ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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Petal17.第三の課題(後編)

 さて、時を少しだけ戻し、ホグワーツの自室でクラウチがイリスとの逢瀬を楽しんでいる頃――

 

 ――イリスは自分の心の世界で、クラウチ――正確には彼の形をした”服従の呪文”――と対峙していた。人が持つ心の世界はまるでミルフィーユのように複数の層が重なり合って出来ている。上部の層は頭で考えたり、行動や感情、表情を形作ったりするなど――他者が見る事の出来る”表面上の領域”を管理している。反対に下部の層は、他者が絶対に見る事の出来ない”裏側の領域”――無意識や潜在意識、魂に根差した思考を司る。

 

 クラウチが念入りに掛けた呪いは非常に精密でそれでいて力強く、イリスの精神的な抵抗や”閉心術”をものともしなかった。クラウチは主であるイリスを一切傷つけずに、層の弱い所を攻撃しては突き崩し、あっという間に心の世界の最下部まで到達した。そこは彼女が一番安心できる場所である、”出雲家の境内”の形を模していた。――ここを制圧されたら一貫の終わりだ。イリスは鳥居の下で杖を握り締めながら、クラウチをきっと睨み付けた。しかし彼はたっぷりとした余裕のある笑みを見せつけながら、優雅な所作で杖を弄ぶだけだった。

 

「ここで最後だな。必死に抵抗するお前の愛らしい姿も、これで見納めだ」

「私はあなたの言いなりになんてならない」

 

 イリスは杖先をクラウチへ向け、毅然とした態度で言い返した。――この戦い、決して負ける訳にはいかなかった。自分が愛しているのはドラコだけだ。”違う人を愛するように”と魔法で心を操られるなんて真っ平御免だった。しかし対するクラウチは少女の反抗に気を害するどころか、可愛い悪戯っ子を見るような目で軽く笑うだけだった。やがて彼は淀みない動きで杖を一振りした。

 

 次の瞬間、イリスの手から杖が弾け飛んだ。そして彼女はクラウチの杖先から噴き出した魔法の縄に縛り上げられて、石畳の上にドサッと倒れ伏した。いくら魔法力が生まれつき潤沢であるとは言っても、最近”閉心術”を習得したばかりのイリスと、ホグワーツでダンブルドアにさえ怪しまれる事なく、完璧に別人を演じ切れるほどの優れた魔法戦士であるクラウチとでは、格が違い過ぎた。

 

 イリスは縄目を何とか解こうともがきながら、近づいてくるクラウチを必死で睨み付けた。彼は少女の傍にしゃがみ込むと、愛おしそうにその頬を撫で、幼い子供に言い聞かせるような優しい口調でこう言った。

 

「イリス。もう下らない抵抗は止めて、自分の宿命を受け入れろ。あの方がお選びになった純血の優秀な男と結婚し、子を産んで後継者として育て、メーティスの一族を存続させる。それがお前の人生なのだから」

 

 クラウチの冷酷な言葉は魔法で出来た氷の矢となってイリスの小さな心臓に突き立ち、冷たく凍らせた。――自分の意志など全くない、他人が決めたレールを歩んでいくだけの”操り人形”のような人生。そんなの、絶対に嫌だ。

 

「何もお前だけに限った話じゃない。子供は皆、親の操り人形だ。俺だってそうだった」クラウチは冷たい声で言った。

「幸運な事に俺は糸を切って抜け出す機会を得たが、お前の場合は”特別”だ。お前はあのお方から決して逃げる事などできない」

 

 

 ふと、イリスは耳が痛くなるほどの()()()()()()を感じた。先程から周囲に満ちていた神社を取り巻く木々の騒めきや、小鳥達の声がピタッと止んでいる。得体の知れない不気味な静謐が、辺り一帯を包み込んでいた。イリスは視界の端に何かが掠めたような気がして、身を捩ってその方向へ顔を向けた。そして驚愕の余り、大きく息を飲んだ。

 

 ――クラウチの背後から、何の音も気配もなく()()()()()()()が迫っていた。波の高さは天にも届く程で、泡立つその表面からは無数の白い手が突き出し、世界中のあらゆるものに触れてはそれらを白い塵へ変えていく。津波が過ぎ去った跡には、白い塵の降り積もる虚無な世界だけが残された。

 

 それはヴォルデモートが傍にいる事でかつてないほどに強まった”血の呪い”の姿だった。呪いは恐ろしい津波に姿を変え、それにとって”不要なもの”――イリスが呪いに蝕まれるまでに築いた全ての記憶達――を全て漂白しようと蠢いていた。まるで魔法の消しゴムで落書きをきれいさっぱりと消し去って行くように、イリスの世界が失われていく。それは余りに圧倒的な力だった。一人の少女が津波の前に立ちはだかったところで、その進行を止める事などできない。

 

 やがて白い津波はクラウチとイリスの間近まで迫り、白く煙った無数の手が少女の右腕に絡みついた。たちまちゾッとするような冷気が全身を包み込み、みるみるうちに腕は白い塵へと変わり、石畳の上に降り積もっていく。イリスは余りの恐怖に呑まれ、身動き一つ取る事が出来ないでいた。その時、誰かに強く突き飛ばされて、少女はコロコロと地面を転がった。

 

「逃げろ!早く!」

 

 ――クラウチだった。白い手の群れに全身を掴まれ、今にも波の中へ引き込まれようとしながらも、彼は愛する者を守るために決死の表情でそう叫んだ。やがてイリスの目の前で、彼はみるみるうちに白い塵へと変わり、さらさらと砂のように地面に降り積もっていく。イリスは失った右腕をかばいながら、慌てて駆け出した。

 

 しかし、イリスの逃亡劇は長く続かなかった。数メートルも行かない内に、目の前の景色が真っ白に変わりゆくのを見て、彼女の足はたまらず急ブレーキを掛けた。何時の間にかイリスを中心とした半径一メートル以外の全ての領域が漂白されていた。少女の足元にわずかに残った境内の名残である石畳も、見る間に小さく削られていく。四方から迫る波の中から無数の手が蠢いて、自分に手を伸ばしている。――もうおしまいだ。イリスが恐怖に縮み上がって立ち竦んだその時、頭上から親友の声が力強くこだました。

 

『イリス!呪いなんかに負けるな!一緒にホグワーツへ帰ろう!』

 

 ――ハリーの声だ。イリスが思わず頭上を振り仰ぐと、そこには真っ白な空を透かして”現実世界”の光景が映っていた。ハリーが墓石から必死に抜け出そうともがきながら、正気を失った自分の目を覚まそうと一生懸命に呼び掛け続けてくれている。イリスは親友の友情と勇敢さに深く感じ入り、心がじんと熱くなって歓喜の涙が零れ落ちた。――私も諦めない。イリスはすぐ目の前で蠢く手の群れを睨んで、強く思った。絶対にハリーと一緒に、ホグワーツへ帰るんだ。

 

 その時、イリスの足下が眩い()()()()()を放った。彼女が驚いて顔を下に向けると、石畳が硝子のように透け、その下に”魔法の炎”が轟々と燃え盛っている様子が確認できた。イリスは夢中で左腕を振り上げて、石畳に叩きつけた。床は碓氷(うすこおり)のように簡単に割れ、少女は下に落ちて行く。炎の中に入り込んだイリスを追いかけて、白い手達の指先が虹色に煌めく火に触れた。その瞬間、手の群れは苦しそうに指先を引き攣らせて、凄まじい悲鳴を上げた――

 

 

 ――ハリーは絶叫した。ヴォルデモートが戯れに掛けた”磔の呪文”は凄まじい拷問だった。

 

 ヴォルデモートはルシウスに乞われて自らが復活するまでの軌跡を語った後、『死喰い人達の前で、十三年前に自分の力を奪ったハリー・ポッターを殺し、彼の脅威を克服した事を証明する』と言い放った。ヴォルデモートは前菜だと言わんばかりに”磔の呪文”でハリーを軽くいたぶって楽しみ、ルシウスに命じて少年の縄目を解かせた。

 

 ハリーは痛苦の名残に喘ぎながらも、隙を突いて走り出そうと力を込めたが、傷ついた足がぐらついたために、なんとか倒れないようにと踏ん張る事しかできなかった。そうこうする内に死喰い人の輪がハリーとヴォルデモートを囲んで小さくなり、輪の隙間を掻い潜って逃げる事も不可能になった。ルシウスは杖を振り、ハリーの手元に彼の杖を戻した。イリスはルシウスの傍に立ち、力なく啜り泣いている。

 

「ハリー・ポッター、決闘のやり方は学んでいるな?」

 

 暗闇の中で真っ赤な目を邪悪にぎらつかせながら、ヴォルデモートが低い声で唸った。――その言葉で、ハリーはクリスマスパーティの直前にロンと行った決闘や、シリウスに教えてもらった作法の事をぼんやりと思い出した。しかし、果たしてその記憶や知識が何の役に立つと言うのだろう?どす黒い絶望の感情が、ハリーの心を覆い尽くしていく。ヴォルデモートを運良く退けたとしても、今度は大勢の死喰い人達が自分に襲い掛かって来る。こんな非常事態に対処できるようなものは、一切何も習っていなかった。ヴォルデモートは実に小気味良さそうな顔で、蒼白な表情を湛えるハリーをじっと眺めている。

 

「ハリー、互いにお辞儀をするのだ。儀式の詳細には従わねばならぬ。さあ、間もなく訪れる”死”に礼を尽くすのだ」

 

 ヴォルデモートはそう言うと優雅な所作で軽く腰を折ってみせたが、蛇のような顔は真っ直ぐハリーに向けたままだった。死喰い人達が忍び笑いをしながら、ハリーの様子を見物している。しかし、彼はお辞儀などしなかった。

 

 ――殺される前にヴォルデモートに弄ばれてなるものか。彼は歯を食い縛り、宿敵を睨み付けた。そんな楽しみを与えてやるものか。けれどもそんなハリーの抵抗など何でもないかのように、ヴォルデモートは杖を一振りした。すると巨大な見えない手が少年を容赦なく前かがみにさせ、強制的にお辞儀をさせた。その滑稽な様子を見た死喰い人達は皆、腹を抱えて大笑いした。

 

 

 そして決闘が始まった。ヴォルデモートは杖を上げ、ハリーがまだなんら身を守る手段を取る間もなく、身動きすらできないうちに、またしても”磔の呪文”を放った。今度は先程戯れで掛けられたものよりも、ずっと長く苦しかった。まるで白熱したナイフが全身の皮膚を一寸刻みにしているような――想像を絶する痛苦に、彼は身を捩って泣き叫んだ。最早、自分がどこにいるのかも分からない。ハリーはこれまでの生涯でこんな大声で叫んだ事がないというほど、大きな悲鳴を上げていた。

 

 やがて、痛みが止まった。ハリーは激しく息を荒げながら、震える両手で地面を搔いて、よろよろと立ち上がった。ふと自分の荒々しい呼吸音に紛れて、誰かの啜り泣く声が聴こえた。ハリーは涙と痛苦で朦朧としている視界の中で、目の前に小さな親友が立っているのを見た。――イリスがヴォルデモートの持つ杖を包み込むようにして縋り付き、背を震わせて泣きじゃくっている。

 

「お願いです・・・陛下・・・」イリスは蚊の鳴くような、か細い声で啜り泣いた。

「ハリーに、ひどいことしないで・・・」

 

 先程までゲラゲラと笑っていた死喰い人達は急に静まり返り、皆引き攣った表情を浮かべて、思わぬ暴挙に出たイリスをこわごわと見つめた。いくらヴォルデモートの寵愛を受けているとは言え、彼女はご主人様の宿敵を屠る楽しみを邪魔してしまったのだ。しかしヴォルデモートは満足気に唸り、骨のように白い手でイリスの頭を愛おしげに撫でるだけだった。

 

「お前は全く、仕様のない我儘娘だ。――良いだろう。お前の可愛い友人は、痛みもなく一瞬で殺してやる。それで良いな?」

 

 ”親友の死”が間近に迫っている事を確信したイリスは今や骨の髄まで震え上がりながらも、()()()()()()()

 

 ――その様子を見た時、ハリーは自分の中に残る痛みの残滓も恐怖も、何もかも全てが消え去っていくのを感じた。代わりに心の奥底から沸々と湧き上がってきたのは、ヴォルデモートに対する激しい憎悪と怒りの感情だった。『僕はセドリックと同じように死ぬ』――ハリーは情け容赦のない、宿敵の赤い目を見つめ返しながら、そう思った。だけど、弱気になったりするもんか。命乞いなんてしない。あんなに優しくて純粋なイリスを呪いで一方的に穢し、僕の死を許容するほどまでに心を壊してしまった奴に。たとえ力では勝てなくとも、僕は絶対に負けたりなんてしない。

 

 ヴォルデモートはイリスを死喰い人の輪の中へ押し遣ると、再び杖を上げた。しかし、今度はハリーも準備ができていた。クィディッチで鍛えた反射神経で、彼は横っ飛びに地上に伏せた。次の瞬間、自分を捕え損ねた呪文が、少年のすぐ近くにある墓石の一部を粉砕した。

 

「隠れんぼじゃないぞ、ハリー」

 

 ヴォルデモートの冷たい猫撫で声が段々近づいて来た。死喰い人達が下品な笑い声を上げている。ますます激しく泣きじゃくるイリスをルシウスが優しく抱き締めて、慰めている。ヴォルデモートは陰湿にせせら笑い、舌なめずりをした。

 

「俺様から隠れられるものか。もう決闘は飽きただろう。娘の願い通り、すぐに殺してやる。あっという間だ。――最も俺様には分かる筈もないが。死んだ事がないからな」

 

 ハリーは墓石の影でうずくまり、いよいよ最期の時が来た事を悟った。――望みはない。助けは来ない。ヴォルデモートが更に近づく気配を感じながら、ハリーは恐れをも、理性をも超えた――”たった一つの事”を思い詰めていた。――子供の隠れんぼのようにここにうずくまったまま死ぬものか。ヴォルデモートの足下に跪いて死ぬものか。父さんのように、堂々と立ち上がって死ぬのだ。たとえ防衛が不可能でも、僕は身を守るために戦って死ぬのだ。

 

 ハリーは果敢に立ち上がった。杖をしっかりと握り締めて構えると、墓石をくるりと回り込んで、ヴォルデモートと対峙した。ヴォルデモートの真っ赤な双眸と、ハリーの緑色の双眸が交錯する。やがてヴォルデモートは、とてつもなく滑稽な姿をした魔法動物を見るかのような目をハリーに向け、大きな声で嘲笑った。

 

「なんと、ハリー!お前は()()()()()()()のか!」

「黙れ!!」

 

 ハリーは激昂した。ヴォルデモートの杖から緑色の閃光が走ったのと、ハリーの杖から赤い閃光が飛び出したのは、ほとんど同時だった。二つの閃光が空中で激しくぶつかり合った。そして突然、ハリーの杖が電流が貫いたかのようにブルブルと振動し始めた。

 

 やがて眩い輝きを放つ金色の光が、ハリーとヴォルデモートそれぞれが持つ杖を結んだ。――これは何なんだ?全く事情が掴めないハリーは、ヴォルデモートの表情を仰ぎ見た。先程まで自信と残虐さに満ち溢れていたその目は、今は驚愕の感情に塗り潰され、大きく見開かれている。彼の杖も同じように震えていて、蒼白い指先がそれを抑えようと必死に握り締めていた。

 

 しかし、驚くべき事態はこれだけで終わらなかった。今度は杖同士が金色に輝く糸に結ばれたままの状態で、ハリーとヴォルデモートの足が地面を離れ、空中に浮き上がって行ったのだ。二人は暗闇の中を滑るように飛んで、墓石も何もない場所に着地した。次の瞬間、二人の杖を繋いでいた金色の糸が裂けた。光は一千本余りに別れ、二人の間に高々と弧を描き、周囲を縦横に交差して、金色のドーム型の網――”光の籠”を創り上げた。

 

 ルシウスは他の死喰い人達に指令を飛ばしながら、ヴォルデモートを助けるために杖を取り出した。しかしヴォルデモートは何とかこの不思議な金色の繋がりを断ち切ろうとしながらも、ルシウスを押し留め、”一切手を出すな”と言い放った。

 

 ――ふと光の籠の中から、この世のものとも思われない”美しい調べ”が聴こえてきて、イリスは思わず金色のドームへ歩み寄った。この歌をずっと昔に、どこかで聞いた事のあるような気がした。最も美しく、そして希望に満ちた調べを。

 

―――――――――

 

――――――

 

―――

 

 イリスは心の世界の最下部で、魔法の炎が創り出したドームの中に守られながら、外の様子を固唾を飲んで見守っていた。

 

「イリス、良く頑張った。もう大丈夫だ」

 

 ふとイリスの大好きな声が、すぐ傍で聴こえた。漆黒のドレスローブを着たドラコがいて、自分に優しく微笑みかけている。――それはドラコの形をした”イリスが持つ彼の記憶”だった。イリスはヴォルデモートに絶対に知られたくない”大切な人々の記憶”を、この炎の中に隠していたのだ。

 

 虹色の炎を透かして、無数の手が群れを成し、周囲を泳ぎ回っている様子が確認できた。それらは時々炎を触ろうとしては、火傷をしたかのように指先を勢い良く引っ込めている。大勢の人々の愛で出来た魔法の炎は、イリスにとっては陽だまりのように暖かく心地良いものなのに、手の群れにとっては”本物の火”と同じようだった。ドラコはイリスの手を握りながら、静かに言った。

 

「あいつはこの炎の中に立ち入る事はできない。中の様子を見たり、会話を盗み聴く事も出来ない。これが何なのか分からないんだ。とうの昔に忘れてしまっている」

 

 不意に手の群れが一つに収束し、すらりと背の高い青年の姿になった。――スリザリンの優等生、トム・リドルだ。たちまちイリスの心身を恐怖の感情が支配して、彼女は極寒の地に放り込まれたかのように震えながらドラコに縋り付いた。リドルは炎のすぐ傍までやって来ると、冷たい怒りに満ちた声で命令した。

 

「イリス、こんな所でずっと隠れているつもりか?この炎から出るんだ。これは命令だ。また厳しい罰を受けたいのか?――それとも君の友人を一人ずつ見せしめに殺した方が、君にとって良い薬になるかな?」

 

 呪いはどうあっても炎を破壊できないという事が分かると、イリスが自ら炎を出るように仕向けるため、彼女が最も恐怖を覚える姿――トム・リドルに変身したのだ。リドルはイリスの過去の古傷を抉るような言葉ばかりを選び、次々と投げつけた。

 

 果たして呪いの思惑は成功し、イリスは激しいパニック状態に陥ってしまった。――私のせいで、またハーマイオニーが傷つけられてしまう。イリスは無我夢中でドラコの手を振り解き、炎の外に飛び出そうとしたが、彼は繋いだ手を離さないまま、静かな声でこう言った。

 

「あいつにそんな力はない。ただの脅しだ。恐怖(あいつ)(ぼくら)に勝てない。信じてくれ」

 

 愛する人の忠告は、過去のトラウマに苦しむイリスの心を宥め、落ち着かせてくれた。”恐怖は愛に勝てない”――イリスはドラコの言葉を何度も心の中で反芻し、何とかその場に押し留まった。一方のリドルは、何時まで経ってもイリスが出てこないので、イライラとした様子で炎の周りを歩き回りながら、腹立たしげにこう叫んだ。

 

「こんなちっぽけな炎に、一体何ができる?それは君に何もできない!君の呪いを消すわけでもない。愛は、死の恐怖から逃避するために人々が創った幻想だ。ただの思い出や感情の塊に、愛と大層な名前を付けただけさ。何の意味も成さない。悪戯に感情を掻き乱すだけの、煩わしいものだ!」

 

 リドルの声はまるで駄々を捏ねる子供のように、幼く悲痛な響きを秘めていた。やがて彼は立ち止まり、小さくせせら笑った。

 

「まあいい。愚かな君はいずれ、()()()に吸収されていくだろう」

「お願い、そこから出て来て。あの人に従おう?もうこんな辛い事は嫌だよ」

 

 イリスは思わず耳を疑った。――()()()()だ。リドルの背後から、”もう一人の自分”が弱々しく泣きながら姿を現した。どうして自分が二人いるんだ?イリスは炎の外の様子をもっと良く見ようと歩き出した時、ふと自らの手に違和感を感じて視線を下げ、息を詰まらせた。

 

 ――驚くべき事に、体の輪郭が薄っすらと透けている。どうやらリドルの傍にいる”もう一人の自分”は、呪いに屈した自分の心の片割れのようだった。

 

「頑張って、呪いに抗って、あの人に対抗して、一体何になるの?私、死にたくない。痛い思いをしたくない。あの人に従ったら、もう辛い思いはしなくて済むんだよ?どうしてそこにいるの?」

「もう半分の君はとってもお利口だ」

 

 リドルは満足気にそう言って、少女の頭を優しく撫でた。しかし、本物のイリスはそれどころではなかった。もう一人の自分が泣き事を言う度に、自分の体はますます透明になっていく。『本当だ』――やがてイリスはそう思い始めた。どうして私はこんな炎の中にいるんだろう。リドルの言う通り、ここにいたって呪いが消えるわけじゃない。私はヴォルデモートに歯向かえば死んでしまう。なのに、どうして絶望せずに呪いにも抗って、ここにいるんだろう。

 

 その時、ドラコがイリスの肩をそっと掴んだ。彼はローブの胸ポケットから、掌に載る程の小さな薪を大事そうに取り出した。それは轟々と燃え盛る周囲の薪達とは対照的に、燻ぶる様子すら見せていない。彼女は不思議そうに覗き込んで、小さく息を飲んだ。水晶のように輝く樹皮の中に、リドルの傍で泣きじゃくる”もう一人の自分”の顔が映っている。――それは”自分自身への愛”が詰まった薪だった。

 

「その理由は、もう君には分かっている筈だ」ドラコは愛おしげに少女の頬を撫でた。

「そして()を愛した君なら、()()()もきっと愛せる」

 

 二人は言葉もなく、ただ静かに微笑み合った。やがてイリスはしっかりと頷いて、炎のドームをくぐって外に出た。――ドームの外は、不気味なほどに真っ白な世界だった。無数の手の群れが蠢く以外は、何も残されていない。リドルが我が意を得たりとばかりに微笑んでいる。イリスはほとんど透明になった手で、自分を責めるように泣きじゃくるばかりの”もう一人の自分”の手を取った。

 

「私も分からないの。どうして諦めないのか」

 

 イリスが静かにそう言うと、もう一人の自分が涙に濡れた目を見開いて、こちらをじっと伺い見た。

 

「何度もそう思った。もうこんな事は止めよう、逃げ出そうって。でも・・・どうしようもなく辛くて悲しい事が起きる度に、周りの人達や、皆との大切な思い出が、力強く支えてくれるんだ。そうしたら、私が背負ってた重い荷物が少しだけ軽くなるような気がするの。暗くて冷たい未来が、明るく暖かい光に満ちている気がするんだ」

 

 ――確かに自分の人生は他の人々と比べて、辛くて悲しい出来事が多い。けれどもどんなに心を痛めても、かけがえのない大切な人々が、時に命懸けで自分を絶望から救い出し、正しい場所へと導いてくれる。だからこそ、自分はここまで歩いてこれたんだ。もう一人の自分は鼻を啜りながら、怯えた声で囁いた。

 

「この先、悪い事ばかり起きるかもしれないよ。もう二度と明るい光が差さなかったら?」

「きっと大丈夫だよ」

 

 イリスは明るい声でそう言うと、少女の手を握り、気丈に微笑んだ。

 

「皆が、私に希望を持つ事を教えてくれた。それを信じよう」

 

 イリスは自分を守るようにして燃え盛り続ける、魔法の炎をじっと見つめた。――愛する事は希望を持つという事なんだ。愛する人々がいるからこそ、明日が楽しみになる。たとえ今日という日が絶望に満ちていたとしても、彼らと一緒なら、暗い未来に一縷の希望を見出す事だってできる。その言葉を聞いたもう一人の自分は、悲しそうに眉根を下げて顔を俯かせ、蚊の鳴くように小さな声でこう尋ねた。

 

「あなたは”弱い私”が嫌い?」

 

 『君自身もきっと愛せる』――その時、イリスは先程のドラコの言葉をふっと思い出した。『もっと自分を受け入れて、褒めて、愛してあげなさい』――かつて自分に掛けてくれたミセス・ノリスの言葉が、それに重なった。イリスは自分が最も愛さなければならない相手に、やっと気づいた。少女はそっと自分自身を抱き締めた。ずっと傍にいて、決して逃げる事も出来ない存在なのに、”自分を愛する”というのは世界で一番難しくて勇気のいる行為だ。

 

「大好きだよ。だって私なんだもの。もう一度、私の事を信じてあげてくれないかな」

 

 イリスが優しくそう言うと、もう一人の自分は泣きながらも、こくんと頷いた。次の瞬間、二人の少女の体は眩いばかりの虹色の輝きに満たされ、やがてその煌めきは白い世界じゅうを埋め尽くした。ドラコの手の中で、小さな薪が狂おしい程に大きく燃え盛り始める。リドルが呻き声を上げ、もがき苦しみながら消滅していく――

 

 

 そして、イリスは目を覚ました。――今までの心の世界で戦っていた記憶の上から、”従者”として過ごしていた現実世界での記憶が覆い被さってきて、イリスはしばらくの間、ひどい混乱状態に追い込まれてしまった。頭がフラフラとし、とても気分が悪い。しかし、それに酔っている時間などない。イリスは何とか自分の心を落ち着けるのに成功すると、目の前に展開された”光の籠”に向かって歩き始めた。金色の網目を透かして、対峙するハリーとヴォルデモートの姿が見える。そこから早くハリーを助けなければ、彼が殺されてしまう。

 

 しかし次の瞬間、イリスは両足を魔法の縄に縛り上げられて、コロンと草むらに転がってしまった。縄目を解こうともがきながらも、その出所を探し出したイリスは、やがて驚愕に打ちのめされた。

 

 縄を出したのは自分自身――”魔法の右腕”だった。それは、自らの創造主であるヴォルデモートの意志に反する行動を拒絶しようとした。イリスの目の前で、右腕は杖先をこちらに向けると脅すようにパチパチと火花を散らせてみせる。――負けるもんか。イリスは奮起し、ありったけの力を込めて右腕に命じた。たとえヴォルデモートが創り出したものでも、今は私の右腕だ。私のものなんだから、私の言う事を聞け!

 

「私の言う事を聞けえええええっ!」

 

 ――イリスは声を限りに叫んだ。イリスのかつてない程の強い意志に従い、彼女の体を循環する魔法力は総力を決して、右腕を攻撃した。右腕が抵抗する度に、イリスの命令に従って異なる固有魔法を有する”二つの血”は、お互いの尾っぽを噛んで狂ったようにグルグル回り続け、無限に魔法力を増産し続ける。

 

 やがて右腕が内包する呪いの力を、イリスが打ち砕いた。右肩から指先に掛けて細かな亀裂が入り、粉々に砕け散って、そして再構築されていく。イリスは杖を掴み直し、異変に気付いて自分を捕えようとやってきた死喰い人に向けて”失神呪文”を唱えた。

 

 しかしイリスが呪文を頭に思い浮かべた瞬間、杖先から赤い光線が迸り、死喰い人は吹っ飛んでいた。少女は驚きの余り大きく息を飲んで、まじまじと自分の右腕を見つめた。――今やイリスの頭と杖は、純粋な彼女自身の魔法力だけで構成された右腕を通して、()()()()()()していた。最早、彼女は魔法を使うのに呪文を発する必要すらなかった。イリスはスニジェットと人間との”交互変身”を瞬きする程の超スピードで行い、ほんの数秒で五人もの死喰い人を昏倒させてみせた。

 

 だが、イリスの快進撃はそこまでだった。自分のすぐ傍を恐ろしい唸りを上げて赤い光線が掠め、彼女は慌てて振り向いた。――ルシウスが細い灰色の目を怒りに滾らせ、杖先を自分へと向けている。如何にパワーアップしたイリスと言えども、非常に優れた魔法戦士であるルシウスと対等に渡り合う事は難しかった。彼は周囲の死喰い人達を”光の籠を監視する役”と”イリスを捕獲する役”の二つに分断させ、冷静かつ的確に彼女を追い詰めていった。

 

 少女はどんどん金色のドームから追いやられ、墓場まで押し戻されてしまった。焦ったイリスがスニジェットに変身して、ルシウスの包囲網を掻い潜ろうとした瞬間、複数の死喰い人が放った”石化呪文”が羽根の一部を掠めた。彼女は金色の光をまき散らしながら人間の姿に戻り、地面に転がった。

 

「もう一度、()()()()の時間だ。お嬢ちゃん」

 

 マクネアが華奢な造りの金色の鎖を振り回しながら、イリスに向かってニヤリと笑ってみせた。彼女はまだ痺れの残る体を懸命に動かして、マクネアが放った金色の鎖から何とか逃れる事に成功した。死喰い人達が下賤な笑い声を上げ、墓石の影に隠れるイリスに迫った。やがて二人の死喰い人が、彼女から少し離れた所に転がったあるものを見つけて、ゲラゲラと笑った。

 

「おい。あいつじゃないか?ハッフルパフの代表選手だ」

「あの自慢したがりのディゴリーの息子だろ?・・・死んでやがる。フン、良い気味だ」

 

 ”ハッフルパフの代表選手”、”ディゴリーの息子”、”死んでいる”――余りに衝撃的な言葉の数々に、イリスは今自分を取り巻いている状況も忘れて、二人の死喰い人達の足下にあるものに目を凝らした。もしや、考えたくもないが――セドリックが死んでいるのか?やがて少女の目の前で、一人の死喰い人がそれを乱暴に蹴り上げた。するとルシウスがねっとりとした声で、彼らの暴行を止めた。

 

「余り傷つけるな。あのお方がそれを使って、”面白い見世物”をお創りになられるかもしれぬ」

 

 ――イリスの感情が爆発した。イリスは渾身の力でスニジェットに変身してセドリックの下へ向かい、自分達の周りに強力な”防護呪文”を展開させた。イリスは恐る恐るセドリックの口元に手をやった。息をしていない。死んでいる。虚ろに開かれた灰色の瞳の奥がふと虹色に煌めいて、彼女に――彼が死に追いやられるまでの記憶を垣間見せた。

 

 優しく誠実なセドリックは、自分を助けてくれたハリーに恩義を感じ、譲り合いの末、一緒にゴブレットを取るという事になった。そして彼はここへ連れて来られ、邪魔者としてピーターに殺されてしまった。――なんて惨い事を。セドリックは何もしていないのに。余りに凄惨な現実に心がズタズタに引き裂かれ、息を吸う事すら苦しかった。イリスは大粒の涙を零れ落としながら、周囲を取り巻くルシウス達に向けて懇願した。

 

「あなた達の心は痛まないの?セドリックもハリーも、私だって・・・あなた達の敵じゃない。ただの子供です。何も悪い事なんてしていません。どうか、ホグワーツへ帰して!」

 

 しかしルシウス達は、イリスの言葉に耳を貸すどころか、ますますゲラゲラと笑い転げるだけだった。――何が可笑しいんだ?イリスはまるで特大の氷を無理やり飲み下したかのように喉が詰まり、心臓がキンと冷たく凍り付いていくのを感じた。セドリックは殺され、ハリーだって何時ヴォルデモートに命を奪われるかも分からない。何も悪い事などしていない子供の命を案ずる事無く、どうして笑い飛ばす事ができるんだ?ルシウスは結界のすぐ傍まで近づくと、そっとしゃがみ込んで、半透明の膜越しにイリスをじっと見つめた。そして幼い子供に言い聞かせるように優しい口調でこう言った。

 

「イリス。我々にとって”子供”とは”自分達の家族の子”を示すのだ。残念ながら、ハリーもセドリックも我々の家族の一員ではない。つまり、君と同じ守るべき対象ではないのだ。二人共、生きる価値のない存在なのだよ」

 

 その余りにも残酷な言葉にイリスは咄嗟に呼吸を忘れて喘ぎ、杖を取り落とした。――こんな冷酷な世界の中で、私はさっきまで生きていたの?表面じゅうに細かな亀裂が入り、粉々に壊れ去っていく結界を見て、ルシウスは我が意を得たりとばかりに笑い、茫然と佇んで涙を流す少女を捕えようと手を伸ばした。

 

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 少年は不思議な夢を見ていた。――静まり返った濃紺色の世界で、立派な牡鹿の角に腰掛けたり、熊と見まごうような黒犬の頭にちょんと乗っかったり、荒々しい咆哮を上げる人狼の片耳に縋り付いて、遠吠えの真似をする小さなネズミの夢。そして荒涼とした大地を歩き続ける、不毛で悲しい夢。

 

 『戦って!ピーター、戦って!』――不意に少女の毅然とした声が、耳の中にこだました。”ピーター”、僕はピーターという名前なのか?少年はたゆたう意識の中で、自分の名前を思い出そうと眉を顰め、目を閉じた。

 

 再び目を開けると、少年は――今度は()()()()に立っていた。眼前には見渡す限りの青い海が広がっている。とても安らかで、清らかな気分だった。ふとどこかから女の子のかすかな泣き声が聴こえて、少年の心はざわざわと騒いだ。――チョウの声か?彼女が泣いているなら、早く慰めなきゃ。奇しくもその声が切っ掛けで、彼は自分が()()()()()()という事を思い出した。

 

 ――そうだ、僕は”セドリック・ディゴリー”だ。ピーターじゃない。そしてこの声は、僕のガールフレンドの声じゃない。

 

 やがて水平線の向こうから、美しい細工の施された船がやってきた。――あれは僕を迎えに来たんだ。セドリックは穏やかな笑みを浮かべ、こちらへ静かに近づいてくる船を待っていた。その時、後方で小さな子供の声がして、彼は思わず振り向いた。

 

 砂浜から十メートルほど離れた場所に、優しい風にそよぐ草原が見えた。――その中に、チョウが立っている。セドリックは急いで駆け出し、チョウの名前を叫んだが、彼女はこちらに見向きもしなかった。ふと彼女の背後から、小さな少年がちょこんと顔を出した。その子供は不思議な事に、自分と同じ灰色の目をしている。少年はじっとセドリックを見つめて、にっこりと微笑んだ。セドリックがその子に触れようと手を伸ばした時、彼の意識は急激に遠のいていった――

 

 

 ――そして、セドリックは息を吹き返し、目を覚ました。

 

 数時間振りに味わう空気は、今まで食べたどんな料理よりも美味しく感じられた。正に、()()()()()()()()()だった。酸素を体じゅうに行き渡らせるかのようにゆっくりと呼吸しながら、そっと目を開けると、小さな少女が守りの結界を張って自分を守り、周りを取り囲む魔法使い達に懇願している様子が確認できた。――この少女の名前をセドリックはすぐに思い出す事が出来た。ハリーのガールフレンドの”イリス・ゴーント”だ。

 

 やがてイリスは一人の魔法使いの心無い言葉にショックを受けて杖を取り落とし、結界を強制解除してしまった。茫然とうずくまる少女を捕えようと、狡猾な顔をした魔法使いが迫る。セドリックは電光石火の速さで杖を引き抜き、”武装解除呪文”を放って彼を弾き飛ばした。油断し切っていたルシウスは不意打ちとも言えるセドリックの攻撃に対処できず、成す術なく地面を転がっていった。

 

「”油断大敵”だよ、イリス」

「セドリック!」

 

 ――セドリックが生きている!信じられない程の奇跡を目の当たりにしたイリスは感極まり、セドリックに渾身のタックルを決めた。セドリックは思わず目を白黒させながらも踏ん張った。彼はイリスの銀色の右腕を見て大きく眉を潜めたが、内側に煌めく”闇の印”も視界に入っている筈なのに、彼女への優しい態度は変わらなかった。

 

 セドリックはイリスを促して”守りの呪文”を唱え、再びバリケードを築き上げた後、訝しげに胸を摩った。――確かに、僕はあの恐ろしい緑色の光を受けた。ムーディ先生が教えてくれた”死の呪い”を。だけど僕は生き残った。一体何故?イリスも同じ事を思い至ったのか、二人は顔を見合わせて首を傾げた。やがて、セドリックは”ある事”を思い出した。授業中にムーディはこのような事を言っていた――『”死の呪い”は優れた魔法使いが、心から相手の死を望む気持ちがなければ成功できない』と。

 

「もしかしたら、あいつの呪いが()()()だったのかもしれない」

 

 セドリックが呟いた言葉に、イリスは思わず息を飲んだ。――ピーターが”死の呪い”に失敗した?しかし、二人が会話を交わせたのはそこまでだった。ルシウスが隊列を組み直し、死喰い人達総動員で攻撃を仕掛けてきたのだ。二人はあっという間に追い詰められた。イリスは強力な防護結界を重ね張りし、中からセドリックが攻撃するものの、多勢に無勢で全く追いつかない。夥しい量の光線を受け、今にも壊れそうに震える結界を何とか保ちながら、イリスは親友の身を案じて、遠くの方に光る金色のドームを見つめた。――どうやったらあそこへ行って、ハリーを助け出す事ができる?

 

「ハリーはどこだい?」セドリックが呪文の息継ぎの間に、素早く尋ねた。

「あの金色のドームの中にいるの。あの人も一緒にいる」

 

 セドリックは金色のドームを見つめながら、しばらく考え込んだ。それから自分の傍に転がった”炎のゴブレット”をそっと指差して、静かにこう言った。

 

「イリス、このゴブレットは”移動キー”だ。これに触れば、僕らはホグワーツへ帰れる。なんとかして、あの金色のドームへ行ってハリーを助け出すんだ。・・・君、駆けっこは得意かい?」

 

 

 ハリーは金色のドームの中で、今にも爆発しそうに震える杖と戦いながら、ヴォルデモートと対峙していた。やがて、二つの杖を繋ぐ光の糸に変化が現れた。いくつもの大きな光の玉ができて、二本の杖の間を行ったり来たりし始めたのだ。一番近くの玉がハリーの杖先に近づくと、指の下で杖の柄が熱くなり、杖自体が激しく震えた。――その玉に触れたら、杖はそれ以上耐えられないに違いないと彼は思った。ハリーはその玉をヴォルデモートの方に押し返そうと、気力を最後の一滴まで振り絞った。するとゆっくりと玉の列はヴォルデモートの方へ進み、やがて最初の玉が彼の杖先に触れた。

 

 たちまちヴォルデモートの杖が、辺りに響き渡る苦痛の叫びを上げ始めた。彼は驚いて、目を見開いた。濃い煙のような腕が杖先から飛び出し、消えた。――ヴォルデモートがイリスに与えた腕のゴーストだ。続いて、杖先から濃い灰色のゴーストのような老いた男性が窮屈そうに出て来た。彼はちょっと驚いたように、ハリーとヴォルデモート、金色の網、それから二本の結ばれた杖を眺めた。そしてヴォルデモートを憎々しげに睨み、ハリーを励ますと、金色の網の内側に沿って歩き始めた。次は魔女のゴーストだ。ハリーはその女性の顔をどこかで見た事があった。――バーサ・ジョーキンズだ。彼女が行方不明になった新聞記事で写真が載っていた。

 

 その時、ハリーは理解した。――彼らはヴォルデモートに殺された犠牲者の魂なのだ。杖先から次々とゴーストが噴き出て、ハリーには激励の言葉を送り、彼の所までは届かない低い声で、ヴォルデモートを罵った。

 

 そしてまた別の頭が杖先から現れた。一目見て、ハリーはそれが誰なのかが分かった。髪の長い若い女性の煙のような影が、地上に落ち、すっと立ってハリーを見つめた。彼は熱に浮かされたような目で、自分の母親のゴーストを見つめ返した。

 

「お父さんが来ますよ」リリーが静かに言った。

「お父さんのためにも頑張るのよ。大丈夫、頑張って」

 

 そして父親がやって来た。背の高い、ハリーと同じクシャクシャな髪。ジェームズ・ポッターの煙のような姿が、ヴォルデモートの杖先から花開くように現れた。その姿は地上に落ち、妻と同じようにすっくと立った。ジェームズはハリーを見下ろし、静かに話しかけた。殺戮の犠牲者に周りを徘徊され、恐怖で鉛色の顔をしたヴォルデモートに聴こえないよう、低い声だった。

 

「繋がりが切れると、私達はほんの少しの間しか留まっていられない。それでもお前のために時間を稼いであげよう。

 ハリー、ドームの外をご覧。ゴブレットが”移動キー”になっている。それを触ればホグワーツへ帰れる。君の友人達がそれに気づき、君を迎えに来てくれようとしている」

 

 ハリーは杖を離さないために顔が歪むほど力を込めながら、ドームの外をちらりと見た。――バーサ・ジョーキンズのゴーストの肩越しに、セドリックとイリスが死喰い人達と激しい交戦を繰り広げながら、こちらへ向かって懸命に走ってくる様子が垣間見えた。『セドリックが生きていた。そしてイリスは呪いを克服したんだ』――ハリーの絶望に染まりかけていた感情が瞬く間に金色の希望の光に塗り潰され、熱い感情でグツグツと煮えたぎり、今にも爆発しそうに高まった。ジェームズはわずかに微笑んで、ハリーの肩に手を置いた。

 

「君はなんとかして、彼らに合流するんだ。これが”最後の課題”だ。達成できるね?」

 

 まるで今までハリーが代表選手として課題を達成するのをずっと見ていたかのように――何気ない口調で、悪戯っぽく微笑みながらジェームズはそう言った。思わず戸惑ってハリーが見上げると、ジェームズは愛おしげに息子の肩に手を置いた。

 

「僕達は見えなくてもずっと君の傍にいる。君の課題を成し遂げる様は本当に立派だった」

「ずっと傍にいるわ」

 

 リリーがそっと近づいてきて、息子の頭を優しく撫でた。――ハリーは手の中で滑り、今にも抜け落ちそうになる杖を必死で掴みながら、今にも両目から零れ落ちそうに湧き上がって来る涙を歯を食い縛って懸命に堪えた。

 

「走る準備をして。・・・さあ、今だ!」

 

 ジェームズたちの号令で、ハリーは渾身の力で杖を上に捩じ上げた。すると金色の糸が切れた。光の籠が消え去り、不死鳥の歌がふっつりと止んだ。しかしヴォルデモートの犠牲者の影は消えていなかった。ハリーの姿をヴォルデモートの目から隠すようにと、彼に迫っていた。少年は痛む足をかばいながら、必死に駆け出した。

 

 次の瞬間、イリスとセドリック、そしてハリーの三人を丸ごと包み込むように、細長いトンネルの形をした――淡い輝きを放つ防護膜が展開された。セドリックとハリーのちょうど中間地点に立つイリスが、まるで祈りを捧げるように杖を両手で捧げ持ち、顔の前に掲げている。その杖先から”守りの呪文”がマシンガンのように次々と飛び出して、結界をますます分厚く塗り固めていく。

 

「ハリー!走れ!」

 

 セドリックが結界を壊そうと呪文を放つ死喰い人達を懸命に迎え撃ちながら、怒鳴った。ハリーは足の痛みなど、どうでも良くなった。やらなければならない事に全身全霊を傾けて走った。

 

 ――イリスまであと三メートル。セドリックはすかさず”呼び寄せ呪文”でゴブレットを呼び寄せ、イリスの右腕をしっかりと掴んだ。彼女は真剣な表情で防護膜をますます肥大させ、空中を飛んでこちらへ向かってくるゴブレットとセドリックを繋いだ。――イリスまであと一メートル。ハリーは大きく大地を踏みしめ、彼女の腕を掴もうと手を伸ばした。少女は涙と安堵でぐしゃぐしゃになった顔で、ハリーに優しく微笑みかけた。

 

 次の瞬間、赤い光線がトンネルを粉々に打ち砕いて、イリスの背中を直撃した。――ハリーの目には、全ての物事の動きがスローモーションのように見えた。気を失って、ゆっくりと地面に頽れていく少女の後方に、杖先をこちらに向けたヴォルデモートが立ち、酷薄な笑みを浮かべていた。

 

 雪のように降り注ぐ結界の破片の中で、セドリックは歯を食い縛り、イリスの体を何とかしてハリーに近づけようと押し遣った。ハリーは懸命に手を伸ばしたが、彼女が気絶した事で腕が下がってしまい、()()()()()()届かない。ヴォルデモートは冷たく甲高い笑い声を上げ、今度はハリーに杖を向けた。

 

 その時、イリスのローブの胸ポケットから小さなネズミが飛び出して、少女の袖を駆け上がり、ミミズのような尻尾をハリーの指先にそっと絡ませた。そしてゴブレットがセドリックの手に吸い寄せられ、三人の子供達は一斉に墓場から姿を消した。ハリーはネズミを掌の中にしっかり握り込みながら、空いた手でイリスの腕を探し、夢中で掴んだ。風と色の渦の中で、ハリーとセドリックはイリスを守るかのように固く身を寄せ合った。

 

 

 三人が消え去った後、死喰い人達はこわごわとヴォルデモートを伺い見た。――とんでもない失態だ。ハリー達をおめおめとホグワーツへ逃がし、おまけにイリスの呪いが一部、解けてしまった。しかし、ヴォルデモートは特に気分を害するという風でもなく、静かにこう言った。

 

「ルシウスよ。娘をホグワーツへ帰すな」

 

 ――それは、ゾッとするような執念と欲望に満ちた声だった。間近でそれを聴いた死喰い人の何人かは、泡を吹いて気を失った。

 

「御意に。もう()()は整えてあります」

 

 ルシウスは余りの恐怖に震える歯の根を何とか合わせ、主の足下に跪き、そう応えた。


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