麻帆良在住、葛木メディアでございますっ!   作:冬霞@ハーメルン

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5年ぐらい前の文章をペッ、と貼ってるので色々と読み返すとアレな部分も。
今のところ、改訂よりも続きを書く方に気持ちが寄ってるので、頑張って書いていきたいと思います!


Prologue〜5

 

 

 

 

 時刻は朝の八時。平日の麻帆良学園では非常に騒がしい時間帯である。

 基本的に午前中はこの前後一時間ぐらいが一番慌ただしいのだが、それも同じようでいて実は三種類ぐらいに別れていた。

 まず一番手は運動部の朝練へと向かう集団。これが意外に数が多いために賑やかではあるのだが、実際にはまだ寝ぼけ眼、もしくは半分寝ているような連中が殆どなために活気はない。

 ちなみに中にはチラホラと麻帆良の内外の一般企業や省庁などに勤めているスーツ姿のお父さんお兄さん叔父さん方の姿も見えるが、各種様々な制服の中に埋もれてしまうために目立たない。

 

 続く二番手は余裕を持って登校する普通の生徒達。朝ご飯もしっかりと食べているのか、活気に溢れていて会話も弾む。

 このあたりはちょっと大きな中高一貫校で見られる光景を大規模にしたものだ。誰の趣味かは知らないが制服がまちまちであるのが気になるところではあろうが。

 まぁちょっと人数だけが尋常じゃなく多いわけだが、十分に常識の範疇に収まる光景だろう。

 

 さて、問題なのは最後に波濤のようにやって来る三番手。乃ち遅刻ギリギリで遮二無二手段を選ばず学校へと向かう、ある意味では麻帆良の象徴の一つとも言うべき集団である。

 この連中になると賑やかなという生半可な形容詞では括れない。それはもはや圧倒的な物量となって進む道を遮るあらゆるものを尽く押し流す。

 ついでに道路交通法とか迷惑防止条令―――ここは東京ではないが―――とかも色々と押し流している気もするが、割愛。

 つまり何を言いたいかといえば、そういう危険な時間帯に素人は外を出歩いてはいけないということだ。

 

 

「見て下さい宗一郎様、すごい人‥‥。まるで津波みたいですね。あれが殆ど学生だというのですから‥‥冬木とは比べ物になりませんね」

 

「そうだな。ここは日本で一番大きな学園都市だそうだ」

 

「日本で一番、ですか‥‥? やはり教師をやってらっしゃった宗一郎様はこの地をご存じで?」

 

「いや、知識にはない。そもそも私は担当教科以外にはさほど造詣が深くないのだ」

 

 

 ホテルの窓から眼下に広がる光景に思わず漏らしたキャスターの言葉に、相変わらず抑揚のない一本調子な声で宗一郎が答えた。

 血まみれのシャツを着るのはシュールなので備え付けのガウンを羽織っているが、これが似合っているのか似合っていないのかよくわからない。

 そもそもこの男にどのような服が似合うかと改めて聞かれれば、きっと誰もが首を傾げてしまうに違いない。敢えて挙げるとすれば、普段の服装であるスーツであろうか。

 もっともも彼の伴侶であると自覚するキャスターであれば『宗一郎にはどんな服だってお似合いです!』と断言するであろうが。恋は盲目だが、愛ともなるとそれ以前の話になる。

 

 

「冬木にいた時には聞いたことがなかったが」

 

「目の前のことで精一杯でしたから‥‥」

 

「そうだな」

 

「色々と考えなければならないことが増えましたね。家の内装はどうしましょうか、宗一郎様?」

 

「お前に任せる」

 

 

 普段に比べて宗一郎の口数が多いのは、手に持っている麻帆良学園案内ガイドのおかげだ。部屋に備え付けてあった冊子を宗一郎は朝から真面目に熟読していた。

 この男、目的意識を持っていないせいか人生に意義を見出だしたいからか、読書の量が尋常ではない。とりあえず手持ち無沙汰で活字があれば何でも読む。

 今もひたすらに暇であったがために、久しく誰も手にとってはいないであろう小冊子を隅から隅まで読み込んでいるのだ。携帯していた本は円蔵山の大空洞、キャスターの神殿跡だ。

 

 

「それにしても、何の対価もなしに住み処を提供するというのも妙な話。某かの代償を想定しておく必要はありそうね」

 

「‥‥交渉は全面的に任せる。が、不用意に事を荒立てない方が懸命だろう」

 

「わかっております。この霊地に満ちる魔力を使えば神殿を失った私でもかなりのレベルの魔術を行使できる自信がありますが、あの時に比べれば遥かに劣る。出来る限りは穏便な手段を用いたいところです」

 

 

 サーヴァントはマスターから供給される魔力で存在を維持し、同時に戦闘をも行うが、魔術師である彼女は自身の魔術回路で小源を生成することができる。

 だが神代の魔術師たる圧倒的な実力に比して、キャスターの魔力生成量は意外なまでに少なかった。下手をすれば高音や愛衣に迫られてしまうぐらいに。

 それでも彼女の力量をもってすれば大気中の大源を用いて魔術を使えるが、当然ながら限界はある。少なくとも準備が足りていない今の状態でむやみやたらと戦闘を試みるのは危険だ。

 

 

「最低でも住居を手に入れて、そこを陣地にして形勢を整えなければ。いえ、いっそのこと密かにこの霊地そのものを私の神殿にしてしまうというのも‥‥あぁいえ駄目よ、焦ってはいけない。まずは当面の問題を片付けなければ‥‥」

 

 

 すぐに思考がいざというときの戦闘へと向かうのは彼女自身の長い魔女としての人生から形成された性格でもあり、サーヴァントとしての本能のようなものである。

 大聖杯との繋がりは彼女にも宗一郎にも、もちろん今のマスターである愛衣にも感じ取ることはできなかったが、最初に与えられた殻だけは健在だった。

 細かいスキルなど聖杯戦争においてのみ有効に機能し得る項目の確認はまだであったが、彼女は今だにキャスターのサーヴァントだ。というか、そうでなければ継続的に英霊が現界できるはずもない。

 

 

「‥‥ふ、駄目ね。結局一度染み付いてしまった業は死んだぐらいじゃ落ちやしない。この現状を喜ぶべきか憂うべきか‥‥」

 

 

 最愛の伴侶と共に幸せな人生を送れるか、はたまた生前と同じように謀略と権謀術数の渦へと巻き込まれていくのか。

 ひどく不安定な賭けは不安になるが、それでも先を切り開くのが自分の意思だということは最低限喜ぶべきだろう。

 自分の意思とは無関係に踊らされた生前に比べれば、いや、比べなくとも今の状況はまさに天の与えた最高のチャンスである。

 

 

「‥‥自分が歩んで来た道に意味があるのか、意味がないのか、その答えは過去にはない」

 

「宗一郎様?」

 

「前を向いて歩いているのだから、辛いのなら過去は置き去りにしていけ。わざわざ立ち止まって拾い集める暇など無かろう」

 

 

 珍しく自分から口を開いた宗一郎に、キャスターは僅かならず目を見開く。

 彼女すらも勘違いしているようだが、この男は寡黙でありながら無口ではない。ただ必要でないから口を開かないだけで、今は必要があったから口を開いたのだ。

 問題は今、口を開くという必要性を認めるに至った経緯の方。宗一郎もキャスターと共にいることで、徐々に変化しつつあるのかもしれない。

 

 

「私は、お前の意見に従う」

 

「‥‥そうですね、そうでしたね。ならば私は判断を見誤らないように、しっかり前を向いていなければ」

 

 

 そして一応は伴侶という名目の元に彼の隣に立つキャスターもまた、理屈ではなくそれを理解‥‥とはいかずまでも、しかと感じ取っていた。

 実際彼女の宗一郎に対する感情は信仰や崇拝に近いもので、それでいながらしっかりと愛情をも注ぐ丁度良いものである。

 そもそも彼女の時代、女から男への愛情というものが基本的に献身的な物でありながら非常に物騒なニュアンスを孕んだものであったのは言うまでもない。男が強かったのと同じように、昔は女も強かった。

 その強い女が選んだ男に尽くしていたのだから、これほど幸せな時代はないだろう。‥‥男が女を裏切ったりすることが無ければ。

 

 

「‥‥どちらにしても、今のマスターからはあまり多くの魔力が供給されないようです。存在しているだけならまだしも、いざという時のことを考えると何かしらの魔力調達手段が必要です」

 

「また、街の人間から生気を奪うか?」

 

「それも可能ですが、できれば控えたいと思っております。墜ちた霊脈である龍洞寺を押さえていた冬木でこそ簡単にできましたが、ここでは手間がかかってしまいますし、何より余計な刺激を与えると破滅を招きますから‥‥」

 

 

 通常サーヴァントを維持する魔力は、マスターのみから供給されているわけではない。聖杯戦争における魔力供給は、実はそれなりの割合を大本の召喚主である大聖杯が担っている。

 では冬木の地から遠く離れたココ、麻帆良ではどうなっているのだろうか。

 この地に大聖杯はないが、代わりに世界樹という愛称までついた巨大な木、神木・蟠桃が存在する。大聖杯に匹敵するほどの魔力を生み出し、放出しているこの巨木は、麻帆良の中にある種の重力場にも等しき魔力が満ちた空間を作り出している。

 まるで超一級の霊地。一つの国に片手の指で数えるぐらいしかないと言われる程の霊地だ。日本で言うならこれに匹敵する霊地は、富士山や恐山、もしくは人為的に作り上げられた関西呪術教会総本山などの有名な場所ぐらいしかなかろう。

 

 

「一番順当な手段は、やはり神殿を造ることですね。あれを作れば魂喰らいをしなくても、これほどの霊地ならば自然と魔力が集まってきます」

 

「キャスターのクラススキルである、陣地作製とやらのことを言っているのか?」

 

 

 葛木宗一郎は、正確に言えば今も昔もキャスターのマスターではない。サーヴァントが現世に留まるための依り代とする物をマスターと呼ぶのであればそうだろうが、そもそも彼にはマスターに備えられる能力を一切所有していないのだから。

 例えば代表的な、三画の絶対命令権である令呪。そしてサーヴァントの能力《ステータス》を把握する能力である。これらは基本的に大聖杯に選ばれたマスターや、他のマスターから強奪した魔術師などしか備えていない。

 宗一郎がキャスターのマスターになった特殊な経緯を鑑みれば当然であるのだが、だからこそ令呪がないためにマスターと判別しにくいなどのメリットと同時に、彼にはキャスターの現在の状況がよく分かっていないという弊害もあった。

 

 

「いえ、クラススキルというのとも少し違うような気がします。‥‥“聖杯戦争”という盤上を離れたからでしょうか、自分自身のことなのにパラメータとして把握することが出来ないのです」

 

「どういうことだ?」

 

「聖杯戦争は、言うなれば聖杯戦争を構築した魔術師達によって仕組まれた“趣味の悪いゲーム”のようなものです。プレイヤーと駒はそれぞれ、マスターとサーヴァントのようなものと考えれば分かりやすいと思います」

 

 

 二つあったベッドの片方に腰掛けている宗一郎に合わせて、キャスターも彼とお揃いにしようと羽織ったガウンを靡かせ、もう片方のベッドに腰を下ろした。

 きっと自分達がもし他人から見られたら、間違いなく新婚夫婦と判断されることだろう。そんなささやかな想像が彼女を自分が幸福であるのだと思わせて、自然と笑みがこぼれる。

 

 

「私達サーヴァントの保有するスキルやステータスといったものは、当然ながら共通した基準の元に設定されています。おそらくは聖杯戦争を作り上げた魔術師達の設定したものでしょうが、まぁ七人と七騎が同時に同じゲームをプレイするならゲームマスターとして当然の配慮でしょう」

 

「そういうものか」

 

「はい。例えばチェスといった盤上遊技でも、相手の駒と自分の駒で、外見が同じなのに全く違う能力を持っていたり勝利条件が違ったりしていたら困りますでしょう? だからこそ趣味の悪いゲームだと、私は申し上げたのです」

 

 

 気づけば宗一郎は朝起きた時からずっと読み耽っている小冊子をしっかりと畳み、真っ直ぐに自分の方を見つめている。

 こういう真摯な態度―――融通が利かないともいうが―――こそ自分が彼に惚れることになった一因である。自分も散々男という生き物に騙されて来た身。流石に命を救われたというだけではこの身のみならず心までは許さない。

 

 

「私達のパラメーターとは、その絶対的な基準を元に判断するものです。Aというランクが何を意味するのか、“対魔力”というスキルが何を基準にして設定されているのか。それらは全て聖杯戦争というゲーム盤の上だからこそ明確に定義できたものなんです」

 

「成る程」

 

「つまり、大聖杯による定義が曖昧なこの地では、私の能力を明確にランク付けることは出来ません。だからこそ、感覚的にどのくらいまでは出来そうだ、といった認識になっています。

 聖杯戦争において、私のクラススキルである“陣地形成”のランクはA。冬木ならば確実に神殿を造りあげることができたでしょうが、この麻帆良で同じように神殿を造ることができるかは、やってみなければわかりません‥‥」

 

 

 魔術師《キャスター》のクラススキルである、“陣地作製”。これは基本的に魔術師であるキャスターのサーヴァントが、自らにとって有利な陣地を作り上げるためのスキルだ。

 基本的に魔術師にといって最強の陣地とは、自身の砦、要塞である工房だ。だが神代の魔術師であるキャスターに許されたのは、工房を超える神殿という陣地。では神殿とは一体何だろうか。

 キャスターは魔術師でありながら、巫女としての役割も担っている。彼女が生国でヘカテという月の女神を奉る巫女の役目を担っていたのは、多少メディアという神話上の人物について詳しい人間ならば知っていることだろう。

 

 神を奉る場所だからこそ、彼女のいる場所は神殿と呼ばれる。それは彼女が崇める月の女神のための神殿であり、現代となっては神話の住人となったメディア自身も同時に奉られる場所である。

 現代の人間ならば分からないことかもしれないが、神殿とは絶対的な支配者をも意味している。街とは神殿を中心に形成される場合が多かった過去の時代では、都市の役人などよりも神官などのほうが大きな権力を有していたものだ。

 故に神殿とは、周りの土地についてある程度以上の干渉力を有する存在でもある。

 

 とはいえ土地への干渉などという大規模な能力を、いきなり出現した神殿などが持ち合わせているはずもない。土地への干渉には様々な手段があるが、その大部分が強制的で物騒なものであり、結局その土地を深く傷つけてしまったりする結果に終わりがちだ。

 このようなやり方は神殿の在り方ではない。神殿とは、土地そのものから許容され、受け入れられることで土地への干渉を行うことが出来る存在なのである。

 冬木においてキャスターが形成した陣地が“神殿”として機能したのも、聖杯戦争を作り上げた何者かの魔術師がそのために地脈を整えていたからだ。これはおそらく土地を提供した遠坂の家が行ったことであろうが、まぁ今はたいした問題ではない。

 では彼女が陣地作成のスキルで作り上げた陣地が、麻帆良において神殿として働くだろうか?

 

 

「おそらくですが、この土地において神殿と称されるような存在はこの霊地の象徴とも言える、最初に私達が意識を取り戻した広場の目の前に聳えていた大きな樹でしょう。

 一つの土地に神殿が複数あるというのは決して珍しいことではありませんが、それにしても私の時代の、神殿と同じように複数の神々が存在していた時の話です」

 

「‥‥日本の神道も、また多神教と呼ばれるような宗教だ。ならばこのパンフレットに載っていた‥‥世界樹と同じように、お前の神殿も許容される結果にはならないのか?」

 

「難しいでしょう。冬木でも感じたことですが、それなりのシンボルが無い場合、この国では信仰心というものが希薄になりがちなようです。

 逆にあのような分かりやすいシンボルがあった場合、人々の関心は当然のことながら分かりやすいシンボルへと向けられます。自覚が無かったとしても、それは信仰心へと昇華される存在。ならば外来の存在である私ごときが入り込む隙間など簡単には生じません」

 

 

 信仰、という言葉がこの国において重要視されなくなってどれほどの年月が経つかといわれれば、実はそこまで捨てたものでもない。例えばほんの数十年前、太平洋戦争当時の日本人の信仰はかなりの部分が当時の日本の最高責任者である天皇へと向いていた。

 もし、これは既に現代となっては、一介のサーヴァントである彼女には分からないことではあるが、もし当時の昭和天皇が魔術師であったとしたら、彼は絶大な力を振るうことが出来たことであろう。

 日本人にとっての信仰心というものが希薄になりだしたのはそれ以降。外来文化が大量に出回るようになり、そもそも宗教という依り所を人々が必要としなくなってからだ。

 

 しかし魔術的には、信仰とは言葉通りの意味でなくてもいい。例えば悪行を以て人々の注目や畏怖などを集めた存在が反英霊として英霊の座に招かれるように、どのような感情であっても何物かにそれが集中すれば信仰と似たような状況を生み出すことが出来る。

 麻帆良においての世界樹も、また同様にして人々の信仰を勝ち取っている存在であった。

 この地に住まう魔法使い達の隠蔽もあろうが、このギネス級などという言葉では説明が出来ないほどの大樹が世間に注目されていないのは、やはり麻帆良の人々が世界樹を愛しているからに他ならない。

 

 

「ですから仮に私が作成した陣地が神殿となれるまでの信仰を、世界樹と並ぶほどの注目を集めることが出来れば‥‥。

 そのときは世界樹が作り上げた太源すら、自由に扱えるようになることでしょう。しかしそれまでは、大気中に漂う余剰魔力を使ってささやかな魔術を繰ることが精一杯です」

 

「戦闘は可能か」

 

「可能かどうかといわれれば、可能です。ですが都市殲滅レベルの大魔術を使えるかと言われれば、簡単にうなずくことはできません。

 ですが魔力だけが戦闘の全てではありませんから。少ない魔力でも有効に活用すれば、巨大な相手とも戦うことが出来ます」

 

「頼もしい言葉だ」

 

「ありがとうございます」

 

 

 互いに確認しながらも、二人とも積極的に戦闘を行う必要はないと考えていた。

 宗一郎は一流の殺人鬼‥‥暗殺者として仕立てられながらも必要がなければ殺生をするような思考をそもそも持ち合わせていないし、キャスターにいたってはやっと手に入れられそうな平穏な生活を自ら乱すような真似は極力慎みたい。

 どちらにしてもプライドが高いキャスターならば馬鹿にされればそれなりの実力というものを示す必要があるだろうから、自分にどの程度までの戦闘が可能かは確認しておいて損はない。それぐらいの感覚である。

  

 

「‥‥‥‥」

 

「‥‥‥‥」

 

 

 ひとまず現状において認識すべきことと確認すべきことを全て終えてしまった若夫婦―――の体裁をとっている元マスターとサーヴァント―――は暫し見合って沈黙する。

 宗一郎は相も変わらず何を考えているのか全く分からない幽鬼のような仏頂面。そしてキャスターはといえば、例のごとく宗一郎と顔を合わせたり逸らせたりと忙しい。

 何も懸念事項がない状態だと、彼女は自然とこうしてスーパー純情モードになる。今更この歳で純情もへったくれもないとは自分自身でも分かっているのだが、それでも簡単に自分の心を制御できるのならば今まであんな目になど遭ってはいない。

 かろうじてベッドにきちんと座り、宗一郎に対して無様な真似をしないようにしているだけで精一杯だ。それにしても顔の変化は著しく、体はあちらこちらが―――長い耳まで―――そわそわと動いている。

 

 

「‥‥‥‥」

 

「‥‥‥‥あの、宗一郎様―――」

 

「―――何をやっているのですが、お二人とも」

 

 

 魔術師として冷静冷徹にこれからの指針を話している時は流暢に言葉が出てきても、プライベートとして夫―――のつもりのマスター―――と話すにはやけに勇気がいる。

 そんな自分でも恥ずかしくなってしまうような小さな度胸を頑張って振り絞り、キャスターが口を開いたちょうどその時だった。

 

 

「‥‥あら高音じゃないの。どうしたのこんな朝早くから」

 

「朝早くなのは否定しませんが‥‥一応私も愛衣も公休を取る必要があるくらいには常識的な時間なんですけど」

 

 

 まだ始まってすらいなかったとはいえ、無粋にも夫婦の語らいを邪魔したのは二人の少女。

 片方は少々短めの中途半端な丈をした、まるでカトリック教会のシスターが着るカソックにも似た地味ながらも上品で、どこはかとなくマニア受けしそうな制服だ。

 丈が短いとはいっても標準の学生服よりは幾分長いものであり、それにしても少々はしたなく見えてしまうのは、やはりこれが聖職者の衣服をモチーフにしているからだろう。

そしてもう片方は、麻帆良学園女子中等部の制服を着た、隣の金髪カソック似姿の少女よれは幾分幼く見える女学生。怖ず怖ず、といった表現が全くもって良く似合いそうな気弱な少女だ。

普段なら姉と慕うパートナーの陰に隠れがちな彼女がきちんと、むしろ一歩前に出ているのは、一応はキャスターのサーヴァントの主であるという自覚があるからだろうか。それとも単に新たに頼りがいのある姉のような存在を見つけて嬉しいからだろうか。

‥‥彼女の性格を鑑みるに、おそらくは後者が近いだろうが。

 

 

「‥‥学校を休んで来ているのか」

 

「えぇ。用事がどれくらい早く終わるかも分かりませんし、愛衣がキャスターさんの、マスターとかいうものになってしまった以上は私達にも瑣末ながら責任のようなものが発生するでしょうから。

学園長先生から公休を頂いております。決してズル休みなどではありませんから、ご承知おきを」

 

 

 パタン、と小さな音を立てて扉が閉まり、二人が部屋の中へと入ってくる。

 校則を忠実に守り、きっちりと着込んだ制服には一分の隙もない。とはいえどちらの制服も際ほど述べた通り、基本的なデザインからしてノーガードという話もあるのでいかんともしがたい。

 ホテルの寝室、というそれなりにプライベートな空間ではあるが、起きた直後に几帳面に布団を整備した葛木と、自分の布団を整備した上に、既に綺麗に調えられてる葛木のベッドまでちょこまかと直したキャスターによって入室当初の状態にまで復旧されている。

 

 

「ならば、いい」

 

「そう言って頂けて良かったです。お二人とも、昨晩はしっかりお休みをとることが出来ましたか?」

 

「ええ、ゆっくりと眠ることが出来たわ。ありがとうね、二人とも」

 

 

 サーヴァントであるため休息の必要がないキャスターによる律儀な礼に、二人は顔をほころばせる。

 もっともキャスターの持つサーヴァントという特性を理解しているわけではないだろう。それは普通の人間同士の気遣いや心配りの範疇だ。

 言うなれば、この二人もここに来てキャスター相手に普通の人間としての付き合いを自然にすることができていた。それはまた不思議なことではあるはずなのであるが、麻帆良という場所柄を差っ引いても、彼女達の善性を証明しているともいえる。

 

 

「ご支度は出来まして? もし準備がよろしかったら、すぐにでも学園長室へいらして欲しいと学園長から承っております」

 

「昨日お話があった、お二人のお仕事についてだと思います。学園長は中等部の学園長室で待っておられるそうですから、行きましょう。

 ああ、そういえば葛木さん、これは替えのスーツです。私達、外に出ていますから、その間に着替えていて下さいね」

 

「ありがたい、感謝する」

 

 

 二人が出て行った室内で、葛木がバスローブから渡された背広へと着替える。

 同室していたキャスターは行き場と、ついでに目の行き場もなかったらしくウロウロと慌てているが、基本的に全てのことを自分でしっかりと素早くやってしまう葛木は、キャスターが着替えを手伝おうと決意した次の瞬間には全てを終わらせてしまっていた。

 

 

「待たせたな。では行くぞ、キャスター」

 

「‥‥はい、宗一郎様」

 

 

 どこはかとなく寂しげなキャスターに、やや怪訝な色を漂わせながらも宗一郎は何も言わない。

 結局のところそれが原因で行きの道行きはl霊体化しているはずのキャスターが発する不調な空気に、色々と麻帆良っ子の二人は気を揉むのであるが。

 彼女達もまさか神話の時代に生きた本物の英霊が、たかだか夫に上手く自分をアピール出来ないという程度のことでここまで落ち込んでしまうとは、思わなかったことであろう。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 朝。既に麻帆良学園女子中等部では一時限目の授業が始まり、他の高等部や初等部でもそろそろ授業が始まることだろう。

 麻帆良内の殆どの学校の中に据えられてある、学園長室。その中でも諸事情から学園長が一番いることの多い、中等部の学園長室には今日も四人ほどの来訪者の姿があった。

 部屋の中にいるのは六人。もともとこの部屋にいた二人、麻帆良学園の学園長である近衛近右衛門と彼に近しい教師であるタカハタ・T・タカミチは敵意を一切感じさせないにこやかな様子で来訪者達を迎えている。

 

 

「おはよう、二人とも。昨晩はゆっくり休めたかの?」

 

「高音と同じことを言うのね、魔術師。まぁ悪くはなかったわ、一泊の宿と思えばね。いくら良い寝床であっても、ああいう無粋な場所に常夜しようとは思わないけれど」

 

「ふぉ、それは勘弁して欲しいところじゃの。こちらとしてもそこまで施設に余裕があるわけではないんじゃ。いくら広い土地とは言うても、子ども達に住まわせる場所を考えると教員や他の大人にそこまで場所を割くわけにはいかんのじゃ」

 

「別に嫌味を言いたかったわけではないのよ」

 

「ならお互い、それで良いではないか。ワシとしては言葉遊びも嫌いじゃないがの」

 

 

 チャーミングにもウィンクをしてみせる老魔術師を、キャスターは特にコメントすることなくスルーする。

 経験上、この手合いの老人に対してがっぷりと四つに組むと間違いなく不愉快な目にあうことを彼女は知っている。賢明な道を選ぶのであるならば、好きにさせておくのが良いだろう。

 

 

「さて、今回お主らに来て貰ったのは他でもない。昨日話した、お主らの職場についてじゃ」

 

 

 真面目な表情が真面目に見えないのは、落ちくぼんだ眼窩のおかげか、妙に長い頭部のせいか。

 とはいえ後頭部に関して言うならば、正面から見る限りはさほど特異なものではない。背筋を伸ばし、真っ直ぐと座っているからだろう。

 表情が真面目に見えなくても、その姿は関東魔法協会の理事として貫禄十分。神代の魔術師であるキャスターを前にしても一歩と退く様子もない。

 何年生きているのかも分からない老魔術師。流石に実力はともかくとして、その老獪さを比べるならばキャスターと肩を並べるにも十分に過ぎる。

 

 

「幸いにして葛木君は教員免許を持っておるようじゃし、中高ぐらいなら問題はあるまい。そこで葛木君には麻帆良学園女子中等部で社会の教師をしてもらおうと考えておるんじゃが‥‥如何かな?」

 

「是非もありません。お心遣い、痛み入ります」

 

「ふむ、気にせんでもえぇよ。昨日も言ったがの、行き場を失った魔術師に働く場所を提供するのも、ワシら関東魔法協会の仕事なんじゃ。まぁ仕事以外にもちょっと雑務をしてもらうぐらいは、覚悟しといてもらえるかね?」

 

「構いません」

 

「ふぉ、ふぉ、ふぉ、よろしい。‥‥いや何、やっぱり中には文句を言ったり面倒を起こしたりする者もおるんでな。君達もまぁ、節度ある生活を期待しておるよ」

 

 

 魔法使いを、無為に野に放るというのは非常に危険な状態である。

 世のため人のため、『立派な魔法使い』を目指すという大義名分がありこそすれども、やはり魔法使い達はある程度の実力さえあれば普通の人間を遥かに凌駕する火力を持ち合わせた危険人物でもあるのだ。

 拳銃に匹敵する威力を持った魔法を、ほぼ無手のまま行使できる。空を飛ぶことが出来る。手を触れずに物を動かし、人を束縛することが出来る。

 そして全ての魔法使いが『立派な魔法使い』で在ろうとするわけでもない。だからこそ、出来ればそれなりの権威を持つ組織として出来る限り多くの魔法使いを把握しておきたいのだ。

 

 

「さて、キャスター殿の方には二人の住居と合わせて、女子寮の管理人をお願いしたいのじゃがよろしいか?」

 

「管理人‥‥? それって、一体どういうことをすればいいのかしら?」

 

「たいしたことではないよ。ウチの寮では自炊を推奨しとるし、掃除も業者が入るしの。まぁあっちこっち壊れてる場所がないかチェックしたり、本当に簡単な掃除をしたり、あとはまぁ、生徒の相談に乗ってやることぐらいじゃろうて」

 

 

 麻帆良学園の寮は、全体的に何処かおかしい。

 そもそも天下の麻帆良学園といえど、学生寮は学生寮。世間一般の学生寮の印象と言えば、例え清潔で新造であろうと狭くこじんまりとしたものだというものだろう。

 しかし麻帆良学園の寮は本当に尋常ではない。広々とした室内、あろうことか生徒が勝手に模様替えをしてしまうぐらい自由度の高い規則。ペットは当然許可で各自自炊が出来る程のキッチン設備に加え、騒ぎ過ぎる程騒いでも寮監がやってこない。

 大浴場などの付属設備も、これは一体どこの王族のための設備だと目を疑う程のものである。規格外、という言葉も当てはまるレベルではないだろう。

 

 

「とはいえなぁ、ウチの生徒達は皆これ以上ないくらいに元気じゃぞい? そりゃあ苦労することじゃろうて。ふぉ、ふぉ、ふぉ」

 

「‥‥色々と思うところはあるけれど、まぁいいわ。要するに家事をしたりすればいいんでしょう? 前いたところと、あまり変わらないもの」

 

「ふぉ、流石は新妻とでも言ったところかのう? 重畳重畳、これなら何とかなりそうじゃの」

 

「に、新妻‥‥?! いえ、別にその通りではあるけど‥‥あぁいえ、なんでもないわ。えぇ、確かに、どうにでもなるわね。何も、問題ないわ」

 

 

 ‥‥既に扱い方を心得初めているらしい近右衛門の言葉に、キャスターは何とか平静を保ちながらも喜色を露わに了承の意を伝える。

 他人に用意された仕事に唯々諾々と従うのは、プライド以前の問題として、彼女にも簡単に了承していいものかという意識はあった。

 しかし、だとすれば他にどんな選択をすればいいのだろうかという話もある。

 この街は、近右衛門の話によれば魔術師によって管理されている街らしい。一般人の方が多いとはいえども、この街で魔術を行使するというのは聖杯戦争時に他のマスターに発見される以上の危険性を孕んでいるだろう。

 

 だとすれば、こちらの情勢が不安定な以上は下手に相手側を刺激しない方がいい。

 簡単な魔術を行使する分には問題ない。しかし宗一郎にも言ったように、大規模な魔術を行使するには十分な魔力とは言えないのだ。

 現状以上の魔力を集めるとなると、時間がかかる。霊脈から漏れ出る魔力を少しずつ集めるにせよ、周りの人間から生気を集めるにしても、どちらにしても今すぐには無理だ。

 

 

(‥‥やっと望めるんだもの。望める可能性が出来たんだもの。下手は打てないわ)

 

 

 例え自分自身が、心の奥底で策謀を巡らすことを由としないとしても。

 この場が聖杯戦争に代表されるような殺し合いの場、生き残りを賭けた争いの場というのであれば決して躊躇うことなどない。どんな手を駆使しても、自分も、マスターも、生き残ってみせる。

 しかし何という幸運か、この場において此の身は戦いのためだけを目的として存在するわけではないのだ。他者を蹴散らし、陥れ、追い落とすためだけに存在するわけではないのだ。

 

 選択肢が与えられている。本来ならば限られた存在であるはずの、サーヴァントであるこの身に。

 一も二もない。戦いに、争いにどれだけの価値があるだろうか。我が身に英霊として、王女として残るプライド全てを犠牲にしたって構わないと思うぐらいに、今の自分にとっては平穏こそが何よりも至上のものと感じられた。

 

 平穏は、簡単なことで崩れてしまうものだ。それは、痛い程に知っている。

 だから細心の注意を払い、臆病過ぎるぐらいに慎重に立ち回らなければならない。可能な限りの平穏を。可能な限りの日常を。

 生前でも死後でも適うことのなかった幸せを。手に入れる機会が出来たというのに、それを反故にすることなど出来はしない。ならば今は、最低限の優位さえ確保出来れば、多少の譲歩は仕方がないだろう。

 

 

「それでは契約書類の方を‥‥高畑君」

 

「はい。‥‥悪いけど二人とも、この書類の太線枠内に名前を書いてくれるかな? 細かいところとか‥‥キャスターさんのところとかについては後で色々と細工しておくから、適当に書いてくれて構いませんよ」

 

「‥‥‥‥ッ?!」

 

 

 書類を一通りチェックしたキャスターが絶句する。それは驚愕でも絶望でもなく、正しく心を揺さぶられた結果。

 どんな策謀も、相手の言葉の裏の読み合いも、この瞬間に虚無と消える。意識に、上らなくなる。

 そこには今までの何者をも、何物をも凌ぐ大問題が存在していた。そこに、強敵として在った。

 不抜の尖嶺、不破の千尋、万兵の城塞、果て無き毒霧、未踏の獄路。未だかつて体験したことのない転機。決断の時だ。

 

 

「おおそうじゃ、キャスター殿。此の国では一応名字と名前という風に戸籍の表記をしておるでな。名前を明かせん事情があるのだろうが、名字の方は葛木で構わんのかの?」

 

 

 これである。

 当然のこととして真名を明かすことは出来ない。順当に考えれば名字は‥‥コルキスとでもなるのだろうか。一応、自分は王女であったことだし。

 しかし素直にそんなことを書いてしまっては一瞬で真名がバレてしまう。名前はキャスター。‥‥名字は、その、つまり、目の前の妖怪爺が言っているように、葛、木、が、妥当‥‥だろう‥‥。

 

 

「‥‥そ、宗一郎様、よろしいの‥‥ですか‥‥?」

 

「何がだ?」

 

「いえ、ですから、その、私の名字を‥‥葛木にしても‥‥」

 

「問題でもあるのか?」

 

「え‥‥ッ?! あ、いえ別に、素晴らしいお名前だと思いますけど‥‥!」

 

 

 見事なまでに噛み合っていない。が、少なくとも微笑ましい光景であることにも違いはない。

 キャスターが何を問題にしているのか分かっていない葛木は眉間に皺を寄せて怪訝な顔をしているが、一方のキャスターはフードで覆われ、分かりづらい表情からも十分に狼狽している様子が見てとれる。

 その場にいた全員が、やれやれとでも言いたげに呆れた視線を二人に向ける。本来なら畏れられる存在である自分に向けられる微笑ましい感情にキャスターのパニックは加速した。

  

 

「な、なによ?! コッチを見るのを止めなさい!」

 

「ふぉ、ふぉ、ふぉ。まぁあまりからかうと炭にされそうじゃし、ここらへんで勘弁してさしあげるとしようかの。それじゃあキャスター殿は『葛木キャスター』で登録しておくぞい」

 

「か、勝手にしなさい! ‥‥もう!」

 

 

 ふてくされる様はそんじょそこらの女子中学生や女子高生よりもいじらしい。むしろ普段の、というよりは第一印象の影響もあってか破壊力は数段増している。

 格好自体は、最初に会った時の紫色のローブから変わらない。ここに来る途中は霊体化していたから人目を集めることはなかったが、その分だけ無口な葛木との道中は高音と愛衣にとっては苦行だったろう。

 

 

「さて、仕事自体は決まったが、流石にすぐに仕事をしてもらうというわけにはいかんぞい。学生寮の方でも用意はあるし、葛木先生の方は手続きやら支度やらでもっと時間がかかる。

 ‥‥何より一応お主らの、特に葛木先生の方は身元をしっかりチェックしとかねばならんでな。穂群原学園の方にも連絡しておく必要があるじゃろうし、少し待って貰いたい」

 

「構いません。可能なら、私の方からも連絡をしておきたいのですが」

 

「まぁ物事には順序というものがあるから、待っとってくれ。こちらで色々と確認してからではないと迂闊には動けんのじゃよ。

 例えばほれ、今の冬木でお主が行方不明になっとるとかいう扱いじゃと、先ずはこちらで弁解を用意しておかねばならん。転勤の手続きとかは、割と簡単なんじゃがな」

 

 

 たった一日とはいえ、生真面目な葛木が無断欠勤をしたとなると相当な騒ぎになっていると予想される。

 すくなくとも龍洞寺の方では上へ下への大騒ぎに間違いない。ただでさえ今の冬木では失踪事件が相次いでいるのだ。学校の方でも余計な噂がたくさん流れていることだろう。

 

 

「二人とも、今日のところは高音君と愛衣君に麻帆良の街を案内してもらってはどうかな? 残念じゃが、今日明日ぐらいはホテル暮らしになるじゃろうて。その間に必要なものも調達するのは如何かな?

 ほれ、キャスター殿には服も必要じゃろう。いくら霊体化‥‥じゃったかな、人目につかないことが出来るとはいえ、管理人をするとなるとそれじゃマズイじゃろうよ」

 

「成る程、一理あるわね。宗一郎様のお洋服も調達しなければいけないし‥‥。高音、愛衣、案内をお願いできるかしら?」

 

「はい、お任せ下さい‥‥って、学園長お金はどうするんですか?」

 

「ふぉ。給料の前借りという形になるじゃろうな。まぁ支度金ということで色はつけとくぞい」

 

 

 がらり、と引き出しを開けて封筒を取り出す学園長。

 封筒は少々分厚いが、渡された中をちらりと確かめると十分に道理に則った、法外ではない丁度良い金額が入っていた。

 住居のチェックをしていないから家具などは買えないが、服や細々とした雑貨を買うには問題ないだろう。どちらかというと保管する場所が問題だが、それもまた後に考えればいい。

 

 

「また新しく何か分かったら連絡するぞい。今日のところはショッピングと観光を楽しむとえぇ」

 

「そうね。では失礼するわ」

 

「お心遣い、感謝します。それでは」

 

 

 几帳面な愛衣が最後に出たからか、静かに扉が閉まる。

 授業中だからか音もしない学園の中で、老魔術師の溜息だけが大きく響いた。

 

 

「‥‥どう思う、高畑君?」

 

「まだ調査の結果が出てませんから、何とも言えませんね。人と形を見るにも時間が短すぎますし、しばらくは様子見になると思いますよ」

 

「じゃろうな。ふぉ、ふぉ、ふぉ、最近は暫くのんびりしておったからかの、こういう騒動は面白くて仕方ないわい。

 まぁネギ君が来るまでに不安要素は無くしておきたいからの。それまでに彼女達の見極めも、しておきたいものじゃ」

 

 

 嘆息する二人の魔法使いは、堅実にして寛容。

組織として締めるべきところは、確かにある。危険人物をわざわざ自分たちの懐中に招き入れるのは紛れもない愚行であるし、まだキャスター達を信用するには早過ぎる段階なのも十分に承知の上。

 しかし関東魔法協会、しいては麻帆良学園というのは組織として重要な役目があるのだ。

関東の、そして日本の西洋魔術師達の管理と統制、処罰。一般人への魔法の秘匿、危険の排除。

 そして何より魔法を使う者達の使命は、『世のため人のため』なのだ。麻帆良で働く者達、学ぶ者達は皆、誰もがその信念に沿って日々を過ごしている。

 

 勿論そこには管理下にない魔法使いを懐に入れておくことで、把握しておきたいという狙いもある。ただ善意によって動くことを半ば義務づけられた組織という縛りはあって、その辺り、管理側にある学園長をはじめとする幹部にとっては頭を悩ませる部分だ。

 特に実働部隊である教師の一部や学生などは、善意からなる視野狭窄に陥りがちだ。その彼等のサポート、フォローをするのが大局的な味方が出来る上層部であり、本国との折衝なども考えると頭痛すら覚える。

 

 

「しかしまぁ、未来への種が育つのを考えれば多少の労苦も楽しみの内じゃな」

 

「仰る通りですね。彼女達、若い魔法使いの成長のためにも僕たちが頑張っていかないと」

 

「‥‥キャスター殿と葛木先生。あの二人が、高音君や愛衣君達の成長にどう影響していくのかもじゃな。

 神代の英霊と、そのマスターであった葛木先生。未だ未熟なあの二人には良い教師となるじゃろうて。ふぉ、ふぉ、ふぉ」

 

 

 魔法使いの成長は、ただ勉強しているだけでは達せられない。

 自分を成長させてくれる師との出会い。切磋琢磨する友との出会い。大きく飛び上がるための踏み台となる事件や出来事。

 今の麻帆良には、微妙にこれらが欠けている。日々只無為に流れていく日常の中では、魔法使いとして大事なものを得ることは出来ないのだ。

 だからこそ今回の一件、そしてこれから起こるであろう一人の重要人物の来訪。それらは麻帆良を大きく揺さぶるかもしれない可能性を秘めている。

 

 それは、決して良い影響だけではないかもしれない。ともすれば悪い方向へと、揺さぶられることもあるだろう。

 しかし老いた魔法使いは知っていた。

 確かに善意が善いことばかりを生むわけではない。善意が凶事を呼び込んでしまう場合だって、一山いくらで転がっている。

 ‥‥だとしても、その根底にあるものが善意であるのなら。

 どんな凶事の中にあっても、最終的に救いは必ず存在する。凶事の中だけではなく、おそらくは凶事を乗り越えた先に。

 その人と形が善ならば、救いは必ず訪れるのだ。ならば救いを得られるよう、せめて老骨に鞭打って働こうではないか。

 

 若い人達のためにこそ、この世界は広がっているのだから。

 


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