SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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筆者は不思議な体験をしたので聞いてください。

ダクソ3をようやく粗方遊んだと思っていたら、いつの間にか楔の神殿に囚われていました。初代かぼたんは可愛いなぁと愛でながら古い獣を眠らせました。
そしたら筆者はロードランにいました。クラーナ師匠万歳。だが萎え床は許さない。絶対に許さない。そして闇の王なりました。
一息吐いたら緑衣さんがこんにちは。ドラングレイグの謎を追ってあちこち回って煙の騎士に10回も何故か殺されてピザ釜に入るのを拒否しました。
今度こそ終わったと思ったらロスリックを冒険していた! 今回のかぼたんも最高です。

今何処にいるのかと申されますと、悪夢でミコやんと追いかけっこしていますね、はい。

……訳が分からない。筆者もまた亡者となってしまったのでしょうか。


Side Episode12 正気の証明

 DBO事件から1年が経過し、テレビや雑誌などで手頃なネタが無かったかのように特集が細やかながらも組まれていた頃に、それは起きた。

 デスゲームに幽閉されたプレイヤーの突然の大量死。深夜に起きた突然のプレイヤーの死の連鎖は、微睡んでいたリズベットを叩き起こし、光輝と共に須和如月病院へと急行させるには十分過ぎる案件だった。

 各病院で収容されているプレイヤー達の親族が続々と呼び出され、無残な屍となった家族と対面する前に整形外科医が損傷の酷い遺体に『処置』を施す。外観を損なうことなく死亡したプレイヤーもいたが、だからといって遺族の悲しみが和らぐこともなく、すすり泣く声や警察・医師にやり場のない感情をぶつける怒鳴り声が響く。

 夜明けを迎えても尽きる事が無い遺族の到来に、須和は不休で対応し、VR犯罪対策室のオブザーバーに過ぎないとはいえ、DBO事件の捜査を行う1人として、リズベットも対応に追われた。

 そうして、ようやくひと段落がついたのはプレイヤーの大量死から3日目の事であり、VR犯罪対策室分室のデスクにて、リズベットは本部から配布された今回のプレイヤー大量死に関わる資料を確認していた。

 

「たった1晩で688名か。まるで初日の悲劇ね」

 

「デスゲーム最初の1ヶ月でも1晩でこれだけの死者は出なかったさ。DBOのログの抽出した結果だけど、どうやら死亡したプレイヤーの大多数はレベル10未満のプレイヤーだよ」

 

 コーヒーを手に、同じく資料をデスクで捲る光輝の指摘通り、死亡したプレイヤーの過半数……いや、ほぼ全てがデスゲーム開始より1年が経過したにも関わらず、レベル10にも到達していないプレイヤーだった。

 つまりはSAOに置き換えれば、はじまりの街に引き籠もっていたプレイヤー達が今回の大量死のメインという事になる。SAO末期の災厄を知っているリズベットに言わせれば、SAOの血を受け継ぐDBOにおいて、戦いを放棄するなど自殺するようなものだと叫びたくもなるが、戦えない大多数の人々の感情は分からないでもない。

 確かにVRゲームにおいては現実世界を遥かに上回る肉体能力が与えられる。筋力・脚力共に強化され、まるで全能になったかのように現実世界の肉体とは比べ物にならない程の開放感を与えてくれる。特にVR世界では思考速度も加速される傾向にあり、超人的な反応を成せる場合も少なくない。

 だが、結局のところはどれだけ優れた能力が備わっていても操るのは人間の心だ。生まれ持った肉体と繋がった脳だ。特にコンティニューが無いデスゲームにおいて、現実世界同然の質感を持って襲い掛かる怪物たちに挑める精神は尋常ではない。たとえ人間が慣れる生物だとしても、デスゲームに囚われた人々は紛争地帯ですらない、恐怖と暴力から隔離された日本社会で暮らしていたのだ。

 

「実感湧かないわ。700名近くが死んだのに、悲しいって気持ちが生まれないの」

 

 700名の理不尽な死に呑まれた人々は、最期に何を思ったのだろうか? 茅場の後継者を呪い、世界を呪い、自分の運命を呪い、神を呪ったのだろうか? 彼らに死の先の安息はあったのだろうか? 都市伝説のように、仮想世界で死んだ人は電子の海に魂を囚われるならば、彼らの魂は人間が仮想技術を捨てる日まで地獄に幽閉され続けるのだろうか?

 

「光輝さんの弟さんは無事だったの?」

 

「喜ぶべき事に、弟は現DBOでもトッププレイヤー集団らしい。今回の大量死の被害者には数えられていないさ。だけど……」

 

 ファイルを閉ざして椅子の上で足を組んだ光輝は、眉目秀麗としか言いようがない、いつも軽薄な薄笑いを描く口元を悲しげに真一文字にしながら天井を見上げた。

 

「弟は元々VR適性が高くないんだ。長期ログインのストレスのせいかは分からないけど、身体に影響が出始めている。詳しい検査は須和先生の報告を待っているけど、ここ数日で何度も心肺停止状態になっているんだ」

 

 それはとてもではないが、無事とは呼べないだろう。だが、光輝にとって弟が死の縁にあったなど大したことではないというように、珈琲を口に運ぶ。

 冷え切った眼にリズベットは背筋を冷たくするも、そうではないと思いを改める。蜘蛛を思わす感情を映さないような目を時々する光輝であるが、それは冷淡さではなく、彼の持つ死生観が特別だからと彼女も知っている。

 生も死も本質は同じだ。『命』の循環の中にあり、彼にとって『命』とは等しく食されるべき糧に過ぎない。それは人の命すらもだ。もちろん、それは『個』としての生命を否定するものではない。だが、光輝は淡白と言えるまでに『命』に対しては冷徹な見方をする部分が根本にはある。

 死ぬべき時は死ぬ。それ以上もそれ以下でもない。光輝にとって弟も自分も1つの『命』に過ぎないのだろう。そして、その中で彼にとって例外なき死の時に『例外』として全力の否定をしたい存在がリズベットなのだ。

 そこまで考えて、リズベットは何を自惚れているのだと資料ファイルで顔を隠して1人で悶絶する。これまで日常のように繰り返した修羅場の数々で、リズベットは両手の指が足りない程に光輝に助けられた。彼の余裕が無い必死の形相や自分の為に憤怒を露にするところを見た記憶は嫌でも脳に焼き付いている。

 

「髪がね、どんどん色素が抜けて真っ白になっているんだ。いっそ禿げてしまえば良いんだけど、僕の家系に禿はいないから一安心……なんてね。それが知れ渡って一族は狂喜さ。白い髪と特別な目、まるでヤ――」

 

 そこまで言って、光輝は自己嫌悪するように唇を噛んで瞼を閉ざした。それはリズベットに続きを聞かせたくないから、それとも弟を『何か』に重ねた事を恥じる兄としての矜持か。

 これ以上この話題を続けるべきではない。リズベットは席を立つと光輝の珈琲を下げる。普段は相応のメンバーが揃っている分室であるが、今は大半が外に出て事件を担当している。本部が今回の大量死を受けて、今以ってDBO事件の尻尾もつかめていない状態である事に本部捜査官へ『喝』を入れたお陰で、本部が抱えていた事件が分室に流れてきたからだ。それはリズベット達も例外ではない。

 

「DBO事件はただのデスゲームじゃない。まず第1にプレイヤー総数だ。現生存者数とログから抽出されたプレイヤー数は同一でも、明らかにDBOで『活動しているプレイヤー数』とアンマッチしている」

 

 分室から出て駐車場に至るまでの道で、光輝は情報整理するように本部から下りてきた情報を述べる。

 

「生存プレイヤーと『存在しないはずのプレイヤー』。ログでは生存プレイヤー総数しか抽出できていないとしても、プレイヤーの活動記録から明らかなズレがある。たとえば、『1人で複数人と食事するような行為』とかボス戦と思われる交戦情報における戦闘の流れの不自然さ、たとえ計上されているカウントは生存プレイヤーでも、そうした違和感は拾い上げられるわ。逆に言えば、茅場の後継者はそれを隠す気もない」

 

 つまり、この程度は茅場の後継者からすれば秘密ですらないという事だ。むしろ、自分になかなか届かない捜査官たちを嘲う為に道標をわざと放置しているかのようだ。

 本部では、この『存在しないはずのプレイヤー』をトリック・プレイヤー……通称『Tプレイヤー』と呼び、茅場の後継者に繋がる手掛かりとして調査しているが、手掛かりはまるでつかめておらず、単なる情報の1つとして腐らせている。

 

「Tプレイヤーの総数は正確には言えないけど、解析班は『増加傾向にある』という推論も立っている。茅場の後継者の目的が分からない以上、どうしてプレイヤー総数を疑似的にでも増やして攻略支援をしているのかも不明。サバイバーとしてのリズベットちゃんには何か見えるかい?」

 

 光輝の自動車の助手席に乗り込みながら、リズベットは長く伸びた前髪を弄りながら、思い出したくもない、だが郷愁もあるアインクラッドの記憶を掘り返し、茅場の後継者ではなく、茅場昌彦の思考を追跡する。後継者は少なからず茅場昌彦の意志と意思を継いでいるというのが、光輝とリズベットのDBO事件を追う上で固めた統一見解だ。ならば、茅場昌彦が何を目指していたのかを探れば、後継者の目的を知る手がかりも見つかるはずである。

 誰よりも茅場昌彦に近しいと言えるのは【黒の剣士】だ。リズベットは『彼』の影を踏み、その言葉を1つ1つ思い出し、溶かして推論を作り上げる。

 

「茅場は仮想世界を『本当の世界』にしたいと望んでいた。それがSAO事件の始まり。『命』の無い仮想世界に本物の『命』……つまりプレイヤーを幽閉させて、生活させて、完全攻略という出口を目指させる」

 

 もしかしたら、茅場昌彦は『ゲーム』という土台自体を破壊したかったのかもしれない。自らの手で血盟騎士団を……完全攻略を目指すトップレイヤーを育てて率いた。それはマッチポンプ以外に他ならない。確かに『他人のゲームを見ていることほどつまらないものはない』かもしれないが、それは同時に彼が想像した舞台を破壊する行為でもあったはずだ。

 ここがリズベットの限界だ。狂人の思考は狂人にしか分からず、また狂人同士も分かり合えるわけではない。

 

「ごめんなさい。やっぱり、あたしって役立たずよね」

 

「う~ん、自虐しているリズベットちゃんも可愛いけど、僕はやっぱり笑顔のリズベットちゃんが好きかな? スマイルは幸せを呼ぶおまじないさ。さぁ、一緒にスマイル!」

 

「光輝さんのそういうところ、嫌いじゃないわ。だけど前を見て運転して」

 

 笑顔、か。リズベットの沈んだ口元を人差し指で押し上げて、無理矢理笑顔にさせようとする光輝に、彼女は危うく赤信号に突っ込みそうだと慌てるも、まるで歩行者も対向車も何もかも見えているかのように、光輝の運転はブレない。やわらかくブレーキを踏むタイミングまで完璧である。

 人馬一体ならぬ人車一体。これまでの事件の数々で『ここは仮想世界じゃないから!』とツッコミを入れたくなるほどの人間離れした肉体能力を見せつけた光輝ならば、たとえ目隠ししても大多数のドライバーよりも運転は上手いだろうとリズベットは確信しているが、助手席に乗っている以上は安全運転を運転手には心掛けてもらいたいものである。

 

「DBO事件が単純なデスゲームじゃない理由その2。襲撃されたアンドリューさん、警察上層部に留まらない支配層ネットワーク、未知なる技術の投入、いずれも単純にデスゲームを成立させるには不要なものばかりだ。それに桐ケ谷君たちの失踪も無関係じゃないだろうね。DBO事件の協力者……とはさすがに思わないけど、彼らがDBOに今現在もログインしている確率は高い。仮にそうならば、肉体は何処で管理されているのかという謎も生まれるわけだ」

 

「レクトのDBOに使用されているサーバーから逆探知しようにも、そもそもレクトのDBOサーバー自体がブラフ。DBOサーバー本体が何処にあるのかも分かってない。ネットにVR犯罪室は無能集団呼ばわりされても仕方ないわね」

 

「酷いなぁ。相手は文字通り数世代じゃ足りないくらいの技術を保有しているんだ。人間どころかナメクジがドラゴンに挑むようなものだよ」

 

 弱気な発言とは裏腹に、光輝の笑みは微塵と絶えていない。本部はともかく、リズベット達のカードは確実に揃ってきているのだ。焦らずじっくりと……までは言えないが、着実に手札が揃うまでは忍耐力が試されるべき時期である。鬼札であるレクトのサーバーへのアクセスコードも所持しているのだ。油断している相手の喉元に喰らい付くまでは、間抜けの汚名を被るべきである。

 

「さてお仕事お仕事。ここが田原 亜騎羅さん23歳のご自宅だよ」

 

「……辛うじて読める名前で助かったわね」

 

「画数が多いし、小学生の頃は苦労したんじゃないかな?」

 

 軽口を叩きながら、リズベット達はブルシートが剥がれ、科学捜査も終わった『殺人現場』に踏み入る。それは駅にも近い住宅街にある、ごく普通の5階建てのアパートである。その302号室にて、まさにプレイヤー大量死が起きたのと同一時刻に発生した。

 

「田原家はごく普通の5人家族。お父さんはサラリーマン、お母さんはパートで家計を支えていた。息子2人と娘1人という少子化に待ったをかける立派な家族だ」

 

「それが、何をどう転べば、長男が『家族4人を食い殺す』なんて狂気の沙汰を起こすのよ?」

 

「しかもお嬢さんが動画サイトで生放送をしていたのがまずかったね。凄惨な殺人現場が生中継だ」

 

 動画サイト運営会社から件の映像は捜査資料として提供されているが、死体慣れした捜査一課ですら続々とトイレに駆け込むほどのグロテスクな映像だったらしく、映像は瞬く間にネットに拡散されてしまった。さすがのリズベットもまだ未視聴である。

 だが、ここまでならばVR犯罪対策室の出番ではない。彼らがわざわざ現場に足を運んだのは、これにVRが深く関与しているかもしれないという推測があったからだ。

 

「加害者の亜騎羅さんは大学受験に失敗で三浪の末に引き籠もり。とはいえ、アルバイトの資金を元手にオークションで『お小遣い』を稼いでいたみたいだね。家族も下手に収入がある分強くは言い出せなかったようだよ」

 

「親も高望みし過ぎなのよ。東○理Ⅰ以外認めないとかどんだけ鬼畜なのよ」

 

 プロフィールを読めば、亜騎羅に同情する青春時代である。友人もなく、部活にも入らず、ひたすらに塾で勉強勉強勉強の日々だ。これが『普通』の家族とはとてもではないが、リズベットは呼びたくない。だが、そもそも『普通』の定義は曖昧なものだ。家族というコミュニティが持つ闇はあらゆるところに潜んでおり、真に健全と呼べる家庭がどれだけ存在するかも疑わしい。

 

「何処の世界にも過度な期待をする親はいるものさ。息子が神童やら天才やら言われていたら尚更ね。僕に言わせれば、彼自身は努力家タイプの凡才だろうけどね。身の丈に合わせれば、人並み以上の地位と収入を得られたと思うよ?」

 

 光輝さんはどうだったの、とはリズベットも訊けなかった。複数の言語を操り、高い身体能力を持ち、かつては警察でもエリートコースを歩んでいた光輝は、正しく天才と呼ばれ、また両親の期待にも見事に応えた成功例だったはずだ。それが今では離島で巡査勤務の危機を抱えるザ・負け犬である。注釈で5回以上世界の危機をリズベット共に救っているが、それは社会的地位を向上させる役にも立っていない。

 対してリズベットといえば、良くも悪くも平凡な家庭で育ったが、両親から特に過度な期待も無く、緩い日々を送っていたはずが、SAO事件のせいで人生ハードモード突入である。両親が横腹の痛々しい銃創を見れば、間違いなく泣き叫ぶだろう。とはいえ、これまでの事件の数々で傷痕らしい傷痕がこれだけなのは光輝が何度となく庇ってくれたお陰と彼女の類稀なる死線で発揮した根性と度胸の成果である。2度と高層ビルから紐無しバンジーなどしたくないのはリズベットの嘘偽りなき本音だ。

 2人とも『普通』の両親から見たら、決してまともな人生を歩んでいるとは言えないだろう。手首の傷痕を撫で、リズベットは仮定の平凡な未来を思い浮かべようとして苦笑した。普通に学生時代を謳歌し、普通に社会人になって働き、誰かと結婚して家庭を持つ未来など、どれだけ想像しても真っ黒に塗り潰されて覗くことすらできない。

 

「そんな彼が正当なるヒッキー生活で嗜んでいたのがVRゲームだ。ALOやGGOといった日本タイトルはもちろん、海外モノにもね。ちなみにR18可!」

 

「SAOにも倫理コード解除があったわよ」

 

「僕もリズベットちゃんと倫理コード解除したいです! 同棲生活は色々と辛いです! 本当に『色々』が辛いです!」

 

「……考えといてあげる」

 

 以前ならばコンマ1秒で『死ね』と返していたリズベットであるが、今は満更でもないように目線を逸らすだけである。その反応に、逆に光輝は戸惑ったように『おかしい。こんなの僕が望んだ反応じゃない。きっと昼間に食べてたクリームパンが痛んでたんだ。違いない。そうに違いない』と衝撃を受けた様子でブツブツと呟いていた。

 あたしだって素直になる時はなるわよ! 顔を真っ赤にして殺人現場で叫びそうになるリズベットは、拭き取られきれていなかったフローリングの溝に血痕を発見し、仕事モードに切り替えるべく咳を1回挟んだ。

 

「ねぇ、物理的に可能だと思う? 4人の人間を一方的に食い殺すなんて、普通の人間に可能かしら?」

 

 喉を食い千切られ、内臓を貪られ、頭蓋骨を砕かれて中身を啜られる。それは狂人を超えたバケモノの所業だ。

 

「人間は本来の力を常にセーブしているよ。リミッターをかけているんだ。本当の意味で顎の力を爆発させれば、柔らかい喉を食い千切るくらいは簡単さ。ただ……どうにも『臭う』ね」

 

 加害者の亜騎羅の部屋に入った途端に、光輝の雰囲気が変質する。何かの『ニオイ』を感じ取ったのだろう。彼が目を向けたのは、今は証拠品として押収されたVR機器が接続されていただろうデスクだ。その周辺にはVR関連雑誌が積み重ねられている。その中にはSAO事件に関するものもあった。

 犯人はVR接続中だった事が捜査によって明らかになっているが、肝心の接続先はフリールームだった。ドイツのミュンヘン事件と性質は全くの同じである。だが、あちらは心筋梗塞による『病死』だったのに対し、こちらは家族を手にかけて最終的には現場に駆け付けた巡査に射殺された。今や射殺した警官はバッシングの嵐に晒されているが、それはリズベットの管轄外である。

 

「大事な人だったのかしら?」

 

 デスクに立てかけられた写真立てには、中学時代だろう、学生服を着た加害者と一緒に撮影された女子生徒の姿があった。鬱陶しそうな加害者に、一方的な好意を示すように活発そうな女子生徒が首に腕を回してピースをしている。

 あたしもアスナと普通に学校で出会ってたら、こんな風な学生時代を送れたのかな? そもそも生粋のお嬢様であるアスナとは、SAO事件が無ければ決して巡り合わないだろうと分かっていても、リズベットは夢想したくて堪らない。奪われた青春は決して返って来ないからこそ、過去にあった未来を幻視しようとする。

 今回の事件でリズベットが疑っているのは電子ドラッグやイメージ麻薬といった名称で知られる、過度な快楽をもたらす違法VR技術だ。これによって精神錯乱状態のままVRからログオフして暴力行為に及んだ例は増加傾向にある。徐々に脳が耐性を持つ事を除けば、物質的コストゼロで生産できる先端技術が作り上げた新たな麻薬だ。

 スポーツ選手が『イメージトレーニング』と主張して、心身に暗示をかけて能力を引き出すイメージ麻薬を使用してセンセーショナルに取り上げられる事もあり、VR犯罪対策室としても電子ドラッグとどう立ち向かっていくかは大きな命題となっている。

 だからこそ、今回はリズベット達が捜査協力をすることになったのであるが、当然ながら既存の電子ドラッグ程度では錯乱して殺人をしたり、身体能力を引き上げることはできても、人間を『狩り殺す』ような猟奇殺人鬼変えるものはない。身体能力を引き上げるにしても、それはあくまでスポーツの範疇であり、怪物的な存在に変えるわけでもない。

 確かに光輝のような人外離れした存在はいる、とリズベットは諦めている部分もある。何処の世界に躊躇なく弾丸の雨の中をスーツ姿で突き進んだ挙句に徒手格闘で無双する人間がいるのかとツッコミたくなる場面が度々あった。だが、あんな真似をできる人間がゴロゴロいたら、それこそ人類史は変わってしまう。あるいは、伝承で語られる英雄の偉業は真実だったように、栄光ある過去にはそんなバケモノ級で溢れかえっていたのか。

 

「これが『血の絵』ね。何を描きたかったのかしら」

 

 それは田原が壁に血で描いたものであり、犯行が終わった後に彼が叫びながら作り上げたものだという事だ。人目を阻むようなシートを剥ぎ取り、リズベットは言い知れない不安を隠すように呟いた。

 およそ何を描きたかったのか理解はできないが、辛うじてリズベットに断片的に分かったのは、無数の鳥居、舞台、月、そして踊る女だ。その周囲には更にまるで何かを吊ったような……リズベットの直感が正しければ、人間を吊るしたような構図が無数に描かれ、それらの最下には蜘蛛の巣を思わす無数の線があった。

 田原は自分自身で掻き毟ったのだろう、頭蓋が見える程に露出するほどに頭皮は剥げていたらしい。顔面もまた自らの爪で抉り、口の中でクチャクチャと『家族』を咀嚼し続けていた。左目は自ら抉りだし、開いた空洞には噛み千切った家族の指を押し込めていた。そんな状態でも駆けつけた警察官の内の3名を負傷させ、勇敢なる1人が現場判断で眉間を撃ち抜かなければ、被害は拡大していただろう。

 狂人の犯行に動機を求めるべきではない。ましてや、電子ドラッグによる意識の混乱もあったならば、現実のドラッグに頼っている芸術家もいる実情を考えれば、この絵に意味はないのだろう。

 実物ではなく、やはり写真で済ますべきだったかもしれない。リズベットは心を掻き乱す血の絵画に田原の断末魔を重ねる。被害者の4人ではなく、加害者の田原が必死に自らの叫びを叩きつけるようなメッセージが込められているような気がする。一体全体、彼は『何』に狂わされたのだろうか。

 

「あり得ない。だけど、これは、まさか、でも……」

 

 と、そこでリズベットは光輝に意見を求めようとするも、それより先に彼が顔を真っ青にして口元を手で覆って後ずさっている事に気づく。その顔は死が迫る窮地ですら見せなかった程に狼狽しており、目は血の絵画に釘付けになっていた。

 これ以上この場所にいるべきではない。直感したリズベットは光輝の手をつかみ、逃げるように事件現場から立ち去る。されるがままに連行された光輝を自動車の助手席に押し込むと、彼のポケットから鍵を拝借して発進する。

 

「大丈夫……じゃないわよね」

 

 駅前パーキングに駐車し、コンビニで水を買ってきたリズベットは、シートを倒して横になっている光輝に、ボトルの半分を使って濡らしたタオルと残りの水を渡す。湿ったタオルで顔を拭き、水を喉に流し込んだ光輝の顔色は悪いが、それでも精神に安定を取り戻したのか、無理していることは一目でわかる薄笑いを浮かべた。

 

「ごめんね。リズベットちゃんは大丈夫? 気分悪くない?」

 

「バラバラ殺人どころか死体芸術に何回遭遇したと思ってるのよ。いい加減に耐性できてるわ」

 

「ああ、あれは大変だったね。ロンドン同時多発電脳テロの時だったっけ?」

 

「そうよ。21世紀のジャック・ザ・リッパーに拉致されたあたしの身にもなりなさい。光輝さんがあと1時間助けに来るのが遅れてたら、今頃グロ好き垂涎の人体オブジェでネットに写真が出回っていたでしょうね」

 

「そんな事もあったね。懐かしさを覚えるよ」

 

「そうでなくとも、銃殺・焼殺・斬殺・ミンチ、嫌と言うほど見たわよ。もう死体を見たくらいで驚きもしないわ」

 

「あはは。嫌な耐性だ」

 

「本当にそうよ。それで、落ち着いた?」

 

 途切れることなく会話を続けたお陰か、光輝は憂いを帯びた……いや、彼らしくない怯えを浸した目で縋るようにリズベットを見つめている。そこに自らを偽る仮面の表情はなく、彼にもこんな弱々しい面があったのかとリズベットは母性を擽られる。

 

「僕はね、故郷に帰りたくないんだ。逃げ出したんだよ。いつだって自分の『血』が怖かったんだ」

 

 だから、リズベットは濡れたタオルで目元を隠し、倒したシートで仰向けになる光輝の、彼が初めて語る内なる想いに耳を傾ける。

 

「糞ジジイも、糞親父も、母さんも、一族も、何もかも狂っている。僕自身もきっとそうだ。それが堪らなく怖いんだ。なのに、いつだって郷愁に駆られる」

 

「帰りたければ帰れば良いじゃない。手紙の事、忘れたわけじゃないでしょう? お祖父さんとちゃんと話をして向き合わないと」

 

 じゃないと夜這いされて、誰とも知らない女がいきなり『あなたの子です。嫁ぎに来ました』という恐怖の光景が完成するわよ? 悪戯っぽくリズベットはそう付け加えようとしたが、光輝の震える指を見て、尋常ではない程に彼が帰郷に怯えている事を悟り、言葉を飲み込む。

 

「昔の僕なら、迷いなく帰れたんだと思う。『どうせ弟が継ぐんだ』って他人事みたいに割り切っていたんだ。最悪な兄さ。狂った血脈を末弟に押し付けて、のうのうと自由に生きようとしていたんだからね」

 

 どう答えるべきか、リズベットは迷う。これは独白に近しい弱さの吐露だ。光輝は返答を求めているのではなく、リズベットに自身の本心を聞いてもらいたいだけなのだ。故に、リズベットがすべきなのは沈黙を保つ事なのだろうが、それでは彼との関係の輪から抜け出せない。ここで踏み込まなければ、いつまで経っても『リズベット』として魂がSAOに囚われたままであり、現実を生きる『篠崎里香』に戻ることはできない。

 狂った血脈。血の絵画。帰郷。全ては繋がっている。ならば、リズベットがするべき事は1つだ。

 

 

 

 

「……1人じゃなくて、2人で帰りましょう」

 

 

 

 

 そっと光輝の指に触れて、リズベットは少しだけ頬を赤らめながら、横になる光輝に覆い被さる。タオルを剥ぎ取り、彼の暗い感情を映し込んだ目を見つめる。

 まるで飼い主と逸れた子犬のようだ。リズベットは濡れたタオルと汗で張り付いた光輝の前髪を丁寧に指で取り除く。

 

「怖いけど、帰りたいんでしょう? 今はまだ何も事情を聞かない。聞いても理解できないだろうし。だけど、光輝さんの本心が帰りたいと望んでいるなら、あたしが手伝ってあげる」

 

「それって、つまり、僕の――」

 

「あくまで『同僚』としてよ。でも、女が一緒ならお祖父さんも納得してくれるんじゃない? 猶予は伸ばしてもらえるわよ。そういう意味でも、あたしが一肌脱いであげる」

 

 悲願が達成できたとばかりに上半身を起き上がらせてリズベットの肩をつかむ光輝に、彼女は念押しするように釘を刺す。それを脳内アスナが『ふざけるなぁああ! ここで勝負を決めないで、いつ決めるのよ!? 弱った男子に母性アピール! 完璧ホームランコースだったじゃない!』と叫び散らしているが、リズベットは無視することにした。

 

「すごく嬉しいけど、後悔するよ?」

 

「悪夢を見る度に暴れ回って自傷行為を繰り返す頭がイカレた女が何をどう後悔すれば良いの? 今だって人生絶望中よ。あたしは普通の家庭に育った、普通の女の子だったのに」

 

 リストバンドに隠された傷痕をリズベットは撫でながら自嘲する。だが、今回ばかりは自分の負の姿が言葉を紡ぐ力になってくれる。

 

「いつだって後悔だらけよ。ロンドンでは連続殺人鬼に目を付けて追い回されながら暴走地下鉄の屋根で爆弾の解体させられるし、ロシアでは中世ごっこのカルト集団にワンマンアーミーする羽目になったし、アメリカではハリウッド映画の主人公並みのアクションの連続の挙句に生皮剥がされそうになるし、この前の上海なんて最後に爆発オチって何なのよって言いたいわ」

 

「むしろ後悔しない要素が無いね」

 

「でしょ? だったら、光輝さんの家族に関わる事くらい犬の散歩みたいなものよ。それに、あたしに何かあっても守ってくれる優秀な番犬もいるしね」

 

 最後だけ茶化すようにリズベットはウインクすると、光輝は調子を取り戻したように肩を竦めて笑った。

 

「わんわん。しっかり守ってあげるよ。僕の探偵さん」

 

「サボったら駄犬決定だからね」

 

「守り抜いたら『僕のお姫様』にランクアップさせる予定ですから精一杯頑張ります!」

 

 もう大丈夫だろう。ならば捜査再開だ、と思った矢先に、リズベットの携帯端末が震える。それはヤツメ様に関して調査依頼をしていた笹倉教授からのメールだ。

 

 

 

 

 

 

 

<ようやくわかった。ごご6じ、まっている。すべておしえよう>

 

 

 

 

 

 変換ミスなのか、全てひらがなで読み辛い文面にリズベットは眉を顰める。しかも内容から察するに今夜会いたいという事なのだろう。まだ田原の調査も進んでいない現状で抜けるわけにもいかない。だが、ここで光輝の……彼の血統を探る重要なファクターであるヤツメ様の新情報を逃すのは惜しかった。

 現在時刻は午後3時半だ。手土産を買うのに時間を潰して笹倉の大学まで行くには丁度良い時間帯ではある。

 

「うわぁ、読みづらいメールだね。誰からだい?」

 

「か、勝手に見ないで! ちょっと大学でお世話になった教授からよ! 結構な年齢だし、きっと使い慣れてないんでしょうね」

 

 ヤツメ様について調べている事は光輝にも秘密である。彼の根幹に関わることだけに、リズベット独自で調査している。事情を知ってそうな須和などにはそれとなく尋ねた事もあるが、彼もぼかして回答するばかりで、リズベットが知りたい真相は断片も教えてくれなかった。

 

「その、悪いんだけど……」

 

「田原のVR機器は押収されて解析中だし、それまでは僕らも動けないだろうさ。急ぐなら送っていこうか? どうせ暇だし付き添っても良いけど」

 

「働け、公務員」

 

「はいはい。じゃあ、今晩の料理当番はリズベットちゃんだから、早めに帰ってきてね」

 

 自動車から降りたリズベットは車の鍵を光輝に投げ渡して、手を小さく振って別れる。

 前進した。1歩踏み出した。リズベットは自分の勇気にガッツポーズする。脳内アスナは『10点。100点満点中10点』と辛口評価をしているが、リズベットからすれば渾身の右ストレートを決めた気分である。

 笹倉教授には何を買っていこうか。前回はケーキを御馳走になったので、リズベットは甘い物を買っていこうかと悩み、結局は無難に煎餅を選んだ。

 電車に揺られる中で、リズベットは携帯端末に送信された、田原の事件の新情報を確認する。どうやら今回の猟奇犯罪であるが、アメリカで類似した事件が2件、ベトナムでも1件起きているようである。ほぼ同じ時間帯で似たような犯罪が起きていたらしい。

 VR接続中の変死と突如とした発狂による猟奇殺人。一見交わるようには思えない2つは、VR接続先接続先不明という点で同質だ。リズベットは今ある情報を並べ替えて新しい面を発見しようとする。

 彼らに共通点はない。無理矢理繋げるならばVR中毒者であったくらいだ。だが、その無理矢理にこそ事件を紐解く謎が隠されているような気がする。

 電車に揺られて笹倉の大学に到着したリズベットは、まばらにしか学生がいない校内の静寂に一瞬だが背筋を冷たくする。まだ午後5時半である。学生が往来しているとは言わないが、あまりにも静寂に支配された夕暮れは、まるで意図して人払いがされたかのようだ。

 リズベットは笹倉の研究室がある棟に入り、1階、2階、そして3回にたどり着く。実は休校日なのではないかと思うほどに人気が無く、リズベットはごくりと生唾を飲んだ。

 足音が響く。びくりと肩を震わせたリズベットが振り返るも、それが静けさのあまりに自分の足音が反芻しただけだと知り、胸を撫で下ろした。

 笹倉の研究室は、依然訪れた時とは異なり、スモークがかかったドアの窓には外の光を遮る黒いカーテンがかけられている。ドアを開けようとしたリズベットであるが、鍵の閉めらており、入室はできない。

 

「笹倉教授、篠崎です!」

 

 まだ午後5時半だ。約束の6時前なので外出しているのだろうか? リズベットがそう思った矢先に、開錠される金属音が鳴る。だが、笹倉がドアを開けて迎えることはなく、無言の立ち入り許可がリズベットに与えられた。

 入りたくない。湧き出す気持ちを堪えながら、リズベットはドアを開く。夕暮れとはいえ、暗闇に包まれた研究室は異常だった。リズベットは明かりをつけようと、以前の訪問の記憶を頼りにスイッチを押すも、ブレーカーが落ちているのか、研究室に光は訪れない。それどころか、リズベットが体を緊張させている間に背後でドアが勢いよく閉まり、鍵がかかる音が鼓膜を擦った。

 

「やぁ、篠崎さん。来てくれて嬉しいよ」

 

「さ、笹倉教授? 何処ですか? 何処にいるんですか?」

 

「すまない。光は『この子』たちがとても嫌がるんだ」

 

 自分たち以外にも誰かいるのだろうか? リズベットは悪戯にも程があると思いながら、笹倉の声を頼りに研究室の奥に進もうとする。だが、それを拒むように何かが胸に触れた。リズベットは携帯端末の光でその正体を暴こうとする。

 それは白いビニールテープだった。僅かな光源によって照らし出された研究室内は、以前訪れた時と同様に売れない自費出版の本で相変わらず埋め尽くされているが、雑多とした中にも利便性のようなものが見て取れた前回とは異なり、本の塔は崩れ、破れた……いや、破られたページが床に散乱している。

 

「光は駄目だと言っただろう!?」

 

 突如として暗闇から僅かな光の中に笹倉の顔が浮かび上がり、リズベットは思わず小さな悲鳴を上げる。

 

「ご、ごめんなさい! でも、教授、これはどういう事ですか?」

 

 部屋中に張り巡らされた白いビニールテープは、まるで網のように結ばれ合っている。リズベットがイメージしたのは蜘蛛の巣だ。まるで研究室そのものが笹倉という蜘蛛が張った巣のようになっている。

 

「ヤツメ様とは蜘蛛の神。女神だ。私なりに調べてみたが、ほとんど資料が無くて困ったよ。だが、無駄に年月を重ねていたわけではないものでね。コネというコネを使って調べ上げた。ヤツメ様とは典型的な土着信仰の類であり、信仰の形式として神道や仏教の要素も取り入れられている。だが、それは本質的な回答ではない」

 

 リズベットが今知りたいのはヤツメ様の情報ではなく研究室の状態、そして笹倉の異常についてだ。後退して背後のドアを開けようとするも、やはり鍵がかかっていて簡単には開きそうにない。蹴破る事もできるだろうが、リズベットでは1、2回蹴りをお見舞いした程度では突破できないだろう。

 

「篠崎さん、暗闇の穴に潜む8つの目玉を見た事があるかね? 闇の地底にある宵の深海で、白い糸が星々を絡め捕る音が聞こえるかね? 目を閉ざしてごらん。聞こえるはずだ。我々の脳髄を這い回るヤツメ様の声が聞こえるはずだ。彼女の巣はゆっくりと広がり続けている。ほら、耳を澄ましてごらん。暗闇の穴を探せば聞こえるはずだ」

 

 リズベットの手から携帯端末が叩き落とされる。慌てたリズベットが光源を求めるも、淡い光が照らしだしたのはビニールの『塊』だった。

 いや、違う。それはまるで蜘蛛が捕らえた獲物を保存するかのように、ビニールテープでぐるぐる巻きにされて吊るされた、笹倉のゼミの生徒だったはずの男女だ。だが、男の方は両目と口と鼻を縫い付けられている。裸体には無数の素人がしたとしか思えない縫合の痕跡がある。女の方は窒息死したのか、それとも失血死したのか、全身にチューブが突き刺さり、体液となる血がペットボトルの中に注ぎ込まれ、既に搾り尽くされた残りカスだった。

 2人分の死体を見てもリズベットが悲鳴を上げなかったのは単に場慣れしていただけである。そして、冷静にこの状況を打破すべく、ブーツに仕込んだプラスチックナイフを抜こうとした時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「蠢いているだろう? ヤツメ様が私たちの頭の中で。カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ。新しい『餌』を持ってこい、とね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗闇の中からの不意の1発。それはリズベットの喉を突いた。呼吸困難になったリズベットは床に押し倒される。幸いだったのは刃物ではなく拳だったことであるが、携帯端末の光が暴いた、リズベットに馬乗りになった笹倉の狂気の双眸が彼女を射抜く。

 そこに理性の光はない。お茶目で、売れない自費出版を悲しいネタにしていた民俗研究者はいない。

 

「キミはとても幸せだ。下賤な『餌』たる我らより今宵の晩餐に選ばれたのだ」

 

「狂って、る……わね!」

 

 だけど、あたしを舐め過ぎよ。リズベットは抜き取ったプラスチックナイフを躊躇なく笹倉の脇腹に突き刺す。肝臓を正確に狙った突きであり、笹倉の肉を鋭い先端で貫く。

 拘束を抜け出したリズベットは咳き込みながら、這ってドアを目指す。開錠する方法は思いつかないが、脱出路はここ以外にない。だが、血の滴る音と共に腹を突き刺すナイフを抜き取り、リズベットの喉を笹倉の老いた腕が締める。背中にのられ、今度こそ完全に体の自由を奪われたリズベットの頬に唾液がへばりつく。

 

「抵抗は肉質を悪くする。もっと笑いたまえ。私はキミの血肉を貴種たる末裔に捧げよう。私は蜘蛛。ヤツメ様に仕える蜘蛛」

 

「だ、れ……か……」

 

 叫んでも助けは来ない。漠然とリズベットはこの校舎に『生きた』人間が何人いるのだろうかと考える。

 こんな所で死にたくない。SAO事件を生き抜き、世界中を飛び回って多くの事件に巻き込まれた挙句に、狂信者に殺されるなど、悲劇を通り越して笑い話だ。リズベットはドアに向かって手を伸ばす。

 

 

 

 

「そこは『助けて、王子様』って言ってほしいかな?」

 

 

 

 

 ドアが勢いよく、文字通り吹っ飛んで、狙っていたかのようにリズベットの背中に乗る笹倉に直撃する。咳き込んだリズベットは黄昏の光を浴びて、いつもの軽薄な笑みと蜘蛛を思わす冷たい目が同居した、リズベットが危機に陥る度に見せる『激怒』した時の光輝に安堵する。

 

「本当にいつもナイスタイミング……よね。でも、どうやって?」

 

「リズベットちゃんのメールから嫌な『ニオイ』が少しだけしてね。勘違いかとも思ったけど気になって、笹倉教授について検索して大学の場所を探し出したんだ」

 

 笹倉はメールアドレスに登録されている。目撃された時点で送信者の名前は見られていたのだ。あそこで差出人を尋ねたのはブラフ、あるいは紳士としてのマナーだったのか。どちらにしても、またしても光輝の直感に助けられたとリズベットは安心しながら彼が肩にかけたスーツのジャケットを握りしめる。

 それにしても相変わらず人外染みたパワーだ。文字通り一撃で鍵がかかったドアを蹴飛ばしたのだ。老朽化していたとはいえ、およそ人間業とは思えない。

 飛来したドアで血だるまになった笹倉は血反吐を垂らしながら足掻き、窓を閉ざす分厚い黒カーテンをつかむ。黒いテープで隙間なく固定化されていたが、人間1人分の体重に耐えられるはずもなく、カーテンは剥ぎ取られて外の光が入り込む。

 

「カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ……私の、頭の、中で……」

 

 途端に、笹倉が痙攣してその胸を引っ掻き始める。外の光で照らし出された笹倉の体は、吊るされている男と同様に無数の縫合痕がある。市販の白い縫い糸で閉ざされただろう傷口から血が溢れだし……そして『それ』もまた這い出す。

 

 

 

 それは蜘蛛。小さな黒い蜘蛛たち。笹倉の体内から、まるで出血したかのように黒い蜘蛛が溢れだす。同胞の無数の死骸と共に。

 

 

 

「見ちゃ駄目だ」

 

 リズベットの絶叫を視界と共に封じ込めるように、光輝が抱擁する。恍惚とした表情で最期を迎える笹倉の呻き声が瞼を固く閉ざすリズベットの耳に届く。

 

 

 

 カサカサカサカサ、と。蜘蛛が蠢く音が聞こえた。それは女の笑い声にも似ているような気がした。




リズベットさん、SAN値チェックのお時間です。

成功で1D3、失敗で1D10くらいでしょうか? 人生ハードモードの悲惨な死体慣れしたリズベットさんなら運が悪くても一時的狂気で済むでしょう。

次回からはまた仮想世界編です。息抜きエピソードなので、コメディ要素多めです。

それでは221話でまた会いましょう。

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