46:朝食時の来訪者
『その剣を抜いたら、もう戻ることはできないよ』
魔術師の予言に、少女は微笑んで答えた。
『でも、みんなが笑っていました』
岩に突き立てられた黄金の剣。王にふさわしい者を選定する剣。国中から集まった、数多の騎士に勇者、いずれの手にも納まらなかった剣を抜いたのは、まだ少年の騎士見習いだった。いや、正しくは男装した少女。
彼女は男装のまま王位を継いだ。選定の剣は彼女に不老を与えた。輝かしく、美しい少年王としての統治が始まった。正義と公平を重んじ、武技に優れた王の下に、国中から騎士が集い、忠誠を誓った。
これで国を守り、民が安んじて暮らせる日が来る。騎士らの王はそう思った――。
衛宮士郎の朝は早い。魔術の鍛錬に始まり、朝食の準備をして、学校に行く。それが平日。日曜日も登校以外は一緒だが、今朝はいささか違っていた。
「あー、七時かぁ……。寝過ごしちまったな」
目覚ましなど必要としないほど寝起きがいい士郎だが、鳴ったことにも気がつかなかった。彼を目覚めさせたのは、空腹を刺激する芳香だった。淹れたての珈琲と、焼きたてのパン。腹が鳴るのと同時に、士郎は跳ね起きた。
「し、しまった!」
慌てて着替えて、台所へ走る。そこにいたのは、薄墨の髪と瞳の後輩ではなく、雪兎を思わせる配色の妙齢の女性。士郎の足音がうるさかったのか、見返す瞳にちょっぴり険がある。
「グーテン・モルゲン」
「あ、リ、リズさんか。お、おはよう……。そか、そうだよな」
やっぱり、頭が回っていないようだ。嘘かまことかはともかく、昨日の部活を体調不良で休んだ桜が来るはずがない。洋食の匂いに、つい桜だと思ったけれど、マキリを知るアインツベルンのマスターもいるんだから。
「ゴハンできてる。食べて」
「え、いいのか? ありがとう」
促されて居間に行くと、イリヤが優雅な手つきで珈琲をかき混ぜていた。
「シロウおはよう。先に食べちゃったけど、シロウもどうぞ。
日本ってスゴイのね。パンを作って焼いてくれる機械があるんだもの。
うちのパンのほうがおいしいけれど、これも悪くないわ」
聞けば、携帯電話などを買いに行った際に、自動パン焼き機も買ったのだという。
「イリヤの家って、パンまで手作りしてるのか?」
銀髪がこっくりと頷く。
「うわ、金持ちってすごいな……。あれ、セイバーは?」
「道場に行ってもらいましたわ。
一応、お嬢様の護衛を名乗ってもらっていますしね。
実のところ、台所にいても手伝いになりませんから」
答えは、セイバーの仮の上司から戻ってきた。
「す、すみません……。俺、呼んで来ます」
士郎は決まり悪げに赤毛をかいた。これも召喚の不備の影響だ。ラインが非常に細いらしく、心話や視界共有などがアーチャー主従のようにいかない。もっとも、彼らほどつながりがよいのも、それはそれで大変そうだ。
士郎は玄関から出ると、道場に足を向けた。
「セイバー、いるのか? 入るぞ」
冬の朝の森閑とした空気が、板の間に充満していた。その中に、正座して目を閉じる、金と青の少女。一幅の絵のような光景だった。士郎は呆けたように見惚れ、息を呑み、言葉を失くしてしまった。長い金の睫毛があがり、秘められたエメラルドが露わになる。
「おはようございます、シロウ」
「お、おはよう、セイバー。あ、朝メシだってさ!
今日はすごいぞ。パンまで作ってくれたんだ」
「素晴らしい……。朝餉に焼きたてのパンとは、最高の贅沢です。
アーチャーではありませんが、今はなんと平和で豊かなのでしょう」
立ち上がって、いそいそと居間に向かうセイバーは、美しく愛らしい少女にしか見えない。でも、彼女もまた、戦いに生き、剣で名を成した英雄のはずだった。こんな小さな背で、細い肩で、甲冑の重さに耐えるのも大変だっただろうに。明け方の夢のぼんやりとした記憶に、士郎は考え込んでしまうのだった。
アインツベルン謹製の朝食は、一流シェフもかくやという味だった。いや、士郎は一流シェフのレストランに行ったことはないが。
「先日は、言葉の綾とはいえ、失礼を……。申し訳ありませんでした」
と、セイバーはアインツベルンのメイドに詫びたものである。最初の朝に、桜が作ったサンドイッチはとてもおいしかったが、あれはいうなれば家庭の主婦の味。こちらはプロの料理人の味だ。昨夜のバイキングも多種多様で、常若の女神の食卓も及ばぬほどの彩りだったが、オムレツの火の入れ方や、珈琲の香りやコクの深さが歴然と違う。そして、焼きたてのパン。添えられたバターやジャムも、きっと高級品だろう。
「すごいよな。セラさんもリズさんも、料理上手だなあ」
士郎がドイツの食に持つイメージは、ビールとソーセージとポテト程度のものだ。アーチャーはフリカッセはシチューだと教えてくれたし、ドイツ語も話せるから詳しいみたいだけど。士郎はフォークの手を止めて、ぽつりと呟いた。
「そうだ、アーチャー、大丈夫かなあ。……遠坂も」
「だからわたしがマスターになってあげるって言ったのに」
イリヤは頬をふくらませたが、士郎はぎょっとした。
「それって、遠坂に死ねってことじゃないか!」
「ぜんぜんちがうわ。令呪は相手の同意があれば、かんたんな魔術で移せるの。
力ずくでうばうこともできるけど。
じゃないと、御三家のマスターはリタイヤができないでしょ?」
「知らなかった……」
「リンたら、うっかりさんね。でも」
イリヤは言葉を切って、セイバーをちらりと見た。
「魔力喰いのアーチャーがいるから、リンにそんな余裕ないし、
バーサーカーのいるわたしが、セイバーを欲しがるはずないし、
シロウが他のサーヴァントまで持てるはずがないし。
うん、やっぱり教える意味ないかも」
無邪気な駄目出しに、赤い頭ががっくりと下がった。
「あう。遠坂が、アーチャーは燃費悪いってずっと言ってたはずだよな……」
千人を優に超える騎士団が宝具の、射撃が下手なアーチャー。
「あれ、でも待てよ。あいつ、戦艦乗りだって言ってただろ」
「ええ、本来ならばライダーだっただろうとも言っていましたね」
「でもキャスター扱いされるかもしれないって言ってなかったかしら?」
信号機の配色の視線が交錯して、三人の頭上を無数の疑問符が旋回する。
「で、名前がヤン・ウェンリーって。誰なのさ?」
「皆目見当がつきません」
セイバーはかぶりを振った。真名を知れば、聖杯がその英雄の知識を与えてくれる。だから、聖杯戦争ではサーヴァントは名を秘し、クラスで呼ぶ。真名が知れると、弱点を晒すことに繋がりかねないのだから。
「しかし、今は彼のことよりも、ライダーとランサー、
キャスターとアサシンへの対応を考えるべきでしょう」
「キャスターには、遠坂とアーチャーが話をつけたみたいだけど、
このアサシンってさあ……」
士郎は、リズが撮った心霊写真に眉を寄せた。セイバーの話によると、赤い外套に黒い軽鎧を身につけた長身の青年だったそうだ。なかば透き通った画像でも見て取れる、褐色の肌に銀髪、鋼色の瞳という、異彩を放つ組み合わせ。秀でた額に通った鼻筋の、なかなか端正な顔立ちである。
「……なんかムカつく顔だよなー。
というよりさ、こんな派手な格好のアサシンがいていいのかよ」
セイバーは口許に手をやると、小首を傾げた。
「前回のアサシンは、黒装束に髑髏の仮面でしたが」
「そっちのほうが、よっぽどそれっぽいじゃないか。
で、コイツ、暗殺は専門じゃないって言ったんだろ?」
「はい。そも、暗殺者が姿を晒すのでは意味がない。
まして、門番と名乗るからには、ずっとここにいるのでは?
キャスターとアサシンのマスターが共闘しているとしても、
アサシンの側に全く利がない。不自然です」
またまた唸り声の混声合唱。士郎は赤毛をかきむしった。
「ランサーがどうするか、結局答えをもらっていないんだよなあ」
「でも、アーチャーはランサーとの約束をまもったわ。
これは大きいと思うの。リンのお願いを聞いてくれるかもしれない」
令呪を費消したうえで、自らの消滅覚悟で守られた誓約である。古代ケルト人のクー・フーリンこそが、その価値を認めるだろう。
「うー、結局、俺達がライダーとの決着をつけるしかないのかな」
昨日、イリヤにも言われたが、慎二や桜をセイバーに殺せと命ずることはできない。そしてこの手で殺すことなどできやしない。士郎はそれを伝え、言い添えた。
「でも、俺、思うんだ。
慎二はちょっと捻くれてるけど、根はいいヤツなんだ。
桜だって、本当に優しい、いい子なんだ。
こんなことする理由が何かあるんだよ。
それを教えてもらえば、ほかに何か方法があるかもしれない」
「なにか他の方法ですか……。ライダーを斃せば……?」
セイバーの言葉に、士郎は勢いよく頭を振った。
「慎二は魔術回路がないから、魔術師になれない。なのにマスターだ。
じゃあ、ライダーは誰が呼んだのかってことになる」
認めたくはなかった。慎二には呼べない。魔術師としての知識がある彼の父や祖父なら、ペルセウスを呼ぶんじゃないか。そうした情報を元に、疑問から導かれる答えは。アーチャーが何度も見せた思考法を、士郎もいつしかなぞっていた。
「サーヴァントがマスターに似るんなら、……桜しかいないじゃないか。
ほかに女の人はいないんだから」
俯き、拳を握り締めて、士郎は呟いた。
「そんなのおかしいだろ。魔術と関わらないために養子に行くんだろ。
遠坂だって、桜を守るために関わらないようにしてたんだよな。
じゃあ、なんで桜にサーヴァントを呼ばせたんだよ。
約束を破ってるってことじゃないか!」
魔術刻印は、血縁者でなくては継承できない。養子である士郎も、衛宮の魔術刻印を継いでいない。養女の桜にも同じことが言える。他家の魔術を学んでも、ろくに使うことができないだろう。
「そうとも言い切れないわ。マキリの血を残すために引き取ったのなら」
顔を強張らせた士郎に、白銀の妖精は淡々と告げた。
「そんなにめずらしいことじゃないの。
マトウシンジがだめでも、子どもには魔術回路があるかもしれないわ。
マトウが引き取るようなリンの妹なら、きっとたくさん回路を持ってる。
半分になったとしても、ゼロよりずっといいでしょ?」
「そ、それって……」
「はっきり言いましょうか。
サクラはマキリの子どもを生むために引き取られたのよ」
「そ、そんな!」
顔色を変えるマスターに、金沙の髪が左右に振られた。
「いいえ、シロウ。私の国でも珍しくはありませんでした。
マキリの当主は、五百年前の人間だというではありませんか。
彼の常識では、むしろ当然のことでは?
年齢と性別を違えれば、あなたたちの父になる」
遠坂も古い家系だという。伝統を重んじ、貴族的だったという凛の父は、それほど抵抗を覚えないのではないか。セイバーはそう続けた。イリヤも言い添える。
「マキリの魔術を学び、子どもに伝える準備をしながら、
他の魔術師の手から守られるの。でないと、子どもに伝えられないじゃない」
士郎は不承不承に頷いた。そう説明されれば、わからなくはない。きちんと機能していたら、一理はあると思える方法だ。
「でもね」
「でも、なにさ?」
「魔術は、家というか血による違いが大きいの。
シロウもキリツグが教えてくれた魔術、ちょっとしか使えないんでしょ」
「う、うう、うん」
実は、師匠の凛の教えも、初歩の初歩の『し』の状態である。
「トオサカの魔術は、宝石魔術。つまり、魔力を出すのが得意なの。
サクラも元々はそうだと思うわ」
幼いイリヤがこんな解説をするなんて、思ってもみなかった。琥珀と緑柱石が動きを止める。
「でも、令呪を作ったのはマキリ。そういう魔術だと思うの。
ほんとうは霊体のサーヴァントを縛ることができるような」
「遠坂がライダーを凍らせたみたいなやつか?」
「ううん、かなり違うと思う。
令呪はサーヴァントが現界している間、使わないとずっと残ってるもの。
世界の修正に、二週間も耐えられるってことよ。
アハトお爺さまも言ってたわ。一種のフィジカルエンチャントだって」
なんだか、ものすごく難しいことになってきた。
「よ、よくわかんないけどさ、すごい魔術ってことでいいのか」
「うん、そうよ。マキリとトオサカは、かなり魔術が違う。
それはわかるでしょ、シロウ」
これには頷かざるをえない。十年分の魔力を使って、数時間の氷結を可能とする凛も大変なものだが、攻撃と瞬発力、束縛と持続力という差が見て取れる。
「じゃあ、どうやったらサクラがマキリの魔術ができるようになると思う?」
「えっ……?」
長い銀の睫毛から、大人びた視線が覗く。
「魔術は、血を浴び、死を許容するもの。
シロウの間違った鍛錬よりも、辛いことかもしれないのよ」
むしろ、魔術などと関わらないほうが幸いなのかもしれない。
「でも、遠坂とアーチャーは、慎二が間桐の魔術師だって言ったって」
士郎は考え込んだ。怪我が治るまで休めと言えばいいのに、目障りという言葉を付け加えてしまう友人のことを。そう言ったのもアーチャーだった。ツンデレと表現したのはイリヤだが。
「もしかしたら、それもあいつなりのサインかもしれない……。
なあ、イリヤ。イリヤがアインツベルンのマスターとして、
間桐に連絡するのはありなんだよな?」
「ええ、もちろんよ」
「俺が、マスターとして接触するのもいいんだよな?」
小さな銀の頭が、上下に動く。
「それも構わないけど、どうするの? セイバーがシロウのサーヴァントだってわかったら」
その時だった。イリヤの声をかき消すほどに、玄関の呼び鈴が連打されたのは。三人は顔を見合わせ、家主が立ち上がり、返事をしながら玄関に向かう。セイバーとイリヤの順でその後に続く。すりガラスの引き戸が、ぼんやりと透かす赤い影。
「おー、遠坂か? おはよう、戸開いてるぞ」
言わせも果てず、勢いよく戸が開いた。大荷物を抱え、髪を乱し、肩で息をした凛が立っていた。
「し、士郎。お願い、しばらく泊めて。わたしもう限界だわ!」
「えぇーっ! どうしたんだよ遠坂ぁ!?
や、やっぱ、アーチャーの部下が……!?」
「アイツだけなら我慢したわよ!」
凛は玄関に足を踏み入れると、どさりと荷物を置いた。
「じょ、冗談じゃないわ!」
「おう、俺も邪魔するぜ」
聞き覚えのある声に、士郎の動きが止まる。
「貴様っ!」
セイバーが蒼い光を纏い、銀青の装束に姿を変えた。凛の背後で、ひらひらと手を振っているのは、昨晩と同じ服装をしたランサーだった。
「あ、あの魔女、仕事が早すぎなのよ!」