きっとどんなに経験してもこの空気に慣れることはないのだろう。
ライブ本番前のかすかに冷えた手元にはスケジュールなどが書き込まれた資料。
自分が出るわけでもないのに、同等かそれ以上に緊張してしまう。
そして、そんな緊張を感じていないかのようなアイドルが俺の隣に一人。
「ハニー、やっぱりおにぎりの具は神秘だと思うの」
「だから、ハニーはやめろって言ってるだろ」
楽屋で食べたおにぎりの具に対してこれだけ楽しそうに語るのは美希くらいではなかろうか。とはいえ、本番前のこの緊張溢れる中に平常心でいられるという点が美希の強みとも言える。
ファーストライブ以降、765プロはこれまでとは打って変わって仕事が舞い降り、誰かしら仕事に出るように変わった。まだ、それぞれが非常に忙しいというほどではないのだが、プロデューサーが二人しかいないうちでは、俺と秋月さんがほぼ毎日誰かに引率する形となっている。とは言うものの竜宮のほうが出演数が多いため、秋月さんが基本竜宮担当といった感じだ。
765プロの多くは学生のため仕事が放課後に多く入るおかげで、何とかやれているという状況。
今日は星井のライブのあと千早の歌の収録に向かうとなかなかに忙しいスケジュールだった。だが、不思議とこの忙しさが心地良いのだから、やはり俺は社畜の適正があるらしい。
そろそろスタンバイお願いします。とイヤモニが流れる。
「緊張は大丈夫そうか?美希」
「うん、平気だよ。それよりも早くあそこで歌いたいってカンジ」
「美希ちゃん、頑張ってね」
「ありがとなの、あずささん。行ってくるの!」
同じ現場の竜宮小町の面々がそばに来る。
「ミキ、流石ね」
「なんだ、伊織。気づいてたのか」
「あんたね、流石にアイドルなめんな、って感じよ」
「そーだよ、にーちゃん。亜美たちだって焦ってるんだから」
「そうねぇ、美希ちゃんが歌ったとたん空気が変わったみたいになるものね」
「…悔しいけど、あれは美希には敵わないって思うわ」
そんなこともないと思いつつも特に口に出さない。ハチマン空気読める子、イイコダヨ。
確かに、ファーストライブを経て一番成長したのは美希だろう。
空気を変える、流れを自分に持っていくことに関してはピカイチ。
これから、もっと注目されていくに違いない。
ふむ、やっぱりあの件について社長に相談してみたほうが良いだろう。
会場いっぱいの視線を浴びる星井美希はキラキラと楽しそうに輝いている。
ま、大丈夫そうだな。
「秋月さん、すみません。途中になってしまうんですが収録のほうに向かうので、あとはよろしくお願いします」
「任されました、プロデューサー殿」
会場から出る瞬間、湧き上がる歓声に背中を押された気がした。
× × ×
「どうした?如月」
美希のライブ会場から場所が変わって収録現場。
隣には微妙な顔をした如月が一人。いや、如月が二人、三人いたらそれはそれで怖いのだが。
「いえ、別になんでもありません」
「あー、そうか?まぁ、何か気になることでもあれば早めに言ってくれよな」
何故か俺は、本日三回目となるやり取りを繰り返していた。
乙女心は難しいとはこのことだろうか?
やけに難しい顔をしている如月は口を真一文字に結び、先ほどからこちらをちらりと見たり、かと思えば避けたりを繰り返している。何か気に食わぬことがあるのだろうか。
ことの始まりは収録現場に行く前に駅前で待ち合わせをしたところからだった。
・・・
駅前留学のポスターがやたらと掲示された駅は、人はまばらで、普段の騒然とした雰囲気とはまた違った顔を見せていた。買い物帰りの夫婦ややけに距離の近い男女が多いことが、今日は世間的には休日であると実感させる。
世間は休日だが俺はせこせこと働いているのだから、休日とはいったい何なのだろうか、と言葉の定義に揺らぎを感じていると、これまた普段見かけることのない容姿の整った少女がこちらに向かってくるのに気づく。
これまでの俺なら壺や絵画などを売りつけられるのではないかと警戒していたところだが、今の俺は一味違うぜ…多分。
「すみません、プロデューサー。少し電車が遅延していて」
「いや、気にすんな。そういうのも考慮して少し早くに集合にしてるからな、如月」
「そうですか」
できるプロデューサーだろう?エッヘンみたいにどや顔していたつもりなんだが普通にスルーされたな…。そんなに顔芸へたくそだったか?
うんともすんとも、くっ…とも言わない如月はスンと澄ました顔で隣に並ぶ。
アイドルと言えばプリンセスなキュート属性を思い浮かべがちだが、如月のような整った顔のフェアリーなクール属性もやはり良い。
「なにか私の顔についていますか?」
「目と鼻と口がついているな」
「そうですか」
定番のボケにすら反応しないとはさすが如月。よし、楽しく話せなかったな!
「それよりも、歌の仕事というのは本当ですか?」
如月のさきほどまでのその辺のゴミを見るような目に、少しアイドルらしい光が差し込んだ。
「お、おう。本当だ。とは言っても大きな仕事ではないんだが」
「いえ、歌の仕事に大きいも小さいも関係ありません」
「そうだな。これから少しずつ如月のやりたかったことができるようになっていくと思う…多分、きっと」
「なんでそんなに曖昧なんですか」
ジトっとした目つき。悪くない。
「確実とは言えんからな。また、黒井社長が何かを仕掛けてくるかもしれんし。それに」
「それに?」
――― 少しのことでも彼女らと嘘の約束はしたくない
なんてらしくない言葉は口にしない。
「あー、続きは特になかったわ」
「変なプロデューサー。まぁ、変なのは元からですね」
「おい」
少し前までならこんな軽口をいうような関係を想像すらできなかったのだから、なんともまぁ、さもありなむ。
収録現場へと足を向けつつ続いた、そんな実りの無い会話のやり取りが目の前の赤信号とともに止まった。
止めたのはププッと耳を刺すような何とも形容しがたい嫌な音。点滅する青信号を無理に渡った男へ向けたクラクションだろうか。
鳴らされた当の本人は気にする素振も見せず前を歩く友人らしき人物とのおしゃべりに夢中である。これだから最近の若者は…、と言われるんだぞと思ったのだが、別に若者に限らずとも老若男女行う人間はするのだろう。かく言う俺も交通事故とは悪縁がある。
お得意の一人脳内おしゃべりにふけっていると、隣に並んでいた如月が一歩下がったのに気づく。
「どした」
「いえ、道路に近いと危ないと思って…。ぷ、プロデューサーも一歩下がってください」
そう言い終わる前に袖を引かれる。その情景がふと昔の記憶の小町と重なった。
そういや小町も同じようなこと言ってたな。ま、二度も交通事故にあってたら心配の一つや二つするものだろう。
少なくとも小町が事故に合いそうになったら、また身を挺してでも守るだろう。
「用心するに越したことはないな。何せあの黒井社長に狙われたアイドル事務所のプロデューサーだ、いつ何されるか予想もつかん」
「…はぁ、もうそれでいいので、しゃんとしてください」
あきれ顔の如月は顔が良いので、余計に罪悪感が増す。
何というか、如月のあきれ顔は雪ノ下の表情に被るんだよなぁ。
本人たちには口が裂けても言わないけどな。
順調にフラグを立てつつ、歩みも進め、駅を出てから10分ほどで目的のスタジオに到着した。
「あ、あの」
よーし、これからおっさんばかりのむさ苦しくて居心地の悪い現場でハチマン頑張るぞー、と入る前の気合を集中させていたのだが、如月も一緒にやりたくなったのだろうか。全集中の呼吸は勿論、波紋の呼吸もマスター(履修済)の俺にかかれば現場に入る勇気だってきっと出てくる。
ねーちゃん、あしたっていまさッ!
「ありがとうございます」
「え?」
突然の感謝の言葉にたじろぐ。まだ勇気の出し方は教えていないのだが。
腐った目を見開いて如月の表情を見ると、どうやら冗談やふざけの雰囲気ではないようだ。
「前に歌の仕事がしたいって言ったの覚えていますか」
「ああ、そりゃあな」
「だからそのお礼です」
「あの時は俺の力不足で仕事を持ってこられなかっただけだし、今回だってライブで如月が頑張ったからきた仕事だ。別に俺はなにもしていない」
「でも」
まだいい足りなさそうな如月の言葉を手で遮る。
これ以上続くと背中のむず痒さに耐えられん。
「まだ、初めの一歩みたいなもんだ。こっからだろ」
「…はい」
「ま、そんなに気負わず、いつも通りに頑張ってくれ」
「プロデューサーは私がこれからもっと歌えると思いますか?」
「そんなの当たり前だろ。“ずっと隣で見守っててやるよ。”ま、見てるだけしかできないかもだが」
なーんちゃって、というボケをかましたのだが、やはり如月とのボケの相性が良くないらしい。駅前のときの無反応とは反応は違えど笑ってくれない。何となく頬に赤みが出てるあたり共感性羞恥させてしまったかもしれん。
恥ずかし。共感性羞恥の無限ループ。
「…よ、よろしくお願いします」
消え入るような返事を俯きながら如月が返す。
そこまで恥ずかしいボケだったのだろうか。
まぁ、存在自体が恥ずかしいとまで小町に言われた俺からすればただの致命傷。
気持ちを切り替えるべく、なるべく明るい声色でいこう。
「よし、そろそろ行くぞ。先方さん待たせちゃ悪い」
「…はい」
いまいち嚙み合わない会話を切り上げ、重い両開きの扉を押した。
・・・
ふむ、事の始まりを回顧してもこうなった原因はいまいち思い当たらない。
それにもうすぐ収録の本番だ。きっと歌に対する緊張とかそんなところだ。
難しい顔をしていたら、歌も上手く歌えなかろう。
「あー、なんだ。如月。なんか思うことがあるのかもしれんが、気持ちを切り替えていこう。そんな顔してたら歌にまでのっちまうぞ」
ぱっと目を見開いたかと思うと、その一瞬で顔つきが引き締まる。
その姿は彼女がプロなのだと改めて実感させた。
「すみません、プロデューサー。でも、もう大丈夫です」
「みたいだな」
それじゃあ、そろそろ本番入りまーす、とスタッフの間延びした声が聞こえる。
如月は小さく頷き、席を立つ。
そして、ふーっと一つ息を吐きだし、振りむいた。
「プロデューサー、行ってきます」
「あぁ、行ってらっしゃい」
本日二度目の送り出し。そんなやり取りに思わず口の端が上がる。
美希も如月も頼もしくなった。
俺が何かしたわけじゃないし、何かできるとも驕ってもいない。
だから、
少しでも自信をもって送り出して、そして出迎えられるよう俺の出来る範囲で尽力していこう。
それくらいなら、夢を見てもいいだろう。
お久しぶりです(小声)
すぐ上げるとか就活が終わったら上げるとか色々言ってましたが、言い訳はしません。
お待たせして申し訳ありません(汗)
なるべく早く続きが書けるよう頑張りますので、今後ともよろしくお願いします。
話は変わりまして、今回のお話ですが美希と千早のリンク回みたいな感じになっています。ところどころ似た表現に気づかれた方も多いと思います!
伏線(自称)もちりばめたので少し予想をしながら今後も読んでいただけるとより一層楽しめるかと思います。
今回も読んでいただきありがとうございました。
感想や意見等いただけるとモチベーションになります。よろしくお願いします!