ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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≪オリジナル登場人物紹介≫
●アンヌ・バーレスク 
ハッフルパフ寮の七年生。ホグワーツ魔法劇クラブの部長。
●パトリシア・パストラル 
ハッフルパフ寮の七年生。ホグワーツ魔法劇クラブの副部長。
●ジョン・ペープサート 
レイブンクロー寮七年生。ホグワーツ魔法劇クラブのメンバー。



Petal10.秘密の部屋へⅡ

 ハリーが自分の行動を恥じている間にも、第一の課題は着々と進められていた。――セドリックは岩を犬に変身させ、ドラゴンの注意を引いている内に卵を取ったが、その瞬間に気づいたドラゴンに攻撃を受け、火傷をしてしまった。フラーはドラゴンに魅惑呪文をかけて恍惚状態にする事に成功したが、卵を取っている間に、ドラゴンの炎混じりのいびきがスカートに掛かり、大きく燃え上がってちょっとした騒ぎになった。クラムは結膜炎の呪いをドラゴンにかけ、苦しんでのたうち回っている間に易々と卵を取ったが、本物の卵の半数は潰れてしまった。課題の結果は審査員達がそれぞれ付けた点数を合算して判定される。審議の結果、ハリーとクラムは同点で一位となった。カルカロフが四点という低い点数を付けなければ、ハリーが一番だったとロンは何度も言い、悔しがった。

 

「卑怯者、依怙贔屓のクソッタレ!クラムには十点やったくせに!」

「きっと僕が死に損なったからだ」

 

 しかし、ハリーは肩を竦めてみせるだけだった。実際、彼にとって一番になる事などどうでもいい事だった。ドラゴンを出し抜き、生き残ったという達成感がまだ体中をいっぱいに満たしていたし、観衆の声援が今までとまるで違っていたからだ。その場に臨んで、ハリーの立ち向かっているものが何なのかを見た時、全校生の大部分がセドリックだけではなく、ハリーの味方にもなってくれた。もう彼に心無い野次を飛ばしたり、ロンとの関係を大声でからかう者はほとんどいなかった。

 

 点数発表の後、ハリーは選手用のテントへ呼び出され、しばらく経った後、金色に輝く卵を抱えて戻って来た。先程、彼が命懸けでドラゴンから掠め取ったものだ。ハリー曰く、テントの中にはバグマンがいて、第二の課題は二月二十四日に行われるという事と卵の中にあるヒントを解く事で、第二の課題の内容が解るという事を説明してくれたらしい。

 

 その夜、グリフィンドールの談話室はまたもお祭り騒ぎ状態だった。悪戯双子が学校の厨房からくすねてきた、山のようなお菓子の数々、大瓶入りのかぼちゃジュースやバタービールが部屋中のテーブルにびっしりと並んでいる。みんなは恥ずかしがるハリーを無理やり胴上げし、やんやと喝采を浴びせた。リー・ジョーダンが”ドクター・フィリバスターのヒヤヒヤ花火”を爆発させたので、周りじゅうに星や火花が散った。そんな浮かれに浮かれている皆の様子を冷静に観察しながら、ハーマイオニーは特等席から動かぬまま、腕組みをしてしかめっ面でこう言った。

 

「皆、本当に能天気ね。課題はあと二つもあるのよ。あれが第一の課題なら、次は何が来るやら、考えるのも嫌」

「ワーオ、君ってまるで太陽のように明るい人だね」

 

 ロンはすかさず嫌味を言った。イリスは肩を竦めてそれをやり過ごしながら、テーブル上に置かれた菓子皿から美味しそうなヌガーを一つ取って、恐る恐る一口かじってみた。――何も起こらない。これは大丈夫だ。イリスは安心して、ヌガーをパクパクと食べ始めた。そうこうする内にハリーが戻って来て、彼女の隣に座り、金の卵をテーブルに置いた。イリスが興味深そうな視線を注いでいると、彼が卵を取って「重いよ」と言ってから膝の上に乗せてくれた。本当にずっしりと重い。卵の表面には放射線状に溝が走っていて、てっぺんにある蝶番を捻ると、花弁のように開き、中身が見えるような仕組みになっていた。シェーマスがやって来て、イリスの抱える卵をしげしげと見て言った。

 

「開けてみろよ、ハリー。中に何があるか見てみようぜ!」

 

 イリスは卵をハリーに返し、わくわくと心を弾ませながら、皆と一緒に彼の動向を見守った。リクエストにお応えし、ハリーは蝶番を捻って中を開いた。――空っぽだ。中には何もない。しかし次の瞬間、その空洞の中から凄まじい金切声のような音が爆発し、部屋中に響き渡った。余りの騒音に、みんな耳を抑えて悲鳴を上げたりしゃがみ込んだりしている。ハリーが急いで卵の殻を閉めると、音はピタッと止んだ。

 

「今のは何だ?」シェーマスが耳を押さえつけていた両手を離しながら、茫然と言った。

「バンシー妖怪の声みたいだったな。もしかしたら次にやっつけないといけないのはそれだぞ、ハリー」とリー・ジョーダン。

「イリス、何か分かった?」

 

 ハーマイオニーが卵から視線を外し、イリスを見て問いかけた。しかし彼女はゆっくりと首を横に振った。――あの声は、全く言葉を成していなかった。ただ一つだけ気になったのは、声に”奇妙な渇き”を感じた事だ。まるでカラカラに乾き切ったミイラが水を求めて叫んでいるみたいに。イリスは顎に手を当て、思案しながら言った。

 

「うーん。何て言ってるかは分からなかったけど、声が乾いてるような感じがしたかな」

 

 そんなイリスの発言を受け、ハーマイオニーはしばらく何かを考え込んでいた。何故かフレッドまでもその横に並び、真面目くさった顔つきで思考に耽る振りをしている。

 

「フム、渇きか。君達も喉を潤した方が良いんじゃないか?このバタービールでも飲めよ」

 

 そう言ってフレッドはローブのポケットからバタービールの大瓶を取り出し、四人の座るテーブルに置いた。四人は実に疑わしげな視線を大瓶に注いだまま、動かなかった。その様子を見て、フレッドがニヤッと笑った。

 

「おいおい、心外だな。ハリーが無事に課題を達成した、そんな素晴らしき晴れの日に悪戯なんかすると思うかい?・・・おっと」

 

 フレッドは口をつぐんだ。突然、イリスが鼻血をボタボタと垂らし始めたからだ。――彼女がさっきまで食べていたヌガーの中には、WWWの商品「ずる休みスナックボックス」の一つ、「鼻血ヌルヌル・ヌガー」が隠されていた。三人の非難がましい目線に急き立てられるように、フレッドはポケットからヌガーの半分を探り当てるとイリスに放ってよこした。

 

「言っておくけど、()()()()()()。イリス、これを食え。すぐに治るよ」

 

 果たして彼の言う通り、ヌガーの半分を食べるとイリスの鼻血はすぐに止まった。四人は安心して溜息を零した。それから四人は卵の謎の声について話し合ったり、ハリーが第一の課題の時に貰ったのだと言うドラゴンのミニチュア人形と遊んだりして過ごした。皆が寝室に戻ったのは夜中の一時近くだった。寝ぼけ眼を擦りながらイリスはルームメイト達にお休みの挨拶をして、ぐっすり眠った。

 

 

 イリスはベッドに横たわり、心地良い微睡の中にいた。ふと鼻腔を良い香りが掠め、彼女は鼻をクンクンと動かした。焼き立てのパン、アールグレイ、ベーコンと目玉焼き――”朝ご飯”の匂いだ。もうすぐイオおばさんが私を起こしに来てくれる。やがて誰かが自分の体を揺さぶり始めた。――やっぱりそうだ。イリスは寝惚けて微笑んだ。さあ、起きて顔を洗って着替えなきゃ。彼女の意識はぐんぐんと上昇し、ゆっくり目を開いた。

 

「ねえ、イリス!起きてってば!」

 

 しかし目の前にいるのはイオではなく、ハーマイオニーだった。困り果てたような表情を浮かべている。彼女の両隣にはルームメイトのラベンダーとパーバティがいて、二人は好奇心と心配が綯交ぜになったような複雑な顔で、こちらをじっと見つめている。ハーマイオニーは豊かな栗色の髪を掻き上げ、イリスに問い掛けた。

 

「これって一体、どういうことなの?」

 

 その質問の意味が分からず、イリスは大きく首を傾げた。そもそも、”これ”って何の事なんだ?――そこまで考えて、ふと気づいた。そう言えば、美味しそうな匂いは今もしている。”自分の目の前”から。彼女は何気なく匂いの元を辿り、やがてアッと驚きの声を上げた。

 

 自分のベッドの上、ちょうど足元付近に、精緻な細工の施されたベッドトレーが置かれている。その上には、様々な料理の載った皿と紅茶のポットやカップが並び、湯気と一緒に美味しそうな匂いを漂わせている。サイドテーブルには花が飾られ、小さな香炉も置いてあり、柑橘系の爽やかな香りを放っていた。

 

 イリスは思わず自分の頬をつねった。痛みが走ったという事は、これは夢ではないんだ。彼女は布団からゆっくりと抜け出し、ベッドトレーまでおずおずと近づいた。――整然と並べられた銀食器のデザインに、不思議と見覚えのあるような気がする。イリスははたと気づいた。そうだ、一時期ずっと見ていた”不思議なご馳走の夢”と同じ食器だ。あれは夢の中の出来事じゃなくて、現実だったんだ。彼女は磨き上げられた銀のフォークを手に取った。柄の先端には小さなサファイアが埋め込まれている。ラベンダーがこらえ切れないように身を捩り、くすくす笑いながら言った。

 

「とってもロマンチックじゃない?きっとあなたにお熱な人が、屋敷しもべ妖精に命じてさせたんだわ!」

「少なくともグリフィンドールじゃないのは確かね。こんな気の利いた事、うちの人達にできるはずないもの」

 

 パーバティもそう言って笑い転げたが、ハーマイオニーだけは警戒心に満ちた表情を崩さなかった。彼女の唇が動き、イリスだけに分かるように、声を一切出さずに”カルカロフ”と呟いた。もしかしたらドラコかもしれないという淡い期待を抱いていたイリスは、親友からの静かな警告を受けたとたん、フォークを取り落した。カチャンと音を立ててトレー上に落ちたそれを拾い上げ、ラベンダーは片目を瞑って透かしたり眺めたりし始めた。

 

「誰が犯人か推理してあげる。・・・ワオ、宝石が嵌め込んであるわ!きっと相手はお金持ちね」

 

 ラベンダーはやがてフォークをひっくり返し、素っ頓狂な声を上げた。

 

「あなたの名前が刻んであるわ。あ、でも待って。名字が違う。”()()()()()()()()”」

 

 ”イリス・クラウチ”だって?――四人は思わず、きょとんとした顔を見合わせた。クラウチと言えば、三校対抗試合の立役者であり、魔法省の”国際魔法協力部”の部長で、パーシーが愛してやまない上司でもある。カルカロフの容疑は晴れたが、依然として謎は解けず、真犯人は見えない。パーバティが気まずそうに身じろぎし、ポツリと言った。

 

「ねえ、もしかして”人違い”とか?」

 

 ラベンダーはそっとフォークをトレーに戻し、一歩引いた。しかし当のイリスはもっとばつが悪かった。もしかしたら学校に”イリス・クラウチ”という女学生がいて、その子のために調理された料理を知らずに食べていたのだとしたら・・・。イリスは申し訳ない気持ちでいっぱいになり、ベッドの上で小さく縮こまった。

 

「でもイリスなんて名前の人、貴方以外、この学校にいるかしら?」

 

 ハーマイオニーが静かに疑問を投げかける。彼女は青ざめた表情で唇を引き結び、見事な半熟状態のスクランブルエッグを熱心に眺めているイリスへ鋭い警告を放った。

 

「食べちゃダメよ、イリス。危険だわ。毒が入っているかもしれない」

「大丈夫だよ、ハーミー」イリスは親友を安心させるために、優しい声で応えた。

()()()()()()()()()。毒なんて・・・」

 

 その瞬間、背筋をゾクッと冷たいものが走り、イリスは反射的に口をパチンと閉じた。それから、恐る恐るハーマイオニーを仰ぎ見た。――彼女の豊かな栗色の髪は凄まじい怒気を帯び、風もないのにゆらゆらと揺らいでいる。その様子を見るや否や、ラベンダーとパーバティはヒッと息を飲み、「大広間に行ってるわ」と口々に言って部屋を駆け出して行った。まるで猫に捕食される寸前のネズミのような気持ちで、イリスは今、ハーマイオニーと対峙していた。怒れる猫は恐ろしい程に完璧な笑顔で、震え上がるネズミに問い掛けた。

 

「ねえ、イリス。”何度も食べてる”って、一体どういう事?」

 

 

 かくしてハーミーママの告発で、イリスの”不思議な夜のご馳走事件”はハリーパパの知れる所となり、イリスは大広間のいつもの席で小さくなって、二人の説教を受ける羽目になった。ハリーは父親らしい厳格な怒りに満ちた顔で、イリスにこう言った。

 

「あれほどシリウスが注意していたじゃないか。”迂闊な行動はするな”って。誰が作ったかも分からない料理を食べ続けるなんて、信じられない。どうして僕らに相談しなかったんだ?」

「だって夢だと思ったんだもん」

 

 二人の間ですくすくと育ったイリスは今、”反抗期”を迎えようとしていた。拗ねたような口振りでそう言い返し、バターをたっぷり塗ったトーストを二枚重ねてかじる。そんな難しい年頃の娘をどう扱って良いか分かりかね、溜息を吐くハリーパパを見て、ハーミーママが静かに口を開いた。

 

「それだけじゃないの。食器に名前が彫ってあったのよ。”イリス・クラウチ”って」

「何だって?」ハリーがかぼちゃジュースに咽ながら、訊き返した。

「クラウチって、あのパーシーの婚約者の?」すかさずロンも混ぜっ返す。

「そのクラウチ家に私達と同じような年頃の子供はいないわ。唯一の息子さんはその・・・亡くなったでしょ」ハーマイオニーが言い淀んだ。

「でもこの学校に、イリスと同じ名前の女の子なんていたかな?」ハリーが首を傾げた。

 

 しばらくの間、四人は一言も声を発さず、それぞれ思案に耽っていた。やがてロンが閃いたとばかりに目を輝かせ、ポンと手を打って明るい声で言った。

 

「分かった!ほら、前にシリウスが言ってたじゃないか。『ブラック家は至る所に親戚関係がある』って。もしかしたら、クラウチ家とも繋がりがあるんじゃない?僕ん家の親戚が、遠縁の家を引き継いだ事があるんだ。魔法族って途絶える時はあっという間だからさ。

 クラウチ家には跡取りがいない。でもパーシーじゃ子供は産めない。で、君にそのお鉢が回って来たとか」

「本当にクラウチさんがイリスを跡取りに考えたんだとするよ」ハリーがウインナーを突き刺したフォークを掲げ、静かに話し始めた。

「じゃあどうして、クラウチさんはイリスに何も言いに来ないんだ?屋敷しもべ妖精に命じて、夜中や早朝にこっそりご馳走を用意するだけなんて、不自然過ぎる。それにウィンキーはもう解雇されたはずだろ?」

 

 イリスもハリーと同じ思いだった。キャンプで初めて会った時や”闇の印”が打ち上げられた時、クラウチ氏はまるで特大の”尻尾爆発スクリュート”を見るような目を自分に向けていた。自分を養子にするくらいなら、彼はスクリュートを喜んで家族の一員に迎えるだろう。仮に百歩譲ってそうだとしても、お腹を空かせた彼女を哀れに思い、ご馳走を用意するなんて優しさを持っているようには思えない。

 

「やっぱりラベンダーの言う通り、人違いなのかな」イリスは弱り切った声で呟いた。

「でも”イリス・クラウチ”なんて子、聴いた事がないわ。・・・ねえ、私達、厨房に行くべきよ」とハーマイオニー。

「厨房?」三人の声がハミングした。

「ご馳走を用意したのは屋敷しもべ妖精だわ。だから厨房に行けば、何か手掛かりが見つかるかもしれない」

 

 ハーマイオニーの瞳は知的な探求心に輝いていた。そうして四人は朝食を摂った後、以前にフレッドとジョージが教えてくれた道程を辿り、屋敷しもべ妖精が働く厨房へ向かった。大広間を出て玄関ホールを歩き、左側にあるドアを開ける。石段を下りると、赤々と松明に照らされた広い石の廊下があった。主に食べ物を描いた、楽しげな雰囲気の絵が飾ってある。その中の一つに、巨大な銀の器に果物を盛った絵があった。ここがフレッド達の言った、厨房への隠し扉なのだろう。喜び勇んで、絵の中の緑色の梨に指先を伸ばすハーマイオニーを見兼ねて、ロンが口を挟んだ。

 

「ハーマイオニー」ロンはとても疑わしげだ。

「これは”イリスを助けるため”なんだよな?決して”反吐のため”なんかじゃないよな?」

「も、もちろんよ」ハーマイオニーは僅かに体をこわばらせ、口籠った。

「それにSPEWよ、ロン。”反吐”なんて呼ばないで」

 

 ハーマイオニーの指先にくすぐられた梨は、クスクス笑いながら身をよじって大きな緑色のドアの取っ手に変わった。彼女は取っ手を掴んで隠し扉を大きく開け、四人はぞろぞろと中へ入った。

 

 

 厨房は、とても天井が高く巨大な部屋だった。上の階にある大広間と同じくらい広く、石壁の前には丁寧に磨き上げられた鍋やフライパンが山積みになっている。部屋の奥には、大きなレンガ造りの暖炉があった。四人がそれぞれ興味深そうに周囲を眺めていると、部屋の真ん中から一匹の屋敷しもべ妖精が飛ぶような勢いでやって来た。妖精はハリーとイリスの目の前で急停止し、甲高く興奮した声で叫んだ。

 

「ハリー・ポッター様!ゴーントお嬢様!」

「ドビー?」二人の声がハミングした。

 

 ドビーは二、三歩下がってイリスを、次いでハリーを見上げ、にっこりと笑った。巨大なテニスボールのような緑の目が、嬉し涙でいっぱいだ。――ドビーはとても独創的な服装をしていた。彼がマルフォイ家で働いていた時は、汚れた枕カバーを着ているだけだった。しかし今は、帽子代わりにティーポットカバーをかぶり、それにキラキラしたバッジを沢山留め、裸の上半身に馬蹄模様のネクタイを締めて、子供用のサッカーパンツを履き、ちぐはぐな靴下を履いている。――その片方を見て、ハリーは目を見張った。かつてマルフォイ氏がドビーに与えるようにと計略を仕掛け、ドビーを自由の身にした”自分の黒い靴下”だ。そうだ、彼は自由になった筈だ。ハリーは腕組みをした。何故、彼はホグワーツの厨房にいるんだろう?

 

「どうしてここにいるんだい?」ハリーは率直に尋ねた。

「ドビーはホグワーツに働きに来たのでございます!」ドビーは興奮してキーキーと言った。

「ダンブルドア校長が、ドビーと()()()()()に仕事を与えてくださったのでございます!」

「ウィンキーもここにいるの?」ハーマイオニーとイリスの声がハミングした。

「さようでございますとも!」

 

 ドビーは嬉々としてイリス達を誘導し、四つの長い木のテーブルの間を引っ張って厨房の奥に連れて行った。テーブルの脇を通る時、イリスはそれぞれがちょうど大広間の各寮のテーブルの真下に置かれているという事に気付いた。今は朝食も終わったので、どのテーブルにも食べ物はない。しかし一時間前は食べ物や飲み物がぎっしり置かれ、天井からそれぞれのテーブルへ魔法で送られたのだろう。

 

 ドビー一行が部屋の真ん中を突っ切っていく中、少なくとも百人の小さな屋敷しもべ妖精が厨房のあちこちで会釈したり、頭を下げたり、膝をちょんと折って宮廷風の挨拶をしてくれた。全員が同じ格好をしている。ホグワーツの紋章が入ったキッチンタオルを、洒落たトーガ風に巻き付けて結んでいた。やがてドビーはレンガ造りの暖炉の前で立ち止まり、その脇のテーブルに突っ伏す妖精を指差しながら言った。

 

「ウィンキーでございます!」

 

 ウィンキーはドビーの声に返事もしなかった。彼女は小さなスカートにブラウス姿で、それに合ったブルーの帽子をかぶっている。しかしドビーの珍妙なごた混ぜの服はどれも清潔で手入れが行き届いているのに、ウィンキーの方は全くそうではなかった。ブラウスの前はスープの染みだらけで、スカートには焼け焦げた跡がある。おまけにテーブル上にはバタービールの空瓶が散乱していた。余りに荒れ果てた妖精の様子に、四人は何と声を掛けて良いか分からず、立ち竦んだ。

 

「ウィンキー」

 

 やがて勇気を出してイリスが一歩進み、名前を呼んだ。するとウィンキーがぴくりと動き、顔を上げて彼女を見た。次の瞬間、ウィンキーは戸惑ったように厨房を見回しながら椅子から飛び降り、こちらにやって来た。

 

「まあ、()()()。こんな所に来てはいけません。火傷などしたらどうします?」

 

 ――”奥方様”だって?イリスは思わず呆気に取られ、ウィンキーを見下ろした。彼女だけでなく、ドビーを含めた他の皆も絶句して、二人の様子を眺めている。四人と一匹が注ぐ驚愕の眼差しを物ともせず、ウィンキーは不意に何かを思い至ったかのように息を飲んで、まるで愛しい悪戯っ子を見るような目でイリスを見つめた。――その大きな茶色い瞳は大量のアルコールで濁り、正気が失われている。

 

「さてはまたお腹が空いたのですね?」ウィンキーはそう言うと、イリスの手を取って出口に向かって歩き出した。

「さあ、お坊ちゃまの所へ戻って下さい。さもないとウィンキーが()()()()()()()()()()。心配しなくても、すぐに軽食を()()()()()()()()()わ」

 

 ウィンキーはくすくす笑った。イリスは手を引かれるままに歩きながら、さっきウィンキーが言った言葉を心の中でゆっくりと反芻した。”奥方様”――”ウィンキーが叱られる”――”お坊ちゃま”――これらの言葉が紡ぐ答えは、恐らく一つしかない。ウィンキーはきっと亡くなったクラウチ夫人と自分を重ねているのだ。クラウチ夫人の名前は自分と同じなのに違いない。

 

「ウィンキー?」

 

 イリスははっきりした声で、もう一度名前を呼んだ。――ピタリ、とウィンキーの動きが止まった。そうして彼女はまるでブリキ人形のようにぎこちない動きで振り返り、イリスを見て、周囲の景色を見渡し、もうクラウチ家のキッチンタオルではなくなった自分の新しい服を見下ろしてから、唇を震わせて泣き出した。大きな茶色の目から涙が溢れ、滝のように流れ落ちていく。

 

「ああああああぁあぁ・・・ウィンキーは・・・なんということを・・・」

 

 イリスは矢も楯もたまらず、床に崩れ落ちようとするウィンキーをギュッと抱き留めた。イリスの腕の中で、哀れな妖精はますます激しく泣きじゃくった。ハリーは静かに近づいて、銀のスプーンをウィンキーに見せた。

 

「これは君のもの?ご馳走を作ったのも君なの?」ハリーが訊くと、ウィンキーは微かに頷いた。

「”イリス・クラウチ”は、一体誰なんだい?」

「ああ、ウィンキーは言えないのです。ウィンキーはご主人様の秘密を守ります」

 

 ハリーがそう問いかけたとたん、ウィンキーは帽子の穴から出ている耳を両手でぴったりと押さえつけ、一言を聴こえないようにして、キーキーと泣き叫んだ。そしてか細い声で、こう囁いた。

 

「ウィンキーは夢を()()()()()()()()。もう決して叶う事の無い夢を()()()()()()()()のです」

 

 それ以上は、ウィンキーの口からちゃんとした言葉は一言も聴けなかった。ただ力なく泣きじゃくるばかりのウィンキーの頬を、イリスは優しく撫でた。――例え自分のために作られたご馳走ではなかったとしても、イリスは彼女にきちんとお礼を言いたかった。空腹で苦しんでいた時、あのご馳走に何度助けられた事か。まさに命の恩人に等しい存在だった。イリスは真摯な眼差しを妖精に向け、しっかりと感謝の言葉を捧げた。

 

「ウィンキー、あなたの料理はとても美味しかったよ。本当にありがとう」

「奥方様・・・あたしの可愛い、奥方様・・・」

 

 ウィンキーは感極まったようにそう呟くと、イリスの腕の中でゆっくりと目を閉じ、眠った。イリスはそっとウィンキーを抱き上げ、椅子を二つ並べてその上に寝かせてあげた。やがて六人くらいのしもべ妖精がやって来て、大きな銀の盆にティーポットと人数分のティーカップ、ミルクと砂糖入れ、大皿に盛ったビスケットを持って来てくれた。それらに舌鼓を打ちつつ、眠るウィンキーを見守りつつ、イリス達はドビーと話をした。

 

 ――ドビー曰く、ホグワーツで働き始めたのは今から一週間前という事だった。ドビーはマルフォイ家から自由の身になってからというもの、丸二年間仕事を探して国中を旅した。ドビーの労働条件はただ一つ、”雇い主から給料を貰う事”だ。しかし、そもそも解雇されたしもべ妖精が新しい職を得るのは本当に難しい事だし、大多数の魔法使いは給料を要求するしもべ妖精を欲しがらない。しもべ妖精達自身も、無休無給である事を美徳だと信じている。――実際、ホグワーツのしもべ妖精達はドビーの英雄譚に耳を貸すどころか、まるで彼が伝染病でも持っているかのように、じりじりと距離を置き始めていた。そんな過酷な旅の中でドビーはウィンキーと出会い、二人一緒に同じ職場に就けるほど沢山の仕事がある所はホグワーツしかないと閃いて、ダンブルドアへ会いに行った。そしてめでたく再就職の運びとなったのだと言う。

 

「ドビーはダンブルドアから一週間に一ガリオンと、一ヶ月に一日のお休みを頂くのです!」とドビー。周囲のしもべ妖精が凄まじい悲鳴を上げ、厨房内を逃げ惑った。

「それじゃ少ないわ!」ハーマイオニーは怒ったように言った。

「お嬢様、違うのです。ダンブルドアは最初、ドビーに週十ガリオンと週末を休日にするようにと仰いました」

 

 ドビーはそんなに暇ができたら恐ろしいとでも言うように、ブルッと大きく震えた。

 

「ドビーは給料を値切ったのです。ドビーは自由が好きでございます。でもドビーはそんなに沢山欲しくはないのです。働く方が好きなのでございます」

 

 ドビーはそう言うと、とても幸せそうに笑った。彼の笑顔を見て、イリス達は幸福のお裾分けを貰ったような気分になった。四人が紅茶を飲んでいる間、ドビーは自由な屋敷しもべ妖精の素晴らしい生活や、貰った給料をどう使うつもりなのかといった計画を楽しそうに話し続けた。ドビーはファッションに強い興味があるらしく、次の給料でセーターを買うのだという事を聴いたロンが、毎年クリスマスに自分の母がくれる栗色のセーターをあげると約束したので、ドビーは大喜びだった。ロンは彼の事が気に入ったらしい。

 

 やがてドビーの話も紅茶も尽きて、四人は帰り支度を始めた。イリスは杖を振ってウィンキーの衣服の汚れを綺麗に取り除き、重ねた銀の食器の上に魔法でこしらえた花を一輪添えた。四人が立ち上がった瞬間、周りのしもべ妖精が一斉に寄って来て、寮に持ち帰ってくださいとスナックを押し付けた。ハーマイオニーはしもべ妖精達が引っ切り無しにお辞儀をしたり、膝を折って挨拶する様子を苦痛そうに見ながら断ったが、イリス達はカップケーキやエクレアなどをポケット一杯に溢れるほど詰め込んだ。

 

 そうしてイリス達はドビーに見送られながら、厨房を後にした。玄関ホールへの階段を昇り始めた時、ハーマイオニーが静かに口を開いた。

 

「きっとクラウチさんの亡くなった奥さん、イリスって名前だったんじゃないかしら。きっと名前だけじゃなくて、面影もどこか貴方と似ていたのよ。だからウィンキーは・・・」

 

 ハーマイオニーはそこで言葉を途切らせた。イリス達も何も言わなかった。――皆、同じ事を考えていた。”叶う事の無い夢”――きっとウィンキーはクラウチ家を解雇された事で正気を失い、ちょうど同じ名前のイリスをクラウチ夫人だと錯覚し、かつての幸せだった日々を再体験していたのだろう。

 

「どうしてあんなに献身的なウィンキーを解雇できるの?」

 

 ハーマイオニーの声には堪え切れない涙の色が滲んでいた。そして彼女は、SPEW活動にますます熱を上げて行くようになるのであった。

 

 

 十二月が、冷たい風と雪を連れてホグワーツへやって来た。冬になると、ホグワーツ城は確かに隙間風だらけだったが、氷の張った湖に浮かぶダームストラングの船を見る度に、イリス達は暖かい暖炉の火や厚い壁を有難く思った。船は強風に揺れ、黒い帆が暗い空にうねっている。とても寒そうだ。禁じられた森の近くに設置されたボーバトンの馬車だって暖かそうには見えない。そんな冬の強烈な寒気を、ハーマイオニーが教えてくれた青い炎を瓶に入れて暖を取ったり、ハグリッドお手製の生姜の効いた熱い紅茶を飲んだりしながら、イリス達は何とか乗り切って行こうと頑張っていた。

 

「ポッター、ウィーズリー、ゴーント!こちらに注目なさい!」

 

 そんなある木曜日の事、「変身学」の授業中、マクゴナガル先生のイライラした声が鞭のようにビシッと響き渡った。イリス達は一斉に飛び上がり、慌ててマクゴナガル先生を見た。

 

 授業が終わりを告げる数分前の事だった。生徒はもう課題をやり終えていたし、黒板に書かれた宿題も写し終わっていて、終業のベルが今にも鳴ってやろうとばかりに少し傾いた状態で待ち構えていた。教室の後ろの方で、ハリーとロンはWWWの商品「だまし杖」をそれぞれ一本ずつ持ってチャンバラ中だった。ロンの持つブリキ製のカラスと、ハリーの持つゴム製のシーラカンスが熾烈な争いを繰り広げる様子を、イリスは夢中で観戦していたのだ。

 

「全く。あなた方にはいい加減、年相応の振る舞いをして頂きたいものです」

 

 マクゴナガル先生はそう言い放ち、イリス達を怖い目で睨んだ。ハーマイオニーも先生とそっくり同じ目で、三人をジロリと睨め付ける。いまだ交戦中の戦士達を急いで隠す二人を見ながら、マクゴナガル先生は咳払いをして口を開いた。

 

「皆さんにお話があります。クリスマス・ダンスパーティが近づきました。三大魔法学校対抗試合の伝統でもあり、外国のお客様と知り合う貴重な機会でもあります」

 

 不意に、前方に座るラベンダーが甲高い声でクックッと笑い始めた。パーバティも一緒に笑い出したいのを顔を歪めて必死に堪えながら、ラベンダーの脇腹をつついた。そして二人は揃って振り返ると、イリスとハリーを交互に見てニヤニヤ笑いをした。――『なんでこっちを見て笑うんだ?』二人の行動の意図が掴めず、イリスは首を傾げた。マクゴナガル先生は、そんな二人を注意する事無く無視し、話を続けた。

 

「パーティに参加する者は、ドレスローブを着用する事。ダンスパーティは大広間で、クリスマスの夜八時から始まり、夜中の十二時に終わります。

 ダンスパーティに出席するには、異性のパートナーが不可欠です。特に代表選手は伝統に従い、ダンスパーティの最初に踊ります。・・・つまりポッター、貴方は必ずパートナーを見つけなければなりません」

 

 イリスは気軽な調子でハリーの脇腹を突き、自分を指差してみせた。その様子を見て、ラベンダーとパーバティはますます忍び笑いをした。――本当にちょうど良い、とイリスは思った。自分とハリー、それからロンとハーマイオニー。お互いに異性同士だし、おまけに仲良しだ。ダンスは苦手だけど、ハリーと一緒ならきっと楽しいに違いない。しかしマクゴナガル先生は厳格極まりない口調で、こう続けた。

 

「クリスマス・ダンスパーティのパートナーは”友達”を選んではなりません。貴方が男性ならば格好良く気取った姿を、女性ならば最も美しく着飾った姿を見せたい、と思う相手としか踊ってはならないのです。それが、相手に対する礼儀というものです」

 

 イリスの明るい考えは、マクゴナガル先生の言葉がずっしりと圧し掛かった事により、ペシャンコに潰されてしまった。――自分が着飾った姿を見せたい相手なんて、一人しかいない。机の下で、ロンのカラスに襲われて首を切り落とされたハリーのシーラカンスをぼんやりと眺めながら、イリスは思った。おまけにその相手は決して自分を選んではくれないんだ。しょげ返るイリスの様子を、隣に座るハリーが物も言わずにじっと見つめていた。

 

 

 ハーマイオニーと図書室で別れ、寮へと戻る道すがら、イリスはぼんやりと考え事に耽っていた。――本当にマクゴナガル先生の言う通り、自分が着飾った姿を見せたい相手としか踊ってはいけないのなら、自分はパーティには参加できない。でも、それで良いのかもしれない。イリスは騙し階段を避けて昇りながら、自嘲気味に笑った。ドラコが他の女の子と踊っている姿なんて、見たくないもの。

 

「ねえ、ちょっと。イリス・ゴーント」

 

 その時、後ろから誰かに呼び止められ、イリスは足を止めて振り向いた。――ハッフルパフ生である事を示す黄色いタイを締めた女学生が、階段の下段に立って自分を見上げている。小麦色の滑らかな肌に目鼻立ちのはっきりした顔つきが似合う、快活そうな雰囲気の女性だ。彼女はにっこりと笑うと、こう問いかけた。

 

「君、ダンスパーティに出る予定あるの?パートナーは決まった?」

 

 イリスは素直に首を振って応えた。

 

「ううん、出ないよ。パートナーもいないしね」

 

 すると女性は焦げ茶色の大きな瞳をキラキラと輝かせ、階段を勢い良く駆け上がってイリスの手を掴んだ。

 

「やっぱり?じゃあ今年のクリスマスは、私達と一緒に()に出ない?”物語のヒロイン”としてね」

 

 ――”劇”だって?イリスは狼狽する余り、階段からずり落ちそうになった。劇なんて、小学校の時にした”ごんぎつね”の劇で、草木の役をした事ぐらいしかない。物言わずその場に佇むだけの役でもイオは大喜びし、『素晴らしい草木振りだった。まるで本当の植物みたいだった』と褒め千切ってくれたっけ。やがて我に返ったイリスは、慌てて首を横に振った。そもそも人前に出るなんてとても恥ずかしいし、耐えられる訳がない。

 

「そんな、私には無理だよ。見栄えだって良くないし」

「それマジで言ってんの?」アンヌは信じられないと言わんばかりに、ぐるりと目を回してみせた。

「あんた可愛いよ。それにその隠し切れない憂いに満ちた表情が最っ高!アマータ役にぴったりだわ」

 

 女生徒はそう言うと片目を閉じて、イリスの顔を両手の指で作ったフレームに閉じ込めるジェスチャーをした。――私、そんなに暗い顔してるのかな。不安そうに自分の顔を触るイリスの手を掴み、女生徒はうきうきとした調子で階段を昇り始めた。

 

「心配しないで、台詞はほとんどないのよ。劇自体もとっても短いしね」

 

 もうその女生徒の中では”イリスが劇に参加する”という話がまとまっているようだった。戸惑うイリスの手を引いて階段を昇り切ると、彼女は小さな空き教室の扉を開いた。そこには劇に使う小物やら衣装やらがぎっしり詰まっていて、その中に埋もれるようにして、二人の生徒が杖を振って何かの作業をしている。やがてその内の一人が立ち上がり、イリスを見たとたん、嬉しそうに頬を綻ばせた。

 

「アンヌ!彼女はオッケーしてくれたの?」

「もちろんよ」

 

 ”アンヌ”と呼ばれた女生徒はウインクした。イリスが”まだオッケーしていない”と言う前に、アンヌは両手を広げてくるりと部屋の中を一回りしてみせた。

 

「イリス、ここが魔法劇クラブの部室よ。部員は私、アンヌ・バーレスクと・・・」

「パトリシア・パストラルよ。アンヌと同じハッフルパフで、七年生。よろしくね」

 

 先程アンヌを呼んだ女生徒――金髪をお下げにし、そばかすの浮いた健康的な顔つきの女の子がおっとりと笑いかけ、イリスに握手を求めた。それからパトリシアとアンヌは、会話に参加しようとせず、部屋の隅でこちらに背を向けたままの男子生徒をじろりと睨んで、呆れかえった声で「ジョン!」と叫んだ。すると彼は苦虫を噛み潰したような表情で、くるりと振り返った。

 

「レイブンクローの七年生。ジョン・ペープサート」

 

 ジョンはまるで”口を開く事が罪悪だ”と言わんばかりにボソボソ喋った。そして話し終わった瞬間に再び壁の方を向いて、元の作業へ戻っていった。余りにそっけない彼の様子にアンヌは溜息を吐き、イリスを見て肩を竦めてみせた。

 

「この三人。で、あんたを入れると四人になる」

 

 ――たった三人?イリスは驚いて、二の句が告げないでいた。かつてイリスが行った小学校の演劇でさえ、演者や裏方を含めて優に一クラス分の人数を必要としたのに。いくら魔法が助けてくれるとは言え、たった四人でどうやって劇をするんだ?しかしアンヌはそんなイリスの不安を気にもしないで、自信満々な口調でこう言った。

 

「それで今回、私達がやる劇はこれよ。・・・『豊かな幸福の泉』!」

 

 満を持してアンヌが掲げた本には『吟遊詩人ビードルの物語』という題名が刻まれていた。――『豊かな幸福の泉』?聞き慣れない物語のタイトルに唖然とするばかりのイリスを見て、アンヌは絶句して本を取り落としそうになった。

 

「もしかして『ビードルの物語』読んだことないの?ジャスティンから、”あんたは純血”って聞いたんだけど」

「アンヌ、イリスはマグル育ちなのかもしれないわ」パトリシアが優しくフォローした。

「気にしないで。私もマグル育ちだったから『ビードルの物語』を知らなかったの。

 ほら、私達の育ったマグルの世界で、シンデレラとか人魚姫とかピノキオってお伽噺があるでしょ?『ビードルの物語』はそれと同じよ。魔法界の子供たちのお伽噺なの」

 

 パトリシアの説明はとても解りやすかった。イリスはアンヌから本を借りて、さらさらと読んでみた。――そこには吟遊詩人ビードルがルーン文字で綴った五篇の物語が、英語に翻訳されて一冊の本に集約されている。

 

 ――一つ目の話は優しく親切な父とは正反対の息子が、父親の遺した魔法のポットに手を焼く『魔法使いとポンポン飛ぶポット』、二つ目はどんな女性にも心動かされない筈だった、ある魔法使いの非業の結末を描いた『毛だらけ心臓の魔法戦士』、三つ目は愚かな王様を騙すペテン師と老魔女バビディが活躍する『バビディ兎ちゃんとぺちゃくちゃ切り株』、四つ目は死が三人の兄弟に不思議な贈り物をする『三人兄弟の物語』、そして最後は幸せを求めた三人の魔女と一人の騎士が力を合わせる物語『豊かな幸運の泉』――

 

 『豊かな幸運の泉』の粗筋はこうだ。――一年に一度、魔法の園の上に守られた泉に辿り着いた者は幸福になれると言われ、悲しみや辛さを抱えた者達が集まった。その中で魔法の園に誘われ、泉への道を獲得した四人の人物がいた。――病に苦しむ魔女アシャ、悪人に騙され、全てを奪われた魔女アルシーダ、深く愛した男に捨てられた魔女アマータ、ドジばかり踏む不運の騎士、ラックレス卿。四人は一致団結して泉への道へ繋がる試練を次々と乗り越えていくが、その過程でそれぞれが抱えた悲しみや苦しさは癒されゆき、泉に幸せにしてもらう必要はなくなった。泉の魔法の力を借りるのではなく、自分自身の力で苦難を乗り越えて幸せを掴む、とても前向きなストーリーだ。何かと魔法に頼りがちなマグルの世界のお伽噺とはまた違った趣の話に、イリスは深く感じ入った。

 

「あんたにはアマータ役をやってほしいの」アンヌはイリスに言った。

「私はアシャ役、パトリシアはアルシーダ役。それからナレーションはジョンよ」

「ジョンはラックレス卿じゃないの?」

 

 ――ジョンがやらなければ、ラックレス卿の席は空っぽのままだ。イリスが思わずそう尋ねると、アンヌは腕組みをして渋い顔つきで考え込んでみせた。

 

「そこが問題なのよね。うちの寮の連中には軒並み断られたし。・・・ねえ、あんた、ネビル・ロングボトムに声を掛けてみてくれない?あの子なんてラックレス卿役にぴったりだわ。ドジでうだつが上がらないけど、誠実そうだし」

 

 今度はイリスが考え込む番だった。――ネビルだって自分と同じで、目立つのは好きじゃない方だ。果たして彼は了承するだろうか。それにネビルがもし好きなパートナーを誘ってダンスパーティに参加するつもりなら、断られる可能性が高い。

 

「うーん。一応言ってみるよ」イリスは自信のなさそうな声で言った。

「ありがとう!」アンヌはパンと両手を合わせ、イリスを拝んだ。

「本当に劇に参加して大丈夫なの?たぶん準備や後片付けがあるから、ダンスパーティは参加できなくなっちゃうかもしれないよ。パートナーは本当にいないの?」とパトリシア。

「うん。大丈夫だよ」

 

 イリスはダンスパーティに参加できなくなる事が、逆にありがたいと思った。他の女の子と踊っているドラコを見ないで済むなら、たとえ恥ずかしい思いをしても、劇でも何でもやる方がずっとマシなのかもしれない。アンヌは勿体ぶった調子で咳払いをし、新入りのイリスに向けて話し始めた。

 

「イリス、魔法劇クラブはこれでも百年以上の歴史があるのよ。このクラブが創設されて数年経った頃に、クリスマスの催しに『豊かな幸運の泉』をやろうということになったの」

 

 アンヌはこのような話を聴かせてくれた。――魔法劇クラブの顧問であり、当時の「薬草学」の教授だったヘルベルト・ビーリー先生は熱心なアマチュア演出家で、ホグワーツの教職員と生徒達を楽しませるクリスマスの余興として、この劇の開催を決定した。しかし劇の結果は散々だった。アマータ役の生徒と恋仲だったラックレス卿役の生徒がアシャ役の生徒に心を移してしまい、そのごたごたが劇中に爆発したのだ。結果、彼らが泉に辿り着く事はなかった。物語に登場する白い芋虫は、当時「動物学」の教授だったケルトバーン先生が、アッシュワインダーに”太らせ呪文”をかけて演出していたのだが、幕が上がった瞬間に正体を現し爆発して、大広間を煙と舞台道具の残骸で埋めてしまった。アマータ役とアシャ役の生徒達は突然決闘を始め、その激しい応酬に巻き込まれたビーリー先生は呪いの十字砲火を浴び、大勢の人々が医務室へ担ぎ込まれた。大広間から鼻を突くきな臭い匂いが消えるまで数ヶ月かかったし、ビーリー先生が回復し、ケルトバーン先生が休職処分を解かれるまでにはもっと長い月日がかかった。当時のディペット校長はそれ以後一切の芝居をご法度にし、今日に至るまでホグワーツ校には演劇なしという誇りある伝統が続いたのだと言う。

 

「でもそれを今年のクリスマスに解禁してくださると、ダンブルドア先生が仰ったの!きっと外国のお客様のためでしょうね」

 

 パトリシアは夢見る瞳でそう囁いた。――イリスはどうしてこの二人が、そんな壮絶極まりない事件を過去に引き起こした、呪われた物語『豊かな幸福の泉』の劇をしようと思えるのか信じられなかった。アンヌは真剣な表情で拳を握り締め、熱く語った。

 

「『過去の汚名を払拭し、ホグワーツに再び演劇を』――これはずっと以前から受け継がれてきた、私達のスローガンだったの。私達は数十年、演劇なしの学生生活を耐えて来た。そしてやっとそのチャンスが巡って来た。この劇を成功させる事が、後々の魔法劇クラブの将来に関わって来る。二度と同じ轍は踏まないわ!」

 

 夢に燃えるアンヌ達を見て、イリスは大いなるプレッシャーと共に、やる気が沸々と湧き上がって来るのを感じていた。――ただ”ダンスパーティに参加したくないから”じゃなくて、この人たちのために心から劇を頑張らなくちゃ。まずはしっかり台詞を覚えよう。イリスは部室を出て寮へ帰る道すがら、アンヌが貸してくれた本を開いて『豊かな幸福の泉』を読み耽った。――物語の中で、アマータは過去の恋人の記憶を川に流し、未練を断ち切って、ラックレス卿という”新しい愛”を見つける。”()()()()”――その言葉が胸のどこかに引っかかり、イリスは気もそぞろになって、肖像画の”太った貴婦人”に思いっきりぶつかってしまった。

 

「まあ、まあ、まあ!ご本に夢中になるのは学生として良い事ですけどね!」貴婦人はご機嫌斜めだ。

「ごめんなさい!エーット・・・『ボールダーダッシュ(たわごと)』」

 

 貴婦人は呆れかえりながらも扉を開けてくれた。お礼を言って穴をくぐって談話室に入ると、ちょうどネビルが軽食を食べようとしている所だった。イリスは彼の隣に腰掛け、屈託のない声で尋ねた。

 

「ねえ、ネビル。君ってダンスパーティに出るの?パートナーは決まった?」

 

 ネビルは持っていたソーセージロールをバラバラと取り落した。顔をトマトのように真っ赤に染め、イリスを見ている。

 

「き、き、決まって、ないよ」

「じゃあさ」イリスは杖を振ってソーセージロールをネビルの手に戻して、言った。

「もし良かったら、私と一緒に劇に出ない?」

「・・・劇?」

 

 ソーセージロールを握り締めたまま、ネビルはきょとんとしてイリスを見つめた。

 

 

 クリスマス・ダンスパーティの噂は、スリザリン寮にも届いていた。最もドラコを含めた――”魔法省と関係が深い家族”を持つ生徒は予めその事を知っていたという者も多かった。談話室は細長い天井の低い地下室で、壁と天井は荒削りの石造りだ。天井から丸い緑がかったランプが鎖で吊るしてある。前方の壮大な彫刻を施した暖炉の前で、ドラコは溜息を零しながら『未来視について』と書かれた本をぱたんと閉じた。エルサの本には大体、このような旨の事が書き記してあった。

 

 『未来視とは”未来の映像を見る能力”である。過去も現在も未来も、全て一つの道で繋がっている。予言は言葉で、未来視は映像で、その道を表している。予言が”言葉の解釈の仕方”によって未来の多様性を示すように、未来視も幾多の映像で未来の多様性を示す。二つとも根本は同じである。予言や未来視からヒントを得て、諦めずに注意深く行動すれば、必ず望む未来を掴む事ができる』

 

 ドラコは本をポケットに滑り込ませ、溜息を吐いた。イリスの母が未来視の能力を持っている事は分かった。もし彼女も同じように未来視の能力を持っているのだとしたら・・・一体どんな未来を見たら、僕の記憶を消そうと思うんだ?――”多様な可能性”の一つ。先程の本の言葉がふと胸に引っかかった。父と僕は”秘密の部屋”に関係していた可能性がある。

 

 まさか”僕が将来、彼女を裏切る未来”を見たのか?ドラコの心臓はみるみるうちに冷たく凍り付いていった。そもそも”秘密の部屋”が開かれた時、僕は彼女の味方だったのか?――それはドラコが無意識の内に、考えるのを拒絶していた事だった。だが、それが一番辻褄が合う考えだ。イリスがマルフォイ家に連れ去られてすぐ僕の記憶は不鮮明になり、”秘密の部屋”が開かれた。その翌年にはイリスを”スリザリンの継承者”だとする本が出回り、彼女はその事に対し『半分は本当で半分は嘘』だと発言した。本当に僕がイリスの味方だったなら、彼女は記憶を消さなかったはずだ。

 

 黒く濁った不快な匂いのする不安の感情が体中を覆い尽くし、ドラコは居ても立っても居られなくなった。その時、彼に甘くしなだれかかる者がいた。――同級生の女生徒、パンジー・パーキンソンだ。

 

「ねえ、ドラコ。ダンスパーティのパートナーには、誰を選ぶの?」

 

 鼻にかかった甘えたような声だった。栗色の目は魅惑的に潤んで、ドラコをうっとりと見つめている。ふわり、と質の良い香水の香りが鼻をくすぐった。普通の男の子なら、とても魅力的に映る筈のその少女を見て、ドラコは思った。

 

 ――()()()()()()()()、と。彩りが失われた灰色の人生。常に愛想笑いをし、声色や目の色の微かな違いから機微を読み取り、家柄を値踏みし、自分にとって都合の良い地位を確保し続ける。まるで足の着かない深い海を泳ぎ続けるように、不毛で意味を成さない生活。どれほど頑張っても、後に残るものは何もない。力尽きれば、沈んで終わるだけ。パンジーだって僕を愛しているんじゃない、僕の家柄を愛しているだけだ。

 

 かつて、そんな暗い海を泳ぎ続けるドラコに、救済の手を伸ばした者がいた。あどけない笑顔を浮かべ、彼女はドラコを救い出し、夢の島へ連れて行った。――そこは二人しかいない、花の咲き乱れる素晴らしい場所だった。太陽が燦々と輝き、風は優しく凪ぎ、二人は他愛無い事を疲れ果てるまで話して、明るく笑い合った。ドラコはイリスとの関わりを通して、様々な事を知った。世界は彩りと輝きに満ちているという事、自分の本当の笑い声は思ったよりも大きいという事、様々な感情の揺れはこんなにも激しく心を突き動かすのだという事、そして家柄など関係なく、自分自身を純粋に見つめる目は、とても力強く暖かくて愛おしいものなのだという事を。――けれど、今はもう何もない。夢の島は永遠に消え去った。

 

 だが消え去ったからこそ、尚更愛おしかった。凍える冬に春の到来を待ち詫びるように、夜の孤独を恐れて日の出を恋しがるように、ただイリスの温もりが欲しかった。ダンスパーティのパートナーなど、最初から決まっている。ドラコはいつもの気取った立ち振る舞いで彼女に答えるために、口を開いた。

 

「それはもちろん、父のお眼鏡に叶った相手さ」

 

 それはドラコのさりげない牽制だった。パンジーは気後れし、やがてじりじりとその場から去って行く。――パンジーは別に僕じゃなくたっていいんだ。彼女が今度はノットに色目を使い出すのを横目で見ながら、ドラコは鼻白んだ。だけど僕はイリスじゃなきゃダメなんだ。彼女がいなけりゃ僕は――これから先、この灰色の人生を歩んでいく自信がない。

 

 『”秘密の部屋”に行こう』――ドラコはそう思った。残された手掛かりは、もうこれしかない。危険な目に遭ったって構わない。たとえ死んだって、ここで何もせずにじっとしているよりずっとマシだ。ドラコは立ち上がり、かつてロックハートの本で読んだ”秘密の部屋”の入口――”嘆きのマートル”の棲む二階の女子トイレへ向かった。

 

 

 女子トイレに入ると、床は水浸しになっていた。一番奥の個室だけが閉まり、そこから泣き声がしている。――きっとあの声の主がロックハートの書いていたトイレ憑きのゴースト、”嘆きのマートル”なんだろう。ドラコはなるべく足音を立てずにトイレの中央の手洗い場まで行った。本に書かれた通り、銅製の蛇口の脇のところに、引っ掻いたような小さな蛇の形が彫ってある。物語の中では、ロックハートは旅の中で後天的に覚えた”蛇語”を話して、入り口を開いた。しかしドラコは蛇語を話す事ができない。

 

「開け」

 

 ロックハートのセリフをそのまま言ってみたが、蛇口はピクリとも動かない。蛇語ではないからだ。杖を振って蛇を呼び出し「”開け”と言え」と命じたが、蛇はのんきにとぐろを巻くばかりで、ドラコの言う事を聞く素振りすら見せない。――躍起になるドラコは気づかなかった。何時の間にか、背後でしていた泣き声が止んでいる事を。

 

「ここは女子トイレよ」

「うわああああっ!」

 

 耳元で女の子の陰気な声がして、ドラコはたまらず大声を上げて飛び上がった。――”嘆きのマートル”がすぐ後ろにいた。彼女は胡散臭そうな目つきでドラコをジロジロ見ていたが、やがて目をキラキラと輝かせ、とても意地悪そうな声でこう言った。

 

「オォオオウ、あんた、あの時の”みっともない男の子”じゃない!」

「”みっともない”?」ドラコは眉を潜めて訊き返した。

「ちょうど二年前だったかしら?あたしのハリーとそのおまけのノッポが、ここにやって来たの。ここの入り口を開いて、いざ行こうっていう時に、あんたがやって来たのよ!」

 

 マートルは大袈裟な身振り手振りでドラコの当時の物真似をしてみせると、ケラケラ笑った。

 

「あんたったら真っ青でぶるぶる震えて、あたしのハリーに掴み掛られてギャーギャー泣き喚いていたわ。でも最後はあんたたち、一緒に入り口を降りて行ったけどね」

 

 ――どういうことだ?ドラコは愕然とし、二の句が告げないでいた。ポッターとウィーズリーが”秘密の部屋”に行き、自分はそれに同行しようとし、ポッターに攻撃を受けて泣いた。だが、最後は共に行った。つまり、つまり、僕は・・・。ドラコは自分の立てた残酷な想像を飲み下すのに、多くの時間を必要とした。

 

 僕は”秘密の部屋”に関係していた。イリスはスリザリンの血を引く、本物の”スリザリンの継承者”だ。夏休みに父がイリスに魔法をかけて”秘密の部屋”を開くように命じ、僕はイリスの敵になった。あるいは、傍観していた。だが途中で良心の呵責に耐え切れなくなり、ポッターやウィーズリーと一緒にイリスを助けに行った。――これが、一番辻褄の合う話だ。ドラコは何とか冷静さを取り戻すと、マートルに尋ねた。

 

「ポッターはどうやって入り口を開けたんだ?」

「知らないわよ。なんだか変な言葉を喋ってた。外国語みたいなね」

「どんな感じの?」

 

 ドラコが必死で追い縋ると、マートルは頭を捻ってしばらく考え込んだ。その間もドラコは用心深く蛇口を観察し、より近づくために、ポケットの中で嵩張って邪魔をするロックハートとエルサの本を取り出して、蛇口の近くに重ねて置いた。

 

「そうね。なんだかシューシューって空気の漏れるような、変な言葉だったわ」

 

 やがて思い出したマートルがそう言った時、まさにその通りの”不思議な音”が蛇口付近から聴こえた。次の瞬間、蛇口が眩い光を放ち、回り始めた。手洗い台が動き出して沈み込み、本と一緒にみるみる消え去った後に、太いパイプが剥き出しになった。大人一人が滑り込めるほどの大きさだ。二人はしばらくの間、物も言わずに、パイプの中に詰まった暗闇を見つめていた。

 

「今のは一体、誰だ?君か?」

「私じゃないわ。だってあっちの方でしたでしょ」マートルが蛇口のあった方を指差し、言った。

 

 湿った冷たい空気がパイプから漏れ出て、ドラコの頬を不気味に撫でていく。しかし彼は構わず、パイプの中に入り込んでその縁に手を掛けた。不意にマートルがすーっと滑るように接近してきて、不自然に優しい声でこう言った。

 

「もしこの先であんたが死んだら、あたしと一緒にここに取り憑いていいわよ」

 

 ――どうやらマートルはドラコの事をとても気に入ったようだった。しかし彼は冷たく取り澄ました声でこう応えた。

 

「残念だが、僕が死んだら()()()()()はもう決まってる」

 

 そしてドラコは手を離した。――ちょうど果てのない、ヌルヌルした暗い滑り台を急降下していくようだった。あちこちに枝分かれしているパイプが見えたが、自分が下りているものより太いものはない。そのパイプは曲がりくねりながら、下に向かって急勾配で続いている。やがてパイプが平らになり、出口から放り出され、ドスッと湿った音を立てて、暗い石のトンネルの床に落ちた。

 

「ルーモス・マキシマ、大きな光よ」

 

 ドラコはすぐさま杖に光を点した。自分の声がトンネルの闇に反響した。トンネルは立ち上がるのに十分な高さだ。足元に落ちていた本二冊を回収し、ドラコは迷いのない足取りで歩き出した。足音が湿った床に大きく響いた。――狂気に満ちた暗闇の、得体の知れない恐ろしい場所で、ドラコはたった一人、歩いていた。トンネルは墓場のように静まり返っている。時折、小さな動物の骨を踏み潰しながら彼は進んだ。

 

 次の瞬間、ドラコは静かに足を止めた。――行く手を塞ぐように、何か大きくて曲線を描いたものがある。しかし、彼は不思議と怖くなかった。まるで一度開けたびっくり箱をもう一度開く時のように、奇妙な安心感があった。ドラコは『あれが危険なものではない』と分かっていた。やがて杖明かりが照らしたのは、巨大な蛇の抜け殻だった。毒々しい鮮やかな緑色の皮が、トンネルの床にとぐろを巻いて横たわっている。――やっぱりそうだ。そう思った瞬間、ドラコは気づいた。『僕はかつて確かに、ここを通った事がある』と。

 

 ――ドラコのイリスに対する凄まじい執念は、彼女の掛けた”忘却術”を少しずつ破り始めていた。彼の思った通り、抜け殻は片方の壁の方に押しやられていて、地面には数人分の足跡がしっかりと残されている。彼はさらに先へ進んだ。

 

 トンネルはくねくねと何度も曲がった。永遠に続くかと思われるトンネルを進んでいく内に、ドラコの体中の神経がキリキリと不快に縮んでいく。――もし今、気が狂ってパニック状態に陥ってしまったら。突然杖が壊れて、光が灯らなくなり、暗闇に閉じ込められてしまったら。自分が今、ここにいる事はマートルしか知らない。僕は間違いなくここで死ぬ。

 

 しかしそれでもドラコは進む事を止めなかった。そして何度目かも分からない曲がり角を通過したとたん、ついに前方に硬い壁が見えた。――二匹の蛇が絡み合った彫刻が施してあり、蛇の目には輝く大粒のエメラルドが嵌め込んである。ここが”秘密の部屋”の扉だ。彼は再び言った。

 

「開け」

 

 しかし扉はびくともしない。エメラルドの目が嘲るようにチラチラと輝いている。さっきは開いたのに。ドラコは歯噛みして、そしてある事に気付いた。――あの不思議な声は、蛇口付近から聴こえた。そこには本が置いてあった筈だ。ドラコはポケットから本を取り出し、最初にロックハートの本を調べた。立派な赤い装丁の施された本には、可笑しな所は何もない。続いて、エルサの本を調べた。シンプルな青い装丁の本で、裏返すと――表紙の右端に”銀色の二対の蛇の絵”が書かれている。蛇たちは仲良く交差し、お互いを見つめ合っている。

 

 不意にその絵が、杖の光を受けてキラッと輝きを放った。――その時、あの蛇口付近で聴こえた声の主が何だったのか、そして今から自分は何をすべきなのかという事を、ドラコは理解した。彼はエルサの本を扉に近づけ、蛇の絵が描かれた面をそっと押し当てた。

 

 本の中から低く微かなシューシューという音が聴こえ、壁が二つに裂け、絡み合っていた蛇が分かれ、両側の壁がスルスルと滑るように見えなくなった。――”秘密の部屋”は再び開かれた。ドラコはごくりと唾を飲み込み、その中へ入って行った。

 

 

 ドラコは細長く奥へと延びる、薄明りの部屋の端に立っていた。またしても蛇が絡み合う彫刻を施した石の柱が、上へ上へとそびえ、暗闇に吸い込まれて見えない天井を支え、妖しい緑がかった幽明の中に、黒々とした影を落としている。ドラコは左右一対になった、蛇の柱の間を前進した。一歩一歩踏み出す足音が、薄暗い壁に反響する。彫り物の蛇の虚ろな眼窩が、自分の姿をずっと追っているような気がした。一度ならず、蛇の目がぎろりと動いたような気がして、ドラコは胃がざわざわと騒ぎ、今にも大声で叫び出したい気持ちを懸命に堪えながら、先を進んだ。

 

 最後の一対の柱のところまで来ると、部屋の天井まで部屋の天井まで届く程高くそびえる石像が、壁を背に立っているのが目に入った。年老いた猿のような顔に、細長い顎鬚が、その魔法使いの流れるような石のローブの裾当たりまで伸び、その下には灰色の巨大な足が二本、滑らかな床を踏みしめている。そしてその前には石造りの祭壇が置かれていた。――ドラコは明かりに照らされたその四角い輪郭を認めた瞬間、我武者羅に走り出した。祭壇の上には小さな女の子が横たわり、静かに眠っている。

 

「イリス・・・っ」

 

 しかしドラコが夢中で手を伸ばした瞬間、女の子は霞のようにかき消えてしまった。それは取り戻しかけている記憶が見せた”過去の幻影”だった。――そうだ。あの時、確かにイリスはここにいた。埃の降り積もった祭壇を確かめるように撫でながら、ドラコは唇を噛み締めた。

 

 その時、灯りに照らされて、大きな何かが目に入り、ドラコは横を向いた。――それは巨大な蛇の亡骸だった。さっきのトンネルで見た抜け殻の主に違いない。月日の流れは蛇の亡骸から肉をこそげ取り、白骨へ変えていた。彼が震える足で近づいて良く見ると、蛇の周辺の柱や壁、床はひび割れ、壊され、ボロボロになっていた。それほどに激しい戦いが、ここであったのだ。ふとドラコの足が、何かを蹴飛ばした。

 

 それは、かつて母が自分に与えた”破魔の短剣”の残骸だった。精緻な銀細工が施された柄の部分には、エメラルドが嵌め込まれ、その下にマルフォイ家の家紋が刻印されている。間違いない、自分の守り刀だ。それがどうしてここに?柄から先の刃は砕け、その欠片だけが辛うじて残っている。戸惑うように柄を握り締めた時、激しい頭痛が襲い掛かり、ドラコは耐え切れずにその場でうずくまった。

 

 ――真っ暗闇の中で、ドラコは命懸けで何かを守った。腹部を貫く激しい痛みと共に、握り締めた柄の先から、熱い何かが噴き出て、自分を濡らすのを感じていた――

 

 ――そうだ、僕はここで確かに戦ったんだ。ドラコは蛇の亡骸を見上げて、先程取り戻したばかりの記憶の破片を、心の中でしっかりと噛み締めた。イリスを守るために、僕はこの蛇を殺した。

 

 ドラコは恐る恐る蛇の亡骸へ近づいた。――こんなに巨大な蛇の化け物を、自分は今まで見た事がない。大人三人をまとめて噛み砕けるほど、大きな口だ。おまけに”バジリスク”――直視の魔眼の呪いをもつ蛇でもある。ポッターやウィーズリーと一緒に、僕はこいつからイリスを守った。なのに何故僕だけが、彼女の世界から弾き出されたんだ?

 

 ドラコはただ静かに、自分の手元へ視線を注いだ。ボロボロになった”破魔の短剣”が、まるで今の自分の姿のように見えた。――イリスは素直で泣き虫で、繊細な子だ。だがこんな恐ろしい蛇に襲われる程の目に遭い、強力な呪いを抱えるという非業の宿命を背負ってしまった。彼女はそんな事、きっと耐えられない。僕に助けを求めるはずだ。けれど彼女は僕の記憶を消し、他の誰かを愛する訳でもなく、一人で生きる事を選んだ。

 

 ――つまりそんなにも、僕は無力だったという事か?ドラコの目から熱い涙が溢れ、彼はドサッと床に崩れ落ちた。僕では力不足だと、呪いや宿命を支える力になれないと君は思ったから、記憶を消して僕を捨てたのか?

 

 その時、視界の端に何かがチラついた。無意識にそちらへ目線をやって、ドラコは息を飲んだ。――エルサの本の裏表紙に描かれた”蛇の絵”が、銀色に光っている。彼が急いでにじり寄ると、二対の蛇はするりと別れて銀色のインクへ変わり、あるメッセージを描いた。

 

――『()()()()()()()』――

 

 次の瞬間、文字は幻のように消え失せ、蛇は元の絵に戻っていた。しかしその言葉はドラコの心にしっかりと焼き付けられた。”愛を信じなさい”――その言葉を噛み締めたとたん、ドラコの心の中に、イリスと過ごした素晴らしい記憶の数々が鮮やかに蘇った。イリスがドラコに優しく触れた瞬間、灰色に淀んだ世界は彩りと輝きに満ち、凍えた身体はポカポカと温まり、悪口や皮肉が染み込んだ水溜りは澄んだ泉へ変わった。――彼女が与えたものは、言葉にできないほど”大切なもの”だった。命を懸けて戦うに足る、尊いものだ。

 

 『僕はイリスと育んだ愛を信じる』――ドラコはそう思い、絶望に呑まれかけた心を取り戻した。冷静に考えろ、イリスがそんな事をする筈がない。もし僕がイリスと同じ立場で、未来視の能力を持っていたとするなら、一体どんな未来を見たら記憶を消そうと思う?僕なら、彼女を守るために記憶を消す。”()()()()()()()”――ドラコはハッと息を飲んだ。

 

 ドラコはやっと真実に辿り着いた。未来視は”多様な可能性”の一つだと、エルサは説いた。恐らくイリスは”最悪な未来”を見たのでは?たとえば僕が死ぬ未来。彼女は僕を守るために記憶を消したのでは?

 

 やがてどこからともなく音楽が聴こえて来た。音楽は徐々に大きくなった。やがてその旋律が高まり、ドラコの胸の中で肋骨を膨らませるほどに感じた時、すぐ傍の柱の頂上から炎が燃え上がった。

 

 ――”不死鳥”だ。白鳥程の大きさの真紅の鳥が、ドーム型の天井にその不思議な旋律を響かせながら姿を現した。その旋律は、ドラコの心を不思議な程に勇気づけた。孔雀の羽根のように長い金色の尾羽を輝かせ、不死鳥は彼の肩にずしりと止まった。長く鋭い金色の嘴に、真っ黒な黒い目が、彼を優しく見つめている。

 

 それはまるで、今ドラコが感じている希望をそのまま形にしたように、美しく輝きに満ちていた。彼は以前にもこの鳥を見た事があるような気がした。そしてこの鳥はまた自分を助けてくれる、彼はそうも思った。

 

「君に助けられるのはきっと二度目だ、そうだろ?」

 

 ドラコが尋ねると、フォークスは応える代わりに優しく彼の指先を甘噛みした。――”逢いに行こう”。彼は素直にただそう思った。もうこれ以上の答えは、彼女と直接会う以外に見い出せない。僕の人生のパートナーは、彼女しかいないんだ。不死鳥の尾羽を掴み、”秘密の部屋”を脱出する彼の姿を、一人の老人が静かに見守っていた。


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