SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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過去最長のエピソードらしく、本話も最長です。
具体的には3話分くらいの長さです。どうしても分割できませんでした。
クリスマスの結末を見守っていただけると幸いです。


Episode13-25 聖夜の奇跡

「どうしたの、クゥリ?」

 

 サチの声で我に返ったオレはシステムメッセージが彼女の視界に入るより先に消去する。

 

「な、何でも無い! いやさ、ちょっと帰還するには早過ぎるかなーって思って! ほ、ほら、アルシュナが言ってたみたいに、アイテムは好きなだけ持ち帰れるなら、もう少し補充していきたいんだよ」

 

「もう、欲深は身を滅ぼすよ?」

 

 口を尖らせるサチに、オレは笑って誤魔化しながら、アイテムストレージから印刷室の鍵を取り出す。それを握りしめるとオレ達の周囲を白い靄が包み込み、トラップルームから学校の印刷室前へと転送する。

 何とか時間を稼ぐ事ができたか。オレはサチを伴いながら、まるで浄化されたかのように穏やかな空気となった校舎を出る。注意して白の亡人が溢れていないか確認するが、埋め尽くす程にいた彼らの影はまるで見られない。

 3人を殺害した事により、全ての白の亡人もまた削除されたのだろうか? それならば、幾分か彼らにも救いがあるだろう。

 

「あと4時間か」

 

 望郷の懐中時計が示す時刻は午後8時。この世界を少しずつ縮小させていく黒の帳は随分と迫ってきているが、まだコンビニに寄るだけの時間は残されている。

 

「何が4時間なの?」

 

「せ、制限時間だ。ほら、あの黒いカーテンみたいなのが見えるだろ? あれが少しずつ迫ってきているからな。最終的にこの校舎も全部消えちまうんだ」

 

「だったら早く済まそう。お宝抱え過ぎて死んじゃうなんて、映画の中だけで十分なんだから」

 

 サチにとって不安の核が消化されたお陰か、彼女は屈託なく明るく笑う。つい先程までならば、その笑顔に魅せられていたはずだが、今は直視することが出来ない。

 考えろ。考えろ考えろ。考えろ考えろ考えろ! 何を諦めているんだ!?

 サチを殺す? そんな真似ができるはずがない! オレは確かに狩り、奪い、喰らい、戦い、そして殺す。だが、それは敵対する者だけだ。ただ闇雲に、目についた全てを殺し尽くすのは断じて『人』の心ではない!

 まず最初に必要としたのは、白の亡人の心臓だ。白の亡人とはテツオ、ササマル、ダッカーのファンタズマビーイング過程で生産されたコピー体の残骸だ。つまり、彼らの悲劇の象徴だ。

 次にテツオの心臓。その心臓はレギオンによって蝕まれ、汚れきっていた。自ら死を選んで戦いから下りたにも関わらず、戦い続けさせられる彼の悲劇そのものだ。

 そして、最後は黒猫の乙女の心臓。……ああ、駄目だ。ここでサチの心臓を捧げるとは、つまり月夜の黒猫団の全滅を再現するに他ならない。どう足掻いても、月夜の黒猫団に関する……その滅亡後の情報が不足するオレでは抜け穴すら想像できない。せめて、ここに『アイツ』さえいてくれれば……!

 

「クゥリ、どうしたの?」

 

「え?」

 

 先行していたサチが足を止め、夏の蒸し暑い空気に微風を起こすように振り返る。

 まさか気づかれた? オレはただでさえ痛む心臓が鼓動を早めていくのを感じる。

 

「いや、なんかとっても『嬉しそう』だなって思って……」

 

「嬉し……そ、う?」

 

「うん。さっきからニヤニヤ笑ってるよ。ちょっと気持ち悪いくらい」

 

 最後の一言は悪戯っぽく取ってつけたサチであるが、オレにはそんな事どうでも良かった。

 オレは……笑っているのか? 喜んでいるのか? 嬉しがっているのか?

 恐る恐る口元に触れれば、今にも裂けそうな程に歪んでいる。まるで、早くご馳走を食べたいと訴えているかのように。

 

「……何も、何も嬉しくないさ。ちょっと、疲れてるだけだ」

 

 そうだ。疲れているだけだ。今回は少しばかり無茶をし過ぎた。いい加減に休まないといけない。ただ……ただ、それだけだ。

 だが、どれだけ考えを巡らせても解決案は浮かばない。サチの心臓を抉り取る以外の抜け道など思いつかない。そうしている内にコンビニに到着してしまう。

 いずれも魅力的な現代の嗜好品のはずであるが、今のオレにはいずれも泥の塊にできているかのように無価値だ。むしろ、鼻歌交じりで商品を失敬したビニール袋に入れていくサチを見て、より焦りを強まらせるばかりだ。

 何が何でもサチを生かす。その為ならば、もう1度心臓を止めたって構わない。

 サチが生きて帰れば、必ず1つの未来が大きく変わるはずだ。今のサチならば、きっとアスナを取り戻すという妄執のままにDBOへとログインしただろう『アイツ』に、何か救いをもたらせるはずだ。それこそが、アルシュナが言っていた『アイツ』を襲うだろう悲劇を止める手段になるかもしれない。

 それに……サチは『アイツ』が救いたかった少女のはずだ。背徳者ニコラスに単身で挑み、蘇生アイテムという奇跡に縋ってでも再会を望んだのだ。たとえ、今ここにいるのが『アインクラッドを生きたサチ』ではないとしても、『アイツ』の為にも死なせる訳にはいかない。

 

「ねぇ、クゥリ。ほら、チューハイあるよ。何本か持って行って酒盛りしちゃおうか?」

 

「そ、それも良いかもな。帰る前に1杯やるのも悪くない」

 

 お菓子を選ぶフリをしながら必死に頭を回すオレは唐突なサチの質問に、慌てて答える。

 

「…………」

 

 だが、オレの返答の何がいけなかったのか、サチは何故か表情を硬直させる。癪に障る事でも言っただろうか? 

 

「何だ?」

 

 つい焦り過ぎて言葉尻が荒くなかったか? だとするならば失態だ。オレはなるべく柔和な笑みを心掛ける。

 

「…………何でもないよ」

 

 だが、サチはその明るさを潜めて首を横に振る。

 糞! オレは何をやっているんだ!? 今ここで苛立ちをサチにぶつけてもしょうがないじゃないか! 歯を食いしばり、我が身を怒鳴り散らしたくなるのを堪え、オレはビニール袋に詰められるだけ詰めたお菓子や飲み物を手に、サチと一緒にコンビニを出る。

 

「さっきは悪かった。さすがに疲れてたみたいで、声が少し荒かったかもしれねーな」

 

「う、うん、そうだね。仕方ないよ。クゥリはたくさん頑張ったから。ちょっと、私も無神経だったね」

 

 ぎこちなくサチは笑ってオレの謝罪を受け入れてくれる。何とかサチには勘付かれていないようだ。

 安堵しそうになるが、解決している事など1つも無い。こうして、のんびりと学校を目指して歩いている間にも制限時間が刻一刻と失われている。

 このままタイムリミットまで粘るか? いや、それではオレもサチも死ぬだけだろう。あの黒い帳に呑まれ、消去されてしまうだけだ。オレはアバターを消失して死亡扱いとなり、現実世界の肉体も諸共死ぬ。サチはどれだけ人間に近くとも現実の肉体を持たない以上、やはり消去されれば死に直結するはずだ。

 どうすれば良い? どうすれば良い!? どうすれば良いっ!? オレは都合の良いヒーローの登場を望むが、この世界にさっそうと現れてくれるような英雄は存在しない。

 ……いや、1人だけいるか。憧れた背中、共に駆け抜けた戦場で魅せられた強さ、まさしく英雄に相応しい『アイツ』ならば、この窮地でサチを救い出してくれるかもしれない。

 現れろよ。オマエはいつだって多くの人間を救ってきたじゃないか。オレが殺し続けた中、諦めることなくその手で絶望の中にある人々を守り抜いてきたじゃないか。だったら、今ここにいるサチの悲劇を止めてくれよ。

 

「はは……傑作だ」

 

 ついにオレの口から自嘲が漏れる。

 ここに来て、全ての責任を『アイツ』に求めるつもりか? 馬鹿が。この結末は全てオレの至らなさのせいではないか。オレに彼女を救う力も知恵も無いからではないか。きっと『アイツ』なら、システムの僅かな隙間を探し出してでもサチを救えるはずだ。

 誰も救わず、誰も救えず、故に誰からも救われない。それがオレだ。手を伸ばして引っ張り上げて、後は勝手に救われろと放置しても、救いを得られる者がどれだけいるというのだろうか? どれだけの者が、この世界に渦巻く悪意と敵意から逃れられるというのか?

 オレこそが無責任極まりない、愚かな道化師ですらない……ただの愚者ではないか。

 

「見て、クゥリ。綺麗な星空だと思わない?」

 

 立ち止まって俯くオレの耳を撫でたのは、サチの穏やかな声だった。

 今は顔を上げることができない。彼女の顔を、その目を、その全てを見ることなどできない。許されない。

 

「1つ思い出したんだ。嘘か本当かは分からないけど、皆で夏休みの前日に旧校舎に忍び込んで、屋上で天体観測したの。一緒に行こう」

 

 オレの手を引き、サチは旧校舎へと歩んでいく。もはや真っ直ぐに歩けていないオレを優しく先導していく。

 パソコン研究会の部室から溢れていた黒い液体は既に止まったのか、旧校舎もまるで今までの戦いの全てが嘘だったように静寂に満たされていた。全てが夢だったと言われても、きっと納得できるだろう。

 本来ならば、そこにはサチとケイタの幻影がいるだろう旧校舎の屋上。だが、そこもまた終わりを告げるように何もいない。無人の屋上を広々と主張するだけだ。

 

「ほら、クゥリ。見上げてみて」

 

 サチの手が頬に触れ、オレの顔を上げさせる。その目を、天上を満たす星々へと向けさせる。

 よく絵本には夜空で輝く星を宝石のようだと譬えるが、まさにその通りだった。仮想世界の星が淡い月光の中、細やかな自己主張をするように煌めいている。それはヤツメ様の森がある故郷に比べれば、あまりにも都会的な夜空ではあったが、心を震わすには十分過ぎた。

 

「……綺麗だ」

 

「でしょ?」

 

 オレとサチの背中が触れ合う。彼女はオレにもたれかかり、オレもまた彼女に体を預ける。互いの力が支え合う。

 不思議だった。背中合わせなのに、頭上の星を見上げているはずなのに、今のオレはまるでサチと対面しているかのような気分だった。

 ああ、そうか。オレは背中から伝わるサチの熱で、もうとっくに彼女には勘付かれてしまったのだと理解する。きっと、訪れてしまった悲劇こそ知らないだろうが、オレが自分に関わる何かを隠しているのだと気付かれてしまっている。

 

「クゥリは嘘が下手だね。『あの人』はもう少し上手だったよ?」

 

「……ごめんな」

 

「許してあげる。うん、やっぱりね、そんなクゥリだからこそ、とても強くて、とても怖くて、とても信じられるんだね。不思議だね。クゥリの傍にいると怖くて震えそうになるけど、同じくらいに温かくて安心できるんだ。やっぱり、クゥリは『火』そのものだよ。だから、きっと皆、クゥリを怖がっているくせに甘えてしまう。頼ってしまう。都合の良い話だよね。そんなの……ただ利用しているのと同じだよ。誰もクゥリには何も与えないんだから。火は燃やすものがないと、いつか消えてしまうのに」

 

「好きなだけ利用しちまえ。傭兵は利用されてこそ価値があるんだ」

 

 そして、今のオレにはその利用価値すらも無い。

 サチの指がオレの右手の甲を撫でた。1度、2度、3度と……まるで縋りつくように。涙を堪えるように。

 

「全部……話して」

 

 ここで口を噤むことはできる。だが、もはやオレは沈黙を保つ事はできなかった。

 そして、オレはこのクリスマスダンジョンの脱出の為にはサチの心臓が必要である事を……彼女が死なねばならない事を、ぼそりぼそりと、声が途切れながら話した。サチは無言のまま、反応の1つも見せず、その背中の温もりを淡々とオレに送り続けた。

 

「……そっか。私、死なないといけないんだ」

 

「まだ決まったわけじゃない。時間だって、まだ3時間以上残ってるんだ。必ず……必ず、サチが死なないで済む道を探し出してやる! その為なら……その為なら、オレは――」

 

「無理だよ。クゥリも分かっているよね? ここは私と『サチ』の世界。月夜の黒猫団が終わるまでの物語。物語の終わりは最初から決まってるなら、その『シナリオ』には逆らえないよ」

 

 オレの言葉を遮るサチの断言に、オレは今更になってアルシュナの真意を悟る。

 ああ、そういう事か。アルシュナはオレにサチを殺すという最悪に手を染めさせない為に、死神部隊へと勧誘したのだ。オレがAIとなり、プレイヤーである事から解放されれば、もはや『シナリオ』に従う必要はないのだから。

 だが、仮に死神部隊になったとしても、制限時間付きのこの世界に残されたサチを待ち受ける運命はただ1つ、消滅という名の死だ。だとするならば、オレはどちらにしてもAI化を拒んだだろう。

 

「オレには……何ができる?」

 

 ああ、認めてしまった。

 殺す以外に道は無い。浅ましくも、オレが選べるのはサチと一緒に死んでやることではなく、自分1人が生き残れる道だ。彼女とその最期のまで共にするという選択すら出来ない糞以下の屑だ。

 

「良かった。『だったら一緒に死んでやる』って言ったら、その頬に黒猫ストレートを叩き込まないといけなかったからね!」

 

「なんだよ、黒猫ストレートって」

 

「ケイタ命名の左ストレートの事だよ。私達が唯一戦ったリポップ型ネームドなんだけど、あと少しのところで倒し切れなくて、私にネームドが突っ込んで来たんだ。あはは。そしたら私ね、パニックを起こしちゃって槍を手放して殴り掛かっちゃったの。それが致命傷になってネームドを斃したんだ」

 

 努めて明るく振る舞うサチの声音は濡れている。オレの手の甲を撫でる指の動きは……もう止まっていた。

 背中合わせはもう終わりだ。サチの覚悟を踏み躙るわけにはいかない。オレは彼女の背中から離れ、その涙が溢れる顔と正面から対峙する。

 

「クゥリ……私ね、私……死にたくないよ!」

 

「知っている」

 

「でもね、このままクゥリを死なせるのは嫌。絶対に嫌! だって、このまま2人で死ぬって事は……私と『サチ』の想いが残らないって事だから! 身勝手かもしれないけど、クゥリには私と『サチ』の為に生きて欲しいの!」

 

 嘘だ。これは……サチの優しい嘘だ。だが、それをオレは否定しない。ここで彼女の言葉を1つでも拒絶する事は、サチの誇りを穢すことになる。

 涙も拭わず、サチがポケットから取り出したのは、掌に収まる程に小さい黒いクリスタルだった。猫の形をしたそれは、ほのかに温かな光を放っている。

 

「これを持って行って。これはアルシュナさんがくれた『サチ』の心。私と『サチ』の『あの人』への想い」

 

 黒猫のクリスタルをオレの手に押し付け、サチは嗚咽を堪えながら、その言葉を決して途切れさせない。

 

「いつか必ず『あの人』を助けてくれるはず。その時の為に、クゥリが持ってて。こんなお願い変かもしれないけど……感じるの。『あの人』は今も泣いている。苦しんでいる。だから、いつの日か『あの人』を救うために『サチ』の心を連れて行って」

 

「今ここにいるオマエの想いはどうなるんだ?」

 

 潰してしまわないように、卵を包み込むようにオレは黒猫のクリスタルを握る。

 この黒猫のクリスタルが『アインクラッドを生きたサチ』の心ならば、『今ここにいるサチ』の心はどうなるのだ?

 涙を光の粒のように散らしながら、サチは首を横に振る。オレの疑念を否定するかのように微笑んだ。

 

「私とサチの心は同じ。たとえ、『ここにいる私』が消えても、この心に抱いていたのと同じ想いがそこにある。私は……それで良いの」

 

 そんなの自己犠牲だ。奥歯を噛み砕けるのではないかと思う程に噛み締め、叫びそうな口を閉ざす。

 

「それで……良いんだな?」

 

「うん。それで良いの」

 

 満足そうにサチは頷く。たとえ、それが欺瞞の仮面だとしても、オレは剥ぎ取らない。彼女が『サチ』の心と自分の心が同じだと信じているならば、それが真実だとオレは受け入れるだけだ。

 アイテムストレージに、誤って破棄しないようにロックをかけて黒猫のクリスタルを収納する。アイテム名はなく、ただクリスタル系のアイテムであるアイコンだけが表示された、この仮想世界のイレギュラーアイテムだ。

 

「分かった。他に、オレにできる事はあるか? 酒でも飲むか?」

 

「無いよ。お酒もクゥリが言ったように20歳になってから飲むものだと思うし、やり残したことはいっぱいある気がするけど出来そうにないし。あ、でも、1つだけお願いして良いかな?」

 

 涙を袖で拭い、サチはくるり回ってオレに背を向ける。

 

「あのね、私が死ぬ前に、『あの人』にメッセージをクリスタルに録音して送ったんだ。でもね、録音時間が思ってたよりも長くて、だから歌も入れたんだ。今日はクリスマスだし……歌って良いかな? 私の『あの人』への想いを」

 

 オレの無言は了承であり、サチは口ずさむ。

 それは、これから彼女を待ち受ける最期に相応しくない、明るいテンポで刻まれるクリスマスソング。赤鼻のトナカイ。

 その歌声は夏の星空を映し込んだ聖夜の下に染み込んでいく。

 

「良い曲だな。学校で習ったよ。でも、オレって歌が下手糞だから、いつも馬鹿にされてたから、音楽の時間が大嫌いだったんだ。でも、こんな良い曲なら、ちゃんと練習するんだったな」

 

「あははは。私も上手い方じゃないけどね」

 

 そうサチは笑って……笑って……笑って、目を閉ざした。

 ああ、時間が来てしまった。まだ黒の帳は学校まで届いていないが、もう彼女の中では『時間切れ』なのだろう。

 オレに残された武器は2つ。1つは亀裂が入りながらも、その殺傷能力を残した血風の外装。そして、もう1つは折れて刃毀れし、短剣ほどの長さになった黎明の剣。これらでサチの命を奪い、その心臓を抉り取る。

 

「ここで……良いのか?」

 

「うん。星の下で死にたいの。あんな冷たくて息苦しい、『サチ』が死んだ場所じゃなくて、私が死にたい場所はここだから」

 

 そう言ってサチは仰向けになって寝転がる。オレは彼女の上に跨り、その首へと両手を這わせていく。

 一瞬で終わらせる。僅かな苦しみも与えない。全身全霊の力を込めて彼女の首を絞め、その『命』を消し去る。それがオレにできる、こんな糞ったれな運命に踊らされたサチへの慈悲だ。

 

「クゥリ、ごめんね」

 

 瞼を閉ざすサチの頬に、もはや涙は無い。それは枯れ果てただけなのか、もはや彼女にとって涙に何の価値も無くなったのか。それとも、泣かない事こそが彼女にできる最後の戦いなのか。今のオレには区別できない。

 

「苦しめて、辛い想いをさせて、背負わせてしまって、ごめんね。私も結局、あなたの優しさを利用するだけ利用している醜い1人。そんな私が言っても恨まれるだけだろうけど、どうか戦い続けて。絶対に諦めないで。いつの日か、クゥリを抱きしめてくれる人が、泣いて良いよって言ってくれる人が、現れるはずだから」

 

「そんな物好きいねーよ。それに、オレは自分が生き抜きたいだけだ。その為にサチ、オマエを殺す。優しい人なんかじゃない」

 

 呪え。呪え呪え呪え! オレがサチを殺すのは自分が生きる為だ! 仕方なく選んだ最後の選択じゃない! オレが殺したかったからだ! オレがサチを殺したかったからだ! だから……だからだからだから……だから!

 だが、サチはオレを罵る事も、貶す事もなく、ただ微笑んでいる。どうしてだ? オレは殺したいから殺すんだ。サチ、オマエはただの犠牲者だ。なのに、どうして?

 

「……やっぱり、あなたは優しいね。どうか信じて。必ず現れる。それはきっと、クゥリの事を怖がらない人。誰もが恐ろしいと感じる部分を怖がらずに受け入れてくれて、優しく抱擁してくれる人。私には……無理かな」

 

 指先に力を込める。サチの柔らかな首の皮膚に指圧がかかっていく。

 

「おやすみ、クゥリ。どうか、あなたに聖夜の奇跡が訪れますように」

 

「おやすみ、サチ。キミに安らかな眠りが訪れますように」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、オレはサチの首を絞めた。彼女の首の骨が、頸椎が、その手で砕けていく音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 痛みは無かっただろう。一瞬でサチは暗闇の中にある『死』へと堕ちていっただろう。

 安らかな顔で死したサチの頬を撫でるが、彼女はもう目覚めない。だが、その左目から伝う涙だけが、彼女が最期に宿した感情の欠片のような気がして指で掬い取り、両手の内で握りしめる。そのまま手を組み、彼女の安息を祈る。

 

「誓うよ。これからも戦い続ける。必ず『アイツ』の悲劇を止める」

 

 折れて刃毀れした黎明の剣、短剣のようなそれを逆手で構え、鋭い断面をサチの左胸に向けて振り上げる。

 やはりオレはバケモノだ。サチを殺したのに、涙1つ流れない。それどころか、この口元は際限なく歪み続け、心の奥底に満たされていく感覚がある。

 それでも、オレは『人』の心を捨てない。サチ、オマエが認めてくれたのは『人』の心を持ったオレだから。

 黎明の剣を振り下ろす。その欠けた断面がサチの左胸を裂き、肋骨を砕き、肉を引き裂き、生命の残滓のように鼓動を残す心臓まで切り開いていく。

 今ならばまだ間に合うかもしれない。彼女の命を引き戻す方法があるかもしれない。だが、この心臓を手に取れば、もはやそれは叶わなくなる。

 

「オレは狩り、奪い、喰らい、戦い、そして殺す者」

 

 サチ、オマエは生きたかったはずだった。その未来を奪ったオレを許すな。絶対に許すな。

 

「許しは請わない」

 

 心臓を右手で包み込む。その血塗れの温かな鼓動を終わらせるべく、仮想世界に生み出された彼女の肉体に血を送り届ける血管を引き千切っていく。

 

「オレの糧になれ」

 

 右手で抉り出した心臓が鼓動を止める。外気に触れ、その熱を急速に失っていく。

 蹂躙されたサチの亡骸から血が溢れだし、あれ程清浄だった夏の大気が血の香りで汚れていく。

 

「満足か? これで満足か? 仮想世界の王様を気取る糞野郎共が。貴様らも、オレも、救いようのないバケモノだ」

 

 茅場の後継者も茅場晶彦も敵だ。血に染まった心臓を掲げ、右腕を伝って垂れる血を顔に浴び、舌でサチの血を味わう。

 サチ、オマエもオレの糧になった。だから、その『命』はオレの血肉となる。それこそが狩人たちの掟であり、受け継がれた真理だ。

 どれだけオレが殺そうとも、それらは等しくオレの糧となり、前へと進む燃料となる。だが、貴様らがやっているのは、ただ『命』を弄ぶだけの神様気取りの人形遊びだ。その代償は必ず支払わせる。

 

「だから……だから……だから……」

 

 ああ、少しだけ疲れた。心臓が今にも止まりそうだ。だが、こんなところで死ぬわけにはいかない。更なる戦いを追い求める為に。

 その後、どうやってオレが再びトラップルームに至ったのかは覚えていない。ふらふらと体を揺らしながら、ただ脳髄に刻まれた目的地へと本能が誘ってくれた。彼女の心臓を捧げた闇の穴はその澱みを晴らし、オレを想起の神殿へと連れていく。黒い液体に包み込まれながら、意識を手放さないように、サチの血がついた右手を胸に押し付け続けた。

 黒い液体が消え去り、オレの足が冷たい床に触れる。そこは想起の神殿1階の中心部であり、記憶と変わらぬ静謐な空気を湛えている。変わらずにガラスのように透明な床の上で淡い金色の魔法陣がゆっくりと回転して想起の神殿を照らしている。

 だが、半壊した女神像の台座、そこにいつも腰かけていた、プレイヤー達を羨ましそうに眺めていた黒猫の乙女はもういない。

 

「どうして、泣けないんだ?」

 

 サチがいなくなったんだぞ? もう会えないんだぞ? 今までみたいに時間潰しに話をする事も、差し入れをして喜ばせる事も、その笑顔を見る事も、できないんだぞ?

 

「オレは、本当に『人』の心を持っているのか?」

 

 右手の血がポリゴンの欠片となって消えていく。サチが死んだ証が消え去っていく。その光の欠片へと手を伸ばすが、指がつかみ取る事は無い。

 何も手にできなかった右手をしばし見つめ、握りしめる。こんな命を奪うことしかできない手に救いを求めるなどおこがましいにも程がある。

 

「サチ、それでもオレは『祈り』を捨てないよ。だから、キミの為に……」

 

 想起の神殿で幾人かのプレイヤーとすれ違う中、オレは終わりつつある街を目指す。彼らは一様にオレに気持ち悪そうな、怯えるような視線を向けたが、そんなものを気にする必要はない。

 終わりつつある街に転送されたオレは、聖夜に相応しい12月の冷気に包まれた、朽ち果てていく街並みを眺めながら、なるべく人目につかないように裏道を通って黒鉄宮跡地を目指す。

 終わりつつある街、それははじまりの街が荒廃した姿だ。あのアインクラッドの悲劇が風化し、新たな殺し合いの始まりとなった場所だ。そこに残された死者の碑石、それは生命の碑と同じく、今を生きるプレイヤーの名前が刻まれている。

 開いた屋根の穴から雪が降り注ぎ、死者の碑石は雪化粧を施していた。それが月光を浴び、まるでダイヤモンドのように輝いている。

 死者の碑石、そこにこの世界を生きていたはずサチの名前は無い。その冷たい黒い石に彼女の生きた証はない。

 だったら、オレが残そう。この街に刻み付けよう。

 

「ああ、あそこが良いな」

 

 黒鉄宮の傍にある釣鐘の塔。青銅の鐘は凍てつき、誰も鳴らす者はいない。その屋根の上ならば、きっと響き渡るだろう。

 コートを失ったオレはノースリーブのバーサークインナーだけが上装備だ。止血包帯が巻かれた右上腕に冷風が吹き込む度に全身が凍り付きそうだが、温もりの指輪がある限り寒冷状態にはならないだろう。ならば、この寒さは甘んじて受け入れる。

 何時間かかったか分からない。塔の階段を1段1段上り、何度かバランスを崩して転げ落ちては這っていく。その繰り返しを何度も何度も続け、ようやくオレは釣鐘の塔の最上部、更にその屋根に至る。

 終わりつつある街を見下ろせるとはいわないが、それなりの高さがある釣鐘の塔だ。街の主要区画には目が届く。

 いつの間にか半分になっている視界、梟の義眼は機能を停止し、瞳は色を失っていた。取り出した瞬間にポリゴンの欠片となって砕け散る。

 片目が既に見えなくなっていた事も分からない程に、オレは必死だったのだろうか。そこまでして、オレは何を求めていたのか……まるで思い出せない。サチを殺した瞬間に焼き尽くされてしまったのだろうか。

 

「ここから飛び下りれば……死ねるかな?」

 

 この高さならば、頭から落ちればダメージ量的にもオレのHPを奪い尽くすには十分だろう。だが、安全圏化した終わりつつある街では自傷行為すらシステムによって弾かれて、オレは生かされるに違いない。

 雪を含んだ風がオレの髪を靡かせる。ヤツメ様は白き髪を揺らす蜘蛛の化身。山を下りては人の肝を喰らい、血を啜った。そして、烏の狩人に胸を射抜かれるも、その首を落とされずに契りを結んで夫婦となり、子を孕んだ。やがて子は山を下りて人の為に母たるヤツメ様を討つ狩人となり、同時に母を神として崇めた。単なるバケモノではなく、山の守り主であり、戦に赴く民を祝福する女神でもあった。

 

「ヤツメ様、オレはきっとあなたに限りなく近いんでしょうね」

 

 あなたも烏の狩人に愛おしさを覚えたから契りを交わしたのでしょう? だったら、バケモノでも『人』の心のままに、歌を紡ぐ事も許されるのではないでしょうか?

 

「ごめんな、サチ。歌詞は……忘れちゃったよ」

 

 だから力の限り、喉から振り絞るように聖夜へと射るのは旋律。サチから教えてもらった赤鼻のトナカイのメロディ。

 これがオマエへの鎮魂歌であり、『アイツ』へと届かせたいオマエの想いの欠片であり、そしてこの街に刻むオマエの生きた証と死んだ証……その墓標だ。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 クリスマスパーティもお開きに、ディアベルはユイを伴って黒鉄宮跡地の前にある大広場に来ていた。

 3大ギルドの友好を深める為、そして今まで無念にも散っていたプレイヤー達の為、聖夜の最後に慰霊祭を開く事になったのだ。

 午後11時から疎らに人が集まり始め、間もなくクリスマスが終わる深夜零時を目前に控えた現在では、全てのDBOプレイヤーが集結したのではないかと思う程に賑わっている。

 というのも、3大ギルドに先がけてラスト・サンクチュアリが貧民プレイヤー向けの炊き出しを慰霊祭前で行い始めたのだ。厳かに行われるべき慰霊祭を人気集めに利用しようという魂胆をディアベルは快く思っていなかったが、これを見越していたラムダが即座に同様の支援活動を始め、また同じように密やかに準備していただろう太陽の狩猟団やクラウドアースもまた対抗するように屋台を開き、あっという間に情報を聞きつけた貧民プレイヤーが群がって来たのだ。

 貧民プレイヤーからすれば、クリスマスなど死ぬ危険性が無くなった以外の恩恵などほとんど無い。だからこそ、炊き出しで美味い食事にありつけるとなれば、慰霊祭の意義など関係なく集まるのも仕方ないと言えば仕方ないのだ。

 もちろん、それだけではなく、サインズが急遽決まった慰霊祭の広告を大々的に行ってくれたお陰もあるだろう。

 いかなる理由であれ、慰霊祭に出席する事自体に意義がある。そうディアベルは無理に納得する事にした。

 

「す、凄い人数ですね、ディアベルさん」

 

 ディアベルの隣で目深くローブのフードを被り、慌ただしく視線を泳がせているのはユイだ。丈の長いローブを着ている理由は至極簡単であり、彼女もまた茅場の後継者が仕掛けたトラップにかかり、ミニスカサンタ装備だからである。ロリータファッション調のミニスカサンタに聖剣騎士団の男共は興奮してユイに詰め寄り、ディアベルはクゥリに代わって成敗し、本部の牢屋にぶち込んだ。

 ただでさえ人見知りの激しいユイがミニスカサンタ装備で多くの客人が訪れるクリスマスパーティに出席できるはずが無く、彼女からすれば退屈なクリスマス期間となってしまった。だが、彼女が立案した慰霊祭計画が土壇場で3大ギルドの同意に至り、こうしてローブを着こみながらも出席するに至ったのである。

 

「ああ、これもユイちゃんのお陰だよ」

 

「私は死んだ人たちの為に祈りたかっただけで、別にそんな……」

 

「その気持ちが大事なんだ。俺もすっかり忘れていたよ。犠牲を数ばかりを見るようになって、それを減らすように躍起になって、本質を見失っていた。確かに生きていた人たちがデスゲームの中で死んでいるなんて当たり前のことを見失っていたなんてね」

 

 ギルドリーダー失格だ。そうとすらディアベルは自責の念を覚える。

 DBOがどの程度まで攻略が済んだのかは不鮮明であるが、5割ほど消化したのではないかというのが大よその見解だ。だが、序盤に比べて1つのステージが巨大化し、またボスに至るまでの難易度も劇的に上昇し、攻略スピードが明らかに落ちている。

 安全を確保しようとすれば時間がかかり、また他のギルドに出し抜かれる。逆にスピードを重視すれば犠牲は免れない。ディアベルは犠牲者が報告される度に頭を悩ませ、天秤のバランスを操ろうとする。

 やがて、それは傭兵の積極雇用にも繋がってしまった。自戦力の消耗を気にせず、戦果を期待して死地にも送り込める傭兵は使い勝手の良い『駒』だ。ギルド間抗争でも、その有用性は嫌と言う程に証明されてしまった。

 だが、気づけばディアベルがサインした依頼で死亡した傭兵も出ていた。そんなもの、報告書には上がってこない。犠牲にもカウントされない。それで良しと思う自分すらも生まれ始めている事に嫌悪感を抱いた。

 だからこそ、ディアベルは真摯にユイへと感謝する。彼女の企画のお陰で、建前でも3大ギルドが友和をアピールでき、こうして死者を弔うことができるのだから。

 

「さぁ、ユイちゃん。蝋燭に火を」

 

「はい」

 

 ディアベルはマッチを擦り、金色の手持ち燭台にのせられた蝋燭へと火を灯す。それが合図となり、次々とプレイヤー達は炎を揺らしていく。

 余りにも急すぎた慰霊祭だった為、念入りな打ち合わせなどしていない。ほとんどアドリブではあるが演説もある為、黒鉄宮跡地前に設けられた壇上にディアベルは向かう。そこには既に太陽の狩猟団の団長・サンライスと副団長・ミュウ、それにクラウドアース理事長のベクターの姿があった。

 

「団長、良いタイミングです。最後に登場された事で、プレイヤー達はこの慰霊祭が誰によって企画されたものなのか理解したでしょう。これで、聖剣騎士団のクリーンイメージは大幅に上昇する事になるでしょうね」

 

 先に控えていたラムダの小声の称賛に、ディアベルは思わず苦笑する。別にディアベルはそんな計算をしたわけではないのだ。単純にユイといた場所から壇上まで遠かっただけである。

 演説するわけでもなく、挨拶をするだけだ。本来ならば、こんな仰々しいステージなど不要だ。だが、これもギルドリーダーとしての務めとして割り切る。

 並んだ3大ギルドのリーダーたち、その中央に陣取るディアベルは蝋燭の火を持つ終結したプレイヤー達に、感謝の言葉を述べようと口を開こうとした。

 

「え?」

 

 だが、まさにその時、ディアベルの耳を……いや、この場の全てのプレイヤーへと、1つの『曲』が届いた。

 それは何処かで聞いた事がある旋律。歌詞も何も無く、ただ声の限りに奏でる原始的な歌声。

 

「これは赤鼻の……」

 

 ラムダが懐かしそうに呟く。ああ、そうだ。余りにも下手で分かり辛かったが、確かにその曲だとディアベルは納得する。

 とても下手なのに、とても心地良い。何処かで聞いた事があるような声であるが、誰なのかは分からない。何処から聞こえてきているのかも不鮮明だ。

 だが、その歌声に込められたのは果てしない、殺し合いの仮想世界で生きる者の心には残っていないだろう、全ての生命に捧げるような……慈愛だった。

 見回せば、誰もが今や3大ギルドの挨拶などではなく、歌声に耳を傾けている。

 もう少しだけ、この歌声に浸ろう。ディアベルは冷たい大気を震わす旋律に心のままに受け入れた。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

(これは赤鼻のトナカイでしょうか?)

 

 お世辞でも上手とは言えない、歌詞のないただの旋律。何処からともなく聞こえてきたそれに、ミュウは小さい頃の記憶を蘇らせる。

 共働きの両親は仕事に生き、ほとんど家庭を鑑みなかった。両親と同じようにエリートの道を歩むことが定められていたミュウは、たとえクリスマスであろうとも塾に通い、勉学に励んでいた。

 何も疑問は抱かなかった。両親の愛情とは最高の教育を施してくれる事と理解していたからだ。だからこそ、ミュウは寂しさも何も感じなかった。

 だが、あれは何歳の頃だったか忘れたが、雪が積もる塾の帰り道、繁華街がクリスマスムード一色の中、途切れ途切れのスピーカーから赤鼻のトナカイが流れていた。その時、ミュウは一瞬だけ思ったのだ。

 

 自分は……何をやっているのだろう、と。

 

 あの時に抱いた感情は思い出せない。思い出したくもない。だが、この下手な旋律に心が掻き毟られていく。これ以上聞きたくないのに、どうしても耳を傾けずにはいられない。

 

「ハハハ。やはりミュウも人の子か」

 

 と、途端に隣で演説の時を待っていたサンライスがその逞しい腕を組み、いつのものような大声ではなく、歌声を掻き消さないように、まるで傷だらけの雛鳥を労わるように、小声でミュウに話しかける。

 急に何を? 訝しむミュウに、やはり気づいていないのかという視線でサンライスは自身の頬を指差す。それが意味するところを知り、ミュウは冷え切った己の頬に触れた。

 そこにあったのは……1粒の涙だった。

 

「ミュウ、お前にはいつも気苦労ばかりをかけて済まんな。俺は猪武者の大馬鹿者だ。お前には組織の運営はもちろん、何から何まで任せっきりだ」

 

「私が望んでの事です、団長」

 

 団長を旗印にして太陽の狩猟団は巨大化し、今や3大ギルドでも優れた戦力と組織のバランスを整えた最優のギルドとなった。戦力ばかりが先行している聖剣騎士団や逆に組織運営力ばかりが育ち過ぎたクラウドアースよりも、その安定性は比べ物にならない。このままギルド間抗争が激化すれば、いずれ勝ち残るのは太陽の狩猟団だ。それを成すプランを既にミュウは準備している。

 

「かもしれん。だが、俺は時々お前が太陽の狩猟団の為に、人の領域を踏み外してしまいそうで心配になる。ミュウ、俺はお前に悪鬼羅刹になって欲しくない。だから、もしもそんな日が来たら、俺は貫くべき信念を捨て、ディアベル殿に下るつもりだ」

 

「…………」

 

「そんな日が来ないと良いな」

 

「…………そうですね」

 

 大口を開けながら小声で笑うサンライスに微笑みながら、ミュウは我が身を振り返る。

 もはや引き返すべき時は過ぎた。なのに、その胸に去来するのは僅かな後悔。その感情を引き出すのは天使とも思える旋律の歌声だった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 クゥリは大丈夫だろうか? 召喚を受けて呪縛者の激闘を果たしたラジードは無事に帰還したが、それでも今も何処かで友人が戦い続けているのではないかと思うと気が気では無かった。

 その一方で、あの恐怖の塊のような白髪の傭兵ならば、どんな事があろうとも、いかなる強敵でも、いかなる悪辣なトラップでも食い千切り、必ず生きて帰るだろうという確信もある。

 とはいえ、その安否の報告を聞くまでは安心できない。故に、せめて無事を祈ろうとこうして慰霊祭にも出席したのだ。

 

「ラジードくん、本当に何があったの?」

 

「ごめん、ミスティア。僕の権限じゃ話せないんだ。その、ミュウ副団長に口止めされてて……」

 

 聖夜も編んだ淡い金髪を揺らしながら、ただし、その恰好は普段の清廉なる戦乙女を思わすものではなく、扇情的なミニスカサンタ姿のミスティアに詰め寄られ、ラジードは視線を背ける。主に大きく切り開かれた胸元に、男として視線を向けないように最大限の努力を込めて目を逸らす。

 ミュウにクゥリの召喚に応じた1件は固く口外を禁じられ、ラジードはたとえ太陽の狩猟団の幹部であるミスティアにもその内容を明かすことは出来ない。恐らく、ミュウの狙いは今回のラジードの召喚の件をネタに、クゥリから譲歩やアイテムを引き出そうというものだろう。より交渉を有利に進める為に緘口令を敷いているのである。

 それを考えれば、副団長の計画をご破算にさせる為にも積極的に情報を流布すべきかとも思うが、そんな真似をして同じ組織内で敵対者を増やしてもつまらないだけだ。クゥリには悪いが、全てが終わった後に謝罪代わりに何か奢らせてもらうとしよう、とラジードは嘆息する。

 

「……いいよ、話したくない物を無理に聞いても仕方ないしね」

 

 普段は堅苦しい喋り方をするミスティアであるが、ラジードの前だけでは年相応の女の子らしい口調になる。それが男心を擽り、独占欲を掻き立てるのであるが、ヘタレの自負するラジードは相変わらずミスティアのミニスカサンタ姿を直視できない。こうして慰霊祭に2人で出席した事を契機にデートの約束の1つでも取り付けられれば良いのであるが、まるで喉から声が出ない。

 そうしている間に壇上へと3大ギルドのリーダー達が現れ、慰霊祭の挨拶という名のギルドアピールの演説が始まろうとする。

 だが、1番手のディアベルが口を開こうとした瞬間、何処からともなく天使の歌声が慰霊祭に、まるで白雪のようにふわりふわりと降り注ぐ。

 

「……綺麗な声だね」

 

 ぼそりとミスティアが呟く。ラジードは無言で同意する。それは歌詞など無い旋律に過ぎず、また何の曲を歌っているのかも分からない程に下手であるが、まるで乾いた砂場に雨が降ったかのように、ラジードの胸へと浸み込んでいく。

 

「これ、男の声じゃないかな?」

 

「あ、本当だ。言われてみれば、確かに男の子の声のような気がするね」

 

 心地良さそうに両目を閉ざして歌に見入るミスティアの横顔を見て、ラジードは胸を高鳴らせる。

 勇気を出せ。今がチャンスだ。そう歌に後押しされたかのように、ラジードは恐る恐るミスティアの手を握る。

 ビクリと驚いたように体を跳ねさせたミスティアはラジードの方を向く。彼は顔を真っ赤にして俯きながら、それでも最初の1歩だと信じて口を開く。

 

「えと……その、実は美味しいレストランの予約が取れるイベントがあるんだ。だから、その……一緒に、クリアしないか?」

 

 ああ、おこがましい。ミスティアはその美貌と強さからDBOでも五指に入るとされる人気女性プレイヤーだ。そんな彼女にデートを申し込むなど、容姿的にも実力的にも余りにも不相応ではないか! だが、ラジードはやり切ったと、これで手を振り払われても本望だと全力を出し切った疲労感を味わう。

 

「……良いよ」

 

「え?」

 

「良いよ。上手くエスコートしてね。私、リアルでも仮想世界でもそういうの、初めてだから」

 

「あ、ああ! もちろん!」

 

 頬を朱に染めて恥ずかしそうなミスティアの手を、ラジードは強く握る。絶対に離さないと誓う。

 まるで全ての人に等しく勇気を授けるような旋律に、ラジードは感謝しながら、その麗しい歌声に溶けた。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 何度も自分に尋ねた。『強さ』とは何だろうか、と自問し続けた。

 今も答えは出ない。だが、人殺しすらも厭わない暴力が自分の求める『強さ』ではないと理解している一方で、命を奪う『強さ』の先にこそ求めるものがあるような気がしてならなかった。

 だが、そんなシノンの自問はUNKNOWNとの出会いによって、濃く混迷に至っていた。

 彼が見せた圧倒的な『強さ』、そして、その一方でDBO最強プレイヤーと目される彼から見出されたシノンの持つ『強さ』。

 そんなものは必要ない。シノンが欲しいのは忌まわしい過去を乗り越える『強さ』だ。だが、一方で今ある人殺しを成す力に固執し続ける事に疑問が生じてしまった。

 このままでは、いずれ傭兵としての戦いの中で命を落とす。だからこそ、シノンはもう1度自分を見つめ直す為に慰霊祭へと足を運んだ。

 

「本当に……何なのよ」

 

 だが、月光と白雪に満ちた世界を響かせているのは、3大ギルドの大義名分を語る演説でも、死者を弔う蝋燭の灯でもなく、たった1つの歌声だった。

 お世辞でも上手とは言えない旋律。だが、何故か心を軋ませていた悩みを包み込んでいく。

 ボロボロと涙が零れ落ち、シノンは我が身を恥ずかしく思う。ただでさえ、チャイナ風ミニスカサンタ姿だというのに、ここで泣きじゃくっていてはこれまで築いたイメージが崩れてしまう。そうなれば、明日からの傭兵業に差し障りがある。

 その歌声に込められているのは、途方もない平等な愛情。1つの『命』を慈しみ、嘆いているかのような、苦痛に満ちた叫び。シノンは必死に袖で涙を拭おうとするが、涙は止まることなく溢れ続ける。

 1つの『命』を想う。それはシノンが選ぼうとした、人殺しの道への警告か、それとも彼女に覚悟を促すものか。

 

「綺麗な歌声ですね、隊長」

 

 涙を止めようと奮闘するシノンは、いつの間にか隣にいた、メイドを連れたアーロン騎士装備に目を向ける。彼は腕を組み、この悲しげな歌に何かを見出したのか、仰々しく頷いた。

 

「やはり聖女か」

 

 聖女。ああ、確かにそうかもしれない。アーロン騎士装備の評価に、シノンも思わず同意する。

 こんな歌声、ただの人間が出せるはずがない。こんなにも穢れが無い美しいメロディを、人間の喉で奏でられるはずがない。

 

「鬼の目にも涙か」

 

「誰が鬼よ!?」

 

 今度は何!? シノン涙を振り撒きながら隣からの無遠慮な一言を追って睨めば、そこにはいつものように煙草を咥えたスミスがいた。

 

「これは失礼。余りにも珍しいものを見たものでね」

 

「……スミスさん、私を血も涙もない冷血マシーンみたいに思っていません?」

 

「まさか。むしろホッとしているくらいだ」

 

 煙草を口元で揺らし、紫煙と雪を交わらせながら、スミスはシノンへと笑いかける。

 

「泣けるならば泣いておいた方が良い。涙は悪ではない。人はいつの間にか泣き方が分からなくなる生き物だ。泣ける内に泣き方をしっかり覚えておきたまえ。それが、いつの日かシノンくんを救う財産になる」

 

 相変わらず大人の男だ。説得力の籠った言葉に、シノンは泣くのも悪くはないかと受け入れそうになる。

 

「スミスさんも泣く事があるの?」

 

「さぁ、どうだろうね。私も人間だ。泣くべき時は泣くだろう。だが……泣き方は随分と前に忘れてしまったな」

 

 ハンカチを差し出され、シノンは鼻でもかんでやろうかと思ったが、素直に目元を拭う。

 何処かで聞き覚えがある歌声に、今はただシノンは心を揺さぶられるしかなかった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 黒鉄宮跡地近辺の礼拝堂、慰霊祭に集まったプレイヤー達を視認できる2階のテラスにおいて、幾人かの異様な雰囲気を纏った者達がいた。

 DBOの裏でその名を轟かせ、犯罪ギルドでも武闘派として恐れられるチェーングレイヴ、その幹部たちが勢揃いしていたのである。

 本来、アジト以外で幹部が集結するなど、まずあり得ない事態だ。だが、今回このようなリスクを冒しているのには理由がある。

 セサル・ヴェニデ。クラウドアースの最高決定機関である理事会を支配する真の王。彼からの慰霊祭のお誘いがあったからである。

 

(やれやれ、ボスの肝っ玉の大きさには驚かされますねぇ)

 

 いつものように、気が抜けたような顔の裏で冷や汗を流しながら、レグライドは単身でボスと会談するセサル、その王者の気質に畏怖する。

 セサルの屋敷で初めて【渡り鳥】と出会った時、レグライドは目の前にバケモノがいるのではないかと錯覚して内心怯えたが、このセサルに比べれば【渡り鳥】はまだ雛鳥のようなものだ。

 ただ存在しているだけで跪き、忠誠を誓いたくなる、生存本能に訴えかける絶対的な捕食者の頂点。まさしく王の器だ。こんなバケモノと平然と話していた【渡り鳥】の神経を疑う。いや、同類だからこそ、互いが互いに怯える必要ないのだろう。むしろ、セサルは雛鳥に餌を与えて育てようとする、先達としての懐の広さすら感じる。

 そして、そんなセサルを相手に、まるでたじろぐ事なく、それどころか談笑を交じえながら幾つかの協定を進めていくボスに、レグライドは敬服の念を強める。セサルのような生まれ持った王のオーラではなく、ボスは数多の苦難と試練を乗り越えて鍛え上げられた名刀のようだ、とレグライドは自分の選んだ道に間違いは無かったと確信する。

 

「ふむ。やはり、プレイヤーの犯罪行為の幾つかに不自然さを感じていたが、なるほど。キミの情報が確かならば、赤毛の女、ロザリアだったかな? その女はGM側の刺客というわけか。それに、このポンチョフードの男……懐かしき旧友にそっくりだ」

 

 2枚の写真を手に、セサルはジェスチャーとして早急に対処しなければならないと訴えるように、口元を厳しくしている。だが、それも一瞬だけの事、すぐに楽しげに歪んでいく。

 それを見たボスは、交渉を有利に進めるべく、1つの提案をする。それを聞いたセサルは顎に手をやり、数秒の思考の後、好意的に頷いた。

 

「良いだろう。その案で行こうではないか。バックアップは任せたまえ。キミたちが動き易いように情報操作は抜かりなく行う。そうだな、もう1つ支援に傭兵を派遣しよう。口が堅く、腕が立ち、決して雇用主を裏切らず、信頼でき、なおかつ汚れ仕事も厭わない人物……【渡り鳥】くんが適任と思うが、どうかな?」

 

 途端にボスの表情が渋くなる。一言二言、他に適任者はいないか、たとえばユージーンは貸せないのか、とセサルに提案する。

 

「ユージーンくんはクラウドアースの看板傭兵だ。私も先日の諜報部の1件で放任主義を少々改めたものでね。今はクラウドアースの運営にも小言を挟ませてもらっている身だ。彼はクリーンなイメージでクラウドアースの『力』をアピールしてもらわなければ困るのだよ。ククク、『アイドル』とは偶像という意味だが、彼にはランク1として、UNKNOWN君とライバル関係にあるという喜劇を演じて貰わなければならないからね。民衆とは光り輝く銀幕に魅せられ、劇裏の汚れた陰には気づかない。気づこうとしない。彼には『アイドル』として表舞台で活躍してもらわねばならないのだよ」

 

 そりゃそうだろう。レグライドも、傭兵ランク1のユージーンに出張られては色々困る。彼は豪傑と高潔を併せ持つ人物だ。それなりに清濁併せ呑む事はできるだろうが、犯罪ギルドに与する事を良しとはしないだろう。

 何よりも、今回の1件はともかく、チェーングレイブの『計画』の事を考えれば、ユージーンとは組みたくないという本音がある。今回の作戦は『計画』に関与する重要な位置づけにある。

 

(ユージーンを勧誘するなら別でしょうけど、彼も色々とゴタゴタがありそうですからねぇ。まだ時期早々ですか)

 

 珍しく溜め息1つ吐き、ボスはセサルの提案を了承する。元よりこちら側の要求が全て通るとは思っていなかったのだろう。

 

「その件ですが、何事にも保険はかけるべきでしょう」

 

 それまでボスの背後に控えていたマクスウェルに、何か意見があるのか、とボスは問う。ワンマンではなく、こうして側近の言葉にも等しく耳を傾けるところもボスの美点の1つだな、とレグライドは心服を深める。

 寒空の下でスキンヘッドが凍えるように輝く中、マクスウェルは1歩前に出て提案する。

 

「正直、あの娼館の1件を考えれば【渡り鳥】も幼い部分が大きいと言わざるを得ません。作戦通りに事を運ぶにはイレギュラー性が高過ぎるかと。そこで、いっそ彼を陽動、そしてここぞという時の切り札として扱うのはいかがでしょうか。こちらとしても、その……こういうデリケートな作戦に使えそうにない代わりに実力だけは折り紙付きの馬鹿娘が1人います。あの娘を保険として組ませます」

 

 それって別名で厄介払いって言うんじゃないでしょうかねぇ、とレグライドは『慰霊祭に行ってくるね!』とマクスウェルにお小遣いを握らされて、会談から自主的に追い出された、この場に唯一出席していない幹部(戦闘オンリー)に合掌する。前回のエレイン絡みの作戦でもそうだが、彼女はその繊細な技量と相反して、こうした緻密な陰謀戦には向かないのだ。

 だが、セサルとしても悪くない提案なのだろう。ボスと詰めるように幾つか会話を交わした後に頷く。

 

「良いだろう。元より私は支援に撤するつもりだ。詳細に口出しする気はない」

 

 合意に至り、セサルとボスが握手を交わす。そして、丁度それと同時に慰霊祭が開幕したらしく、壇上に3大ギルドのリーダーたちが登る。

 ギルドの権力を誇示する為の演説か。慰霊祭など名目に過ぎず、その実は死者を弔う気が無い。その傲慢さにレグライドは会談の場でなければ唾棄していただろう。

 だが、演説が始まる直前に、慰霊祭へと波紋のように広がるのは1つの歌声だった。

 レグライドがイメージしたのは、天使や聖女といった、清らかな乙女の姿だ。聞き覚えのある曲のような気もするが、歌詞も無い旋律であり、原型が見えないほどに下手である為に思い浮かばない。だが、そんな物を抜きにして心に訴える力がある。

 これは3大ギルドの演出だろうか? だとするならば、どれ程に心が清らかな人間が歌っているのだろうか? とてもではないが、レグライドにはこれが人間の歌声だとは信じられなかった。

 あるには、ひたすらに弔いの意思。何処までも死者を慰める慈しみだ。芸術に関して素人のレグライドでも感じずにはいられない。

 

「ぼ、ボス!?」

 

 と、歌に浸っていたレグライドはマクスウェルの驚きの声に何事かと振り向く。そこで見たのは、敬愛するボスの頬を流れる涙だった。嗚咽を漏らすわけでもなく、淡々と双眸から涙を流すボスの目は、普段の鋭さや暗闇が無く、まるで懐かしき過去に想いを馳せているかのようだった。

 

「……歌とは生物のコミュニケーションの中では原始的かつ、最も感情を伝達するのに適したツールだ」

 

 セサルはぼそりと呟き、まるで指揮でも執るかのように指を宙で振るう。彼らしくない、まるで遊びに興じるような子どものようだった。

 

「なるほど。どうやら私はまだ『キミ』を見極めきれていなかったようだ。甘さとばかり思っていたが……これも伸ばすべき才能かもしれんな」

 

 席を立ったセサルはその口元に柔和な笑みを浮かべている。だが、その目だけは何故かやや不機嫌そうだった。

 

「だが、聖者では王にはなれん。さぁ、『キミ』が選ぶのは王か、聖者か、それとも獣か。楽しみにしていよう」

 

 セサルはそう言い残して去っていく。

 彼にはこの歌の主の見当が付いているのだろう。レグライドはセサルを見送りながら、どのような人物なのだろうかと思いを馳せる。

 残された旋律は、ただ彼らを慈しむように響いていた。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 その旋律は何かを思い出させてくれる。

 その旋律は彼女の中にある『本質』の残骸を震わせる。

 その旋律は忘れていた『役目』がある事を自覚させる。

 目深くフードを被ったユイは、慰霊祭に響き渡る歌声に込められた感情を拾い上げていく。

 

「この歌声は……だ、れ?」

 

 聞き覚えがある。なのに、ユイはどうしても思い出せない。思い出そうとすると、残骸のユイが彼女を引き戻そうとする。

 だが、それを無視してユイは深く深く自分の胸の内、心の穴、記憶の破片が沈む深海へと潜っていく。

 

「……P10042の感情値をマイナス249.66ポイントに変動を確認。安定性ランクをD11に下方修正。ストレスコードはレッドⅦ。精神階層の第1層から第14層……全層に亘る深刻なダメージを確認。総合診断結果、P10042は特級メンタルケアが必要です。早急に保護してください。カーディナル、そ、そそそ、早急に……早急にっ!」

 

 カーディナルって……何? ユイはぼんやりとする頭の中、必死に靄を振り払い、自分が何を喋っているのか理解しようとする。

 行かないといけない。この歌声の主の元に行かないといけない。それこそが生まれた意味であり、何よりも、今ここにいるユイの願いのはずだ。

 だが、残骸のユイが足に絡みつく。必死に歌声の主、その姿を描こうとする彼女を邪魔する。

 

「邪魔……しな、いで!」

 

 割れるような頭痛が空洞の右目より溢れ、ユイは慰霊祭の人垣をふらつきながら、歌声の場所を探し出そうとする。

 だが、歌声から検知した1つの感情がユイの足を止めた。

 

「どうして……なの?」

 

 歌声に込められた慈愛。ユイはそれを拾い上げたが、歌声の主が乗せた感情には欠片として救いを求める意思などなく、ただ死者を悼み、『命』を想う慈しみしかない。

 膝を折り、ユイは顔を手で覆う。溢れる涙を止めようとするが、掌は受け止めきれずに流れ出す。

 

「大丈夫ッスか?」

 

 そんなユイに手を差し出したのは、何処か気弱そうな男だった。

 以前ディアベルが広げていた傭兵の資料で見たことがある。確かRDだっただろうか。ユイは袖で涙を拭いながら、彼が差し出す手を握って立ち上がる。

 

「あ、ありがとう、ございます」

 

「別に良いッスよ。泣いちゃう気持ちは、なんとなく分かりますから」

 

 そう言ってRDは自分の右目を指差す。そこには薄っすらと涙が溜まっていた。

 

「この歌を聞いてると、どうしてかは分からないけど、姐さんを思い出すんですよ。姐さんってのは俺の、リアルでも上司の人なんですけど、これが怖い人だったんッスよ。DBOにもその人に酔った勢いで無理矢理ログインさせられて。デスゲームが始まってからも何かと面倒見てくれて……でも……」

 

「……亡くなられたんですか」

 

「俺が馬鹿やって、死んじゃいました。ハハハ! 自分だけでも逃げられたはずなのに、上司だからって無茶して、本当は臆病なくせに……俺の為に命張ってくれて……」

 

 ユイの胸の内が歯車が動く。

 それは彼女の中の残骸、それがRDに言葉をかけろと訴えている。それが『役目』だから、と。

 

「……その姐さんという方は、きっとRDさんの事が大切だったんでしょうね。自分の命を使っても良い位に」

 

「金にがめついくせに、根本がお人好しなんッスよ。ホント、『あの人』と同じだ。『あの人』も恐ろしいくせに、何であんな顔できるんだか……」

 

 笑うRDは歌声をつかむように手を伸ばす。

 今も歌には『痛み』で溢れている。だが、もうユイには歌声の主を探しには行けなかった。

 きっと行ってしまえば、ユイは大切なものを得られるだろう。だが、同時に別の大切なもの……両親への想いを失いそうな気がした。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 慰霊祭に出席したのは、自分の罪を振り返る為だった。

 黄金林檎の破滅をもたらす、自分の妻すらも殺めた自分を見つめ直す為だった。

 だが、グリムロックはその手に持つ蝋燭の火を揺らしながら、聖夜に染み渡る歌声に、まるで洗礼を受けたかのように惚けていた。

 聞き覚えのある声のはずだが、誰なのか思い出せない。だが、そんな事はどうでも良いと思う程に、グリムロックはその旋律を耳で追っていく。

 

「私は……キミを殺した」

 

 たとえ、自らの手を汚していなくとも……いや、汚していないからこそ、グリムロックはグリセルダを……妻・ユウコの罪から逃げてしまった。

 DBOにいるのも罪をユウコに罰してもらう為のはずだ。

 なのに、この歌声はそんなグリムロックを癒すように、余りにも穏やかに、切なく、温かく、彼の内側へと流れ込んでくる。

 

「ユウコ、私は……もしかしたら、キミともう1度……」

 

 いや、これ以上は止そう。それは余りにも傲慢な望みだ。

 グリムロックは、今は何も考えずにこの歌に浸ろうと瞼を閉ざした。

 

 

▽   ▽   ▽

 

「なんでや!」

 

「いや、何でも何も、ラスト・サンクチュアリは慰霊祭の開催には関与していませんから」

 

 あっさりと正論で打ちのめされ、ラスト・サンクチュアリのリーダーであるキバオウは悶絶した。

 慰霊祭開催の情報を聞きつけ、倉庫の余剰食糧を使い、炊き出しをしたは良いものも、この動きを見越していたかのように3大ギルドも次々と貧民プレイヤー向けの屋台を開き、あっさりとラスト・サンクチュアリの影は薄くなってしまった。

 それでも貧民プレイヤーからの支持は依然として高く、いの1番に炊き出しを行った効果は十分かもしれないが、2番手や3番手の屋台の方が目立っている事に、キバオウは焦りを募らせていた。

 

「元よりラスト・サンクチュアリは貧民層に一定の支持があったのですから、慰霊祭だからって余剰食糧を投入するなんて馬鹿な真似をする必要は無かったのに。炊き出し自体はクリスマス期間中も各地で行っていたんですから。派手な花火を打ち上げるより地道な草の根こそが長期的利益を生むんです」

 

 そう言うのは、先程正論を突き刺したフード付きのマントを被った少女だ。小柄ではあるが、その身から溢れる雰囲気は戦士として精錬され、また何処か荒野を思わすように乾いている。彼女の両肩には銀と金の幼体のドラゴンが腰かけていた。

 相変わらず可愛げのない女だ。だが、有能ではある。キバオウはギリギリと歯を食いしばりながら、確かに今回は考え無しだったと嘆息1つに自省を促す。

 

〈キバオウ、ラスト・サンクチュアリが危機に瀕している中、リーダーとしての重責を背負うアンタの焦りは分かる。だが、もう少し冷静になろう。俺達にとって物資調達は聖剣騎士団からの秘密裏の援助が生命線なんだ。生産能力が組織の規模に対して安全マージンを取りきれていない今、余剰資源は最大限に温存すべきだ〉

 

 受け取った本人しか見えないシークレット設定がされたインスタントメッセージ、それを飛ばしたのはマントの少女の隣に立つ、DBOで知る者はいない素顔を隠した最強のプレイヤーの1人、UNKNOWNだ。今日も黒衣を纏い、背中には2本の片手剣を背負っているが、いつもと違ってこの寒空の下に相応しい白のマフラーをつけている。

 あのマフラーはマントの少女が≪裁縫≫スキルをこの日の為に合わせて熟練度を上げて作ったクリスマスプレゼントだ。彼がマフラーを付けて慰霊祭に出席するというだけで、マントの少女は普段の2倍増しくらいで上機嫌である。ただし、相変わらずキバオウへの軽蔑染みた視線は変わっていないが。

 とはいえ、それはキバオウがアインクラッドでしでかした事を考えれば当然のことだ。彼もまたそれを自覚し、今度こそ過ちを起こさないように心掛けているからこそ、ラスト・サンクチュアリの運営に全力を尽くしているのだ。

 ……だが、マントの少女の軽蔑視線の最大の理由といえば、キバオウの過去の所業ではなく、UNKNOWNを各ギルドのクリスマスパーティに連れ回してそのカリスマ性を利用した営業活動をした挙句、彼女が目論んでいたクリスマスデート計画を潰してしまった事へのご立腹だろう。

 

「分かってるで。ワイらを秘密裏に援助してくれてる『あの人』の意思を無駄にはせん。だからこそ、何が何でもこの組織を生かすんや」

 

 ラスト・サンクチュアリの窮地に、密やかに支援を申し出たのは聖剣騎士団のリーダーであるディアベルだ。もちろん、組織として支援する以上、打算があっての事だろうが、あの青の騎士がそうした打算など建前であり、ラスト・サンクチュアリの理念を解するからこそ援助を決定した事をキバオウには分かっている。

 

「……そういうキャラが危ないって言ってるんですけどね。まぁ、私達とあなた達はギブ&テイクの関係です。この人を英雄に祭り上げた分、【閃光】さんに関する情報収集は抜かりなくお願いしますよ。私も慣れないオペレーター業をしているんですから、その分も上乗せで成果を期待します」

 

「ワイも男や。二言は無い」

 

 冷ややかなマントの少女の眼光に、もう少しこの女は友好的な態度が取れないのかと内心で毒づきつつ、キバオウは今後のプランを考える。

 今のところ、目下の問題はクラウドアースとの敵対だ。今はちょっかい程度で済んでいるが、彼らとの確執が埋められない以上、いずれは本格的な武力衝突になるだろう。キバオウの計画では、なんとかラスト・サンクチュアリ内の過激派を抑えこみ、全面戦争を避け、いずれ引き起こされるだろう大ギルド間の戦争まで持ち堪えるというものだ。

 ギルド間戦争に発展すれば、もはや数だけのラスト・サンクチュアリに手間をかけている暇はないだろう。それまでにラスト・サンクチュアリは物資生産能力を高め、レアアイテムを収集するのだ。そして、戦争では勝ち組に支援を行い、早期戦争終了に尽力したという名分を手に入れる。そうすれば戦争の被害を受ける貧民プレイヤーの総体的支持が受けられ、もはやラスト・サンクチュアリを武力で潰し切るのは不可能となるだろう。

 その為にも、今必要なのは少しでも多い支持、生産能力を高める資源とそれを守る武力だ。特に武力はUNKNOWNという守護神がいるとはいえ、彼単独ではどれほど強くとも、物理的に全てを守り切れない。

 悩みは尽きない物だ。キバオウは壇上に登った3大ギルドのリーダーたちを見ながら、功名心と嫉妬を燃え上がらせそうになり、慌てて火消しする。こうした自分の性質がアインクラッド解放戦線を破滅の一端になったのだから。

 と、1番手のディアベルが挨拶をしようとした瞬間、何処からともなく歌声が聞こえてきた。

 これは慰霊祭の演出だろうか? 下手ではあるが、赤鼻のトナカイだろうと見当をつけたキバオウは、まるで聖女が歌っているようだとうっとりとする。こんな歌声の持ち主は、きっと心が清らかな乙女に違いない。憎い演出だ。

 だが、そんなキバオウの恍惚は、UNKNOWNの硬く握りしめて震えた拳によって吹き飛びそうになる。

 

〈頼みがある。誰が歌っているのか調べてくれ〉

 

 簡潔であるが故に激情。UNKNOWNから送信されたインスタントメッセージに、キバオウは震える。

 

「た、多分、クリスマスイベントやと思うで?」

 

 調べる事自体は難しくないが、ギルドのアピールの場を奪うような、こんな演出を3大ギルドが許すとは思えない。その証拠に、慰霊祭に出席しているプレイヤー達は、炊き出しに夢中だった貧民プレイヤー達すらも、今は歌に魅せられている。

 だが、そんな適当な答えでは納得できないのだろう。これが現実世界ならば、掌の皮膚が破れて出血しているのではないかと思う程にUNKNOWNは拳を握っている。

 そこにあるのは怒りか、悲しみか、それとも別のものか。何にしても、仮面の向こうにある表情をキバオウは想像したくなかった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 この歌は届いただろうか。サチ、オマエの墓標に相応しいだろうか。

 雪風に乗せた歌声が何処まで響いたのかは分からない。こんなものは自己満足に過ぎないのかもしれないが、それでも眠りについたサチの魂を癒せたのではないかとオレは信じている。

 間もなく午前零時の鐘が鳴る。聖夜は終わりを告げ、再び殺し合いの時間がやってくる。オレは明日から何ら変わることなく傭兵を続けていくだろう。だが、サチと過ごしたこのクリスマスで、オマエがいたからからこそ、得られた物もたくさんあった。

 バケモノである事を受け入れても『人』の心を持ち続ける事でオレは『オレ』であり続けられる。

 だから、明日からも戦い続けよう。誰の為かは分からないし、もしかしたら自分の為ですらないのかもしれない……それでも、オマエは『アイツ』が救われる事を願っていたならば、オレはその一助となろう。たとえ、オレには救うことができずとも、オマエに託されたサチの心ならば成し遂げられるかもしれないから。

 

「Merry Christmas」

 

 今日は少しだけ特別な日。聖夜は誰にとっても特別な時間だけど、オレにとっては……少しだけ意味が違う。

 聖夜の奇跡は起こらない。それでも、オレは『祈り』を得られた。それで十分だ。だから、今日を祝福する言葉を述べよう。

 そして、オレは小さく、風の音で消え去るほどに小さく、囁くように、呟く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり、お兄さんだったね!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、その呟きは背後から聞こえた月光が踊るような声音によって掻き消される。

 振り返れば、雪風の中で靡くのは黒紫の髪。その目元にはアイマスク型の仮面をしているが、晒された口元に描かれるのは喜びの曲線。後ろで手を組み、灰色のマフラーを舞わせながら、まるでオレを待っていてくれたかのようだった。

 いつからそこにいたのだろう? オレはぼんやりとした頭で考えるが、そんな事はどうでも良いと嗤う。

 こんなオレを嘲笑いに来たのか? それとも、殺しに来てくれた死神だろうか? 何であろうとも相手になってやる。間もなく午後零時だ。安全圏化は解除され、プレイヤー同士の殺し合いが再び始まるのだから。

 だが、黒紫の少女は腰の片手剣を抜かずに、敵意も戦意もなく、オレに近寄ってくる。

 

「とても綺麗で女の人みたいだったけど、すぐにお兄さんの声だって分かったよ。もしかして裏声?」

 

「……さぁ、どうだろうな。歌なんて、ほとんど歌った事が無い。ヤツメ様の子守唄くらいしか……歌えないから」

 

 歌なんて微塵も興味が無かった。クリスマスソングだってほとんど歌えない。歌っていた赤鼻のトナカイだって、きっと下手糞の極みで、とてもではないが聞いていられるようなものでは無かっただろう。

 そんな歌をこの少女に聞かれていたとなれば羞恥を覚えるところであるが、今のオレにはそんな感情の揺らぎすらも無い。

 

「……お兄さん、泣きたいの?」

 

 近寄っていた少女が足を止める。傾斜のある屋根から雪が滑り落ち、地上へと消えていく。

 

「どうして、そう……思うんだ」

 

「お兄さんの歌声はとても綺麗で、優しくて……まるでお母さんを思い出すみたいに慈愛に満ちてたけど……とても悲しそうだったから」

 

 悲しそう、か。オレはその言葉に安心感を覚える。

 そうか。オレはサチの死を、ちゃんと悲しめているんだな。バケモノみたいに、サチの死を貪って喜んでいるんじゃないんだな。この心は……『人』として、悲しめているんだな。

 それだけで……オレは……

 

「寒そうだね。はい、これあげる」

 

 黒紫の少女は自分のマフラーを外すと、オレの首に巻き付ける。手慣れていない手つきが初々しく、オレは静止して甘んじて受ける。

 温かな毛糸の感触が少女の温もりを残し、オレの首を包み込んだ。

 だが、その細やかな圧迫感がオレの掌の生々しい感触を思い出させる。サチの首を絞め、その頸椎を砕いた……彼女を殺した感覚が蘇る。

 あの時……あの時、オレは……オレは笑って……彼女を殺しながら、笑って……っ!

 

「違う……違うんだ。オレは……オレは……オレは……」

 

「ど、どうしたの!? 大丈夫!?」

 

 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、『痛い』! 頭が割れそうだ! 心臓が潰れそうだ! 全身の骨が蠢いてるかのようだ! どうして!? もうファンタズマ・エフェクトも落ち着いたはずだ! 致命的な精神負荷だって受け入れていない!

 なのに、どうしてこんなにも『痛い』んだ!?

 頭を抱え、『痛み』を振り払おうと足掻く。膝をつき、転げ落ちることも厭わずに体を縮める。

 

「オレは狩り、奪い、喰らい、戦い、そして殺す! ああ、そうさ! そうさそうさそうさ! それが……それが……それが!」

 

 違う! それはオレの1部でしかない! オレが『オレ』なのは本能があるからじゃない。オレに『人』としての心があるからだろう!? だから、オレはサチを殺して、笑ってなんかいない! ただ、彼女の苦しみを、その安らかな死を願っていただけだ!

 

「だから、違うんだ……オレは、オレは……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そっか。お兄さんは……泣きたくても泣けないんだね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは何だろうか。オレの頭を、体を、包み込んでくれるものはなんだろうか?

 オレは恐る恐る顔を上げる。そこにあったのは、仮面など無い……黒紫の少女の双眸。まるでアメジストのような瞳と聖母のような微笑だった。

 

「ごめんね。ボク、勝手に勘違いしちゃってたみたいだね。お兄さんはとても強い人だけど、強いからって……傷つかないわけじゃないのに」

 

 止めてくれ。オレに優しくしないでくれ。そんな風に頭を撫でないでくれ。

 なのに、どうしてオレは拒めないんだ。

 

「最初に見た時、お兄さんから『強さ』を感じたんだ。心が震えるような、惹きつけられるような、それさえあれば、きっと【黒の剣士】を超えられるような『強さ』。戦ってみて分かったよ? お兄さんを倒せば、きっと【黒の剣士】に届くはずだって」

 

 聞こえたのは少女の鼓動。オレはようやく、月光と白雪の中、少女に抱きしめられているのだと悟る。

 

「でも、ボロボロだったんだね。あんな綺麗な歌を紡ぐしかできないくらいに……傷だらけだったんだね。気づいてあげられなくて、ごめんね」

 

「……分から、ない。はは、ボロボロか。もう、オレには分か、らない。なのに、なんでオマエには、分かるんだ? たった1回しか、会ってねーんだぞ?」

 

「うーん、直感かな?」

 

「はは、何だ、そりゃ……」

 

 オレは嘲笑する。我が身を嘲う。直感なら、否定できるはずがないではないか。オレ自身が本能を武器に、これまで戦ってきたのだから。

 戦う事。それしか、結局のところ能が無いのに、そのせいで、この様とはなんという喜劇だろうか。

 何にも悩まされず、狩り、奪い、喰らい、戦い、そして殺せていれば、良かったのに。

 それでも、戦う中で何かを得ようとした。自分が満たされるだけではない、別の何かを探し出そうとした。

 

「姉ちゃんがね、ボクが泣いていたら、こんな風に抱きしめてくれたんだ。大丈夫だよって、ここにいるよって、言ってくれたんだ」

 

 少女の熱が崩していく。必死に蝋で固めていた傷口を開かせていく。

 

「お兄さんも、泣いて良いよ? 誰だって傷だらけだと『痛い』に決まってるんだから。泣いて、膿を出して、スッキリしちゃえば良いんだよ」 

 

 まるで化膿した傷口に熱湯が注ぎ込まれていくかのように、焼かれながら毒が溢れていくように、今までずっと抑え込んでいたものが流れ出す。

 良い……の、かな?

 もう、吐き出して、良いのかな?

 

「オレは……オレは……」

 

「大丈夫。全部聞いてあげる。受け止めてあげる。ボクがここにいるよ。ボクだけしか、ここにはいないから」

 

 だったら、良いのかな?

 少しだけ……吐き出しても良いのかな?

 オレの……この『痛み』を叫んでも良いのかな?

 ああ、ヤツメ様……今日は……今日だけは……オレは独りは無理だ。

 良いよね? 今日は……特別な日なんだから。

 

 

 

 

 

 

「オレは……サチを……彼女を、殺したくなんか……なかった、んだ。殺したく、なかったんだ!」

 

 

 

 

 

 

 涙は零れず、ただ少女の胸の中で喚き散らす。

 もう嫌だ。

 もう限界だ。

 もう耐えられない。

 あんなにも頑張ったんだよ? 自分をバケモノと認めて、死の先の安らぎも捨てて、それでも戦い続ける事を選んだのに、どうしてオレがサチを殺さないといけなかったんだ!? 

 

「なのに、何で? 何でなんだよ!? なんでオレは! サチを殺したのに、こんなにも満たされてるんだよ!? 悦んでるんだよ!? こんなの……こんなの『人』じゃない!」

 

 マシロを殺した時も、伯父さんを殺した時も、オレは笑っていたのだろうか? その死を糧にして、悦んでいたのだろうか?

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! そんなのは嫌だ! オレは『オレ』だ! そんなのは『オレ』じゃない!

 

「オレは、オレはヤツメ様じゃない。ヤツメ様じゃないんだ。たとえバケモノでも……『人』として生きたい。『オレ』として死にたい。でも、オレはきっと、いつかきっと……本物のバケモノに……」

 

「うん、大丈夫。落ち着いて。ボクが憶えていてあげる。お兄さんは『人』だよ。皆がバケモノって言っても、ボクが憶えてる。ボクだけが憶えてる。お兄さんの本当の姿を」

 

「忘れないで……忘れないでくれ、お願いだ。お願いだ……」

 

 このまま戦わなければ良い。腐ってしまえば良い。そうすれば、ぬるま湯の安寧の中でオレは心すらもバケモノにしないで済む。

 だが、サチはオレが戦い続ける事を望んだ。オレが足を止め、祈りを捧げることではなく、絶えず前へと進む事を……この先も殺し続けるはずなのに、戦う事を肯定してくれた。

 それこそが……サチがくれた、オレへの慈しみだった。

 だけど、このまま戦い続ければ、きっといつかオレは『オレ』じゃなくなる。それが堪らなく恐ろしいんだ。

 

「忘れないで……忘れないで……」

 

 オレは少女に縋りつき、彼女はより強くオレを抱きしめる。その温もりが、どうしようもなく、心に染み込んでいく。

 

「忘れないよ。絶対に忘れない」

 

 ああ、それなら良いか。

 いつの日か……いつの日か、オレが『オレ』でなくなった日に、オマエが『オレ』を憶えていてくれるなら……それで良いか。

 

「ねぇ、お兄さんは何のために戦うの?」

 

「……何の、為?」

 

「ボクは【黒の剣士】を超える。皆が生きた証を残す為に。仮想世界で最強と謳われる彼を討つ。その為に戦い続ける。お兄さんは?」

 

「……さぁ、何の為だろうな。だけど、とりあえず【黒の剣士】を……『アイツ』をブッ飛ばすのはオレが先だ。ちょいと今回はストレスが溜まり過ぎた。因縁纏めて鼻っ面にぶち込んでやる」

 

「じゃあ、競争だね」

 

「ああ、恨みっこなしだ」

 

 少女の抱擁から抜け出したオレは、彼女の穏やかな笑みを見て……『殺したい』と思った。

 きっと、これもまたオレの願いなのだろう。だが、今はそれを胸の奥に閉じ込める。そんなバケモノの意思は要らない。

 

「恥ずかしいところ、見せたな」

 

「あははは。良いよ。どんなに強い人だって、泣きたくなる時はあるよ。あ、でもお兄さんは泣いてないか」

 

「泣けたら苦労しないさ」

 

 というか、こんな情けない姿を他人に見せたのは生まれて初めてだ。羞恥の方で泣いてしまいそうである。

 だが、少しだけ心が楽になった気はする。今までになく、心が静けさを取り戻してきた気がする。

 

「冷えるな。酒でも飲むか」

 

「えー、ボク、まだ未成年なんだけど」

 

「今日は特別だ。飲みたくても飲めないまま死んだヤツがいるんだ。そいつの代わりに飲んでやれ」

 

「了解です、隊長!」

 

「隊長ってなんだよ……って、ツッコミさせんな。ちょいと前に心臓止まったばかりなんだから過労死させんな」

 

「ナイスジョーク」

 

「HAHAHA! ほら、飲め飲め! 肉まんもあるぞぉ! ポテト○ップスのコンソメ味もあるぞぉ!」

 

「うわぁ、凄い……って、これってどうやって手に入れたの!?」

 

「企業秘密だ。在庫に限りがあるから味わって食えよ」

 

 終わりつつある街を望める釣鐘の塔、その屋根の上で、オレと黒紫の少女は宴を始める。

 他の誰もいない、雪が舞い落ち、月明かりが冷たく降り注ぐ中で、オレは酒瓶の蓋を開け、そのまま瓶口から中身の琥珀色の液体を喉に流し込む。焼けるようなアルコールの感覚は仮想世界で再現された幻想に過ぎないが、籠った熱が寒さを忘れさせてくれるようだった。

 

「そう言えば、名前聞いてなかったよね」

 

「今更だろ。【渡り鳥】って知ってたじゃねーか」

 

「それだけだよ。お兄さんの噂って全部【渡り鳥】って2つ名とその容姿で出回ってるから、プレイヤーネームまで聞いた事が無いんだ」

 

 あー、確かにそんなものかもしれねーな。オレもプレイヤーネームは非表示にしているし、フレンド数も少ないし、依頼中もほとんど名乗らねーし。

 とはいえ、どうせ人気なんて欠片もないランク41様は依頼の時も名乗らない方が今後の安全の為だろうな。

 

「クゥリだ。好きに呼べ」

 

「じゃあ、クーだね! ボクは【ユウキ】! フレンド登録しておく?」

 

「要らねーだろ」

 

「うん。要らないね」

 

「いや、ちょっと待て。やっぱり登録しておく」

 

「え? べ、別に良いけど……」

 

 今回ばかりはフレンドの数の少なさで地獄を見たからな。いつものような態度を繰り返していては、同じような目に遭った時に二の舞である。オレの急転換に戸惑うユウキは、それでも何処か嬉しそうにフレンド登録申請をオレに送信した。

 フレンドリストの1番上に新しくユウキの名前が記載される。オレはその名前を1度だけ撫で、そしてシステムウインドウを消した。

 

「そういや、オマエが仮面付けてるのって、UNKNOWNへの当て付けか?」

 

「それも半分。もう半分はカッコいいってボスが言ったからかな!」

 

 外した仮面の覗き穴に指を通し、をくるくる回すユウキの自慢げな笑みに、オレも思わず仮面装備を始めようかと誘惑に駆られる。

 いや、さすがにオレがしたら変質者ってレベルじゃねーな。止めておこう。

 

「なんつーか、オマエのボスに会いたくなったな」

 

「今度会ってみる?」

 

「No Thank you」

 

「うわぁ、発音綺麗だね!」

 

「……ちょっと涙腺緩んできた。毎度のようにウザいとかイラつくとか言われてたけど、褒められたの初めてだから」

 

「そこで泣かれても困るんだけど?」

 

 ジョークはこれくらいにして、さすがに犯罪ギルドと繋がり持ったら、本格的にオレも殺されるよ。つーか、そんな真似して犯罪ギルドから依頼が回って来ても困るだけだ。まぁ、依頼として正当ならば受けるがな。

 あと1分で深夜零時か。クリスマスも終わりだな。望郷の懐中時計が刻一刻とクリスマスの最後の告げる時を待っている。

 

「うーん、頭が回るぅ! 世界が回るぅ!」

 

 チューハイ缶(早くも2本目)を手に、ユウキがぐるんぐるんと首を回しだす。完全に酔ってきやがったな。

 

「初めてで飲み過ぎだ。仮想世界の酒だから急性アルコール中毒にはならねーだろうけど、肉体ってのは脳で簡単に騙されるからな。程々にしておけよ?」

 

 心臓が止まったオレが言うんだから間違いない。顔を赤くして、ぼふりと後頭部から雪に突っ込むユウキに苦笑する。

 彼女のほのかに熱が籠った視線がオレを射抜き、にへらと笑った。

 

「そうだ! 折角のクリスマスだし、さっきの歌のお礼をしてあげるね! ボクも1曲歌ってあげるよ!」

 

「どうせ下手なんだろ?」

 

「クーよりは上手いと思うよ? ほら、何かリクエストは?」

 

 コイツ、すっかり酔っぱらってやがるな。まぁ、オレも最初に飲んだ感じはこんな風だったが、コイツの場合は絡み酒だな。面倒なヤツだ。

 だが、歌ってもらえるならば、1曲お願いしたものがある。せめて、クリスマスが終わる前に聞いておきたい。

 オレのリクエストを聞いたユウキはキョトンとしたが、酔っているせいか特に追及もせずに歌い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハッピーバースデー トゥ ユー♪ 

 

 ハッピーバースデー トゥ ユー♪

 

 ハッピーバースデー ディア クゥリ♪

 

 ハッピーバースデー トゥ ユー♪」

 

 

 

 

 

 

 

 Happy Birthday to me.

 短かったクリスマスも終わりだ。しんみりとしていたオレであるが、突如として伸びたユウキの手に引かれて立ち上がらせられる。

 

「誕生日おめでとう! よーし、ボクから誕生日プレゼントあげるね!」

 

「なんだよ? キスでもしてくれるのか?」

 

「あははは! クーはキスよりもダンスの方が嬉しいんじゃないかな?」

 

 そう言ってユウキは酔ってふら付きながら、片手剣を抜く。

 まったく、コイツと出会えば結局こうなるのか。まぁ、それも悪くない。

 深夜零時の鐘が鳴る。安全圏が消えていき、殺し合いの世界が戻って来る。

 武器も何もないが、拳さえあれば戦える。全てを失っても、この顎で敵の喉に喰らいつく。それがオレの戦いだ。ならば、お望み通り、好きなだけ踊ってやる。

 

 

「さぁ、踊ろう、クー!」

 

「糞が! 上等だ! 踊ってやるよ、ユウキ!」

 

 そして、ユウキの刃とオレの拳が交差した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、同時に落下したオレ達は積もりに積もった雪がクッションになったお陰で落下死を免れ、またしてもマクスウェル率いる狼のアリーヤとアリシアに回収されるのだった。




~クリスマスエピソード前~

救済「今回、俺は捨て駒に徹するつもりだ」

??「…………」

救済「ボスまでは耐え抜いて生き延び、救援の暴力で何とか切り抜ける。だが、きっとそこまでだろう」

??「…………」

救済「……だから、後は頼んだぞ、奇跡」

奇跡「任せろ、救済。必ず、お前の意志を継ぎ、成し遂げてみせる」

~過去終了~

絶望「ククク……な、なるほど。まさか、これ程とは……」

奇跡「貴様の負けだ、絶望」

絶望「最初から……最初から、聖夜の奇跡は約束されていた。何度も提示されていたのに無視していた、私の負けか」

奇跡「いいや、違う。お前は勘違いしていたんだ。『死』とは絶望だけではない。時として救済となり、前に進む活力となるんだ。お前たちが侮っていた救済こそが……今回の勝利の鍵だったんだ」

絶望「…………そう、か。見事、だ。グケボッ!」

奇跡「勝ったぞ、救済。俺達の勝利だ……!」


<システムメッセージ>
・ヒロイン『アルシュナ』・『ユウキ』が追加されました。
・ルート『名も無き傭兵』が解放されました。
・主人公の精神が『不安定A』から『不安定B』に移行しました。メンタル回復ボーナスが発生します。
・主人公スキル≪聖女≫を入手しました。正気と引き換えに他キャラクターへの救済ボーナスが発生します。正気がゼロになると本スキルは≪ヤツメ様≫に変化します。ご注意ください。


これにてクリスマスエピソードは終了となります。
次回は現実世界に戻り、またリズベットたちのターンとなります。
それでは、129話でまた会いましょう。

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