※2:作中の後半に、とても残虐な表現が含まれます。苦手な方は★~★間の文章を飛ばしてお読みください。もし表現がグロすぎる…というご意見がありましたらすぐに修正致しますので、ご一報いただけますと幸いです。
”第三の課題”が行われる日の前日はとても良い天気だった。金色の眩しい日光が窓から差し込み、廊下に太い縞模様を描いている。窓の外は抜けるような青空だ。大広間で昼食を摂った後、イリスとハーマイオニーは連れ立って「数占い学」の授業に、ハリーとロンは「占い学」の授業に向かった。
北塔の天辺にある「占い学」の教室はいつも通り薄暗く、そしてうだるような暑さだった。梯子を昇って室内に顔を出すや否や、焚きしめられた香気にノックアウトされたハリーは、そっと鼻を摘まみながら、窓際に設置された肘掛け椅子にどさっと座り込んだ。それからトレローニー先生に気付かれないように窓をほんの少し開け、僅かに吹き込む風が顔の周りを撫でるようにした。
トレローニー先生は”今日の火星の位置と支配力”の説明をするために教室内の灯りを落とし、机の下から硝子のドームに入った太陽系のミニチュア模型を取り出した。九個の惑星と月、そして燃えるような太陽が、硝子の中に浮いている。とても幻想的な光景だった。ハリーはゆったりと寛ぎ、トレローニー先生が火星と海王星が惚れ惚れするような角度を構成している事について熱心に説明しているのを、ぼんやりと眺めていた。ムッとするような香気が押し寄せ、そよ風が頬を優しく撫でていく。彼は段々眠くなり、やがて束の間の夢を見た。
☆
――ハリーは一羽のフクロウの背に乗って空高く舞い上がり、高い丘の上に立つ蔦の絡んだ古い屋敷へと向かっていた。彼とフクロウは館の上の階にある、硝子の割れた窓に辿り着いて中へ入った。それから一番奥の部屋を目指して、薄暗い廊下を飛んだ。わずかに開いたままの扉を擦り抜けてその部屋に入ると、全ての窓に板が打ち付けてあるのが見えた。フクロウは部屋の中央にハリーを下ろすと、暖炉の傍に設置された肘掛け椅子の方へと飛んで行った。椅子の背はこちらに向けられていて、誰が座っているのかは分からない。フクロウは椅子の縁に留まると、片足に結わえ付けた小包を奥の方へ差し出した。
暖炉の炎に照らされて、椅子の近くに二つの黒い影が蠢いていた。一つは巨大な蛇、もう一つは小太りの男だった。禿げかけた頭、薄い水色の目に尖った鼻――お尋ね者の魔法使い、ピーター・ペティグリューだ。ペティグリューはカーペットの上でうずくまり、苦痛に喘いですすり泣いている。
「ワームテール、運の良い奴よ。お前はしくじったが、全てが台無しにはならなかった」
冷たく甲高い声が、肘掛け椅子の奥の方から聴こえた。何かを旨そうに飲む音がする。
「役立たずのお前とは違い、あれの忠実なる働きは実に素晴らしい。俺様に
椅子の奥の方から、骨のように青白く細い腕が突き出した。その手には小さな硝子製の薬瓶が握られている。中にはどす黒く赤い液体が揺れていた。
「お前のしくじりを見事に挽回した。奴は死んだ」
「ご主人様」ペティグリューが喘いだ。
「私めは、私めは、真に嬉しゅうございます。そして申し訳なく・・・」
「ナギニ」硝子瓶を持った腕が、椅子の背の奥に引っ込んだ。また何かを飲む音がして、再び冷たい声がした。
「お前は運が悪い。ワームテールをお前の餌食にはしない。だが心配するな。もうじき最高のご馳走をお前にやろう。・・・ハリー・ポッターだ」
大蛇は満足気に目を細め、舌をチロチロと出した。空になった薬瓶が椅子の下に放り捨てられる。
「さて、ワームテールよ」ゾッとするほど冷たい猫撫で声だ。
「お前の失態は二度と許さん。だが俺様は今、とても気分が良い。お前の体を罰するのは、あと一度だけとしよう」
「ご主人様、どうかお許しを!」
ペティグリューはその言葉に感謝するどころか、情けない悲鳴を上げて、震えながら椅子の足元に縋り付いた。やがて椅子の奥の方から杖の先端が出て来た。ペティグリューがそれを見て、涎を垂らして泣き喚く。
「クルーシオ、苦しめ!」
ペティグリューは悲鳴を上げ、カーペット上でのたうち回った。まるで体中の神経が燃やし尽くされているような、凄まじい声だ。その瞬間、ハリーの額の傷が焼き鏝を当てられたかのように痛んだ。部屋じゅうに響き渡るほどに大きな声で、彼は頭をかき毟りながら絶叫した――
☆
――親友が自分の名前を叫んだような気がして、ハリーは薄らと目を開けた。気が付くと両手で顔を覆い、「占い学」の教室の床に倒れていた。彼は震えながら周りを見回し、暗がりの中にヴォルデモートが潜んでいないかと目を凝らした。それほどに生々しい夢だった。クラス全員が自分を囲んで立ち、痛々しいものを見るような目を向けている。ロンがすぐ傍に膝をついて、青ざめた顔でこちらをじっと見つめていた。
「大丈夫かい?」ロンが訊いた。
「大丈夫な訳ありませんわ!」
恐怖に凍り付いたこの教室の中で、唯一トレローニー先生だけが喜び勇み、興奮し切っていた。大きな目がハリーに近づいて、興味深げに覗き込んだ。
「ポッター、どうなさったの?不吉な予兆?何が見えましたの?」
「何にも見えませんでした」ハリーは嘘を吐いて、よろよろと起き上がった。
「医務室へ行ってきます。ひどい頭痛がするんです」
トレローニー先生はまるでご馳走を目の前で取り上げられたかのように、不満そうな顔をしたが、ハリーを止める事はしなかった。彼がロンの助けを借りながら立ち上がると、生徒達は気を挫かれたように後ずさりした。――教室を出ると、ハリーは迷いのない足取りで、医務室ではなく校長室へと向かった。また傷が痛んだり、不気味な夢を見た時には、すぐダンブルドアに相談するようにとシリウスが教えてくれていたからだ。学校の関係者ではない自分は、早急に迎えに行けないからと。
☆
二つの占い学の授業が終わった後、ハリーは二度目の夢の内容、校長室に置かれた”憂いの篩”を通して図らずも見てしまったものや、ダンブルドアと話した事のほとんど全てを、親友達に話して聴かせた。――ダンブルドアは『きみとヴォルデモートは掛け損ねた呪いを通して繋がっている』と言った。この傷が痛むのはヴォルデモートが近くにいる時、もしくは極めて強烈な憎しみに駆られている時だとも。ハリーは前髪の上から傷跡の輪郭をそっとなぞった。確かに、あいつは夢の中でいつも怒っていた。つまり僕が見たものは夢ではなく、
四人共、その日の夕食は余り進まなかった。翌日はいよいよ最後の試練が控えているというのに、全く寝付く事もできず、イリス達は夜遅くまで談話室の特等席にかじりついて、納得のいくまで同じ話を繰り返した。
「ダンブルドアも”例のあの人”が強大になりつつあるって、そう考えてるのかい?」
ロンが囁いた。彼はそれほど寒い夜ではないはずなのに、ブルッと大きく震えて自分の体をかき抱いた。その隣に座るハーマイオニーは、もう十分間も黙り込んだままだった。額を両手で押さえ、自分の膝を見つめながら何かを考え込んでいる。イリスは無意識に右腕を掴んで、俯いた。――”たった一度”ヴォルデモートを憎んだだけで、自分は呪いに殺されかけた。もしあの人が完全に力を取り戻したら、一体、自分はどうなってしまうんだろう。
「カルカロフ、バグマン、スネイプ」ハーマイオニーが不意に口を開いた。
「かつて”死喰い人”だった達が、今この学校に集っている。シリウスが言うように、可笑しな事が沢山起こってる。でも誰がそれらの事件の犯人なのか、貴方の名前を”炎のゴブレット”に入れたのか・・・結局、最後まで分からなかった。それが一番気に入らないわ」
「おいおい、バグマンは無実だろ」ロンは明るく口を挟み、ハリーとイリスが笑った。
「スネイプ先生もね」調子づいたイリスもそう付け加えたが、今度は誰も笑わなかった。
「二人共、相手は闇の魔法使いなのよ」ハーマイオニーは深刻な表情を湛えて、口を開いた。
「彼らは皆、狡猾で嘘が上手い。表面上はニコニコして、裏では平気で人を殺したり傷つけたりできるのよ。良い人の振りなんて簡単だわ。ムーディ先生が授業で仰っていたでしょ」
「油断大敵!」
ロンがすぐさま唇をひん曲げてムーディの真似をしたので、皆は思わず吹き出した。まるでディメンターが訪れた後のような――暗く冷え切った雰囲気が、すっと和らいでいく。ハーマイオニーは毒気を抜かれたように笑い、ハリーに労わりの眼差しを向けた。
「ホントに”油断大敵”だわ。ハリー、明日は本当に気を付けて。なんだか不安なのよ。気味が悪いわ。まるで嵐の前の静けさみたい」
もう夜も更けていた。四人はお休みの挨拶をしてから、それぞれの寮へ続く階段を上がっていった。ベッドに寝転がって目を瞑った時、イリスはハリーが”憂いの篩”で見たという――”クラウチの息子”の事をふと思い出した。
クラウチの息子もカルカロフと同じ”悪い魔法使い”だったのだろうか。それとも、かつてシリウスが言ったように――ただその場に居合わせただけで、本当は無実だったのだろうか。あなたの息子だと泣き叫んだ彼に、クラウチ氏はお前など息子ではないと冷たく言い放った。もし自分が無実でイオおばさんに助けを求めた時、そんな事を言われたら――イリスはそう思うだけで、胸が張り裂けそうだった。彼はアズカバンの獄中でたった一人、どんなに辛く孤独だっただろう。イリスの閉じた眦から一筋の涙が溢れ、頬を伝って首筋に流れていく。――そこには針で突いたように、小さな傷跡があった。
☆
翌日の早朝、大広間のグリフィンドールのテーブルは大賑わいだった。大勢の生徒達が入れ代わり立ち代わりハリーのところへやって来るので、彼はまだ一口も飲んだり食べたりできていない状態だった。イリス達はそんなハリーを心配しつつ、自分の期末試験の勉強もしつつで、なかなかに忙しかった。対抗試合の代表選手は期末試験を特別に免除されていたので、ロンはこの時ばかりはハリーを強く妬んで羨ましがった。やがてマクゴナガル先生が生徒達の波を掻き分けながら、ハリーに近づいて来た。
「ポッター、代表選手の家族が招待されて最終課題の観戦に来ています。皆さんにご挨拶なさい」
僕の家族――
ビンズ先生がひっそりと黒板の前で佇む中、イリスは小鬼の叛逆者の最後の名前を書き終えて、ふと窓の外に視線を向けた。――シリウスとハリーが仲良く笑いながら中庭を歩いている。まるで本当の親子みたいだ。ハリーが何かを言ったとたん、シリウスは悪戯っぽく笑って少年の頭をぐしゃぐしゃに掻き雑ぜた。イリスはとても心がほんわかして、穏やかに微笑んだ。
やがて試験の終わりを告げるチャイムが鳴り、生徒達は伸びをして凝り固まった体を解したり、試験の感想を言い合ったりしながら、自分の答案用紙を教卓机に持って行った。大広間へ昼食を摂りに行く道すがら、ロンが死んだような顔をしながら尋ねた。
「なあ、ボドロッドって名前の子鬼、確か三人いたよな?」
「ボドロッドは一人しかいません」ハーマイオニーがピシャリと言った。
「貴方まさか、反逆者の名前を全員覚えていなくて、同じ名前を三回も書いたの?」
「ああ、書いたよ」ロンはやけっぱちになり、頭を乱暴に掻き毟った。
「ボロ髭のボドロッド、薄汚いボドロッド、泣きみそボドロッドの三兄弟さ」
「まあ!」
ハーマイオニーは心底呆れたと言わんばかりに目を回してみせ、束の間、膨れっ面のロンと睨み合った。イリスは吹き出した拍子に、大切な事を思い出した。――『最後の課題に関する”重要な用事”があるため、「魔法史」の試験が終わったら自分の部屋を訪ねるように』と、数日ほど前にムーディ先生から言い渡されていたのだ。けれども、彼女はムーディ先生が苦手だった。本当は行きたくないが、仕方がない。つい大きな溜息を零しながら、彼女は前を歩く親友達に向かって口を開いた。
「私、ムーディ先生のところに行かなくちゃ」
「どうして?」ハーマイオニーが振り返ってイリスに尋ねたが、彼女は首を横に振った。
「分からない。最後の課題と関係があるんだって」
「また
「お次は何だ?今度は”炎のゴブレット”の中にでも沈められるんじゃないか?水責めの次は火炙りってね!」
「もう!縁起でもない事、言わないで!」
ハーマイオニーとイリスは揃って、ロンの石頭に怒りのチョップをかました。そしてイリスは二人に手を振って踵を返し、ムーディ先生の自室へ向かった。古びた扉をノックした瞬間、イリスの意識は不意に遠のいて、何も分からなくなった。
独りでに開いた扉の隙間を擦り抜けると、そこにはムーディ先生ではなく――
「時は来た。しっかりと務めを果たすのだ」
イリスの頭にそっと唇を寄せると、クラウチは静かに囁いた。
「お前と離れるのは寂しい。だが少しの辛抱だ。今夜、あのお方は復活を遂げられる。そして俺達は彼の祝福の下、華々しく婚儀を挙げるのだ。
ウィンキーも呼び戻そう。あれはなかなか役に立つし、お前とも上手くやれそうだ」
その時、クラウチは胸の辺りにわずかな抵抗を感じて視線を向け、眉を潜めた。――イリスが震える両手を突っ張って、懸命に離れようとしている。それから少女は呂律の回らない口を動かして、”誰かの名前”を囁いた。かつて行ったクラウチの授業が図らずも功を成し、イリスは”服従の呪文”に抵抗し始めていたのだ。見る間に男の眼光は獲物を定めた蛇のように鋭くなり、彼は杖先を躊躇う事無く少女へ向けた。
「インペリオ、服従せよ。あの薄汚い盗っ人の名など、口にするな」
クラウチは少女の顎を乱暴に掴んで、噛み付くような口付けを与えた。それから彼はゆっくりと唇を離し、激しい熱を帯びた眼差しで少女を見つめながら、優しく囁いた。
「あのお方は、俺にお前を下さると仰った。他の”死喰い人”共が夢見る事も叶わぬ名誉だ。俺の全てを賭けて、お前を大切にする。あの裏切り者の倅は忘れろ。これからは俺を愛し、俺の胸の中で健やかに生きるのだ」
「はい」
イリスは素直に頷いて、揺らめく瞳でクラウチを見上げた。彼は感極まったように低く唸り、少女を狂おしいほどに強く抱き締めた。
☆
ハリーとシリウスは城の周りをぶらぶら散歩して午後を過ごし、晩餐会が始まる頃に大広間へ戻ってきた。まるでホグズミード村の”三本の箒”で楽しくランチをした時のように、皆は色々な話をしてご馳走に舌鼓を打った。シリウスは、晴れて恋人同士となったロンとハーマイオニーを時々からかった。イリスはその様子を微笑ましく見守りながら、ふと教職員テーブルに視線を向けた。
――テーブルに設けられたクラウチ氏の席には、今度はパーシーではなくファッジ大臣が座っている。今朝ハーマイオニーから借りた”日刊予言者新聞”によると、自宅療養中のクラウチ氏が、定期的にパーシーへ送り付けていた指令について魔法省が疑問を抱き始め、その結果、パーシーは一時的に代理の任を外されてしまい、今現在尋問を受けているのだと言う。ファッジ大臣は彼の代理で来たのだろう、ダンブルドアと何やら真剣な様子で話し合っていた。
食事はいつもより品数が多かったが、ハリーは今や本格的に気が昂ぶり始めてしまい、あまり食べられなかった。魔法をかけられた天井が深いブルーから日暮れの紫に変わり始めた時、ダンブルドアがファッジ大臣との会話を切り上げ、教職員テーブルで立ち上がった。広間中がしんと静まり返った。ダンブルドアは厳かな口調で、間もなくクィディッチ競技場で最後の課題が行われるという事を皆に伝えた。
ハリーは他の代表選手と共に立ち上がった。グリフィンドールのテーブルから一斉に拍手が湧き起こった。シリウスやロン、イリス、ハーマイオニーに激励され、ハリーはセドリック、フラー、クラムと一緒に広間を出て、外へ向かった。クィディッチ競技場は今や跡形もなく、代わりに六メートルほどの高さの生け垣が周りを取り囲んで、正面に隙間が空いている。――巨大な迷路への入り口だ。中の通路は暗く、薄気味悪かった。
十数分後、スタンドに人が入り始めた。何百人という生徒が次々に着席し、辺りは興奮した声と大勢の足音で満たされた。空はビロードのように滑らかな濃紺色に変わり、一番星が瞬き始めている。ハグリッド、ムーディ先生、マクゴナガル先生、フリットウィック先生が競技場に入場し、ハリー達のところへやって来た。全員、大きな赤く光る星を帽子に付けている。ハグリッドだけは帽子を被っていないので、チョッキの背にちょこんと付けていた。
マクゴナガル先生が代表して一歩前へ進み出ると、自分達は迷路の外側を巡回している事、危険に巻き込まれたり、助けを乞いたい時は、空中に赤い火花を打ち上げればすぐ助けに来るという事を伝えた。やがてバグマンの号令に従って、ハリー達は迷路のどこかの持ち場に着くため、バラバラな方向へと歩き出した。ハグリッドはハリーが傍を通る時、激励の意を込めて肩を軽く叩いたので、少年の足は数センチほど地面にめり込んでしまった。
ルードの魔法で拡声された声が、スタンドに大きく響き渡る。自分とセドリックが同点だと説明された時、ハリーがふと観客席の真ん中ら辺を見ると、シリウスが千切れんばかりに手を叩いているのが見えた。その近くにロンとハーマイオニー、イリスがいて、ハリーが手を挙げるとにっこりと笑って手を振り返した。代表選手と彼らが持っている点数を全員分説明し終えたルードは、今度は首から下げたホイッスルを口に当てた。
いよいよ最後の課題が始まった。ルードが鋭く鳴らしたホイッスルの音に急き立てられるようにして、迷路の中にハリーとセドリックが入ってしまうと、観客達の緊張は少し解けた。――あとはただ待つだけだ。イリスは不意に尿意を催して、席から立ち上がった。
「少しお手洗いに行って来るよ」
「早く帰って来いよ。ハリーがすぐにここへ帰ってくるかもしれないんだから」
ロンが入口の方を注意深く見つめながら応えた。――”炎のゴブレット”には特別な魔法が施されていて、ゴブレットを獲得した選手は迷路の入り口に自動転送されるという仕組みになっていた。
スタンドを離れようとした時、イリスはふと――何とも形容しがたい
「どうしたの、夜だから怖い?一緒に行きましょうか?」
「ううん、平気」イリスは慌てて首を横に振った。
「
イリスは首を横に振って奇妙な感情を追い払おうとしながら、クィディッチ競技場を出て城の中に入った。『”例のあの人”の力が強大になりつつある』、『嵐の前の静けさ』――かつての親友達の言葉が、イリスの耳の中でホイッスルのように鋭く鳴り響いて、彼女はたまらず歩みを止めた。しかし彼らの警告は、クラウチが仕込んだ”服従の呪文”を打ち砕く事までは出来なかった。かくしてイリスは再び歩き出した。トイレではなく
―――――――――
――――――
―――
ハリーはゆっくりと目を開けた。頭がズキズキとする。霞がかった視界の端で、誰かがむくりと起き上がった。――セドリックだ。ハリーは片腕を持ち上げ、腕時計を確認した。
今から数十分程前、確かにハリーは迷路の中にいた。そして深閑とする不気味な生け垣の中を進み、時折”四方位呪文”で方角を確認しながら――迷路の中心に”炎のゴブレット”はある。迷路の中心に行くには、北西の方角へ進まなければならない――”
そうして燦然と輝く”炎のゴブレット”が目前に迫った時、セドリックが反対の道から現れた。――そして彼の背後には巨大な蜘蛛も迫っていた。かくして二人は協力して大蜘蛛を倒したが、ハリーは毒ハサミの一撃を喰らって片足に大怪我を負ってしまった。セドリックはハリーが助けてくれた事に深く感じ入り、栄光の座を譲ろうとした。
しかしハリーは拒否し、押し問答の末、”引き分け”――つまり、二人で同時にゴブレットを取る事となった。二人が一緒にゴブレットの取っ手を掴んだ時、彼らの両足は地面を離れた。風の唸りが支配する――不可思議に歪んだ世界の中を、ゴブレットにしがみ付きながら耐え忍んでいる内に、二人は意識を失ってしまったのだ。
☆
段々セドリックの顔や周りの景色がくっきりとしてきた。セドリックは立ち上がってハリーを助け起こし、彼らは途方に暮れたように辺りを見回した。――二人は今、暗く荒れ果てた墓場に立っていた。何故自分達がこんな所にいるのか、検討も付かない。もしかしてこれも課題の続きなのだろうか。ここはホグワーツとは遠く離れた場所らしく、城を取り囲む山々さえ見えなかった。右手にイチイの大木があり、その向こうに小さな教会の輪郭が見える。左手には丘がそびえ、その斜面に堂々とした古い館が建っている。しんと静まり返り、気味が悪い。
ふと暗がりの中を進む、誰かの足音がした。二人は反射的に杖を構えた。暗闇の奥にじっと目を凝らすと、墓石の間を縫うようにして、こちらへ近づいてくる人影の輪郭が見えた。――何か包みのようなものを両手に抱えている。人影は二人から数メートル程先に建てられた、立派な大理石の墓石の傍で立ち止まった。ハリーは杖を構えたまま、横目でセドリックを伺い見た。セドリックも訝しげな視線を返し、二人は再び人影へ視線を戻した。
その時、何の前触れもなく――ハリーの傷跡に激痛が走った。これまで一度も感じた事がないような痛苦だ。彼はたまらず両手で顔を覆い、がっくりと膝を折った。指の間から杖が滑り落ちたが、それを拾う余裕など微塵もない。彼は今、地獄のような痛みに何も見えず、考える事すらできない状況にあった。セドリックが人影から視線を外し、慌ててハリーを助けようと屈み込んだ時、どこか遠くの方から甲高く冷たい声がした。ハリーが夢の中で何度となく聴いたのと、同じ声だ。
「余計な奴は殺せ!」
〖
シューシューという空気が漏れるような不思議な声がそれに重なると、怯えたような別の声が夜の闇を引き裂いた。
「アバダ・ケタブラ、息絶えよ!」
恐ろしい緑の閃光が、ハリーの閉じた瞼の裏で光った。何か重いものが、脇の地面に倒れる音がした。ふと痛みが薄いだような気がして、ハリーはそっと目を開けた。
――セドリックがハリーの足元に大の字で倒れていた。
一瞬が永遠に感じられた。ハリーは茫然となり、セドリックの顔を見つめた。ついさっきまで精悍に輝いていた灰色の瞳は、今はただ虚ろに見開かれて、くすんだ硝子のようにハリーの顔をぼんやりと映し出すだけだった。目の前に突き付けられたセドリックの死を――ハリーは受け入れる事が出来なかった。忘我状態に陥った彼のローブを人影が掴み、立派な墓石の近くへ引き摺って行く。
人影は手にした包みを地面にそっと置いて、杖明かりを点けた。青白い光は”トム・リドル”と刻まれた墓碑銘をほんの束の間、映し出すと同時に、人影の周囲にまとわりつく暗闇も取り払った。――フードを被った小柄な男だ。ハリーは男の手によって無理矢理後ろ向きにされると、墓石ごと魔法のロープで縛り上げられた。無数の結び目を創り出していく男の指先を見て、ハリーはハッと我を取り戻した。――男の手は指が一本欠けている。フードを被った男の正体はピーター・ペティグリュー、通称ワームテールだ。
「お前だったのか!」
ハリーは絶句した。しかし、ワームテールは応えなかった。その指先は止め処なく震え、フードの中から荒く激しい息遣いが聴こえて来る。彼は頭の天辺から爪先までを、恐怖の感情に支配されているようだった。ワームテールは縄目の頑丈さを注意深く確かめると、マントから黒い布を取り出して乱暴に少年の口に押し込んだ。それから一言も言わず、ハリーに背を向けて急いで立ち去った。
セドリックの亡骸が五、六メートルほど先に横たわっている。そこから少し離れたところに、ゴブレットが星灯りを受けて冷たく光りながら転がっていた。ハリーの杖はセドリックの足元に落ちている。彼の視界の端に、ワームテールが大事そうに持っていた包みがあった。漆黒のローブで包まれたそれは、良く見ると――まるで呼吸しているかのように小さく蠢いている。次の瞬間、ハリーの傷跡は再び焼けるように痛んだ。
そしてハリーは理解した。――その包みの中身が、一体
――巨大な蛇だ。夢の中でヴォルデモートが”ナギニ”と呼んでいた大蛇に違いない。ナギニはしばらくの間、鎌首をもたげてセドリックの亡骸をじっと見つめていたが、やがて悠々とした動作でとぐろを巻き、尻尾の先に頭を載せると、こちらへ鋭い眼光を飛ばした。――今にも闇に融け込みそうなほど黒々としたその体の隙間から、銀色に輝く小さな尻尾のようなものがちょこんと覗いている。ナギニは渦を巻いた体の内側に、何かを隠しているようだった。
ワームテールが石の大鍋を押して、墓の前まで運んできた。大人一人が充分、中に入れる程の大きさだ。鍋の中になみなみと満たされた液体が、ピシャピシャと愉しげに撥ねている。ワームテールは鍋の底のところにしゃがみ込むと、杖を振るって火を熾した。その様子を観察していたナギニはとぐろを解くと、静かに暗闇の奥へ消えて行った。――大蛇が隠していたものは、遠目にも分かるほどに立派な刺繍の施された、一枚の絨毯だった。まるで何かを覆い隠しているかのように、絨毯の中央部分は膨らんで丸みを帯びている。四方にあしらわれた銀色の豊かな房飾りが、星灯りを受けて冷たく光っていた。
鍋の中の液体はすぐに沸騰し、やがてそれ自身が燃えているかのように火花が飛び散り始めた。鍋の周囲に濃い湯気が立ちこめ、火加減を見るワームテールの輪郭がぼやけた。ハリーの耳に再び、あの冷淡な声が聴こえた。
「急げ!」
今や液面全体から火花が噴き出し、まるでダイアモンドを散りばめたかのように神々しく輝いていた。ワームテールがローブの包みを開いて中のものを露わにしたとたん、ハリーはくぐもった悲鳴を上げた。――それはパッと見ると、人間の子供のようだった。しかし良く目を凝らしてみるとそれに髪の毛はなく、蛇のように起伏の乏しい顔立ちをしていて、肌はどす黒くて皺だらけだ。ワームテールは嫌悪感を剥き出しにしながら、その生き物を抱き抱えて、大鍋に入れた。『どうか、このまま溺れてしまいますように』――ハリーは必死に願った。傷跡の焼けるような痛みはほとんど限界を超えている。
ワームテールはしばらくの間、注意深く鍋の中を観察していたが、やがてごくりと唾を飲み込んで、一歩下がった。それから杖を上げると、夜の闇に向かって唱えた。
「父親の骨、知らぬ間に与えられん。父親は息子を甦らせん!」
ハリーの足の下にある墓の一部が、不意に砕けた。ワームテールの命ずるままに、細かい塵や芥が宙を舞い飛んで、静かに鍋の中へと降り注いでいく。四方八方に火花を散らしながら、液体は鮮やかな毒々しい青色に変わった。ワームテールは今度はポケットから銀色に輝く短剣を一振り取り出すと、ハリーの方へやって来た。
「敵の血、力づくで奪われん。汝は敵を甦らせん」
――ハリーにはどうする事も出来なかった。彼は精一杯もがいて抵抗したが、ワームテールはいとも容易く少年の右腕を掴んで、その肘の内側を貫いた。たちまち熱い痛みが走り、ハリーは押し殺した悲鳴を上げた。ワームテールは躊躇う事なく小さな硝子瓶をハリーの傷口に押し当てて、滴る血を受けた。それから大鍋に戻ると、その中に血を注ぎ入れた。液体は、燃えるような真紅色へ変わった。
ワームテールは短剣にべっとり付いた血の汚れを拭い取ると、ハリーの目の前を通り過ぎて、絨毯の包みの方へ向かった。彼は絨毯の前まで来ると膝をついて、布の端にゆっくりと手を掛けた。
しかし、ワームテールはそこからピクリとも動かなくなった。大鍋から湧き上がる無数の火花が、フードに覆い隠された彼の顔から、一滴の雫がきらめきながら地面に落ちていく様子を映し出した。その時、どこかからとても聞き覚えのある声がした。――少し舌足らずで、高い声だ。
「しもべの肉、喜んで差し出されん。しもべはご主人様を甦らせん」
絨毯の中から、誰かが立ち上がった。豪奢な刺繍の施された布がゆっくりと滑り落ちて、中にいる者の姿が露わになった。グリフィンドールのローブに身を包み、豊かな黒髪を靡かせた小柄な少女。
――
どうして彼女がここにいるんだ?ハリーは今、自分の見ているものが信じられなかった。少女はワームテールから短剣を受け取ると、空いた手で彼の涙を優しく拭い去った。ワームテールが止め処なく震えながら、少女の足元で咽び泣き始める。
イリスの揺らめく瞳はワームテールを通り過ぎ――ハリーを通過して――輝くばかりの大鍋に移った。すると彼女はまるで神様を見出したかように、陶然とした微笑みを浮かべて、大鍋に向かって歩き出した。ハリーはイリスが大鍋の前で何をするつもりなのかを理解し、全身が総毛立った。――行ってはダメだ!彼は自分が傷つくのも構わずに夢中で暴れ回り、声にならない声で何度も叫んだ。
しかし、親友の声はイリスには届かなかった。少女は”ヴォルデモートに献身する”、ただそれだけのために生まれた。ヴォルデモートとの距離が近づいた事で、呪いの力はこれ以上ないほどに強まった。ゾッとするほど血腥く、そして蕩けるように甘い――”呪いの囁き”が、イリスの意識を狂わせていく。今の彼女にとって”闇の帝王”のために身を尽すという事は、鳥が空を飛び、獣が地を駆けるのと同じ――ごく自然な事だった。
★
イリスは大鍋の前まで来ると短剣を持ち上げ、何の躊躇いもなく自分の右肩に振り下ろした。ハリーは喉の奥が切れ、血が滲む程に絶叫した。しかし無上にも彼の目の前で、鋭い刃が少女の滑らかな白い膚をブツリと裂いて、柔らかな肉を断ち、複雑に重なり合う筋肉の繊維を一本一本切断していく。――やがて”自分自身を傷つけている”という事に本能が激しい危機感を感じ、イリスは強制的に呪いの囁きから目を覚ました。
「あぁあぁああぁああぁ―――ッ!!」
イリスの悲鳴が、夜の闇を劈いた。彼女が見たものは、半ばまで断ち切られた自分の右腕と――それを今にも切り落とそうとする自分の左腕だった。イリスは遅れてやって来た――身を焼き尽くさんばかりの激しい痛みに痙攣し、涙を散らしながら短剣を捨てようとしたが、左腕は主の命令を無視して狂ったように動き続けた。やがて骨をごりごりと削る音と振動が脳髄を大きく震わせて、イリスはたまらず嘔吐した。
切り落とされた少女の右腕が鍋の中へ落ちるのと同時に、肩口から夥しい血液が噴き出して、辺り一帯に降り注いだ。真紅色のシャワーを浴びた液面は歓喜するかのように、ますます燦然と輝いた。
不意に液面が大きく盛り上がると、人の手のような形を取って、少女の肩口を掴んだ。ジュッと肉が焼け焦げるような嫌な音がして、イリスの肩口から煙が上がる。俄かに彼女の悲鳴が途絶え、その小さな体はゆっくりと重力に従って崩れ落ちていった。ワームテールが慌てて彼女を抱き留め、杖を振って傷の介抱をし始める。
しかしワームテールは、突如として襲い掛かった黒い鞭のようなものに乱暴に弾き飛ばされ、ハリーの縛り付けられている墓石にぶつかると、彼の足元にクシャクシャになって泣き喚きながら転がった。――邪魔者を排除したナギニが、イリスに優しく絡みついていた。ナギニは自分の体で即席のベッドを作ると少女を寝かせ、細い舌をチロリと出して涙を舐め取った。やがてナギニは、イリスを助けようと暴れ続けるハリーを不快そうな眼差しで睨み付け、地面に転がったままのワームテールに冷たく言い放った。
〖あれを黙らせて。せっかく良く眠っているのに、起きてしまう〗
果たしてその言葉がワームテールに理解できたかどうかは分からないが、ナギニの視線の先にあるものを見て何かを察したのか、彼はよろよろと立ち上がると、ハリーに杖を向けて”沈黙呪文”を唱えた。とたんにハリーの声は失われた。彼は墓石に縛り付けられたまま、どうすることもできずにイリスを見つめた。今までイリスと過ごしてきた素晴らしい記憶の数々を、今や真っ黒に焼け焦げた――少女の右肩の切断面が残酷に打ち砕いた。ハリーは自分の余りの無力さに、歯を食い縛って血の涙を流した。
大鍋はグツグツと煮え立ち、四方八方にダイアモンドのような閃光を放っていた。その目も眩むような明るさに、周りのもの全てが真っ黒なビロードで覆われてしまったかのように見えた。
次の瞬間、大鍋から出ていた火花が消えた。その代わりに、濛々たる白い靄がうねりながら立ち昇って来た。濃い蒸気が、辺り一帯を埋め尽くしていく。嫌な匂いのする靄にむせ返りながら、ハリーは祈った。――きっと失敗したんだ。どうか、あれを死なせて。僕たちを元の場所へ帰してくれ。
しかし、ハリーの祈りは天に聴き入れられなかった。蒸気を搔き分けて、大鍋の中からゆっくりと立ち上がったのは――骸骨のように痩せ細った、背の高い男の黒い影だった。
「ローブを着せろ」
靄の向こうから、甲高く冷たい声がした。ワームテールは急いで地面に置いてあった黒いローブを拾い、ご主人様に被せた。痩せた男は、ハリーをじっと見ながら大鍋を跨いだ。彼もただ見つめ返した。その顔はこの三年間、ハリーを悪夢で悩まし続けた顔だった。骸骨よりも白い顔、細長く真っ赤に輝く不気味な双眸、蛇のように平らな鼻――ヴォルデモート卿は復活した。
★
ヴォルデモートは突然興味を失ったようにハリーから目を逸らせ、自分の体を調べ始めた。彼は青白く長い指で自分の胸を、腕を、顔を、愛おしそうに撫でた。両手を上げて指を折り曲げるヴォルデモートの顔は陶然とし、勝ち誇っている。その様子を見ていたナギニは、聴く者を思わずゾッとさせるような――冷たく残忍な笑い声を上げた。ふとヴォルデモートの赤い瞳が、ナギニへ向けられる。
男は大蛇のところへ静かに歩いて行った。『イリスに近づくな!』――ハリーは野獣のように牙を剥き出して、声なき声で吼えた。しかしナギニはイリスを隠すどころか、その長い体を器用に動かして、少女をまるで神に捧げる供物であるかのように、帝王の御前へ恭しく差し出した。
ヴォルデモートはしばらくの間、少女をじっと見つめていたが、ゆっくりと屈み込んで、大量の血を失い――透き通るように白くなったイリスの顔にそっと触れた。青ざめた蜘蛛のような手が、少女の輪郭を慈しむように優しくなぞる。やがて虚ろで残虐な笑い声が、彼の口から洩れた。ヴォルデモートは鷹揚な動作で立ち上がり、ローブの中から杖を取り出した。そして杖先をイリスに向けると、古めかしい言葉で構成された、複雑な呪文を唱えた。
すると杖先から、月光のように輝く銀色の光が渦を巻きながら現れた。それはイリスの右肩に吸い寄せられ、彼女の体格に合わせて収束してゆき、見る間に美しい装飾の施された”
「戻っているな」ヴォルデモートが低く言った。
「全員がこれに気付いた筈だ」
それからヴォルデモートは長く蒼白い人差し指を、イリスの腕の印に押し当てた。ハリーの額の傷跡がまたしても焼けるように鋭く痛んだ。イリスはまるで雷に撃たれたかのようにびくりと身体を痙攣させ、玉のような汗を辺りに飛び散らせた。激痛に苦しむハリーを嘲笑うかのように、少女の義手を飾る――真っ黒に焼け焦げた印が、残酷に煌めいてみせた。少女の閉じた眦から新たに溢れた涙を、ナギニが優しく舐め取った。
乙事主様、頑張って!もう少しで完結だから…!