ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

58 / 71
※5/31:文章をより読みやすいように一部微調整しました。


Petal6.炎のゴブレット

 イリスはグリフィンドール寮へ帰り付き、穴をくぐり抜けて談話室へ戻った。いつもの特等席にはハリーとロンがいて、イリスを見つけると二人揃って羽根ペンを放り出し、心配そうな顔をして駆け寄って、迎え入れてくれた。――テーブルの上には「占い学」の教科書と星座表、羊皮紙が散乱している。二人はこれから一ヶ月間の自分の運勢を、惑星の動きと自分の持つ星座表から読み解く()()()()()、トレローニー先生受けしそうな”悲劇的な運命”を書き連ねていく作業をしていたところだと教えてくれた。ロンは残り数日で悲劇のネタ切れを起こしたのだと言って、羨ましそうにイリスを見た。

 

「君は良いよな。悲劇的なネタには事欠かない人生だろ?」

「おい、ロン!」ハリーはあんまりな発言をしたロンの頭を小突いた。

 

 怒ったイリスがロンの宿題を”消失呪文”で消そうとして、ロンが彼女の足元に縋り付きながら必死で謝っている時、ハーマイオニーが図書室から戻って来た。彼女はイリスを見た途端に労しげな表情を浮かべ、泣きベソを搔いてうずくまっているロンを不気味そうに跨いでから、イリスの隣に座った。いつものメンバーが揃ったところで、イリスは彼らにムーディ先生との出来事を話して聴かせた。

 

「変わった先生だよな。血を舐めるなんて」ロンは宿題をそっと隠しながら言った。

「でも貴方のトラウマをそんな短時間で治療してくださるなんて、本当に実力ある人なのね。心の傷を治すのって、普通はもっと長い年月が掛かるものよ」とハーマイオニー。

「もう平気なの?」

 

 ハリーは緑色に輝く瞳を心配そうに翳らせ、イリスの頬をそっと撫でた。――ふと彼の頭の中で、我武者羅に暴れて泣きじゃくっていた少女の姿が思い浮かぶ。あの時、僕は何も出来なかった。ハリーは強く唇を噛み締めた。ネビルが助けてくれるまで、僕は何も・・・。そんな彼の心の内を知る事無く、イリスは朗らかな表情で頷いた。彼女のあどけない微笑みは、ハリーの中にくすぶる”無力な自分を責める気持ち”を瞬く間に溶かし、”もっと強くならなければ”という闘志へ変えていった。

 

「ねえ、授業の続きは何だったの?」

 

 イリスが何気なく尋ねると、三人は黙り込んだ。やがてハリーが口を開いた。

 

「”死の呪い”だよ。禁じられた呪文の最後の一つだ」

 

 イリスはしんと静まり返った。ハリーの両親はヴォルデモートに”死の呪い”を受けて殺された。それを目の前で見せるなんて、いくら知らなければならない事だとしても、残酷過ぎる。ハリーは一体どんな気持ちで、呪いを掛けられた蜘蛛を見たのだろう。イリスの労わるような視線を受け、彼は強がって笑った。

 

「でも僕は知るべきだった。彼の言う通り。いずれ、対決することになるかもしれないしね」

 

 ハリーはイリスの頭を優しく撫でた。――そうだ、この子を守るためなら”死の呪い”も怖くない。今度こそ、僕は彼女を守れるようになりたいんだ。やがて暗く沈み込んでしまった場の空気を和ませようと、ハーマイオニーが明るい声を上げた。

 

「さあ、明るい未来のお話をしましょう。でっち上げの悲劇的な未来じゃなくてね!」

 

 ”明るい未来の話”だって?一体何の事だろうと三人が首を傾げていると、ハーマイオニーはローブのポケットから小さな箱を取り出した。箱の中には色とりどりのバッジが五十個ほど入っていた。全てのバッジには”S・P・E・W”という同じ文字が印字されていた。

 

「”反吐”?」ハリーはバッジを一個取り上げ、しげしげと眺めた。

「何に使うんだい?」

「反吐じゃないわ」ハーマイオニーはもどかしげに言った。

「エス・ピー・イー・ダブリュー。つまり、エスは協会、ピーは振興、イーはしもべ妖精、ダブリューは福祉の頭文字。しもべ妖精福祉振興協会よ」

 

 イリスは感心しながら、ハーマイオニーから渡されたバッジを鑑賞した。”しもべ妖精福祉振興協会”、そんな団体が魔法界に存在しているなんて。さすがは博識なハーマイオニーだ。恐らくその協会に参加し、バッジを手に入れたのだろう。

 

「そんな協会があるんだね。さすが”物知り”ハーミー」

「違うわ」ハーマイオニーが威勢よく胸を張った。

()()()()()()()()()()

「エッ?」

 

 三人は思わず呆気に取られて、ハーマイオニーを見つめた。――かつてイリスは彼女に『料理を食べない事以外で、しもべ妖精を助ける方法を考えた方が良い』と助言した事を思い出した。その方法を彼女は見事に編み出したらしい。ハーマイオニーは意欲に燃える瞳で三人を見下ろし、妖精の奴隷制度は何世紀も前から続いているという事、我々の短期目標は”しもべ妖精の正当な報酬と労働条件を確保する事”で、長期目標は”杖の使用禁止に関する法律改正”、並びに”しもべ妖精代表を一人『魔法生物規制管理部』に参加させる事”だと言い放った。何故なら、彼らの代表権は愕然とするほど無視されているからであると。

 

「メンバーは私達の四人から始めるわ。入会費は二シックルと考えたの。そのお金でバッジを買い、その売り上げ資金を基にビラ撒きキャンペーンを展開するわ。

 イリス、貴方は副会長よ。メンバー集めと私の補佐を頼むわ。ロン、貴方は財務担当。上の階に募金用の空き缶を置いてあるから。ハリー、貴方は書記よ。だから私が今喋っている事を全部記録しておくといいわ。第一回会合の記録として」

 

 ハーマイオニーは一切の淀みのない口調でそう言い切ると、にっこりと一人ずつに微笑みかけた。その笑顔からは『当然、貴方達はしてくれるわよね?』という無言のプレッシャーがにじみ出ていた。ロンはいつもの軽口を叩く余裕すらなく、ナメクジを吐く呪いを受けた時のような顔を彼女に向けている。ハリーはそんな彼の表情を見て、吹き出しそうになっていた。イリスは口は災いの元だという事を学び、ひとまずメンバーになってくれそうな友人達を片っ端から思い浮かべていた。

 

 

 それから数週間が経ったが、SPEWの活動は上手く行かなかった。イリスはまずネビルを始めとした仲の良いグリフィンドール生に声を掛け、それから蛙チョコカード交換会でも他の寮の友達に、積極的に声を掛けた。フィルチにも声を掛け、ミセス・ノリスにも署名代わりに肉球を押してもらった。しかしそれ以上、メンバーが増える事はなかった。おまけに、みんなハーマイオニーにとやかく言われるのが嫌だから入会しただけで、真面目にこの活動に取り組む者はイリスとハーマイオニー以外、ほとんどいなかった。このままでは会長が掲げるマニフェストを達成する事ができない。夕食後の蛙チョコカード会を終え、副会長が悩みながら階段を昇っていると、踊り場にしゃがみ込む少女が見えた。力なく座り込み、苦痛に喘いでいる。

 

「大丈夫?気分が悪いの?」

 

 イリスは慌てて駆け寄ってから、はたと気付いた。――この子は確か、スリザリンのテーブルで見た”あの華奢な女の子”だ。女の子は返事する事すらできないようで、イリスを縋るような目で見つめて涙を零し、激しく咳き込んだ。イリスはポケットを探り、”王の草(アセラス)”と呼ばれる薬草を取り出した。それを指先で揉み潰し、彼女の鼻先へ持って行く。潰された草は、朝露が濡れる爽やかな草原のような、清らかな香りを放った。女の子は気持ち良さそうに深呼吸し、咳は止まった。しかし、これはあくまで応急処置にしかならない。イリスは女の子を励ましながら手を貸し、医務室へ連れて行った。

 

 マダム・ポンフリーの手当てを受け、ベッドで横になりながら、女の子はイリスにお礼を言った。近くでよく見ると、波打つ栗色の髪と黒目がちな瞳が愛らしい、上品な立ち振る舞いの少女だという事が分かった。

 

「本当にありがとうございます。さっき薬草を嗅がせてくれましたよね。とても良い匂いだった。あれは何なのですか?」

「”王の草”だよ。揉み潰すと、気分が良くなる香りを放つの」

 

 イリスはポケットから残りの”王の草”を取り出した。――濃い緑の葉と白い花が特徴的な薬草で、ヨーロッパ地方の清らかな山林に群生し、ホグワーツでもスプラウト先生が少しばかり温室で育てている。指先で揉み潰すと独特の清涼感のある芳香を放ち、その香り自体が病や怪我による気分不良を浄化するのだ。より広範囲に香りを振り撒きたい時は、湯の中に放り込むと良い。先週行われた「魔法薬学」の授業の終わりに、スネイプ先生が『トラウマを思い出し、またパニックになった時に使用するように』と教えてくれた、教科書に載っていない知識の一つだった。やがて女の子が尊敬の眼差しで自分を見つめている事に気付き、イリスは我に返って恥ずかしそうに笑った。

 

「まあ、全部スネイプ先生の受け売りなんだけどね」

 

 二人はクスクス笑った。やがて女の子はハッと息を飲むと、ベッドの上から身を起こし、身だしなみを整えて、優雅に一礼してみせた。

 

「自己紹介が遅れて、大変失礼を。アステリア・グリーングラスと申します。スリザリンの二年生です」

「そんなの気にしなくていいよ、アステリア」イリスは朗らかに笑った。

「私はイリス・ゴーント。グリフィンドール生で、君の二年先輩になるかな。よろしくね」

 

 イリスはちょこんとお辞儀をしてから、アステリアの手を取って”王の草”の残りをあげた。――”王の草”のある温室の場所はスネイプから聞いていて、いつでも取りに行って良いとスプラウト先生から許可も頂いている。自分はまた取りに行けば良いだけの事だ。アステリアは薬草を受け取り、嬉しそうに笑った。

 

「助かります。また発作が出た時に使えるもの」

「発作?」イリスは心配そうに言った。

「病気なの?」

 

 アステリアは言おうか言うまいか悩んでいるといった風に視線を彷徨わせ、イリスを見上げた。――イリスの動物のように純粋な輝きを持つ目は、彼女の警戒や緊張心を和らげた。やがてアステリアは自分の胸にそっと手を置き、囁くように小さな声で話し始める。

 

「病気じゃないの。”血の呪い”なんです。私の一族の、何世代も前の当主に掛けられた呪いが先祖返りしてしまったの。だから生まれつき、とても体が弱いんです」

 

 ”血の呪い”――イリスはその言葉に、まるで電撃を放たれたような強い衝撃を受けた。イリス自身も祖母の手によって、非常に強い”血の呪い”を掛けられている。この子は私と同じ苦しみを背負っているんだ。アステリアに共感を覚えたイリスは、彼女の手を優しく取って、塞ぎ込む彼女の目を覗き込んだ。

 

「アステリア。私もね・・・」

 

 イリスが言葉を続けようとしたその時、涙に濡れたアステリアの瞳の奥に、虹色の輝きが見えた。イリスはその輝きに吸い込まれるようにして、少しの間、意識を失った。

 

 気が付くと、イリスは真っ暗な空間に四肢を投げ出して、ふわふわと浮かんでいた。やがて目の前に、奇妙な虹色で縁取られた白いスクリーンがパッと浮かび上がり、ある少女の人生を映画のように再生し始めた。

 

 ――ホグワーツの図書室で訪れたアステリアは、たまたまドラコと同じ本を取ろうとして偶然手が重なり合い、二人は惹かれたように見つめ合う。それから二人は順調に仲を深め、お互いの家を行き来する親密な間柄になっていく。聖マンゴで治療を受け、アステリアはどんどん健康的になっていった。ホグズミード村のマダム・パディフットのカフェで、カップル用の特別なメニュー表を眺め、二人は照れ臭そうに笑っている。二人はホグワーツを卒業して間もなく結婚し、一人息子を立派に育て上げ、やがて深く年老いて、家族の見守る中でお互いの手を取り、穏やかに息を引き取った――

 

「イリス?」

 

 軽く肩を揺さぶられる衝撃で、イリスはハッと意識を取り戻した。アステリアが自分の肩に手を置いて、心配そうな眼差しを注いでいる。

 

「大丈夫ですか?」

 

 イリスは全く大丈夫ではなかった。頭の中はさっき見た映像の事でいっぱいだった。しかし、まるで内側から誰かが動かしているみたいに、勝手にイリスの口が動いて「大丈夫だよ」と答え、にこっと笑みの形を作った。やがてマダム・ポンフリーがやって来てイリスを追い払い、彼女はふらふらとグリフィンドール塔へ向かって歩き出した。どこをどう歩いたのかも覚えていないが、イリスは何とか自室へ辿り着いて、虚ろな手つきで寝間着に着替えると、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 

 さっきの映像は、アステリアとドラコの未来だったのだろうか。二人はとても幸せそうだった。イリスはベッドの上で寝返りを打ちながら、思いを馳せた。私と一緒にいた時のドラコの未来は、恐怖と死の影に覆われていた。でもアステリアと一緒なら、彼はしわしわのおじいちゃんになるまで幸せに生きる事ができる。ドラコの幸せを考えるなら、それはとても良い事だ。イリスは微笑もうとして、上手く出来なかった。

 

 ふと見上げると、クローゼットに掛かったローブの胸にSPEWのバッジが輝いている。――『”反吐”だ』。イリスの胸の隅っこで、誰かが呟いた。とても意地悪で嫉妬深くて、憎たらしい声。それは()()()()だった。その余りにもおぞましい声に、イリスは思わず耳を塞いだ。――違う。そんな事、私は思ったりしない。ドラコを愛しているもの。彼の幸せを一番に願ってる。――『反吐』。

 

「違う。反吐じゃない。エス・ピー・イー・ダブリュー」

 

 イリスは両手を強く瞼に押し付けて、自分にしっかりと言い聞かせるように、何度も呟いた。――泣いては駄目だ。イリスは思った。今泣いてしまったら、部屋の暗がりから世にも恐ろしい化け物がやって来て、自分を無茶苦茶に壊してしまうような気がした。今まで積み上げてきたものが、跡形もなく消え去ってしまうような気がした。喉に込み上げてくるとびきり熱い感情も、胸の端っこで叫び続ける意地悪な声も、イリスは知らない振りをして、ただ無心に四つのアルファベットを繰り返す。――イリスはドラコに”忘却術”を掛けた事を、後悔し始めていた。

 

 

 

 それから数日、イリスはアステリアとドラコの事を気にしないように努めて過ごしていた。考えてもどうしようもない出来事から目を逸らすには、別の事に意識を向けるのが一番だ。イリスは今まで以上に、学校の勉強と蛙チョコカード交換会、それからSPEWの活動に精を出すようになった。献身的に補佐を務めてくれる副会長に感激したハーマイオニーは、ますます声高にしもべ妖精の権利と福祉厚生を訴えたが、耳を貸す者はほとんどいなかった。

 

 ハーマイオニーがいつもの熱弁を振るい、同じグリフィンドール生で後輩のコリンとデニス・クリービー兄弟にバッジを売りつける事に成功した日(コリンとデニスは興奮して「すごい!反吐だ!カッコ良い!」と喜んでいた)の夕方、「闇の魔術に対する防衛術」の授業が始まった。ムーディは、今度は”服従の呪文”を生徒一人一人に掛け、その力に抵抗できるかどうかを試すという、驚きの授業内容を発表した。ムーディは杖を一振りして机を片付け、教室の中央に広いスペースを作った。そして興奮してガヤガヤと騒めいている生徒達の間を縫うようにして、イリスのところへやって来た。

 

「ゴーント。”あの時”と同じだ。できるか?」ムーディは唸った。

「できぬならこの授業は免除する。心配するな、成績に影響はない。図書室で自習をしていろ」

 

 イリスの頭の中に、前回の授業での記憶が鮮やかに蘇った。――”服従の呪文”を受けて、軽快なタップダンスを繰り広げる蜘蛛の姿を思い出し、イリスは唇をギュッと噛み締める。果たして出来るのだろうか、またパニックになってしまったらどうしよう。その時、不安に苛まれるイリスの心に、ムーディの言葉が彗星のように降ってきて砕け散り、周囲を明るく照らし上げた。『あの時と同じだ』――そうだ。私が”服従の呪文”を掛けられた事は、それを克服できなかった事は、()()()()()。イリスはローブの中の”王の草”を握り、呟いた。そう、それは過去の事だ。

 

「やってみます」

 

 イリスは真っ直ぐにムーディを見つめると、勇気を振り絞って応えた。彼はわずかに笑い、イリスの頭を不器用な手つきで撫でると、教室の中心に戻って授業をスタートさせた。ムーディは生徒一人一人を呼び出して、”服従の呪文”を掛け始めた。呪いのせいでクラスメート達が世にも可笑しな事をするのを、イリスはじっと見ていた。ロンはホグワーツの校歌を声高に歌いながら、スキップをして教室を一周した。ラベンダーはウサギの真似をしたし、ネビルは普通だったら絶対にできないだろう見事なバック転を立て続けにやって見せた。誰一人として呪いに抵抗出来た者はいない。ムーディが呪いを解いた時、みんな初めて我に返り、自分の奇行を恥じていた。

 

「ゴーント」ムーディが唸るように呼んだ。

「次だ」

 

 イリスはごくりと唾を飲み込んで、ポケットの中で揉み潰した”王の草”の香りを一嗅ぎしてから、ムーディの前に進み出た。心地良く清浄な空気に包まれながら、イリスは自分に言い聞かせた。――今目の前にいる人は、ルシウスさんでもピーターでもない。今いる場所はマルフォイ家の屋敷でもホグワーツの片隅でもない。この人はムーディ先生、これは授業なんだ。心の準備ができたイリスが頷くと、ムーディは杖を上げ、呪文を唱えた。

 

「インペリオ、服従せよ」

 

 その瞬間、圧倒的な多幸感がイリスの心を包み込んだ。全ての思いも悩みも優しく拭い去られ、掴み所のない漠然とした幸福感だけが頭に残り、イリスはふわふわと甘ったるいコットンキャンディーみたいな空間に揺蕩っているような気がした。やがてムーディの声がどこか遠くの方から、けれど響き渡るような強さをもって聴こえて来た。

 

 『右袖を捲り、軟膏を取り払って、クラスメートに”闇の印”を見せろ』――声はそう言っていた。なんて素晴らしい声なんだろう。すぐに先生の言う通りにしなきゃ。イリスは恍惚とした表情で、袖をゆっくりと捲り、軟膏を消失させる魔法を掛けるために、杖を持つ手をピクリと上げた。

 

 『待ってよ』――その時、頭の中で”別の声”が目覚めた。『どうして印を見せるの、そんなの絶対可笑しいよ。皆に見られてしまったら、大変な事になる』――『右腕の印を見せろ・・・』――『嫌だ、絶対にしたくない!』今やイリスの頭の中で、ムーディの命令する声と、それに抗う声とが激しい攻防を繰り広げていた。次の瞬間、ムーディの怒鳴り声がすぐ耳元で聴こえて、イリスはたまらず飛び上がった。『印を見せろ!今すぐだ!』

 

「いやだっ!!」

 

 イリスは力の限り叫んだ。そしてハッと我に返った。

 

「よーし、それだ!それでいい!」

 

 ムーディの唸り声がして、突然イリスは頭の中の虚ろな感覚が消え去って行くのを感じた。あの暴力的な程の幸福感がさっとなくなり、代わりにクラスメート達の割れるような歓声がイリスを包んでいた。――”服従の呪文”を受けている間、自分に何が起こったのかをイリスははっきり覚えている。ムーディ先生は、イリスの右腕に”闇の印”がある事を知っていて、それを皆に見せようとしていた。ムーディはイリスを振り返る事無く、生徒達に言った。

 

「お前達見たか、ゴーントが呪いを克服した!戦い、打ち負かしたのだ。あの時のゴーントの目を忘れるな。その目に鍵がある。・・・さあ、次はポッター、お前だ!」

 

 イリスは音もなく教室の壁際に後ずさりながら、ムーディへ強い警戒心を含んだ眼差しを送った。――『どうして先生はあんな事を命じたの?』それに気づいたのか、ハリーに”服従の呪文”を掛ける時、ムーディの青い目だけがギョロリと動いてこちらを射抜いた。その目はまるで冷たく笑っているように見えて、イリスはぞくりと寒気を覚え、急いで目を逸らした。

 

 一時間後、教室からフラフラになって出て来た四人は、大広間で昼食を摂っていた。特に疲れがひどいのはハリーだ。彼も”服従の呪文”を破る寸前までいったため、喜んだムーディが『ハリーの力量を発揮させる』と言い張って、彼がイリスよりも早く確実に呪いを打ち破れるようになるまで、何度も呪いを掛け続けたのだ。

 

「ムーディの言い方ときたら」ハリーはげっそりとした顔でポテトを摘まみながら言った。

「まるで僕ら全員が、今にも襲われるんじゃないかって気がしてくるよ」

「その通りだ。ホグホグワツワツ・・・」

 

 ロンはミンスパイにかぶり付こうとした口が校歌を歌い出し始めたのに気付いて、急いで口をパチンと閉じた。ムーディは昼食時までには呪文の効果は消えるとロンに請け合ったのだが、残念な事にロンはイリスやハリーに比べてずっと呪いに弱かったらしい。たっぷりワンコーラス分の沈黙を経て、彼は再び口を開いた。

 

「魔法省がムーディがいなくなって喜んだのも無理ないよ。あいつがシェーマスに聞かせてた話を知ってるか?エイプリルフールに、後ろからワアッて脅かした魔女に、あいつがどんな仕打ちをしたか!」

 

 ハリーとロンは示し合わせたように深く目を閉じ、溜息を吐いてみせたが、ムーディに愛想を尽かしているという訳ではなさそうだった。むしろ彼に愛着が湧き、このスリル満点な授業を楽しんでいるように見えた。ハーマイオニーが、イリスのゴブレットに林檎ジュースを注いでやりながら、優しく言った。

 

「でも貴方凄いわ。”服従の呪文”を一発で打ち破るなんて。きっとムーディ先生の治療が効いたのよ」

「うん・・・」

 

 イリスは生返事をしながら、フライドポテトを口に押し込み、林檎ジュースで流し込んだ。あれは私の実力じゃない。皆に”闇の印”を見せたくないから、必死で抵抗しただけだ。きっと皆みたいにスキップしろとか、動物の真似をしろとかいう可愛らしい命令だったら、イリスは喜んで従っていただろう。――もしあの時、”服従の呪文”に屈して、印を皆に見られてしまったら・・・その先は想像したくもない。イリスはブルッと身震いし、焼き立てのブルーベリーパイを大きめに切り分け、口に運んだ。もしかして先生は、私が”闇の印”を見せまいと抵抗するのを見越して、確実に”服従の呪文”を破らせるためにそんな事を命令したのだろうか。答えのない思考の海に深く身を沈めたイリスは、やがて今日は木曜日であるという事に気付き、瞳を輝かせた。――明日は金曜日。その夜は、いよいよ今学期第一回目の「魔法薬学」補習の日だ。

 

 

 次の日の夜、夕食をたっぷりと摂ったイリスは寮を出て、一人地下牢へ向かった。――最初に「魔法薬学」の補習授業を受けるために地下牢へ繋がる階段を降りた時、イリスはまるで地獄へ堕ちていくような気持ちになった。けれど今となっては、慣れ親しんだ実家への帰り道みたいなものだ。イリスは軽やかに階段を駆け下り、扉をノックした。スネイプはいつも通りの陰湿陰険な表情で、にこりともせずに彼女を迎え入れてくれた。何年経っても愛想の欠片すら見せないその様子にどこか安心感を覚えたイリスは、スネイプにムーディに授業で”服従の呪文”を掛けられた時の出来事を話して聴かせた。彼は暫く思案した後、静かに口を開いた。

 

「恐らくムーディは、君を()()しているのだろう」

「警戒?」

 

 イリスは首を傾げた。何も悪い事はしていない筈なのに。その時、イリスの右腕がちくりと痛んだような気がして、彼女は小さく息を飲んだ。――ムーディは往年、腕利きの”闇祓い”だった。アズカバンの半分は彼が埋めたとされている。それほどまでに、彼は”闇の陣営”に与する人々を憎悪しているのだ。”闇の印”が打ち上げられた夜、クラウチ氏が自分に向けた目と、ムーディの青い目は、イリスへ同じメッセージを放っていた。

 

「”君がイリス・ゴーントだからだ”」スネイプが静かに言った。

「”闇の帝王”の唯一の血縁者であり、彼の最も重要な側近の孫でもある。この出自は”闇祓い”の連中から充分に警戒されるに足るものだ。

 はっきりと申し上げておく。今日まで自由に生きられたのは、君が人畜無害でお人好しな性格だからではない。

 君の父が命懸けで”闇の帝王”に逆らい、善良な魔法使いとして生き抜いたからだ。その事を決して忘れてはならない」

 

 その言葉は鉛のように重く、氷のように冷たく、イリスの背中にずっしりと圧し掛かった。スネイプは保管庫に行き、摘み立ての”王の葉”を一掴み取って来ると、悲壮な表情を浮かべる彼女に手渡し、言葉を続けた。

 

「だが、君が父と同じ志を持つ限り、ムーディも”闇祓い”の連中も警戒こそすれど、手を出す事までは出来ない。もし彼らが攻撃してきた時は、私とダンブルドアが必ず君を守る。

 君が本当に身を守るべきなのは、彼らではなく”闇の帝王”だ。印は確実に濃くなってきている。残された時間は少ない。力を取り戻した帝王が再び君に取り憑く前に、それを防ぐ術を身に付けなければ」

 

 スネイプはそう言うと、杖を振るい、地下牢内の作業机を片付けた。四方の壁に作り付けられた薬品棚が、壁の中に吸い込まれるようにして消えていく。スネイプはイリスを部屋の中央へ招き寄せ、薄い唇を開いた。

 

「これから教えるのは、”閉心術”だ。文字通り自らの心を閉じて、他者に読まれぬようにする。

 ”闇の帝王”はその逆、心の内を開き見る術である”開心術”の達人だ。君の父は双方共に、帝王にひけを取らぬ程の実力を有していた。

 まずは、()()()()()。今から君の心を開く。――開心、レジリメンス」

 

 スネイプはイリスがまだ何の準備もできていない内に呪文を掛け、彼女の心の中に侵入した。そのエメラルド色に輝く瞳を通り、頭の内側を擦り抜け、脈打つ小さな心臓を撫でて、さらにその奥へと――

 

 

 スネイプはイリスの心の世界に到達し、腕組みをして思案に暮れていた。その傍らにはイリスがいて、困り果てたように眉根を寄せ、彼を見上げている。

 

 かつてスネイプが訪れた時、彼の命令に従い、イリスの心の世界は、両脇にずらりと記憶の窓が並べられた、清らかな乳白色の廊下へと姿を変えた。しかし今は、いくらスネイプが力を込めて命じても、彼女の世界は混沌としたまま、何一つ変わろうとしない。

 

 スネイプの目の前には、とてつもなく大きな、立派な造りの劇場があった。入口の上方には、劇の内容を示す看板が設置されていた。恐らく恋愛物なのだろう、二人の男女が仲睦まじい様子で向き合っている絵が描かれている。――その二人の顔を、スネイプは良く知っていた。我が寮の生徒、ドラコ・マルフォイとアステリア・グリーングラスだ。何故、この二人が彼女の世界に登場する必要がある?次の瞬間、どこからともなく色とりどりの丸いボールが沢山転がって来て、「反吐だ!」「反吐だ!」と野次を飛ばしながら、ニョキッと突き出した細い腕で、劇場に向けてクソ爆弾を投げつけ始めた。

 

 ――ますます訳が分からない。スネイプは劇場を調べるために歩を進めるが、チケット売り場の担当者が大股でやって来て、彼の行く手を塞いだ。彼は目の前の人物に目を遣って、思わず唖然となり、立ち尽くした。チケット売り場の担当者は、()()()()だった。もう一人の彼は、本人そっくりの陰湿陰険な口調で”チケットはもう売り切れた”と言う旨を伝え、後ろに控えるイリスを睨んだ。

 

「君は”耐えられる”と言った。そうだな?」責めるような口調だった。

「早く来たまえ。観客は君一人だ。もうすぐ上演が始まる」

 

 本物のスネイプが振り返ると、イリスは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、握り締めていたチケットを見つめた。やがて劇の始まりを告げるブザーが鳴り、しびれを切らした偽物のスネイプが、彼女を連行するために肩を怒らせながらやって来る。それを杖の一振りで吹き飛ばし、本物のスネイプは彼女の肩にそっと手を置いた。――イリスの手の中にあるくしゃくしゃのチケットには”LOOK AT ME(わたしをみて)”という劇の題目が印字されている。彼女は秘めていた自分の心の内を見られ、強い羞恥と自己嫌悪と悲哀の感情に震えて、ただ黙りこくっていた。

 

「戻ろう。私が悪かった」スネイプは自分でも驚くほど優しい声で言った。

 

 程無くして、二人は現実世界へ戻った。スネイプはイリスの涙が落ち着くまで静かに待つと、何故彼女の心にドラコとアステリアが影響を及ぼしているのか、その理由を聞き出した。イリスは全てを話し終えると、自分の余りの厭らしさに嫌気が差して、吐きそうになった。――気にしていないつもりだった。ドラコとアステリアを応援しているつもりだったのに。彼を愛しているなら、そうするのが当然なんだ。だけど、本当の自分は・・・。彼女はスネイプの顔を見る事が出来ず、小さく縮こまった。きっと心の世界のスネイプ先生みたいに、本物の先生も私を責めるのに違いない。あの時、私は耐えられるって言ったのに、結局耐えられなかったんだもの。

 

 しかしスネイプは杖を振り、無地のティーカップを呼び寄せて、暖かいカモミールティーを淹れてくれただけだった。それから彼は、今週は”閉心術”のトレーニングの代わりに”ある事”をするようにとイリスに命じた。彼が再び杖を一振りすると、かつてイリスが見た事のある”憂いの篩”が姿を現した。彼は実際に自らの記憶を篩に落としてみせ、イリスに言った。

 

「今の君は様々な思いが交錯し、混乱している。これは文字通り”憂いの篩”だ。君の憂い、溢れた想いをここに落とし、ゆっくりと吟味し、整理しなさい。今日から一週間、君は好きな時にここに来て構わない。一週間後、”閉心術”の訓練を再開する」

 

 イリスはおずおずと篩を見つめた。水盆に渦巻く銀色の物質が、不意に揺らめいて美しい女性の顔が浮かび上がった。その顔が華やぐように笑って何かを口にしかけた時、スネイプが盆の前に立ち、杖を振ってその姿を消してしまった。

 

 

 それから一週間、イリスは暇な時間を見つけては地下牢へ赴き、”憂いの篩”に記憶を落とし続けた。――ドラコと初めて出会ったダイアゴン横丁での記憶から、彼が命懸けで自分を守ってくれた”秘密の部屋”での記憶、果てはスクリュートを通して短い会話をした最近の記憶まで、どんな些細な事でも入れ、銀色の霞の中でたゆたう記憶の数々をじっと眺めた。記憶を引き出すと、”腫れ草”を突いて膿を出すのと同じように、彼女の気分は少し楽になった。しかし依然として気持ちはスッキリしないままで、”閉心術”の訓練再開の日だけが着実に近づいていた。

 

 そんな中、ついに”三大魔法学校対抗試合”の二校、ボーバトンとダームストラングの代表団がやって来る事になった。玄関ホールにその掲示が貼り出されてからというもの、城じゅうの話題はそれで持ち切りだった。誰がホグワーツの代表選手に立候補するか、試合はどんな内容か、ボーバトンとダームストラングの生徒は自分達とどう違うのか・・・などなど。城は今まで以上にくまなく掃除され、埃を被っていた肖像画は残らずピカピカに磨き上げられ、赤むけ顔を迷惑そうに歪めていた。甲冑達も新品同様に磨き上げられ、滑らかに動くようになり、ウキウキとした様子だ。

 

 ハロウィーンの前々日、朝食を摂るためにイリスがハーマイオニーと一緒に下りていくと、大広間はすでに前の晩に飾り付けが済んでいた。壁には各寮を示す巨大な絹の垂れ幕が掛けられている。教職員テーブルの背後には一番大きな垂れ幕があり、ホグワーツ校の紋章が描かれていた。その日は夕方にボーバトンとダームストラングからお客が到着する事に気を取られ、誰も授業に身が入らなかった。反対に先生方は神経を尖らせ、ピリピリとしている。そんな状況であるにも関わらず、「魔法薬学」の授業中、ペアを組んだネビルが十秒ごとに洒落にならない間違いを犯すので、イリスはずっと気が気でなかった。ネビルをフォローしながら、何とか失敗作を作る事無く授業をこなし、イリス達は急いでグリフィンドール塔に戻ってカバンと教科書を置き、マントを着て、階段を降り、玄関ホールへ向かった。

 

 各寮の寮監が生徒達を整列させている。マクゴナガル先生はロンの帽子が曲がっている事を注意した後、イリスとハーマイオニーの胸元に視線を止めた。

 

「ミス・ゴーント。ミス・グレンジャー。二人揃って何という名前のバッジを付けているのです。”反吐”などと!即刻外しなさい」

 

 ハリーとロンは盛大に吹き出し、まだ笑いのツボが治まらないのか、体をくの字に折り曲げて悶絶していた。イリスは急いでバッジを外し、ポケットに突っ込んだ。ハーマイオニーは顔を真っ赤にして、マクゴナガル先生を見つめ、何か言いたそうに口をパクパクさせていたが、やがて諦めたのか、悔しそうに唇を噛み締めながらバッジを外した。

 

 マクゴナガル先生は、一年生を先頭にしてみんなを引き連れ、正面の石段を下り、城の前に整列した。晴れた寒い夕方だった。深い夕闇が迫り、禁じられた森の上に青白く透き通るような月がもう輝き始めていた。イリス達は寒さに震えながら、まだ見ぬ人々の到着を待った。

 

「もうすぐ六時だ」ハリーが懐中時計を覗き込んで言った。

「どうやって来ると思う?汽車かな?」とロン。

「違うと思うわ。ずっと遠くからだし」

 

 ハーマイオニーが思慮深げにそう言った時、ダンブルドアが先生方の並んだ最後列から、明るい歓声を上げた。

 

「ほっほー!わしの目に狂いがなければ、ボーバトンの代表団が近づいてくるぞ!」

 

 生徒達がてんでんばらばらな方向を見ながら熱い声を上げていたが、やがて誰かが森の上空を指差して「あそこだ!」と叫んだ。イリスは急いでその方向を見た。何か大きなもの、巨大な黒い影が、濃紺の空をぐんぐん大きくなりながら、城に向かって疾走してくる。それが禁じられた森の梢をかすめた時、城の窓灯りがその姿を捉えた。――大きなパステル・ブルーの馬車だ。大きな館ほどの馬車が、十二頭の天馬に引かれてこちらへ飛んでくる。天馬は金銀に輝く月毛(パロミノ)で、それぞれが象ほども大きい。イリスはこんなに大きな馬も馬車も、生まれて初めて見た。

 

 馬車はそのままの猛烈なスピードを維持したまま高度を下げ、着陸したので、ドーンという凄まじい衝撃と地響きがイリス達を襲った。すかさずネビルが後ろに吹っ飛びそうになったので、イリスは慌てて”呼び寄せ呪文”で彼のマントを呼び寄せ、彼がスリザリンの集団に突っ込むという未曽有の事態を防いだ。やがて馬車から一人の女性がしずしずと出て来て、とても優雅な所作で皆に向かって微笑んだ。――この女性ほど大きく美しい人も、イリスは今までの人生で見た事がなかった。ハグリッドと背丈はほとんど変わらないだろう。小麦色の滑らかな肌を黒襦子で覆い隠し、見事なオパールのあしらわれたアクセサリーが襟元や指先を彩っている。そんな気品あふれる大きな貴婦人に、ダンブルドアは近づいて片手を差し出した。ダンブルドアも背は高かったが、手にキスするのにほとんど体を曲げる必要がなかった。

 

「これはこれは、マダム・マクシーム」ダンブルドアが優雅に挨拶した。

「ようこそホグワーツへ」

「ダンブルドア。お元気そうで何よりですわ」柔らかな、少しのんびりとした訛りのある声で、彼女は応えた。

「わたくしの生徒です」

 

 マダム・マクシームは巨大な手の片方を後方へ向けて、ヒラヒラと振った。イリスがつられるようにしてその先を見ると、そこには十数人もの男女学生が薄い絹のようなローブを纏い、寒そうに震えている。みんな不安そうな顔でホグワーツを見つめていた。マダム・マクシームとダンブルドアは世間話を交えながら、ダームストラングの到着を待った。

 

 数分後、濃紺色に染まった世界の中から、不気味な音が伝わって来た。まるで深い水の底でとびきり大きな嵐が巻き起こっているような、くぐもったゴロゴロという音だ。

 

「湖だ!」リー・ジョーダンが叫び、指差した。

「湖を見ろよ!」

 

 みんな一斉に湖を見た。立っている場所が芝生の一番上で、校庭を見下ろす位置だったので、湖の黒く滑らかな水面がはっきり見えた。その水面が突然揺れ、中心の深いところがざわめき始めた。湖の中心が渦を巻き、巨大な渦潮を創り出す。やがて渦の中心から、長い黒い竿のようなものがゆっくりとせり上がって来た。そして帆桁が現れ、ゆっくりと堂々と、月明かりを受けて巨大な船が水面に浮上した。イリスは他の生徒達と一緒に大きな歓声を上げ、魅入られたように船を見つめた。まるで引き上げられた難破船のようで、丸い船窓から見える仄暗い霞んだ明かりが、幽霊の目のように見える。船は水面を波立たせて滑り、岸に着くと、船員たちが姿を現した。

 

 分厚い毛皮のマントを着込んだ生徒達だ。先頭には滑らかな銀色の毛皮を着た男がいた。痩せて背が高く、短く切った銀髪と先の縮れた顎鬚が特徴的だった。男は人を食ったような笑顔を浮かべてダンブルドアに近づき、両手で握手をした。

 

「やあやあ、しばらく。元気かね?」男は耳に心地よく、とても愛想の良い声をしていた。

「元気いっぱいじゃよ。カルカロフ校長」ダンブルドアが挨拶を返した。

 

 男はホグワーツを見上げて懐かしそうに微笑んだが、その目だけは冷たく研ぎ澄まされたままだった。彼は父親のように優しい顔つきで、後ろに並ぶ生徒の一人を差し招いた。

 

「ここに来れたのは本当に嬉しい。・・・ビクトール、こっちへ。暖かいところへ来ると良い」

 

 イリスはその生徒が近づいてきて通り過ぎた時、奇妙な既視感を覚えた。この人の事を、見た事がある。どこで見たんだろう。次の瞬間、大興奮したロンに腕をしこたまパンチされ、痛みに呻いた拍子にイリスはハッと思い出した。曲がった目立つ鼻、濃く黒い眉、痣黒い膚。――間違いない。クィディッチ・ワールドカップで見たブルガリア・チームの名シーカー、ビクトール・クラムだ。

 

 

「まさか!」

 

 ロンが茫然として言った。ダームストラング一行の跡に続いて、ホグワーツの学生が整列して石段を上がる途中だった。ハリーもそわそわと落ち着かない様子で、クラムの後ろ姿を見ている。

 

「クラムだぜ、ハリー!ビクトール・クラム!」

「落ち着きなさいよ、ロン。たかがクィディッチの選手じゃない」ハーマイオニーは呆れ顔で言ったが、ロンは耳を疑うという顔で彼女を見るばかりだった。

「たかがクィディッチの選手だって?クラムは世界最高のシーカーの一人だぜ!僕、まだ学生だなんて考えてもみなかった!」

 

 イリス達がホグワーツの生徒に混じり、再び玄関ホールを横切って、大広間に向かう途中、リー・ジョーダンがクラムの頭の後ろだけでもよく見ようと、つま先立ちでピョンピョン飛び上がっているのを見た。五年生の女子学生の集団が、サインを貰おうとしているのか、口々に囁き合いながらポケットをひっくり返し、夢中で羽根ペンを探っている。

 

 四人はグリフィンドール寮のテーブルまで行き、腰かけた。ロンはわざわざ入口の見える方に座った。――ダームストラングの生徒達が、どこに座って良いか分からずにまだ入り口付近に固まっていたからだ。先頭に立つクラムは野獣のような目を光らせて、大広間中を見渡し、何かを探しているようだった。一方、ボーバトンの生徒達はレイブンクローのテーブルを選んで座った。みんな不満そうな表情で大広間を見渡している。中の三人は、いまだに寒そうに体を抑えてブルブルと震えていた。

 

「そこまで寒いわけないでしょ」ハーマイオニーがその様子を見咎め、イライラと言った。

「あの人達、どうしてマントを持って来なかったのかしら?」

 

 その時、ロンが「ぐえ」とも「うえ」ともつかない、何とも不思議な鳴き声を上げたので、イリスはSPEWバッジを胸に着ける手を止め、向かいの席に座る彼を見た。ロンは青い目を人類の限界まで見開いて、イリスを指差している。――いや、正確にはその上だ。彼女は身の危険を感じ、急いで振り返った。

 

 そこにはクラムを始めとしたダームストラング生がずらりと並んでいた。クラムの黒い厳格な目が、イリスを真っ直ぐに見つめている。

 

「君がイリス・ゴーント?」

 

 抑揚がなくボソボソとしているが、妙に迫力のある声で、彼は尋ねた。気圧されるようにしてイリスが頷くと、彼はチラリと教職員テーブルの方を伺い見てから、イリスに握手を求め、ぶっきらぼうな口調で言った。

 

「ビクトール・クラムだ。僕ら、ここに座らせてもらっていいかな?」

「モチのロンさ!!」

 

 イリスが応える前に、ロンがテーブルから勢い良く立ち上がり、目をキラキラと輝かせて叫んだ。わっと歓声を上げて、周囲から大勢のグリフィンドール生が集まり、イリスを弾き飛ばしてクラムを取り囲んだ。

 

 それからずっとグリフィンドールのテーブルは賑やかだった。だが、それは他の寮のテーブルも同じ事だった。たかだか二十人、生徒が増えただけなのに、大広間は何故かいつもよりずっと混み合っているように見えた。

 

 クラムは最初にイリスへ声を掛けたものの、それ以降、再び話しかける事はなかった。なにしろロンを始めとしたファンの生徒達がクラムに首ったけ状態でその対応に追われているようだったし、イリスもイリスで、他国の生徒達のために調理されたのだろう、初めて見るような新たな料理に夢中になっていたのだった。

 

「君はクラムと話さないの?」

 

 イリスがブイヤベースを自分の皿に注ぎ、次なるターゲットとしてボルシチをロックオンしていると、ハリーが尋ねた。

 

「うん。ハリーこそ、彼と話さないの?」

 

 イリスは美味しい貝類のシチューに舌鼓を打ちながら、ハリーに訊き返した。――今年こそ活躍できないものの、凄腕のシーカーである彼の方がクラムと話したいと思って然るべきはずなのに、彼は少しふてくされたような表情で頬杖を突き、イリスの傍にいるばかりだったからだ。

 

 ハリーはイリスが両頬いっぱいにシチューを詰め込んでいるのを見て、毒気を抜かれたようにふっと笑った。かくして彼の中にくすぶっていた小さな嫉妬の炎は鎮められ、彼はイリスのリクエストに従い、ボルシチの大皿を目の前に持って来てあげたのだった。

 

 やがて色とりどりのデザートが消え、金の皿がピカピカになると、ダンブルドアが再び立ち上がった。心地良い緊張感が、今しも大広間を包み込む。彼は、ホグワーツの管理人・フィルチが持ってきた、宝石の散りばめられた箱の中から、大きな荒削りの木のゴブレットを取り出した。一見まるで見栄えのしない杯だったが、その縁からは溢れんばかりに青白い炎が躍っている。ダンブルドアは木箱の蓋を閉め、その上にそっとゴブレットを置いて、大広間の全員に見えるようにした。

 

「”炎のゴブレット”じゃ」ダンブルドアは厳かな口調で言った。

「代表選手に名乗りを挙げたい者は、羊皮紙に名前と所属校名をはっきりと書き、このゴブレットの中に入れなければならぬ。立候補の志ある者は、これから二日間の内にその名を提出するように。明後日、ハロウィーンの夜に、ゴブレットは各校を代表するに最も相応しいと判断した三名の名前を返してよこすであろう」

 

 フレッドとジョージは青い目を大いなる野心と希望に輝かせて、ゴブレットを見つめている。いくらダンブルドアが、十七歳に満たない者は”年齢線”によってゴブレットに近づく事が出来ないと警告しても、どこ吹く風だった。やがて宴は終わり、みんなは席を立って、玄関ホールへ出るドアの方へ進み始めた。

 

「じゃあ、おやすみ」

 

 クラムは帰る直前にやっとイリスの事を思い出してくれたのか、彼女の肩を軽くポンと叩き、ぎこちなく微笑んで挨拶をした。それからチラッと熱を帯びた目で、イリスの近くにいるハーマイオニーを見てから、前方にいるカルカロフ校長の下へ去って行った。

 

 イリスが何となしにその様子を見守っていると、カルカロフは父親のような優しい目をしてクラムを迎え入れ、二、三、言葉を交わしたようだった。すると不意にその視線がイリスに向けられ、なんと彼は人懐っこい笑顔を浮かべながら、一直線にこちらへ向かって歩いて来た。狼狽したイリスは助けを求めようと周囲を見渡したが、もうハリー達はすでに寮へ帰ってしまった後だった。

 

「やあ、君がイリス・ゴーントだね?」

 

 カルカロフは愛想の良い声でそう言うと、イリスと握手した。その手はじっとりと汗ばんでいる。圧倒されたイリスがただ頷いていると、彼はクラムを振り返り、不自然な猫撫で声で言った。

 

「ビクトールが”とても君を気に入った”と言っていてね。どうかな?これから私の船で、彼と一緒に玉子酒でも飲みながらゆったりと過ごしては?」

 

 イリスは困ったようにクラムを見たが、彼はうんともすんとも言わず、仏頂面で立っているばかりだった。――カルカロフ校長先生は、一体何を言っているんだろう。イリスは眉根を下げ、困り果てた。そもそも彼とは挨拶以外、ほとんど話していないし、その顔はどう見たって自分に対して”気に入る”どころか、友好的な様子ですらない。それにイリスは明日に”閉心術”の本番が控えているため、早く寮に帰って眠りに就きたかった。彼女が慎重に言葉を選びながらも断ろうと口を開いた時、不意に背後から強く腕を掴まれ、誰かの胸に引き寄せられた。びっくりしたイリスは反射的に頭上を見上げ、息を飲んだ。

 

 ――ムーディ先生だ。イリスの腕をむんずと掴み、もう片方の腕でステッキに身を預け、カルカロフを激しい憎悪に満ちた目でギラギラと睨み付けている。イリスの目の前で、彼の顔からさっと血の気が引き、怒りと恐れの混じった凄まじい表情へ変わった。

 

「お前は!」カルカロフは亡霊でも見たような目で、ムーディを見た。

「わしだ。()()()()()で、彼女に触れるな」ムーディは地を這うように低く、凄味のある声で迫った。

「もう夜も更けた。カルカロフ、退くがよかろう。出口を塞いでいるぞ」

 

 確かにその通りだった。大広間の生徒の三分の一がその後ろで待たされ、何が自分達の邪魔をしているのだろうと、あちこちから首を突き出して前を覗いている。やがて一言も言わず、名残惜しそうにイリスをチラリと見てから、カルカロフは自分の生徒を掻き集めるようにして連れ去った。ムーディはその姿が見えなくなるまで、ブルーに輝く魔法の目でじっと睨み付けていた。傷だらけの歪んだ顔に、激しい嫌悪感が浮かんでいた。




とりあえず書く→後で手直しという流れ。このコンボで完結させる!

”王の葉(アセラス)”は指輪物語ネタです。
分かりにくい所などございましたら、修正しますのでご一報ください(*´ω`)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。