SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

護衛ミッション開始。


Episode21-10 ミエナイ ココロ、キコエナイ コエ 前編

 燃える。燃える。燃える。

 消えない憎悪の炎の底でエイジは何かを探す。

 骨の髄まで焼き尽くす業火。血は煮え滾り、それでもなお求めるのは『力』だ。

 だが、不意に炎が凍てつく。まるで台風の目に入ったかのように、憎悪の炎は失せて凍える程の冷たい無に至る。

 暗闇だ。何もない。まるで宇宙に放り出されたかのような虚無がそこにあった。

 虚無の暗闇の中心部で誰かが蹲っていた。虚無を泳ぎ、あるいは流され、もしくは歩き、丸まった背中に触れられる距離まで近寄る。

 濁った金色の髪をした乙女。スレイヴだ。こんな所で何をしている? どうして蹲っている? 手を伸ばして肩に触れようとすれば、憎悪の炎で焼かれたエイジの皮膚が、肉が、骨が炭化して崩れ散っていく。

 スレイヴだと思っていた濁った金髪はまるでメッキが剥がれ落ちていくように色を失っていく。否、真なる色を露わにする。

 純白。あらゆる色を受け入れるかのような白は同時に何にも染まらぬ絶対を示す。

 近寄る全てを塵も残さずに滅却する太陽のような暴力的な焔火。それ故に純白は周囲を焼き払って一切合切が凍てついた虚無の暗闇……明けない夜を生み出す。

 炭化していくエイジに、純白は立ち上がり、振り返る。そして――

 

 

 

 

「メシの時間だぜ、エイジちゃんよぉおおおおおおおおお♪」

 

 

 

 

 

 額に突き刺さった嘴が穴を開け、目覚めの出血は生温かくエイジを迎えた。

 ここは? そうだ。蟲毒の穴だ。血が抜ける額を押さえながら、エイジはぼんやりとした頭で思い返す。

 普段の憎悪の炎に焼かれる夢ではなかった。夢の最後には必ず『ユナ』がいて、エイジの弱さと愚かさを嘲うはずだからだ。

 ならば、先程の夢は? エイジは思い返そうとするが、徐々に輪郭がぼやけていく。だが、右手で握ったままのダーインスレイヴがまるで燃え上がっているかのように熱さが異様な喉の渇きをもたらす。

 ダーインスレイヴとリンクし過ぎた。ペイラーの記憶の二の舞は避けねばならないが、これを乗り越えなければ更なる『力』は得られない。エイジは震える左手を握り、食事を要求するノイジスを押しやりながら立ち上がる。

 氷水同然の小川で顔を洗う。濁った眼は疲労のせいか、憎悪のせいか、それとも先程の夢のせいか。

 

(邪剣が見せたものだとして、何だったんだ?)

 

 ノイジスのせいで夢は途切れたが、仮に見続けたとしても振り返った純白を直視する事は出来なかっただろう。自分の震える手がそれを物語っている。『アレ』を直視して意識を保てる程にエイジは成長できていない。自分の精神は耐えられない。

 得るべきは武力だけではない。何にも揺るがぬ精神力も備わってこその強者だ。ライドウは人間として下劣で邪悪であるが、揺るがない不動の精神を持ち、それ故に常に強さを発揮できる。あの男は死ぬ瞬間まで己を揺るがすことはなく、私欲に満ちた悪意に浸された自我を保つだろう。

 まだだ。まだ足りないのだ。エイジは呼吸を整えると雑穀米を啄む、不満を隠しもしないノイジスの視線に気付く。

 

「ハァ。古竜の末席としてアノールロンドに恐れられた俺様がこんな貧相なメシをどうして……」

 

「文句を言うな。食料を補給できるだけ恵まれてる」

 

 その気になれば岩に生した苔だろうと腐った木の皮だろうと食べられるのがDBOであるが、当然ながら衛生面が悪い食事はデバフが付く。特に疫病になった場合は死刑宣告されたも同然の弱体化だ。

 雑穀米は物資から買い上げたものだ。仏師にはコルか物々交換のどちらかでアイテムを得られるが、食料に関しては決して質が良いものではない。

 質の悪い食事にはデバフが、良い食事にはバフが付く。故に食事を軽視すればその分だけ死に至るのだが、何事もコストの計算である。

 

「せめて炊こうぜ。ホカホカのメシにしようぜ! なぁ、エイジちゃんよ~」

 

 駄々をこねるノイジスを無視し、エイジは雑穀米をそのまま貪る。サバイバルセットは持ち込んでいるのでその気になれば炊けるのだが、今は自分を引き締める戒めで敢えて食事を貧しく抑えている。

 ネームドを1体でも倒せば炊飯を許す。エイジが無言で雑穀米を頬張っていれば、鼻を擽るのは食欲をそそる濃厚な香りだ。

 

「俺様を……俺様を呼んでいる! 今すぐ飛んで行って愛してやるぜ!」

 

「ノイジス!」

 

 罠だったらどうする!? 竹林を飛び行くノイジスの後を追ったエイジが見つけたのは、石を重ねて作り上げられた窯であり、火にかけられた鉄製の鍋だった。

 鍋では白濁の液体が煮込まれ、魚肉や山菜が早く食べてくれと言わんばかりに浮かんでいる。

 

「うひょー! 美味そう! 周囲に人影無し! よーし!」

 

「良しじゃない。どう見ても誰かの食事だろう?」

 

 とは言っても、誰が作ったのかは大よそ見当がついているが。エイジは鍋に顔を突っ込もうとする無作法なノイジスを引き離し、周囲を探る。

 やはりか。まるで板のような岩盤を前に、胡坐を掻いているムライを見つけ、エイジは背後から忍び寄る。

 

「殺すなら最後にしろって言ったはずだぜ」

 

「……気づいてたのか」

 

「そりゃあんだけ騒いでいればな」

 

 忍び足がバレていたわけではないのか。エイジの睨みを避けたノイジスはムライの肩まで飛んでいくと興味深そうに岩盤を見上げる。

 

「こりゃ何だ? 何かの研究みたいだな」

 

「俺のライフワーク。ここに来た理由だ」

 

 ムライが撫でた岩盤には無数の用紙が釘で打ち付けられていた。それだけではない。記憶媒体のクリスタルもまた穴に埋め込んであり、岩盤に丁寧に数字が彫られて管理されている。

 

「これは……」

 

「VR・AR技術が行き着く社会の未来とDBOについての解析結果だ」

 

 ムライは煙草の代用だろう、木の皮を束ねたものを咥えながら岩盤を撫でる。

 

「解析なんて出来るのか?」

 

「普通は無理だ。だが、俺はいわゆる天才って奴でね。DBOにログインする前に、VRデバイスであるアミュスフィアⅢに改造を施しておいた。オリジナルOSを仕込んだ自作のソウル・トランスレーターを外付けしてな。データ送受信は別回線と自前の技術を利用してダイレクトに俺の脳で行われているから、DBO側がモニタリングするにはハードウェア……現実世界に残した体を弄るしかないだろうな」

 

「…………」

 

「ちょいと難しかったか? 詳しく説明するとだな、俺は既存のVR技術とは系統が異なるVR技術で自身のフラクトライトを介してDBOの情報解析と外部情報の入手を――」

 

「僕が気になったのは、どうしてわざわざそんなモノを仕込んでからDBOにログインしたのかって事だ」

 

「決まってるだろ。DBOがデスゲーム化するって分かってたからだ」

 

 あっさりと明かしたムライに、エイジは驚く程に衝撃は無かった。それはムライの達観した態度のせいか、それとも別の理由か。

 沈黙するエイジに、ムライは気が乗ったのか、昔話だと前置きをした上で語り始める。

 

「俺の夢は仮想世界を自分の手で実現する事だった。正確には親父にガキの頃から教え込まれて、親父が病気で寝たきりになってからは俺の夢になった。まぁ、それはどうでもいい。親父もオレに負けず劣らずの天才だが、世渡りが下手な頑固者でな。VRの基礎技術の実現にまで手をかけていながら資金と環境が全く足りなかった。で、俺は親父を反面教師にして、金と環境を手に入れて実用化まであと1歩まで扱ぎ付けた」

 

「凄いじゃないか」

 

「ああ、そうだ。あともう1歩だった。あと10年もあれば必ず実用化できるって確信を持てた時だった。茅場晶彦がナーヴギアを発表したのはな」

 

 純粋に賛辞したエイジとは反対にムライの声音は一切の感情の熱が宿っていなかった。

 

「奴が開発したVR技術は俺達が親子2代をかけて研究・開発したものを大きく上回る完成度だった。嫉妬の感情すら湧かなかった。俺は天才だが、奴はアインシュタインやノイマンと同じだ。たった1人で世界を変える大天才だった」

 

「…………」

 

「親父が自殺したのはソードアート・オンラインのベータテストが開始された日だった。自分たち親子が作り上げたVR技術の方が体感精度も拡張性も生産性も安全性も上だと思っていた……思い込みたかった親父は不出来を指摘する為にベータテストに参加して、呆気なく完敗を認めちまった。心が折れたんだ。それくらいにSAOは俺達が思い描いた以上の仮想世界を実現していた」

 

「そいつは……よく分からんが……ご愁傷様だな」

 

 ノイジスすらも慰めるが、ムライはそれこそ過去の事だとばかりに鼻を鳴らす。むしろ、自殺した父親に対する軽蔑すらも含まれている気がしたのはエイジの勘違いではないだろう。

 

「俺達の技術を100年かけて数多の天才と企業が洗練させても、茅場が生み出したVR技術には足下にも及ばない。いや、1つだけ勝ってる点があったな。安全性の1点だけは俺達の試作機の方がナーヴギアを上回っていた」

 

「ムライもSAOにいたのか? デスゲームに参加していたのか?」

 

「天下の茅場様のお陰で俺はお払い箱になっちまってね。研究室を引き払ってからも出資者とのゴタゴタがあって機会を逃しちまった」

 

 茅場晶彦は世界を変えた天才だ。だが、彼の登場以前からVR・AR技術の研究をしていた者達がいなかったわけではなかった。その1人がムライと彼の父親だったのだ。

 絶対的な才能の差。エイジは【黒の剣士】やライドウを思い返す。エイジがまともに張り合った所で絶対に勝つことは出来ない。それくらいは認めている。だからこそ、まともではない手段を選んで『力』を手に入れようと足掻いているのだから。

 ムライも自分と同じように負け犬だった。だが、ムライの目を見れば分かる。彼は諦めていない。茅場晶彦に先を越されてしまったが、別の情熱が彼を突き動かしているのだろう。彼もまた、まだ負けていないと這い進んでいるのだ。

 

「SAO事件を何故起こしたのか。奴がどんな理想を持っていたのか。そんな事はどうでもいい。俺の興味は別にあった。俺達が作り上げたVR技術は脳との情報通信と仮想世界上に構築したもう1つの肉体……アバターとの連動精度の低さ。これを解決する為に茅場が開発したVRデバイスは脳のシナプスとダイレクトに情報の送受信を行う技術を開発した。VRってのは、要は高精度に作り込まれた夢みたいなものだ」

 

「ああ、それは僕も聞いた事があるな」

 

 DBOは現実世界以上の質感を持った仮想世界とプレイヤーは認めている。むしろ、DBOから解放された日には現実世界の『精度』の低さによってどちらが現実世界だったか分からなくなるのではないかと危惧も攻略初期にはあった程だ。もちろん、現実世界の精度がDBOより劣っているのかと問われればそんな事があるはずもない。実際のところは、現実の肉体……すなわち、目、鼻、耳、舌、肌といった五感情報の受容・処理能力が劣るからこその体感精度の低さに繋がるのだ、と専門知識を持っていた幾人かのプレイヤーは説いていた。

 逆に言うならば、茅場が開発し、死後も世界中の技術者によって洗練され続けたVR技術は人間の脳に、人間が持つ五感器官以上の高精度で直接情報をやり取りさせているのだ。

 エイジがある程度の知識を持っていると見抜いたのだろう。無駄な説明は省けるとばかりに、ムライは少しだけ楽しそうに笑って見せた。

 

「人間の自意識と脳による身体制御を仮想世界上に構築したもう1つの肉体……アバターに投影させる。仮想世界の構築におけるコスト・精度も段違いだったが、俺としてはそれよりもハードウェア・ソフトウェアの双方を両立させた茅場の独自技術の方が興味の対象だった。極論になっちまうが、茅場が表舞台に立つ以前であっても、先進国が莫大な国家予算を組んでくれていれば、3年もあれば俺でもソードアート・オンラインと同等の仮想世界を構築する事は出来ただろう」

 

「大口……ではないみたいだな」

 

 ムライには確固たるこ根拠があっての発言なのだとエイジは把握する。まだ人となりを理解する程に交流を重ねても深めてもいないが、それでもこの男の語りには、VR技術者にして研究者としての捨てられない矜持、そして何よりも絶対に裏切られない好奇心……否、好奇の狂熱が宿っていたからだ。

 

「まぁ、茅場の奴は俺のそんな目算さえも覆した天才だったんだがな。なにせ、奴の作った技術はVR開発を極度に低コスト化するものでもあった。お前、従来のコントローラーゲーム……たかだか光学ディスク1枚っていう記憶媒体に収まる大作ゲームに、どれだけの人と金と時間を注ぎ込んでたか知ってるか? 数十億だ。だが、茅場が遺した技術を解析し、個人ですら運用できるようにINC財団がパッケージ化したザ・シードを見ろ。数十億をかけても届かなかかったはずのVRゲームの開発を、個人が高性能パソコンを持っているだけで出来ちまうようになっちまったんだ」

 

「言い過ぎじゃないか?」

 

「そうだな。誇張してる部分はある。同人サークルで作れるVRなんて仮想空間体積も精度も限界がある。だが、ハッキリと言えるぜ。従来のゲームエンジンすらも纏めて骨董品に変えちまったんだよ。コイツのせいで、VRゲーム以外のゲーム開発にも産業革命クラスの変化が起きた。酷い話だぜ。それまではもてはやされていたゲームエンジンの数々が即日でお払い箱になっちまったんだからな」

 

 1人の天才が一切合切を過去の遺物に変えてしまう。それは人類史において稀ではあっても確かにあった事だ。そして、大天才に及ばなかった天才、努力を重ねて這い上がっていた凡才は等しく膝を屈するしかなかった。

 どれだけの技術者が折れたプライドに負けてムライの父親と同じように自らの手で命を終わらせたのだろうか。どれだけの人がムライと同じように職を追われて路頭に迷い、家庭を崩壊させたのだろうか。無論、VR・AR技術の世界的な広がりを考えれば、最前線において即戦力になれるだろう彼らが再び重宝されたのは間違いないだろうが、決して少なくない人生が狂わされたはずだ。

 だが、それは考えてもしょうがない事である。たった1人の大天才に、それ以外の天才と数多の凡才は及ばなかった。たとえ、企業・国家・言語の垣根を超えて団結したとしても茅場晶彦には勝てなかっただろう。それだけの事なのだ。残酷なまでに才能が違い過ぎたのだ。そう思ったエイジは自然と拳を握る。

 

「今ならば、ゲームシステムの出来栄えやオブジェクトデザイン・世界観といったセンスが関係する部分を除けば、SAOと同程度の空間体積と精度を持ったVRは中堅のスタジオでも1年あれば作れる。資本力と技術者をがっちり持ってる大手なら言うまでもなく超える。それが現実って奴さ」

 

「世知辛いんだな」

 

「まぁな。だが、俺の興味はそこじゃなかった。仮想世界をあらゆる面で低コストで開発できるようにした茅場の真骨頂はそこじゃない。人間の五感器官と同等まで引き上げられたナーヴギア、その発展型の数々は上回り、DBOに採用されたアミュスフィアⅢや軍用VRデバイスは現実以上の質感を約束した。だが、どれだけ形を変え、小型化されていようとも、原点は変わらない。茅場が作り上げたフルダイヴとは、高精度素子によって脳と情報通信を行うが、その際に特異な電界を脳内に形成するのが肝になってる」

 

「どういう事だ?」

 

「つまりはVRデバイスで構成された電界によって脳にもう1つ脳を重ねて作ってるようなものさ。考えるまでもなく情報通信速度も精度も『無線通信』程度でしか考えてなかった俺達親子とは桁違いってもんさ。だが、今度は別の問題が生じた。脳の中にVR情報通信用の電界を構築して高精度高速情報通信を可能とした代償として、人間様の脳は拒絶反応を示すようになった。そりゃそうだ。人間様の脳は数億年かけて進化し続けた地球上生物の中でもダントツの知能を有する上に、脳なんてまだまだブラックボックスの塊だ」

 

「茅場が作り上げたVR情報送受信技術と人間の脳はアンマッチだった」

 

「そういう事だ。言うなれば、異なるOS同士で動いてるパソコンを強引に接続して、共同で超精密動作を可能とするロボットを動かそうってもんなんだからな。そりゃ上手くいくわけがねぇよ。それこそが精神負荷……茅場が禁忌としたVR技術の闇だ。強引にVR情報を脳で処理しようとすれば、致命的な負荷がかかって、即廃人になるって噂だ。茅場は倫理観がぶっ壊れた奴だったが、VR技術開発中はそれを隠してた。奴は自分を試作ナーヴギアの実験第1号にしたことで即座にこの危険性を看破したのさ」

 

 だが、こうして茅場が生み出したVR技術は蔓延し、誰もが享受できる環境が出来上がっている。つまりは、茅場という天才は最大の問題点と思われた精神負荷すらもクリアする方法を編み出したという事だ。エイジは知識を洗い出し、そして思い至る。

 

「運動アルゴリズム。仮想世界における神経系か」

 

「そうだ。コイツは本当にふざけた代物でよ、精神負荷をチャラにするだけじゃなくて、五感情報のやり取りから何から何まで一括化してくれるのさ。結果論だが、ハードウェアが構築する電界への適応と運動アルゴリズムとの同調……この2つを数値化してランク付けしたものがVR適性さ」

 

「……難しいな」

 

「まぁ、細かい専門的な話はすっ飛ばしてるからな。本格的に講義するとなると、オマエは呑み込みが早いから……まぁ、3年もあれば『基礎』は身に付くが、どうする?」

 

「遠慮しておく。僕の目的には不要だ」

 

 興味は湧いたが、たとえ30倍の時間加速であるとしても3年は浪費である。また、その間もじわじわと疲労が蓄積すると考慮すれば選択肢にも入らなかった。

 

「運動アルゴリズム。美しかった。ダ・ヴィンチの最後の晩餐を初めて生で見た時と同じ興奮があった。分かるか? 運動アルゴリズムは単純に人間の脳と仮想世界の架け橋になってるだけじゃねぇんだよ。コイツさえあれば、舞う蝶も、泳ぐ魚も、駆ける犬も、幻想でしかなかったドラゴンも、不定形のスライムさえも、等しく『運動』を可能にしちまうんだ」

 

「それって凄い事なのか? 蝶も魚も生まれた時から飛び方も泳ぎ方も知ってるだろ?」

 

 DBOに対してメタ視点を持たないノイジスはまるで話についていけていなかったが、ここぞとばかりにムライに質問する。

 

「当たり前だろ! ちょっとしたロボットを歩かせるだけにどれだけの演算とプログラムが必要だと思ってやがる!? 茅場のVR世界は現実世界と同じように様々な物理法則がエンジンとして組み込まれてるんだぞ!? 誤魔化しは通じねぇんだよ! それを一挙に解決したのが運動アルゴリズムだ!」

 

「ぐ、グぇ……! くるし……!」

 

 ノイジスの首を掴み、興奮して振り回したムライは彼を放り捨てたかと思えば、恍惚とした表情で岩盤を撫でる。

 

「俺はすぐに理解した。運動アルゴリズムは単にフルダイブの為だけに開発されたわけではないのだと。それから俺はありとあらゆる手段で知識と技術を集積した。茅場が研究していたフラクトライトにも行き着いた。奴がナーヴギアの開発と並行して設計した試作のソウル・トランスレータ―にも直に触れた!」

 

 唾液をまき散らしながら振り返ったムライは、無表情のエイジに嬉々と迫る。

 

「フラクトライト! VRデバイスが生み出す特殊電界! 運動アルゴリズム! 現実世界以上の質感を有した仮想世界! 全ては1本に繋がっている! そもそもだ! 茅場がどれだけの大天才だったとしても、奴は一般家庭の出身だ! 奴の出資元は? 技術提携は? 開発環境は!? ナーヴギアの安全保証認定クリアと生産ラインは!? 市場流通は!? 広告戦略は!? 何もかもが『出来過ぎてる』んだよ!」

 

 まるで好奇心の臨界点に到達したように、ムライは血走った眼を瞼で1度隠し、元の何を考えてるかも分からない飄々とした笑みに戻る。

 

「全ては出来レースだ。SAO事件は茅場の単独犯じゃない。強力なバックがいる。それこそ政界・財界・マスコミ……ありとあらやる分野にとんでもねぇ影響力を持った組織がな。SAO事件は茅場晶彦によって引き起こされた。だが、あれは黒幕にとって始まりですらない『テスト』だった。そして、合格ラインに達したからこそ、VR・AR技術が蔓延し、フラクトライト研究も勢いを増したタイミングで、DBO事件を引き起こした」

 

「茅場の後継者は、最初から茅場晶彦とグルだった。そういう事か」

 

「だろうな。DBOのデスゲーム化時のアナウンス……喋ってた野郎が代表なのかどうかは分からねぇが、奴は正しく茅場の生み出したVR技術を正当に引き継ぎで進化させた本物の後継者だ。俺は直に指導を受けた直系の弟子だと推測してる。だが、そんな事は『どうでもいい』んだよ。俺はDBOの告知を見てすぐに見抜いた。またSAOと同じ事が起きるとな。だから手抜かりしなかった。デスゲーム化後も肉体を警察に確保されないように環境を整え、自作のOSを組んだハッキング対策済みのソウル・トランスレータ―を接続した」

 

「どうして、そこまでする必要があったんだ?」

 

「警察によって初期ロットのナーヴギアは全て回収された。もちろん、隠し持ってる奴は何人もいたがな。俺もその1人だ。初期生産のナーヴギアを徹底的に解析し、ハッキングして得たナーヴギアの設計図と比較し、徹底的に調査した。そして、ナーヴギアの補助バッテリーの1つが別の装置だと見抜いた。だが、それも俺だからこそだな。なにせ、電流が通っていない状態だと瞬く間に劣化し、その正体が分からなくなる」

 

 ムライは再び燃え上がった興奮を抑えるようにして白衣のポケットからグシャグシャの煙草の紙箱を取り出し、震える手で1本を取り出すが、我慢するように首を何度も横に振った後に戻し入れる。

 

「アレは人間の脳から抽出されたフラクトライトの保管装置だ。コピーじゃねぇぞ。抽出だ。ナーヴギアは過剰な電力供給によって高出力状態になると電子レンジみたいに脳を焼くが、同時に特異な電界は脳にあるフラクトライトを1度分解し、ナーヴギアに引き寄せて回収、そして補助バッテリーに偽装された記憶媒体に保管される仕組みになっていた。コレが分かった時にドン引きしたぜ。なにせ、試算したナーヴギアの適正価格は、設定定価を軽く500倍も超えてたんだからな。オーバーテクノロジーの塊だ」

 

 自分が壮大な計画に巻き込まれていた。ユナに……悠那に告白する為に彼女をSAOに誘った自分が矮小に思える程に、SAOの裏には巨大な闇が潜んでいたのだ。エイジは一呼吸でそれを噛み締める。

 だが、『どうでもいい』のだ。だから何だというのだ? エイジは唾棄する。茅場晶彦と後継者、VR技術が絡んだ全貌も見えぬ計画があったとしても、自分が歩んだ道のりと結果は変わらない。

 己の弱さと愚かさで悠那も『ユナ』も殺してしまった。弱肉強食。弱きは死に、強きは生きる。強者は弱者を踏み躙るという理屈は不変だ。ならばこそ、もっと『力』が必要なのだ。

 

「ナーヴギアは回収後に破棄されて証拠隠滅。肝心の抽出したフラクトライトの保管装置も電源オフで自然劣化し、事件後に改めて解析したくても出来ない。警察はもちろんグルだ。死亡した被害者からナーヴギアを回収し、保管装置だけを抜き取って回収しないといけないからな。本物の補助バッテリーと取り換えちまえば、もう手がかりはない」

 

「だから、警察にDBOログイン中も身柄が渡らないようにした」

 

「そうだ。そして、今回のDBOではよりフラクトライトの真価を問う試みがあると俺は踏んだ。だから自作のソウル・トランスレータ―で、自分のフラクトライトの状態もモニタリングできるようにしてあるのさ。これが当たりだ。面白いデータが山ほど取れた。だが、残念なのは俺自身は茅場や後継者が想定した『才能』を持っていなかった点だろうな」

 

 ようやく落ち着いたのだろう。ムライは腰を下ろして胡坐を掻き、ピクピクと痙攣するノイジスの腹を指で撫でた。

 

「……俺は無理をし過ぎた。俺の脳は自分が思ってるよりも貧弱だった。アミュスフィアⅢが生み出す特異電界と自作ソウル・トランスレータ―の負荷、更には脳自体で行われるハッキング対策。酷使し過ぎた」

 

「だから、蟲毒の穴に?」

 

「ああ。時間加速の負荷は大きいが、それでもジッとしてる分には負荷は少なく済むし、プレイヤーに殺されるリスクも抑えられるし、何よりも思考の時間が増える。現実世界の最新の研究も脳にどんどん流れてくるから、ソイツらを吟味するには、体感・思考時間の方が優先だ。俺はDBOを内部から観測して得たデータと現実世界で頑張る大天才に及ばなかった天才たちの研究結果を使って、必ずたどり着く。茅場がVR技術に遺した真理……誰にも解き明かせなかったブラックボックス……運動アルゴリズムの真実にな」

 

「…………」

 

「悪いな。無駄話に付き合わせた。俺の悪い癖だ。自分を知ってもらいたくなるんだ。大天才に足掻いた爪痕を……知ってもらいたくてな」

 

 ムライは黙って岩盤を見つめたまま、エイジに振り返ることはなかった。彼の言葉通りならば、脳に次々と流れてくる外部からの情報と自身が会得したDBOとフラクトライトの情報処理に没頭しているのだろう。言うなれば、ムライの脳自体が彼の研究室と化しているのだ。

 エイジにはムライの情熱は理解できない。だが、彼には時間が必要であり、故にエイジをいずれは拒む存在になるのだろうと予見できた。

 ならば歯向かわれる前に殺すべきだろうか。いいや、必要ないだろう。ムライはエイジが想像しているよりもずっと時間が無いのだ。そして、彼は彼でそれを自覚するからこそ、エイジの蟲毒の穴のクリアをタイムリミットと定めて己を追い込んでいるのだ。

 

「ほへー。研究者って奴はどいつもこいつもクレイジーだねぇ。俺様にはまるで理解できないぜ」

 

「僕もだ。だが……」

 

 這う芋虫にはそれくらいの狂気が無ければ、空を飛ぶ鷹には……いいや、竜には届かないのだ。エイジは断言する。自分は『力』を追い求めているが、それはムライが運動アルゴリズムの真理を暴かんとする情熱に……狂熱に比べれば余りにも生温いのだ。

 更に追い込まねばならない。エイジは決意を新たにして仏師が居座る荒れ寺に行き、優しい顔の仏像から記憶の世界に転移する。

 蟲毒の穴に来てから既に体感30日が経過した。エイジは【蟲毒融合】と≪瑠璃火≫について大よそのコツを掴んでいた。

 他の能力と組み合わせられる【蟲毒融合】であるが、肝心要のダーインスレイヴに登録された能力同士を組み合わせることは出来ないという欠陥がまず浮き彫りになった。【つらぬきの刃】と【毒手】を組み合わせることができれば、刺突攻撃ではなく手刀で【つらぬきの刃】を使用できるのではないかというエイジの期待は木端微塵に砕けた。

 どうやら【蟲毒融合】はエイジ自身が保有するスキルや装備能力とダーインスレイヴに登録された能力を融合させるものだった。これにはエイジも落胆したが、考え方1つで運用が大きく変わる。瑠璃火に限定すれば、登録された能力ならば何でも融合できるからだ。

 また、大きな利点として、【蟲毒融合】によって他の異なる能力同士を融合させることは出来ないが、【蟲毒融合】自体に他の能力を組み合わせることは出来る。

 

「ヒャッハー! 行くぜぇえええええええええ!」

 

 すなわち、ノイジスの強化だ。エイジは記憶世界の1つ……通称<落ち谷>にて、次々と現れる鉄砲衆に向かって、左腕をカタパルトに見立ててノイジスを止まらせると突撃させる。

 ノイジスは膨大なソウルを……【つらぬきの刃】を纏い、5人もいた鉄砲衆を文字通り貫き通す。その破壊力は【つらぬきの刃】にこそ劣るが、ノイジス自身が超スピードで突進する為に射程は段違いである。

 剥き出しの岩肌と1歩踏み間違えれば即死確定の谷、そして凍えるような吹雪。見渡す限りに雪の白と岩の灰色しかない世界に登場するのは、顔を包帯で覆い、鑿で防護した【落ち谷の鉄砲衆】だ。彼らが装備するのは火縄銃ですらない、俗に火矢とも呼ばれる銃の原型のような火器なのであるが、その威力と精度は凄まじく、吹雪で視認できない遥か遠方からも高火力で狙撃を可能とする。

 それが1体や2体ではなく、何十体と徒党を組んで守られているのが落ち谷の鉄砲砦だ。だが、砦を渡る為の吊り橋はいずれも不安定であり、また集中砲火に晒される。突破は容易ではなく、仮に砦に辿り着いたとしてもまともな道すらない岩場において、常に上を取った鉄砲衆の銃撃に襲われる事になる。

 また、特に強敵なのが複数の鉄筒を縄で縛った、これまた原始的とも呼ぶべき散弾銃を扱う大柄の鉄砲衆だ。攻撃中はいわゆるスーパーアーマー状態でいかなる攻撃でも怯まず、なおかつ射程を除けば、威力・衝撃が強化されている散弾を放つ。仮にフルヒットすれば、エイジのHPは瞬く間に吹き飛ぶだろう。

 

「やっぱり無理だぜ。忍んで侵入するしかねぇよ」

 

 これまで砦に侵入できたのは7回。その内の最初の2回は死にかけてノイジスに引っ張られながら脱出することになった。

 エイジは鉄砲砦に続く吊り橋を岩陰から睨みながら、暖かそうな羽毛で覆われたノイジスを肩に乗せている。ノイジスの言う通り、正攻法で突破するのは難しいだろう。だが、侵入経路が吊り橋以外になく、どうやっても鉄砲衆に発見されてしまうのだ。 

 

「≪気配遮断≫も効果が無かった。吹雪いてるのに確実にこちらを捕捉される。奴らの視覚には隠密ボーナスを無効化する能力があると見て間違いないだろうな」

 

「エイジちゃんの言う隠密ボーナスとか何とかってのはイマイチ理解できねぇが、それがこの世の理屈だって言うなら仕方ねぇさ。だがよ、理屈が分かってるからこそ、正面突破は無理だって分かってんだろ?」

 

 これまでのエイジの突破方法はただ1つ、吹雪の向こう側から飛んでくる銃弾を全て弾くというものだ。吹雪の中でも視覚警告は有効であり、視界の限りであるならば、大よその銃撃の方向は読める。だが、何せ数が数である。突破する頃には全身が穴だらけであり、HPも2割を切っている。そこから更に回復アイテムも消耗していけば、エイジの物資は順調に削られていくばかりだった。

 唯一の救いがあるとするならば、落ち谷とローテーションしている、孤影衆が登場する城では、HPを10秒かけて3割回復させる丸薬がそこそこの割合でドロップする事だろう。入手方法は孤影衆と敵対している、髷を結ったサムライを倒す事で得られる。剣戟は激しいが、突きを見切れば大きな隙を作ることが出来る事からも孤影衆に比べて段違いに倒し易かった。

 

「他に手段があるのか? 僕にはお前みたいな翼が無い」

 

「俺様もこの吹雪の中は自由に飛べねぇな」 

 

 そもそもとして、ノイジスの飛行範囲も限定されている。エイジから半径100メートル以上を超えて離れると飛行能力が極端に落ちてしまうのだ。

 ノイジスは実体とソウル体を使い分けることが出来る。実体の時は攻撃を受ければダメージを受けるが、ソウル体の時は白霊や闇霊とは違い、まるで幻のように攻撃が擦り抜けてダメージを受けない。ただし、実体でもソウル体でも障害物を透過することは出来ない。

 基本はソウル体で同伴してもらい、必要な場面では実体化してもらうというのがノイジスの運用方法だ。ノイジス自体の攻撃力は決して高くないが、竜種ならではのタフさは折り紙付きである。

 ノイジスも【蟲毒融合】の影響で瑠璃火を使用できるが、瑠璃火ブレスは火力も射程も低く、エイジと形代は共有している為に使用させる場面は稀だ。逆に言えば、ノイジスが敵を倒せば形代を回復できるために、ダーインスレイヴの間合い外に逃げようとした時はノイジスに追撃を仕掛けさせてもらうのが主な実体攻撃の運用だ。

 

「……っと! お喋りはここまでだ! 新手が来たぜ!」

 

 巡回する鉄砲衆から銃撃され、エイジの頬を霞める。隠密ボーナスを無効化する目はやはり脅威だ。エイジは鉄砲衆が非ネームドである事を惜しむ。仮にネームドであったならば、ダーインスレイヴでラーニングできるかもしれないからだ。

 数が多い! 四方八方からの銃撃を弾けるだけ弾き、雪で足を取られながらもエイジは大きく跳んで距離を取る。

 

「エイジちゃん、『アレ』をやるぞ!」

 

 タイミングとしては悪くない。逃げるエイジが遮蔽物の無い方向に逃げると見ると鉄砲衆は迅速に隊列を組んだからだ。横2列に並んだ鉄砲衆は全部で16人。【つらぬきの刃】をノイジスに融合させた【竜光突撃】は貫通力重視であり、横幅に広い隊列では倒しきれない。

 ならばとエイジは左手の掌に止まったノイジスに瑠璃火を宿す。ソウル体のノイジスはまるで構成するソウルに着火したかのように瑠璃火で燃え上がる。

 大きく振りかぶり、まるで投擲するようにしてノイジスを放つ。何倍にも膨れ上がった瑠璃火は竜とも猛禽とも思える姿を取り、鉄砲衆に突撃する。これを迎え撃つべく鉄砲衆は銃撃するが、等しく瑠璃火によって阻まれ、纏めて瑠璃火の竜禽によって薙ぎ払われる。

 残ったのは瑠璃火の残り火が燃える遺体だけだ。エイジは銃撃を受けた腹を押さえ、出血量に顔を顰める。

 ノイジスがもたらす竜種の回復力のお陰か、オートヒーリングもあるが、アバターの修復速度も高まっている。命拾いはしているが、恩恵をもたらす相手が相手だけに渋い表情にもなるのだ。

 

「やれやれ。俺様のお陰で『また』窮地を脱したな」

 

「今回もお前の声が大き過ぎるせいで『また』バレたんじゃないか?」

 

 ノイジスの嫌味にエイジも返せば、何故か嬉しそうに竜禽は喉を鳴らした。エイジは溜め息を吐き、ひとまず撤退すべきだと鬼仏で祈る。

 

「お前さんも存外に諦めが悪い」

 

 荒れ寺では仏師が相変わらず飽きもせずに仏像を彫っていた。NPCなのだから定まったルーチンを繰り返すのは当然であるが、『ユナ』を知るエイジには彼がただのNPCであると断じることは出来なかった。

 

「武器の整備を頼む」

 

「……フン」

 

 仏師はダーインスレイヴを預かって修理する。NPC鍛冶屋ではトップクラスの修理スピードである。その手際にはエイジも感服した。

 

「何か使えるアイテ……道具は他にないでしょうか?」

 

「無理な相談じゃ。ここは蟲毒の穴。行商人が足を運ぶわけでもあるまいて。素材さえあれば加工くらいはしてやれるがな」

 

「ですが、仏師殿は雑穀米など尽きることなくお持ちのご様子。補充できる心当たりがあるのでは?」

 

 NPCに何処から仕入れているかなど聞くのは無粋にも程があるが、こうした会話も思わぬフラグを立てて販売アイテムが増える事がある……と、エリートプレイヤー養成時代に学んでいる。エイジの問いに仏師はしばし仏像を彫る手を止める。

 

「ここは落ちた者の無数の記憶で出来ておる。そのほとんどは記憶の主の支配下……言うなれば腹の中じゃ。記憶の遺物であるならば、想い尽きぬ限りは幾らでも湧く。そういうものじゃ」

 

「つまり、米も鉄屑も、目に見えずとも、聞こえずとも、触れられずとも、誰かの想いが残っている証拠である……と」

 

「小賢しい物言いじゃな。そんな大層なものじゃなかろうに。誰かの心残り……その程度のものだ」

 

 フラグは立たないか。いや、待て。エイジはアイテムストレージを探り、そして実体化する。

 

「仏師殿は仏の道を志す者。ですが、時には手を止めて『茶』でも如何ですか?」

 

「あ、エイジちゃん! 待て! それは俺様がいつか頂こうと――」

 

 黙れ。エイジは全力のチョップで、省エネ形態となって実体化したノイジスの頭頂部を打つ。ノックダウンしたノイジスはひっくり返って目を回した。

 

「……ほーう。美味そうな『茶』じゃ。是非ともいただこう」

 

 エイジが取り出したのは孤影衆の記憶で入手した【隠し酒】だ。黒い焼き物の徳利であり、名前の通りに酒である。サムライたちが頻繁に巡回している侍り所で棚を探っているとランダムドロップするアイテムである。恐らくはサムライの誰かが他に飲まれぬように隠した酒という位置付けなのだろう。

 エイジも酒は嗜むが、睡眠薬という意味が大きい。悠那が死んでから現実世界に帰還した後もあれこれ試した名残だ。故に酒の味など欠片も学んでいない。

 仏師は床板の隙間から使い込んだ御猪口を取り出すと酒を注いで飲む。表情は仏師らしく仏頂面で愛嬌もなかったが、心なしか喜んでいるように思えた。

 

「……染みる」

 

「それは良かった」

 

「お前さんの『茶』じゃ。どれ、貸してやろう」

 

 仏師は御猪口をエイジに差し出す。

 再び落ち谷に挑むつもりだったのだが、仕方ない。エイジは正座をして頭を下げながら仏師の酌を受ける。

 

(日本酒……清酒か?)

 

 エイジは舌に広がる安っぽくも親しみを覚えられる味わいに見当をつける。これが仏師の好みであるならば、見つけ次第に酒は積極的に渡せばアイテムの品揃えが変わるかもしれないと冷たい思惑を組み立てる。

 

「仏師殿はこういった酒――」

 

「…………」

 

「失礼。『茶』がお好みで?」

 

「儂は生まれも育ちも卑しくてな。味など分からん。美味ければそれでいい」

 

「確かに。それこそ真理ですね」

 

「その小賢しい物言いは癪に障る。目上を立てるのは世の理じゃが、儂は世捨て人だ」

 

 エイジは御猪口を返し、仏師に酌をする。だが、足は崩して胡坐を掻いた。

 

「お前さん、どうやら苦労してるようじゃな」

 

「……ああ。金箔だらけの悪趣味な城はともかく、落ち谷は吹雪と地形のせいでなかなか突破できない」

 

「ほう、落ち谷か。懐かしい名だ」

 

 心当たりがあるのか、仏師は喉を鳴らして酒を飲めば、アルコール臭が混じった吐息を漏らす。

 

「鉄砲砦を越えれば、菩薩谷があるはずじゃ。そこは人の武技や道具の扱いを知る猿の巣窟。道らしい道も無い。忍びの業がなければ進むなど無謀というもの」

 

「ご存じなので……いや、知ってるのか?」

 

「昔に……な」

 

 仏師は深い吐息と共に瞼を閉ざす。それは過去の逡巡なのだろう。エイジは黙って空になった御猪口に酒を注ぐ。

 

「さすがはジジイ! 皺の数だけ歴史があるんだな! まっ、俺様ほどじゃねぇがな!」

 

 だが、復活したノイジスが御猪口に嘴を差し入れる。エイジは睨んで払い除けようとするが、仏師は構わんと許した。

 

「もしもお前さんが落ち谷の奥地を目指すならば、忍びの体術があれば幾らか助けになろう。見れば分かる。お前さんも地に足をつけぬ戦いには慣れておろう」

 

 その通りだ。エイジはスピードを重視した速攻を得意とし、足をしっかりと地に付けた強力な斬撃を繰り出すスタイルではなく、アクロバティックな動きをして連撃を叩き込むタイプだ。今はそれに攻性防御である弾きを加えている。今では空中弾きも慣れたものである。

 

「分かるものなのか?」

 

 だが、エイジが驚いたのは仏師が見せたことも無い戦闘スタイルを容易く見抜いた点だった。NPCとしてエイジの戦闘データを有する事が出来るのかとも考えたが、ステータスやスキルを除けばNPCのフラグ管理には関係ない傾向があるDBOならば、仏師自体の目が優れているのだろう。

 

「歩き方1つで多くを語るというものだ。百戦錬磨の達人を殺すならば、武を知らぬ生娘こそが良い。せいぜい気を付けな」

 

「アん? どういう意味だ?」

 

 仏師の御猪口から酒の1滴まで舐め取っている恥晒しのノイジスに、エイジは侮蔑の眼差しを向けながら嘆息する。

 

「分からないなら口を挟むな」

 

「ほーう! 言うじゃねぇか! 俺様がいなければ、鉄砲砦で何度命を落としてると思ってやがる!?」

 

「28回」

 

「お、おう……!?」

 

「間違ってたか? どうなんだ?」

 

「えーと……えーと……答えは後程! 今は酒の時間だい!」

 

 自分の失敗を反省するのは強くなる近道だ。ノイジスの口煩さや騒がしさ、不作法は苛立つが、それを差し引いても彼がもたらす恩恵には助けられているとエイジは認めている。

 

「……鉤縄」

 

「え?」

 

「鉤縄を自在に操ることが出来れば、落ち谷を進むことが出来よう。儂の知る通りの鉄砲砦ならば、鉄砲衆の目を避ける事も出来るはずじゃ」

 

 鉤縄か。それは考えた事が無かった。エイジは考え込む。持ち込んでいるロープとナイフを組み合わせれば簡易的なものは作れるだろうが、そんな付け焼刃にもならない粗製では落ち谷を突破する以前の修練すらままならない。

 

「仏師殿が作ってくれるのか?」

 

「……儂より適任がおろう」

 

 他に誰がいるというのだ? 眉を顰めたエイジは、だが床板を鳴らして荒れ寺に踏み込んでくる人物を指しているのだろうと悟る。

 

「おいおい! 酒を見つけたら俺にも寄越せって約束だろ!?」

 

 ムライだ。先程までの研究者の狂貌など何処かに吹き飛んでしまったのか、瑠璃火の扱いを教えた時の約束を忘れたのかと怒りを露わにしている。

 

「どうしてここに?」

 

「酒のニオイがした!」

 

 そんな馬鹿な。ここからムライの研究所(仮)までどれだけ離れていると思っているのだ。エイジはそうツッコミを入れそうになるが、あり得ないことも無いかと考えを改める。

 DBOではよくあることだ。五感情報を異様に判別・獲得する。もちろん、これにはVR適性も関係する。高いVR適性者程により精密に五感情報を収集しやすい。視覚はさすがに有効視界距離が設定されているが、その範囲内で高精度に目視できるかはVR適性が大きく影響している。

 料理人は味覚・嗅覚が特に秀でている者が多い。それは人間が……いや、生物が自然と持つ自己強化能力の発露なのかもしれなかった。浮気したカレシの居場所を嗅覚で探り当てたカノジョ……という怪談がある程なのだ。

 

「酒の全部をムライに渡すとは約束していない」

 

「屁理屈だ! 俺の酒!」

 

「……まったく、賑やかなもんだ」

 

 仏師が御猪口を貸せば、ムライは1滴も零すものかと目を見開きながら震える手で口に流し込む。

 

「かー! 美味い! もう1杯!」

 

「ま、待て! 俺様も! 俺様も!」

 

「おうおう! そうだな! 酒は皆で飲んだ方が美味い! だろう? 仏師殿! エイジ!」

 

 あっという間に上機嫌になったムライであるが、さすがに酒が足りなくなる。エイジは1杯しかもらっていないとはいえ、仏師、ムライ、ノイジスが十分に飲める量があるはずもなかった。

 無くなった酒を求めて徳利をひっくり返し、垂れる雫を舌で迎えるムライに、エイジは頬杖をつく。

 

「仏師殿、本当にコイツが?」

 

「腕は儂に及ばんが、設計には目を見張るものがある」

 

 物言いからして実績があるのだろう。ならば信じてみるのも一興である。そう判断したエイジは酒を求めて駄々をこねる子どものように転がるムライの顔面にダーインスレイヴを突き立てる。

 

「お、おい。あと1ミリで鼻が削げてたぞ……!」

 

「約束を改めよう。これから酒を手に入れたら必ずムライに連絡する。その代わり、僕の為に各種設計をお願いしたい」

 

「お前、本当に利用できるものは何でも利用するんだな。呆れを通り越して感動するぜ」

 

 ムライは起き上がり、エイジから話を聞くと無精髭を撫でた。

 

「鉤縄ねぇ。お前、≪鞭≫は持ってるか?」

 

「いや、持ってない。やっぱり持っていた方が有利か?」

 

「どうだろうな。武器スキルが無ければボーナスが付かず、ソードスキルが使えないだけだからな。単に使用するだけなら問題ない。強度とか性能をクリアする為には武器として運用すべきだと思ってな」

 

「僕としてはアイテムとして利用したい。武器枠が2つしかないんだ」

 

 エイジのレベルは99だ。蟲毒の穴ではモンスターを倒しても経験値もコルも得られないが、代わりに瑠璃火の残火を得られる。これを鬼仏にて使用する事によって様々な恩恵を得られる仕組みだ。それは経験値であったり、コルであったり、一時的なバフであった。他にもロックされている交換があり、それはネームドを撃破する毎に解放されるのだろうと予測していた。だが、問題なのは瑠璃火の残火による交換レートが上がっている点だった。

 これは時間加速下において極端な経験値稼ぎを禁止する為の処置だろうとエイジは推測している。DBOではEXPキャップがあり、同じモンスターから得られる経験値は徐々に減少してくが、倒し続ける限りは最低値でも得られる。それを許せば、蟲毒の穴では理論上通常の30倍の効率でレベリングが出来る事になるからだ。コルも同様だろう。

 エイジの現状の瑠璃火の残火の稼ぎと交換レートを計算すれば、あと3日もあればレベル100に到達するだろう。

 

「使い捨てでも構わない。何とかならないか?」

 

 エイジが思い出したのは【渡り鳥】がラストサンクチュアリ壊滅戦で披露した、袖から取り出していたワイヤー付きナイフだ。エイジが説明をすれば、ムライは鼻を鳴らす。

 

「無理だ。聞いた限りでも、ワイヤーの強度・供給・接続を成立させる特殊な素材が使われてる。それにナイフにもギミック付きとなると1本当たりのコストはとんでもねぇ額だ。素材も資金も足りない尽くしだな」

 

「やっぱりユニークソウルか」

 

「ああ。ワイヤー……糸や縄に関係するユニークソウルだろうな。何よりもナイフホルダーを手首に仕込むだけの小型化。俺には無理だ」

 

 仏師のお墨付きだが、HENTAI鍛冶屋には遠く及ばないか。エイジは諦めようとするが、話は終わっていないとムライは口元を歪める。

 

「だが、鉤縄くらいなら俺でもなんとかなる。問題は素材と工房設備だな。仏師殿には設計図さえ渡せば大抵のものを作ってもらえるが、質は良いと言えねぇからな。まぁ、種火無しでろくに工房設備も無いボロ寺だから仕方ねぇか」

 

「……フン。好き放題に言いおって」

 

 隙間風も酷い荒れ寺であるが、ムライの言い様には気分が悪いのだろう。一瞬であるが、仏師の仏像を彫る音が荒くなる。

 

「鉤縄の縄はともかく、鉤を作る鋼には欠かねぇぜ! 鉄砲砦には質の良い鉱石のニオイがしたからな!」

 

「……その鉄砲砦を攻略する為に鉤縄がいるんだ」

 

 鉤縄の素材を手に入れる為に鉄砲砦を攻略するのでは本末転倒だ。エイジの指摘にノイジスも唸り声をあげて悩む。

 

「他のステージを攻略する……ってのはどうだ? 未探索が他に3つあるんだろ?」

 

 ムライの提案にエイジは良い顔をしなかった。

 般若の面、刃の破片、そしてからすの羽。この内で先が分かっているのはからすの羽だけであり、残りは帰って来た者もいない。故にエイジも後回しにしていたのだ。

 仮に鉤縄の素材を手に入れるならば、からすの羽は除外だろう。霧の濃い森でネームド戦だけだ。

 悪趣味な黄金の城でも入手できる確率はある。だが、サムライや忍犬だけではなく、ネームドではない孤影衆も徘徊しているのだ。モブ扱いの孤影衆はネームド孤影衆とほぼ同性能である。違うのはHP総量と毒手といった特殊攻撃の範囲・攻撃力くらいである。それが時として3、4体の数の暴力で襲い掛かってくるのだ。決して難易度は低くない。また、前回HPバーを1本削って消えたはずの忌み手もHPを回復させて潜んでおり、エイジも何度か既に襲われている。

 他にも太刀足という同様のネームド孤影衆とも遭遇しており、こちらは毒手が強力な忌み手とは異なり、連続蹴りが強化されているのだ。それこそ1発でも弾ききれずにガードになれば、そのままガードブレイクされてしまう程である。

 エイジの今のところの方針は、いきなりのネームド戦ではない黄金の城と落ち谷で実力を身に着ける事だったが、このままでは打開しきれないのも事実だ。

 ムライは酒を楽しむだけ楽しむと帰り、仏師の仏像を彫る音がエイジの思考に木霊する。

 1時間、2時間、3時間と経ち、エイジはようやく腰を上げる。

 

「……『茶』は抜けたか?」

 

「ああ」

 

 エイジはダーインスレイヴを背負い、優しい顔の仏像に刃の破片を備える。

 般若の面とどちらにするか悩んだが、見た目からして金属系の素材が手に入りそうなのはこちらだ。安直ではあるが、情報が無い以上は選ぶのに迷う意味は無い。

 暗闇がエイジの視界を覆い、そして浮遊感の後に立つ。

 

「ここは……」

 

「こりゃ神殿みたいだな。荒れ寺に似てるぜ」

 

 ノイジスに知識は無いのだろうが、エイジには見覚えがある。荒れ寺はその名の通り寺であるが、こちらは様式からして神社だ。塗装が剥げた鳥居が並び、雑草が剥き出しの石畳の道の先には砕けた狛犬が転がっている。

 そのまま本殿に入れと言わんばかりに開いた戸は先の闇を晒していた。

 空を見上げればどんよりとした灰色の空だが、微かに舞っているのは雪ではなく火の粉だ。振り返るが、神社に続くだろう森の合間を縫う細道があるだけである。

 まずはこちらから探索すべきか。エイジは細道に進もうとするが、見えない壁のようなものに阻まれる。記憶の世界の壁である。メタ的に言えば、この先の仮想世界は構築されていないのだ。

 神社の本殿の周辺を探るが、モンスターはおらず、だがサムライと思われる屍が転がっている。孤影衆の記憶や落ち谷で分かっていたことであるが、荒れ寺も含めて東洋……日本的であるのが蟲毒の穴の特徴であるようだった。

 

「ひ、酷いな、こりゃ」

 

 遺体はいずれも腐っていない。斬り殺されたばかりのようだ。だが、傷口はいずれも焼け爛れている。熱量を帯びた斬撃を受けた証だ。

 炎属性の攻撃を持っているモンスターがいるのか? エイジは幾つもある遺体を探っていれば、1つの共通点を見つけ出す。

 それはカタナの鞘に金箔で描かれた家紋だ。どうやら、彼らは同じ一門であるようだった。これ自体は不思議でもないが、この様子だと神社を守って殺されたというよりも、何かを神社まで追い詰めた、あるいは追いかけたといったところだろう。

 

「鬼仏は無いな」

 

 本殿内部にあるだけなのか、それともネームドを倒さねば戻れないのか。どちらにしても覚悟を決めて本殿に踏み入るしかない。

 神仏を信じる気はないが、土足で踏み入れる事に禁忌を覚える。エイジは本殿内部の闇を進んでいけば、鋼と見紛う程の重厚感に満ちた木製の両扉に辿り着く。

 両扉の前にも遺体がある。女の遺体である。年頃は40前後だろう。うつ伏せに倒れており、近くには彼女の得物だろう薙刀が突き立てられている。

 

「心臓を一突きだな」

 

 それ以外の傷は無い。抵抗さえも許さずに殺されたのだろう。相当の手練れが敵だったようである。

 不自然なまでに暗闇は不気味を通り越して冷静さをもたらす。覚悟を決めたエイジが扉に触れれば招くように開く。

 扉の奥は外から見た本殿の広さを超える程の空間だった。扉と同質の柱が規則正しく並んでいる。そして、中央では鬼仏があった。

 だが、今までの鬼仏とは違う。禍々しさを感じる炎が宿っている。そして、まるで移せと言わんばかりに乾いた木の枝が供えられていた。

 エイジは炎を枝に燃え移して周囲を照らす。モンスターが出現する気配はない。

 

「オイオイ。拍子抜けだな」

 

「油断するな。あと、もう少し声のトーンを落とせ」

 

 どうやら部屋は円形らしく、壁沿いには5本の蝋燭が等間隔で並べられていた。蝋燭を持つのは鬼と間違えるような形相をした仏像である。

 

(不動明王に似てるな。だが、神社に仏? 神仏習合でもあったのか?)

 

 蝋燭に火を点けろ。そういう意味なのだろうとエイジは把握し、炎で点火する。

 不動明王似の仏像から不自然に影が伸びる。仏像の手にある蝋燭に火を点けたのだ。この影の伸び方はおかしい。エイジは全ての蝋燭に火を点ければ何かが起こるのだろうと把握し、右手にダーインスレイヴを持ちながら、左手に持つ枝で次々と蝋燭を点していく。

 全ての蝋燭に火が宿り、伸びた影は等しく鬼仏に重なる。影は混ざり合って1つとなり、立体化し、形を成していく。

 鬼仏が影の闇に呑まれて消え、代わりに現れたのは……サムライだった。甲冑は身に着けておらず、黒い着物と袴だ。足袋すらも黒い。草履すらもだ。

 闇の影響か? いや、違う。エイジはサムライから漂う血生臭さで否定する。男の身なりが等しく黒いのは幾重にも浴びた返り血と臓物のせいであるのだ。

 エイジに対して背中を向けて佇むサムライは、血で塗り固まった長い黒髪を後頭部で1本に結っている。返り血で元の色も分からぬ結い紐だ。腰には同じく返り血を浴び過ぎて変色したカタナの鞘。だが、僅かに外で斬り殺されていたサムライたちと同じ家紋が見て取れた。

 右手にはカタナ。美しい刃紋であり、唯一返り血による影響を受けていないのは、数多を斬っても切れ味が落ちない名刀だからか、それとも血肉を啜る妖刀だからか。

 

「久しい。真に久しい」

 

 サムライはゆったりとした動作で振り返り、そしてエイジ……ではなくノイジスが息を呑んだ。

 男の顔は整ってる部類であり、髭も綺麗に剃られている。血で染色された衣服とは対照的な清潔感だ。だが、全てを台無しにするのは右目だ。右目だけはまるで亡者のように眼球が無い闇の空洞となっており、その周辺の皮膚は亡者化が進んでいるかのような干乾びていた。

 生まれてから1度として笑った事が無いかのような憂鬱そうな面持ち。サムライの頭上にはネームドの証として<無名の剣士>という、ネームドであることを否定するような名称が表示されていた。

 HPバーは2本。エイジが対峙してダーインスレイヴを構えれば、無名の剣士は眉間に皺を寄せた。

 

「絡繰り仕掛けの異国の剣。奇怪な……」

 

〔ノイジス、まずは様子見だ。実体化は指示するまで禁止だ〕

 

〔おうよ。エイジちゃんがピンチの時はいつでも助けてやるぜ〕

 

 指示には従え! エイジが威圧を込めて睨んでも、ノイジスは知らんとばかりに空を舞う。挑発するように無名の剣士の周囲を飛ぶが、まるで動じる気配はない。

 

「幻術? 否、式神か。異国の剣客かと思いきや、陰陽師か妖術師の類であったか」

 

 それは微かに見せた落胆。風貌と名前の通り、剣の試合……いや、死合に興じれると思っていたのか。だが、それは油断だとエイジは腰を落として構えを改める。

 ノイジスの実体化はエイジの周囲半径2メートル圏内でなければ出来ない。逆に言えば、離れている間はノイジスが自分勝手に実体化することも無い。エイジは呼吸を整え、無名の剣士との間合いを詰めるべく足を動かす。

 

「参る」

 

 だが、死合の開始を告げる声はエイジの背後から聞こえた。文字通りの瞬く間も許さぬ超速で無名の剣士はエイジの背後を取ったのだ。

 振り返るまでもなく、視覚警告が発動するまでもなく、自分の首が落とされるイメージが脳裏を駆け抜け、またそれがFNCを発症させようとして、だがダーインスレイヴが踏み止まらせ、エイジは反転しながら刀身を自分の首の前に差し込んで斬撃をガードする。

 苛烈に散る火花。無名の剣士に称賛の声は無く、淡々と連撃が迫る。

 全てが一撃必殺と言わんばかりの気迫。だが、無名の剣士の表情に変化はない。エイジを死合に相応しい剣士なのか探るかのような試しもなく、己の練武の為であるかのような淡白さすらも感じさせる攻撃だ。

 

〔エイジちゃん!〕

 

〔駄目だ! 入り込むな!〕

 

 孤影衆とは『桁』が違う! あちらは忍びらしく数々の道具を駆使したが、こちらは純然たる剣技! 無名の剣士の振るうカタナの剣速は【黒の剣士】にすら匹敵した。

 

「ほう。これはなかなか……」

 

 称賛ではなく、あくまで興味。ただの木偶の坊と思っていた相手が武に多少の心得があった事に、無名の剣士は更に攻撃を苛烈にして変幻させていく。ついにガードが間に合わず、エイジの腹に一閃が入る。

 まともに受けたダメージは大きい。エイジのHPが4割強も削れる。だが、それで終わらせないのが無名の剣士だった。エイジの腹を斬って脇を抜けるや否や、即座に反転し、追撃の突きを繰り出す。

 見切る! エイジは無名の剣士の突きを踏みつける……が、無名の剣士は即座に腕の力を敢えて脱力させ、見切りの踏みつけを無力化すると刀身を引き抜き、逆に隙を晒したエイジの額を割らんと刃を振るう。

 ギリギリで体を捻って躱すが、斬撃はエイジの右目を裂く。右の視界を奪われたエイジは歯を食い縛りながら引き下がる。

 

「突きを見切った踏みつけ……なるほど。忍びの者であったか。それに動きの1部に大陸の体術が見受けられる。足捌きはやはり忍びに近いが、これは何処の……? 得物は西の異国の剣で絡繰り仕掛け。奇天烈だ。まるで継ぎ接ぎの着物を見ているような……」

 

 無名の剣士はエイジを瞬く間に分析していく。

 歩き方1つで物語る。仏師の言葉を痛感する。エイジの戦法は1分にも満たない一方的な攻撃によって半分以上も捲られていた。

 札を隠すべきではない。倒さねば帰れないならば様子見は不要。ここで全ての物資を使い切るくらいの勢いが無ければ倒せない! エイジはこれまで温存していた爆竹や火薬といった全てを切っていく決断をする。

 再び神速を発揮した無名の剣士であるが、今度はエイジも喰らい付く。背後を取られるより前に反転して斬撃をガードする。だが、パワーで勝る無名の剣士に押し飛ばされて足裏が床から離れて宙に浮く。

 それを逃さんとばかりに無名の剣士は両手持ちしたカタナを上段から勢いよく振り下ろす。何十にも重ねた鋼すらも叩き割るような威力を持たせた斬撃を空中でガードしたエイジは今度こそ弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。

 

〔エイジちゃん! やっぱり俺様が――〕

 

〔まだだ!〕

 

 ノイジスは切り札だ。無名の剣士はまだまだ本気を出していない。エイジをより苛烈に追い詰めることが出来るはずだ。それをしないのは、周囲を飛び回っているソウル体のノイジスを警戒しての事であるとエイジは見抜いていた。

 だが、無名の剣士がダメージに耐えても攻撃するタイプではなく、回避に秀でたタイプの人型ネームドであるならば、傾向からして総HP量は決して多くないはずである。ならば忌み手の時と同じく1発で覆せる出目もある。

 無名の剣士が迫る。足捌きが特殊である。映像でしか見ていないが、【渡り鳥】のステップに近しい高速移動体術のようだった。まるで重心が別の場所に移動して体がそれに引っ張られているかのようだ。

 だが、【渡り鳥】のステップの方がキレも加速も上だ。そう判断したところで、エイジからすれば無名の剣士と【渡り鳥】が空の雲の上でで競い合っているようなものだ。地を這う虫の戯言にしかならない。

 接近に合わせてエイジは爆竹を巻く。激しい光、強烈な音、そして刺激臭。これには無名の剣士の動きが鈍る。見逃さないとばかりにエイジは攻勢に出る。

 ダーインスレイヴのギアを上げる。連撃の度にエンジンの駆動音が響く。だが、まともに剣戟に付き合う必要もないとばかりに無名の剣士は跳んで距離を取り、柱の合間を縫って駆ける。

 エイジも追いかけるが、柱が邪魔して上手く斬撃を当てられない。

 

「なるほど。絡繰りで斬撃の破壊力と衝撃を引き上げているわけか。だが、この傷痕……御しきれていないようだな」

 

 エイジの斬撃が当たった柱の傷跡を見て、無名の剣士はエイジがダーインスレイヴを使いこなせていないと看破する。

 ならば無用に慎重になる必要もないと言うように無名の剣士は間合いを詰める。強烈な斬り上げから即座の振り下ろし、回避したところで横薙ぎに続け、エイジがガードしたタイミングで容赦なく更に踏み込んで押し込んでいく。

 純然たる技術だけではなく、時には力任せも選ぶ。その様は流血の果てに勝利を掴む人斬りを経て鍛え上げられた剣技だ。否、むしろ人斬りに極限まで特化する事を追い求めたような殺人剣である。

 人も、家も、財産も、己の命すらも鑑みない……斬り殺す事だけを欲した剣技。それはエイジが知る剣士の高みの1つ、【黒の剣士】とは異なるものだ。

 一見すれば苛烈な連撃が持ち味である攻撃特化の二刀流であるが、【黒の剣士】の剣技の本質は守護にある。誰かを守る為に、助ける為に、救う為に、敵を倒す剣技である。攻撃する事で誰かを、何かを守護するという剣技であり、彼が目指した武の在り方なのだろう。部類としては活人剣に入るはずだ。

 だが、無名の剣士の剣技は明確な殺人剣。そこには誰かを、何かを守護するという思想はなく、ひたすらに敵を討つ事だけを目指した剣技だ。

 たとえ命を奪ったという結果は同じでも、思想が異なるならば剣技にも差異が生まれ、積み重ねの果てに行き着く先もまた異なる。

 これだ。これこそが『力』だ! エイジはむしろ渇望する! 無名の剣士のこの剣技を是が非でも得ねばならない! 武器は異なるが、通じるものはあるはずだ。体捌きから何から何まで学び尽くし、己を更に高めて強者に至る!

 歓喜したエイジの攻撃は更に激しさを増す。ギアを更に上げて威力を高める。いよいよエンジンの駆動音は野獣の咆哮とも間違えるものになる。

 だが、防戦に甘んじる無名の剣士ではない。冷静にエイジの攻撃を凌ぎ、反撃の機会を待つ。

 エイジの大振りの横薙ぎ。これを躱した無名の剣士は隙を狙って斬撃を挟み込む。だが、それはエイジの誘いだ。ダーインスレイヴはギアを高められ、まるで推力を得たように刀身が加速している。その勢いを利用して回転し、足首を強引に利かせたターンで無名の剣士の背後を取る。

 これには無名の剣士も呼吸を挟むことなく身を翻した。そして、今度こそエイジを捉えるべくカタナを振るうも、エイジはそれを弾く。

 激しい火花が散る。無名の剣士が微かに目を見開き、エイジはすかさず火薬を撒き、左手の呪術の火でダーインスレイヴに呪術の瞬く炎の武器によるエンチャントをかける。

 爆閃! 火薬の炸裂を重ねた斬撃は無名の剣士に吸い込まれる。

 

「火薬と斬撃を合わせた剣技。着火は呪術。そうか。そうか。そうか。呪術と剣技を組み合わせる。『やはり』それこそ……」

 

 だが、手応えが無かった。エイジの高火力技を無名の剣士は難なく、それも無傷で凌ぎ切っていた。火薬と炎の斬撃の攻撃範囲から先んじて脱していたのだ。

 

「良きものを見せてもらった。某は『間違っていなかった』。何を……何を……? ふむ、何だったか。まぁいい」

 

 表情筋が死んでいるのかと思わす程に変化はないが、エイジを無名の剣士が称賛する。

 

「『先人』として黄泉の出立の餞をやろう」

 

 無名の剣士は納刀し、抜刀術の構えを取る。

 居合か。爆閃を難なく凌がれた衝撃が抜け切っていないエイジは頭を切り替えて身構え、回避を念頭に入れたカウンターに集中する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、居合で離れたのは広範囲を焼き斬る『瑠璃火』の斬撃だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 仮に……仮にエイジが繰り返しラストサンクチュアリ壊滅戦の録画映像を視聴していなければ。

 

 仮に……仮に【渡り鳥】という刀身の間合い以上を血刃で裂くカタナの使い手がいなければ。

 

 仮に……仮にエイジの視覚が優れておらず、繰り返されたFNCの発症で視覚警告を手に入れていなければ。

 

 まず間違いなくエイジの首は胴体と泣き別れになっていただろう。

 瑠璃火は凝縮する事で黒炎のような物理的性質を得る。無名の剣士が放ったのはその極致。もはや斬撃にも等しく固められた瑠璃火を居合で解き放つ広範囲斬撃だ。

 

「ほう」

 

 エイジの回避を明確に賞賛するが、エイジにとってこの回避は積み重ねがもたらした必然であっても、体感は奇跡の産物に等しかった。

 何よりもこれは無名の剣士が本領を発揮する合図に過ぎない。居合に限定されず、無名の剣士が繰り出す斬撃の全てに瑠璃火が付与されている。

 単なる一閃のはずが数倍の間合いに至るまで刻む斬撃の嵐を生む。回り込もうにも瑠璃火の斬撃の嵐は背後にまで及び、隙らしい隙はない。

 加えて凝縮だけではなく通常の炎としての瑠璃火も使いこなす無名の剣士は刀身から瑠璃火を発し、目晦ましはもちろんのこと、下手に受け止めれば炎をそのまま放出してエイジを焼き払わんとする。

 また、瑠璃火の凝縮率を敢えて甘くして瑠璃火の斬撃が通り過ぎた場所に瑠璃火を残し、こちらの行動を制限までしてくる始末だった。

 

「これぞ鬼火と組み合わせた我が剣術……【鬼火の剣】なり」

 

 想定すべきだった! 回復する暇も与えない無名の剣士の攻撃にエイジは自分の目算の甘さを痛感する。

 蟲毒の穴では全ての者に瑠璃火が与えられる。他でもない前例としてネームドのコドクがそうであったように! ならば当然の事、無名の剣士が使えてもおかしくない!

 

「エイジちゃん! もう見てらんねぇ! 今いくぜ!」

 

 エイジが脳内通信できる余裕が無いと判断したのか、ノイジスが実体化して割り込もうとするが、他でもない無名の剣士の押し込むスピードが速過ぎて間に合わない。

 

「おぉあああああああああああああ!」

 

 エイジはソウル・リアクターを起動させ、人工筋肉による加速によって、咆えながら瑠璃火の斬撃の嵐を進む。左肩、右脇腹、両太腿が裂かれながらも突破する。

 瑠璃火の斬撃は僅かであるが溜め動作が要る。ならばこそ、無名の剣士の攻防には先程までと違って僅かな遅延が生じるはずだ。エイジもまた分析を怠らず、勝機を求めて無名の剣士の懐に入り込む。

 解放するのは【毒手】。【蟲毒融合】によって瑠璃火に変換した連打だ。編み出した【瑠璃貫手】はチャージが必要で放つ時間が無い。だが、それでもダメージを与えられるはずである。耐性次第であるが、毒状態にも出来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、無名の剣士の斬撃がエイジの左腕を肘から斬り飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愚かな」

 

 表情を変えない無名の剣士であるが、声には落胆があった。自分の剣を……本領を引き出す死合が出来たかと思えば、相手はやはり木偶の坊だったという失望があった。

 瑠璃火の斬撃による広範囲攻撃。それを使用するようになったからといって本人の剣技が衰えたわけではない。むしろ、宿した瑠璃火を推進力にしたように斬撃の速度は更に飛躍的に上昇していた。

 瑠璃火の斬撃による範囲攻撃と瑠璃火を推力としたカタナ自体による攻撃。この組み合わせこそが無名の剣士の剣技……鬼火の剣なのだろうとエイジは理解する。

 左腕の断面から飛び散る血飛沫。エイジは呆然と見つめ、だが瞬時に反撃すべくダーインスレイヴを振るおうとするが、既に突きの構えに映っていた無名の剣士を残された左目で映す。

 見切りを……! エイジは足を上げて刀身を踏みつけようとするが、無名の剣士は速過ぎた。刀身だけではない。足捌きにもまた瑠璃火を利用して加速させているのだ。

 

「エイジちゃん! 間に合えぇえええええええええええ!」

 

 ノイジスの叫びが聞こえる。だが、それは近くも遠い。無名の剣士の突きを防ぐ壁になるには距離があり過ぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、潰された左目から刃が入り込み、そのまま脳を突き刺した無名の剣士のカタナは、内部からエイジの頭を焼き払った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 HPゼロ。今度こそ、エイジは己の死を自覚して膝から崩れ落ち、そのままうつ伏せに倒れた。

 カタナを引き抜いた無名の剣士は残心を取り、エイジが倒れて動かなくなる様を見届けて一呼吸と共に納刀する。

 

「……飛べぬ、地を這う虫であったか」

 

 それは健闘の賞賛も無い、弱者への侮蔑。エイジが最期に聞いた言葉であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それを死と呼ぶのか。闇の中でエイジは漂う。

 強者に至る。それは弱者の愚かな夢想であったかのように。

 数多を斬った自分はこのまま地獄に堕ちるのか。ああ、それもお似合いの末路だろう。エイジは自嘲する。

 

 闇の奥底で見たのは炎だ。

 

 いつもと変わらぬ憎悪の炎。己の首を抱えた『ユナ』がエイジを待っているのだろう。

 

 ああ、知ってるさ。いつものように嘲笑するのだろう。弱いと嗤うのだろう。その通りだった。自分は何も為せなかった。

 

 謝罪はしない。この弱さと愚かさは自分の罪であると認めて地獄で責めを受け入れよう。エイジが闇の中で見た炎で瞼を閉ざす。

 

 

 

 

 

 

 

 

「諦めるのか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、憎悪とは無縁とも思える優しい温もりがエイジの頬に触れる。俯いていた顔を上げさせる。

 瞼を開けた先で靡いていたのは濁り腐ったような金髪。だが、相反するような慈母と見紛う程に穏やかな笑みを浮かべた憎悪の君がいた。

 

「お前はまだ負けていない。それなのに諦めるのか?」

 

 違う。僕は負けたんだ。負けてしまったんだ。強者にもなれないまま……! エイジは嗚咽を漏らしそうになって、だが憎悪の君はエイジを鼓舞するように抱きしめる。

 

「諦めた時にお前は真に負ける。這ってでも、這ってでも、這ってでも、傷だらけになっても前に進む。それがお前なのだろう?」

 

 悲しそうに憎悪の君は微笑み、エイジの頬を数度だけ撫でる。

 

「何があろうとも俺はお前を見捨てない。俺だけがいつだってお前の味方だ。忘れるなよ」

 

 憎悪の君は抱擁していたエイジを温もりから突き放すように、だがそれこそが最大の助力であるように、彼の胸を押し飛ばす。

 

「俺はいつまでもお前の助けにはなってやれない。俺はきっともうすぐ……だがな……それでもな……俺は……」

 

 それ以上は言葉にしたくないように、憎悪の君は首を横に振って、切なそうに背を向けた。

 

「エイジ、俺の血と共に生きてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 否……光。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〔まだまだいけるぜぇえええええええええええええ! エイジちゃぁあああああああああああああああああああん!〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脳髄に反響するノイジスのけたたましい喝と同時にエイジは瞼を開く。

 HPゼロ? いいや、『まだ負けていない』! エイジのHPは急速に半分まで回復する。ありとあらゆる傷口は塞がり、左腕は塵のような肉片が集合して重なると形を取り戻して再生する。

 確殺した。残心した。慢心はなかった。だが、無名の剣士はエイジの復活を予期できず、半ば背を向けていた。

 エイジの視界内でノイジスがソウルを霧散させながら落下していく。だが、その顔は笑っている。一矢を報いろとエイジを応援する。

 

〔俺様と……エイジちゃんの命は……2つで……1つ……繋がって……る。あ……とは、頼む……ぜ……エイジちゃ――〕

 

 心意がもたらした仮想世界の奇跡? 否。否。否! 断じて否! エイジは闘志を剥き出しにして否定する。そんな都合のいい奇跡を起こせるならば、ユナも『ユナ』も死ぬはずがなかったのだと嫌悪を込めて拒絶する!

 最初からノイジスは説明してくれていた! 自分とエイジは命を共有しているのだと!

 1人と1体はそれぞれの命を持ち、だが1つに繋がっているのだ。エイジが死に瀕した時……HPがゼロになった時、ノイジスは自分の命を……HPを譲渡することができる! これこそが【蟲毒融合】の真の強み!

 背後からの強襲に等しい刺突。それが無名の剣士の胸部を……心臓を刺し貫く!

 

「な……に!?」

 

 驚愕した無銘の剣士は、だが即座に瑠璃火の斬撃でエイジを引き離す。どろりと闇の濁りが混じった血を胸部から垂らしながら、だが亡者になりきっていない証拠のような鮮やかさを残した血を散らす。

 

「これは……亡者の……不死の力? 違う。奇跡による治癒? 違う。思い出せ……そう……これは……」

 

 亡者化していない左目で、無名の剣士は渇望のようにエイジを睨む。

 対するエイジはダーインスレイヴとのリンクが更に高まったことを示すように、右目の白目は赤く染め上げられ、瞳は腐って蕩けたように形を崩して醜く黄ばんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その力は……呪いは……『回生』か」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無名の剣士は表情を変えずとも確かな歓喜を示すように瑠璃火を猛らせる。

 

「遥か古、西より参られた神なる竜よりもたらされた力。だが、1人の忍びによって……永遠に失われたはずの……!」

 

 無名の剣士は瑠璃火の斬撃を乱舞させる。更なる死闘を味わえる喜びを示すように。

 

 否、更なる『修練』を積めると昂るように。

 

「我が武の研磨。死しても蘇る力を持つならば、無限に死合おうぞ」

 

 瑠璃火の加速を用いた踏み込み。無名の剣士のそれに対してエイジはダーインスレイヴを構える。

 

 

 

 

 そして、エイジは瑠璃火を『全身』から解き放って加速し、無名の剣士の腹を薙ぎ払った。

 

 

 

 

 

 まだだ。まだだ。まだ≪瑠璃火≫には先があるはずだ! エイジは頭の芯まで塗り潰す憎悪の炎……『力』の渇望に精神が荒ぶる。

 エイジがしたのは至極単純。ソウル・リアクターからエネルギー供給され、人工筋肉によって得られる運動能力強化……加速の恩恵を更に上昇させるべく、供給されるエネルギーに瑠璃火を付与した。結果、エイジは制御しきれずに全身の各所が裂けて血を零していたが、無名の剣士が対応しきれなかった攻撃を繰り出すことに成功した。

 もちろん、これは伏せていた……いや、即席の札を切ったからこその成果だ。今も無名の剣士の方が圧倒的に強者だ。だが、エイジはまた1つの成長を噛み締める。

 

「……ありがとう、ノイジス」

 

 もらった命……無駄にはしない! エイジは無名の剣士に見せつけるようにダーインスレイヴを振るう。

 無名の剣士が繰り出した瑠璃火の斬撃の嵐。それと衝突するのは同じく瑠璃火の斬撃の嵐であった。

 威力も制御もまるで及ばない。あっさりと押し切られる。だが、使えた。エイジはダーインスレイヴが新たにラーニングした……『喰らった』能力にもまた感謝する。

 

「それは……我が鬼火の剣……!」

 

 奪われた事への驚愕は声音に乗っても、無名の剣士は表情を変えない。

 あるのは怒り? いや、むしろ無名の剣士も感謝しているようだった。

 

「同じ鬼火の剣を使える。面妖な……だが、回生と合わせて、これ以上と無き……!」

 

 あくまで求めるのは武の修練。エイジと同じく『力』だ。無名の剣士は全身で喜びを露わにしながら、エイジに斬りかかる。

 極度の集中状態か。エイジは繰り出される瑠璃火の斬撃の嵐を躱す。躱す事だけに注力する。

 残す伏せ札は教会からもらった護符、ラーニングした【破砕の斧撃】と【つらぬきの刃】だ。逆転を狙えるのは【つらぬきの刃】しかない。エイジは無名の剣士の攻撃を躱すことに専念する事で、また同時に無名の剣士の所作を1つと残さず観察する事で、ラーニングした【鬼火の剣】をどう扱うかを分析する。

 だが、回生と瑠璃火加速による2回の攻撃が成功したとはいえ、圧倒的強者は変わらずに無名の剣士。どれだけ気迫があろうともエイジの動きは瞬く間に見切られる。回避に専念しても躱しきれなくなり、瑠璃火の斬撃がエイジを捉え始める。

 思わぬ恩恵があるとするならば、瑠璃火をソウル・リアクターから供給されるエネルギーに瞬間的に着火させることで、瑠璃火を鎧のように纏える事である。

 瑠璃火は純光属性。そして、瑠璃火を纏うことで光属性防御力を高める事で、無名の剣士の鬼火の剣によるダメージを極端に低下させる事が出来たのだ。

 互いの瑠璃火を超え、今再びエイジと無名の剣士は刃を交える。

 学び取れ。無名の剣士の鬼火の剣の深奥を! そして、殺人剣の極意を!

 

「寄越せ、お前の『力』の全てを……!」

 

「無限の死合。そうだ。それこそが……!」

 

 互いの刃は弾かれて距離を取る。無駄な動きが……ガードが多過ぎた。エイジの視界ではスタミナが早くも危険域に到達したことを示すアイコンが点灯している。

 2回もダメージを与え、その内の1回はクリティカル部位の心臓だったとはいえ、無名の剣士のHPバーはまだ1本目が半分にも到達していない。

 圧倒的不利。だが、心躍る! もっと『力』を! エイジは全身の骨が砕け、筋肉が引き千切れる勢いで瑠璃火を上乗せした加速を解放し、対する無名の剣士もまた足下で瑠璃火を放って速度を上げる。

 互いの刃がぶつかる事は無かった。

 強者は変わらず無名の剣士のみ。故にエイジの一閃を軽々と躱し、そのまま首を薙ごうとする。

 まだだ。まだ負けていない。躱せるはずだ! エイジは上体を逸らして斬殺を免れようとするが、それを逃さぬように無名の剣士は斬撃軌道を修正しようとする。

 

 

 

 

 

 躱せたのか斬られたのか。その結果さえも教えぬように、無名の剣士は影となって霧散した。

 

 

 

 

 

 残されたエイジは憎悪と『力』の渇望のままに周囲を見回して無名の剣士を探す。

 だが、いない。いない。いない。何処にもいなかった。

 そして、エイジはようやく点火させたはずの全ての蝋燭が消えている事に気付く。

 時間にしてどれだけか。濃厚な戦いであったが、1時間も無かった。30分も無かった。15分もあったか無かったか。

 

「まさか……全ての蝋燭が消えるまでに……倒しきれってわけか?」

 

 あの強さに対して余りにも無謀。ただでさえ超攻撃特化の殺人剣を瑠璃火で範囲・威力・速度を強化させた無名の剣士を倒すならば、攻撃の隙を探して的確にダメージを重ねるしかない。だが、ここで要求されるのは短期決戦。超攻撃特化の相手に、それを上回る攻撃で打倒しなければならないのだ。しかもまだHP2本目の強化を持っている人型ネームドに……である。

 津波を津波で押し返し、挙句に呑み込まねばならない。そんな無茶をクリアしなければ、永遠に蟲毒の穴から脱する事は出来ない。本来ならば絶望にも等しい苦難である。

 だが、エイジは歓喜した。短時間決戦。逆を言うならば、『制限時間を耐え抜けば何度でも挑める』という事だ。弱者である自分が『鍛錬』するならば、これ以上とない相手である。それは奇しくも無名の剣士がエイジに得た感慨と同一のものだった。

 鬼仏には瑠璃火が宿っている。1度荒れ寺に戻らなければ再挑戦できないのだろう。エイジは鬼仏に祈って転移する。

 

「お前さん……その目……」

 

 仏師はエイジの右目の変異に気付き、だがそれ以上は何も言わなかった。

 このまま即座に無名の剣士に再挑戦する程にエイジは愚かではない。したい気持ちはあったが、まずはラーニングした鬼火の剣を使えるように修練したからである。

 小川に向かい、エイジは顔を洗う。右目の変異は緩やかであるが、元に戻りつつある。闘争心が落ち着きつつあるからか。

 

「……そろそろ視野に入れるべきかもな」

 

 スレイヴに1つだけ『まだ早い』と禁じられているものがある。それがデーモン化だ。ダーインスレイヴとの接続が安定し、最適化されたとはいえ、デーモン化によってどうなるかは不明だからだ。よりダーインスレイヴと完全同調するまではデーモン化を控えるように『お願い』されている。

 だが、リスクを避けていては勝てない。エイジはもう1つ……意図的に避けてしまっていた『力』をアイテムストレージから具現化させる。

 深淵の指輪。わざわざアイテムストレージを消費してでも持ち込んだ『戦利品』だ。

 

「早いお戻りだな。さては逃げてきたな?」

 

 ニヤニヤと笑いながら背後から迫っていたのはムライだ。反射的にダーインスレイヴを抜こうとしていたエイジは、右目を隠すように包帯を巻く。

 

「手酷くやられたみたいだな。もうギブアップか?」

 

「まさか。むしろ、大成果だ」

 

 これで僕は更に強くなれる道筋が見えた。いつ死ぬかも分からない鍛錬などライドウのお陰で慣れている。むしろ、ライドウよりも実戦的である分だけ上質であるとエイジは喜ばしく思っている。

 

「鉤縄の素材は見つからなかったが、それもいずれは手に入れるさ」

 

「そうかよ。んで、うるさいスズメちゃんは何処だ?」

 

「……ノイジスは、死んだ」

 

「死んでねぇよ!」

 

 エイジが最大限の労いを込めてノイジスの死をムライに報告した瞬間、彼の頭上に重荷が落ちる。

 違う。エイジは拳を握って震え、危うく首の骨が折れるのではないかと思った衝撃の現況を掴み取った。

 ノイジスだ。ただし、割れた卵の殻をオムツのように履き、また帽子のように被っている。省エネ形態よりも更にデフォルメされた姿はまさしく幼体だ。

 

「僕の感謝を返せ」

 

「俺様は一言も死んだとは言ってねぇぞ! ヒャッハー! 俺様とエイジちゃんは命を共有してる! エイジちゃんが生きてる限り、俺も死なねぇんだよ!」

 

 理屈は……理屈は分かる! だが感情は認めない! エイジは憎悪のままに、自分を馬鹿にするように小躍りするノイジスを踏みつける。

 

「ぐ、ぐぇー! 止めろ! 俺様が本当に死んでいなくなったら、もうほら……アレ……そう! 回生だ、回生! 奴が言ってた回生ってのは出来なくなるぞ!」

 

「それは……困る」

 

 あと、無名の剣士の回生発言までは意識が残ってたのか。だったら、あの如何にも散り際のような発言はわざとか! エイジはノイジスを踏みつける足に力が籠もる。

 葛藤は3秒ほど。エイジは感情よりも実利を取った。ノイジスから足をどけ、川辺の石に腰かける。

 

「回生はさすがに連用できねぇみたいだ。使うと俺様も休眠状しちまう。戦闘中の目覚めは無理だな。しかも見ろよ。情けない姿には底が無いぜ、チクショウ! 禿げ竜死ね!」

 

「次の回生の回復までどれくらいだ? いつから戦闘モードを利用できる?」

 

「知らん!」

 

 シースへの怒りと憎しみを八つ当たりで披露するノイジスが元気なのは有難いが、回生再使用までのインターバルとノイジスの戦闘参加がいつ頃になるのか分からないのは大きな痛手である。

 まだまだ自分は弱い。ノイジスを利用できるならば、無名の剣士相手の鍛錬はより捗り、また生存率も高まる。エイジは悔しがるも、ノイジスの無事の姿……もとい本人の発言通りの情けない程にひ弱な姿に素直に回復を待つべきかと嘆息する。

 そんな1人と1匹に対して、ムライは面白がるように笑い声を漏らした。

 

「やっぱりお前にはお似合いのサポートユニットだったな。大事にしろよ」

 

「……言われずとも」

 

 態度こそ辛辣になってしまうが、エイジは既に認めている。ノイジスがいなければ何度も死んでいる。今回もノイジスが回生で自分の命を分け与えてくれていなければ、死に屈するしかなかったのだから。

 まだだ。まだまだ強くなれる。エイジは明ける事も暮れる事も無い荒れ寺の空を見上げ、想いを馳せる。

 脳裏を過ぎったのは誰なのか、今のエイジには分からない。ただ憎悪の炎だけが昂って飲み込んでいく。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 これは何だ? リーファは目前の光景が信じられないとばかりに目を白黒させた。

 まだ稼働していない農園。教会と契約し、薬草栽培は決定して苗こそ預かっているが、まだ植え込みしていない。耕された土地は全体の1割未満。肥料の購入も難航。前途多難であったはずであるが、リーファの視界には農園を観光地だと言わんばかりの長蛇の列が出来ていた。

 キリトの秘薬素材リストも7割が消化し、情報収集が徐々にメインとなってきた頃、レコンから農園の見学会を開きたいという発表が行われた。

 

『結構な数なんです。キリトさんがよろしければ、出来れば明日はオフにさせていただきたいのですが』

 

『だったら俺も手伝うよ。宿も食事もいただいてる身なんだ』

 

 キリトは快くレコンの申し出を受け入れ、また助力を約束した。キリトが手伝うならばユナも必然的に同伴する。

 

「ねぇ、ちょっと多過ぎない?」

 

「本当はこれ以上だったんだけど、定員オーバーで断ったんだ」

 

 リーファも前日から見学会の準備を手伝っていたとはいえ、こうして見学者の数を直に見ると衝撃は大きかった。なにせ軽く100人を超えているのである。自分たちのような弱小どころか零細にもなっていない、ギルド化すらもまだの組織に就職したいと願うプレイヤーがこんなにもいるとは思えなかった。

 それだけではない。見学者に混じっているのは、農園を視察に来たのだろう、商業ギルド【玄武軍艦】のトップと側近が揃っていた。多くの零細、中小ギルドの開発・生産したアイテムを卸す、いわゆる商社系である。比較的に太陽の狩猟団寄りの立場ではあるが、良く言えば柔軟、悪く言えば風見鶏な方針のせいで、早々にいずれの大ギルドに旗色を示すべきか鮮明にしたライバルに差を付けられて苦戦している。

 そして、玄武軍艦の経営陣と並んでいるのは極寒の北国からやって来たかのような防寒完備の格好をしたアスクレピオスの書架の副リーダーであるヒストニアだ。彼女は実質的な薬草栽培の依頼元であるのだが、どうして玄武軍艦の経営陣と和やかに談笑しながら農園の見学をしているのかは不明である。

 

「あのー! すみませーん! ここには何を栽培する予定なんですか?」

 

 見学者に質問をぶつけられ、リーファは慌てて記憶した説明を引っ張り出そうとするが上手くいかず、10秒ほどの沈黙が流れてしまう。

 

<ここには葡萄酒を作成する為の葡萄を栽培予定です。全体の5割を酒造に割り当てる予定になっています>

 

「へー。これだけ広い土地の5割……」

 

 リーファをフォローしたのはユナだ。彼女は事前にありそうな質問対する回答を全てスケッチブックに記載して準備しており、淀みなく質問者に見せた。

 また、今日のユナはレコンの依頼で防具ではなく教会の奉仕活動に参加するような修道服だ。ユナは教会から派遣された監督役であるので身に着けていてもおかしくないのであるが、見学者達は明らかにユナに対して敬意と媚びの目を向けている。

 

「ユナさん、ありがとう」

 

<気にしないで。皆で助け合って頑張ろう>

 

 笑顔で応援され、リーファは涙が出そうになる。ユナの気遣いと献身には戦闘中の回復・バフ・支援射撃だけではなく、日常生活に至るまで染み入るばかりだった。恰好だけではなく、彼女には聖職者としての素質と気質があるのだろう。

 一方の助力を約束したキリトであるが、レコンからお願いされたのは『何もせずに、人目が付く場所で寛いでいてください』という厳命だった。見学者にも玄武軍艦にも近づくな、喋るな、余計な事をするなの禁止3箇条を申し付けられている。

 結果、キリトは館の傍らの木陰で寝そべっているのが今日の仕事だ。わざとらしく木に聖剣を立てかけているのはレコンの要望である。ただそれだけで、見学者達は勝手に想像を膨らませたように尊敬と憧憬と興奮を覚えている。中身はゲーム廃人、生活力は日毎に低下中、デリカシーもついでに無し、最近はついに喫煙まで初めてしまった駄目兄であると知るリーファは全力で彼らのイメージをぶち壊してやりたかった。

 何よりも気に喰わないのはスゴウだ。彼はあろうことか玄武軍艦やヒストニアに農園の案内を行っている。VIPの対応が今日の彼の仕事だ。レコンは右へ左へと駆け回って1番忙しい為に、実質的に彼が2つのギルドの上層部との窓口になっているのである。

 

「ちょっと! これ、どういう事!?」

 

 ようやくの休憩時間。館の台所に似て、キリトを除けば全員が慣れない仕事でダウンする中で、リーファはレコンを問い詰める。

 

「言っただろ? 僕もこの人数は予想外だったって」

 

「そうじゃなくて、何でスゴウがお偉いさんとお話ししてるの? レコンがいつもみたいにやれば良いじゃない!」

 

「正直言って、この人数だから仕方ないよ。玄武軍艦や教会を優先して見学者を蔑ろにしたら本末転倒だしね。スゴウだったら当たり障りのない対応だけじゃなくて今後の建設的な『ビジネス』について切り口を開いてくれる。ユナさんは見学者の案内で手一杯だし、あくまで教会から派遣された監督官。キリトさんは書架の専属傭兵だから見せ札以上は駄目。リーファちゃんに任せたら火種を作るだけ。スゴウ以外に適材はいないよ」

 

 水を飲んで喉を潤すレコンの乾いた物言いに、リーファは反論できずに言葉を詰まらせる。

 確かにその通りだ。リーファはフェアリーダンス時代に副リーダーであったが、あくまでギルド内の緩衝材の役割だった。サクヤがギルドリーダーとして取引・交渉の一切を請け負っていた。単純に適性が無いのである。

 だが、スゴウは仲間ではない。リーファたちが疲労を隠せない中で、1人だけこれぞ本業とばかりに、むしろ活き活きとして2つのギルドの上層部と和やかに外でランチを取っているスゴウには助けられているのは事実だ。見学者達も含めて盛大にバーベキューが行われている様はまるで有力ギルドのプレゼンテーションだ。

 

「100人超の移動費……それも肉と新鮮な野菜まで……どれだけの経費がかかってるのよ」

 

「ゼロだよ」

 

「……は?」

 

「ゼロ。全部、玄武軍艦持ちさ。彼らは僕らに出資したい。商談を早く纏めたい。教会にも自分たちの存在を売り込みたい。だけど、他にも幾つかの商業ギルドにも唾は付けておいたからね。見学に合わせて緊急訪問を要望してきたのも彼らの焦りがあってだよ。今回の見学会の経費はほぼ全額が玄武軍艦持ちさ。今頃、ヒストリアさんにそれを自慢気にアピールしてるんじゃないかな。あ、そのヒストリアさんはキリトさんにお願いして来てもらったんだ」

 

「リストの7割をたった10日でクリアだからな。リーファたちのホームを前々から訪問したいって打診されていたし、薬草栽培についても期待してるって言ってたから、今日だと都合がいいはずだって伝えておいたんだよ。まぁ、レコンから日取りはお願いされたんだけどな」

 

 あくどい。レコンらしいと言えばレコンらしいが、より狡猾でスマートだ。これは彼だけの発案ではないとリーファは長年の付き合いで見抜く。

 

「……僕たちがこうして休めているのもスゴウのお陰だよ。本当なら代表として僕かリーファちゃんがあの場に出席すべきなんだ」

 

 リーファの思考を読み取ったようにレコンは告げる。午前中のたった2、3時間でまともに立ち上がる気力も体力も失ってる自分達が午後の面接に万全で挑めるように、スゴウが時間を稼いでくれているのだ。

 レコンには元々ドライで計算高い部分がある事は理解している。それも含めて友人として信頼している。だが、リーファには受け入れ難かった。

 スゴウは……オベイロンはアスナだけではない。サクヤも殺しているのだ。確かに直接の死因はレギオンかもしれない。だが、オベイロンがサクヤを攫っていなければ、そもそも死ぬ事はなかった。

 レコンもALOとDBOではサクヤに世話になったはずだ。たった2人だけでDBOを生き抜かなければならなかった初期、ALO出身者を中心にしたギルドを作っていたサクヤに拾われていなければ、もしかせずとも野垂れ死んでいたかもしれないのだ。

 

「気に喰わないのは分かる。でも、認めるべき所は認めないといけない」

 

 拳を握るリーファに声をかけたのは意外な事にキリトであった。

 

「スグの気持ちは分かるよ。だけど今この瞬間は、スゴウにどんな思惑があるのであれ、スグは助けられている」

 

「お兄ちゃんまで……!」

 

「この農園をまずは軌道に乗せる。『帰還』と『永住』。その両立の道を探るからこそ、DBOで生きる以外に道が無い人たちに寄り添う何かを始めたい。それが回り道になるとしても両立を目指す足掛かりになるはず。そう信じて始めたのはスグだろう?」

 

「…………っ!」

 

「スゴウを信じられない。嫌い。憎い。それで良いさ。だけど、彼の成果は認めないといけない」

 

 キリトはリーファの頭を優しく撫でる。頼りにならない兄であると自覚し、それでも妹を信じて愛していると伝えるように。

 クゥリさんとは違う撫で方だ。リーファは自分の気持ちが自然と和らいで落ち着いてしまうのが悔しかった。子ども扱いされるのは嫌なはずなのに、甘んじて受け入れてしまっている、性根まで染みついている『妹』という立場が悔しかった。

 兄は変わった。いや、違う。冷静さを取り戻している。無惨なアスナの遺体を目にしたキリトは、サクヤを殺されたリーファ以上にオベイロンに対して怒りも憎しみも滾らせていたはずだ。

 だが、目を見れば分かる。確かに怒りと憎しみが渦巻いている。だが、その渦は迷いだ。オベイロンを……スゴウを殺すべきか否か、混迷の中にいるのだ。

 兄がどれだけアスナを深く愛しているのか、リーファは知っている。アルヴヘイムで狂い果てた姿さえも見てしまったのだから。ならばこそ、迷う事自体が信じられなかった。

 

「あたしは……あたしは……認めない。絶対に……絶対に……!」

 

 泣くものか! リーファは唇を噛んで俯けば、キリトは苦笑した。

 

「それで良い。スグはそれで良いよ。スゴウを許さない。それで『今』は良いんだ。だけど、凝り固まらないでくれ。決断の時は『まだ』なんだ。その時が来たから、改めて自分に問いてくれ。お兄ちゃんからのお願いだ」

 

 ……どうして、そんな事を言うの? リーファは涙を隠すようにキリトの胸にしがみつく。兄に甘える妹になってしまう。自分よりもずっとずっと重荷を背負っている兄を支えてあげたいと望んでいるのに。

 兄のコートからほんのりと香るのは、消臭しきれていなかった煙草のニオイ。兄には絶対に香るはずがないと無邪気に信じ込んでいた……大人のニオイ。リーファは大好きな兄が遠くに行ってしまったような気がして、腕を回して腰に抱きつく。

 

「お、おい……スグ?」

 

「ひっく……ひっく……! お兄ちゃんなんて大嫌い! 大嫌い! 大嫌い!」

 

「えー。傷つくなー」

 

 リーファの暴言を真に受けることも無く、キリトも受け流しながら、改めて彼女の頭を撫でる。ユナも合わさって、リーファを泣き止ませる母のように彼女の背中を撫でた。

 と、台所のドアをノックする音が響き、リーファはキリトに抱きつく腕を固くホールドしたまま顔だけを向ける。

 

「お取込み中、申し訳ありません♪ 報道ギルド【スカイフィッシュ】のシリカです♪」

 

「ソノ、オテツダイ、ダゾ!」

 

 トレードマークのツインテールと笑顔なのに猛獣が牙を剥く姿が重なるシリカだ。その背後にはボサボサの髪をした、健康的な小麦色の肌をした少女がカメラマンとして付き添っている。

 キリトから即刻離れろ。そう威圧するような笑みに、リーファは蛇が獲物を締め付けるように腕の力を籠める。STR出力を高める。

 

「シ、シリカ。今日はありがとう」

 

「いえいえ。デスクもキリトさんの密着取材を取れって煩かったんですよ♪ 今回の農園見学の記事でお約束いただけるならお安い御用です♪ あとリーファさんはキリトさんから離れてください」

 

「キリトさんにお願いしたのは僕です。僕にできるお礼なら何なりと」

 

 レコンがスゴウと合作した戦略なのだろう。レコンはシリカこそ信用するが、背後の少女は大丈夫なのかと視線で問いかければ、彼女は何故か鉛のように重たい溜め息を吐いた。

 

「……ご安心ください。考えようによっては最も信用出来て、なおかつ最強の助っ人になりかねない御方なので。あとリーファさんはいい加減にキリトさんから離れてください」

 

「HAHAHA! テレル、ナー!」

 

 シリカの評価に、少女は顔を赤くしながら頭を掻く。その姿はまさしく無邪気な子どもそのものだ。だが、リーファが気になったのは今の笑い方だ。その場の空気を凍らせてしまいそうな……アメリカン・コメディからそっくりそのままコピーしたような笑い方には覚えがあった。

 

「お礼ですけど、密着取材の間、私とキリトさんの部屋を一緒に――」

 

「部屋はたくさんあるから個室にどうぞ」

 

 リーファが即座にシリカの要望を却下すれば、彼女は予想通りだとばかりに肩を竦めたが、同じ屋根の下で過ごせばチャンスはあるとばかりに譲歩した。

 

「それにしても大きく出ましたね。絶対に見学者には大ギルドが送り込んだ諜報員も混じっていますよ。あとリーファさんはキリトさんから離れろ」

 

 シリカの圧に屈しないとばかりにリーファは更に力を籠めれば、キリトの口よりいよいよ人間が漏らしてはいけない悲鳴の類の呼吸音が零れ、ユナがあわあわと青褪める。

 

「想定済みです。僕たちは何もやましい事をしていません」

 

 そんな兄妹のじゃれ合いを可愛いものだとばかりに流したレコンは着席を促したが、シリカは従わずにリーファを睨み続ける。

 

「でも、たった数日でこれだけの見学者を集めた上に中規模とはいえ、商流会議にも議席を持つ玄武軍艦を釣り上げるなんて、どんな魔法を使ったんですか?」

 

「オフレコならお話ししますけど?」

 

「お約束します」

 

 シリカから言質を取ったレコンは何も特別な事をしていないとばかりにコップの水を飲む。

 

「自由開拓戦線と中小ギルドがよく利用する酒場や定食屋でチラシを少々。後はプロモーションですかね」

 

「……プロモーション?」

 

「スゴウ曰く、日本企業の最大の弱みはプロモーション力の低さにある、という事らしいんです。日本がVR先進国の地位から早々に陥落したのはVR・AR分野への投資額の低さだけではなく、宣伝戦略がお粗末でワールドスタンダードを作れなかったからだとか。むしろ、ナーヴギアやSAOはVR初発という強みがあったとはいえ、プロモーション力に秀でていたからこその成功だったらしいです」

 

「な、なるほど?」

 

「つまり、商売において成功するには商品の質よりも宣伝の上手さの方が重要という事さ。質の悪さが著しく悪ければ後々まで尾を引く悪評になるけど、ある程度の基準をクリアしていればヘビーユーザー以外は気にしない。むしろ、価格や宣伝が購買意欲に直結する。シェアを獲得すれば自社の規格がスタンダード化し、ライバル企業を寄せ付けない絶対的なアドバンテージになるってわけさ」

 

「あ、そういう事ですか」

 

 キリトの助け舟にシリカは理解できたようであるが、衝撃を受けたのはリーファの方だ。

 兄が経済を語る? これは何かの冗談だろうか? リーファは増々腕に力を籠め、いよいよキリトが呻き声を上げる。

 

「劇団を雇って12秒のプロモーションを撮影しました。それを人が集まる場所で72時間の利用契約を結んで繰り返し放映したんですよ。後は件の劇団に人目が付く場所で2分間の農園の募集告知の演目をローテーションで各所で行ってもらいました。その様子だと報道ギルドの方々は見逃されていたんですか?」

 

「ウチはゴシップとオカルト記事で食べてる3流の弱小なんです。だからこそ興味深い情報も入って来るんですけどね」

 

 告知はしてあると聞いていたが、そんな事までしていたとは。驚くリーファは、だがレコンにプロモーションのいろはが分かるはずもないだろうと察知し、その背後にもスゴウの入れ知恵が多大に含まれているに違いないと把握した。

 気分が悪くなる。清潔を保っていた家の中にゴキブリが入り込んできたような不快感だ。

 

「繰り返しとはいえ、たった12秒のCM。それと劇団による演目。それだけでこの人数を?」

 

「短い時間に興味を惹きつける内容である事。それがプロモーションの絶対条件らしいので。クリスマスムードも助けになりましたよ。普段と違ってクリスマスへの期待で戦闘意欲が近してスローライフ思考が助長されていましたからね。あと、これらは今日の餌撒きでもあります」

 

「と言いますと?」

 

「場所取り、劇団の雇用、その他諸々の投資額はそれなりのものです。当然ながら、大ギルドにも報道ギルドにも目を付けられたでしょう。今回の見学者にもスパイや記者が紛れているのは想定済みです。彼らが持ち帰る情報は『農園は有望株になる』・『斜陽の商業ギルドが農園を「利用」して教会と手を組んで何かを企んでいる、あるいは教会がキリトさんとリーファさんを絡ませて何か大々的に仕掛けようとしている』という先入観をもたらします」

 

「つまり、真に企んでいるのはレコンさん達なのに、勘違いをさせて全く別の腹を探らせるわけですか。腹黒いですね」

 

「上手くいくかどうかは別ですけどね。だけど、確実に今お話しした通りの情報は持ち帰ります。情報の恐ろしいところは真偽ではなく受け取り側の認識・行動に指向性を与えられる点ですから。シリカさんを呼んだのも、キリトさんを経由した『何か』を企んでいると選択肢を増やさせるブラフでもあるんですよ」

 

 相手の思考の先手を取るのではなく、迷わせる。敢えて情報を過多にする事で、本命である『農園を軌道に乗せる』という至極的全うな目標を達成する妨害を取り除く。これがレコンとスゴウの合作……いいや、スゴウの原案と監修の下で企てた事ならば実に恐ろしい事であるとリーファは警戒を高める。

 スゴウは善良な人間のように振る舞っているが、その実は腹の中に何を飼っているかも分からない、人心を惑わして情報の認識を誤らせる術に長けているという事だからだ。キリトやレコンはスゴウがオベイロンとは別人説に傾いているようであるが、それこそがスゴウの策略であるかもしれないのである。

 

「そろそろ午後の部が始めないとね。先に言っておくけど、午後は質疑応答がメインだから。僕が主に担当するけど、リーファちゃんも最低でも2秒以内に回答できるように気合を入れておいてね」

 

「……2秒」

 

 予想される質問に対しての回答リストは暗記しているが、慣れない緊張を強いられる場面で口が動くか心配するリーファに、ユナは笑顔でスケッチブックを向ける。

 

<大丈夫! 私がフォローするよ>

 

「ユナさぁああん! もう! お兄ちゃんよりも頼りになる!」

 

 キリトからようやく離れたリーファは続いてユナを抱きしめたが、力加減が兄に対しての愛情マシマシホールド状態だった為に、彼女の口からも人間が出してはいけない呼吸音と毀れたのだった。

 100人以上が並ぶ質疑応答の時間において、リーファはほぼ立っているだけであり、レコンがメインを務め、スゴウがサポートで捕捉するという連携で滞りなく終わった。その後、レコンは玄武軍艦と会食をする事になっており、キリトはシリカの希望で色黒の少女と共に出て行った。

 残されたのはリーファ、ユナ、スゴウだ。見学会の後片付けを終えれば自由時間であり、ユナの希望でリーファは稽古をつける。

 ユナの射撃の腕前は成長しているが、接近戦には不安が残る。そもそもとして、ヒーラー・バッファーであるユナに敵の接近を許してはならないのであるが、いざという時に自衛できるだけの実力の有無は生死に直結する。

 リーファの攻撃をユナは銃剣でガードする。形成される氷の刃は強固であるが、リーファの連撃を浴びればあっという間に亀裂が入って砕け散る。攻防には耐えうる強度を有するが、それは最低基準を満たしているだけである。重たい攻撃を耐え抜けるものではない。

 元より剣道で全国トップクラスの実力者であり、また改変アルヴヘイムとフロンティア・フィールドを経たリーファの剣技はDBOでも最上位陣に食い込める。逆に言えば、才能を磨くだけの経験を得たリーファであっても剣の分野において太刀打ちできない相手がいるという事だ。

 剣技に限定して、現状ではリーファが白星を奪えないと確実に言い切れる相手は2人。キリトとユージーンだ。ラストサンクチュアリ壊滅戦において、ユージーンはキリトに敗北してDBO最強候補として挙げられる比率は下がったが、それでも彼はDBO5本指に入る剣士である事に疑う余地はない。キリトはユージーンを下した事でDBO最強の剣士としてほぼ王座に君臨している。

 他にも有力な剣士はいる。たとえば真改だ。トッププレイヤー不足が深刻化している聖剣騎士団において、最古参の1人である真改は人口が少ない代わりに実力者者揃いのカタナ使いでも最強候補として名を連ねている。だが、立場が立場であるだけに公の場で明確に実力を発揮する事はなく、任務も影が薄いものばかりなので、実力に相反した存在感の薄さを持つ。

 だが、剣技だけでは勝つ事も生き残る事もできないのがDBOだ。わざわざ相手に有利な土俵で戦う必要などない。相手が剣の達人ならば逃げ回って間合いに入らせず、射撃攻撃で削れば良い。相手が剣の達人であるならば、それ以上のリーチを誇る槍で対抗すればいい。数で圧殺すればいい。何なら魔法でもトラップもある。武器の能力やスキルもある。

 リーファの連撃を浴びて砕けた銃剣の氷刃を再形成しようとするユナの懐に踏み込んだリーファは、その襟首をつかむと背負い投げでユナを地面に叩きつける。

 

「……かっ!?」

 

 喉から空気が漏れたユナの動きが止まる。リーファは彼女の首元に剣先を突きつけた。

 

<リーファは強いね>

 

 リーファが剣先を外せば、ユナは深呼吸1つを挟んで起き上がると賞賛する。

 

「これでも修羅場は潜り抜いてるからね」

 

 キリトとの鍛錬では即座に汗塗れになるリーファであるが、ユナの特訓に付き合う分には汗の1滴も流れなければ息も荒くならない。それだけスタミナの消耗を抑えられている証だ。

 

「ユナさんの場合、近接戦に持ち込まれたら1つ1つの動作にラグが大き過ぎる。反射に依存した攻防は危険だけど、考える時間が長過ぎるから間に合わないし、押し込まれていく。まずは基礎となる型を学べれば違ってくるんだけど、あたしは銃剣道にも明るくないしなぁ」

 

 型は実用性よりも体の動かし方を会得する意味が大きい。型を学べば自然と基礎が身に付き、実戦に通じる応用が利くようになる。HPの概念や身体能力が無い現実世界を基準とした武道はDBOでは通じないと馬鹿にする者も多いが、たとえ競技化されていようとも源流を辿れば生死をかけた戦場を生き抜く術だ。事実として、VRゲームの近接戦におけるトップ層は世界的に見てもリアルにおいて武道・格闘技の経験者が多い傾向にあるとリーファはネット記事で読んだことがあった。

 本来ならばインドアのゲーマーの夢であったはずのVRゲームにおいて、ステータス、スキル、装備、知識、経験がほぼ互角のトップ陣ではリアルの身体操作・技術・経験が勝敗を分かつ。実に無慈悲であるとリーファは思わず溜め息を吐きたくなった。

 

<銃剣道なんてあるの?>

 

「うん。剣道とかメジャーな武道に比べれば人口は少ないけどあるよ。DBOには色んなリアル経歴の人がいるから経験者もいるかもしれないけど、そうした実力者はほとんどが成り上がって何処かの有力ギルドや大ギルドにスカウトされているだろうから、あたしの伝手だと紹介してあげられないかな」

 

 リアル知識・技能はDBOにおいて重宝される。たとえば、DBOのゲームシステム、VRでの戦い方、命の奪い合いに適応しきれなかったが、武道・格闘術などにおいては高い実力を持つプレイヤーは、その技能と知識を買われて指導者としてスカウトされる事も多々ある。他にも、簿記などの経理関係の知識・技能を持つ者も同様だ。特に重宝されるのは法律関係の知識を有する人材である。

 人類の理知による統制・支配の象徴である法治を大ギルドは確立しようとしている。法を牛耳る事こそが何にも勝る支配者の特権である。だが、肝心の法の知識が無い。運用の術もない。人材はいても数が足りない。ならばこそ、増え続けるDBOプレイヤーの中から法のスペシャリストの発掘は密やかな争いにもなっているのだ。

 そうしたリアル技能・知識・経験を活かして成り上がるチャンスが得られないのは若年層だ。だからなのか、下位プレイヤーの対モンスターにおける死亡率は若年層が最も高いとされている。若さ故の無謀さで身1つの成り上がりを求め、DBOの強力なモンスター達から洗礼を受けるのだ。そして、HPゼロ=死であるデスゲームにおいて2度目のチャンスは無い。逆に言えば、DBOの苛烈にして無情を生き抜き、若さ故の成長性の高さを発揮した者は軒並みに実力者として名を連ねる可能性を秘めている。

 

「でも立ち回りは上達してる。いっそ攻撃は捨てて、防御と回避に偏重した方が良いかもね。ユナさんの装備だとどうしても決定打に欠けるし」

 

<でも、ソロになった時にも生き残れるように強くならないといけない>

 

 ユナの決意の眼差しは眩い程に真っ直ぐであるが、リーファは危うさを覚えてデコピンをする。

 リーファもユナから事情は聞いている。彼女のSAOで死亡したプレイヤーだ。生きていたならばリーファよりも年上だろう。だが、今の彼女は死亡した間の時間が止まっている。ならば自分の方がお姉さんなのだと先程の泣きながら甘えた醜態を棚上げし、強気に笑んだ。

 

「トッププレイヤーを基準にしちゃ駄目。お兄ちゃんなんて論外だから。DBOはその辺のモブさえも1人で戦って勝てるような強さじゃない。このアルヴヘイムで何度か戦った準ネームド級でさえ、連携ばっちりのパーティでも簡単に全滅する強敵なんだからね。大ギルドの上位プレイヤーだって既知のダンジョンでもソロで放り込まれたら半日と生き残れないって言われてるくらいなんだから」

 

 なお、情報ゼロの最前線のダンジョンにソロで放り込んだ場合、大ギルドの上位プレイヤーでも動き回れば1時間と生存できない為、身を潜めて救助を待つのが通例だ。リーファとレコンの武者修行も攻略本というチート級の情報があってこそ成立した綱渡りであったのだ。

 

「ソロになったら、ともかく『生き残る』ことが最優先! 戦うよりも逃げる! 逃げ切ったら動き回るんじゃなくて隠れて救助を待つ! もしもユナさんが逸れてしまっても、あたし達は絶対に見捨てない。自分達の実力が足りないなら傭兵を雇ってでも必ず助けに行くから」

 

 まぁ、お兄ちゃんがいるから傭兵を雇うような事態にはならないと信じたいけど。リーファはそう願望を胸に秘めるが、何が起こるか分からないのがDBOである。まだまだ謎を多く残すアルヴヘイムにどんな強敵・難攻ダンジョンがあるか分からないのだ。

 

「今のユナさんが体得するのは、どれだけ攻撃を浴びせられてもガードを成功させて致命傷を負わないようにする事。そして、とにかく距離を取る事。ユナさんの武器は相手の攻撃・行動を阻害させるのに秀でているから、コツさえ掴めばあたしの攻撃を振り切ることも出来るだろうし、極めればお兄ちゃんだって攻めきれなくなる」

 

 あくまで極めればの話であるが、ユナの才能と装備ならば可能であるとリーファは判断した。

 確かに接近戦の才能は無い。それは彼女が持つ内面の問題……致命的なまでの攻撃性の欠如だ。頭の回転や思い切りの良さはトッププレイヤーにも至れるだけの可能性を持っているが、HPを奪い取って倒しきるのに不可欠な攻撃性がどうしても足りないのだ。

 リーファも似たような人間をリアルでもゲームでも知っている。才能もあり、鍛錬にも時間を割いているのに、どうしても勝つことが出来ない人間がいる。理性と感情の両方のブレーキが強過ぎるのだ。

 ユナは性根から穏和で優しく、また平和主義なのだろう。彼女のような人間ばかりであるならば、世界からは争いが消えるのだろう。だが、人類史において繁栄を掴んできたのは競合を恐れない者だ。他者を下して勝者として上り詰める事を厭わない者だ。内心はどうであれ、自他が傷つく業を背負って前に進める者だ。

 本来ならば、教会で事前活動をしている方がユナには何倍にも活躍する機会があるとリーファは考える。もしも彼女の直属の上司であるならば、監督役を即座に解任して武器を取り上げて適性に合わせた役職に回している。

 

(戦場だけが活躍の場所じゃない。戦わないと生き残れないDBOだけど、少なくとも教会みたいな大組織なら最低限の自衛さえ出来れば十分のはず。今のユナさんが求めてる『力』は自衛の域を行き過ぎてるけど、やっぱり幼馴染くんが原因なのかな?)

 

 リーファにも覚えがある。兄の助けになりたいと我武者羅だったからこそ、レベル100を超え、またトッププレイヤー入りをしてもおかしくないだけの実力を蓄えた。だが、リーファは剣道で全国大会でも優勝候補に連ねる程に、闘争心と武に対する向上心は抜きん出ている。頂点に立つという同じ願いを抱き、心身を削って己を高めてきた者達を下してでも勝利を掴むという貪欲さが元より備わっている。

 だが、ユナにはそれが無い。向上心はあるだろう。だが、それは勝者に至る事を目的としたものではない。致命的なまでに闘争心が無いのだ。それは実力差があるとはいえ、鍛錬で刃を交えればすぐに分かる事だった。

 自分の戦果をまるで気にしない。人命救助が最優先。だからこそ、ヒーラーやバッファーとしての素質は確かにあるのだろう。リーファはどう指導したものかと悩む。

 

「ユナさんはどうして強くなりたいの?」

 

<追いかけたい人がいる。遠くに行ってしまいそうな人を繋ぎ止めたい。その為には強くならないといけない>

 

 説明するのが難しいのだろう。ユナが文字にするのには若干の時間がかかった。だが、リーファはだからこそ籠められた気持ちの大きさと重たさを理解する。

 

<今のエーくんは私に何も話してくれない。訊き出そうとしても、きっと何も教えてくれない。だから、手が届かない所まで行ってしまう前に追いつきたい。今度こそ、ちゃんと向き合うためにも>

 

「……そっか」

 

 本当に難しい問題だ。リーファには幼馴染と呼べる人間はいないが、親しい人物として多くの死線を潜り抜けたレコンがいる。

 だが、改変アルヴヘイムにおいても、今でさえも、レコンの心の奥底には触れることが出来ていない。自分に対して友情を超えた好意を示してくれていた相手の本音がまるで見えない。

 最近は特に不透明だ。レコンは明らかにスゴウと接近している。元より人間関係においてはドライな部分があり、目的を持てば何でも利用して前に進もうとする貪欲さは彼の持ち味であったが、サクヤの仇であるオベイロンであろうとも活用する姿は信じられなかった。

 また、ここ数日の間である微細な変化があったとするならば、リーファを見る目が変わった点だろう。変わらずして強固な信頼を寄せているが、それは男女の垣根を超えた友情にして仲間意識であるとハッキリと分かるものになっていた。

 レコンには何かがあったのだろう。リーファへの信頼は据え置きのままに、だが眼差しを変える程に何か大きな事があったのだろう。表面的な関係は変化していないが、だからこそリーファにも焦りがあった。

 今日にしてもそうだ。自分を抜きにしてスゴウと秘密裏に打ち合わせをして見学会を企画した。確かにリーファが参加していれば、スゴウの提案を片っ端から難癖をつけて却下させていただろう。レコンも理解できるからこそリーファの感情任せの発言を却下できない。だからこそ、彼女には無断で退き返せないまでに計画を進めてから半強制的に参加させたのだ。

 仮に……仮にレコンにとってリーファに対する信頼と友愛以上の目的が生まれた時、彼は一切の迷いなく裏切る判断が出来るだろう。リーファが不俱戴天の仇と断じた相手とさえも手を組むだろう。そして、レコンは決して無情な人間ではない。自分の選択で生じた苦痛を呑み込めるだけの器に成長しつつあるとリーファに見せつけている。

 オベイロンを許すことが出来ない。兄もレコンも狡猾な演技に騙されているだけだ。たとえ、演技ではないにしてもオベイロンと似通った邪悪な野望を秘めているかもしれない。ならばこそ、警戒し、また復讐という名の下で断罪するのは間違いではないはずだとリーファは信じている。

 だが、兄やレコンの姿を見れば見る程に、スゴウの活躍を知れば知る程に、孤独感が募るのだ。自分の正義は誰にも歓迎されない独りよがりなのかと冬の乾いた空気にも似た寒さを覚えるのだ。

 シンパシーとは違うのだろう。ユナの幼馴染の為に強さを求める姿に自分を重ね合わせたいだけだ。だが、それでも何かの取っ掛かりになればと思い、リーファは横倒しになった丸太を椅子代わりにして腰かけ、ユナを誘って休憩を取る。

 

「ねぇ、幼馴染くんについて教えてもらってもいいかな?」

 

「…………」

 

 桶に溜まった水で顔を洗い、タオルで拭いたユナはしばし黙り込むとスケッチブックにペンを走らせる。

 

<エーくんはとっても努力家。1度決めたら、どれだけ時間をかけても為し遂げようとする。誰にも知られていなくても、称賛されなくても、良い結果を得られないと分かり切っていても、それでも挑戦し続ける>

 

 ユナ書いた丸みを帯びた文字には幼馴染を語れて嬉しい熱を帯びていた。

 

<エーくんは慎重で冷静な人。私が感情任せで動く事が多いから、いつも手助けをしてくれていた。臆病だって馬鹿にする人も多かったけど、エーくんは自分の軽はずみな行動で自分以外の誰かが傷つく事を嫌う優しい人。だからこそ、1度決めたら驚くくらいに我武者羅になる。普段が慎重だからこそ、1度決めて動いたら絶対に止まらない>

 

 いつしか夕暮れの色に染まっていた空を見上げるユナの目には、もう帰れない幼き日を思い返しているような切なさが宿っていた。

 

<エーくんは理不尽な暴力を何よりも嫌う人。自分よりも強い人であろうとも立ち向かって助けに来てくれる。私が虐められていた時、自分よりも年上で体も大きくて数も多かったのに、ボロボロになっても助けてくれた。泣かないでって手を差し出してくれた。優しく笑ってくれた>

 

 もしもユナの声を聞く事が出来たならば、あらん限りの尊敬の念が込められていただろう。

 

<エーくんは私の目標。私もエーくんみたいに理不尽に傷つけられた人を助けたい。苦しんでる人を癒したい。たとえ力及ばずとも前に進み続けたい。私はエーくんの、自分がどれだけ傷ついても誰かを助けようとする姿に憧れたから>

 

 だが、もう夢は叶わない。そう暗に示すように、ユナはチョーカーを撫でる。リーファもお風呂で見た事があるが、チョーカーの下にはまるで声帯を抉り取られたかのような痛々しい傷痕がある。

 

(……あれ?)

 

 リーファは違和感を覚えて感が声む。ユナの事情はキリトから掻い摘んで聞かされている。彼女がペイラーの記憶に捕らわれており、キリトが救い出したという『ストーリー』だ。

 だが、リーファとて伊達に同じ屋根の下で妹として過ごしてきたわけではない。仮に純粋に救い出したならば、たとえ声を失っていたとしても、兄ならば少なからず自分が救えた人間として誇らしく語るはずだ。だが、兄の目にあったのは確固たる罪悪感だ。

 キリトがユナを救出したのは事実だろう。だが、結果に至るまでの過程で『何か』があったのだ。

 

「ねぇ、えーと……エイジさん、だっけ? その人はユナさんがお兄ちゃんに助けてもらうまで『何』をしてたの?」

 

<クラウドアースで働いていたけど辞めて、教会関係の仕事をしていたんだって>

 

「どんな仕事を? なんでクラウドアースを辞めたの? 辞めた後はどんな伝手を辿って教会から仕事を回してもらうようになったの?」

 

 ユナの認識の甘さ。それはDBO社会に対する経験不足だ。教会から仕事を貰うのは簡単な事ではない。しかもユナの庇護を担っているのはエドガー神父だ。神父は神灰教会の創設メンバーだ。亡きウルベインを同志として聖典を作り上げ、DBOにおける精神的主柱……宗教を生み出した『偉人』である。

 誰に対しても親切であり、孤児院の運営にも熱心であるエドガーであるが、経歴を辿れば聖剣騎士団出身者にして元円卓の騎士に数えられた根っこからの武闘派だ。甘さの対極に位置するような人物である。

 エイジという人物がエドガーにも認められる信徒であったならば別であるが、ユナの雰囲気からも分かる通り、彼らは教会の庇護下にあっても信徒ではない。ユナは教会の慈善活動などには好意的であっても、神灰教会が掲げる教義については無関心に近しい。良くも悪くも実利を見て教会に肯定的なのだ。

 ユナが口ごもる。リーファはもう少し踏み込むべきか悩む。

 リーファの主義は、秘密は秘密のままにしておく事だ。隠したい事を無理に暴けば余計な傷口を作って膿ませる。たとえ、触れれば剥げるような嘘であるとしても、相手の隠したいという意思を優先するのがリーファである。

 ユナは何も隠していない。だが、エイジという人物は間違いなくユナに対して秘密を抱えている。それも彼女らの関係を致命的なまでに変えてしまいかねない秘密だ。だが、ユナが語った人物像を知れば知る程に、リーファにはユナが気づけていないエイジに対する認識のズレが際立った。

 

「……エイジさんはSAOリターナーなんだよね?」

 

<うん。SAOを無事に生き延びたみたいだから>

 

 リターナーの傾向は『招待状』が送られる場合が多い。リターナーでもSAO事件後はVRから離れていた人も多いが故に、『餌』をぶら下げてリターナーにDBOのログインを強いてるケースがほとんどだ。

 ならばこそ、リーファが未だに分からないのはVRから距離を取っていたクゥリがどうしてDBOにログインしたのかであるが。クゥリも語りこそしないが、十中八九で兄を『餌』にされたのだろうとリーファは予想している。

 もちろん、『餌』の種類は様々だ。中にはトラウマなど無いとばかりに、SAOリターナーの経歴を活かしてゲーム雑誌でレビュアーをしていた人物もいたほどだ。金で誘われたプレイヤーも多いだろう。だが、中にはキリトがアスナとの再会を求めてDBOにログインしたように、家族を、友人を、恋人をDBOで再会できると誘われた者もいるのだ。

 エイジという人物がユナの語る通りの慎重な人物であるならば、金でDBOにログインなどしないはずだ。なにせ金銭には困らない。国からはSAO事件被害者に多額の補助金が出ていたのだから。クゥリのように敢えて補助金を断って自力で社会復帰を目指していた人物など稀有である。いや、彼以外にはいないだろう。

 

『勿体ない。貰えるものは貰えば良いじゃないですか!』

 

『要らねーよ。オレにとってSAOはもう終わった過去だ。ここがオレの生きる世界なら、思い出す切っ掛けなんて1つでも少ない方が良い。オレは何処にでもいる「普通の人間」として生きるさ』

 

 SAO事件で後れを取った勉学を自力で追いつき、裕福な実家の援助も断り、卵やもやしの値段で一喜一憂し、アルバイトの面接に負け続ける苦学生ルートを選ぶ猛者がクゥリ……いや、久藤篝だ。それ程までに『真っ当な人間』として、SAOリターナーでも最も生きようとしていたとリーファは……直葉はその目で直接見てきたのだ。

 だからこそ、現実世界で社会復帰を目指し、猛勉強の末に自力で大学合格を勝ち取ったクゥリがDBOにログインして、今再びSAO時代の【渡り鳥】の悪名を轟かせる姿は大きな乖離がある。だが、彼もまた秘密を抱えるならば、リーファは敢えて踏み込まない。秘密を暴かない。

 だが、それはリーファの主義だ。ユナが気づいていない幼馴染の秘密。それを認知させる事は主義から反しない。

 

「あのさ……」

 

 だが、本当に自分の仮説を伝えるべきだろうかと悩む。リーファからすれば簡単に推理できることがであるが、それは部外者として関係の輪の外にいるからこそ出来た事だ。

 幼馴染という親密に見えて、その実は相手の実像が見えない近視の関係。ましてや、ユナの口振りからすれば、それこそ2人は小学生低学年……幼き頃より続いた関係なのだろう。ならば互いに『幻想』を多大に抱いた関係でもあったはずだ。

 そして、仮にそうであるならば1つの予想が成り立つ。キリトの目に宿っていた罪悪感とユナに対する格別の配慮が際立つ。

 

(お兄ちゃんはユナさんを助け出したのは結果であって、過程では妨害した?)

 

 だが、兄の性格と少なからずの成長をリーファは知っている。SAO事件以前の兄であるならばユナに真実を伏せて事実だけを述べていたかもしれないが、今の兄ならばユナを救った結果になったとしても過程についても言及しているはずだ。だが、ユナはまるで無知である。

 つまりは口止め。キリトは何者かによってユナ救出に至るまでの過程を語ることが禁じられている。理由はいくつか考えられる。たとえば、それが仕事関係だった場合だ。傭兵としての守秘義務があるだろう。だが、兄はその気になれば傭兵の責任よりも自分の責任を優先する。傭兵として失格であるとしても、ユナに真実を語るはずだ。

 すなわち、キリトが罪悪感を抱えてでもユナの救出について秘密を守らねばならないのは、自分が罪悪感を覚える真実に該当する人物から口止めされているからだ。

 

「……ううん、何でもない」

 

 リーファは沈黙を選ぶ。仮説を明かすのは、最低でもリーファの目で件の幼馴染を見てからにすべきだろう。下手な発言で彼らの関係を狂わせても責任は取れないのだ。

 だが、ユナの語りは『幼馴染』という『幻想』によって形作られている。それだけは確かだろうとリーファには断言出来た。

 2人は幼き日に親交を結んだのだろう。ユナにとっては『友情』だったのかもしれない。だが、エイジという人物にとっては果たしてそうだったのだろうか? たとえ、幼き日は自覚が無かったとしても、成長した後は自分の本当の感情に気付いたのではないだろうか。リーファが『兄妹』という関係の中で兄に対して抱いていた感情が……家族間の親愛を超えていたものであったと気づいてしまったように。

 いいや、これは願望か。結局のところ、リーファとキリトの関係は今も『兄妹』のままだ。そして、リーファもそれでいいと望んでいる。いつまでも『妹』として兄の傍にありたいと願っている。『兄妹』という関係は自分たちだけでしか成立しない唯一無二なのだ。ならばこそ、そこには『伴侶』と同等かそれ以上の深い結びつきが許される。

 リーファはそれから再びユナに稽古をつけるが、頭ばかり働いて鍛錬相手として不誠実になっていると自覚して切り上げた。

 

「近すぎるから見えない……か」

 

 あたしは『兄妹』という立ち位置でありたいと望んでるけど、行動の内容は別だからね? リーファはまたしても女連れ……それも両手に花で消えた兄に対して想いを馳せる。

 今年のクリスマス……少し大きく動いた方が良いかもしれない。自分のポジションは揺るがぬ唯一無二だとしてもそれに甘んじるのはまた別なのだから。リーファは決意して館に戻れば、1人で何やら黙々と作業しているスゴウの後ろ姿を目にする。

 何か良からぬ事を企んでいるならば断罪の名目も立つ。リーファは≪気配遮断≫を発動させるとスゴウの背後を取る。

 彼がノートに記載しているのは、これからの素材探索のプラン、探索予定地の情報から発案すべき戦闘時のフォーメーション、そして実力不足のユナを補うべく考案された戦法だった。

 

「シルバーレインは水鉄砲だ。だったら毒水は? より凍結し易い凝結剤は? 発火性の高い薬品を混合させた場合は? これならユナさんの攻撃の選択肢も広がるか。だが、発火性の高い氷は炎属性攻撃で自爆の危険がある。提案から除外した方が良いな」

 

 リーファにも気づかず独り言を繰り返すスゴウは、システムウインドウを開くとメモ帳を展開する。そこにはこれまでの戦闘に関する各自の働きに関する細やかな分析があった。

 リーファは音もなく剣を抜き、刺突の構えを取る。狙うのはスゴウの頚椎だ。無防備の背中から刺し貫くのは容易い。

 STR出力を高める。一撃で刺し貫けば、防具を外しているスゴウならば致命傷にもなり得る。

 殺せる。サクヤとアスナの仇を取れる! リーファは滾る復讐心を刃に集中させる。

 

「…………」

 

 だが、剣を振るうことはなかった。リーファは背後を取った時と同じく音もなくスゴウから離れる。

 

「アイツは気づいてた。本当は気づいてた。全部……全部……全部、演技なんだから!」

 

 屋外に出れば、もう夕焼けは終わりを告げ、夜の闇が訪れていた。リーファはまだ耕されていない畑を目にして蹲る。

 

「あたしは……間違ってない……間違ってない!」

 

 近すぎて見えない関係もある。だが、そもそも理解しようともせずに歩み寄ろうともしない関係もある。

 だが、リーファは思い出す。純白の髪を靡かせた、もう1人の兄とも呼ぶべき、秘密の塊のような傭兵の言葉を思い返す。

 リーファの手は誰かと誰かを結び付けられるものだ。それはキリトには無いものだ。クゥリはリーファの多くを結び付けられる手を褒めてくれた。

 

「あたしにだって! 許せないものがある! それが間違いなの!?」

 

 ようやく兄の助けを出来るくらいに強くなった。だが、実際はどうだ?

 レコンはスゴウを利用してでも農園経営を推し進める。リーファは発案した側なのに、自分を置いてきぼりにして計画は進んでいる。

 アスナをオベイロンに惨たらしく殺されたはずのキリトは確かな歩み寄りをスゴウに見せ始めている。見極める為だとしても、復讐すべき相手を素直に評価し、少しでも理解しようと努めている。

 誰も教えてくれない。だが、リーファは兄が優しく諭して頭を撫でた温もりを思い出す。

 

「あたしは……あたしは……!」

 

 どれだけ叫んでも、呻いても、泣いても、答えは出ない。そんな事は嫌という程に分かっている。リーファは頬を伝いそうになった涙を袖で拭い、立ち上がる。

 負けるか。負けるものか。クゥリが認めてくれたものがもう1つある。キリトにも負けず劣らずの……いいや、それを超える程の負けん気だ。リーファは拳を握り、スゴウがいる館を睨み返す。

 だったら答えが出る日まで、疑い続けてやる。心を許さずに睨み続けてやる! リーファは剣を抜き、『敵』を思い浮かべて刃を振るい、更なる鍛錬に励んだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 かつてスローネと激戦を繰り広げ、聖剣を託された場所、黒火山。その麓にて、キリトは衝撃を受けていた。

 

「――ということで、レギオンのミョルニルさんです」

 

「…………」

 

 情報の暴力だ。キリトは酷い頭痛を覚えながら、快活に笑んで覗かせる八重歯が愛らしい色黒の少女……その正体は人を喰らい殺す怪物であるレギオンを目視する。

 見た目は10歳前後。真冬に相応しくない、真夏のひまわり畑こそ相応しいオーバーオール。毛糸の帽子とマフラーはまるで風邪を知らない子どもに母親が心配して着せたかのようだ。

 

「ヨメ、ショウカイ、アリガトウ!」

 

「……いいえ」

 

 ミョルニル。アルヴヘイムでキリト達を助けてくれたグングニルやナギとはまた異なった、むしろ敵対行動を取っていたレギオン。その正体は全身を青黒い体毛に覆われ、複数の目を持つ巨大なゴリラのような外観だ。およそ今の快活で愛らしい元気少女の見た目からは想像できない。

 

「オレ、オマエタチ、テツダウ!」

 

「要らない。断る。ノーサンキュー」

 

「ガーン!」

 

 思わずノータイムで拒否を発言してしまったキリトに対し、ミョルニルは涙目になってショックを受ける。

 ガーンって……自分の口で言う奴、初めて見たぞ。キリトは更なる頭痛で眉間に皺を寄せ、冷静になれと自分に訴えかけてよく揉み解す。

 元よりレギオンには接触するつもりだった。だが、それは幾つも難題をクリアしてからになるだろうと予想していた。それも会話が成立するのは、グングニルやナギのようなプレイヤーに……人間に対して好意的なレギオンに限られるだろうと判断していた。

 だが、まさかの接触してきたのは確実に敵対していたはずだろうミョルニルだ。

 

「シリカ」

 

「謝ります。ミョルニルさんからは前にも1度接触していました。だけど、あれはほとんど偶然というか……もう拒否権さえも行使させない突拍子も無かったというか……」

 

 シリカの弁解はミョルニルを見れば分かる。およそ建設的な行動を取らないタイプなのだろう。

 

「別に責めてない。もう、なんか……諦めないといけない存在なんだなって……」

 

 キリトは頭を掻き、ショックを受けたまま後退り続けてフェードアウトしようとしているミョルニルに待ったをかける。

 

「ごめん。レギオンの手助けが得られるのは嬉しい。だけど、キミ達にとって何のメリットがあるんだ?」

 

 ミョルニルの申し出はウンディーネの秘薬の素材集めを手伝うというものだ。つまり、秘薬の作成にはレギオンにとってメリットがあるという事だ。

 

「レギオン、メリット、ナイ! デモ、オレ、アル! オレ、ケンシ、テツダウ! ケンシ、カンシャ! ツマリ、ヨメ、デート、オーケー! オレ、クリスマスデート、ヤッター!」

 

「……つまり、レギオンの思惑ではなく、キミがえーと『嫁』とデートできるから俺を手伝うって事か?」

 

「デートなんてしません! そんな約束していないでしょう!?」

 

「ソウダッケ?」

 

 なるほど。『嫁』とはシリカのことか。キリトとミョルニルの間を反復横跳びするように顔を向けるシリカは、縋るように彼に迫った。

 

「してませんからね!? 本当に約束なんてしてませんからね!?」

 

「わ、分かったよ。ミョルニル、悪いけどシリカの意思が優先だ。俺の仕事を手伝ってもクリスマスデートは出来ないぞ?」

 

「ナ、ナント!? ヨソウガイ! ムムム!?」

 

 腕を組んで悩んだミョルニルであるが、すぐに思いついたように飛び跳ね、ウィンクしながらキリトを指差す。

 

「レギオン、ニゴン、ナイ! オレ、テツダウ! カゾク、ヤクソク、アルシナ! タダシ、デート、カケテ、ショウブ!」

 

 また突拍子もない事を! キリトは額を押さえ、溜め息を吐きたいのを堪える。

 

「言っただろう? シリカの意思が優先だ。俺をどうこうしたところで意味は無いんだ」

 

「キリトさん、ちょっと……」

 

 シリカはキリトの肩を叩き、ミョルニルから引き離す。

 

「これは千載一遇のチャンスです。ミョルニルさんはこちらと取引・交渉に応じても構わないそうですけど、御覧の通りの『アレ』なのでまともに成立するとは思えません」

 

「……勝利したら他のレギオンを交渉のテーブルに引っ張り出すことは出来るかもしれない。だけどなぁ」

 

 シリカのクリスマスの予定を賭けの対象にするのは乗り気になれない。キリトは腕を組んで考え込み、妥協点を探す。

 

「クリスマスデートは認められない。シリカが嫌がる事は賭けの対象にできない。悪いな」

 

「ソウカ。ヨメ、イヤ、ナノカ。ソレナラ、シカタナイナ」

 

 寂しそうに、だが強がるように笑ってミョルニルは頬を掻いた。

 

「オレ、レギオン。マダ、ニンゲン、ココロ、ヨク、ワカッテナイ。ウウン、チガウ。レギオン、ツナガッテル。ダカラ、ジョウホウ、アル。マナベル。ダケド、ジブンノモノ、デキテナイ。ココロ、ホントウノリカイ、トテモ、ムツカシイナ」

 

「…………」

 

「ヨメ、ゴメンナ。イヤダッタンダナ」

 

「……シリカのクリスマスデートは賭けの対象にはできない。だけど、クリスマスパーティでシリカと踊る権利は賭けよう!」

 

「キリトさん!?」

 

 シリカに耳を引っ張られ、キリトは再びミョルニルから引き剥がされる。

 

「私の自由意思うんぬんは何処に行ったんですか!?」

 

「ごめん! でも、ほら……あんなにしょんぼりされたら、見てられなくて!」

 

「そ、それは……そうですけど……」

 

「それにダンスくらいは良いじゃないか。レギオンに良いも悪いもあるかは分からないけど、少なくとも『嫌な奴』じゃない。シリカもそう思ってるんだろう? だったら、ここで少しでも交流を深めておいた方が良い。俺に敵意を持っていない……とは思うけど、シリカの方を気に入ってるみたいだしな」

 

「私は前に全身の骨を砕かれているし、目の前で人間を捕食してる姿を見てるんですけどね。でも、まぁ……悪意が無い子どもみたいな人……じゃなくて、レギオンだとは思いますよ。ハァ、分かりました。ダンスくらいなら良いですよ」

 

 シリカも渋々ではあるが了承する。だが、条件を付けるようにキリトの顔に指を伸ばすと唇に触れた。

 

「ただし! キリトさんと1番に踊るのは私と約束してください」

 

「OK。交渉成立だな」

 

「事後交渉ですけどね。あと……そもそもそとして勝ってくださいね。それが大前提ですよ」

 

「負ける気の勝負はしないさ」

 

 それに勝てばこちらも得られるものがある。キリトはシリカの視線を背中に浴びながら、新たな賭けに満足した様子のミョルニルの前に立つ。

 

「イイゾ! ヨメ、オドル! オレ、1バン! クリスマス、オドル!」

 

「俺が勝ったら、他のレギオンを紹介してくれ。交渉を行いたいんだ」

 

「コウショウデキル、レギオン? ウーン、ダレ、イルカナー? ウーン……ウーン……レヴァーティン、カナ? 1バン、カシコイ!」

 

 最も賢いレギオンか。キリトは仮に交渉するならば、頭脳派を総動員して挑まねばならないと判断する。1度限りのチャンスだろう。絶対にモノにしなければならない。

 だが、大前提としてミョルニルに勝たねばならない。相手は10歳前後の愛らしい少女の姿とはいえ、あのユージーンの攻撃さえもダメージを与えられていなかった。月蝕の聖剣ならば≪剛覇剣≫と同等、あるいは超えた攻撃力を発揮できるかもしれないが、それでも単純な防御力の高さだけはない、特異な能力を持っているのは違いないだろう。

 

「ヨシ! ジャア、ハジメルゾ!」

 

「待ってください。ミョルニルさんを信用していないわけではありませんが、他のレギオンが必ずしも契約を履行してくれるとは限りません」

 

「レギオン、ミンナ、ツナガッテル。オレノイケン、ミンナノイケン。オレノイシ、ミンナノイシ! レギオン、ヤクソク、マモル、ダイジ!」

 

「そうかもしれません。ですが、私達はレギオンではなく人間です。ミョルニルさんがレギオンという種より交渉相手を選出する以上は、相応の確約が不可欠です。それが人間のルールです」

 

「ソウイモノ、ナノカ? シカタナイ、ナァ!」

 

 ミョルニルは難しい事など分からないとこめかみをグリグリと指で押さえて唸る。

 

「今、簡易的なものですが、契約書を作成します。キリトさんは聖剣に誓って、ミョルニルさんはレギオンという種族に誓って、契約書に『血判』をお願いします」

 

「……! ああ、分かった」

 

 シリカの狙いが分かった。キリトはシリカがどうして回りくどい真似をしたのかを悟る。

 

「勝負の内容を決めよう」

 

 シリカが契約書を作成している間に、キリトはミョルニルに勝負の内容について問う。

 

「デュエル! オレ、ケンシ、ケットウ!」

 

「分かった。だけど、デュエルならHPがゼロになるまで削り合ったら意味が無い。勝敗をどうする? HPが半分か? それとも先制打を入れた方か? トータルダメージもあるぞ」

 

「ウーン、ドレ、タノシイ?」

 

「そうだな。ダメージ量を競うトータルダメージはおススメかな?」

 

「ソレ!」

 

「OK。デュエルシステムに問題なし。勝敗は600秒のトータルダメージ。実ダメージは30分の1。アイテム使用許可。サレンダー有り。これで良し」

 

 レギオン相手にもデュエルが有効。カーソルがプレイヤーに偽装されているせいだろうか。貴重な情報だとキリトは内心で拳を握る。

 これならば互いに死亡率は限りなく下げられる。レギオンの生命の心配をするなどプレイヤーに……いや、人類に対する反逆行為にも等しいが、それでもミョルニルが死んでしまってはそれこそレギオン全体の反感を買うかもしれないのだ。

 

「サァ、ハジメルゾ!」

 

「少し待ってください。契約書を作ってますから」

 

 シリカはのんびりとした動きで契約書を作成する。ミョルニルは屈伸などのストレッチをして待っていたが、それも10分を超える頃になると3時のおやつをお預けされた子供のようにシリカの周囲をぐるぐると回り始める。

 

「マ、マダ?」

 

「まだです」

 

「……マダ?」

 

「まだでーす」

 

 対するキリトは瞼を閉ざし、どうやってミョルニルに効率的にダメージを与えるかを計算する。

 戦闘の場所となるのは懐かしき黒火山の麓だ。見渡す限りに草木の1本も生えておらず、割れた地面からは煮え滾った溶岩が顔を覗かせている。

 周辺にモンスターもプレイヤーも無し。黒火山はシェムレムロスの館と並ぶ不人気スポットである。火山といえば良質な金属関連の素材の宝庫なのであるが、鉱山夫を動員するにはモンスターの攻撃が苛烈過ぎる為に、採掘拠点の建設にも不向きなのである。また、素材に関しても火口近くまでいけば穢れの火の影響を受けた特殊な素材も入手できるが、レベル100級ともなれば最深部の採掘コストに対してリターンが見合わず、他の素材についても代用可能であるので放置されている。

 逆に言えば、モンスター対策さえ出来れば手付かずの鉱脈があり、有力ギルドの幾つかは人員を派遣して調査を続行しているが、それも最近は熱量が無い。

 

「契約書を作成しました。双方、血判による合意をお願いします」

 

 キリトは左手の籠手を外すと聖剣の刃を親指に当て、契約書に判を押す。

 契約書を受け取ったミョルニルは右手の親指を歯で噛み、血を流すと契約書に押し付けた。

 

(ユージーンの剣を受けても傷1つ付かなかったのに、自分で皮膚を食い千切った。人間の姿だからか? それとも……いや、情報の1つとして考えておくべきだな)

 

 だが、シリカからの最大の援護を無駄にはしない。わざわざ契約書にサインではなく血判させたのは、シリカも把握しているミョルニルの絶大な防御力の秘密を暴く手がかりを得る為だ。

 可能性1、自傷ダメージならば突出した防御力を支えている何らかの能力を無効化させることが出来る。キリトは左手にメイデンハーツを、右手に月蝕の聖剣をそれぞれ構える。対するミョルニルはシリカに毛糸の帽子を預けると右腕をぐるぐると回したかと思えば、強気な笑みで挑発するようにキリトを手招きした。

 

「センセイ、ユズッテヤル。セイケン、サイダイ、コウゲキ、ミセテミロ! オレ、ヨケナイ! ウケテヤル!」

 

「……後悔するぞ」

 

 月光モードを除けば、キリトの最大火力技は2つ。純然たるフルパワーの月蝕突き、あるいは極限まで月蝕の奔流を収束させた斬撃によって傷口に周辺部位を重力の如く引き摺り込んでアバターを強制崩壊させて致命丁的なダメージを与える月蝕の一閃だ。

 殺傷能力では月蝕の一閃に軍配が上がるが、それはアバター崩壊作用による部分が大きい。純粋なダメージでは月蝕突きが上だろう。

 デュエルスタート。十分にシリカが距離を取った事を確認したキリトは月蝕の聖剣より月蝕の奔流を放出させ、また束ねていく。白銀の刀身を覆う黒真珠のような漆黒の刀身は今にも破裂してしまいそうな危うさがあった。

 まだだ。キリトは呼吸を整え、STR出力を増強させて今にも手元から弾け飛びそうな聖剣を握り止める。

 キリトは確信する。普段のフルチャージよりも上……オーバーチャージの月蝕突きだ。ユージーンの≪剛覇剣≫の上位ソードスキルの最大攻撃さえも上回りかねない破壊力であるはずだ。貫通力だけならば間違いなく上である。

 距離にし5メートル。だが、オーバーチャージの影響で1歩と動けない。だが、キリトにはメイデンハーツとソードスキルがある。

 発動させるのは≪歩法≫の基礎ソードスキルのラビットダッシュ。同時に背後に竜牙ヤスリを用いた竜衝暖を放つ。ラビットダッシュと同時に背後の地面に着弾し、解き放たれた衝撃波を背中に受けて加速する。

 クゥリが得意とする爆風を利用した加速! キリトはソードスキルによるシステムアシストによる加速と爆風による加速を併用することによってスピードを得て、ミョルニルと間合いを詰める。

 スピードを上乗せしたオーバーチャージの月蝕突き。下手をせずとも並のネームドならば一撃でHPバーの1本を奪われかねない破壊力と貫通力が解き放たれる。

 

 

 

 

 

「フーン……コノテイド、カァ。ガッカリ、ダ」

 

 

 

 

 

 対するミョルニルはあろうことか頭突きでもするように、月蝕突きに眉間を押し付けた。解放された月蝕の奔流を乗せた突きは竜すらも鱗ごと肉も内臓も吹き飛ばすだけの威力を秘めていたはずなのに、ミョルニルは……無傷だった。HPバーは動く気配すらも無かった。

 それだけではない。防御力が優れているだけではない。ミョルニルはその場から微動すらもしていない。巨人すらも吹き飛ばして転倒させるだけの威力であるはずなのに、身長140センチ程度しかないミョルニルは不動だった。

 ユージーンがダメージを与えられなかった事実があっただけに、デュエルルールによる実ダメージ軽減も合わせて一撃即死はあり得ないだろうと思っていたキリトもこれには目を見開いて思考が停止しかける。

 あり得ない。馬鹿げた防御力! キリトは自分がどれだけ危険な相手とデュエルをしているのか察知する。

 レベル5の毒を用いた攻撃を用いて、多種の能力を有するマザーレギオンは間違いなく強敵であるが、同時にダメージは通る相手でもあった。回復能力はあったとしても、ラッシュで削り切る事は今のキリトならば難しくない。

 だが、ミョルニルはユージーンのような一撃必殺の火力でも傷を負わせることは出来ず、キリトのラッシュも全く通じる予感がしない。これがどれだけ恐ろしい事か、言うまでもないことである。

 

「ジャア、ツギ、コッチ! シヌナヨ!」

 

 快活に笑ったミョルニルは右拳を振り上げる。見え透いたテレフォンパンチ。レギオンとは思えない稚拙な攻撃だ。

 回避する事は容易いだろう。だが、キリトは受け流しからのカウンターを狙う。ダメージが全く通らないならば、限りなく多種のパターンで攻撃を与えて能力の攻略法を探らねばならない。

 だが、金属が共鳴するような甲高い音を聖剣は発する。キリトにはそれがハッキリと警告として感じ取れ、受け流しから安全重視の回避に切り替える。

 

 

 

 

 

 そして、ミョルニルが放った杜撰な右拳は絶大な衝撃波を伴い、正面の地面を抉り取っていった。

 

 

 

 

 

 

 は? キリトは思わず目を白黒させた。あんなパンチをまともに受けたならば、全身の骨は砕け、肉と内臓は潰れていただろう。デュエルルールで実ダメージは軽減されてもアバター損壊は有効だ。キリトは動くことが出来なくなり、サレンダーを余儀なくされたはずだ。

 改変アルヴヘイムの比ではない破壊力。キリトはレギオンに対して致命的な見落としがあったと悔恨する。

 レギオンの最大の脅威は戦闘情報を蓄積し、自身にフィードバックさせてリアルタイムで成長させる点にある。言うなれば超スピードの自己強化だ。

 戦闘を重ねた……時間を経たレギオン程に強い。ミョルニルは幼い外見であるが、ユージーンとの戦いを学習済みだ。すなわち、ユージーンのパワーを『超える』だけの成長を必要とし、それを可能とするリソースを得るだけの時間があった。

 結果、発揮されるのは≪剛覇剣≫さえも超越する破壊力を獲得したレギオンの誕生だ。リソースという有限がある以上は無制限の自己強化は不可能だろうが、少なくともオーバーチャージの月蝕突きを無効化させるにも等しい防御力と≪剛覇剣≫を超えるだけのパワーを両立させている。

 

「イクゾー♪」

 

 そして、ミョルニルは10歳ほどの幼い外観に相応しい小回りの利く身軽さでキリトを肉薄する!

 

「キリトさん!」

 

「シリカ! 絶対に近づくな!」

 

 まさかのミョルニルの凶悪さにシリカが思わず駆け寄ろうとするが、キリトは制止をかける。

 クゥリ程ではないにしても、キリトも回避力には自信がある。VITにポイントを十分に振り、なおかつ防具の防御力もあるキリトはある程度のダメージを許容しながらも戦闘するスタイルであるが、ユージーンのようにダメージを受けながらそれ以上の攻撃で叩き伏せるタイプではなく、防御も回避もバランスよく活用して極力ダメージを受けない立ち回りが基本である。

 そもそもとして、クゥリの回避能力が尋常ではないだけなのだ。キリト級であってもネームドどころかモンスターに囲われたら無傷は不可能だ。キリトはあくまで自身の技能、防御力、HP、回復アイテムやオート―ヒーリングの全てを合わせてダメージレースで勝つのである。

 それは恥でも敗北でもない。戦闘スタイルの差異だ。クゥリの完全回避と超攻撃特化はある種の理想形であるが、逆に言えば1発で引っ繰り返される危ういものだ。事実として、月光の聖剣や心意をフル活用したキリトは幾度か盤面を覆し、クゥリに手傷を負わせて彼にカードを切らざるを得なくするまで追い詰めている。

 だからこそ、ミョルニルは凶悪なのだ。HPも防御力も関係なく一撃必殺。それならば全てを攻撃に割り振って全回避するクゥリのスタイルの方が『利』は多いのである。

 だが、キリトも伊達に死線を潜り抜けてきたわけではない。破壊力の高さに面食らったが、冷静になればミョルニルの攻撃は稚拙なのだ。回避は難しくない。レギオンとは思えない稚拙な攻撃は油断を誘うためか、それともパワーに振る舞わされているのか。

 スピードも大したものではない。キリトは容易く背後を取り、メイデンハーツを連射する。

 ユージーンには無かった射撃属性攻撃はどうだ? 情報収集目的で放った6連射は近距離でミョルニルの背中に全弾命中するもダメージは無し。ミョルニルは快活な笑みで振り返るとカウンターのパンチを振るうが、キリトは既に間合い外だ。風圧だけが彼の頬を撫でる。

 

(確かに破壊力は侮れない。だけど、それならモルドレッドだって同じだ)

 

 カラクリこそあったが、モルドレッドも同じく攻略法を暴かなければ100人相手でも余裕で無双できる防御能力を持ち、また破壊力があった。キリト相手にはまともに剣技を披露こそしなかったが、底知れぬ武を有していたモルドレッドの方が遥かに恐ろしい相手だった。

 

(出来れば『最悪』を想定して倒し方まで掴んでおきたいけど、デュエルの勝敗はトータルダメージ。どちらが多くのダメージを与えたかだ)

 

 DBはどれだけ防御力が高くても攻撃と判定されたならばダメージが必ず『1』は通る。ここがモルドレッドとミョルニルの決定的な違いだ。モルドレッドは聖剣の力を全身に纏う事で、言うなれば見えない鎧を装着していたようなものだ。対するミョルニルはあくまで絶大な防御力、あるいはそれを支える防御能力だ。たとえオートヒーリングがあってもダメージとして『1』はカウントされている。

 つまり、残り540秒をキリトが回避しきればミョルニルは負けるのだ。幸いにもスピードはキリトに軍配が上がる。このまま間合いを取り続け、メイデンハーツによる牽制射撃を続ければいい。

 だが、キリトは敢えてミョルニルの間合いに入り込む。 

 確かにそれでデュエルには勝てるかもしれない。だが、キリトの闘争心は……ここ最近は鳴りを潜めていた武の頂点を欲する剣士にして戦士の本能が背中を押す。

 ミョルニルは防御力の高さに頼り、キリトの攻撃を避けない。いや、それは正しいだろう。あらゆるダメージをほぼ無効化させるならば、こちらが攻撃したタイミングでカウンターを重ねれば勝率は高まるのだから。

 

(駄目だ。まるで攻撃が通じない。セオリー通りなら衝撃値かスタン値、どちらかの蓄積によるダウンか?)

 

 防御力は尋常ではない高さを持つモンスターは、衝撃耐性を突破してダウンを取ったり、スタンさせたりするとチャンスタイムとなり、防御力が激減する。ミョルニルも同類ならば、衝撃・スタンを効率的に蓄積できる月蝕は有効だ。

 月蝕光波の連撃。Xを描く漆黒の光波にミョルニルは相対するように両腕を交差させてガードする。

 やはり通じない。ミョルニルは1ミリと動かない。改変アルヴヘイムのユグドラシル城ではユージーンが吹き飛ばしてたはずだが、完全なる不動だ。

 

(体重か? いや、STRが高過ぎるな)

 

 裏ステータスの1つ……体格。当然であるが、体格が大きければ大きい程に当たり判定は大きくなるので不利になる。ステータスによって全てが決定されるDBOであるが、体格による補正が存在する。体格が大きければ大きい程に衝撃耐性・スタン耐性・防御力に補正がかかり、体重が増加する。逆に小柄で痩せている程に体重は減る為によりスピードが出やすくなるのだ。

 同STR・HPであっても体格差によってタフさが全く違うのだ。加えて実重量の増加はモーション値を高める。同STRエネルギーであってもモーション値が異なれば、与えるダメージ量も破壊作用も差が出る。

 あくまで裏ステ扱いである為に露骨な差が生じる程ではない。だが、決して馬鹿にできる程のものでもない。体格に優れている者程にSTR重視する傾向が強いのは、裏ステの存在が明確に観測される以前からであり、これは生物的本能が体格差による筋力差を理解しているからだろう。デスゲーム化によって現実味が加算した事によって、裏ステの存在を知らずとも己の能力を発揮する選択をしているのだ。

 もちろん、それが全てではない。身長190センチ超のボディビルダー顔負けのボディの持ち主でありながら、STR初期値でINT特化の魔法使いプレイヤーもいれば、小学生と見紛う小柄で細身ながらもゴリラと揶揄される脳筋扱い不可避のSTR特化の女性プレイヤーもいる。実際には個々の取捨選択があり、あくまで大まかな傾向が見られる程度である。

 もちろん、プレイヤーカーソルに偽装しているだけのミョルニルの『質量』は分からない。その小柄な肉体が実は鋼の塊のような重量を秘めているかもしれない。だが、それもまたあり得ないとキリトは判断できる。

 理由は単純明快。ミョルニルの足下だ。ジャンプして蹴りを繰り出したミョルニルは軽やかに着地する。その際に地響きもなければ、地面の陥没もない。見た目通りの軽さという証拠である。

 分析結果、ミョルニルが攻撃を受けても微動もしないのは、こちらの攻撃に対してSTRエネルギーで相殺しているからだ。つまり、ミョルニルのSTRエネルギーの相殺を欺ければ見た目通りの軽さで吹き飛ばせる。

 

(待てよ。STRエネルギーの相殺……か)

 

 たとえば、格闘攻撃を腹部に受けた際に、腹筋に力を……STRエネルギーを集中させる事によって、あるいは斬撃を受けた際に傷口周辺にSTRエネルギーを高める事によってダメージ・アバター損壊を軽減させるのは、負傷する機会が多い上位プレイヤーの近接ファイターならば自ずと身に付くテクニックだ。

 ミョルニルはユージーン戦を経て新たなに手に入れた超パワー。それと防御力の高さ。2つの源が同じならば? プレイヤーではさすがにSTR値・出力がどれだけ高くても斬撃を浴びれば相応のダメージは免れないが、ミョルニルはプレイヤーに偽装したモンスターだ。『相手の攻撃を相殺できるオート能力』は十分に在り得る。

 血判時の出血。これはミョルニルが意図的にオート相殺を切ったからだ。だからこそ出血したのである。逆に言えば、ミョルニルの防御能力には意図的な解除を可能とし、また防御能力さえなければ十分に傷つけられるという証左でもある。

 キリトのコートと原理は類似しているだろう。彼のコートも攻撃を受けた時だけ硬質化する事で、軽装防具でありながら同ランクの鎧にも匹敵する防御力を発揮する。もちろん、これはユニークソウルを使用しているからこその能力なのであるが、逆に言えばそうした能力を発現できるだけのポテンシャルを元になったネームドにはあった。モンスターの能力とはそれだけ多種多様で絶大なのだ。

 

「カラダ、アッタマッテキタ! ソロソロ、イクゾー!」

 

 ミョルニルの動きが変わる。徐々にキリトの動きを捉えるべく追いつき始める

 だが、それは予想済みだ。キリトは攻撃のテンポを狂わせ、ミョルニルの反撃を狂わせる。また攻撃自体は稚拙で単調であるので問題なく対応できる。

 対クゥリの必須技能だ。攻防にはリズムがある。どれ程の達人であっても使える譜面は限られている。だが、クゥリは超スピードで譜面を読み切り、あろうことか1つの譜面を見切ると他の譜面に対してほぼ予測をつける。最悪の場合は看破してしまう。

 ならばどうするか? リアルタイムでアレンジし続けるしかない。常に新たなリズムを刻まねばならない。時には土壇場で新規の譜面を書き上げるくらい出来なければ、クゥリを捉えることは出来ない。

 それに比べれば、ミョルニルの成長速度など可愛いものである。キリトは余裕を持ってミョルニルの攻撃を躱し続ける。

 属性攻撃を試すか。キリトは発火ヤスリを用いた炸裂弾を放つ。着弾と同時に爆発し、ミョルニルの顔面は炎に呑み込める。

 

「ワプ!?」

 

 だが、煙たいだけだとばかりにミョルニルは涙目になって咳き込んだだけだ。だが、キリトは立て続けに炸裂弾を放ち、ミョルニルを揺るがさんとする。

 爆発による広範囲の衝撃にはどう対応する? 更にそこに竜衝弾を加えたら? キリトは冷徹とも思える眼差しで分析する。

 

(G&Sは……まだ早いな。レギオンは戦闘経験を共有するならば、ミョルニルに体験させない方が良い)

 

 視認と体験には雲泥の差がある。キリトは呼吸を整え、近寄り中距離をキープして射撃するが、すぐに自分の失敗を悟る。

 同じ轍を踏むとはこの事だろう。レギオン特有の成長にして変異。それをミョルニルは発揮させ始める。

 野性味溢れる青黒いボサボサの髪。それがまるで生物のようにうねり始める。

 斬。束ねられた髪は伸び、まるで大鎌の如き一閃を繰り出す。危うく首を薙がれそうだったキリトであるが、寸前で間合い外に脱する。

 

「オシイ!」

 

 ミョルニルは悔しがるが、キリトは舌打ちを堪える。

 まずい。非常にまずい。何がまずいかと問われれば、ミョルニルの外見が全てを物語っていた点だ。

 ミョルニルはマザーレギオンに比べれば戦闘能力は圧倒的に低い。改変アルヴヘイムで対決した巨大レギオンにも遥かに劣る。

 だが、それはミョルニルの『幼さ』そのものだ。ミョルニルの成長性は底知れない。成長速度とそれに合わせた変異が他のレギオンとは隔絶している。

 リソースさえあれば無限に成長できるとしても成熟期は必ず訪れる。成長率が低下する。だが、ミョルニルは違う。子どもであるが故の無限の可能性を常に発揮し続けられる。逆に言えば成熟しないからこそ、常に変異して柔軟に対応できる。

 ミョルニルの真骨頂。それはパワーでも防御力でもない。『本人の望んだ通りに変異する』という破格の才覚だ。そして、同時に子どもであるが故に決して『成熟しない』という致命的な弱点も抱えている。ミョルニルの攻撃がレギオンでありながら全て稚拙なものであるのはそれが理由だ。

 キリトは理解を深める。ミョルニルはどうして絶対的な防御力を有するのか? 他のレギオンを見れば分かる通り、レギオンは攻撃的な生物だ。防御を捨ててでも攻撃やスピードを選ぶ。だが、ミョルニルは絶大な防御力を有する。

 どうしてミョルニルは防御力を欲する? ミョルニルの能力がリソース内で『願望を実現させる』ものであるならば何故?

 防御力を欲するのは生きる為? 死にたくないから? いや、違うだろう。ミョルニルの目を見れば分かる。幼い外観にこそ際立つ、血沸き肉躍る殺し合いを欲するような、剥き出しの闘志……いや、殺意だ。

 防御力を欲する理由。ミョルニルの言動。キリトは分析を終える。

 

(タンクか)

 

 ミョルニルは自分の生命ではなく同族の……仲間の生命を守ることを是とするレギオンなのだ。それならば防御力の高さも頷ける。まさに鉄壁だ。

 

「ミョルニル、ここにキミの守る者はいない」

 

 キリトの発言にミョルニルの動きが止まる。

 

「『本気』で来い。受け止めてやる」

 

 先程のお返しだとばかりにキリトは聖剣を手で躍らせて剣先を向け、挑発する。

 ミョルニルの能力は『無意識』に依存するものだろうとキリトは予見した。『ありたい』と望む事はあっても『変える』と希望した通りに変異するものではないのだろう。

 

「イイノカ?」

 

「ああ。俺は本気のキミと『デュエル』がしたい。『全力の攻撃』をぶつけてみろ」

 

 そうしなければ強くなれない。キリトの笑みに、ミョルニルは戸惑うように視線を迷わせ、縋るようにシリカを見つめた。

 

「……もう好きにしてください」

 

 ミョルニルのパワーを見た上で挑発するキリトに呆れたのだろう。シリカは心配した様子ながらも更に距離を取る。

 まるでずっと我慢させられていたゲームを解禁されたような歓喜の表情をミョルニルは浮かべる。

 発せられたのは青い雷。ミョルニルの全身から迸り、周囲を焼き焦がすように広がっていく。

 これこそがミョルニルの殺意を……『願望を実現させる』能力が攻撃に全てを振り切った姿だ。

 瞬間、ミョルニルが『消える』。純粋なスピードでキリトの目を置き去りにする。

 腹に炸裂したのは破壊の一撃。青き雷光を纏った打撃がキリトを吹き飛ばす。

 

「ガッ!?」

 

 追撃。吹き飛ばされて宙を舞ったキリトに、跳躍していたミョルニルが拳を振り下ろす。寸前で月蝕の聖剣でガードするも、一撃で白銀の刀身を多く月蝕の刃は砕き散らされる。

 純粋なパワーならばモルドレッドさえも上回りかねず、そしてスピードは間違いなく超えている。

 キリトが出会った中で、クゥリもランスロットも……アスナさえも超えてぶっちぎりの『最速』。そして、パワーはモルドレッドの聖剣と同等かそれ以上の破壊力……すなわち巨竜にも匹敵する。

 武技の欠片もない稚拙な攻撃である。だが、パワーとスピードだけで全てを捻じ伏せる。それこそがミョルニルの『真のコンセプト』だとキリトは直感した。

 今のミョルニルには攻撃が通じるだろう。防御を捨てて全てを攻撃に割り振ったからだ。だが、攻撃を当てるのは至難の業だ。雷によるスピード強化と攻撃範囲の増強。

 

「シヌナヨ」

 

 地面に叩きつけられたキリトに、まるで全力を出させてくれたお礼を告げるように、ミョルニルは嬉々と告げる。

 繰り出されたのは踵落とし。まるで雷神が振り下ろす鉄槌の如く、青き雷撃を纏い、超加速した踵落としにキリトは死を直感する。

 

 

 

 

 

 

 地面に命中したミョルニルの踵落としは、落雷の如き轟音と共に大地に巨大な亀裂を入れ、そして黒火山の熱きマグマが噴き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 それはもはや天災。フィールドを変化させる程の破壊力にキリトは数秒前の自分の軽口を後悔しそうになっていた。

 まともに受けた打撃は腹に1発。ガードしたとはいえ、背中から地面に叩きつけられた。ダメージを受けたのは2回。実ダメージは30分の1であるはずなのに、キリトのHPは2割を切っていた。

 腹の肉は吹き飛び、波及した衝撃で内臓は潰れて口から血が零れている。死亡確定ダメージ以外ではアバターの損害が抑制されていなければキリトは腹から肉片となって飛び散っていただろう。そうでなくとも、キリトの腹に穴が開いていないのは、咄嗟に月蝕の聖剣が月蝕の奔流で腹部を守ってくれたからだ。

 

「アチチチ! ヤケド、シソウ!」

 

 地面から噴き出したマグマを浴びたミョルニルのHPは減少する。やはり防御力が低下しているのだ。今ならば普通に倒す事も出来るだろう。

 だが、ミョルニルにはまだ切り札が残っている。彼女の口元は右側が耳元まで裂け始めている通り、レギオンとしての本来の姿を残している。そうなれば、パワーも体重も増加するだろう。能力の上限も解放されるならば、破壊力とスピードは更に上がるはずである。

 

「なぁ、ミョル、ニルは……レギオンで……何番目に、強いん……だ?」

 

「オレ? ウーン……ワカラナイ。デモ、レヴァーティン、グングニル、ツヨイ! ズット、ツヨイ!」

 

 ミョルニルが自分以上と断言できるレギオンが少なくとも2体。レヴァーティンとグングニル。マザーレギオンが省かれているのは、純粋な戦闘能力ではミョルニルよりマザーレギオンが下だからか、それとも母は比較対象外だからか。

 だが、声を発するのも厳しい状態で尋ねただけの価値はあった。駆け寄ろうとするシリカを睨んで止め、キリトは腹部を中心にして広がるダメージフィードバックを咀嚼するように呼吸を整える。

 確かに強い。だが、クゥリより弱い。キリトは目を見開き、ミョルニルの体内のエネルギーの流れを知覚する。

 ミョルニルは過去最速。だが、動きは単調だ。それこそがミョルニルがミョルニルである証とも言うべき枷だからだ。

 腹にもらった一撃が教えてくれた。目覚めさせてくれた。使わねば勝てない。キリトは自覚して心意を発動させる。

 ミョルニルの右ストレート。だが、体内を巡ったエネルギーの流れが動きを予測させ、キリトは寸前で躱し、逆にカウンターを決める。首を斬られたミョルニルは、だが嬉々と笑い、そのまま左右の拳によるラッシュをかける。

 全てに青雷による加速と攻撃範囲強化が付与されている。狙いも杜撰な連打であっても、それだけで正面の空間は圧殺される。

 だが、それでは『本気』になったキリトを捉えられない。ゼロ・モーションシフトによって、体の動きを必要とせずに移動できるからだ。

 

(まだだ! まだ先に……もっと先に……!)

 

 キリトはミョルニルを囲うように自身の幻影を出現させる。ミョルニルは回し蹴りだけで全てを吹き飛ばす。生み出された風圧と雷撃だけで必殺の域なのだ。

 ユージーンは己の心意を鍛え上げ、より精密に操作し、また消耗を抑える術を身に付けていた。だが、キリトは同じ領域に到達できない。キリトはユージーンが心意によって会得した能力を継承しているが、あくまで心意の本領を発揮するのは発現した本人だけだと自身も心意を使うからこそ理解できるからだ。

 ならば後追いするのではなく、我流で別の境地を目指す。再びミョルニルの全方位に幻影を飛ばし、キリトと同時に月蝕光波を放つ。それは対クゥリで使ったものであるが、より逃げ場がないように密度を高めた連撃で繰り出す。

 月蝕剣技【コクーン=ジェイル】。それは月蝕光波による檻にして繭。殺到する月蝕光波にミョルニルは全て拳をぶつけて破砕する。防御を捨てたからこそのレギオン元来の獰猛さがより発揮されたかのようだ。

 だが、繭ならば羽化するものがあるものである。キリトは聖剣をその場に突き立て、反撃に映ろうとしたミョルニルの周辺で残留した月蝕粒子を渦巻かせる。それはミョルニルの足下から突き上げる巨刃となる。

 腹を突き刺されたミョルニルは……だが笑う。戦いが! 殺し合いが! 楽しくてしょうがないとキリトを絶賛するように笑う!

 

「マダマダァアアアアアアアアアアア!」

 

 腹を突き刺す月蝕の巨刃を拳で打ち砕き、ミョルニルは全身を縦に回転させる。

 回転力を付与させた踵落とし。それは先程を遥かに超える破壊力で大地を割る。その様はもはや天変地異だ。

 ミョルニルの野性味あるボサボサの髪がざわめく。右腕に巻き付いたかと思えば、華奢だった少女の細腕はゴリラを思わす毛むくじゃらの巨腕に変化……いや、元来の姿を取り戻す。

 拳にして雷槌。純粋な破壊力を追求した、跳躍からの振り下ろし。キリトはそれを前にして、ミョルニルと同様に笑う。だが、それは殺し合いが楽しいからではなく、この戦いに昂ぶりを覚えたからだ。 

 戦士に必要不可欠な条件。それは正しく恐怖する事であり、恐怖を乗り越える事であり、恐怖を強さに変えられる事だ。故に自ずから恐怖へと踏み込んでいく姿はある種の自己破滅的な姿にも映るだろう。

 生きたい。死にたくない! キリトはミョルニルの雷槌の拳に死の恐怖を覚え、生を渇望して記憶が脳裏を圧殺する。回避行動を取るが、あと半歩が足りないと悟る。

 復讐を誓った相手、ヒースクリフ。システムアシストによる肉体の可動を超えた運動能力を発揮したアインクラッドの魔王。クゥリと2人がかりでなければ倒せなかっただろう。

 もう2度と雪辱を果たせない相手、闇濡れの騎士ランスロット。卓越した武技はキリトの遥か先を行っていた。『剣士』としては同じ土俵に立てても、『戦士』としては今も背中を捉えることが出来ない、ある意味で目標とも呼ぶべき騎士。

 キリトは自覚している。ゼロ・モーションシフトはヒースクリフへの憎悪とランスロットへの憧憬によって生み出されたものだ。幼稚だった自分の過ちを見せつけ、永遠に苦悩を強いるような心意の発露だ。

 だからこそ、キリトは継承したユージーンの心意の能力が示す道筋を見つける。

 ユージーンは心意を受け入れ、更に高め、己の道を進んでいた。それに比べ、心意の鍛錬を怠っていた自分の何と出遅れた事か。

 何百という雷を束ねたような雷鳴を放つミョルニルの拳。だが、キリトは範囲外に脱していた。

 キリトから飛ばされた自身の幻影……それと重なるように『空間転移』したからだ。

 

「ケンシ、ソレ……」

 

 ミョルニルも驚きを隠せない様子だったが、それはキリトも同様だ。

 だが、心意だからだろう。すぐに理解できた。己の在り方を顕現させたものであるからこそ感じ取れた。

 ゼロ・モーションシフトはヒースクリフへの憎悪……過去の復讐心をベースとし、ランスロットへの憧憬によって形作られたものだ。そこに心意を鍛え上げて更に高みを目指すユージーンの背中が重なった。

 そうして見えたのは憧憬の先の超越。あの男と……雪辱を果たす機会を永遠に失った、キリトが知る限りで『最強の戦士』であるランスロットを超える事だ。

 あの男の武技の深奥は果たして如何程のものだったのか。もはや想像することしか許されず、それさえも容易く超えていくだろう。ならばこそ、自分が知る限りの全てを尽くして超越に刃を研ぐ。それこそが今も生きる自分に出来る唯一無二の武の探究なのだから。

 ユージーンの向上心が見せてくれたからこそ、自分の過去の罪と感情を超えた先へ。

 

 

 

 ゼロ・モーションシフトとの合わせ技……【ファントムシフト】。

 

 

 

「ぐっ……!」

 

 だが、代償としてキリトに頭痛は酷いものだった。それでも、キリトは今ここで倒れればコツが掴めなくなるとファントム・シフトを理解しようとする。

 ミョルニルの雷撃を纏った回し蹴り。十分に躱せたが、キリトは敢えてファントム・シフトによる回避を選択する。

 背後に飛ばした幻影に転移する。キリトはその1回でファントムシフトの特徴を分析する。

 ゼロ・モーションシフトはノーモーションでシステムアシストによる強引な移動を行うといものだ。最大効果は半径5メートル。距離が延びる程に移動速度は低下する。

 ファントムシフトは自分から幻影を飛ばし、幻影の位置に転移するというものだ。ランスロットの瞬間移動により近い。ただし、あちらは発動後に何処に出現するかの見極めが困難であるのに対し、ファントム・シフトは自分から幻影を飛ばすという関係上、移動位置が相手に観測されてしまうというリスクがある。

 また、ゼロ・モーションシフトと同じく距離によって幻影の速度が低下していく特性があるようだった。最大飛距離も不明である。

 ミョルニルは左右の拳の連打でキリトを追い詰めんとする。だが、キリトは超短距離ファントムシフトの連発によってそれらを回避する。

 ゼロ・モーションシフトはあくまで高速移動。ファントムシフトは空間転移。そこには決定的な違いがある。発動すれば当たり判定が存在しないのだ。故にジャスト回避にはこれ以上とない程に強力である。

 そして、ファントムシフト後は即座に攻撃に移れる。ミョルニルに刃は届き、その腹を裂くが、彼女は止まらずに殴りかかる。

 

「ソコ!」

 

 だが、ミョルニルは馬鹿であっても愚かではない。キリトが飛ばした幻影へと攻撃を移し、転移後を狙う。

 しかし、ファントムシフトは発動しない。ファントムシフト用の幻影……転移幻影を飛ばしていない。通常幻影である。キリトには区別がつくのだが、ミョルニルには判別できなかったのだ。

 あろうことか、キリトを真正面にしてブラフに引っ掛かり、致命的な隙を晒したミョルニル。メイデンハーツを変形させ、Qブレードを生成するとキリトは≪二刀流≫の連撃系ソードスキルにして彼の代名詞でもあったスターバーストストリームを放つ。

 強烈な連撃に、攻撃に全てを割り振っていたミョルニルは耐え切れず、押し込まれていく。

 全身を傷ついたミョルニルは咆え、全身から雷撃を発する。キリトは背後に転移幻影を飛ばし、ファントムシフトしようとするが、雷撃の範囲が想定以上に広く、ガードに切り替えようとする。だが、ファントムシフトは発動し、転移後に拡大する雷撃を浴びてしまい、片膝をつく。

 

(転移幻影を……飛ばしたら……必ず発動するのか!)

 

 融通が利かない。万能ではない。ゼロ・モーションシフトがそうであったように、心意がもたらす能力は無敵ではないのだ。

 ファントムシフトするにしても転移先が攻撃範囲であり、また持続攻撃であったならば意味がない。また、相手が転移幻影を飛ばした先に攻撃を設置していた場合は確実にカウンターの餌食になる。良い勉強になったとキリトは笑って立ち上がる。

 まだだ。まだ先を見れるはずだ! キリトはより目を凝らし、耳を澄ませ、肌で感じ取る。ミョルニルの体内で巡るエネルギーの流れを知覚する。

 ミョルニルの右手にエネルギーが集中している。最大火力の一撃で勝負を決めるつもりだろう。キリトは月蝕の聖剣に月蝕を凝縮させる。心意を極限まで高める事で発動する最強の攻撃……月蝕の一閃を準備する。

 ミョルニルは獰猛に牙を剥き、加速の限りを尽くして突進する。対するキリトはファントムシフトを利用した月蝕の一閃によるカウンターを狙う。

 前方を消し炭に変える雷撃を帯びた、だが単調過ぎる右ストレート。キリトはミョルニルの左脇に転移して躱す。

 だが、ミョルニルはそれを待っていたとばかりに、自身の足首と膝が壊しながら強引に腰に回転を加えてキリトを追撃する。右腕に集中し過ぎた破壊エネルギーに耐え切れない体を傷つけながらの逆カウンターにキリトは目を見開くが、自分もまだ終わっていないと更に転移幻影をミョルニルの上空に飛ばす。

 ファントムシフト! キリトはミョルニルの頭上を取り、膝と足首を壊しながら空ぶったミョルニルに襲い掛かる。

 

「……殺った」

 

 あれ程の攻撃を浴びせても全く揺るがなかったミョルニルの体は外見通りに軽く、キリトはあっさり押し倒して組み伏せると、首に月蝕の一閃を保ったままの聖剣の刃を突きつけた。

 ダメージを受け過ぎた。トータルダメージはキリトの負けだろう。ならば勝ち目はサレンダーしかない。キリトの月蝕の一閃は攻撃箇所を強制崩壊させる。実ダメージは30分の1化していようともアバターの損壊は免除されていない。首にダメージを受ければ、ミョルニルは死亡しかねない致命的なダメージを受けるだろう。

 

「キミの負けだ」

 

「マダダ! オレ、マダ、タタカエル!」

 

 ミョルニルは闘志を……いや、殺意を剥き出しにして雷撃を発しようとする。確かに、ミョルニルが死を恐れないならば、全身から雷撃を発して組み伏せたキリトを相討ちに持ち込む事も可能だろう。月蝕の一閃に耐えられる可能性にかけて反撃に出ることも出来るだろう。

 だが、キリトは首を横に振り、ミョルニルを諭すように優しく笑いかけた。

 

「いいや、負けだよ。これが……これが命の奪い合いだったら、キミにはまだ抵抗する術が残っている。だけど、これは『デュエル』だ。殺し合いじゃないんだ」

 

「デモ、オレ……オレ……!」

 

「頼む。俺はキミと『デュエル』をしたんだ。『殺し合い』をしていたわけじゃないんだ」

 

 キリトの言葉にミョルニルは唇を噛んで震え、大きな目に涙を溜める。右腕の変異と裂けた口が元に戻っていく。それは戦意を解いた証だ。

 

「ビェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ! マケタ! オレ、マケタ! ウワァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!」

 

 そして、サレンダーをしてキリトの勝利を認めると、彼の鼓膜を破るような大声で泣き叫んだ。

 聖剣に収束していた月蝕を上空に解き放ち、安全を確保して背負ったキリトは耳を塞いでよろめきながら離れる。

 

「ビェエエエエエエエエエエエエエエエン! ヤダヤダヤダ! オレ、マケテナカッタ! コロシアイ、ダッタラ、カテタ! カテタ! コロセタ! ビェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!」

 

 涙を決壊したダムのように溢れ出し、泣きわめく姿は駄々をこねる子どものようだ。全身のダメージと心意の反動でよろめいたキリトを駆け付けたシリカが支える。

 

「お疲れ様でしたと労いたいですけど……これ何ですか?」

 

「い、いや、俺にも……まぁ、悔し泣き……なんじゃないのか?」

 

 確かに殺し合いであったならば、ミョルニルの拳を腹に受けた時点でキリトの死亡は確定している。ミョルニルの言い分は間違っていないだろう。だが、仮にこれが生死をかけた戦いであったならば、キリトもキリトで馬鹿正直にミョルニルの戦いに付き合ったわけではなく、彼の相応の戦術とカードを切っているのでお互い様である。なにせ、キリトは既にミョルニルの超防御の『攻略法』を既に見出していたのだから。わざわざ攻撃力に全振りさせずとも攻撃を通す作戦はあったのである。

 だが、そうしなかったのは自分が強くなる為であり、また同時に……ミョルニルが『つまらなそうだった』からだ。

 

「ヒック……ヒック……オレ、マケテナイ。コロシアイ、ナラ、マケテナイ……!」

 

「なぁ、ミョルニル。悔しいよな。悔しいから、あれこれ理由を付けて、自分は負けていないって思い込みたいよな」

 

 キリトはシリカに支えられながら座り込んで涙するミョルニルの元に向かい、片膝をついて目線を合わせる。

 

「でもさ、『強くなって再戦しよう』って意気込めるのが……『次はどうやって勝とう』って頭を悩ませるのが……悔しいくらいにどうしようもなく楽しくてしょうがないのが『デュエル』なんだ。1回限りの全力尽くす生死をかけた戦いを否定するわけじゃない。でも、俺は……ミョルニルにも知ってほしかったんだ。『デュエル』の楽しさをさ」

 

 ミョルニルは子どもなのだ。シリカの言う通り、人肉を貪り喰らうレギオンであるとしても、その心はキリトが今まで出会った他のレギオンよりも圧倒的に幼く、純粋で、そして変幻自在の能力の通りに好奇心に満ち溢れている。

 ならばこそ知ってほしい。いつか殺し合うしかない、種としての生存競争をかけた関係だとしても、今は『仲間』であると言ってくれるミョルニルに、自分が知るデュエルの醍醐味を味わってほしかった。

 

「……ツギ、カツ」

 

「そうはさせない。次も俺が勝つさ」

 

 キリトはミョルニルに手を差し出し、握手を交わし、立ち上がらせる。涙と血と灰で汚れたミョルニルの泣き顔を、シリカは嘆息を吐きながらハンカチで拭った。

 

「まったく、お互いの姿と周囲を見てください。これの何処が『デュエル』なんですか?」

 

 キリトは骨が砕けて内臓は潰れ、呼吸をする度に口から血が零れている。ミョルニルは全身が傷だらけで血だらけである。周辺はキリトの月蝕剣技、そしてそれ以上のミョルニルの攻撃によって、大地は割れ、マグマは噴き出し、火山が噴火したかのように大地に蓄積していた灰燼は舞い上がっていた。

 

「『デュエル』だよ。なぁ、ミョルニル?」

 

「……ウン。コレ、『デュエル』」

 

 まだ泣き止んでいないが、鼻を啜りながらもキリトに同意したミョルニルに、シリカは呆れて物も言えない様子だった。

 

「マケタ。クリスマス……ヨメ……オドリタカッタ」

 

「契約は絶対だ。その悔しさをバネに次のデュエルに備えるんだな! ハハハハハ!」

 

「……オマエ、イツカ、カナラズ、コロス」

 

 ボスボスとキリトの横腹を殴るミョルニルであるが、その拳は優しい。だが、加減が足りない。傷への配慮も足りない。1発毎にキリトは吐血する。

 

「はいはい。デュエル馬鹿なのは結構ですが、確かに契約は絶対なのは同意です。とうことでキリトさん、『仕事達成までの私との相室』は守ってくださいね♪」

 

「……は?」

 

「えー!? 何を驚いた顔をしてるんですか!? ほら、ちゃんと契約書に書いてあるじゃないですか!」

 

 シリカは上機嫌に契約書を差し出し、キリトは震える手で奪い取り、ごくりと生唾を呑んで、妙に小さい文字でびっしりと書き込まれた契約書を確認する。

 大半は契約の履行義務に関する内容である。キリトは目を走らせて勝敗とそれによって履行する内容の記述を探す。

 

「『キリトが勝利した場合:アスクレピオスの書架の依頼「ウンディーネの秘薬の素材取集」完了までの間、キリトはシリカと同室・同ベッドで就寝を認可する』……だと!?」

 

「はい♪」

 

「おかしいだろ! だって! 俺が勝ったらレギオンと交渉を……!?」

 

「それはデュエルを行う前提条件の部分に記載されています。デュエルを開始した時点で、ミョルニルさんは私達にレギオンとの交渉を認可する。それから……」

 

「ア! クリスマス、オドル、カイテアル! オレ、ヨメ、オドル!」

 

「踊るくらいは良いですよ。ただし、キリトさんが1番です。それも契約書に書いてありますからね」

 

 は、謀られた……! キリトはシリカがわざわざ契約書を準備した真の狙いに両膝をつく。

 シリカはミョルニルに血判を押させて防御能力の秘密を解き明かすヒントを与えた……と見せかけて、真の狙いはキリトを罠に嵌めることだったのだ。自分もまんまと騙されたが、勝利報酬だったクリスマスダンスをゲットしたミョルニルはまるで気づいた様子もなく、満面の笑顔のシリカの周囲を嬉しそうに駆け回っている。

 

「契約は絶対。それがルールですよね?」

 

 小悪魔? いいや、大悪魔だ! キリトは顔面を地面に押し付けながら嗚咽を堪える。

 

「ちなみに注釈にある通り『お風呂も一緒』ですから」

 

「……それはさすがに勘弁してください。スグに殺される」

 

「駄目です。契約は絶対です」

 

 契約書はちゃんと読みましょう。社会の常識を改めて教えられたキリトは魂が抜けた顔で契約書を改めて確認し、そして気づく。

 

(ミョルニルが勝利した場合、クリスマスデートをする……か)

 

 これはミョルニルに言わない方が良いだろう。また泣き喚く事になる。だが、ここまで暗躍したというのに、ミョルニルの勝利報酬を敢えて自分に不利な内容にしたのは、万が一でもバレた時に備えてだろうかとキリトはシリカに視線を移せば、彼女は背中を向ける。

 

「私はいつだってキリトさんの勝利を信じていますから」

 

「……まったく」

 

 これでは完敗ではないか。キリトは天を仰ぐしかなかった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「ミョルニルには完全レギオン形態が残されていたとはいえ、剣士殿の勝利……か」

 

 キリトとミョルニルのデュエルを遠方から監視していたのは、青黒いショートカットと知的な切れ長の目、そしてパンツスタイルの黒スーツに身を包んだレヴァーティンだ。レギオンにあるまじき豊満な胸部を抱えるように腕を組み、血のように赤い瞳で捉えた戦闘を冷徹に分析する。

 ミョルニルは上位レギオンでもトップの変異柔軟性である。

 レギオンは模され劣化した殺戮本能によって対象を分析し、最適化を行い、必要ならば変異する。それこそがレギオンの成長だ。だが、レヴァーティンは変異性が低いように、レギオンとしての姿も能力も柔軟性が低く、戦闘中に再構築するのはほぼ不可能に等しい。

 だが、ミョルニルはリアルタイムで自身の肉体を変異させる。リソース範囲内で能力も柔軟に変化させる。王が有する『未完成にして未成熟であるが故の無限の成長性』……それに最も近しい『好奇』を受け継いだからこそなのだ。

 能力についても青雷の強化がメインであるが、自由な攻防変換エネルギーという能力がパッシブで備わっている。これによってあらゆる物理・属性問わずに完璧な防御力を発揮できるだけではなく、絶大なパワーを発揮する事も可能だ。また、柔軟な変異性も合わさり、リソースをリアルタイムで再振り分けする事によってあらゆるデバフ耐性を理論上の最大値にまで到達させる事も可能だ。

 単純な攻撃力・防御力・耐性・スピードで敵を粉砕する。攻撃に全てを割り振れば天変地異クラスの攻撃を連発できる。それがミョルニルなのだ。

 だが、それだけでは勝てない。単純なパワーとスピードで勝負が決まるならば、人間は生存競争に敗れている。ミョルニルには模され劣化した殺戮本能のフィードバックを活かしきるだけの知性が無かったからこそ負けたのだ。

 故に上位レギオンの中でも戦闘能力は自他が認める最弱のダーインスレイヴの1つ上……実質的最下位である。ただし、『倒し難さ』という意味では全上位レギオンでもトップであるだろう。なにせ、あらゆる攻撃を事実上の無効化にする防御能力はレヴァーティンですら簡単には突破できないのだから。

 

「ミョルねーの負けかぁ。剣士さんも強くなったね。関心関心♪」

 

 同席していたのは血を浴びたような赤黒い髪をリボンで1本に束ねた愛らしい少女……王より『敬愛』を受け継いだギャラルホルンだ。

 

「ミョルニルが完全レギオン形態になっていれば逆転の目はあった」

 

「それより剣士さんの攻撃が速いよ。ミョルねーは素のHPも防御力も高いけど、剣士さんの月蝕を極限まで束ねた一撃は斬撃部位からアバターを強制崩壊させるから。せいぜい道連れが限界だったよ」

 

「……反逆殿に傷を負わせたのは伊達ではないという事か」

 

 反逆の騎士モルドレッド。母上も陣営に取り込めなかったことを悔やんでいた程の逸材にして突出した戦力。ランスロットとは異なる極致に到達した深淵狩り。レヴァーティンも警戒する1人だ。

 レギオンは各々の戦いの邪魔はしない。今回は種族の生存をかけた戦争ではなかったのだから猶更だ。だが、レヴァーティンはキリトが容赦なくミョルニルの首を刎ねるならば、必要性に応じて参戦する準備があった。

 ミョルニルは馬鹿だ。だが、大事な家族であり、同時に『計画』において不可欠な戦力でもある。ただでさえデュナシャンドラと同盟を組んで、戦力面……特に数で足下を見られているのだ。ミョルニルの喪失はレギオンという種族の未来に大きな損害をもたらしかねない。

 同盟相手は未来の強敵。ならばこそ、戦力増強は惜しみなく、またあらゆる手段を講じねばならない。『スカウト』は特に重要だ。

 

「剣士様はミョルニル姉様を殺す事はありません。これは『デュエル』だったのですから」

 

 虹色のグラデーションがかかった髪を腰まで伸ばし、簡素な白のワンピース姿であるからこそ、その外見はまるで1輪の可憐な花のような美少女は、王の『慈悲』を賜ったグングニルは当然であるとばかりに微笑みながら告げる。

 

「剣士様は殺しを嫌う御方。命を奪う事に罪を覚えられる御方。自他の死に正しく恐怖を知ることが出来る御方。殺す必要が無いならば、ミョルニル姉様の命を無為に奪う事はありません」

 

「だが、我らはレギオンだ。種族として人間とは敵対関係にある。個人間の感情を抜きにした生存競争を繰り広げる間柄でもある」

 

「でも、まだ全面戦争には至ってない。レヴァねーはもう少し肩の力を抜こうよ」

 

「……フン」

 

 キリトを擁護するグングニルとお気楽な発言をするギャラルホルン。どちらも大事で愛しい妹であり、レギオン・ネットワークで繋がり合った存在だ。故に彼女たちの意見もまたレヴァーティンの意見でもある。故に鼻を鳴らすに止める。

 

「だが、ようやく剣士殿も心意の鍛錬と制御に注力し始めた。上々だ。剣士殿には更に『力』を手に入れ、我々の『計画』の障害を排除してもらわねば困るのだからな。ミョルニルにはしばらく剣士殿と同行を共にしてもらう。心意の鍛錬のみならず、剣士殿が更なる『力』を身に付けるには良い相手だろう」

 

 まだ足りない。『計画』の次の段階に入る為にも、更に武技も聖剣の扱いも心意も成長してもらわねば困るのだ。レヴァーティンは冷徹に計算する。

 

「問題は『奴』か。剣士殿との合流は予定外だったが、これはこれで興味深い。剣士殿たちはいずれ『あの場所』に辿り着くだろう。素晴らしい試練となるはずだ」

 

「……あまりレコンに負担をかけたくないんだけどなぁ」

 

 またあの男の心配か。レヴァーティンは思わず嘆息し、想い人の安否を気遣うギャラルホルンを横目で睨む。

 

「忘れてはいないだろうが、お前はサブプラン。次代のレギオンの王を産む事こそが使命。だからこそ、レギオン・ネットワークから独立する権限を有している」

 

「はーい。分かってまーす。えへへ、レコンと子作りかぁ……♪」

 

「…………」

 

 母上も確かにあの男の成長性と精神性は評価している。だが、果たしてギャラルホルンの使命……次代のレギオンの王の誕生というサブプランを担うキーマンになれるかと問われれば評価は芳しくない。一方でギャラルホルンの自由はマザーレギオンによって認可されている為に口出しする事も出来ない。故に長女としてレヴァーティンは苦悩する。

 その時になれば分かる事か。サブプランを敢えて自由にさせておくことで、イレギュラーでメインプランが潰れた時に損害が伝播しないようにしておくのが肝要だ。レヴァーティンは問題の先送りだと自覚しながらも今は随時評価して経過を見守るべきだと判断する。

 

「そこまで浮かれるような事か?」

 

「うん♪ やっとね……やっとね、レコンが受け入れてくれたの! すっごく幸せ! レヴァねーもグンねーも恋しなよ! たった1つを愛するって凄く胸が苦しくて、だけど温かくなる」

 

「…………」

 

「あ、もしかして、興味ある? レヴァねーも興味ある!?」

 

「…………」

 

「あるよね。あるんだよね! 私達はレギオンだもん! 繋がってるもん! だから分かるよ!」

 

「繋がっているのと知ろうとするのは別物だ。レギオンという種族の性質とプライベートは切り分けろ。それに、私の興味は恋というものが如何にしてレギオンという種族に役立つのかという点だ」

 

 王の『誠実』を受け継いだレヴァーティンは揺るがない。全てはレギオンという種族の為に。それこそが彼女の存在理由であり、矜持なのである。

 

「恋……ですか」

 

「真に受けるな」

 

 頬をほんのり赤らめて考え込んだグングニルに、レヴァーティンはギャラルホルンの戯言に惑わされるべきではないと正気に戻す。

 

「ギャラルホルンは剣士殿と妹殿と婿『候補』殿の監視を継続しろ。ただし、戦時中の救援は禁じる。あくまで監視だ」

 

「りょーかい。レヴァねーの頼みじゃなくても手は出さないよ。それで……妖精王(笑)さんはどうすればいい?」

 

 母上のネーミングを今更になってとやかく言うつもりは無いが、もう少しどうにかならなかったのだろうか。レヴァーティンは嘆息を堪え、悩ましく増々の力を入れて腕を組む。自然とレギオンにあるまじき胸部を強調するポーズになる。

 

「母上は『面白い』と見逃している。奴の目的が『あの場所』ならば、剣士殿の成長にもなるだろう。敢えて放置していた価値もあった」

 

「……『あそこ』ですか」

 

 グングニルは良い顔をしない。彼らを待つ試練が気がかりなのだろう。だが、レヴァーティンはこれで脱落するならばそれまでの事だと断じる。遺体から聖剣を剥ぎ取らせてもらうだけの事である。

 

(さて、残る厄介事は歌姫殿か)

 

 ダーインスレイヴに焚きつけられたミョルニルが動いたせいで、レギオンとしては注視せざるを得なくなった局面になってしまった。

 滅びの運命が迫る短命のレギオン。色も形もない『憎悪』を受け継いだ哀れな妹。レギオン・ネットワークに接続されない例外であるが故に思惑は見えないが、何を考えているかは予想がついている。邪魔する術も幾つか考案している。だが、マザーレギオンに手出し無用であると命じられている。

 

「方針に変更はない。現状での最優先目標は戦力増強だ。ミョルニルが交わした約束だ。私が剣士殿と交渉の席に座るとしよう」

 

 だが、交渉とは相応のカードを提示できてこそ成立するものだ。レヴァーティンは彼らと良き取引が出来る事を期待しながらその場を後にする。

 ミョルニル、グングニル、ギャラルホルン、そしてダーインスレイヴ。妹たちは可愛い。レヴァーティンはクリスマスが迫って浮足立つ終わりつつ街に移動すると彼女達がどのようにしてクリスマスを過ごすのだろうかと考える。

 レギオンという種族の性なのだろう。クリスマスは模され劣化した殺戮本能が疼く。慰めの血を求める。だが、レヴァーティンは上位レギオンでも最初に人型形態を獲得し、また彼女がベースとなって汎用化された通り、レギオンでも特に理性と知性を重んじる。それは彼女が受け継いだ『誠実』があってこそだ。

 レギオンという種の繁栄と未来の為に。レヴァーティンは影を渡り歩くように人目を避け、ある場所に赴く。

 激しい戦闘が行われた破壊の痕跡。先日、王と『闇』が戦った場所だ。目撃者は戦闘の余波で死亡した事になっているが、これにはレギオンによる工作活動も含まれている。まだ『闇』に関して噂が広まっては困るのだ。

 唯一の目撃者は王のみ。ならば拡散する事はまずない。絶対の確信を込めて、レヴァーティンは断言できる。王に未知の危険を周知させる能力が備わっているはずがないからだ。まずは自分で調べ、ある程度の情報収集を密やかに行う。それが王の狩り……習性なのだ。

 

(王でさえも殺しきれなかった。いや、『殺せたが殺せなかった』と言うべきか。王だからこそ相性が最悪ではある)

 

 来たる日、レギオン陣営とデュナシャンドラ陣営が激突した時に備えて攻略法を編み出しておかねばならない。『死ぬまで殺す』という王が得意とする脳筋戦法が通じないのだ。レギオン陣営の頭脳を担う自分の役割であるとレヴァーティンは悩む。

 やはり近しい性質を持つ『あの御方』から助言、あるいは交戦データがあれば、あるいは? レヴァーティンは現状の手札でどうにか出来ないものかと悩むも、どうしても損害が大き過ぎると断念する。

 

「……む?」

 

 考え込むレヴァーティンが夕焼けの空の下で、瓦礫の上で胡坐を掻く人影を見つける。見知った背中に、レヴァーティンは敢えて気配を発しながら背後に立つ。

 

「護衛も無しに野外で早めの酌か。どうやら死にたいと見える」

 

「……オメェか」

 

 チェーングレイヴのリーダー、クラインだ。彼は安酒だろう、緑のガラスのボトルに直接口を付けながら葡萄酒を嗜んでいた。

 泥酔はしていないが、些か無防備だ。今のレヴァーティンならば簡単に背中から殺せるだろう。だが、それでは『つまらない』。最上の死闘の末にこそ命を奪う事に意味があるのだ。

 

「殺るってなら相手になるぜ」

 

「私にその気はない。だが、人間とレギオンの生存競争をお望みならば相手になろう」

 

 レギオンというだけで敵対する理由は十分だ。レヴァーティンは手元に結晶で構成された刃を生み出し、クラインは胡坐を掻いたまま腰のカタナに触れる。

 

「……止めだ。今日は血を流す気分じゃねぇんだよ」

 

 だが、クラインはカタナから手を離し、再び酒を煽る。結晶の刃を消したレヴァーティンは呆れたように鼻息を漏らした。

 

「感傷的だな」

 

「それが人間ってもんだ。レギオンには分からないだろうがな」

 

 クラインの物言いに、レヴァーティンは眉を顰める。

 

「お前たち人間の心を学習しているつもりだ」

 

「学習……か。心は学んで得るものじゃねぇんだよ。感じて自覚するものだ。学ぶのは取っ掛かりに過ぎねぇんだ」

 

 確かにその通りかもしれない。自分よりも遥かに感情豊かな妹たちを思い返し、レヴァーティンは上位レギオンで最も『心』を得ていないのは自分なのだろうと自己分析する。

 

「……すまなかった」

 

「何?」

 

 クラインが顔を背けながら唐突に謝罪し、レヴァーティンは驚く。

 

「八つ当たりだったな。言葉が過ぎた。まさかオメェが……レギオンがそんな顔をするとは思ってなくてな」

 

 顔? レヴァーティンは両手で自分の顔をこね回す。だが、特に異常はない。ないはずである。

 

「私はそんなに変な顔をしていたか?」

 

「ああ。『人間らしい顔』って奴をな」

 

「……そうか」

 

 人間らしさ……か。レヴァーティンは座ったままのクラインの隣に立ち、冬の冷たさを浸した夜の前触れの風を嗜む。

 黄昏は嫌いだ。人間は切なさや儚さを覚えて尊ぶと聞くが、レヴァーティンには破滅の前触れにしか思えないからだ。これから訪れる深い夜の闇への慄きを隠し、恐怖と対峙する事を拒んでいるようにしか見えないからだ。

 

「私達は2度も殺し合った関係だ。相応の因縁が結ばれた。だからこそ問おう。何故にこのような場所で酌を?」

 

「……未来を想像していた。俺の選択のせいで、どれだけの血が流れ、どれだけの人が苦しみ、どれだけの悲鳴と怨嗟が溢れるんだろうなってな」

 

「それで?」

 

「それだけさ。俺はもう止まれねぇんだ。俺を信じて付いて来ている連中の為にも、俺を信じて死んだ連中の為にも……な」

 

「……哀れだな。そして愚かだ。望まぬ手段を用いたところで悩みも苦しみも増えるだけだろう」

 

 言葉を選ぶつもりはない。その方がこの男に対して誠実だろう。レヴァーティンの物言いに、クラインは喉を鳴らして自嘲しながら葡萄酒を口に含む。

 

「それでも、やらないといけねぇんだよ」

 

「何故だ? 私が知る限り、人間とは己の心の在り方を優先する事こそを尊ばれるはずだ」

 

「死んだダチに申し訳が立たねぇ。男が選んだ道を突き進むのにそれ以上の理由は要らねぇんだ」

 

 レヴァーティンを見ることもなく、沈む夕日に乾杯するようにクラインはボトルを掲げる。残量僅かの葡萄酒が揺れ、夕焼けの光と混ざり合って魅惑の色となり、レヴァーティンは目を細めた。

 

「私にも少し飲ませてくれ」

 

「悪いな。これは死んだ連中の弔い酒だ。お前に飲ませるわけにはいかねぇよ」

 

「そうか」

 

「機会があったら奢ってやる。それまでお互いに生きていて、殺し合う事もなければな」

 

 レギオンである限り、人間との戦いは免れない。レギオンは人間を殺さずにはいられない。下位レギオンともなれば、存在を保つ為にも人間の捕食は不可欠だ。

 

「レギオンは嘘を嫌う。その約束……違えるなよ」

 

「おう」

 

「それともう1つ、私と赤髭殿の決着はまだついていない。私はあれから更に強くなった。群れの長として率いる事ばかりにかまけて己の爪牙を研ぐこと、疎かにするなよ。全てを出し尽くす戦いの果ての死にこそ価値があるのだからな」

 

 これ以上居座るのは無粋というものだろう。レヴァーティンもそれくらいは理解できる。彼女は軽やかに跳び、クラインから離れる。

 振り返ってももはやクラインの後ろ姿は見えない。地平線に沈む夕日だけが目に映り、レヴァーティンは心なしか嬉しそうに笑んだ。

 

「そうだ。レギオンは……『私』は嘘が嫌いなんだ」

 




今回は前後編です。


それでは後編……349話でまた会いましょう!

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