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そう呼ばれることに、何時から抵抗を感じなくなったのだろうか。
昔の記憶を掘り起こそうとしても、霞がかったように抽象的な事象しか出てこない。余りにも遠い過去のことだ。忘れてしまっていても無理はない。そうロベルタは思うことにした。薬による副作用であるとは、微塵も疑っていない。
「年月を経ても腕は衰えていないようだな、猟犬」
不意にそんな言葉がどこからか飛び込んできて、ロベルタは反射的に腕を振るった。握った拳銃のグリップ底で頭部を破砕するつもりで、凶悪なまでの一撃を容赦無く放つ。
しかし、頭蓋の割れる音は聞こえなかった。代わって響いたのは、鈍い衝突音。ロベルタが真横に振るった腕と、男の腕が接触した音だ。
間を置かず、ロベルタは右脚を振るう。容易に膝を潰す鋭いその一手も、男は瞬時に反応してガードしてみせた。これまで屠ってきた有象無象とは違う。ロベルタは即座にそう判断する。見れば男の首元に付けられた部隊章は、見覚えのあるものだった。
「
「覚えているか。血に飢えた獣のような目をしている割に、存外理性は残っているらしい」
無言で予備動作に移るロベルタに先んじて男、カマラサは拳を鳩尾へと叩き込んだ。ロベルタの身体が僅かに折れ曲がる。その隙を見逃さず、カマラサはロベルタを地面へと組み伏せた。握られていた拳銃を蹴り飛ばし、両手を拘束する。
「…………」
「不審か? 顔に出ているぞ猟犬」
カマラサに銃口を向けられても、ロベルタは一切動じない。
ただ無言で、男の濁った瞳を見つめている。
「お前を撃つ機会ならいくらでもあった。それをしなかったのは、お前と同じ理由だ」
ゴリッ、と銃口をロベルタの頬に押し込む。
「お前が格闘戦に持ち込んだのは、米帝に発砲音を聞かれたくなかったからだろう。俺もそうだ、余計な第三者の介入は望むところではない」
温度を感じさせない鋭利な瞳で、カマラサはロベルタを見据える。
ロベルタも、目の前の男から視線を外すようなことはしない。
両者の視線が、至近距離で交錯する。
「
「……FENは頑強な一枚岩。そう言われている筈だけれど?」
「世の中に絶対などない、つまりはそういうことだ猟犬。今やゲリラは世界連携の時代。お前のような人材は組織にとって必要だ」
カマラサはロベルタの鼻先数センチの距離まで顔を近付け、有無を言わせぬ口ぶりで告げる。
「俺と戻れ。田舎屋敷の女中とこちら。どちらがお前の立つべき場所かなど、聞くまでもないだろう」
頬に押し当てていた銃口を横にスライドし、ロベルタの口腔内へと突き入れる。
断ればこのまま発砲する。男の眼はそう告げていた。
二人の間に、沈黙が下りる。しかしそれも数秒のこと。口内に銃口を突き入れられたままのロベルタは、小さく息を吐いた。
「……ええ、確かに」
その一言を耳にして、僅かにカマラサから力が抜ける。常人では知覚すら出来ないほどの、ほんの僅かな隙。それを、猟犬は見逃さない。
次の瞬間、硬質な破砕音が響き渡る。
驚愕に眼を見開いたのは、組み伏せていたはずのカマラサだった。
「なッ……」
二の句が継げないカマラサの顎に、無慈悲な掌底が叩き込まれた。再び破砕音。ただし、二度目の音には粘着質な音も混ざっていた。
数メートル程吹き飛ばされたカマラサは、口元を押さえながらも体勢を立て直す。手で押さえた口からは夥しい量の血液が流れ、血溜まりの中にはへし折られた歯が何本も転がっていた。
「ばッ、ガハッ。りょ、猟犬ンン!」
ロベルタは男の正面に立ち、その顔を狂喜に歪めていた。
プッ、と吐き出した先には、歪にひん曲がった鉄屑。拳銃の砲身部分である。
一度目の破砕音は、ロベルタが突き入れられた拳銃の先端を噛み砕く音であった。
「……私が立つべき場所はお前の下でも、ましてやあの荘園でもない」
怒りか、あるいは悲しみか。
複雑な感情が綯い交ぜとなり、本人ですらどんな感情を抱いているのか判断がつかない。ただ一つ確かなことは、目の前の敵に対して明確な殺意を抱いているということ。
ロベルタの相貌が、血塗れのカマラサを射抜く。
視線の交錯は一瞬。
即座に両者は床を蹴った。
この時点で、カマラサは判断を誤った。彼はロベルタを迎え撃つため、数メートル先に落とされた己のナイフへと手を伸ばしていた。
だがロベルタは予めその動きを読んでいた。自身のバックルに手をかけ、小さなスイッチを捻る。バカンッ、と小気味の良い音を立てて開放されたバックルの裏側から、極小の金属矢が大量に射出された。
カマラサは判断を誤った。
ナイフになど目もくれず、ロベルタの射線から外れることを最優先すべきだった。
それをしなかった結果、男の皮膚に無数の金属矢が突き刺さる。顔に、首に、腕に。
火薬でも仕込んでいたらしいバックルから発射された数百もの金属矢は、カマラサを瞬く間に血達磨へと仕立て上げた。
顎を破壊され、身体中を貫かれた男の眼には尚も戦闘の意思が消えてはいない。
だが、その瞳に宿る意思も数秒のこと。
音も無く眼前に接近したロベルタが右腕を振り上げる。キツく握り締められた拳が、男の顔面へと叩き込まれた。鮮血が爆ぜる。
カマラサの喉からくぐもった声が漏れたが、ドス黒い笑みを携えたロベルタは粘着質な液体に塗れた拳を再度振り上げる。即座に振り下ろす。骨が砕ける音と共に、血飛沫が周囲を染めた。
拳を振り上げる。振り下ろす。
そんな動作をまるで機械のように行い続け、数分が経過しただろうか。
消え入りそうな程に小さかった呼吸音はいつの間にか失せ、辺りには静寂だけが広がっていた。男だった肉体に頭部は残されておらず、辺り一面に赤黒い血液が撒き散らされている。濃密な死の香りが部屋を満たすその空間で、ロベルタは静かに嗤った。
「私が身を置く此処は復讐の螺旋、その最下層。あの方たちとは最も遠く、貴様らと決して交わることはない」
頭の中に残っていた僅かな意識が小さな明滅を繰り返し、やがて――――。
65
ガルシアの姿が見えない。
その事実に気が付いたファビオラは、その動揺を隠せないでいた。
つい数分前までの戦闘の余韻が未だ残る身体に鞭を打ち、ファビオラは周囲一帯を駆け回る。ガルシアが姿を消してからそう長くは経っていない。ともすれば近くの廃ビルに身を隠しているだけかもしれないと、少女は必死で当主の姿を探す。
ガルシアが姿を消したのは、ファビオラが身を隠せと告げたことに起因している。
それ自体には彼女は後悔していない。あの至近距離で銃弾飛び交う戦場にいつまでも姿を晒しているのは愚策であったし、結果的に彼の安全を守れたことは誇らしくすらある。だが、本末転倒という言葉が同時に脳裏を過ぎる。
他に何か手立てがあったのではないかと思わずにはいられない。こちらには十分な戦力があった。レヴィ、グレイに加えロットンと名乗る男もかなりの手練であることは今しがたの戦闘ではっきりした。であればこの場は三人に任せ、ガルシアと共に先を急ぐことも出来たかもしれないのだ。
結果論であると断ずることは容易だ。割り切ることも出来なくはない。しかしそれは、ファビオラにはまだ難しいことだった。
「若様! 若様ーッ!」
「騒ぐんじゃねェよロリータ。ここらは声がよく通る。テメエの声を拾ってくれんのが坊ちゃまとは限らねェ」
「ッ、でも……!」
「目に見える敵だけが全てじゃねェ。この街で生き残りたいなら、もっと用心するこった」
二挺のカトラスを肩の位置で構えながら、レヴィは静かにそう呟いた。その視線はファビオラではなく、遥か先を見据えている。それはグレイも、ロットンも同じだった。
「……付近に敵はいねェみたいだな。このまま突っ切る。ロットン、先行しろ」
「委細承知」
二丁のモーゼルM712を構えて、ロットンが素早く前に出る。
両手に銃を構えているくせに実は先程から一丁しか発砲していないこの男だが、その実力は折り紙つきである。この街に一年近く滞在しているという事実と、これまでの戦闘がそれを物語っている。
漆黒のロングコートをはためかせ、美丈夫は地を蹴る。
目の前でばっさばっさとはためく裾にレヴィは鬱陶しげな視線を向けるも、男は一切気にすることなく暗くなった路地を走り抜ける。ロットンに続いてレヴィ、そしてグレイが駆け出したのを見て、ファビオラも大きな逡巡の後走り出す。
出来ることなら今すぐガルシアの捜索に向かいたい。
だが今レヴィらと別行動を取れば、最悪の場合ガルシアとロベルタ双方を見失う可能性もある。
私見を抜きにすれば、どちらを取ればいいのか考えるまでもない。少女は噛み砕かんばかりの力で奥歯を噛み、一度だけ後方を見る。
暗く冷たい路地に、生者の気配は存在しなかった。
66
「
皮肉げに告げるロックに、しかしエダは笑みを崩さない。
跨ったバイクのハンドル上で腕を組み、視線は正面に向けたまま顎を乗せた。修道服を身に付けた修道女だというのに、その姿はやけにサマになっている。
サングラスの奥で、切れ長の瞳が東洋人を射抜いた。
「硬いことは言いっこ無しといこうじゃないのさ。
表情は飄々としたものだったが、その実彼女の瞳は一切笑っていない。
言葉ではああ言っているが、エダの中では未だロックという男の価値を計っている最中なのだろう。それはロック自身もなんとなく察していた。
どうでもいいのだ。彼女の中での自身の評価など、ロックにとって大した価値を持たないものだ。それよりも重要なのは今、このタイミングで彼女が自身に話を持ちかけてきたということ。
これまで目立った動きを見せてこなかった暴力教会が。否、エダがこうして前線にまで出張ってきたという事実が、盤上を一気に傾け得るものなのではないかとロックは直感した。
そもそも可笑しな話だ。元より今回の一件に関わる気があったのなら、もっと早いタイミングで動いたはずだ。最善なのはガルシアとロベルタを生きたままこの街から脱出させること。そこに米軍だのホテル・モスクワだのウェイバーだのを関わらせてはいけない。そんなこと、火を見るよりも明らかだ。
暴力教会であれば様々な武器の入手手段がある。必要な移動手段もすぐに手配出来るだろう。最短でロベルタを見つけ出し、ガルシアと引き合わせることなど造作もない筈だ。
それをしなかった、或いはこのタイミングまで出来なかったということは、少なくともリップオフ教会総出で事に当たっているわけではない。もしもシスターヨランダが絡んでいれば、事態はもう少しスマートに進んでいただろう。あの修道女はウェイバーに勝るとも劣らぬ策略家だ。ロックよりも余程慎重に、かつ上手く盤上を操ることが出来る。
と、いうことは。
エダは個人、もしくは別組織と絡んでいる。
これが現時点でのロックの見立てであった。
「お前さんは今の状況をどう見るロック。片は、つきそうかい?」
「まだだ」
エダの問いに、ロックは間を置かずそう答えた。
「まだ終われない、終わらない。この舞台から誰かが滑り落ちるまでは」
「終われない、ね。こうしてる今にもどっかの誰かが滑り落ちてるかもしれないぜ」
「いや、こちら側の人間に関しちゃ今のところ心配はしてないよ。心配なんていらないんだ」
「……?」
訝しげに片眉を顰めたエダに向かって、ロックは軽い調子で言った。
「だって、ウェイバーさんが最前線に出てる」
瞬間、これまで鋭利だったエダの瞳が真ん丸に見開かれる。
「あの人の戦闘能力はこの街でも随一だ。レヴィたちだってそこらの連中に遅れを取るほど弱くない。だから、大丈夫なのさ」
「……肝心な部分がだいぶおざなりじゃないかい」
「そういうもんだろ、ギャンブルってのはさ」
懐から取り出した煙草に火を点けて、ニヤリと笑う。
「ここに張ると決めたら後は純粋な運の勝負だ。それ以外のありとあらゆる部分を埋め尽くして最後に残る部分。そこにこそ、楽しみがある」
そうして浮べた笑みは、どこまでもあの東洋人に重なって見えた。
エダは思わず口を引き結び、幾度か頭を振るう。このままの調子で会話を続けていると、ウェイバーとのやり取りを思い出してしまって苦い顔をしてしまいそうだった。
完璧な隠蔽工作を行なった上でロアナプラに潜入していた数年前の自身に向かって、初対面でいきなり諜報員がこの辺りに潜んでいると吐かしたのだ。唐突なその宣言に、当時のエダは冷や汗が止まらなかった。その時点ではエダの素性を把握していたのはシスターヨランダのみ。当然、あの大シスターがおいそれと情報を売るような真似はしないだろう。では、どこから気付かれていたのか。
あの男からは今も直接的な部分について問われたことはない。だが、確実に素性は割れている。ウェイバーに先回りされたことは一度や二度ではない。そうしたことがある度に、エダはウェイバーの底知れなさを感じるのだ。
そして、それと似たような感覚を今抱いている。
引き結んだ口元が、自然と綻んでいくのを自覚した。
「……アンタはいい悪党になるよロック。アタシが保障する」
67
車の助手席に放り投げたままの携帯電話が震えたのは、ロックがエダとの会談を終えてすぐのことだった。
図ったかのようなタイミングに、ロックの身体が僅かに硬直する。が、それも数秒のこと。ロックは自身の携帯電話を拾い上げ、ゆっくりと通話ボタンに手を掛けた。
途端、通話口の向こうから聞こえてきたのは、現状に似つかない陽気な男の声。
『ようロック、今時間あるかい』
聞き間違えるはずもない。この悪徳の都を牛耳る超大物の一人、ウェイバーである。
何故このタイミングで自分に連絡を寄越してくるのかという疑問が真っ先に浮かんだが、一先ずロックは会話を続けることにした。
「……珍しいですね。ウェイバーさんが俺に連絡を寄越すなんて」
『状況が状況なんでな。お前だって、それは分かってる筈だろう?』
咥えていた煙草の灰が、ポトリと落ちる。
『ガルシアを連れて、港まで来い』
「……ッ!」
その言葉はロックに小さくない衝撃をもたらした。
どうして。
(どうしてウェイバーさんは、俺が港へ向かうと知っている……?)
知らない筈だ。ロックが何を企てているのかなど、ウェイバーには一言たりとも話してはいない。先ほどエダに話したことですらほんの一部分。核心に触れるような部分は避けて会話を行なっていた。
そんなロックの行動を嘲笑うかのように、ウェイバーは迂遠な言い回しを切り捨てて淡々と告げた。「ガルシアを連れて、港まで来い」と。
(この人は、一体どこまで……)
まるで手のひらの上で踊らされているようだ。
ウェイバーという男は、ロックの遥か先を行っている。それを否応なく突き付けられたような気分だった。
彼は多くを語らない。その必要が無いからだ。彼にとって言葉とはオマケであり、口を開くよりも武力で以て殲滅することが先に立つ。そういうことが出来てしまう男だ。
そんな男から、まるで釘でも刺されたかのように行動を制限された。
たった数秒の間に、ロックの思考は高速で回転する。
ウェイバーの思惑から外れて港と逆方向へ向かうか。
――――否。わざわざ窮地へ飛び込むような馬鹿な真似はするべきではない。
表面上は取り繕って、こちらの思惑を悟らせないように立ち回るか。
――――否。ロベルタや米軍といった外部勢力を誘導することで精一杯だ。そこに思考を割く余裕はない。
なら、ならば、或いは。
幾つもの考えが浮かんでは消えていくロックの脳内。その思考を中断させたのは、やはりウェイバーの一言だった。
『ロック』
特に声を荒げたわけでもない。普段呼び掛けるときのような、穏やかな声音だった。
『身の程ってのは大事だぜ』
今度こそ、ロックは思考すら止まる。たっぷりと三秒ほど瞬きすらも忘れて硬直した後、思い出したかのように背中に冷たい汗が噴き出した。
読まれている。読み切られている。ウェイバーには恐らく、大凡考え尽くであろう全ての策が読めている。こちらがどう動こうとしているのか、どういった思考をしているのか。この男には全て見えている。
恐ろしい、と素直にロックは思った。
そして同時に、それでこそウェイバーだとも。
断っておくが、ロックは決してウェイバーに対して反旗を翻そうとしているわけではない。
ロックの目的はこの街に集う役者たちを使って純粋なギャンブルに興じることだ。その中にガルシアやロベルタなどの生存が条件として加えられている。
はじめは純粋に、憧れた。
彼のようになれたらと、思わない日はないほどに。
しかしある時気付くのだ。あの男と自分は、どうあっても同じ位置に立つことは出来ないと。
だから役割を認識した。ウェイバーと自分自身では、この街で与えられた役割が違うのだと。最前線で銃を握るガンマンがウェイバーなら、自身は宛ら盤を指揮するコンダクターであろうと。
そうすることで、この街に意図的に浸かろうとした。
結論だけを言えば、ウェイバーはアタッカーもコンダクターも出来てしまう化物だった。それを今、痛感しているというだけの話だ。
だがその事自体は、とうの昔に分かり切っていたことである。
ウェイバーが化物なのは今に始まったことではない。それこそこの街に行き着いたその日から、耳にタコが出来るほど彼の逸話を聞かされた。
「……そうですね」
しばし無言だったロックはようやく口を開く。その声色に、一切の緊張は無い。先ほどまで背中を伝っていた気持ちの悪い汗も、いつの間にか引いていた。
「俺は俺の、俺にしか出来ない仕事をしますよ。この盤上で、全ての駒を駆使して」
そう言って、ロックは終話ボタンを押した。あの怪物がどう動こうが関係ない。結局先を読まれてしまうというのなら、どれだけ考えても無駄なことだ。ならば当初の予定通り、演者を指揮する役割を全うすることにしよう。
恐らくウェイバーには自身とエダが裏で繋がっていることすら見透かされている。確信ではないが、かなりの高確率で。
あの男の先を行くことは難しい。並び立つことすら。
しかし、それでも。
「……背中は見えたぞ、ウェイバーさん」
ロックは一人、そう呟く。
今一度状況を整理すべく、頭を働かせる。徐々に周囲の喧騒が遠ざかっていく。
ウェイバーは船を欲している。そのためにバラライカへと連絡を取った。敢えて、一般回線を使って。
その理由は恐らく街全域にこの事実を知らしめるためだろう。目当ての人物となるのは、
「……合衆国軍隊」
米軍とて万全の準備を整えているわけではない。ロアナプラに滞在することとなった目的があるはずで、この街でこれほどまでの戦闘になることは想定していなかっただろう。
彼らの目的はあくまでも与えられた任務を遂行することだ。そして現状、任務遂行に立ちはだかる最大の障害が存在する。
「ロベルタ」
レヴィですら単騎で渡り合えば勝敗が見えない程の女。ウェイバーと銃を交えて生き残っている数少ない人間の一人でもある。
彼女の素性まで米軍は掴んでいないだろうが、接触した現在であれば相応の手練が背後に迫っていることくらいは認識しているはずだ。遂行すべき目的があるにも関わらず、その動きを阻害するかのように迫る猟犬。そんな状況下で聞こえてきた、船というワード。
「……食いつかないわけにはいかない。例え罠であったとしても、前にしか道は無いのだから」
明らかに怪しい餌であっても、周囲が食いつかざるを得ない状況に仕立てている。
何と戦っているのかも曖昧な状況下で見えた小さな出口に、向かうしか道は残されていない。優秀な米軍はおそらく長考し、その結論に辿り着く。
そして合衆国軍隊であればその結論に辿り着き港を目指すと、ウェイバーは確信している。
でなければあのような真似をするはずがない。自らが持つ情報をわざと明かすような愚行、何か考えがあってのことに違いなかった。
「……そう、そうだ。だからこその俺への発言」
たっぷりと肺にまで含んだ煙を吐き出して、ロックは先のウェイバーの言葉を胸の内で反芻する。
「ガルシア君を連れて
ウェイバーは言った。港まで来いと。
何処の港かまでは指定せずに。
ふと、唐突にロックの頭に彼の顔が浮かび上がる。
『俺の背中に追い縋ろうってんなら、これくらいやってもらわなきゃ話にならん』、そんな東洋人の声が聞こえた気がした。
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「いきなり鉛玉をぶっ放すとはとんだご挨拶だな、ウェイバー」
「ジョークだよ、アメリカンジョーク」
ロアナプラの南に伸びる海岸線の一角に築かれた港で、黒髪サングラスのおっさんと顔を付き合わせる。相も変わらずその表情は飄々としていて、相手に何を考えているのかを一切悟らせない。この男のこういうところが俺は苦手だったりする。以前そんな事を言ったらお前にだけは言われたくないと即答されたが。
「俺たちに銃口を向けたってことは、
三合会タイ支部ボス、張維新は言葉を投げる。
彼の周囲には三合会傘下の人間たちが何十人と集まっており、俺とマナ、ルナを囲むように位置取っている。俺の背後はすぐに海。一斉に攻め込まれたら死ぬな、間違いなく。
ぶっちゃけ街のチンピラたちだと思って引鉄を引いたのだが、この状況で人違いですと言うわけにもいかない。張が発する雰囲気が、この場で不用意に発言することを躊躇させた。
「……いや、」
取り敢えず、何か口にしなければと咄嗟に言葉を吐き出す。
誤解だ、張だと知っていて撃ったわけじゃない。そう言おうとしたのだが。
「ぎょこいだ……」
噛んだ。いつぞやのロックの気持ちが今なら痛いほど分かる。
そんな風に内心で羞恥に悶える俺の正面で、しかし張は口元を緩める。
「僥倖ね。その言動から察するに、ホテル・モスクワが動き出したことはもう耳に入ってるみたいだな」
「……まあな」
初耳な、加えてかなり重要な情報がさらりと飛び込んできたが、一先ず話を合わせておく。張が煙草を取り出したのに合わせ、俺もジャケットから煙草を一本取り出して火を点ける。葉が燃える独特の香りが、夜の港に広がる。
「ま、俺だってお前と本気で事を構えようなんざ思ってない。ドテッ腹に穴を開けられるのは一度で十分だ」
「……ああ、確かに僥倖だ。張、ここに辿り着いたのがお前で良かった」
張の皮肉には取り合わず、現状整理を即座に行う。
これは確かに僥倖だ。誤解はあれども、予期せぬ幸運である。
ホテル・モスクワが動き出したということは、先程の俺の発言に乗ったということだろう。それの意味するところは、米軍との衝突。元より米軍を相手取ると夜会で宣言した女である。それを今更取り下げるようなことはないだろう。両者が出逢えば激突は必至。街は火の海と化す。十年前の悪夢が再び蘇ることになる。
そうしないためにも、今この場にバラライカよりも先に張が辿り着いたという事実を生かさなければならない。
十数秒もの間煙草を咥えたまま動かない俺を見て何を思ったのか、張は先程までの空気を霧散させて陽気に告げる。
「案ずるな、もう手は回してある」
脳内にクエスチョンマークを浮かべる俺に向かって、ニヒルな笑みを浮かべて見せた。
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「状況を報告しろ」
『標的を補足。チャルクワンストリートを南西の方角へ進行中』
『こちら監視一班、配置完了』
『索敵範囲各交差路には三合会傘下の黒服多数。障害となる可能性アリ』
『こちらバトゥリン、観測所開設、所定完結』
「――――別動班、全て所定完結しました。
「よろしい」
空と海との境界線すら曖昧になる闇夜の中。火傷顔の女が静かに呟く。
ロアナプラにしては珍しい冷たい風が吹き抜ける中、息を殺し、身動ぎ一つすることなく。皮切りとなる言葉を待つ。
「始めよう諸君。
やって来る。
やって来る。
悪徳の都を混沌へと誘う悪夢の夜がやって来る。
以下要点。
地☆獄だよ、全員集合!!