「マジでか」
「マジもマジ、大マジです」
海岸線から太陽が昇り始めた早朝、所有するオフィスの一角にて。
雪緒からの一報を受けた俺は、朝っぱらから頭を抱える羽目になった。
目の前に山積みにされたブツと雪緒を交互に見て、大きな溜息を吐き出す。
「コレも出そうと思ってたんだが……」
肩に引っ掛けていたグレーのジャケットを摘まんで、再び溜息。
俺の手にあるジャケットの大部分が本来の色を失っていることに気が付いた雪緒は、思い切り眉根を寄せた。
真っ赤。つい一時間ほど前まで行っていた仕事で受けた返り血が、俺の一張羅を鉄臭く染め上げていた。
「これはまた派手にやりましたね……」
「ぎっちり詰まっててなァ。というか、俺のだとは思ったりしないのか」
「本当にそうであれば心配もしますけど、そんな事あるはず無いですし」
声音から本気でそう思っていることが窺えて、思わず苦笑を漏らす。
「あー、手洗いしないと落ちないですよそれ、その後クリーニングですね」
全くもう、と言いながら手を差し出す雪緒に汚れたジャケットを手渡す。年頃の少女であればどこの馬の骨のものとも分からない分泌液で汚れた衣類など触りたくもない筈だが、雪緒は平然とジャケットを広げ、どこに洗剤を塗り込んでいくか検討を始めていた。
そんな彼女の足元には、雪緒ともう一人の少女のものであろう衣類がぎっちりと大きめのバスケットに詰め込まれている。
「いや多くないか?」
「女の子はこんなものですよ」
普段のこの時間帯であれば既に洗濯されベランダに干されているであろうそれらが、未だこうしてバスケット内に残っているのには理由がある。そう、つまりは。
「まさか洗濯機がぶっ壊れるとは……」
我が家の洗濯機、まさかの故障である。
確かにグレイや雪緒を引き取ってから、うちの洗濯機はかなり酷使されてきた。これまで男一人分で済んでいたが、そこに女性二人分の洗濯物が追加されたのだ。しかもやたらと幅を取るグレイの衣服と、日本から持ち込んだらしい沢山の洋服を所持する雪緒の洗濯物である。そこらの電気屋で当時一番値が張る品を、店主の心遣いで無料にしてもらった洗濯機だ。スペックはそこそこ良かったはずだが、やはり一人用の洗濯機に三人分を突っ込み続けるのには無理があったということなのだろう。
「買い替えるにしても今日は夜会の会合があるしな……」
「一日くらいは替えの洋服もありますし大丈夫ですよ。買いに行くときは私も一緒に行きますね」
「金渡すから選んできてもいいぞ」
現在うちの財布を握っているのは基本的に雪緒である。普段の買い物は彼女にほぼ任せている。というか俺が買い物に出ると店の人間が出てきてくれないから取り次ぎが面倒なのだ。
なので今回も彼女に一任しようかと考えて、特に深い意味はなくそんな事を呟いたのだが。
「…………むう」
雪緒は半目になってジトっとした視線を俺へと向けてきた。
「たまには一緒に買い物してくれてもいいんじゃないですか。ほら大荷物になりますし」
「俺が行くとスムーズに進まないぞ」
「それもまた良しです。荷物持ちは必要ですよ、とびきりのボディガードとか」
「左様で」
俺を荷物持ちと言えるのはこの街を探しても彼女くらいだろうな、なんてどうでもいい事を考え、次いで己の身体の至る所に返り血が付いていたことを思い出す。
「明日なら空いてる、雪緒はどうだ」
やや汗ばんでいるシャツを脱ぎ捨て、シャワールームへと向かいがてら彼女へと確認を取る。
「ええ、私も大丈夫です。楽しみにしてますね」
「洗濯機買いに行くだけだけどな」
「それでも、です」
柔らかに微笑む少女に背を向けて、オフィスの隣に備えられたシャワールームへと入っていく。
頭から熱めのシャワーを浴び、ごしごしと血の付着した部分を洗い流しながら。
「……このまま血と一緒に面倒な夜会もお流れになってくれねェかな」
ああ、ダメだ。
そういえば前回の会合も面倒臭がってフけたんだった。流石に今回は顔を出しておかなくては張やバラライカから小言を言われてしまう。
「しょうがねェ、替えのジャケット出しとくか」
1
「…………」
「…………」
カラン、と。グラス内の氷が音を立てる。
今日のイエローフラッグは普段の喧騒など嘘のように静まり返っていた。ウェイバーが店内に居ると必然的に無音の空間が生成されるが、今回に限っては彼が原因ではない。
無頼漢共すら声を出すことを躊躇う原因、その出処へとロックは視線を移した。
「…………」
「…………」
片やニコニコ、片やイライラ。
擬音で二人の感情を表わすのであれば、きっとこんなところだろう。犬猿の仲と表現して相違ない彼女たちは、イエローフラッグのカウンターで顔を突き合わせて一触即発の空気を醸し出していた。
この空気はよろしくない。ロックは直感的に悟った。自分の隣に座るベニーなんかはいつでも退避出来るようにふくらはぎのストレッチを始める始末である。
そんな終末的空気を作り出している張本人、レヴィとグレイは周囲の視線など微塵も気にすることなく、対面の女にのみ意識を集中させていた。
「クソジャリ、ここはテメエみたいなお子様が来る場所じゃねェ。とっとと失せろ」
「まあ口が悪いわお姉さん。レディはもっと御淑やかにするものよ」
「ハッ、色気もヘッタクレも無ェガキがレディとは笑わせるぜ。片割れのメガネ女の方がまだマシだ」
「むっ」
視線の交錯は一瞬。
グレイは肩に下げていたBARを、レヴィはホルスタからカトラスを抜いて互いの眉間へ照準を合わせる。既に引鉄には指がかかり、セーフティも外れている。二人揃って獰猛な笑みを浮かべていた。
と、流石に店内でのドンパチを看過出来なかったのか、それまで我関せずでグラスを磨いていたバオが声を荒げた。
「やいテメエ等いい加減にしろよ! うちはテーマパークじゃねえんだ他所でやれ!!」
「邪魔すんなバオ、アタシはコイツを地獄に叩き落さなきゃ気がすまないんだ」
「同感だわ、私もよお姉さん」
バオの忠告を右から左へと聞き流し、銃口を突き付け合ったままの二人。そんな聞く耳を持たない二人へ、額に青筋を浮かべた店主は。
「……ウェイバーにチクるぞ」
反応は劇的だった。
それまで睨み合っていた両者はそそくさと得物を仕舞い、何事も無かったように席に座り直す。
そのあまりの変わり身の早さに、隣で様子を見守っていたロックは頬を引き攣らせるしか無かった。
「ボスに迷惑は掛けられねェ、今日の所は勘弁しといてやるよクソジャリ」
「おじさんが困る顔は見たくないわ、命拾いしたわねお姉さん」
張り詰めた空気が霧散したことで、店内は徐々に普段の喧騒を取り戻していく。
これまでまるでそこに居ないかのように息を殺していた悪漢たちも、いつもの調子を取り戻したようだ。
「そういえば、お兄さんたちはどうしてここに?」
グラスに注がれた真っ白な液体をゆっくりと嚥下していたグレイが、上唇を白く染めながらロックへと問い掛けた。
二人の間に座っていたレヴィは一旦ダッチへ連絡を取ると言って席を外している。逆隣のベニーも携帯片手に誰かと電話中だ。そんな中の少女の質問だった。
時間はすでに午後八時を回っているため、ただ酒を飲みに来ただけという可能性もある。にも関わらず、グレイはそんな発言をした。おそらくは普段と異なる雰囲気に本能の部分で気付いているのだろう。
その質問に、ロックは軽い調子で答える。特に隠すような内容でも無いからだ。
「人をね、待ってるんだ」
「お仕事なの?」
「ああ。と言っても、待ち人が合流すれば俺はお役御免てところなんだけど」
「残念だわ。この間のお兄さん、中々カッコよかったのに」
――――あの真っ黒な目なんか特に。
グレイは少女とは思えない艶やかな笑みを浮かべてそう言った。
ロックは表情を変えないまま、手元のバカルディを一息に呷る。喉元を熱が通り過ぎていくのが分かった。
「……そう言う君は、どうしてここに? イエローフラッグにはあまり来ないイメージだ」
「そうね。私はお鬚のおじさんより金髪のお姉さんの方が好き」
「ああ、カリビアン・バーか」
自分と同じ年くらいだろうかという金髪女性の店主の姿を思い返す。確かあの酒場はグレイがひと悶着起こした場所だったと思うのだが。
(というかあそこはホテル・モスクワ管轄の酒場じゃなかったか。大丈夫なのか色々と)
ロックの懸念は尤もである。
グレイたちが中心となって起こした騒動は、血腥い凄惨なものだった。今こうして少女が生きていることが奇跡だと思える程に。
その渦中に居たのはホテル・モスクワと三合会、コーサ・ノストラ、そして。
「おじさんがね、今日は連れていけないからここで待ってろって」
不満げに頬を膨らませて、グレイは空になったグラスをバオへと手渡した。
「ウェイバーさんが?」
周囲に聞こえないよう出来るだけ小声で、ロックは身体を寄せてグレイの耳元で問い掛けた。
「ええ、何でも今日は連絡会に出ないと行けないんですって」
「何だって?」
少女の口から告げられた言葉に、ほぼ無意識のうちにロックは聞き返していた。
「出なくちゃいけないと言ったのか? あの人が?」
「そうよ、理由は教えてくれなかったけれど。私を置いていっちゃうなんてひどいわ」
尚も愚痴が止まらない少女の隣で、ロックは思考を巡らせ始める。
連絡会に出なくてはいけない。本当にあのウェイバーがそう言ったのだとしたら。
(あの人が出張らなくてはならない程の案件が今、この街で根を張っている……?)
グレイの言葉が真実であれば、彼女にすら聞かせられない程の案件だ。
先日のロベルタと米軍が絡んだ一件では連絡会にグレイと雪緒を同行させていたと聞いている。ということは少なくとも、危険度は今回の方が上ということなのではないか。
「……他に何か言っていたことは無かったかい?」
「んん、そうね……。洗濯機がどうとか言っていたかしら」
「せ、洗濯機……?」
2
今回の連絡会はコーサ・ノストラ所有のクラブ「ロッソ・シュプレーモ」で行われる。イエローフラッグからは割と近い位置に建っているので、グレイはそこに置いてきた。以前連れて来たときに思ったが、年若い少女にはこの副流煙で埋め尽くされた空間は毒にしかならない。成長を妨げる要素は出来るだけ排除してやりたいのだ。おっさんの気遣いというやつである。
「よ、ようこそミスター。得物はこちらに」
「ん、丁重に扱えよ」
得物をコーサ・ノストラの構成員へと渡し、掲示された部屋へと向かう。廊下まで充満している香水の匂いに鼻を摘み、装飾の施された木製の扉をゆっくりと開く。
「お、今日は来たかウェイバー」
「まあな」
赤を基調とした室内には既に張とバラライカ、アブレーゴの姿があった。
「オイオイ、ウェイバーが来るなんざ聞いてねえぜ。今日はどんなハリケーンを起こそうってんだ」
「人を災害みたいに言うんじゃねえよアブレーゴ。しがない小市民に何て言い草だ」
「小市民とは面白い冗談ねウェイバー。私にもそれくらいのジョークセンスが欲しいものだわ」
いや冗談で言ったつもりは無いんだけどな。利権だけが先走っており、気分はいつまで経っても一般市民である。
部屋の中央に置かれた丸テーブル、それを囲うように設置された高級ソファの一角にどっかりと腰を下ろす。
と、そこでまだ人数が揃っていないことに気付く。
「あ? ロニーの奴はまだ来ていないのか」
時間に五月蠅いあのシャークボーイが定刻五分前に来ていないのは珍しい。何かデカいトラブルでも舞い込んでいるのか、それとも。
そこまで考えたところで、部屋の扉が開かれ件の男が入ってきた。
ふむ、パッと見た所特段焦燥に駆られているような様子は無い。
「珍しいじゃないかロニー。お前が最後だ」
「珍しさで言えばウェイバーが来ていることの方が上だろォが、後が閊えてる。さっさと始めるぞ」
この不機嫌さはいつもの事、ではないな。
本人は隠しているつもりだろうが、俺にはお見通しである。伊達に十年もコイツらに演技をしてきていない。面の皮の厚さで俺に勝てると思うなよ。
「それで? 今日の会の趣旨は何なのかしら」
脚を組み替えながらバラライカが問い掛ける。視線はロニー、次いで張へと走る。
「特に無いってんなら俺たちは帰らせてもらうぜ。こんなクソッタレな顔が並ぶ空間には一分一秒だって居たくねェ」
開幕早々なんて言い草だこの褐色サングラス野郎は。
まあ俺も用が無いってんならとっとと帰りたいんだが。
「まあそう急くなよアブレーゴ。俺から一つ、諸君らの耳に入れておきたい情報がある」
咥えていた煙草を灰皿に押し付け、張がぐるりと俺たちを見回す。
「
ふむ。中国人民解放軍とな。ここ数年はあまり関わりの無かった組織である。五年ほど前に参謀本部の副長を葬ったことがあるが、それだけだ。弁解させてもらえば、あれは向こうから吹っ掛けてきたのである。正当防衛を主張したい。いやまァ、ビル一棟を丸々使って土葬したことについてはやり過ぎたかとも思うが。
「中国ね、私よりも余程そちらの事情に詳しいのではないかしら、張」
「よせよバラライカ。中国と香港を一緒くたにしないでくれ」
「そういう事ではないのだけれど、まあいいわ。ウェイバーはどうなのかしら」
新しい煙草を取り出していたところにそんな言葉が飛んできた。唐突に俺に話を振らないでもらいたいものだが。
「中国の事情なんて知らん」
「フフ、そうよね。表情一つ変えずに参謀本部の将校を圧死させるくらいですものね」
「思い出させてくれるなよ、色々と事後処理が面倒だったんだぞ」
愉快そうに笑うバラライカに、掌を額に当てて溜息を吐き出す張。いや笑い事じゃないからな、この一件で俺はICPOから一層狙われるようになったんだぞ。
「俺たちカルテルは
「俺が知ってると思うか? 極東の猿の動きなんざ一々把握してねェよ」
アブレーゴ、ロニー共に中国軍の動きは初耳らしい。その返答に張はフムと一つ頷き。
「そうか、いや、ならいいんだ。どこの組織も関与していないというのであれば、それはそれで都合がいい。完全な外部組織の介入として万が一の場合は制圧すればいいだけの話だ」
そこで話を切るあたり、張もそこまで大事になるとは思っていないらしい。直接的な動きが表になっていないということもあるのだろうが、以前のロベルタやグレイのような一件にはならないという見解のようだ。
あんな事がしょっちゅう発生しても困るが。
「俺からのトピックは以上だ。他に何かある者は?」
その問い掛けに、誰も彼も口を閉ざして返答する気配がない。
重いんだよ、空気が。始まるまではそれなりの雰囲気だっただろうが。どうしてこう全員が揃うとこんな一触即発の空気が生成されちまうんだ。非常に居心地が悪い。
……ここでボケとか入れてみたら和やかになるだろうか。即座に蜂の巣にされそうだな。ああでも、この場には武器の類は持ち込み禁止だ。
バラライカや張などはともかく、どうも俺は他人から勘違いされるきらいがある。ここでユーモアな一面を見せて、警戒心を和らげておくことも必要かもしれない。そうだな、何だかそんな気がしてきた。
「張」
「ん、どうしたウェイバー」
「いや、この場で言う程の事でもないんだがな」
「…………言ってみろ」
俺の言葉を受け、途端にサングラスの奥で瞳を細める張。いや怖えよ。俺はその眉間の皺をほぐそうとしてんだぞ。なんでより深くなってんだよ。
まあいい。本番はここからだ。
「ああ、実は――――洗濯機がイカレちまってな」
3
「ふむ、
「ああ、近いうちに買い替える予定なんだ。どうせもう今使ってるのはダメだろうからな」
「ウチから卸してあげましょうか? 最新のを回してあげるわよ」
室内で交わされるそんな会話を耳にしながら、人喰いジョニーとの異名を取る男は大きな衝撃に襲われていた。
どういうことだ、どうしてあの男が洗濯機の事を知っている。
(内部から情報が漏れたのか? いや、うちの連中でそんな自殺行為をしでかすようなマヌケはいねェ。だとしたらどこから……)
ロニーの機嫌がすこぶる悪いのも、元を辿ればこの一件が原因だ。
「ミスタロナルド、どう思う?」
「ああ?」
「洗濯機だよ、次はどこのを買おうかと思ってね」
さも自然にロニーへと話を振るウェイバーへ内心で舌を打つ。
今このタイミングで「洗濯機」という単語が出たことからも、おそらくウェイバーはこちらの内情を察知している。問題はその程度と意図だ。
(何を狙っていやがる……)
苛立たし気にカチカチと歯を鳴らして、ロニーは手にしていた煙草を握り潰した。
「……イタリア産をお薦めするよミスタ。間違っても中国の紛いモノなんて買うなよ」
「そうか? 最近の中国製品は意外に高品質だぞ?」
一見するとただ新しい洗濯機を買おうと考えているだけにしか見えない。
が、当然この場に居る者たちはこれまでの発言を額面通りには受け取らなかった。
真面目にカタログを取り寄せるかどうかを話し始めたウェイバーの隣で、張は思考する。
黄金夜会の連絡会という場で、態々ウェイバーが持ち出した話題。何もない訳がない。これまでの彼の所業を思えば、何も無いと楽観視できる筈もない。
そもそもウェイバーが今日連絡会に来た時点である程度の予測をしておくべきだった。今隣で洗濯機の性能について力説している男は歩く災害だ。これまでにも同様の事があったのを失念していた。ちらりと対面を見ればアブレーゴも頭を抱える素振りを一瞬だが見せていた。どうやら似たようなことを考えているらしい。
ただ一人、バラライカだけは愉しそうに笑っているが。
(洗濯機、パッと思いつくのはいくつかあるが……)
ウェイバーが会話の端々で口にしている単語を記憶し、吟味していく。
彼が何を思って一見無意味に見える会話を続けているのか。その裏を読み解く必要がある。
こりゃ面倒なことになりそうだ。
張の溜息が、煙草の煙と共にゆっくりと吐き出された。
4
「彼女、もうすぐこっちに着くみたいだ」
十分ほど電話を続けていたベニーが携帯電話を仕舞ってロックへと向き直った。
「というか、いつの間にそんなに仲良くなってたんだ?」
「うん? 恐怖している女性に優しくするのは男として当然のことさ、そうだろう?」
「ああ、ウェイバーさんにトラウマ植え付けられてたもんな……」
あんな現場と表情を見せられてしまっては無理からぬことだろう。ロックは苦笑を浮かべるしかなかった。
血溜まりの路面を平然と歩ける一般人が居るというのなら見てみたいものだ。
「彼女って?」
「君がパソコンをぶっ壊した女性だよ、グレイちゃん」
「ああ、あのお姉さん」
長電話のせいで温くなったスコッチを流し込んで、ベニーがそう教えた。
グレイはと言うと関心が薄いのか、平坦に答えるだけだった。
「まあそのおかげで僕たちは仲良くなれたんだけどね。壊れたパーツを搔き集めてパソコンを作り直したんだ」
「そうだったのか?」
「ああ、送り届ける最中にアドレスを」
ベニーの言葉が最後まで言い切られることはなく。
悪漢たちの喧騒の中にあってもよく響く声と、朗らかな笑みを携えて彼女が酒場へと足を踏み入れて。
「ああ、会いたかったわ私のスウィートちゃん!!」
褐色肌のインド人、ジャネット・バーイーが現れた。
と、ベニーへと愛の言葉を並べ立てていたのも一瞬の事。
すぐ横に座っている銀髪の少女を視界に収めると、顔を真っ赤にして声を荒げ始める。
どうしてコイツがここにいるのやら、私のパソコンの修理代金を寄越せやら喚き散らしているが、グレイはその言葉の尽くを聞き流し、すまし顔でミルクを飲んでいる。
「まーまー落ち着いてくれよチョコパイ。彼女は偶々ここに居合わせただけなんだ。僕らとはここでオサラバだよ」
尚もフーフーと荒い息を吐くジャネットを何とか席に着かせて落ち着くように促す。
三分ほどの時間をかけてようやっと平静を取り戻した彼女は、今度は思い出したようにベニーへと抱き着いた。
「忙しないな君は」
「だって半年間も会えなかったのよベーグルちゃん! 貴方も寂しかったでしょう!?」
ベニーの腰に抱き着いて腹部に顔を擦り付ける。流石に見過ごせなかったのか、バオが柳眉を吊り上げてカウンターから顔を出してきた。
「おい、どうせ盛るなら上でやれ。30ドルで貸してやる」
「あら、部屋を貸してくれるなんて存外親切ね。どうする?」
「やめておいた方が賢明だよハニー。バオがただの親切で部屋を貸してくれるわけないだろう?」
仮にこのまま二人がバオの所有する一室で熱い一夜を過ごした場合、その翌日には一部始終が録画されたビデオが叩き売られることとなる。
「それにだ、まだ待ち人が到着していない」
「あら、待ち人ってこのお姉さんのことじゃないの?」
今度は興味を惹かれたのか、不思議そうに問い掛けてくるグレイにロックは一つ頷いて。
「彼女の仕事仲間を待ってるんだ。待ち合わせの時間はもう過ぎてるんだけどね」
待ち合わせの時刻は八時半、時計の針はすでに九時を回っている。ジェーンも遅刻は遅刻なのだが、彼女には罪悪感など一切無いようである。
「そろそろ到着していい時間の筈だ」
「迷ってるんじゃないかい? この街は一見さんがホイホイ歩き回れるような場所じゃない」
ベニーの膝の上に乗っかったジェーンはうーんと唸って。
「ま、大丈夫でしょ。子供じゃないんだから地図さえあれば来れるわよ」
「ジェーン、さては何も考えてないね?」
やや呆れた様子でベニーが息を吐く。
この街の危険性は彼女が直に感じた筈だが。
「その人が時間にルーズじゃないのなら良くない兆候だ。何かトラブルに巻き込まれてるかもしれない」
「まっさかぁ。いくらなんでもそこらにホイホイ厄介事が転がってるわけ……」
「甘い」
やや押され気味なジェーンへ釘を刺すように、ロックは毅然と言い切った。
「君がどんな目にあったか忘れた訳じゃないだろう?」
「組織に所属してねェアホンダラがどんだけこの街にいると思ってる。そいつらが皆健気に日銭を稼いでると思ったら大間違いだぞ」
ロックの目の前にショットグラスを置いたバオも会話に加わってきた。どうやら厨房は英一に押し付けてきたらしく、奥から大量の仕事を目の当たりにした青年の泣き言が聞こえた気がした。
「とにかく、一度探しに……」
ロックが待ち人の捜索を進言しようとした、その瞬間のことである。
唐突に、静寂が押し寄せた。先ほどまでの喧騒が嘘のように、店内から音が消える。
悪漢たちの声が再び消えたことを実感するよりも数舜速く、ロックは悟った。
そして思考がやや遅れて追いついてくる。グレイがこの酒場に居たこと、その理由と合わせて。この静寂の原因に辿り着く。
やけに鈍い金属音を響かせて、革靴が床を鳴らす。
と、そこに続くもう一つ足音があることに気が付く。
ゆっくりと身体を反転させ、入り口の方へと視線を移せば。
ウェイバーともう一人、見知らぬ黒髪の女性が立っていた。
――――これは一波乱ありそうだ。
ロックはなんとなく、そう思った。
>「……ウェイバーにチクるぞ」
バオだけが使える魔法の言葉。
>……ここでボケとか入れてみたら和やかになるだろうか。
おっさんがおっさんたる所以。
>やけに鈍い金属音を響かせて、革靴が床を鳴らす。
ウェイバーもこの扉が何製なのかは把握していない模様。
>ウェイバーともう一人、見知らぬ黒髪の女性が立っていた。
原作で言うとまだ20ページくらいしか進んでいないという衝撃の事実。
> ――――これは一波乱ありそうだ。ロックはなんとなく、そう思った。
直感EX