「それにしても、養子がやめられるなんて知らなかったわ……」
長い黒髪をかき乱しながら凛は唸った。アーチャーことヤン・ウェンリーは、ブランデー入りの紅茶の湯気を顎にあてながら小首を傾げた。
「一種の盲点だね。
養子縁組は、結婚ほど多くはないし、特に子どもだと大っぴらにはしないものだ。
それに結婚と違って、養子縁組は重複できるんだよ」
「は?」
眉を寄せたのは高校生二人だった。
「養子が婿養子になる場合でも、前の養親との縁組を解消する必要はないんだ。
妻の父母のどちらかが、健在であることが条件だがね。
士郎君がどこかに婿入りする場合、例えば藤村先生と結婚して、
藤村士郎になるとそうなるんじゃないかな」
こちらは緑茶を啜っていた士郎だが、盛大に噎せ返った。アーチャーの隣の凛にまでは被害が及ばなかったが、彼女が眉を顰めるには充分だった。
「やだ、ちょっと汚いじゃない」
咳がおさまり、謝罪と抗議ができたのは、それから百秒も後のことだった。
「う、す、すまん……。アーチャー、そのたとえは勘弁してくれ!」
「ごめん、ごめん。でも他に該当しそうな条件の人がいないもんだから。
具体例があったほうが、ピンと来るだろう?」
士郎は、音がしそうな勢いで、左右に首を振った。
「いや、そんな具体例はなくていい。なくていいぞ!」
「そうかい? ちなみに亡くなった養父母とも離縁できる。
家庭裁判所のお世話になればね」
澄ました顔で紅茶を啜るアーチャーの隣と対面の、翡翠と琥珀がしばし見詰めあった。
「ねえ、遺産相続はまだわかるけど、なんで養子のことまでそんなに詳しいわけ?」
「俺もそう思う。普通、離縁できるなんて知らないだろ」
二色の視線を注がれた漆黒が瞬きをした。
「ああ、私がやろうと思ったことがあったからさ」
「ええっ!?」
すっとんきょうな声を上げる少年とは裏腹に、アーチャーとの会話が多かった凛にはぴんときた。
「ひょっとして、里子の?」
おさまりの悪い黒髪が頷いた。
「うん。恥ずかしながら、私は女性にもてなくってねぇ……」
そういう前振りに、うまい相槌を打てるような話術を高校生に求めないでほしい。凛と士郎は無言になってしまった。
「なかなか恋人もできないし、いつ戦死してもおかしくないし、
そうしたら遺産は顔も見たことがない親族にいっちゃうわけさ。
あの子の面倒を見るどころか、私が面倒を見てもらっていたのに。
不公平だろう?」
更に難易度の高い言葉が続いた。
「う、そ、それは……」
口ごもる凛の脳裏に、彼の寝言が閃く。
『――ユリアン』
アーチャーはゆっくりと頷いた。
「君達よりひとつ上になるのかな。
彼が十二歳の時に、私のところにやって来たんだ。
あの頃は小さくって、引き摺っていたスーツケースの方が大きいぐらいだった。
とてもいい子だったよ。賢くて優しくて、スポーツも万能。
おまけに美少年で、家事の達人だった。紅茶を淹れるのもとても上手だった」
黒い瞳が、眩しいものを見るように細められた。
「まったくね、天は二物も三物も与えるのかと思ったよ。
でも、それほど優れた子だったから、私なんかの所に来たのさ」
優しくもほろ苦い微笑が、青年の面を彩った。
「戦争が続いて、社会福祉施設も一杯で、軍人の孤児を軍人が引き取ると、
養育費を貸与するという悪法ができたんだ」
「なんでさ、そんなに悪くはないんじゃないか?」
アーチャーの眉宇が鋭角を描き、静かな口調に鋭さが加わる。
「戦争孤児が、みんな適用を受ける法律じゃないんだ。
社会福祉施設の子は対象外だ。
そうならなかったのは、あの子が優秀だったからだ。
借金で縛りつけてでも軍人にしたかったわけさ。
だから先輩は、借金を返せそうな私を里親に選んだのだろう」
「借金ですって? どういうことよ」
「軍人にならないと、借りた養育費は返さなくちゃいけない。
私は独身だし、給料も高い方だから、扶養者控除で元が取れた。
養育費には手をつけずに取っとけるぐらいにね。
しかし、一般の里親は子持ちの夫婦だ。養育費を使わざるを得ないのさ」
「ひどい……」
ソプラノとテノールが一小節の合唱を奏でる。アーチャーは片膝を立てて、腕と顎を乗せた。
「ああ、そうだ。実に非人道的なやり口だ。
おまけに養父母のどちらかは軍人だ。また家族が戦死するかもしれない。
職業選択の自由を奪い、敵国への更なる憎しみを植えつける。
このうえない悪法だよ。こんな法ができるようじゃ、国家として終わりさ。
実際に終わりを迎えたがね。予言の成就を誇れやしないが」
困り果てた少年少女に、青年は頭を掻いた。
「いや、そいつは措いとこう。今はない国のことだ。
個人レベルに話を戻すが、私は親が急に死んで、えらく困ったものだ。
彼をそんな目に遭わせたくはなかった。
幸い借金もないし、あの子と養子縁組をしとこうかなと思ったんだよ。
貰うものを貰ったら、元の名字に戻すこともできるしね」
彼の知識には、実に重い裏打ちがあったのだった。
「ねえ、アーチャー。その人を養子にできたの?」
黒髪が振られた。
「いやあ、それこそ家庭裁判所がうんと言ってくれないんだよ。
独り者だし、いつ戦死してもおかしくない軍人だ。
だから養子にしたいと思うのに、融通が利かないったらありゃしない。
例の先輩は、ますます嫁がこなくなるから、止めとけだとさ。
そんなこと言われたって、婚姻届は死亡届と違って、一人じゃ出せないんだよ。
そのかわり、死亡は自分で届出しなくていいけどさ。というか出来ないなあ」
凛は座卓に拳を振りおろした。重々しい打撃音に士郎はびくりとした。普通の女の子の華奢な拳が出せる音じゃなかった。この主従、絶対にマスターの方が腕っ節が強いと思う。口以外の攻撃力もだが。
「やめてちょうだい、その真っ黒いジョーク。
これ以上口にするなら、禁止のためには令呪の使用も辞さないわよ」
「残念ながら事実なんだがね……。死んだから召喚に応じられたんだよ」
フォローも突っ込みもできない。障害物を避けたら、落とし穴にはまり、底に地雷が埋まってる。
「ご、ごめんなさい……。ああもう、そんな微妙なこと聞くんじゃなかった。
私が悪かったわよ」
口下手な士郎は、師匠の言葉に頷き続けるしかない。
「まあまあ、これには続きがあるんだよ。あの子は軍人を目指してしまってね。
私はできれば諦めさせたくて、部下の腕利きのパイロットや
陸戦隊員の弟子にしたんだ。
どちらも、我が国一の技量の主だ。
厳しい訓練を受ければ、考え直すかなと思ってさ」
「あんたって、おとなしい顔で、しれっとえげつないことやるわよね……」
「私の影響で、軍人になってほしくなかったんだよ。
つまるところ、人を殺せば殺すほど出世する職業なんだから」
溜息を吐きながら、紅茶を啜る戦争嫌いの不良軍人だった。
「士郎君のおとうさんの気持ちも、私にはわかるような気がするんだ。
彼は、君に魔術を学んで欲しくなかったんじゃないかって。
痛い思いをして、さっぱり上達しなければ、嫌になるんじゃないかとね」
「え、じいさんが……!?」
「これは私の経験からの憶測だけどね。ジレンマなんだよなあ。
嫌いなことでも、飯の種になるほど得意なわけで、
私が教えられることはそれぐらいなんだ。
共通の話題にもなる。情けない話だが」
言われてみると、思い当たることが多々ある。アーチャーは、衛宮士郎から衛宮切嗣となった存在でもあったのだ。掌を指すかのような洞察も、全部彼自身の経験なのかも知れない。
「ただ、子どもというのは、大人のケチな目論見をやすやすと超えてしまうんだ。
私の里子は優秀だった。どれにも望外の成果をあげてしまってね。
十六歳で少尉に昇進して、遠い半敵地に赴任ときたもんだ」
思い出してヤンは腹が立ってきた。不機嫌な顔でベレーを脱ぐと、両手で締め上げる。雑巾を絞る手つきじゃない。扼殺する握り方だ。掃除好きの少年は、いち早くそれに気付いた。
「と、遠坂ぁ……」
青褪めた弟子から哀願の眼差しを送られて、凛は黒い袖を引っ張った。
「よその茶の間で、そういうことするんじゃないわよ。
せめて霊体化して、見えないようにやりなさい」
「それもやめてくれ! 見えない状態でそうしてると思うと余計怖いだろ!
うちではやっちゃダメだ!」
「ああ、これは失礼。ついつい癖で」
なんて気の毒なベレーだろうか。まだ鷲掴みされたまんまだ。
「士官になると、私の保護を外れる。余計に養子は難しくなった。
しかし、当時副官だった私の妻は、法律に詳しかったんだよ。
私が悩んでいると、相続税がかからない範囲で生前贈与して、
相続人として遺言で指定しておけばいいと教えてくれた。
いいタイミングで餞別になったよ」
「そ、そう……」
それもやるせない解決法だった。しかし、アーチャーにとっては名案だったようなのが、また何とも言えない。百五十年も戦争が続く世界の人間の考え方なのだろうか。
『
アーチャーは、常にそれを念頭に置いて動いている。
父のことを思い起こし、肩を落とす凛だった。いくら弟子だって、あの後見人の選択はない。陰険な性格破綻者だし、財産管理はおざなりだし、小学校の授業参観、級友が泣き出したものだ。自分は気をつけよう。この戦争を生き抜くのが最初の超難関だけど。
「そうさ。このように、いくつも方法があるんだよ。
一つのやり方で駄目だったら、他のやり方を考えてみればいい。
自分で出来ないなら、他の人の知恵や力を借りればいい。
桜君が今日、凛の二つ下になったということなら、十五歳だろう?
彼女が望むなら、養子離縁の届け出は自分でできるんだよ。面倒だけどね。
そのへんも、この戦争を通じて交渉できるかもしれない」
見開かれた翡翠と琥珀に、黒曜石が微笑む。はたと士郎は気付いた。
「あ、遠坂、今日誕生日だったんだ……。ゴメン、知らなかった。
もうあと二時間ぐらいしかないけど、その、お誕生日おめでとう」
凛の白皙の頬に、突如としてセーターの真紅が照り映えたかのようだった。彼女は口ごもりながら祝福に応えた。
「あ、うん、ありがとう、えみ、え、えーと士郎……」
士郎の頬を染めた朱を、夕日色の髪のせいにするには少々無理があっただろうか。