理容師だという初老の男と一緒になった。
寝こけていた私に、乗り過ごさないよう起こしてくれたその男は、
電車が発車するとおもむろに立ち上がり……。
すぐに読み終わってしまいますが、楽しんで頂ければ幸いです。
それは雪も降るような寒い夜のことだった。
なんとか残業を終わらせ、やっとのことでホームまで辿り着いた僕は、
終電を待つために待合室のドアを開けた。
待合室にはくたびれたジャケットを着込んだ初老の男が、一人ぽつんと佇んでいた。
僕はその向かいに座った。
ホームには僕と同じような境遇のサラリーマンが、点々と電車を待っていた。
彼らの吐く白い息を見ながら、よくもまあそんなところで待つもんだと、
透明な箱の中で寒さをしのぎながら思った。
「みんな、似たような格好をしているんだねぇ」
ふと向かいの男が呟いて、僕はちらりとその人を見た。彼はしげしげと僕のことを眺めている。
僕は少しばかり嫌悪感を抱きながら、ええそうですねと気のない返事をした。
平日の深夜、都心から少し外れたビジネス街で終電を待つのは、
残業に足を取られたサラリーマンくらいだ。
彼らは一様に、冬用の黒いビジネスコートを着込んでいた。
「わたしはずっと理容師をしているもんで、残業とか終電帰りというものはよくわからなくて」
「はあ……」
僕の素っ気ない返事を聞いたからか、男は喋るのを躊躇した。
話が続けられるのを避けるために、僕はおもむろに腕時計を見やった。
終電が来るまで、まだ十五分ほど時間があった。
「お兄さん、お兄さん」
声をかけられて、ハッと目を覚ました。目の前には初老の男が立っていた。
終電の列車が、ホームでその口を開けている。
「乗り遅れちまうよ」
起こしてくれたのは向かいに座っていた初老の男だった。
「ああ、すみません。ありがとうございます」
僕はそう言って席を立った。危うく、待合室で一夜を明かすハメになるところだった。
待合室を出て、初老の男の後を追うように電車に乗り込んだ。
近くの角の席を、一人のサラリーマンが占拠していた。
僕はなんとなく、彼から少し離れた席に座ることにした。
初老の男は向かいの座席に落ち着いた。
発射の笛が鳴り、扉が閉まると、不意に男が立ち上がった。
彼は迷うことなく歩いて行き、その背中が前の車両の扉で隔てられるのを見送って、
僕は角席の銀の支柱に頬杖をついてもたれた。
座席の下に感じられる少し熱いくらいの暖房が、拭いきれずにいた先ほどの眠気を手伝って、
僕はまた浅い眠りに落ちていった。
「お兄さん、お兄さん」
声をかけられて、ハッと目を覚ました。目の前には初老の男が立っていた。
この車両はまだ、夜風を切って走っていた。
駅に着いたわけでもないし、とすると起こされた理由がわからなくて、
なんとなしに辺りを見渡した。
角の席を占拠していたサラリーマンが床に倒れていた。その周りに赤い円が広がっている。
「この路線の終電で痴漢に遭ったって、娘が言ってね」
前に立つ初老の男が言った。
「黒いコートの男だったって言うんだけど、みんな似たような格好をしているからわからなくて」
男の手には銀のカミソリが握られていた。赤い液体が滴っている。
「お兄さんは違うと思うんだけど、一応ね。ごめんね」
それがしゅっと僕の首辺りに振るわれたころ、
町の理容室で見たことのあるカミソリだなと、ぼんやり思った。
そうだ、この男は理容師なんだったな。
「お兄さん、お兄さん」
声をかけられて、ハッと目を覚ました。目の前には初老の男が立っていた。
終電の列車が、ホームでその口を開けている。
「乗り遅れちまうよ」
そう言って、初老の男は僕を電車に乗るよう促した。僕の足は動かなかった。
「い、いえ、私は、妻を待っているものですから」
咄嗟に嘘が口を突いて出た。初老の男は一瞬眉を上げた。
「おや、奥さんと一緒に帰るのかい」
「はい、いつもそうなんです」
自分の笑顔が引きつるのがわかる。男はしばし僕のことを眺めたが、
発射予告のチャイムが鳴ると、待合室のドアを開けた。
「じゃあ、あんたは違うね」
発射の笛が寒空に鋭く響くと、僕が乗るはずだった終電は、その口を閉じた。
待合室の中に一人残された僕は、ただ、震えていた。
<了>