アルヴヘイム編……完!
新エピソードの前に、砂糖たっぷりの甘々ストーリーをどうぞ。
大祭と称される九塚村の祭事。それは例年とは異なる大規模なものである。
まずは祭りの始まりを告げる『礼祭』。次に前夜祭となる『月前祭』。そして、最後が『本祭』だ。
祭儀としてのメインは無論であるが本祭であり、また大祭であっても例年と流れはそこまで変化はない。
では、何が違うのか。まず1つ目は参加人数だ。大祭では本家である久藤、分家である紫藤と草部の血縁が結集する。
それぞれの家には当主筋と側縁の2つに分けられる。当主筋とはその名の通り、それぞれの家の当主になる資格を有した者たちだ。対して側縁とは当主筋から外れた血縁者である。側縁は現在13家が数えられる。
「……あたしには場違い過ぎる」
リズベットは分厚いファイルに纏められた血脈……即ち家系図を前にして頭を抱える。
「そこまで難しく考えなくて良いのよ。私たちにとって『血』を広くばら撒くことは災いを招くからこうして血縁者を管理しているだけで、リズベットちゃんの家もしっかりと整理してみたら同じくらいに複雑なのだから」
「それは分かってるんですけど、こうして情報として目にすると頭が痛くなって……」
リズベットが苦しむのは至極当然だ。100名を超える本家・分家・側縁の親族が名を連ねて参じる大祭には、更に彼らの数を上回る小間使いもまた忙しなく動く。
「分家や側縁の役目は、より優れた『血』を輩出して本家に迎えさせることが1つ。もう1つは『血』の断絶を防ぐことにあるわ」
「仮に本家が途絶えたら分家が、本家も分家も途絶えたら側縁が引き継ぐってことですよね? だから、側縁は日本中に散らばっている」
「そういうこと。でも、大事なのは『血』の濃さよ。私は紫藤でも傍系だったけど、こうして本家に迎えられた。より濃く、より優れた『血』を本家に据えているだけなのよ」
そして、『血』を失った者は血脈から外れる。彼らはヤツメ様についても狩人についても何も学ぶこともなく、教えられることもなく、『血』に縛られない人生を送る。彼らの大半は久藤の盟約の手引きによって己のルーツを知らない普通の人生を送る。
それは幸せなことなのかどうかは捉え方次第だろう。だが、今の日本において、自分の先祖について詳しく知ろうとする興味と行動力と気力の3拍子を有した者がどれだけいるだろうか。ただでさえ日々の生活で気力を削がれる中で、わざわざ自分のルーツを知ることに価値を見出さない人間も多いはずだ。
「本家・分家・側縁問わずに、私たちは優れた血をどんどん外から取り入れるわ。そうして筋肉・神経・骨格・抗体を重んじる現当主の方針で、最近は日本に限らず、海外からも血を取り入れることになったのよ。灯も国際結婚することになって、これからは『血』の管理もグローバル化しないといけないのだけど、海外には海外で私たちのような『血族』が少なからずいるから、縄張り争いみたいなことが起きているらしいわ」
「……海外にも久藤家の皆さんみたいな人たちがいるんですか?」
「血族とは世間一般からすれば『異常』とされる家系のこと。私たちが『狩人』の血族ならば、『騎士』と称する血族もいる。でも、昔に比べれば随分と減ってしまったそうよ。迫害、粛清、そして自ら選んだ断絶。そうして廃れた血族は多いわ」
人の世に揉まれて途絶えるならば自然淘汰ね、と冷淡とも呼べる発言をする光莉は口にする。
「久藤も大変だったそうよ。この『血』を狙った輩は今も昔も後を絶たず、また恐れて根絶やしにしようと目論む者もいたわ。でも、こうして私たちが今ここに生きていることこそが苛烈な生存競争に勝った証といったところかしら。でも、敗戦した時はさすがに大変だったらしくて、本当に『色々』とあったそうよ」
うふふふ、と笑顔の裏で久藤には血塗れの歴史を物語る光莉に、自分が立ち入るにはまだまだ早過ぎる過去があるのだとリズベットは『納得』することこそが最良と判断する。
「存外、リズベットちゃんもそうして廃れた血族の末裔かもしれないわよ」
「え!? じょ、冗談ですよね?」
「さぁ、どうかしら。リズベットちゃんはご両親の家系を余さず把握しているかしら? いかなる歴史をたどったのか学んだのかしら?」
「……いいえ」
「だったら、確率はゼロじゃないわ。もしかしたら、リズベットちゃんの祖先は遠い異国の王族かもしれないわね。だけど、仮にそうだとしても血が薄れて失ってしまったリズベットちゃんが血脈に縛られることはないし、必要もない。血脈にはいつだって濃度と語り部が必要なのよ」
ロマンチックだ。自分がもしかしたら異国から逃げてきた王族の末裔かもしれないのだ。だが、光莉の言う通り血脈を証明するのは綴られた文献だ。身も蓋もない話をすれば、DNAでも遡れるのかもしれないが、光莉が言いたいことはそんな無粋な事柄ではない。
「でも、昔に比べれば本当に血族は少なくなったらしいわ。これも時代の流れ。言い方を変えれば自然淘汰ね」
「浪漫が無くて寂しいですね。日本には他に血族の方々は残っていないんですか?」
「そうね、日本の明治時代、あちらの清王朝の頃にね、大陸から渡って来た血族がいたの。かなり苛烈な方々だったらしくて、当時の日本の血族は久藤を除いて滅ぼされたそうよ。彼らは暗殺を生業とする血族だったらしいけど、粛清を逃れて日本での再興を目指していたらしいわ。久藤も狙われたけど、逆に相手の主だった血筋を女子供の例外もなく狩り尽くした。辛うじて傍系だけが生き延びたとされているけど、彼らの足取りは完全に途絶えたわ。仮に今も生き残っていたとしても、もう血族としての意識もなく廃れているでしょうね」
どんな話を聞いても血生臭さしかしない。顔を顰めるリズベットであるが、不意に背後から聞こえた咳払いに振り返る。
そこには何とも表現し難い顔をした光輝が立っていた。彼がここにいるのは別に不思議ではない。リズベットが久藤の歴史講座を聞いているのは、久藤家の普段使いの家のリビングだからだ。
体調も回復し、ゲームのダンジョン級の複雑構造をした大屋敷から離れ、普段使いの2階建ての日本家屋に移ったリズベットは、先日の1件もあってか、より身内として接してくれる光莉から久藤の血筋と歴史について教えてもらっていた。
「リズベットちゃんにそういう話をしないでくれ」
「あたしがお願いしたのよ。言ったでしょ? 光輝さんが教えたくないなら、自力で調べるって」
母親を責める光輝にリズベットが一睨みすれば、彼は多くの感情が籠った溜め息を吐く。
無論、リズベットも光輝の気持ちは重々把握している。光莉に教えてもらった久藤家の歴史は、掻い摘んだ範囲でも、およそ正気の外にあることばかりだ。1度開けば、もう戻れなくなる事柄ばかりだ。
以前のリズベットならば、聞けば慄いて発狂の如く頭から拒絶していた事柄ばかりだ。だが、覚悟を決めた女の意思は鋼という表現すらも生温いのだ。
「それに面白いじゃない。血族同士の対決なんて、裏歴史って感じの浪漫がするわ」
確かに血生臭いが、いかなる歴史だろうと過去を掘り返せば流血が付きまとうものだ。戦国時代は人気の歴史ジャンルであるが、華のある武将たちの活躍とは即ち流血沙汰に他ならない。
「リズベットちゃんがどんどん我が家の色に染まっていく。そんなキミも好きだけど、かなり複雑だ」
「お母さん知ってるわよ。そういうのをNTRって呼ぶのよね! ところで、NTRって何の略なのかしら?」
「「熱血・豚骨・ラメーン」」
「それなら熱々・豚骨・ラーメンで、ANRの方が良いと思うのだけど、世間のセンスとお母さんってズレがあるのね。あら? そもそも何でラーメンなのかしら?」
2人揃って被せれば、混乱した光莉は首を傾げる。世の中には知らない方が健全な知識もあるのだとこの場で最年少のリズベットは確信する。
勉強会は終わりだ。光莉がテーブルに並べた資料を片付ければ、リズベットも凝った背中を伸ばしながら立ち上がる。
「僕は心配なんだ。母さんも妙にリズベットちゃんに親しくなってるしさ」
割り当てられた客室に帰るリズベットを追う光輝の声は、心の底から彼女の安否を気にかけている事が分かる。それは彼の優しさであることも重々承知している。
だが、もう止まれないのだ。リズベットは足を止めて振り返ると、真剣な眼差しで光輝を射抜く。
「色々あったのよ。それにあたしだって順序くらい弁えてるわよ。今は知るべきじゃない境界線もちゃんと分かってる。でもね、あたしも覚悟を決めたの。『リズベット』から『篠崎里香』に戻れたら、光輝さんにあたしの気持ち……ちゃんと伝えたい。これはその為の前準備なのよ」
「それってつまり……!」
「い、今はまだナイショ! だけど、乙女の本気……見せてやるから腹括って待ってなさいよ!」
察して感動する光輝の顔を見ていられず、リズベットは真っ赤になった顔を背ける。
「それにね、あたしって自分のルーツとかに無頓着だったけど、だからこそ、光莉さんの話はとても面白いんだ。こんなにもたくさんの物語があるのに知ろうとしないなんて、あたしは勿体ないと思う」
「……ルーツを知ることが必ずしも幸福ってわけじゃない。時には道を踏み外す理由にもなる」
何処か憂鬱そうに光輝は拳を握って目を背けるも、すぐにいつも通りの笑顔を『作る』。
「今日は礼祭だから気負わずに楽しめば良い。どう? 僕と一緒に回らないかい?」
「喜んで。エスコートをお願いするわね」
「……やっぱり変なモノ食べたんだね?」
「あたしが素直だったら不都合なことでもある?」
光輝の困惑をクスクスと笑うリズベットは、あの百戦錬磨の男を掌の上で転がす小悪魔の愉悦を覚える。
「もちろん。僕も男だ。素直なリズベットちゃんなんて『我慢』にも限界があるからね」
「…………っ!?」
だが、普段の3倍増で魅惑の色香を漂わせた光輝の微笑が描かれ、そっと耳を甘噛みするように吐息がかかる近距離で囁かれ、リズベットの心臓は高鳴る。
「じゃあ、また夕暮れに迎えに来るよ」
ひらひらと手を振って去っていく光輝に、悔しさを滲ませてリズベットは地団駄を踏む。惚れた弱みならば光輝の方のはずが、いつの間にかのめり込んでしまているのは自分の方ではないかと蕩けそうな思考を繋ぎ止める。
「屑兄もかーくんに比べたらショボいけど、濃さは母さんの次くらいだから気を付けた方が良いわよぉ」
と、そこに欠伸を噛み殺した、昼前になって起きてきた灯がリズベットを背後から抱きしめる。
ふわりと鼻孔を擽るのは、同じ石鹸・シャンプーを使っているとは思えないくらいに、同性である事も忘れてしまいそうな魅惑の香りだ。ゴムボールが跳ねるかの如く抱擁から脱したリズベットは、ファンが見れば鼻血で失血死しそうな程にあられもない姿をした灯だ。
大きめのTシャツ1枚という慎ましい胸が今にも見えそうな恰好でありながら、色香に満ちた魔性の雰囲気は天性のものだろう。
「狩人たる者、礼節を重んじるべし。だから、久藤の男って紳士的に振る舞うことをまずは身に着けるわけ。だけど、『血』の濃さって本能の強さでもあるわけだから、『血』の濃い奴程に本能的欲求も強い傾向があるのよ。ましてや、久藤の男は私達みたいな久藤の女とは違って狩人の血も濃く現れるしね」
リズベットを怯えさせるように、おどろおどろしく語る灯は、滲み出た彼女の恐怖心を舐め取るように嗜虐の笑みを描く。
「久藤の女は獣血が、久藤の男は狩人の血が濃く現れる。『狩人たる者、礼節を重んじるべし。されども寝屋では猛獣なり』なーんてね……冗談じゃなくてマジだから気を付けなさい。初夜には、あまりの『アレ』の激しさと絶倫っぷりに何人の外嫁がアヘアヘしちゃったことやら」
「こら! リズベットちゃんが怖がってるでしょう!? それと下品な言葉遣いは止めなさい! 特に貴女は嫁入り前でしょう!? 久藤の女たる者――」
「はいはい、反省してまーす!」
忍び足で迫ったのかと思うほどに、突如として現れた光莉が灯の後頭部を背後から叩く。
舌を出して逃げた灯を見送り、光莉は柔らかな笑みを口元に刻み、ガチガチに固まったリズベットの肩を撫でた。
「灯はちょっと大げさに言っているだけよ。それよりも浴衣の着付けをしましょう。私のお古だけど、取って置きがあるわ。きっとリズベットちゃんにも似合うはず」
「あ、あははは! ですよね。そうですよねー!」
まったく、灯さんったら驚かせてくれちゃって! リズベットはどんな浴衣なのだろうと楽しみにしながら、光莉の私室へと案内された。
「絶倫だね。外嫁や外婿の皆様から、須和家にもよく相談が来るよ。『夜が激し過ぎて体がもちません』ってね」
だが、この村で最も信頼できる&理性的かつ第三者の見地から助言してくれるだろう須和に一刀両断され、リズベットは顔を真っ赤にして膝から崩れた。
場所は献血車を思わす大型の白色の車内。精密機械が並ぶ、九塚村から逸脱した科学の香りで充満した空間である。
「じょ、冗談ですよね?」
「残念ながら本当だ。久藤の方々は生まれながらに高い自律能力を備えている。それを教育で更に強化し、なおかつ指向性を持たせているわけだ。だから、彼らは下手をせずとも普通の人間よりもずっと理性的に振る舞える。彼らの高い自律能力は有した特異な本能を『日常生活が困難にならない』程度に御する為に備わったものとされている」
50代ともなれば節々が痛む。そう訴えるように須和は肩を回しながら、体を震わせて言葉を失っているリズベットに、確かな哀れみの視線を向ける。
「そして、悲しいことに彼らの自己制御能力は3大欲求にも強く反映される。食欲・睡眠欲・性欲のコントロールもまたずば抜けているわけだ。彼らは高い身体能力に比例して多量のエネルギーの摂取を必要とする。極度の甘党が多いのもその影響だ。だけど、昔は今ほどに飽食では無かった。限られた食事量で効率的にエネルギーを保管しておく必要があったわけだ。だが、運動の上で枷になる脂肪は避けたい。結果、彼らの肝臓は異常発達し、高いエネルギー貯蔵能力を獲得した」
だから久藤家の方々は酒に強いんだ、と須和は蛇足する。曰く、他にも理性の蒸発を防ぐためにもアルコール耐性は不可欠だった、とも付け加える。
「だが、基礎代謝はある程度抑えられる『進化』を遂げたとはいえ、運動時のエネルギー消費量の上限が常人を遥かに凌ぐわけだ。当然ながら、より多量のエネルギーを貯蔵したいと彼らの肉体は要求するわけだね。それが食欲の増大にもつながる訳だ。なおかつ、古来より狩人は夜通しで仕事をしなければならなかった。だからといって昼間は寝て過ごすわけにもいかない。それどころか、昼夜問わずに『狩り』に赴かねばならないことも多かったそうだよ。そうして、彼らは睡眠無しで脳を休められるような能力を獲得した。だが、ずっと眠らないわけにもいかないし、眠いものは眠い。それもまた避けられない現実だった」
まだまだ生命の神秘は底知れない、と須和は呆れを通り越した表情で溜め息を吐く。
「こうして、彼らは食欲と睡眠欲に対して高い耐性と対処能力を獲得した。彼らが極度の甘党の理由は、効率的にエネルギーを獲得する為の必然性だったのかもしれないな。あと、意識を覚醒したまま脳を休められるとはいえ、全く睡眠が要らないわけではないから脳には着実に疲労が蓄積するし、また起き続けるわけだから精神の疲弊は避けられない。だから、彼らは長い狩りを終えると死んだように眠ることが多かったそうだ」
そして、と須和は右手の人差し指を立てて、わざわざ最後に回してきた最後の三大欲求について語り始める。
「では、性欲は? 彼らは性欲に対しても高い耐性を有している。これは無暗に『血』をばら撒かない為とされているが、その実は謎のままだ。分かっていることは、彼らは性的欲求が普段は極めて希薄であり、愛情表現や確認にはかなりプラトニックな性質を持ち、また重視するという共通点がある。だが、一方で彼らの『血』はより優秀な『血』を求めている。つまり、普段は抑え込まれている分だけ1度箍が外れると……というわけだね」
これ以上の表現と発言は避けたい、と須和はリズベットの心情を考慮して苦笑する。
まずい。非常にまずい。染めた髪以上のピンク色の妄想をしてしまったリズベットは、羞恥と恐怖心で悶絶する。
無論、今回の里帰りにも『そのような事態』の覚悟も無かったわけではない。恋人にもなっていないが、全く欠片も想定していなかったわけではない。むしろ、里帰りブーストで一夜で関係進展からの……なんてこともあり得るかもしれないとも思っていた。
「で、でも、光輝さんってプレイボーイで有名だったけど、そうした噂は1つも無かったし、例外ってことは……」
「断言しよう。『絶対に無い』。彼はああ見えて『血』の濃さはなかなかのものだ。女性の方が総じて濃い傾向があるが、彼は当主にも匹敵するし、超え得るかもしれない」
「HEY、ドクター! そんな意味不明な蘊蓄はともかく、おにぃの貞操を守る方法プリーズ!」
だが、割って入って来たのは、リズベットと共に話を聞かされていた高校生探偵の妹の美桜だ。なお、翼はあれやこれや妄想してか、ぐへへへと健全なる男子高校生らしく顔が弛んでしまっている。
「つまりこういう事でしょ!? あのお淑やかなお嬢様っぽい生徒会長も、夜の帳が下りたらビーストモードってことでしょ!? おにぃの童貞が喰われるのも時間の問題じゃん!」
「止めろぉおおお! お兄様をチェリーボーイって暴露するのは止めろぉおおおお!」
「はぁ!? 別に恥ずかしくないじゃん! それに、おにぃが童貞捨てたいなら、アタシが――」
「センセイ! 我が妹は少しばかり頭のネジが外れているだけなんです! 俺は断じて妹に手を出すような糞野郎じゃありません! だから警察は止めて! 通報しないでぇえええ!」
相変わらずハイテンションな兄弟ね。2人のお陰で冷静さを取り戻したリズベットは、須和が運んできたマグカップを受け取る。中身はマシュマロたっぷりのミルクココア……ではなく、普通の珈琲だ。冷房がよく効いた車内では薄着だったリズベットにとっても喜ばしい。
須和先生のベストブレンドはやっぱり美味しい。是非とも配合を教えてもらいたいが、秘中の秘だと決して明かしてもらえていない。珈琲を口にすれば、坂上兄妹も揃って大人しくなって美味を味わう。
「でもでも、おにぃも考え直したら? 本当は性欲が強いってことは『ごめんなさい。体が疼いちゃって……』的な間男にNTRされる確率も高いわけだよ? 浮気されちゃうよ? おにぃ的にそれって避けたいよね? ミキねぇのあ~んな写真送りつけられちゃうような二の舞避けたいんじゃないの?」
「そ、そそそそ、それは……!」
「対して私は? おにぃの家族。おにぃを絶対に裏切らない。むしろ、周囲にカミングアウトすればドン引き間違いなし。つまり、おにぃと私は2人揃って社会から反した存在になる。私以外におにぃを裏切らない存在はいないと思わない?」
「うごごごごごご!?」
この妹、実兄のトラウマを利用して……!? 恐ろしき策略前にリズベットは戦慄するも、須和は見慣れた光景だと言わんばかりに冷静に珈琲を飲んでいる。
「久藤の男は不貞を極度に嫌うし、久藤の女は他の男に体を晒すような事態になったら舌を噛み切って死ぬ。そうした遺体を、僕たち須和家は何人も見てきた。本当に何人もね」
「センセイ、そんな悲しそうな目でガチな返答しないでください。凹みます」
「ドクター、私も言い過ぎました。マジでごめんなさい」
この兄妹、本当に見てて飽きないわね。1周どころか3周回って冷静さを完全に取り戻したリズベットに、須和は珈琲のお代わりをポーズで示すが、首を横に振って断る。
「光輝くんも悩み苦しんだ人生を送ったはずだ。自分は普通だと信じて多くの女性と肌を重ねても、空虚な失望だけを抱いていたのかもしれない。だから、もしもリズベットちゃんを求めたのだとしたら、それは喜ばしいことだよ。心だけではなく体にも触れたい。プラトニックラブな性質が強い彼らにとって、それは愛情の大きさの裏返しでもあるんだ」
珈琲を飲み干してマグカップをデスクの上に置いた須和は、老熟した男らしい落ち着いた眼で3人へと順に視線を送る。
「キミ達は本当に若いね。未婚の年長者として忠告しておこう。誰かを愛することに二の足を踏んではいけない。キミ達が好きな人は別の誰かも好きなのかもしれない。キミが好きな人は別の誰かが好きかもしれない。だけど、好きという気持ちを言葉でも行動でも表現していけば、少なくとも自分の方を向いてくれるようになるはずだ。そうすれば距離は縮められるはずだよ」
一瞬だが憂いの帯びた眼差しに変じたのは、須和にも少なからずの後悔があるかなのだろう。彼が未婚なのは、その過去を引き摺っているからなのかもしれない。だが、自分よりも倍以上も生きている男の心中を掘り返すには、リズベットには無遠慮さが足りなかった。
「それってドクターが未婚なのに関係が!?」
「は、ははは。手痛いなぁ。おっと、1つ警告しておけど、翼くんは未成年だからくれぐれも『注意』するように。大人と医師として建前上は……ね」
そして妹ぉおおおおおお!? もはや天性の才能なのではないかと思うほどに空気を読まない美桜に、珍しく須和も困惑した様子で、翼への大人としての警告で話を逸らす。
落ち着きを取り戻したリズベットは、さすがは須和先生だ、と信頼を改めて高める。長年に亘って久藤家に携わって獲得した知識を使い、説明し辛い話題にも臆することなくリズベット達に伝えてくれた。彼がいなければ、リズベットはしばらく光輝の顔を直視も出来なかっただろう。
自分を欲してくれている。もっと触れたいと思ってくれている。今までの茶化すような態度とは違う、本気の目だった。それは強く深く大きな愛情そのものだった。リズベットにだけ向けられた特別な愛情だ。
アインクラッドで焼き切れたはずの、脳内アスナが補ってくれていたはずの乙女回路が、今まさに完全復活してリズベットは頬が熱くなるのを自覚する。
「さて、今日キミ達に来てもらったのは、坂上くんのお願いがあったからだ。この車は本来隣町に控えさせているものでね。村で急患が現れた時に高度な医療を施すことを目的としている。今回は私の研究に付き合ってもらう代わりに、坂上くんが欲しがっているものを運んできたわけだ」
蛇行した山間を通らねば九塚村にたどり着けない関係上、この医療用の大型車を運び込むのは一苦労が強いられる。わざわざ須和が手間をかけてくれた理由は、リズベットと翼の2人の要望があったからだ。
「要望通りの情報はこのタブレットにダウンロード済みだよ」
ARガジェットのシェア拡大と共に、いずれは現行の携帯端末の類の過半が駆逐されているとされている。だが、須和が渡したのは長年愛用しているだろう、使い古されたタブレット端末だった。
「わざわざ何を取り寄せたの?」
「珍しいものじゃないですよ。この村は通信関係がほぼ使えないし、自由に検索をかけることもできないから、センセイに頼んで必要な情報をダウンロードして持ってきてもらったんです」
リズベットの問いに、翼は大して不思議なものではないとばかりに肩を竦めながら答える。
「それで本当に『事件』が解決できるのかな?」
「情報収集・整理・精査。トライ&エラーで犯人にぶち当たるまでこの繰り返しですよ。現場に1の情報しかないならば別の場所から10の情報を取り寄せれば良い。10で足りないなら他人も使って100を集めれば良い。そうして情報量を増やして、真偽も関係なくひたすら組み合わせまくって、それで最もそれらしいアンサーにたどり着いたらチャレンジ。間違っていたら最初からやり直し。警察の人たちだってやってる作業を俺もしているだけだ」
リズベットが知らない所で九塚村で起きている『事件』に関与してしまったらしい翼が欲していたのは、ネット検索がかけられない九塚村という環境下において、彼が本領を発揮する為に不可欠な情報の獲得だった。
「じゃあ、お礼代わりに採血させてもらうよ。リズベットちゃんと美桜ちゃんも協力をお願いして良いかな?」
「おにぃの為なら1リットルでも2リットルでもカモーン!」
「それ死んじゃうから」
この兄妹を相手にしているとあたしはいつもツッコミ役ね、と考えたリズベットであるが、思えば周囲がボケ要員だらけでツッコミ役不在であることを思い出し、これがあたしの人生かと諦観を覚える。
リズベットも悩み相談に乗ってもらった対価として採血してもらうが、もちろん微量の注射器1本分である。
看護師もいない車内で、須和は手慣れた手つきで針を刺す。
「うわぁ、全然痛くない。センセイって上手ですね」
「今は医療器具も進歩しているからね。誰でも使えて痛みも無い注射器だって量産が進んでいるんだ。まぁ、扱いやすくなった医療器具はそれだけ問題も多くなるが、技術の進歩は喜ばしいことだよ。ただし、それが人間のコントロールの内にあるならば、の話だけどね」
暗にSAO事件から始まった電脳事件の数々に代表される技術進歩の警告を混ぜた須和に、リズベットはまさにその通りかもしれないと胸が苦しくなる。
「駄目なんですよ。俺、注射器には良い思い出がなくて……」
「ははは。でも、もう終わってしまったよ?」
「はへ!? マジで痛くねぇ!? スゲェ! ヤベェ!」
関わった事件を思い出してか、顔を青くしていた翼もあっという間の採血に驚きを隠せていない。医療器具の進歩だけではなく、須和の腕前の高さも確かなものなのだろう。
脳外科医であり、VR犯罪対策室のオブザーバーであり、VR・AR技術に関連した脳・フラクトライト研究の最前線にも立ち、DBO事件の根幹を担っているアミュスフィアⅢに搭載されたPF技術の解析と解除を一手に担う男。見た目は温厚そうな50代のイケメンおじ様であるが、この男もまた世界でも稀有な人材の1人なのだとリズベットは再認識する。
「でも、わざわざ採血することにどんな意味が?」
「そうだね。説明しておこうか。キミ達3人は久藤の血縁者ではない。この村に長期に滞在している間に、体調や精神に変調があったはずだ。特にリズベットちゃんと坂上くんはヤツメ様を目撃したとか。あと、夢の中に現れたりとかしたかな?」
翼くんも!? リズベットは驚いて翼と顔を見合わせれば、彼もまた自分だけでは無かったのかと目を見開いていた。
だが、そこで美桜が困惑した様子で右手を挙げる。
「あのぉ、私は特に見てないんですけど? というか、私の絶不調は主に生徒会長のせいなんですけど?」
「は、はははは。だからこそサンプルの価値がある。兄妹でありながら異なる反応。リズベットちゃんの場合は特に九塚村に滞在前後のデータ比較もできるからね」
診療の関係で採血されてはいたが、その実は何らかの研究に利用されていたとは。あまり良い気分ではないが、須和を信頼するリズベットは必要なことなのだろうと納得する。
「それで、血で何を調べるんですか?」
「血中フラクトライト濃度の測定だよ。体外に出た血液からはフラクトライトがすぐに拡散・崩壊して失われてしまうから、専用の器具で保管でもしない限り、迅速かつ最高設備で検査しないと正確な測定はできない。わざわざ東京から機材を取り寄せていた価値があったよ。おっと、触らない方が良い。KISARAGIサイエンステクノロジーが軽量化したばかりの世界でも1台しかない試作モデルだ。億単位するから、とてもではないけど、美桜ちゃんでは弁償できないからね」
車内の奥の機材へと駆け寄ろうとした美桜は顔面蒼白となり、翼は彼女の脇を担いで遠ざける。
3人の血を検査にかけ、須和はリラックスして待っているように促す。翼は早くタブレットに入れられた情報を閲覧したいようだったが、自分の血に何が起こったのか、また自分が見たヤツメ様について納得できる回答を欲しているようだった。
一方のリズベットはヤツメ様を『そういうものだ』と納得することにしていた。須和がこうして大っぴらに動いているということは、久藤家も公認しているということなのだろう。ならば特に気にすることもなく、車内にある各種論文を掲載したサイエンス誌を読みながら結果を待つ。
「ふむ、結果は……やはりか」
「で、出たんですか?! やっぱり病気ですか!? 俺死んじゃうんですかぁ!?」
「病気というわけじゃないが、特異な状態にある。3人とも血中フラクトライト濃度が常人の30倍以上も上昇している」
「はいはーい! フラクトライトって何ですか? きっと、絶対に、間違いなく、おにぃも知ったかぶりしてまーす!」
能天気に質問する美桜に、須和はそれもそうかと頷く。リズベットも専門家ではない以上、オブザーバーとして今後も関与していくだろうフラクトライトについて、改めての講釈を欲した。
「フラクトライトとは、かの有名な茅場昌彦が提唱した情報記録媒体にして情報伝達媒体だ。現代科学において、最も『魂』に近しいとされているが、今はまだまだ多くの謎を抱えている最先端分野だね。『揺れる光子』と名付けられたフラクトライトがどのようなプロセスを経て形成されるかは解明されていないし、そもそもとして量子たる光子がこのような形で観測されたこと自体が前代未聞だ。開拓されていない荒野。神秘に満ちた知的好奇心のフロンティアというわけだね」
思い出したのはサーダナの公演だ。脳以外にもフラクトライトが存在すると語った彼は、いかなる国家や企業の協力もなく、独自研究によって既に一足先を行っていたのだ。真の天才とは彼のような人間を呼ぶのだろう。
「ロシアの研究チームによれば、フラクトライト自体は全ての生物が有しているだけではなく、光さえあれば何処でも生じる。ただ不思議なことに、生命活動をしていない、生物外にあるフラクトライトは形成・増殖・崩壊のサイクルが極めて速い。これが観測失敗の原因だったんだけど、ロシアに先を越されてしまったね。さて、ここからはフラクトライト研究でも先進的研究をし、かつ斬新な仮説と実証を続けるサーダナ博士の公開資料から引用させてもらうならば、体内のフラクトライトが安定しているのは、生物が有するフラクトライト構造のお陰という説がある。フラクトライト構造とは、フラクトライト同士が繋がりを有した状態だ。簡単に言えば、原子が繋がり合って安定するようなものだ」
「センセイ、まるで分りません!」
「美桜ちゃんにはちょっと早かったかな? そうだね……私達が良く知る鉄とは、鉄という原子が集まっているわけだね。たくさんの鉄原子がバラバラにある状態が生体外にあるフラクトライト。対して生体内にあるフラクトライトとは、原子同士が結びついて僕たちが知る鉄の状態になっているようなものなんだ」
「センセイ、やっぱり分かりません!」
「美桜は無視してください。どうぞ」
私は教師としての才能は無さそうだね、と須和は自分の説明が悪いと頬を掻いた。
「フラクトライト構造を主に形成するのは脳だ。フラクトライトは構造化すると優れた記憶媒体にもなる。脳と同じだね。フラクトライトに蓄積された情報にアクセスするソウル・トランスエミュレーターという装置もあるんだけど、脱線するから省こう。フラクトライト構造は脳が作り出す生体磁場が関係しているのではないかという仮説が最も有力だ。以前はフラクトライト構造の先天的差異はないとされていたけど、サーダナ博士の実証データが公開されて以降は、『極少数ではあるが、フラクトライト構造に先天的差異が確認できる』が主流になった。そして、このフラクトライト構造の先天的差異の違いを生み出す因子は全くの謎なんだよ。だけど、先天的差異には血縁関係が大きく関与していることが最近になって分かったから、フラクトライト構造の形成に関与した生体磁場が干渉するとされていることから、生体磁場を形成する脳に関わる遺伝子に焦点を当てた研究が盛んに行われている。解析されたヒトゲノムから、人間のフラクトライト構造に差異をもたらす遺伝子は特定されるかもしれないね」
「センセイ、難し過ぎてオーバーヒートしそうです!」
「我が妹よ、安心しろ! お兄ちゃんにも何が何やら分からん!」
安心しなさい。ある程度の知識が備わっていたはずのあたしでも追いかけるのがやっとだから。リズベットは頭から煙が昇りそうな2人を差し置いて、話をやっぱり切ろうかとする須和に続きを求める。
「だけど、私は遺伝子のみならず、他にもフラクトライト構造の形成に関与している因子があるんじゃないかと考えている。これはその研究の一環で発見した、血中フラクトライトに関わる研究のサンプルデータの収集だ。もしかしたら、キミ達が見たヤツメ様の正体に迫れるかもしれないね」
「えーと、俺達はその血中フラクトライトって奴の濃度が異常に高いんですよね。それってヤバいんですか?」
「フラクトライトは情報記録媒体であり、情報通信媒体でもある。脳以外にフラクトライト構造が形成する部分として心臓がある。構造化されていないとはいえ、血中のフラクトライトは情報通信媒体として十分過ぎる役割を持つだろう。脳を出発したフラクトライトは血液循環で心臓に達し、心臓のフラクトライト構造にも同じ記憶を届ける。だけど、キミ達の血中フラクトライト濃度は異常な数値を示している。リズベットちゃんは前後のデータがあるから確実だね。これは膨大な情報をキミ達の脳のフラクトライト構造が獲得し、心臓のフラクトライト構造への伝達の為に、血中のフラクトライトを増産した結果だと考えているんだ。当然だけど、そんな状態になれば何の影響も無いはずがない。キミ達は血中フラクトライト濃度が高まり過ぎた、言うなれば情報過多によるオーバーフロー……中毒状態による幻覚を見たのではないかな」
「センセイ、私は何も見てません!」
「個人差があるからね。必ずしも見るわけではないだろうし、もしかしたら美桜ちゃんが認識していないだけで別の幻覚を見ているかもしれない。後でヒアリングさせてもらって構わないかな?」
これが須和なりの、リズベットと翼を納得させる為のヤツメ様に関する見解なのだろう。2人を安心させるように、須和は笑みを描く。
「まだ研究途中ではあるけど、世界中にはフラクトライト濃度が自然と高まる、パワースポットと呼ばれる場所が幾つもあるとされている。ホラースポットもその類なのかもしれない。この九塚村も古来から幾つも伝説がある土地だ。直近で健康被害が出るならば、村なんて作られないから、そこまで心配する必要は無いよ」
「ほへぇ……私の知らない世界かぁ。茅場昌彦って本当に凄かったんだね。なのに、何であんな馬鹿な事件起こしたんだろう?」
その理由はあたしの方が知りたいくらいだ。美桜のぼやきにリズベットは内心で同意する。彼はいかなるビジョンを見て、フラクトライトという未来を切り開ける分野への研究途上であのような事件を起こしたのか。それは知れば知るほどに謎に包まれる。
「あと、これは全部が『仮説』だ。何を真実として納得するかはキミ達次第だ。極論を言えばね、科学なんて全部こじつけなんだ。立証されたと思われた法則や原則が新発見であっさりと覆ることだってある」
光莉も似たようなことを言っていた。リズベットは自分が納得したヤツメ様について、やはり今は深く知りたいと思わず、あるがままに受け入れて納得したいと望む。
神様だろうと幻だろうと受け入れてしまえば同じだ。リズベットは須和の言いたいことを正しく噛み砕いて頷く。
「さて、勉強熱心なのは嬉しいけど、今日は礼祭だ。月前祭と本祭に比べれば、キミ達が良く知る縁日に近しいから、思いっきり楽しむべきだ。リズベットちゃんは光莉さんが浴衣を貸してくれるんだったね。美桜ちゃんや坂上くんはどうするのかな?」
「いや、それが生徒会長がいつの間にか寸法ぴったり・好みもばっちりなの準備してくれていて……」
何があったのか聞くまい。リズベットは坂上兄妹に張り巡らされた蜘蛛の巣から逃げるように目を背けた。
長々と講義を受けたが、これもいずれはオブザーバーとして必要になる知識かもしれないと思えば憂鬱だ。VR犯罪対策室は、ひたすらに電脳犯罪を追えば良いだけではない。日進月歩のテクノロジーに熟知しなければならないのだ。
「さて、俺はお祭りの前にメインディッシュとしますか」
診療用ベッドに腰かけた翼は、早速とばかりにタブレットを起動させる。
「おや、そんな所じゃなくて、もっとくつろげる場所にしたらどうかな?」
「…………」
「坂上くん? 聞いてるのかい?」
「無駄だよ。おにぃの『スイッチ』が入っちゃった」
精密機械のように指を動かしてタブレットを操作する翼の肩を揺すり、また声をかけるも反応がなく、須和は困惑した様子だったが、美桜は見慣れた光景であり、また自慢でもあるとばかりに胸を張る。
「あのさ、おにぃがどうして高校生探偵なんて呼ばれてるか知ってる? 確かにさ、おにぃの運命力は凄いよ。道を歩けば事件に遭遇するもん。でもさ、そもそも事件を解決しなければ、ただの目撃者じゃん。おにぃはね、天才なんだよ。やってることは普通だよ? 情報を収集・整理・精査するだけ。警察もやってる。きっと、たくさんプロがいて、科学捜査とかして、事件を暴こうとする。でも、おにぃはその場で解決しないといけない。それがおにぃの宿命だから。だから、おにぃには『できる』んだよ。集めた情報で1万通りのパターンができるなら、1万通り全てを検証しちゃえばいい。100万通りあるなら、100万通りを想定しちゃえば良い」
「それってつまり、彼は全情報の組み合わせを今ここで頭の中でシミュレートしているってこと?」
「そう。その中で『最も真実に近しい』と判断したパターンを割り出す。あとはトライ&エラー。情報を増やしてやり直しを繰り返す。超人的推理力なんて要らない。『正解にたどり着くまで全パターンを試す』だけなんだから。馬鹿でしょ? でも、これだけがおにぃの武器なんだ」
美桜は翼の頬をぐりぐりと指で押し、額にキスをし、髪をクンクンと嗅ぐ。だが、それでも翼は眉1つ動かさない。
「1度『スイッチ』が入ったら、今ある情報で『最も真実に近しい』って判断したパターンを炙り出すまで戻ってこない。ほら、見て。酷いでしょ? 前の事件でお腹を撃たれちゃって、失血死寸前だったんだ。でも、おにぃは考えるのを止めなかった」
美桜がシャツを捲れば、翼の左脇腹には銃創がある。リズベットは自分にも刻まれた銃創を思い出し、彼もまた尋常ならざる人生を送ったからこそ、この村にたどり着いたのだと改めて理解してしまった。
どれだけの時間をかければ戻って来るのか分からない。だが、5分や10分では無いのだろう。
「どうして須和先生が反対したのか、何となく分かって来たわ」
この村に『まとも』な人間は要らないのだ。医療車から降りたリズベットは、夕暮れまでまだ時間はある昼間の炎天下で須和に告げる。
リズベットは九塚村にいかなる『事件』が起きているのか知らない。だが、リズベットがこの村ですべきなのは事件の解決などではないのだ。
ならば、自分の役目とはこの村に少しでも馴染み、事件の目撃者となることなのかもしれない。
何があろうとも受け入れよう。リズベットは祭りの始まりに言い知れない不安と期待を覚えた。
▽ ▽ ▽
坂上美桜のヒアリングを終えた須和は、まだ極度の集中状態から戻って来ない翼を気にしつつ、美桜にお菓子を振る舞いながら、此度の成果を振り返る。
(篠崎さんの血中のフラクトライト濃度は村外にいた頃のおよそ30倍。だが、光輝くんは常時『1000倍』に近しいフラクトライト濃度だ。もはや、血そのものにフラクトライト構造が形成されていると言っても過言ではない)
そして、DBO事件によって仮想世界に囚われている久藤家末子の篝のフラクトライト濃度は『測定不能』の域にある。現行機器で測定できる限界を超えている。
現在、人間の脳と心臓の2つにフラクトライト構造が確認されている。だが、久藤家の血縁者は体内の複数個所に神経節にも似たフラクトライト構造が検出された。これらは脳・心臓とのフラクトライト構造とリンクし、血中のフラクトライト通信にある種の指向性を持たせている。
即ち、情報通信特化だ。彼らは何らかのトリガーによって血中のフラクトライト通信が開かれ、神経外における情報伝達が開始される。原理は光ファイバーに近しいだろう。神経伝達速度では『遅い』と判断した結果か、それとも最初から備わっていたものなのか。何にしても彼らが人間離れした高速戦闘を実現する根底の1つとなっている。
(この土地は余りにもフラクトライト濃度が濃すぎる。他国の研究チームの報告待ちとはいえ、やはり世界中のパワースポットやホラースポットと呼ばれる場所程にフラクトライト濃度を測定し、統計を取ることが出来れば、何かが見えてくるかもしれないな。だが、最先端分野であるフラクトライト研究は軍事転用も可能だ。国家が垣根を超えて研究成果を共有し合うことはない。国内でさえ一丸になれていない以上、革新的な発見は隠匿されているだろうな)
ヤツメ様の正体とは何か。本当に神なのか。それとも神格化された祖先なのか。はたまた須和の頭脳ではたどり着けない、啓蒙の果てにある理解の範疇を超えた事柄なのか。
(まさかサーダナ博士の仮説が当たるのか?『天然のAR空間』なんてものが存在するならば、この世界の認識はどうなる?)
高濃度のフラクトライトで満たされた空間において、疑似的な構造化によって情報が蓄積されているならばあり得ないとは言い切れない。
そして、AR……拡張現実とは、言い方を選ばなければ『幻覚』そのものだ。意識が覚醒した状態で、空間に形成された疑似フラクトライト構造から干渉を受けたのならば、ARガジェット無しでAR接続しているようなものであり、彼らはリアルな質感を伴った情報を現実世界で受け取ることになる。
もはや神の領域だ。VRもARも『人間が作り出し、制御している』という前提があるからこそ、人々は『技術』として受け入れることができる。電脳テロに怯えるにしても、それは
『人間の仕業』だからこそ、犯罪として受容できる。
だが、天然で存在する夢の空間と幻の侵蝕が実証されたならば、人類は立つべき足場を失うことになる。
(茅場昌彦は早期にこの真実に到達していた? だとするならば、やはり彼の本当の計画は……それを引き継いだ後継者の狙いは……いや、まだ早合点だ。全ては仮説に過ぎない)
ヤツメ様は今もここにいるかもしれない。須和は背筋を冷たくする。こうして秘密に迫ろうとする自分を、今まさに耳に吐息がかかる近距離で、フラクトライトの海からねっとりと蜘蛛が獲物を品定めするように、ヤツメ様が見ているような気がして心臓が止まりそうになる。
(愚かな好奇を忘れるような恐ろしい死、か。この辺りが引き際かもしれないな)
何よりもヤツメ様に関する伝説・事件は、これだけでは説明できない部分が多過ぎる。藪蛇どころか知らず間に蜘蛛の巣に捕らわれて脱出できないなど笑い話にもならない。朝倉教授の末路を思い出し、自分は血族では無いのだと須和は己に言い聞かせる。
(当主に認可されているとはいえ、ヤツメ様の祟りなどご免だな。これ以上はフラクトライト研究を進めてからだ。まだ研究も始まって数年足らずでこれだけ分かったんだ。フラクトライトの謎はまだまだ深い。こんなのは序章に過ぎないはずだ)
何よりも、保存媒体でもない、生体外の空間に疑似的にフラクトライト構造が仮にでも構築され、情報が蓄積されたとしても、それをイメージとして出力するのは別の話だ。小さな仮想空間1つを作り出す為に、どれだけのプログラムを組まなければならない? ザ・シードという革命的な仮想世界作成パッケージが登場しなければ、決してVRの隆興など無かったのだ。
100年後の子孫に解明を託す。そして、それでも暴き切れない神秘が立ちふさがるのだろうと須和は確信する。
須和家が久藤の盟友になった理由は、ヤツメ様とは、狩人の血とは、獣血とは……それらの謎を解き明かす為なのだから。
「……なかなか戻って来ないようだね」
「今回の事件はヤベェからね。情報もやっぱり足りないし、1回じゃ真実にたどり着けないかも。まぁ、その時はその時だよ。おにぃのジンクスは『事件解明できなかったら』じゃなくて『解明に全力を尽くさなかったら』だからね」
兄の額から垂れる汗をハンカチで拭いながら、楽観した発言をする。
こうした不条理な運命。これもまた解明できない謎だ。そして、そうした不思議な理を血は受け継いでいく。
全てを解き明かすなど土台不可能なのだろう。人間は己の肉体の……生命の神秘にもたどり着いていないのだから。
(しかし、彼の極度の集中状態による情報解析能力は素晴らしい。静ちゃんは『血』も濃い。上手く引き継がれれば、狩人の予測はより精密さを増すだろう)
狩人の予測。狩人の眼。狩人の知覚。呼び方は個々で好みによって分かれるが、『意識的高精度未来予測』である。これもまた、解明しきれていない、獣血とは異なる、狩人の血がもたらしている彼らの能力だ。
意識下とはいえ、彼らは今の翼のように、膨大な情報を集中状態で取捨選択・組み合わせをしているのではなく、『考える』というシングルアクションによって精密な短期予測をする。彼らの持つ未来予知にも匹敵する直感と組み合わせれば、まさに当主が信じる通り、狩人とヤツメ様の能力を組み合わせたハイブリッド……獣血の狩人である。
血中フラクトライト濃度も副産物に過ぎない。彼らは狩りを成す為だけに、ひたすらに特化され続けた。肉体も、精神も、そして魂と呼ばれるフラクトライトさえも、狩り殺す為だけに研ぎ澄まされ続けた。
(惜しむべきは坂上くんのVR適性が平凡なことか。いや、焦ることはない。高いVR適性の獲得は時間をかければ良い。子孫1代限りではなく、連綿と受け継がれければならない。だからこそ、当主も100年ほどの時間をかけることも辞さないとしている)
それにサーダナ博士の最新の論文で提示された仮想脳という新概念も気になる。
VR情報によってシナプスが作り出す生体磁場が変質し、脳の特異なフラクトライト構造が形成される。それこそが仮想脳であり、これはVR空間限定で高度な情報処理能力と反応速度を実現するとした。この仮想脳はVR適性の高さによって発達の将来性が決定される。また、サーダナはそれ以外にも仮想脳には可能性があると考えているようだった。
「邪魔するよ」
と、車内に入って来た新しい訪問者は光輝だ。兄一筋の危うい美桜さえも、思わず視線を向けてしまう程度には魅惑の容貌をした光輝は、いつものように柔らかく人懐っこさを演出した笑みで彼女に応える。普通の女性ならば、それだけで自分に気があるのではないかと思わず錯覚してしまうだろう。
「リズベットちゃんが来たらしいね。『余計な事』は話してないかと思ってさ」
「狩人気取りと贄姫盗難については話していないよ。坂上くんたちにも事前に口外しないようにお願いしておいたし、リズベットちゃんも首を突っ込む気はないみたいだったからね」
「そうか。良かった」
心なしか安堵したように息を漏らす様に、あの光輝が本気で好きになっているのだな、と須和は改めて実感する。
久藤3兄弟とは付き合いの長い須和だが、3人ともさすがは『血』が濃いと言うべきか、光莉の子というべきか、非常に面倒臭い子たちばかりである。
己の『血』に反抗して狩人であることを拒み続けた光輝。
逆に己の『血』に振り回されることを選んで周囲を欺くことにした灯。
そして、まさに『血』の因果の極致に到達してしまった篝。
「それと、リズベットちゃんも女の子なんだ。あまり怖がらせては駄目だよ。わざわざ私に相談に来たじゃないか。理詰めで説明はしておいたけど、彼女が賢しくて助かったよ」
「そんな気は無かった。ただ……自分の感情がこんなにも制御が利かないのは初めてで、自分でも困惑してるんだ」
美桜に視線を向けて、この話題を少女の前ですべきか悩んだ光輝のようだが、彼女は即座に事情は知っているからどうぞと身振りで伝える。
光輝がプレイボーイだったのは周知の事実だ。当主の光之助も若い頃は派手であり、周囲を酷く悩ませていたそうだ。
だが、そうして彼らは気づく。自分は何も思っていない。心は何も求めていない。目の前の女体に対して何1つとして抱ける想いはないのだと。それでも、それを否定する為に数を重ねる。そうして自分への失望と他者との違いを募らせていくのだ。
「キミ達狩人が女好きなのは、より適した伴侶を選別する為の本能的行動だと考えている。そもそも相手を認識しなければ始まらないからね」
「糞ジジイと同じことを言うのか」
「物事には多面性がある。私はキミや光莉さんのセンチメンタルな言い分も、当主や灯ちゃんの本能に則した主張も、どちらも正しいと思っているよ。大事なのは選択だ。何を選び、何を受け入れるのか。そうすれば、他は全部2番手だ。1番を決めてしまえれば惑わされることなどない」
「……母さんの受け売りかと思っていたけど、やっぱり須和先生がオリジナルか」
本当は光輝も認めねばならない部分は認めなければ前に進めないと自覚しているはずだ。自分の本質……獣血からは逃れられない。それが狩人の血族なのだ。
「キミ達は性的興奮……欲情に対してとても強い耐性を持っている。そして、よりプラトニックな愛情表現を好む傾向にもある。だけど、それでも足りない程の愛情を抱いてしまったからこそ、今のキミの状態があるんだ。たとえ、理性を手放しても、獣の如く本能的になってでも、相手を愛したいからなんだ。それはとても尊いことだよ」
「奇麗に纏めないでくれ。恥ずかしい」
「私の身にもなってくれ。毎年何人の外嫁や外婿に夜の事情について相談を受けていると思っているんだ」
その度に今回のような説明をして『諦めるしかない』と伝えているのだ。須和が溜め息を吐けば、心底面白そうに光輝が笑う。それは隠しきれない嗜虐心だ。
天性のサディストなのも影響しているとは言わないでおこう。攻撃性の高さ故にか、彼らは一様にサディスティックな顔を持つ。それが本能的になる情事ともなれば、それは存分に発揮されるだろう。
特に光輝の『血』の濃さは光莉に次ぐともなれば、いずれはリズベットも相談者になるかもしれない、と須和はすでに憂鬱な気分になる。
「今のキミは制御が少し利いていないようだね。心身を落ち着けるように漢方を調合して後で届けよう。一応は恋仲にもなっていないのだろう? よもや、押し倒すとは思えないけど、不本意に関係を進めるのはキミも望まないだろうからね」
「さすがは須和先生。東洋医学にも精通して助かる。だったら、いっそ理性なんて捨てちゃうくらいに興奮できる薬は無いのかな? その方が僕もリズベットちゃんも楽しめそうだしね」
「媚薬の類のことか? 馬鹿を言うな。愛で理性を外すのと薬で捨てるのではプロセスが違う。本当の意味で理性が利かなくなるぞ。血に酔いたいのか?」
「……冗談だよ」
珍しく本気で凄んだ須和に、光輝は肩を竦めて怒りを受け流す。だが、彼は昔から自暴自棄の気が強いからこそ、須和は油断せずに睨み続ける。
「薬自体はあるし、その程度で制御不能になるとは思わないが、キミに渡すことはない。あれはあくまで外嫁や外婿の要望を叶える為に調合されるものだ」
「分かってるよ。血に酔った挙句に糞ジジイに狩られるなんて僕も御免だ」
「で、その調合方法は!?」
男2人の会話に割って入って来た美桜が、興味津々といった様子で薬の作り方を尋ねる。使用対象は言うまでもないだろう。
本当に……最近の若い連中は! 叫びたい衝動を奥歯を噛んで堪えながら、須和は深呼吸を入れて精神をコントロールする。
(光輝くんは愛情と殺意が結びついていないだけマシか。先代神子様は、殺意と愛情が深く結びつき、最後は狂乱しながら、贄姫で己の首を裂いて深殿に去られた。生涯において誰とも添い遂げることなく、独り寂しく、だが非常に愛情深い御方だったそうだが……)
一方で大戦時には、鬼畜米英500人斬りなどの信憑性が無さ過ぎて公式記録から抹消されたトンデモを平然とやらかす御方でもあったそうだが。須和家に残っている記録だけでも、およそ人間の範疇とは思えない戦果の数々に須和も言葉を失ったものだ。
比較は大事だ。少なくとも、血族で先代神子と同じ性質を持った者はいない。ならば、こうしてジョークに出来る光輝は安全と呼べるだろう。
「そんな事より! 光輝くんは今日の祭りのエスコートプランでも練りなさい! 美桜ちゃんも年頃の乙女としての恥じらいを持ちなさい!」
「それで!? 媚薬についてKU・WA・SHI・KU!」
「坂上くんも……いい加減にしなさぁああああああああああああああああああい!」
いつから復活していたのか、ガッツリと話を聞いていたらしい翼の介入により、いよいよ我慢の限界に達した須和は怒鳴り散らす。
(光莉さん、貴方達はやはり凄いな。私の堪忍袋はこんなにも簡単に切れてしまう。キミ達がその本能をどれだけの理性で御しているのか、是非とも知りたいよ)
全員を車外に追い出した後、自己嫌悪に陥った須和は、デスクに隠した若き頃の写真を取り出す。それは光莉の病室で撮影した、数少ない若き日の1枚だった。
▽ ▽ ▽
「あらあら、可愛いわね。きっと光輝も見惚れるわよ」
「そ、そうですか?」
青を基調とした落ち着いた浴衣は光莉の所有物に相応しく、自分には不釣り合いかとも思ったが、意外と悪くないのだろうか。リズベットは腰まで伸びた髪をアップで纏めてもらい、蝶の髪留めをしてもらう。
「これはね、夫のプレゼントなの。私たちはお見合いですぐに結婚したから恋人らしいことは何もしていなくて、初めて一緒に夫婦で祭りに行く時に贈られたものよ」
「え? そんな大事なモノなんですか!?」
「ふふふ、リズベットちゃんにあげるわ。私と違って、夫婦になる前にたくさん絆を深めて頂戴。それは大切な思い出になるはずよ」
ま、まだ恋人にもなってないのに。心で血涙するリズベットは絹袋に財布などの貴重品を入れ、光莉が準備してくれた漆塗りの下駄を履く。
礼祭が開かれるのは九塚村の北方、ヤツメ様の森にある大社だ。森自体にはくれぐれも入ってはならないと念押しされ、リズベットは夕暮れの九塚村に跳び出す。
今までとは違い、道の先々に行灯が置かれ、まるで導くように温かな火の光が視界を彩る。ここから徒歩ではさすがに北方まで厳しいが、小間使いの男性が送迎の車を出しており、リズベットを運ぶ。
長い石階段もまた、左右の石灯篭に火が点けられている。リズベットだけではなく、小間使いや久藤の血縁者たちが続々と大社を目指して上っていた。
この階段は鍛えていなければ堪えるものがある。だが、世界中を飛び回って数々の事件に遭遇したリズベットの体力は伊達ではない。
「うわぁ……!」
階段を上り終えたリズベットが見たのは、縁日の如く出店が並んでいるわけではないが、垂れ幕や行灯で飾り付けられた境内だ。
いや、神社ではない。かといって寺でもない。教会とも呼べない。あらゆる宗教色が混ざり合いながらも、やはり神道の影響が濃いとも捉えられるが、もしかしたら仏教の方が主軸かもしれない。不気味さを通り越して芸術とも捉えられる程の無節操な混合具合に、リズベットはむしろ大いに惹かれた。
「うん、いつも奇麗だけど、今までで1番奇麗だ」
後ろから囁かれ、リズベットは顔を真っ赤にして振り返れば、普段通りのラフな格好をした光輝がにこやかな笑顔で迎える。
「光輝さんはいつも通りね。それで良いの?」
「今日は礼祭だからね。明日の月前祭や明後日の大祭はともかく、今夜は皆の顔合わせだからね」
広々としたヤツメ様の大社には、蓮が咲く池があり、橋を渡れば梅の木が風鈴で飾り付けられ、煌びやかな錦鯉が闇の中を泳いで存在感を示す。
夜は獣の時間。そう教えられたリズベットは完全に日が暮れたことで不安を覚えるが、自然と光輝は彼女の肩を引き寄せる。
「大丈夫だよ。でも、僕から離れちゃ駄目だ。獣は何処に潜んでいるか分からないからね」
「……だ、大丈夫。ほら! 武器も仕込んであるから!」
リズベットは恥ずかしさを紛らわすために、裾を広げて太腿にベルトで取り付けたプラスチックナイフを見せる。あれだけの数々の事件に巻き込まれたリズベットが不用心にも護身用具を欠かすわけがない。
だが、自分の太腿を凝視した光輝が焦るように目を逸らしたことに、リズベットは自分の大胆過ぎた行動に頬を主に染めて、あわわわと言葉を失う。
「そ、そういう意味じゃないから! あたしはそんな意味で――」
「分かってるよ。でも、少し無防備過ぎだね」
振り返った光輝はいつも通りだが、それでも足取りには目に見えて緊張が増えた。須和の話を思い出し、リズベットは風鈴で飾られた梅の木を見上げる。月光と灯篭と行灯の光を受けて輝く風鈴の澄んだ硝子は、夏の吐息によって涼やかな音色を奏で、リズベットの心を落ち着かせながらも強い感情を引き出していく。
「なんか普通のお祭りっぽくて拍子抜けしちゃいそう」
「ははは。じゃあ、明日以降は悪い意味で度肝を抜くかもね」
吊り贄などで飾られていない大社を見る限りでは、確かにその通りなのだろう。今日の礼祭は顔合わせ。最後の前の身内の集会のようなものなのだろう。事実として、この後には大屋敷で、血族全員と正規に招かれた外部の人間も交えて宴が開かれる予定だ。
光莉は気を利かせて光輝の隣の席を手配しようとしたらしいが、さすがに灯が全力で止めたらしく、外部客の席に落ち着くことになっている。
「それにしても意外ね。あたしや坂上くんたち以外にも外部のお客さんが多いじゃない」
「盟友の如月家や須和家、後は縁故のある実業家や政治家の名代とかだね。他にも例外的に外嫁や外婿の親族も希望すれば招かれることもあるよ」
「へぇ、前評判の割に随分とオープンなのね」
「掟さえ守れば、客人をもてなすのが九塚村のしきたりだからね。でも、招かれざる客は多くが外忌になる」
祭りの様子を撮影しているのは、灯……いや、女優AKARIの故郷と聞きつけたパパラッチだろう。白依の女性が撮影を遠慮するように穏やかな物腰でお願いしているが、それに応じる気配はない。
一方で静にあれだけ脅された為か、ジョーはカメラこそ首にぶら下げているが、シャッターを切る様子もなく、祭りの様子を目でしっかりと記憶しようとしているようだった。
「あら、光輝様。お久しぶりです」
てっきり浴衣姿かと思えば、白依の恰好をした静が挨拶にやって来る。光輝は顔を曇らせる様子もなく、だがリズベットの肩を引き寄せて笑顔で応じる。
「静も張り切っているみたいだね。明日の月前祭は白依が主役だ。期待しているよ」
「あら、光輝様も烏の狩人としてお披露目があるのでしょう? 光輝様の狩人装束、紫藤家の皆でそれはもう心待ちにしておりました」
笑顔という圧縮言語で2人の間で熾烈な副音声の殴り合いを感じ、リズベットはこの2人が決定的に波長が合わないのだろうと悟る。
「篠崎様もごゆっくり。今宵の宴の席でまた」
「ええ、そうね」
相変わらずの見事なお嬢様っぷりであるが、白依の恰好をしているせいか、より近寄り難い神性の雰囲気を宿している。静かに見惚れてしまったリズベットは、明日にはいよいよ光輝の狩人としての恰好と振る舞いが見れるのか、と小さくない期待を膨らませる。
まだ狩人としての自分を公言していないが、腹は既に括っているはずだ。ならば、リズベットは何も言わず黙って見届けようと、言葉にせずに体を傾かせて寄り添うことで意思を伝える。
「金平糖の海だわ。ねぇ、こんなにいっぱいどうするの!?」
「もちろん食べるんだよ。一族全員1人残らず甘いモノ好きだからね」
7色では収まらない色鮮やかな多彩な金平糖で埋め尽くされたのは木製の巨大な生け簀だ。飴細工で作られた乙女が桜を模る飴の木で舞を踊る様を、もはや見ただけで胸焼けする程の金平糖の海が囲っている。
だが、よくよく見れば飴の桜の木の根元には1人の男の姿も形作られている。リズベットはこれがヤツメ様と烏の狩人、一族の祖先を模った物語としての作品なのだと把握した。
「礼祭は小間使いが主役でもあるんだ。彼らは各々技術で祭儀の始まりを祝う」
「へぇ、てっきりお肉とか内蔵とか並べるのかと思っちゃった」
「それは本祭かな?」
「……やっぱり並べるんだ」
朝倉教授の末路を思い出し、気を紛らわせる為に出た咄嗟のジョークのつもりが普通に切り返され、リズベットは軽く凹む。
「大丈夫。直視するようなことはないよ。宴供箱は知ってるだろう? ほとんどはあれに収めるんだ。ニオイ消しの薬草も使うし、傍から見たら何も分からないよ」
「だと良いけど」
光輝曰く、礼祭では菓子が多く振る舞われる。先ほどの飴細工もその1つだ。ヤツメ様は甘いものに目が無く、こうして礼祭で甘いもので誘い、本祭まで大社に留まってもらうという意味があるとのことだった。
「僕たちの体が多量のエネルギーを欲するから甘党ね。須和先生らしい見解だね」
「でも、ヤツメ様は甘いお菓子が大好きだから、の方があたしは好みね。ほら、金平糖だってちゃんと持ち歩いてるんだから」
初日にバスの運転手からもらった金平糖が入った小袋を見せつければ、光輝は金平糖の海からサファイアのようにも思える青い1粒を摘まみ上げて、リズベットの口に放る。
サイダー味! いきなり甘さが舌に広がって吃驚したリズベットはお返しとばかりに手でつかんで多量に口へと押し込んでやろうとも思ったが、光輝は同じように青い金平糖を1粒齧って子どものように笑う。
(いつも珈琲ばかり飲んでるけど、やっぱり本当は甘いのが大好きだったんだ。帰ったらお菓子作り勉強しようかしら)
お菓子のレパートリーはお世辞でも多いとは言えないリズベットは、仕事と大学の合間で料理教室に通うことを決心する。
「……篝も金平糖が好きだったな。こんな光景見たら、はしゃいで飛び込んじゃうかもな」
「弟さん、無事に帰って来れるわよ。だって、光輝さんの弟だもん」
こうしてリズベットが祭りを楽しんでいる間も、DBOでは多くのプレイヤーが死闘を繰り広げている。
後ろめたさが無いわけではない。だが、今ここで祭りに興じることを恥とは思わない。
いつだって世界中では悲劇が起きている。貧困の中で喘ぐ者がいるからといって、今晩の食事を抜くような真似をするだろうか。
(ただ感謝すれば良い。今日を生きていることに感謝を)
普段は感じないが、やはり光輝の死生観は普通と異なるのだろう。リズベットには一生かかっても同じ境地にはたどり着けないのだろう。
だからこそ、少しでも近づきたいのだ。同じではなくとも、理解も出来ずとも、否定はしたくないのだ。
「おお、プリティフェイス! 是非とも熱烈シャッターしたいけど、我慢だ!」
そして、火照る気持ちに冷水をぶっかけるが如く乱入してきたのはジョーだ。
殴りたい。リズベットは我慢することなく笑顔で拳を握るも、空気が読めないジョーは飴細工の芸術品に顔を驚かせる。
「うわぁお! 本当にもったいない! ワールドクラスの作品じゃないか! ムムム、桜の木で踊ってるのがヤツメ様で、その根元にいるのが烏の狩人かな?」
「おや、詳しいですね。何処かでお学びに?」
「フフフ、ジョーさんも伊達に滞在しているわけじゃないんだよ。各所でヤツメ様の伝承は十分に聞けたからね! しかし、この金平糖はさすがに胸焼けしそうだよ」
嵐のような男だ。撮影したくてウズウズしている様子だったが、何とか堪えて去っていくジョーに、本当に掟を守り切れるのだろうかとリズベットは不安に思う。
「面白い人だね」
「自称ミステリーハンターだって。光輝さんに言わせれば彼も外忌になるの?」
「……さぁ、どうだろう?」
それは光輝がたまに見せる、命を命と思っていないかのような、冷たく無機質な、まるで蜘蛛のような目だ。描かれるのは冷笑と呼ぶに相応しく、彼の持つ残虐な一面でもある。
「うん、そんな顔も……悪くないかなって思えちゃったわ」
先んじて歩き出したリズベットは、慌てて口元を隠そうとする光輝に、全部受け入れているという笑顔で振り返る。
「どんな光輝さんでも素敵よ。だから、何も怖がらないで。あたしは逃げないから」
「……リズベットちゃんは『強い』ね。一生勝てそうにないな。でも、キミに尻に敷かれるなら大歓迎だ」
そんなことない。あたしはもう受け入れてもらえたから、幾らでも強くなれるんだ。リズベットは自分の『強さ』は光輝がくれたものだと胸の内で反芻させる。
消えることがない傷跡が手首には刻まれ、リストバンドで隠されている。彼女が鉄の城で負った心の傷は、たとえ乗り越えることはできても、一生癒えることはないのだろう。
だが、自暴自棄に生きていたリズベットに、失礼と思える程に、しつこいくらいに、観念してしまう程に、ずっとずっと関わり、なおかつ自分に温かな気持ちを向けてくれていたのは光輝だ。
「ねぇ、お願いがあるの」
「何だい?」
「まだ……乗り越えられてないし、あたしは『リズベット』のままだと思う。でも、今だけは……『里香』って呼んでくれない? 1回だけで良いの」
篠崎里香。それが『あたし』の名前だ。だけど、まだ取り戻せていない。
だけど、今日は祭りの夜だから。少しだけいつもとは違うから。だから、リズベットは何かのきっかけになると信じて願う。
沈黙で願いを受け止めた光輝は、大きく深呼吸すると、いつになく真剣な眼差しで口元を引き締める。だがそれは無用な緊張と断じたのだろう。
「……『里香』」
彼はいつもと同じように、だが本来の粗暴な態度を露にするかのようにぶっきら棒に、だが彼の1番の魅力である人懐っこそうな笑みはそのままに名を呼んだ。
はい、と応じたい。だが、息が出来ないほどに胸が苦しくなる。満たされたいはずの想いを受け止める器にはまだ穴が開いていて、彼の大き過ぎる自分への愛情が零れてしまいそうになる。
「あたし……いつまで縛られないといけないのかな? もう嫌よ。もう『リズベット』は嫌。忘れたい。全部……全部忘れちゃいたい!」
泣きながら光輝の胸に抱き着き、リズベットは心の限りに叫ぶ。
どれだけ覚悟を決めても終止符が打てない。
まだ終わっていない。まだ鉄の城の悪夢は続いているのだと『リズベット』が訴えるのだ。
「忘れる必要なんてない。僕は待つよ。キミが『篠崎里香』に戻れる日をずっと待っているさ。そして、必ず『キミ』を迎えるんだ」
強く抱きしめられたリズベットは、そっと面を上げる。
ああ、もう我慢しなくて良いのだろう。そっと、リズベットから光輝の唇に口づけをする。彼はそれを受け入れ、優しく応じる。
言葉を交わさずともようやく進んだ関係に、2人は自然とはにかんだ笑みを浮かべた。
「……ヤベェ」
そして、純情少女の如く顔を真っ赤にした美桜が、綿菓子を頬張った姿のまま立ち尽くしているのを見て、リズベットは今更になって公衆の面前で接吻した事実に強襲される。
「あれが光輝さんの外嫁か。大胆だな」
「なんで髪がピンクなの? 染めてるの?」
「コウ様がついに身を固められるのね……!」
あ、色々な意味で終わった。幸せな気分から一転して顔を真っ青にしたリズベットだが、すでに時は遅し。
たとえ血族でも口に戸は立てられないのだ。
▽ ▽ ▽
「始まりましたなぁ」
「始まりましたねぇ」
「祭りですなぁ」
「祭りですねぇ」
「大祭。それは神子様の契約」
「大祭。それはヤツメ様の契約」
「かつて贄姫が己の喉を裂いた」
「かつて贄姫が己の血を捧げた」
「夜ばかりが続き、世に獣が溢れた」
「夜ばかりが続き、世に血が溢れた」
「大祭とは、神子様が月を呼んで鎮める儀式」
「大祭とは、ヤツメ様が月を食んで眠る儀式」
バスの運転手と駅員の恰好をした、まるで鏡写しのような双子は踊る。
1人が持つのは猟銃。1人が持つのは鋸。彼らは軽やかに踊って砂利を跳ねさせ、白い歯で金平糖を齧り砕く。
彼らは踊る。無残にも引き裂かれた遺体の前で踊る。それは見る影もなく臓物と肉を切り分けられた男女である。
「まだ本祭でもないのに肉を捧げるとは、なんと愚かな」
「まだ本祭でもないのに血を捧げるとは、なんと愚かな」
「狩人気取りでしょうか」
「狩人気取りでしょうね」
「ですが」
「ですが」
「いよいよ掟は破られ、狩りの夜が始まりますね」
「いよいよ掟は掲げられ、狩りの夜が認められますね」
大社の裏の山道。苔生した石灯篭が並び、茂る木々さえも密やかに重々しく闇を重ねる最奥に、鳥居に似て非なる門が1つ。
それを潜れば裏社。即ち、深殿の入口である。
注連縄にも似た、だが人間の頭髪が織り込まれた荒縄は鋭利な刃物で斬り裂かれ、閂は外されていた。
「神子様でも無いのに深殿に立ち入った」
「当主でも無いのに深殿に立ち入った」
双子は嬉々と、あるいは確かな憎悪と憤怒を示し、向き合って笑い合った。
▽ ▽ ▽
片腕の老人。だが、その威圧感は檻から放たれた猛獣を面前にしているかのようだ。
深々と頭を下げていた翼は、ゆっくりと顔をあげて、顔に傷という傷を負った老人を見据える。
「ほう、悪くない面構えだ。お前さんが噂の高校生探偵か」
「坂上……翼、です」
「紫藤の娘が婿で招いたそうだな。分家にまで儂は口出しせんぞ。お前も惚れたなら、寝屋を準備してやるから、今宵でも初夜を楽しみな。儂、別に婚前でも特にあれこれ文句言わない主義だから。むしろ、惚れた腫れたの駆け引きするくらいなら、さっさと子を作れやって考えだから」
本当に当主ぅ!? フランク過ぎる態度に困惑しながらも、思えばこうした一族のトップに相対する度に、今までまともな人はいなかったなぁ、と翼はほろりと涙を流す。
「え、えーと、此度は生徒会長……紫藤静さんとの婚姻ではなく、別件の――」
「だな。で、お前さんは『分かった』そうだな? 是非とも聞かせてくれ。世に名を轟かせる高校生探偵の推理ってやつを!」
まるで子供のようにワクワクを隠せない態度で、当主たる光之助はせがむ。
これで外れてたら殺されるかもしれない。翼はごくりと生唾を飲む。
個人的には正答率5割。情報不足著しい。それでも、九塚村のトップに伝えなければならない。
「はい、狩人気取りの正体は――」
外れていたら大問題だが、その時はその時だ。
翼は犯人の名前を告げる。面白そうに髭を撫でた光之助は何かを言葉にしようとした時、障子が血相を変えた須和によって開かれる。
「おい、須和の坊主。後にしろ」
「申し訳ありません。ですが、お耳に入れたいことが」
一瞬だけ翼を見た須和は焦りを隠さない顔で光之助に耳打ちする。
そして、翼は理解する。この村は自分が知る世界から外れた『悪夢』そのものなのだと。
愚かな好奇に恐ろしい死を。
次回は新エピソードの前にレポートとなります。
それでは、303話でまた会いましょう!