SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

幼き夢は心折れた娘と踊り、戦士たちは敗れた名前持ちの巣窟に立つ。



※どうでもいい話
階段の踊り場にサッカーボールを置くのは止めましょう。
急いで駆け下りていた筆者みたいな人が踏んづけて転倒した挙句、階段の角で左右の肩甲骨を破☆砕するような珍事が起こりえます。
1歩間違えれば後頭部! よい子のみんなはどんなに急いでいても足元を確認しながら落ち着いて階段を降りよう!
踊り場にサッカーボールを置いた悪い子は幻視ミル弓の刑です。



Episode20-11 色付く世界とキミの世界

 罪に怯えながらも罰を欲する。それが人の業であるならば、死とは救いになるだろうか。

 見え透いたトラップだった。欲に駆られて注意を怠ったギルドメンバーは全滅した。警戒して近寄らなかった自分だけが生き残った。

 忠告もした。それでも聞き入れなかったならば、自業自得の死だ。【カタジ】は酒を煽りながら、拭えぬ罪悪感に今宵も苦しむ。

 1人だけの生存者。周囲はよくある悲劇として慰めの言葉を口にしながら、数日も経てば忘れたように振る舞う。それが世の常だ。現実世界もDBOも大差はない。

 いや、帰るべき現実がない、肉体を持たないカタジにとって、DBOこそが逃れられない現実だ。だが、それでも確かに存在する現実世界の記憶があり、だからこそ地獄から逃れるように『帰還』を望む。現実に『帰還』することができれば、全ては悪い夢だったと忘れることが出来る気がするのだ。

 故にカタジは憎む。自分に帰るべき現実の肉体などないという事実を憎む。だが、憎めども憎めども、心は瞬く間に干乾びていく。砂漠に瑞々しい果実を置いても、陽光と熱風で腐るまでもなく朽ちるように、憎しみさえも風化する。

 それでも消えないのは罪悪感。死に際の仲間の救いを求める声、続く罵倒、そして呪詛だ。

 

「俺は警告したんだ。それを聞き入れずに……お前たちの自業自得だ!」

 

 酒を飲めども、罪は呑めない。平らげるには余りにも大きく、苦々しく、重たいものだ。噛み砕くこともできず、消化することもできないままに、両手で抱え続けた罪はやがて魂を腐らせていく。

 魂の腐臭は『蟲』を集らせる。悪意という名の『蟲』だ。その囁きに従えば、更なる罪の意識を生み、それが新たな腐臭を漂わせて『蟲』を誘うのだ。

 そうして腐って、腐って、腐り尽くして堕落する。衝動的な欲望にだけ突き動かされる刹那の存在に成り果てる。

 カタジは恐ろしかった。今まで当然のように見下していた……唾棄していた存在と同列になるのが恐ろしかった。

 変わらなければならない。だから信仰に救いを求めた。教会で告罪し、どうすれば救われるのかと導きを欲した。だが、与えられた聖典を捲っても罪悪感は消えなかった。彼らが信望する神に救いを見出せなかった。

 抽象的な表現など要らない。即物的な救済を与えてくれる神が欲しい。だが、カタジは知っている。仮想世界という科学の粋で形作られた世界に神がいるはずもない。いいや、現実世界でも神はいないのだ。人間自身の手で神秘を1つ1つ丁寧に潰したのだから。月は岩の塊に過ぎないと暴いたのだから。

 救いを。救いを。どうかこの哀れな魂に救いを。酒瓶を壁に叩きつけて割り、泣き叫ぶように咆えるカタジは、自分を狂人のように恐れる貧民プレイヤー達を睨みながら、死を求めるように路地裏を迷う。

 追い剥ぎに襲われても文句は言えない。だが、それでいい。カタジは諦めにも等しく、ドラム缶で燃える火で暖を取る貧民プレイヤー達へと侮蔑の言葉をまともに動かない舌で並べながら、誰を探すでもなく、何処を求めるでもなく、ひたすらに夜を迷う。

 そして、『何か』を踏みつけた。酔っていたこともあり、足下を見ていなかったカタジは、無視しようとして、だがそのまま体重をかけるには躊躇する感触に、ゆっくりと視線を下げる。

 それはぬいぐるみだった。デフォルメされた、目がない白猫のぬいぐるみだ。双眸があるべき場所からは綿が漏れており、およそゴミとしか評価のしようがない、子どもの貧民プレイヤーでも持っていそうなぬいぐるみだ。

 普段のカタジならば、そのまま踏み抜いて去っていくだろう。だが、白猫のぬいぐるみの口が微かに動いたような気がして、彼はそっとその手で拾い上げる。

 温かい。まるで生き物であるかのように温かい。驚いたカタジの手からぬいぐるみが落ちる。いいや、身じろぎして手から離れる。

 

「お、おい……何処に行くんだ?」

 

 もしかして、俺はもう夢の中なのだろうか? 酒を飲み過ぎてしまったのだろうか? まるで坂道で転げ落ちるかのように動くぬいぐるみをカタジは追う。だが、走っても走ってもぬいぐるみに追いつくことはできず、荒くなっていく呼吸は11月の冷えた空気に相応しくない熱された汗を滴らせる。

 そうしてたどり着く。かつては神殿だっただろう、だが今は水没して、僅かばかりの瓦礫とかつての祭壇を除いて足場がない、1部崩落した屋根より月明かりが差し込む『聖地』へとたどり着く。

 そうだ。『聖地』なのだ。カタジは思わず呼吸を忘れて、生まれて初めて神秘に遭遇した。

 水辺で咲き乱れるのは白い蓮。漂う香りは甘く、優しく、切なく、そして月明かりが差し込む祭壇は蔦と苔で覆われて、人工の芸術を喰らい尽くした自然の美によって神々しい揺り籠と化している。

 緑の揺り籠で誰かが眠っている。蓮に漂う水辺を見回しながら、僅かな陸を通って近づいていく。

 割れた窓から吹き込む夜風が水面に波紋を生み、白き蓮花を揺らす。甘い香りに包まれながら、カタジは『神』を見た。

 

 

 

 この世のいかなる不浄でも汚れることはないだろう、静謐に浸された白髪。

 

 人の手では触れることが許されない禁忌の果実のように、見ただけで瑞々しく柔らかいと分かる薄桃色の唇。

 

 白磁や白絹という表現さえも相応しくない、天女の息吹に濡れているかのような艶やかな肌。

 

 愛らしさと美しさが完璧に融合していながら、未成熟であるが故の不完全性を有するという矛盾を持つ、あらゆる芸術家が夢想した神々の如き容貌。

 

 神道を思わせながらも、多くの宗教的要素が複雑に絡み合った混沌とも呼ぶべき装束は、それこそが纏うべき者に形を与える秘密のようであり、故に神子が纏うこそ相応しい。

 

 

 

 年頃にして10にも届かないだろう、だからこその無限の成長を示すかのような未成熟。しかし、目を離すことが出来ない隔絶した存在だった。

 現実世界でも仮想世界でも何の意味もないただの光。それが月明かりだったはずだ。だが、白き者を濡らす月光は、譬えようもない神性を帯びていて、触れれば俗世に塗れて汚らしい自分など焼き尽くされるのではないかとカタジは怯える。

 だが、それでも触れたい。まるで火に集る蛾のように、カタジは恐る恐る手を伸ばす。白桃のような頬に触れる。

 

 

「どうして泣いてるの?」

 

 

 そして、白き者はまるで清めた鈴の音色を束ねたかのような声音でカタジに語り掛ける。

 カタジが触れて目覚めたのか、あるいは目覚める間際に触れてしまったのか。恐れ多いことをしてしまったと慄くカタジに、白き者は触れたことに罪などないというように無垢に微笑んで、己の頬に触れるカタジの手を、逆に両手でふわりと包み込む。

 開かれた瞼が露にしたのは、まるで血の宝玉のような……赤い月を思わす瞳だ。だが、人間の造形において当然である左右それぞれ1つの瞳は、言い知れない欠落を感じさせた。

 

「あ、ああ……あぁあああああ!?」

 

「祈りと呪いに罪はない。だから罰もない。もう泣かなくていいよ。アナタの祈りと呪いを食べてあげる」

 

 醜い嗚咽が溢れ、カタジは教会でそうしたように、だが今度は白き者に罪を告白する。背負いきれない仲間の怨嗟を差し出す。

 白き者は何も言わずに聞き入れた。そして、カタジの頬に触れると涙を愛らしい舌で舐め取る。

 

「ねぇ、聞こえる? 朝焼けの空で煌く黄金の稲穂が奏でる豊穣の音色」

 

「……いいえ」

 

「そうなんだ。まだまだ夜明けは遠いんだね」

 

 揺り籠から起き上がろうとした白き者は、だが激しく咳き込む。弱々しく座り込み、その両手を黒く、黒く、どす黒い闇に濡れた血で染める。

 

「夢と夢。夢で眠れば、夢で目覚める。とても心地良い夢だった。でも、夢を巡り続ける限り、夜明けは来ない。祈りと呪いが絶えぬは人の世の常であるとしても、夜明けの先に黄金の稲穂を。どうか人々が『幸せ』になれる豊穣を」

 

 神子装束を黒き血で染め、まるで尊い何かを捧げるように両手を月明かりに伸ばした白き者は、そのまま瞼を閉じる。

 

「とても……とてもお腹が空いた」

 

「で、でしたら、何か食べ物をすぐに!」

 

 カタジの申し出に、白き者は微かに瞼を開き、彼の胸に右手を這わせる。

 心臓が鼓動ごと握り潰される。そんなイメージが意識を埋め尽くす。だが、白き者は堪えるように顔を背けて手を離した。

 

「『食べたくない』」

 

 何ということだ。カタジは顔を歪めて苦悩する。白き者は飢えて、乾いて、飢えて、乾いて、飢えて、乾いていらっしゃる!

 せめて、少しでも紛らわして差し上げねばならない。たとえ、飢餓を癒すことは出来ずとも、気を紛らわすくらいはできるはずなのだ。

 

 

 

「ああ、どうか我らに夜明けを」

 

 

 

「豊穣を」

 

 

 

「黄金の実りを」

 

 

 

 自分だけではないのだ。

 誰もが祈りと呪いを抱えて生きているのだ。

 だからこそ、食べてもらうのだ。抱えきれない業を食べてもらうのだ。

 カタジは振り返る。そこには自分と同じく跪く数多の者たちがいる。彼らは一様に夜明けの先にある豊穣を渇望する。

 ようやく理解した。我らこそが神託を得た正しき信徒なのだ。

 無知で、愚昧で、啓蒙の足りぬ輩に黄金の稲穂など不要だ。

 

「ああ、我らの神よ。今すぐにでもお慰めを献上をしましょう。『菓子』など如何でしょうか? 甘く、赤く濡れた『菓子』です」

 

「お菓子? うん……食べたい」

 

「では、しばしお待ちを!」

 

 神はそこにいる。

 それは美貌の有無ではない。

 この聖地を満たす、どうしようもなく魂を満たすものだ。 

 理とも呼ぶべき殺意に浸されているのだ。

 人間が目を背けずにはいられない摂理。だが、それは父性とも母性とも異なる、言い知れない充実を満たす神性だ。

 カタジは頬に触れる。まるで焼けたように熱い。涙を舐め取ってもらった名残に絶頂すら覚える。

 これこそが神託なのだ。カタジは胸を張り、同じく白き者より恩寵を賜りたい信徒たちの羨望を集め、彼らをまた率いる。

 

「どうすればよいのだろうか?」

 

「やはり苦しませるべきか? 悲鳴をあげた分だけ味も濃くなろう」

 

「いやいや、苦しみを与えては肉が硬くなると聞くぞ」

 

 誰もが口ばかりだ。カタジは彼らの長として先陣を切る。

 やはり最初に献上するならば、若い雌がいいだろう。四肢を他の者たちに押さえさせると、得物の短剣を振り下ろす。

 だが、なかなかに活きがいい。1度刺しても死なぬ。だが、悲鳴をもらす。これでは駄目だ。喉を潰す。

 ゆっくりと胸を裂き、骨を削り、脈動の核を……『果実』を両手で触れる。

 涙と絶望と恐怖で濡れた瞳で、あらん限りの救いを求めた若い雌に笑い掛ける。

 

「お前の『果実』は尊い御方に献上される。本当に羨ましい。とても羨ましい」

 

 そうだ。恐怖を啜った真っ赤な血で濡らす事で、果実は『菓子』になるに違いない。実践してこそ得られる知見もあるものだとカタジは歓喜する。

 もぎ取った『果実』は甘くて赤い菓子となった。さぁ、早く献上しよう。捧げねばならない。

 

「如何ですか? 空腹を満たせずとも、お慰めになったでしょうか?」

 

 手を赤く濡らしたままカタジが差し出せば、白き者は菓子を両手に取ると一心不乱に喰らう。

 

「血の悦びがない。お腹も膨れない。でも、思い出せる。ザクロたち……とっても美味しかった。クヒ……クヒヒ……クヒャヒャヒャ!」

 

 白き者は笑う。耐え難い飢餓の全てをぶつけるように、だがカタジ達を決して喰らわないと己を律するように……笑う。

 そうだ。所詮は腹を満たさぬ紛い物。慰めにすらならない。だが、それでも『かつての食事』を想起させる一助となるならば、幾らでも献上しようではないか。

 

 カタジは恭しく頭を垂らし、かつてない情熱を胸に秘めた。 

 

 さぁ、祈ろう。祈ろう。祈ろう。

 

 

 

 我らの祈りの全てを喰らってくれる白き者の為に、果てしなく祈って菓子を献上しよう。

 

 

 そして、我らに黄金の稲穂を与えたまえ。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「ぐっすり眠れた?」

 

「……変な夢、見ちゃった」

 

「へぇ、どんな?」

 

「なんかね、よく分からない人たちが赤くて甘いお菓子をたくさん持ってきてくれるの。でもね、食べても食べてもお腹が膨れないし、少しも癒されない。そんな夢」

 

「うーん、リゼットお姉さんの評価! まさに変な夢! カガリちゃんは想像力豊かだねぇ!」

 

 すっかりお気に入りのようだ。朝からカガリを抱きしめて頬擦りしているリゼットに呆れながら、モンスーンはトーストを齧る。

 視覚にFNCを抱えるモンスーンの視界は、24時間モノクロである。故にリゼット曰く『赤いイチゴジャム』も『白黒のイチゴジャム』であり、トーストの小麦色も想像するしかない。

 色の判別ができない。それだけならば何とかなると言いそうな輩もいるが、モンスーンは怒りを込めて叫びたい。

 たとえば、仲間のHP残量をバトル中に判別するならば、まずはHPバーのカラーリングを確認するだろう。HP1割未満のレッドカラーならば、迅速なフォローがなければ死は免れない。モンスーンの場合、HP残量をカラーリングで判断できない為に、どうしても確認作業のテンポが遅れる。それがそのまま仲間の死に繋がることもある。いや、実際にモンスーンはパーティメンバーのピンチを察するのに遅れが生じて死に至らしめてしまった。

 詰られ、責められ、追放された。その後もモンスーンは惨めな日々を送るしかなかった。視覚に問題を抱えるとは、視覚関連のシステムの恩恵も十分に得られないということだ。フォーカスロックが突如として外れるなど日常茶飯事である。

 すぐにモンスーンは諦めた。戦いで成り上がるなど不可能だ。そして、最後は『力』が物を言うDBOにおいて、戦えない弱者が生き残る方法は1つだ。強者に媚びへつらうことである。

 重要なのは靴を舐める相手を間違えないことだ。そして、自分が尻尾を振った強者に陰りが生じたならば、気づかれないように距離を置いて次の強者に平伏すことだ。

 そうしてモンスーンは生き残って来た。大して役立たないと思っていた初期獲得スキルの≪工作≫を利用して、アミューズメント開発を担うギルド【トイ・ユニバース】の下っ端として職を得た。正規のギルドメンバーではない分だけ格下……言うなれば非正規雇用のような扱いであるが、それでも食うに足るだけの賃金を得ている。ギルド連合体であるクラウドアースにおいて、正規ギルドメンバー……正社員になるには相応の成果が不可欠なのだ。

 

「ごめん。私、今日は出勤になった。だからさ、カガリちゃんの世話よろしく!」

 

「は!? 俺達は今日・明日は非番にするはずだっただろ!? 忘れたのか!?」

 

「仕方ないでしょ。緊急の呼び出しなんだから。ここで応じなかったら怪しまれるかもしれない」

 

 陰鬱な顔をして溜め息を吐くリゼットの様子から察するに、強い要請があったのだろうとモンスーンは納得する。

 

「ぶっつけ本番は避けたかったんだがな。明日が本命だし、今夜はみっちりとイメトレするぞ」

 

「了解。それじゃあ、カガリちゃん! モンスーンおじさんと仲良くしてね!」

 

 トーストを咥えて駆け足で玄関から飛び出したリゼットに手を振って見送ったカガリは、食器を洗うと白猫のぬいぐるみを抱いてソファに座る。

 不気味なガキだ。モンスーンはモノクロの世界においても際立つ美貌をしたカガリを横目に煙草を咥える。

 昨夜の月明かりの中での狂笑。同時に心を掴んで離さなかった魅入られそうになった『何か』。間違いなく普通の子どもではないとあの一瞬だけで理解し、また腹の底から冷えた。『死にたくない』と強く願った。

 カガリから感じたのは何だったのか、モンスーンはまだ言語化できておらず、また進行させる予定もなかった。あの後、カガリはリゼットの抱き枕となって眠った。恋人の豊かな胸に包まれたカガリを、しばしの間は監視していたモンスーンであるが、深夜2時を過ぎても目覚める様子がない熟睡した姿を見てホッとして寝床のソファへと赴いた。

 

『そりゃ変だし、なんか怖かったけど、カガリちゃんって……こう……なんていうか……凄いマイペースで不思議ワールド全開だから、別にいいかなって。それにさ、だからこそ放っておけないじゃない』

 

 朝起きたリゼットは、昨夜の出来事を消化しきれていない様子だったが、カガリを放り出す気はないようだった。

 あの巨乳は見かけ以上の母性が詰まっているようだ。モンスーンは恋人が別人になったかのような感覚に襲われた。カガリを連れてくる前は、まるで世界を呪って止まないような、自分ほどではないにしても真性のクズだったはずだ。

 それが今はどうだろうか? カガリに接する度に笑みを零している。それがモンスーンには理解できなかった。

 見てくれの良いだけの、少しばかり言動がおかしいガキが何だというのだ? 存外に自分の相方は『チョロい』ものだと冷笑しながら、モンスーンはソファに腰を下ろしていたカガリの横に腰かける。

 

「ポップコーン食うか?」

 

「うん」

 

 ちょっとした意地悪だ。モンスーンはキャラメル味のポップコーンを2人の間に置く。だが、カガリは味覚に障害を持っている。何を食べても味はしない。本人曰く、何を食べても食感こそしても味はしないようだった。

 

「ねぇ、おじさん」

 

「おじさんは止めろ」

 

「これ何味?」

 

「キャラメル味」

 

「ふーん」

 

 もぐもぐ、という擬音が聞こえてきそうな程に、カガリは可愛らしく両手で持ったポップコーンを齧る。

 どういうつもりだ? まさか嫌がらせと気づいていないわけではないだろうに。モンスーンが睨めば、カガリは首を傾げる。

 

「美味しくないの?」

 

「それはこっちの台詞だ。味なんてしないのに、なんで食べる?」

 

 餓死を防ぐためにリゼットが食べやすく、もとい飲みやすいようにスープを朝食で準備した。カガリがわざわざ自分を苦しめる為に必要のない食事をするとは思えず、モンスーンは問いかける。

 

「味がしないから、味をイメージするの。これは『キャラメル味』って! そうすれば、味はしなくても『キャラメル味のポップコーン』を食べてることになるんだよ」

 

「……そうかよ」

 

 ポジティブだな。カガリの子どもであるが故の回答に、モンスーンは頭を掻く。これでは意地悪をした自分が惨めなだけだ。

 頭を掻きながら、手で掴み取ったポップコーンを頬張る。

 何か娯楽でもあればいいのだが、何をするにしても金がかかるのが人間社会だ。それは現実世界もDBOも大差がない。

 モンスーンによって過半のポップコーンを食べられたカガリは、大人しく座っているのに飽いたとばかりに部屋を見て回る。昨日までは足の踏み場もないゴミ溜めだったが、今は奇麗に掃除も整頓もされている。人間らしい生活空間になったが、モンスーンには逆に落ち着けなかった。

 

「ねぇ、本とかないの?」

 

「本? 雑誌や新聞ならそこにあるぞ」

 

 隅には刊行順に並べられた週刊サインズや他情報誌、新聞が積まれている。リゼットが職場からタダで貰って来たものばかりであり、モンスーンは暇潰しでたまに目を通す程度だ。

 新聞はいずれも報道ギルドによって発行されているが、ほぼ全てが背後に大ギルドを筆頭にしたDBOで勢力を築く存在がいる。ある意味で各々の組織の思惑を透かして見ることで内容の真意を読み解かねばならないのだが、モンスーンにはそんな芸当はできず、またわざわざやろうとする程に日々のキャパシティを割く程のバイタリティも無い。

 情報誌も似たり寄ったりである。週刊サインズは傭兵関連の報道のみならず、DBOで起きた事件を面白おかしく記事にする為に読み物としては退屈しない。だが、他の報道ギルドも読者獲得の為に取材合戦や苛烈な記事を書く傾向が日々強まっているのもまた事実であり、時として気分を害することもある。

 何にしても子どもが読むには健全ではない。だが、DBOは不健全の塊であり、容赦なく子どもにも牙を剥くならば、丁度いい勉強にもなるだろうとモンスーンは放置した。

 だが、カガリは雑誌にも新聞にも興味を示す様子はない。素通りして棚を見て回る。

 

「……どんな本が読みたいんだ?」

 

「えーとね、古い本。たくさんの人が読んだ古典みたいなのがいい!」

 

「高尚な趣味をお持ちなガキだ。リゼットはともかく、俺は学も品も無いものでね。お目当てはないぞ」

 

 そもそもDBOでは、現実世界由来の古典などは貴重品だ。物好きなプレイヤーがたまに市場に流しているらしいが、いずれも高値がつく。

 

「ほら、コイツに連載小説がある。暇潰しにはなるだろ?」

 

 いずれの雑誌も売上増加に必死だ。小説、漫画、川柳など、読者の興味を惹けそうなものならば何でも手を出している。モンスーンは手に取った雑誌を押し付ければ、カガリは首を横に振る。

 

「あのな、ここはお前の知ってる世界じゃない。お前が欲しがってるのは宝石以上の希少価値があるんだ。キッパリと諦めな」

 

 右手の人差し指でカガリの額を突き、モンスーンは睨みを利かせる。カガリは額を撫でると走って寝室に消える。

 拗ねたか。昨夜の1件があってか、カガリをただの子どもとは思えなくなっていたモンスーンは、微かな安心感を覚える。

 

「おい、何処に行く?」

 

 だが、モンスーンの目前を、目の無い猫のぬいぐるみを抱いたカガリが通り過ぎていく。真っ直ぐと玄関に向かう小さな姿を、彼は先回りして道を塞いだ。

 

「外に行ってくる」

 

「駄目だ。お前がどうなろうと知ったことじゃないが、リゼットと約束したからな。目を離すわけにはいかない」

 

「だったら、おじさんも外に行こうよ!」

 

「嫌だね。今日はダラダラ過ごすって決めたんだ。あと、おじさんは止めろ」

 

 カガリは頬を膨らませてモンスーンを見上げる。思わずたじろぐ程に愛らしいが、ワガママを言う素振りはなく、大人しくソファに戻る。

 お行儀がいいことで。満足したモンスーンは新たな煙草を咥える。リゼットがいないならば、わざわざ窓を開けて吸う必要もない。灰皿をテーブルに置き、冷蔵庫からビールとチーズを持ってくると、ぬいぐるみ相手に何やら小声で話しかけているカガリを傍らに、明日の計画を頭の中で再確認する。

 本来ならば、今日はリゼットと共に下見をする予定だった。だが、彼女がいないならば、モンスーンだけ出張ってもしょうがないのだ。

 

「……あ」

 

 だから今日は朝から酒盛りだ。機嫌よく缶ビールを開けようとしたモンスーンは、咥えている煙草が最後の1本だと気づく。

 世間一般で最も依存性において有名なのは酒と煙草だ。DBOにおいては、より精神的な意味で、この2つに依存する人間は多い。モンスーンもその1人であり、煙草を吸っていなければ、1時間と経たずして禁断症状のようにイライラが止まらない。

 買いに行かねばならない。だが、モンスーンが買っている銘柄は少数生産品だ。安物ではあるが、取り扱っている店は少ない。近場では購入できないだろう。

 

「おい、買い物に行くから準備しろ」

 

「はーい」

 

 カガリに留守番させるのは不安が残る。ならば傍に置いていた方がいい。モンスーンは着替えを済ますとぬいぐるみを抱えたカガリを連れて外に出ようとして立ち止まる。

 

「顔は隠しておけ。いいな?」

 

 素顔を晒したままのカガリに、モンスーンはフードを引っ張って無理に被せる。猫耳がついた可愛らしいフードを目深く被れば、衆目を集めずにはいられない容姿も幾らか隠れる。これならば目立つこともない。また、見た目の良い子どもは高く売れる『商品』だ。犯罪プレイヤーの目から逃れる為にも必要な処置だ。

 

「あと、手は握らないからはぐれるなよ」

 

「うん!」

 

 元気よく頷いたカガリを連れて、モンスーンは今日も多くのプレイヤーが行き交う大通りに出る。

 プレイヤー人口の増加は多くの変化をもたらした。たとえば、モンスーンやリゼットのような現実世界に肉体を持つプレイヤーはマイノリティとなり、その身分を明かせば、時として『永住』の過激派に狙われることもある。あるいは、帰るべき肉体を持たない流民プレイヤーの嫉妬と憎悪の対象にもなる。

 肉体持ちプレイヤー同士によるコミュニティもあるらしいが、モンスーンは興味を持っていない。

 大ギルドは遅かれ早かれいずれも『永住』を表明するのは時間の問題だからだ。現時点では公式に完全攻略の末に『永住』を選択すると宣言しているのは聖剣騎士団だけであるが、絶対的なマジョリティである肉体無しプレイヤーの指示を集める為にも『永住』表明はいずれの大ギルドも選択するだろう。

 そうなった時、『帰還』を求めるプレイヤー達は生存を脅かす明確な『敵』となる。当然ながら、現時点でコミュニティに参加しているプレイヤーはいずれも大ギルドの要注意人物リストに記載されているはずだ。

 帰れるものならば帰りたい。現実世界ならば、少なくとも視界に色がつき、生命の安全は保障される。それだけでもモンスーンには魅力的だ。DBOで暮らせば、公的権力と法の秩序がどれだけ偉大なのか身に染みて分かった。

 

(だが、帰ったところで、何をしろってんだよ)

 

 これから生きていく上で十分な補償を受けられたとしても、モンスーンの人生は既に汚物で満ちている。

 どうせ何をしても認められない。何をしたとことで変わらない。だが、それでもDBOよりも僅かにマシだ。その程度なのだ。

 

「ねぇねぇ、おじさん!」

 

 だからおじさんは止めろ! 煙草がないせいで侘びしい口元が苛立ちを生む。だが、さすがに公でカガリを怒鳴りつけなかったモンスーンは、袖を引くカガリの視線の先を見る。

 それはポスターだ。明日開催予定のクラウドアースのエンターテイメント事業のデモである。一般参加も可能であり、当日には相応の賑わいが予想されている。

 

「すごーい! 遊園地みたい!」

 

「クラウドアースは、実際にテーマパークの建設を予定しているからな。コイツはその実験だよ」

 

 フロンティアフィールドに建設する予定らしいが、攻略事情には明るくないモンスーンは、こうした積み重ねの分だけ『現実』として肉付けされていくDBOが、より現実世界へと戻る希望を潰しているような気がした。

 そもそもとして、『現実世界と同等、あるいはそれ以上の体験』こそが目玉のVRにおいて、並の施設では満足させることは出来ない。たとえば、絶叫マシーン1つを取っても、フィールドを駆け、ダンジョンに潜り、数多の冒険を繰り返すプレイヤーからすれば、いずれも劣化した体験だ。

 だが、それは『戦えるプレイヤー』の視点だ。多くのプレイヤーはまともに戦う事も出来ない。だからこそ貧民プレイヤーが溢れている。彼らは市場ターゲットではないにしても、レベルアップも『命懸けのスリル』も味わいたくない、だが職を持って稼ぎを得ているプレイヤーからすれば、『安全で楽しいスリル』はご馳走だ。だからこそ、安全地帯で観戦できるコロシアムやモンスターズ・アリーナが流行るのだ。

 

「良い子にしていたら、連れていってやる」

 

「本当!?」

 

「良い子にしてたらな。約束できるか?」

 

「うん、約束する! おじさんを困らせない!」

 

 ぬいぐるみを抱きしめて嬉しそうに跳ぶカガリに、モンスーンは失笑する。良い子だろうと悪い子だろうと、カガリには付き合ってもらうのだ。子連れなど『カモフラージュ』に最適である。

 

「毎度あり」

 

 ようやく落ち着ける。サインズ本部近くにある売店にて、お気に入りの銘柄を買ったモンスーンは、早く一服したいと早歩きになる。近くには、彼のようなヘビースモーカー向けの丁度いい喫煙スポットがあるのだ。

 決して景色がいいわけではない、だが寂れた貧民街が僅かに見える広場だ。3大ギルドの競い合うような開発合戦により、終わりつつある街は無秩序に広がり、多くの路地が絡み合う立体構造と化している。切り立った崖を思わす広場の縁から見下ろせば、溝を満たす汚水の流れが目につく。

 モンスーンと同じ喫煙者が屯しているせいか、風通しがいい場所とはいえ、煙草のニオイが少々濃い。カガリが咳き込むも、モンスーンは知った事かと外灯のポールに背中を預けて煙草に火を点ける。

 これぞ至福だ。機嫌よく紫煙を吐いたモンスーンの足下で、カガリは柵の隙間から真下の溝を覗き込んでいる。

 

「ねぇ、あの人たちは何をしているの?」

 

 カガリが興味を持ったのは、溝で動く小さな点……貧民プレイヤー達だ。モンスーンは説明するのも気怠かったが、カガリの好奇心に満ちた眼に負ける。

 

「『お仕事』だ。貧民プレイヤーはああして溝を漁って金目のものを探す。ゴミでも素材になるから数を集めれば換金できるし、他のプレイヤーが捨てたアイテムも流れてくることもある。稼ぎにはほとんどならないけどな」

 

「どうして貧しいの?」

 

「……理由は色々あるが、1番デカいのは『弱い』からさ。戦えない弱者は稼ぎも得られないし、仕事をする為のスキルも揃えられない。連中は底辺のまた底辺さ」

 

 大ギルドや有力ギルドが保有する鉱山、農園、牧場といった『安全な資源拠点』の労働者は足りている。そして、命の危険がある現場は総じて入れ替わりが激しい。元より死を覚悟して戦えない者が、命の危険に晒される職場で健全な労働精神を保っていられるはずもない。雇用期間が終われば更新しない者が半分以上だ。そして、それ以上に雇用期間中の脱走は多い。

 また、職は無限に供給されているわけではない。雇う側はコストに見合った利益を得られなければならない。職場に適したスキルを持っていない者をレベリングさせても、それに見合うだけのリターンが得られるか分からないならば、たとえ借金漬けにするにしても対象は選ぶ。借金とは債務者に返済能力が無ければ、金を捨てるようなものだからだ。

 下位プレイヤーでも特に貧窮している者たち、それが貧民プレイヤーだ。安い賃金でこき使われている者、ゴミ拾いをして日銭を稼ぐ者、同情狙いで物乞いをする者、教会からの配給で食いつなぐ者、縄張りを持って同じ貧民プレイヤーから搾取する者など様々であるが、総じて生活レベルは低い。

 

「俺も1歩間違えれば、ああなっていたかもな」

 

 FNCのモンスーンが貧民プレイヤーにならなかったのは、初期の仲間たちのお陰だ。彼らのお陰でスキルを揃えるだけのレベルに達していた。

 時間が経つ毎に大ギルドを中心として秩序が敷かれ、だが格差も明確になっていった。

 結局のところ、常に生命の危機が付きまとうDBOにおいて、出世の道は限られている。商才を持っていたとしても、開業資金、仕入れルートの確保、市場動向の把握、同業者の妨害等々の試練を超えねばならない。そして、いつも最後に物を言うのは暴力だ。だからこそ、戦えない商人は多額の金を支払っても大ギルドや有力ギルドの庇護下に入り、または武闘派ギルドに資金援助して警護してもらったり、犯罪ギルドとの繋がりを持つのだ。

 

「『弱い』奴は踏み躙られる。憶えておけよ、最後は拳のデカい奴が全部持って行くんだ」

 

 俺がそうだったようにな。色付かない白黒の世界に、もはや怒りも憎しみもない虚ろを覚えながら、モンスーンはまだ絶望を知らないカガリに語り掛ける。

 まだ子供であるが、時を待たずしてDBOの理不尽と惨酷さを味わうはずだ。ならば、その時までに少なからずの覚悟の機会を与えておくのは、モンスーンなりの大人の気遣いだった。

 

「所詮は弱肉強食。それが世の中なんだ」

 

 いいや、違う。DBOだけではない。現実世界だってそうだ。嘲うモンスーンの左手に、カガリの指が絡む。

 

「強きは生き、弱きは死ぬ。それこそが『命』の理だよ」

 

「よく知ってるじゃねぇか。そうさ。強い奴は何をしても許される。弱い奴は従うしかない」

 

「違う。それは『命』の理じゃないよ」

 

 フードを被っているせいか、カガリの表情は陰に覆われている。だが、まるで夜空に浮かぶ月のように、その眼だけは驚くほど鮮明にモンスーンを射抜いている。

 

「『命』は食べられる為にある。理想、願望、信念、矜持……そうした尊い『人の意思』は意味を持たない。『力』の足りない方が食べられる。そして、糧とした『命』を無駄にしてはならない。たとえ、これから先にどれ程の『力』を持った者が立ち塞がろうとも、どれだけ素敵な『人の意思』を持った敵が現れようとも、最後の瞬間まで前に進む。手足が千切れようとも前に、前に、前に。相手の喉元を食い千切る為に前に。そして『力』が足りぬならば死んで骸となり、新たな『命』を育む礎となる。それこそが『命』の循環」

 

 煙草のニオイを濃く纏った風が吹き、カガリはまるで空から零れた涙を受け止めるように両手を掲げる。

 

「弱者を喰らい、強者は育まれる。弱者という糧こそが強者を生かす。これこそが弱肉強食。おじさんが言っているのは社会……支配の理だよ」

 

 何が違うというのか。そう言い返そうとしたモンスーンは、子ども相手に反論するなど時間の無駄だと煙草を踏み潰す。

 さっさと帰ろう。煙草は買ったのだ。カガリの手を引っ張って帰宅を迫ろうとするも、モンスーンは動けなかった。

 カガリの双眸。およそ人間味を感じさせない、蜘蛛の如き無機質で冷たい瞳。たとえモノクロの視界であろうとも褪せることはない絶対的な恐怖感をもたらした。

 故に触れることはできない。カガリが同じ人間に思えず、モンスーンは生唾を呑んで喉を鳴らす。

 

「……お腹空いた」

 

 だが、猫のぬいぐるみでお腹を隠しながら、カガリは空腹を訴える。我に返ったモンスーンは、昼食にはまだ早いと思いながらも、育ち盛りの年頃ならば致し方なしと頷く。

 近所にはDBOにおいて唯一無二の不可侵聖域……誰も争いを持ち込んではならない暗黙のルールが敷かれた名店ワンモアタイムがある。安くも高くもない手頃な価格で昼食を楽しめるだろう。

 とはいえ、カガリは味覚に障害を持っている。どれだけ美味の料理を出されても、カガリの舌は何も感じ取ることは出来ない。食感はあるとのことであるが、肝心の味を楽しめないならば意味はない。

 そうしてたどり着いたのは、今週の週刊サインズで掲載されていた『NPC経営、珍料理店食べ歩きツアー! Vol.4』で紹介されていた、不気味なラーメン屋台である。

 プレイヤーによる都市開発に合わせて増減するNPCであるが、そこには時としてどのような意味を持つか分からない謎のNPCが出現する。ラーメン屋台の店主もその1人であり、何らかのイベントの起点と考えられているが、とにかく『ゲロ不味い』とのことであり、およそ人間が口に出来る限界を超えているとのことだった。

 現時点で完食達成者はゼロ。屋台の近くまでくれば、哀れなチャレンジャー達が青い顔をして喉を引き攣らせて蹲っている。

 カガリに味覚はない。故にどれだけ不味い料理を食べさせたところで問題はない。格安で、それも場合によっては謎のイベントをクリアした上で食事を済ませられるならば悪くないだろう、と悪意に似た好奇心でカガリを誘う。

 だが、モンスーンはすぐに後悔した。屋台から漂うのは、豚骨ベースであるとかろうじて分かるものではあるが、ありとあらゆるニオイが凝縮されて混濁したものだったからだ。

 腐臭とは異なる方向性の悪臭。人間から食欲を完全に削ぎ落とすに足る。1歩も動けないでいるモンスーンは、これがリゼットの世界か、と両手で鼻と口を覆う。

 

「うわぁ! ラーメンだ!」

 

 だが、カガリは何ともないように屋台に近づいていく。目を見張ったモンスーンは、その後を追い、喰いかけのラーメンを引っ繰り返したまま気絶しているプレイヤーを右横に、カガリを左隣にして腰を下ろす。

 サングラスと分厚いマスク姿をした店主は、モンスーンたちの注文を聞くことなく、これでもかと煮込まれて泡立ったスープを注いだ、雑なトッピングのラーメンを差し出す。

 チャーシューと思われるゼリー状の物質。石のような硬質感がある卵。謎の2センチの6面体の物質。厚さがバラバラの麺。そして何よりも印象強いスープは、モンスーンの視界では完全な『黒』だった。本来の色は何であれ、およそラーメンに相応しいカラーリングではないだろうと断言できた。

 スープがマグマのように泡立ち続け、ニオイが留まることなく鼻奥まで突き刺さる。食欲減退どころか滅殺レベルであり、たった100コルであろうとも支払う価値がない毒物だった。

 いくら味覚がないとはいえ、これでは……と思ったモンスーンであるが、カガリは特に表情を変えることもなく、まるで普通のラーメンを食べるかのように黙々と食している。

 

「お、おい、無理して食べなくてもいいんだぞ?」

 

 話す為に口を開いただけでゲロを吐きそうなモンスーンを尻目に、カガリはあっという間に完食する。スープの1滴まで飲み干すという貪食を見せつける。

 

「ご馳走様でした」

 

 そして、礼儀正しく両手を合わせれば、店主のサングラスで隠れた目より大粒の涙が零れ出す。

 

「苦節40年……やっと、やっと理解者と巡り会えた! これぞ至高の味! 人類の目指す最高峰の美食! ありがとう!」

 

 感涙する店主に、カガリはどうしてお礼を言われているのか分からない様子で首を傾げる。

 結局は一口も食べなかったモンスーンは、カガリを引っ張って逃げるように屋台を後にする。

 

「見て見て! あのお店のラーメン無料パスだって! これから食べ放題だね!」

 

 店主から貰った茶封筒を開けたカガリは、嬉しそうに掲げてモンスーンに見せる。

 要らない。誰がこんなものを欲しがるというのか。モンスーンはこれからも現れるだろう、ゲロ不味ラーメンに挑むチャレンジャーが哀れでならなかった。彼らが絶望の先に見るのはこのラーメン無料パスなのだ。

 しかし、恐ろしいガキだ。尊敬の念を覚える偉業を成し遂げたカガリに、このガキを上手く使えば大儲けができるのではないだろうかとモンスーンは考える。この手のイベントは数こそ少ないが幾らか存在する。味覚がないカガリだからこそ容易に突破できるというものだろう。

 だが、その一方で今回は嗅覚にも多大な試練があったはずだ。故にそれを我慢して完食したカガリの精神力に、モンスーンは驚くしかなかった。

 

「舌だけじゃなくて鼻もおかしいんじゃねぇのか?」

 

 だから、それは子どもに向けるべきではない悪態であり、あんな店に放り込んでしまった自分にも微かにあった良心を引っ掻いた。

 

 

 

 

「そ、そんなこと……ななななななななな、ないないないよぉおおおおお!?」

 

 

 

 

 そして、あり得ない程狼狽えるカガリに、モンスーンはまさかと思う。

 

「お前、味覚だけじゃなくて嗅覚もおかしいのか?」

 

「違うもん! 絶対に違うもん! ちゃんとニオイは分かるもん! まだ分かるもん!」

 

「『まだ』ぁあああ?」

 

「…………はっ!?」

 

 なんと分かりやすい反応だろうか。呆れたモンスーンは、顔を俯けたカガリを連れていく。今度はちゃんと右手を握って並んで歩く。

 選んだ場所は、獣狩りの夜における崩壊を免れた、初期の終わりつつある街の風景が残る区画だ。ひび割れた壁や補修だらけの屋根、石畳が剥げた道路、枯れた噴水などが、およそ文明の破壊の痕跡で埋め尽くされている。それは貧民街が広がる裏路地とは異なる荒廃だ。

 だが、大ギルドの手も余り加わっていない区画故にか、スプレー缶やペンキを持ったプレイヤーのラクガキで満ちている。

 ここは嫌いだ。どうしようもなく『傷』が疼くからだ。だが、それでもカガリをここに連れてきたのは、モンスーンもまた幼き居候に問わねばならないことがあったからだ。

 石階段に腰かけ、日頃の鬱憤をペンキにぶつけるプレイヤーの作画をぼんやりと見つめながら、モンスーンは左隣に腰かけたカガリを睨む。

 

「味覚は無し。鼻もイカれてるのか?」

 

「…………」

 

「黙るな。正直に言わないとリゼットに問い詰めさせるぞ。アイツは怒ったら閻魔様も裸足で逃げ出すくらいに恐いぞ」

 

「……う、うん。鼻はね、時々おかしくなるよ。何も臭わなかったり、おかしなニオイがしたりする」

 

「屋台の時もそうだったのか?」

 

「たぶん。ほとんどニオイがしなかったから。したり、しなかったり、が正しいかも……」

 

「他は? 目は?」

 

「えーとね、時々ね、『色』が分からなくなる。赤色って何か分からない。青ってどんな『色』だったか分からない。そんな感じ。あと、いきなり視界が歪んだり、極彩色になったり、白黒になったり、褪せた写真みたいにセピア色になったり、油絵みたいに滲んだりするよ。あ、でも、1番多いのはブレだと思う。何重にも、何重にも、輪郭が重なってブレるんだ」

 

「舌、鼻、目……あとは耳と触覚は!?」

 

「耳はね、キーンって耳鳴りがよくするよ。凄くうるさくて頭に響くんだ。音は……時々方向が分からなくなる。右なのか、左なのか、前なのか、後ろなのか、上なのか、下なのか、よく分からなくなる。あとは……いろんな音に、声に、ノイズがかかるの。ザザザって。全く聞こえなくなる時もある。左手は痛み以外何も感じない。右手は少しだけ残ってる。足はね、ずっと痺れてる感じ。右足は特に動かし難くて、左足も――」

 

「もういい」

 

「……怒ってるの?」

 

「怒ってない」

 

 怒れるはずもない。モンスーンは額を押さえ、この事をどうリゼットに説明するべきか悔やむ。

 1つのFNCでも日常生活に支障をきたす。それはモンスーン自身が嫌という程に理解している。このFNCのせいで、どれだけ苦汁を舐めたか。どれだけ惨めな思いをしたか。どれだけ絶望したか。誰にも否定はさせない。

 リゼットにしてもそうだ。突発的な異臭に怯え、また発露すればおよそ行動不能になる。意識が朦朧とするほどの悪臭がいつ終わるかも分からない程に続く。時には丸1日も続いた時など、リゼットは短剣で鼻を削ぎ落としたこともある。それでも消えぬ異臭にのた打ち回った。

 どうして動ける? どうしてまともでいられる? およそ正気を失う状態であるはずだ。歩行すらも困難であるはずだ。ありとあらゆる存在を呪っても足りないはずだ。

 

「どうして黙ってた? 俺達も同類だ。お前の苦しみを分かってやれるのに、どうして?」

 

 モンスーンとリゼットが互いに共感を求めたように、どうして苦しみと呪いを吐露しないのだ?

 

「あのね、ぼくは……『これでいい』って思ったの。目も、鼻も、口も、耳も、手足も何もかも、ぜーんぶ奪われたとしても、ぼくは『これでいい』って思ったんだ」

 

「『これでいい』? いいわけないだろうが!」

 

 それは諦めか? 違う。カガリは納得しているようだった。失われた知覚を当然として支払うべき対価として、何1つとして理不尽と感じている様子はなかった。

 

「それでも、ぼくは為すべきことを為す。皆に黄金の稲穂を。夜明けを迎えて豊穣を」

 

 これがリゼットの言っていた子どもワールドか。意味不明であるが、モンスーンにはぼんやりとカガリの言わんとすることが感じ取れた。

 

「何を失っても構わない。目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、歩く事さえ出来なくなっても、ぼくは食べた『命』を無駄にしない。絶対に」

 

 立ち上がったカガリは石階段を1段ずつ跳んで下りていく。モンスーンを置き去りにして、モノクロの世界で描かれる絵画の上で踊る。突然の乱入者にペンキで濡らした筆を振り回していたプレイヤーは困惑しているようだった。

 

「それにね、ぼくが感じ取れないものでも、誰かが感じているはずだよ。味が分からなくても、音が聞こえなくても、色が分からなくても、温もりも寒さも感じなくても、別の『誰か』が感じて想っているはずだよ。だからね、ぼくは『これでいい』んだ」

 

「そんな……簡単に言うな。自分で感じる世界が全部だ! 他人がどう感じようとも意味がない!」

 

 どうして、俺は語気を荒げてまで、こんな小さな子どもに否を唱えるのだ? モンスーンは耳を塞ぎたい衝動に駆られる。カガリから目を背けたい恐怖心を覚える。

 

「そんなことないよ。たとえ、おじさんの世界は色付いていなくても、おじさんの心には『色』が煌いているはずだもん」

 

 クルクルと回り、舞い、回り、踊り、カガリはプレイヤーから筆を奪うと路面に何を描くでもなく『灰色』の線を散らす。

 

「おじさん! これは赤! まるで火山が噴火したみたいな赤!」

 

 筆を返すと別のペンキに右手を突っこみ、カガリは空へと掲げる。

 

「これは青! すっごく深い青! 海原のような青!」

 

 カガリは次のペンキを掴み、枯れた噴水へとぶちまける。持ち主のプレイヤーも思わず拍手する程の豪快さだ。

 

「こっちは緑! 夏の木の葉! 太陽の光をいっぱい浴びた緑!」

 

 そうして、カガリはモンスーンの色無き世界に『色』を与えていく。

 芸術性の欠片もない、ただひたすらに『色』を描くカガリによって、モンスーンの視界は彩られていく。

 

「見て、おじさん。ちゃんと『見て』。これが『白』。ぼくの髪の色……真っ白なんだよ。マシロと同じ色!『おじさんだけの白』がそこにあるよ!」

 

 そして、『白』猫のぬいぐるみを抱えたカガリは微笑みながらモンスーンに駆け寄る。

 差し出されたぬいぐるみを受け取り、モンスーンは笑う。思わず笑ってしまう。

 嫌でも見続けた白色。彼のモノクロの世界の住人。だが、そこにある『白』は、何にも勝る純粋な美を浸しているようだった。

 

「そうか。これが……『白』か」

 

 どうしてだ?

 どうして、こんなにも簡単に心が揺さぶられているのか?

 違う。簡単ではない。カガリは限りなくモンスーンと同じ世界にいる。いや、もはや生を実感するのも困難である程に閉ざされた世界にいる。

 それでも微笑んでいる。誰かを呪うでもなく、神に救いを求めて祈ることもなく、ありのままに受け入れ、その上で前に進もうとしている。

 

「あはは……はははは! これが『白』か! そうか! そうなのか! はははは!」

 

「どうしたの? どうして、笑いながら泣いてるの?」

 

「はははは! 自分が馬鹿で、馬鹿で、大馬鹿で……泣いちまってるのさ! はははは!」

 

「そっか」

 

 モンスーンは笑う。ひたすらに笑う。笑って、嗤って、笑って、嗤って、笑い泣く。

 笑うだけ嗤い、嗤うだけ笑い、そして泣くだけ泣いて、モンスーンはカガリの顔を隠すフードを剥ぐと、何色にも染まることはない雪の如き『純白』の髪に触れた。

 

「ありがとう」

 

「なんでお礼を言うの? ぼく、何もしてないよ」

 

「そうか。そうかそうか。お前……本当に何も考えてなくて……そうか」

 

「お、おじさん、くすぐったいよ。頭……まだ普通に感じられるから。だから……」

 

 それは良かった。モンスーンは自分の心の内に残っていた感情にどんな『色』を与えるべきか悩み、これこそが『白』なのだろうと願う。そして、その想いの分だけカガリの頭を優しく撫でる。

 

「えへへ♪ よく分からないけど、おじさんが元気になってよかった」

 

 心地良さそうに笑むカガリを、モンスーンは衝動に駆られて抱き寄せる。

 

「意地悪して、本当にごめんな」

 

「意地悪してたの?」

 

「ああ、たくさんな」

 

「別にいいよ。ぼく、怒ってないから。それよりも、おじさんは大丈夫? 怒った分だけ苦しくなかった? つらくなかった?」

 

「そんなことないさ。ただ……自分の馬鹿さ加減に涙が出る。俺はいつも間違ってばかりだな」

 

「そうなんだ。だったら、今はぎゅーってしあげる! おじさんもきっとリゼットさんと同じだもん。間違えちゃったとしても、きっと正せる。弱きは死に、強きは生きる。でも、『人』の在り方には『力』なんて関係ないはずだもん」

 

 きっと、カガリは何も考えていなかった。

 単純にモンスーンに自分の在り方を示しただけだ。

 それがただひたすらに美しい『純白』だっただけだ。

 

 

 

 

 

「へぇ、絵描きなんて高尚な趣味があったんだぁ」

 

「本業だ」

 

「うぇ!?」

 

 

 

 

 

 深夜に帰宅したリゼットは珍しく夕飯を準備していたモンスーンに戸惑いながら、彼がスケッチブックに描いたカガリに素っ頓狂な悲鳴を上げた。

 何も色付いていない鉛筆で描いただけのカガリであり、1年以上も筆を手に取っていないともなれば鈍りも著しいが、書きたかった『色』は出せただろうとモンスーンは笑う。

 

「売れない画家さ。中学校の頃に賞を貰ってな。『色使いが素晴らしい』ってそこそこ名が売れたセンセイに褒められた。それでいい気になって、絵を描いて食っていこうって決めたんだ。才能の無さに打ちのめされ、諦めきれなくて、オフクロは病気だってのに職にも就かずに夢を見て、金をせびって……」

 

「……そうなんだ」

 

「いつしか絵を描くことを言い訳にして金、金、金さ。オフクロの葬式でオヤジに殴られたよ。『夢は見てもいい。だが、母さんを裏切るんじゃない』ってな」

 

 抗いたかった。才能は無くても、いつか自分の彩った世界が皆に認められるはずだと信じていた。

 唯一、自分の絵を讃え続けてくれた母は正しかったと証明したかった。

 自分がどれだけクズなのか思い出し、だが筆を握っても思い描いた世界をキャンパスに刻み込むには余りにも自分の心は汚物に塗れていた。

 だから逃げ込んだ。目に留まった、現実から切り離された仮想世界に入り込んだ。そして、母を裏切った罰のように視界から色彩を奪われた。

 

「アンタとそこそこ長い付き合いだけど、まさか芸術家だったとはねぇ」

 

「1枚も売れたことはないがな」

 

「それで? どうして急に描こうなんて思ったの?」

 

「描きたい『色』が出来た。たとえ、色が無い世界でも『色』は俺の中にあると分かった。だから描くのさ。認められるか否かなんて関係ない。オフクロが信じた息子は、そういう馬鹿な男だったからな。クズなりに、遅くなった親孝行でもしたくなったのさ」

 

 モンスーンは描く。鉛筆で時に繊細に、時に豪快に、時に曖昧に、積み重ねで得た技巧と浅からぬ経験、そしてあるか無いかも分からない才能に縋り、白黒の世界に『色』を与える。

 

「この絵……凄い好き」

 

「カガリだからか?」

 

「ばーか。アンタの絵だからよ。本物の魅力の1パーセントも引き出せていないけど、この絵にはまた別の魅力があるって思ったのよ」

 

「買うか? 安くしておくぞ」

 

「そうね、ビール1本でどう?」

 

「毎度あり」

 

「初めて売れたわね」

 

「身内はノーカンだ」

 

 スケッチブックから千切ったカガリの絵を受け取ったリゼットは、綻ぶ口元を抑えきれず、そろりそろりと忍び足で、ベッドで丸くなっているカガリを抱きしめんとばかりに迫る。そうはさせるかと恋人の首根っこを掴んだモンスーンは、自分もすっかりカガリにのめり込んでしまったものだと呆れる。

 これではリゼットを言えた義理ではない。もはや朝の自分とは別物だ。

 いいや、違う。DBOの中で歪み続けた……現実世界でも見失っていた己を、カガリという存在を通して取り戻せた気がした。

 

「タイトルは?」

 

「『純白』だな」

 

「ステキ」

 

 絵をつまみにしてビールを煽るリゼットに、モンスーンは意を決してカガリの状態を伝える。

 およそ正常と呼べる部位が残っていないカガリに、リゼットはさすがに衝撃を受けたらしく、缶ビールを握り潰して項垂れる。

 

「何それ。全身ボロボロじゃない。私達……何なのよ? あの子に比べたら――」

 

「比べるなんてそもそも間違いだ。カガリも比べられたところで何も感じないだろうよ。アイツはアイツで、俺達は俺達だ。共感したくてもそれは上辺だけで、結局は自分自身で決着をつけるしかない」

 

 そして、カガリはもう受け入れている。『これでいい』という発言に全てが濃縮されているのだ。それは諦観ではなく受容だ。

 

「……カガリは言っていた。間違いは正せるってな」

 

「もう無理だよ。『終わってしまった』ことは正せない」

 

「そうかもな、だが……お前はまだ間に合うかもしれない」

 

「無理に決まってるでしょ! 大体、アンタのせいで――」

 

 そこまで言って、リゼットは唇を噛んで顔を背ける。

 いっそ言い切ってもらえたならば、モンスーンも決心を完全に固めることが出来た。だが、ここで正論を『失言』として呑み込んでしまうのがリゼットの優しさであり、また彼女も罪の意識を感じてる証拠だ。

 

「そうだ。俺のせいだ。最低のクズが……お前を巻き込んだ」

 

 煙草を咥えようとして、だが堪えてケースごと握り潰す。その様子に驚いたリゼットは、寝室で眠るカガリの元へと向かう。

 追ったモンスーンは、ベッドに腰かけてカガリを撫でるリゼットを見守る。それは母親のような慈愛の手と同時に、どうしようもない黒い感情もまた溢れているようだった。

 

「ねぇ、カガリちゃん。私には間違いを正せない。無理だよ。だって……だって……!」

 

 ギリギリで踏みとどまっていたリゼットの背中を押してしまったのは、他でもないモンスーンだ。

 リゼットの言う通り、これは『終わってしまった』ことなのだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「所詮はコピーか」

 

 脳天から股までかけて一刀両断した<写し身・アイアンゴーレム>の塵を浴びながら、ユージーンは大剣を振るって≪剛覇剣≫を解除する。

 まさかコピー・ネームドが出現するとは想定外の事態であったが、第1段階かつ『生きていないAI』ならば、ユージーンの敵ではない。アルヴヘイムという地獄を経て、また多くの強敵を打ち破って来た彼の剣技と精神を破るにはまるで足りなかった。

 

「さすがはランク1。本当にソロで撃破しちゃうなんてね」

 

 邪魔だと言って後ろに下がらせていたアラクネ傭兵団はユージーンの豪快な戦いぶりにざわめいていたが、女団長であるアラクネは余裕ある表情で拍手で彼の勝利を労う。

 

「フン。奴の攻撃は単調そのものだ。見えぬ空気の斬撃には驚いたが、予備動作さえ把握すれば、躱すのは容易い。距離を詰めればオレの勝ちは揺るがん」

 

「いやいや、それを簡単にやり遂げちゃうアンタ達がおかしいだけよ。まったく、アンタやUNKNOWNのせいで、傭兵に求められるハードルが上がっているって分かってるわけ?」

 

「適材適所だ。このオレの役割は強敵を葬ること。貴様らには貴様らの役割と戦い方がある。傭兵に求められるニーズは多様化しているのだからな」

 

「あらあら、ランク1様に褒められるなんて、明日は槍でも降るのかしら?」

 

「DBOならば、あり得るかもしれん。滅多なことは言うものではないぞ。オレは言霊という概念を信じているからな」

 

 常に自らに言い聞かせる。『ランク1とは最強の存在であらねばならない』と己に刻み込むのだ。

 ユージーンは完全に消滅したアイアンゴーレムより得た経験値に顔を顰める。コピーかつ第1段階限定とはいえ、ソロで撃破したにしては経験値が渋かった。無論、それはユージーンの視点であり、並の上位プレイヤーからすれば目玉が飛び出す程の高経験値である。

 だが、レベル100以降の成長は今まで以上に鈍化する。レベル1上昇する毎のHP・防御力上昇という恩恵もまた大きくこそなっているが、努力に見合っているかと問われれば微妙と言わざるを得ないだろう。とはいえ、レベルによって武器・防具から引き出せる性能も変化するならば上げて損はない。また、レベル120に到達すれば新たなスキルや新システムの解放もあり得るのだ。目指さないという選択肢はない。

 しかし、大半の上位プレイヤーはレベル100に到達すれば諦めるだろう。次のレベルに到達するまでに必要な経験値量があまりにも膨大であり、稼ぐともなれば相応のリスクを背負わねばならない。劇的に強くならないならば、霊晶石システムの解放もあり、そちらで強化を図るのは自然な流れである。

 ユージーンも霊晶石の厳選作業はしているが、クラウドアースのバックアップもあり、合格点を出せるレア物を装備している。彼はわざわざバッドステータスが付与される呪われた霊晶石には手を出さない。豪快ではあるが、同時に堅実であるのだ。

 ユージーンの戦法は真っ向からの斬り合いだ。優れた剣技の腕前を武器に、ある程度のダメージを許容して相手にそれ以上の攻撃を叩き込む。故に高VIT・高防御力は不可欠であり、受けた攻撃以上に切り替えすだけの爆発力が求められる。

 超火力を可能とするのは、高STRを遺憾なく発揮する重量型両手剣とユニークスキル≪剛覇剣≫があるからだ。ネームド相手ですら斬り合いにおいて負けることはないとユージーンは自負する。無論、それは全ての攻撃を体で受け止めるような愚者ではなく、ガードすべきものはガードし、避けるべきものは避け、刃がぶつかれば確実に敵を斬り伏せるだけの技量と度胸があってこそである。

 

(しかし、やはり剣が重い。あとレベルを1つは上げてSTRに振りたいものだな。それともSTRを上げる指輪を付けるべきか。悩みどころだな)

 

 呪術による近・中距離攻撃を可能とするが、それはあくまで補助。ユージーンのメインは重量型大剣による近接攻撃だ。彼が手にしているのは、対UNKNOWN用で鍛えられた新装備である。

 かつての不死廟の魔剣ヴェルスタッドをベースにした【妖精王剣サクヤ】だ。

 アルヴヘイムで遭遇し、ユージーンの鎧を破壊して、死の縁のギリギリまで追い詰めたネームド<簒奪されし者>は、最終HPバーに突入すると真名<皮無しの賢王オベイロン>として最後の戦いを挑んだ。ユージーンたちが出会った愚王オベイロンは、本物のオベイロンの皮を奪って化けた偽者だった、というのがアルヴヘイムの『本来の物語』だったのだろう。

 不死廟の魔剣の『≪信心≫無しでも奇跡を使用できる』の能力はそのままに、賢王オベイロンのソウルを組み込むことによって武器としての性能強化と能力付与が施されている。その内の1つが『妖精王の加護』であり、高いオートヒーリングと防御力の上昇である。これによってユージーンのバトルスタイルはより隙を埋める事が可能になった。

 剣に愛した女の名前を付ける。それは彼なりの覚悟の表れだ。この剣で負けることを己に決して許さない誓いである。だが、亡きサクヤが知れば、赤面しながらユージーンの胸倉をつかんで即刻改名を迫るだろうこともまた間違いないだろう。

 彼のトレードマークである赤の甲冑は、黄金の細工を施され、まさしく剛剣の使い手に相応しい。こちらには財とコネを惜しまずに掻き集めた素材のみならず、黒獣パールのソウルを組み込んである。これによって金属鎧でありながら破格の雷属性防御力を有するだけではなく、ある能力も備えている。むしろ、能力の方が本命とも言い換えられる。

 UNKNOWNがユージーンとの対決に向けて準備を進めているように、彼もまた余念はない。傲慢不遜と呼ばれてこそいるが、手抜かりはしない男である。

 

(より強敵との実戦経験を積めるのはありがたいとは思ったが、コピーが相手ではな)

 

 そもそもとして、今回のノーチラスことエイジの捕縛は、ユージーンにとって『どうでもいい』ことだ。ベクターからすれば、何が何でももみ消したいスキャンダルなのかもしれないが、彼からすればクラウドアースの機密漏洩を通じてUNKNOWNとの対決に水を差されるのは不愉快であり、また1度はエイジの評価を受け持った身として参加しているに過ぎない。

 だからこそ、HPバー1本だけとはいえネームドが出現した事にユージーンは嬉しさすら覚えた。強敵の打倒こそが己を高める近道だからだ。

 だが、アイアンゴーレムの『本物』がどれ程の強さだったかは不明であるが、少なくとも彼が相対したのは『生きていないAI』であり、故に対処も容易だった。確かに理路整然とした、機械ならではの冷徹無比の戦いは時として背筋が凍る時もあるが、真なる強敵とは生命の脈動があるものであるとユージーンは熟知している。

 ある程度までの強さならば機械の方が遥かに上回るだろう。そうでもなければ、DBOの攻略はこれ程までに遅々としていない。だが、1つの境界線を越えた先では生命の脈動……強者の自我こそが不可欠であるとユージーンは実感していた。

 

「む?」

 

 リザルト画面を消そうとしたユージーンは、奇妙な項目に気づく。

 それはアイアンゴーレムを撃破して得られた『ポイント』だ。ユージーンは『2位』という数字に、アルヴヘイムにおける回廊都市の決戦を思い出して顔を顰める。あの時もUNKNOWNが戦果1位であり、彼は後塵を拝した。

 今回も2位だ。まだ1体しか撃破していないからか。それともコピーとはいえ、撃破難易度によって付与されるポイントに差がつくのか。どちらにしても、単独撃破したユージーンを上回る者が1名いることは間違いない。

 ユージーンと同じく第1段階限定とはいえ、ネームドを単独撃破可能であるプレイヤーは限られている。自然と黒衣の二刀流剣士の背中を思い浮かべ、奴もここにいるのかと唇を歪める。

 

「ターゲットの捕捉はまだか?」

 

「やってるわよ。ウチの面子は腕も立つけど、スキルも揃ってる。でも、これだけ広い都市ともなると骨が折れるわ」

 

「急げよ。仕事である以上、ターゲットを横取りされるわけにはいかない。ましてや、UNKNOWNに譲る気は毛頭ないからな」

 

「【聖剣の英雄】がここに? 冗談でしょ?」

 

「どうだろうな。だが、オレの直感では、奴はいるぞ」

 

 アラクネの眉間に皺が寄り、部下に命じてエイジの捕捉を急がせる。その間に、ユージーンは得られたポイントについての説明を確認する。

 コピー・ネームドを撃破することによって得られたポイントに応じて様々な特典と交換できるようだ。

 ユージーンが得たのは、『クライシス・サーチ』と『ステルス・フィールド』だ。

 クライシス・サーチは1時間に1度だけ、これまでネームドが出現した位置情報を得ることができる。ステルス・フィールドは自分から一定範囲内のプレイヤーは都市の警戒から逃れやすくなる。どちらも有用だ。

 

「このオレに感謝しろ。オレの傍にいれば、都市の警備モンスターに襲われるリスクは減る」

 

 武装している以上、ユージーンたちは都市のルール違反だ。警備モンスターが続々と出現して襲われることになるだろう。だが、得たステルス・フィールドの恩恵によってアラクネ傭兵団も含めて都市の警備に囲われる心配は大幅に減った。過信はできないが、ターゲットを探す余裕は出来たのだ。

 逆に言えば、単独行動をしているだろうエイジには、決してポイントの恩恵は得られないともユージーンは確信する。サインズ傭兵登録してから間もなく、あのグローリーと協働して精神を病まなかったのは称賛に値し、また協働とはいえネームド相手に生き残っただけの地力もあると認める。だが、『その程度』だ。

 グローリーは強い。桁違いであるとユージーンは認める。真っ向勝負ともなれば、グローリーの大盾相手でも有利を取れるガード無効化の≪剛覇剣≫を有するユージーンでも一筋縄ではいかないだろう。無論、戦えば負けるつもりもないが、UNKNOWNと同じく万全の準備と本気の闘志が求められる相手である。また、馬鹿で、派手好きで、無駄の塊のようなポージングや台詞、謎の騎士道など協働相手の精神破壊に余念こそないが、その一方で命懸けでも仲間を守る、傭兵でも数少ない『掛け値なしで背中を預けられる』タイプだ。

 蛇足であるが、【渡り鳥】は仕事において絶対的に手抜かりこそしないが、『背後に立たせたくない』タイプである。常に意識下に置いていなければ、いつか背中から刺されるのではないかという言い知れない不安が付き纏うのだ。

 グローリーと協働し、なおかつ傭兵に求められる最低限……『ネームド相手にも瞬殺されずに単独で粘れる』だけの戦闘能力を持っているならば、エイジは特に驚くべきではない戦果だ。だが、第1段階限定のコピーネームド相手では単独撃破は限りなく困難であり、場合によっては死亡しているだろうとも予想する。

 遺体だけでも回収できればいいのだがな。ユージーンはアラクネ傭兵団が早々にエイジを捕捉することに期待を寄せた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「エイジ、疲れた」

 

「休むのはもう少し先だ」

 

「エイジ、お腹空いた」

 

「さっき食べただろう?」

 

「エイジ」

 

「なんだ?」

 

「呼んだだけ」

 

「…………」

 

 額を押さえて溜め息を呑み込んだエイジは、後ろをついてくるユナとの接し方に苦難していた。

 エイジの知る本物のユナとの距離感は分かっている。だが、このユナは中身が別物なのだ。顔立ちと声は同じでも、言動は全く類似性が見られない。せいぜいが歌に対しての狂気的とも呼べる執着だけが同じだ。

 

「ハァ。シャワー浴びたいなぁ。まだ体がクサい」

 

「すぐに慣れるさ」

 

「慣れる!? 信じられない! 鈍感なエイジと違って、いくらソウルの憑代でも、私は心も体も人間と同じなんだからね! こんなクサいの耐えられない!」

 

「分かったよ。何処かで体を洗える場所を探す」

 

 貧民プレイヤーとして過ごし、あらゆるダンジョンに対処すべく汚物の中で匍匐前進するなどのトレーニングを積んだエイジは、自分の身から下水特有の悪臭が漂っても気にはしなかったが、ユナはそうではない。感性は普通の少女であり、経験も訓練も積んでいるわけではないのだ。

 下水処理施設の地下道を進むエイジは、こんな調子で残り2つの楽譜を回収できるのだろうかと悩む。

 楽譜の回収にはユナが不可欠であり、彼女が歌っている最中は無防備となる。そして、写し身なるネームドはユナを優先的に狙う傾向がある。ゲオルグ戦の通り、ヘイトをエイジに傾けさせるのは至難の業だ。

 ゲオルグはまだヒット&アウェイ戦法だったからこそ、ユナを庇う事も出来たが、正面から叩き潰すようなタイプだった場合、守り抜けたとは到底思えず、エイジは奥歯を噛む。

 先の戦いでゲオルグに与える事が出来た攻撃は1発のみ。胸部の心臓を刺し貫くに足る一撃でこそあったが、倒すには程遠いダメージしか与えていない。

 

「他の祭壇は何処にあるんだ?」

 

「えーと、ペイラーは言ってたわ。楽譜は共鳴し合うから残りを探す役に立つって」

 

 ユナが右手を前に差し出せば、緑光で描かれた楽譜が出現する。

 

<死人送りの楽譜:何事にも作法がある。まずは最も美しい歌声を持つ乙女を蝋水に浸して肉体とソウルを清めるのだ。蝋水とはナメクジの体液を溶かした水であり、その起源を遡れば灰の時代より前にたどり着くとされる。ありがたいものとは、往々にして不都合な真実を隠しているものである>

 

 エイジが触れるとシステムウインドウが展開され、楽譜のフレーバーテキストが表示される。そして、漠然とではあるが、楽譜の光が流れていき、遥か地上を示す。

 適度に楽譜を使用して大まかな位置を特定していくしかない。地道な作業ではあるが、まずは地上に出ねばならないとエイジは右手に握るダーインスレイヴに意識を集中させる。

 既に都市の警備システムは起動しているのだろう。警備ロボットも巡回している。分厚いシールドとレーザーライフルを装備した人型警備ロボットがこの地下道の主力らしく、正面からの攻撃は盾で防がれて通らず、近接戦ではシールドバッシュで叩き潰そうとする。

 

「隠れていてくれ」

 

「分かった。頑張ってね、エイジ」

 

 狭い通路で遭遇した場合は厄介であるが、1体だけならば脅威度は低い。背後から忍び寄り、駆動核である胸部を狙って背後から突き刺して先制攻撃を加える。バトルシステムが起動していない未警戒状態の攻撃にはボーナスが付く。背後からの、それもクリティカル部位へのダメージならば、暗器でなくても相応にダメージは伸びるのだ。

 だが、やはりダーインスレイヴの器用貧乏がここでも目立つ。一撃では倒しきれるとは思っていなかったが、物理防御力の高いロボットとはいえ、想定以上にダメージは出ず、振り返った人型ロボットは頭部のモノアイを赤く光らせる。

 シールドバッシュからのレーザーライフルの3連射。それらを躱し、ガードの隙間を縫って突く。確実にダメージを与えるが、増援のドローンが出現し、低威力のレーザー弾だが背中に命中する。

 1発は軽くても積み重なれば死に至る。ましてや、背後のドローンの連射性能は高く、足を止めれば一気にHPを削られる。だからと言ってドローンの撃破を優先すれば、人型ロボットに背中を見せることになる。

 早急に人型ロボットを撃破してドローンも始末する。エイジがそう判断した時、ドローンのカメラが別方向を捉える。隠れていたユナが投げた鉄片が命中したからだ。

 まずい! 焦ったエイジは人型ロボットを倒すべく、ダメージ覚悟でレーザーライフルを右肩に受けながら接近し、強引に斬り払う。ノックバックした人型ロボットの頭部に拳を入れて吹き飛ばし、そのまま≪片手剣≫の突進系ソードスキル【ターンブラスト】を発動させる。前方へと突進突きし、命中した際にはそのまま背後へと大きく跳んで離脱を可能とするソードスキルであるが、外した際の隙が大きく、確実に命中させる場面でなければ危機を招く。

 ライトエフェクトを帯びた突きは人型ロボットの胴体中心を刺し貫き、エイジはシステムアシストに従って大きく後ろに遠ざかる。撃破されて動かなくなった警備ロボットからすぐに視線を外し、ユナへとレーザー弾を放つドローンへと斬りかかる。

 ドローンはHPが少ないこともあり、何の変哲もない斬撃1発で両断される。リザルト画面が表示されたエイジは、ひとまずの危機は去ったと安心するも、言いつけを守らなかったユナを睨む。

 

「どうして出てきたんだ?」

 

「だ、だって、ピンチだったじゃない! あのままだったら挟み撃ちに――」

 

「あれくらいなら、僕だって切り抜けられる!」

 

「怒らないでよ! 私はエイジを助けたんだよ!?」

 

 そうだ。その通りだ。ユナが囮にならなければ、エイジは少なからずのダメージを受けていた。もしかしたら死亡していたかもしれない。絶対にあり得ないということはないのだ。1つのミスで呆気なく死ぬ。それもまたソロなのだ。

 ユナが出てきたのは自分が情けなく、また頼りにならないからだ。エイジは唇を噛み、ユナに背を向ける。

 ゲオルグ戦の時もそうだ。ユナがいなければ死んでいた。そして、助けたからこそ彼女は足を失って窮地に立たされた。

 

(僕は本当に……弱いな)

 

 自分に何もかも足りないのは分かっている。エイジは深呼吸を挟んでクールダウンを訴えかける。

 

「怒鳴って悪かった」

 

「ううん、私の方こそ、ごめんなさい。エイジとの約束を破ったのには違いないし」

 

 素直に謝罪するユナに、エイジはアイテムストレージから取り出した数少ないチョコバーを差し出す。本来はスレイヴ用のおやつなのである。

 

「いいの?」

 

「ああ。お腹空いたんだろう?」

 

「ありがとう! エイジは優しいね!」

 

「…………」

 

 笑顔でチョコバーを受け取ったユナは首を傾げる。何か気に食わないことでもあったのだろうかとエイジが眉を顰めれば、彼女の指が伸びて眉間に触れる。

 驚いて後退ったエイジに、ユナは不用心とも思える程にまた距離を詰める。

 

「な、なんだ? 僕の顔に何かついてるのか?」

 

 思えば、下水から出て以降、エイジはまともに自分の顔を見ていない。タオルで顔を拭いこそしたが、もしかしたらまだゴミでも張り付いているのだろうかと自分の顔に触れるが、特に違和感はない。

 

「あ、ごめん。エイジの眉間に、解したくなるくらいに皺が寄ってたから」

 

「は?」

 

「思えば、エイジってまるで笑わないよね。仏頂面ばっかり」

 

 ユナ程に表情がコロコロ変わるのも珍しいけどな、とエイジは内心で反論する。本物のユナも表情豊かではあったが、こちらのユナにはさすがに負けるだろう。

 そういえば、スレイヴにも似たような指摘をほぼ毎日のように受けていた。エイジは自分の頬を撫で、軽く笑ってみせる。

 

「うわぁ……悪役スマイルって感じ。それ、笑ってるつもりなの? どう見ても冷笑だよ」

 

「悪かったな。笑顔は昔から苦手なんだ」

 

 口を開けば悪態ばかりの今も大概であるが、SAO事件前もお世辞でも表情筋を使いこなしているとは言い難かった。SAO事件後は表情の乏しさに拍車をかけ、結果としてユナ曰くの悪役スマイル……およそ嘲っているとしか思えない冷笑を形取ってしまっているのだろう。

 

「じゃあ練習しよう! はい、笑顔!」

 

 アイドルを目指す全ての少女に教本として紹介したいくらいに、まるで星が飛び散る過剰表現エフェクトが発生しているのではないかと錯覚する程の愛らしい笑顔を咲かせたユナに、エイジは真似ようとするも頬がヒクヒクと痙攣するばかりだ。

 仮想世界の肉体……アバターであるはずなのに、これ程までに笑顔が出来ないとは、もはやFNC級なのではないのだろうか。目を背けたユナに傷つきながら、エイジは諦めを込めて嘆息する。

 だが、逃がさないとばかりにユナが頬を膨らませてエイジの頬を突く。

 

「練習あるのみ! 私が立派な笑顔を作れるようにレクチャーしてあげる!」

 

「はいはい」

 

 笑顔が上手くなったところで現状の窮地は変わらない。だが、頬をまた数度だけ撫で、練習しても損はないかとエイジはユナに背中を向けながら1度だけ笑おうとして、やはり引き攣って失敗したことを自覚した。

 それから数度の戦いを経て、エイジはようやく地上に通じるエレベーターを発見する。ユナはまだニオイを気にしている様子だったが、エイジは楽譜が導く先まで如何にしてたどり着くかに思考を集中させる。

 地上でもコピー・ネームドが出現するだけではなく、多くの警備モンスターに襲撃を受ける事になるだろう。地上には巡回ドローンも多い。常にモンスターとのエンカウント状態を維持するようなものだ。

 地上まで2人を運んだエレベーターの扉が開き、エイジは恐る恐る顔を覗かせる。どうやら地下の下水施設に通じるエレベーターを擁した建物らしく、多くの職員NPCが行き交っている。だが、いずれも緊張した面持ちであり、都市全体に何かが起こっているのは間違いないだろうとエイジに嫌な予感の的中を確信させる。

 ダーインスレイヴを始めとした武装を解除し、危険と分かっていながらも無手となったエイジはユナの手を引いてエレベーターから出る。職員はエイジ達に怪訝な表情を向ける。途端にHPバーの隣に『12.33』という数字が表示される。それは徐々に上昇していき、エイジに焦りを覚えさせる。

 最初は白色だった数字は、30を超えると黄色に変じる。これはNPCやドローンから向けられる警戒値だろう。表示された数字から察するに、100に到達した場合、何が起こるのかは予見できる。

 

「急ごう」

 

 ユナの手を強く握れば、彼女もまた握り返す。それがエイジの1歩を強めていく。

 NPC職員の視線が針どころか槍にも感じる程に死を予感させる。エイジは何とか無事に自動ドアを潜って屋外に出た時には、数字は『88.42』と赤色で点滅していた。

 NPCを含めた全てが敵なのだ。彼らは都市の治安を脅かす存在を通報する義務がある。彼らに怪しまれた場合……たとえば、プレイヤーがいると不自然と捉えられる施設にいた場合などは警戒値が上昇するのだろうとエイジは分析する。

 だが、詳細な条件などは不明である以上、なるべく人目を忍ぶしかない。

 

「もう午後5時か」

 

 ユナの足の治療や下水施設からの脱出に時間をかけ過ぎた。悔やんでも消費した時間は取り戻せない。エイジは人目が付かない物陰で楽譜を使用し、指し示された方角と掲示された案内板から大よその場所の見当をつける。

 最も怪しいのは都市西部にある教育施設だ。子どもが通って『模範的な市民』となるべく教育を受ける施設である。公共交通機関を使えば10分とかからずにたどり着けるが、当然のように駅には重武装した、警備員というよりも軍人という表現が遥かに似合う集団によって検問が敷かれている。試しにユナを残してエイジが彼らに近寄れば、一気に警戒値が上昇し、危うく100に到達しそうになって慌ててユナが隠れる物陰に逃げ込む。

 

「無理だ。徒歩で行こう」

 

「歩くの!?」

 

 ユナはもう嫌だと全身で表現するように座り込む。足をぶった切られ、下水を流され、治療で散々苦しみ、命懸けで下水施設から這い上がって来たのだ。ユナの反応は正常だろう。エイジも自分の提案はおよそ現実的ではないとも腕を組み唇を噛んで思案する。

 NPCのみならず、都市の警備から逃れながら目的地にたどり着くにはおよそ時間がかかるだろう。タイムリミットもある以上はリスクを背負ってでも最短距離を進むべきだともエイジは考える。

 都市内の公共交通機関はリニアトレインとバスの2つだ。バスにも警備員が常駐している様子であり、バレずに乗車することは出来たとしても到着するまでに発見された場合、逃げ場のないバスで戦闘となる。それどころか、バスそのものを包囲する形で警備モンスター……最悪の場合はコピー・ネームドの出現もあり得るのだ。

 何かいい方法はないだろうか? エイジがそう悩んでいた時、けたたましいサイレンが鳴り響く。

 発見された!? エイジは自分の警戒値は低数値のままである事に安心しながら、ならば誰がと慌ただしく視線を動かせば、およそ最悪と評価できる人影を発見する。

 逃げ惑うNPCを殴り飛ばしてミンチにし、あるいは踏み潰して臓物を撒き散らし、凄惨な殺人現場を現在進行形で拡大させているのは、ゴムスリッパを履き、血塗れのミイラ姿のデフォルメパンダが描かれたよれよれTシャツを着た、前髪までボサボサに伸ばした男だ。

 およそ武装とは程遠い、だらしない部屋着姿。だが、この格好で闊歩しながら、並のプレイヤーが束になっても敵わない男がいる。

 クラウドアースの専属にして、サインズ傭兵ランク4のライドウだ。傭兵3大アンタッチャブルであり、エイジは出会い頭に腹に蹴りを入れられた記憶が蘇る。

 戦闘狂と称されるライドウがどうしてここに!? クラウドアースがエイジへの追手として放ったならば納得こそできるが、およそ尋常とは思えない判断であるともエイジは吐き捨てる。あの男はつまらない依頼ならば平然とボイコットし、あるいは途中で投げ出すのだ。それでもランク4なのは、クラウドアースの政治的配慮のみだけではなく、1桁ランカーとして認定するしかない程の戦闘能力にあるとされている。

 あのグローリーと正面から戦いで平然と競り合える。傭兵のみならず、DBO最強プレイヤー候補にも数えられる、人格はどうであれ、エイジでは手も足も出ない絶対強者であることは間違いない。

 戦闘スタイルは格闘戦メイン……いや、オンリーだ。格闘装具込みとはいえ、不足が生じるだろう格闘攻撃のみであらゆる強敵を……ネームドさえもほぼ一方的に葬ることができる、クラウドアースの最終兵器でもある。

 仮にエイジを捕獲、あるいは抹殺の為に送り込まれたならば、自分にかけられた嫌疑はどれだけクラウドアースにとって致命の猛毒なのだろうかと、全く心当たりがない機密にエイジは興味すら湧く。

 

「うひょぉおおおおおおおおお! ネームド食べ放題じゃーん! だ・け・ど……雑魚過ぎなんだよね!」

 

 ライドウの正面に出現したのは、<写し身・鏡の騎士>だ。UNKNOWNを含めた聖剣騎士団の攻略部隊によって撃破されたネームドである。5メートルにも達する騎士を模した白亜の石像のような外観であり、鈍重そうな見た目に反して素早く剣を振るい、雷を刀身に落として範囲攻撃やエンチャント、更には名前の由来である鏡から人型モンスターを出現させるという強力な能力を有していた……というのは、インタビューに応じたUNKNOWN談である。

 他にも第2段階からはネームドである竜騎兵が多数出現するなどの数の暴力もあったようであるが、ライドウが対峙する鏡の騎士はコピーであり、HPバーは1本しか存在しない。これならば第2段階の竜騎兵登場は無いだろうが、それでも雷エンチャントをする為か、先程まで夕焼けの光が美しかった空に暗雲が広がり、雷雨が降り注ぐ。

 

「さぁ、ゴングが鳴りました! 3戦3勝、いずれもKO勝ちという破竹の勢いのライドウ選手! 今回のチャレンジャーも粉砕してしまうのか!?」

 

 自分で実況しながら、鏡の騎士の猛攻を軽やかに躱し、ライドウは鏡の騎士に拳や蹴りを打ち込んでいく。最初はほとんど無反応で、AI特有のオペレーションに従う正確無比の攻撃でライドウを斬りかかる鏡の騎士だったが、徐々に怯みや体勢崩しが目立ち始める。

 格闘攻撃は基本的に純打撃属性だ。鏡の騎士を相手にするならば相性の良い攻撃属性ではある。だが、打撃属性の真骨頂は対象を破砕する性質と高いスタン・衝撃蓄積能力だ。ライドウは通常の打撃武器よりも遥かに攻撃数を稼げる格闘攻撃をノンストップで、一方的に鏡の騎士に浴びせ続けることによって、早々にネームドの衝撃耐性を削っているのだ。

 

「強い! 強過ぎる! ライドウ選手、強過ぎるぅううう! 対して鏡の騎士選手ぅうううう! 弱い! 弱過ぎる! 雑魚! 雑魚! 雑魚りん!」

 

 ふざけた態度でライドウは鏡の騎士の顔面に膝蹴りを浴びせ、そのまま身を捩じらせて後頭部を蹴り、更に背中へと掌底を浴びせる。うつ伏せに倒れた鏡の騎士に踵落としの追撃を浴びせたかと思えば、何度も何度も踏みつけて背中から破片を飛び散らせる。

 これは何だ? エイジは土砂降りの雨でずぶ濡れになりながら愕然とする。

 鏡の騎士の強さがネームドとしてどの程度なのかは不明であるが、決して弱くはないはずだ。聖剣騎士団の攻略部隊とUNKNOWNが総がかりで倒した程の強敵だったはずだ。エイジの見た限りでは、単純な戦闘能力だけならばゲオルグを上回っているようにも思えた。ゲオルグの強さは能力込みであるならば、エイジが手も足も出なかった近接戦闘では鏡の騎士の方が上だ。

 それなのに、エイジが必死になって培った技術を総動員してスタミナ切れ間近でやっと1発入れたゲオルグよりも強い鏡の騎士を、ライドウは遊びながら追い詰めている。

 エイジが呆然としている僅かな間に、鏡の騎士のHPは4割も減らされていた。ライドウは無傷だ。もはや全ての近接攻撃パターンは憶えたかのように、欠伸を掻きながら最低限の動きだけで躱す。

 

「だ・か・ら、弱いんだよぉおおおお! ねぇねぇ、ふざけてるの? なんで俺を楽しませてくれないわけ!? あーもう、イライラするなぁ! この前の半竜といい、今回のネームド祭りといい! 俺はもっと強い奴と戦いたいのにさぁあああ!」

 

 鏡の騎士の強烈な突き。まともな防具を纏っていないライドウならば、VIT次第では一撃即死もあり得るだろう。だが、ライドウは突きを完全に見切り、剣先を踏みつけて逸らす。逆に鏡の騎士は前のめりになって体勢を崩し、跳んだライドウの胴回し蹴りを左肩に浴びて強制的に片膝をつかされる。

 

「もういい。死ねよ」

 

 ライドウが踏み込み、鏡の騎士の股間に拳を打ち込む。途端に暗雲が孕む雷鳴すらも掻き消す程の轟音が響き、鮮烈なライトエフェクトが爆ぜて鏡の騎士が吹き飛び、HPを大きく減らす。

 

「で、出たぁあああ! ライドウ選手の穿鬼だぁああああ! これには堪らず鏡の騎士選手ノックダウン! レフリー駆けます! すかさずカウント開始! 1、2、3、4……おっと、鏡の騎士選手! ガッツを見せる! だけど観客はいい加減に死ねやとブーイングの津波! このビッグウェーブ、乗るしかないじゃない!」

 

 鏡の騎士の十八番である鏡からの人型モンスター召喚だが、ライドウはセオリーである裏取りではなく、鏡の盾へと先程と同じ技を……それも『6連撃』も繰り出す。

 

「またも炸裂ぅううう! ライドウ選手お得意のスキルコネクトによる穿鬼・閃打ループだぁあああああ! 鏡の騎士選手、哀れ! 召喚モンスターごと自慢の鏡が……って、あれ? 割れてないじゃーん! なにそれ、卑怯だなぁ! 破壊不能ってわけ? ハァ、弱いくせに性能だけはご立派なこと」

 

 違う。エイジの目が捉えたのは、ライドウが最初にあの強烈なライトエフェクトを帯びた右拳、次に左拳に≪格闘≫の基礎ソードスキルである閃打をスキルコネクトし、その後またあの特異なソードスキルをスキルコネクトするという荒業だ。

 穿鬼。エイジはその名を知っている。とにかく命中性能に難がある代わりに破格の威力を与える≪格闘≫の単発系ソードスキルだ。求められるのは、完璧無比の間合いの管理である。とにかく発動時間が短く、対象と拳が接触するまさにそのタイミングに発動を合わせねば威力は発揮できず、たとえ静止目標でも成功させるのは困難である。

 求められるのは徒手空拳において達人の域に達した格闘センスと相手の動きを完全に読み切る予測だ。それをライドウは苦も無く、お遊びでスキルコネクトまでしたのだ。

 同じ人間ではない隔絶した戦闘能力。対してエイジは、同じコピーネームドであるゲオルグを相手にして、ユナを庇いながらという点を差し引いても、完全な劣勢だった。

 逃げねばならない。早く……早く……早く! エイジは震える膝を動かしてゆっくりと後退り、また鳴り続ける歯を鎮めるべく奥歯を噛む。

 ライドウは鏡の騎士しか見ていない。だが、エイジは十分に有効視界距離だ。何かの拍子で彼に気づけば終わりだ。

 鏡の騎士のHPは残り3割を切っている。だが、感情を持たないAIであるが故に、臆病風に吹かれることもなく、また気迫の上乗せもなく、剣を高々と掲げて雷撃を呼び、剣に雷撃を纏わせると解き放つ。それは濡れた地面で暴れ狂い、また走る雷球がライドウを襲う。

 少しは楽しめるか。そう言うようにライドウは雷撃範囲から脱し、続々と放たれる雷球を避ける。だが、それもすぐに退屈になったのか、立ち止まる。

 

「こういう時は『盾』を使うに限るよねぇ」

 

「ひっ……! や、止めて!」

 

 ライドウは大きく跳ぶと機能停止状態にあった清掃ロボットの陰に隠れていた女性NPCを引っ張り出す。そして、平然と雷球を防ぐ盾とすべく蹴り飛ばす。

 この男は、たとえNPCではなくプレイヤーでも同じように肉盾に使うだろうとエイジは確信を持てる。やはり危険過ぎる相手だとエイジは姿勢を低くして後退ろうとする中で、視界を長い白髪が靡く。

 女性NPCを呑み込むはずだった雷球。だが、飛び出したユナが彼女を抱えて濡れた地面を転がり、ギリギリで雷球の餌食になる場面から救う。

 

「およ?」

 

 突然の乱入者にライドウは首を傾げる。エイジは全身が凍り付いたように動けなくなる。

 何をやっている? 何て馬鹿な真似をしているんだ!? 叫ぼうとするエイジであるが、喉が引き攣って動かない。

 ライドウと鏡の騎士、2つの危機を前にしてFNCが発露しているのだ。警戒値対策としてダーインスレイヴを外していたことが仇になった。エイジは震える指でシステムウインドウを開いて装備しようとするが、それさえも満足に出来ず、醜く尻餅をつく。

 動け。動け。動け! エイジは震える指のせいでまともにシステムウインドウを操作できず、その焦りが余計に障害を増長させていく。

 これがお前だ。本当のお前だ。ダーインスレイヴが無ければ何も出来ない、惨めで愚かな負け犬だ。そう嘲うように、雷鳴ばかりが聴覚を支配する。

 

「んー、これって何かのイベント? NPCがNPCを助けるとかさ。参ったなぁ、俺ってこういうイベント管理って得意じゃ――」

 

「貴方……サイテーね! 人間を……女の子を盾にするなんて!」

 

 震えるNPCの女性を立ち上がらせて逃がしたユナは、真っ向からライドウを睨む。

 

「サイテー? それ、違うよ。俺はいつもサイコーだよ。NPCなのに、なーに威張ってんの? ムカつくなぁ。あ、でも結構可愛いかも。NPCの反応には飽きたけど、キミってなんか特別そうだし、どう? そこの雑魚が死んだら俺とべろちゅーしない? 幸せになれるよ~」

 

 両腕をくねくねと揺らしたライドウは、鏡の騎士の溜めた雷撃の一撃の盾にユナを使うべく迫る。

 

「誰が貴方なんかと……! どうして、簡単に殺せるの!? どうして……どうして……どうして、こんな酷い真似ができるの!?」

 

 ユナは両腕を振るい、ライドウが殺したNPCの肉片を示す。彼らの苦痛を訴えるように叫ぶ。

 死んだのはNPCだ。ユナとは違って自我もない、普通のNPCだ。どれだけ死んだところですぐに補充される。

 だが、ユナはプレイヤーの視点を持たないからこそ、同じ人間として扱える。

 いいや、違う。たとえ、本物のユナでも同じように怒るはずだ。

 

『最低! どうして、こんな酷い真似ができるの!?』

 

 SAOでもそうだった。NPCを囮にして安全にレベリングをしていたパーティを見つけた時、エイジの制止を振り切って助けに飛び出し、そして彼らを叱りつけた。相手は装備から見ても自分達よりもレベルが高い……当時の攻略組だったのは間違いなかった。

 NPCが死んだから何なのだと嗤う彼らに、温厚なユナは涙を両目に溜めて声を荒げて罵倒した。やがて彼らも徐々に苛立ちを示し始めてユナを囲んだ。

 だったら、お前が代わりに囮になるか? NPCの代役をするか? リーダー格の男が脅すようにユナに提案すれば、彼女は睨み返した。

 

『……弱い男』

 

 ぼそりと、最大の侮辱を込めてユナは吐き捨てた。それがリーダー格の男の怒りに触れたのは明らかだった。

 助けに行こうとしてもエイジの足は動かず、茂みから出ることはできなかった。このままではユナが危ういと分かっていたのに、体は動かなかった。

 あの時のエイジは、FNCのせいだったのか、それとも臆病に心が支配されたからなのかは定かではない。ただ1つ言えることがあるとするならば、エイジはユナを助けに行くことが出来なかった。

 その時、腰まである、前髪も目元を隠す程にボサボサに伸びた白髪の両手剣使いの少女が現れた。小学生と思う程の小柄であり、背負う両手剣の方が大きく感じるほどだった。

 

『武器を……死をもたらす殺意を向ける。だったら、反撃されても……文句は言えない。アナタは……「殺される」覚悟……あるの?』

 

 ボロボロのローブを纏った軽量性重視の外観とはアンマッチした肉厚の両手剣を背負った少女は、まるでこれから起きる惨劇など興味はなく、男の殺意が本物なのか問うように、愛らしい声音で問いかけた。

 我に返った男は舌打ちすると白の少女を代わりとばかりに突き飛ばすと、仲間を連れて去った。

 

『アナタは……素敵な「人」だね。「命」の使い道……間違えないようにね』

 

 白の少女は微かに嬉しそうに呟いて姿を消した。1人になったユナはへたり込んで震えて泣きじゃくり、ようやく動けるようになったエイジは自分の情けなさを恥じながら近寄った。

 どうしてあんな危ない真似をしたんだ? NPCが囮にされるのは気持ちがいいものではないとはいえ、人間の……自分の命とは比べられないはずだ。エイジの問いに、それこそ意味が分からないようにユナは、涙を拭いながら、真っ直ぐと彼を見つめた。

 

『プレイヤーもNPCも関係ない、大事なのは人間としての心の在り方だよ。たとえNPCでも、私達と同じように笑って、泣いて、言葉を交わせる。たとえ、プログラム通りで、そこには自我も感情も無いとしてもね。彼らは生きていないとしても、確かにそこに存在するこの世界の住人。彼らをNPCっていう人形だと思って、どんな惨酷な行為をすることも容認していたら、きっと私達は戻れなくなる。いつか同じ生きた人間にも酷い事をするようになる!』

 

 ユナは彼らのNPCの行為に怒って泣いていたのではない。同じくらいに、彼らが人道を踏み外すのではないかと危惧していた。

 いつもユナは『強さ』を示した。多くの見ず知らずの『誰か』の為に戦っていた。彼女の歌は、いつだってたくさんの『誰か』を祝福し、少しでも救おうとする祈りでもあった。

 

(どうしてだ?)

 

 どうして、こんな所だけ同じなんだ?

 キミは本物のユナではない。偽者だ。本物のユナに繋がる手がかりに過ぎないはずだ。

 それとも、たとえどれだけ色と形を変えようとも、『歌』こそが彼女の全てであったならば、今あそこにいるユナもまた本物のユナと同じ心の在り方を示すというのか。

 何だろうと構わない。エイジはあの時と何も変わっていない。

 茂みから飛び出す事が出来なかった、ユナを助けに行けなかった、あの頃から何も変わっていない。

 ユナを見殺しにした時から、何1つとして変わっていない。彼女の伸ばした手に応えられなかった……世界の理不尽に殺された彼女を救えなかった頃から何も変わっていない。

 

 

 違う。

 

 

 否定する。

 

 

 今のエイジには邪剣ダーインスレイヴがある。

 

 

 FNCを克服できる、『憎悪』のレギオンの導きがある!

 

 

 

 

 

 

 

「ユナ!」

 

「エイジ、遅いよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 ダーインスレイヴの装備と同時に体は自由を取り戻し、ライドウがユナを鏡の騎士のフルチャージの雷撃に対して盾にしようとする間際に、彼女を抱いて脱する。

 エイジなどまるで眼中になかったライドウは、自分に迫る特大の雷に対して、余裕たっぷりの動作で大きく跳んで回避する。最強の一撃を躱された鏡の騎士は、ユナよりもライドウへのヘイト……排除の優先性を示すように彼へと攻撃を繰り出す。

 

「雑魚くんじゃーん。やっと見つけた。ネームド祭りも飽きちゃったし、さっさと仕事終わりたいんだよねぇ。大人しく捕まってくれる?」

 

「嫌だ」

 

「そう言わずにさ、今ならサービスで優しく捕まえてあげるよーん」

 

 ライドウが一気に距離を詰めようとするが、ユナとの会話の間に雷のチャージを終えて強化された鏡の騎士の雷撃を帯びた斬撃の乱舞が繰り出される。さすがのライドウも、真っ直ぐにエイジを捕まえに行くには邪魔だったらしく、先に鏡の騎士を葬ることを優先する。

 

「逃げるぞ! あんな奴に構っていられるか!」

 

 脱兎の如く、エイジはユナを両腕で抱えて走る。ダーインスレイヴのお陰で体は動くが、ライドウには万が一でも勝機はない。鏡の騎士が粘っている内に、ライドウが追えない距離まで逃げきらなければ自分のみならず、ユナも危ういのだ。

 悪意100パーセントで動く男。グローリーが何故そうまでライドウを評したのか、嫌でも実感したエイジは、鏡の騎士が生み出した雷雲の範囲外にまで脱し、黄昏の光を浴びる。

 ネームドエンカウントで1度は消滅していた警戒値が再び出現する。周囲のNPCが怪訝な表情をして、息荒く、またずぶ濡れの2人を見つめている。一刻も早く隠れねば新たな危機が生じる。

 武装したままでは危うい。エイジは急速上昇する警戒値を下げるべく、最後のスタミナを振り絞ってダーインスレイヴをオミットする。

 スタミナ切れまで走り続けて倒れ込むエイジは、結果的に足で目的地まで距離を縮めてしまった不幸中の幸いに笑う。

 

「あ、あはは……アハハハ! エイジったら、笑うの本当に下手だね!」

 

 スタミナ切れでもないのに、同じく寝転がるユナは、嬉しそうに、エイジとは違って奇麗に、そして何よりも優しく……本物のユナと重なる程に優しく笑む。

 

「ありがとう。エイジって、弱いけど、アイツよりずっとカッコイイね!」

 

「弱いは……余計……だ」

 

 だが、ユナのピンチの中のピンチまで動けなかったのは事実であり、ダーインスレイヴを装備していなかった事は言い訳にできない。

 オリジナルとは違う点ばかりであるが、それでもこのユナは同じ『強さ』を持っている。それが自分の情けなさを強調して、エイジは夜の闇と共に彼らを照らす外灯の光を見つめる。

 スタミナが回復したエイジは、先に立っていたユナの手を掴む。

 もう危ない真似をするな。そう言えたら、どれだけ良いだろうか。口ではどれだけ忠告しても、彼女はきっと動くのだろう。本物のユナがそうであったように。

 

「行こう。残りの楽譜を集めに! 皆を救う手伝いをして! 私が歌う手助けをして! きっと、エイジじゃないと私を連れて行ってくれない。そんな気がするの!」

 

「…………」

 

 違う。僕はそんな大層な人間じゃない。エイジは自己否定して、握ったユナの手を振りほどきそうになる。

 この身に残ったのは憎しみばかりで、ユナへの気持ちさえもどす黒く染まって変質してしまっている。

 

(僕も『サイテー』なんだよ、ユナ。きっと、ライドウよりも救いようがない『サイテー』だ)

 

 ライドウには圧倒的な暴力がある。だが、エイジはそれさえも備わっていないクズだ。

 人殺しもしている。プレイヤーの怨敵であるレギオンにも与している。他にもユナには言えないような真似をたくさんしている。挙句に、自分に降り注いだ火の粉も満足に払い除けることができず、ライドウという危険な追跡者のせいで彼女を危険に晒している。

 

「僕よりも相応しい奴がいるよ」

 

「私はエイジがいいの。だって、必ず守ってくれるんでしょ?」

 

 この気持ちは何だろうか?

 もう憎悪ばかりが詰め込まれた心……黒く濁った汚水の底に沈んでいたエイジは、自分に差し込む温かな光を見たような気がした。もう手を伸ばすことも、触れることも許されないはずなのに、憎悪の汚水を切り裂いて水底にいる自分にまで降り注ぐ光を感じたような気がした。

 

「改めてよろしくね、エイジ♪」

 

「勝手に決めないでくれ。あと……守るに決まってるだろ。『キミ』を守る。必ず歌わせてみせる」

 

 それこそが彼女の夢だったのから。たくさんの『誰か』の為に歌を届ける。大きなステージで歌いたがっていたのは、たくさんの『誰か』が少しでも安らぐように、幸せになれるように、救われるように願い、そして祈ったからだと思い出せたのだから。

 

「さてと、『シャワー』も終わってニオイも落ちたし! 頑張ろう!」

 

「……それでいいのか?」

 

 まぁ、ユナがそれでいいなら別にいいか。エイジはともかく警戒値が赤く点滅する前に人目から逃れねばと、ユナの手を引いて夜の都市を走り出した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ライドウ、凄まじい。自我を有さないAIは脅威度が下がる傾向にあるとはいえ、聖剣騎士団とUNKNOWNが組んで激戦を繰り広げたネームドを無傷で一方的に撃破とは。

 物陰で≪隠蔽≫を使用して身を隠し、戦闘を観戦していた小柄な人影は、戦闘が終わって消え去る雨雲を見上げながら濡れた前髪を掻き上げるライドウに近寄る。

 

「……アラタさん、俺ってさぁ、すっごい嫌いな奴がいるんだよね。どんな奴か、分かるぅ?」

 

「それって弱い奴のことかい?」

 

「んー、半分正解? 弱い奴は嫌いじゃないよー。この世の大多数は弱い奴だしね。一々嫌ってたら疲れちゃうよ。まぁ、俺を楽しませない弱い奴は嫌いだけどね。コイツみたいな強いとみせかけた雑魚とか特にさ」

 

 鏡の騎士の残骸を踏み躙りながら、ライドウは唾を吐きかける。あれだけ楽しそうに、まるで遊ぶように嬲り倒したというのに、鏡の騎士ではまるで不十分だったと不満を態度で示すライドウは、ターゲットであるノーチラスと謎の少女NPCが逃げた方向を睨んでいる。

 

「雑魚のくせに、信念とか理想とか持った勘違い連中、もう大嫌いなんだよねぇ。『力』を持たない雑魚がなーに言ってんだか」

 

「気に喰わない?」

 

「文句も言いたくなるよー! そういう贅沢は強い奴のもの。強い奴だけに許された、人生を味付けする娯楽なんだよ。グロやんを見なよ。強い。すっごい強い奴。だから俺はグロやん大好きだよ? 信念と理想に燃えて生きるグロやんはサイコーに強い奴としてエンジョイしてるじゃん!」

 

「強者こそがキミの友ってわけだ」

 

「そういうこと! グロやんの気に入らない所があるとするならば、弱者に構いすぎる所なんだよねぇ。まぁ、自分を弁えてる弱者は嫌いじゃないよ。アラタさんみたいなねぇ」

 

「なるほどね。僕は弱者扱いってわけかい。だったら、キミの機嫌を損ねないように注意しながら、ベクター様の命令に従わないとね。まだまだ死にたくないからさ」

 

「そういう努力、実にイイね! さっすがアラタさーん!」

 

「では、早速彼らを追跡しよう。キミの退屈な仕事がさっさと終わるようにね」

 

 機嫌よくしたライドウを見送り、小柄な人影……10歳前後の少年は、NPCの肉片を手に取る。

 

「人選ミスかな」

 

 ベクター様も形振り構っていられないのだろうが、と少年は嘆息する。ライドウを投入したのは後々まで続く禍根を残しかねない。なにせ、ターゲットを狙っている勢力で入り乱れているのだ。

 あるいは、ライドウを赴かせた本命は、他の勢力への牽制、あるいは実力行使による排除を狙ったものだろうか。ライドウならば暴走もあり得るとして受け止められる。

 ライドウには戦力として存分に暴れてもらうとしよう。少年は与えられた任務の達成を最優先にしつつも、如何にして自分の欲望を満たすかも同時に思案する。

 

「……『欲しい』なぁ」

 

 指で弄んでいた肉片を口内に運び、咀嚼した少年は喉を鳴らして呑み込み、そして吐き出す。

 雨水で濡れたコンクリートに零れた肉片は痙攣し、増殖し、スライムのように蠢く。

 

「さぁ、探せ」

 

 スライムはずるり、ずるり、ずるりと地面を這い、排水溝に消える。少年は何事もなかったように歩き始め、再び往来し始めるNPCの人影に消えた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ネームド<単眼の牛頭のデーモン>は、通常の牛頭のデーモンとは違い、巨大な1つ目が特徴だった。

 同じデーモンの骨を削って作ったという由来を持つ、6メートルにも達する巨躯に相応しい巨大な骨の斧を振り回し、また単眼は捉えた相手の物理防御力・スタン耐性を強制的に大幅ダウンさせる魔眼でもある。

 このネームドの撃破方法は、とにかく視界外から攻撃することである。視認されている限りは、たとえ重装防具と大盾装備のタンクでさえ紙装甲と化すからだ。

 第2段階に入るとただでさえ高い攻撃・防御面が強化され、第3段階に入ると魔眼を暴走させて一定範囲内のプレイヤーのDEXを低下させるという能力を発揮する。スピードで翻弄することさえも難しくなり、プレイヤーは如何にして一撃死確定の単眼の牛頭のデーモンに立ち向かうかが求められる。

 単眼の牛頭のデーモンを撃破した、当時の太陽の狩猟団の回答は至極単純明快だった。単眼に射撃し続け、魔眼を延々と封じ続けたのである。シノンの狙撃技術でもなければ、動き回る単眼を撃ち抜き続けるなど不可能であるが、彼女は見事にやってのけた。こうなれば、後はただの力と耐久だけが取り柄の大型モンスターである。

 

「ふぅ、終わりだ」

 

 だが、『名無し』は単眼の牛頭のデーモンを真正面から撃破する。強力な斧の一撃をリカバリーブロッキングで弾いては斬り返すだけの単純な作業であったが、その実は1度としてコンマのズレも許されない精密極まりない神業である。1ミスで即死の巨躯の怪物の攻撃を真正面から捌き続けるのは、およそ尋常ではない精神力と集中力が求められる。

 普通ならば拍手喝采を受けるだろうが、『名無し』はまるで満足しない。やはりコピーであり、また自我を持つAIに比べれば、どうしても脅威として劣ると感じていたからだ。

 

「お疲れさまでした。呆気なかったですね」

 

「シリカの援護があったからな」

 

「私はピナに単眼を撃たせて怯ませただけです」

 

「そのお陰で何度か呼吸を整えることができた」

 

 これで3体目撃破だ。『名無し』は得たポイントで新たに『クラッキング・カメラ』をゲットする。これによって『名無し』が接近すると監視カメラは自動的にオフとなり、より警戒値の上昇を抑えることができるのだ。

 シリカと協力して倒した単眼の牛頭のデーモンが塵となって消える様を見届けた『名無し』は、すっかり暮れた空に疲労の吐息を零す。

 都市が変質してから初めて迎えた夜、『名無し』とシリカは武装したまま歩き始める。彼が獲得したステルス・フィールドのお陰で、余程目立った行動をしない限り、NPCやドローンに視認されたとしても警戒値が上昇することはない。

 出現するネームドを倒せば倒す程に有利となる。分かり易く、故に実力がない者は容赦なく追い詰められていくシステムだ。

 

「でも、本当に凄いです。クラーグも単眼の牛頭も、どちらも強力なネームドとして知られていたのに!」

 

「本物はもっと強かっただろうから威張れないけどな。特にクラーグは本物の半分も出せていたかどうか……」

 

 最初に遭遇したコピー・ネームドである混沌の魔女クラーグは、溶岩溜まりを作る攻撃や炎の斬撃や鞭など厄介ではあったが、『名無し』は瞬く間に攻撃パターンを分析し、相手のオペレーションが最適化される前に≪二刀流≫と聖剣の高火力で押し切った。

 クラーグは、硬質の外殻に覆われた下半身の蜘蛛こそ防御力は高いが、本体とも言うべき女性の上半身は酷く脆い。『名無し』は溶岩溜まりの牽制の時点で、敢えて溶岩を突っ切って最短距離で間合いを詰め、月蝕突きでクラーグ本体の胸を刺し貫き、ダウンしたところで斬撃の嵐の如き連撃で刻むという戦法で、僅か20秒足らずで撃破している。

 相手の弱点に、高威力・高衝撃・高スタン蓄積の月蝕突きを初手で命中させることが出来たのが大きな勝因だ。だが、溶岩溜まりで減っていくHPを気にすることなく走り抜け、クラーグの迎撃の炎の斬撃を空中でリカバリーブロッキングで逆に弾き返して隙を作るという高い実力が備わっていたからこその最速撃破である。

 

「それにしても脱出も不可能となると、このコピーネームド祭りをどうやって終わらせたものかな?」

 

「やっぱりボスを倒すしかありませんよね」

 

 既に試したことではあったが、現時点で都市は完全封鎖されており、プレイヤーの脱出は不可能となっている。幸いにも旅行者用購買機からアイテムの補充は可能であるが、いずれも割高であり、手持ちのコルだけでは十分な補充が出来るのは限界がある。

 とはいえ、ピナには竜鱗による回復能力があり、『名無し』には聖剣のオートヒーリングもある。回復アイテムは最大限に節約できるだろう。武器の耐久面に関しても聖剣の頑丈さは折り紙付きである。

 

「ネームドが出現する条件は2つ、警戒値が溜まって警備システムが起動した時にランダムか」

 

「地雷のように、特定の場所にプレイヤーが接近した時ですね」

 

「そうだ。これを見てくれ。クライシス・サーチで、都市内で他プレイヤーが遭遇したコピー・ネームドの位置情報だ」

 

 ポイントで得たクライシス・サーチは、1時間毎にこれまで出現したコピーネームドの位置情報をマップデータに反映してくれる。事前に都市内のマップを入手済みの『名無し』は、詳細な都市マップで広げる。

 

「俺達が遭遇したクラーグと牛頭は青、<人食い虫ジュージョ>は緑だ」

 

「ジュージョ……キモかったですね」

 

「思い出させないでくれ」

 

 3メートルもある芋虫のような体躯に縦割りの口が付いたジュージョは、粘性の消化液を撒き散らすモンスターだ。プレイヤーの武器・防具の耐久度を削る攻撃を仕掛けることができる。また、捕食攻撃を受けた場合、生きたまま体内に取り込まれ、拘束状態で生きたまま消化液によるスリップダメージを受け続ける。仲間が助けない限り、捕食された時点で死亡確定である。

 だが、ジュージョの脅威は別にある。第2段階は蛹になって動かなくなり、シャボン玉状の消化液を乱舞する攻撃だけであるが、最終段階は羽化して巨大な蛾の怪物となるのだ。レベル3の毒・麻痺複合の鱗粉をばら撒き、空中から急速下降して捕食攻撃を仕掛けてくる他に、消化液のウォーターカッターのようなブレスを空中から連発してくるようになる。

 故に第1段階だけならば、比較的に見て、脅威度は低めのネームドである。もちろん、並のプレイヤーからすれば必死の強敵ではあるが、『名無し』の敵ではなかった。

 

「ジュージョは警戒値エンカウント、クラーグと牛頭は固定エンカウントだ。つまり、このマップデータでみるべきは青色のマーカー……固定エンカウントだ」

 

「どういうことですか?」

 

「宝物を守る番人ってわけさ。見てくれ。他のプレイヤーの遭遇情報もクライシス・サーチには反映される。これを見れば、青色のマーカーは、特定の場所への進路を塞ぐように発生している。それが教育施設と――」

 

「発電区画というわけですね。確かにこうしてみると、この2つのエリアに通じる道筋ばかりです。でも、そうなると、ダンジョンのペイラーの監獄と動いている赤色のマーカーは何なんでしょう?」

 

 シリカの指摘通り、マップデータが更新される度に、ペイラーの監獄にある青色のマーカーは微動しており、都市内を徘徊するように赤色のマーカーも動いている。『名無し』は腕を組んで考える。

 

「……多分だけど、ペイラーの監獄にエイジはいたんじゃないかな? ピナの索敵に引っ掛からなかったのは、彼が地下にいたからだ。青色のマーカーはプレイヤーとエンカウントした印でもある。つまり、エイジはペイラーの監獄にいてネームドに遭遇した」

 

「でも、ネームドはまだ動いているということは、ターゲットはもう死んだんでしょうか?」

 

「どうだろうな。ともかく、エイジの確保も大事だけど、この事態を解決することも目指さないとな。今この都市にいるのはエイジを捕えに来た俺達みたいな連中だけとは断定できない。普通のプレイヤーもいるかもしれないんだ。コピーとはいえ、ネームドを相手にするのは危な過ぎる」

 

 これこそが『名無し』の危惧するところだ。ペイラーの記憶は人気こそないが、だからといって立ち入っていないプレイヤーが全くいないとも限らないのだ。物珍しさに、暇潰しや観光気分で立ち寄ったプレイヤーもいないとは限らないのである。

 そして、赤色のマーカー……これは他のマーカーとは明らかに異なる。固定にしろ、ランダムにしろ、どちらも行動範囲が決定づけられているはずだと『名無し』は分析する。その証拠がペイラーの監獄外に移動する様子がない青色のマーカーだ。

 まだ情報不足であるが、赤色のマーカーは都市全体を移動することが出来る特権を持ったコピー・ネームドである確率が高い。

 

(それにしても、この警戒値エンカウントの数はなんだ? シリカの索敵に引っかかった連中なら、すぐにシステムを理解して警戒値エンカウントを最大限に避けるはず。それなのに、ここ数時間で異常なまでに伸びている。少なくとも『2組』が好き勝手に動き回ってエンカウントを起こしまくっているみたいだな)

 

 ピナを索敵に放って情報収集したいが、場合によっては撃墜される恐れもある。ピナはシリカにとって大切な相棒だ。並のプレイヤーを上回る耐久性能があるとはいえ、コピーネームドが跋扈する今の都市内で必要以上に広範囲の索敵を任せるのは危険だった。

 

「それと、今まで俺達が遭遇したのはいずれも撃破済みのネームドだよな?」

 

「そうですね。それが出現条件の1つなら、少なくとも未知のネームドと遭遇することはない……ですよね?」

 

「俺も情報は集めている方だとは思うけど、今まで撃破された全てのネームドを知り尽くしているわけじゃない。大ギルドが戦果を非公開にしているネームドもいるだろうしな。それに名前だけしか知らないような奴もいるし、そうなると初見と同じだよ」

 

 また、コピーの脅威はオリジナルの戦闘能力に比例するとも『名無し』は考える。

 パターン分析が可能とはいえ、オリジナルの実力が高ければ高い程に、コピーAIもまた強力になるのは道理だ。より分析にも時間を要することになる。

 そして、今回のコピーネームドの場合、ネームドの能力の方がより厄介になるだろうとも『名無し』は考える。

 たとえば、スローネとオベイロンの戦闘能力を比べた場合、圧倒的に前者の方が上だ。だが、膨大なリソースでタフネスと強大な能力を獲得したオベイロンの方が、コピーネームドで出現した場合は厄介になるだろう。

 妖精神オベイロンはアルヴヘイムに本来DBOに出現するはずではなかった、オベイロンの醜悪な顕示欲の塊のようなネームドであっただけに、登場することはないだろうとも『名無し』は予測しているが、常に最悪が隊列を組んで現れるのがDBOであるだけに警戒は怠れなかった。

 また、撃破されたネームドが出現するということは、あの竜の神の再臨もあり得るということだ。これまた第1段階限定ならば幾らか楽ではあるが、巨体と攻撃範囲から思わぬ被害を生みかねない。

 

「もしかして、この事態はターゲットが狙って起こしたものなのではないでしょうか? 追手である私達を倒す為に……」

 

「いや、それはないよ。仮に彼が原因だとしても想定外だったんじゃないかな?」

 

「どうしてですか?」

 

「大量のネームドが配置された都市に自分も閉じ込められるんだ。自殺願望でもないとやらないよ」

 

「……確かに。第1段階のコピーでも、普通のプレイヤーには簡単には倒せませんもんね。ターゲットは先日、グローリーさんと協働してボス・つらぬきの騎士を撃破していますけど、実力的にはせいぜい傭兵の最低水準クラスでしょうし」

 

「それでも、大ギルドの攻略部隊でもやっていけるだけの実力だよ。だけど、彼の経歴は奇妙なんだ」

 

「周囲からは『NPC』と馬鹿にされていた、職務に忠実な巡回警備だったそうです。エリートプレイヤー候補時代に、リポップ型ネームドを相手に腰を抜かして動けない醜態を晒して落第。絵に描いたような転落劇ですね」

 

「同じ実戦でも、普通のモンスターとネームドはまるで違うさ。彼は死の恐怖を乗り越えられなかった。恥じることじゃない。それに、今はもう違うみたいだしな。だけど、だからこそ無謀を起こさないとも限らないし、早く見つけてやらないとな」

 

「死なれてしまっては無駄足になってしまいますもんね」

 

「……もう少し言い方を考えてくれ」

 

「それは失礼しました」

 

 出発前に取り寄せたエイジの資料を反芻させる『名無し』は、ようやくたどり着いた目的地……都市の教育施設を見据える。

 教育施設……つまりは学校であるが、外観は複数の連なったビルである。ディストピア調のペイラーの記憶に相応しく、文化性は徹底的に排除されているのだ。

 既に夜間ということもあり、NPCの学生は帰宅している。明かりこそついているが、教員・学生NPCの数は昼間の10分の1にも満たないだろう。

 正面玄関は当然のように重武装警備員に見張られている。だが、外縁部は全て高い壁に覆われており、易々と乗り越えることは出来ない。

 だが、『名無し』はウォールランで壁を垂直に駆け上がり、月下に舞う。壁の頂点に着地した『名無し』はロープを垂らすと地上で待機していたシリカを引き上げた。

 壁には至る所に監視カメラがあり、またドローンが浮遊している。だが、クラッキング・カメラの効果によって『名無し』とシリカは映されることはないのだ。

 

「相変わらず無茶しますね」

 

「効率性重視さ。わざわざ入口を探すよりも確実だしな」

 

 シリカを抱えて飛び降りた『名無し』は芝生に着地する。幸いにも敷地内まで警備員が多数巡回している様子はない。

 

「さてと、まずは情報収集をしよう。それも含めて、ここに来たんだからな」

 

 教育施設には様々な情報のデータベースがある。都市の規律に反する情報の閲覧は不可であるが、それは真っ当な手段で検索をかけた場合だ。壁に貼り付けられた地図プレートから研究棟の場所を確認する。

 第3ビルか。『名無し』はマップデータに追記するとシリカを連れて、NPCの目を掻い潜りながら進む。監視カメラを無効化できるというだけで機動力は各段に増しているが、それでも慎重さを失うわけにはいかない。

 教育施設のビルは全部で5棟あり、まるで円を描くように貯水施設を囲んで配置されている。それぞれのビルは12階建てであり、いずれも空中廊下で繋がっている。

 しっかりと能力を揃えていなければ、侵入には相当の時間がかかるな。ステルス・フィールドとクラッキング・カメラが無ければ、ここまでスムーズに研究棟まで来ることは出来なかった。『名無し』は最もセキュリティランクが高い研究棟の最上階を目指す。

 だが、エレベーターでたどり着いた12階で待っていたのは、分厚い隔壁だった。

 

「パスワードと鍵が必要みたいだな。破壊可能オブジェクトだけど、さすがに壊したら不味いし、ここは1度戻って――」

 

「私に任せてください」

 

 シリカがアイテムストレージから取り出したのは、ノートパソコンである。だが、それは見た目通りのパソコンではなく、あるスキルの成功率を高める補助アイテムだ。

 

「私には≪暗号解読≫と≪ピッキング≫があります。このくらいの難易度だったら……!」

 

 まずは暗号解読補助ユニットを使ってパスワードを無力化したシリカが取り出したのは、≪ピッキング≫に大幅な補正をかける【義賊ジンバの万能鍵】である。これによって開錠し、『名無し』では破壊か大人しくパスワードと鍵を探すしかなかった隔壁は解放される。

 シリカは戦闘スキルこそ少ないが、その分だけ補助スキルに特化しているサポーターだ。彼女の有無で探索は大幅に難易度が変わるのは道理であり、『名無し』は感謝の念を覚えると同時に、どうしても気まずい表情になってしまう。

 

「今更だけど、シリカの≪暗号解読≫と≪ピッキング≫が異様に熟練度が高いのは……」

 

「さぁ、先に進みましょう!」

 

 笑顔でシリカに押し切られ、もう過去の事だし水に流すかと『名無し』は黙り込む。この鮮やかな手並み、どれだけ私室のドアや窓を堅牢にロックをかけようともシリカに破られるのは当然というものである。

『名無し』の想定が正しければ、この教育施設には事態を収束させるためのアイテム、あるいは情報があるはずだ。だからこそ、固定エンカウントが進路上に配置されていたはずである。

 隔壁の先の研究室は無人である。正確に言えば、生きた人間はいない。ロボットアームだけが何かしらの鉱石や破片を分析しており、黙々と作業を続けている。

 このフロアの大半は並列接続されたサーバーである。シリカは操作盤に≪暗号解読≫を使用して情報閲覧を認可させる。

 ここで研究されていたのは、都市が建造された島……その地下から採掘される特異なソウルを含有した鉱石についてだった。

 かつて、島民が信仰していたのは水神である。グウィンの娘が嫁いだ神であり、夫婦の間には1人の娘……人魚が生まれた。人魚の歌声は神々の如き恩恵をもたらし、それは多くの信仰を集めることになった。だが、水神の姉でもあった深海の女神は嫉妬深く、新たな信仰を築き始めた人魚の喉を裂いて声を奪った。これに怒り狂った水神は、深海の女神が2度と深海から這い上がれないように封じ込めた。だが、深海の女神の呪詛は人々に悪夢を見せるようになった。嵐が吹き荒れ、偉大なる英雄たちの幻影が襲い掛かり、数多の血が流れたのだ。

 島民は人魚に歌声を与える儀式を執り行った。島で最も澄んだ歌声を持つ娘の声を人魚に捧げたのだ。声を借り受けた人魚は歌で深海の女神の呪詛を鎮めたのである。そして、終わらぬ嵐が吹き荒れる度に儀式は行われるようになった。

 嵐に巻き込まれた船を導き、また呪詛を鎮める歌を届ける祭壇として灯台が建設され、島の信仰のシンボルとなったのである。

 

「これが本来この土地にあった信仰か」

 

 要は生贄である。時代の経過と共に神々への信仰は廃れ、島民もまた儀式を途絶えさせた。そして、島に音を束ねる性質を持った鉱石が発掘され、資源拠点として興隆したのである。

 データベースの閲覧を進め、過去の採掘ポイントを引っ張り出した『名無し』は、しばらくジッと見つめると情報媒体クリスタルにダウンロードする。

 

「何か分かりましたか?」

 

「まだ何とも言えないかな。できれば、もう少し情報を集めたい」

 

 DBOで発生するイベントは大きく分けて2種類ある。

 1つは後継者が思いつきで発生させたかような突発イベント、もう1つはDBOの歴史、文化、信仰、人物などに沿ったイベントである。

 今回のネームド祭りは、推定であるが、トリガーを引いたのはエイジだろう。撃破されたネームドが続々と出現しているが、それはあくまで表面上の出来事に過ぎず、クリアする上でのキーポイントにはならない。

 

(今回のイベントの肝は、都市側が攻撃を仕掛けている点だ。この都市がどうしてディストピアになったのかも探る必要があるな)

 

 参照、都市開発の歴史。『名無し』の操作に応じて新たな情報が開示される。

 島の開発そのものが始まったのは、およそ600年前だ。豊かな自然と灯台が目玉となり、富裕層の観光スポットとして注目を浴びた。だが、ある晩を境に島を目指していた豪華客船は突如として消息を絶つことになる。その後の捜索隊は海面に浮かぶ瓶に収められたメッセージで『海底から黒い嵐が来る』を発見した。

 島民は海底の女神が目覚めたと妄信し、行政の制止を振り切って若い娘を生贄にしようとする。だが、寸前で警官隊によって島民は確保され、儀式を敢行しようとした村の上層部はいずれも拘束されることになる。この時に使用されたのは地下火葬場であり、それは後々に監獄へと改修されていくことになった。

 その後、指導者を失った島民は富豪による買収で土地を失い、特殊な鉱石の採掘に従事し始める。その後は続々と仕事を求めた移住者で人口は膨れ上がり、儀式は本来の形を失い、ただの歌唱コンテストに変じていった。

 やがて島の支配層は資源を武器に自治を強めていく。都市化は進み、島は余さず再開発されることになった。これによって島の多くの文化的遺産を失うことになる。

 そして時代は人類の黄昏へと向かう。荒廃する中で人々は生き残りをかけてあらゆる手を尽くす。この都市もまた、人類生存の為に多くの規律を作り、資源管理を行うことになった。その一環として、人間という貴重な労働力をより純化させる為に、多くの文化的行為が禁じられる事になる。

 

「……いや、おかしいだろ」

 

「何がですか?」

 

「ここだよ。どうして文化的行為……娯楽や芸術を禁じる必要があった? 執政者は何を恐れた? 資源が尽きたわけでもない。むしろ、戦争特需で売れ行きは好調だった。経済が順調であるにも関わらず、わざわざ市民の不満が募るような真似をどうして?」

 

 新体制施行前後は大きな反乱もあった。その後もレジスタンスは途切れることはなかった。どうして、わざわざリスクを背負う必要があった?

 考えねばならない。『名無し』は情報を整理する。統治者が権力欲に憑かれたのか? あるいは何らかの思想に染まってしまったのか? 開示されている資料からは不明だ。

 だが、少なくとも歴史を完全に抹消していない。こうして『名無し』が閲覧できる情報がある。

 

「これを見てください」

 

 と、そこでシリカが持ってきたのは、壁に飾られていた1枚の写真だ。そこには白衣の研究者2名が撮影されている。

 1人は黄瞳の男であり、もう1人は赤毛の若い娘だ。胸のタグには、男は【ペイラー・マクファーレン】、女は【ルージュ・キュリオス】とある。

 この男がペイラー。この記憶の世界の主にして、ペイラーの監獄で待ち構えていたボスだ。2人は島の鉱物と歴史研究の第1人者でもあったのだ。だが、ペイラーはレジスタンスとなって投獄されることになった。

 では、こちらの女は? ルージュはどうなった? 検索を進めようとした『名無し』は、だが地響きを感じて指を止める。

 背負う聖剣に手をかけ、シリカと頷き合って研究室から足早に出る。そのままエレベーターに乗って地上へと向かえば、逃げ惑うNPC達とすれ違う。

 

「あれは……」

 

 5棟のビルが囲う中央部の貯水施設。そこで大きな水飛沫が上がっている。

 戦闘だ。あの規模からして、PvPではなく、ネームドであることは間違いないだろう。

 無関係のプレイヤーかもしれないし、エイジを追跡してきた他の勢力かもしれない。だが、何にしても見過ごすという選択肢は『名無し』には無かった。

 

「行くぞ!」

 

「はい!」

 

 シリカはピナに先行させ、だが自分は『名無し』の後に続く。まずはピナに状況を探らせる狙いだ。

 貯水施設は巨大なプールとなっており、5メートル規模の5角形の浄水設備が陸地のように水面から幾つも顔を出している。これ以外の足場はなく、だが十分過ぎると『名無し』は次々と跳び移って先を目指す。

 そうして戦闘の中心部を目視する。水面から飛び出しているのは、7本の蛇……いや、竜の頭だ。それらは膨大な水ブレスを次々と放って水飛沫の爆発の如く撒き散らしている。<写し身・黒い森の湖獣>は、古竜の末裔でもある水竜だ。

 その厄介さは遭遇する環境にあり、プレイヤーは否応なく水場での戦闘を強いられる。重たい甲冑では深みに嵌まれば沈んで溺死しかねず、高TECでもなければ水に足が捕らわれてスピードを発揮できない。そして、首の先にある本体は分厚い甲羅に覆われていてダメージは通らず、唯一の攻撃箇所である7本の首は竜鱗に覆われているので生半可な攻撃は通じず、また放たれる水ブレスは対策が難しい強力な水属性攻撃である。

 同種のネームドは複数確認されており、黒い森の湖獣は最初に発見されたタイプだ。リポップ型ではないが、同能力でステータスだけ底上げされたタイプが何度か出現しているのである。そして、その度に必ず犠牲者が出ている凶悪なネームドでもある。

 だが、『名無し』を揺さぶったのは湖獣ではなく、派手な水音に負けることなく、むしろ呑み込むように響き渡る歌声だ。

 澄んで力強い、心に訴えかける歌声が、およそ死と隣り合わせと呼ぶに相応しい戦場に響き渡っている。

 歌声の主は白髪の少女だ。一瞬だけクゥリと重なりこそしたが、彼の白髪がまさしく純白ならば、こちらは本来の色を漂白されてしまったかのような印象を受ける。彼女の中心としたソウルの光が集まっており、何か形を……楽譜のようなものを形成しているように思えた。

 そして、少女を守るように、湖獣のヘイトを稼ぐべく果敢に立ち向かうのは、茶髪の青年だ。鈍い銀色の長剣を振るい、湖獣の頭部タックルをガードして大きな火花を散らして吹き飛ばされる。危うく水中に没するかとも思われたが、縁のギリギリで剣を突き立てて制動をかけて踏みとどまる。

 

「シリカ、対人捕獲用ネットの準備を」

 

「了解です」

 

 ここに彼がいるのは偶然か、あるいは必然か。どちらにしても『名無し』がやるべきことは全く変わらない。

 シリカをその場に残して『名無し』はスローネのギアを入れる。黄金の雷が迸り、『名無し』の動きは加速され、1歩の跳躍の距離が飛躍的に伸びる。

 いきなりの乱入者に湖獣は対応できない。『名無し』は首の1つへと最大威力の月蝕光波を穿つ。巨大な黒い三日月は、湖獣の首の1つを正確に捉え、竜鱗を磨り潰し、肉を潰し、骨まで至る。

 血飛沫はない。代わりに白い塵が青年へと降り注ぐ。その間にも湖獣へと攻撃を緩めない『名無し』は、左手に雷撃を集めて突き出す。放たれた雷球は湖獣の首が伸びる水面に命中し、黄金の雷は伝導してダメージを与える。

 強力なネームドである湖獣であるが、致命的な弱点も存在する。ただでさえドラゴンは雷属性に弱いのに、水中に生息する性質から更に雷に脆弱となっている点だ。

 

「湖獣討伐には必ず高位の雷系奇跡が用いられる。竜鱗はあらゆる攻撃にガード効果を発揮して、こちらの攻撃がほとんど無力化されるからだ。水に伝導し、なおかつ竜鱗を焦がして剥げる雷属性攻撃がないと討伐はまず無理だ」

 

「お前は……!」

 

 青年の前に着地した『名無し』は、彼の無謀さを諫める。古竜ではないにしても湖獣もまたドラゴンだ。たとえ、コピー・ネームドであるとしても『素人』が勝てるような相手ではない。自分の実力を理解せず、だが撤退できる程度には余力がありながら粘るなど過信の無謀だ。

 

「そこで見てろ」

 

 黄金の雷を纏った『名無し』は、雷で竜鱗が傷ついた湖獣へと立ち向かう。次々と放たれる水ブレスを、5角形の足場を次々と跳び移ることで躱し、水面から飛び出す首に向かって飛ぶ。その最中に雷球を飛ばして竜鱗を剥ぎ、聖剣の一閃を浴びせ、湖獣の首に着地すると刃を突き立てたまま駆け上がる。聖剣の斬撃が喉元、そして顎まで達し、首の1つは力なく倒れる。

 宙を浮いた『名無し』に残る5本の首が迫る。丸呑みすべく大口を開けているが、『名無し』は月蝕の聖剣から放った巨大月蝕光波で退ける。切れ味こそあるが、強力な打撃属性を有する月蝕光波はより物質的な重さを有する。威力にもよるが、最大威力の月蝕光波ならば湖獣の首で退けられるものではない。

 新たな足場に着地と同時に背負うもう1本の剣を左手でつかむ。次々と迫る湖獣首を躱し、逆に斬撃を浴びせていく。狙うのは竜鱗に守れていない眼球と口内だ。噛みつき攻撃の際に刃を滑り込ませてカウンターを決めるのである。

 既に『名無し』は1度ではあるが、湖獣の討伐経験もある。ならば、『生きていないAI』であるコピー・ネームドともなれば、能力も攻撃方法も知り尽くした相手である。

 

「湖獣の攻撃をガードするのは悪手だ。たとえタンクでも多段ヒットすれば吹き飛ばされる。躱すしかない。そして、躱しさえすれば……!」

 

 首を戻すまでは攻撃し放題だ! 斬撃の渦で竜鱗を無理矢理剥ぎ取り、その内側の肉まで抉り取る。悲鳴を上げる湖獣は、確実にHPが減っている。あと首の1本でも落とせばHPを失うことになるだろう。

 放たれる水ブレスを軽々と躱していきながら、『名無し』は同時にカウントを取る。湖獣が連続で水ブレスを吐けるのは首の残数に関わらず、最大で42発までだ。

 水ブレスは弾速が遅い。だからこそ、しっかりと軌道を見極めれば躱すことは難しくない。だが、湖獣と戦う環境がプレイヤーの動きを阻害する。この場合は狭い足場であり、次々と足場を跳び移らねば躱せない。

 難なく42発の水ブレスを避け切った『名無し』は、弓の弦を張るように首を構えた湖獣を見据えて、敢えて水中へと身投げする。

 水中ではプレイヤーはまともに戦闘することさえも困難だ。如何に『名無し』でも水中で地上のように動き回ることは出来ない。当然のように、湖獣は残る首の全てを水に潜らせて、全方位から『名無し』を食い千切ろうとする。

 だが、それこそ待っていた事だ。『名無し』が繰り出すのは≪二刀流≫の水中用連撃系EXソードスキル【アクア・ゼロ】だ。水中で連続回転斬りを繰り出せば、伝播した水圧斬撃が周囲を爆散に近しく切り刻むという、≪二刀流≫だけに許されたEXソードスキルだ。魔力の消費こそ伴うが、『名無し』にとって有用な水中戦のカードでもある。

 全首を刻まれ、湖獣のHPは削り切られて白い塵となって崩れていく。その間に『名無し』は浮上すると軽やかに青年がいる足場へと立つ。

 まだ歌は止んでおらず、青年は少女の方をしきりに気にしている。抵抗を示すように『名無し』へと構えようとするが、それを許すつもりは毛頭ない。

 スローネの雷が迸り、超加速で距離を詰めた『名無し』は青年の持つ剣を弾き上げ、喉元へと聖剣を突きつける。

 

「ノーチラス……いや、今はエイジだったな? 一緒に来てもらう。抵抗しないと約束できるなら、傷つけることはない」

 

「……UNKNOWN!」

 

「悪くない反応だったよ。剣は弾き飛ばすつもりだった。でも、咄嗟に手首を利かして受け流そうとしたよな。だけど、聖剣の重さまでは計算に入れきれなかった。コイツは見た目以上に重たいんだ」

 

「ぐっ……!」

 

 顔を歪めるエイジの喉元から聖剣の切っ先を離すつもりはない。まずは武装解除が先だ。エイジに無言で剣を手放すように迫るが、彼は実行する気はないらしく、まだ反撃を諦めていないようだった。

 

「きゃ……!? な、なにこれ!?」

 

「ユナ!?」

 

「動くな。彼女にも危害は加えない。捕獲用ネットだよ。お前を捕まえる為に準備したんだ。ダメージはない」

 

 あの少女はユナというのか。NPCカーソルが頭上にあることから、エイジが今まさに起きているイベントに何らかの関与をしていることを『名無し』は決定づける。

 少女は捕獲用ネットで捕らわれており、傍でシリカが見張っている。武装している様子こそないが、NPCともなれば、どんな能力を秘めているか分からない。

 

「武装解除しろ」

 

「武器を捨てて……どうしろ、と? 僕から『戦う手段』を奪って、何をしろと!? 生殺与奪の権利を握ったつもりか!?」

 

「ああ、そうだ。もう分かってるはずだ。この剣を少しでも押し込めば、キミの喉は裂ける。即死はしないだろうが、反抗するなら俺も剣を止めるつもりはない。この状況が出来た時点で、キミは俺に『負けた』んだ」

 

 忍びないが、まずは心を折る。エイジから余計な反抗心を削ぎ落さなければならず、『名無し』はわざと強い言葉を使う。

 

「詫びるつもりはない。俺もお前が持っている機密情報に用があるだけだ。それさえ手に入れたら、身柄の安全は――」

 

「僕は機密なんて盗んでいない!」

 

 怒りを滲ませて眉間に皺を寄せたエイジの反論に、『名無し』は黙り込む。

 

「もううんざりだ! 僕はお前たちが欲しがっている情報なんか持っていない! どうしてだ!? どうして、これからやっとって時に……!」

 

 今回の機密争奪戦には、クラウドアースがユージーンのみならず、多くの追手を放っている。この事からも信憑性は高い。

 その一方で、エイジはもはや詰みと呼ぶしかない場面でありながら、機密を取引材料には使わず、自身の無罪を訴えている。

 もしかしたら、エイジも意図しない形で機密情報を入手してしまったのか。あるいは、そもそもとしてエイジ自身が冤罪をかけられているのか。そのどちらかではないだろうかと『名無し』は思案する。

 その一方で、エイジの双眸で澱む暗い感情は決して安易に彼の発言を信じるべきではないと『名無し』に警告している。それは、かつて『名無し』も持ち、今も消しきれない負の感情の塊だ。そして、それはかつての自分よりもどろりと重く濁っているようにも思えた。

 

「真偽を確かめるのは俺じゃない。お前はもうサインズ傭兵登録も抹消されている。逃げ場は何処にもない。諦めるんだ」

 

「傭兵登録がもう抹消を? ははは……ははははは! 手際が随分といいですね!」

 

「そうだな。同情するよ」

 

 たとえ、ペイラーの記憶でエイジがどんな目的を為し遂げたところで、帰るべき場所はなく、永遠に大ギルドから追われ続ける日々だけが待っている。それは彼自身もよく理解しているはずだ。

 機密情報を盗んだ真偽など関係なく、大ギルドの指先1つでプレイヤーの……人間の人生が変わる。後ろ盾が何もない彼には、守ってくれる組織がいない。そして、ランク無しである彼をわざわざ庇おうとする勢力もない。

 

「もう1度言う。武装解除しろ。キミの『負け』だ」

 

 エイジがだらりと腕を垂らし、ゆっくりと指を剣から外していく。やっと折れてくれたかと『名無し』は安堵の吐息を堪える。

 

 

 

「そんなことない! エイジはまだ負けていない!」

 

 

 

 

 だが、捕獲用ネットの重さで地面に押さえつけられているNPCの少女が叫ぶ。

 

「私を守ってくれるんでしょ!? 歌わせてくれるんでしょ!? そうだよね、エイジ!? まだ諦めてないよね!?」

 

 エイジの瞳が震える。剣を捨てようとしていた右手の指に力が入り始める。

 仕方ない。不本意ではあるが、利き腕だろう右腕を奪う。『名無し』がそう決意すると同時に血飛沫が舞う。

 

「……なっ!?」

 

 だが、エイジが自ら1歩踏み出し、聖剣で喉を突き刺す。刃は喉の皮と肉を破って血飛沫を上げ、エイジのHPが急速に減少する。

 決死の反撃の1歩。『名無し』は無謀と評価する。先の攻防とも呼べぬ一瞬のやり取りで互いの実力差は明確に感じ取ったはずだ。天地が引っ繰り返ってもエイジに勝ち目はない。

 踏み込みからの斬り上げ。それを手首を斬断して防ぐ! 即座にエイジの次なる攻撃を予測した『名無し』であるが、意外にもエイジの判断は攻撃ではなく反転。だが、盛大に噴き出した血は『名無し』の仮面に吹きかかり、視界を赤く染めて塞ぐ。

 自分の血を用いた目潰し! シンプルではあるが、効果はある。だが、せいぜい一瞬だけだ。『名無し』は剣を構え、スローネの雷を迸らせる。エイジは捕獲ネットで捕らわれた少女へと、そして傍らで控えるシリカへと突撃している。

 覚悟は認める。だが、ここまでだ。たとえ、少女を助け出したところで『名無し』からは逃げられない。そもそもたどり着くより先に『名無し』は彼を斬り伏せることができる。

 予定通り、右腕ごと剣を奪う! スローネの雷光と共に『名無し』が駆けた時だった。

 

 

 

 

 闇。

 

 

 

 

 かつて、炎に満ちた廃坑都市で見た、忘れる事がない闇。

 

 

 

 

 

 SAOも含めて、システムアシストを駆使してゲームシステムと一体化しているとさえも感じた魔王ヒースクリフさえも霞む程に、まさしく『最強』と呼ぶに相応しかった闇。

 

 

 

 

 

 

 既に赤く、赤く、赤く、血の赤色で濡れた大剣を携えた黒騎士が闇と共に、NPCの少女とシリカの背後に現れる。

 

 

 

 

 

 

 繰り出される斬撃は、シリカを通じてNPCの少女を真っ直ぐと狙う。まるで反応できていないシリカと少女は、背後の闇濡れの騎士に気づいてさえもいない。

 

 

 

 

 

 

 間に合わない! そう思われた時、エイジの投げた剣が闇濡れの騎士の回避行動に繋がって斬撃を僅かに遅れさせる。その刹那は『名無し』が闇濡れの大剣を交差させた2本の剣で受け止める事を許す!

 忘れることがない重い斬撃! 自分が剣士として完敗した最強の存在! 奥歯を噛んで闇濡れの刃を押し返せば、黒騎士は闇に溶けて消える。

 だが、追いつく。『名無し』の人類最高峰の反応速度は、アルヴヘイムでリミッター解除したアドヴァンスド・ナーヴギアと激戦によって更に高まっている。それだけではなく、剣士として研ぎ澄まされた戦闘感覚が導くように、NPCの少女を狙った斬撃を繰り出す黒騎士の迎撃に繋がる。

 だが、不発。刃が届くより先に瞬間移動されて距離を取られる。

 

「よう、久しぶりだな。リベンジ……とは、いかないよな?」

 

 知り得る中で最強のネームド、裏切りの騎士ランスロットがそこにいる。闇濡れの大剣を肩で担ぎ、本来の色を失う程に闇の黒で塗り潰された甲冑を纏った騎士は、狼をモチーフにしたフルフェイス兜……狼の双眸の如き覗き穴から眼光の如き黄金の光を靡かせる。

 軽量性に特化された、全身に密着するようなスタイリッシュさが際立つフルアーマー。深淵の怪物を葬るに相応しい長く分厚い大剣。そして、霧の如く纏う闇。

 いずれも忘れることがないランスロットの外見そのものだ。

 だが、本物ではない。

 本物のランスロットにはあった、自我を有するからこそ発せられる威圧感が無い。あるのは、『生きていないAI』特有の機械的な殺意だけだ。

 コピーがオリジナルの戦闘能力に比例するならば、ランスロットのコピーともなれば他のコピー・ネームドとは比べ物にもならない脅威だ。作成されるオペレーションも、彼の多彩な剣技・戦術をそのまま用いるならば、パターン化までの道のりは険しい。

 だが、本物ではない。本物のランスロットではないならば、『名無し』は尚更負けることは許されない。

 

「ターゲットが逃げます! どうしますか!? 私が――」

 

「後で構わない。接触したなら俺達の≪追跡≫で確実に探し出せる。それよりも……離れてくれ。ゆっくりと、前後左右上下……全てを警戒しながら、ゆっくりと下がるんだ。ピナの防護壁を張り続けながら、ゆっくりだ!」

 

「でも!」

 

「シリカ! 頼む!」

 

 シリカは知らない。ランスロットがどれ程の脅威だったのか語り聞かせているが、実際に対峙していないからこそ、どうしても甘く見積もっている。

 自惚れでもなく、『名無し』は自分がDBOプレイヤーでも最上位にある1人だと自覚している。決して少なくない数のネームドを破り、また単独撃破も成し遂げた。【竜砕き】のスローネという恐るべき強敵も聖剣と共に倒し、数多の犠牲と仲間の助けを借りて妖精神を下した。

 そんな彼からしても、およそ規格外。どれだけ戦術・戦略を立てても、未だに倒せるビジョンが浮かばない『最強の敵』こそがランスロットだった。

 喉から血を垂らしながら、捕獲用ネットを剥いてNPCの少女を連れ去るエイジを追うのは後回しだ。彼の捕獲を優先できる程に、たとえコピーでも眼前のネームドは生易しい存在ではない。

 そして、同じくシリカではランスロットの瞬間移動に対処しきれない。近接戦闘において凶悪に機能するランスロットの瞬間移動からは、およそ仲間を守ることなど出来ない。ファーストアタックを防げたのは、偶然にもエイジを捕らえる為に動いた延長線上にランスロットが出現し、なおかつエイジが剣を投げつけて攻撃を遅れさせてくれたからだ。そうでもなければ、廃坑都市と同じく、シリカは闇濡れの大剣の餌食となっていただろう。最悪の場合、無警戒状態と背後攻撃、そしてクリティカル部位への命中も合わされば、即死もあり得たかもしれない。

 奇跡が重なったお陰でシリカは助かった。たとえ、『生きていないAI』であるとしても、その脅威度は並の『生きているAI』以上であることは明白だ。

 右手で構えた大剣に左手を這わせ、ランスロットは『名無し』へと斬りかかる。それは廃坑都市で味わった、正統派の騎士剣技である。

 これまで頭の中で何度もイメージした。再びランスロットと戦う機会が与えられたならば、どうやって彼を打倒すればいいのか? どれだけ頭の中で彼と戦っても、およそ底が見れなかった闇濡れの騎士を撃破するイメージにはたどり着けなかった。

 コピーとして与えらえたHPバーは1本。ランスロットの全てを見る事は出来ない。それどころか『命がないAI』相手にたとえ勝ったところで、ランスロットを超えた事にはならない。

 それでも過去に区切りをつけることができる。ランスロットの炎のように変幻自在の剣技を見事に捌き、瞬間移動で背後を取られると同時に反転して左手の剣で斬撃を受け流す。

 大技を狙ってはならない。その隙にランスロットは斬り込んで来る。だが、それは本物のランスロットならばの話だ。瞬間移動をして距離を取った闇濡れの騎士が左手に溜めた黒炎をメテオにして解き放つが、『名無し』は十分に余裕を持って避けるどころか、逆に月蝕光波を放つ。それをランスロットは瞬間移動で躱し、『名無し』に接近するも、それを待っていた彼の斬撃が胴を捉える。

 白い塵が血のように散り、ランスロットのHPが減る。本物ならば、こんなにもあっさり斬れるはずがないと『名無し』は叫びたくなる。

 

「アンタは……本当に強かったよ。俺が知る中で間違いなく最強だった」

 

 だが、もはや苦々しい思い出の中にしか本物のランスロットはいない。

 ランスロット自体の耐久面は、人型ネームドでも下位だ。だが、彼は『生きているAI』だからこその柔軟性に富んだ対応力から繰り出される剣技・体術・瞬間移動の組み合わせで、『名無し』とシノンとロズウィックの3人がかりでもかすり傷さえも与える事を許さなかった。

 あの頃に比べれば『名無し』は強くなっているだろう。だが、それでもこんなにも簡単に斬らせてくれなかったはずだ。それが真贋の差を大きく示す。

 ランスロットが大剣を掲げる。一撃を与えたからか、新たに黒雷を発生させ、刀身に帯びさせる。こんな能力を持っていたのかと思った矢先に、闇濡れの騎士を更なる闇が纏う。

 それは『名無し』も初見となるが、1部の深淵系ネームドが使うという深淵纏いだろう。大幅にステータスを上昇させる自己強化能力である。

 やはり、廃坑都市ではまるでランスロットの本気を引き出せていなかった。『名無し』は、たとえ『命のないAI』だとしても、ここからが本番だと構え直す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「我ガ……忠義ニ……終ワリハ……ナイ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、途端に背筋まで凍るのは、言い知れない悪寒を浴びたからだ。

 左手を震わせ、もがくように体を捩じり、兜から漏れる黄金の光を強く溢れさせ、そこに微かではあるが『自意識』と呼べるものがランスロットに現れる。

 

 

 

 その男、アルヴヘイム最強。

 

 

 

 一騎当千の古き深淵狩りであり、闇に染まった裏切者。

 

 

 

 そして、『名無し』は知る由などはないが、己の聖剣を見出した稀有なる到達者。

 

 

 

 

 宿っているはずがなかった自我。また朧ながらも、確かに片鱗を見せたランスロットは、僅かではあるが生の脈動を得た構えを取る。

 もはや先程までのようにはいかない。『名無し』は覚悟を改めて、だが武人としての戦いの歓びと共に、応対するべく構える。

 

 そして、月下で闇濡れの騎士と黒衣の剣士の刃は交わった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 不運か、あるいは必然か。2つ目の楽譜を手に入れたはいいが、よもや追手に【聖剣の英雄】まで来ているとは思いもよらなかった。

 本当ならば、あの教育施設でエイジとユナは、儀式について調べ物をする予定だった。だが、研究棟の最上階にはロックがかかっており、鍵とパスワードを探す為に施設内を巡らねばならなかった。

 ユナから得られる情報だけでは不足が生じていた。だからこそ、手掛かりを欲した。だが、想定していたよりも広範囲でコピー・ネームドの探知に引っかかり、楽譜入手の為の戦闘を強いられる事になった。

 知ってはいたが、戦闘経験も足りないドラゴン系である湖獣との戦い。劣勢であり、ゲオルグとはまた違った戦い方が求められた。

 必要なのは徹底した回避技術か、攻撃に耐えうる堅牢なガードである。そして、ドラゴン系の常であるガード効果を持つ鱗を貫く為の火力、あるいは鱗を焦がして剥ぐ為の雷属性攻撃も、せいぜいがプラズマ手榴弾くらいしかなかった。

 だが、エイジが狙ったのは撃破ではなく、ユナが狙われないようにヘイトを稼ぐことだった。楽譜さえ手に入れられたならば、後は脇目も振らずに逃げれば良かったのだ。ゲオルグ戦から、ユナの歌にはモンスターのヘイトを集める効果があるとエイジは予測していた。それは正しく本物のユナの死因であり、だからこそエイジは徹底してコピー・ネームドのヘイトを稼ぐことに専念した。

 歌がもたらす以上のヘイトを稼ぐ。その為に出来ることは、効果が無くとも反撃し続け、無謀と分かっていてもガードして堪えることだ。天秤が僅かでもユナの方に傾けば、湖獣の苛烈な攻撃が彼女に喰らい付くのだ。

 自分の命を削るギリギリの、だが一切の勝機がない戦い。それしかエイジに出来ることはなかった。

 しかし、乱入したUNKNOWNは、驚くほどに呆気なく湖獣を倒した。

 聖剣と≪二刀流≫による絶大な火力のみならず、それらを遺憾なく発揮する本人の培われた剣術。SAOを完全攻略に導いた英雄にして、竜の神やアルヴヘイム攻略といった伝説をDBOでも刻み続ける黒衣の剣士の戦闘能力の高さは、エイジの想像を遥かに上回っていた。

 レギオンの助力がありながら情けない戦いしか出来ない己と聖剣の主となった二刀流の英雄。そこにどれだけの差があったのか、考えるまでもない事だった。

 

(もっと、もっと逃げないと……! アイツには『勝てない』!)

 

 そして、もっと恐ろしいのは、ユナを狙って現れた闇濡れの騎士だった。

 名称からしてコピー・ネームドなのは間違いない。だが、それでもなお強大と言わざるを得ない、オリジナルはどれ程のものなのかイメージを描くこともできない、高い戦闘能力を感じ取ったエイジは、ダーインスレイヴの補助を借りても瞬く間にFNCを発症しそうになった。

 そして、同じくダーインスレイヴが全力で『警告』を発した。『逃げろ』と身も蓋もない程に警鐘を鳴らした。

 だが、逃げるわけにはいかなかった。あのままでは、ユナが闇濡れの騎士に殺されるのは明らかだった。

 FNCが足を止めようとして、抗う為のダーインスレイヴは逃げることを推奨する。エイジがあの時、確かに『前』に動くことが出来た理由は分からない。だが、前へ、前へ、前へと踏み出す為に邪剣との繋がりを強めたお陰か、『ユナを助けて逃げる』という形で動くことを叶えた。

 ダーインスレイヴを補助とするだけではなく、自分の意思を上乗せして1つとなる。それこそが、スレイヴの提示した、邪剣を用いた真なるFNCの克服だと理解した。

 だが、何事にも段階と限界というものがある。レギオンプログラムが『人間』にとってどれだけ有害であるかは言うまでもない事だった。それは言うなれば、精神を蝕む猛毒である。スレイヴは出来損ないのレギオンと自称し、だからこそ毒も薄まってもなお劇薬ではあるが、それでも『薬』としてエイジのFNC克服の一助とすることを選んだ。

 少しずつ、少しずつ、少しずつ、ダーインスレイヴとのリンクを深めていかなければならない。段階を踏んで馴染ませる必要があるのは当然だ。

 そして、薬も過ぎれば毒となる。ダーインスレイヴとのリンクが長期化し、また大ギルドを敵に回し、ダンジョンに単身で潜り、更にはネームドという強敵との連戦は、確実に精神を疲弊させていた。そのような状態で邪剣と繋がりを深めればどうなるかは言うまでもない。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 頭の中を、頭蓋の内を、精神の髄を、魂の根源を、まるで喰い荒らすかのような蜘蛛の足音が聞こえる。

  闇濡れの騎士に投げつけて、今は手元にないダーインスレイヴの脈動を感じる。それは言い知れない痛みを発し、右腕を駆けあがって右目を爛れさせるように焦がす。それは精神のもたらす苦痛であり、故に何にも勝る恐怖の痛みだ。

 自己防衛意識がダーインスレイヴとの繋がりを断とうとする。だが、1度切断すれば、エイジはもう動けなくなるという確信があった。

 このままでは、『エイジ』という自我はいずれダーインスレイヴに『喰われる』という自嘲にもならない嗤いが漏れる。それでも、邪剣以外にエイジを戦わせる術はない。

 

(意識が……まずい……ユナを……少しでも遠くに……)

 

 あのネームドは危険過ぎる。瞬間移動能力持ちが追跡者となった場合、まず逃げ切れない。UNKNOWNが戦闘中に索敵範囲外に脱しなければ、ユナの死は確定することになる。

 だが、意識がもうろうとしたエイジの足は縺れて倒れる。気づけば、裂けた喉はまだ治癒しておらず、多量の血が溢れ出ていた。止まらぬ流血のスリップダメージは、知らず間にエイジのHPを大幅に削っている。

 朦朧とする意識の中で、エイジは己の心に鞭を打つ。

 もっと憎しみを滾らせろ。もっと憎しみを燃やせ! 呪え! 呪え! 呪え! この世の理不尽を……何よりも己の脆弱さと情けなさを憎め!

 前に。前に。前に! みっともなくても、情けなくても、嘲われようとも、這って、這って、這って前に!

 震える右腕を……右手を前に突き出す。だが、触れたのは固い地面ではなく、柔らかな人肌だった。

 この温もりをエイジは知っている。

 もう失ってしまった、憎しみで汚しきってしまった、大切な人と同じ温もりだ。

 

 聞こえる。

 

 歌が聞こえる。

 

 ああ、そこにいるのか? 憎悪ばかりが沈殿した心の底に差し込む光に誘われるように、エイジの唇は震えながら動く。

 

「ゆ……な……」

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「エイジ!? しっかりして! どうしよう……喉の血が止まらないよ!?」

 

 酷い傷口だ。溢れ出る多量の血がエイジの喉から下を真っ赤に染め上げている。

 慌てふためくユナは、エイジから渡された治療道具を思い出す。回復薬や傷口を塞ぐ包帯などだ。エイジが戦っている最中に傷ついた場合、自分で使うようにと渡されたものである。

 その時、ユナは頬を膨らませて、エイジが守ってくれるのではないのかと文句を言った。だが、彼は出会った時から変わらない仏頂面のまま、使い方と効果を詳しく教えてくれた。

 もっと真面目に聞いていればよかった! 後悔するユナは、自分に冷静になるように訴えかけ、まずは傷口を塞ぐための包帯を手に取る。だが、肝心のエイジは震える手を伸ばして、這ってでも前に進もうとしている。

 

「動かないで! 今すぐ治療するから! そしたら、すぐに元気になるよ! エイジから貰った薬、凄いもん! 私の足だってトカゲみたいに生やしたんだから! だから、少しだけでいいから動かないで!」

 

 だが、声が聞こえていないのか。エイジの動きは止まらない。

 私のせいだ。ユナは後悔して歯を食いしばる。

 エイジは守ってくれる。とても弱いけど、自分を必ず守ってくれる。だから、黒衣の剣士を前に降伏しようとした彼を激励した。

 エイジは応えてくれた。自らの喉を裂いてでも駆け付けてくれた。

 嬉しかった。嬉しいはずなのに、自分を殺したくなるほどに後悔した。

 血で真っ赤に染まりながら、自分の手を引いて走るエイジは、まるで油を浸した蝋燭のように、命の残量を燃やし尽くそうとしているような危うさがあった。

 心の何処かで分かっていたはずなのに。ユナはエイジの血で真っ赤に染まった己の両手に涙を混ぜる。

 

「お願い、止まって」

 

 泣きながらユナはエイジの伸ばされた右手に触れる。今だけは止まって欲しいと願いを込める。

 

『キミは儀式に不可欠なソウルの憑代だ。キミがやるべき事は1つ、3つの楽譜を集めて灯台で歌うんだ』

 

 ユナは『何者』でもない。ソウルの憑代だ。ペイラーから与えられた知識は、儀式の為に必要な楽譜の収集と灯台で歌うことだけだ。

 過去もなく、自分が『何者』である必要もない。ただ1つ……『歌う』ということだけが狂おしいまでに欲求として胸に……いいや、喉に宿っていた。

 だから、ユナは歌う。歌うことしか知らず、また出来ないと知っているからだ。

 囁くような小さな歌声。嗚咽で歪んだ歌は、だがエイジの体をゆっくりと弛緩させて動きを止める。

 

「ゆ……な……」

 

「ここにいるよ、エイジ」

 

「こん、ど……こそ……キミを……」

 

「…………」

 

 ユナ。名前の無かったソウルの憑代だった自分をそう呼んだ青年に、ユナは苦悩を込めて感謝する。

 彼が呼ぶ『ユナ』はきっと自分ではない。自分に重ねた別の誰かだ。だからこそ、エイジは必死に守ってくれようとしているのだとユナは改めて自覚する。

 

「まずは血を止めないと」

 

 ユナは包帯を使ってエイジの傷口を覆う。包帯はじわじわと赤く染まってこそいるが、流血は穏やかになる。ユナは改めてエイジの上半身を抱えながらゆっくりと薬を口に含ませていく。零さないように、少しずつ流していく。

 不思議な程にエイジの抵抗はなかった。まだ意識を失ってこそいないが、正常とは言い難いのだろう。まるで『別の誰か』をユナに重ねているように、震える右手が彼女の頬に触れる。

 

「ご……めん。い、つも……守れ……なくて。いつも……キミの……邪魔……ばかり……僕さえ……いな、ければ……キミは……」

 

「…………」

 

「ユナ……【悠那】……ごめんな。僕が……僕が……あの時、死ぬ……べき、だったのに。キミが……生きる、べき……だった、のに」

 

「…………」

 

 そんなことないよ。そう言ってあげるのは簡単だ。だが、ユナは『ユナ』ではない。故に喉は引き攣って何も言葉を発することは出来ない。

 

「必ず……叶える、から。キミの……願い……歌を……皆に……」

 

 ああ、ようやく分かった。

 エイジが必死になって自分を守ってくれる理由がやっと分かった。

 

「歌うよ。私……必ず歌うよ。だから安心して」

 

 哀しい人。ユナは自分の頬に触れるエイジの右手に自分の手を重ねて撫でる。

 この人は自分を呪い続けている。自分が憎くて、憎くて、憎くて堪らないのだ。憎み過ぎて、自分が救われることさえも望めなくなっているのだ。だからこそ、立ち上がることさえ出来ずとも、這ってでも前に進もうとするのだ。

 ユナはエイジの肩を担ぎ、体格差に1度膝をつきながら、奮起して立ち上がると歩き始める。

 あとは回復を待つだけだ。ユナは振り返り、闇濡れの騎士と黒衣の剣士が激突しているだろう貯水槽を見つめる。戦闘音はまだ続いており、どちらも2人を追いかけて来るにはまだ時間がかかるだろうと予想できた。

 2人が教育施設に侵入できたのは、物資搬入トラックを使ったからだ。エイジが機転を利かし、赤色火薬をトラックの進路上で炸裂させ、その間に荷台に入り込んだのである。脱出する際には、エイジにはまた別の策があったようだが、ユナは聞かせてもらっていなかった。

 エイジ無しで正面玄関から逃げることは出来ない。ならば、何処かに身を隠すべきだろうか? 逃げ惑う研究員や学生に紛れれば、上手くいくかもしれない。

 安直かもしれないが、何も行動しないのは論外だ。だが、エイジを支えきれずに転げたユナは顔面から地面を打つ。

 それと同時に教育機関の唯一の出入口……正面玄関で爆音が轟く。衝撃波はユナの全身を揺るがし、土煙の中で迸る橙色の輝きは、何処となく黒衣の剣士が操る漆黒の刃に似ているような気がした。

 正面玄関を守っていた警備を文字通り吹き飛ばし、土煙の中から現れたのは、全身甲冑の騎士だった。

 雄々しき鎧を身に纏い、身の丈もある橙色の輝きを浸した大剣を肩に担いだ騎士は、狼と思われる意匠のフルフェイスの兜を鳴らす。獣の双眸を思わす覗き穴から睨む眼は、それだけでユナの全身に金縛りをかけるかのような闘志に満ちていた。

 デザイン全般こそ違うが、モチーフにされたのは同じく狼だろう甲冑を纏った闇濡れの騎士と類似点がある。ユナはごくりと生唾を呑む。戦いに関して知識も経験も少ないが、嫌でも理解するしかない絶対強者がそこにいた。

 

「感じる……感じるぞ! 共鳴してやがる! 聖剣の持ち主はこの先か。手間取らせやがって。この都市はどうなってやがるんだ? どれだけ雑魚が群れてもこの俺様に勝てるわけねぇだろうが!」

 

 苛立った様子の騎士は、自分に襲い掛かる警備ロボットの群れを、文字通りの大剣の一閃で纏めて砕け散らす。原形を残さぬロボット達に目もくれず、騎士はユナ達に……正確に言えば、その直線上にある闇濡れの騎士と黒衣の剣士の戦場へと向かって歩き出す。

 

「それにこの気配……ランスロットか? いや、似てるっつーか……薄い? まるでワイン1滴を樽いっぱいの水で薄めたみたいな……だが、少しずつ濃くなってやがる。気持ち悪いぜ。あの女に死んだって聞かされていたが、どういうことだ? まぁいい。聖剣の持ち主ごとぶっ潰してやる」

 

 だが、そうなれば嫌でもユナと目が合うというものである。騎士は立ち止まると、いっそ清々しい程に下心を全身から溢れさせて片膝をつく。

 

「これはこれは、可愛らしいお嬢さん! 何かお困りかな? よろしければ、お手をお貸ししますが? ああ、お構いなく! 始祖アルトリウスの後継たるこの俺は、いつだって淑女と美女の味方ですよ……って、野郎付きか。俺って寝取り趣味はないんだよねぇ」

 

 ユナが担ぐエイジを見て、騎士は露骨にやる気を無くしたようであるが、前言撤回する様子はないらしく、立ち上がると大剣をその場に突き立てる。

 

「た、助けて! エイジが死にそうなの! 傷は塞いだし、薬も飲ませたけど、元気にならなくて……!」

 

「ちょっと見せてみろ。これは……深淵の病に似てやがるな。だが、闇に侵されているわけじゃねぇみたいだ。右目の瞳の輪郭が少し蕩けて崩れてやがる。どうなってやがるんだ?」

 

 言われてみれば確かに、エイジの右目の瞳は異変を起こしていた。エイジの虚ろな眼は、内に巣食う何かを示すように、右目の瞳を蕩けて崩れさせ始めている。

 

「とりあえず意識を保たせろ。深淵の病と同じなら、心が弱ってる内に寝たら呑まれるぞ」

 

「エイジ! 寝ちゃ駄目だからね! 絶対にダメだからね!?」

 

「う……あ?」

 

「よーし、その意気だ。とりあえず、声をかけまくって眠らないように気張らせろ。あと、ここは……少し騒がしいな。静かな場所に行くぞ。治療はできねぇが、ちょっとくらいなら症状を抑えられる心当たりがある。ハァ、こういう時に根暗タンがいればなぁ。アイツ、薬学とか医学とかに詳しかったからな」

 

 ユナからエイジを奪うと筋力の差を示すように、彼の体を軽々と左肩に担いだ騎士は、右手だけで大剣を振るう。

 

「邪魔だ」

 

 何の変哲もなく思えた縦の一閃。だが、橙色の粒子が大地を駆け抜けて亀裂を起こし、地割れの如き轟音と共にマグマが噴出するように橙色の輝きを解き放つ。それだけで騎士の進路を阻害していた全ての敵は文字通りの塵芥へと変じる。

 あの黒衣の剣士とは比較にならない程の火力の強大さだ。だが、何よりもユナを驚かせたのは、エイジでは天地が引っ繰り返ってもできないほどの破壊力を見せつけた騎士は、この程度など攻撃の内にも入らない様子だったことだ。

 

「ねぇ、いいの? あの先に用があったんだよね?」

 

 助けてもらうのは嬉しいが、この騎士には別の用事があったはずだ。ユナの質問に、騎士は馬鹿々々しいと鼻を鳴らす。

 

「この俺に、始祖アルトリウスの名の下にした宣言を曲げろと? ふざけるなよ。コイツの応急処置くらいはしないと誓いを果たしたことにはならねぇ。この俺様が始祖アルトリウスの名で立てた誓いを曲げることは許されない。絶対にな。それに、もう俺の聖剣と共鳴したんだ。何処に隠れようとも場所はすぐに分かる」

 

 自信満々の騎士は大剣を淡く輝かせると、宣誓するように黒い雷が駆け巡る戦場へと切っ先を向ける。

 

「せいぜい生き残るんだな。ランスロちゃんは強いぜ?」

 

 騎士に連れられ、ユナは死地を脱する。

 必ず歌う。歌ってみせる。ユナは決意を改めて、敵を等しく消し飛ばす騎士の後に続いた。




夢で目覚めて夢で眠る。幼き夢はまだ醒めない。

聖剣を巡る因果がもたらすのは、月蝕か、欠月か、それとも反逆の刃か。

爪牙が足りぬ愚者よ、獣血を恐れたまえ。

虚ろの歌姫よ、汝の使命を忘れることなかれ。




それでは、325話でまた会いましょう!

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