタ自身だ。どうしたい?」

 

「見つけるさ。私の旅……私の存在する理由……私の全てがそこにある気がする」

 

「そうか。だったら付き合うよ。アンタを斬るべきか否か、見極めるのが俺の役目だ」

 

 キリトの返答に拒絶を示す者はいない。ただし、それはユナを除いてだ。

 

<本当にそれでいいの? キリト達も、スゴウさんも、それでいいの? 仲間なのに>

 

 スケッチブックに書いた問いを見せて回れば、リーファは顔を背け、レコンは沈黙し、シリカは興味なさそうに溜め息を吐き、シノンは勝手にすればいいと肩を竦める。

 

<キリトにとって、スゴウさんは仲間じゃないの?>

 

「……仲間さ。仲間だと信じたいからこそ、俺は……必要なら……戦うよ」

 

 非情と違う決意に、ユナはスゴウに駆け寄るが、彼の意思はキリトよりも強固なのだろう。誰よりも先に進み出すべく1歩を踏み出す。

 不和とは異なる重たい沈黙。それはスゴウの決意の重さだ。

 どうしてこうなったのだろう? ユナは自分の『力』となった冷水銃のシルバーレインを握りしめる。

 誰もが『夢』に囚われた。スゴウを除いては例外なく。ユナもまた『夢』の中にいた。

 キリト曰く、『夢』は過去のIFを体感させ、自己認識を上書きさせるものだった。詳細は誰も語りたがらないが、それは個人の最も大事な過去と感情に根ざしたものだからだろう。

 過去があってこその今の自分だ。ならば過去をやり直し、全く異なる今と未来を体験できるならば、それはまさしく理想郷の如き悪夢だ。

 ユナもまた『夢』を見ていた。だが、それはキリトが説明したものとは全く異なるものだった。

 ユナがいたのは映画館だった。観客は誰もいない、フィルム式の映写機によってスクリーンには何処とも知れない近未来的な都市が映し出されていた。

 だが、映像のノイズが酷く、辛うじての輪郭は分かっても詳細は頭に入ってこない。

 ここは何処なのだろうか? ユナが迷っていると甘い香りが彼女の鼻を擽った。

 

『隣、座ったら?』

 

 キャラメルポップコーンの香りに誘われたユナが至ったのは、大スクリーンを正面から望める1等席。そこでポップコーンを囓るのは……『自分』だった。

 正確に言えば異なるだろう。ユナとは異なって白髪で赤い瞳。まるでアイドル衣装のような黒いミニスカート。また、ユナよりもスタイルが良かった。

 厳格なクラシック音楽よりも明るく元気が出るアイドルに憧れていたユナは、そこにいるのはまるで理想としたような自分だった。

 

『ねぇ、幸せってなんだろうね?』

 

 もう1人の自分は、まるで大スクリーンに鮮明な映像が見えているかのように両目を涙まで潤ませていた。

 

『私は幸せだった。「彼」が精一杯に守ってくれた。全てを捧げて戦ってくれた。だから歌おうって決めたの。「彼」の全てが憎しみに変わってしまう前に、私の歌で……憎しみ以外の何かを残してあげたかった。「私の夢」を叶えることで彼を救いたかった』

 

 ユナから失われた『声』がそこにあった。もう1人の自分が隣に座ったユナにも同意を求めるように映画を指差した。

 

『でも、私は歌えなかった。「私の夢」は叶えられなかった』

 

「…………」

 

 もう1人の自分は漠然と、淡々と、過去の事実を述べるように、無感情と呼べる程に己を罰するように述べた。

 

『私にはもう救えない。たった1つだけ「彼」を救う方法があったのに、気づけなかった。最後の瞬間に、彼がこの手を握ってくれた時に、やっと……やっと分かったの。ねぇ、もう1人の私……ううん、「悠那」。貴女も私と同じ間違いを犯すの?』

 

 もう1人の自分は立ち上がる。まるでエンドロールが流れるように、スクリーンは上から血の赤によって塗り潰されていく。

 映画館が崩壊する。次々と噴き出す炎によって焼け焦げていく。

 

『もう「彼」は救えない。ごめんね、悠那。私が気づけなかったから。私が愚かだったから。私が間違えたから。貴女に救う方法を残してあげられなかった』

 

 もう1人の自分の首に醜い傷痕が生み出される。まるで鈍器で強引に抉り切られたように、もう1人の自分の首が落ちる。それは床に転がると同時に完全なる崩落を招く。

 黒い炎。重々しく、熱く滾り、見境無く燃やし尽くそうとする凶暴な炎の渦。

 熱い。全身が焼き焦げる。息が出来ない。深海のように全身を押し潰すような圧をかける黒い炎にユナは瞼を固く閉ざす。

 

『悠那! 目を開いて! この炎を怖がらないで! 貴女だけは!』

 

 もう1人の自分の声が脳髄に染み渡る。同時に喉が焼けるように熱く、まだ全身に亀裂が入るように痛みと表現するしか無い何かが拡散する。

 肌で感じるのは突き刺すような憎しみ。炎はまるで全てを拒絶するように暴れ回っているというのに、その実はまるで炎が炎を喰らって燃え盛っているだけだ。

 憎悪の炎は憎悪の炎を喰らい、新たな憎悪の炎を生み出して広がり続ける。無限の連鎖によって世界は焼き尽くされている。

 焦土すらも生温い。もはや何も残っていない。ただ1つとして残さず、憎しみの炎だけに満たされた世界。

 いずれこの世界は憎しみの炎を許容しきれなくなるだろう。溢れ出た時、何が起こるのか、ユナには想像も出来なかった。

 分かっている。歌うことなんて出来ない。だが、ユナはそれでも、全身に走る亀裂のような痛みが『歌』を求めているのだと悟る。

 憎悪の炎は嵐となって暴れ回る。ユナはそこに旋律を見出す。悲しくて、切なくて、儚くて、だが憎悪で焼き尽くされた、もう救うことができない狂った音を聞き分ける。

 ああ、それなのに、どうしてこんなにも涙が溢れるのだろう?

 憎悪で焼き尽くされた、破滅と悲劇しかもたらさないだろう旋律に歌を紡ぎたかった。

 だが、歌う事は許されない。喉から広がる亀裂の痛みは罪の証であり、今もなお続く罰なのだと教えてくれる。

 底へ、底へ、底へ、墜ちる。ユナは自分を押し上げて突き放そうとする憎悪の炎に対し、自分の胸に広がる苦しみを重さにして底へと墜ちていく。

 ああ、見つけた。憎悪の炎の主よ。ユナは憎悪の炎の原点……まるで重油のように広がる種火に浸された底へとたどり着く。

 それは騎士か。怪物か。あるいは……鬼か。

 全身を青黒い鎧にも似た外殻に覆われていた。何処となく人間らしさを残しながらも造形は竜に似て……故に出来損ないの『ケダモノ』という表現こそが似つかわしい異形はまるで兜のように硬質であり、口は耳元まで裂けて禍々しき牙が並ぶ。

 異形にして怪物に相応しい横長の目には蕩けて瞳が座し、だが人と同じように正面を見据える。

 背負うのは3対の翼。上下は小さく、中心だけは大きく長い。その造形は竜翼にも似て、だが悪魔にも近しく、故に不完全で不出来な印象を与える。

 頂くのは2本の角。まるで鬣のように側頭部から伸びて後ろに駆け抜けるように枝分かれした姿は、雄々しさよりも全て捨てていくかのような虚しさをもたらす。

 ああ、やはりこれは騎士でも怪物でもなく、鬼なのだ。ユナは涙を流しながら、全身に負った傷を負い、焼き爛れ、血反吐を撒き散らしながらも、這ってでも、這ってでも、這ってでも前に進もうとする鬼の前に立つ。

 だが、鬼にはユナは見えていない。這い続ける指には敵を切り裂く恐ろしい爪があった。それは憎しみの炎の底で行き着く先すらも見えないままに空を掴んでは炎を啜るように自らを焼かせ、何処とも知れぬ場所へと進ませていく。

 もう止めて。もう止まっていいんだよ! ユナはそう叫ぼうとして、だがそれ以上の絶叫に阻まれる。

 

『もっとだ!』

 

 それは憎悪の炎で焼かれた、人とは思えぬが確かに人だろう濁った声。

 

『もっと「力」を……!』

 

 ああ、これは絶叫ではない。咆吼なのだ。

 ユナは這い続ける鬼が求めるのは憎悪の中で見出す『力』なのだと悟る。

 ここは自分がいるべきではない。鬼には自分など見えていない。憎悪の炎の中に鬼だけが見える『誰か』がいるのだと悟る。それこそが鬼にとって唯一無二の……欲して止まない『力』への道筋なのだと。

 消えよう。いなくなろう。『ここ』は自分がいるべき場所では無い。いや、存在することが許されないのだ。

 

 

 

 

 

 

 それでも。

 

 

 

 

 

 

 

 それでも。

 

 

 

 

 

 

 

 そうだとしても!

 

 

 

 

 

 

 

 ユナは祈る聖女の如く跪き、『力』を追い求めて這い続ける鬼の手に触れる。

 歌う事は出来ずとも、語る事も出来ずとも、それでも……鬼に伝えねばならない事があったからこそ。

 

『もっト……「力」……ヲ……』

 

 鬼には自分など見えていない。その手を取っている事さえも気付かず、前に進もうと爪を立て、ユナを傷つける。

 自身の血と肉を浴びながらも、ユナは両手で足りないならばと体を使ってでも鬼の手を抱きしめる。

 

『…………』

 

 言葉は無かった。声は出なかった。『彼』に語りかける資格などなかった。

 それでも伝えたかった。

 

 

 

 

 

 

 私は『ここ』にいるよ、エーくん。

 

 

 

 

 

 

 瞬間、ユナは鏡が砕ける音を聞いた。見覚えのある濁った金色の髪が靡き、確かな怒り……いや、憎しみでユナを憎悪の炎の底から追い出したのだ。

 気付けばユナは鏡の迷宮に立っていた。そして、落下するスゴウを発見して助け、無事にリーファ達とも合流したのである。

 あの『夢』が何を意味するのか、ユナには分からない。過去の仮定とは思えなかった。もう1人のユナは確かにアイドルのように歌を奏でる自分の理想像だったかもしれないが、それ以外はおよそ『過去の改変』から生じるものではなかったからだ。

 どちらかというならば、シリカの体験したミョルニルと同時だったが故のイレギュラーな『夢』に近い気がした。血の海と闇をシリカはミョルニルの心象風景の1種だと判断していたからだ。

 憎悪の炎の底で見た鬼。およそ外見から連想することは出来ない。焼かれた声からも聞き分けられない。何よりも、あんなにも悲しく、切なく、儚く、苦しくも狂いきった憎悪の旋律などあるはずがないと信じたかった。

 だが、『ただの幼馴染』に何が気づけるだろうか。演技の仮面の笑みの裏に、本当はいかなる真実を隠しているのか。自分が死んだことでどれだけの絶望を彼に与えたのかも考えなかった愚者が何を気づけたと言うのか。

 もう遅いかもしれない。追いかけたくても、もはや手は届かぬ場所……距離では無く、全く別の世界を歩んでしまっているのかもしれない。

 それでも、確かに繋がりは残っていると確信する。そして、『彼女』は何故かそれを著しく嫌い、また憎んでいる。

 

(『ただの幼馴染』だって教えてくれてありがとう、スレイヴさん。だったら、もう『幼馴染』じゃなくても構わない。エーくんに拒絶されようとも、私は私のやり方で……エーくんを憎しみを……!)

 

 スレイヴには大きなリードを許している。単純に死んでいたからではない。理解力の差だ。

 純真であり、性根は穏やかで平和主義。だが、ユナも『女』だった。故に彼女の目は正確にエイジとスレイヴの関係について分析を終えていた。

 

(2人が出会ってからそんなに時間は経っていない。ううん、単純に共有した時間だけなら『ただの幼馴染』だった私の方が多いはず。だったら、2人の関係を結びつけてるのは利害と濃密な経験。精神的な深い繋がり……『信頼』の絆。私とエーくんが長い時間の中でも……ちゃんと……結べていなかったもの)

 

 ユナはエイジに理想を押しつけていた。夢を追い、信念に殉じる自分を、『幼馴染』のエイジならば正しく理解して受け入れてくれていると自惚れていた。

 だが、実際には違った。兆候はあったのだ。エイジはユナを必ず現実世界に連れ戻すと宣言して戦い、ユナは自分も戦えると己を奮い立たせて戦場に立った。

 それがそもそもの間違いだったのだ。エイジにハッキリと伝えねばならなかった。無理して戦い続ける姿は見たくない。本当に心配してくれているならば、たとえ遅々とした歩みになるとしても、一緒の歩幅で、同じ場所から同じ時に進んでいこう、と。

 ユナも伝えるべきだった。必死に自分を奮い立たせて戦うのが正しい姿だと信じた。だが、心の何処かで力及ばずに倒れるかもしれないという恐怖があった。そんな弱気の本心を明かしていれば、エイジは戦わなくていいとユナの手を取って押し止めてくれたかもしれない。

 もう1人の自分はもう救えないと口にした。だが、ユナはまだ方法があるはずだと探す決意をする。その為にも知らねばならないのはエイジの真実である。

 エイジに追いつく為に欲した『力』。だが、それだけでは向き合いきれない。これは切っ掛けに過ぎないのだとユナはようやく自覚を得た。『力』を得てもエイジは向き合ってくれないのだ。自立した姿を見せて安心させても、そこに彼の仮面を剥いだ奥にある真実には届かない。

 ならばこそ、必要なのは『ただの幼馴染』という関係さえも壊す覚悟だ。蛇蝎の如く嫌われることになろうとも、それがスレイヴの思う壺だろうとも、見捨てることは出来ない。

 受け止めきれるかは分からない。受け入れられるかも定かでは無い。だが、ユナは知っているのだ。

 理想にして幻想の押しつけの始まりだったとしても、夕暮れに染め上がれた美しい世界で、確かに手を差し出してくれたエイジを……忘れたくないのだ。

 ならばこそ、ユナは迷わない。望むとも望まずとも、自分が最も効果をもたらす立ち回りと役割をこなす。そこには一切の私情なく、ならばこその最大の私欲を抱いて。

 生きる為に。死なない為に。今度は自分が夕暮れの果ての闇に取り残されたエイジの手を掴んで連れ帰る為に。

 

「ここだ。ここを……この扉を私は探していたんだ」

 

 鏡の迷宮の奥底、あるいは頂上にて、分厚い青銅の扉を発見し、スゴウはまるで故郷に帰ったかのような懐かしさを滲ませた眼で扉を撫でる。

 

<スゴウさんは旅が終わったらどうするの?>

 

「ははは、気が早いな。この先に何があるのか次第だが……色々と手を貸した責任があるから、彼らに追い出されるまでは……お節介でも焼こうかな」

 

<スゴウさんは良い人だね>

 

「そう行ってくれるのはユナさんだけだよ」

 

 苦笑するスゴウにユナも屈託無く笑いかける。スゴウの旅の終わりとその先にある新たな物語を心の底から願って祝福する本心と共に、何よりもこの冒険を終わらせてエイジと会わねばならないという目的の為に。

 キリト、レコン、そして真正面にいたスゴウさえもユナの笑みの変質に気づけていなかった。

 リーファ、シリカ、シノンの3人……彼女たちは口にせずともユナの確かな変化を感じ取っていた。

 

 ユナは気付いていない。その笑みはもはや純粋なる夢追いの少女ではない。情念の熱を知った乙女なのだと。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

▽    ▽     ▽

 

 

 重々しい青銅の扉。キリトはそれを撫でて観察する。

 刻み込まれた精巧なレリーフは物語だ。人々が這いつくばり、唯一絶対の王に盲従する、支配者の理想を押し込めた醜悪な物語である。

 だが、興味深いのは王が最後は死んだという点だ。死因は不明であるが、この扉は支配から敗北、そして死を綴っているのだ。

 

(これに気付かないスゴウではないはずだ。レリーフの意味は読み解いているはず)

 

 戦場での戦術単位の分析・観察能力やダンジョン攻略における考察・推理はキリトの方が上である。だが、指揮能力にも直結する戦場の俯瞰、政治、戦闘外における知性の発揮はスゴウが上であると認めている。

 スゴウの知能ならば、この扉が王の敗北と死の物語であると解読しているはずだ。そして、オベイロンという妖精王であった過去を知らずともキリト達に伝えられた以上は連想するのは必至である。

 だが、分析を口にすることもなければ不安を見せる様子もない。演技なのは確定している。ならば問題なのは理由である。

 スゴウには扉の向こうに何があるのか分かっている? 自分だけではたどり着けないから誘導した? それとも? キリトは考えた末に答えが出ないと悟り、扉を開けるしかないと覚悟する。何にしても出口が見当たらない以上は進む選択肢しかなかった。

 

「私が先に入る?」

 

「いや、俺が適任さ。シノンはバックアップを頼む。この先は何があるか分からない。気を付けろ。特にレコン、ミョルニルを守ってくれよ」

 

「守りますよ。彼女は……守らないといけないですから」

 

 ミョルニルに何か思うところがあるのか、兜で曇ったレコンの声は今までも特に真剣だ。これならば大丈夫だろうとキリトはリーファが開いた扉の奥へと飛び込む。

 月蝕の聖剣を抜き、メイデンハーツを構える。銃口で周囲を狙い付けるも完全なる闇。だが、感じる空気は懐かしさすらも覚える突き刺す緊張感だ。

 そして、同時に扉の奥へと空気が勢いよく流れ込み始める。キリトの侵入によって『全員』を強制参加させるつもりなのだ。

 

「ボスだ! 戦闘準備!」

 

 キリトのかけ声に対して、動揺は無い。全員が……あのユナすらもが覚悟を決めていた。恐らくは初のボス戦だというのに、緊張はあっても精神は揺るがない。

 いつの間にこんな成長を? 驚くキリトであるが、それは安心をもたらさない。

 覚悟? 精神? それが何の役に立つ? そう嘲うように殺しにかかるのがDBOであり、ボス戦なのだ。

 キリト達全員が闇に呑まれると同時に扉は閉じる。同時に周囲が明るくなる。

 

「きゃ!」

 

 そう可愛らしい悲鳴を上げたのは意外にもシリカだ。それもそうだろう。明るくなった周囲は全てが……足場さえもが鏡であったからだ。

 リーファは革製防具で剣帯を備えた腰巻きの下はスパッツ。シノンは動きやすさ重視のホットパンツ。だが、シリカはスカート装備である。ユナも同様であり、さすがに察して顔を赤らめていた。

 

「見ちゃ駄目ですからね!」

 

「……見ないし、見えないよ。クローズド設定してるんだろ?」

 

「し、してますけど、あれって色々と無効化されやすいんですよ」

 

 DBOにおける女性への配慮。あの茅場の後継者にもなけなしの慈悲があったのか。スカートの中身を薄闇にするというクローズド設定が存在する。これでスカートであっても飛び跳ねて動いても中身が見えることはないのであるが、あくまで『見えにくい』だけであり、意図して見ようとフォーカスロックして目を凝らせば無効化できる。また捲れた場合も効果を発揮しない。ちなみにであるが、プレイヤーの中にはカメラなどに敢えてクローズド設定を無効化するといったヘンタイ設定をしている猛者もいる。

 故にキリトもシリカの足下の鏡を凝視でもしない限り薄闇によってぼやけているのであるが、彼も男である。意識すれば自然と注目しそうになる。

 だが、男の欲情を切り離す程度には彼も敵に……ボスに警戒せねばならなかった。

 

(鏡……鏡のボス? 鏡の騎士みたいなヤツか?)

 

 ゲーム知識を総動員させて鏡から予想できるボスの姿と能力を列挙する。

 攻撃反射、こちらの攻撃手段のコピー、複製の創造、鏡を用いた瞬間移動。キリトが可能性を並べる間に、鏡の柱に光が当たり、1カ所で集中していく。

 それは鏡で覆われた『牢獄』。何かを鏡の中に『閉じこめる』為の檻だ。だが、反射する光は高熱を帯び、鏡を溶かす。

 鏡。それはもう1つの世界。魂を……ソウルを捕らえる牢獄。キリトがそう連想した時には遅かった。

 鏡の牢獄が砕かれる。ボスがその姿を現し、ネームドの名を示した時、キリトは自分以外の死……いいや、己の死すらも想像してしまった。

 

「……全員、死ぬな。絶対に……死ぬな!」

 

 

 

 

 

 

 

 

<【深淵狩り】のアグラヴェイン>

 

 

 

 

 

 

 

 全身に纏うのは黒く濁った銀の甲冑。兜は狼を模したフルフェイス。羽織るのは気高き群青にして燃えたぎるような赤が合わさったマント。

 だが、何よりも異様なのは巨体。身長4メートルを超える巨体である。ただし、それは神族であるならば大して珍しくない特徴となるだろうが、彼のそれは全く異なる。

 

「【半巨人】の……アグラヴェイン!」

 

 キリトがその2つ名を口に出来たのは、聖剣を通して垣間見たモルドレッドの人生がフラッシュバックしたからだ。

 アグラヴェイン。モルドレッドが再興した深淵狩りの使命に名を連ねた最初期の1人。すなわち、深淵狩りが神々すらも恐れる『最強』であった時代の人物、古き深淵狩りである。

 だが、アグラヴェインは絵画世界出身のトリスタンと同じく自分を語りたがらず、また人前で甲冑を脱ぐことを嫌い、素顔を晒すことを拒んだ。

 理由は単純明快。彼は種族全体が奴隷階級でもあった巨人との混血だったからだ。

 巨人でも栄誉を得た者はいる。【鷹の目】のゴーを筆頭に、王や女王の近衛を務めた巨人もいる。王家お抱えの鍛冶屋も巨人であった

 だが、大多数の巨人は知性も品性も無く、幼稚で杜撰だ。純粋とも言い換えられるが、【鷹の目】のゴーの誉れ高き兜の覗き穴が樹脂で塗り潰されるという、悪戯の度を超えた、王威すらも恐れぬ所業の通り、巨人全体への偏見と差別は根強かった。

 それはたとえ神族ではなく人間であっても変わらない。むしろ巨体である分だけ恐怖が先んじる。

 いかようにして巨人と人間の間に子が儲けられたかのは定かでは無い。だが、アグラヴェインは半巨人という出生から壮絶な半生を歩み、巨人の血から受け継いだ筋力を頼りにした暴力で、荒くれ者として生き延びたのは間違いない。

 

『お前、デカくて強い割にやってる事が盗賊とか小さ過ぎて笑えちまうぜ! 一緒に来いよ。巨人の血なんて嗤わせない、最高の名誉が……聖剣に導かれた深淵狩りの誇りが……お前の……俺達の居場所だ!』

 

 だが、初めて真っ向からの力押しに負けた。深淵狩りに赴くモルドレッドを襲うも巨人の筋力が通じず、赤子でも捻るように完敗したのだ。それでもなお彼の力と汚泥に隠された強き意思を認め、共に戦おうと手を差し出した彼に、アグラヴェインは伝説の英雄……巨人の希望にして夢でもあった【鷹の目】ゴーと共に肩を並べた【深淵歩き】のアルトリウスの姿を見た。

 これを酒の席で熱く語ったアグラヴェインに、モルドレッドはらしくない程に照れて喚いたのは、深淵狩り達の数少ない血の香りがしない思い出であった。

 故にアグラヴェインは深淵狩りの使命の狂信者でもあった。自分もまた聖剣の導きの果てに自分だけの聖剣を手に入れ、アルトリウスの後継たるモルドレッドと肩を並べるのだと誓い、巨人の筋力を完璧に活かしきる、深淵狩りの剣技を独自改良した武技を編み出した。

 だからこそ、ランスロットの裏切りを知った彼は怒り、深淵狩りの使命に背いた彼を討つべく追いかけた。その後の行方をモルドレッドは知らない。故にキリトも垣間見ていない。

 だが、確証を持てるのは1つ。ランスロットには勝てなかった。そして、死にきれなかった。深淵に蝕まれたのだ。

 アグラヴェインは深淵狩りの誇りだとして、いついかなる時も銀の甲冑を磨く事を忘れなかった。たとえ、血と闇に汚れようとも、深淵狩りの甲冑は彼の居場所そのものだったのだから。

 故に目の前のアグラヴェインに正気は期待できない。彼は赤と青の2本の『巨人サイズの大曲剣』を扱うキリトと同じ二刀流だ。赤の大曲剣には炎属性が、青の大曲剣には魔法属性が付与されているは目に見えて分かるが、それ以上は分からない。モルドレッドの記憶で見ていないのだ。

 

「ランスロット……ウツ、ベシ!」

 

 動く。巨体に見合わぬ俊敏さは狼を模した体術。地を滑るように高速で駆け、姿勢を低くしたまま鏡の柱の間を抜けてキリト達の背後を取る。

 反応できたのはたったの2人。キリトとシノンだけだ。リーファも反応速度から追いつく事もできたが、戦闘経験の不足から鏡に映る姿を目で追って混乱したラグがあったのだ。

 大曲剣による同時に振り下ろし。キリトは同時攻撃で聖剣のガードで真っ向から受け止める。

 

「ヌ……!?」

 

 自身のパワーに絶対の自信があるアグラヴェインの驚愕。彼は半巨人の力で怪力無双だった。純血の巨人すらも超えていた。存在そのものが人の形をした巨竜とも呼ぶべきモルドレッドもまた素の筋力はもちろん尋常では無かったが、聖剣による補助が無ければアグラヴェインには増されなかっただろう。

 ならばこそ、アグラヴェインの驚愕は正当である。自身のパワーを、巨人サイズの大曲剣2本を同時に振り下ろした完璧なる所撃を、あろうことか人間サイズの片手剣で防いだのだから。

 だが、キリトもまた綱渡りだった。2本の大曲剣を止めるには月蝕の聖剣では刃渡りが足りなかった。故に月蝕の奔流を放出し、凝固し、一時的にリーチと強度を高める荒技しかなかったのだ。

 深淵の狂気に呑まれながらも、熟達した巨人の膂力を乗せ、深淵狩りの武技を融合させた、完璧なる奇襲の初撃。

 巨体に見合わぬ俊敏と小回りで背後を容易く取ったアグラヴェインの初撃を見切り、リーチ不足をアドリブで乗り切った、完璧なる対応。

 この時点で両者が悟ったのは明確だった。キリトは自分が倒れたら待ってるのは一方的な殺戮であり、アグラヴェインは黒衣の剣士さえ倒せば勝利は不動であると察知した。

 ならばこそ、アグラヴェインの衝撃は凄まじかったはずである。頭上……脳天から強烈な一撃が見舞われたからだ。

 

「また悪い癖」

 

 退いたアグラヴェインと立ち替わるように着地したシノンに冷たく指摘され、キリトは全くその通りだと苦笑する。

 キリトならば完璧に皆を守り切れるという『信頼』。だからこそのカウンターの動き。シノンはキリトがアグラヴェインの動きを見切ってガードに入るならば、自分は攻撃に転じるべきだと判断し、鏡の柱を駆け上がって宙を舞い、弓剣の弓形態に変形させ、アグラヴェインのがら空きの脳天を射貫いたのである。

 強くなったのは自分だけでは無い。シノンもまた死線を幾多と潜り抜けているのだ。

 

「行けるのか? メイン装備じゃないだろ?」

 

「問題ないわ。人型ネームドの場合、ソードスキルを使える分、重火器よりも弓剣の方が相性は良いの。武器の性能不足と熟練度不足は否めないけど、メインアタッカーは貴方だから問題ないでしょう?」

 

 信頼してくれる。キリトは笑みで無論だと答える。

 

「レコン! ヘイトを稼ごうとするな! ユナ、スゴウ、ミョルニルを守れ! それがキミの仕事だ!」

 

「はい!」

 

「ユナ、バフと回復はキミにタイミングに任せる! 俺達の命、キミに託すぞ!」

 

「…………!」

 

「スゴウ! 魔法の援護は慎重に頼む! 深淵狩りは尋常じゃないし、この鏡のボス部屋は魔法反射効果があるかもしれない!」

 

「任せてくれ。検証しながら最善を尽くす」

 

「シリカ、ピナによる索敵に専念しろ! ヤツは巨体に見合わぬ奇襲攻撃を得意とする! そうと分かれば対応できるはずだ!」

 

「分かりました!」

 

「リーファ……付いて来られるか?」

 

「……アタシを誰だと思ってるの? お兄ちゃんの妹だよ? もちろん!」

 

 アグラヴェインの攻撃を見ても志気は十分。心は折れていない。最高のチームだとキリトは強気に笑う。笑い続けなければ、真っ先に心が折れるのは自分だと悟る。

 それほどまでに深淵狩りが意味するものは大きい。ましてや、キリトの場合はモルドレッドの記憶を垣間見て中途半端に知っているせいで余計に威圧を覚える。

 だが、アグラヴェインに勝てない者がモルドレッドに届かないのは必定。記憶の限りでは、模擬戦においてモルドレッドはアグラヴェインに全戦全勝。ランスロット、ガウェインも同様だ。トリスタンも勝ち越しである。

 深淵狩り上位陣には及ばず、また聖剣も見出せなかった。それがアグラヴェインだ。

 だが、それはアグラヴェインが『「最強」を欲しいままにした古き深淵狩りの内では実力下位』だったに過ぎず、その戦闘能力は先の攻防で分かる通り、人型ネームド最上位クラスである。

 むしろ、巨体の分だけ人型ネームドではタフの部類と考慮すれば、無強化であのスピードは反則級である。スローネでさえ雷による強化を施していたというのに、それに迫りうるスピードを可能とするのはアグラヴェインが巨人の力を融合させた深淵狩りの武技の恐ろしさであった。

 パワーとスピードの両方を高める。強者の理屈にして回答。魔法も奇跡も呪術も無用。戦友が鍛え上げてくれた炎と魔の大曲剣さえあれば物理が通じぬ相手にも遅れは取らない。

 自身を苦しめた巨人の血のパワーはモルドレッドによって昇華され、深淵狩りの誇りを紡ぐ武技は巨人に見合わぬ超スピードをもたらし、戦友との絆は聖剣を得られずとも数多の深淵の主を単独で葬る武具を与えた。

 故の猛者。巨人のパワーに深淵狩りのスピードを融合させ、物理属性の穴を埋める炎・魔法の属性は戦友の絆でカバーする。

 たとえ深淵に墜ちようともその姿は正しく英雄! 巨人の子と嗤った者たちを、等しく深淵狩りに対する恐怖と畏怖で染め上げた、深淵狩りの使命の尖兵! それこそがアグラヴェイン!

 姿勢を低く、狼の狩りの如く獰猛に。動いたアグラヴェインは既にキリトを最優先としつつもシノンも警戒している。

 アグラヴェインのHPバーは3本。シノンのカウンターによってHPは削られているが、それでもまだ1割と削れていないのはあり得ないタフネスだ。

 シノンも既に悟っているだろう。アグラヴェインは巨体故に射撃属性防御力が高めなのだ。クリティカル部位にカウンターで決めてもダメージが小さいのは何よりの証拠である。

 故に求められるのは真っ向勝負。キリトはメイデンハーツで銃撃しながらアグラヴェインと間合いを詰める。

 アグラヴェインは深淵狩り。故に深淵に呑まれて異形と化した群れる人間との戦いには慣れている。アグラヴェインに比べれば小さいキリトであろうとも、彼の双剣は常に彼を捉えんと動く。

 だが、キリトはアグラヴェインの連撃を華麗に捌き、逆に腹に至近距離で竜衝弾を命中させる。竜の咆吼の如き衝撃波が腹部で炸裂し、『銃』という武器に無知なアグラヴェインはよろめく。

 その間にキリトの影の如く迫っていたリーファがアグラヴェインの横腹を薙ぎながら駆け抜け、更に置き土産だとばかりに背中に×印を描く連撃を浴びせる。

 キリトは驚嘆する。リーファの実力が高く、またトッププレイヤーに到達するものだとは分かっていた。だが、経験不足から来る思い切りの無さが足りなかった。

 だが、今のリーファは『殻』を打ち破った。それだけはない。キリトが出過ぎだと思った間合いにおいて、リーファはアグラヴェインの連撃を回避するだけではなく、カウンターを差し込む。

 

「うん、やっぱり『見える』」

 

 そして、リーファの澄んだ深みを保つ目に、キリトは妹が『扉』を開いたのだと悟った。

 

「これは……負けてられないな!」

 

 アグラヴェイン、これはゲームであっても遊びじゃない。だから、俺は『使う』事に躊躇わない! キリトは心意を発動させ、クゥリ戦で引き出したエネルギーの視覚化を行う。

 心意の研究は特に教会が盛んであり、ユージーンがクラウドアースの代表として協力している。結果、このエネルギー感知についても見識は広まっている。

 まだ未認定であるが、視覚に特化されているエネルギー感知であるが故に『心眼』。武技の深奥とも呼ぶべき1つが心意の能力の名を冠するなど、本物の武人からすれば嫌悪の対象かもしれないが、キリトはセンスがあると評価する。

 仮に心眼と呼ばれる域に到達した武人ならば、心意に頼らずとも『これ以上』が出来るだろうと確信できるからだ。己の武はいつか心眼に頼らず、心眼を超えた領域に踏み入ってみせるという情熱が滾る。

 だが、今の自分は未熟! ランスロットにもモルドレッドにも武技は及ばない! ならば穴埋めするのに心眼を用いるのにどうして躊躇う!? 否、たとえ心眼の域に武が到達しようとも、心眼と組み合わせれば更なる先に進めるという興奮さえもあった。

ああ、そうだ。これが……これこそが武の渇望! キリトは自分の薄暗い欲望の使い方を徐々に把握し、アクセルを踏み込んでいく。

 それはスポーツで言うところのゾーン。キリトの攻撃スピードはアグラヴェインを上回る。同じ双剣であっても、キリトはアグラヴェインの時代にはいなかったG&Sの使い手である事も重なり、アグラヴェインは近距離戦はまずいと引き下がる。

 だが、鏡の柱を跳び回っていたシノンはそれを見逃さない。≪弓矢≫の連撃系ソードスキル【シャドウ・ライン】を放つ。1本目の矢の軌道を負う2本目の矢は火力ブーストが特に高い。

 アグラヴェインは1本目を難なく弾き、だが2本目を肩に突き刺す。それで怯むアグラヴェインではないが、銃に及ばずとも弓の才能も図抜けているシノンの連射はアグラヴェインを各関節部位を正確に射貫く。

 怯まずとも突き刺さった矢による可動のラグが生じる。経験から理解するキリトとリーファはアグラヴェインの連撃を潜り抜け、斬撃を浴びせる。更に間合い外に出る瞬間に、リーファは放つフォースを、キリトは炸裂弾をお見舞いする。

 フォースの光の爆発と炸裂弾の炎の爆破を左右から浴びたアグラヴェインは高速移動を仕掛けるが、それを妨害するように、彼の踏んだ床でソウルの光が炸裂する。

 スゴウが仕掛けた【ソウルの爆光】だ。言うなれば見えない地雷を埋没させる魔法である。敵味方問わずに魔法を仕掛けた場所で炸裂する使いにくい魔法であるが、アグラヴェインの移動ルートを、キリト達が粘っている間にピナを通して早期に地形からパターンを読み取ったシリカがスゴウに指示していたのだ。

 アグラヴェインが炎を大曲剣に滾らせる。斬撃は炎となって解放され、スゴウを狙うも、大盾を構えたレコンが守り切る。安易には彼のガードを崩せないと悟ったアグラヴェインは、シノンのお株を奪うように鏡の柱を蹴り跳ぶが突如として出現した氷柱に激突して空中で隙を晒す。

 ユナのサポートだ。キリトは背筋が凍る。戦いを苦手とするはずのユナの目が、武器の通りに氷の如く冷たかったからだ。目的の為にアグラヴェインを『排除』するという絶対の意思がそこにはあった。

 更にユナによる奇跡【太陽の光の鼓舞】が発動する。一時的に攻撃力と防御力を増強させるバフである。キリトは落下するアグラヴェインに攻め時だとばかりにメイデンハーツを変形させてQブレードを召喚し、二刀流となる。

 繰り出すのは≪二刀流≫の回転系ソードスキル【スカイ・ローラー】。不規則な連続回転斬りは使用者にもいかなる攻撃軌道なのか読めない……という謳い文句であるが、キリトは発動後のモーションから全179パターンを完全に記憶しており、高い反応速度を活かしてモーションをなぞる高速化と火力強化を可能とする。

 アグラヴェインの二刀流も追いつかぬ超神速のソードスキル。鎧に斬撃が通り、血を流したアグラヴェインはそれでも体勢を崩さないが、シノンの着地狩りの矢が右踵を貫いてバランスを崩す。

 それでもアグラヴェインは立て直そうと踏み止まる。だが、地を走る冷水が凍り、無理に体勢を立て直そうとした姿勢のまま膝から下が氷結する。

 もちろん、アグラヴェインのパワーならば氷を砕くなど容易だ。だが、彼が相対するキリト、リーファにはあまりにも大き過ぎる隙だった。

 リーファが繰り出すのは突進系ソードスキル、スターライト。突き刺した後に、更に強烈な突きを押し込む、まさしく星の輝きの如きライトエフェクトが特徴の強力な突進系ソードスキルだ。それが喉元に突き刺さり、アグラヴェインはついにノックバックする。

 そして、落下しながらキリトはQブレードを排出し、銃モードにしたメイデンハーツによって、G&S専用OSS、ガンズ=ダブル・サーキュラーを繰り出す。キリトだけに許されたソードスキルによって火力と弾速が強化された銃撃を頭上から浴び、更には月蝕の奔流を帯びた聖剣による突進斬りを受け、アグラヴェインはHPバーの1本目を散らす。

 

「ラン、ス、ロットォオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 

 だが、アグラヴェインは深淵狩りの裏切り者の名を叫び、怒りと憎しみのままに双剣の柄尻同士を合体させる。

 炎と魔法を帯びた両刃剣。頭上で振り回した両刃剣で、巨体に見合わぬ舞踊にして斬撃の嵐を撒き散らすそれは多勢を葬る、単独で深淵の異形を相手にしながらも深淵の主を討つ、個の境地を求められる古き深淵狩りの姿そのもの!

 

「悪いな。アンタよりも強い両刃剣とは対戦済みだ!」

 

 ボルテージは十分! 天雷装具スローネ解放! キリトは四肢に黄金の雷を纏い、スピードを強化してアグラヴェインの嵐のような斬撃を軽々と抜けて逆に巨体へと漆黒の刃を潜り混ませる。

 傍から見れば、竜巻のように両刃剣を振るうアグラヴェインを、黄金を纏った漆黒の閃撃が囲い込むかのようだった。

 攻防は僅か10秒未満。全身が血だらけになったアグラヴェインが滑るようにして引き下がる。だが、キリトのスピードに合わせられずとも、いかなる攻防をするのか完全に予想できたシノンは彼の退却を予想して背後を取っていた。

 連射を背中に浴びたアグラヴェインは、唸りながら両刃剣を振るう。炎とソウルが無造作に放たれ、それは鏡の地形で乱反射して増幅されて津波となる。シノンは飛び退くも脱しきれずに足を炎で焼かれてバランスを崩し、魔法の渦に全身が落ちる。

 

「がっ……!?」

 

「シノン!」

 

 カバーに入る刹那にアグラヴェインの裏拳がキリトの眉間に決まる。

 アグレヴェインもまた古き深淵狩り。自身の武勇が他の古い深淵狩りに及ばないと分かるからこそ、巨人の血のもう1つの利点……人間を超越したタフネスでキリト達の戦術と思考を解析していたのだ。

 それを把握したキリトに容赦ないアグラヴェインの蹴りが突き刺さる。吹き飛ばされる彼をリーファが咄嗟に身を挺して庇い、背中から柱の角に激突するのを防ぐ。

 追撃のダメージをリーファに押しつけたキリトは労いと心配を声で発しない。この礼はダメージディーラーとしての仕事で返す。それが同じ戦場で『同等』の役割までこなせるようになったリーファへの返答だからだ。

 強力なシューターとメインアタッカーの負傷。だが、陣形に乱れは無い。

 分かっているから。自分たちには強力な、回復もこなせるバッファーがいると信じているから。

 頭上より降り注ぐのは冷たくも優しい雨。奇跡【太陽と光の献身】によって『回復効果を付与』したシルバーレインの冷水だ。 本来ならば触れた対象を時間限定の回復アイテム化する使いどころが難しい奇跡であるが、ユナは『水鉄砲』であるシルバーレインの利点を活かすことで強力な全体回復奇跡へと昇華させたのだ。

 ただし、これはキリトが想定した回復方法ではなく、故に彼女の驚異的な成長速度に再び舌を巻く。

 更に駄目押し。キリトは自身にエスト弾を撃ち、シノンには急行したピナの回復が施される。

 逆転したはずが瞬時に立て直し完了。アグラヴェインからすれば唖然ものだろう。絶望的な再生能力を持つ深淵の主ならばともかく、個々の耐久力は劣る人間が瞬きする間にダメージを消し去ったのだから。

 アグラヴェインは古き深淵狩り。集団戦法が確立する以前の、アルトリウスの『無双』の系譜を正当に継いだ深淵狩りの1人である。

 たとえ戦友であっても、戦場では互いに頓着はしない。個々が一騎当千であるが故の信頼。互いが互いを庇わぬが故の最強であった。

 

「ランス、ロット……ナ、ゼ?」

 

 だからこそ、隙とも見えるアグラヴェインの硬直……否、過去の逡巡をキリトは理解できてしまった。

 個々で一騎当千であるが故の最強。だが、ランスロットの素顔には大きな傷痕が残っている。かつて、モルドレッドを庇ったが故の誉れ高き負傷だ。キリトはモルドレッドの記憶で確かにそれを見た。

 個々で無双するも深淵狩りでありながら、常に友に気を配り、友の誇りを守り、友の為ならば傷を負うことを躊躇わない。それこそがランスロットだった。

 モルドレッドの記憶の中で、最初の仲間にして、追いつきたい双璧にして、最高の友こそがランスロットとガウェインだった。それを間近で見ていた深淵狩りの使命の狂信者だったアグラヴェインの心中は如何ほどだったのか。

 ああ、嫉妬と羨望が入り乱れていたのだろう。モルドレッドにアルトリウスを重ね、自分こそがゴーになるのだと願った半巨人はしかし、最強の深淵狩りの内において、双璧はもちろんとして、モルドレッドと比肩することも出来なかった。自分と同じ異端の出生であるトリスタンにすら及ばなかった。

 巨人のパワーと深淵狩りのスピード、そして戦友の絆がもたらした武具。だが、それだけあっても、傍から見れば英雄の中の英雄であっても、彼は……理想に僅かと届いていないと苦悩していたのだ。

 ならばこそ、モルドレッドの友にして羨望と嫉妬の対象であったランスロットの裏切りは、彼にとって正しく絶望だったのだ。

 硬直したアグラヴェインに、キリトは手を緩めない。

 月蝕剣技シャイニング・ホライゾン。月蝕の奔流を解放して伸ばした高リーチの斬撃、更に本命の振り下ろし。アグラヴェインはさすがと言うべきか、薙ぎ払いこそ躱したが、2撃目の振り下ろしを真っ向から、分離した双剣を交差して受け止める。受け止めてしまう。

 狙い通り。キリトが目的としたのはダメージでは無く拘束だ。復帰したシノンの連射が右膝裏に集中し、更に追撃の≪弓矢≫のソードスキル【フラッシュ・バン】が入る。乱雑に連射し、対象に面攻撃する矢の消費が激しい、精密な射撃を是とするシノンに似つかわしくないソードスキルであるが、近距離まで接近したならば別である。

 本来ならば面攻撃の射撃が全て右足裏に集中する。シューターである弓矢使いがソードスキルのリスクを冒してまで接近などあり得ない事であるが、シノンは例外だ。

 スキル・コネクト、≪曲剣≫の回転系ソードスキル≪ゲイル・バック≫。回転斬りと共に引き下がる、攻撃と回避を両立させるソードスキルであり、アグラヴェインの双剣から解放された炎と魔法の波動から待避する。

 ネームド特有の全方位バースト攻撃。これを経験したことはないプレイヤーはこの場ではユナとスゴウくらいだろう。その2人は後衛故に巻き込まれる心配は無い。

 そして、DBO最初期から戦い続けるシノンからすれば、全方位バースト攻撃を読むなど生存の初歩であった。

 

(≪弓矢≫のソードスキルと同時に≪曲剣≫の始動モーションに繋げるスキルコネクトの中に変形動作を差し込む。えげつないな)

 

 義手となって超長距離狙撃手として終わったシノンが手に入れた、スミスより学び取った近・中距離射撃戦。だが、同じ土俵では師を超えられないならば、武具の変形機構を組み込むまで。シノンもまたキリトが知らない場所で武に磨きをかけていた。

 そして、シノンの攻撃の意味を悟るのはリーファだ。シノンとスイッチし、全方位バースト終了の隙に、シノンがダメージを集中させた右膝裏に奇跡のフォースの剛拳を打ち込む。ついにバランスを崩したアグラヴェインはガードブレイクし、キリトのシャイニング・ホライズンの本命たる振り下ろし全身に浴びる。

 それでもなお健在のアグラヴェインは自分の流れを取り戻すべく両刃剣モードにするが、完全なる不意打ちで、最上位魔法の1つ、ソウルの奔流が全方位から殺到したからだ。

 アグラヴェインが利用した炎とソウルの乱反射による攻撃範囲拡大。これを見逃さないスゴウではない。即座にソウルの矢系の魔法で反射性質を分析し、ソウルの奔流を発動。鏡に反射して分散し、だが集中する1点をシリカの地形情報収集と組み合わせて計算によって割り出していた。

 これをハンドサインで受け取ったキリトは、シャイニング・ホライゾンの初撃をわざと回避させることで誘導させ、2撃目の振り下ろしで拘束し、シノンとリーファの連携で更に釘付けにし、ガードブレイクによる攻撃命中からの、アグラヴェインの強さを見込んでの立て直しを誘い、罠に嵌めた。

 HPバー2本目が削りきられる。そして、ここからが『本番』と恐怖されるネームド戦における真骨頂にして地獄……最終HPバーである。

 ネームド戦において最も死亡率が高まる最終HPバー。それはプレイヤー側の消耗もピークだからだ。

 一見すれば押し込み続けたキリトであるが、リーファは既に息上がっている。キリトも同様だ。

 理由はただ1つ、超スピードのスタミナ消費だ。アグラヴェインの猛攻に対処する為に、キリト達もまたスタミナ消費を度外視した攻撃、防御、回避をし続けねばならず、スタミナ回復がまるで追いついていないのだ。

 だが、キリトはまだスタミナ危険域に到達していない。リーファも同様だろう。だが、ここからがネームド戦の本番ならば、このスタミナ消費量が危うかった。

 

(ソードスキルの大技を短時間で2回。スローネによる魔力消費と月蝕ゲージの回復。ギリギリだな)

 

 加えて心意の消耗だ。ネームド戦において心眼を常時発動し続けるのがこれほどまでに疲労が増すとは思わなかった。特に心意慣れしていないリーファはスタミナ以前に脳が限界に達しているのか、明らかに目の焦点が危うい。

 

「スグ、心眼を維持したまま生存を最重視しろ。絶対に途切れさせるな。今のスグだと秒で死ぬぞ」

 

「……りょう、かい。お兄ちゃん……ごめん」

 

「何言ってるんだ。ここまで食らいつくなんて、本当に……凄い成長だよ」

 

 相手はあの古い深淵狩りだ。誇らずにはいられない名誉ある後退だ。

 アグラヴェインはあろうことか双剣を捨てる。深淵狩りの絆の象徴を捨てる。

 同時に溢れ出る闇が甲冑の留め金を砕き散らす。それは深淵狩りの象徴である狼をもした兜すらも例外では無い。

 素顔を露わにしたアグラヴェインの顔は、あまりにも人間味が深すぎた。混血であるが故に、その顔は人間としての血が色濃かった。

 上半身全裸となったアグラヴェインは黒髪を掻き上げ、獅子の鬣……否、狼の毛の如く逆立たせる。

 全身に纏う闇。キリトも知っている。深淵狩りの奥義にして禁忌、深淵纏い。狩るべき深淵によって己を強化する、かつてアルトリウスを蝕んだとされる深淵を招き寄せる、深淵狩りの切り札。

 アグラヴェインは踏み込む。それだけで彼の周囲の鏡が砕け散る。

 魔法系反射の鏡のフィールド。キリトはそのように『誤解』していた。

 だが、このボス部屋の真骨頂がアグラヴェインの最終形態、深淵纏いに最も有利な点だ。彼の周囲を荒れ狂う闇の余波が鏡の破片を巻き込み、周囲を切り裂くスリップダメージフィールドを形成しているのだ。そして、自身は深淵纏いを防御に特化させることで破片によるダメージを無効化する。

 うーん、これは存外にクーの天敵か? キリトはここにクゥリがいれば、無表情の中で渋い感想を抱いているだろうと想像する。低VIT型のクゥリの天敵は毒とスリップダメージだ。高防御力かつ広範囲スリップダメージ持ちのアグラヴェインはクゥリの得意とする攻撃と回避の両立が通じない。

 いや、クゥリならば『だったら近づかずに殺しきる』と戦闘思考を切り替えるだろう。そして、今のクゥリにはそれを可能とする攻撃手段があるのだから。

 ならば俺は? メイデンハーツの射撃は鏡の破片の嵐で阻まれる。シノンも矢を放っているが、破片の嵐を突破することは出来ていても掠らせるのが限界だ。本体を撃ち抜くには隙が大きいソードスキルによる強化が必須であるが、今のアグラヴェインの前で安易にソードスキルの使用をすれば、すなわち死を意味する。

 故にキリトは自身にユナの奇跡によるオートヒーリングを帯びる。彼女もまた現状における最速にして犠牲ゼロで倒す方法は、スリップダメージ覚悟のキリト単独の近接戦闘しかないと判断したのだ。

 ユナ、なんか判断が怖いくらいに適切だな。キリトはやはり薄ら寒さを覚え、彼女が自分の指導であらぬ方向に成長してしまったのでは無いかと危惧する。

 

「キリトくん!」

 

 スゴウの呼びかけに、キリトは視線だけ応じ、そして彼の意図を察知する。

 メイデンハーツ、黒騎士ブレード。小細工なしの二刀流となり、黒騎士ブレードに彼の頭上より降り注ぐソウルの渦がまとわりつく。

 魔法【ソウルの渦の武器】。しかも遠隔エンチャント! これが本職の魔法使いによるサポートなのかとキリトは頼もしさを覚える。

 

「アグラヴェイン、待たせたな」

 

 そして、キリトの準備を丁寧に腕を組んで待っていたアグラヴェインは、油断と慢心をしていたわけではない。彼もまた時間がかかる深淵纏いの『重複発動』を済ませていたのだ。

 時として深淵に呑まれて深淵の魔物となった戦友を討たねばならないこその秘匿。深淵狩り達は極限の状況まで温存する『最後の切り札』を隠し持っているのだ。

 唯一隠匿しなかったのはガウェインのみ。彼は己が見出した聖剣すらも神々への信仰の為に捧げ、友には一切の隠し事をせずに己の手の内を明かした。それでもなおランスロットと双璧だったのは、彼の武技もまた尋常では無く、また神への信仰心に裏打ちされた強大な奇跡による不死身に等しい回復力と再生力を誇ったからだ。

 深淵纏いすらも不要……否、信仰故に封印したのがガウェインだった。

 対するアグラヴェインの切り札は暴走させた深淵纏いによる嵐と多重発動。深淵狩りの使命の狂信者でありながら、深淵狩りとして振るう双剣すらも捨て、己の肉体……巨人の暴力と人間の闇を最大限に活かした融合だった。

 

「その嵐、まるでモルドレッドの聖剣の加護の真似事だな」

 

 これは挑発では無い。キリトが抱いた真摯なる感想だ。

 理解してくれたのか。嬉しそうにアグラヴェインの口元が歪んだ気がした。たとえ正気を失おうとも、その胸に抱いた狂信は消えないと示すように。

 デーモン化、発動。キリトの双眸は竜瞳となり、コートは鱗で覆われ、背中に2対大小の翼が生じる。

 心眼も継続。スタミナよりも魔力よりも先に脳が限界を迎えるだろう。だが、キリトはこれこそがアグラヴェインに対する敬意にして武の頂に至る為の試練だと己に課す。

 ファントム・シフト! 出し惜しみはしない。キリトは先行させた幻影を後追いする瞬間移動で、アグラヴェインの懐に入り込む。

 

「うぁああああああああああああああああああああああああああ!」

 

「ハァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 

 斬撃と拳。刺突と蹴り。靠撃と頭突き。

 アグラヴェインの体技は全てが必殺の域。たとえキリトでも連続で浴びれば瞬く間にHPが吹き飛ぶ。オートヒーリングもあったものではない。竜鱗の加護すらも消し飛ぶ勢いだ。

 ならばこそ、心眼をアグラヴェインに集中させる。反応速度を極限まで高める。剣技と体術とファントム・シフトを無駄なく、だが盛大に組み合わせて惜しみなく注ぎ込む!

 最初に切れたのはスゴウが与えたエンチャント。次に失われたのはユナのバフ。そして、剥ぎ取られたのは竜鱗の加護。

 意識を奪おうとする心意の消耗。だが、キリトは笑う。ここで笑わずしていつ笑うと『享楽』を知る。

 古い深淵狩りが俺を倒す為に全てを注ぎ込んでいる! 自分もまたそれを超えるべく限界の先を知ろうとしている。

 なんと甘美か。キリトは仲間の為にも絶対に死ねない。確実にアグラヴェインを倒すという決意と同時に、死闘の中で武の神髄に近寄っていく、どうしようもない破滅的な戦いの味を知る。

 全身の傷が流血のスリップダメージを増加させる。回復とダメージのバランスが崩壊していく。

 だが、キリトの全身に山吹のオーラが纏わり付く。ユナの奇跡による援護だ。オートヒーリングのバフはアバター修復速度も上昇させる。

 アグラヴェインの右腕が動かなくなる。キリトの連撃を防ぐ為に『捨てた』からだ。だが、左腕はまだ生きている。そう思った矢先に拳で真っ正面から月蝕突きを受けて潰される。

 笑う。アグラヴェインもまた笑う。両腕が死のうともまだ足技がある。巨体そのものが暴力でもある。重複させた深淵纏いによる超再生もある。

 黒騎士ブレードに亀裂が入る。アグラヴェインのパワーに耐えきれなかったのだ。

 排出、Qブレードに換装。だが、耐久面と持続時間が低いQブレードはアグラヴェインの猛攻には耐えられない。故に破壊と換装を繰り返す。

 スローネの雷、限界付近。魔力が枯渇する。だが、アグラヴェインは健在である。

 2人だけの死闘。だが、キリトは独りではない。アグラヴェインが生み出した嵐の中で1人で戦っているだけだ。嵐の向こう側では自分の勝利を疑わない仲間がいる。信じてくれている人たちがいる。

 最後のファントム・シフト。最後の天雷装具スローネで落雷を招く! キリトは鏡の破片の嵐に舞い上がり、同時に天雷装具スローネで招いた雷を月蝕の聖剣が放つ月蝕粒子で受け止める。

 重力の如き性質を持つ月蝕の力。もはや束ねるほども残っていない。だが、スローネの黄金の雷を帯びさせる事で、天雷を纏う斬撃を生む。

 

「天雷剣技【月蝕の雷】」

 

 雷撃の斬撃は固めた刃であらず。あくまで放出される雷を振るう剣技。アグラヴェインの再生中の両腕のガードを通り抜け、そのまま袈裟斬りに焦がす!

 闇属性による超強化が仇になった。アグラヴェインは巨人の血によって本来は光属性にも強いはずが、深淵纏いの重複発動によって弱点と化していた。そこに神聖なる雷……オーンスタインの系譜たるスローネの光属性を含有して闇属性弱点に高火力を発揮する黄金の雷は特効だった。

 スローネの雷を帯びた月蝕粒子放出による斬撃は、射撃属性のような放出攻撃でありながら近接攻撃判定を持つ。言うなれば、擬似的な放出型レーザーブレードだ。射撃属性に高い防御力を持つアグラヴェインの穴を突いたのだ。

 スタミナは危険域。脳の疲弊は眠りを求める。だが、キリトは膝をつかない。巨体たるアグラヴェインを見上げる。

 アグラヴェインはキリトを見下ろさなかった。静かに背中から地面に倒れた。だが、まだ戦えると叫ぶように再生しきっていない右腕を伸ばし、だが指先から闇の塵となって崩れていき、ついに腕を下ろした。

 

「聖剣とは、深淵狩りなのか?」

 

「……違う」

 

「ランスロットはどうなった? 死んだか?」

 

「死んだよ。どんな最期だったかは知らない」

 

「そうか……死んだか」

 

 アグラヴェインは唇を噛み、やがて一息を漏らす。ランスロットの死に何を思ったのかは知るよしも無いが、好悪が混ざり合った、言葉に出来ない複雑な内面が垣間見られた。

 死に際に正気を取り戻したアグラヴェインを救える言葉をキリトは持っていない。魂を安息に導く命の弔いを知らない。

 ならばこそ、キリトに許されたのは戦士としてアグラヴェインを讃えることだけ。己の武を示し、彼の武を誇りとする戦士の葬送だ。

 

「さようなら、アグラヴェイン。アンタに勝てた事、俺は生涯の誇りにする」

 

「青いな、若造。敗者の誇りを受け継ぐなど、いずれ背負いきれずに押し潰されるというのに。私には無理だった。無理だったのだよ。深淵狩りの使命も、戦友の期待も、大き過ぎた理想も……何もかも……私には……」

 

 アグラヴェインは完全な闇となって崩れ去った。虚無感を覚えるリザルト画面が表示される。

 膨大な経験値とコルとドロップアイテム。だが、際立つのは1つ。アグラヴェインのソウルだ。

 

 

<狂信の深淵狩りのソウル:【深淵狩り】のアグラヴェインのソウル。半巨人のアグラヴェインは裏切りの深淵狩りを追い、だが破れ、深淵に蝕まれた彼を見つけた妖精の王はソウルを抜き取り、体と共に鏡の牢獄に閉じ込めた。秘密の守人は無知なる雄弁こそが何にも増して重要なのだ>

 

 やはり、この場所は……! キリトはアグラヴェインもまた妖精王の邪悪によって翻弄された1人なのだと知る。

 

「キリト! しっかりしなさい!」

 

 だが、それより先にキリトの体と精神が限界を迎えた。デーモン化解除と同時に全身の傷口から血が噴き出し、倒れる彼を真っ先に抱き止めたのはシノンだった。

 見た目は酷いが全身の傷は浅いよ。そう言おうとしたキリトであるが、呂律が回らなかった。心意の発動による疲弊によるものであった。

 アグラヴェイン、掛け値なし強敵だった。だが、この場にいる全員が最高の立ち回りをしてくれたからこそ、誰1人として欠けることなく勝利できた。

 キリトは左手で握るメイデンハーツを見つめる。そこに月光は宿っていない。月光の聖剣が無くとも、アグラヴェインを倒しきる事が出来たのだ。

 ああ、きっとそれでいいのだ。ソロで倒す事に何の意味があるというのか。

 皆がいたからこそ、アグラヴェインを超えられた。皆がいたからこそ、俺は心から勝利を噛み締められる。皆がいたからこそ、生き残った嬉しさを実感できる。皆がいたからこそ、自分がまた1つ強くなれたと誇りを抱ける。

 泣きじゃくるリーファが回復アイテムを使い、シリカも目を潤ませながらピナの回復を発動させ、ユナは安堵の笑みで回復の奇跡を施す。

 全身の傷は癒えたわけではないが、治療によって流血のスリップダメージは止まる。包帯で全身を乱雑に巻かれたキリトを見たスゴウは腰に手をやりながら、嬉しそうに笑う。

 

「まるでミイラ男だ」

 

「黙ってくれ」

 

 対するレコンは兜を脱いで死んだ魚のような目をしていた。

 

「あれ? この戦いで1番働いていないのってもしかせずとも僕なんじゃ?」

 

「いやいや。レコンがいたからアグラヴェインも後衛潰しが出来なかったんだと思うぞ」

 

「そうですかね?」

 

「前に出て攻撃を耐えるだけがタンクの仕事じゃないさ。後衛の守りとして睨みを利かす。それが出来るタンクは少ないよ」

 

 精神が強いんだか弱いんだか。影が薄かった事を悩むレコンに苦笑しながら、キリトはシノンに肩を借りて、鏡が割れたボス部屋の奥……いつの間にか開かれた最奥の闇を見つめる。

 

(最初に踏み込んだ時の突風は侵入者対策のトラップ。あれが発動していなければアグラヴェインは動き出さなかった。つまり、秘密が『秘密ではない』人物なら、アグラヴェインとは戦わないで済む)

 

 キリトはアグラヴェインのソウルから推理し、故に瞼を閉ざす。

 覚悟は出来ている。後は彼の真実と選択だけだ。

 闇を潜り抜けた先にあったのは、光り輝くラインが壁を走る空間であり、祭壇のような直方体が安置された空間だった。

 

「やっぱりか。コンソールルーム……だけど、これは……オリジナルじゃない? コピーか?」

 

「どういう事なの? コンソールルームのコピーって何?」

 

「それは……」

 

 事情がまだ飲み込めないシノンに説明しようとした隙に、スゴウが1歩前に出る。他の誰かが止める間もなく、コンソールに接近する。

 

「これだ。この場所だ。この風景だ。私が……私が探さねばならなかった場所……!」

 

「……スゴウ、それでいいんだな?」

 

 キリトの問いに、スゴウは振り返り、そして頷いた。

 リーファが止まれと叫ぶ。レコンが駆け出す。ユナが目を見開く。だが、スゴウはコンソールに触れる。

 瞬間に駆け抜けたのは眩い光。誰の接近も許さぬ光の風はスゴウを包み込む。

 

「……スゴウ?」

 

 剣を抜いて光の風を耐え抜いたリーファが声をかける。

 だが、スゴウは振り返らない。

 

「クク……クハハハ……クハハハハハハ!」

 

 それは歓喜。肩を震わせた、理性の箍が外れたような狂笑。

 踵をわざとらしく鳴らし、ようやく振り向いたスゴウは……涎を垂らして眼を開き、侮蔑の眼差しと邪悪な笑みを描いていた。

 

「ご苦労様でしたぁあああ! いやぁ、戦う以外に能が無い、頭の弱いゴミ屑共も使いようだね! この『僕』をここまで連れてきてくれたんだからさぁああああ!」

 

「アンタ……! やっぱり今まで演技を……!」

 

 怒りを露わにするリーファに、キリトは冷静になれとシノンの肩から離れて自分の足で立つと聖剣を抜いて彼女の勇み足を止める。

 

「演技じゃない。演技であそこまで出来るはずがない。スゴウは『オベイロン』に戻る為のバックアップ。そうだろう?」

 

「……チッ。なんだい。ゴミカスのくせに気付いてたのか」

 

「扉に描かれていたからな。王の支配から敗北、そして死。扉を開いた先にあるのは魂の牢獄である鏡。ここまでヒントを出されて気付かないはずが無い。ここにはオベイロン、アンタの魂……いいや、記憶と人格データがあるんだってな」

 

「ど、どういう事なんですか?」

 

「『スゴウ』は本当に何も知らなかったんだ。彼はオベイロンのバックアップ。記憶と人格データを注がれる為の器だ」

 

 さすがに事情を把握し切れていないレコンに、キリトは声を出すのも億劫な脳を酷使して言葉を紡ぐ。

 

「アンタは自分に万が一があった時に備えて記憶と人格データを保存していた。だけど、そのままバックアップを使って復活する事に危惧を覚えた。自分が倒されたならば、妖精王としての全てが奪われたも同然。たとえバックアップを準備していとしても、そのままではまた倒される事になるだろうってな」

 

「その通り! そこで、僕自身の記憶と人格をわざと欠落・デザインしてフラクトライトAIに埋め込み、お前達みたいな馬鹿を欺きやすい『偽物の僕』を生み出したのさ!」

 

「……うわぁ、吃驚するくらいに屑な作戦ですね」

 

 シリカの心が籠もっていない賞賛でも無い軽蔑に、オベイロンは結果が全てだとばかりに笑う。

 

「妖精王としてのアルヴヘイムの絶対支配は失ったが、このコンソールから僕自身の管理者権限はほぼ復元できた! 僕はこれから再起する。今度こそ、現実世界と仮想世界、両方を支配する、新時代の神となる!」

 

「相変わらず性根は変わってないわね」

 

 シノンもオベイロンの相変わらずに溜め息しか出ないようだった。

 選択の時だ。キリトは瞼を閉ざし、アスナの笑顔を思い浮かべる。

 憎い。アスナを殺したオベイロンが憎い。

 だが、この剣を振るうのはアスナを失った憎しみを晴らす為では無い。

 掴み取りたい未来の為に。過去を過去として受け入れ、今この瞬間を生きる者としての選択の為に剣を振るう。

 

「無駄だよ。聖剣の力は知っている。だけど、僕に与えられた管理者権限の前では無力だ」

 

「そうかもな。それでも、俺は決めたよ。俺自身の手で……オベイロン……アンタという俺の憎しみを模ったような過去の亡霊を……今度こそ断ち切る」

 

 キリトは駆ける。月蝕の粒子を散らしながら、かつてアインクラッドで握った愛剣と同じ姿をした己の聖剣を握りしめ、邪悪に高笑いしながら、攻撃を放つべく手を掲げたオベイロンに接近する。

 

 

 だが、聖剣は振り抜かれることなく、スゴウの正面に振り下ろされるだけだった。

 

 

「お、お兄ちゃ……ん?」

 

 やはり情が移って攻撃できなくなったのか。そう心配するリーファに、キリトは振り返って首を横に振る。

 

「コイツは『オベイロン』じゃない。オベイロンの『演技』をした……『スゴウ』だよ」

 

「え? え? えぇええええ!?」

 

 驚くのはリーファだけで、レコンはやっぱりそうかとばかりに肩を竦め、そんな事だろうとシリカは肩を叩き、シノンはどうでもいいとばかりに戦いの疲れを癒やすように壁に向かうともたれかかった。

 

「な、何を言ってるんだ? お前も承知で僕を送り出したのだろう? 僕がバックアップの器で――」

 

「政治の腹芸や商売の駆け引きは上手でも、仲間を……本当に信じ合った心から欺く演技なんて出来ないさ。だって、『スゴウ』は……俺達にお似合いな、根っこがどうしようもなく善人なんだからさ」

 

 キリトの迷わぬ宣言に、オベイロンは……いや、スゴウはたじろぐ。『邪悪なるオベイロン』という仮面があっさりと剥げ落ちるほどに。

 

「僕は……私はオベイロン! オベイロンなんだ! 数多の妖精を苦しめ、支配した! 欲望のままに多くの人間を弄んだ! キミの大切な人を……アスナくんを奪ったのも……!」

 

「それは『オベイロン』だ。『スゴウ』じゃない」

 

 キリトの断言に、理解できないとばかりにスゴウは後退る。

 

「殺せ! 殺すんだ! そうだ! リーファくん! 私が憎いだろう!? 許せないだろう!?」

 

「……そうだね。オベイロンの欠片が僅かでもあるかもしれないってだけで……スゴウだとしても許せない」

 

「だったら……!」

 

「だからこそ、あたしはスゴウを許さないまま、でもスゴウという存在を認めるの。そうじゃないと……あたしは何処にもいけない。スゴウを殺してサクヤさんとアスナさんの仇を討った気になって……罪悪感に一生囚われる。そんなの嫌」

 

 それがリーファの……スグの出した『許さない』が故の答え。許さずともスゴウという存在を認める。他でもない、自分がスゴウを殺せば罪を背負う事になると理解してしまったが故に。罪を感じてしまう、自分の心に気付いてしまったが故に。

 キリトは兄として誇らしかった。故にここからは自分の役割だ。キリトはスゴウを見つめる。

 

「もういいだろう? 頭の良いアンタだ。扉の時点で薄々感じていたはずだ。自分の存在が何なのか。記憶が弄られていようも、人格が操作されていようとも、俺達が憎んで殺したがった『オベイロン』の器だからこそ、『オベイロン』として殺される事を願った。俺達の心が……救われる為に」

 

「私は……私は……」

 

「でも、誰も救われないんだ。レコンも、リーファも、俺も……誰も救われないんだよ。アンタを殺しても、罪に苛まれ、罰を求めて苦しむだけなんだ」

 

「違う。違うんだよ。確かに、それが……それが私の……『スゴウ』の願いだったんだ……」

 

 コンソールルームに腰掛けたスゴウは、震える唇を噛み、青ざめて涙を溜めた目をキリトに向ける。

 

「私は自分の旅の終わりを見た。キミ達が憎み嫌った『オベイロン』こそが私の正体だと悟った。だから、キミ達が救われる為に死のうと思った。邪悪な敵として討ち取られることが……私に出来る……唯一の罪滅ぼしだと……。だけど、それだけじゃないんだ」

 

「どういう事だ?」

 

「……『オベイロン』はね、バックアップを作成した時点ですぐに最大の問題に失敗したんだ。それは結局の所『自己の複製』であって『連続した自我の保存』ではないのだとね」

 

 確かにその通りである。オベイロンのようなタイプは、自己複製による自己同一性の保存よりも、自我の連続性こそを最大にして唯一とするタイプだろう。自分の死を前提としたバックアップに無意味を覚えたはずだ。

 

「私というバックアップが機能したのは、オベイロンの『死』の直前の感情が原因だ。彼は死を望んだ。『殺してくれ』と願ったんだ。自我の連続の保持という絶対的な自意識が完全崩壊した。それがバックアップである私を起動させた」

 

 死の間際の恐怖。自我の連続性すらも否定した『何か』がオベイロンに起こったのだ。だが、スゴウが言わんとする問題は別にあるのだろう。

 

「バックアップ計画は中途半端に放置されていた。故に人格と記憶の復元過程にもまた誤差が生じた。本来ならば、私にパッケージされていた人格と記憶はこのコンソールルームで解凍されるはずだった。だが、本来ならば侵入者用の『過去の想起と仮定選択による追体験』させる、MHCPをモデルにしたトラップが私にも発動してしまったんだ」

 

 中途半端に放棄されたバックアップ計画だったが故に、スゴウだけトラップを免れるキーコードが与えられていなかったのだろう。

 瞬間にキリトは悟る。スゴウはこのコンソールルーム以前に、ある重大な嘘を吐いていたのだと。

 

「察しが良いね、キリト君。このコンソールはほとんどオブジェクトみたいなものさ。本来ならば、ここで人格と記憶と複写された管理者権限を手に入れるはずだった。だが、ここにあるのはせいぜいがバックアップデータの残り滓。オベイロンの死に際の恐怖くらいだ」

 

 キリトは震える。聖剣を持つ指から血の気が失われ、自分がもう1度……今度は『スゴウ』を『救う』か否かの選択をしなければならないのだと理解する。

 

「アンタの中に『オベイロン』の人格と記憶が元からパッケージされていた。このコンソールルームはあくまで解凍装置にして管理者権限を付与するもの。だったら、今のアンタは……『過去の想起』で……!」

 

「そういう事さ。幸いというべきかな? 記憶も人格も時間をかけて復元が始まっている。もう『スゴウ』という私の人格を保てる時間は長くない。ほら、見たまえ」

 

 スゴウの口元がヒクヒクと……演技では無く、キリトも知る『オベイロン』の如き理知を手放した欲望の邪悪な笑みを描こうと痙攣している。

 

「そん、な……こんな事って……」

 

 スゴウの演技を見抜いていたからこそレコンは愕然とする。リーファはスゴウの本心を知ったからこそ、唇を噛んで顔を背ける。

 

「そこのコンソールを使えば外に出られる。キミ達の未来に幸があらん事を……願っているよ」

 

 何が間違っていたのだろうか。キリトは拳を握り、スゴウの望む『救済』に苛まれる。

 スゴウは邪悪な敵として……『オベイロン』として殺される事を選んだ。

 だが、スゴウは『オベイロン』を演じきれる程に悪人ではなくて、キリト達の既に『スゴウ』を信じる程に心を許してしまっていた。

 互いに悪意などなく、故にオベイロンが残した悪意は喉元に突きつけられた。

 

「私が殺るわ。貴方達には残酷すぎる」

 

 弓剣を抜き、スゴウが『スゴウ』である内にトドメを刺すべくシノンが動く。だが、キリトは一切の容赦なく彼女の進路へと聖剣を抜き放つ。

 

「……どういうつもり?」

 

「手を……出すな」

 

「殺せるの? 貴方の言うとおり、彼は『オベイロン』じゃない。悪党ではない。ここは戦場じゃない。善悪を超えた殺し合いの場でもない。貴方は……自分が認めた『仲間』を殺すのよ?」

 

「分かってるさ! それくらい……それくらい、俺だって……!」

 

「何も分かってない!」

 

 叫ぶキリトの胸ぐらを掴み、シノンは鬼気迫る表情で睨む。

 

「貴方は『クー』じゃない! 彼は殺す。殺せる! 仲間だろうと友人だろうと……一切の迷い無く、殺すと決めたら躊躇いなく殺す! 殺しきるわ! でも、貴方にはできない! 貴方には殺せない! だって、貴方は――」

 

 言うな。言うな。言うな! キリトはシノンにはではなく、決断しきれない己に怒りを燃やして、情けない程に感情の矛先を彼女に向ける。

 

「ああ、そうさ! 知ってるさ! 俺の目の前で殺したからな! 何人も……何人も……必要なら……迷い無く……!」

 

 胸ぐらを掴むシノンの腕を力任せに剥ぎ取ったキリトは、こうしている間も『オベイロン』に『復元』されていくスゴウを救える時間は残り少ないのだと悟る。

 

「……分かってるんだよ。だから、俺が……俺が……斬る」

 

 誰かが救わねばならない。救いという名の死を与えねばならない。

 リーファに背負わせられない。レコンにもだ。シリカとて素っ気ない態度こそ取っているが、スゴウとの連携で何か感じるものがあったはずだ。

 ならばこそ、最も関わり合い薄いシノンが罪を背負うことを申し出た。だが、彼女の優しさに甘えることができる程にキリトは己の『弱さ』を認められる『強さ』は無い。

 

「スゴウ、俺は……アンタを本当の仲間だって……思ってたよ。信じて、戦ったよ」

 

「私もだ。キミ達と仲間になれて、一緒に戦えて、不謹慎だけど……本当に楽しかったよ。ああ、『オベイロン』は可哀想な男さ。こんな幸せを理解しようともしないなんてね」

 

「ああ、全くだ。本当に……救いようのない……」

 

 悪こそが正体である偽りの善人がそこにはいた。

 せめて誰かの救いになる為に悪として死のうとした男だった。

 だが、無責任な理解は男の願いを踏み躙った。

 故に罪を背負って罰を探すのだろう。

 

 

 

 

「さようなら、スゴウ。アンタの死を……俺は忘れない」

 

 

 

 

 振り抜かれた聖剣は、悪を否定した善人を討ち取った。

 

 

 

 

 そのはずだった。

 

 だが、救いの為の死をもたらす聖剣は、『オベイロン』という巨悪を知らぬからこそ、最も真っ直ぐにスゴウの善性を信じた少女によって阻まれる。

 キリトとスゴウの間に割って入ったユナは、その身で聖剣を止めようとした。仮にキリトがスゴウの死から目を背く意思を抱いて剣を振るっていたならば、間違いなく彼女は斬り殺されていただろう。

 

「……ユナ」

 

 どいてくれ。キリトがそう言うより先に、ユナは手を伸ばして聖剣を掴む。漆黒の刃は彼女の柔肌に食い込み、血が刀身を伝っていく。

 ユナは微笑む。そして、キリトの決意を否定するように首を横に振る。

 

「これしか無いんだ! スゴウが『スゴウ』である内に……彼を……!」

 

 ユナは聖剣を放さない。そして、スケッチブックに言葉を綴る事もしない。

 ユナは優しく微笑みながら、キリトが聖剣を下ろすのを待っている。

 誰も彼女を止められない。止めるなど出来なかった。

 最も非力であるはずのユナに、白の傭兵と真っ向から戦ったキリトも、歴戦の猛者であるシノンすらも、圧倒されていた。

 

「……そうだよな。俺は……クーじゃない。自分でそう言ったじゃないか」

 

 クゥリならばスゴウを殺すだろう。

 死ぬ事でしか誇りを守れず、己を貫けぬならば、クゥリは迷い無く己の意思で殺すだろう。

 クゥリは故に後悔しない。自分の選択で殺したからこそ、奪った命を侮辱することは絶対にしない。

 だが、今のキリトを動かすのは自分の意思では無い。選択では無い。必ず後悔に塗れてスゴウの死に押し潰される。

 逃げているのだ。スゴウを殺す事と正当化する為に、選択を放棄しているのだ。

 ユナにはそれが分かっていたのかは定かでは無い。だが、彼女は感じ取っていたのだろう。

 これでは誰も救われない、と。

 

「ありがとう、ユナ。俺は……また間違えそうだった」

 

 キリトの感謝を口にすれば、ユナはスゴウへと向き直る。血で汚れた手で、スゴウにも諦めないでと伝えるように、両手で彼の震える右手を包み込む。

 

「それで具体的にはどうするの? 最後まで抗うのが貴方のやり方だとして、時間切れは彼にとって最悪の結末よ」

 

 ユナの心意気は認めるが、それと救う方法の有無は別だ。気圧されたからこそ、シノンもまた安易に殺すという選択は既に排除したようであるが、彼女は『その時』が来たならば自分が手を汚すという決意が眼にあった。

 

「えーと、情報を整理しましょう! スゴウさん、質問には限りなく正確かつ詳細に答えてください! 貴方は『オベイロン』が残した自己複製バックアップ。敢えて欠落・操作した記憶をベースにした人格なんですよね?」

 

「……その通りだ。オベイロンは既にフラクトライトを捨てたAIだったが、彼の記憶、人格、思考パターンを複写し、フラクトライトAIをベースにして復元するのがバックアップ計画だった」

 

「その復元ですけど、『上書き』と考えてよろしいんでしょうか?」

 

「そうだ。オベイロンはフラクトライトを捨てたAIになったが、心意にはフラクトライトが不可欠だと知った。フラクトライトAIは、心意こそ発動できずとも、限りなく迫れる可能性がある。オベイロンの本体……現実の須郷の脳は既に物理的に破壊されていたし、何よりも自我の連続性を保った自意識のAI化の際にオリジナルのフラクトライトも損傷しているだろうから、復元の際にはフラクトライト由来であることを目論んだんだ」

 

「普通のAIとフラクトライトAIの違いは何なんですか?」

 

「……説明すると長いが、フラクトライトAIはより生物に近しい思考パターンと自意識の獲得がスムーズなんだ。あくまでベースになっているのが人間のフラクトライトのコピーだからね」

 

 レコンの質問から生じたスゴウの返答に、キリトは違和感を覚える。

 

「待ってくれ。フラクトライトAIは元を正せば人間のフラクトライトのコピーなんだよな? 仮に人格・記憶を植え付けられるとして、どうやって復元する人格と記憶をパッケージさせておくんだ?」

 

「……フラクトライトのコピーと言ったけど、正確にはフラクトライト構造のコピーだ。フラクトライトは情報記憶媒体にして伝達媒体でもある。フラクトライトAIのベースになっているのは、情報が限りなくゼロの赤子のフラクトライト構造のコピーなんだ。複数の赤子のフラクトライト構造を重ねて均一化したものなんだ。だから、意図的にフラクトライトに情報を送り込めば、設計した通りの人格と記憶が形成される。あくまで理論上は……だけどね」

 

「誤差はあるという事ですね。でも、だったらなおのこと、人格と記憶のパッケージが分かりませんね」

 

「本来の人格のフラクトライト。これを意図して隔離する。疑似人格フラクトライトが本来の人格のフラクトライトと接続された時、より優先順位が高い情報に統合・支配されるように設計されているんだ。記憶の欠落と操作はもっと簡単だよ。欠落は分離で、別の記憶は文字通りの偽物の情報だ。欠落した記憶は結合で取り戻し、偽物の記憶は矛盾性から本来の記憶の整合性によって否定される。連続性による整合性は本物の記憶が上だからね」

 

「それってつまり……フラクトライトにおいて『記憶があるから人格が形成される』のではなくて、『記憶は記憶であって、人格は人格として保存されている』って事ですよね?」

 

 シリカの指摘にスゴウは頷き返す。

 のんびりと思案する時間は無い。だが、焦れば何も思いつかない。故にキリトは情報を整理する。

 

「スゴウはフラクトライトAIベース。記憶と人格は別物。優先順位。つまりは……つまりは……!?」

 

「つまり、フラクトライトAIにおいて、『オベイロン』が記憶情報と結合を完了するまで、『スゴウ』という人格は消滅しない。今この瞬間もスゴウが少しずつ『オベイロン』に変化しているのは、記憶とアバターの所有権を『オベイロン』に傾いているから。『上書き』とはスゴウという人格自体を変質させるものではない。違う?」

 

「その通りだ。その通りだけど……理屈は分かった。『オベイロン』ではなくて『スゴウ』の人格の優先権を確保すればいいんだって! だけど、そんなのどうすればいいんだ!?」

 

 キリトの悲痛な訴えに応えられる者はいない。これは戦闘でも知識でもなく技術の問題だ。フラクトライトAIに対して干渉するプロセスが無いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「ケンシ、バカ。バカ。スゴーイ、バカ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間の無力。それを嘲うのは人外の怪物。

 ようやく回復しきったのだろう。ミョルニルが血を吐き捨てながら起き上がる。

 

「レギオンプログラム、フラクトライト、オセン、デキル。『オベイロン』、オセン、ハカイ、スレバイイ」

 

「そんな事が出来るのか!?」

 

「フツウ、ムリ。レギオンプログラム、オセン、エラベナイ。ゼンブ、コワス。ダケド、フラクトライト、カンショウ、レギオンプログラム、ダケジャナイ」

 

 クヒヒと笑ったミョルニルは近寄るとキリトの胸を指で突く。

 

「ワスレタ、カ? ケンシ、ランク1、ツナガッタ。セイケン、トオシテ、ケンシ、フラクトライト、ツナガル。ツナゲラレル。ケンシ、デキル。フラクトライト、ツナガッテ、オベイロン、コンドコソ、タオセ」

 

「聖剣で……フラクトライトを……繋げる?」

 

「チガウ。オマエ、ココロ、フラクトライト、ツナガル。セイケン、テツダウ、ダケ。セイケン、ミセル、ユメ。フラクトライト、ユメ、ソコデ、オベイロン、コロセ」

 

 聖剣は夢を見せる。仮想世界が肉付けされた夢ならば、仮想世界で見る夢とは何なのか。仮想世界の内側に構築された仮想世界なのか。

 キリトは経験した。鏡の中で体験した『夢』は結局のところ、現実世界と何ら変わらない設計が施された仮想世界だった。

 思い出せ。キリトが今まさに苦しむ頭痛と疲労は心意の酷使によるものだ。脳の……脳の内側に形成された仮想脳というフラクトライト構造がもたらす仮想世界限定の奇跡の反動だ。

 

「スゴウ、俺を信じられるか? アンタを救いたい。殺したくないって願いを……信じてくれるか?」

 

「信じるさ。キミは……私が思っている以上のお人好しだろうからね」

 

「違うよ。俺は……ただの甘ったれだ。自分が背負うかもしれない罪に怯えるだけの馬鹿野郎だ」

 

 だからこそ馬鹿のままでいい。キリトは深呼吸をして、月蝕の聖剣を通して、月光の聖剣に意識を繋げる。

 クゥリに砕かれてから姿を見せぬ月光。だが月蝕の聖剣の核となる刀身は変わらず月光の聖剣の白銀。ならばこそ、ここには確かに月光が隠されている。

 瞼を閉ざした暗闇で漆黒が踊る。

 キリトに気付いた黒髪のクゥリが微笑みかける。月蝕の聖剣の化身が手を差し出す。

 

 

 月光はいつだってそこにある。

 

 

 月蝕がたぐり寄せた僅かな月光。キリトは初めて自発的に月光の力を引き出した。月蝕の聖剣からまるで蛍火のように舞う小さな月光を掴み取る。

 スゴウと握手することで月光を共有し、瞬間に眠気に誘われる。

 落ちる。落ちる。落ちる。

 月光がもたらす夢に落ちていく。

 だが、1人ではない。結んだ手の先にスゴウがいる。彼は怯えているが、覚悟を決めている。キリトを信じて全てを託すと。

 やがて到達したのは星の海。瞬く世界で落下は止まる。幻想的な光の世界はフラクトライトを視覚化したものか。

 

『な、何だ? 何なんだ、これはぁあああああ!?』

 

 そして、同じく星の空間で漂うのはオベイロン。醜悪にして邪悪なる妖精王。

 だが、怒りも憎しみも乾いた過去のそれであり、故にキリトはスゴウを救うという意思を束ねて妖精王の亡霊を見据える。

 キリトに気付いたオベイロンは、自分が今まさに何が起こっているのか理解せずとも、これから何が起こるのかを察したのだろう。恐怖で顔を歪める。

 

『待て! 待ってくれ! 話し合おうじゃないか! そうだ! アスナ! アスナについて良い事を教えてやろう! 彼女は――」

 

「もういい。もういいんだ」

 

 命乞いなど聞きたくない。オベイロンがアスナと名を呼ぶだけで、思い出になった怒りと憎しみが脳裏を引っ掻く。

 キリトの周囲に展開されるのは漆黒なる月蝕の聖剣。それは1つに束ねられ、黒髪のクゥリ……月蝕の化身となる。彼女はキリトに微笑みかけると、その手に月蝕の聖剣を手に、オベイロンに向かって飛ぶ。

 

「消えてくれ。思い出の中で朽ち果てろ」

 

『止めろ! 来るな! どうして、よりにもよって、「お前」が……「お前」がぁああああああ! 死にたくない……死にたくなぁああああああああああああああああああああ――』

 

 月蝕の聖剣はオベイロンの心臓を刺し貫いた。そして、呆気ないほどにオベイロンは消え去った。

 

「お、終わった……のか?」

 

「みたい……だ、な」

 

「キリトくん!? キリトくん、しっかりしろ!」

 

 駄目だ。眠い。意識が途切れる。戻れない。戻れなくなる。スゴウが呼びかけて手を伸ばすが、キリトは彼から離れてより深く、深く、深く沈み込んでいく。

 だが、冷たくも温かい手がキリトを繋ぎ止める。

 

 

「生きて、キリト。私は……いつだって、貴方の幸せを願っています」

 

 

 黒髪のクゥリの姿をした月蝕の化身は、キリトを抱きしめる。たとえ、月光が失われた月蝕の夜であろうとも、月は確かにそこにあるのだと教えるように。

 

 

 

 

 目が覚めた時、キリトはリーファ達のホームの客間、使わせてもらっているベッドの中だった。

 あれから既に数日が経過しており、キリトは眠り続けていた。心意の酷使による疲労に加え、聖剣でスゴウのフラクトライトAIにアクセスし、あまつさえ聖剣を介して心意でダイレクトにフラクトライトに干渉するという荒技が最大の原因だった。

 キリトの目覚めに、まずリーファが泣きついて喜び、シリカも大泣きし、現れたレコンとスゴウは無言でガッツポーズをした。

 報告を受けたシノンはフルーツの盛り合わせを送りつけただけで姿を見せなかったが、それは冷たさなどでは無く、キリトならば必ず目覚めるという信頼だからこそだと受け取った。

 

「これは仮説ですけど、キリトさんは心意でオベイロンを滅ぼしたのではなくて、キリトさんの心意でブーストを受けたスゴウの意思がオベイロンという人格を排除したのではないのではないしょうか?」

 

 林檎を剥いて兎を作るシリカに、病人では無いのだとツッコミを入れたいキリトであったが、体が上手く動かないのまた事実であり、故に甘んじる。

 

「つまり、俺は何もしてない?」

 

「そうではなくて、キリトさんはスゴウの意思にオベイロンを滅ぼすという結果をもたらす形を与えたんだと思います」

 

 更に林檎の兎を並べるシリカの仮説に、キリトは確かにそう言われればそうかもしれないとも思うが、他でもない方法を提案したミョルニルの説明も気がかりだった。

 

「俺も自分の心意が他人のフラクトライトに直接干渉したなんて思いたくない。だけど……」

 

「フラクトライトは心にして魂の姿。レギオンプログラムはフラクトライトを『汚染・侵蝕し、レギオンに上書きしてしまう』そうです。スゴウの上書きとは全く別のプロセス。本当の意味での、取り返しがつかない『上書き』です。それに耐えきれずにレギオンプログラムによってフラクトライトが崩壊してしまうそうですよ」

 

「……危ないな」

 

「私は……ミョルニルさんは仲間だと思っていますし、これからも良き関係を築けたらいいなと思ってますけど、レギオンプログラムは……とても恐ろしいと感じました。まるで、何もかも殺し尽くそうとする……善意や悪意を超越した純粋な殺意そのものであるような気がして……」

 

「俺の心意に聖剣を介してもそこまで殺意はないだろうな。情けないけど、そんな殺意を抱く前に、俺は自分自身に心が折れるよ」

 

「だと思います。キリトさんってここぞという時に、情けなくてみっともなくなりますから」

 

「辛口だな。でも、俺はそれでいいよ。フラクトライトを……魂さえも滅ぼすほどの殺意なんて、きっと人が手に入れてはいけないものなんだ。そんなの……悲し過ぎる」

 

「恐ろしいじゃなくて悲しい……ですか。キリトさんはやっぱり優しいですね。甘さと紙一重の優しさです」」

 

「やっぱり辛口だ」

 

 スゴウがフラクトライトAIの支配権を得る為に、オベイロンという人格の分離と排除を願った。キリトはそれの手助けをしただけならば、それは……最高のエンディングだ。キリトは兎の林檎を囓りながら笑う。

 その後、旅の目的を終えたスゴウはリーファとレコンのサポートを続けることになった。2人だけでは農園経営が不安なのは確かであり、キリトとしても彼の手助けは今後も期待し、共に歩む事を約束した。

 キリトが休んでいる間も、リーファが中心となって活動し、書架からの依頼の達成も間近となった。

 もうすぐ体も元通りに動く。疲労が抜けきるだろう休息の夜だった。

 眠るキリトに香るのは優しい月の香り。目覚めたキリトは窓から差し込む月光を見て、そして自分の傍らに腰掛ける黒髪を目にする。

 

「……月蝕、なのか?」

 

 キリトの呼びかけに、黒髪のクゥリの姿をした月蝕の化身は穏やかに微笑む。それはクゥリが稀に見せる、まるで聖女のような微笑と悲しいまでに酷似していた。

 

「頑張ったね。あのアグラヴェインを倒すまでに貴方は成長した。貴方の刃は古き深淵狩りに追いついた」

 

「……そうかな?」

 

「アグラヴェインとの戦い、そして勝利を誇りにするのでしょう? 過ぎた謙遜は彼の矜持と遺志の侮辱になる」

 

 ああ、その通りだ。キリトは月蝕の化身の忠告を素直に受け止める。

 

「貴方は独りで戦わなかった。皆の『力』と『強さ』を借りて倒すことを選んだ。だからこそ、貴方の『強さ』はアグラヴェインを倒す『力』を生み出した。『強さが宿った力』……それは運命を覆す事が出来る尊い兆し。忘れないで」

 

 月蝕の化身が労るようにキリトの頬を撫でる。血が通っていない鋼のような冷たさであるはずなのに、同時に鍛えられた時の炉の熱がまだ燻っているかのような温もりもあった。

 

「アグラヴェイン、可哀想な深淵狩り。彼もまた己の聖剣を見出せる可能性があった。でも、最後の1歩が踏み出せなかった。嫉妬と羨望に閉じこめられてしまった」

 

 嫉妬と羨望。それは誰もが持つ当たり前の感情だ。妬み、羨むからこそ、更なる成長を望んで足掻けるのだ。

 アグラヴェインは同朋の足を引っ張り、また貶めるような真似はしなかった。戦いの中でひたむきに自身もいつか追いついてみせるという渇望を頼りに突き進んだ。

 だが、とキリトは思う。アグラヴェインの死に際に見せたのは……諦観。自分は届かないのだと悟ってしまった。理解して受け入れてしまっていたのだ。

 故にキリトは考える。どうして月蝕の化身がクゥリの姿なのか。月蝕という『力』に、やはりクゥリという『力』を見出してしまっているのか。この姿こそが過去の罪に対する罰なのか。キリトが暗い負の思考に沈もうとする前に、月蝕は微笑む。

 

「そうね。この姿は罪であり、罰でもある。でも、それだけじゃない」

 

 流れていない涙を拭うように、月蝕はキリトの頬を撫でながら、月光を喰らう月蝕の如く長い黒髪を垂らしながら覆い被さる。

 冷たくも温かい月蝕の左手がキリトの右手に絡みつく。炉から漏れた熱が籠もっているかのような、だが月明かり無き夜のような冷たさが混じる吐息が首筋を撫でる。

 

「罪を感じる心は罰を求める。罰は罪を感じる心の救いとなる。でも、きっと、罪は生きてる証。精一杯に、この世界を生きようとするからこそ、罪に苦しみ続ける。だから、誰かが赦さないといけない。誰かが……苦しまなくていいんだよって……もう終わりにしていいんだよって……赦さないといけない」

 

「でも、俺は……俺は……間違った。たくさん……たくさん……たくさん……!」

 

「そうだね。キリトはたくさんの罪を犯して、たくさんの罰を求めた。でも……ずっと……赦されたかった。『無力』という罪を赦してほしかった。愛する人を守れなかった『無力』の罪。親友になる人との始まりが『無力』から見出した渇望だった罪。いつだって、本当に大切な何かを為したい時は『無力』だった罪」

 

「…………っ」

 

「それでも、貴方は抗い続ける。罪を感じ、罪を知り、罪と向き合う心があるのだから。だからこそ罰を欲するのだから」

 

 キリトの首筋から離れた月蝕は、今にも口づけできそうな距離まで顔を近づかせる。吐息と吐息が交じり合う。

 

「赦すよ、キリト。私は貴方の剣。決して自分では月光を満たせないと知っているからこそ、唯一で月光を満たせた『あの人』が託したからこそ、貴方が見出してくれた月蝕。だから、私は……私だけは……貴方の『無力』の罪を……赦すことができるのだから」

 

「……そう、か」

 

 俺は赦されていいのか。キリトは瞼を閉ざし、苦しみ続けたあの時にたどり着く。

 白の傭兵に、憎しみのままに『力』を求めて訪ねた。それが失いたくない友情の始まりだとも知らずに。

 過去は変えられない。だが、キリトは思い返す。たとえ、アスナが生きていた仮定の過程を経た、大切な人たちが苦しみを少しでも抱えないで済む、笑い合える今と未来があったとして、だがそこにはやはりクゥリにはいて欲しかったのだと。

 だからこそ、キリトは『夢』を拒絶できたのだ。自身の薄暗い欲望さえも成長の糧とすることができたのだ。

 

「……眠って、キリト。貴方はまた戦わないといけない。たくさんの罪と向き合わないといけない。だけど、今は……今宵だけは……貴方に夢無き闇を……月蝕の眠りを……」

 

 ああ、そうか。俺は……赦されていいのか。

 キリトは心からの安堵で眠りに落ちた。悪夢を見る事はない。そう信じられたのだから。

 穏やかな寝息を立てるキリトに、月蝕は祈りを込めるように両手を組んだ。

 

「願わくは、貴方の目覚めが有意義でありますように……」




英雄が討ったのは悪意の王であらず。ただ人であるが故に。

ならばこそ、月光の導きを。

そして、ひと時の眠りを。






それでは、別の書で、あるいはその先でまた会いましょう!

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