ギルガメッシュは後退を余儀なくされていた。いつしか、背後に洞窟の入口が迫る。彼のマスターに至っては、入口の壁で身を支えていた。無表情に右腕を押さえている。闇に紛れても、はっきりと顔色が悪くなっているのを、凛は見て取った。
成功したのだ。この数日、苦心惨憺して考え抜いた魔術が。それは、苦みを伴う成功でもあった。
「――降伏しなさい、綺礼」
夜の底に、澄んだ声が響く。
「サーヴァントとの契約を破棄し、リタイヤしなさい。
監視役が機能していないから、代わりに警察に自首してちょうだい。
魔術協会や聖堂教会の粛清よりはましでしょう」
凛の勧告にも、言峰は悠然たる様子を崩さなかった。
「私の罪だと?」
「教会の子どもたちの監禁と虐待よ。あとは、お父様の殺人容疑」
「ほう、おまえも衛宮士郎のように私を疑うのか?」
翡翠の瞳が冷気が降りた。
「ええ、疑ってた。今ので決定的になったわ。
どう? 私なりに再現した、衛宮切嗣の魔術は。ちょっと、アレンジしてあるけど」
「――なに?」
言峰主従のラインに、キャスターが掛けておいた魔術。凛はそれを利用して、英雄王を介して、言峰への攻撃を試みたのだった。
狙いは委託令呪の排除だ。他者から入手した令呪は、本人の魔術回路から独立している。英雄王本来の令呪と、若干の違いはあるだろう。凛とキャスターはそう推測した。
間桐の文献を引っくり返し、時計塔の講師に情報をせっついて、神代の魔女が監修を加えた。使用できる
ぶっつけ本番。だが、凛は、アーチャーに相応しいマスターなのだ。才能に加えて、強運と勝負強さを併せ持っている。術は見事に成功し、狙いどおり標的を射抜いた。
英雄王への一撃は、ラインを伝って言峰に襲い掛かり、彼が励起した魔力回路とは独立した委託令呪を削り取った。
いけ好かない鉄面皮が、一瞬だけ驚愕に歪み、すぐに無表情に戻った。だが、凛にはそれで充分だった。
「英雄王はたしかに失敗してはいないわ。
そいつとセイバーが戦っていた時、
お父様と衛宮切嗣は戦ってなんかいないんだから」
セイバーが答えるよりも早く、言峰が疑問の声を上げた。
「セイバーの言を、どうしておまえが知っている?」
ギルガメッシュが激発した時、凛はまだ到着していない。凛の指が両耳に触れ、小型のイヤホンを外す。
「……ふむ、そういうことか」
「ええ、そういうことよ。こういううやり方も真似てみたわ。
エルメロイ二世から伺ってね」
「エルメロイだと?」
予想外の人名に、言峰は表情を改めた。
「その男は、衛宮切嗣が殺したランサーのマスターだ」
「そっちは一世。二世はライダーのマスターのほうよ。
さすがに覚えてるでしょ、英雄王さん。
彼もね、今は時計塔の講師なの」
凛は、コートのポケットから、警察のお知らせを取り出した。紙を広げ、女性の似顔絵を二人に向ける。
「これを送ってたら、上から対応役を押し付けられたんですって。
でも、色々と教えて下さったわ。
アサシン、キャスター、ランサーの脱落後に、
征服王と英雄王が戦った時、お父様の姿は見ていないって」
冷え冷えとした視線が、ギルガメッシュに向けられた。
「嘘じゃないと思うわ。
セイバーも、あなたが誰のサーヴァントか知らなかったもの。
単独行動スキルを活かす戦術だけど、
そうすると辻褄が合わなくなる」
赤いコートが地に落ちた。凛が脱ぎ捨てたのだ。実に自然で優雅な所作で、敵の視線も釘付けにする。凛は、セーターの左袖をまくり上げた。
現れたのは、抜けるように白い肌だった。セーターの袖の赤、魔術刻印の蒼白い線画。どこか例の万暦赤絵にも似ている、遠坂家五代の魔道の結晶。
「どうして、これがわたしに伝わったのか。
あなたとセイバーの戦いの直後に、あの一帯は大火災に見舞われた。
お父様がその時に死んでいたら、遺体は焼けてしまったでしょう。
この魔術刻印だって、継承できなかった」
「何が言いたい?」
思いがけない切り口が、ギルガメッシュの手を止めさせた。
「セイバーがあなたと戦っていた間、マスター同士も戦ってたとわたしは思ってる。
お父様が負けて死んでしまったなら、誰が遺体を回収してくれたの?
五百人も亡くなって、一キロ四方が焼け野原になった火元から!」
ギルガメッシュは呆れ顔になった。
「なに今さら……詮無きことだ」
凛が話す間にも傷は癒え、再び財宝の門を開こうとしていた彼を言峰は制した。
「待て、ギルガメッシュ。言わせてみろ」
「綺礼、お父様と一緒に士郎のお父さんと戦ってた?」
言峰は肩を竦めた。
「私が何か言ったところで、おまえは信じるのか?
おまえの考えはどうだ、凛?」
「あんたとお父様が共闘してたら、死んでるのは衛宮切嗣よ。
セイバーの鞘の加護があったとしても」
凛は、士郎の怪我を思い返して語った。バーサーカーに負わされた傷が、瞬く間に治癒した士郎だが、弓道部のいざこざの元になった怪我は、治るまでに相応の日数がかかったそうだ。鞘の加護の発現には、セイバーの現界が必要条件だということだろう。
そして、バーサーカーが負わせたのは瀕死の重傷ではあったが、人体が原型を留めなくなるようなものではなかった。――だが。
「真名開放をしないと、傷は負うのよ。
相手が銃使いなら、きっとお父様は初手から大魔術を使う。
あんたがサポートしてたら、魔術が直撃してるわ」
衛宮切嗣が使う銃よりも、魔術は速度で劣る。しかし誰かの、例えば腕利きの元代行者の援護があれば、その差は簡単に覆る。対人戦闘における二対一の差は、それほどに大きい。
「全身が粉々になって、再生できるとは思えない。
あんたの攻撃なら、復活できなくははなさそうだけど、
それでも二度目の蘇生は無理ね。
どっちかが止めを刺すでしょうから」
言峰は反論しなかった。
「それに疑似的な不死は、セイバーがいなくなれば消えるんだわ。
だって、士郎のお父さん、五年前に亡くなっているんだもの」
士郎は拳を握りしめ、イリヤがその手をそっと包む。
「マスターとサーヴァント、二組の戦いがあったのはほぼ同時刻。
セイバーの戦闘中に、衛宮切嗣は令呪で聖杯を破壊させてる。
直後にセイバーは消滅した。合ってるかしら?」
セイバーは唇を引き結び、頷いた。
「彼が士郎を助けたのは、その直後よ。
鞘の加護が消えるまでの、ほんの短い間だわ」
ランサーが士郎と凛に交互に目を向け、得たりとばかりに頷いた。
「なるほど、そいつが坊主に古傷がねえ理由だな」
「でも、最大の疑問は残ったままよ。
衛宮切嗣が、わたしの父と綺礼、二人を相手にどうやって生き残ったのか。
……二人
生き残ったのは彼だけど、負けたのはお父様じゃないわ」
凛は右手を持ち上げた。ほっそりとした指が前方の一点を指す。
「彼に負けたのはあんたよ、綺礼。
お父様は、ライダーやセイバーと顔を合わせていない。
アサシンはライダーが、キャスターは、セイバーたちみんなで斃してる。
ランサーのマスターは、衛宮切嗣が殺した」
士郎とイリヤは、いつしか手を握り合い、凛の糾弾に聞き入っていた。
「エルメロイ二世から聞いたのよ。死因は銃殺だったって。
でも、魔術回路や刻印まで破壊されてたそうよ。
きっと、銃が衛宮切嗣の礼装だったんだろうとおっしゃっていたわ。
魔術回路や刻印を損なう効果がある、ね」
凛はそれを再現した。父から受け継いだ刻印と、自身の才はもちろん、先達たちの知識と情報抜きには不可能だっただろう。
「衛宮切嗣に負けて死んでいたら、この刻印は継げなかった。
お父様を殺したのは、衛宮切嗣じゃないわ」
「……ほう」
言峰の声が更に低められた。
「衛宮切嗣と戦ったのは、アーチャーのマスターだけれど、遠坂時臣とじゃなかった」
「たしかに今は私のサーヴァントだが、それを以って結論を出すのは早計だな。
いま一騎、バーサーカーの可能性はどうだね?」
もってまわった台詞に、凛は片眉を上げた。
「へえ、バーサーカーねえ……」
「彼だけはあり得ません」
セイバーが言下に否定した。
「彼は私と全力で戦い、魔力切れで消滅しました。
アーチャーと戦っても、同様の結果だったでしょう。
私より先に戦っていたら、私と戦いようもない」
セイバーの体感時間で、まだ一月も経っていない痛みの記憶。最も信頼し、だが裏切った湖の騎士。サーヴァントとして召喚された彼は、心を捨てた狂戦士となって、
セイバーに再び剣を向けた。あの絶望と衝撃を前に、考えることもできなかった。
――だが、今は。
「私との戦いの後なら、なおのこと不可能です。
バーサーカーを失って、どうして英雄王に守られた者を殺せるのです!」
彼女が手にする、聖剣のごとき一刀両断であった。
凛はギルガメッシュをひたと見据えた。
「だ、そうよ。
バーサーカー主従が犯人なら、あんたは救いようのない間抜けってことね」
「……貴様、我が間抜けだと!?」
眦を引きつらせるギルガメッシュを意地悪く観察しつつ、凛は続けた。
「あら、それ以外に聞こえたかしら?」
この問いは、実のところ逆効果でしかなかった。凛たちは、前回の参加者から複数の証言を得ることができたからだ。犯人探しには、消去法を使うのが効果的だ。
話を聞いて、アーチャーが最初に容疑者から外したのはライダー主従。次がバーサーカー主従であった。
「でも、無能者のほうが裏切り者よりはましだわ。
お父様が亡くなったのに、あんたがこうしてここにいること。
この刻印が、わたしにきちんと受け継がれたこと」
この腕に宿る、遠坂時臣の最高の遺産。
「どちらもお父様が市民ホールで戦わなかった証拠よ。
お父様は、もっと前に亡くなってたのね。
たぶん、ライダー戦の前には」
アーチャーと凛は情報の断片を集め、丹念に繋いで、過去を読み解いたのだ。
「色々な情報を繋ぐと、そういうことになる。
だから、お父様を殺して、英雄王と再契約できるチャンスがあるのは、
……言峰綺礼、あんただけなのよ!」
「――見事なものだ。
魔術師ではなく、まるで探偵だな。だが、それが今さら何になる?」
凛は、兄弟子であり、後見人であった男に目をやった。彼の顔ではなく、足元に目を落として、もう一度降伏を勧告する。
「あんたに、裁きを受けさせることはできるわ。
さっきも言ったけれど、英雄王を自害させて、警察に自首してもらえない?」
言峰は失笑した。
「おまえらしくないな、凛。
仇を前にしたら、復讐を考えるのがおまえだろうに」
凛はさらに俯いた。暴れ狂う内心を押さえながら、声を絞り出す。
「あんたには、わたし以外にも償うべき相手がいる。
……この十年、あんたにはそれなりに世話になったわね。
あんたのお陰だけじゃないけど、わたしは決して不幸じゃなかった」
誕生日に繰り返して贈られる、同じデザインの、ぴったりサイズの合った服。どんな成績を取ろうが無関心なくせに、きちんと納められる学費。後見人の義務を果たしているだけかもしれない。だが実の親といえども、心を壊した葵には出来なかったことだった。
凛は勢いよく顔を上げた。
「それと同じ間、あの子たちはどんな目に遭ってた?
そう考えると堪らなくなるの」
――戦いを重ね、勝ち進むたびに、増えていく敵味方の死者。死者に数倍するだろう遺族の悲嘆。寝付けぬ夜が続き、紅茶とブランデーの割合が徐々に逆転していく。
凛が夢で垣間見た、アーチャーのもう一つの戦いだった。人の心を誰よりも読み解けるからこそ、誰よりも強く、多くの人を殺せる。
ずっとささやかだけれど、凛は彼と同じジレンマを味わった。第四次聖杯戦争の謎に迫るために、死者に問いかけては、自らの思考で内側から突き刺されるのだ。
「あんたを殺したら、あんたの家族もわたしに同じことを思うでしょう。
そんなの真っ平よ!」
「……なるほど、おまえの言い分は理解した。だが、我々がそれに従うと思うかね?」
「思わないわ。だから、そうしたほうがいい状況を作ることにしたの。
あんたたちの行動が読めるなら、先回りなんて簡単だと思わない?」
凛は、耳から抜いたイヤホンのコードをくるくると回した。
言峰は眉を顰めた。学校に行くふりをした士郎たちには、充分な時間があった。たしかに、盗聴器の設置もできたろう。言峰らを呼び止めたのが、盗聴器を仕掛けた地点だったのだ。
奇術師が、客の選ぶカードを巧みにコントロールするようなものだ。現代戦に適応し、精通した、衛宮切嗣を思わせる戦法だった。
だが、実子の魔術師にも、養子の高校生にも出来るとは思えない。可能な者がいるとすれば……。
言峰は左右に目を走らせた。いるべき者がいない。
「凛、おまえのアーチャーはどうした」
桜色の唇が、上弦の月を形作る。
「なんのための単独行動スキルだと思ってるの?
朝からここにいたのは、士郎たちだけじゃないわ」
細く形のよい顎が言峰を指した。
「というか、あんたたちをここに来るようにしたのよ」
いや、正しくは言峰の背後。闇の奥にある大聖杯。言峰は肩を揺らし、低く笑い声を上げた。
「ほう、なかなか威勢がいいな。ハッタリだとしても立派なものだ」
聖杯に蟠る黒い泥は、サーヴァントにとって致死の毒。
「おまえのアーチャーは、たしかに賢い男だ。
この前の戦いで、それぐらいは見抜いているだろう。
わざわざ危険を冒すとは思えんのだよ」
凛は髪を掻き上げ、艶然と微笑んだ。
「あら、信じないわけ? ま、無理もないわよね。
あんたたちを追い詰めてるのは、わたしたちより警察だものね」
ギルガメッシュの眉が吊り上がったが、凛は無視して続けた。これはマスター同士の交渉だ。兄弟子の力量を凛はよく知っている。魔力の量は魔術師としては平均的。亡き父に及んでいない。その父が呼んだ英雄王を、委託令呪ぬきで使役し、戦い続けるのはもう限界だろう。
「でもね、わたしのアーチャーはあんたの言うとおり賢いの。
だから生前の反省点を改善するわけなのよ」
長い睫毛の下で、翡翠が意味ありげに煌めいた。
「……どういう意味だ、凛」
「アーチャーに言わせると、いくら戦場で勝ってても、
最重要拠点を落とされたら負けなんですって。
あいつの国は、戦力が足りなかったからそれで負けたの。
敵国の親玉を叩きのめす寸前に、その部下に首都を攻められたってね」
凛は飛び切り人の悪い笑みを浮かべた。
「今はせっかく人手があるから、自分でやってみたいんですって」