宝玉と鋼の色が見守る中、言峰の口から低い笑いが漏れた。
「生きているから、か……」
「率直に言って、羨ましい限りです。
この日本は、人類史上、稀に見る平和で豊かな国だ。
できるものなら、私もこんな時代に生まれたかった」
言峰の胸に歪んだ歓喜が沸き起こる。飄々として、捉えどころのない未来の英霊が吐露した内心だった。この男の傷を開いてやりたい。
「それが貴様の望みか? 叶うぞ、アーチャー。
聖杯に望むまでもなく、貴様には資格がある。
『この世全ての悪』を飲み込んだ貴様には!」
返答には、一拍の間があった。
「――英雄王のように?」
言峰は笑いを浮かべて頷いた。笑顔というには、なんとも陰鬱なものだったが。
「そうとも。聖杯の泥は生者を焼いたが、死者を蘇らせた。
ギルガメッシュは肉体を得た。貴様にも可能性はある。
あとは生贄を捧げるだけだ。今の貴様には容易かろう。
ただし――」
「……ただし?」
「それ以上魔力を費やし、大聖杯を破壊しても、出来るかはわからんな」
ヒューベリオンの指揮卓の上で、ヤンは髪をかき回した。
「ひょっとして、私は誘惑されているのかな?
手を引き、味方殺しをすれば、受肉できるって」
「ひょっとしなくてもそうでしょう」
月から響く低音の呆れ声。
「だから、マスターの後見人と遠慮せず、さっさとやってしまえば良かったのですよ」
「いや、しかしね……」
反駁しかけたヤンを遮るように、雷光が放たれた。エアを相殺したものよりはずっと細いが、言峰とギルガメッシュを割るように地を叩く。
「くっ!」
網膜を灼く白光に、ギルガメッシュは顔を庇った。宝物庫を開けようとして、すかさず牽制されたのである。
「私が受肉したら、君たちや『彼』はどうなるんだ?」
「英雄王の宝具のような塩梅になるのでは?」
朗々とした副参謀長の声に、ヤンはベレーを揉みしだいた。
「冗談じゃないぞ。武器ならまだしも、この兵員をどうすればいいんだ?」
「艦隊とイゼルローンもお忘れなきよう」
シェーンコップも、さすがに今回は煽動しなかった。
「閣下のマスターは、なかなか将来有望なレディですが、
こればかりはいかんともしがたいでしょうな」
「まったくだ」
ヤンは足を組み直し、溜め息混じりに告げた。
「夢見ていた平和な世界ですが、私たちの存在が争いの火種になりかねない。
ここに私の居場所はありません。
戦争ばかりでしたが、この光景が私たちの生きた場所です」
永遠の夜に浮かぶ星征く船と、美しく無慈悲な白の女王。これこそが、ヤン・ウェンリーたちの
「私たちには、もう戻れませんが。だからこそ、あなたに無駄にしてほしくない。
あなたは、加害者であると同時に被害者でもあります。
きちんとした手段で償い、償われるべきです。
聖杯戦争に頼らずとも、可能なことです」
凛は、詰めていた息を吐き出した。情理に富んだ、いつものアーチャーの論調だった。いくら念じても反応がなく、これまでと打って変わった戦いぶりに、『この世全ての悪』のせいではないかと疑っていたのである。
そう口にすると、士郎とランサーは手や首を振った。
「や、遠坂。もうこれ、説得じゃない」
「応よ。得物を突きつけて、降伏しろ、さもなくば殺すと言ってるんだ」
凛が見回すと、セイバーまでこくこくと頷いているではないか。
「たしかに。彼は勝算のない戦いはしないと言っていましたね。
これが真相だったとは、なんと容赦のない……」
ライダーががっくりと肩を落とした。
「……では私は、銃しかなくても勝てると思われたわけですか……」
その滑らかな肩を、ランサーが叩いた。
「そう気に病むなよ。俺なんざ、三度は嵌められたんだぜ」
鼻に皺を寄せるケルトの大英雄に、士郎は頬を掻き、イリヤは肩を竦めた。同情すべき点はあるが、二人が読んだクー・フーリンの伝説によると、自業自得は否めない。
「やっぱさ、ランサーのアレ、食い合せが悪いんじゃあ……」
「わたしもシロウに賛成よ」
犬を食べないと誓っておいて、目下からの夕食の誘いを断らないというのは無理がある。一国の王の甥っ子で、父親は光の神。大多数の人間は、彼よりも身分が低いのだが……。
「うるせ!」
またも赤毛を小突かれる士郎だった。
「あた! でも、食い放題、楽しんでたじゃないか」
「……ま、まあな。ありゃ、伝説の常若の国の宴以上だろうぜ。
奴の部下とは、望みどおり全力の戦いができたしなあ。
だからあの野郎は憎めねえんだけどよ」
ライダーはランサーの手を払い落とし、眉を吊り上げた。
「私がようやく解凍されて、シンジの血で我慢していた時に、
あなたは酒池肉林の宴ですか。なんという差でしょうか!?」
こんなことで仲間割れされては困る。セイバーは慌ててライダーを慰めた。
「い、いえ! 確かに、量も質も申し分ありませんでしたが、
サクラのきめ細やかな料理のほうが更に上です!」
凛も同意した。
「そうでしょう。わたしの自慢の妹なんだもの」
二人のやりとりに、ライダーの完璧な形の唇がいとも美しく綻んだ。
「リン、その言葉は、サクラに直接伝えてあげてください。
セイバーも。私も、サクラに伝えたいことがあるんです」
ここから皆で無事に帰還するという意志の表明だった。身長も、髪の色もまちまちな面々が一斉に頷いた。
「ではどうする? ここで戦いの結末を見届けるか、ここから退き、備えをするか」
ランサーが凛を見据える。凛はほっそりとした手を握り締めた。
「アーチャーを置いていけないわ。あいつを戦わせているわたしの責任だもの。
いざとなったら、令呪を使わなくちゃならないし」
ランサーは莞爾と微笑んだ。
「見上げた心意気だな、嬢ちゃん」
その笑みがすぐ真顔に変わる。
「だが、あれほどの宝具、そう長くは展開できんだろう。
あの広間が崩れりゃ、ここも無事では済まん。
俺たちには霊体化する手があるが、無理な連中は外で待ったほうがいい」
ランサーは退避を促した。
「結末は俺が見届けてやる。気にすんな、キャスターの仰せだ。
それにあの外道神父には、俺にも貸しがある」
落盤以外にも問題があるのだ。アーチャーが勝てなければ、残りのサーヴァントが言峰主従と戦うことになる。彼らの宝具は、この固有結界ほどに堅牢ではなく、さらに周囲に危険を振りまくだろう。
察しないわけはなかろうに、長い黒髪が左右に振られた。
「それだけじゃないわ。あいつ、目を離すと、何をしでかすかわからないでしょ?」
「おう……」
魔術師の異称のとおり、意表を突いてくるのだ。
「戦いに関しては、綺礼よりよっぽどえげつないのよ!」
凛の激白に、一同は顔を見合わせ、深く深く頷いた。ここにいる面々は、アーチャーの被害者の会に入る資格がある。敵対すれば容赦なく嵌められ、味方であっても出し抜けに心を抉ってくる。
凛もなにかと痛いことを言われたし、士郎にイリヤ、セイバーも例外ではなかった。丈高い銀髪の主は、小さく咳払いした。
「仕方がなかろうよ。彼の国は劣勢で、あの艦隊が最後の兵力だった。
後がないから、どんな手を尽くしても負けられない。彼の不敗は、そういう意味だ」
凛は、整然と隊列を組んだ星の群れを透かし見ようとした。あのどれかが、星々を率いる
「……あいつね、二言目には戦いを嫌がるし、
大体寝てるか、お茶を啜りながらゴロゴロして……。
勝てない戦いをするぐらいなら、逃げるって言ってたのに……」
「それは嘘ではないが、真実でもないんだ」
褐色の口元がほろ苦い笑みを浮かべる。
「本音ではあるだろうがね。
この平和な時代、よほどに戦いたくなかったんだろうが……」
聖杯戦争の歴史を紐解き、少年少女らに遺してきた被保護者を重ねて、様々なことを教えて、自らの力で歩むことを考えさせた。エミヤの紅茶に黒い瞳を細め、ランサーやセイバーの武勇伝に輝かせ、ギリシャの美女二人には、若干及び腰で、でも礼儀正しく接していた。
そんな姿しか、凛たちは目にしていないのだろう。戦場での本当の姿を、見せたくなかったに違いない。
だから、四度目の忠告に及んだのだろう。
「聖杯戦争に関わったばかりに父と友人を失い、
さらには無辜の孤児を犠牲にして、あなたが何かを得たようには思えません」
「得たものならあるとも。
私はギルガメッシュに、愉悦を追うことを教えられ、
快や美を見つけることができた。人とは、いささか違うところにあったがね。
私は、不幸や醜に快や美を見つけたのだ」
「……それは、本当にあなた自身の感情ですか?」
アーチャーは疑問を返した。
「人の心は、自らを守るために、思いがけない働きをします。
肉親を亡くし、精神的な支柱を失ったとき、
その存在を忘却したり、他者の考えを自分のもののように思い込んだりもする」
ふたりの士郎は目を瞠った。唇を引き結び、固く拳を握る。まるで、大きさの異なる
アーチャーは、言峰も士郎の反転だと言っているのではないか。
「偉そうなことを言いましたが、私は素人です。
こうしたことも、警察に自首すれば、きっと無料でやってくれるでしょう」
「どういう意味だ?」
「精神鑑定というやつですよ。
あなたの悩みに、古代人の王よりは現実的な答えが出ると思うんですが」
口調は柔らかいが、強烈な毒舌だった。さすがの言峰も鼻白む。
「……狂人扱いとはな。貴様も存外凡人のようだ。
そうまでして、ここで殺されるよりもましと言う気かね?」
「生きているかぎり、可能性があるからです。
あなたの心は、他人の不幸で満たされるようですが、
いつか、変わる日が来るかもしれない」
「詭弁だな」
物心ついて以来、言峰は二十年以上も葛藤にもがき続けていたのだ。楽観論が過ぎると言わざるを得ない。
「だが、どんなにわずかでも可能性があるから、私は戦ってきた。
死ねばゼロになってしまう。死なないために等価の命を奪い合う。
欲しいものは平和だったのに」
アーチャーはぽつりと続けた。
「ここは、私たちが五百年追い求め、届かなかった理想郷のような時代です。
私の世界の歴史では、四半世紀後に失われてしまった平和です」
――『異世界』とはこのことか。言峰もギルガメッシュも、はっと星空を振り仰いだ。凛も、皆も同じ動作をした。
「全面核戦争が勃発し、地球人口の九割以上が死滅。
生き残った人類は、核の冬の中で、残された僅かな資源を争い、
百年近くも戦乱が続く。
そんなに不幸が好きなら、生き残って体験したらいかがです?
我が身に降りかかって、楽しいかどうかは知りませんが」
凛は呻いた。
「え、ここでそれを言うわけ!?」
言峰の誘惑へ、ヤンの答えは辛辣だった。
「この子たちは、こんな戦いにうつつを抜かしている場合ではないんです。
きちんと学び、大人になって、社会を担っていかなくてはならない。
私にとっての過去が訪れないように、自らの責任でよりよい選択ができるように」
言峰の胸に、落胆と愉悦が同時に広がった。心の傷を開くもなにも、この男は満身創痍を自覚し、聖杯戦争を越えた先を見ていた。破滅の予言を携えて。しかし、まだ終わりではない。
「これにも、魔術も聖杯もサーヴァントもいりません。
私の望みは、この子たちが戦場に立つことなく、幸せに暮らすことです」
あの子には、叶えてあげられなかった見果てぬ夢。
「これで、話は終わりにしましょう。どうなさいますか?」
言峰は右手を掲げた。
「先のことは、貴様の願いを砕いてから考えることにしよう。
――令呪に告げる。ギルガメッシュ、全力を以って宝具を開放せよ」
言峰の令呪の、最後の一角が弾け飛んだ。満身創痍のギルガメッシュに魔力が横溢する。
「天地乖離す……」
冬の夜空のように澄んだ声が、結界を超えて響いた。
「令呪に告げる。アーチャー、全力で宝具を使って!」
円から放たれた矢が弾け飛ぶ。――そして。
「ありがとう、凛。みんな、危ないから逃げなさい」
月が続けざまに凄まじい輝きを放った。星々からは、光が滝のように雪崩落ちる。先ほどまでの戦いは、まだまだ全力ではなかったのか。
これは、ヤン・ウェンリーの戦いの、ごく僅かな規模の再現だった。それでも、サーヴァントとしての分を超えた力だ。通路にまで震動が伝わり始めた。結界が綻びつつある。
「遠坂!」
立ち尽くす凛の右手を、士郎は左手で引っ張った。右手はイリヤに繋がれている。
「ここにいたら危ない。きっとアーチャーも全力を出せないぞ」
「……わかってるわ」
「ここにいても、俺たちにはなにもできない。
でも、俺考えたんだ。遠坂とセイバーにも手伝って欲しい」
凛は士郎の顔を見つめた。真摯な眼差しだった。セイバーに鞘を返したときの、イリヤに鞘を使ったときと同じ。誰かを助けるために、ひたすらに考え抜く者の顔をしていた。
「俺たちでアーチャーを助けるんだ」
凛はもう一度、架空の夜空を見上げると、何かを振り切るように踵を返し、走りだした。肩越しに最後の命令を発しながら。
「必ず勝って! ちゃんと帰って来るのよ!」
最後の一角、中央の円が消えた。これでアーチャーを縛るものはなくなった。『この世全ての悪』を取り込み、英雄王以上の脅威が誕生したのかもしれない。
それでも。
「つぎ込んだ財産の分、最後まで働いて貰うんだから!」