バーサーカーの正体がヘラクレスと知ったアーチャーは目に見えて落ち込んだ。
「ひどい。あんまりだ。彼の武勲を一番うかがいたかったのに。
なんで、アーチャーとして召喚しなかったんだ。
それこそ、最強だっただろうに」
そんなことを、部屋の隅で膝を抱えて呟いている。凛の翡翠の瞳の半ばを、長い睫毛が覆う。
「馬っ鹿じゃないの。
ヘラクレスがアーチャーだったら、あんたはどうなるのよ。
あんたがバーサーカーだったら、どっちみち話なんてできないでしょ。
じゃなかったら、他に空きがあったのはセイバー。
あんたに剣術なんてできるの!?」
「あんまり関係ないんじゃないかい?
私が生前できなかった戦略上の最高の結果を出してるんだし」
言われて凛は眉を寄せた。
「最高の結果って、何?」
黒髪のサーヴァントはのほほんと笑った。
「読んで字のごとくさ。戦いを略すことがすなわち戦略上の大勝利ってね」
凛は、人差し指を立てたアーチャーの胸倉を掴み、ゆっさゆっさと揺さぶりながら説教した。
「言われてみると、あんた、ろくすっぽ戦ってないじゃない!
この無駄飯ぐらい!」
凛の腕力か、はたまたアーチャーが軽量級なのか。衛宮士郎は後者であってほしいと切に願う。遠坂凛は今日から魔術の師匠となった。もしも前者で、あの調子で締めあげられたら……、俺は、死ぬかもしれない。
もっとも後者であっても、士郎の危機は何ら変わらないのだが。アーチャーは士郎より十センチ近く背が高く、体格は似たようなものだ。士郎のほうが小柄な分だけ体重も軽い。より激しくシェイクされるだろう。
戦わなくちゃ、現実と。でも幻想の崩壊を見るのも辛い。ミス・パーフェクトがどうしてこうなった。あかいあくまの下僕の前途は多難だ。
締めあげられている黒い悪魔は呑気な声を上げた。通常物理攻撃無効のおかげだ。
「いやー、懐かしいなあ。昔はそうも呼ばれてたんだ」
「何ですって!? 不敗だのマジシャンだの、大層な二つ名は嘘だったの?」
凛は知らないが、実はまだある。奇蹟だとか、ペテン師だとか、戦場の心理学者に戦争の芸術家。戦術なんて、戦略を整えられなかったことの苦しまぎれの悪あがきだったから、ヤンとしても不本意な異称の数々だ。
「ほら、私なんかが元帥になったのは、
有能な年長者がみんな戦死してしまったからで、
その前は指揮官じゃなくって参謀だったんだ。
参謀だって何人かいたから、作戦案を採用されないとどうもこうもない。
私はろくでもない結末ばかり考えつくんで、上官に好かれなくってさ」
「そればっかりじゃないわよ。あんたの上司の気持ちがわかるわ。
あんた、大人しい顔して、しれっと真っ黒いこと言うんだもの。
不真面目だし、すぐさぼろうとするし!
実際問題できるの? セイバーなんて」
マスターの無理難題に、アーチャーは胸の前で手を左右に振った。
「そんなの、無理に決まっているだろう。
武芸百般に傑出し、最高レベルの頭脳を誇り、
男性美の極致で数多の女性を魅了した、ヘラクレスとはわけが違うんだよ」
死を具現化したような鉛色の巨人とは、結びつかないようなアーチャーの評だった。
「男性美ぃ? たしかに筋肉隆々で、すごく大きかったけど、
美形かっていうと違わない?」
これは凛の評だ。バーサーカーに吹っ飛ばされて死にかけた士郎は、当然観察している余裕などない。
「彼は大神ゼウスの子だよ。オリンポスの神々は巨人の神だ。
人間とのハーフだから、逆にあんなもので済んでいるんじゃないのかな。
だって、女神ヘラの乳をヘラクレスにこっそり与える際に、
飛び散った乳が天の川になったわけだから」
「ミルキーウェイね。確かに体が大きくなきゃ、そこまで飛び散らないか」
「そういうこと。ちなみにヘラは絶世の美女でもある。
ヘラクレスの母親は、そんな妻を持つ大神ゼウスが
目をつけたほどの美女。ゼウスだって、男性の理想美の持ち主だ。
二人の息子のヘラクレスが美男子でないわけがない。
アマゾネスの族長の腰帯を借りてこいという、
十二の試練の一つだって、それで難なく解決してるだろう」
「あ、そういえば」
凛は頷き、士郎は会話からおいてけぼりを食った。魔術の自己鍛錬はしていたが、こういう神秘学的な勉強はさっぱりだ。過去へと向かう学問と、凛は魔術のことを語っていたが、歴史マニアのアーチャーはさらにその上を行く。
普通の男は、ギリシャ神話の詳細なんて知らないから! 女子高生だって、星占いの星座ぐらいじゃないのか。
――この人たち、色々とおかしい。ヘンだ。
とある平行世界では、行き過ぎた無私を散々に貶された士郎だが、ここでは師匠らが他山の石となった。
突き抜けすぎて賢いって、気味が悪いよな……。
弟子の内心は師匠には伝わらず、豊かな黒髪を胸元から背中に梳き流すと、腕組みをする。
「そうよね。たしかにもったいないわよね。
十二の試練を考えてみると、ヘラクレスはキャスター以外の
すべてのクラス特性を持つんじゃないかしら」
「あれかな、アーチャーだと宝具になりそうなヒドラの毒矢が、
自分の弱点になるからかな」
きょとんとする士郎に、アーチャーはヒドラの毒矢は、試練のひとつで退治した、多頭の巨竜の血の毒だと説明した。
「この怪物は海蛇座として天にあるんだ。
ヘラクレスの邪魔をするために、ヘラが送り込んだ大ガニはかに座。
だが、こいつはあっけなく踏みつぶされてしまった」
「わかるぞ。あのバーサーカーの元だろ。カニのハサミなんか効かないと思う。
それにしても、星占いのかに座って、そういう伝説があったのか。
バーサーカーを邪魔するぐらい、大きなカニかぁ……。
食ってみたいなあ」
「ははぁ、確かに食いでがあるだろうね」
でもそれ、お高いんでしょう? 自問した士郎は、次に財布と相談した。答えはノー。いや待て、藤ねえからお裾分けのカニ缶があった。そして一昨日買った特売の卵2パック。うし、明日の晩はカニ玉にしよう。
献立が一つ決まって晴れ晴れとした士郎に、本題が説明された。自らの武器が、ヘラクレスの弱点となりうる理由が。
ヘラクレスの妻はケンタウルスに攫われそうになったことがある。犯人のケンタウルスは、夫にその矢で射られ、彼女にこう言い残して息絶えた。
『私の血には、愛を取り戻す力がある。
夫の愛が薄れた時に、私の血を彼の服に沁み込ませれば、
彼は貴女の元に戻るだろう』
ケンタウルスにとって、彼女は自分の仇の妻。ヘラクレスの妻にとっては、彼は夫に処断された誘拐犯。その言葉を信じるなんてどうにかしている、と思わざるをえないが、彼女は信じてしまったわけだ。
蛙の子は蛙の子というべきか、数年後にヘラクレスは別の女性を寵愛するようになり、妻は取っておいたケンタウルスの血を下着に沁み込ませる。それにはたっぷりとヒドラの毒が含まれていた。
「もてるのは羨ましいけれど、男としては避けたい死に方だよなあ」
「言えてるわね……」
「……ど、どんな死に方だったのさ?」
ヒドラの毒は、激烈な苦痛をもたらす。不老不死の者でさえ癒えることはなく、神に不死の返上を願い出るほどのものだ。被害者のひとりは、ヘラクレスの師、ケンタウルスの賢者ケイロン。誤射によるものだ。ギリシャ最高峰の頭脳の持ち主で、死を惜しまれて星座に迎えられた。それが南斗六星をもつ射手座である。
そんなものを下着、いや正直に言おう。パンツに塗られたら。
「皮膚、肉、臓器に至るまで、毒に焼けて腐れ落ちるんだよ。
自ら焼死した方がましという痛みだっただろうし、
ヘラクレスは実際にそうしているんだ」
臓器、それはパンツに縁のあるアレというかナニ……! アーチャーの遠まわしな解説に、逆に蒼褪める赤毛の少年。
『女の子には優しくしないと損をする』とは真理の一端であった。しかし、『女の子
「ちなみに、死んだあとでヘラクレスも星座になってる。
そんなことより、生きている間に優しくしてあげればいいのに。
神様なんてのは理不尽なものだが、彼の名前は、『ヘラの栄光』って意味だ。
十二の偉業は、ヘラの差し金によって行われたからだよ。
怖いだろう?」
アーチャーの警告の矢も、ヒドラの毒に匹敵するぐらいに強力だった。
※ヘラは貞節と信義の守護神です。彼女の半分は嫉妬の怒りでできています。フラグの建築は、用法用量を守り、あなたの健康と生命に留意して行いましょう。
***
遠坂主従が帰宅して、士郎は夕食の準備を始めた。昨日計画したとおり、メインはカニ玉、付け合わせは春雨と肉団子のスープ、レタスとコーンの中華風サラダ。貰い物の缶詰に、買い置きの乾物、特売の卵とひき肉にレタスを使い、緊縮財政でもうまいものを。士郎の努力と工夫の結果である。師匠の従者がこれを見たら、拍手喝采したことだろう。
「あ、あの、リズさん。コレ、できたから運んでください」
「……ハイ」
今日も、虎も桜も来ていない。その代わりに、メイドのリズが助手を務めていた。美人だしスタイルも抜群だけど、無口で無表情で、士郎も対応に困る人だ。いま一つ、何を考えているのか読めない。その点では、士郎に手厳しいセラの方が理解できる。
「でもリズさんはセイバーにあたりがきついんだよなぁ」
士郎はスープをかき回しながら、溜息もひとつ。
「うう……。やっぱり、皿かなあ。
セイバーの割ったヤツ、リズさんの給料から弁償だったり……」
セイバーを新しいメイドと紹介したせいで、リズは後輩ができたと思ったらしい。さて、仕込んでくれようと皿洗いをやらせたところ、朝食に使った皿は半減の憂き目にあった。
だが、それを責めることはできない。セイバーの腕力は常人の四十倍だ。アーチャーが警告したように、陶磁器はポテトチップス同然の脆さだったに違いない。
イリヤも悪いと思ったらしく、今日学校に談判に来る前に、皿やカップを買ってきてくれた。
「うぅむ、余計に使えないじゃないか」
士郎は、台所のテーブルに鎮座ましましている、ロイヤルブルーの箱に視線を送った。アインツベルンは並外れた資産家だ。藤村家から貰った皿の代わりに、新都のデパートの最上階のブランド食器の店で買ってきたのだ。
「だって、このお店しかセラも知らないんだもの」
そう言ったのは幼い女主人のイリヤである。
「申し訳ありません、士郎様。リズについては、わたくしの責任です。
セイバーのサーヴァントをメイドにするのは、
あくまでふりという説明が充分ではありませんでした。
出来あいの安物で申し訳ありませんが、お納めくださいませ」
謝罪と共に深々と一礼したのは、その家庭教師のセラだった。
「くれるというならもらっておきなさいよ。
洋食器だから、イリヤたちの食器にすればいいじゃない」
遠坂家の令嬢もあっさりとしたものだった。日常的にアンティークの名品を使っている凛にとって、結局は現代の大量生産品である。
「ちょっと待ってくれよ! これ、ものすごい値段がくっついてるんだけど!」
士郎の言葉に、黒い頭がひょいと覗きこんだ。
「どれどれ。……おお、こりゃすごい」
「あら、イリヤ。自宅用って言ったの?」
「え、だって、この家で使うでしょ」
凛は髪を掻き上げた。
「んー、間違いじゃないけどね。贈り物用って言っておいた方が無難よ」
「値段がわかったらよくないの?」
「イリヤ君、金貨一枚の価値は、人それぞれに違うんだよね。
これは普通の人にとって、お皿一枚の値段としては高いってことさ」
「そうなの?」
アーチャーの説明に、イリヤはセラに訊いてみた。
「ですが、あのお皿も日本の物として、我が国のこの社と同等の格式のものですが」
士郎はあんぐり口を開け、我に返るとせわしなく両手を振って否定した。
「へ? ないないない、それはない! あれ、貰いもんだから!」
「ですが、歴史ある有名な窯のものでしたわ。この社の手本となった物ですのに」
「えっ!?」
「ああ、そういえば、私の父もそんなことを言ってたなあ。
ドイツの磁器は、中国や日本の物を手本に絵を模写したけど、
ドイツに柘榴の木がなかったから、タマネギになっちゃったって」
言いながらも、アーチャーの表情は疑わしげだ。
「ザクロがタマネギ? へんなの」
首を傾げるイリヤに、士郎も倣った。
「ああ、でもよく見ると、タマネギから枝が生えてる。変だよな」
真紅と琥珀が見つめあった。
「あ、ホントね、シロウの言うとおりよ!」
頃あいと見た凛は、可愛らしく咳払いした。紅茶好きの彼女は、茶器にも一家言あった。これはヤンと違うところだ。
「アーチャーの雑学と、歴史好きの源がわかった。お父さんの影響だったのね。
その疑問は、アーチャーのお父さんが正しいわよ」
「本当だったのかい?」
「ええ、ブルーオニオンは、本当に柘榴の実だったのよ。
それにしてもあんたのお父さん、相当な骨董マニアだったのね」
眉を寄せて、こめかみを掻く凛に、アーチャーは眉を下げて髪をかき回した。
「いや、私もてっきり与太話だと思ってたんだよ。
形見のコレクションが、一個除いてみんな贋物だったからね。
だが凛もそう言うなら、親父に謝らないといけないな」
当事者二人は買い出しに行き、席を外していた。セラの大人の配慮である。それは素晴らしいと思う。でも、でも!
「だ、だからって、いきすぎだろ。一枚五桁の皿なんて!
やっぱこれ、イリヤ達が使ってくれ。
貰い物が土蔵にまだ沢山あるからさ、な!」
そうして蔵出しされたのが、いかにも結婚式の引き出物っぽい白い皿だ。
「なーんか、カニ玉乗っけるだけじゃ殺風景だな。
でもなんでこう、家で作るとふんわりといかないんだろ」
やや不満の残る出来上がりだ。あんをかけて、これも運んでもらう。
「炒飯も、こう、パラパラッといかないんだよな。
作れない事はないけど、中華って微妙だ……」
最後に冷やご飯を活用した、山盛りの炒飯を二皿。お好みで取り分けてもらおう。白いご飯も炊飯器にスタンバイ。急に増えた人数に、士郎も試行錯誤の最中である。
「じゃあ、みんな、手を合わせてください。いただきます!」
挨拶して、士郎は料理を口に運んだ。
「うーん、七十、いや六十七点ぐらいかなあ……」
「とんでもない、シロウ。今日も素晴らしいです!」
「うん、シロウ。このピラフしっとりしてておいしい。
初めて食べるわ」
「あー、うん、ありがとな、イリヤ。
しっとりしてたら炒飯として駄目なんだけどさ……」
「このオムレツは、重厚で食べ応えがありますね。
具はカニと……マッシュルーム? この歯ごたえのあるものは何でしょう」
「セラさん、それはマッシュルームじゃなくて、シイタケなんだ。
あとタケノコ。でも、ふんわりトロリがカニ玉の理想だよなあ。
やっぱし、中華は難しいな。どっか習いに行こうかな……」
ちょっと不出来な料理でも、大勢で囲む食卓は楽しい。アインツベルンの面々の、鋭い批評交じりの褒め言葉にはグサリとくるけど。
「リ、リズさんはどうだろ?」
無言でスープをかき混ぜるリズに、士郎はおずおずとお伺いを立ててみた。
「これ、みんな逃げてく。……生きてる?」
女性陣が顔色を変え、一斉にスープから身を引いた。
「違う違う! それ春雨! ごめん、フォーク持ってくるから!」
慣れないレンゲに悪戦苦闘し、春雨をすくえないリズ。中華は、世界三大料理って言うじゃないか! なのに、どうしてこうなったんだ!?
自己流による、『もどき』が呼んだ大誤算であった。