ランサーに続き、ライダーがアレだったことに、アーチャーことヤン・ウェンリーは落胆を隠せなかった。
「人生の最盛期の肉体になるんなら、邪眼や猪の牙なんて不要じゃないか……」
そう言ってベレーが落っこちそうなほど項垂れ、深く深く溜息をついた。
「ああ、もっともそれじゃ戦闘能力はゼロだからなあ。
というか、本来のメドゥーサじゃあ、システム上召喚できないか」
聖杯戦争のシステムと言われて、怪訝な顔をしたのは設置者の末裔である。
「システムがダメってどういうことなの?」
白銀の少女はつぶらなルビーの瞳を瞬いた。
「だって、神霊は呼べないんだろう」
「メドゥーサって神様なの?」
「うん、元々はポセイドンの妻である地方神の一柱さ」
そう前置きして、アーチャーはギリシャ神話の舞台の歴史をざっと講義した。ギリシャ神話に登場する地名は、地中海を囲んだ広い地域に及ぶ。ギリシャはもちろんのこと、東西に地続きのイタリアからスペイン、トルコ、アラビア半島。海を渡れば、大小の島々と、エジプトを含むアフリカ北部と東岸部、そして黒海の沿岸の国々だ。
この広大な場所を征服、統一する偉業を果たしたのは、現代までただ一人しかいない。それがアレクサンドロス大王である。後継者を持たずに夭折した彼の死後、国は四分五裂した。彼が在位した紀元前三三〇年代の数年を除いて、古代から現代に至るまで、地中海は多くの国家がひしめき合っている。
「アレクサンドロス大王って、すごい王様なのね」
「歴史に冠たる偉業だよ。
スケールと文化融合の巧みさでも、史上最高レベルの征服者だろうね」
黒髪の先生と銀髪の生徒の傍らで、金髪の聴講生は複雑な思いだった。
「彼がすごいのは、征服地の宗教をぞんざいにしなかったことだ。
自分の信仰するギリシャの神々と同一視したんだよ。
たとえば、エジプトの女神イシスは、美の女神アフロディーテと同じだとね」
「どうしてそんなことにしたの?」
「征服された自分の神が魔物扱いされたら、人間は恨みに思うからだよ。
すると、その後の統治が難しくなる。征服は終わりじゃなくて始まりなんだ。
彼は神話の悲劇から逆を行えばよいと学んだ。知識と寛容のなせる業だね。
アレクサンドロス大王の教師の一人は、アリストテレスだったんだよ」
彼の祖国マケドニアは、父ピリッポス二世によって隆盛を極めた。父は息子に最高の教育を施した。ギリシャ有数の学者を何人も招いたのだ。
「アレクサンドロス自身が聡明だったのもあるけど、
そんな教育環境は羨ましいの一言さ。
私も親父が死ななきゃ、大学に行って歴史の勉強をするつもりだったんだが」
「でもアーチャーはとってもよく知ってるじゃない」
「いやいや、こんなの趣味のつまみ食いだよ。体系だった学問とは違うんだ」
「う、うう、何という……私より□□年も前の人間だというのに。
我が国はいったい……それもこれも貧しさなのか……」
膝を抱えてなにやら呟いている出稼ぎメイドに、仮の主人はよその従者と顔を見合わせた。
「あら、どうしたの、セイバー」
「ええと、その、私が何か気に障ることを言ってたらごめんよ」
「い、いえ、結構です。敵となる相手の情報は必要です。続けてください……」
そう言う緑柱石の色も曇りがちな剣の騎士に、弓の騎士は頭をかいた。
「さて、メドゥーサに話を戻すが、名前からして『支配する女』という意味だ。
本来、神格を持つ存在なんだよ。地母神キュベレが原型という説もある。
彼女の守護した国が、女神アテナの守護する国に敗北したことが、
神話に織り込まれているわけなんだ。手ひどく反撃を受けたこともね」
それが、メドゥーサを討伐しようとして、石となった数多の勇者たちだ。
アテナやヘルメスに加護を乞うほど、強力な軍備が必要だったというわけだ。
「一番怖ろしいのは、彼女『が』見た者を石と化す邪眼だろうね。
彼女『を』見た者が石になるような容貌ではない以上、
そちらの能力を持っているだろう。
つまり、彼女の視線の外からの攻撃か、眼帯を外す間もない奇襲。
そのどちらか以外は危険が高い。
それもあって、セイバーやバーサーカーには不向きな相手だ」
石化能力の主体が、見る側ではなく本人となったことで、より厄介であるということだ。
「まあ、バーサーカーは霊体化できるから、奇襲が可能な分まだいいんだ。
でもセイバーは無理だろう。剣の射程に入る前に石にされたら困るじゃないか。
鯨座やアトラスの神話から察するに、メドゥーサの石化は本人の死後も解けないよ」
「私の対魔力を持ってすれば、石になることはないでしょう。
いざとなれば宝具を開放します」
セイバーの言に、前回のマスターの娘は半眼になった。
「でもセイバーの宝具は、聖杯を吹っ飛ばしたんでしょ?
学校とか街の中で使っても大丈夫なの?」
「天を征くものであっても、我が剣からは逃れられはしません」
「それって、空中に向けないといけないってこと?」
真紅の瞳の凝視に、セイバーは口篭ってから答えた。
「そ、そうとも言いますが……」
「まあまあ、まだ戦うと決まったわけじゃなし、戦場だって考えればいいさ。
それよりなにより、士郎君の修行が進まないとね。
腹が減っては戦ができぬ、さ。そうだろう、セイバー?」
聖緑が淀んだ沼の色と化した。
「えー、セイバー、ご飯はたくさん食べてるじゃない」
「あ、あれは魔力の補給のためです! 実は、シロウからの魔力供給が、いまだに……」
悄然とする金沙の髪を前にして、彼の師のサーヴァントは黒髪をかきみだした。
「そりゃ困ったなあ。凛の指導がまずいのかな?」
ここにいない二人のマスターは、魔術講義の最中だ。スイッチの切り替えと、ラインを通じてセイバーに魔力を流すこと。それができないと、セイバーが宝具を開放して戦うなど論外だった。だが授業中は、セイバーは苦手な面々のなかに取り残されてしまう。年長者のアーチャーが、すっかりなだめ役に定着してしまっていた。
野郎どもならいざ知らず、美少女らのお相手はアーチャーには荷が重い。生前を思い返して通算しても、私的に交流のあった女性は両手の指で余る。先輩の夫人と令嬢ふたり、後輩の母と姉上三人を含めてもだ。少々侘しいが、こういうことは、量よりも究極の一が勝ると彼は思っている。
「シロウはずっとヘンな自己流でやってたからだと思うわ。
アーチャーじゃないけど、言葉にしないと伝わらないの。
キリツグ、どうしてちゃんと言わなかったのかな?
……セイバーにも」
「イリヤスフィール……」
雪の妖精は、徐々に冷たさを溶かしはじめていた。身近に接して言葉を交わせば、一本気で生真面目なセイバーの主従は、悪い相手ではないとわかってくるものだ。不器用で言葉足らずなところはあるけれども。
そんな様子にアーチャーは目元を緩めた。話題を肩のこらないものに切り替えるとしようか。
「それにしても、女神アテナも罪作りだ。おかげで我々が苦労する。
別の説では、ポセイドンとメドゥーサがアテナの神殿でデートをしてたのが、
怒りに触れたというのがあってね」
「そんなことで怒るなんて、アテナは怒りんぼなのね」
「アテナは戦いの女神だし、ポセイドンともライバル関係にあるんだ。
ギリシャは地中海なくして語れない。ポセイドンは海の神だ。
アテネをどちらが所有するかで争った間柄でもある」
「街の名前では、ポセイドンが負けちゃったんでしょう?」
「まあね。ただし、アテナの完勝ではなかったんだ。
贈り物の勝負で、アテナはオリーブの木を、ポセイドンは塩水の泉を与えた」
「塩水なんかじゃ、負けちゃうにきまってるわ」
そういうイリヤにセイバーも頷く。海洋国家に塩水を贈っても意味がないではないか。
「いいや、これは大変な大盤振る舞いなんだよ。
塩と馬という、軍備の暗喩なんだ」
「塩はともかく、馬ですか?」
「ポセイドンは、海水から馬を造った神なんだ。
だから、ペガサスはポセイドンからの贈り物という説があるわけだ」
金銀の少女の口から、感嘆の合唱があがった。
「王様は、軍備ではなく、平和のオリーブを選び、
町にアテナの名を冠して、高台に彼女の神殿を建てた。
だが、ポセイドンにも感謝を捧げ、海側に彼の神殿を建てた。
そして両方が守護神になった」
「じゃあ、人間が一番得をしたのね」
首を傾げる白銀に、おさまりの悪い黒髪が縦に振られた。
「そういうこと。でも完璧に勝てないと、神としての沽券に関わる。
アテナは勝利の女神ニケの上司でもあるからね。
報復するにも、ポセイドンはアテナの伯父さんで頭が上がらないんだ」
「そういう遺恨があったのですか……」
セイバーは遠い目をした。どこかで聞いたような話だ。こういうことは、神も人間も、国も時代もないのか。自分の国だけではないからといって、嬉しくもないし、慰めにもならないが。
「ところで、アテナはアルテミス同様に処女神だ。
そんな自分の神殿で、憎い伯父が綺麗な女性とデートしてたら頭にくるのは当然だ。
純潔という神格に泥を塗られるようなものだからね」
白銀の妖精は、小さな拳を握り締めて強く頷いた。
「うん、わかるわ。モジョのイカリね。リアじゅーバクハツしろでしょ?」
「イリヤ君、イリヤ君。
セラさんではないが、もう低俗な番組はよしなさい。
君の品格が損なわれるよ」
「う……はあい」
静かな口調と眼差しに、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが何を見たのか。
その日以降、衛宮家のチャンネルは国営放送の総合と教育に固定されて、放送された歴史番組に、イリヤとセイバーが見入るようになった。
そしてアーチャーは、メイドの長から、再び深い感謝を受けることになるのだった。