その日は、嫌になるほどの良い天気だった。
使い古したタオルや教科書などをゴミ袋に入れ、極僅かの私物をキャリーケースの中に片づけると、見慣れた自室をもう一度見渡す。
壁に空いた微かな穴は、酔ったシャーニッドとディン本人が暴れて開けた穴であり、その後ダルシェナに二人して怒られたのをよく覚えている。
部屋の脇にあるボロボロになったソファには、卒業した先輩がよく座っており、いつもディン達のやり取りを見て笑っていた。
中央の丸いテーブルでは、いつも小隊の仲間達と下らない話などで盛り上がっていた。
そうだ、確かにここには沢山の思い出があったのだ。
しかし、もうここへ戻ることはないだろう。
もう着ることのない制服をキャリーケースに入れて、蓋をしたディン・ディーは四年間暮らしていた部屋をもう一度だけ眺めた。
ありがとう———そして、さよならだ。
最後に感謝の気持ちを込めて部屋に一礼をし、ディンは部屋を後にした。
キャリーケースを引いてマンションを出たディンを待っていたのは、ディンよりも大きなキャリーバックと鞄を持ったダルシェナである。
「それだけでいいのか?」
「ああ、これだけでいい」
俺が持つ、とダルシェナの鞄を担いだディンは、そのまま迷いのない歩みで歩いていくと、その後ろをダルシェナがしっかりとした足取りで後を追う。
授業中のため人通りの少ない昼間の通りをディンはダルシェナとともに歩いていくと、そこには見慣れた男が日差しから隠れるように座り込んでいた。
「よぉ、ディン」
「ふっ、相変わらず不真面目な奴だ。 今は授業中ではないのか?」
眩しそうに眼を細めながら現れたシャーニッドに、ディンは呆れたように答える。
そんなディンに、シャーニッドはニヤニヤとした笑みを浮かべて。お決まりの台詞を答えた。
「早退ってやつだ。 昨日飲み過ぎて体調が優れないんだよ」
「そうか」
目に微かな隈と青い顔色のシャーニッドに、ディンは深く聞くつもりはなく簡単な返事を返した。
遊び慣れたシャーニッドが、次の日まで酔いを引き摺ることはない。
よほど、酷い飲み方をしなければそうならないことは、ディンは長い付き合いから理解していた。
無言のまま歩くディンとシャーニッドの後ろを、口を開くことはなく黙って歩くダルシェナ。
思い入れのある馴染みの店の前を何度も通り抜け、ディン達の足は停留所へと向かっていく。
「本当に行くのか?」
「ああ」
今日、ディンとダルシェナはツェルニを後にする。
二人は、もうこの都市の生徒ではなく、この都市の武芸者でもない。
禁忌の手段を用いた結果が、二人の退学処分ということだった。
だが、それでもディンとダルシェナの表情に曇りはなかった。
「だが、何故か妙に清々しい気分だ。 漸く荷が下りたという感じだな」
「お前は昔から考えすぎなんだよ。 だから頭も禿げるんだ」
「昔から言ってるが、俺はハゲではなく、剃ってるだけだ」
昔のようにシャーニッドと冗談を言い合うディンに、それを見守るダルシェナ。
ディン、ダルシェナの二人は、もうこのツェルニを守ることはできないが、彼らと理想を共にする者は、目の前にも、そしてこの都市の中に数多くいる。
そのことに二人は、遅くながらもようやく気がつくことができた。
「相変わらずだな、お前達は」
「そういうシェーナもだろ? なんだよ、その荷物は?」
「女には色々な準備が必要なんだよ」
男のディンと違い、女のダルシェナの荷物は必然的に多くなる。
シャーニッドは、ディンからその荷物を受け取ると、そのままゆっくりと歩いていく。
その後ろをディンが、そしてダルシェナが続いていく。
ディンもシャーニッドもダルシェナも、誰も口を開くことはない。
そしてついに三人は、路面電車の停留所へと辿り着いた。
この電車の行先は、放浪バスのある最後の停留所。
つまり、シャーニッドとはここで別れることとなる。
だからこそ、ダルシェナはシャーニッドと話さなければならなかった。
「シャーニッド、その、私は……」
「まぁ、元気にやれよ。 ディーンと二人で」
ダルシェナの言葉を遮るように、シャーニッドは言う。
シャーニッドは既にわかっていた
だからこそ、二人には———ダルシェナには幸せになってもらいたかった。
「……ありがとう」
それをわかった上で、ダルシェナも涙ながらにそう答えた。
停留所に汽笛が鳴り、電車がホームへと入ってくる。
顔を覆うダルシェナの肩に手をやったディンは、シャーニッドから荷物を手渡される。
「そろそろ時間のようだな」
「ああ、そうだな」
「セヴァのやつから貰った招待状を見せたら、向こうでもなんとかやっていけるみたいだ」
「そうか、世話になったと伝えてくれ」
ディンとシャーニッドは、最後にお互いの手を合わせると、もう眼を合わせることはなかった。
ダルシェナの肩を持ち、電車に乗り込むディンの背をシャーニッドはただ見送ることしかできない。
振り返らなかったディンは最後に、わかりきった願いを口にする。
「シャーニッド、ツェルニを任せた」
「ああ、わかっている」
その願いにシャーニッドは答えて、一言。
「じゃあな、親友」
こうして、第十小隊の短くも長かった戦いは終わったのだった。
・ ・ ・ ・ ・
それは突然のニュースであった。
ツェルニの小隊の一つである、第十小隊が違法酒に手を出して解散するというニュースであった。
武芸大会を直前に控えたこの状況での違反行為は極めて重要と認められ、第十小隊員には重い罰則が科せられた。
特に首謀者であった隊長であるディンと副隊長のダルシェナには退学処分が下されるものの、それでも都市の中に蔓延した不信感を拭うことができなかった。
そのため代表責任者であった武芸長のヴァンゼを降格し、新たな武芸長を立てるとともに、小隊システムなどの武芸科の方針を一新させることとなった。
こうしてツェルニは新たな一歩を踏み出すことになる。
「この度、武芸長に就任したゴルネオ・ルッケンスだ」
新たな武芸長となったゴルネオは全小隊員を集めて就任挨拶のために、壇上へと立つ。
元々次期武芸長とまで云われていたゴルネオに対し、他の小隊員からは不満が上がることはなかったが、武芸大会を控えたこのタイミングでの総指揮官である武芸長の変更は、武芸科の小隊員だけではなく、ツェルニに住まう人々の不安を煽る結果と成りかねなかった。
そこで、ゴルネオはカリアンやヴァンゼ達と話し合い、ある方法を取ることにした。
「今回の一件により、ツェルニの生徒からは武芸科への不信感を抱かれたことは間違いようのない事実であり、我々はこれらの問題の解決、そして来るべき武芸大会での勝利をしなければならない。 そこで、現在行われている小隊戦を一時中止し、武芸大会用に向けた訓練として各小隊同士の連携を高めていくとともに、武芸者個人個人の実力の底上げを行いたいと思う。 そこで、皆に紹介しておきたい者がいる。 もう既に知っていると思うが———」
「皆様、おはようございます。 先程、兄さんからご紹介をいただきました、セヴァドス・ルッケンスです」
ゴルネオの紹介により、壇上へと上がったセヴァドスはにこやかな笑みを浮かべて一礼する。
その姿に、本性を知らない女性武芸者達が微かに頬を赤く染めるが、当のセヴァドスは全くの無関心を貫いていた。
「この者は、俺の弟ではあるが、その実力はツェルニ最高峰と言っていいだろう。 そこでセヴァドスを主導としたツェルニの武芸者強化訓練を行いたいと思う」
卓越した武芸者指導の下の強化訓練。
セヴァドスという爆薬を用いたある意味、一種の賭けと言ってもよかった。
ヴァンゼなどは、この方法への反対意見を述べていたが、新たな武芸長であるゴルネオには勝算があった。
一見、戦闘狂に見えるセヴァドスだが、天賦の武芸の才に隠れた冷静なまでの戦術眼、そして感覚派の天才肌だけではなく、独自の戦闘理論を持つ秀才努力型である。
事実、ゴルネオ達第五小隊は、セヴァドスの過酷な訓練により、何度も病院送りにされそうになったが、結果としてゴルネオはツェルニ最高峰の武芸長であったヴァンゼに勝利し、第五小隊もツェルニ最強の小隊であった第一小隊から勝利を収めることができた。
こうして名実ともに、武芸長の地位を継ぐことができたのは、セヴァドスのおかげと言っていいだろう。
故に、そんなセヴァドスの訓練を小隊員達が受ければ、何かしらの変化が起きるのではないかと期待していた。
「今の話に不満な者はいるか?」
周りを見渡したゴルネオの目には、大きく分けて二つのグループに分かれていた。
賛成派と反対派。 もしくは、セヴァドスの被害者かそうでないか、である。
前者は、シャーニッドや第五小隊のような目が死んでいるグループであり、後者は、セヴァドスと交流がなかったという幸運に恵まれたグループである。
故に、彼は自分自身がどれほど危険なことをしているかなど知らなかったのだった。
「第三小隊隊長ウィンスか」
「この武芸大会はツェルニの今後の命運がかかっている!! そんな重要な任を新入生、しかも転校生如きに任せるわけにはいかない。 武芸長の個人的な感情による、身内人事はやめていただきたい」
こうなるわけである。
小隊員は、優れた武芸者を集めた集団と云われているが、実際は飛び抜けた才覚がない限りはその地位に就くことはできない。
したがって、最も鍛錬を行ってきた年長者が小隊員の大勢を占めることとなり、飛び抜けた才を持つ下級生への嫉妬や驕りを向けることとなる。
三年生で小隊長になったニーナ、ツェルニ最高の狙撃者と謳われるシャーニッド、念威操者として圧倒的なまでの才能を持つフェリ、などもそんな視線を受けてきたのだが、今年の新入生は怪物そのものであった。
敵意に満ちた視線を受けても怯むことなく、寧ろ楽し気に笑うセヴァドスはウィンスに向かって歩き出した。
その姿を見て、数少ない小隊員の侮蔑のような視線を見て、ゴルネオはこの判断は正しいと確信した。
今のツェルニに必要なのは、武芸の根本を覆す破壊者、それこそがセヴァドスであると、兄であるゴルネオは思っていた。
そんな兄の考えを知ってか知らずか、弟はいつも通りの変わらない笑みを浮かべて答える。
「なるほど、では証明させていただきましょうか?」
「何?」
「誇りや責任というのは大いに結構ですが、我々は武芸者です。 証明する方法はこれしかありませんね」
好戦的な笑みを浮かべるセヴァドスに対し、それを面白く思えないのは最上級生のウインスである。
「ふん、一年が……」
「礼儀というものを教えてやる」と隊列から抜けたウインスに、セヴァドスは、「まあ待ってください」と右手を突き出した。
「なんだ? 謝罪でもするつもりか?」
ならば条件次第で許してやってもいい、と考えていたウインスの思惑とは逆に、セヴァドスの提案はあまりにも挑発的であった。
「いえ、右ストレートで貴方を倒します」
「っ!! 調子に乗るなよっ!!!」
セヴァドスの宣言と共に、ウインスは動き出した。
壇上へと飛び掛かる形で、錬金鋼を復元させようとウインスだったが、あまりにもその行動は遅すぎた。
「どーん」
「ぶへあらっ!!?」
気づいた時には既に遅し。
無動作に振り抜かれた右拳は、ウインスの顔面を捉え、そのまま遥か後方へと吹き飛ばされた。
そのままワンバウンドもすることなく、まさしく空を切るウインスの身体はようやく後方の柵により止まることができた。
地面に顔面から着地したウインスは、そのまま一言はおろか、身動き一つすることはなく、そのまま沈黙した。
誰もが言葉を失う中、一番に復帰することができたのは最も耐性のできてしまったゴルネオであった。
「……手加減とかはしたのか?」
「はいっ!! バッチリです!! ちゃんと生きてますし、宣言通り右拳だけで倒しましたよ」
純真無垢の笑みを浮かべたセヴァドスの頬を微かの返り血が斑点状に付着し、放たれた右拳には赤黒い血が地面に滴っていた。
その姿を見なかったことにしたゴルネオは、微かな不安を振り切るように大声を上げる。
「……よしっ!! 他に意見のあるやつはいるか?!」
目の前で起きた惨劇に、反対派の武芸者達の勢いが急激に鎮火へと向かう。
誰だってあの後を追いたくなんてないだろう。
反対派がいなくなったのを確認したゴルネオは、この場の全員に武芸長としての初めての命令を下した。
「では、三日後土曜日から十日間強化合宿を行う!! 各自、用意だけはしておくように……解散!!」
・ ・ ・ ・ ・
ゴルネオの就任式と同時刻。
ツェルニの最高責任者であるカリアンは、護衛としてヴァンゼを引き連れて、病院の一室を訪れていた。
お見舞いの花束を花瓶に入れ、カリアンは、穢れのない真っ白な部屋の中央のベットに寝転んでいた人物へと話しかける。
「傷の具合はどうかな? ハイア君」
「見りゃわかるさー」
にこやかな笑みを浮かべるカリアンとは対照的に、ハイアの両手両足にはギブスが巻かれており、身動き一つ取れない状態でいた。
故に、ハイアの表情からは苛立ち以外の感情はなく、早く出て行けと言わんばかりの眼つきをカリアンに向ける。
ヴァンゼを連れてくるまでもなかったかな———とカリアンはハイアの医療カルテを見ながらそう判断した。
剄脈疲労、脊髄損傷、腕や足の筋肉の断裂、体中の骨の骨折及び罅割れ……まさに怪我のオンパレードと言ったところである。 一般人のカリアンがこの傷を負った場合、間違いなく死亡、奇跡が起こったとしても二度と両足で立つことができないだろう。
そう考えると、武芸者とは人とはかけ離れた存在なのだと、カリアンは改めて考えさせられた。
突然、黙り込んだカリアンを不審げに見守っていたハイアは、一刻も早くこの場から去ってもらおうと、話を促した。
「お忙しい会長様が、俺っち達に何のようさー」
「そう冷たくあしらわないでくれたまえ。 君達、サリンバン教導傭兵団に頼みたいことがあるんだよ」
「俺っち達に頼まなくても、天剣授受者様と化け物に頼めばいいさー」
「ふむ、そのセヴァドス君からの頼みなんだがね、彼は君達サリンバン教導傭兵団の腕を買っているみたいでね、ツェルニの武芸者達の練習相手であり、模範的な解答例になってほしいそうだ」
そう答えたカリアンは、ハイアがセヴァドスの名を聞いた時に、肩が微かに動き、そして体が震えることに気が付いたが、そのことを微塵も感じさせないようにカリアンはにこやかな笑みを浮かべて答える。
「特に君達の連携には眼を見張るものがあるらしく、その技術は人を相手とする都市対抗戦にも、もしもの汚染獣襲来の際の対策として役立つはずと言われてね、私も実はその考えには乗り気なんだ。 それなりの給与も払おうと思うのだがどうかね?」
セヴァドスとレイフォンという鬼札を手に入れているカリアンだが、手に入れられる戦力を見逃す手はない。
そんなカリアンの思惑は、あっさりと破綻することとなる。
「勿論、お断りさー」
「……理由を聞いても?」
言葉は軽く、あっさりとした拒絶だったが、ハイアの目は真剣そのものだった。
当初の予定が呆気なく覆されることとなったカリアンは、ハイアの心理を読み取ろうと眼を細めた。
「理由は単純、もう俺っち達はあの化け物に関わらないって決めたのさ」
その返答こそ、ハイアの偽りなき本心である。
そして、ハイア達、サリンバン教導傭兵団は既に過去のものとなってしまっていた。
「団員の半数は、あの化け物のおかげで、再起不能の重傷に追い込まれて、残りの半分も武芸者としては既に使い物にならなくなっているはずさー。 サリンバン教導傭兵団はもう終わりさー」
「……まさか、そんな弱気の発言を聞くとは思っていなかったよ」
サリンバン教導傭兵団だけではない、目の前にいる若き団長までもが、既に心が折れていることに、カリアンはようやく気が付いた。
「それはアンタがあいつと対峙したことないからさー。 もう俺っちもアレとは戦いたくないね」
「ふむ、確かにセヴァドス君の行動力にはいつも驚かされているが、君とレイフォン君がいれば、彼を抑えることができると私は思うのだがね」
カリアンは、そう言ってみたが、自分でもそれは希望的観測であるということに気づいていた。
そうだ——目の前のハイアを見て、武芸者とは人とはかけ離れたものだと悟らされた。
ならば、そんなハイアすら武芸者として、あっさり再起不能に追い込んだセヴァドスとは何者なのだ、と。
「っはははははは! 俺っち達とレイフォンがいれば大丈夫?! 全く学園都市って奴は本当に甘ちゃんばっかりさー。 アンタは、レイフォンとアイツを同格と思っているようだけど、そんな甘い話じゃない
セヴァドス・ルッケンス。 アイツは本当の意味での化け物って奴さ」
カリアンはようやく、セヴァドス・ルッケンスという規格外の化け物を認識することができた。