ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

64 / 71
Petal12.豊かな幸運の泉

 七時になると、グリフィンドールの談話室はいつもの黒いローブの群れではなく、色とりどりのローブやドレスで溢れ返り、いつもとはまるで様子が違っていた。ハリーは自室でローブに着替え、部屋の隅の姿見で身形(みなり)を整えた。ルームメイトのシェーマスは同学年一番の美女――パーバティ・パチルと踊るのだと嬉しそうに言って、ハリーがうんざりするほどに、何度も自分の服装チェックを頼んできた。しかしハリーはそんな浮かれた気分にはなれそうもなかった。『もしイリスがパートナーだったら』――彼はシェーマスの本日五回目となる”このローブの色、変じゃないか?”を聞き流しながら思った。もしそうだったら、自分も彼のようにうきうきした心持ちで何度も鏡で髪型をチェックしたり、ローブの色について思い悩んだりしたのだろうか。

 

 シェーマスと一緒に寮の階段を降りると、燃えるような赤毛のとても可愛い女の子が、少し緊張気味にハリーに向かって手を振った。ハリーは目を丸くして、シェーマスは口をあんぐり開けた。――()()()()。濃紺色のドレスローブが良く似合っていて、長い髪を優雅なシニョンに結い上げている。シンプルなデザインのアクセサリーを身に付けた彼女は、ぐっと大人びて洗練されて見えた。

 

「ジニー。素敵だよ」

「ありがとう」

 

 ハリーがぎこちなく褒めると、ジニーは頬に散った健康的なそばかすが見えなくなるくらい、顔を真っ赤にして俯いた。肖像画の穴から出る時、フレッドがジニーをギョッとした目付きで見た後、「素敵だぞ、”蛙の新漬け”ちゃん!」と思いっきりからかった。フレッドはその後、彼女に渾身のキックを喰らった挙句、パートナーのアンジェリーナから顰蹙(ひんしゅく)を買う羽目になった。

 

 玄関ホールも人でごった返していた。大広間のドアが開放される八時を待って、みんなウロウロと落ち着かない様子で佇んでいる。自分と違う寮のパートナーと組む生徒はお互いを探して、人混みの中を縫うようにして歩いていた。

 

 中庭を真っ直ぐに突っ切り、代表選手のフラーを先頭にして、ボーバトン生の一団が入って来た。シルバーグレーのサテンのパーティローブを着たフラーは輝くばかりに美しく、レイブンクローのクィディッチ・キャプテン、ロジャー・デイビースを従えている。男子生徒達はみんな食い入るような眼差しでフラーを見た後、パートナーに静かな鉄拳を喰らっていた。

 

 スリザリンの一群が地下牢の寮の談話室から階段を上がって現れた。監督生を先頭に、続いてハリーの同級生であるブレーズ・ザビニが現れた。ザビニはマルフォイと一緒にハリー達をからかってくる、嫌な取り巻きの一人だ。パンジー・パーキンソンがフリルだらけの淡いピンクのパーティドレスを着て、ザビニの腕にしがみついている。クラッブとゴイルは二人共グリーンのローブで、苔むした大岩のようだった。二人ぽっちでいるところからすると、どうやらパートナーは見つからなかったらしい。

 

 『マルフォイはどこだ?』――ハリーは目を凝らしたが、彼はどこにもいない。もしあいつが女の子と一緒にいたら、イリスがどんなに悲しむか。ハリーは油断なく周囲を見渡しながら、ローブ越しに杖を触った。もしあいつがパートナーを連れていたら――イリスの目に付く前に、僕が呪いで吹っ飛ばしてやる。

 

 やがて正面玄関の樫の扉が開いた。ダームストラングの生徒が、カルカロフ校長と一緒に入ってくるのを、みんなが振り返って興味深げに眺めた。一行の先頭はクラムで、連れている女の子は――なんと、グリフィンドールの同級生、エロイーズ・ミジョンだ。少し曲がった鼻ですぐに分かった。エロイーズの顔のにきびは、以前に目にした時よりずっと良くなっていて、ふんわりした布地のオレンジ色のローブを身に纏っている。クラムはハリーに小さく黙礼すると、エロイーズの腕を優しく引き寄せた。たちまち彼女は真っ赤になって俯いた。ジニーはあからさまに信じられないという目で、彼女を見つめている。クラムをつけ回していたファンの女生徒達は、エロイーズを恨みがましい目で見ながら、ツンツンして前を通り過ぎた。

 

 一行の頭越しに、外の芝生がハリーの目に入った。城のすぐ前の芝生が大きく盛り上がり、草花で出来た巨大な洞窟のようになっていて、中に神秘的な妖精の光が満ちていた。何百という生きた妖精が魔法で作られた薔薇の園に座ったり、石像の上をヒラヒラ飛び回ったりしている。ジニーが感嘆の溜め息を零して、ハリーの腕をギュッと掴んだ。

 

 マクゴナガル先生の指示で、ハリー達代表選手一行は、他の生徒達が全員着席するまで待ってから入場することになった。大広間の扉が開くと、ハリー達は先生の後に従って大広間へ入った。みんなが拍手で迎えた。代表選手達は、大広間の一番奥に置かれた、審査員が座っている大きな丸テーブルに向かって歩いた。大広間の壁はキラキラと輝く雪で覆われ、星の瞬く黒い天井の下には、何百というヤドリギや蔦の花綱が絡んでいる。各寮のテーブルはなく、代わりにランタンの仄かな灯りに照らされて、十人分の椅子が並べられた、小さなテーブルが百余り置かれていた。

 

 代表選手達が審査員テーブルに近づくと、ダンブルドアは嬉しそうに微笑んだが、カルカロフはハリーを憎々しげに睨み付けた。――恐らく、先程の決闘事件を根に持っているのだろう。マダム・マクシームはラベンダー色の流れるような絹のガウンを纏い、上品に拍手していた。ルードは今夜は鮮やかな紫に大きな黄色の星を散らしたローブを着込み、生徒達と一緒に夢中になって拍手をしている。

 

 ――クラウチ氏は、いない。代わりにパーシーが座り、ジニーをギョッとした目付きで見ていた。彼は急いで自分の隣の椅子を引くと、ハリーに向けてわざとらしいほどに激しく目配せしてみせた。ジニーがとても嫌がってハリーの手を強く引っ張ったが、あまりにもパーシーの目の圧が強いので、彼はしぶしぶその席に座ることにした。パーシーは真新しい新緑色のパーティローブを着て、鼻高々の様子だ。

 

「昇進したんだ」

 

 ハリーに訊く間も与えず、パーシーが言った。その声の調子は、まるで魔法省大臣に選ばれたと発表しているかのようだった。

 

「クラウチ氏個人の補佐官だ。ここには代理で来たのさ」

「あの人、どうして来ないの?」

「クラウチ氏は、残念ながら体調が良くないんだ。きっと働き過ぎだろう。この三校対抗試合の準備や進行の業務もあるし、ワールドカップのボヤはまだ消えてない。それにスキーターとかいう、嫌な女がこっちをうるさく嗅ぎまわってる。

 ・・・ところで、少し訊きたいんだが」パーシーは不意に勿体ぶって咳払いをし、ハリーとジニーを見た。詮索好きなスキーター女史そっくりの目の輝きだ。

「君達は()()()()()()なのか?僕は何も・・・」

「ポークチョップ!」

 

 パーシーの言葉を遮るように、ジニーが突然叫んだ。二人が思わず唖然としてジニーを見ると、彼女の目の前に置かれた金色の皿に、ポークチョップが現れた。ジニーの手には小さなメニュー表があった。どうやらそれに記載された料理名を口にすると、自分の皿に現れるという仕組みになっているらしい。彼女はまるで親の敵を見るような目でポークチョップを睨み付け、猛然と食べ始めた。――それはパーシーに向けて放たれた、『これ以上、余計な詮索はするな』という、ジニーの無言の警告だった。

 

 パーシーはさっと口を噤んで、ハリーにお得意の鍋底談義を始めた。それを聞き流しながら、彼はジニーの気遣いに心から感謝した。今はそっとしておいてほしい気分だし、それにこの新しい、より複雑な食事の仕方を、SPEW会長たるハーマイオニーが目撃しなくて本当に良かったと思った。彼女は今頃、マダム・ポンフリーに特別に許可をもらい、医務室でロンとささやかなクリスマスパーティーを開いている筈だ。

 

 ――もしイリスがここにいたら。ハリーは切ない思いを馳せ、丁寧に裏ごしされたポタージュを飲んだ。彼女は一体、どんな反応をしただろう。全てのメニューを注文しようと言って、自分に屈託なく笑いかけてくれただろうか。ハリーの胸はきゅんと痛んだ。

 

 

 食事をあらかた食べ尽くしてしまうと、ダンブルドアが鷹揚な動作で立ち上がり、生徒達にもそうするように促した。そして杖を一振りすると、テーブルは壁際に退き、広いスペースができた。それからダンブルドアは右手の壁に沿って広々としたステージを創り上げた。ドラム一式、ギター数本、リュート、チェロ、バグパイプなどの様々な楽器が、ポンポンと音を立てて空中に現れては、ステージ上の然るべき場所へ飛んでいく。このステージで何が始まるのかという事を察し始めた生徒達は、ざわざわと興奮して色めき立った。

 

 やがて人々の騒めきは、熱狂的な歓声と拍手に変わった。魔法界人気のミュージックバンド「妖女シスターズ」が、どやどやとステージに上がって来たからだ。全員異常に毛深く、来ている黒いローブは芸術的に破いたり、引き裂いたりしてあった。ジニーが興奮してテーブルの下で足を踏み鳴らし、ハリーの腕を痛いほどに強く掴んだ。――どうやら魔法族の子供たちにとってはとても人気なバンドらしい。テーブルのランタンが一斉に消えると、ダンブルドアの合図に従い、代表選手達がパートナーと一緒に、ダンスフロアへ進み始めた。

 

 「妖女シスターズ」はスローな物悲しい曲を奏で始めた。――今の自分の気持ちを演奏しているみたいだ、とハリーは思った。まるでダンスをするためだけに作られたロボットのように、ハリーはただ淡々とした調子でダンスフロアに歩み出ると、ジニーの両手を掴み、片方の手を自分の腰に添えさせた。マクゴナガル先生が「変身学」の授業で少し空き時間を作り、生徒達に踊り方をレクチャーしていてくれていたので、彼のリードは比較的スムーズだった。ハリーがゆっくりとターンした時、観客の中に紛れてシェーマスとディーンが手を振り、『浮気か?』『イリスは?』と口パクでからかってくるのが見えた。――僕だって、イリスと踊りたかった。ハリーはやるせなくなって唇を噛み締め、ジニーをちらりと見て、ハッと息を飲んだ。

 

 ジニーは顔を真っ赤にして、こちらを見つめていた。潤んだ鳶色の目はフロアの灯りに照らされて、キラキラと輝いている。――ハリーは心の中でジニーに小さく謝った。自分の事しか考えていなかった。今、イリスの事を想うのは、パートナーであるジニーに対して余りにも失礼だ。彼は静かに自分を恥じ、ダンスを続けた。

 

 まもなく、観客の方も大勢ダンスフロアに出て来たので、代表選手はもう注目の的ではなくなった。ダンブルドアはマダム・マクシームと優雅なワルツを踊っていた。まるで大人と子供で、ダンブルドアの三角帽子の先がやっとマダム・マクシームの顎をくすぐる程度だった。やがて「妖女シスターズ」が演奏を終え、大広間は再び拍手に包まれた。

 

 ダンブルドアがマダム・マクシームの手を離し、二人は優雅に一礼した。続いてダンブルドアが杖を大きく振るうと、「妖女シスターズ」がいたステージがぐっと肥大し、台座が高くなり、天井からヤドリギや花蔦の絡まった黒いビロードの幕が下りて来て、ステージの前方をすっぽりと覆った。その周りを取り囲むように観客席が創られたが、ダンスで疲れた足を休めるためだとか、ただお喋りをするために座る者がほとんどだった。しかしハリーとジニーはこのステージで何が始まるのか分かっていた。――いよいよ”イリスの劇”が行われるのだ。二人は目配せをして、審査員達と同じ、一番前の席に陣取った。

 

 

 ステージの奥には、魔法で隠された楽屋が設えてあった。イリス達はそこで待機し、最後の打ち合わせや、メイクや小物の手直しに精を出していた。――イリスが急遽持ち込んだ”ナルシッサの衣装”は本当にすごかった。ドレスローブは羽織ったとたんに勝手に動き始め、彼女にとって最適な着こなしになるように、袖の長さやドレープのかかり具合などを微調整してくれた。冠形の髪飾りは頭に載せるだけで、彼女の黒髪に緩やかなウェーブを掛けてくれた。パトリシアは最後の仕上げとして、彼女の顔に薄く化粧をするだけで良かった。

 

「すっごい。まるでシンデレラみたい」

「すっごい。まるでアマータみたい」

 

 見事なアマータ役となったイリスを見たとたん、パトリシアとアンヌの声がハミングした。いよいよ開幕の時間が近づき、楽屋の外では人々の騒めく声が聴こえ始める。準備を終えたイリス達はそれぞれ緊張した面持ちで舞台袖に立ち、ブザーが鳴るのを待っていた。

 

 幕が上がれば、そこには大勢の人々がいる。その事を思った瞬間、イリスは突然頭が真っ白になって何も考えられなくなった。あんなに熱心に練習した台詞が全て銀河系の彼方へ飛んで行ってしまい、何一つ思い出す事が出来ない。――こんな時はいつも胆が据わっていて楽観的なアンヌを頼るのが一番だ。イリスがガチガチに固まった首を動かしてアンヌを見ると、彼女は幕の端を掴んだまま、茫然自失状態となっていた。

 

「さ、さっき外を覗いたの。そしたら・・・」アンヌは唾を飲み込み、掠れた声で言った。

「W.A.D.Aのビリー先生が来てた」

 

 ジョンとパトリシアは揃って呻き声を上げ、杖を取り落した。『W.A.D.Aって、一体何なんだ?』――今一つ事情を飲み込めていないイリスとネビルに、アンヌが青ざめた表情でこのような事を教えてくれた。――W.A.D.Aとは”魔法演劇アカデミー”の事で、マグル界でいうR.A.D.A、”王立演劇アカデミー”に匹敵する存在、つまりイギリスの魔法界で一番大きく有名な演劇学校なのだと言う。そしてかつて『豊かな幸福の泉』の劇をしようとして、ホグワーツの歴史に残るほどの大きな悲劇を招いたビリー先生が今、ダンブルドアの隣に座っていて、舞台に厳しい眼差しを注いでいると言うのだ。彼はホグワーツを退いた現在、W.A.D.Aで教鞭を取っているらしい。

 

「こ、こんなの、失敗できないわ。どうしよう?」

 

 アンヌが頭を抱え、恐怖で上擦った声で言った。場の緊張が臨界点に達したその時、イリスのお腹がグウと大きく鳴った。――そう言えば練習するのに必死で、三時のおやつを食べるのを忘れていた。顔を真っ赤にして腹部を抑えるイリスを見て、皆は一斉に吹き出し、雰囲気は瞬く間に和やかになった。やがて開幕を知らせるブザーが鳴り響き、イリス達はそれぞれの持ち場へ着き、幕が上がるのを静かに待った。

 

 

 幕が上がると、ステージ上には草花や木々が豊かに茂り、魔法で創り出された空には小さな太陽が浮かんで、燦々とした日差しを地上に注いでいた。小鳥のさえずりと心地良い風が、ハリー達の耳と肌を楽しませる。舞台の中央には白い漆喰で出来た厚い壁があり、その向こうにはこんもりと盛り上がった小さな丘があった。頂上には、美しい水晶で出来た『豊かな幸運の泉』が清らかな水を噴き上げている。

 

『魔法の園の丘の上、高い壁に囲まれ、強い魔法に守られて、”豊かな幸運の泉”が噴き上げていました』落ち着いた男性のナレーションが始まった。

『一年にたった一度、一番長い日の夜明けから日没までの間に、不幸な者が一人だけその噴水に辿り着く機会を与えられ、その水を浴びて永遠に豊かな幸福を得ることができるのです』

 

 幕が一度下り、再び上がった時、魔法の空は夜明け前へと変わっていた。舞台袖からぞろぞろと大勢の人々――を模した、藁作りの人形――が歩いて来た。老若男女、富める者も貧しい者も、魔法族もマグルも、自分こそが壁を乗り越え、水を浴びる者でありますようにと願いながら、壁の前へ集まっていく。

 

 そんな人形たちの最後尾に連なるようにして、三人の魔女がスポットライトに照らされながら現れた。彼女達は舞台の端にある草むらに座り込んで、悲しい顔を突き合わせ、何かを話している。――今まで何の興味もなく、反対側の壁に沿って出されていた立食式のご馳走や、お喋りに夢中だった生徒たちは、ちらりと冷やかすような目で劇のヒロイン達を見るなり、ざわざわと騒ぎ出した。その声はまるでさざ波のように広がり、見る間に大広間中の人々の目が舞台上に釘づけとなった。

 

 三人の魔女の中に、飛び抜けて美しい少女がいた。夕星(金星)――”宵の明星”に魔法を掛けて人の姿にしたら、きっとこのようになるのに違いない。緩やかに波打った黒髪には、小さな宝石を編み込んだ白銀の冠物が載せられている。華奢な衣装から覗く膚は白く滑らかで、内側から光を放っているようだった。大きな瞳には隠し切れない憂いの感情が浮かんでいて、まるで夕暮れ時のように、見る者を感傷的で切ない気持ちにさせた。少女はハリーとジニーの視線に気づくと、安心したように微笑んで手を振った。

 

 ――()()()だった。二人はヴィーラに魅了されたかのように、手を振り返す事も忘れ、夢中で彼女を見つめ返した。やがてイリスはその様子を見咎めた隣の魔女にこづかれ、慌てて演技に戻っていった。

 

『それぞれに重い苦しみを抱えた三人の魔女が、その群れの端で出会いました。そして夜明けを待ちながら、お互いの悲しみを語り合いました』

 

 ナレーションが終わると、三人の内、一番左側に座る魔女にスポットライトが当たった。彼女は立ち上がると、両手を口に当てて、大きな動作でゴホゴホと咳き込んだ。やがて咳は止まったが、広げた両の掌には魔法で赤く光らせた血糊がべっとりと付いている。彼女はそれを見て、力なく首を横に振った。

 

『最初の魔女はアシャと言い、どんな癒者にも治せない病気に罹っていました。泉がその症状を拭い去り、末永く幸せな命を与えてくれますようにと願っていました』

 

 今度は真ん中の魔女が立ち上がった。良く見ると彼女のローブはボロボロに擦り切れ、おまけに丸腰――つまり杖を持っていなかった。彼女はポケットから財布を取り出して振ったが、クヌート銅貨一枚足りとも出てこない。魔女は大きな溜息を吐いて見せた。

 

『二番目の魔女はアルシーダと言い、悪い魔法使いに富も杖も奪われてしまいました。無力で貧しい自分を、泉が救ってくれますようにと願っていました』

 

 最後は一番右側の魔女――イリスが立ち上がった。彼女は胸の辺りで両手を交差して、静かに俯いた。顔の下から、魔法で白く光らせた大粒の涙がいくつも零れ落ちていく。

 

『三番目の魔女はアマータと言い、深く愛した男に捨てられたのです。アマータは、この心の傷が癒えることはないだろうと思いました。この悲しみとやるせなさを、泉が癒してくれるようにと願っていました』 

 

 三人の魔女はお互いの苦しみを分かち合い、もしも自分達の中の誰かに機会が与えられたなら、力を合わせて一緒に泉へ辿り着こうと誓い合った。

 

 やがて魔法の空に夜明けが訪れると、中央の白い壁がわずかに開き始めた。人形たちは口々に願い事を叫びながら、どっと押し寄せた。すると壁の向こうの庭からツタが現れ、揉み合う人形たちの中をくねくねと伸びて、一番目の魔女、アシャの腕に絡みついた。アシャはアルシーダの手首を掴み、アルシーダはアマータのローブを掴んだ。アマータは、人形の群れにひっそりと紛れていた甲冑の騎士に、服のどこかを引っかけてしまった。ツタは三人の魔女を、開いたわずかな壁の隙間に引っ張り込み、騎士も引き摺られながらその後に続いた。舞台は暗転した。

 

 舞台に再び光が戻った時、中央にあった壁や泉、人形の群れは消え去り、大きく膨らんだ丘のふもとに三人の魔女と騎士が立っていた。アシャとアルシーダは、うっかり騎士を連れて来てしまったアマータに腹を立てた。

 

『泉の水を浴びることができるのは、たった一人なのよ!』アシャが咳き込みながらも憤った。

『三人の内、誰にするかを決めるのさえ難しいのに、もう一人なんて!』

 

 古びた甲冑に身を包んだ騎士の頭上に、”ラックレス卿”という金色の文字が輝いた。ラックレス卿は三人の魔女の諍いを止めようとして転びそうになりながら――その冴えない足取りで、ハリーはラックレス卿の正体がネビルだと分かった――自分は身を引き、壁の外に戻るつもりだと宣言した。彼はマグルであるため魔法も使えず、騎士として馬上試合や剣での決闘に優れているわけでもない。秀でた点の何もない自分には、三人の魔女を打ち負かして泉に辿り着く望みなど全くないと思ったのだ。しかしそれを聞いて、今度はアマータが腹を立てた。

 

『いくじなし!』アマータは騎士を叱りつけた。

『騎士よ、剣を抜くのです。そして私たちが目的の場所に辿り着けるように助けるのです!』

 

 そして三人の魔女としょぼくれた騎士は、魔法の丘を突き進んでいった。「妖女シスターズ」は即興で、冒険心をくすぐるような素晴らしいバックミュージックを演奏してくれた。燦々と陽光が降り注ぐ小道の両側には、珍しい草花や果物が豊かに茂っている。四人は順調に歩を進め、泉の噴き上げている丘の中腹に辿り着いた。

 

 ところがそこには、膨れ上がった真っ白な盲目の芋虫が丸まっていた。――観客席ではビリー先生が大きく息を飲み、杖をひしと掴んで臨戦態勢に入っている。きっと過去のトラウマを思い出しているのに違いない。

 

 実はこの芋虫は――かつて悲惨な爆発事故を引き起こした――アッシュワインダーではなく、イリスがハグリッドから借り受けて”肥大呪文”を掛けた”レタス喰い虫(フロバーワーム)”だった。四人は恐る恐る、芋虫に近づいた。イリスがネビルの影に隠れて「レタスだよ!」と囁くと、芋虫はそっと顔を上げ、彼女をじっと見つめた。

 

『苦しみの証を支払っていけ』おどろおどろしい声で、ジョンが言った。

 

 ラックレス卿は剣を抜いて芋虫を殺そうとしたが、刃は空中でポキリと折れてしまった。アルシーダは石を投げ付け、アシャとアマータはあらゆる呪文を使って芋虫を抑えたり陶然とさせようとしたが、芋虫の周りには強力な防護魔法が展開されていて、小石一つ、呪文一つ通す事ができない。太陽はますます高く昇り、絶望したアシャはついに泣き出してしまった。彼女の目から、魔法で光らせた大粒の涙がいくつも零れ落ちていく。その涙はレタスの匂いがした。すると芋虫はアシャの顔ごと涙を舐め取り、くねくねとその場を離れて、レタスの山がこっそり隠された地面の穴へと消えていった。

 

 怪物がいなくなって大喜びした三人の魔女と騎士は、昼前には頂上に着けるに違いないと丘を登り始めた。ところが、急な坂道を半分ほど昇ったところで、四人は地面に刻まれた大きな文字を見つけ、息を飲んだ。『努力の成果を支払っていけ』――地面にはこう書いてあった。ラックレス卿は甲冑の隙間からコインを取り出して、草深い斜面に置いた。コインはコロコロと勢い良く転がり落ち、あっという間に見えなくなってしまった。三人の魔女と騎士は丘を登り続けたが、何時間歩いても一歩も前進しない。頂上は近づきもしないし、地面に刻まれた文字も元の位置のままだ。太陽が頭上を越して地平線に傾き始めたのを見て、四人は大きく落胆した。それでもアルシーダは諦めず、他の誰よりも早く一生懸命歩いて、三人を力強く激励した。

 

『みんな、頑張るのよ!くじけないで!』

 

 アルシーダは額の汗を拭きながら叫んだ。魔法で光らせた汗水が地面に落ちると、行く手を阻んでいた文字が消え、四人は再び前進する事ができるようになった。

 

 二番目の障害が取り除かれた事に大喜びして、四人はできるだけ足を早め、頂上に向かった。魔法で創り出された丘は、本当に魔女達が登っているかのように沈み込んでゆき、とうとう頂上に、花や木の茂みに覆われた――水晶のように光り輝く『豊かな幸運の泉』が現れた。観客が歓声を上げ、「妖女シスターズ」がますます心躍るような音楽を奏で始める。しかしそこに辿り着く前に、頂上を囲んで流れる川が、彼らの行く手を阻んだ。澄んだ水の底から滑らかな石が浮かび上がり、その表面に光る文字――『過去の宝を支払っていけ』と刻まれてある――を観客に見せた。

 

 ラックレス卿は勇敢にも盾に乗って川の流れを渡ろうとしたが、盾は騎士の重さに耐えきれず、途中で沈んでしまった。三人の魔女は慌てて騎士を川から引っ張り上げ、自分達は魔法を使って川を飛び越えようとした。しかし川はどんな呪文を唱えても横切らせてはくれず、その間にもどんどん陽が落ちていく。そこで四人は俯いて、川の言葉の意味を考えるような素振りを始めた。最初に意味が分かり、顔を上げたのはアマータだった。アマータは杖を取り出して、そしてピタリと動きを止めた。

 

 イリスは台本の流れを再確認した。川の求める”過去の宝”とは、”アマータの昔の恋人との幸福だった日々の思い出”だ。物語の中で、アマータはいなくなった恋人との幸福だった日々の思い出を心の中から引き摺り出し、川の急流へ落とす。そうすれば川は思い出を消し去り、その後に飛び石が現れて、四人は丘の頂上に辿り着く事が出来るのだ。――だけど、アマータは本当にそれで良かったのだろうか。彼女は心から恋人を愛していたのに。失った愛に苦しむアマータと自分の姿が、ふと重なって見えた。図らずもドラコと過ごした素晴らしい過去の記憶が、イリスの心を優しく甘く満たしていく。

 

 イリスはゆっくりと杖を下ろし、川に向かってこう言った。

 

「過去の宝を支払うことはできません。これは私の大切なものだから」

 

 それは台本にない、そして『豊かな幸運の泉』の物語にもない台詞だった。観客がざわざわと騒めき、アンヌとパトリシアは口をあんぐりと開けて、突然のアドリブを始めたイリスを見つめている。イリスは静かに微笑んで、言葉を続けた。

 

「けれど、見せることはできます」

 

 イリスは杖を振るい、頭から記憶の糸を引き摺り出し、空中に浮かべた。すると彼女が”昔の恋人”――に扮したネビルと仲睦まじく過ごしている、過去の楽しかった思い出の数々が輝いては浮かび上がり、融けるようにして消えていく。それらは本来、アマータが記憶の糸を急流に落とした時、観客に分かりやすい演出をするためにと創っておいたものだった。

 

 ――その一連の行動はイリスがドラコへ向けた、変わることのない”愛のメッセージ”だった。

 

 

 スリザリン生の一団が出払った頃に、一人談話室を出たドラコは、壁の花となって静かに劇を見物していた。そしてイリスが作中のアマータと異なり、昔の恋人の愛に殉ずる行動を見せた時――ドラコは自分の目から熱い涙が零れ落ちていくのを止めることが出来なかった。記憶を取り戻していなければ決して気づかない、ただひたむきで謙虚な愛の告白――それは確かにドラコに届き、彼の心臓をとびきり熱く切ないもので満たして、狂おしいほどに揺さぶった。『イリスは今もずっと僕を愛している』――ドラコは今すぐステージを乗り越え、彼女を抱き締めたくてたまらなくなった。

 

 やがて川は満足したように流れを弱め、飛び石を現した。四人は急いで川を渡った。頂上に辿り着くと、目の前の泉はこれまで見た事もないような美しく貴重な草花に囲まれて、キラキラと輝いていた。空は夕暮れ時の茜色に染まり、泉の水を浴びるのは誰かを決める時が来ていた。

 

 しかし四人が決めるより先に、身体の弱いアシャが倒れてしまった。頂上を目指す労苦に疲れ果てて、瀕死の状態だった。三人は急いでアシャを泉まで連れて行こうとしたが、彼女は苦しさにもがき、どうか触らないでくれと弱々しく頼んだ。そこでアルシーダは大急ぎで一番効き目のありそうな薬草を摘み、ラックレス卿の持っていた皮袋の水で混ぜ合わせて、その薬をアシャの口に流し込んだ。するとアシャの体に眩い光が満ちた。彼女は嬉しそうに自分の手足を動かして、元気いっぱいに歩き回り始めた。もう咳き込む事もない。恐ろしい病気の症状もすっかり消えてしまっているようだ。

 

『治ったわ!』アシャが叫んだ。

『私に泉はいりません。アルシーダに浴びさせましょう!』

 

 しかしアルシーダは先程摘んだ薬草を集めて、ローブのポケットに詰め込むのに夢中だった。

 

『この病が治せるのなら、私はいくらでもお金を稼ぐことができるわ!アマータに浴びさせましょう』

 

 ラックレス卿は一礼して、アマータを泉へ促した。しかしアマータは首を横に振った。失った恋人がどれほど自分にとって大切な存在だったか、よく分かったのだ。恋人が与えてくれた愛は永遠に心の中で生き続け、泉の力がなくとも、自分はもう孤独ではない。

 

「川が私の哀惜を全て流し去ってくれました。今の私には愛しかありません。これで充分幸せなのです。どうぞ、ラックレス卿。あなたが浴びてください。騎士道を尽したご褒美に」

 

 アマータはラックレス卿に優しく言った。そこで騎士は、今にも落ちようとする太陽の最後の光の中を、鎧の音を響かせながら進み出て、何百人もの中から自分が選ばれたという、信じられない幸運に眩暈を感じながらも、『豊かな幸運の泉』の水を浴びた。

 

 太陽が地平線に落ち、ラックレス卿は勝利の栄光に包まれ、泉から出て来た。そしてすぐに彼はアマータの足元に跪いた。騎士は折れた剣をアマータに恭しく差し出して、迷いのない声でこう言った。

 

「あなたの想いは理解しています。しかし、あなたの愛が変わらないように、私の愛も変わらない。どうか、あなたの傍にいさせてください。あなただけの騎士になりたいのです」

 

 ――これもまた、台本にも、物語にもない言葉だった。アマータの過去の恋人を大切に想う気持ちを尊重した上で、共に歩んでいきたいと願う騎士の優しい愛の告白に、観客達は深く心を打たれた。アマータは騎士の捧げた”忠誠の証”である剣を受け取ると、刃にそっと口づけて、ラックレス卿に返した。『本当は泉の水には何の魔力もなかった事は、四人の誰もが知らず、また疑いもしなかった。彼らは腕を組んで丘を降り、そしていつまでも幸せに暮らした』――落ち着いた声のナレーションがそう締めくくり、惜しみない拍手と歓声の中、幕は静かに下ろされた。

 

 

 イリスは楽屋に戻ったとたん、アンヌに息が止まるほど強く抱き締められた。

 

「もう、なんてことしてくれたの?引っ掻き回してくれたわね!死ぬかと思ったわよ!」

「ご、ごめんなさい」

 

 イリスは口ごもりながらも謝った。みんなで練習していた時は台本通りに演じられていたのに、いざ本番を迎えた時、どうしてあんな大それた事をしてしまったのか――イリスはそれが今でも不思議でたまらなかった。ただ本番中、これ以上ないほどに深くアマータに感情移入した時――たとえそれが演技だとしても――過去の宝を捨て去って新しい愛を選ぶ事など出来なかった、その事だけはしっかりと覚えている。

 

「素晴らしいアドリブだった。私、感動したわ」パトリシアが涙ぐんだ。

「ネビルにお礼を言っておけよ。あいつがフォローしてくれたから、上手くまとまったんだ」ジョンが言った。

 

 イリスは甲冑を脱ごうともがいているネビルに歩み寄り、作業を手伝いながら、心からのお礼を言った。――ネビルはラックレス卿を演じてくれる事も了承してくれたし、イリスの勝手なアドリブもフォローしてくれた。彼のおかげで劇は上手く行ったのだ。ネビルは顔を真っ赤にしながら何度も頷いていたが、パトリシアに呼ばれて離れていくイリスをこっそり見ながら、静かにこう思った。

 

 ――”僕は充分幸せだった”と。一年生の時、「飛行学」で助けてもらった時から、彼はイリスの事が好きだった。短い間だったが、彼女を一人占めできたこの一月ほどの思い出は、ネビルにとってとても大切な宝物となった。ラックレス卿のあの台詞は演技などではなく、彼の本心だったのだ。

 

 それから四人はダンブルドア先生に劇を助けてくれた事のお礼を言った後、部室に戻り、使用した小物の片付けをしていた。打ち上げをいつするかという事を仲良く話し合っていると、年老いた魔法使いが穏やかに微笑みながらやって来た。――ビリー先生だ。彼はわっと駆け寄って来た三人の部員たちの頭を撫で、イリスとネビルに向けて悪戯っぽく微笑んで見せた。涙ぐみながらビリー先生を見上げるアンヌ達に気を遣い、片付けの続きは明日にする事にして、イリス達は大広間へ戻った。

 

 

 もう時計は十一時を回ろうとしていた。大広間には十人ほどが座れる丸テーブルが百余り出されていて、皆そこに座ってゆったりと他愛無いお喋りに興じたり、軽食を摂ったりしている。もう遅い時間なので、残っている生徒の数は本当に少なかった。もしかしたらほとんどの生徒達は、ロマンチックな雰囲気溢れる中庭の方に出払っているのかもしれない。

 

 イリスは談話室に戻って休みたいと言ったネビルと別れ、近くのテーブルで手に入れたバタービールの栓を引き抜きながら、ハリー達の姿を探した。――彼女はまだ、ロンとハーマイオニーが決闘の末に恋人同士となり、今は医務室にいるという事も、ハリーとジニーが談話室で、パーバティに愛の告白をして振られたばかりのシェーマスを慰めている事も知らなかった。冷たいバタービールを喉を鳴らして夢中で飲んでいると、ふと背後から視線を感じた。何気なく振り返った彼女は、やがて大きく息を詰まらせる事となった。

 

 ――ドラコが真剣な表情で、こちらを見つめていた。黒いビロードの詰襟ローブを着た彼は、非の打ち所がないほどに上品で洗練されて見えた。うっとりと見惚れていたイリスは、やがて”恐ろしい事実”に気が付いた。ドレスローブを着てここにいるという事は、ドラコにはパートナーがいるんだ。アステリアの顔がパッと思い浮かんだ。いくら過去の宝が自分を支えてくれるとは言っても、ドラコとアステリアが仲睦まじくいる様子を、自分から進んで見ようとは思わない。

 

 しかしイリスが談話室へ戻るために立ち上がったとたん、ドラコはなんと――こちらへ向かって歩いて来た。イリスは慌てて早足で出口へ向かいながら、ちらりと後ろを振り返った。彼は追いかけてきている。『どうしてこっちに来るんだ?』――ついに彼女は駆け出した。けれども慣れないヒールのせいで思うように動けず、やがてイリスは人気のない廊下の角を曲がろうとした時、足をもつれさせてしまった。転びそうになった彼女を、ドラコが急いで抱き留める。

 

「どうして逃げるんだ?」頭上で、ドラコの静かな声がした。

 

 イリスはまるでバジリスクに囚われたかのように目をギュッと閉じて、その場で固まる事しか出来なかった。あれほどに恋い焦がれたドラコがすぐ傍にいて、自分を抱き締め、話しかけてくれている。『この幸福に身を任せてはダメだ』――イリスは心の中で何度も、自分にそう言い聞かせた。もうすぐ彼のパートナーがやって来て、二人は仲良く去って行く筈なんだから。自分は覚悟を決めたんだ。彼女は勇気をもって口を開いた。

 

「あなたには関係ない。早くパートナーのところへ戻ったら?」

「僕はパートナーを選んでない」

 

 その言葉にイリスは思わず我を忘れて、ドラコを見上げた。――パートナーを選んでいないだって?イリスの大好きな冷たい灰色の瞳が、自分を優しく見下ろしている。愛おしげにイリスの頬を撫で、ドラコは言葉を続けた。

 

「君は何故、過去の宝を捨てなかった?」

 

 その瞬間、イリスは直感的に理解した。――『ドラコは記憶を取り戻しかけている』と。あの悍ましい未来の映像がパッと頭の中に思い浮かび、たちまち彼女の体じゅうを冷たい泡のような不安と焦燥感が覆い尽くしていった。イリスは慌ててドレスのベルトに差した杖を引き抜いたが、ドラコの方が数枚上手だった。彼は素早く”武装解除呪文”を唱え、イリスの杖を遠くへ弾き飛ばしてしまったのだ。成す術なく再び固まってしまった彼女を腕の中にしっかりと閉じ込めて、ドラコは気取った声でこう言った。

 

「フン。どうせ、()()()()だろうと思ったよ」

 

 そしてドラコはローブのポケットから、銀のリボンを取り出した。――かつてイリスがナルシッサに贈られたものだ。それは確か、ドビーを通じてナルシッサに返した筈なのに。言葉もなく戸惑うイリスの頭から冠を取り外し、ドラコはリボンに合言葉をそっと囁いた。リボンは蛇のように彼女の髪に巻き付き、優美なシニョンに結い上げていく。懐かしい鈴の調べが、二人の耳を甘く彩った。

 

「やっぱり、それを付けていた方がいい」

 

 ドラコは熱を帯びた目でイリスを見つめ、掠れた声でそう言って微笑んだ。まるで今、この世界には自分とドラコの二人切りしかいないような、そんな奇妙な感覚にイリスは捕らわれていた。目の前にいる愛しい人が、妖精の光を浴びたかのように輝いて見える。廊下の壁を反響して聴こえて来るパーティの騒めきも、何も気にならない。何も考えられない。彼女がずっと恋い焦がれていた、灰色の目がゆっくりと近づいてくる――

 

 ――そして二人は口づけを交わした。やがて唇が離れた時、ドラコは周囲に立ちこめ始めた、むせ返るような花の香りと空中に舞い散る花弁を見て、眉を顰めた。

 

「これは何なんだ?」

 

 その不可思議な現象の犯人は、()()()だった。余りの幸福に耐え切れず、彼女の魔法力が暴走してしまったのだ。彼女の白い膚は強い魔法力を帯びて真珠のように淡く輝き、周囲から色とりどりの花弁が創り出されて、二人の空間を彩っていく。イリスはハッと我に返り、慌てて自分の心を落ち着けようとしたが、もうどうにもならなかった。

 

「ごめんなさい。私・・・」

 

 ドラコは何も言わず、再びイリスにキスをした。さっきよりもずっと深く長く口付けながら、その小さな体を狂おしいほどに強く抱き締める。劇の演技を通じて自分へ密かな愛のメッセージを送り、そして自分と再会できた事が嬉しくて、魔法力を暴発させてしまう――そんな素直でひたむきな彼女が、ただ愛しくてたまらなかった。やがてドラコの耳に優雅なワルツの曲が聴こえて来た。きっと最後にもう一曲だけ踊りたいと若き恋人達にリクエストされて、「妖女シスターズ」が特別に奏でているのだろう。

 

「イリス。僕と踊ってくれないか?」

 

 ドラコは名残惜しそうに唇を離すと、イリスにダンスのパートナーを申し込んだ。イリスはまるで”服従の呪文”に掛けられたかのように従順に頷いて、夢見る瞳で彼の手を取った。ドラコはこういった社交の場に慣れている事もあり、ダンスに不慣れなイリスを上手にリードしてくれた。――今、自分達は一体、どこにいるんだ?イリスは夢のような一時を過ごしながら、頭の片隅にほんのちょびっとだけ残った理性を動かし、考えた。しかしそんな考えは、目の前の愛しい人の目を見た瞬間に跡形もなく吹き飛んでしまった。分からない、何も。ただ分かるのは、自分が今、世界で一番幸せ者だという事だけだ。

 

 けれど、現実の幸せに終わりは必ず訪れる。やがてダンスパーティの終了時刻を告げる、十二時の鐘が鳴り響いた。けれども二人は言葉もなくお互いを見つめたままで、その場から動くことが出来なかった。

 

「ゴーント、マルフォイ。こんな所で何をしている?」不意に冷たい声が、廊下の奥から鋭く飛んできた。

「もうダンスパーティはとっくに終わった筈だが」

 

 二人はハッと我に返り、急いで振り返った。――スネイプ先生だった。彼は感情の読めない昏い目で二人を見つめながら、一歩踏み出した。その瞬間、イリスの耳にかすかな雑音に紛れ、スネイプの言葉が聴こえた。

 

「君はもう行きなさい。()()()()は私がする」

 

 その言葉は、まるで暖炉の上に置いて溶かしたヌガーのように――フニャフニャに蕩けきったイリスの心を、一気に現実へと引き戻した。魔法の馬車がカボチャに、金銀の糸で編んだ立派なドレスが古着に戻ったかのように、とても冷たく侘しい気持ちになって、彼女は所在なく立ち竦んだ。『だけど、これが()()なんだ』――イリスは自分にそう言い聞かせ、涙の滲む瞳で愛する人を見上げた。ドラコが記憶を取り戻して、自分に逢いに来てくれた――たとえ一時の夢だったとしても、今夜の出来事を、イリスはきっと生涯忘れる事はないだろう。

 

()()()」イリスは久しぶりに彼の名前を呼んだ。喜びと切なさに胸がいっぱいになり、堪え切れずに零れ落ちた涙が頬を伝い、床に滴った。

「私に逢いに来てくれて、ありがとう。とっても嬉しかった」

 

 イリスは精一杯微笑むと、少し()()()ことにした。一生懸命に爪先立ちして、ドラコの頬っぺに軽くキスしてみせたのだ。そして彼の腕を振り解き、床に転がった杖を拾い上げると、スネイプの横を擦り抜けて駆け去って行った。

 

「待ってくれ、イリス!」

 

 ドラコは慌ててイリスを引き留めようと手を伸ばしたが、彼の手に残されたのは、彼女の髪から外れた銀のリボンだけだった。――せっかく僕達の想いが再び通じ合ったのに。ドラコは唇を強く噛み締め、彼女の跡を追って駆け出した。もう絶対に離さない。何としても彼女を連れ戻すんだ。

 

 しかしその行く手をスネイプが阻んだ。ドラコはイライラとした感情を隠す事なく、自らの寮監を睨み付けた。――何故、この人は僕の邪魔をするんだ。ドラコは冷たく嘲笑うと、スネイプを仰ぎ見た。

 

「そこを通して下さい、先生。これ以上、邪魔をするなら・・・」

「父上に言い付けるかね?それは結構」スネイプが後を引き継ぎ、ドラコは口を噤んだ。

「君は()()()自分の父親に記憶を弄られ、ゴーントを翻弄するための、彼の手駒の一つとなるだろう」

 

 ドラコの昂った感情は、その言葉で瞬く間に鎮められていった。――この人は僕とイリスの間に何があったのか、知っているんだ。スネイプは静かにドラコを見下ろして、杖先でイリスの駆けて行った方角を指し示しながら、言葉を続けた。

 

「君は何故、この先に行きたいと思う?」

「イリスを愛しているからです」ドラコの灰色の瞳は、真摯な輝きに満ちている。

「その愛は、君の全てを賭けるに足るものかね?」

 

 ドラコは一切の迷いや躊躇いを見せず、大きく頷いた。――そんな簡単な質問、応えるまでもない。イリスは僕の全てだ。彼女の為なら、僕は天使にも悪魔にもなれる。その答えにスネイプはかすかに頷いて、彼を自分の地下牢へ誘った。

 

 

 部屋の片隅には”憂いの篩”が置かれている。ドラコは訝し気にスネイプを仰ぎ見てから、彼に促されて、渋々といった調子で盆を覗き込んだ。――これを見る事が、イリスと何の関係があるって言うんだ?中には光を放つ銀白色の物質がゆらゆらと揺れている。その時、水面に風が渡るように、表面にさざなみが立ったかと思うと、雲のようにちぎれ、滑らかに渦巻いた。その奥にイリスの顔が透けて見えたような気がして、ドラコは盆の縁に両手を掛け、ますます中を深く覗き込んだ。

 

 盆の中を満たす銀色の物質の奥は、透明になっていた。そこにはイリスの手によって希釈された――ドラコの”本当の記憶”、そして彼女自身の苦悩の日々がいっぱいに詰まっていた。やはりドラコの推察通り、イリスは自分の命を助けるために記憶を忘却させていた。そして列車の中で二人は再会し、ドラコの放った心無い言葉に深く傷つけられたイリスは、窓際で静かに感傷に浸っていた。硝子の外側に雨粒がいくつも叩きつけられ、その影がイリスの顔に映り、涙のように零れ落ちていく。

 

 ディメンターによって引き摺り出された、イリスの最も恐ろしい記憶は――”ドラコの死”だった。同じくディメンターに彼が襲撃を受けたと知ったイリスは、スリザリンの車両に駆けて行って、ノットに蛙チョコレートの箱を差し出し、ドラコに渡してくれるようにと頼んだ。『やっぱり、あれは彼女だったんだ』――ドラコの心にたちまち熱い感情が溢れ、歓喜の涙が零れ落ちた。イリスはこんなにも強く健気に、僕を想ってくれていた。自分が放った悪口の数々に心を痛め、涙ぐむイリスを見て、ドラコは自分が許せなくなり、血が滲む程に強く唇を噛み締めた。

 

 そして時は流れ、イリスはドラコとアステリアが仲睦まじく過ごす”未来の映像”を見て、呪いを肥大させるほどに苦しむ事となる。しかし彼女は少しずつ本当の愛について学び、成長していく。ドラコはふとイリスが別れ際に言った言葉を思い出した。『私に逢いに来てくれて、ありがとう。とっても嬉しかった』――彼女は自分の幸せを願い、また身を引くつもりなのだ。ドラコは彼女の健気さにたまらなくなって、勢い良く盆から顔を引き抜き、地下牢の扉に手を掛けた。しかし、扉はびくともしない。

 

「お願いです。今すぐイリスに逢わせて下さい!」

 

 最早、恥も外聞もなく、ドラコはスネイプを振り仰いで、泣き叫んだ。イリスを抱き締め、今までの空白の期間を埋めるほどに沢山愛の言葉を囁いて、彼女の哀惜の気持ちを取り除いてやりたかった。今もこれからもずっと変わらずに、僕も君を愛するのだと、彼女が心から納得して安心するまで説明してあげたかった。けれどもスネイプはドラコがどれほどに懇願しても、扉の鍵を開ける事はなかった。その代わりに、静かに口を開いてこう言った。

 

「それは出来ない。”エルサの未来視”の通りでは、君が彼女に逢うのはもう少し先だ。そしてゴーントは()()()()を失わなければならない」

 

 ドラコは言葉を失い、スネイプを仰ぎ見た。――”エルサの未来視”だって?何故、彼がその事を知っているんだ?無意識にポケットに突っ込んだ手が、エルサの本の表紙を縋るように撫でた。スネイプは杖を構え、確かな足取りでドラコに迫った。

 

「マルフォイ、はっきり言っておく。”闇の帝王”を倒さぬ限り、イリス・ゴーントが君のものになる事はない。彼女を伴侶に迎えるには、並外れた忍耐力と狡賢さが必要とされる。

 君にはそれほどの覚悟があるか?ここから先は、君にとって”茨の道”だ。地べたを這いつくばり泥水を啜っても、惨めに生き延びて、彼女を支え続ける根気があるか?目の前で”闇の帝王”が彼女を抱いて見せても、発狂せずにいられる自信を持てるかね?

 もし少しでも迷いを見せたら、我輩は今ここで君の記憶を消そう。君の愚かな行動で、エルサが命懸けで遺した”希望ある未来の道”を潰される訳には行かん」

 

 スネイプに杖先を向けられながら、ドラコは先程の言葉の意味を考えた。――どれほど理不尽な扱いを受けても、自分を失わずにイリスの支えとなる。そして現状に満足せず、虎視眈々と”闇の帝王”の失脚を狙う。イリスがあの若々しい青年の姿をした闇の魔法使いに抱かれる姿を想像した時、ドラコの心の中で、彼に対する恐怖心は跡形もなく消え去った。あるのは蛇のようにとぐろを巻く、明確な殺意だけだ。やがてドラコは迷いのない声で、はっきりとこう言った。

 

「覚悟はできています。イリスは僕の全てです」

 

 その言葉に、スネイプは満足したように息を吐き、杖を下ろした。そして彼は、ドラコを再び”憂いの篩”の前へ促し、盆の中を杖で搔き回して、エルサが見た”最も希望に満ちた未来の映像”を見せてくれた。その映像は様々なシーンを繋ぎ合わせたかのように途切れ途切れで、とても不完全だったが、最後に映し出された光景に彼の目は釘付けになった。――成長を重ねた自分とイリスが、マルフォイ家の屋敷にあるサロン室でゆったりと寛ぎ、小さな男の子を愛おしげに見つめている。きっと僕たちの子だ。その輝かしい光景を見て、ドラコは溢れる涙を止める事が出来なかった。スネイプはただ静かにドラコの肩に手を置いた。彼はスネイプを仰ぎ見て、決意を新たにするかのように力強く頷いて見せた。




また指輪物語のアルウェンネタを出しました(*´ω`)
もうこれで炎のゴブ編完結でいいんではないだろうか…あ、冗談です!すみません、我が君!すぐに続き書きますんで!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。