SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

もう最終回でいいんじゃない……かな?


Side Episode19 ようこそ、拡張現実!

『ですから、日本はVR・AR後進国なんですよ! 日本ではテレビ会議さえもまともに導入できていない企業があるのに、アメリカではすでにAR会議の普及率が4割! 4割ですよ!? 中国をごらんなさい! VR・AR技術に数兆円規模の投資をしているんです! ロシアなんて先んじてVR都市を導入して国民に慣れ親しませただけではなく、世界でも5本指に入るVRベンチャー企業を誕生させました! まさしく経済・軍事・文化におけるニューフロンティアなんです!』

 

『いやね、簡単に言うけどね、日本ではSAO事件に続いてDBO事件っていう世界最大級の電脳犯罪があったんですよ。遺族や関係者の根強い反発もあるって考えてほしい』

 

『でもぉ、若いコはやっぱりぃ、VRもARもそこまで抵抗がないと思うなぁ~。騒いでるのはおっさんやおばさんばかりっていうかぁ。SAO事件もDBO事件もぉ、企業のお偉いさんの失敗でしょぉ? それであたしらにダメダメ言って取り上げるのもおかしくない?』

 

『あー、俺も同意見ですね。日本の企業も頑張ってるところは頑張ってるんだし、国がしっかりお金を出してもらえないと海外の補助金いっぱい貰ってる連中には勝てないですよ。それなのに法整備すらもまだってちょっと政治家さん達って国民を舐めてますよね』

 

 捲し立てるのは『自称』VR・AR専門家である芸人【アフロマン16世】。舌戦で追いやられているのは先に妻がVR不倫をした挙句に数々の『アレ』な映像が流出したスキャンダルで辞任に追いやられた、『今年の最も不憫な人』にノミネートされている与党元衆議院議員の【佐倉 茂】。何処か間の抜けた話し方をするのは高学歴ギャルで流行語『資格ガール』の発端となった【MIKA】。そして、色黒で金髪の青年は世界初のVRボクシング・ライト級チャンピオンに輝いた【不和 真治】。

 これら4人がVR・ARの日本の未来を討論するという趣旨の生中継特番『徹底討論! VR・AR社会の到来に日本はどうする!?』であるが、白熱した議論をする4人をスタジオにて、リズベットは冷めた目で腕を組んでいた。

 

「そもそもVR・ARの未来を討論するなら、現実のスタジオに集合するんじゃなくて、VR上に討論ルーム作成してVR、ARでログインする方がインパクトが強いんじゃない?」

 

「リズベットちゃん、隣でプロデューサーさんが凄い渋い顔してるから」

 

 それは失礼。隣の口髭豊かなプロデューサーの【梶井 賢太】にリズベットは軽く会釈して詫びるが、本心を否定するつもりは毛頭ない。

 今日はオブザーバーの仕事でテレビ局を訪れたリズベットは、いつもと変わらない、VR犯罪対策室のオブザーバーに相応しくないパンクな格好だ。元より髪をピンクに染色しているのだ。スーツなどを着たところで逆に浮くというものである。

 プロデューサーの梶井も警察を招いたと思ったらリズベットの登場で度肝を抜いたようであるが、彼女からすれば、自分の相棒である光輝の方が10倍は警察官として不適切な人物である。

 スタジオから退出すれば、目が肥えているはずの業界人も、自身が輝かねばならない芸能人も、ゲストで呼ばれたらしきスポーツ選手まで、光輝を自然と視線で追ってしまっているのだ。

 男性的な凛とした、だが他人の警戒を解くチャーミングさを両立した理想的な美貌。高身長かつスタイルも抜群。そして本人も周囲を魅せる立ち振る舞いを完全に理解している。内面も『素』を除けば、まさしく非の打ちどころがない。無駄なくついた筋肉は威圧感がない程度に野性味すらも演出しているようにも思えた。

 

「いやぁ、今はテレビって媒体の分水嶺なんだと個人的には思ってるんですけどね。ただでさえネット配信で後れを取っていたのに、今や時代はVR! AR! スポンサーもどんどん離れていって、今更になってVR番組配信サービスなんて始めたところで外資程に比べてもコンテンツ力がまるで備わっていないのが実情ですよ」

 

 梶井が自虐的に肩を竦めて見せる態度は危機感が乏しい。もしかしたら、すでに古巣を離れて新天地を目指す準備が済んでいるのかもしれない、とリズベットは邪推するが、個人の事情などそれこそ仕事に関係のないことだ。アイドルグループに声をかけられて足を止め、仕事モードのスマイルで応対する光輝に無性に独占欲を擽られてイライラするのと同じくらいに仕事には関係ないことである。

 

「しかし、僕も詳しくはありませんが、プロデューサーというお仕事は大変みたいですね」

 

 先の生中継の撮影は言うなれば見学であり、仕事は梶井との『後始末』である。

 応接室に通されたリズベット達は苦々しい表情をした梶井にまず心配無用とばかりに笑みを描く。

 

「既にご連絡は行っていると思いますが、『ドキドキ! ワンナイト☆プールフェスティバル』事件ですが、ご連絡させていただいた通り、すでに犯人は逮捕され、有罪はほぼ間違いないでしょう。ただし、犯人への刑罰に関してはそう重たいものにはならないでしょう」

 

「……そうですか」

 

 今回の事件も酷く憂鬱なものだった。リズベットは魂が抜けきった目をした梶井に僅かな哀れみを抱く。

 梶井が手掛けた番組である『ドキドキ! ワンナイト☆プールフェスティバル』は深夜テンションの見切り発車でスタートしたような夏の深夜番組であり、全然売れていないアイドル達が夜景が楽しめるナイトプールを紹介する……という今時ではありえないくらいのお色気路線全開の番組だった。

 だが、画期的だったのは梶井はこれをAR撮影した上でVR化した点である。アイドル達と一緒にVR上で作成されたナイトプールを体験できるのだ。もちろん、店側としてもVRで満足されたら堪ったものではない為、敢えてクオリティを下げて客足を呼び寄せる作りになっているのは見事だろう。

 内容はともかく、テレビ業界がこれからのVR・ARとどう付き合っていくのか。野心的な番組だったことは間違いない……と言いたいところであるが、その程度は大手動画サイトの個人配信者レベルでもやっていることであり、梶井はさも自分のアイディアのように企画を立ち上げたに過ぎない。それがリズベットの評価だ。

 これだけならば、お色気内容を除けば取るに足らない。だが、問題なのはこのVRデータが流出し、改造され、『R18』となって公開されてしまった点である。もちろん、VR上に登場するアイドル達は本人ではなく撮影データであり、『R18』になるにあたって簡易的なAI制御に切り替えられていた。

 アイドル達を自由に裸にして性的行為すらも可能。リズベットも女として吐き気が催す限りであるが、この手の問題はすでに腐るほどに見飽きたものだ。

 あらゆるアバターになり切ることが出来るとは『他人になり切れる』または『他人の外見を複製できる』という事である。真っ先に被害に遭ったのはメディア露出が多い芸能人である。特に若い女性……アイドルなどは、その外見情報を次々と性的欲求の捌け口に利用された。

 

(法整備が追いついていないし、警察も検察も後手後手どころじゃないし)

 

 アメリカではすでにVR・AR上における外見情報の権利が認められ、ハリウッドでは天文学的な賠償金を請求する訴訟にも発展した。日本ではようやく可決するかと思われたが、毎度お馴染みの政争によってお流れとなり、今年中の可決は絶望視されていた。

 ちなみに『嫌いな政治家をハチの巣にしてみた』といったVR動画などが大ヒットするなど、いつ本物のテロに発展してもおかしくない土壌があちらでは形成されつつあった……という切実な理由もあるのもアメリカの機敏さの理由の1つでもある。

 

(今回の事件もよくあるケースの1つ。最悪だったのは……死人が出た事か)

 

 アイドルの1人がVR上で『自分と全く同じ外見の女の子』が強姦されている映像を目撃してしまい、衝動的に自殺を図ってしまったのだ。

 AR技術の発展により、3Dモデリングはより容易になった。ましてや、先の番組はセキュリティも甘いままにVR公開してしまったのである。起こるべくして起こった事件……というのがリズベットの、やや冷たいと自覚しているが、率直な感想である。

 

(まぁ、もっと胸糞悪い事件はあったしね。学校のイジメでVR上で暴行とか……それも痛覚遮断無しで……本当に気分が悪い)

 

 夏の1件以来、何かと連絡を取り合っている高校生探偵の不運っぷりは相変わらずらしく、通う学校で起きた同級生の自殺について調査したところ、VR上での強制売春どころか痛覚遮断を切った状態での各種暴行を受けていたことが判明した。なお、その件は警察に連絡する前に静が『処理』したらしく、イジメの主犯メンバーは等しく自主退学した。

 

『私は何もしていません。「私は」……ね』

 

 とりあえずイジメの主犯メンバーは五体満足で生きているようであるが、社会復帰は絶望的な程に精神的ダメージを負ったのは間違いなかった。リズベットは何も聞かないことにした。いつ見ても完璧なお嬢様スマイルの静は本当に何もしていないのだろう。『自分の手』は汚していないのだろう。より陰湿で、残忍で、おぞましいやり口で、イジメの主犯メンバーは地獄を見たに違いなかった。

 

「梶井さんに責任はありません。どうか気を病まないでください」

 

 本心から同情しているのか、あるいは職務上のポーズか。光輝は流出したVRデータの処遇諸々を通達した。とはいえ、1度ネット上に流出してしまったのだ。完全削除は不可能である。

 テレビ局を後にし、地下駐車場に止まった自動車に乗り込んだ光輝は運転席で溜め息を吐く。

 

「事件の被害者のアフターケアまで僕らの仕事なんてね。VR犯罪対策室は何でも屋じゃないんだけどな」

 

「同感ね」

 

「知ってるかい? 本部に入った20人の内の20人が退職したんだ」

 

「まぁ、正義の心を燃やして最先端のVR・AR専門知識とスキルを身に着けたわけじゃないだろうし、待遇も良くないともなれば妥当じゃない?」

 

 最先端を走るVR犯罪と対抗するためには相応のスキルを持ったVRエキスパートでなければならない。だが、スキルを活かせば日本国内でも高給取りかつ好待遇……外資ならばそれ以上を容易く望める。わざわざ昔気質の警察組織で磨き上げたスキルと蓄えた知識を振るおうなどと考えるのは、余程に正義の心を持った人間だけだ。

 だからこそのオブザーバー制度であり、リズベットのような中途半端な知識しかなく、なおかつスキルがなくとも、『SAO事件の被害者』という視点から意見ができる人間でも貴重な人材として扱われているのだ。

 

「法律もそうだけど、根本的な人材不足を何とかしないとあたし達もいい加減に過労死するわよ。光輝さんって最後に寝たのはいつ?」

 

「3日前。そう言うリズベットちゃんは?」

 

「光輝さんが運転している間に仮眠もらっちゃった」

 

 もはやツッコミどころしかない光輝の超人的な体力は置いておくとして、リズベットすらも大学に顔出しすることすらもできない程の激務が続いている。

 11月末、世間はいよいよクリスマスを控えて準備が進んでいるというのに、リズベット達の関係は夏以来全く進んでいなかった。それもこれも尽きぬ仕事の山のせいである。

 VR犯罪対策室は今日も死屍累々。仮眠室では男女関係なく折り重なって死体のように不動で眠り、ゴミ箱からあふれる程に栄養ドリンクは日々消費される。珈琲を欠かせば発狂か睡魔に喰われる毎日である。

 特に9月より東京を筆頭に日本の都市部でARインフラ事業が一斉にスタートした。関連する法案はすでに通っていて、なおかつ予算も組まれている。莫大な金が動くのだ。経済が活気づくのは結構であるが、まずは足場をしっかり固めてからにしてほしいと切に願うリズベットである。

 

「日本でも来春にはARデバイスの普及率が6割を超える見通しだからね。そうなったら、僕らの仕事はいよいよパンクするね」

 

「え? もうパンクしてるんじゃないの?」

 

「まだ過労死してないじゃないか」

 

「……あたしは最近なんて離島勤務の方が幸せになれるって確信し始めてるんだけど?」

 

「奇遇だね。僕もVRやARなんて無縁の場所に行きたいよ」

 

「実家にでも帰ったら?」

 

「面白いジョークだ。リズベットちゃんなら売れっ子コメディアンになれるだろうね」

 

 日本でもARデバイスとして【オーグマー】が発売されたが、すぐに米国企業INCエレクトロニクスが販売するARデバイス【ニュー・ライフ】によって駆逐された。オーグマーが耳掛け型のARデバイスであるのに対し、NLは耳掛け方と首輪型の2つが発売されており、どちらも極めて軽量というオーバーテクロジー扱いである。特に耳掛け方は外観を考慮されて耳の裏にほとんど隠れるという小型さを誇る。実にオーグマーの5分の1のサイズであり、デザイン豊富、なおかつ価格も安いとなれば、太刀打ちできる理由などなかった。

 

『我々INCエレクトロニクスは、INC財団総帥アイザック・V・インターネサイン氏の理念の下、VRとARのリアルとの完全なる融合を目標に事業展開を推し進めています。これまでも、そしてこれからも、INC財団は国家・人種・文化の垣根を越えて、人類のステップアップをお約束します。NLをお安いと感じるのも、我々はARデバイスで利益を獲得するのではなく、ARデバイスが普及した未来の利益を得てこそ意味があると考えているからに他なりません。我々のやり方を不当廉価販売や独禁法に抵触するなどと揶揄される方々もいらっしゃいますが、私に言わせればライバルの皆様は最新テクノロジーを不当な価格で売りつけているだけですね。まるで社会の発展性に貢献していません。富める者にも貧しき者にも等しく同じ「手段」を用いることができる……それこそがインフラなのです!』

 

 日本販売戦略担当であるINCエレクトロニクスの野原という男は、パッとしない外見でありながら、世界最大の企業に勤めるプライドを持った態度でアナウンサーの質問に応答している。リズベットがこうして最新ニュースを確認しているのもNLのお陰である。指を動かすだけで、まるで現実世界に本当にあるかのように視界内に投影された複数の画面を操作できるのだ。もはやスマートフォンもパソコンも不要である。

 日本のARデバイス普及率は今月で3割に達した。恐るべきスピードである。

 世界各国でARデバイスが急速普及する裏側には、世界屈指のグローバル企業であるINCエレクトロニクスの影響がある。アメリカに本社を置くINCエレクトロニクスは、世界最大のシェアを誇るVRデバイス、Change Worldシリーズの発売元でもある。

 スマートフォンに代わる……いいや、正しく人類を進歩させる新たなツールとしてARデバイスは注目を浴びていた。だが、実際の普及には最低でも10年を要すると目されていた。

 だが、実際には僅か半年で世界はARの波に瞬く間に呑み込まれた。NLが従来のあらゆるデバイスに優れていながら、価格もそれこそ学生に普及させる上でも良心的かつ信じがたい程にハイスペックだったからだ。

 

「正直言って、INCエレクトロニクスは頭がおかしいね。技術開発費、生産費、宣伝費……回収するのにどれだけかかるんだ? それに利益を出すことこそ企業の本分だろうに」

 

「目先の利益じゃなくて未来の利益って文句通りなんじゃない? それにINCは世界最大の企業グループ。エネルギー産業の最大手であり、世界最大の通信インフラ技術の事実上の特許独占。彼らのお陰でVR・ARを最大限に活用できる無線通信も可能になったわけだしね。ARデバイスが広まる分だけ別の部分で搾り取れるって寸法なのよ」

 

「独禁法違反にならないのかい?」

 

「その他ライバルが相手にならないだけ。ライバルは潰さず、むしろ適度に塩を送ってでも生かす。それもINCのやり方」

 

「……好きになれないな」

 

 リズベットが小学校の頃はVRが現実にとって代わるかもしれないなど夢物語であり、ARデバイスがスマートフォンやパソコンの代わりになるなど想像もできなかった。

 道行く人々は何もない空間で指を動かす。だが、ARデバイスを装着している人々には彼らが個々の表示された画面を操作していると理解している。そこに格差が生じ、人々は最新へと流れていく。

 ARデバイスが社会に出て最初に起きた事件は『外見偽装による殺人』だった。

 現実世界において五感を『侵蝕』される。それがARの危険性だ。ARデバイス装着者は目の前にある風景がARデバイスを通して改変されたものなのかどうなのか、ARデバイスを外すまで確証を持てない。これを利用して知人に成りすまし、相手の警戒が緩いところを狙って殺害する事件が発生した。もちろん、ログを辿れば偽装された外見は暴かれ、すぐに犯人は検挙できた。だが、この事件は世界的に報道され、瞬く間にARの危険性を認知させた。

 次に起きたのは『視覚情報を誤認させた殺人』である。ARデバイスを装着した被害者は運転中に視覚情報を書き換えられ、曲がり角なのに直線だと『誤認』して壁に突っ込んだのである。これは愉快犯によるものであり、犯人は逮捕されたが、ARの増々の危険性を世間に訴える結果となった。

 真っ先に対応したのはINCエレクトロニクスだった。ARにおける外見の変更はARデバイスのみでは不可能とし、特定サーバー内に登録された者を通して外見情報にアクセスした場合に限るようにアップデートしたのである。更にAR情報による著しい五感の上書きはロックがかけられる事にもなった。今のところ、これらのプロテクトが破られたという報告はなく、INCエレクトロニクスの技術力の高さが証明されている。

 

「さてと、次のお仕事は……オーディナル・スケールだっけ?」

 

「そう。日本発で世界的流行を見せつつあるARゲームね。元はオーグマー専用だったんだけど、イギリスのBFFに売却。NLにも対応したことで世界的にヒットしたわ」

 

「『あの』重村教授が開発に関わっていた……か。まぁ、サービス開始するにあたって安全性は徹底的に検査されたようだね」

 

 光輝が警戒心を示すのは、重村教授は茅場晶彦が恩師と仰ぐ1人だからだ。彼無しではナーヴギアとSAOの完成は2年遅れていただろうと言われる程度には日本が誇る天才である。

 VR犯罪対策室は須和と同じく重村にもオブザーバーとして協力してもらえないかと打診していたが、彼はSAO事件で1人娘を亡くしたせいもあってか辞退を表明した。そんな彼が何を思ってか、オーグマー開発に関与し、なおかつオーディナル・スケールというゲームデザインにもアドバイザーとして協力したのだから怪しまないわけがないのである。

 

「オーディナル・スケール上に未知なるモンスターが出現し、プレイヤーが意識不明となって搬送される……か。しかもサーバーにもARデバイスにもログが残らないなんてね」

 

「オーディナル・スケールは現在、日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、中国、韓国の8カ国でサービスが実施されていて、この1週間で被害者は日本だけでも11人。12月からはアジア圏とEU諸国にサービスを拡大する予定だし、オーディナル・スケールに触発されたARゲームも来春までに続々とサービス開始するわ。VRゲーム戦国時代は増々の苛烈を見せ、ARゲームも群雄割拠の時代が予想されるわね」

 

「でも、そう上手くいかないだろう? ARゲームにはまずリアル空間が不可欠だ。体を思いっきり自由に動かせる、なおかつサーバーからAR情報を受信できなければならない」

 

「はい、そこで大活躍するのはすっかり寂れた公共施設の数々。何処の国も似たような使い道のない施設は持っているってわけ」

 

「それに怪我のリスクもあるし、VRみたいに身体能力が強化されるわけでもない。剣をメインにしたゲームだとしたら実際の物体同士の衝突はないわけだから「剣戟」とかはできないしね」

 

「VRゲームにはない、現実の肉体を使用できるからこそのエクササイズやダイエットにもなるし、同じ怪我のリスクがあるスポーツは批判されないでしょ? 健康志向の高い人々からすれば、VRゲームよりずっと健全。それに保険会社とタッグを組めば、御覧の通り」

 

「ARゲーム保険とは呆れたね。ビジネスってのはこれだから……」

 

「まぁ、それでも問題点はあるわよ。ARゲームに熱中し過ぎて大怪我や器物損壊もある。プレイヤー同士の諍いもVRゲームと違ってHP損壊やデスペナルティでは済まない。オーディナル・スケールがサービス開始されてからの傷害事件数は軽く100件を超えてるわ。アメリカでは『実弾』が使われたケースもある。死人はまだ出ていないみたいだけど、実際は発覚していないだけか、あるいは隠蔽されてるかもしれない。なにせBFFが元締めよ?」

 

「まだロンドンの件を根に持ってるね。僕もだ」

 

 忘れるものか。リズベットはロンドン同時多発電脳テロを思い出して怒りと恐怖で身を震わしそうになる。BFFには散々煮え湯を飲まされたのだ。危うく脳漿をぶちまけるところでもあった。

 

「……BFFはINC財団とも懇意のようだね」

 

「というよりも、BFFとINC財団は兄弟みたいなものよ。INCエレクトロニクスは格安のライセンス料でARインフラとデバイス技術をBFFに貸し与えている。これは元をたどれば、INC財団の初代総帥はイギリスからのアメリカ移民で、その頃からBFFの前身と懇意だったわけ。INC財団は今もアメリカとイギリスのみならず、各国の政財界に強い影響力を持ってるわ。欧州でシェアを争うローゼンタールは健闘しているけど、ちょっと厳しいわね」

 

「まさにグローバル企業の頂点ってわけだ」

 

「それだけじゃない。INC財団は代々多くの慈善事業・平和活動に多大な投資をしていている。世界で最も社会的責任を果たしていると称賛されてるわよ」

 

「一方で世界トップクラスの軍需企業も持っているわけだ。右手に銃を、左手に花束を。素晴らしいじゃないか」

 

「皮肉をどうも。現総帥のアイザック・V・インターネサインはVR事業に強い興味を持っていて、ザ・シードを代表とした、VRの一般化に最も尽力した人物でもあるの。彼の活躍無しではVRの世界的浸透と共通規格化は30年遅れていたと言われているわ」

 

「人脈、財力、技術力……まさに生まれるべくして生まれた世界の支配者か。大統領も彼の前では召使いになるわけかい?」

 

「前大統領までならそうなんじゃない? 今は……ほら……」

 

「……そうだったね」

 

 大統領の身でありながら副大統領のクーデターを防ぎ、なおかつ宇宙まで行ってしまった。まさしく『真の大統領』とはあの人にこそ相応しい称号だろう。アメリカ全土を駆け回ったGGO事件の顛末が大統領によるワンマンショーだったことを思い出し、リズベットは頭痛を覚える。

 

「それで、随分とINC財団について調べているみたいだけど、それってオーディナル・スケール絡み? それともDBOの方?」

 

「少し気になる点があるだけ。集められる情報も浅いけど、警察のデータベースを使って尻尾を出すわけにもいかないしね。光輝さんの『鼻』を頼りにしたいけど、大企業相手だと悪臭が酷くて機能しないみたいだしね」

 

 先のVR・AR技術博覧会を思い出し、だがリズベットは言葉にしない。相手が相手だ。光輝を下手に焚きつけて間違っていたでは命だけで済まないかもしれない。

 

「頼りにならない警察犬でごめんね」

 

 走る自動車の外の風景は移い続ける。進歩という名の狂気に呑まれつつある見知った街並みは、秒単位で変化している。VR技術の蔓延とARの日常化は、リズベットに無性に九塚村に『帰りたい』という気持ちを湧き上がらせる。

 どうしようもない不安。その根源にあるのはSAO事件だ。アインクラッドに幽閉され、大切な人を失い、自身の精神すらも狂わせた日々だ。

 現実世界からアインクラッドの悪夢に侵蝕されている。まだ『リズベット』のままの彼女にとって、現実世界に確かにあった安心感を奪われるような恐怖があった。

 

「でも、頼りになる番犬にはなる。でしょ? 光輝さんがいるから、あたしはまだ生きてる。生きてるって実感が持てる」

 

「……ねぇ、キスしてもいい?」

 

「自動運転に切り替えようとするな」

 

「冗談だよ。万が一に備えて、自動運転モードに『切り替えできない』ように物理的に装置を取り除いているからね。保険外改造だから事故を起こしたら大変だ」

 

「……違法改造でしょ? バレたらヤバいんじゃない?」

 

「バレてもせいぜい懲戒処分さ。死にはしない」

 

 確かに。リモートコントロールで自動運転モードに切り替えられた挙句に事故死に見せかけて……など笑えない。リズベットは光輝の運転に身を委ね、目的地に到着するまでしばしの仮眠をとろうとして、だが3日不眠とは思えぬほどに表情が変わらない光輝の運転する横顔をジッと見つめる。

 ここ最近になって光輝のタフさには磨きがかかっている。以前より疲れ知らずになっていることはもちろんであるが、それ以外にも精神的余裕が増えたようにも思えた。

 良くも悪くも九塚村への里帰りは光輝に変化をもたらしたという事だろう。

 リズベットは九塚村で経験した全てを誰にも明かしていない。口外すらしない。光輝と話し合ったこともない。

 何かを問えば、尋ねれば、求めれば、不要な鍵を手に入れてしまう。鍵を手に入れたら鍵穴を探したくなってしまうのが人間の好奇心というものだ。

 好奇心は時として大きな損失をもたらす。対価として命を要求することもある。ならばこそ、愚かしい好奇心を抱くべきではない。踏み入ってはならない領域があると悟り、何処かで『納得』しなければならない。

 

「寝ないのかい?」

 

「……んー、帰ってからにするわ。光輝さんも明日は休みでしょ? あたしも自主休校の予定だしね」

 

「単位がまずいんじゃないかい? 留年してしまうよ」

 

「今更でしょ? どうせ出席日数足りなくても、便宜を図ってくれて卒業させてもらえるしね」

 

「僕が言うのもなんだけど、ちゃんと勉強した方がいい。このままオブザーバーで一生を過ごすつもりはないだろうし、VR犯罪対策室もいつまでもリズベットちゃんには頼れない。君はSAO事件の被害者であり、それ以上でもそれ以下でもないんだから」

 

「世界を何度も救った女子大生でもあるんだけど?」

 

 光輝の反論はなかった。リズベットは意地悪だったかもしれないと後悔するも沈黙を選ぶ。

 彼がいきなりリズベットに普通の大学生活を送るような発言をしたのは、過労死を心配しているからではなく、九塚村の件が関係しているからだろう。

 世界の危機を何度も救ったパートナーとして信頼しているとしても、それ以上に何よりも大事な女の子でもある。今まさに追っているDBO事件を筆頭に、自分と共に多くの事件に関わることでリズベットが危険にさらされる事への躊躇いが大きくなっているのだ。

 素直に嬉しい。だが、同時に腹立たしい。自分がいたからこそ解決できた事件もあるはずだという自負があるからだ。

 

「……DBO事件が終わったら、オブザーバーを辞めるわ」

 

 だが、つまらないプライドよりも大切なものがある。リズベットは選びたい。自分が愛する人と幸せになれる未来を選択したかった。

 

「冒険なんて要らない。世界なんて救いたいなんて思ったこともない。あたしは『篠崎里香』に戻りたいだけ。『リズベット』の旅を……終わらせないといけないの」

 

 DBO事件はSAO事件の続きだ。だからこそ、リズベットは『リズベット』のままなのだ。アインクラッドの悪夢はまだ続いているのだ。

 茅場の後継者の正体を暴き、真実にたどり着き、DBO事件の幕引きを迎えた時、ようやくアインクラッドの悪夢から解放される。『リズベット』は眠りにつき、『篠崎里香』は目覚めるのだ。

 

「微力ながら協力するよ。相棒だからね」

 

「頼りになる相棒がいて、あたしは幸せ者ね」

 

 目的地の東都大学に到着し、リズベットは目の下を揉んで血流をよくする。化粧だけでは隠し切れない隈だ。相手に良い印象を与える為にも外見は重要である。

 今回のオーディナル・スケールにVR犯罪対策室……公的権力が大手を振って介入するにはまだ早過ぎる。あくまでオーディナル・スケールの開発者にして、日本初のARデバイス開発者でもある【重村徹大】教授にアドバイザーとして意見を求めるという立場である。

 重村ゼミ。それは東都大学でも最大のアンタッチャブルである。なにせ、在籍していたのはあの茅場晶彦であり、彼の恋人にして行方不明の神代凛子であり、ALO事件の末に射殺された須郷伸之だからだ。他にも重村ゼミからは様々な非常に癖のある人物が世界に羽ばたいている。

 重村の下で学ばなければ、あの茅場晶彦でもナーヴギアとSAOの完成は2年遅れていた。そう言われる程度には極めて優秀な人物である。ただし、本人はSAO事件で愛娘である重村悠那を亡くしており、茅場晶彦について多くは語りたがらない。

 空間上に表示したプロファイルを指で飛ばし、受け取った光輝は顔を顰める。

 

「こんな可愛い子がもうこの世にいないなんて、人類の損失だ」

 

「可愛いのは認めるけど、恋人の前で言うこと?」

 

「あ、一応は恋人って自覚はあるんだね。よかったよ」

 

「悪い?」

 

「え? い、いや? 別に? リズベットちゃん、もしかして怒ってる?」

 

「怒ってないわよ。ただ……この子とも何処かで会ってたかもしれないって……死んでたのはあたしの方かもしれないって……そう思っただけ」

 

「ごめん。無神経だった」

 

「気にしてるけど、許してあげる。あたしは心が広いカノジョだから。ただし、あとで何か奢ってよね」

 

「了解」

 

 研究室の戸を叩けば、眼鏡をかけて髭を蓄えた知性的な男が現れる。見た目は60代と実年齢以上に老けて見えるのは、茅場晶彦に振り回され、娘も失った心労の影響だろう。

 軽い挨拶を済ませた重村は感情が読めない表情で、だが観察するような眼差しでリズベットを見ていた。

 

「な、何か?」

 

「ああ、失礼した。須和から話は聞いていたが、まさか本当にSAO事件の被害者がVR犯罪対策室のオブザーバーをしているとは」

 

 今回のアポイントメントを裏から協力してくれたのは、PF技術の解明に尽くし、またリズベットと同じオブザーバーでもある須和である。2人は共に茅場晶彦に知識と環境を与えてしまったという共通点があった。そして、須和はオブザーバーとして警察に協力する道を選び、重村は断った身でもある。

 

「さて、私に聞きたいことがあるのだったな。他でもない須和の頼みだ。答えられる範疇ならば答えよう」

 

「ありがとうございます」

 

 丁寧に頭を下げた光輝はオーディナル・スケールで起こっている、謎の昏倒事件について説明する。重村は興味深そうに耳を貸していたが、やがて眉間に険しく皺を寄せた。

 

「現在のVRとARは、実をいうと技術的違いはそこまで大きなものではない。意識が覚醒状態にあるか否かが最大の違いだ。VRはその性質上、肉体のあらゆる感覚をシャットアウトし、脳を仮想世界に接続させねばならない。これには大きなリスクを伴う」

 

「ええ、同意見です。VR接続中は多くの犯罪行為に対して無防備になります。窃盗はもちろん、女性ならば特に体への悪戯など、数えたらきりがありません」

 

 痛ましい限りだと光輝は頷いた。先もVRを教育に取り入れた学校にて、VRログイン中の女子生徒に破廉恥な真似をした教師が逮捕されたばかりである。

 

「VRの真の危険性はまさにそこにある。悪意や害意に対して肉体が無防備であり、生命の危機に直面しても反応することができない。この前もVR依存症になっていた息子を刺殺した母親が大きくメディアで取り上げられていたが、VRにはむしろより厳格な規制を設けるべきだというのが私個人の意見だ」

 

 娘を失った私怨も含まれた発言であるが、リズベットは反論しないし、できるはずもなかった。たとえ、SAO事件の被害者であるとしても、彼女は遺族ではないからだ。

 

「重村教授のスタンスは『VRにできることの過半はARで代用できる』でしたね。だからこそ、オーグマーの開発にも意欲的に参加されたとか。その流れでオーディナル・スケールにも?」

 

「その通りだ。昨今のVRゲームの蔓延には嘆いていてね。重度のVR依存症は心身を病めさせる。特に深刻なのはアイデンティティの多重化だ。外見から能力に至るまで、あらゆる面を全くの別人に置き換えることができる。現実世界と仮想世界を行き来することによって、自分自身の基準を見失い、精神に障害をもたらす危険性がある」

 

「対するARは五感を『上書き』するものでしたね。お恥ずかしい限りですが、僕も不勉強でして、正しいか自信は持てませんが」

 

「正確には違うが、認識としては訂正する必要もないだろう。だが、あくまで実用性のある上書きが可能だったのは視覚情報までだ。聴覚は50パーセント、嗅覚は20パーセント、触覚に至っては10パーセントにも満たない。味覚は研究中だったが、その間にオーグマーの次世代開発は凍結されてしまったものでね。VRが完全に五感と自意識をマシン側に制御されてしまうのに対し、ARではあくまで主導権が肉体側に存在する」

 

「上書きが不完全な理由は何でしょうか?」

 

「誤解させたかもしれないが、完全な上書き自体は可能だ。だが、そのためにはどうしてもマシンパワーが不可欠になり、大型になってしまう。現在の技術力では機能の大部分をオミットしなければ商品化は難しい。ARデバイスはいつでも何処でも手軽に持ち運べる利便性……携帯化が不可欠だ。その点においてオーグマーは最低限の機能だけを残したが、NLはオーグマー以上の小型化と長時間対応・高速充電池まで搭載してきた。あれには勝てんよ」

 

 苦笑いする重村であるが、リズベットに言わせればオーグマーも怪物スペックである。なにせ、オーグマーには将来を見越して簡易的なVR接続も可能とする装置も組み込まれているからだ。だが、VR接続は電力を喰うために屋外での使用には著しく向かず、またマシンパワーも最低限しか備わっていない為に専用機器に大きく劣る。

 

「今だから明かすが、オーグマーはナーヴギアの機能限定版に過ぎない。VRデバイスとしては失敗作だな」

 

「逆に言えば、ナーヴギアにはARデバイスとして機能することも視野に入れていた……という事ですか?」

 

 ナーヴギアという単語に小さくない嫌悪感を示したリズベットの質問に、重村は首を横に振って窓の外へと視線を向ける。冬が迫る寂れた空に投影するのは、まだ娘が生きていた過去の日々か。

 

「茅場はARに対して興味は持っていなかった。言っただろう? VRとARに技術的違いに大差はない。茅場が生み出した技術と既存の技術が融合した結果としてAR分野が発展しただけだ」

 

 茅場晶彦はARに……『現実世界の上書き』に興味を持っていなかった。リズベットはアインクラッドを思い返し、それも仕方ないと感じる。完全なる異世界を構築でき、なおかつ肉体の制限を超えた活動が可能となるVRとは比較対象にもならないのだ。

 

「人間は大部分を視覚に頼っている。故に私はオーグマーも視覚に特化させた。NLは全体的なスペックこそ上だが、同じ路線だな。既存の通信機器に匹敵する通話機能も備えているお陰で次世代通信デバイスとしての地位も確立したが、個人的にはINCエレクトロニクスの根回しによる企業間の合意と各種宣伝戦略が民衆の心を掴んだのが大きいと思っているがね。特に大手自動車メーカーとNL規格のARデバイスの連携は考えられない速度で進んでいる。私が思うに、オーグマーは日本企業の意地程度のもので、実際には当て馬として準備されたに過ぎないのだろう」

 

 事実としてINCエレクトロニクスと速やかな技術提携を結んだ、と重村はオーグマーに大して未練もなさそうに肩を竦めた。自分がメインになって開発したオーグマーには思い入れなどないのだろう。

 

「これ以上の説明は講義に参加して学生たちと一緒に学んでもらうとして、オーディナル・スケールだったな」

 

 そうだ。すっかり脱線してしまった。リズベットはようやく本題に戻ってきたと顎髭を撫でる重村に真剣な眼差しを向ける。

 

「VRはARと違って完全没入しない分だけ適性はそこまで重視されない。もちろん、VR適性の低さはAR情報の上書きの精度・速度に大きな影響を与えるが、少なくともオーグマーの時点ではオーディナル・スケールを起動させても昏倒するようなことはなかった。考えられるとするならば、エフェクトに対して脳が過剰反応してしまったか、あるいは思い込みだろうな」

 

「思い込み……ですか」

 

「そうだ。たとえば、ARで『崖際』という視覚情報を上書きしたとしよう。実際には平らな地面の上であっても視覚ではバランスを失えば遥か地の底まで落下を免れないシチュエーションなわけだな。当然ながら、心拍数は上がるし、多大なストレスが生じる。オーディナル・スケールはBBFの手に渡ってからより過激な表現を重視している。当然ながら、プレイヤーに与えられる負荷も相応に大きくなっているわけだ。『未知なるモンスター』が著しく恐怖感を煽るデザインであったならば、十分に在りうるだろうな」

 

「……なるほど」

 

「もちろん、それ以外の理由も考えられるがね。たとえば、特定の刺激を与えることで特定の記憶を想起させ、ARデバイスを通してスキャンする……などといった手法を用いれば、当然ながら対象は脳に少なからずのダメージを負うだろう。未知なるモンスターはあくまでプレイヤー脳を刺激させる為のカギに過ぎないならば、無差別ではなく、特定の個人に特定の記憶を想起させるデザインが施されていたのかもしれない」

 

「そのような事が本当に可能なのですか?」

 

「安全性に不足があったオーグマーなら可能だろう。だが、NLでは難しいだろうな。あくまで仮説に過ぎない」

 

 その後も重村はまるで最初から回答を準備していたかのように次々と仮説を並べたが、リズベットにはいずれも怪し過ぎて、むしろ手札が増えて悩ましいだけだった。

 

「1つ質問してもよろしいでしょうか? 教授はどうしてオーディナル・スケールの開発に関与されたのですか? オーグマーはまだ理解できますが、重村教授はゲームに興味を持たれている様子はありませんし、むしろ娘さんのことを思えばこそ、ARであっても離れたいという気持ちはあったのではありませんか?」

 

 リズベットの問いに重村は一瞬だけ目に薄暗い感情を宿したが、すぐに自嘲で打ち消した。

 

「願いがあった。何を犠牲にしても叶えたい願いが。だが、機会は失われてしまった。もはやオーディナル・スケールに未練はない。むしろBFFには感謝している。私の手からオーグマーが……オーディナル・スケールが離れたことで……やっと心に区切りがついた」

 

 リズベットは多くの事件の中で出会った『道を踏み外した者』と似た雰囲気を重村から感じ取れた。彼は踏み止まることができたのだろう。自分の力ではなく、INCエレクトロニクスとBFFという黒船によって、強引に自分の手からチャンスが奪われたからこそ、良心を失うことがなかったのだろう。

 

「篠崎さん、私からも1つ質問をさせてもらいたい。SAOで娘を……悠那を……」

 

 デスクに飾られた重村の娘の写真を一瞥したリズベットは心苦しくとも真実を告げることにした

 

「ごめんなさい。あたしは何も知りません。たとえ、何処かで会っていたとしても、少なくとも知り合いではありません」

 

「……そうか。済まない。馬鹿な質問をした」

 

 重村の研究室を後にしたリズベットは考える。

 親として尋ねずにはいられなかった重村の思いを理解できるとは言い切れない。リズベットはまだ親ではないからだ。

 だが、少しでも娘の名残を求めて語り部を欲する気持ちは理解できた。娘が生きていた証を欲する重村の苦悩にも同情できた。

 

「今夜はオーディナル・スケールのコラボ・イベントがあるみたい。参加してみる?」

 

「うーん、でもお仕事はもう終わりだしね」

 

 外はすでに日が落ちていた。勤務時間も過ぎている。光輝は学生が屯する飲食スペースに腰かけると手早く報告書を打ち込み始める。

 この男、断固たる直帰の覚悟がある。1度帰れば山積みされた仕事とアンデッドと見紛う程に疲弊した同僚が待っているのだ。帰宅は許されず、仕事に埋もれて夜明けを迎えることになる。

 

「それにさ、弟の見舞いにも行きたいしね」

 

「……付き合うわ」

 

 そっちが本命か。リズベットは光輝の報告書が打ち終わるまで缶コーヒーを飲んで待つ。

 学生たちは平和を謳歌する。SAO事件後、リズベットは『彼ら』と同じになる権利があった。だが、権利があっても行使はできなかった。心の傷が、生き残った負い目が、まだ終わらないアインクラッドの悪夢が、リズベットから『普通の人生』を奪い取った。

 だが、だからこそたどり着いた場所もある。報告書に四苦八苦する光輝の傍らでリズベットは笑う。何を『幸せ』と定義するかは自分で決めることだ。たとえ、『リズベット』のままだとしても、今ここにある『幸せ』に嘘偽りはないはずだ。

 その後、リズベット達が移動したのは都内にあるKISARAGIメディカル・センターである。現在、光輝の弟である篝は須和・如月病院を離れ、都内でも最先端……KISARAGIの最先端医療技術と最高警備が敷かれたこの場所に入院していた。

 8月、篝は長期間のVR接続が原因と思われる心停止を繰り返し、より最先端医療を受けられるKISARAGIメディカル・センターに搬送された。

 原因は不明であるが、元よりVR適性が低い篝はVR接続すること自体が少なくないリスクが伴う。なおかつ、運動アルゴリズムとの連動に深刻な障害が生じているらしく、より医療設備が整った環境でなければ『延命』は不可能と判断された。

 ガラス張りの病室に眠るのは、薄い青の病院服を纏った美少女だ。全身には筋肉の衰えを抑制する為に電気的刺激を与えるパッドが装着されているが、これはDBO被害者の全員に標準的に与えられている処置であるが、篝の場合はまだ市販されていないKISARAGI製の試作品が使用されている。

 老若男女問わずして魂まで堕落させかねない、可愛さと美しさは完璧に両立させ、男女の垣根を超越した中性美。まさしく神の美とは彼女にこそ相応しい。あるいは、天使も悪魔も頭を垂らすのかもしれない。全身のバランスはもちろん、VR負荷によるものか、白化していながらも艶やかさを全く失っていない髪は癖なく長く伸びている。唇はまるで白桃のような瑞々しさを全く失っておらず、気を抜けばガラスを打ち砕いてキスを迫りそうになるほどに魅惑的だ。

 

(……って、美『少女』じゃなかった)

 

 塵1つ落ちていない、徹底した清潔感が保たれた病室であるが、リズベットは不思議と身震いする奇妙な感覚に襲われる。

 まるで、あの悪夢……ヤツメ様の森に閉じ込められたかのような悪寒だ。だが、すぐに気のせいだと意識を切り替えて笑顔を作る。

 

「篝ちゃーん、お見舞いに来たよ」

 

「おい、篝。リズベットちゃんが来たんだ。返事くらいしたらどうなんだ? お前の将来の義理姉さんだぞ?」

 

 兄らしい振る舞いの中でさり気なく自分たちの将来について言及する光輝の発言を否定せず、リズベットは傍らの花瓶に飾られた造花と道中で購入した新品と取り換える。出来れば本物が良いのだが、病室への持ち込みは禁じられているのだ。

 

「何度見ても本当に綺麗な子ね。この子が【渡り鳥】なんて信じられない」

 

 SAOを震撼させた傭兵プレイヤー【渡り鳥】の正体がまさか光輝の弟だったとは、ある意味で最も納得がいく真実だった。

 リズベットが篝=【渡り鳥】という事実を知ったのは、九塚村から帰って来てからのことである。関係が1歩前進したからか、光輝から一緒に見舞いに行ってほしいと頼まれたのだ。

 本当はDBO事件が解決するまで会うつもりはなかったのだが、光輝に強く要望されて付き添ったのである。それもこれも篝の容体が芳しくなく、いつ息を引き取ってもおかしくないからだ。

 同時期にエギル……アンドリューも容態が急変して亡くなった。リズベットも葬儀に参列したが、彼の別れた元妻は涙も枯れ果て魂が抜けた状態になっていた。アンドリューの遺体は事件解決の為に国に提供されることになり、元妻には口止めも含めて多額の見舞金が支払われたが、心が癒えるには長い時間を要するだろう。

 2人の急変には関係性があるのか否か。当時のログを確認したところ、篝はDBOでも特異なステージを攻略中だったらしく、体感時間が圧縮された状態だった。VR適性が低い篝には高負荷がかかる環境であり、それもまた容態悪化の原因と考えられている。

 

「DBOでも大暴れしているみたいなんだ。相変わらずだよ。昔からぼーっとしていて、大人しくて、だけど……いざという時は手が付けられないくらいに暴れるんだ。篝を止めようものなら大人が10人揃っても難しい」

 

「まぁ、光輝さんの弟なら納得だけど、こんなにも華奢だと少し信じられないかも」

 

「同年代に比べても成長が遅い方だったから小柄なんだよ。中学生くらいだと……せいぜい野良猫と並走できたくらいだったしね。SAO事件後はリハビリで体力を取り戻すのにも時間がかかってたよ」

 

「……知ってる? 種類にもよるけど、猫って時速30キロを超えるそうよ」

 

「らしいね。まぁ、あの頃はまだ幼かったし、『その程度』が限界だったかもしれない」

 

「ねぇ、少し前から思ってたけど、あたしが吃驚人間ショーを見慣れているからって、常識の物差しを捨てたわけじゃないってちゃんと理解してる?」

 

「理解しているけど、リズベットちゃんに隠す必要もないしね」

 

「そりゃどうも」

 

 呼吸器をつけた篝の額を撫でて張り付いた前髪を梳きながら、リズベットはため息を吐く。彼らが一様にスポーツ選手のような身体能力を活かせる職を選んでおらず、また成長期を迎える頃には運動系の部活を控えるようになる理由は、自分の身体能力が『常識』から外れていると把握するからだ。

 篝は頻繁に心停止や不整脈を起こしており、もしかしたらDBOから解放されても目覚めないかもしれない。その一方で、自らで心臓のリズムを整え、なおかつ心停止状態から動き始めるという常軌を逸した現象も起こしている。須和はパソコンになぞらえて『再起動』と呼んでいるようだった。

 過去を見れば、心停止状態から自発的に回復した事例が全くないわけではない。だが、篝は明らかに異常であり、だからこそ、いつ死んでもおかしくないのであるが、光輝の目には寂しさこそ宿っていても不安は感じられなかった。

 

「死ぬ時は死ぬ。それだけだ」

 

 それが別れの挨拶だとばかりに光輝は病室を去る。

 まったく、面倒くさい男。リズベットは嘆息して眠り続ける篝に笑いかける。

 

「……素直になれないお兄さんでごめんね。また来るから!」

 

 慌てて後を追ったリズベットは、自己嫌悪中とばかりに額を廊下の壁に押し付けている光輝に呆れる。

 

「『元気でな』くらい言えないの?」

 

「……言いたかったさ。でも、僕は……篝を……本当に心配しているのか、分からないんだ」

 

 死ぬべき時は死ぬ。生は死に帰結してこそ『命』なのだから。リズベットにも光輝の死生観を少なからず理解しているつもりだ。

 

「いつもだ。いつも……いつも……いつも! 誰が死のうと奥底では微塵も動揺していない自分がいる。それこそが本当の自分なんだって突きつけられる! いつも悲しむ『フリ』をするだけだ」

 

「……光輝さん」

 

「篝が死んだ時、母さんが死んだ時、糞妹が死んだ時、リズベットちゃんが……リズベットちゃんが死んだ時! 僕はちゃんと泣けるのか? 悲しめるのか!? 君に『死んでほしくなかった』って心の底からキミの死を否定したいと思えるのか!?」

 

 光輝の苦悩の吐露に、リズベットは笑顔で応じる。以前の自分には無理だったはずの、光輝を思う気持ちで満たされた笑みを描く。

 ようやくここまで来れた。愛する人がありのままの自分……弱さを見せてくれる所まで近づくことが出来た。

 幻滅されるのではないか。そんな不安が光輝にもあったはずだ。だが、そんな強がりを捨てた、心の最も脆い部分を見せてくれるようになった。

 理想的な強くて非の打ち所がない男であってほしかった。そう望む者もいるかもしれないが、リズベットは違う。

 あらゆる困難と強敵を『力』で捻じ伏せて乗り越えてくれる、自分を助けてくれる、最高の相棒にして恋人だからこそ、自分だけは彼の脆さを正面から受け止めてあげないといけないのだ。

 まるで懺悔するように項垂れる光輝の首に腕を回し、リズベットは体重をかけて彼を引き寄せると抱きしめる。

 

「泣けなくていいじゃない。真実なんてどうでもいい。あたしが死んで、光輝さんが泣けなかったとしても、人でなしとは思わない。あたしはちゃんと知ってるから。命懸けであたしを何度も助けてくれた光輝さんを知ってる。弟さんの所に時間があれば足を運ぶ光輝さんを知ってる。お母さんの体調が心配で、須和先生と実は頻繁に連絡を取り合ってる光輝さんを知ってる。何だかんだで灯さんのことを気にかけていて、出演した映画やドラマはぜーんぶチェックしてる光輝さんを知ってる。ちゃんと……知ってるんだから」

 

「意外と知ってるね」

 

「カノジョですから」

 

 嗚咽も涙もなく、リズベットに抱きしめられる光輝は膝をつく。まるで懺悔を求めるようにリズベットに縋りつく。

 

「だから、光輝さんが自分自身の真実に苦しんだ時は、あたしの言葉を思い出して。あたしにとっての真実は、自分で見て、聞いて、感じてきた光輝さんだから。たとえ、あたしが死んだとしても、光輝さんは泣いて悲しまなかったとしても、『死ぬ時は死ぬ』って理屈で頭の中が埋め尽くされたとしても、それでも……光輝さんはちゃんと愛してくれていた。それだけは変わらないなら、それでいいじゃない」

 

 SAOで人生を歪められた小娘が、今では何度も世界を救って、常識がまるで通じない狩人の血族に嫁入り予定だ。波乱万丈とはまさにこの事である。

 

「…………」

 

「ねぇ、この沈黙……怖いんだけど?」

 

「……ごめん。今すぐリズベットちゃんを押し倒したいくらいに愛してるのを我慢してたら言葉が出なくてさ」

 

「よし! 今日は別々に帰りましょうか!?」

 

「襲わないよ。僕も車の中では……うーん……いや、悪くないな」

 

 すっかり調子が戻った光輝であるが、眼光だけは爛々と輝いている。リズベットは10歩ほど後ずさった。

 

「……次の連休の時はあたしの親に挨拶にいかない? このままズルズル後回しにしてるのはさすがに娘としてどうかと思うわ」

 

「んー、まぁ、結婚を前提にお付き合いしてますって報告くらいはすべきだと僕も思ってるよ。母さんも是非とも挨拶したいって言ってたしね」

 

「お見合いじゃないんだし、親同伴で挨拶ってのもちょっと……」

 

「でも、ほら、我が家は……ね?」

 

「そこが本当に悩みどころなのよね。あたしの親は普通のど真ん中だし、受け止めきれるかなぁ」

 

 KISARAGIメディカル・センターを後にしたリズベット達は、そのまま外食で済ませようとして、だがリズベットのNLに近隣でオーディナル・スケールのイベントが発生した告知メッセージが届く。

 捜査の為にもオーディナル・スケールに登録していたリズベットは、イベント発生の件を光輝に伝える。だが、彼は露骨に顔を顰めた。盛り上がった気持ちに水を差された挙句に仕事関係など好ましくないのは明らかだ。

 だが、どうしてもオーディナル・スケールが気になるリズベットは、禁じ手ではあるが、と思いつつも背伸びして光輝に耳打ちする。

 

「明日はお休みだし、そ、その……『寝かさない』ってのも……あたし的には全然アリ……だけ……ど?」

 

「やっぱりお仕事って大切だと僕は思うな!」

 

 明日のあたしよ、恨むなら今日のあたしを恨め! リズベットは顔を真っ赤にしながら近隣の運動公園に急ぎ足で向かう。

 

「あ、そういえば、僕は登録がまだだったよ」

 

「招待状を送ったわ。これであたしにもポイントが入る♪」

 

「オーディナル・スケールはランク制だったね。ランクが上であればあるほどにHPも攻撃力も高くなる。それってゲーム性としてどうなんだい?」

 

 登録したばかりのリズベット達は当然ながら最底辺からスタートだ。あらゆる面において不利である。

 

「バランスは悪いわね。だけど、逆に言えばレベル制じゃない分だけ、自分のランクを基準にして倒せるモンスターや参加するイベントも判断できるわけだし、対人戦がメインってわけでもないし、これはこれでありじゃないかな? VRゲームだったら即破綻しそうだけど、ARゲームだしね」

 

「求められるゲームバランスが違うってわけだね」

 

「そういう事。肉体を使うARゲームは年齢、性差、運動経験が露骨に出るのよねぇ。最初から平等性なんて投げ捨てているようなものよ」

 

 オーディナル・スケールのもう1つのメインは、得られたポイントを利用して提携企業から様々な特典を得られることだ。コンビニの値引きからツアー旅行券まで、オーディナル・スケールだけで食べているプロもいる程である。

 だが、オーディナル・スケールは世界初の多人数参加型ARゲームとして人気を博しているが、触発された多くのメーカーが新たなARゲームを発表している以上は天下も長続きしないだろう。その一方でVRゲーム程の拡張性がないのもまたARゲームの限界である。どうしても生身の肉体が足を引っ張るのだ。

 

「へぇ、結構な数がいるわね。100人以上はいるわよ」

 

「失敗したな。スーツのままだよ。ちょっとジャージでも買ってこようかな?」

 

「別にいいんじゃない? 明日は休みでしょ?」

 

「そうだね。どうせ帰っても汗塗れになるだけだしね」

 

「ちょっと待て。なんでスーツが?」

 

「ベッドまで待てると思う?」

 

「…………」

 

 明日のあたしどころか数時間後のあたしよ、恨むなら15分前のあたしを恨め! 帰ったら『覚悟』を決めねばならないリズベットは、睡眠不足の自分に果たして耐えられるだろうかと安易な約束をしたことをすでに後悔し始めていた。

 

「ね、ねぇ……ほら、あたしも……なんだかんだで仮眠くらいしか取ってないし? 手加減……して……くれる……よね?」

 

「……破る前提の約束はしない。絶対にしない」

 

 ですよね! 鞄から取り出したオーディナル・スケール用の30センチほどの棒状のハンディ・コントローラーを、リズベットは光輝に震える右手で手渡す。

 

「「オーディナル・スケール、起動」」

 

 声が重なり合い、そして風景が『上書き』される。

 先程まで殺風景だった運動場は、まるで朽ちたコロシアムのような遺跡風のフィールドに変化する。夜空も不自然な程に無数の星が煌めき、月は実に10倍以上にも巨大化した三日月だった。

 オーディナル・スケールを起動した為か、周囲の人間たちの姿が変化する。まるで西洋騎士のような甲冑姿の者もいれば、近未来的なボディ・アーマー、お色気たっぷりのビキニ装備、更にはまるで着ぐるみのような虎人間までいる。

 オーディナル・スケールのサーバーと接続された事により、登録された外見情報に変更されたのだ。リズベットは動きやすさを重視した革装備であり、得物は使い慣れた小ぶりのメイスである。対する光輝は初期装備でもあるロングコートとロングソードだ。

 

「なんか安っぽい防具と武器だね」

 

「初期装備なんてそんなもんよ。嫌なら課金すればいいじゃない。ある程度までだけど、ランク不相応の武器が手に入るわよ」

 

「経費で落ちるかな?」

 

「無理じゃない?」

 

 リズベットは周囲を確認すれば、いずれも高ランクのプレイヤーばかりだ。今回参加するイベントは高難度を謡っており、とてもではないがビギナー向けではない。だが、リズベット達に奇異の目が向かないのは、彼女たちと似たり寄ったりのランクのプレイヤーが多いからだ。まだオーディナル・スケールの難易度を理解していない者はもちろん、見学者も相当数混じっているのだろう。

 

「さすがに重さまでは再現できないか」

 

「ARだからね」

 

「でも、肌触りはさっきまでプラスチックだったのに、少し金属っぽい冷たさがあるかな?」

 

「ARにもVR適性が影響しているらしいし、あたしよりも体感精度は低いかもね」

 

 どんな外観であっても実際の重量まで変化はしない。ハンディ・コントローラー以上の重さはないのだ。光輝は軽々とロングソードを振り回しているが、とてもではないが鉄の塊を振り回しているような重厚感はなかった。ARゲームが今後も生き残るとするならば、上書きされた視覚と聴覚でいかに『騙す』かにかかっているだろう。

 

「午後8時……そろそろね」

 

 荘厳な鐘の音が鳴る。だが、よくよく耳を澄ませば近くの道路を駆ける自動車の走行音もまた聞こえた。完全な上書き……聴覚の支配がされていない証拠だろう。

 出現したのは5メートルはある緑色の巨人だ。身の丈ほどのリーチもあるハンマーを右手に、最長20メートルはあるだろう鞭を左手に装備している。鼻は平らで鼻腔からは火の粉が散っており、耳まで裂けるような大口には涎で湿った牙が並んでいる。

 威圧的かつ邪悪な外見にプレイヤー達が気圧される。だが、遊びなれた高ランクはむしろ我先にと飛び出していく。

 モンスターの名は【魔界の看守ムトー】。見たところ特殊攻撃はなさそうであるが、リーチの長い鞭をいかにして突破し、なおかつ接近してから高威力のハンマーをどのように回避するかが肝になるだろう。

 

「……へぇ」

 

「あー、まぁ、光輝さんが言いたいことはすごーく分かるわ。今のVRと比べると、どうしてもクオリティが下がるのよ。特に動きが現実の肉体を基準にしてるわけだから、わざと隙を多くしないといけないしね」

 

 それにしては高難度だけど。ムトーは地面擦れ擦れの位置で鞭を薙ぎ払う。ジャンプで回避しなければならないのだが、その速度たるやVRゲーム級である。オーディナル・スケール慣れしているだろう、高ランクのプレイヤー達すらも近づけずにいるようだった。

 

「やっぱり運営馬鹿だろ! ソード&ソーサラークロニクルのボスをそのまま登場させるなんて!」

 

「コラボだからっていい加減にしろよな!」

 

 運営の調整ミスか。リズベットは納得する。明らかに遠距離攻撃以外にダメージを与えようがない動きをするムトーに近接攻撃メインのプレイヤーは接近すらもできないようだった。辛うじて遠距離攻撃は通じているが、ダメージは微々たるものであり、ヘイトを稼いだ分だけ狙われて次々と倒されてしまっている。

 倒されたらペナルティでランクが低下するのがオーディナル・スケールにおけるデスペナルティだ。HPがゼロになったプレイヤーは理不尽なイベントに参加してしまったと文句を垂らしながら見学するギャラリーに混ざる。

 

「アレを倒せばいいんだね?」

 

「そうだけど……って、光輝さん!? まさか……こ、これ、ゲームよ!?」

 

「そう、ゲームだ。別に本気は出さないさ。でも、さっさと終わらせないと帰れないだろう?」

 

 瞬間に光輝の姿が『消える』。リズベットがそう錯覚するほどの加速でムトーへと接近する。

 ムトーの連続した鞭の薙ぎ払いであるが、光輝は最初から全て見切っているかのように軽やかに立ち回る。数秒と待たずしてムトーの懐に入り込み、人体急所である太腿の内側を傷つける。

 だが、何せランクが低い上に初期装備だ。ムトーへのダメージは射撃攻撃以下である。反撃のハンマーの叩きつけをバックステップで躱し、逆にハンマーを踏みつけて腕を駆け上がろうとした光輝であるが、足はハンマーを通り抜ける。

 見た目は血塗れの禍々しいハンマーであるが、今は通り抜けた光輝の足と合体したかのような間抜けな状態だ。

 ARゲームあるあるよねぇ。リズベットは何とも言えない表情をしている光輝に同情を抱く。ARゲームはどれだけ五感を上書きしても実体を与えることはできない。当然ながら、人間がAR情報に物理的干渉はできないのだ。

 

「要は回避して攻撃、攻撃して回避を繰り返せばいいわけだ。楽勝だね」

 

 コツを掴んできたのか、ムトーを翻弄して低火力武器を手数任せで強引に削っていく光輝は相変わらず理不尽な程に身体能力が桁外れである。あれだけの動きをすれば、ボスのHPを削り切るより前にプロのスポーツ選手でも体力が先に尽きるだろう。ARゲームは何処までも現実の肉体に基準が置かれるのだ。

 

「いやー、アンタのカレシ凄いね。運動選手なの?」

 

「ただの国家公務員です」

 

「ひえー! 俺も新体操経験者だけど、開いた口が塞がらないよ! それにどんな反射神経してるんだか!」

 

 すっかり諦めムードのプレイヤーに話を振られ、リズベットは顔を覆いたくなかった。光輝はどう見ても本気を出していない。例えるならば早歩きをしている程度しかギアを入れていないのだ。根本的にスペックが違い過ぎるのである。その証拠のように額に汗すらも掻いていない。

 そんな男がスーツを汗でびしょ濡れにするとまで発言した『今夜』はどうなってしまうのだろうか? リズベットは身震いが止まらなかった。

 

「お兄さん、これ使って!」

 

 別プレイヤーから大剣を投げ渡され、光輝は増々の調子に乗ってか、わざとらしく紙一重で躱してから……いいや、回避と攻撃を両立させたカウンターを決めていく。

 そういえば、【渡り鳥】が得意としたのは回避と攻撃を両立させたカウンターって聞いたことがあったわね。SAO時代の噂話をぼんやりと思い出したリズベットは、やはり兄弟なのだと思い知る。

 武器の攻撃力が増えたお陰か、ムトーのHPが削られる速度は増していき、ついに撃破されるが、ラストアタックは惜しくも支援の射撃攻撃に持っていかれてしまった。申し訳なさそうにラストアタックをもらってしまったプレイヤーが頭を下げにくるが、光輝は気にしていないと笑ってプレイヤーの肩を叩いて健闘を讃える。

 ボスの撃破と遺跡から運動場の風景に戻る。視覚を上書きされていたAR情報が止まったのだ。

 

「ふぅ、悪くないね! オーディナル・スケール……ハマりそうだよ!」

 

「もう2度とするな、リアル・チート」

 

「え? リズベットちゃん? ま、また怒ってる?」

 

「怒ってない。心配しているだけ。今回はまだ『人間ならできる』くらいの範疇だったけど、光輝さんが本気出したらそれどころじゃないでしょ? リアルでバイクに足で追いついちゃう人が調子に乗って本気とか出して、動画撮影とかされたらどうするつもりなのよ?」

 

「……ごめん、悪かったよ」

 

 撮られたところで合成と勘違いされるだろうが、それでも噂となって広まり、自分の首を絞めることになる。

 汗の1滴すらも掻いていない光輝は、次々とハイタッチを希望するプレイヤーに応じなら、何処か寂しくも懐かしそうな横顔で空を見上げた。

 

「中学の頃は空手部だったんだ。でも、やり過ぎて先輩を骨折させちゃってね。自分が他人とは違うって自覚が足りなかったんだ。弟もさ、僕の真似して空手部に入って……でも、似たり寄ったりさ。狩人の血は僕たちにより強い体を与えてくれたけど、華々しく活かす機会なんて与えてくれない」

 

 苦笑した光輝はそのままベンチに向かう。数歩後ろでリズベットは彼の青春時代の孤独を垣間見た。

 

「皆と一緒に大会に出たかったな。部活も……続けたかったな」

 

 ベンチに腰掛けた光輝が星空に映し込むのは孤独に埋もれた青春か。その微笑みは何処となく自嘲を含んでいるようにも思えた。

 

「……ごめんなさい。言い過ぎた」

 

「リズベットちゃんは悪くないよ。僕が調子に乗り過ぎただけさ。今は面倒な時代だね。少しでも油断したら何でもネットに流出だ」

 

「『動け過ぎるから』って理由で自重するのも変な話よね」

 

 リズベットは世界を飛び回って、多くの『人間離れ』した人々と出会った。

 かつての常識は粉々に砕かれ、人間はまだまだ発展途上の生物であり、科学による限界の決めつけなど鼻で笑うような輩が何人もいた。

 彼らにも似たような苦悩と諦観があったのだろう。だからこそ、歩み寄る努力を怠ってはならないとリズベットは誓う。

 

「帰ろうか」

 

「そうね」

 

 先んじて歩き出す光輝の背中をリズベットは見つめる。

 互いに少しずつ少しずつ歩み寄って、内側に溜め込んでいた感情を、巣食わせていた苦悩を、沈殿していた願望を言葉にして伝え合って、自分たちはここまで来ることが出来た。

 だから大丈夫だ。どちらかが進むべきではない道を歩もうとした時は、もう1人が手を掴んで止めてあげることができる。あるいは、一緒に並んで足を踏み出すこともできる。それで十分ではないか。

 さぁ、帰ろう。リズベットは光輝の後を追おうとして、だが視界の端に不自然な光を捉える。

 それは女だった。パンツ型の黒のレディーススーツに身を包んで、世の男の視線を釘付けにする豊満な胸部はもちろんだが、青黒い髪のショートカットは切れ長の目と共に高い知性を醸し出している。

 リズベットの視線に気づいたのか、氷と称してもおかしくない程に怜悧な美貌のままに女は微かに笑う。

 リズベットには彼女が生身の人間には思えなかった。これは直感に過ぎない程の微かな差異であるが、現実世界の確かな実体がある風景である運動場に対して彼女の存在が何処か浮いているようにも感じたのだ。

 AR情報によって視覚に上書きされた人間だろうか? リズベットのように染髪しているとは思えない、まるで持って生まれたかのような自然さを持つ青黒い髪を夜風で靡かせながら、女はゆっくりとした足取りで近寄る。

 胸に駆け巡るのは不安。彼女の存在に対する既視感だ。それは九塚村で経験した不可思議な出来事に通じるものがあった。

 

「今夜はとても良い夜だ。そう思うだろう?」

 

 女はリズベットとすれ違う際にそう言葉を残す。振り返ったリズベットは女の背中を見ることもなかった。最初から存在しなかったかのように消えていた。

 嫌な予感がする。リズベットは足早に光輝の後を追う。

 女の頭上には自分たちプレイヤーと同じようにプレイヤーネームが表示されていた。だが、ARによって視覚に投影された存在であった彼女がどうしてこの場にいたのか。あるいは遠隔からコラボ・イベントの視察をしていただけなのか。

 だが、女の頭上に刻まれていた【Laevateinn】という名前の通りに不吉な予感が止まらなかった。

 

「どうしたんだい?」

 

「何でもない。何でもない……と信じたいわ」

 

 リズベットの変化に気づいた光輝に、彼女は首を横に振って誤魔化そうとして、だが体の震えは隠せずに正直に感情を吐露する。

 光輝は黙って腕を貸す。リズベットは寄り掛かるようにして隣を歩き、そのまま口を開かずにマンションに到着するまで思考を巡らせる。

 オーディナル・スケールにおける謎の昏倒事件。今のところ死者は幸いにも出ていないが、受け身も取れずに倒れたことで少なからずの負傷者も出ている。また目覚めた後も記憶の混濁なども生じていた。

 そもそもとして、一切のログが残らないというのはおかしい。ARデバイス側もサーバー側にも全くの痕跡が残らないはずがないのだ。それこそ誰かが意図して隠蔽工作でもしない限りにはあり得ない。

 そうなると運営であるBFFの犯行なのか? だが、今回の事件で最もダメージを負うのは他でもないBFFであり、実際に多くのスタッフが問題解決に乗り出している。リズベット達は公僕として事件解決に取組んでいるという『ポーズ』として捜査している立場だ。もちろん、上の意図とは別として解決を視野に入れて動いているが、BFFからの情報開示が無い時点でいずれは暗礁に乗り上げるだろう。

 DBO事件も、オーディナル・スケールも、肝心な部分の情報がいつもクローズされている。何処に敵が潜んでいるかも分からない以上、真相に迫る時は確実に相手を『詰み』に持っていけるだけのカードを手に入れていなければならない。

 いつものように光輝と一緒に乗り込んで、派手に花火を打ち上げて解決する事件ならば楽なのに。リズベットはすっかり硝煙が馴染んだ思考になっている自覚なく、また重村の元を訪ねて助言を求めようと方針を決定した。

 

「あ、買い物忘れたわ。冷蔵庫に何か残ってたっけ?」

 

「確かベーコンと卵くらいはあったはずだよ」

 

「だったら炒飯ね」

 

 今日はあたしが当番だった。エレベーターの壁にもたれかかりながら、久々の我が家に安心感を覚えて吐息を漏らす。胸の内の不安がまだ消えていないが、やはり帰れる場所があるというのは心に安定を取り戻させるのだろう。

 そうだ。SAO事件でも人々は何処か諦観を覚えていた。もう帰ることはできないと諦め、アインクラッドに根付く場所を欲した。帰るべき現実世界を捨てることで不安から解放されていた。

 DBOプレイヤーの生存者は3000人を切った。だが、一方でプレイヤー総数自体は増加の一途を辿っている。帰るべき肉体を持たないはずのプレイヤーが攻略に参加しているという奇怪な様に陥っている。

 もしかしたら、DBOはSAOよりも複雑な状況なのかもしれない。何にしても、リズベット達がすべきことはDBO事件の真相を暴くことだ。そして、願わくば被害者が1人でも多く存命している内にDBOから解放することである。

 だが、今もPE技術の解明には至っていない。須和は遺族から提供された遺体を解剖し、特に脳を重点的に調べているが、まるで手がかりを掴めていない。

 ファンタズマ・エフェクトが原因だとしても死因も様々なのが解明の道を更に困難にさせている。細胞が壊死してまるでエボラ出血熱を患ったかのような惨たらしい遺体になった者もいれば、まるで眠るように息を引き取った者もいる。あるいは発熱が止まらずに脳が溶解している者もいた。せいぜい分かっているのは、少なくとも死者のいずれも自意識はなく、遺体の状態に反して何ら苦しみを味わいながら死んだわけではないという事くらいである。

 ファンタズマ・エフェクトの影響でいかなる死を迎えるとしても、本人には苦痛を与えない。それは茅場の後継者の慈悲か、あるいはDBOでHPがゼロになる時の……まさに自分の『死』の瞬間を味わうことこそを最大の苦痛と恐怖であると心得ているからか。リズベットは自分の目の前でHPがゼロになってポリゴンの欠片となって砕けたSAOプレイヤー達を思い出して虚ろな眼になる。

 ARが発展した世界では『現実』との境界線が曖昧になっていくだろう。今この瞬間に見聞きしているものは実在するのかを疑い続けねばならないだろう。そうであるならば、最初から全てが創造された仮想世界の方がずっとずっと良心的に思えてならず、リズベットは溜め息を吐きながら玄関を潜る。

 

「…………」

 

 そして、気づく。背後からの圧迫感に背筋を凍らせる。無言でネクタイを緩めた光輝の気配に、リズベットは頬を痙攣させる。

 ベッドまで待てない。光輝の宣言が脳裏を埋め尽くし、リズベットは反転して両手を突き出す。

 

「ま、待って! せめてシャワー! シャワーを浴びさせ――」

 

「さーて、まずはビールかな」

 

「……え?」

 

 顔を真っ赤にしたリズベットの脇を光輝は通り抜け、リビングの明かりをつけると冷蔵庫を漁る。

 

「どうしたんだい? まさか期待してた?」

 

「し、してない! だけど、でも、光輝さんが……!」

 

 口を開いた分だけドツボに嵌まると悟ったリズベットは、心地よい音を立てて開けられた缶ビールを光輝の手から奪い取る。酒でも飲まねば羞恥で全身が溶けてしまいそうだった。

 リビングには足の踏み場もない程に多量のVR関連の書物が積み重ねられ、更には自筆で模写した捜査資料のファイルが散らばっている。わざわざ通販で取り寄せたホワイトボードにはDBO事件解決に向けて多くの情報が無秩序に記載されていた。

 容疑者の特定もできず、糸口もなく、それ故に絶大な権力、少なくとも小国の国家予算にも匹敵する財力、世界中に張り巡らされた人脈が不可欠と物語る。警察内部はもちろん、政財界にもDBO事件の協力者は潜んでいるだろう。

 

「侵入された痕跡はないわね」

 

 リズベット達が留守の間に盗聴器や監視カメラが設置されていてもおかしくない。それ故に知らない者ならば確実に引っ掛かるブービートラップが幾つも仕掛けてある。何も掃除が嫌いだから無秩序に部屋を散らかしたまま放置しているわけではないのだ。

 

「そもそもだけど、DBO事件はSAOサバイバーの参加率が高過ぎる。明らかに狙い撃ちされていたのは間違いない」

 

「あたしもGGO事件で国外じゃなかったら、今頃はDBOの虜囚だったかもしれないもんね」

 

 キリトとシリカが行方不明になったのも同様の理由が考えられる。彼らはVR犯罪対策室を離れて独自調査の末に黒幕にたどり着き、もしかしたらDBOにログインすることを強要されたのかもしれなかった。もちろん、真実にたどり着いて亡き者にされたケースも考えられるが、茅場の後継者は明らかにSAOサバイバーをDBOに招くことに固執している。

 炒飯は火加減が命よね。光輝と談義しながらリズベットはフライパンを振るう。家事スキル全般は光輝の方が上なのであるが、リズベットにもプライドがある。料理に関しては日々の精進もあってか、ようやく背中を捉える程度にはレベルアップしてきたところである。

 

「アルゴから貰った切り札を使えば何かか炙り出せるけど、その瞬間に証拠が揃っていなければあたし達はチェックメイトよ」

 

「レクトに何かあるにしても、僕たちが『表』で捜査できるネットワークを使用されているわけではないだろうね。レクトに情報開示を迫ろうにも、少なくとも表面上は全面協力しているわけだしね」

 

「レクトといえば結城家でしょ? 光輝さんは久藤本家を継ぐ立場なんだし、何とかできないの?」

 

「残念ながらね。SAO事件のせいでレクトはほぼ結城家の手から離れたようなものだよ。株価は大暴落だし、上層部の首は飛ぶし、負債もたんまりだ。公表されなかったお陰でダメージを負わなかったとはいえ、ALO事件は駄目押しになったね。ローゼンタール社と提携していなかったら倒産してるよ」

 

「技術も資産も根っこから持っていかれたとも言えるわね」

 

「潰れるよりマシかどうかは見方次第だね。まぁ、結局はDBO事件のせいでローゼンタールも大火傷したけど、まだレクトを見捨てていないようだね。何にしても結城家の影響力はもうほとんどないようなものだよ」

 

 そもそも結城家は金融が本業であってレクトはもう切り離した尻尾みたいなものさ、と光輝はソファに座り込みながら缶ビールを傾けながら気怠そうに補足する。

 アスナってやっぱり正真正銘のお嬢様だったのね、とリズベットは感慨深くSAOで出会った大切な友人を思い返しながら炒飯を皿に盛る。ここ最近は自分の心に正直になったお陰か、脳内アスナが出勤してくることはない。

 結城明日奈。それがアスナの本名である。リズベットは盛り付けした炒飯をテーブルに並べながら妙な縁を感じる。

 

「……レクトの首根っこを掴んでいるのがローゼンタール社なら、DBO事件の黒幕とか?」

 

「否定はできないね。ローゼンタールと言えばヨーロッパの雄のドイツ系のグループ企業だ。日本では影が薄いけど、欧米での知名度はBFFやINCと並ぶからね。ローゼンタールといえば、元を正せば第2次世界大戦以前の――」

 

「はいはい、まずは食事にしましょ。いただきます」

 

 どれだけクリーンを謳っても皮を捲れば真っ黒に汚れているものだ。グローバル企業ともなれば尚の事である。炒飯を頬張りながら、リズベットはテレビをつける。

 在日米軍のAC配備に伴い、日本でもAC開発が進み、有澤重工が従来の戦車と融合させた新型を発表したニュースに光輝は興味を持った目をしたが、もっと頭を空っぽにして見れる番組はないかとリズベットはリモコンを操作する。新型テレビかARチューナーを装着すれば、ARデバイスを通してリモコン無しでも操作できるのであるが、リズベット達は我が家という憩いの場にVRとARを持ち込むことを頑なに禁じ合っている。それ故に屋外では取り付けていたARデバイスも電源を切ってある。

 

「VRやARもそうだけど、軍事技術の進歩も異常だよ。戦時中だってここまでじゃないし、何よりも現代では開発コストも段違いのはずなのにさ。戦闘機の開発期間を知ってるかい?」

 

「でも、これが現実よね。SFだって笑われてた人型ロボット兵器が戦場で活躍してるのは事実じゃない」

 

「僕には大きな思惑が働いているように感じるよ。まるで意図して生み出された流行みたいだ」

 

 リズベットは仰る通りだと疲労の限りを尽くして長く息を吐きながらテレビを消す。仕事モードが嫌だとニュース番組から切り替えても、その先で頭を働かせる話題があっては休まらないものである。

 

「SAO……ううん、茅場晶彦が生み出したVR技術を発端にして、世界がどんどん変わっていくのが怖くなるわ。たった1人の天才で……世界は変わる」

 

 本当は誰もが気づいている。世界の急激な変化と各国の揃った足並みの裏には何かが潜んでいるのだと悟っている。

 

「茅場晶彦は確かにVR技術という革新をもたらしたかもしれない。でも、世界が急激に変化する土壌は元から出来上がっていたんだ。微睡みにも似た停滞の時代が終わろうとしているだけだよ。怠惰な停滞を『平和』と呼ぶのかもしれないけどね」

 

「平和が1番よ」

 

「……そうだね」

 

 怠惰な停滞だろうと、睨み合った冷戦だろうと、たとえ取り繕われた表面上だけの脆い嘘だとしても、それでも平和であると人々が信じられる内こそが幸福だ。たとえ、世界の何処かでは今も銃弾が飛び交い、血が流され、子供たちが泣き叫んでいるとしても、世界中を飛び回って多くの危機を救ったリズベットは今この瞬間を少なくとも『平和である』と断言できるのだから。

 結局は主観の話だ。リズベットはリストバンドに隠された手首を撫でる。無数の自傷の痕跡は平和とは程遠かったSAO末期の日々が彼女の心を壊した証だ。彼女の意識がアインクラッドという地獄にいた時、彼女の肉体は平和な日本の病室で外見上は穏やかに眠り続けていた。

 洗い物は光輝の当番だ。リズベットは食後と疲労が重なって睡魔に襲われる。

 最近は手首を紐で縛らなくても安心して眠れるようになった。たとえ、衝動的に手首を切ろうとしても、いつだって傍には光輝がいるから大丈夫だと心の底から思えるからだ。

 

「…………」

 

 ベッドに寝転がり、リズベットは右手を開いて握るを繰り返す。

 一見すればスムーズだ。だが、リズベットは憶えている。アインクラッドではもっとスムーズだった。現実の肉体の方に動作の鈍りを感じる。

 VRがもたらす問題の1つだ。運動アルゴリズムとのマッチングさえクリアすれば、アバターの方が遥かに体を動かしやすく、また思考速度も上昇する。長時間のVR接続は徐々に脳と肉体の乖離をもたらし、現実の肉体の方が『偽物』と感じるようになるのだ。VR適性が高い者が高精度のVRに長時間接続する程に生じやすい。

 現実世界を『偽物』と捉えるようになる認識障害をもたらす間接的要因となり、新たな現代病の1つとして数えられるのは時間の問題とされている。現在は企業間の取り組みで『リターンアップ』と呼ばれる、VRとの接続を解除する際に徐々に肉体へと慣らしていくプログラムも導入されているが、劇的な効果は見込めていない上にリターンアップには時間がかかることから意図して行わない者も多い。

 もちろん、これでVR規制が世界的に広まることはないだろう。規制を求める運動はあるとしても、VRは既にあらゆる分野に急速に根を張っている。

 根深い雑草を駆除するならば、あらゆる利権や社会を死滅させるに足る、環境をゼロに戻す程の劇薬級の除草剤を撒くしかない。あるいは、浸透するまでにかかった年月の何十倍もの時間をかけて根気よく働きかけるしかない。だが、後者はあまりにも現実的ではない。既にVR適性とVR環境の有無による格差が生じ始めているからだ。

 VRの目玉ともされていた体感時間の加速が実用化され始めたからだ。アメリカのINCエレクトロニクスと協働で行われた教育プログラムを導入した学校は、高VR適性者を特待生として入学させた。INCエレクトロニクスが導入した時間加速プログラムによって、体感時間は約3倍に伸び、彼らは1日で3倍の学習を行うことができた。更にVR環境は現実世界よりも集中力の持続と高い習得能力が発揮できることは既に判明済みであり、彼らは瞬く間に全米でもトップクラスの成績を叩き出した。

 VRドーピングが問題になったスポーツ界でも、トップアスリート達は既にVRにおける習熟速度の上昇に着目したトレーニングを実施している。

 VR環境は集中力の持続や思考速度の上昇をもたらすだけではなく、技術の体得速度にも恩恵をもたらす。これにはリズベットにも思い当たる節があった。

 SAOにおけるプレイヤーの過半がいわゆるインドア系であり、スポーツ経験の乏しさはもちろん、武道家など限られたほどしかいなかった。だが、彼らはソードスキルを通して肉体操作技術を脳に刷り込まれ、実戦における積み重ねからセオリーを学び、また数少ない経験者から伝授された技術を自然と共有化した。

 だが、考えればすぐに分かることであるが、過去の偉人がそうであったように、戦闘技術の習得と習熟には極めて長い時間を要する。それこそ、剣聖と謳われる程の達人でも人生のほぼ全てを注ぎ込むのだ。

 モンスターとの戦いにおける死の恐怖を乗り越えるという精神的難問と同等……いいや、それ以上のレベルで戦闘技術の急速な習得・習熟が可能ではない限り、特にSAO末期はとてもではないが『デスゲーム』という枠組みにおいてクリア不可能の領域にも達しつつあった。

 SAO事件研究の専門家によれば、茅場晶彦がソードスキルを導入した理由は、表向きには魔法がない世界観における『必殺技』の位置づけと武器を振るったこともない人々がよりハードル低くゲームに馴染める事を目的とし、裏ではデスゲーム化を目論んでソードスキルを通して脳に戦闘技術の基礎を無意識化に習得させる狙いがあったのではないかと推測した。その後、アーガスのSAOサーバーからソードスキルについてサルベージしたところ、システムアシストによるアバター制御は運動アルゴリズムを通してプレイヤーの脳に高レベルの刷り込み作業が行われていると判明した。運動アルゴリズムとの連動性が高い優れたVR適性者程に技術の習得・習熟が容易という事である。

 ただし、VRで習得した技術を即座に現実世界で適応できるわけではない。むしろ、乖離性肉体認識障害によって現実の肉体の鈍さなどがネックになり、また現実の肉体の神経や筋肉はもちろん、VR環境ならではだった精密な肉体操作性も失われる。こればかりは現実世界におけるトレーニングが不可欠であるが、現実世界でもトレーニング環境が揃っている上にフィジカルエリートであるアスリートたちは違う。既存の技術をVR環境でより濃密にトレーニングし、より高精度に高め、なおかつ現実の肉体へと専門のトレーナーの指導の下でスムーズにフィードバックが可能だ。既にこの最新トレーニング法を実施したアスリート達は成績の向上が著しく、数々の世界記録を塗り替えた。

 特に『VRにおける神経系』とも呼ばれる運動アルゴリズムのバージョンアップは、運動面におけるVRトレーニングの増強効果を高めるとされている。特にDBOクラス……個々人に最適化されるカスタマイズがオートで施され、VR適性の高さによる連動性のハードルを下げただけではなく、技術の習得・習熟性効果を更に高めるとされている。

 DBOに使用されていた運動アルゴリズムは、元々は軍用で研究されていたものに匹敵し、レクトとタッグを組んだローゼンタールは早々にDBOの運動アルゴリズムを軍用に使用したが、その後は産業スパイによって流出し、世界各国がDBO産運動アルゴリズムを『独自開発』の名目で発表したのは、その手のウォッチャーならば常識である。アスリートがそうであるように、軍人にもまたVR環境における訓練は大きな成果をもたらすのだ。

 

(全てをモニターできているわけじゃないけど、DBOは『超高難度』という次元すらも超越している。デスゲームとして『攻略不可能』な難易度であるはず。それなのに、プレイヤー人口が増えているとしても、今も攻略は存続している。犠牲者を出しながらも着実に進んでいる。彼らは個々にカスタマイズされた運動アルゴリズムを通して、死と直面する高ストレス環境下によって潜在能力が引き出され、戦闘技術を得ていく。まるで……戦いこそが人間の可能性であるかのように)

 

 一方で別の学者はこうも見解を示した。どれだけ技術を習得・習熟していこうとも『人間』であることには変わらず、故にVR環境において著しい運動能力等が付与されたとしても『人間』の限界を超えることはできないというものだ。高VR適性者が低ストレスで高精度な身体操作が可能であるとしても、そもそもとして実行している脳自体の適性が求められるというものだ。

 

「また難しい顔してるね」

 

「考えるわよ。あたし達の捜査が行き詰まっているせいで犠牲者はどんどん増える。もう3000人を切ったのよ。世間はもうDBO事件なんて過去のものだと思って報じもしない。1万人以上を『故人』のように扱ってるわ」

 

「……SAO事件も同じだったよ。あれだけの被害者がいたのに、3ヶ月もしたら何処も報道しなかった。裏工作とか以前にさ、SAO事件だろうとDBO事件だろうと、人々の関心も注目も長続きしないんだよ。被害者家族が……遺族が訴えた時だけ思い出したように哀れんで騒ぐんだ。そして、また埋もれていく」

 

「そんなの……!」

 

「でも、それでいいじゃないか」

 

 それは諦観ではなく許しの言葉だ。リズベットの頭を撫でる光輝は穏やかに笑む。

 

「リズベットちゃんにはリズベットちゃんの人生がある。他の皆だって同じだよ。たとえ、大きな悲劇に関わっているとしても、やらないといけない事があるとしても、それ1つだけにのめり込む必要なんてないんだ。進むべき道はあるとしても、たくさん道草を食って、回り道をして、試しに別の何処かに行ってみて……そうした積み重ねをしている内に、いつの間にかたどり着いている目的地だってある」

 

「……本当にそう思う?」

 

「本当さ。SAO事件で僕はあと1歩のところで茅場晶彦を取り逃がした。アイツに『勝ち逃げ』された。今回のDBO事件に至っては糸口なら幾らでもあっても、潜んでる敵の数も、相手の規模の強大さも、何もかもが比較にならないせいで、真相にはまるで近づけない。心の底から味方と呼べるのはリズベットちゃんくらいだよ」

 

「…………」

 

「夏には僕の帰省に付き合ってくれた。他の事件だってたくさんあって、1つ1つと向き合って解決していった。自己啓発なんて目的で、貴重な休日を割いて実費で講習まで受けないといけなかった時もあったよね。デートは……そういえば仕事に忙殺されてまだだったね」

 

「…………」

 

「『死ぬ時は死ぬ』。だからこそ、僕はリズベットちゃんに救われたんだ。自分の生に意味を見出せたんだ。自分の生きる意味さえ見つけたならば、たとえ死ぬ時でも虚無にはならない。たとえ、死の恐怖は無いとしても、生きた意味はあったと笑える気がするんだよ。ただ1つを追い求めるだけではたどり着けなかった。心の底から断言できるよ」

 

「何それ。遺言のつもり?」

 

 病院とは真逆だ。今度は自分が慰められる側になってしまった。リズベットは寄り添うように自分の隣に寝そべった光輝の頬に触れる。

 

「もっと笑っていいの? もっと遊んでいいの? もっと自由にしていいの? もっと……もっと……もっと……! こうしている間も、篝くんが死んじゃうかもしれないのに? どこかで生きている、キリトやシリカも死んじゃうかもしれないのに?」

 

「そうだよ。リズベットちゃんのせいじゃないんだからさ。DBO事件を解決することはリズベットちゃんが存在する理由じゃないんだからさ。あくまで人生における目的の1つくらいでいいんだよ」

 

「後悔するかもしれない。『あの時もっと頑張っていれば』って……ずっとずっと後悔するかもしれない!」

 

「どんな結末になろうとも後悔するよ。だって考えてごらんよ。もう死者は出ているんだ。たとえ、明日になってDBO事件がいきなり解決したとしても、生存者は3000人未満さ。遺族やマスコミからはもっと早くに解決できなかったのかと責められ、慰霊碑に頭を下げて無力を噛み締める。そんな苦痛だけを押し付ける人生なんて君には似合わない。僕が君に望むのはいつだって笑顔なんだからさ」

 

 涙で潤んだ視界は歪み、リズベットは鎖が千切れる音を聞いた。SAOに縛り付けられた心が……アインクラッドの悪夢が遠ざかり、また1歩……たった1歩でも着実に『篠崎里香』に戻れていく感覚に喜びを覚えた。

 

「ねぇ、キスしていい?」

 

「了承は要らないよ。僕は君の忠実な番犬だからね。飼い主には絶対服従さ」

 

 リズベットは光輝とそっと唇を重ねる。ほんの数秒だけであるが、まるで氷が溶解するような温もりが全身に広がる。

 

「……ねぇ、明日はデートしない? 折角の休みを寝て過ごすだけなんて勿体ないわよ」

 

「起きれるのかい?」

 

「起こしてくれるんでしょ?」

 

「……無理難題だね。じゃあ、今日は早くに休まないと――」

 

 完全に油断した光輝を全体重をかけてベッドに押さえつけ、リズベットは彼の上に馬乗りになる。

 ピンク色に染色された腰まで伸びた髪を右腕で払いのけ、およそ煽情的としか言いようがない表情でリズベットは恋人とのキスで微かに濡れた自分の唇を撫でる。

 

「このまま寝る? あり得ないでしょ」

 

「……意外と積極的だね」

 

「お嫌い?」

 

「むしろ好物」

 

 リズ、はしたないわよ! せめてシャワーくらい浴びなさい! 久々に登場した脳内アスナに、リズベットは冷笑で返す。キリトとアスナの熱愛っぷりを見せつけられ続けた、ある意味で彼女の乙女心に深い傷を負わせた思春期だった。

 だが、あたしは『今』を生きている。『今』を生きることを捨てたら『未来』など見つけられない。それがSAO事件を経て学んだことだ。今この瞬間に『生きている』理由だ。

 

「ねぇ、呼んで。あたしの……あたしの『名前』」

 

「……『里香』」

 

「もう1回」

 

「里香」

 

「もう1回」

 

「里香」

 

「……うん、『生きてる』って実感する」

 

 何の為に生きているのか。決まっている。SAO事件の悪夢に苦しみ続ける為でもなく、DBO事件を解決する為でもなく、VR犯罪に立ち向かい続ける為でもなく、自分が『幸せ』になる『未来』を得る為に……『今』を精一杯に生きているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、後悔するのが人生というものだ。翌朝、リズベットはあまりにも軽率な判断だったと我が身でたっぷりと痛感した。

 

「本当に……容赦がないんだから」

 

 今日のデートはやっぱり無理かもしれない。カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めながら、リズベットは隣で子どものような顔で眠る光輝に溜め息を吐きつつ、だがまるで聖母のように微笑みながら彼の額を撫でる。

 あなたと会えなければ、もっと早くにアインクラッドの悪夢に負けていただろう。自らの手で死を選ばずとも、仮想世界の帰れぬ奥底の闇まで堕ちていただろう。

 あたしを『現実』に繋ぎ止めてくれた人。あたしに『生きる』意味を与えてくれた人。あたしに『未来』を教えてくれた人。

 だからこそ、あなたにも笑顔でいてほしい。あなたに死んでほしくない。あたしは『死ぬ時は死ぬ』なんて割り切れないから。

 

「ああ、なるほどね」

 

 今まで何度も言葉にして、何度も心の中で思って、だけど未熟な自分はまだまだ本当の意味で分かっていなかった。

 

 

 これこそが『愛』なのだ。リズベットは今この瞬間、間違いなく『幸せ』だと実感して純真に笑った。




キミは何を信じる?
キミは何を思う?

どれだけ現実が書き換わっていこうとも、今この瞬間を見失うな。


それでは336話、レポートでまた会いましょう!

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