「うるさいのぉ。」
目を覚ましたわらわの感想はその一言じゃった。
まだ日も昇り切らぬ頃、村の中がやけに騒がしかったのじゃ。
おちおち寝てもいられんほどにのう。
身じたくを整え、外に居た我が旦那様に何事かと聞くと、山狩りをして狒狒を追い詰めるらしい。
じゃが危険も伴うので見つけても手を出さずに我が旦那様に後を任せると言う作戦らしい。
どのくらい時間がたったかのう、昼過ぎくらいじゃったかのう、わらわ達の下へ連絡が入ったのは。
我が旦那様は村の者に場所を聞き、もういいと山狩りを中止させ後は任せろと山に入って行ったのじゃ。
それから半刻ほどで出会ったよ。
件の狒狒に。
やはりと言うか当然と言うか、そ奴は人じゃった。
年は我が旦那様と同じくらいでボロボロの着物に色が抜け白っぽくなった毛皮をはおった橙色の髪をした総髪の落ち武者の様な男じゃった。
血色は良さそうじゃが、何か思いつめた様な絶望した様な顔つきじゃった。
わらわは思ったよ、こ奴は人でありながら狒狒と言う怪異なのじゃと。
「貴殿を倒せば………拙者、武の道を極める事が出来るのか?」
男はボソリと言うておった。
誰かに問いかけるのでは無く、自分と会話しているようじゃった。
そんな男に我が旦那様は
「男、名は?」
冷めた声色で名を尋ねたのじゃ。
そこからは、わらわと芽衣が口を挟める様な状況では無かったわ。
「薄田兼相。」
「ふん。獣ごときが名を名乗るか…………恥を知れ。」
我が旦那様に言われた薄田兼相であった者は、太刀を抜き上段の構えで声にならぬ声をあげ我が旦那様に切りかかったのじゃ。
我が旦那様はつまらなそうなため息を吐き、左右の小太刀を抜き対持したのじゃ。
7〜8メートルの距離を我が旦那様は一瞬で詰め、振り下ろされる途中の太刀に右の小太刀を合わせた。
その時“パンッ”と言う小さな破裂音が我が旦那様から聞こえたがな。
後は一瞬の出来事じゃった。
左の小太刀で相手の太刀を砕き左側頭部に右の蹴りを入れたのじゃ。
昏倒した相手の上に乗り、両足で両腕を拘束し二本の小太刀を鋏の様に首筋に突き立てておった。
わらわは忘れる事が出来んじゃろうな。
我が旦那様の怒りの姿を。
静かに蒼く燃える冷たい姿を。
すぐに男は気がついた様じゃった。
じゃがの、気づかん方が良かったかも知れんの。
気づいた瞬間知るのじゃ。
今、自分の命を、思いを、希望を、尊厳を誰が握っておるのかをの。
我が旦那様は冷たく笑い、男に囁いておった。
「獣よ
薄汚く惨めな獣よ
楽しいか?
楽しいだろう?
今まで貴様がやって来た事だ
弱者を傷つけ
逃げ回る者を追い回し
一時の優越感に酔いしれる
貴様のやって来た事だ
さぁ
さぁ、言ってみな?
貴様はどうされたい?
黙っていないで希望を言え?」
恐怖に捉われた狒狒、いや薄田兼相は呟く様に『助けて』そう言うのが精一杯じゃった。
しかし
「
ハァリィィ
ハァリィィ
ヴァリィィ
パァリィィ
夢物語じゃねーんだよ。
希望を言えっつーたろーが
貴様の様な卑劣で汚い獣が“助けて”
落胆させんなよ
パァリィィ
パァリィィ
パァリィィ! パァリィィ! パァリィィ! パァリィィ!!
」
薄闇が支配する夕暮れの山に、我が旦那様の咆哮と薄田兼相の小さくて弱い“助けて”と言う声だけが響いておった。
不意に我が旦那様は薄田兼相に顔を寄せ何かを呟いた。
普通の者には聞こえんかったじゃろう、その呟き。
じゃが、わらわと芽衣にはしっかりと聞こえたのじゃ。
我が旦那様はこう言っておった。
「助けて?そうか、助けてやる。殺さないで置いてやる。
だがな、此処で死ねば貴様は武士として死ねたかもしれないんだぜ。
貴様はこれからも獣として生きるんだ。
武の道を極める事も出来ず、名も無い獣として生きて行け。
楽しいだろう。
なあ、狒狒よ。」
終わった。
薄田兼相と言う人間の尊厳その物を、我が旦那様は砕ききった。
一片も残さずに。
後に残ったのは、もう狒狒ではない、人間“薄田兼相”の鳴き声だけじゃった。
薄田兼相の上から離れた我が旦那様は、わらわ達が知っておるいつもの我が旦那様じゃった。
我が旦那様は芽衣に山の麓まで村人を何人か呼ぶ様に頼んでおった。
歩けないと、山を滑り降りるのが限界だと。
なんでも幼少の頃にならっておった武術で足を壊したらしいのじゃ。
わらわ達が聞いた破裂音は膝を守っておった補助具の様な物が壊れた音なんじゃと。
わらわに支えられながら山を降りる我が旦那様の背に薄田兼相が問い続けておった。
『獣はいやだ。武士になれなくてもいい。せめて人になりたい』と。
『今まで傷つけた人達に謝りたい。償いをしたい。』と。
涙に濡れた咆哮が問い続けておった。
まるで、付き物が落ちた様に。
怪異と呼ばれる何かがあ奴から離れて行った様じゃった。
我が旦那様は一度だけ振り返り
「そう思えるのならば、お前は人間だ」
さっきまでとは違う咆哮が山に響いたのじゃった。
まあ、こんな話じゃ。
猿が改心した。
それだけの話じゃ。
西遊記の様な話じゃな。
じゃがのう、やはり猿は猿でどうすれば罪が償えるか解らん言うてな、我が旦那様の下で修業するんじゃと。
めんどくさいバカ猿が懐いたものじゃ。
「雫ー。まだ餅はあるか?」
我が旦那様のお帰りじゃ。
「あるぞい。食べるかや?」
「ああ。」
「そう言えばお前様よ、兼相がさがしておったぞ。」
「ああ、それか。ただの伝言だ。何でも弥乃三郎が面白い話を仕入れたらしくてな。」
「それだけかや?」
「それだけだ。」
「騒がしいヤツじゃのう。あの猿は。で、どんな話じゃ。」
「それはな……………………………………」
いかがでしたか?
幕間二、前半の終了です。後半の壊物語ではもう少し雰囲気が明るくなると思います。
飛騨の三人娘も物語に本格的に参戦します。
感想お待ちしています。