fate/another_dream -モウヒトリノユメ-   作:きゃべる

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白昼夢 「コトミネ」

 願いを叶えるためには、対価が必要だ。そしてその願いの重さと、叶えるための対価は等しくなければならない。だから出来ることは限られている。

 

 

 俺にとっては遠い昔で、この世界にとってはありえない過去。俺がまだサーヴァント’ではなく’ヒト’だった頃、'店主'ではなく'バイト君'だった頃、願いを叶えるミセの女店主のもとに訪れたとある客。それが全ての始まりだった。

 

 

 

 

 

fate/another dream

 

白昼夢 「コトミネ」

 

 

 

 

 

「四月一日ぃー、晩御飯のデザートにアイス食べたーい! 黒蜜かけたやつー!」

 

「モコナの分もー! 白玉もいれろよー!」

 

 日も沈んだというのに、侑子さんとモコナがいきなりそんなことを言いだした。

 

「いきなりっすね! ああもう6時まわってるじゃないですか。仕込み間に合いませんしダメですよ」

 

「まあケチだわ」

 

「ケチだな」

 

「「四月一日ケチだー!」」

 

 侑子さんとモコナがいつものように揶揄し、マルとモロが無邪気にそれに乗っかる。イヤミ一つでも、見事なチームワークである。

 

「ああもう、わかりました! 作ればいいんでしょう!」

 

「きな粉もかけろよ!」

 

「分かったから途中でつまみ食いはするなよ!」

 

 この黒饅頭! と指をさして注意する。昨日も少し目を離したすきに、モコナはおはぎ用のあんこを盗み食いしたのだ。二の舞にならぬよう警戒しながら、キッチンに向かうため襖を開けた。

 

「あ、ちょっと待ちなさい」

 

「何ですか侑子さん」

 

 しかし廊下に出ようとしていた瞬間に声をかけられ振り向く。

 

「四月一日隙ありぃ! ちゃっきーん!!」

 

「へっ……ってうわあああ!? 危ねえ!」

 

 どこからかハサミを持ちだして顔に向けてきたモコナに思わず腰を抜かす。しばらく経っても痛みはやってこない。恐る恐る目を開けると、モコナが誇らしげに黒い何かを侑子さんに見せていた。

 

「前髪ゲーッツ!」

 

「きゃー! モコナ素敵よ!」

 

 黒い何かは、俺の前髪の残骸だった。

 

「なにやってんすかーーーーーー!? どうすんですか俺の前髪! パッツンってレベルじゃないっすよ!」

 

「えーっと、四月一日の髪の毛をこの赤い巾着に詰めてーっと。よしオッケー!」

 

「何がオッケーなんですか」

 

「出迎える準備よ」

 

「出迎えるって誰の」

 

 その時、カランとミセの扉が開く音がした。

 

「…来たようね。出迎えなさい、四月一日」

 

「はい……ってこの変な前髪のままでですか!?」

 

「「いってらっしゃーい!」」

 

「無視かよ! はーい、いらっしゃいませー!」

 

 このノリの侑子さんに何を言っても無駄なことは、身を持って知っていた。仕方なく、たった今来たばかりであろう客を迎えに行く。余裕があれば、お茶を差し入れるため台所に寄った際に三角巾で額を隠そうと、心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうぞ、紅茶です」

 

 それほど広くはない応接間の中央には洋風の丸い机がおかれてあり、部屋の奥側と入り口側に机を挟むように二脚椅子が設置されている。そこには侑子さんと洒落た服装の男が座っていた。

 

「あの、ここには自分の意志で来たわけでは」

 

「あー、そういうミセですから。気になさらないでください」

 

「ミセ?」

 

 客の男は怪訝そうな顔をした。信用できないと警戒しているが、客のそういう反応はいつものことである。胡散臭さ全開の'願いを叶えるミセ'の存在など、俺だって来店しなければ信じなかっただろう。

 男は紅茶に手をつけることなく侑子さんを警戒混じりの力強い目線で見つめるが、当の店主はまるで威圧感など存在しないかのように振舞った。

 

「お名前は?」

 

「貴様は魔術師か?」

 

「一応そうなるかもね」

 

「……言峰綺礼だ」

 

 男はそう名乗った。

 

「素直に本名を教えるのね。あなたも魔術師の端くれでしょうに」

 

「ここまでの工房を構える相手に余計な抵抗は無駄だろう」

 

「ここは一般的な魔術師が作るみたいな工房とはちょっと違うわねえ。別にとって食おうってわけじゃないんだから、そう構えなくていいわ。あなたがここに来たこともまた必然。ここは願いを叶えるミセだから」

 

「願いを叶えるミセ?」

 

「そう、対価にみあった願いを叶えるミセ。アタシにできることならば、なんでも叶えて差し上げましょう。あなたの願いはなにかしら?」

 

 考え込む様子もなく、間髪入れず男は返答した。

 

「私にそんなものはない」

 

「ええっ!?」

 

「四月一日静かにしなさい」

 

「す、すみません!」

 

 侑子さんに注意され謝ったものの、疑問が消えたわけではなかった。いままでこのミセに訪れた人たちは大なり小なり願いを持っていたのに、どういうことなのだろうか。侑子さんは笑みを崩さない。

 

「……本当に?」

 

 ゆっくりと、相手の瞳を覗き込むように再び問いかける。とって食うわけじゃないなんて言っていたけれど、明らかにそうは見えない。ああやってみんな侑子さんの毒牙にかかるのだと、過去の自分を思い出しながら様子を眺めた。

 

「そうだ。貴様がどういうつもりかは知らんが……」

 

「よく考えてみて。貴方には悩みががあるはずよ」

 

「そんなものは」

 

 侑子は椅子から立ち上がり、身を乗り出して、言峰の胸に手を添えた。

 

「それって……ここの悩みじゃない?」

 

「っ、どういうつもりだ」

 

「あなたが本当に悩んでいることだから。分かる者には分かるのよ」

 

 部屋に漂う香が、侑子さんの口調が、余りにも正確に真実を示す言葉が、場の空気を支配する。

 

「やっぱり胡散臭いよなぁー」

 

「四 月 一 日 ?」

 

「なんでもありません!」

 

 小声でつぶやいたはずの本心を地獄耳の店主が聞き逃すはずもなく、言い訳無用で一喝されてしまった。

 そのやり取りでいくらか場の空気が軽くなる。多少の冷静さを取り戻した客は、今や警戒を超えた敵意すら向けていた。

 

「貴様に相談する筋合いはない」

 

「ここは願いを叶えるミセよ。どうしても叶えたい願いがあるのでしょう?」

 

「第一私は叶えたい願いどころか」

 

「何かを楽しいと思ったこともない?」

 

「!?」

 

「幼い頃からずっと、今に至るまで?」

 

 初めて敵意と嫌悪感以外の感情が男に宿る。それは驚愕で、同時に侑子さんの言葉が図星であることを示していた。

 

「なぜ他者にはあるそれが自分にはないのかを探してきたのね」

 

「なぜ、貴様がそれを……」

 

 しばらく沈黙が続く。先に折れたのは男の方だった。

 

「ああ、確かに私は己の愉悦の在り処も知らん空虚な人間だ。もしそれを示せるというのならば、まったく大した魔術師殿だな」

 

 その言葉には自棄になったようにも見えたが、暗に「これ以上干渉してくるな」「分かるものなら答えてみろ」という意味も込められていた。しかし――

 

「『己の願いがどのようなものか知りたい』。それがあなたの願いね。――あなたの願い、叶えましょう」

 

 侑子さんはそう言い切った。

 

「ではこれを」

 

「赤い、巾着?」

 

 その巾着には見覚えがあった。ついさっき切られた俺の髪の毛を詰めたものだ。思わずツッコミそうになり、なんとかそれを飲み込む。

 

「寝る時に手元においておきなさい」

 

「それだけか?」

 

「ええ」

 

 侑子さんはそう答えた。しばらく男は悩んでいたが、最終的に赤い巾着を受け取った。

 

「対価を貰うわ」

 

「あいにく手持ちは少ないぞ。魔術的価値のある品も情報もな」

 

「あなたにとって大した価値を持たぬものなど対価に値しない。そうね、対価は右ポケットに入っているもので構わないわ」

 

「こんなものを? 何のために」

 

「そう心配しなくても、もしあなたが満足した答えを得れなかったと感じた時にはお釣りをつけて返してあげる」

 

 男は右ポケットの中身を手渡した。金色に光っていて、細い鎖が付いている。娯楽としてのアクセサリーではなく、本格的な十字架だった。今時の若者らしい格好だったが、信心深いキリスト教徒なのだろうか。

 

「もう帰って構わないな」

 

「ええ。では「また」」

 

「入口まで案内します」

 

 そうして言峰綺礼という此度の客は出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「侑子さん」

 

「なあに?」

 

「さっきのお客さんのことなんですけど、「何も楽しいと感じたことがない」っていうのは」

 

「ありえないと思った?」

 

「まあ」

 

 趣味に差があるのは当然だ。俺は料理が好きだが、百目鬼のクソ野郎は人に弁当をたかるばかりでそんなことは思っていないだろう。ひまわりちゃんだって不思議なものが好きだと言っていたが、毎日が怪奇現象の俺にとっては不思議なものというのは敬遠したいものだ。いや、俺はそんなところも含めてひまわりちゃんが好きなのだけど。

 

「人によって差はあっても、運動とかテレビとか食事とか動物とか、大なり小なりみんな何かに興味があるじゃないですか。何もかもに全く興味がないっていうのは流石に信じがたいというか」

 

「ええ、ヒトはただ必要だからという理由だけで人生のすべてを作業感覚でこなしていけるほど器用な生き物じゃないわ。だからこそ彼も追い詰められているんでしょう。それこそ異端である魔術師の誘いに乗ってしまう程度には」

 

「じゃああの人は」

 

「本当に空虚な人間も存在しないことはないけれど、少なくともあの男は違うわね」

 

「そう、なんですか」

 

 すこしホッとした。願った結果が'貴方は叶えたい願いなどない空虚な人間です'という回答だったなど、余りにも悲惨だからだ。少なくとも彼は空虚な人間ではない。それだけで少しは幸せな結末が待っているのではないかと思えた。

 

「まあ、知らない方が幸せなことなのかもしれないけどね」

 

「えっ?」

 

「ううん、なんでもないわ。さて! 四月一日アイスはー?」

 

「あっ…、そういえば! 作りますね」

 

「餡子も載せて欲しいわね」

 

「餡子って、昨日のおはぎで材料尽きてますよ!?」

 

「買ってくればいいじゃない」

 

「このぱっつん髪でですか!?」

 

 三角巾を外し、頭を指差す。さっき鏡で確認したが、それはひどいものだった。前髪が斜めに切り取られた上に、ほとんど額がむき出しなのだ。こんな格好で買い出しなど、恥ずかしくて行けるはずがない。

 

「似合ってるぞ?」

 

「元とは言えばお前が切り落としたんだろうが!」

 

「いってらっしゃーい!」

 

 抗議すら許さぬ笑顔で、侑子さんは手を振った。今すぐ行けってか。

 

「ああああもう、わかりましたってばあ!!!」

 

 この時間帯だと近くのスーパーはもう閉まっているだろう。二十四時間営業の店はふた駅先の距離にある。今から買い出しに行って、完成することには一体何時になっていることか。

 

「帽子、貸してあげるわよ」

 

「本当ですか! ありがとうござ……、あの、侑子さん、それってやっぱり」

 

「この分バイト代に上乗せしておくわねー」

 

「やっぱりぃ! 理不尽だーーー!」

 

「あはは、四月一日変な動きー!」

 

 こんな変な髪型で、明日ひまわりちゃんにカッコ悪いと思われたらどうしよう。百目鬼に笑われた日には悔しさで生きていける気がしない。悲しさを追いやるように、全速力でミセから走って出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へえ、そんなことがあったんだ」

 

 レジャーシートに座り、ひまわりちゃんと、もっっっっのすごく不本意だが百目鬼との三人で昼ごはんを食べていた。

 

「大体俺の前髪入りの巾着とか何につかうんだろ」

 

「髪を切る夢は'変化'を意味するらしいな」

 

「お前には聞いてねえよ! つーか夢の話なんてこれっぽっちもしてねえし!」

 

 百目鬼は黙々と飯をたかるだけでは飽き足らず、俺とひまわりちゃんの幸せな会話に水を差してきた。

 

「お前の髪なんだから、使うとしたらアヤカシか夢か。寝るときに、つってたんなら目的は'夢'で必要なんだろ」

 

「それは、確かにそうだけど」

 

 それっぽい。それっぽい理由だがこいつに言われると無性に腹が立った。百目鬼くんすごいね、とひまわりちゃんに褒められているのも怒りの元だ。

 

「その客ってのは大人だったのか?」

 

「あ゛あっ? えーっと、成人はしてると思うけど」

 

「あの人は、その客は別に空虚な人間って訳じゃないって言ったんだろ? だがそもそもだ、その年にもなって自分の欲望を知らない原因はなんだ?」

 

「心を震わすものに会えなかったとか」

 

「もしくは無意識に楽しいと思ってはいけないと自分自身を縛っていたか、だな」

 

「楽しいと思ってはいけないこと……?」

 

 その発想は俺にはないものだった。彼は、楽しいと思ってはいけないから、見ないふりをして、結果何も楽しくないのだと思い込んでいる?

 思考を遮るように、予鈴が鳴った。ひまわりちゃんが慌てて立ち上がる。

 

「あっ、予鈴だ! 次の授業移動教室だから先にいくね。今日のお弁当も美味しかったよ」

 

「そんなの俺が勝手に作ってるだけだよぅー! 何か食べたいものがあったら遠慮なく言ってね!」

 

「いつもありがとう。あ、そうだ!」

 

「?」

 

 さりかけていたひまわりちゃんが振り返り、俺と百目鬼を見比べる。

 

「その髪型、百目鬼くんとおそろいみたいでいいとおもうよ!」

 

 グサリと心に何かが刺さる音がした。

 それを伝えたかっただけのようで、そのままひまわりちゃんは校舎の方へと去って行った。

 

「こいつとお揃いなんていやだああああああ! ひまわりちゃんとならともかく! なんでよりにもよって百目鬼とーーー!」

 

「俺はそこまで短くねえけどな」

 

「五月蝿え! お前は黙ってろ!」

 

「明日は稲荷寿司にしろ」

 

「おまえなんてひまわりちゃんのついでなのに、偉そうに命令してんじゃねえよ! 百目鬼の癖に!」

 

 その後、言い争いすぎて次の授業に遅刻しそうになったのはまた別の話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今日の晩御飯はそうめんにしようかな。たしか流しそうめん用の台があったよな、探すか。ん、あの人は」

 

 学校からの帰り道。ミセの入り口で長身の男が立っているのを見つけた。

 

「あなたは確か……言峰さん?」

 

「お前はこの店の使用人か」

 

「まあそんな感じです。どうぞ入ってください」

 

「いや、構わない。ただこれを……」

 

 

「満足する結果が得られなかったのかしら?」

 

 

 店の入り口に突然侑子さんが現れた。髪を高めの位置で結い、ノースリーブの夏らしい白い服を着ている。

 

「悪いがこれは返す」

 

 言峰さんは巾着を差し出したが、侑子さんは受け取るそぶりを見せない。

 

「どうだった?」

 

「……妻の夢を見た。それだけだ」

 

「そう。それで、知りたくないの? あなた自身の願いを」

 

「そういうわけではない。だがこれは返す」

 

 無理矢理にでも返そうと伸ばされた手を包み込むように握り、侑子さんは笑う。二人にはかなりの体格差が存在しているはずなのに、なぜか侑子さんの方が数倍大きく見えた気がした。

 

「「知りたい」って気持ちは本物でしょう?」

 

「っ……だが、これはダメだ」

 

「どうしても知りたくなくなったならここに来なさい。「またね」」

 

 そう言い残して侑子さんはミセの中に入って行った。

 

「ゆ、侑子さん!? ちょっと!」

 

 追いかけるように店に入る。つい気になって入り口を振り返ってみれば、どことなく不安そうな彼の目が見えた。しかしその後、彼がミセに巾着を返しに来ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここは」

 

「やあ四月一日くん、こんばんは」

 

「遥さん!」

 

 どこまでも続く真っ暗闇のなかで唯一存在している縁側に、遥さん――百目鬼の祖父が腰掛けていた。彼がいるということは、ここは夢の世界なのだろう。

 

「おひさしぶりです」

 

「彼が気になるかい?」

 

「……はい」

 

 誰のことだとは問わなかった。この人は全部わかっているのだ。

 

「よし、じゃあ見に行こうか」

 

「見にいくって……って、ええ!?」

 

 一瞬で景色が変わる。いつ変わったのかはわからない。俺たちは見覚えのない部屋にいた。

 

「ここは」

 

 ほとんど何もない石造りの部屋に一際目立つベッドが一つ。そこには白い女性がいた。包帯を巻いていて、いかにも薄幸美人といった感じである。そしてそのすぐそばにいるのは。

 

「言峰さん?」

 

 今より少しだけ若く見えたが、間違いなくその後ろ姿は言峰綺礼のものだった。

 

「えっとごめんなさい! わざと忍び込んだわけじゃなくて!!」

 

 あわてて謝るが、彼も、そしてベッドの女性も反応しない。

 

「大丈夫だよ。私たちの姿は彼らには見えない。こちらから干渉することもできないけどね」

 

「そうなんですか?」

 

「ああ。ここは彼の夢の中だよ」

 

「じゃあ夕方の焦っていた理由はおそらく」

 

「まずこの夢が原因だろうね」

 

 おそらくベッドの女性が言峰さんが今日言っていた妻なのだろう。二人に意識を集中した。

 先に口を開いたのは言峰さんの方だった。何の感情もこもっていない、報告書を読み上げるような声で「私にはおまえを愛せなかった」と告げた。彼の悩みを思い出す。どんなことも楽しいと思えないということは、誰かを愛することさえ出来ないということなのか。

 女は言峰の言葉を微笑みながら聞いていた。そして。

 

「――いいえ。貴方は私を愛しています」

 

 そして女は微笑みながら自害した。

 

「え」

 

 触れないとわかっているはずなのに思わず駆け寄った。百目鬼遥は動かない。言峰綺礼も動かない。

 

「ほら。貴方、泣いているもの」

 

 白い乙女の目線の先を見る。言峰綺礼は泣いていなかった。彼はただ、悔やんでいた。

 

 

 ――どうせ死ぬのなら、私の手で殺したかった。

 

 

 自身の妻が自害したその時、言峰綺礼は道徳観も教義も何もかもを忘れ、ただそう思ってしまっていた。夢での出来事だったからか、その思いは四月一日にもしっかり伝わっていた。

 

「殺したかった? 『したかった』?」

 

 百目鬼の言っていた「楽しいと思ってはいけないこと」という言葉が頭に浮かぶ。

 

「じゃあ、言峰さんの願いは」

 

「……時間のようだね」

 

 遥さんがそう告げると同時に、石造りの部屋がゆがむ。夢が終わる兆候だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、そんな夢を見たと」

 

「はい」

 

 侑子さんは、縁側でグレープフルーツのかき氷を食べていた。

 

「俺、思ったんです。言峰さんは「何も楽しいと思えない人」じゃなくて、本当は「楽しいと思ってはいけないことが楽しいと思う人」なんじゃないかって」

 

「だいたいあってるわね」

 

「じゃあ」

 

「四月一日、楽しいと思ってはいけないことってどんなことだと思う?」

 

 楽しいと思ってはいけないこと。夢の内容を思い出す。言峰さんは、どうせなら自分の手で妻を殺したかったと願っていた。

 

「他人の苦しんでいる姿とか殺人とか、そういうのでしょうか」

 

「でも想う自由はあるわ。夢見るだけなら、行動に移さなければ、それは罪として裁かれない」

 

「それは、そうですけど…」

 

「それが本来のあり方。けれど周りがそれを許さない。楽しいと思ってはいけないことだし、進んでやってもいけないことだと糾弾する。開き直って悪に興ずることすらできないなんて、彼は周りの人物に恵まれすぎたのね」

 

「……それだけですか?」

 

「言ってしまえばそれだけね。だからこそ彼は選択しなければならない。この先どうしていくのかを。世間と自分のどちらを選ぶのかを」

 

 沈黙が続く。

 それがしばらく続いたあと、庭で水遊びをしていたマルとモロの動きが止まった。それと同時に入り口の方から足音が聞こえてくる。

 

「どうやら来たようね」

 

 すくりと侑子さんが立ち上がる。足音の方に目を向ければ、ここまで急いで走ってきたのだろうか、息を荒げた様子の言峰綺礼が立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの」

 

 言峰さん、と声をかけようとしたが、彼はそれを言い終わる前に俺の目の前を通り過ぎて侑子さんに巾着を押し付けた。

 

「これは返す」

 

「……」

 

 侑子さんは受け取らない。じっと目をそらさず言峰さんを見つめている。沈黙は、なぜ返そうと思ったのかの理由への問いだった。

 

「妻の夢を見た。あれが死ぬ夢だ」

 

 言峰さんは焦った声で言う。

 

「もういい、これ以上はもう」

 

「本当に?」

 

「……」

 

「知るということは、その後どうするかを決めるということよ。あなたは停滞している」

 

 侑子さんは一歩言峰に近寄った。

 

「停滞と変化、どちらを選ぶべきとは言わないわ。このままなにも考えず空虚を抱き続けても構わない。けれど知りたいと願うのなら結果から目を逸らしてはいけない」

 

「私は」

 

「どうするかはあなた次第。辛いことかもしれない、美しいものばかりではないかもしれない、望んだ通りのものではないかもしれない。決断すれば、知らなかった頃には戻れない。それでも貴方は答えを知りたいと望むのかしら?」

 

 言峰綺礼は無言だった。何か思い出しているのかもしれない。答えを出したのは数分後だった。

 

「……ああ、私は知りたい。自分がどういう者なのか、その答えがほしい」

 

「そう」

 

 侑子さんはその返答を聞くと微笑む。今までのものとは違い、ほんの少しだけれど感情のこもった笑顔だった。

 

「それじゃあ決断なさい」

 

 言峰は身を翻す。

 

「さようなら」

 

 言峰さんは去って行った。

 

「あの人は、どうなるんでしょうか」

 

「それは彼が選ぶことよ。でもまあ、今夜ですべて決まるでしょうね」

 

「……俺に何かできることはありませんか」

 

「ないわ。あれは彼がこの世に生まれ落ちた瞬間から共にある問題。出会って間もない四月一日が立ち入るには難しい領域よ」

 

 侑子さんはきっぱりと言い切った。それでも。それでも事情を知ってしまった以上何もしないではいれなかった。

 

「それでも何かしたい、って顔してるわね」

 

「俺にできることなら」

 

 即座にそう答える。

 

「お人よしね、四月一日も。大したことはできないでしょうけど助言してあげるわ。見届けなさい。言峰綺礼というヒトの結末を」

 

「それだけ、ですか」

 

「ええ、それだけ。けれどとても大切。誰かに知られているというコトは、誰かに許されているというコトだから。実行するかどうかは四月一日が決めなさい」

 

「……はい」

 

 今夜もまた、彼も、俺も、夢を見るだろう。

 何が起きようとも、目を逸らさないと心に決めた。

 

 

「ちなみにこの助言の分は、バイト代に上乗せしとくからねー」

 

「やっぱりかよ!」

 

 侑子さんはどこまでも侑子さんだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと目を開く。石造りの狭い部屋だった。昨夜の夢と何一つ変わらない。

 

「見届ける、か」

 

 ベッドのある部屋の隅に目を向けると、寝転んでいる白い女と言峰さんがいた。

 

 先に口を開いたのは言峰の方だった。何の感情もこもっていない、報告書を読み上げるような声で「私にはおまえを愛せなかった」と告げた。

 

 このまま機能と同じ道をたどるのだろうか。女は言峰の言葉を微笑みながら聞いていた。そして。

 

「――いいえ。貴方は私を愛しています」

 

 ここも変わらない。そして女は微笑みながら自害する。

 

 

「えっ」

 

 

 いや違う。

 

 女は自害しなかった。

 

         ・・・・・・・・

 正確に言うならば自害できなかった。

 他ならぬ言峰綺礼が自害しようとしていた女の腕をつかんで止めていた。

 

「貴方」

 

 女は驚いた顔をしたが、少しすると嬉しそうに顔をほころばせた。言峰の顔を見ると、はっきりと笑っている口元が見えた。

 

「自害などするな」

 

「はい」

 

 女は再び嬉しそうに笑う。言峰が自害を止めてくれたのがうれしかったのか、初めて笑っている姿を見れたのがうれしかったのかはわからない。

 

これが言峰さんが選んだ結末なのだろうか? 笑う言峰さん、幸せそうな女。拍子抜けしてしまうくらいのハッピーエンドだ。つられて思わず笑顔を浮かべた。

 

 

「――私はお前をもっと■■■■めたいと、もっと■■■■姿が見たいと、そう思っているのだから」

 

 

 言峰綺礼は笑っていた。

 

 それはあまりにも自然な動きで、一瞬なにが起こったのかわからなかった。女の腕をつかんでいた言峰の右腕は女の首へと移動する。

 

「あな、た」

 

 ゆっくりとゆっくりと、締め付けは強くなっていった。片手のみとはいえ、死にかけの女と現役の代行者では比べるのもばからしいほどの力の差があった。酸素が足りなくなってきたのか、女は魚のように口を開け閉めする。

 

「あ、あ、ああ」

 

「そうか、お前はそんな顔もするのか」

 

 言峰綺礼は笑っていた。

 

 

「こ、言峰さんっ、何をっ!?」

 

 

 人が目の前で殺されている。加害者は心底愛おしいものを見る目を、被害者はそれでもすべてを真摯に受け止める目をしていた。

 

 ――狂っている。

 

 言峰の左腕が女の気持ち程度の服へと延びる。包帯を乱雑に引きちぎったせいか、か弱い女の腕はおかしな方向に曲がったが、そんなことには目もくれず服を剥いでいく。

 

「そんな、これは、これじゃあ」

 

 これ以上見ていられなかった。予想はおそらくあたっているだろう。言峰は思いつく限りの方法で女を辱め、貶め、その醜い姿を愛するつもりなのだ。

 

「うっ……はぁ、はぁ……」

 

 吐き気がする。思わず目をそらす。これ以上見ていられなかった。

 

 言峰綺礼は笑っていた。

 

 

『見届けなさい。言峰綺礼という人間の結末を』

 

 

 侑子さんの言葉が脳裏に浮かぶ。

 

「そうだ、見なきゃ。俺が見届けるって決めたんだから。逃げちゃだめだ」

 

 室内に悪意が充満する。感情的な意味と、生理的な意味との二重の意味で逃げ出したくなったが、ぐっとこらえる。俺は見届けるためにここにいる。

 言峰の行為は徐々にエスカレートしていった。当然死にかけの女にそんな扱いが耐えられるはずがない、ほどなくして女は息絶えたが、言峰の行為は終わらなかった。

 女が死んでからも言峰はできる限りの方法で辱め、貶めていった。

 

 言峰綺礼は笑っていた。

 四月一日君尋はそれを黙って見届けた。

 

 どのくらい時間が経っただろうか。一晩なんてものではない、とてもとても長い時が過ぎたような気がした。

 

「………………ははは」

 

 今までやむことのなかった醜悪な行為がついに止んだ。言峰の足元にあるそれが「女」であったなど、今や言峰と四月一日ぐらいにしかわからないだろう。

 

「ははははは、はははっ、ははははは!! なんだ、なんなのだ私は! 私の今までの人生はいったいなんだったというのだ!」

 

 言峰は気が狂ったように笑い続けた。その顔は、絶望しているようにも、歓喜しているようにも見えた。

 

「確かに、辛いことで、綺麗なものではなく、望んだ通りのものでもなかったよ。これが私か。これが答えだとでもいうのか!」

 

 言峰は女の血に染まった手をゆっくりと自身の首へと動かしていった。

 

「――ああ、私は罰を願うことさえおこがましい」

 

 ごきりとにぶい嫌な音がした。言峰綺礼は信仰する宗教で最大の禁忌である自殺を選んだのだ。あまりにもあっけない最期だった。

 言峰綺礼は笑っていた。

 四月一日君尋はそのすべてを見届けた。

 

 

 

 朝目覚めると、テレビではどこかの教会の神父が変死したと報道されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう。彼は選んだのね。あの夢は限りなく現実に近かったから、どちらでも死んでしまったんでしょう」

 

「侑子さんにはこの結末が分かってたんですか」

 

「どうしてそう思うの?」

 

「……昨日だけ、「またね」じゃなくて「さようなら」って言ってましたから」

 

「まあ、こうなるだろうとは思ってたわね」

 

 後味が悪いなんてものではなかった。どこまでも美しく生きたかった聖職者は、どうあがいてもそうなれないのだとこの世に生まれ落ちた瞬間から決められていたのだ。美しく生きようと願い、己の本質にふたをして、それでも虚無に耐えられず答えを知りたいと願い、己を呪ったまま死んでいった。

 

「あの人は、なんのために生まれたんですか……っ!? これじゃあまるで絶望するためだけに生まれたみたいじゃないですか!」

 

「何のために生まれたかもわからない人なんて世の中にはいくらでもいるわ。戦争に巻き込まれて死んだ一般人。ずっと病気で寝たきりの病人。そして誕生すらかなわなかった胎児なんかもね」

 

「でも!!」

 

 侑子さんはすっと何かを差し出してきた。

 

「十字架?」

 

「前髪の対価よ。そして彼の対価でもある」

 

 シンプルなデザインのその十字架は、間違いなく言峰綺礼が対価として差し出したものだった。

 

「確かに彼は何もなさなかったかもしれない。けれどその存在を知る者がいるなら少しは変わる」

 

 十字架を受け取り、握りしめた。

 

「彼がここに来たのも、四月一日が見届けると決断したのも必然だったんでしょうね」

 

「……そうなんででしょうか」

 

「ええそうよ」

 

 侑子さんは笑った。

 

 

 

 

 これは数ある客のなかのたった一人の男の話だった。

 

 この先彼が生きていたところで、いつかは犯罪や悪徳に手を染めていただろうことは俺にも容易に想像できた。それでも彼が望まれない命だったなんて思いたくはなかった。'存在するだけで矛盾する自分自身'と、無意識に重ねていたのかもしれない。

 

 俺はそれ以来この十字架を持っている。

 俺が彼の最期を見届けた者だったから。

 

 

 幾星霜が過ぎた未来。この出来事がめぐり巡り、俺の、彼の、みんなの、世界の運命を変えた。きっと、それも必然だったのだろう。

 

 


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