「一方、藤村雷画氏は、地元では有名な暴力団の組長だ。
孫が二十代半ばなら、本人は七十台後半ぐらいじゃないのかな?」
「多分ね。でも、とっても元気よ。派手なバイクを乗り回しているのを見かけるもの」
どうやら、孫娘は祖父に似たようだ。
「だが士郎君が成人するまでに、亡くならないとも限らない。
そして万が一、被後見人がそっちの道に進んだらどうするんだい」
アーチャーの問いかけに、凛は眉根を寄せて首を傾げた。
「正義の味方になるって言うんだから、それは大丈夫じゃないの?」
「だったらいいんだが、こういう役割を担う人は、善意の隣人ってだけじゃ不十分だ。
士郎君は誰かのためになりたいと思うがあまり、自己への価値観が希薄になってる。
恩のある老人に、組を頼むと遺言されたら、嫌だと断れるかねぇ?
例えば暴力団の抗争で、襲撃を受けたような場合にさ」
藤村組は、暴力団というよりテキ屋の元締めといった方が正しいが、絶対にないとは断言できない。彼らのほうにそのつもりはなくとも、相手にその気があれば、暴力団抗争は起こりうる。
「それだとありかも……。たしかに後見人って人選が難しいのね。
あいつの性格は最悪だけど、社会的には問題ないし」
「そういうことだ。三十代の男性に、他に頼める人がいないってのも普通じゃないよ。
たとえ天涯孤独でも、会社の上司や先輩、学校の恩師とか、それなりにいるものだ。
もっとも、会社勤めをしていたようには思えないがね」
「確かにね……。三か月ごとに二週間の旅行をしてるんだもの」
凛は腕組みをし、アーチャーもマスターに倣った。
「旅行は無論のこと、ただ暮らすにしたって金は要る。
彼の死後は、ほとんど収入がないだろうに、士郎君は私立高校に行ってる」
「保険とかじゃないかしら」
アーチャーは首を捻った。
「だとしても、大金が子ども一人に遺されたわけだ。
社会の一般常識からすると、よけいに後見人には不適切だ。
切嗣氏は役所に相談して、弁護士を紹介してもらい、
行政の援助も受けたほうがよかったかもしれない」
「またお役所仕事?」
この疑い深いサーヴァントは、隣人の善意にまで疑問符をつけるのか。辟易とした凛に彼は頷いた。
「そうさ。そいつのおかげで、私はユリアンを預かることができた。
血のつながらない、身寄りのない子を背負うには、
そういうバックアップが後見人のためにも必要なんだ」
……そういえば、こいつは経験者だっけ。
十五歳で孤児になり、巨額の負債の清算に取り組み、戦争孤児を預かっていた。だから目の付けどころや、言うことが違うのだろうか。
「でもアーチャー、普通はそんなこと思いつかないでしょ」
「凛なら、自分が知らないことは、知ってそうな人に聞くだろう?」
「そりゃあね」
「誰かに聞けば、役所に相談してみたらぐらいのことは教えてくれる。
冬木の広報誌にも、ちゃんと法律相談の日が載ってるよ」
凛は呆れて首を振った。
「そんなの、わたしもちゃんと読まないわよ」
「来年度のゴミ収集のお知らせなんかはどうだい?」
「あ、そういうのは読む。
読むけど、それにしても何読んでるのよ、アーチャー……」
聖杯や魔法のことを、様々な知識を駆使して考察したかと思えば、今度は『広報 ふゆき』を熟読してる。なんなの、そのギャップは。
アーチャーは溜息を吐いて、がっくりと肩を落とした。
「平和な社会だと、地方自治体がここまでやってくれるのかと思うと、
羨ましいやら感心するやらだよ。
こういうのを読まない人は多いが、読む人はちゃんと読むんだ。
特に、高齢者や子供を持つ母親はね」
「それがどう関係するのよ」
「ご近所にちょっと聞けば、答えが返ってくる質問だってことさ」
「あ!」
ほんの些細な糸口、事象の断片から、対象の人物像を立体的に描き出す。戦場の心理学者の名をほしいままにした、ヤン・ウェンリーの能力の一端だった。
「学校行事に参加すれば、保護者や学校の先生に聞く機会もあるだろう。
地域や学校に無縁で、あまり他者と交わらない人だったのかと思う。
……もしくは敬遠されてたかもしれないが」
「士郎の実のご両親と知り合いだったから、遠慮してとか?」
「その可能性も高いね。それと、あのパスポートの写真を見て、君はどう思う?」
「ずいぶん、疲れきった人だと思ったわ」
「そうだよね。でも、彼はその三年前までは、名うての暗殺者だった。
やっぱり、そういうのは隠せない。特に子供がいる母親は敏いよ。
怪しい人間を敬遠するものさ」
定職に就かず、しょっちゅうふらりと姿を消し、半月も帰ってこない。よれた服に無精ひげ、ぼさぼさ頭で昏い瞳の、年齢よりも老けた三十代の男。
凛も普通の家に生まれたとは言いがたいが、母の葵なら、幾つであっても遊びに行くことを許さなかっただろう。よくもまあ、女子高校生だった大河が入り浸れたものだ。なるほど、藤村家も普通とはいえない。
だから、早朝に桜と士郎が二人きりになる時間があっても気にしないのか……。
「……許せないわ、あのじじい。
桜や慎二を利用して、『衛宮』に探りを入れさせてたんだわ!」
だからイリヤと凛の登場で、足が遠のいたのだろう。
「だが、もっともな懸念でもある。
たかだか魔術儀式のために、ホテルを爆破する人間が引き取った子なんだからね」
「たかだかって!」
「イリヤ君の実家ほどの金持ちなら、たった六人ぐらい、
なんとでも言いくるめて協力してもらえる事じゃないか。
ヘラクレスを呼び出せる触媒だなんて、国家というより人類の宝だよ。
その金で、何人雇えると思う?」
「わたしたちがいるわ」
アーチャーは黒い眼を半ば瞼で隠し、親指と人差し指で丸を作った。『金』のハンドサインだ。
「遠坂と間桐には、次回、次々回に同様の手段を取れるよう、
資金提供を約束すればいいだけの話だ。
第三魔法を使うと約束してもいい」
「そんな、失われた第三魔法を他人に使うですって!?」
凛の反論に、虫も殺さぬような顔が人の悪い笑みを浮かべた。
「私なら、千年も忘れてた代物を、いきなり自分や家族に試そうと思わないね。
怪しい実験に、被験者が喜んで立候補してくれるなんて、一石二鳥じゃないか」
「ア、アーチャー、あんた……なんて、黒いこと……」
中立中庸とは、善と悪、秩序と混沌を行き来するから、平均値でってことじゃないでしょうね……。慄く凛に、アーチャーはイリヤの家を一刀両断した。
「私から見たら、アインツベルンはそういう家だよ。
当主が安全地帯でふんぞり返って、イリヤ君のような少女を死地に送り込んでる。
そして、聖杯戦争を名誉だと教えてるんだ。まったく、虫唾が走る」
ヤン・ウェンリーにとって、安全地帯から戦争を賛美する権力者ほど嫌いなものはない。アインツベルンも、間桐も、時計塔もだ。戦争賛美は遠坂も一緒だが、自ら戦おうとする凛の気概が一線を画している。
「そこに納得ずくで雇われたのが衛宮切嗣。彼が引き取った子も魔術師だ。
極端な人間は、身近な者に強烈な求心力を発揮する。
どんなことを教えられたかと疑いもするよ。
間桐臓硯は、かなり慎重な人物だと思われる。
彼が聖杯に託す望みは不明だが、大災害じゃないだろう」
「え……?」
「あちらも冬木に住んでる。ここが合わないなら、なんでよそに行かないんだ?」
凛は髪をかきあげた。確かにそれも一理ある。
「そう……ね。あのじじいだって、外国から来たんだもの。
魔術回路が枯れるまで、冬木にいなくてもいいのよね」
アインツベルンのように、適した地に居を構え、戦争のたびに来訪する方法を取ってもよかった。間桐臓硯にも、冬木を離れがたき理由があるのではないだろうか。
「愚行に見えても、外道であっても、行動にはその人なりの理由がある。
もっとも、士郎君の様子を見れば、おおむね普通の子だとすぐにわかるさ。
テレビみたいな正義の味方なら、子どもの空想で片付けられる。
探りと言っても、ほんの最初だけだろう。あとは本人達の自由意志じゃないかな」
「だったらよかったわ」
凛は胸を撫で下ろした。妹が、四六時中スパイを続けていたとは考えたくない。あの朝に赤らめた頬の好意は本物だ。
「ただそれが、何を正義とし、どう実現するかで、危険なものにもなるんだよ」
「その、皇帝ラインハルトみたいに?」
黒髪がかすかに動いた。縦とも横ともいいがたい方向に。
「私が心配するのは、士郎君は元々は彼の親友に近い性格の持ち主だと思えることだ。
それが大災害でリセットされ、養父の死で再びリセットされてしまった。
残された部分で養父の理想に感応し、理想を体現する人を追いかけ、支え、
……身代わりとなり殉ずる。そいつが一番怖い」
言葉もなく凝視する凛に、黒い瞳に翳が落ちた。
「そして、私が遺した人々に強いている道なのだろうね。
でも、ここで案じてもどうしようもないし、願っても届かないだろう。
あそこで死ぬとは思わなかったから、何も伝えておけなかった。
だが君達には間に合う。もしも、私が斃れたときのために」
凛に反論することはできなかった。そして慰めたりすることも。ヤン・ウェンリーという名の、非力で、不真面目で、毒舌家の、とんでもなく聡明なサーヴァント。彼は自分の死後の状況までも見通している。なんて、やりきれないことだろうか。
「戦争中の強烈な体験っていうのは、人の一生を決定付けてしまうほどのものだ」
瞳が伏せられ、自嘲の笑みが浮かぶ。
「やった本人が言うんだから本当だよ。
妻も、被保護者も、私に出会わなければ軍人にはならなかった。
衛宮切嗣は、私にも似ているんだ」
いや、私の方がもっと悪いなと、苦い呟きが凛の耳を打った。少なくとも、ここは平和な国だ。戦場の只中じゃない。
「そこへ正義というイデオロギーが絡み付いてしまうと、
百五十年も争い続け、なお終わらないような思想戦争も引き起こす。
私が士郎君とイリヤ君の関係を、家族の問題に矮小化したのはそのためだ」
そして、聖杯戦争より家族争議に重きを置かせたのも。
「私がいなくなったら、君はその路線で衛宮家の子たちの関係調整に務めてくれ。
君が頼りになるならば、士郎君とイリヤ君は君を守ろうとする。
士郎君の交友関係を通じて、桜君に手が届くようになる。
敵として、間桐を排除するのは難しくないが、
桜君にとっては、十年も一緒に暮らした家族だよ。
君やご両親よりも長く接した相手だということも忘れてはいけない。
必ず、彼女の意志を尊重して、最適な道を選んで欲しい」
「……な、なに、なんでそんなことを言うのよ!」
それは紛れもない遺言だった。聖杯戦争の事ではなく、凛を案じ、関わった人々への善後策だ。
「あんた、やりようがあるって言っていたし、ここまでなんとかしてきたじゃない」
涙を見せまいとした結果、アーチャーを睨むことになった凛に、不変の定理を述べるような声が返された。
「深山の一家殺人だ」
「えっ……!?」
「私は戦死したんじゃない。戦いに負けずに済んで、
講和会談に赴く途中で暗殺された。
正面の雄敵に必死で、横合いからのテロリストに気付かなかったのさ」
硬直した凛に、淡々とした調子で言葉が続いた。
「ちょ、ちょっと……」
「まあ、私には過ぎたことだが、はるか未来の話だからね。
細かいことは省くとしよう。深山の一家殺人の凶器は刀や槍と思われる。
そういう発表なのは、片刃と両刃の刺し傷が混在し、
人体を貫通する深い傷も含まれるという意味だ」
短い新聞記事からは見えないが、凄惨そのものの事件像だ。凛は掛け布団を握り締めた。
「それがどうしたの?」
「私たちが相対したランサーかライダーの武器なら、傷の形は一種類だけになる。
ランサーの槍は両刃、ライダーの短剣は二本あったが、
刃の形は両方とも片刃だった」
あの最中に、そこまで観察をしていたのか。凛には頷くことしかできない。
「さて、キャスターの言葉はそれなりに信が置ける。
私たちがライダーを退けたことで、ちゃんと訪問の許可をくれた。
彼女が自分とアサシンではない、と言うのなら確かにそうなんだろう。
プライドの高そうな女性だ。濡れ衣を着せられるのは我慢ならないと思うね」
「じゃあ、誰なのよ……」
ようやく声を絞り出した凛に、アーチャーは直接の回答をよこさなかった。
「時間的に私とセイバーではない。
バーサーカーでは、遺体がミンチになるだろう。
つまり、一家殺人は、今回のサーヴァントの仕業ではない。
しかし人間業でもない」
「アーチャーが、最初に言ったように?」
「ああ。では、誰なのか。実は、この犯罪が可能な者は過去にいたんだ」
翡翠の瞳に緊張の色が宿る。マスターの視線に促され、アーチャーは話を続けた。
「第四次聖杯戦争のアーチャー。
君のお父さんのサーヴァントだった可能性の高い、
複数の宝具を、雨あられと打ち出した黄金のサーヴァントだ」
「……まさか!」
「用心するにしくはない。
君のお父さんがいつ亡くなったのか不明だが、
セイバーの証言によるなら、とても強いサーヴァントだった。
そんなに強いサーヴァントがいたのに、なぜ、君のお父さんは亡くなったのか。
そして今、四次アーチャーの戦い方に合致する殺人が起こっている。
よく考えてみるべきだ」
凛をひたと見つめる、底の見えない永遠の夜。彼の部下が戦場で見ていた、不敗とも魔術師とも称された名将の顔だった。
「そして、これは君のお父さんに対しても言えることだ。
敵と相対してると、どうしてもそちらに意識が向く。
横槍や背後から足を引っ掛けようとするものが目が入らなくなる。
特に、強大無比なものに拠って立つと、一層その傾向が高い」
ヤンは一回目と二回目のイゼルローン攻略を思い返しながら言葉を続ける。
「いいかい、凛。サーヴァントとは極論すると戦いの道具、ハードウェアだ。
それを運用するマスターがソフトウェア。前者を動かすのは後者なんだ。
どんな強大なサーヴァントも、
マスターがきちんと運用しなくては力を発揮できない」
もしも、三騎士の残る二人が聞いたならば、肌に粟を生じさせていたことだろう。アーチャーの主は、むろんそんなことは知らないが、静かな迫力に気圧されて、頷くのも忘れて聞き入った。
「しかし、ハードを過信するのは危険だ。
絶対に大丈夫と思い込んで、ハードを篭絡しようとする者を、
自ら呼び込んでしまうことだってある。
味方のふりをされると、余計に信じてしまうものだ。
または、ハードに寝返るような仕掛けをしておく。
私はどっちの手も使ったが」
アーチャーは、椅子の上で足を組み替えた。
「いずれにせよ、前回の戦争の結末を知る者はいないんだ。
セイバーは聖杯を吹き飛ばしたということだが、顕現はしていたのかもしれない。
彼女が聖杯を吹き飛ばすまでの間に、誰かが願いを叶えていないとも断言できない」
「あなた、聖杯で願いを叶えた魔術師はいないって、そう言っていたじゃないの!」
「サーヴァントは魔術師じゃないからね。
セイバーが吹き飛ばしたのは聖杯の器。そして彼女は消滅した。
その瞬間、前回のアーチャーが最後の一騎となった。
前回のアーチャーはどうしたんだろう?」
凛は、頭を抱え込むと、枕に倒れ込んだ。
「ちょっと、ちょっと待ってよ。頭がどうにかなりそう!」
凛は掛け布団に手を伸ばし、頭から引っかぶった。
「うう、も、寝る。これ以上は、明日考えるから……」
ヤンは苦笑すると、残った紅茶を飲み干した。
「まったくだ。世の中は、考えても駄目なことばかり。
同じ駄目なら酒飲んで寝よか、さ。おやすみ、マスター」
立ち上がり、歩き、ドアを開ける音が、布団越しに聞こえてきた。そして、灯りが消える。ドアが閉じられて、足音が消えた。凛の負担を軽減するために、霊体化したのだろう。カップが置きっぱなしでも仕方がないか。
布団の中で凛は呟いた。
「ああ、もう、とんでもない相手を呼んじゃったわ。
未来の異世界人だなんて……。
魔法の一歩手前まで科学が迫っている時代に、
何百年に一人の天才にも負けなかったってことじゃないの」
魔力を馬鹿食いするのもやむなし。未だ現れていない存在だから、サーヴァントの枠に押し込めることができたのかもしれない。彼が過去となった遥かな未来ならば、不朽の英雄譚の主となっていたことだろう。ヘラクレスというよりも、オデュッセウスのような。
でも、彼は家に帰れなかった。そして、死後もなお乗組員を案じている。
だが、たとえ聖杯に願っても、その時、その場所には届かないとわかっている。では、せいぜい今を楽しむしかないではないか。そう思っているのだろうか。
凛はぎゅっと目を閉じた。そんな相手をサーヴァントとして使うなら、マスターという補給線がしっかりしなくちゃ。今日は寝よう。それだって義務だ。精神のコントロールは魔術師の基礎基本。
魔術を使う必要もなく、凛はすぐに健やかな寝息を立て始めた。