インポテンツ提督がヤンデレ鎮守府を切り抜けるようです   作:赤目のカワズ

9 / 19
第9話

 地べたに、一人の女が崩れ落ちている。

 赤く腫れた頬に、焦点の合ってない眼差し。円状に広がった長髪が、どことなく幽鬼じみた印象を膨れ上がらせる。

 そして、そんな彼女を気遣うように寄り添った西村艦隊の面々を前に居丈高に仁王立ちする女こそが、鎮守府の空気を一変させるに至る張本人であった。

 演習を終えて帰ってきた戦艦扶桑が一発の拳によって無惨にも地面を跳ねたその時、朝凪を思わせるそれは、緊張の糸を鉄条網が如く張り巡らしたばかりか、鎮守府の平穏を尽く奪い去った。

 件の一件において弓を引いたのが、他でもない大和型二番艦武蔵である。彼女もまた、英俊かつ敏腕で知られる、当鎮守府きっての実力者であった。

 褐色めいた肌はやけに健康的で、零れんばかりにたわわに育った双丘を、あろう事かサラシ一つで抑えつけている。

 そのあまりに扇情的な恰好に俺は幾度となく精神を掻き乱されたものだが、今回ばかりは、彼女に欲情に塗れた視線をくれてやるわけにはいかなかった。

 おおよその事態を把握した俺は、場所を執務室に移すと、武蔵を眼前に見据えて詰め寄った。

 

「武蔵」

 

 武蔵は返事を返さない。彼女は疾うの昔に部下としての義務を放棄していた。

 眼鏡越しの彼女の視線は、彼我の間に一枚の壁があるかのような錯覚を引き起こす。薄ら氷を彷彿とさせる、薄く、それでいて凍てつくような冷たさが、そこにはへばり付いているように思えた。

 反省の色がまるで見受けられないその振る舞いに当てられてか、俺はとうとうがなりあげる様な大声で、彼女の名前を再び叫ぶ。

 執務室に、怒気を孕んだそれが木霊した。

 

「武蔵ッ!!」

 

「フッ……。そう大声をあげなくても、聞こえているが?」

 

「なら話は早い! お前、自分が何をしたのか分かっているのか!?」

 

「勿論、了承済みだ。だがな、こうして詰問を受ける程の事か?」

 

「何だと!?」

 

 彼女への失望は、ここに来て頭打ちを迎えつつあった。膿が、じくじくと俺を苛む。いきり立つ思いを、何とか腰ごと椅子に落ち着かせる。

 彼女への信頼は、内から身を腐らせる毒物へと様変わりしていた。武蔵がそんな事をする筈がない、その思いを引き摺れば引き摺る程、対処不可能な所にまで化膿は進む。

 行き着く先は、完全なる切断だ。

 唇が、恐れをなして震え始めていた。まるで薄氷の上を踏み歩くかのように、手探りで一語一語に口をつける。

 

「……お前は。…………扶桑を、殴った。そうだな?」

 

「その通りだ」

 

 果たして暗中模索の中から見い出した光――真実――は、実に汚れきっていた。

 

「扶桑は、共に協力し合うべき仲間だぞ。たとえ何があったのだとしても、そのような行為をとった事は許しがたい」

 

「それで?」

 

「また、鎮守府の輪を乱し、無用な動揺を誘った事は咎めねばならん」

 

「だから?」

 

「…………お前に、謹慎処分を、科す。少し、頭を冷やせ」

 

 兜を被らされてる気分だ。視線が極端に狭められ、武蔵を視界に入れる事が出来ない。暑苦しい鉄の籠は、言葉が外界に解き放たれようとするのを、露骨に遮る。

 それは、重々しい空気が、欝屈した感情を伴って執務室に攻め入ってくる事を予想してのものだった。

 だからであろう、想定とは趣の異なる展開に、俺は思わず面喰ってしまう事となる。武蔵は、心底不思議がるかんばせをご披露しながら、徐に首を傾げると、

 

「――何故だ? 何故、私が罰せられなければならない?」

 

「武蔵、お前、何を言って……」

 

「さて、私も艦によってはその運用方法に違いが出る故、一概に誰が最も優れているかなど、中々決められん事は分かってる。けどな、提督。戦艦という一つの括りの中でなら、私は、戦艦武蔵は、少なくとも五本の指の中には入ってる筈だ。私自身、そういう自負もある。実際、あってるだろ?」

 

「た、確かにそうかもしれんが……」

 

 唐突に始まった戦術指南めいた談義は、始まるやいなや、俺を混乱の渦に叩き落とした。

 違和感のこびり付いたさざ波にあっけなくも足を掬われた俺は、部下への叱責も忘れ、完全に武蔵のペースにのせられてしまう。

 自分の意向に沿った言葉に気を良くしたのか、武蔵は酷くうかれた調子に早変わりしていた。もはや謹慎処分の事なんぞは忘却の彼方へ、霞となって消えてしまっているようにも思える。

 挙句の果てに飛び出した突拍子もない話に、俺はまたもや度肝を抜かされる事となった。

 

「ハッハッハッハ。 それなら、重要な戦力であるこの私が戦場に出られないなんて事、罷り通る筈がないよな? 提督が、本当に提督であるというなら、私という最高の戦力をみすみす寝かせておくなんて事、する筈がない。違うかい?」

 

「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか!? 自分が戦力の要を担うから、何をやっても罰せられないと、本気で思っているのか!?」

 

 その暴論は我が物顔で、武蔵の思考の中に入り浸っているようだった。

 もはや改めさせる事すら不可能。その口ぶりは、依然として自分の主張に非があるとは微塵も思っていない事を窺わせる。やもすれば聞き逃してしまいそうな程、その口調は自然体で淀みがなかった。

 そして、その歪な価値観こそが今回の一件の原因である事は、誰の目から見ても明らかである。

 武蔵は俺の怒気と相対すると、臆した気配すら見せずに、

 

「勿論だ。この鎮守府が窮地に陥った時、提督が頼るべき存在は誰だ? 私だろ? この武蔵にさえ任せてもらえれば、どんな深海棲艦が現れようとたちどころに殺し尽くしてやる。そもそも、本来罰せられるべきは彼女の方じゃないのかい? 艦娘は戦う以外の意味を持ち得ない。その曙より、艦娘には強さだけが求められてきた。だのに、アレは一体何なんだ? 弱い艦娘に存在価値なんてない。アレを演習や実戦に出すぐらいなら、私を使え。私なら、必ずや最高の勝利を提督にくれてやる。私こそが、提督の手持ちの駒の中で、最も優れている。だから、足を引っ張る半端者がいてくれては困るんだよ、これがな」

 

 一概に、武蔵の言葉を否定する気にはなれなかった。

 艦娘は兵器だ。そう教え込まれた。兵器に対して情を持つ必要性は無い。極論、使えないなら、使わなければいいのだ。

 しかし、だからと言って。扶桑を切り捨てる事など、到底出来る筈もなかった。矛と盾とが鬩ぎ合う最中、無言が重圧を帯びて室内に充満し始める。

 伊168が溌剌とした表情で執務室に飛び込んできたのは、沈鬱な面持ちがやにわに広がり始めた頃だ。

 彼女は一束に纏め上げた赤髪を振り乱しながら、躊躇いもなく俺の胸元に飛び込んでくる。

 

「司令官! 見て見て! 明石から聞いてたんだけど、司令官が失くしたっていうスマートフォン、見つかったわ!」

 

 首に腕を回し、懐にすっぽりと収まってみせた彼女は赤ん坊のようだ。発達途上ではあるものの、戦場での活躍も相まってか、サラブレッドの幼駒を思わせる。

 まるで見せつけるかのように彼女の五指が掴んでいるそれは、確かに俺のプライベート用のスマートフォンだった。

 よっぽど早く伝えたかったのであろう、彼女の額は油を引いたかのように照かっていて、丸みを帯びた顎を伝って汗が滴り落ちていた。そればかりか、胸元が強い鼓動をもって上下している。

 向日葵と形容したくなる彼女の笑顔に一瞬気が緩みかかったが、寸での所で冷然な態度を取り戻す。

 

「……イムヤ、それはありがたいが、ちょっと、後にしてくれないか? それと、部屋に入る時は必ずノックをするようにと何度も」

 

「でも、イムヤ、頑張って見つけてきたのよ? 司令官は、見つからない方がよかった?」

 

「違う、そうじゃない。見つけてきてくれてありがとう、イムヤ。だが、今は武蔵と話をしているんだ。少し、外で待っていてくれないか?」

 

「武蔵? 武蔵はここにいないわよ?」

 

「何だって?」

 

 胸元に蹲る少女と、視線が絡み合う。

 照りついた頬は酷く健康的で活発なイメージを植え付けるが、彼女の唇だけが、まるで違う生物かのような異なる動きを見せつけてみせた。

 

「司令官を困らせるような存在は、艦娘じゃないの。じゃあ、そこに立ってるのは武蔵じゃない。本当に司令官の事を考えてるなら、武蔵がこんな事する筈ないもの。ほら、ここに武蔵はいない。ここには、司令官とイムヤだけ。そうよね?」

 

 斜め上を見やった加勢に、俺は酷く狼狽してしまう。伊168の言葉は火に油を注ぐものだった。

 早まる鼓動が、纏まりつつあった思考を分散させる。視線が逃げ場を求めて右往左往し始める。

 あらぬ方向にて刃を研いでいた伏兵は、事態を更なる混沌に導きつつあった。

 そうじゃない、そうじゃないんだ、イムヤ。俺は何も、武蔵を徹底的に断罪したい訳ではない。

 俺は、その考えを改めてほしいだけなのだ。誰もが武蔵のような強さを持っている訳ではない。下情を知らず、王が民草を顧みぬようでは、平和は遠いままである。

 あの手この手で打開策を練り始めたものの、光明が差し込む気配は一向に訪れない。 結局、伊168の襲来は、議論の解決を見ないまま、強引に場を締めくりにかかったに過ぎなかった。

 

「水を差されたな」

 

「武蔵?」

 

 憮然とした態度でそう呟くと、途端に武蔵はその場で翻ってみせる。

 酷く中途半端な幕切れを迎えつつある事を察した俺は、立ち上がって彼女を引きとめようと試みた。だが、

 

「きゃっ、司令官、いきなり立ち上がらないで!」

 

「っ、おい武蔵!」

 

「私も艦娘だからな、命令には従うさ。提督の言葉通り、営倉にでも引っ込んでいる事にしよう」

 

「待て武蔵! 話はまだ終わっていないぞ!」

 

 果たして俺の言葉は、彼女の歩みを踏みとどませる程度には効力を持ち合わせていた。乱れぬ足幅で、足早にこの場を去ろうとしていた武蔵の身体が止まる。

 だが、その動向を図らずも注視していた俺は、何の前触れもなく振り返って見せた武蔵と目が合い、一瞬気後れしてしまう。

 先の自信に満ち溢れた表情はなりを潜め、剣呑な雰囲気を醸し出す武蔵の表情がそこにあった。それは、冷たい鉄を思わせる。

 

「どう私の事を思ってくれても構わない。けどな、最後の最後で提督が頼みの綱とするのは、この武蔵を差し置いて他にはいない。それだけは、覚えておいてもらいたいものだぜ。――――アレを受け取る権利は、私だけにある」

 

 武蔵は俺の言葉を待たずに、執務室を出ていく。最後まで、彼女は索然とした態度を崩す事はなかった。

 その姿を追うばかりで、とうとう口の中に言葉を留まらせた俺は、口一杯に広がった苦い味を噛みしめる事になる。

 身の内側に吹きすさぶ空っ風は、心までをも硬くしてみせた。

 

「司令官?」

 

 意識を引きずりあげたその言葉は、腹立たしさを盛大に打ちあげる。ここで決着を着けられなかった事は、のちのちになって悔恨として残るかもしれない。

 そもそも、悠長な対応に徹していた俺にも、今回の一件に限って言えば非があると言える。

 けれども、イムヤがわざわざ探し物を見つけてきてくれた事を鑑みれば、無下に扱う事など出来る筈もない。

 不安そうな表情を象るイムヤを前に、俺は仮面を被った。

 

「ああ、武蔵とはまた後で話をするさ。それよりも、すまなかったなイムヤ。わざわざ探してきてくれて。何処で見つけたんだ?」

 

「食堂にある棚と地面の隙間に落ちてたの。前に、司令官のスマートフォンに位置情報を共有出来るアプリを入れてもらったよね? あれで分かったのよ」

 

「ああ、あれか。確か、他にも色々と入れてもらっていたな。俺はそういうのに疎いからよく分からんが……まあ、お陰で助かったよ、イムヤ」

 

「お礼は別にいいの。司令官が嬉しいなら、それで」

 

「所で、イムヤに聞いておきたい事があるんだが……」

 

 俺はありのままを話した。武蔵の言葉は、ある意味で正鵠を得ている。だからといって、扶桑を切り捨てる事など、出来はしない。

 イムヤは黙って話を聞いていたが、やがて中身を十分に咀嚼し終えると、

 

「武蔵が全部正しいとは思わないけど、扶桑が全く悪くない訳でもないと思うの」

 

「それは、扶桑が俺を困らせる存在だからか?」

 

「うーん…………あ! でも、仮に扶桑が轟沈しそうになっても私が助けてあげるから、大丈夫だよ! まあ、そんな心配はないと思うけど」

 

「……お前は本当に優しい奴だよ、イムヤ」

 

 彼女の頭を撫でつけるには、俺の指指は思いのほか太すぎる。

 イムヤは最初こそ嫌がってみせたものの、やがて諦観と共に、なすがままにされるを許した。子猫を思わせる格好に落ち着く。

 字義通り借りてきた猫同然となった伊168を抱きかかえながら、俺はある事を考えていた。武蔵の姿が思い浮かぶと共に、視線が、執務机の引き戸に注がれる。

 

「…………」

 

 新技術とも称されるそれは、まだ試験運用中の段階ではあるものの、今後の戦局を大きく左右するほどの影響力を秘めていた。

 本格的な実戦配備が始まれば、深海棲艦との戦いは、次なる局面へと足を踏み入れるであろう。だが、そもそもの絶対数が少ない現状を鑑みれば、今はまだ、日の目を見る事のない秘密兵器でしかない。

 虎の子とも言うべきそれを、誰に託すべきなのか。そこが問題だった。

 きっと、恐らく、軍人としての正しい選択は、武蔵の言葉に準ずる事だ。けれども、それを容易に受け入れる事の出来ない自分が、どこかにいる。それ自体が真円を象っている事も、原因の一つといえた。

 

「どっちでもいいと思うの」

 

 いつの間にか、イムヤと俺の視線は重なり合っていた。彼女にしてみれば、俺の悩みの種なんぞ、とっくの昔に御見通しであったのかもしれない。

 

「司令官自身が、やりたいようにやればいいのよ。イムヤは、それでいいと思う」

 

「俺、自身か……」

 

「勿論、イムヤが相手でもいいんだからね?」

 

 くしゃりと笑って見せるイムヤは、何もかもを見透かしているようだった。

 あまりの不甲斐なさに恥入った俺は、誤魔化すかのように件の代物に対し唇を尖らせる。

 溜息混じりの笑みだが、何処となく重みの解消されたそれがそこにはあった。

 

「それにしても、いくら身につける必要性があるとはいえ、よくもまあ上層部もオーケーを出したもんだ。あの形を採用したものを女性に贈るなんて、一歩間違えればドン引きもんだぞ。ピアスやネックレスでも良かっただろうに。おまけとばかりに、酷い字面と来たもんだ」

 

 初夜にインポテンツが発覚してみろ。一日で離婚だ。そうでなくとも夫婦仲には冬が訪れる。

 そもそも、出来る限り彼女達をそういう風に見ないよう教え込まれたこっちの身にもなってほしいものである。心の中で咽び泣いた俺は、あらん限りの罵声を持って上層部の頓珍漢ぶりを罵った。

 老いでとっくの昔に立たなくなったあんたらの息子とは違って、こちとらまだまだ若いんだよ! 若いってのに、俺だけがあんたらの気持ちを汲む事が出来るのはどういう了見だ!? こんな矛盾に苦しめられるのも意味が分からん!

 精神年齢こそ口を出す域には達していないものの、女性にとってこの手の話題は避けては通れないものないらしく、イムヤもまた、腹に一物を抱えているようだった。

 

「あ、分かる!」

 

「だろう? 戦力向上のためとはいえ、いずれはそれを幾人にも配る事になるとあっては、想像するだけで胃が重くなる」

 

「あ、そういう話? うーん、なら、そこまでじゃないかも。だって、どうでもいいもの」

 

「お前みたいにアクセサリー気分で身につけられる奴ばっかりだったら、俺もここまで気苦労はしないさ……さて、そろそろ扶桑の所に行くか」

 

「きゃっ! だから司令官、いきなり立たないで!」

 

 有無を言わさぬ勢いで立ち上がった俺は、執務机をまさぐり、奥の方に仕舞われていたものを取り出した。リングケースである。

 触り慣れないその感触は、たっぷりの違和感で煮込まれていたが、不思議と握りしめる五指に力が入った。

 執務机に投げ出された伊168と目が合う。肢体を投げ出した少女はしばらくこちらを見つめていたが、やがて転げ落ちるようにして執務机から降りた。

 

「いたっ」

 

「重かったからな。その報いだ」

 

「ちょ、今何て言った!?」

 

「うおっ!? 何だ何だ、いきなり大声をあげるな!」

 

 ほうほうの体で執務室を抜け出した俺は伊168と別れると、一路艦娘達が集う寮へと足を向けた。

 足を踏み入れ、立ち並ぶ扉の森を乗り越えた先には扶桑の私室があった。姉妹艦扶桑の私室と隣あう形で、周囲には西村艦隊の面々の部屋部屋が隣在している。

 意を決してノックをしてみると、暫くして、ゆっくりと扉が開く。

 

「……何だ、提督か」

 

「っ、山城か。扶桑はいるか?」

 

「ええ、いますけど……」

 

 俺を出迎えたのは、扶桑型戦艦二番艦である山城であった。姉同様に垂れ下がった瞼が、彼女の落ちくぼんだ精神を如実に表している。

 先の件も兼ねてか、彼女は酷く暗い雰囲気を醸し出しており、所帯なさげに身を揺らす煌びやかなかんざしは、強烈な異物感を振りまいていた。

 山城は一時こちらから視線を外すと、何か言いたげに室内の方に目をやった。どんよりとした瞳の動向を窺っていると、やがて、

 

「姉様に、用があるんですよね? ……入って」

 

「あ、ああ」

 

 了承の言葉を得た所で、俺はようやく扶桑の私室に入りこむ。どうしようもなく身体全体に拡散する動揺が、俺の行動を律しているように思えた。これでは、駄目だ。

 しかし、己を奮え立たせ、何とか足を踏み入れた俺は、扶桑の姿を視界に入れた途端、天を仰ぎたくなる衝動に襲われる事となる。

 

「…………提督?」

 

 声を上げるばかりで、表を上げようともしない扶桑がそこにはいた。

 顔こそ見えないものの、浮かんでいる表情は容易に想像できる。失意に縁取られた輪郭は、彼女の絶望をより一層色濃くしていた。

 山城が彼女の傍に寄り添う。椅子に座りこんだ扶桑は、なすがままに身体を揺らした。

 

「扶桑、大丈夫か?」

 

「私? ええ、大丈夫よ、別に。ほんとよ?」

 

 健気にもそう言ってみせる扶桑であったが、無理をしているのは明らかだ。

 事実、彼女はここに至るまで、表を上げる素振りさえ見せない。

 

「……そんなに気にするな。武蔵との話し合いの場は、いずれ機会を作る」

 

「ええ、そうね、ありがとう」

「演習、残念だったな」

 

「ふふふ……戦艦級の名が聞いて呆れるわね。一度ぐらい連合艦隊の旗艦を務めた事があったなら、話は別だったのかもしれないけど……話は、それだけかしら?」

 

「いや、違う」

 

 山城にならって腰をかがめた俺は、膝元で合わせられていた扶桑の両手の平を手に取った。

 

「提督?」

 

「いつも、すまないな」

 

 だしぬけの謝罪に、彼女は驚いているようだった。唐突な対応に表をあげる扶桑。その瞳には涙が溜まっていた。

 悠長な対応が碌な事を起こさない事を重々承知していた俺は、畳みかけるようにして彼女に語りかける。握りしめる手の平に、熱く火が灯ったかのような錯覚があった。

 

「俺は、戦場に出る事が出来ない。指揮はする。戦術も練る。海域に対する調査だって行うさ。だが、血を流すのは何時だってお前達だ。そして、お前達はそういう役目を帯びて、この世に生まれてきた。たとえ負けようと、たとえ仲間から見下されようと、この使命から逃げる事は許されん」

 

 筆舌に尽くしがたい屈辱が、とぐろを巻いて身体中を駆け巡った。

 もし、俺が戦場に出る事が出来れば。もし、彼女達を上手く運用する事さえ出来ていれば。無用の後悔は二重三重となって、俺の身体に剣を突きたてる。

 けれど、何時までもそれに後ろ髪を引かれる訳にもいかないのだ。俺も。そして扶桑自身も。

 上着から、リングケースを取り出す。

 

「これを、受け取ってほしい」

 

「っ、提督、これって」

 

 扶桑の瞳が驚きに染まるのも構わずにケースを開けた俺は、彼女に見せつけるようにして、その中身を披露してみせる。

 ケースの中には、一紡ぎの指輪が収まっていた。明かりを受けてか、鈍い光を放っている。その輝きはとても眩しく思えるもので、俺は幾度か瞳を瞬かせた。

 装飾の目立たない、シンプルな作りが特徴的である。およそ機能性を重視したそれは、戦闘中であっても差し障りのないよう計算されたもので、だからこそであろう、その指輪及びそれに連なる書類達を総称する言葉に、俺は酷く目まいを覚えた。

 ケッコンカッコカリ。それは、十分な練度を経た艦娘に、更なる力を促すものだ。

 その原理こそ不明であるものの、人の形に抑え込まれたが故に発生したリミッターを、取り外す意味合いがあるのではないかとも言われている。

 暫くの間扶桑は俺と指輪へと交互に視線をくれていたが、やがて先ほどまでの鬱鬱とした表情が嘘のように、忙しなく口を動かし始めた。

 

「でも……私は練度も低いし…………それに」

 

「分かってる。これをはめる資格は、お前にはまだない。はめても、意味がない。戦術的にはまるで意味のない行為だ。だがな、それでも、お前にはこれを持っていて欲しいんだ。俺は信頼の証として、これをお前に贈りたい」

 

「信頼?」

 

 彼女の困惑は織り込み済みのものだ。

 後ずさりしようとする彼女を逃がすまいと更に十指に力を込めると、自然、俺の身体は前のめりになって扶桑に迫っていた。

 

「ああ。当初こそ俺は、この指輪は最も効率的に使うべきだと思ってた。無論、恋愛がどうのこうの言うつもりは端からない。指輪を渡せば結婚が成立するなんて、それこそ中世以前だ」

 

 勿論、嘘がないわけではない。

 そりゃー俺だってこんな美女達に囲まれてんだから、ケッコンカッコガチだってしたくなる。それが男の性ってもんだ。

 だが、恋愛に発展させてみろ。本当に愛する女性を作ってみろ。そんな女性を戦場に送りたいとはきっと思わないだろうし、じゃあそれ以外の艦娘達ならいいのかといったジレンマに襲われる事は目に見えている。彼女達は兵器で、出し惜しみ出来る筈もないのだ。

 自問自答への苦慮は、空気を固定化させた。沈黙に伏した俺を訝しんでか、扶桑が声を上げる。

 

「て、提督?」

 

「は、話がそれたな。と、ともかくだ。俺はこいつを、軍人としてでなく、それこそ恋の成就を願ってでもなく、信頼の証としてお前に託しておきたい。俺は、何があろうとお前の事を信じてる。負けようが貶されようが、俺はお前を見捨てたりなどしない。必ずお前を引き上げてやる。誰が何と言おうと、お前は戦艦だ。戦艦扶桑だ。決して劣ってる所なんてない。こいつは、その証だ。こいつを指にはめるその日まで、そしてそれ以後も、俺は、お前と一緒に戦い続けたい」

 

 リングケースから抜き取った指輪を、無理矢理扶桑の手に握らせる。重なり合った二人の手は、興奮も相まってか熱を帯びていた――問題が起こったのはここからである。

 頭が真っ白になりつつあった俺は、それに付け加え早口で捲し立てたものだから、何がどう作用してその後の展開に影響を及ぼしたのか、まるで理解が追いつかなかった。

 扶桑の瞳から滑るようにして、涙がこぼれる。

 感情の結晶が手の平に落ちてきてからようやく事態の急変に気付いた俺は、止めようのない情動の爆発に、困惑に陥った。

 扶桑が、泣く。狼狽した俺は、彼女と繋がり合っていた手を振りほどいてしまった。

 

「提督……! ごめんなさい……! ごめんなさい……! 私、提督の信頼、私、」

 

「扶桑、泣くな。な、泣かないでくれ。頼むから。ほら、山城がすっごい視線で俺を睨んでる。これは来る、絶対に来るぞ、ほら来た! 痛! 痛いぞ山城! つねるな、つねるなっへ!」

 

 赤らんだ頬で涙ぐむ扶桑。

 けれどもそこには、確かな笑みが湧いていた。

 祈るように胸元で組まれた彼女の両掌は、しっかりと指輪を握りしめている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。

 薄暗い照明の中、一人、笑う女がいる。

 

「貴方ではないの、武蔵。私だけが、私だけがこれを貰い受ける権利がある。私こそが、提督の初めての相手なの」

 

 月が世界を照らす。薄暗さを誇る室内であっても、その笑みは際立った。

女は、月灯りに指を翳す。雪のように白い肌が、より一層強調された。

 

「見て、私の薬指。とっても――――光り輝いているでしょう?」

 

 机の上には――――指輪が置かれている。

 次いで女は、手渡されたばかりのそれを摘まむと、同じく月明かりに照らしてみせた。月に重なり合ったそれは、真円を描いているような錯覚を引き起こすが、実際は僅かに歪んでいる。

 満月に見立てたそれに始めこそ充足感を覚えたものの、次第に自分の矮小な心が覗きこまれているような嫌悪感を抱いた女は、大事そうにそれを懐にしまった。

 月に、雲が翳る。嘘に塗れた女は、静かにほくそ笑んだ。

 

「うつくしき月。あなたはこれからおこることを見ないほうがいい。みにくい血でそまりたくないならば」

 

 後日、これまでの失態が嘘のように、女は鎮守府においても歴代に匹敵する戦果を叩きだす事になる。

 

 

















デビルマンを久しぶりに読んだので一つ。シレーヌ美しい。ご指摘を受けまして、結構ヤンデレ度アップ。あ、血云々言ってるけど、深海棲艦ぶっ殺しただけだからね。
感想を踏まえ、艦娘視点もぶちこんでみました。何だかんだいって一番病んでるのはイムヤだけど。 

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。