3
――――べちゃり。
何か水っぽいものが弾けたような音が
たらたらと滴るアイスクリームを掌で拭う。彼女の視線は正面の少年に向けられたまま、どこまでも無表情だった。船室の壁にもたれかかるロックの胃がキリキリと悲鳴を上げている。このままではいつ彼女のカトラスが抜かれるか分からない。そうなる前に彼女を羽交い絞めにしたほうがいいのだろうか。そんな思考を巡らせていたら、先手をレヴィに取られてしまった。
「……オーライ、お前がとびっきりの死にたがりだってことはよく分かったよ」
言いながら、レヴィはショルダーホルスタに収められたカトラスへと手を伸ばす。それを見て慌てて彼女を拘束するロックだが、どうやらアイスクリームを投げ付けた張本人はレヴィの動きにも全く恐怖を抱いていないようだった。レヴィから視線を逸らさず、まっすぐに見据えている。
「ふん、騙されないぞ僕は! さっさと船から降ろせよ悪党!」
「口だけは達者なようだなぁお坊ちゃん。その口から無様に悲鳴が上がるまで、あたしは的当てすればいいのか?」
「待て待てレヴィ! 子供相手だ、本気になるな!」
銃口を少年に突き付ける寸前でロックは彼女を後ろから羽交い絞めにした。その際鼻をくすぐった甘い匂いは果たしてアイスクリームなのか彼女の匂いなのか。
そんなどうでもいいことを考えていたから、ロックはレヴィの言葉を捉えるのに遅れた。
「……ロック、ロック。冗談だよ、離せって」
「あ、あぁ」
「いくらあたしでもこんなガキ相手に顔真っ赤にしたりしねぇよ。ボスに笑われちまう」
手に持っていたカトラスを慣れた手つきでくるくると回転させ、カウボーイよろしくホルスタに収める。
拳銃を収めたレヴィを見てほっと胸を撫で下ろすロックだが、正面に座る少年の警戒は未だ解かれる気配はないようだ。
それも当然かと、ロックは朝方受けた依頼の内容を思い出して腕を組む。
一言で言えば、今回の仕事はこの少年を依頼主のところまで届けることだった。依頼主はマニサレラ・カルテル。ロアナプラで多くの利権を有する『黄金夜会』の一角を担うコロンビア・マフィアだ。そんな大きな組織が少年一人を目的にしていることに違和感を感じないでもないが、所詮ラグーン商会はただの運び屋。余計な詮索をするべきでないことくらいは、悪党見習いのロックも十分に理解していた。
「ロック、あたしは顔洗ってくるからコイツを見張ってろ」
そう言ってレヴィは船室を出て行く。
残されたのは少年とロックの二人きり。運び屋とその商品というなんとも居た堪れないコンビになってしまった。
どうしたものかと思案しながら煙草を取り出すロックに、少年は先程までとは声のトーンを変えて話しかけた。
「あんた、他の連中とは感じが違うね。普通の人みたいだ」
中々鋭い感性をしている。それともまだ馴染めていないだけなのだろうか。
ロックは少年の言葉に首肯した。
「だろうね。俺はまだ悪党見習いってとこなんだ」
「悪党に見習いなんてないと思うけど。悪に手を出した瞬間から、紛うことなき悪党さ」
「手厳しいな」
肺に取り込んだ煙を上に向かって吐き出す。
「俺はロック。君の名前は?」
「悪党に教える名前なんか無いよ」
「かもね。でも相互理解は必要だと思うんだ。一時的とは言えこうして同じ船に乗ってるんだから」
「……ガルシア。ガルシア・ラブレス」
ラブレス。
そのファミリーネームにロックは聞き覚えがあった。
ラブレス家と言えば、南米十三家族にも数えられる大家だ。
「偽名とは関心しないな。つくならもっとマシな嘘をつくべきだ。君は孤児だと聞いているよ」
「マニサレラ・カルテルの連中がそう言ったの? それこそとんでもない大嘘さ。僕は正真正銘、ラブレス家十一代目当主ディエゴ・ラブレスの息子だよ」
他人の言葉を簡単に信用してはいけない。それはロックがこの街にやってきてはじめに覚えたことでもある。
だから今ガルシアと名乗る少年の言葉も真に受けているわけではない。
しかし、ただの少年が南米十三家族の中でも最も落ち目な貴族のことなど知っているだろうか。当主やその息子の名前まで。
嘘をついているのだとすればこの少年は賢い。落ち目の貴族を選んだほうが知名度からいっても真実味が増すからだ。
「……信じてないって顔してるね」
「そりゃあね。いきなり自分は貴族ですなんて言われて素直に納得できる筈がない」
「じゃあどうすれば信じてくれるのさ」
不貞腐れたように膝を抱える少年に、ロックは幾つかの質問をすることにした。
「どうして自分が誘拐されたのか理解しているのかい?」
「カルテルの連中から聞いてるんでしょ?」
「俺の口から話すことは契約違反だからね。君の口から聞かせて欲しい」
「それを話すには僕の家のことから話さなくちゃいけなくなるけど」
「是非」
ロックに促されて、少年はポツポツと語り始める。
自身がこの場に居るに至る。その経緯を。
「ラブレス家はね、確かに裕福じゃなかったさ。でも父や愛犬、それに使用人と協力してなんとかやってきたんだ」
その頃の楽しさを思い出しているのか、少年の表情に曇りは無い。
ロックは咥えていた煙草の火を消して、静かに少年の話に耳を傾ける。
「でもあるとき、あのマフィアたちがやってきたんだ。強引に土地を買い取るためにね」
「何かしたのか?」
「何も。地質調査で
希土類。その言葉が少年の口から出てきたことで、ロックの中で話の信憑性が跳ね上がった。
ラブレス家周辺の土地から、セラミックの定着媒体には欠かせないルテチウムという希土類が出ることをロックは知っていたのだ。そして今の少年の話は、自身の持っている情報とは矛盾しない。
だが、まだ足りない。
横に座る少年が本当にあのラブレスの家の人間であると断定するには、些か情報が少ない。
「希土類か。一体どこでそんな言葉覚えたんだ」
「今はそれは置いておいて。とにかく、それが出るって知った途端奴らは強引に農場を買い取ろうとしたんだ。それでも父は首を縦には振らなかった。だから今僕がここにいる」
「成程、話としてはよく出来てる。よく調べたな」
ロックの言葉に、少年は不服そうに目を細めた。
「まだ信じてくれないんだ」
「完全に信じるなんて不可能だよ。君の言う話だけじゃね」
だからロックは質問を続ける。少年がもしも本当のことを話しているのなら、きっと次の質問にも答えられるだろうと予想して。
「希土類について他に知っていることは?」
その質問に、少年は間断無く答えた。
「うちで出たのはルテチウム。元素番号七十一、セラミックの定着媒体に使われるんだ」
「……もう一つ質問だ。ラブレス家には一匹の犬が飼われてる。それについて知っていることは?」
この質問にも答えられるようであれば、彼がラブレス家の人間であると判断していいとロックは思っていた。
ラブレスの家の場所や当主の名、採掘される希土類は優秀な人間であれば調べることは可能だ。だがその犬の名前はネットに掲載していない。身内の人間しか知らない情報なのだ。因みにロックもその名前までは知らない。いつから飼っているのかと、その犬種のみである。
そんなロックの質問に、少年は。
「疑り深いな、そんなの簡単さ。六年前に家族になった僕の犬の名はラザロ。白い体毛のヴォルピーノ・イタリアーノだ」
4
「……妙だな」
ロックの言葉を聞いて、ダッチは眉根を寄せた。
同じく船内に居たベニーとシャワーを浴びてきたレヴィも一様に難しい表情を浮かべている。
そんな彼らに、ロックは続けた。
「ダッチ、一度港に戻ったほうが良いのかもしれない。カルテルたちは嘘をついている可能性がある」
それはつまるところ、何か良からぬトラブルを抱えている可能性を示唆している。それはダッチも承知していることだろう。判断に迷っているのか、腕を組んで考えているようだ。
嘘をついてまでしてこの少年を手元に置きたがる理由。直ぐに思いつくのは二、三であるが、その中でも特に可能性として高いのは少年が言ったとおり人質としての価値があるからなのだろう。
余計な詮索はしないのが原則だが、依頼主が偽っているというのなら話はまた変わってくる。これは信用の問題であり、カルテルの連中が踏み躙ろうとしているのであればこちらとしてもそれなりの態度を取る必要がある。
「ロック、あのガキから聞き出した話は本当なんだな?」
一分程沈黙を貫いていたダッチが、不意にそう口にした。
その問いかけにロックは一つ頷いて。
「旭日重工にいた頃は資材調達部だったんだ。希土類や希石類はよく知ってる。ラブレスの家のことも全部正しい。南米課の交際資料に家族構成なんかも載ってるから」
それを聞いてダッチは顎に指を添え、再び考え込む仕草を見せた。後方ではベニーも何やら考え事をしているらしいが、唯一レヴィはそんな中でも煙草を燻らせてカトラスを器用に回していた。
カルテルが嘘をついているのだとしても、それがどうしたと言わんばかりに彼女は言う。
「ロック、もしカルテルの奴らが嘘をついていたとして、それが何だってんだ? あたしらは運び屋だ、それなりのプライドはあってもあのガキに向ける同情なんて持ち合わせちゃいないのさ」
「……同情が無いなんて言ったら嘘になる。でも依頼主の嘘が気になるってのは本当なんだ。何か良くないことが起こるような気がする」
ロックが少年へと向ける憐憫をくだらないと吐き捨ててしまうことは容易い。しかし、レヴィはそれをしなかった。彼の姿に、無意識のうちに自身を拾ったあの男を重ねていたのかもしれない。それを否定することなど、今の彼女には出来るはずもなかった。
口を閉ざすレヴィに代わって、方針が決まったのかダッチがポケットから携帯を取り出した。
「一先ずは港へ引き返す。それと保険の意味も兼ねてバラライカに連絡を入れる」
ラグーン号の方向を変えて、ロアナプラへと進路を取る。
緩やかに速度を上げ始めたところで、はたとロックは気が付いた。いや、思い出した。
そういえば一つ、ダッチに伝え忘れていたことがあったのだ。
「ダッチ、もう一ついいかな」
「ん、なんだロック」
「ラブレスの家のことなんだけど」
そこで一旦言葉を切って、ロックは続きを口にする。
「そこの女中、なんでも相当強いらしいんだ」
4
「分かったわダッチ。うちでもマニサレラ絡みで一つ仕事があったの、タイミングが良かったわね」
『すまねえな。なるべく事を荒立てないようにしてくれ』
「それは無理な相談だわ。それにこの件については私たちだけじゃないの。ウェイバーも一枚噛んでるのよ」
『……マジか』
「そ。だから下手するとハリケーンみたいに荒立つかもね」
それだけ言って通話を終えると、バラライカは手元に揃えてあった資料に視線を落とした。その資料に同じ室内にいた部下である男も目を通す。
葉巻を咥えるバラライカの表情は、先程までのダッチとの会話の時とは打って変わって険しいものだった。眉間に皺が寄っていくのを自覚してしまうほどに。
その資料は今しがた、部下に調べさせたラブレスの家に関連するものだ。
家族構成や貴族としての功績などが一面に記載されている。だがバラライカが見つめているのはそれらではない。一枚の写真だ。そこにはラブレスの家の人間たちであろう数名の人間たちが写っている。
その中の一人を、彼女はじっと見つめていた。
「気に入らんな」
煙を吐き出して、バラライカは呟く。
「同志軍曹、コイツをどう思う」
問われた男は一度その人間、もっと言えばその目を見て答えた。
「……
「正解だ軍曹。しかもこいつはとびきりの狂犬ときてる」
「それを知っていてあの男はこの件に出張ってきたのでしょうか」
軍曹の言うあの男とは言うまでもなくウェイバーのことだ。
ウェイバーはいつもふらりと重要な案件の重要な場面に現れる。偶然を装い、事も無げに核心を突いて事態の収拾を図るのだ。今回のマニサレラ・カルテルの一件も、どこから聞きつけたのかは知らないが一人息子を救おうとでも考えているのだろうか。
この街に居る以上はウェイバーも立派な悪党だ。それはもう一等の。
しかし、彼は何処かに甘さを残している。レヴィを手元に置いた時のような、冷酷な反面人としての優しさとでも言うのか。
そこまで考えて、いや違うな、とバラライカは首を振る。
「それさえもそう見せている、か」
「大尉?」
「独り言だ。アイツの動きは私も予想がつかん、何を仕出かすか分かったものじゃない」
もう一度バラライカは手元の写真に視線を落とす。
件の女の目は、冷酷なウェイバーが向けるときのものと酷似していた。
5
このロアナプラの街に、俺が行きつけだと言える酒場はほんの僅かしか存在しない。
別に俺は酒に煩いわけでも無ければ店内で好き好んで暴れまわる様なアウトローでもないつもりだが、どういうわけか殆どの酒場の店主たちは鬼でも見るかのような目で頑なに首を横に振るのだ。出入り禁止にはなっていないものの、そんな店主たちの顔を見るのが気まずく自然とそうした酒場に足を運ぶ機会は少なくなっていった。
そうした中で、俺に気兼ねなく接してくれるバオの営むイエローフラッグは数少ない行きつけの酒場の一つだった。いや、最初は他の店主のように顔を引き攣らせたりもしていたが、レヴィや俺なんかが酒場を壊滅状態に追い込んでいるうちに自然とああした態度へと変わっていったのだ。
俺としてもお堅い雰囲気は好きではないのでそれは助かる。あの酒場の静かな雰囲気は嫌いではないが、酒場ならある程度の活気はあって然るべきだ。
今日も今日とて静かなイエローフラッグで、俺はバオに出された酒を飲む。銘柄なんて気にしないので、カウンターに置いてある適当な瓶をグラスと一緒に貰うのだ。ラベルにはアルコールの度数がそれなりに高いことが書かれているようだが、肝臓には自信があるし酔いも顔には出ない。酔わないわけではないが、レヴィやエダなんかよりは飲めると自負している。
因みに今俺の手元にあるのはノッキーン・ポチーンだ。氷の入ったグラスに注いで、そのまま一息に飲み干す。
「……常々思うんだがよ、それ一瓶数十分で空けんのお前さんだけだぞ」
「そうか? 飲み易いしオススメだぞ?」
「度数九十の酒平然と呷ってるお前の言葉なんざ信じられるか」
酒場の店主がそんなこと言うのかと思わないでもないが、とりあえずは酒をとグラスを呷る。
いやはや仕事終わりの酒はどうしてこんなにも美味いのだろうか。今日は大した仕事はしていないけれど。
呆れ顔のバオは放っておいて、一人黙々とグラスを傾ける。
手元の瓶の中身が半分程となり、そろそろ新しい瓶を選び出そうかと視線をカウンターの奥に向け始めた時だった。
イエローフラッグの入口から、カラカラとスーツケースを運ぶ音が聞こえてきた。
他の客たちは入ってきた人物を眺めているようだったが、カウンター席は入口の正面にあるため、背中を向けた俺からではその人物を窺い知ることは出来ない。今となってはもう実感することは殆ど無い日本人の美徳とでもいうのだろうか、不躾にならないようそのままの体勢で酒を飲み続ける。
入ってきた人物は俺の二つ隣のカウンターに座った。
ここへきてようやく、俺はそれが女であることを知った。
まず目を引くのがメイド服。この街ではまずお目にかかることのない服装だ。肌の色からしてヒスパニック系だろうか、アイスブルーの瞳と三つ編みにした黒髪、そして眼鏡が特徴的な女だ。
なんだろう、どこかで見たことがあるような気がする。消えかけの原作の中に出てきたキャラクターだったりするのだろうか。今となっては思い出すことも難しくなってしまったあの物語の中の人物であれば、俺の記憶の片隅に残っていても不思議ではないが。
その女はカウンター席に着いたまま、何も注文しようとはしない。
それを見兼ねたバオがグラス磨きをしたまま告げる。
「ミルクはねえぞ」
「では、お水を」
ぴくりとバオの蟀谷が動いたのが見えた。表情は取り繕っているが苛立っているのが分かる。
そのバオは無言でジョッキを取り出してビールを注ぐと、それを女の目の前に突き出した。
「ここは酒場だ。酒を頼め」
このままではしばらくバオの気は収まらないだろうと判断して、女を気遣うためにも声をかける。
「バオ、そこまで言うことないだろう。下戸かもしれない」
「下戸が酒場に来るかよ」
言われてみれば確かにそうだ。
と、今までバオに向けられていた女の視線が俺に向けられた。彼女の顔を正面から見る。やはり何処かで見たような気がする。が、遥か昔の原作の中ではないような気がする。この街に来てから、悪徳の都に住むようになってから彼女の顔を見たような気がするのだ。一体どこだっただろうか。目を凝らしてみてもその答えは出てこない。
視線が合っているというのにいつまでも互いに無言なのは失礼だと思い、俺は挨拶も兼ねて彼女に声を掛ける。
それはもう親切味が漂うように。
「こんにちはお嬢さん。変わった格好してるけど、こんな真昼間からここに何の用?」
俺の質問に、彼女は静かに答えた。
「……人を、探しているんです」
「人? 人探ししてんの?」
「はい。ここには今日着いたばかりでして、右も左も分かりません」
誰を探しているのかは知らないが、普通の人間はこの街には寄り付こうとはしないし、考えもしないだろう。
それだけで彼女がワケありの人間なのだと理解することが出来た。少ない言葉の中から必要な情報を取り出すのは、この街で生き残るために必須技能でもある。因みにレヴィは習得していないが生き残っていたりする。
「コロンビアの友人を頼ってきたんです。ご存知ありませんか」
「コロンビアね……」
コロンビアと言われてこの街の人間たちがまず思い浮かべるのは黄金夜会の一角である巨大マフィア、マニサレラ・カルテルだ。
しかしながらこのメイドさんとコロンビアマフィアが関係しているとは考え難い。コロンビアの人間は他にもいるが、しかしそのどれもが荒っぽい連中ばかりである。もしかするとこのメイドさんもそんなバリバリの戦闘タイプだったりするのだろうか。
ん、メイド? 戦闘?
何かが繋がりそうな気がする。
先程俺が思い出そうとした記憶と、大昔の原作の記憶が呼び起こされ、二つの点が繋がって線になろうとしている。
思い出せ。今日のことを。
バラライカとの会話にあったラブレスの家の女中。
先日のシスターヨランダの言っていたベネズエラのヘロイン工場。
この二つが繋がっているのだとしたら。
さらに前、何年も前。
確かそう、仕事の依頼で南アメリカへ行ったときだ。
あれはコロンビア革命軍の排除でコロンビアだかベネズエラだかに飛んだとき。
俺は彼女のような人間を見たような気が、
「……あ」
ここでようやく、俺の中で目の前のメイドが何者であるのかを思い出した。
というか何で忘れていたんだ。いや、忘れていたわけではないのだ。ただ俺の中の二人が同一人物として繋がっていなかっただけ。
ベネズエラで俺と撃ち合いをしたあの狂犬と、今目の前にいるメイドが同一人物であるなどと誰が想像できようか。変わりすぎだろ。
彼女の本当の名前もやっと思い出すことが出来た。
「――――ロザリタ」
「ッ!?」
途端、彼女の表情が一変した。
何かを言おうと口を開く。だがその声は、勢いよく開かれた扉の音にかき消されてしまった。
何事かと振り向けば、入口付近には派手なシャツやジャケットを纏った褐色肌の男が十人ほど。ってあれマニサレラの連中じゃないか。基本的にこの酒場は俺や張が縄張りにしている節があるのでこいつらは近寄らない筈だが、何かあったのだろうか。
先頭に立っていた男は俺の存在に気が付いた途端苦い表情を浮かべたが、横のメイド、もとい現在はロベルタを見つけるや大股で詰め寄っていく。
「女、てめえに用がある」
ロベルタはカウンター側を向いたまま動かない。
「今朝から俺たちのことを嗅ぎまわってるおかしなメイドが居るって聞いてきてみたが、てめえで間違いなさそうだな。一体何が目的だ?」
付けていたサングラスを外して、先頭の男はロベルタへとさらに一歩近づいた。
ああそこもうキリングゾーンなんじゃないの、ロベルタの。
なんてことを思っていたら、ロベルタがゆっくりと立ち上がり、くるりと身を翻した。
「……見つけていただくことが本意にございます。失礼、マニサレラ・カルテルの方々でございますね。私めはラブレスの家の使用人にございます」
右手に傘、左手にスーツケースを持ち、彼女は静かに言葉を重ねた。
「お聞きしたいことが幾つか。ご無礼をはたらくことになるかもしれません」
それと、とロベルタは言って俺に視線だけを向けて。
「貴方にもお聞きしたいことがございますので」
「……ははっ」
その笑いは、俺から漏れたものではない。
マニサレラの連中から出たものだった。
「ご無礼だってよこのアマ!」
「お笑いだぜ! いったいどうしようってんだ、なぁ!?」
その言葉が引鉄となった。
彼女が右手に持つ傘に力を込めたのを捉えて、俺は咄嗟にマニサレラの連中とは逆方向、つまりはカウンターの裏へと飛び込む。俺の行動の意味が理解できていないままのバオの首根っこを引っ掴んで床に伏せさせたとほぼ同時、平坦な声が酒場に響いた。
「――――では、ご堪能くださいまし」
次の瞬間。
風穴を開けられた人体が、血飛沫を上げながら宙を舞った。