SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

ランク1はハードモード続行、そしてロザリアは難易度:ボロ雑巾に。


Episode18-31 思惑の交差点

「奥様、聞きました?」

 

「ええ、もちろんよ」

 

「ティターニア様がこの街にお忍びでいらっしゃっているとか」

 

「貧しい方々や怪我人・病人にお恵みを与えてくださっているそうよ」

 

「ぼく見たよ! 御付きの騎士さんがピカって光ったと思ったら、パパの傷があっという間に治ったんだ!」

 

「オレの叔父を見やがれ。呪いで腐ってなくなっていた左腕がたったの1回だ。たった1回の祈りであっという間に解呪されちまった。しかも1晩経てば腕も元通り! あれぞ神の御業! 本物の奇跡って奴だ!」

 

「ふぉふぉふぉ! この老いぼれも眼を疑いましたぞ。肖像画の通り! まさに絶世の美女! オベイロン王の至高の宝玉に嘘偽りなしですじゃ」

 

「でも、ティターニア様は泣いていらっしゃったそうよ。ほら、月影の井戸があるじゃない? あの空井戸に腰かけて、とても悲しそうだったらしいわ」

 

「どうやらティターニア様は反オベイロン派の大粛清に反対だったようだな。反オベイロン派も深淵の力を使おうなんて考えてなかったって話だぜ」

 

「だったら、どうしてオベイロン様はそのような嘘を……」

 

「オベイロン様が下々の事情なんか知る訳ねーだろ。ほら、あの赤い月夜だ。西からの噂だが、どうにも反オベイロン派の拠点の1つが運悪く深淵に襲われちまったらしい」

 

「そうそう。それをオベイロン陛下がまとめて一掃……ってオチだったらしいぜ」

 

「だと思ったんだよなぁ。じゃねーと、あの気狂い共……深淵狩りたちがとっくに反オベイロン派を狩り尽くしてるはずだぜ」

 

「連中は容赦ないからな。昔の話だが、深淵の力を使おうとした都市を軍勢纏めて1つ滅ぼしたっていうんだからよぉ。あの殺し屋共が深淵に与した連中を放っておくはずがないさ」

 

「そうよそうよ。深淵狩り達は何をやっているの? 最近はこの辺りでも黒獣の目撃が増えてるのに。怖いわぁ」

 

「ここぞという時に役立たずなのが連中だ。赤雷の黒獣の時だって無駄に被害を増やすばかりだったじゃないか。挙句に魔物と手を組むなんて、黒獣を倒す為とはいえ、連中には妖精の誇りって奴が無いんだろうよ」

 

「だからこそだ。深淵狩りが役立たずの今、お優しいティターニア様は反オベイロン派にも慈悲を与えてるってわけだ。それで、ここからはウチの女房が聞いた、かなり信頼できる筋の噂なんだが、ティターニア様は今は諍いを超えて手を取り合い、深淵に対抗するのが急務とお考えのようだ。司教たちも熱心にそのことについて話し合ってるのを聞いたらしいぜ」

 

「お、おい、マジかよぉ。女王騎士団は反オベイロン派狩りを1番率先してただろぉ? ティターニア様の意向に反してるじゃねぇか」

 

「私は最初から反オベイロン派狩りなんて反対だったのよ! 家族纏めて火刑なんて!」

 

 妖精って……いいや、人間って怖い。リーファは人間不信の4文字を見事に示した表情で、宿【赤薔薇と蜂】の2階にある、宗教都市で最も美しいとされる白い尖塔が映える円形広場を覗ける窓辺にて多量の書物を捲るアスナに、干しブドウが入った固焼きパンを切り分けて皿に盛って渡す。

 今や宗教都市はティターニアの話題で持ちきりだ。毎日どころか昼夜問わずに新しい噂にまた新しい噂が書き加えられ、宗教都市全体を侵蝕している。

 

「あたし達、正しいことをしているんですよね? なんか気分は悪人なんですけど」

 

 古びた円形テーブルには宗教都市で仕入れた多量の本が積まれている。どうやら宗教都市は他の都市に比べて市民の教育・文化レベルが高く、読書が一般的らしかった。そのお陰で古本屋が多く、安価で多量の本を仕入れることができた。

 アスナが読んでいるのはアルヴヘイムの歴史、宗教都市の成り立ちと文化背景、ティターニア教団が発刊しているティターニア賛美書、そして女王騎士団の栄光と忠誠について綴った英雄譚である。リーファも受験を控えた12月を思い出して苦痛の記憶に苛まれるクラスの分厚さばかりであり、そこに細かい文字がびっしりと書かれているのだから始末に負えない。

 アルヴヘイムの住人が使用している言語はDBOで一般的な言語……俗に共通言語と呼ばれるものである。アルファベットに似た独自の文字とフランス語に似た文法らしく、暇を持て余した頭脳派プレイヤー達は日夜解読に挑んでいるが、プレイヤーが読む場合は自動的にシステムウインドウで選択した母国言語に自動翻訳されるので、完全なる趣味の挑戦だ。なお、この共通言語ではない言語を解読する際には≪言語解読≫が必要になる。

 

「私だって気分良くないわ。でも、手段は選んでいられないし、そんな時間もない。それに、言った通り、ひとまずは審議無しで家族を連座式処刑なんて蛮行を止めることはできたわ」

 

 最後の1冊を読み終えたらしいアスナは、一息吐いて本を閉ざし、リーファが買ってきたパンを手に取って齧りながら、青い空を見つめる。

 アスナとリーファが行ったことは単純だ。人目の『少ない』時と場所を狙い、奇跡で貧民や怪我人を癒して回っただけである。幸いにもリーファは奇跡を心得たアンバサ戦士であり、相応の奇跡を使うことができる。最前線に立つ上位プレイヤーのようなレアリティが高い奇跡はほとんど持っていないが、それでも実用性は十分であり、アルヴヘイムの妖精たちからすればまさに神の御業としか言いようがない程にハイランクに映るものばかりである。

 リーファが癒し、アスナは尤もらしく演技をして、それとなく『反オベイロン派を救いたい』や『オベイロンは間違っている』旨をお涙頂戴をしながら述べる。そして、昼間になると変装して奥様の井戸端会議に通りがかりのように参加して噂を広めていく。

 

「人間はね、噂を止められない、そして育たせずにはいられない生き物なの。リーファちゃんも経験があるでしょう? クラスの中で些細な噂から始まったのが、いつの間にか大きく膨らんで、その根拠も出所も分からなくなったことが」

 

「……あたしはそういう噂を気にしないタイプだったので」

 

「そ、そう。私の学校はいつも表でも裏でも色んな噂が飛び交っていたわ。1種の情報戦ね」

 

 アスナさんの通ってた学校は息苦しそうだ、とリーファはげんなりした顔をする。剣道1本のスポーツ少女だったリーファとは違い、いかにもお嬢様なアスナは学校の時点で住んでいた世界が違ったのかもしれない。そもそも男子に混じって竹刀を振り回す時間の方が圧倒的に長かったリーファとでは経験値が違うのだ。

 アスナがしたことは単に噂を広めただけだ。そして『不安』を焚きつけるようなワードを加え、なるべく女王騎士団の反オベイロン派狩りを止める方向へと誘導しようとしただけである。だが、それは瞬く間に西で始まったという領土拡大戦争の煽りを受けた様々な物流の活性化に伴った新情報、女王騎士団への反意、そしてティターニア教団を牛耳る司教・大司教たちの焦燥を生んだ。

 

「私がやったことは単純明快かつティターニア教団の弱点を突くものよ。彼らは『ティターニアの名前の下に全てが許される』という明確な弱点。そして、それは都市全体に施された『教育』によって徹底された狂信に基づいているわ」

 

 アスナが着目したのは古本の数だ。彼女は女王騎士団の活躍を描いた何十章にもなる、現実世界で人の後頭部に叩きつければ撲殺できそうな分厚さと重さを誇るそれをベッドに投げる。

 彼女は歴史本でもタイトルが異なる複数の本を購入した。そして、何度も何度も読み返し、リーファにも手伝うように要求しては断られ、ティターニアとしての情報拡散の為の活動を除けば、ひたすらに本を読み漁り続けた。

 そして、アスナがまずたどり着いたのは宗教都市において教養=ティターニアへの信仰であり、それらは宗教都市を支配する女王騎士団による厳しい弾圧と検閲によって作り出されたものだと見抜いた。

 

「あのね、貴族にとって……ううん、支配層にとって被支配層は『馬鹿』である方がありがたいの。文字は読めなくて、数学どころか算数もできない。だから、この宗教都市は聞く限りの他の都市と比べて裕福で、文化レベルも高くて、犯罪率も低くて安全なのは、市民の教育レベルが高いから。でも、その代償として支配層にとって危険な反乱のリスクを増やしてしまった。この辺りは歴史の勉強になるから省くとして、宗教都市は絶対的な支配の確立の為に必要だったのは女王騎士団という武力じゃなくて、ティターニア教団という『絶対的な信仰』を作り出して、それの担い手として貴族を置くことだったの」

 

「……ごめんなさい。あたし、お兄ちゃんと同じくらいに馬鹿なんです! だから、噛み砕いて説明してください!」

 

「えーと、つまりはこの都市の貴族たちの命綱はティターニアその物なの。もちろん、『私』は神託なんてしたことないし、あれこれ行政に口出ししたこともないし、できなった。だけど、ティターニア教団を担う貴族はいつだって『ティターニア様の名の下に』って言葉で支配を続けていた。最初は支配の為の方便だったんでしょうけど、今では立派に、むしろ一般市民よりも貴族たちの方が狂信的。だって、それが自分たちの貴族としての地位を守っている最大にして唯一の拠り所だから。何よりも、自分たちの善悪を『神様』に丸投げできるのはとても気楽な事じゃない」

 

「だから本に検閲を行っていた、と。いつだってアスナさん……ティターニアを賛美して、それに忠誠を誓う自分たちの『正しさ』を保証してたってことですね?」

 

 まだ頭の中で情報が乖離しているが、リーファは大よその概要を掴むことはできた。

 この都市に戸籍を置く者はティターニア教団への入信が求められ、また外部からの移籍者は他の神を信仰している場合は改宗が余儀なくされる。また、アスナの話では過去には頻繁に異教徒狩りが行われた暗い歴史もあるという。

 

「まだ確信は持てないけど、アルヴヘイム全体でオベイロンよりもティターニアの評判が良いのは間違いなくティターニア教団の影響ね。ここは赤雷の黒獣の被害を免れた都市の1つで、アルヴヘイム全土を繋げ合う新街道……物流の大動脈の通り道の建造にも大きく貢献している。その過程で、この都市の書物と『歪んだティターニア信仰』が宣教師と一緒に流出したってところね」

 

「だから、『ティターニア様が女王騎士団の行動を認めていない』って流れを作ってあげるだけで、こんなにも都市が大混乱しちゃうわけですね」

 

「普通は噂の1つで膨らむだけ膨らんで消えるのだろうけど、リーファちゃんの協力で何度も奇跡の実演ができて、生き証人は多いわ。しかも、女王騎士団のやり方がまずかったわ。連座式は犯罪抑制としては強力なのは認めるけど、鎮圧としては下の下策。それに西の戦争、宗教都市に集まっていた傭兵たちの纏まった動き、そうした市民の潜在的不安も相乗的に働いたわね。ちょっとやり過ぎ感はあるわ」

 

 ですよねー、とリーファは額を押さえるアスナに全面同意する。さすがのアスナもここまでの速度で噂が拡散し、なおかつ膨張していくのは予定外だったらしい。だからこそ、リーファには拭えない不安要素があった。 

 

「だけど、これだけ噂が広まった以上はオベイロンも……須郷も本格的に宗教都市の調査に乗り出すはず」

 

 それを代弁するアスナは厳しい表情をする。オベイロンはアスナたちがワープした森の周辺を徹底調査し、近場にあるこの宗教都市にも目を光らせているはずだ。今までは『ティターニア狂信の地』という事で、情勢不安もあって見逃されていたかもしれないが、これだけ噂が表面化して荒立てば、オベイロンは必ず動くはずだ。

 

「オベイロンが都市を丸ごと焼き払う……なんて真似はしないですよね?」

 

 心配そうにリーファが問うと、アスナもうっと言葉を詰まるように喉を引き攣らせた。

 

「正直に言えば、以前の須郷にはそんな度胸は無かったと思う。でも、今の彼は私が知っていた頃よりも残虐で冷酷。廃坑都市壊滅の話の真偽はともかく、今の須郷なら都市の住人を1人残らず虐殺することもあり得ると思うわ。だから、絶対に無いとは言い切れない。でも、私なりに3つくらいは須郷がそんな横暴な真似をできないと言える根拠を述べられるわ」

 

 3つとはありがたい事だ、とリーファは苦笑する。いざとなれば、この都市を捨ててアスナを縛って抱えてでも脱出しなければならない。兄の想い人にして最愛の人を守るのは『最愛の妹』としての絶対に失敗してはならないミッションだ。

 

「まず1つ目。須郷は必ず私達を生かして捕らえたいはず。都市を丸ごと包囲殲滅するような真似をすれば、私もリーファちゃんも死にかねない。嫌な話かもしれないけど、須郷はリーファちゃんを捕らえて情報を引き出す為に……その……口にしたくもない事をすると思うわ。それこそ死んだ方がマシってくらいの事をね。そして、あの男は私にも固執している。私が心から屈服して、『妖精王オベイロンの妻』になることを望んでいるの」

 

 右手の人差し指を立てたアスナの説明に、リーファはテーブルの下で拳を握る。自分たちを逃がす為に囮となったサクヤは『口にもしたくもない事』を受けているだろう。想像するだけで身震いし、怒りが込み上げ、オベイロンへの殺意が湧く。だが、それに振り回されないべく、リーファは深呼吸を入れる。捕まれば自分がそうなるのだ。そして、拷問の末に口を割れば、助けてくれた漆黒の少女にも被害が及ぶ。それは彼女としても避けたかった。

 

「2つ目。いかに須郷が残虐非道だとしても、性根はそうそう変わらないわ。ティターニア教団の信仰にはオベイロン信仰もセットになっている。自分を王として、神として崇める民衆。これ程までに自尊心を満たす存在ないわ。だから、潰すよりも利用するメリットを選ぶはず。これは3つ目の理由に繋がるわ」

 

「あ、分かりました! 3つ目! 西の戦争が反オベイロン派主導のモノって噂がある以上、それを潰していないオベイロンには自分では動けない理由がある。だから、女王騎士団を抱える強大な戦力を保有する宗教都市を滅ぼすわけにはいかない、ですよね?」

 

 正解と言うようにアスナは強く頷いて、読み終わったアルヴヘイムの歴史書を掲げる。そこには宗教都市で改竄されながらも、アルヴヘイムで起きた歴史的事件が記載されている。

 

「アルヴヘイムの歴史はこの本に書かれている限りでも1000年以上。それぞれの種族が翅を失い、ケットシーとインプの差別が始まったのはもっと昔。大地は緩やかに拡張し続け、アルヴヘイムは広大になっていった。その間に妖精王が明確に行ったことは『ほぼゼロ』よ。王様といっても名前だけ。いうなれば、1000年ぶりのお仕事が深淵に手を出したという反逆者の虐殺。しかも、それも西から流れてきた噂でわざとらしく『改変』されてきているわ。真っ向からの否定じゃなくて、1部は事実と認めた上での根底の否定は、反オベイロン派がプライドを呑み込んで情報操作に徹したって感じがするのよね」

 

 立ち上がり、部屋の中を右往左往して顎に手をやって考えを巡らせるアスナに、リーファはそろそろ頭が痛くなる話は止めてもらいたいと眉を顰める。

 

「アルヴヘイムの人々には必ず須郷への不満があるわ。それを焚きつけることができれば……」

 

 アスナはいっそ手慣れていると言っても良いくらいに、人心掌握と組織の動きを把握している。それはSAOで培った経験であり、人生を激変させたデスゲームに参加する以前に獲得した技術であり、天性の素質なのだろう。それでいて剣士としても一流であり、女性としての美貌も完璧とくれば、リーファも同性として自信を失いそうになる。だが、そんなアスナでもSAOでは敗れて死し、無欠に思える今回の作戦も綱渡りだと言い切り、DBOの実情を聞いた限りでも『とてもじゃないけど生き残れる気がしないわ』と顔を青くした。

 今回の密会もミスは許されない。女王騎士団とティターニア教団の掌握の為に必要不可欠な足がかりを作る最大にして最後のチャンスだ。演出・話術・交渉の全てが求められる高度な政治テクニックが要求される。

 

『「本物の政治家」はもっと怖いわよ。私がやっている事なんて所詮は10代の女の子の無理した背伸び。素人のおままごと。私の実家の本家は人間の皮を被った悪魔みたいな人ばかりよ。笑顔の裏で何を画策しているのか分かったものじゃないわ。そうでもないと家を、組織を、企業を大きくさせていくなんてできないんでしょうけどね。時代錯誤のような古臭い因習、学歴を始めとした肩書による張り合いと脅し合い、期待と重圧と生まれた時から決まった役割で押し潰されそうで、息が詰まりそうだった。ううん、窒息している事に気づかないくらいに窮屈だった』

 

 死者だからこそ、自分が生きていた日々を振り返り、後悔と哀愁を抱く権利があるのだろう。リーファがアスナの手腕を褒めた夜、彼女は辛そうに星空を見上げながら語ってくれた。

 

『だから、私は死んでしまったけど、全くと言っていいほどSAOも……アインクラッドの日々も憎んでないの。むしろ感謝してるくらい。私はあそこで「アスナ」として生きることができて、「アスナ」として死ねた。本当の「私」として死ねた。もちろん死にたくなかったし、どんな風に死んだかも思い出せないけど、それでも「彼」が私に「生きる」とはどういう事を教えてくれた気がするの』

 

 だから会いたい。『彼』をちゃんと思い出したい。折角死んだ後に続いた、いつ終わるかもわからないロスタイムだから、とアスナはそう言って笑った。

 アスナは今も記憶から抜け落ちた『彼』を求めているのだろう。リーファもその狂おしい想いと衝動は分かる。だからこそ、兄と再会できるまでリーファにはアスナを守る義務がある。

 

「アスナさん。今はともかく作戦を進めましょう。この街をこのまま放っておくなんて無責任すぎますし」

 

「そうね。もう路銀も尽きてるし、これ以上悪戯に噂を肥大化させて女王騎士団への本格的な反感と反乱が起きたら元も子もないわ」

 

 何とかアスナの思考を止めることができて安心したリーファであるが、それ故に彼女は見逃してしまった。

 決意の眼差しと共にリーファを申し訳なさそうに見つめるアスナに気づくことができなかった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「これ以上の混乱が起きるのはティターニア教団にとっても、女王騎士団にとっても看過できないのでは?」

 

 ピナを肩に乗せたシリカは宗教都市の混乱が話以上であることに困惑しながら、ユージーンが纏め上げた傭兵団との交渉を担う大司教ゴードンと協議していた。

 ゴードンの屋敷は貴族街でも特に古い地域にあり、元々は名立たる名家であったことが窺い知れる。しかし、それは同時に過去の栄光に過ぎず、今では大した力も持っていない事は屋敷に満たされた暗雲からも分かる事である。

 先の苦い教訓もある。いかにレベルが高いとはいえ、STRが低めのシリカの場合、力の勝負に持ち込まれれば低レベルの相手でも組み伏せられる。腰のナイフを意識しながらシリカは密会に赴いた。

 ゴードンが今回の密会で指定したのは自分の屋敷だ。何か目論見があってかとも勘ぐったシリカであるが、特に何事もなく、晩餐の席で中身が無い問題提起を延々と受け、欠伸を噛み殺す頃になると、広い屋敷でも孤独で自分に居場所がないと酔って泣き出すゴードンを慰める方が主な仕事になった程である。

 そうして、昨夜の実にもならない話ではさすがにまずいと思い立ったらしいゴードンに今度は昼食会に誘われ、やや寂れた庭を眺められる2階のテラスにて改めて話の場を持ったのである。

 白い陶器の更に並べられたサンドイッチを手に取りながら、シリカは昨夜と違って後がない者特有の真剣さが混じったゴードンに、今度は相応の価値のある会話ができるかもしれないと期待する。

 

「はい。正直に申し上げまして、教団は今やパニック状態です。反オベイロン派狩りを行っていた騎士たちも治安維持に回し、処刑も一時中断を余儀なくされています。怯えた市民が押しかけてティターニア様のお怒りを買っていないかと司教たちを問い詰め、罪とも言えぬ罪さえも告罪してお許しを求めて止みません」

 

 いかにもパッとしない風貌をしたゴードンの嘆息に、どうやら教団は考えていた以上の苦難に直面しているようだとシリカは眉を顰める。

 今回のティターニア騒動は明らかに人為的なものだとシリカには確信が持てた。だが、その一方で各地で都市間戦争が勃発しているアルヴヘイムにおいて、この宗教都市においても戦争はあったはずである。ならば、敵対者はティターニア教団に支配されたこの都市の弱点を十分に研究していたはずだ。過去にも似たような情報戦があったはずである。

 だが、今回のように教団が麻痺しているのは、市民の誰もが単なる噂に止まらず、本物のティターニアを求める程の不安と多数の目撃報告と奇跡の実体験者がいるからだ。

 

(獣狩りの夜に端を発したアルヴヘイム全体におけるレギオンへの恐怖。過激を通り越した反オベイロン派狩り、そしてここ数日における黒獣の活発化による街道の封鎖。まぁ、これだけ重なれば神様にも縋るでしょうね)

 

 神様に助けを求めた所で何の役に立つのやら。シリカは擦れた眼で神に祈るばかりの人々を唾棄する。本当にこの世に神がいるならば、あのような『地獄』を許すはずがない。

 瞼を閉ざせば聞こえてくる。自分が先導し、最前線に立たせ、そして死んでいった人々の恐怖の死に顔が心の傷口から泡立つ。

 必要だと感じた。だから、シリカは純粋な気持ちで、アインクラッドの完全攻略の為に、戦える人々を少しでも集めようと駆け回った。『彼』にかかる負担を少しでも減らそうと、皆で一緒に頑張ればどれだけの苦難が待っていようと乗り越えられると信じた。

 だが、結果はどうだろうか? 1度のボス戦の度にレベルは基準に到達してもボス戦の経験が不足した者たちは、75層より上のより高難度化したボスとダンジョンに擦り潰されていった。

 弱いから死ぬ。どれだけ立派な志があろうとも死ぬ。他者を突き飛ばして足掻いても死ぬ。

 ベッドの布団に包まり、シリカは涙を溜めて震える夜を何度も過ごした。

 

 

 私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない。

 

 

 どうやっても消えなかった。彼らの死に顔が頭から消えなかった。

 それを癒してくれたのが『彼』だ。傷の舐め合いだったことくらいはシリカも分かっている。『彼』は憎しみを武器に戦い続けてもアスナの死に囚われていた。だからこそ、シリカに寄り添う事で罪悪感を薄れさせようとして、シリカもその優しさに甘えた。階層を1つ攻略する度に『英雄』としての振る舞いを余儀なくされて、アインクラッドの日々と愛する者を救えなかった罪悪感に苦しめられる『彼』に寄り添い、泣きたい時に胸を貸し、そこに愛を見出した。

 

『俺がシリカの罪も全部背負う。だから、一緒に生きて帰ろう。キミの帰りを待っている「現実」に』

 

 その一言がどれだけシリカを救っただろうか。

 だからこそ、シリカは『彼』と共にアインクラッドに残ることを選んだ。『彼』の心が鉄の城に縛られ続ける限り、『シリカ』と名乗り続けようと決めた。魂より湧き出す愛のままに、いつまでも『彼』の傍にいようと誓った。

 

(私たちのアインクラッドは終わっていない。そうですよね?)

 

 随分と遠くまで来たものだ、とシリカは瞼を閉ざす。このアルヴヘイムにおいて、シリカと『彼』の旅は終わりを得るのだろうか。悲願を果たし、『彼』の心はようやく鉄の城から解放されるのだろうか。

 ふと思い出したのは、あの忌々しくも認めるしかない唯一無二の『彼』にとっての『相棒』が依頼のついでに助けたという鍛冶屋のリズベットだ。『彼』の友人だったらしく、かなりの心傷を負っており、現実世界に帰還後も投薬を含めた治療は特に過酷だった1人である。『彼』も何度か見舞いに行ったが、その時は繰り返されるアインクラッドの悪夢で焦燥しきっており、自傷行為の繰り返しで手首は醜い傷痕で埋め尽くされていた。回復後はVR犯罪対策室のオブザーバーになったが、生還者との顔合わせを頑なに拒んだ1人だった。

 エギルは正気の境界線を跨ぎ、何度も妻を殺しかけた。帰還後に幸福な人生などなく、居場所を自らの手で壊し、孤独に生きることを選んだ。

 クラインは退院後に早々に姿を消し、その後は2度と顔を合わせることは無かった。どのような人生を歩んだのかは分からないが、およそまともなモノではなかっただろう。

 アインクラッドの悪夢は終わっていない。ヒースクリフを倒した時に鳴り響いたファンファーレは彼らに何1つとして救いをもたらさなかった。達成感すらもなく、ただただ空虚だったのだ。

 

「しかし、このような事態だからこそ、革新に燃える者もいます」

 

 と、そこでシリカに我を取り戻させたのは、名家の復興に燃えるゴードンの声だ。程良く野心家であり、程よく小心者であり、悪意よりも善意で動いてしまうタイプ。シリカから見れば都合の良い駒であるが、今回の密会において、彼は急遽に自邸へと招いた。

 ユージーンが集めた傭兵団を手中に収めたと誤解しているゴードンが暴走していなければ良いが。シリカは今回の密会であり得るパターンを幾つか想定する。

 

「特にヘンウリッド司教は若くも情熱的な御方で、私財を使って孤児院を幾つも経営されています。またケットシーやインプ達にも聖書を読ませて文字を教えるなど、少々行き過ぎた慈善家でもありまして、そのせいで大司教から覚えも悪いのですが」

 

「そのヘンウリッド司教に何か関係が?」

 

「はい。私も仔細は知らないのですが、此度の騒乱を鎮める方法に心当たりがあると。ただ、その為には大司教たる私の力が不可欠という事でして」

 

 なるほど。まんまと煽てられて木を登った豚というわけですか。シリカは胸を張って口髭を撫でるゴードンに、酷く冷めた視線を向ける。ヘンウリッド司教が真に善人であるとしても、何とか組織として機能している傭兵団を権力争いの道具に使われては困る。女王騎士団を切り崩すにしても、まだタイミングが合わないのだ。

 ゴードンはいわゆる派閥を持たない、もとい派閥に誘われてもいない、古い家系の貴族というだけで大司教の席に収まっている。他の大司教からも御し易く、また脅威に見られておらず、仲間にするほどの価値もないとも思われている。だが、それを自覚するだけの中途半端な才覚があるからこそ、ゴードンは家の名を上げ、かつての栄光を当代で取り戻すことに意欲を持っている。

 

「そのヘンウリッド司教の目論見の為に傭兵団を使いたい。そういう事ですか?」

 

「いえ、そうではありません。ですが、私が彼の後見人として『力』を示しておくべきかと思いまして」

 

 馬鹿ですか? 思わず口から飛び出しそうになった言葉を慌ててシリカは呑み込む。自分よりも倍以上の年齢だろうゴードンから出たのは、実に安直な『力』の顕示だ。恐らくはヘンウリッドに格上だと見せつける事だろう。

 だが、さすがに何かゴードンにも裏があるだろう。シリカはそう期待して続きを待つが、彼はそれ以上の言葉を重ねない。シリカに語る必要はないと思っているのか、それとも本当に今ので終わりなのか、思わず困惑し、どうかせめて後者であってほしいと望む。

 

「分かりました。傭兵団をゴードン様にお貸しするかどうかは私の一存では決められません。よろしければ、そのヘンウリッド司祭の居場所を教えていただけないでしょうか?」

 

「もちろんですとも」

 

 また愚痴が始まっても困る。シリカはゴードンからヘンウリッド司祭の居場所についての情報を貰うと早々に屋敷を後にした。妖精王を倒した後にアルヴヘイムがどうなるかは知らないが、ゴードンの時代で挽回できない限りはこの屋敷も手放すことになるだろう、と冷めた諦観を抱く。

 だが、ゴードンのような愚かで小心者の野心家は隠れ蓑には最適だ。傭兵団を上手く抱え込ませる事にも成功した。

 

(あとはいかにして女王騎士団に食い込んでいくかですね。理想なのはゴードンを傀儡にして教団トップに据えるクーデターですが、女王騎士団と真っ向からぶつかるのは得策じゃありません。今の混乱した状況を上手く利用して、ユージーンさんになるべく女王騎士団の有力者と面会してもらってパイプを作り、『教団再生』とか適当に耳障りの良い『新体制樹立』の建前を作ってあげれば……)

 

 旅人のマントをフードまで深く被り、内側にピナを隠しながら、シリカは貴族街を出てティターニア騒動で揺れる宗教都市の大通りを歩みながら嘆息する。

 あくまでシリカは『秘書』であり、事務仕事や諸々の交渉は得意ではあっても、策謀に関しては出来ないことはないにしてもずば抜けた才覚を持ち合わせているわけではない。むしろ単純に政治ならばキバオウの方が得意だろうとシリカも渋々ではあるが認めている。

 今は手元のカードでやりくりしていくしかない。シリカは早く『彼』に会いたいという気持ちを抑えながら、ゴードンから仕入れられた有用な情報を整理する。

 まずは西の不穏であるが、どうやらギーリッシュという男が領土拡大戦争を全方位に仕掛け、破竹の快進撃を続けているようだ。銃器を用いた新設部隊と練度の高い騎士と傭兵たちでほぼ一方的に蹂躙し、また併呑した都市の軍さえも統合して戦力にしているようだ。

 そして、どうやらギーリッシュは反オベイロン派を掲げているらしく、その背後には廃坑都市から逃れた暁の翅の残党がいると見て間違いないだろう。

 西の反オベイロン派……いや、反乱軍は既にその手をアルヴヘイム南北に手を伸ばしている。いかに用意周到に計画されているとはいえ、あまりにも速度が異常だ。節操過ぎる。それはシリカとユージーンが話し合った、コルに由来する継戦能力の不足があるからこそ、後にも退けない戦いを行っているのだろう。

 そして、自然と反乱軍の狙いは廃坑都市の奪還も含まれていると分かる。シリカの推測通り、シェムレムロスの兄妹を通じてアイテムのコルへの換金が可能であるならば、反乱軍は安定かつ長期において軍備不足に悩まされることはない。

 問題は廃坑都市があるとされる場所は情報の限りでもかなりの難所が集う長旅が求められる事だ。廃坑都市に今も怪物たちがのさばっているならば、そちらに戦力を割く余裕は反乱軍には無いはずである。『誰か』が自発的に廃坑都市への潜入を試みているならば別であるが、そのような自殺願望とバイタリティに溢れた人員がそう簡単にいるとは思えない。

 ならば、やはりシリカが推進すべきなのは深淵狩りに協力していた鍛冶屋兼商人のモンスター系NPCの発見だろう。ユージーンも予定通りならば既にキノコ王との面会も済ませていることだろう。要塞に戻り、キノコ王に契約の履行を取り付けられたのか聞き出し、その上で今後について協議するのが今できる最善策だとシリカは判断する。

 まだまだ『彼』と合流するのは先になりそうだ。シリカが嘆息を溜め息で塗り潰そううとした時、見知った赤毛が視界の端を靡く。

 目で追った先にいたのはロザリアだ。豊満な胸の前で腕を組み、まるでシリカが気づくのを待っていたかのようである。

 ロザリアは自称『後継者のスパイ』であり、シリカにも情報提供をして廃坑都市に導いた。だが、無論であるがシリカは彼女の言葉の全てを信じていない。特に廃坑都市でオベイロンが全力で潰しにかかったことを考慮すれば、彼女こそが自分たちを罠に嵌めて反オベイロン派と一網打尽を狙っていたのではないかとも考えていた。

 こちらの動きがバレた? シリカは焦りながら、視線に気づいて誘うように路地を曲がるロザリアを追う。罠かもしれないが、この誘いに乗らない方が不安を抱え込むことになる。場合によっては傭兵団を捨てねばならない。 

 女傭兵といった具合の革装備を纏ったロザリアは人の間を器用に通り抜けていく。シリカはDEX任せに距離を詰めたい衝動を堪えながら、ロザリアの赤毛を追い、そして彼女が1軒の宿屋に消えていくのを見届ける。

 それは円形広場を眺められる立地条件の良い、それなりの上客が泊まるだろう宿屋だ。ロザリアがどういう意図でシリカを誘い込んだのかは分からないが、罠を仕込むにしては違和感が残る。

 シリカ自身の戦闘能力は決して高くない。ロザリアとは1対1で戦えるかどうかであり、1対2ならば逃亡一択だ。

 

「ピナ、援護をよろしくね」

 

 マントの襟から顔を出したピナに、弱気になりそうな心を固め直すように笑み、シリカはマントのフードを脱ぐと宿の戸を潜る。1階はオーソドックスに飲食コーナーを設けており、酒場としても機能するタイプのようだが、シリカが利用していたような荒くれ者が集うといった雰囲気はなく、いずれもそれなりの成功者のような恰好をしている。行商人と思われる男の衣服は質も良く、傭兵らしき男も身なりに気遣いを感じ取れた。

 

(ロザリアさんは……いない?)

 

 隠れる場所は多いが、出口は基本的に1つだ。後はせいぜい従業員用の裏口くらいだろう。そうなるとロザリアがこの宿のいずれかの部屋を取っていて、宿に駆け込むなり自分の部屋に一直線というのが濃厚である。

 仮にロザリアがシリカと2人っきりで話がしたいにしてもこんな回りくどい真似などせず、夜を待って人気のない場所に誘えば良いだけだ。アルヴヘイムでは彼女の立場が何であれ、シリカの方が圧倒的に不利なのだ。廃坑都市以降、居場所を捕捉された時点で【来訪者】側は常にオベイロンの刺客に襲われるリスクを背負わねばならないのだ。

 敢えて顔を晒してロザリアに『会話をする用意がある』とメッセージを送るシリカであるが、ロザリアが姿を現す様子はない。

 意図が読めない。シリカは客を装いながら、テーブルに料理を並べて話を弾ませる人々を見回していく。いずれもティターニアか西の不安で話題は持ちきりである。

 と、そこでシリカの目が止まったのは大皿にライス系の料理を盛り、取り皿に分けて食べる2人の女性客だ。いずれも顔を隠すように旅人のマントを着ている。それ自体は珍しい光景ではない。余所者であるならば、人目を忍ぶ理由は幾らでもあるだろう。だが、格好が宿の品位に釣り合っていない。顔を隠すならば、相応の宿……このような上客ばかりが集う宿は避けるのが普通だ。

 ジロジロ見るのも失礼であり、その理由もない。シリカが顔を背けようとするが、それよりも先に女性客の内の片方がシリカに気づいた途端に身を強張らせる。

 

「どうしたの、リーファちゃん?」

 

「な、なんでもないです!」

 

 目敏い相方を誤魔化すように、シリカから顔を背けた1人はごま油が利いたギラギラに輝く、これが現実世界ならばカロリー計算が大変だろう料理を掻き込む。

 ここまで分かり易い反応をされては見逃す方が失礼だ。シリカはジッと見つめていると、視線に耐え切れなくなったのか、フードに隠れた顔をチラリと見せる。金髪が映える可愛らしい顔立ちをした少女にやはり見覚えはない。

 そこでシリカは少女の腰に差さる、まずアルヴヘイムの住人が持ち合わせていないだろう、高ランクの片手剣に目を止める。柄と鞘を荒布で覆って隠してはいるが、僅かに剥げて覗かせるそれは一目でDBO基準で上位プレイヤーが所持する類の、限りなくユニークに近しいものだろうと見抜く。

 

「……プレイヤーの方ですか?」

 

 だからこそ、シリカはアルヴヘイムの住人には意味が分からないだろう、1つの単語を口にする。金髪の少女の方は反応しないように我慢するように視線を躍らせるが、相方はそうではなく、むしろ弾けるように席を立った。

 

「もしかして、あなたもプレイヤーなの?」

 

 立ち上がった少女は嬉しそうにシリカに歩み寄る。深く被ったフードに隠された顔がようやく覗ける距離になった時、シリカは言葉を失う。

 心を襲った衝撃は、例えるならば恐竜を絶滅させた隕石。

 思考を染めた混沌は、例えるならば何もない暗闇の宇宙。

 立ち直る暇もなく、シリカは先程までのロザリアの意味深な行動は彼女たちへの接触を誘導したものかという必然的な到達を『どうでも良い』と切り捨てる。ロザリアの意図など知ったことか。それどころか、シリカはアルヴヘイムで起こした多くの行動の前提を見直しを要求される現実に、脳から精神が剥離しそうになり、それを阻止するような胃の中で糸鋸がタップダンスしていると疑う程の腹痛に苛まれる。

 それはまるで雪の精霊のような儚さを持つ美貌と名剣のような芯の強さの眼差しを持った少女だ。シリカも『遺影』でしか知らないが、『彼』が誰よりも大切にしていた彼女の容貌は嫌でも脳髄焼き付けられている。

 

「な、なななな、何であなたがいるんですかぁああああああああ!?」

 

 思わず叫んで指差したシリカに、少女は……どう見てもアスナとしか思えない人物はビクリと肩を跳ねさせる。

 

「ちょっとこっちに来て!」

 

 混乱するシリカと困惑するアスナを手をつかみ、金髪の少女は一目散に宿の2階へと引っ張り、部屋の1つに2人を放り込む。どうやらSTRはそれなりに高いらしく、抵抗もできないままに、それなりの調度品と風呂場が設けられた、それなりの日数は寝泊まりしているだろうと感じられる程度には荷物が雑多に押し込められた部屋で、シリカは頭を抱える。

 ようやく旅人のマントを外し、素顔を晒した2人は、やはり1人はどう見てもアスナであり、もう1人の金髪の少女には見覚えはない。だが、彼女は明らかにシリカを見知ったような……『面倒なことになった』と全力で告げるような眼差しをしている。そして、そこには言い知れない既視感があった。

 

「ごめんね、リーファちゃん。私も軽率だったわ。でも、まさかリーファちゃん以外のプレイヤーと会えるなんて思ってなかったから」

 

「あたしだって嬉しいですよ。アスナさんと2人っきりで、誰も頼れる人がいないギリギリだったんですから。でも、もしも敵だったらどうするつもりだったんですか!?」

 

 怒る金髪の少女……リーファにアスナは申し訳なさそうに目を伏せる。だが、リーファも本気で怒っているわけではないだろうことは態度からも明らかだ。

 置いてきぼりのシリカはピナに頬を舐められながら、とりあえずは状況の把握に努めようと自分に強いるも、やはり全く見えて来ず、むしろ自分たちの今までの苦難の連続は何だったのかと脱力しそうになる。

 

「とりあえず質問させてください。いえ、やっぱり少し待ってください。まるで呑み込めませんし、納得も出来ませんし、何1つとして理解も出来ませんが、これだけはハッキリさせておきましょう。あなたは【閃光】のアスナさんで間違いありませんか?」

 

「えーと……」

 

 どう答えるべきか悩む様子のアスナはリーファに視線で助けを求めると、彼女はOKサインを出すように小さく頷く。するとアスナは決心したようにシリカを真っ直ぐと見つめる。

 

「ご指摘の通り、私はあなたが知る通りのアスナで間違いないわ。アインクラッドを生きて、そして死んだプレイヤーの1人」

 

 いよいよ頭がパンクしたシリカは、ピナの翼で扇がれながら、フラフラとベッドに近づいて腰を下ろす。いや、半ば倒れる。

 思い出されたのは現実世界に帰還後から続く『彼』との日々。アスナを失ったまま戻った現実世界に馴染めず、VR犯罪対策室のオブザーバーとして自分を追い詰めるように仮想世界の闇に関わり続け、そしてアインクラッドの悪夢に囚われたまま1万人以上を見殺しにするという大罪を犯してDBOにログインし、ラストサンクチュアリで『英雄』として傭兵業を始め、ようやく全てに決着がつくという覚悟で挑んだアルヴヘイム。

 その末路が『これ』か? 死人を奪い返そうと、囚われのお姫様を救い出そうと、『英雄』という称号に呪われた『彼』の旅路はこんなにも味気の無いものなのか。『彼』に何と言えば良い? あなたの悲願は大皿に盛ったチャーハンもどきを貪っていたと伝えれば良いのか?

 

「は、ははは……あははのは~。私たちは何をやってたんでしょうね~。もう馬鹿とかピエロとか通り越して形容し難いアホじゃないですか」

 

「ご、ごめんなさい。なんか、失望させちゃったみたいで」

 

 意気消沈して壊れたように笑うシリカに、アスナは申し訳なさそうに謝罪する。だが、アスナには何ら非も無い。むしろ、彼女が元気にこうして『存在している』こと自体がシリカにとっても最良の結果だ。『彼』と再会が待ち遠しくなるばかりである。

 だが、そうなると気になるのはリーファの方だ。アスナの事情を知っている口振りであるが、どのような関係なのだろうか。特にリーファから感じる敵意にも似た眼差しには間違いなく覚えがある。

 

「はじめまして……って関係じゃありませんよね?」

 

 リーファに向き直ったシリカは半ば確信を込めて問いかける。正解だというように彼女は腰に手をやり、強気に目を細めた。

 

「ええ。あたしもあなたには色々言いたいことがあるけど、今は争ってる状況でもないし、事情が分かってる人は多い方が良い。でも、これだけは言わせてもらうね。『よくもお兄ちゃんと会うのを邪魔してくれたわね』」

 

 その一言で十分だった。シリカは金髪ポニーテルの少女リーファの正体が『彼』の妹にして、執拗に居場所を探り続けた女だと確定する。どうして容姿が異なるかは後から尋ねるとして、シリカの中でリーファと直葉の姿が重なり、完全にマッチングする。

 アスナが平然とアルヴヘイムを闊歩していた時点で大概であるのに、更に追加で増えた問題に、シリカは心底苛立ちを込めて唇を噛む。

 

「2人はやっぱり知り合いなの?」

 

 リーファの態度から薄々感じ取っていったのだろう。アスナは説明を要求すると、リーファはシリカを冷たく一瞥してから口を開く。

 

「はい。事情を説明するのは長いので省きますけど、この人はお兄ちゃんの秘書みたいな人です」

 

「『みたい』じゃありません。秘書なんです。『彼』の公私をサポートした実績が私にはあります」

 

 火花を散らすシリカとリーファであるが、どちらが先かも分からない、ほぼ同じタイミングでひとまずの休戦をアイコンタクトで交わす。現実世界での因縁は多々あるが、それを持ち込むのは問題が全て解決した後だ。

 その後、リーファとアスナは少しだけ部屋の外に出て相談をした後に、改めてシリカに事情を語った。

 アスナはティターニアとしてオベイロンの居城であるユグドラシル城に囚われていた事。リーファは目覚めたら拉致されていて、容姿が『ALOのリーファ』になっていた事。サクヤという仲間が時間を稼いでくれたおかげでオベイロンの手の内から逃れられた事。反撃の為に女王騎士団とティターニア教団を取り込むべく、この宗教都市でティターニア騒動を起こしている事。そして、アスナの記憶から『彼』が抜け落ちているという事。

 信じ難い。だが、信じる他に選択肢がない。オベイロンや後継者の罠とも思えない。シリカは必死になって情報を纏めて噛み砕いていく。

 

「つまり何ですか? オベイロンは須郷で、仮想世界と現実世界の両方を支配しようと目論んでいて、後継者は幽閉されていると。もう色々と滅茶苦茶過ぎて笑い声も出ません」

 

 ひとまずティターニア=アスナの推理は間違っていなかったのは喜ばしい事なのだろうか。シリカは精神の均衡を保とうとするが、目の前のアスナのせいで今にも発狂しそうである。何よりもアスナから『彼』の記憶が抜け落ちているというピンポイントの記憶障害には嫌な予感がする。

 シリカも復活した死者については詳しくない。茅場は何も教えなかったし、またDBO内で調べるにしても限界があった。さすがのシリカも『彼』も原理についてはお手上げである。『彼』は幾つかの仮説を立てていたようであるが、いずれも確信が持てるものではなかった。

 

「そっか。お兄ちゃん……アルヴヘイムにいるんだ」

 

 一方のリーファはシリカから提供された情報によって『彼』がアルヴヘイムにいることを知り、大いに希望を持ったようである。涙ぐんで頬を緩ませている。

 アスナにとって思い出せなくても『彼』は大事な人だという想いは今もあるのだろう。嬉しさを全身から溢れさせていた。

 これらの反応を喜ぶべきなのだろうが、やはり目の前にアスナ達がいる事に素直な納得できないシリカは感情に心を委ねるよりも現状の改善に思考を割く。

 

「私とユージーンさんは他の【来訪者】を集結させ、戦力を整えてオベイロンを攻める予定です。こうして合流できた以上、私もアスナさんの作戦に協力します。ユージーンさんの説得が不可欠ですが、特にデメリットも無いので、彼も首を縦に振るでしょう」

 

「ユージーンさん……リーファちゃんから聞いたけど、傭兵でも特に強い人よね。信用できるの?」

 

 リーファからも『お兄ちゃんを裏切らないという点では信じられる人です』と裏書を得たシリカとは違い、会った事もないユージーンには警戒しているのだろう。アスナの心配は当然だ。

 

「できます。彼の目的は一切ブレることなくサクヤという女性の救出ですから。あなた達の目的に彼女の救出が含まれているなら協力を惜しまないと思いますよ。シノンさんも『彼』の味方ですし、レコンという方はリーファさんを助けにアルヴヘイムに乗り込んできたみたいだし」

 

「……レコンも無事だと良いけど」

 

 さすがに自分の為にクラウドアースを動かしてアルヴヘイムに乗り込んできてくれたレコンには思う所もあるのだろう。リーファは胸の前で拳を拳を握り、同じギルドの仲間の安否を憂う。あの廃坑都市にいたとなれば死亡している場合も十分にあり得るが、シリカはあえてそれを口にしなかった。どんな理由であれ、1人の女性の為に命を張って死地に乗り込んできた男気を評価するからだ。そして、是非ともリーファを『彼』から引き剥がしてもらいたいとも内々で期待する。

 

「気持ちと情報を整理したいのはお互い様でしょうから、私は1度ユージーンさんの所に戻ります。こちらが私たちの根城ですが、絶対に2人だけで来ないでください。普通に寝込みを襲われる程度には治安も悪いですから」

 

 傭兵団の拠点である要塞の位置を記した紙片、そして生活の足しにと出せるだけのユルドをテーブルに置く。2人は生活費をティターニアの衣装にあった髪飾りを売って得ていたらしく、まだ蓄えはあるが、とても十分と言える額ではなかった。シリカの援助にアスナは素直にお礼を言い、リーファも渋々といった様子ではあったが、プライドや因縁よりも実利を優先して頭を下げて感謝を示した。

 

「ねぇ、シリカちゃん。『あの人』は……私をずっとずっと探していたの?」

 

 去り際に呼び止められたシリカはアスナの問いかけに振り返らず、静かに拳を握る。

『探していた』? そんな一言で片づけられるものではない。狂って呪って狂って呪って、呪って呪って狂って、妄執にも等しく死した愛する人を求め続けた旅だ。1番傍にいたシリカだからこそ、『彼』がどれだけ壊れてしまったのか知っている。

 アスナがたとえ記憶を取り戻したとしても、彼女が愛した『彼』はいないだろう。『英雄』という呪いとアスナを守れなかった自己憎悪が『彼』を変えてしまった。

 結局は何も言えないままシリカは宿を去った。アスナへの印象は悪かっただろうが、口を開けば醜く罵ってしまいそうだったのだ。

 シリカは迷わない。『彼』を愛することを迷わない。そして『愛されたい』とも強く想っている。その為の努力だって怠ったことはない。時には乱暴な手段に打って出るのも、彼の心を少しでも自分に傾けたいからであり、その為の権謀術数は休む暇もない。それでも『彼』の苦悩を取り除くことはできなかった。

 

「……少しクールになりましょう」

 

 頬を叩き、シリカは今回のアスナとリーファとの接触という、棚から牡丹餅どころか金がインゴット単位で降ってきた事態は偶然の賜物ではない。明らかにロザリアが誘導した結果だ。つまり、ロザリアの目的は2人にシリカを引き合わせる事だった。

 どうしてそのような真似をする? ロザリアが後継者のスパイであり、オベイロン打倒を目論んでいるとして、どうしてアスナがオベイロンの手の内から逃げ出している? リーファの協力があってこそなのであるが、肝心の彼女はどうして逃げることができたのか、その起点を曖昧にしている。

 要はアスナの脱走、リーファの逃亡、ロザリアの協力。この3つにはいかなる視点で見ても繋がりは不可解であり、成り立ちは不自然であり、まるで背後関係が見えないのだ。

 いっそロザリアが関わっていなければ、全ては神様の気まぐれ、偶然に次ぐ偶然の奇跡と割り切る事も出来ただろう。だが、ロザリアが後継者側であれ、オベイロン側であれ、独自に動いてるのであれ、それぞれの事象を繋ぎ合わせることができないのだ。

 

(オベイロンが仕掛けた罠にしても不可解です。アスナさんたちが逃亡したのは獣狩りの夜以前。つまり、オベイロンが反オベイロン派と【来訪者】の始末に乗り出した頃。辻褄を合わせるならば、アスナさんの逃亡をトリガーにしてオベイロンは過激な攻勢に出たとも捉えられなくもない)

 

 ならば、オベイロンにとってはアスナの逃亡はイレギュラーな事態だろう。そして、そこには後継者のシナリオが介在しているとは思えない。

 アスナの作戦に協力するにしても、万が一に備えて多くの対策を準備しておくべきだろう。最悪の場合には今まで築いたものを全て放り投げてゼロからスタートも想定すべきだ。

 日も暮れた頃に傭兵団のアジトとして機能している要塞に戻れば、多くのキャンプテントが張られ、今か今かと暴れるタイミングを待っている傭兵たちが集っている。彼らも『でかい仕事にありつける』と思っているからこそ、こうしてジッと待ちに徹しているのだ。彼らを養うだけの金をゴードンから引っ張り出している以上は、彼の目論見に少しくらいは協力すべきだろうともシリカは計算する。そして、出来れば、上手くアスナの作戦もそこに組み込みたいところだ。

 今日も山ほどの事務仕事をこなさなければならない。アスナ達の事はユージーンに相談するにしても、傭兵団の運営に必要不可欠な事務の過半をシリカは担っているのだ。宗教都市に赴いていた間の分だけ溜まった仕事を処理も優先事項である。

 仕事部屋の前に立ち、今夜は眠れるだろうかと今の内からストレスで意識の半分を擦られながら目をどんよりと曇らせる。そして、地獄が待つ部屋と区切る薄い戸の隙間より蝋燭の光が漏れていることに気づく。

 ユージーンは早ければ昨日の深夜か今日の早朝には要塞に戻っていたはずだ。上手くキノコ王の助力を取り付けられたかは不安であるが、それでも生存して戻ってきただけでも十分である。何よりもシリカが感激したのは仕事部屋には人の気配がある事だ。

 まさかユージーンさんが自主的に事務処理を!? これならば明け方前に眠れるかもしれない! 地獄にも救いはあったのだとシリカは少しだけ晴れやかになった気分で戸を開ける。

 

「シリカ、ただいま戻りました! もう、ユージーンさんったら憎いことやってくれるじゃないですかー! さすがは傲慢不遜でもランク1! 不覚にも感動して――」

 

「ふむ、こんなものか。組織としての規律を守るためには明確な上下関係が最も手っ取り早い。ああいう輩は腕っぷしが全てだと勘違いされがちだが、『生き残った』年長者にもよく従うものだ。あとは備品管理の為に娼婦を雇え。彼女たちも『仕事』は多いに越したことは無いし、昼間の作業も賃金が得られるならば不満もないはずだ。それと同じ料理を食すのは連帯感を強める。今後は朝夜の二食を炊き出しにしよう。その方が食費のコストも下げられる」

 

「なるほど。より軍としての統制を目指すというわけか。貴様の案を採用しない理由はないな。明日からでも早速改善に取り掛かろう」

 

 まずシリカにとって唯一無二の喜ばしい事は、テーブルを埋め尽くしているだろう書類の山の半分は消化されていた事だろう。このお陰で彼女の睡眠は順調にいけば地平線から太陽が昇るより前に訪れるはずだ。

 だが、それ以上にシリカを打ちのめしたのは、どうやら無事に帰還したらしいユージーンと親しそうに傭兵団の改革を図に示しながら案を並べる黒髪の女性だ。

 ユージーンは傭兵でもプレイボーイと知られ、夜の相手には事欠かない。だから、彼が女を侍らせていることは何ら不思議ではない。だが、ただでさえゴードンの安直さ、アスナとリーファという爆弾、ロザリアの謎と続いて精神が摩耗したシリカには、もはや嫌な予感を通り越して、先に腹痛しかなかった。

 

「む、帰っていたのか。その様子だと良からぬ問題が幾つかあったようだな」

 

 そして、平然とシリカを迎えるユージーンに、シリカは説明を求めようとするも、金魚のようにパクパクと開閉させるばかりで言葉は出なかった。

 シリカに気づいたらしい黒髪の女性は近寄ると丁寧に頭を下げる。流れるように自然と彼女の背後に立ったユージーンの姿はまるで守護を誓う騎士のようだ。

 なんかユージーンさんが色々と激変しているんですけど!? 女の直感&女の分析力でユージーンに何かしらの変革があったことを察知したシリカは腹を括るしかないのかと、脳の奥底から湧く鈍痛に抗えなくなる。

 

「貴様には色々と尋ねたい事がある。もはや互いに隠し事は無しだ。だが、まずは事情を説明すべきだろうな」

 

 ユージーンに顔だけ振り返っていた黒髪の女性は小さく頷く。聞きたくないとシリカは耳を覆いたい衝動を堪え、対精神ショックの為に身構える。

 

「はじめまして。私はサクヤ。いきなりで混乱するかもしれないが、オベイロンに拉致されていたプレイヤーだ。諸事情あって、今はユージーンに匿ってもらっている」

 

 サクヤ。確かユージーンさんの想い人の名前であり、リーファが属するフェアリーダンスのギルドリーダーであり、そして彼女曰くユグドラシル城からの脱走の際に囮となった人物のはずである。そして、リーファとアスナの決起には犠牲になった彼女の救出も理由の1つにあったはずだ。

 それが、何がどうなって、いきなりシリカの目の前に、それもなんかランク1と良い雰囲気になった状態で現れたのだろうか? キノコ王の契約を取り付けにいったはずのユージーンに何が起こったというのか。

 言いたいことはたくさんある。聞きたいことは山のようにある。だが、それよりも先にシリカは唇を噛んで震え、ピナの必死のふわふわ毛のなでなで援護もむなしく、その両目に大粒の涙を溜め、そして爆発した。

 

 

「もうヤダぁあああああああああああああああああ! 私が何をしたっていうんですかぁあああああああああああああ!? ピナぁあああああああああああああああああ! うわぁああああああああああああああああああああああああああああああん!」

 

 

 決壊したダムのように涙を流したシリカは頭痛と胃痛にサンドイッチされ、子どものようにその場にしゃがみ込んで泣き叫んだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 西では砂上都市が仕掛けた大戦争。東では女王騎士団が中心になって反オベイロン派狩りが激化。南北は東西の動きに挟まれて大混乱。アルヴヘイムをぐるりと1周する物流の大動脈とも言うべき大街道を汚染するように、アルヴヘイムは今まさに大激動の時代を迎えている。

 砂上都市バムート新領主のギーリッシュは『銃』を用いた新設部隊による電撃作戦と豊富な鉱物資源に裏打ちされた屈強なるサラマンダーの騎士、雇い入れたスプリガンの傭兵団、そして続々と合流しているケットシーとインプを吸収し、破竹の勢いで周辺都市を併呑しているらしい。

 だが、侵略にしても速度がおかしい。また、砂上都市はまるで最初から脚本通りに進めているように、侵略した都市の軍隊さえも統合し、より強大な戦力となっている。何かしらの根回しが事前に済んでいただけではなく、徹底抗戦を仕掛ける首脳が即座に『処分』された確率は高い。

 この動きに対して、南北の都市はオベイロンの名の下に同盟を組み、反オベイロン派の旗を掲げて盟主を自任するギーリッシュに抵抗を続けている。北は膠着状態のようであるが、南は押されており、その戦火はじわりじわりと影響を与え始めている。

 

「そういう事ですね?」

 

 オレはシステムウインドウのメモ帳機能に箇条書きした情報を整理しながら、目の前の盗賊……もといオベイロン陣営が放った破壊工作員に対して問う。木に縛り付けられ、頭部のパーツの過半が失われた女に、オレは他に情報は無いかと鋏を原形を失くした彼女の右耳の傍で奏でる。

 

「ありましぇん! 本当です! 本当です!」

 

「嘘ですね? まだ話してない事があります。どうしてこの近辺の村を襲っていたのですか?」

 

 オレは微笑みながらそっと優しく左手で女の削がれて歯茎まで見えている頬を撫でる。涙を残った右目に浮かべた女は激しく首を横に振った。

 

「嘘は言っていません! 反オベイロン派のせいにして民衆の――」

 

「ああ、そういうのは『どうでも良い』です。オレが聞きたいのは『本当の狙い』です。それとも、まだ『お喋り』が必要ですか?」

 

『ハッピーセット』の箱から剃刀を取り出し、まだ残っている彼女の右乳房に刃を潜り込ませる。絶叫は上がらない。既に喉を最低限の声量しか出せない程度に潰してある。間もなく夜が明ける森で、女の濁った叫びだけが浸み込む。

 この女とその仲間たちはアルヴヘイム南方の村々を襲い、それを反オベイロン派の『非道なる暴虐』の仕業にしていたようだ。自分の領土をわざと傷つけさせ、それを敵の悪逆と見せかけて非難する。古いやり方だが、確かに効果的だ。だが、それにしては余りにもやり方がスマート過ぎる。突然にしては組織的かつ効率的な動き。この女から奪った地図には多くのバツ印があり、それが襲撃された村々であるならば、事前に練られた『台本』が無ければ無理だ。

 ゴミュウのやり方に少し似ているか。剃刀の刃をゆっくりと回転させ、右乳を切除し、涙と鼻水でグチャグチャになった女の顔を見つめる。恐怖で程良く化粧されている。嘘を言っているとは思えないが、オレはねーちゃんと違って虚言を嗅ぎ取れるような器用な本能は持っていない。ヤツメ様はグーサインして戦いと殺し以外には無能ですと自信満々に宣言してくださっている。

 

「殺して。殺してください! もうヤダ! 嫌! い――」

 

 この女はもう何も吐きそうにないな。それに『お喋り』できる程に肉体も『残っていない』し、HPも少ないだろう。これだからアルヴヘイムの住人は困る。レベルが低い以上は耐久力も無いので『お喋り』できる時間が少ないのだ。回復アイテムも使えないので困りものである。

 真実か虚言かはその実を言えば価値など無い。大事なのは『情報』そのものだ。それの真偽など関係なく、ひたすらに蓄積していけば、表裏に潜む策謀と戦略が炙り出せるものである。オレがキバオウとゴミュウの仕事でよくやった解決案だ。要は『敵』と判断したならば殺す。なるべく『情報』を奪ってから殺す。

 女の喉を剃刀で断ち、言葉を血で塗り潰す。赤く点滅していたカーソルは消え、絶命した女の瞼を左手でそっと閉ざし、縄を解いて彼女の仲間たちの骸の上に重ねる。30人ほどの大所帯だったが、『お喋り』できたのは生かした4人ほどだ。1人として生かしていない。隠れ潜んでいた者は等しくヤツメ様の糸で絡め捕り、逃がす事無く狩った。

 死体の山に油をかけ、マッチを擦って投げる。燃え上がった遺体は個人を判別させることはないだろうが、この死体の山は見る者が見ればその正体を判別できるだろう。彼らの使っていた騎獣もわざと放逐してある。

 死体を燃やす火で暖を取りながら、オレは今回の盗賊に扮したオベイロン派の破壊工作員による自作自演……更にその裏側を推測する。あのゴミュウとやり方が似ているというのは、あの女はこうした回りくどい、後々になって猛毒となる遅々とした罠を張るのが得意だからだ。あの女は自陣営に犠牲を払ったとしても、最終的に目的を必ず果たす。その執念がある。

 恐らくだが、オベイロン派による自作自演と見せかけた、反オベイロン派による工作活動だろう。オベイロン派の急先鋒にして過激派に扮した反オベイロン派の人物が今回の作戦を提案した。そして、反オベイロン派はその自作自演を盛大に暴いて民衆にオベイロン派の残虐性を知らしめ、増々以って自陣に『正義』をもたらして支持を得る。

 考え過ぎか? いや、そうでもないだろう。ギーリッシュという男の評判は霜海山脈を出た限りでも『かなりキレる人物』以上の感想を持てない。そして、優秀な側近だけではなく、敵の首脳を迅速に始末できる強力な個人による暗殺も行われていると見て間違いない。どう好意的に見てもゴミュウと同類だ。絶対にオレとは相性最悪なタイプだろうな。

 

「さてと、オレからの『メッセージ』をどう受け取ってくれるのやら」

 

 この焼死体の山と放った騎獣は『オマエの手口は見えているぞ』という伝言になるだろう。

 オレには政治に必要な才覚は壊滅的に存在しないと自負している。だから毎度のようにネイサンにはアイテムを売りつけられるし、鬼セルダさんには雷を落とされるし、スミスには馬鹿にされて笑われる。だが、後手ではあるが、相手の意図を見抜けないまでに節穴であるつもりはない。『騙して悪いが』された経験数が違うのだ。

 オレからの『メッセージ』を正しく受け取り、なおかつゴミュウ級に頭がキレるならば、このような手法は止めるはずだ。別に非難するつもりはないが、今回のように偽盗賊を『返り討ち』する度に時間が無駄になる。情報収集の餌が集まってくれるのはありがたいが、今は時間優先だ。

 ハッピーセットに道具を戻すが、そろそろ針金の在庫が無くなってきたか。補給したいところだな。奪った地図によれば、それなりの町がある。名前は確か……宿場町のレア・ガースだ。交易路でもある大街道が交わる町で、治安はそこそこ悪い方であるが、情報も物もそれなりに集まる町らしい。アルヴヘイムの情勢とランスロットの情報を集めるには都合も良いだろう。

 偽盗賊が使っていた騎獣を1匹は残してある。ファンメルンという靡く鬣が特徴的な4足歩行の大蜥蜴だ。ヘス・リザードと違ってかなり凶暴であり、口にも拘束具がついている。≪騎乗≫が無いオレではマイナス補正が大き過ぎて速度も馬力もかなり落ちるだろうが、情報と違ってかなり従順だ。

 

「ここまで行きたいんです。連れて行ってもらえますか?」

 

 頭もそれなりに良いらしいので地図を指し示して微笑みながらファンメルンに頼むと、怯え切った大蜥蜴は頭を下げる。まるで服従のポーズだ。前評判とはかなり違うな。≪騎乗≫のスペシャリストにして騎獣愛好会のメンバーであるRDなら何か分かるかもしれない。

 口の拘束具を外して顎を撫で、オレはその大きな背中に腰かける。オババから見繕ってもらったこの巡礼服は擬装には都合が良い。旅の巡礼と見れば、ならず者や今回のような連中が勝手に襲い掛かってきてくれる。路銀と情報には困らない。まぁ、過半が色々と誤解して襲ってきているのは個人的に問題点だが、今更何か思う所でもない。

 灰色の狼を繰り返し召喚して速度を維持してきたが、ここから先は人目も多い以上はなるべく目立つ手段を避けたい。ならば、アルヴヘイムでも標準的な騎獣を扱うのが1番だろう。何よりも灰色の狼の召喚は魔力を消費する。いつ何処で戦闘が勃発するか分からない以上は移動に徹する時以外の使用を避けて魔力温存を狙いたい。

 あの破壊工作員女から奪った香水を振りかけ、血と人が焼けた悪臭を消しておく。これからは他人と接触する機会も増える。注意しておくことは無意味ではない。

 

「このペースなら2時間ほどで着くか」

 

 上手く大街道にも出れたお陰か、ファンメルンの足も軽い。マイナス補正がかかっているとはいえ、やはり徒歩の旅とは違うな。走り続ければ自分の足の方が速いのであるが、何事にも温存は大事だ。時間はないとは言え、焦り過ぎて無理を重ねるべきではない。

 義眼を隠す眼帯を撫でながら、オレは消えない内なる高熱と皮膚下の冷たさに嘆息する。内側から血を沸騰させ、肉を焦がし、骨を炙るような、脳髄を溶かす高熱。これは後遺症と時間加速のものだが、冷たさに関しては霜海山脈の環境が大きいと思っていただけに誤算だった。まさか小さくなるどころか時間経過と共に悪化するとは予定外である。こうして少しでも脳の負荷を下げれば多少の鎮静にはなるが、熱と冷たさのサンドイッチはなかなかの責め苦だ。

 だが、問題は右手の方か。ランスロット戦での後遺症を癒す暇もなく、霜海山脈での修行とトリスタン戦だ。致命的精神負荷を受容しなかったとはいえ、かなりの高負荷をかけた結果、右手の感覚が深刻なレベルまで失われ始めている。痺れも酷い。少しでも対策をしておいた方が良いな。せめてランスロット戦までに案が浮かべば……いや、待てよ? あの方法はまだ試していなかったか。

 町に着く前に済ませておくか。ワイヤーを取り出し、オレは粗鉄の投げナイフを左手で握る。以前に1度やった手段だ。あの時と違ってユウキもいないから気にすることもない。

 粗鉄のナイフで右腕の肘から手首までを切開する。HPの減少と共に多量の血が零れ、ファンメルンの背中、そして零れて街道を染める。大蜥蜴が震えたので、オレは気にするなと左手で鱗で覆われた首元を撫でた。

 開いた傷口の奥までワイヤーを突き刺し、肉ごと内側から縫合していく。傷口の粗さは目立つが、塞がる頃には即席の痛覚による感覚補強の完成だ。痺れは残るだろうが、贄姫を振るう上では特に問題ないだろう水準まで回復するだろう。いや、回復してもらわないとランスロット戦で困る。致命的な精神負荷の受容をすれば、一時的でも感覚を取り戻せるかもしれないが、最初からそれを実行すればヤツを仕留めるより先にこちらが燃え尽きる。あくまでアレは使わないに越したことは無い手段だ。

 アルヴヘイムは傷が癒えるまでの時間が長い。流血ダメージをオートヒーリングで緩和しながら、オレは朝の清々しい青空をぼんやりと見上げ、やがて指先から滴る自分の血を見つめる。

 

「……試すか」

 

 時間は有限だ。訓練をしておく事に越したことは無いか。オレはパラサイト・イヴを起動させる。

 パラサイト・イヴの能力は複数ある。あらゆるモノに感染して簡易強化し、パラサイト・イヴと同化状態にする武装感染。≪暗器≫を上書きする代わりに強化度合が大きい武装侵蝕。多量のスタミナを消費したトラップ設置のケダモノの顎だ。

 正直言って、単純に火力という意味では燃費最悪かつトラップ発動という使い勝手のケダモノの顎以外はそんなに強力ではない。いや、ファンブル状態にならない武装感染やあらゆるモノを≪暗器≫化できる武装侵蝕は使えるが、直接的な火力は無い。あくまで強化するだけだ。それとパラサイト・イヴには必然的に備わっている特性もあるが、そちらも攻撃力を供えたものではない。

 粗鉄の投げナイフを右手で握り、武装侵蝕する。どす黒い血が刀身を侵蝕し、黒血で覆われたナイフに変化させる。この状態では粗鉄ナイフを大きく上回る攻撃力を持っているが、手放せばすぐに消えるので持続力はない。だが、投げナイフなので問題は無いだろう。

 では魔力壺に武装侵蝕した場合はどうなるだろうか? 火炎壺とは色違いであるだけの魔力壺はアルヴヘイムでも火力不足が如実だ。だが、あくまで魔力壺自体が強化されるのであって、魔力の爆風自体には強化が乗らない。

 ザリアも銃剣モードには強化できるので、武装侵蝕状態ならばより接近戦にも対応できるが、雷弾やレールガンなどには強化を及ぼせない。

 既に『切り札』となり得る攻撃方法は編み出しているが、もう1つは欲しいところだな。このパラサイト・イヴの能力を上手く活かした運用方法を見つけておきたい。対ランスロット戦への備えは多ければ多い程に良いのだから。

 そうして考えを膨らませている間に宿場町レア・ガースに到着する。騎獣は到着と同時に二束三文にも等しい価格で売り払う。それなりの治安の悪さとは不正の横行を示す。騎獣の所有者については何も問われることなく、その代わりのような買い叩きだったが、今はそれで十分だ。

 街道の交差点として栄えた町らしく、交易拠点とは言い難いが、行商人や傭兵といった職種の者たちが多く存在する。西の戦争の煽りを受けてか、行商人の護衛依頼も多いようだ。市場も武具関連の価格が高騰しているのであるが、相変わらずの粗末な武器ばかりである。

 この町に長居する気はない。情報収集と最低限の物資を仕入れたら即時に旅立つ予定だ。まずは大きな酒場を1階で経営しているらしい【豚の尻】なる宿屋に入る。そこには仕事を待つ妖精たちが時間を潰している。スプリガンの数がやはり多いのは彼らが傭兵を生業とする種族だからだろう。

 フードを脱ぎ、オレは一息吐いて酒臭い店内を見回す。この巡礼服には鈴が取り付けられているので歩く度に涼しい音色が響く。この地では巡礼者は珍しいのか、店内の視線がオレに集まったような気がした。

 宿場町というので流れ者が多いと思っていたが、やはり余所者は警戒されるのだろうか。これは情報収集も難しそうだな。

 席に着くと給仕の娘が少し駆け足で寄ってくる。オレは杖をテーブルに立てかけ、彼女を警戒させないように微笑んで迎えた。

 

「ご注文は何にされますか?」

 

「軽く食べられるモノを。飲み物は水で構いません」

 

 そうして運ばれてきたのはフライドポテトに似た揚げ物である。塩のようなものが飴色のスティック状の食べ物に振りかけてある。味は分からないが、周囲の客を見る限りではよく注文される類のようだ。恐らくは看板商品なのだろう。

 お盆を胸の前で抱きしめる給仕は、まるで注視するようにオレを見つめている。何か作法に間違いがあるのだろうか。

 

「あ、すみません! とてもお奇麗だったもので。それに巡礼の方はとても珍しいですし。もしかして、護衛をお探しですか?」

 

「いいえ。旅の途中で寄っただけです。巡礼と言いましても物見遊山のようなものですよ。それにしても、この町はいつもこんなに賑わっているのですか?」

 

「そうですねぇ……最近はやっぱり西の戦争の煽りを受けて護衛を増やされる方は多いですから。反オベイロン派も各地で暴動を起こしているようですし」

 

 ふむ、元々反オベイロン派を名乗って狼藉している者は多かったようであるし、妥当と言えば妥当か。先の破壊工作員のような自作自演もあるだろうが、それ以上に反オベイロン派を隠れ蓑にして暴れ回るならず者が多いようだ。そうでなくとも、反オベイロン派狩りの過激化は穏健派を急進派に変えるだろう。反オベイロン派は『正義』を振りかざして各地で暴動を起こしていてもおかしくない。

 そうなると気になるのは、東の過激な反オベイロン狩りの急先鋒である女王騎士団だな。東と言えば、オレ達が最初にアルヴヘイムを旅した土地である。詳細な地図が無いアルヴヘイムであるが、女王騎士団を抱えた宗教都市はアルヴヘイムでも内地のようだ。イースト・ノイアスまで足を運ぶのは少し遠そうだな。まぁ、行っても余り得られるものはないのも事実であるが、獣狩りの夜を経てどう変化したのかは見ておきたいところでもある。

 

「でも、あなたも護衛選びは注意なされた方が良いですよ! こんな時世ですから、1人旅なんて絶対に危険です! だからこそ、護衛も慎重に選ばないと!」

 

 だから護衛は必要ないと言っているのだが。妙に説得力を込めた物言いに、何かあったのだろうかと勘ぐってしまう。

 

「少し前ですけど、この宿でも酷い事があって」

 

 だから尋ねる間でもなく、お喋りの給仕の娘は語り出す。どうやら、他でもないこの場所で何やら大きなトラブルがあったようだ。

 

「あなたと同じ貴族の巡礼の方で、とても可愛らしい御方だったんです。婚前の巡礼だったみたいで。全身真っ黒で固めた怪しい2人の護衛を連れていたんですけど、その護衛達に襲われていたんです」

 

「……へぇ、どうしてまた宿で襲ったのでしょうね? 金目にしても、体にしても、人目につかない場所を狙うと思いますが」

 

 そもそも貴族で婚前の若い娘が、聞く限りでは野郎2人を護衛に付けて乱世に巡礼の旅など自殺願望だろうか? 味が分からないフライドポテトもどきを食べながら、ヒートアップしてきた給仕の娘の話に耳を傾ける。

 

「ウチの宿の売りは部屋ごとに取り付けられた浴室なんですけど、入浴中を狙われたみたいなんです! 卑劣極まりない悪漢ですよ!」

 

 話を聞く限りだと、若い娘を大柄な男が後ろから腕をつかみ、もう1人の若い男はバスタオル1枚姿の娘を下から覗き込んでいたようだ。うん、どう言い訳しても即逮捕の光景だな。弁明など不可の現行犯だ。

 だが……なんだろう、この既視感は。SAO時代に幾度と経験したような気がするな。灼けてしまって朧になっている件も多いが、数が数なので記憶のストックも相応だ。『アイツ』の案件に酷似している。具体的にはオレのとばっちり被害録に似たようなケースが多数記録されている。

 その護衛が卑劣な悪党だったのか、それとも不運な誤解だったのか。それは分からない。だが、サインズとは傭兵の信用を担保している組織なのだと改めて実感した。それを考えれば、ゴミュウと契約して傭兵業を軌道に乗せられた分くらいは彼女に感謝しても良いかもしれない。

 食事を追えて町を散策すれば、すっかり遠くなった霜海山脈を望むことができる。フードを被り、オレは白い山並みに背を向けて、行商人で賑わう市場を見て回る。目当てが見つかれば良いのだが。

 そして、オレはきめ細かい織物を並べた行商人の露店で立ち止まる。いずれも薄く、しなやかで、そして何よりも丈夫そうだ。奇麗に折り畳めばポケットにも無理なく入りそうである。2メートル四方でありながら、その軽さと強度は悪くない。

 

「さすがは貴族様! ウー・ゴートンの毛皮から作った特産品! 丈夫で長持ち! 何よりも薄くて軽い! 1枚たったの5000ユルド!」

 

「では5枚」

 

「はい、毎度あ……へ?」

 

「5枚いただきます」

 

 微笑んで再度要求すると、行商人は目を白黒させて慌てて5枚分の白い正方形の織物を包む。ここまで『稼いだ』路銀の過半が吹っ飛んでしまったが、それに見合う買い物だ。どうせ食料等々には金もかけない。ユルドは使い捨てるくらいの気持ちで行こう。

 4枚をアイテムストレージに入れ、残りの1枚をその場で右手に持って舞わす。うん、これは理想的だ。奇麗に折り畳みで3センチほどの小さな塊にするとポケットに入れる。

 その後は安価で質も悪い干し肉を大量に買い込みながら情報収集を行い、何やら昔は各地を旅した冒険者だったというサラマンダーの屋台へと足を運ぶ。そこにはおでんに似た煮込み料理が並んでおり、いかにも偏屈そうな男が不愛想に帰った客の皿を片づけていた。

 

「こんにちは」

 

「……俺は裏仕事の斡旋はしてねぇぞ」

 

 軽く挨拶して料理を注文しながら情報を引き出そうと思ったのだが、席に着くより先に屋台の男は鼻を鳴らす。おでんだけではなく、焼き鳥に似た串焼きも置いているようだ。まるで屋台の見本のようであるが、アルヴヘイムでどうして由緒正しきジャパニーズYATAIがあるのだろうか?

 それはともかく、男の睨みにどう応えるべきか。悩むより席に腰かけておでんを数種指差して注文する。味は分からないし、軽食とはいえ腹に入れたばかりなのだが、こうした場合は最低限のマナーがある。

 

「裏仕事なんて、そんな……」

 

「お前からは死臭がする。この町には盗賊同然のゴロツキ傭兵や騎士崩れのクズが山ほどやってくるが、お前からはそんな糞共も清潔に思えるくらいに酷い死臭がするんだよ」

 

 先の『お喋り』のニオイも人を焼いたニオイも香水で隠しているはず。とはいえ、嗅覚にも障害が出始めているので、もしかしたらオレが気づいていないだけで、とんでもない悪臭がしているのかもしれないが、

 だが、この場合の死臭とは五感がもたらすものではなく、この屋台の主の目利きという意味が強いのだろう。どうせ演技は大根役者に毛が生えたくらいのオレなのだ。無理に隠しても意味は無いか。

 しかし、イーストノイアスの商人もそうだったが、この屋台の男も場数を踏んでいるだけあって鋭いな。アルヴヘイムの住人はレベルやスキル、装備こそ貧相ではあるが、それ以外に関してはDBOプレイヤー以上のものを持っている場合も多々ある。それは彼が相応の人生経験を積んでいるからだろう。

 

「そうだとして、アナタに何か不都合でも? オレはアナタとお話がしたいだけですよ」

 

 微笑みながら首を傾げ、テーブルで手を組みながら問う。そんな町で商売しているのだ。客を選り好みするとは思えない。

 重要なのはオレの評価ではなく、この男の情報の有無だ。保有しているならば聞き出したい。まだ相応の報酬は約束できる。あまり手荒な真似はしたくないから、暴力的な手段は選択外だ。

 屋台の主は頬を引き攣らせ、皿に盛ったおでんをオレに差し出す。ホカホカの卵やコンニャクもどき……出汁もさぞかし浸み込んでいるだろうが、それを味わえることはない。まぁ、それを想像して食べる楽しみもあるような気もする最近だ。

 のんびりちくわっぽそうな具を食むオレに、屋台の主は黙ったままオレを見つめている。心なしか、その額からはじわりと汗が滲んでいるようだ。ここは霜海山脈からの冷気が酷いらしいが、最近は随分と温かくなったそうだ。やはり春が訪れて周辺地域の気候にも影響が出始めているのだろう。

 

「牛筋おいてます?」

 

 あの独特の食感ならば、味はなくとも楽しめる余地はあるかもしれない。だが、屋台の男は答えない。もしかして、アルヴヘイムには牛筋はまだ未発見なのだろうか。まぁ、おでん屋でもたまにメニューにない店もあるし、仕方ないか。

 

「何人殺してきた?」

 

「明け方前に30人ほど。これまでの総数となるとゼロを増やさないといけませんね」

 

 まだ嗅覚は残っているお陰で出汁の良い香りは堪能できる。料理の奥深さもアルヴヘイムの方が1歩上だろうか。こういう分野は仮想世界の強みだよな。文明レベル的には砂糖とか高級品のはずなのに、平然と市場で山盛りされて売られている。塩も香辛料も買い放題だ。

 

「それよりも牛筋おいてます?」

 

「……正気じゃねぇな。糞から善人まで見てきたが、お前からは少しも殺しに対しての『罪悪感』って奴を感じない。バケモノが」

 

「言われ慣れていますが、相応に傷つくので止めていただきたいですね」

 

 結局ではあるが、牛筋は置いていないようである。食べ終わり、皿の出汁を残さず飲むと屋台の男は観念したように口を開いた。

 

「何が聞きたい? 殺しの仕事は本当に心当たりがないぞ」

 

「アナタはこの町に落ち着く前は各地を放蕩していたと聞きました。俗に魔窟と呼ばれる強大なモンスターが跋扈する秘境。多くの伝説に詳しいとも。大半はくたびれた屋台の主の妄言と嗤っているようですが、是非もなく聞きたい話があります」

 

「何についてだ? 言っておくが、周囲の評判通りの、女房に先立たれた寂しい男の与太話かもしれねぇぞ?」

 

「だとしてもオレには聞く価値はありますし、アナタにデメリットもありません。知りたいのは穢れの火、シェムレムロスの兄妹、ランスロット。これらに関わる伝説、伝承、噂です」

 

 ふむと屋台の男は腕を組み、出汁に浸かった具を長箸で突きながら、サービスというように串焼きを差し出す。なんか肉は牛っぽいのだが、これは屋台の男なりに牛筋というワードから選んだ料理なのだろうか。

 ……見た目は牛肉っぽいだけで食感は砂肝に似ているな。タレでしっとり濡れて味付けも濃そうであるが、オレの味覚として届くほどではなかったようだ。

 

「穢れの火といえば、火の世界より訪れたグウィン王の騎士【竜砕き】のスローネが持ち込んだイザリスの罪の1つらしいじゃねぇか。あくまで伝説だが、黒火山の地下神殿に封じられたって聞いた事がある。シェムレムロスの兄妹は白い森にある館で永遠の探究を今も続けていたらしい。ランスロットについては詳しくねぇが、深淵狩りと言えば、東の何処かにあるって噂の月明かりの墓所くらいだろうさ」

 

「月明かりの墓所?」

 

 月明かり……即ち月光。アルトリウスが出会って以来、月光は深淵狩りの伝承の内にあり、それは聖剣として語り継がれている。

 黒火山も気になるし、月光蝶についての目撃情報を集めてシェムレムロスの兄妹を追いたいところであるが、トリスタンからの依頼もある。月明かりの墓所から調べるのも悪くはないだろう。

 オレの興味を感じ取ったのか、屋台の男は少しだけ嬉しそうに笑う。

 

「深淵狩りたちがその使命を見出したとされる場所、それが月明かりの墓所だ。そこは淡い金の薔薇が咲き乱れる庭園である。深淵狩りといえば、英雄願望丸出しの迷惑千万な連中だが、月明かりの墓所にはとびっきりのお宝があるって噂だ。ここ最近は狂ったように深淵狩り達が東を目指してるって聞くぜ。まぁ、月明かりの墓所自体が誰も見たことが無い。ガキでも口にすれば大笑いされて馬鹿にされる話さ」

 

 廃坑都市で深淵狩りの剣士たちが全滅したわけではない。転移した、あるいは別行動で廃坑都市にいなかった深淵狩りもいたかもしれない。彼らが東を……月明かりの墓所を目指しているならば、何か理由があるかもしれない。

 確証はない。確信も無い。根拠はもちろん無い。だが、オレは屋台の男の何処か憂いを帯びた眼差しに見て、思わず微笑んだ。

 

「深淵狩りが……好きだったんですね」

 

「は? んなわけないだろう!? 連中は妖精王の法律を無視して武器を振り回す危ない連中だ。深淵が絡んでるとなれば村1つどころか都市1つだって滅ぼす悪鬼共! そんな連中を好きになるわけねぇだろ!?」

 

「そうですね。でも、憧れに近いものはあった。そうではありませんか?」

 

 どれだけ言葉を飾っても、この男はオレにも隠しきれない程に、深淵狩り達に対して哀愁を持っているのは間違いない。

 屋台の男の過去に何があったのかなど分からない。深淵狩りにいかなる想いを抱いていたのかなど窺い知れない。だが、その心にあるのは決して言葉通りの蔑みではないはずだ。

 

「妖精王が何もしてくれない間、どいつもこいつも深淵にビビってる中、連中だけが怯むことなくアルヴヘイムに蔓延る深淵を討ち続けてくれた。憧れねぇはずがない。俺だって男なんだ。そんな強い連中に憧れたガキの頃があるってもんだ。だがな……」

 

 そこで一息入れた屋台の男は代金を払おうとするオレに首を横に振って拒絶を示す。それはもう2度と来るなという意思表示に他ならないだろう。

 

「連中はやっぱり狂ってんだろうよ。間違ってるだろう? 深淵に手を出したからって都市1つを滅ぼすか? 俺は認めねぇさ。深淵の怪物を倒す為ならば平気で自爆して、仲間ごと斬って、挙句に終わりなく深淵を追い続けて潰し続ける。そんな生き方……狂ってる」

 

「……そうですね。そうかもしれませんね」

 

 いや、間違いなく、深淵狩りというのは狂人の集まりなのだろう。アルトリウスから始まった闇に対峙する使命。聖剣の導きを受けた深淵を狩る者たち。いずれも何処かが破綻していたのだろう。

 それは本質であり、出身であり、血筋であり、思想であり、信念であり……いずれも、あるいは全てがどうしようもなく尋常の内では無かったのだろう。

 だからこそ気になる。ランスロットは優れた深淵狩りだった。それ程の男がどうして深淵狩りの使命を捨てて、裏切りの騎士となり、深淵に与したのか。

 全てはトリスタンの今際の言葉……ランスロットの『忠義』とは何だったのかが『答え』になるだろう。

 

「シャンビール伯爵領」

 

 暖簾を潜って次なる情報を求めて出発しようとしたオレの背中に、屋台の男の言葉が投げられた。振り返れば、オレとは目も合わそうともせず、仕込みを続ける屋台の男の真一文字の唇があった。見つめていると、その唇は雪解けのように小さく開く。

 

「ずっとずっと昔の話だ。東にはジャンビール伯爵っていう貴族様の領地があった。オベイロン王から直々に賜った領地であり、黒火山を擁する黒鉄都市と同じで不可侵の地さ。だが、伯爵領は『隠された』。誰も辿り付けなくなった。強大な怪物たちが現れただけじゃねぇ。どんなに手練れの騎士も、隠密も、聖職者だろうと……帰ってくることはなかった。今じゃ実在も定かじゃないただの怪談だが、女王騎士団も再三に亘ってジャンビール伯爵領に続くウル街道に続々と兵を送ってる。東に集まった深淵狩りたちもウル街道に続々と消えてるって話だ」

 

「……ありがとうございます」

 

 それは真偽も定かではない伝説の1つなのだろう。神隠しの伯爵領か。足を運ぶ価値はありそうだ。それに……きっと屋台の男は信じているのだろう。そこに月明かりの墓所があって欲しいと願っているのだろう。

 この男がどうして若き頃にアルヴヘイムを旅してまわったのか。それは若気の至りか、好奇心か、それとも月明かりの墓所など存在しないと馬鹿にされた少年時代があったからなのか。

 

「もう二度と来るな」

 

「ええ、もちろん」

 

 二度と会うこともないだろう。オレは屋台に背を向け、東を目指すべく地図を広げる。街道と主要な都市以外には記載されておらず、縮尺も位置関係も曖昧であるが、大よその場所は把握できる。

 ウル街道まで灰色の狼を使えば2日ほどでたどり着けるだろう。だが、なるべく目立つ真似はしたくない。

 こういう時に≪騎乗≫の有無は大きいか。マイナス補正がかかってしまう以上は馬でさえ速度が出ない。どうしたものだろうか。

 悩んでいるとハンティングボード……モンスターや盗賊、反オベイロン派といった賞金がかけられた『獲物』の張り紙が並ぶ町の掲示板に目が付く。そこには『ケットシーの希望』と『二刀流のスプリガン』の似顔絵があった。

 ……どう見てもUNKNOWNとシノンだよな。反オベイロン派の主力メンバーとして大きな懸賞金がかかっている。『アイツ』がアルヴヘイムにいるのは確定事項だったが、シノンも来ていたとはな。こうして並んで掲載されているところを見るに、2人は行動を共にしているのだろうか。

 廃坑都市でオレ達は深淵狩りの剣士たちに転移させられた。ならば、あの廃坑都市にいた他の【来訪者】たちも転移された確率は高い。もしかしたら、西の動きにも【来訪者】の関与があるかもしれないな。

 

「どうでも良いか」

 

 確か【来訪者】は全部で10人。オレと死亡したザクロを除けば、残るは8人。PoH、UNKNOWN、シノンは確定として……あとの5人は誰だろうか。廃坑都市の壊滅に巻き込まれて数が減ったか、それとも全員生き残っているのか。

 彼らの行動にも注意を張らないといけないが、今すべきことはウル街道までどうやって向かうかだ。悩むくらいならば昼夜通して歩き続ければ良いだけなのであるが、折角のアルヴヘイムの旅だ。少しくらいは風情を楽しみたい気持ちもある。

 とはいえ、西からは確実に戦火も近づいている。そのせいか、この宿場町も慌ただしい。もう間もなく戦乱がやってくることを誰もが知っているのだ。それでも大した混乱が起きないのは、下々の者からすれば、上が変わるだけで自分たちの生活には大きな変化もないと諦めにも近しい心境のせいか。

 アルヴヘイムには四方にそれぞれ主要となる都市が4~5程ある。とはいえ、それは人間の生活圏だけであり、森、山、谷、湿地帯、凍土とアルヴヘイムにはこれでもかと多彩な環境が押し込まれているせいか、安全地帯を繋ぎ合わせた街道はある意味で大きな回り道になる。

 それを考えれば、街道を大人しく進むよりも、多少の危険を承知で一直線でウル街道を目指せば大きなショートカットになるか。灰色の狼と徒歩を使い分けて、最低限の交戦に抑えればアルヴヘイムでの移動は大きく楽になる。

 そうなると気になるのは地図に記載された旧街道だ。この宿場町の傍にも旧街道があり、赤雷の黒獣によって滅ぼされた都市と繋がった、今は自然に侵食されて難所の連続となっており、滅びた都市への旅は命懸けになるそうだ。

 時間さえあればそちらを調査することもできるが、今は月明かりの墓所が優先だな。この辺りでは月光蝶の目撃例もないところを見ると、シェムレムロスの兄妹が待つダンジョンは南には無さそうだ。

 南には番外扱いのトリスタンが控えた霜海山脈、西には穢れた火が封じられたという伝説がある黒火山、東には深淵狩りと関わりがあるだろう月明かりの墓所。バランスを考えたならば、シェムレムロスの兄妹は北にいる確率が高い。アルヴヘイムの地形が大幅に変化しているとはいえ、ダンジョンの位置が大きく変動することはないだろう……と信じたい。そう仮定するならば、この地理関係は後継者の好みらしい。アルヴヘイムを余さず冒険させるようとする……もといプレイヤーを万策で以ってぶち殺すという彼の美学の名残がある。

 そうなると月明かりの墓所は深淵狩り関連ではなく、やはりランスロットと深い繋がりがあるとみて間違いないだろう。

 

「月光か」

 

 アルトリウスが出会った月光。しかし、彼は水面に映った月明かりを掬い取った。それがアルトリウスの聖剣となり、彼の武勇と伝説を支えた。

 深淵狩りは聖剣の導きを受けた者たちであるならば、それはある意味でアルトリウスが資格を捨てた月光を追い求める者でもあるのかもしれない。月無き昼の空を見上げながら、オレは少しだけ夜が待ち遠しくなりながら、町を出て東に続く道を踏みしめた。




主人公(白)のネクストステージ……月明かりの墓所。神隠しにあった伯爵領への侵入です。他のキャラが戦争と政治している中、(ダーク)ファンタジーしていきます。

そして、シリカもついに胃薬同盟入り。慈悲はない。


それでは267話でまた会いましょう!

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