イリス ~罪火に朽ちる花と虹~   作:あんだるしあ(活動終了)

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「できるわけないわ」

 ついにクルーザーは、一見して大洋しか広がっていない海のど真ん中で航行を止めた。

 

「ここよ。いずれ貴方たちが『断界線(シェルライン)』と呼ぶ場所。今でこそこうして断界殻(シェル)がふてぶてしく邪魔しているけれど」

 

 ルドガーたち全員が見守る前で、イリスはデッキの突端に絶妙なバランスで立った。

 

「やってごらんなさいよ。できるわけないわ」

 

 応えて、イリスは小馬鹿にするような笑みを浮かべた。ミュゼはさらに目を眇めた。

 それだけのやりとりに、人生で一度も見たことのない剣呑さがあった。

 

「精霊態のほうが早いのだけど、そしたら足が接しているこの船まで蝕んでしまうからね。ちょっと時間をちょうだい」

 

 イリスは無造作に紫のジャケットを脱いで落とし、ラバースーツの右腕を覆う部分だけを脱いだ。危うく右側の乳房が露出しそうな脱衣だった。

 イリス本人は気にしたふうもなく、素手を何もない空間にかざした。

 

 すると、そこに透明な壁でもあるかのように、空間が黒ずんでいく。じわじわと。雪白に落としたインクのように。

 ――イリスの蝕のマナが、空間を隔てる殻を、蝕んでいる。

 

「うそ……」

 

 ミュゼの呆然とした呟き。ルドガーは内心、それ見たことか、と思った。

 

(イリスはできもしないことなんて言わないんだ)

 

 やがて黒ずみは止まり、タマゴの殻が一点から全体に向けて割れるように、ヒビが走った。

 

 黒い空間が朽ちて落ち、そこは背の低いトンネルに姿を変えた。

 

 イリスはラバースーツを着直し、デッキに降りてジャケットを羽織り直した。妙にほっとした。

 

「ここを潜り抜ければリーゼ・マクシアよ」

 

 

 

 

 

 イリスが断界殻(シェル)に開けた穴をクルーザーで通り、彼らはリーゼ・マクシアの大洋に出た。

 

 そこから陸地できる場所を探すのが大変だった。クルーザーは黒匣(ジン)技術の塊だ。この世界のミラ=マクスウェルかミュゼに見つかれば、諸共殺されかねない。

 

 なるべく人気のないサマンガン海邸よりの波止場を見つけて上陸し、ルドガーはやっと息をついた。

 

 同行者たちをふり返る。

 ちょうどエリーゼがエルを支えて調子を聞いていた。レイアのほうは、すっかり伸びきったルルを揺さぶって元に戻そうとしていたものだから、笑いを堪えるのが大変だった。

 

「ところでここ、リーゼ・マクシアのどこなんだろ」

 

 その疑問に答えるかのように、ローエンがルドガーに声をかけた。

 

「あれを見てください。ガンダラ要塞です」

 

 ルドガーたちのいる荒野より遠くに、巨大な建造物がそびえ立っている。

 

「確かカラハ・シャールの近くだよな」

 

 エルを預けているのはカラハ・シャールなので、カラハ・シャール周辺であればルドガーもぼんやりと地理を把握できた。

 

 GHSを出してフリップを開く。偏差反応が強いのはガンダラ要塞の方向だ。どうやら今回の時歪の因子(タイムファクター)はあの要塞にあるらしい。

 

「みんな、いるな?」

 

 エル、レイア、ジュード、アルヴィン、エリーゼ、ローエン、ミュゼ――顔ぶれから欠けた人物がいないことを確認する。

 同時に、大所帯なので目立つだろう、とルドガーはげんなりした気分になった。

 

 

 

 

 ひとまず一行はガンダラ要塞に向けて進路を取った。

 

 要塞をぐるりと囲んだ柵に添って要塞側面に回り込む。哨戒の兵士に見つかって無駄に消耗したくなかった。

 

 断崖が陰を作る位置まで回り込んだところで、ローエンがルドガーたちにストップをかけた。

 

「皆さん、あちらを」

 

 ローエンが指さしたのは、3人の男。積み上げた荷箱の一番上に立つのはジュード、下でジュードに何事かを伝えているのはローエンとアルヴィンだ。

 

 もちろん3人ともルドガーたちの側にいる。つまりあの3人は、分史世界での「ジュード」と「アルヴィン」と「ローエン」なのだろう。

 

 その内、「ジュード」が壁の排気口の金網をどけ、中に潜り込んだ。間を置いて「アルヴィン」と「ローエン」も荷箱を登り、「ジュード」に続いて排気口の中に入った。

 

「どうやら去年我々がガンダラ要塞に侵入した時のようですね」

「1年前の時間軸の分史世界か。てことは、中には『エリーゼ』と『ミラ』がいるわけだ」

 

 ミラの名が出た途端、ジュードが顔色を蒼白にした。

 

(ジュード、まだ引きずってるのか。初任務で行った世界の『ミラ』のこと)

 

 年端もいかぬ少女だったマクスウェルが、分史世界のジュードと彼の父親を殺した場面を目撃してしまったこと。それがジュードの心に濃い影を落としている。ルドガーにも分かっている。

 

 ルドガーはGHSを出して、分史世界内における偏差反応を示す画面を見た。

 

「――追いかけよう。この要塞の中、偏差が他より強い。時歪の因子(タイムファクター)があるとしたらこの中だ」

 

 ここからでは遠目で視えなかったが、もしかするとあの3人の中の誰かという可能性も考えられたものの、そこまではあえて言わないルドガーだった。

 

 全員が動き出す中、ミュゼがジュードに声をかけた。

 

「ジュード」

「分かってる。落ち込んでる暇があったら、源霊匣を完成させる努力をするよ」

「――ガイアスだったらきっと『それでいい』って言うんでしょうね」

 

 たったそれだけの会話。慰めも励ましもない。それだけだが、ジュードをガンダラ要塞に向かわせるだけの効果はあったらしい。

 

 要塞内の事情に明るくないルドガーは殿(しんがり)に付こうとした。

 すると、前にいたエルがぴょこぴょこと戻って来て。

 

「エル、ルドガー、まちがったこと言ってないと思うな」

 

 エルはそれだけ言って、先に行った皆に続いて行ってしまった。

 

 先ほどのジュードとミュゼのような、わずかな言葉だけで通じ合える関係。

 どうやらルドガーにとってその相手はエルらしい。




 イリスがこういうことをできるようになったのは、先にトール文明でのデータサルベージによる、本人のキャパシティ拡張があったからであって、2000前の精霊なりたてのイリスにそこまでの力はありませんでした。

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