ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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Petal3.取り戻した記憶の欠片

 二十人の魔法使い達が放った無数の光線が、今にもイリス達に襲い掛かろうとした時、近くの茂みから熊のように大きな黒い獣が飛び出した。

 

 獣はイリス達に覆い被り、強引な”伏せ”を決行した。もれなくクシャッと落ち葉の上に”伏せ”をしたイリス達は、獣の黒い毛を透かして、目も眩むような光線が次々と走り去っていくのを見た。空き地を突風が吹き抜け、木の葉を舞い上げる。光は互いに交錯し、木の幹にぶつかり、跳ね返って闇の中へ消えていった。次の瞬間、圧し掛かっていた獣の重みが消え、頭上から怒声が響き渡った。

 

「どういうつもりだ!この子たちは子供だぞ!」シリウスの声だ。

 

 イリスが見上げると、シリウスが杖を握り締め、周囲の魔法使い達を油断なく睥睨している。アーサーが茂みの中から走り出し、真っ青な顔で、大股でこちらへ近づいて来るのが見えた。

 

「そこをどけ、ブラック」冷たく不愛想な声がした。

 

 クラウチが魔法省の役人達と一緒に、じりじりと包囲網を狭めている。ハーマイオニーが恐怖に息を飲み、イリスの腕をギュッと掴んだ。相手に引く気がない事が分かると、シリウスは無言で四人の周りに強い防護魔法を展開させ、杖を構えて迎撃態勢を取った。その灰色の目は激しい怒りに燃えている。クラウチの冷淡な眼差しが、イリスを射抜いた。

 

「お前だな、ゴーント」クラウチがばしりと言い切った。

「お前が”闇の印”を創り出した」

 

 クラウチの放った無情な言葉は、空中で鋭い氷の矢となってイリスの心臓に突き立ち、彼女の感情を冷たく凍らせた。ふつふつとした泡のような不安感が、体を埋め尽くしていく。――”あの時”と一緒だ。イリスは段々不規則になっていく呼吸を整えようとしながら、思った。ロックハートが嘘の本を書いた時、真実をいくら訴えても信じてくれなかった人々の記憶が鮮やかにフラッシュバックして、イリスを苦しめる。やがて彼女は乾いた唇を開き、かすれた声で言った。

 

「ち、違います」

「黙れ。お前を連行する。・・・そこをどけと言ったんだ、ブラック!」

「違います!イリスじゃありません!」

 

 我に返ったハリー達がイリスの前に走り寄り、口々に叫んだ。しかし、クラウチは「白々しい事を!」と吐き捨てただけで、杖先をイリスに向けたまま下ろす事はなく、言葉を続けた。

 

「お前の素性なら良く知っている。父親はダンブルドアのしつけが行き届いた()()()だったが、あの印を見るにお前はそうではないようだ」

「バーティ!!」

 

 余りの侮辱の言葉に激昂し、アーサーは顔を真っ赤にして怒鳴った。他の魔法使い達もクラウチの暴言に眉を潜め、杖を下ろしたり、彼から少し距離を置いたり、何事かを小声でヒソヒソ話し合ったりしている。

 

「この子と――その父親を――侮辱するな!」

「本当にイリスじゃないんです。信じて下さい」

 

 極限に張り詰めた空気の中、勇敢にもハーマイオニーが一歩前に進み出て、震える声で言った。

 

「姿は見えなかったけど、誰かが近づいて来てイリスを襲ったの。そして呪文のようなものを叫んだ」

「ほう。随分と詳しいようだ。お嬢さん」

 

 クラウチは戦闘態勢を解く事無く、ハーマイオニーに向かって微笑した。獰猛に輝くその目は、誰が信じるものかとはっきり言っている。

 

「あの印を出すには呪文が必要だと、良くご存じのようだ。まるで普段から、印を出すのを傍で見てきたかのように」

 

 ハーマイオニーの体を激しい怒りの感情が駆け巡り、彼女はクラウチに強い眼差しを投げかけながら、イリスの前に立った。彼女の行動に賛同するように、次々と魔法使い達も杖を下ろしていく。どうやら、クラウチ以外の人々は最早誰一人として、イリスが”闇の印”を創り出すなど、到底ありえないと思い始めている様子だった。アーサーはその状況を確認すると、優しい声でハーマイオニーに尋ねた。

 

「ハーマイオニー、どこで声を聴いたんだ?」

「確か、あっちの方角よ」

 

 豊かな栗色の髪を揺らし、少女は木立の向こうを指差した。アーサーの指示で、魔法使い達の半分が輪を抜け出し、そろそろと横一列に並んで、茂みの奥へ入っていく。

 

「イリス」

 

 ふと優しく名前を呼ばれ、イリスはふっと我に返った。ハリーがすぐ傍にいて、俯いた自分の顔を覗き込んで、安心させるような微笑みを浮かべている。

 

「大丈夫だ。すぐに終わるよ。テントに帰ったら一緒にココアを飲もう。君の好きなマシュマロ入りのやつ。・・・いいね?」

 

 親しみを込めて肩を軽く揺すぶって、ハリーは気さくに言った。まるで今の状況が、何でもない事であるかのように。彼の思いやりに、イリスは何度救われた事だろう。彼女の身体を不気味に膨らませていた不安はパチンと弾けて消えた。少女は浮かんできた涙が気取られないように、かすかに笑って見せた。

 

 その間も、クラウチとシリウスの杖先はそれぞれ下がる事無く、膠着状態を保っていた。やがて何かを発見したのか、森の奥で次々に大きな声がして、小枝が折れる音、木の葉の擦れ合う音を引き連れながら、アーサー達が戻って来た。その中の一人を見て、イリスはアッと声を上げた。

 

 ハッフルパフの上級生、セドリックの父、エイモス・ディゴリーが、小さなぐったりしたものを両腕に抱えている。――競技場の貴賓席で見かけた、屋敷しもべ妖精のウィンキーだ。

 

 エイモスは押し黙って、クラウチの足元にウィンキーをそっと寝かせた。人々は一斉にクラウチを見つめた。暫くの間、彼は理解しがたいものを目の当たりにしているかのように、ウィンキーを見下ろしたまま、立ち竦んでいた。やがて我に返ったかのように、彼は杖をゆっくりと下ろしながら、途切れ途切れの声で呟いた。

 

「そんな――筈は――ない――絶対に」

 

 クラウチはおもむろに踵を返し、森の奥へ向かって歩き出した。しかしエイモスはその背中に、容赦のない追い打ちを掛ける。

 

「無駄ですよ、クラウチさん。他には誰もいない。それに・・・」

 

 エイモスは中途半端に言葉を切り、ウィンキーの手元を指差した。その先にあるものを見て、周囲が一様にざわめき始める。イリスはハーマイオニーと一緒に少しずつ近づいて、目を凝らした。――ウィンキーの右手には、一本の杖が握られている。エイモスは厳かな口調で言った。

 

「ご覧の通り、このしもべは杖を持っていた。これなら()()()()()だって創り出せる。だが、まずは”杖の使用規則第三条の違反”だ。”ヒトにあらざる生物は杖を携帯し、またこれを使用することを禁ず”」

 

 今や、疑いの的はイリスではなくクラウチへと変わっていた。シリウスはこの場にいる全員の杖が下がった事を確認し、防護魔法を解除した。

 

「その妖精を調べる必要があるんじゃないか、クラウチ?」シリウスは冷笑した。

()()()()()()()()()()()

 

 二人の間に、今にも殺し合いが始まりそうな程の殺意がみなぎった瞬間、抜群のタイミングで、バグマンがポンと音を立てて現れた。バグマンは出し抜けに空を見上げ、今初めて”闇の印”を見つけたとばかりに慌てふためき、アーサーから事情を聞き出してびっくり仰天していた。その一連のコミカルな動きとひょうきんな彼の雰囲気は、二人の興奮状態を宥め、人々の冷静さを取り戻した。

 

「エネルベート、活きよ」

 

 ”魔法生物管理規制部”に勤めるエイモスが、ウィンキーの尋問役を担当する事になった。彼が杖を向けて呪文を唱えると、ウィンキーがピクリと動いた。大きな茶色の目が微かに動き、寝惚けたように二、三度まばたきした。ウィンキーはおずおずと顔を上げ、空の上に光る”闇の印”を見つけた途端、狂ったように辺りを見回した。自分の周りを取り囲む大勢の魔法使いを見て、ウィンキーは怯えたように啜り泣きを始めた。

 

「しもべ!」エイモスは厳しい口調で言った。

「見ての通り、今し方”闇の印”が打ち上げられた。そしてお前はその直後に、印の真下で発見されたのだ。申し開きはあるか!」

 

 ウィンキーはさらに恐怖の追い打ちを掛けられ、激しい息遣いを始めた。――その様子は、まるで”弱い者いじめ”そのものだった。哀れな妖精を守る者は誰一人いない。イリスとハーマイオニーは不安そうに目線を交し合った。

 

 

「あ、あ、あたしは()()()()いません!やり方を()()()ありません!」

「ではお前が持っているその杖は何だと言うのだ?」

 

 ウィンキーはやっと自分の持っている杖に気づき、か細い悲鳴を上げてそれを放り出した。杖はクルクルと回転して落ち葉だらけの地面で一度バウンドし、イリス達の近くに転がった。次の瞬間、ハリーがアッと驚きの声を上げた。

 

「それ、僕の杖です!」

 

 その場にいる全員の目が、ハリーに一点集中した。ハリーは言ってしまった後、今の逼迫した状況を思い出したのか、努めて冷静になろうとしながら続けた。

 

「落としたんです。森に入ってすぐ後に、杖が無くなった事に気づきました」

「しもべよ」エイモスが言った。

「お前がこの杖を拾い、印を打ち上げたのか?」

 

 ウィンキーは最早、過呼吸寸前の状態になっていた。イリスはたまらずエイモスの前まで駆けて行って、彼女の無実を訴えた。

 

「ウィンキーじゃありません。私を襲ったのは男の人のようでしたし、呪文を唱えたのも男の人の声でした」

 

 しかし助け舟を出したのにも関わらず、ウィンキーは感謝するどころかますます縮み上がり、耳をバタバタさせて必死に首を横に振るばかりだった。まるでイリスが秘密をばらしてしまったかのように。その後、エイモスが”直前呪文”を使用し、ハリーの杖から”闇の印”が創り出された事を確認すると、ウィンキーの嫌疑はいよいよ強まった。エイモスが勝ち誇ったような顔つきでウィンキーをお縄に掛けようとした時、静かな声がそれを阻んだ。

 

「エイモス。つまり君は」クラウチだ。嫌に冷静な声だった。

「私がしもべ達に常日頃から”闇の印”の創り方を教えていたと、そう言いたいのかね?」

 

 その途端、エイモスの顔からサーッと音を立てて血の気が引いていき、彼はしどろもどろに言った。

 

「クラウチさん、そんなつもりは・・・」

「私が”闇の魔術”とそれを行う者をどんなに侮蔑し嫌悪してきたか、長いキャリアの中で私の残してきた証を、君はまさか忘れたわけではあるまい?」

 

 どうやらクラウチは、魔法省での立ち位置が他の人々よりも高いようだった。エイモスはさっきまでの勢いは何処へやら、今は小さく縮んで目の前の男を仰ぎ見ている。

 

「ああ、その通りだろうさ」シリウスはクラウチに聴こえないよう、小さく野次を飛ばした。

「私のしもべを咎める事は、私を咎める事だ!」

「二人共、落ち着いてくれ」

 

 やがて二人の様子を見守っていたアーサーが進み出て、冷静に言った。

 

「クラウチ家のしもべが”闇の印”を創り出せる訳がない。イリスは男がいたと言った。ではその男がハリーの杖を拾い、”闇の印”を出してから杖を放棄したと考えるのが妥当だ。自分の杖を使って足が付くのを恐れたんだろう。

 ウィンキー、君はこの杖をどこで拾ったんだね?そしてその時、誰かを見なかったか?」

 

 ウィンキーはアーサーが優しく話しかけたにも関わらず、まるで怒鳴りつけられたかのようにビクッと体を痙攣させ、ガタガタ震え始めた。

 

「あたしが杖を発見()()()()のは、あの木立の中でございます。そしてあたしは、誰も()()()()()()おりません」

「エイモス」

 

 不意にクラウチが口を挟んだ。有無を言わせぬ、強い口調だった。

 

「通常なら君がウィンキーを連行し、尋問するべきだろう。だがこの件は、私に処理を任せて欲しい」

 

 そう言って彼は、ウィンキーに視線を注いだ。老いてはいるが、品のある端正な顔つきに皺の一本一本がより深く刻まれて、険しい表情を作り出している。その目は、何の哀れみもない冷徹な輝きに満ちていた。

 

「心配ご無用、必ず罰する。私はテントで待機するようにとウィンキーに言い付けたが、これは従わなかった。・・・”()()”に値する」

 

 ”洋服”だって?――重々しい罰には凡そ当て嵌まらない単語を聴き、イリスは思わず首を傾げた。その様子を見て、ハリーがこっそり耳打ちした。

 

「屋敷しもべ妖精は、主人から服を与えられると自由になれるんだ。つまり、解雇ってこと」

「お止めください!どうぞ、どうぞ、”洋服”だけは!」

 

 ウィンキーはクラウチの足元に身を投げ出して、悲痛な声で叫んだ。主人に縋り、さめざめと泣きながら自分の服――ボロボロのキッチンタオル――にしがみ付いているウィンキーを見て、イリスは胸が張り裂けるようだった。しかし当の主人であるクラウチは哀れむどころか、磨いた靴にへばり付いた汚物でも見るような目でウィンキーを睥睨しながら、足を一歩引いて彼女から距離を置いていた。

 

「私の命令に逆らうしもべに用はない」

 

 クラウチは冷酷に言い放った。ウィンキーの悲惨な泣き声が辺り一面に響き渡り、ひどく居心地の悪い沈黙が流れた。やがてアーサーはハリーの杖を拾い上げて、場の解散を告げた。シリウスがイリス達を促したが、イリスはその場を動く事が出来ず、暫らくの間、ハーマイオニーと一緒にウィンキーを見つめていた。

 

 

 空き地を離れて、木立の間を抜け、一行は無事にテントへ帰り着いた。哀れな妖精の泣き声がチューイングガムのように耳にこびり付き離れようとしないので、皆一様に暗い顔をして押し黙っていた。テントの周囲は壊された残骸が散らばり、燃えたテントがジリジリ燻っていた。

 

 テントの入り口に着くと、チャーリーが飛び出して来て、皆の無事を喜んだ。ウィーズリー家の若者達は大事には至らなかったものの、心か体のどちらかに怪我を負っていた。ビルは腕にシーツを巻き付けていてそこから血が滲んでいたし、チャーリーのシャツは大きく裂け、肌に大きな痣がいくつもあった。パーシーは鼻血を出している。フレッドとジョージはショック状態だったが、青ざめて黙りこくったジニーの背中をずっと撫でていた。

 

 カバンを取って来て、手持ちの薬で出来る限りの治療をしようとしたイリスは、誰かに名前を呼ばれてふと振り返った。――シリウスだ。彼は深刻な表情で、少女を呼び寄せた。

 

「君は”男に襲われた”と言ったね。一体、何があった?」

 

 イリスは全てを話して聴かせた。――姿の見えない男に背後から圧し掛かられた事、男に”父と同じか”と言われて嗤われた事、その直後に首筋に走った”鈍い痛み”の事。シリウスは心配そうに眉根を寄せた。

 

「”鈍い痛み”?首を見せてくれ」

 

 シリウスはイリスの髪をそっと掻き上げて、痛みの痕らしきものを見つけ出した途端、息を潜めた。――彼女の首筋には赤く鬱血した”接吻痕(キスマーク)”があった。彼女を襲った男が何の目的でそれを付けたのか、大人であるシリウスには嫌でも理解出来た。気取られないよう小さく舌打ちし、汚らしいゴミを見るかのような目でそれを睨み付ける。一方のイリスは、余りに長い事シリウスが自分の首を見つめているので、心配になって尋ねた。

 

「シリウス、どうしたの?何かあった?」

「いや、何でもない。ちょっとした痣だな」

 

 シリウスは気さくに微笑んで、魔法で氷の欠片を創り出し自分のハンカチで包んで、即席の氷嚢を作ってくれた。

 

「氷が解けるまで、ここに当てているんだよ。そうすれば消えるだろう」

 

 

 キャンプ場の修復作業は夜通し続けられた。ウィーズリー家の人々の看護も終わり、ココアを飲んでホッと一息吐いて眠りに就こうとした時、シリウスが外から帰って来て、イリス達を呼び集めた。

 

「君たち、用心しなさい。事態は思ったより深刻かもしれない。

 ハリー。訊きたいが、競技場へ入るまでに杖があったか分かるか?」

 

 ハリーは困ったように眉を寄せ、髪をくしゃくしゃと掻き乱し、暴動のせいで複雑にこんがらがってしまった記憶を整理した。やがて彼は頷いて、ゆっくりとした口調で応えた。

 

「うん、あったよ。競技場へ入る前に”万眼鏡”をポケットに入れたかったから、杖の位置を少し変えたんだ」

「それから無くすまでに杖を確認したか?」

「ううん。そこからは見てない。森に入って光を点そうとポケットを探ったら、”万眼鏡”しか無かった」

 

 そこまで言ってから、ハリーはやっとシリウスの意図している事を察した。ハリーは乾いた唇を舐め、静かに言った。

 

「”闇の印”を創り出した誰かが、競技場の席で僕の杖を盗んだって言う事?」

「その通り」シリウスは我が意を得たりとばかりに笑った。

「ウィンキーは杖を盗んだりしないわ!」

 

 すかさずハーマイオニーが反撃したが、シリウスはゆっくりと首を横に振り、口を開いた。

 

「席にいたのはウィンキーだけじゃない。他国の大臣やファッジ、バグマン・・・それに()()()()もいた」

「マルフォイ一家だ!」ロンが勝ち誇ったように叫んだ。

「絶対、ルシウス・マルフォイだ!」

「ち、違うよ!あれは・・・ルシウスさんの声じゃなかったもの」

 

 イリスは慌てて反論した。耳元で聴いたあの声は、明らかにルシウスのものではない。シリウスは彼女の意見に同意したようで、チラリと彼女の首の辺りに視線を投げかけ、冷静に言葉を続けた。

 

「私も同感だ。と言うのも、あいつはあの馬鹿げた集団の指揮を取っていたからね。離れた森の奥で”闇の印”を出す事は出来ない。いつも通り何の証拠も残さずに消えてしまったから罪を咎める事も出来ないが、私は遠目にもすぐ奴だと分かったよ。いくら仮面とローブで身なりを隠そうと、あいつの”死喰い人”としての立ち振る舞いは変わらない。アズカバンに行くまで、ずっと戦ってきたからね」

 

 イリスは余りのショックで茫然とし、咄嗟に呼吸を忘れて喘いだ。――ルシウスさんがあの集団の指揮を取っていた?可哀想なマグルの家族をあんなに酷い目に遭わせて、他の人々と一緒に笑っていたの?ハリーとロンが興奮した顔つきで何度も頷き合う一方で、ハーマイオニーはイリスを自分の傍に引き寄せ、何も言わずに彼女の頭を優しく撫でた。

 

「じゃあ、一体誰が?」

 

 ハーマイオニーが静かに尋ねると、シリウスは暫らく言い淀んでいる様子だったが、やがて口を開いた。

 

「正直言って分からない、と言うのが現状の見解だ。だからより一層、注意して日々を過ごさなくては。唯一の手掛かりであるウィンキーは、クラウチに取り調べを拒否されてしまったし」

「あいつ、ムカつくよ」ロンがイライラして言った。

「ホントはあいつが”闇の印”を創り出したんじゃないのか?」

「ロン。それは違う」シリウスは力なく笑った。

「彼は決してそんな事をする人間ではない。もし彼が本当に”闇の印”を出したとしたなら、私はこの先一生ドックフードだけで生きてみせるよ」

「クラウチを知ってるの?」

 

 ハリーが訊いた瞬間、シリウスの表情がさっと曇った。イリスはシリウスと最初に会った時の事を思い出した。――蝋のように固まった白い顔には深く皺が刻まれ、暗く落ち窪んだ眼窩の奥で目だけがギラギラと輝いている。まるで時間が巻き戻ったかのように、シリウスはあの時の顔つきに戻っていた。

 

「ああ」シリウスは暗い声で応えた。

「私をアズカバンに送れと命令を出した人物だ。裁判もせずに」

 

 イリス達は驚いて息を飲み、お互いの顔を見合わせた。『同じ過ちを繰り返す前に』――ふとイリスは、森の中で放ったシリウスの言葉を思い出した。あれはクラウチへ向けた()()だったのだ。シリウスはこれから話す事は大部分がアズカバンを出てから得たものであると前置きした上で、クラウチの素性をゆっくりと話して聴かせた。

 

 ――当時、クラウチは魔法省の警察である”魔法法執行部”の部長だった。彼は非常に実力のある素晴らしい魔法使いで、並々ならぬ権力欲も有していた。しかし”闇の陣営”を嫌い、どんな脅しや甘言を弄されても屈する事はなく抵抗していた。

 

 ”闇の陣営”が最も力を持っていたその時代、イギリス中は恐慌状態に陥っていた。”闇の帝王”は人心掌握術に長けている。最早誰が敵で、誰が味方かも分からない。やがて家族や友人だけでなく、自分すらも信じる事が出来なくなっていく。毎日、多くの魔法族やマグルが殺されたというニュースが飛び込んでくる。そう言った極限の状態で、人間の本性は露呈する。最良の面を発揮する者もいれば、最悪の面を出す者もいる。

 

 いつの時代も混乱をまとめるのは、強い信念を持ったカリスマ性のある人物だ。クラウチはその資質を有しており、魔法省でたちまち頭角を現した。そして彼は”闇の帝王”に従う者に極めて厳しい措置を取り始めた。殺人、拷問、疑わしい者に対する”許されざる呪文”の許可。暴力には暴力を、死には死をもって抵抗する。

 

 クラウチが”闇の帝王”と同じ、冷酷無情な人間であると人々が気付き始めた時、彼はあと一歩で大臣の座を手にする所までやって来ていた。人々が賞賛していたクラウチの最良の面は近づいてよく観察すると、最悪の面の間違いだった。そしてついに”闇の帝王”が失墜し、今まさに大臣に就任すると言う時に、不幸な事件が起こった。

 

 彼の息子が捕まったのだ。”闇の帝王”を探し出して復活させようと企み、闇祓いの夫婦を拷問した”死喰い人”の一味と共に――

 

「クラウチさんの息子が?」

 

 イリスは呆気に取られて尋ねた。話を聞く限り、クラウチは”闇の陣営”とは対極に位置する人物のようだし、その息子が”死喰い人”と関係しているなんて到底思えない。しかし、シリウスは静かに頷いた。

 

「そうだ。彼にとっては相当ショックだっただろう。彼は権力に取り憑かれ、家庭を顧みなかった。その報いがやって来たんだ。たまには早く家に帰り、自分の子供ともっと話をしてやるべきだった」

「その人、本当に”死喰い人”だったの?」ハーマイオニーが眉を潜めた。

「分からない。本当にそうだったのか、それとも単にその場に居合わせただけだったのか」

「クラウチは息子と話し合ったの?彼を助けてあげた?」

 

 ハリーが真剣な表情で尋ねると、シリウスは力なく笑い、肩を竦めて見せた。

 

「ハリー、イリスやウィンキーに対する態度を見ただろう?少しでも自分の評判を傷つけるような存在は、すぐ消してしまうような奴だ。彼はイリスの素性しか見なかったし、ウィンキーが”闇の印”を創り出した杖を持っているだけで、忠実な妖精を解雇した。

 クラウチは息子が”闇の陣営”に関係していると知った瞬間、排除した。裁判だってどんなに自分が息子を憎んでいるかを公に見せるための口実に過ぎなかった。無実を訴える息子の声を無視し、彼は真っ直ぐアズカバン送りにした。

 私は彼の息子が牢屋に連れて来られるのを見たよ。まだ十九歳になるかならないかの青年だった。ずっと母親を呼んで、泣き叫んでいた。ディメンターの瘴気に当てられ、数日すると静かになったがね」

 

 イリスはクラウチの息子を心から気の毒に思った。――無実を訴えても聞き入れられず、アズカバンに収監されて母を呼んで泣き叫んだ哀れな青年。果たして彼は本当に”闇の陣営”に関係していたのだろうか。もしかしてシリウスと同じように、今からでも助ける事が出来るのでは?イリスはそんな期待をもって口を開いた。

 

「ねえ、シリウス。その息子さんにもう一度話を聞いて、裁判をし直す事は出来ないの?」

 

 シリウスはその言葉を聴いた時、暗い眼差しをイリスに向け、ゆっくり応えた。

 

「いや、それは無理だ。彼は連れて来られてから一年後に()()()

 

 余りに残酷なその答えを、イリスは暫く受け入れる事が出来なかった。シリウスは苦々しい口調で、話を続けた。

 

 ――アズカバンでは、殆どの人間が気が狂ってしまう。ディメンターが幸福な記憶を吸い上げ、最悪な記憶しか残らないようにするため、生きる意志を失うのだ。クラウチは魔法省の重要人物であるため、もうじき息子が死ぬという時、夫人を伴っての最期の面会を特別に許された。その後、夫人は病に倒れ、憔悴の末に亡くなった。クラウチは息子の遺体を引き取りに来なかったので、ディメンターは監獄の外に埋葬した。

 

 クラウチは一時、魔法省大臣と目された英雄だったのに、次の瞬間、息子と夫人は死に、家名は汚された。やがて獄中死した彼の息子に人々の同情が集まった。クラウチ家は純血の名家だった。そんな由緒正しい家柄の子供が”死喰い人”になるなんて、きっと家庭に問題があったに違いないと。それに伴い、クラウチの人気は大きく落ち込んだ。そして大臣の座をファッジに奪われ、”国際魔法協力部”という傍流に押しやられてしまった。彼は全てをやり遂げたと思った瞬間、全てを失ってしまったのだ――

 

 五人の間に、重苦しい沈黙が流れた。イリスは今なら、森の中で見たクラウチの行動や言動の全てが理解出来ると思った。今や”闇の陣営”に関わる全てのものが、彼にとって大きなトラウマとなっているのに違いない。シリウスはイリスとハーマイオニーの上着を取り、差し出しながら言った。

 

「兎に角、君達には非常に残念な話で申し訳ないが、今学期も安全を心がけて生活する事だ。一人で人気のない場所に行ったりしないように。・・・まあ、()に言えた事ではないが。何かあればすぐ手紙を送りなさい。

 さあ、女の子達。テントへ戻ろう。私が送っていく」

 

 

 ドラコは”あの夢”を見てからと言うもの、ずっと心が塞ぎ込み、食事もろくに喉を通らない日々が続いていた。夢の世界で、名も知らぬ少女の手を握っている僅かな間に感じられた、無上の安らぎ。どれほど贅を尽した生活を送っても、あの幸福感が再び蘇る事はない。まるで空からお日様が消えてしまったかのように、毎日が暗く寂しく感じられる。もう二度と味わえないと思い知ったからこそ、より一層恋しかった。ドラコは何度も夢の事を考え、握った少女の手の感覚や助けを求める小さな声を思い浮かべた。

 

 やがてドラコの様子を心配して、ルシウスは”クィディッチ・ワールドカップにファッジ大臣の客人として招待された事”をドラコに教えてくれた。見晴らしの良い貴賓席で、宿泊地も屋敷しもべ妖精付きの豪華な別荘を用意していると。ドラコは、クィディッチで現在の自分の気持ちが満たされるとは到底思えなかった。かつてあんなに大好きだったスポーツも、今となっては欠片程の興味すらない。しかしドラコは父の好意を無下にする事など出来ず、彼の機嫌を害さないように子供のようにはしゃいで喜んで見せた。

 

 しかしファッジ大臣の誘導で貴賓席に着いた途端、ドラコの機嫌は上昇するどころか、ますます急降下した。重厚な深紫色の絨毯の上に、凡そ似つかわしくない赤毛の連中がいたからだ。しかも自分は後方の席であるため、試合中にあのみっともない赤毛が嫌でも入って来る。全くもって最悪の気分だ。おまけに金魚の糞のようにポッターとグレンジャー、ゴーントが連なって並び、こちらに警戒した眼差しを向けている。

 

「これはこれは皆様、お揃いで」

 

 ルシウスは威厳ある佇まいで一列に並ぶ人々を睥睨し、驚いたとばかりに目を見開いて低い声で言い放った。

 

「これほどの人数の貴賓席の切符を手に入れるのに、アーサー、何かお売りになりましたかな?最もお宅を売っても大した金にはならないでしょうが」

 

 ファッジ大臣は目の前でアーサーが侮辱されたにも関わらず、冷や汗を浮かべて愛想笑いを浮かべるだけだった。ルシウスは耳まで真っ赤になって黙り込むアーサーを通り過ぎ、今度はハーマイオニーを見て侮蔑的な笑みを浮かべた。ドラコはしたり顔で笑った。『こいつは”穢れた血”です』――ドラコは心の中から父親に囁いた――『クィディッチは魔法界のスポーツだ。()()()がいて良い場所じゃない』そうしてルシウスが今にも口を開き掛けた時、鋭い声が飛んできた。

 

「その子を侮辱するのは許さんぞ」

 

 ドラコは声のした方向を見て、眉を潜めた。――自分の叔父であるシリウス・ブラックだ。最も親戚であるとは言っても関わりを持った事などない。物心ついた時から彼はアズカバンに収監されていたし、無罪放免されてからもこちらへ挨拶に来る事なんてなかったからだ。叔父の姿は、手配書で見た写真と全く違っていた。端正で優美な顔立ちに相応しい格好をしていて、母と同じ灰色の瞳が鋭く父を射抜いている。

 

「言いがかりだ、シリウス。私は何も」

 

 ルシウスが大袈裟に肩を竦めながら、小馬鹿にしたような猫撫で声でやり返す。シリウスは素直に自分の非を認めたようで、気まずそうに頭を搔きながら言い放った。

 

「ああ、すまない。君のそのどうしようもなく底意地の悪い顔は元からだったな。十数年振りの再会だったから、その事をすっかり忘れていたよ」

 

 その言葉を皮切りに、ルシウス対シリウスの口喧嘩が始まった。ウィーズリー家の人々は残らず吹き出し、ハリーとロンはニヤッと笑って互いの肩を小突き合った。ハーマイオニーも少しばかり小気味良さそうに微笑んでいる。ファッジ大臣はあからさまにおろおろとし始めていたが、戦いは白熱する一方だった。ドラコは早速良からぬ反応を示したハリー達一人一人に噛み付き、その後は今にも決闘が始まりそうな程に殺意が高まっている二人の戦いを固唾を飲んで見守った。

 

 しかし、やがて母が迎えに来たために、彼は渋々自分の席に戻った。その様子を目敏く見つけたロンが「喧嘩が怖くなったのかい?ママが大好きな白イタチちゃん!」と罵ったので、すかさず「いや違う。君達が臭くて逃げ出したのさ。ちゃんと体を洗ってるのか?」とやり返した後、ふと視線を上げた。

 

 そこにはゴーントが一人で佇んでいて、ドラコを見た途端、怯えたように体をビクリとこわばらせた。ドラコは彼女の宝石のような瞳に吸い寄せられ、何も言う事が出来なかった。深い青色だった目は、今は金色の光が深く入り混じって、時々エメラルド色に輝いている。なんて美しい――まるで貴重な宝石を鑑賞しているようだとドラコは思った。そして彼は()()()()()に気付いた。

 

 ゴーントを見た時に起こる、脳髄を蕩かすような頭痛がさっぱりと消えている。その事は彼の思考を明瞭にし、さらなる思考の深みへと導いた。

 

 ――元々、ドラコは賢い子だった。冷静に考えてみれば、可笑しな話だった。知人の一人に過ぎず、必要最低限の関わりしか築いてこなかった彼女を見ると、何故こんなにも深い悲しみや苦しみ、絶望がじわじわと心に染み出してきて、居ても立ってもいられなくなってしまうのか。そして彼女が他の人々と仲良くしているのを見ると、激しい憎悪の念と独占欲がふつふつと湧いて来る。それらの感情は、自分とゴーントの間にある薄っぺらい繋がりと、どう照らし合わせても不釣り合いなものだ。それに頭痛が消えた事自体も気にかかる。

 

 その時、ドラコの頭の天辺から足の先までを、一筋の電流が駆け抜けた。彼の中で多くの事柄が収束し、一つの推測を導き出した。”この一連の出来事に、ゴーントが関係しているのでは?”『君は一体誰だ?』――ドラコがそう問い質そうとした時、ゾッとするような殺意が籠められた、低い男の声が突き刺さった。

 

()()()()

 

 その言葉はドラコのプライドを深く傷つけ、彼はカッとなった。純血の名家、マルフォイ家の子息であるこの僕を卑しくも”盗っ人”だと?ドラコはイリスから視線を外し、声の聴こえた方向を睨み付ける。だが、そこには屋敷しもべ妖精が一匹いるばかりで、他には誰もいない。

 

 次の瞬間、ドラコの頭がつんざくように痛んだ。砂嵐に似た雑音が耳の中一杯に広がり、ドラコは耐え切れずその場に蹲った。すると閉じた瞼の裏に、ある光景が見えた。

 

 ――真っ暗な靄が詰まった空間で、誰かが自分を見下ろして、激しい嫉妬と殺意の感情を向けているのを感じる。ドラコはその人物に強い恐怖心を抱いていた。彼は今、確かに()()()()()()見つかり、その持ち主に責め立てられていた。盗んだものはあたたかく息づいていて、ドラコは取られないようにギュッと強く抱き締める――

 

「どうしたのですか?」

 

 気が付くと、ナルシッサが心配そうな目で覗き込んでいた。ドラコは狐につままれたような気分で、周囲を見渡した。先程の暗闇の世界は消え去り、辺りは賑やかな空気に包まれている。ドラコは母親に余計な気遣いをさせないように、平気ですと答えて観戦を続けた。

 

 

 その夜、ドラコは夢を見た。真っ白な靄に包まれた世界に立っている。ふと良い花の香りが鼻をかすめ、見下ろすと、地上には一面に真っ白なケシの花が咲き乱れていた。周りを見渡しても靄のせいで遠くの方までは見えないが、人の気配はない。

 

 かすかな声が靄の奥から聞こえて来て、ドラコは弾かれたように顔を上げた。――あの痛苦の中で訊いた、女の子の声だ。泣いて、僕に助けを求めている。ドラコはケシの花を蹴散らし、我武者羅に駆けた。やがて靄の中から、透明な硝子で出来た巨大な壁が出現した。壁の奥は靄がぎっしり詰まっていて、中の様子をよく見る事が出来ない。声は壁の向こうから聴こえる。

 

 ドラコは素早く上方を見上げたが、壁の先は靄に埋もれていて、途方もない高さがある事が推測出来た。ドラコは壁伝いに進んで、扉か何かないかと探したが、どれほど息を切らして走っても見当たらない。壁は非常に強固で取っ掛かりもなく、登る事も出来ない。まるで壁の外と内とで、この世界を二つに分断しているようだった。ドラコは激しく息を弾ませながら、イライラと舌打ちした。

 

 ――ふと視界の端にある靄の一部が微かに揺らぎ、そこからぼんやりとした少女の影が姿を現した。ドラコは壁に両手を押し当て、食い入るように彼女を見つめた。心臓が爆発しそうな程に膨れ上がり、早鐘のように鼓動を打ち始める。間違いない、僕が夢の中で手を握り、痛みの中に見出した声の主は、この女の子だ。

 

 壁一枚を通して、少女はすぐ近くにいるようにも、反対に遥か遠くの方にいるようにも見えた。しかしその姿を見つめるだけで、ドラコは自分の中に、言葉に出来ない程の熱い感情が込み上げてきて、涙が溢れ出るのを止める事が出来なかった。

 

「開けてくれ!」

 

 ドラコは何度も壁を叩いたが、びくともしない。彼は頭に血が昇り、無我夢中で壁を蹴り飛ばした。この壁を壊せれば、目の前にいる少女に会えるのに。――この壁さえなければ!

 

 少女はドラコが壁を破壊しようと暴れているのを見て、ますます激しく泣き始めた。そしてゆっくりと首を横に振った。”そんな事をしてはいけない”と忠告するかのように。

 

 突如として、少女の頭上から()()()()()()が伸び上がった。ドラコは驚いて、アッと声を上げた。――優に六メートルの体長はあるに違いない、大きな蛇だった。少女は怯えて逃げようと駆け出すが、蛇はいとも簡単に少女に巻き付いてガブリと噛み付いた。耳をつんざくような痛ましい少女の悲鳴が、周囲に響き渡った。

 

「やめろおおお!!」

 

 ドラコの感情が音を立てて爆発した。壁に爪を立て、理性の欠片もない野獣の様に泣き叫ぶ。――早く助けなければ、あの子が喰われてしまう!ドラコは体じゅうがボロボロになるのも構わず、我武者羅に壁への体当たりを続けた。

 

 何度目かの体当たりの時、ビシリと小さな音が走り、壁の一部にわずかな蜘蛛の巣状の(ひび)が入った。細かな硝子の欠片が飛び散り、罅の隙間から靄が噴き出してくる。ドラコがそれを吸い込んだ瞬間、脳裏にある光景が思い浮かんだ。

 

 ――ホグワーツへ入学する前、ダイアゴン横丁でイリス・ゴーントと初めて出会った。髪を短く切った中性的な容姿の少女はドラコにあどけなく微笑みかけ、握手を交わした。”あたたかく柔らかな掌の感触”――

 

 ――ホグワーツ特急でイリスを探し回り、やっと見つけたと思ったら、彼女は憎っくきポッターやウィーズリーと一緒にいた。そしてからかいの言葉に対して、果敢に言い返してきた。”自分の思い通りにならない存在への苛立ち”――

 

 蛇は鎌首をもたげて、こちらを嘲笑っているかのようにシューシュー低い声で唸り、少女をじわじわと締め上げ始めた。苦しそうにもがく少女を一刻も早く助けたくて、ドラコは強く壁に衝突し、ますます罅は大きくなった。

 

 ――組分け帽子がスリザリンを勧めたのに、イリスはグリフィンドールを選んだ。初めて同年代の子と口喧嘩をした。”言いようのない不愉快な気分”――だが幸いな事にイリスは泣き虫な上、落ちこぼれだったため、彼女の鼻を明かし、いじめる要素はたっぷりとあった。”自分に抗った者を捻じ伏せたいと願う、歪んだ支配欲”――

 

 ドラコが体当たりを繰り返す毎に、罅は徐々に大きくなっていき、新たな靄を吸い込む度に、様々な光景が浮かんで消えていく。

 

 ――クリスマス休暇で、せっかく両親に甘えたいのにイリスと言うお邪魔虫がくっ付いて来るのが、とても嫌だった。だが嫌でも毎日顔を突き合わせていると、少しずつ違う感情が湧いて来た。支配したかった者をたっぷりと独占し、余裕の出来た心の底から湧いて来た思いを留める事が出来ず、ドラコはイリスにキスをした。”柔らかな唇、甘酸っぱい恋の感情”――

 

 ――しかしドラコにイリスの思いは通じず、行違う二人の思いはやがて激しい対立を生み出した。クィディッチ競技場で睨み合う二人。イリスを振り向かせたくて、ドラコは意地悪な事を言って泣かせた。”涙交じりの青い目、歪んだ愛情”――

 

 ――やがてポッター達が何かを企んでいる事を嗅ぎだすと、イリスを呼び出し、自分の思い通りになるように脅し付けた。しかし彼女は従わない。”愛おしさと憎らしさが入り混じった、複雑な思い”――

 

 ――罰則を命じられたドラコは、禁じられた森の中を逃げ惑っている最中に、錯乱状態になったイリスの姿を見つけて心臓が止まりそうになった。イリスを助けたいという思いが恐怖心を打ち消し、ドラコは無我夢中で崖を滑り降りて彼女を助けた。我に返ったイリスは涙を流しながら、ギュッと自分にしがみ付いた。”抱き締め返した時に感じた充足感、胸の高鳴り、少女の体のあたたかさ”――

 

 ――ホグワーツ特急でイリスに再会したドラコは、彼女に銀のリボンを結んだ。彼が今まで見てきた中で一番好きな髪型を選んだ。イリスは恥ずかしそうに微笑んで、ドラコを見つめる。その目は僕だけを見つめている。”言葉に出来ない程、幸せな気持ち”――

 

 やがて硝子の壁は罅だらけになり、最後の衝撃で粉々に砕け散った。ドラコは硝子の欠片が体じゅうを傷つけるのも構わず、弾丸のように飛び出して、巨大な蛇に襲い掛かった。ドラコが蛇を殴りつけるために拳を振り上げた時、その手首に巻いていた”銀のリボン”が強く輝き、美しい銀細工の剣へ変わった。ドラコは何も考えずにそれを振りかざし、蛇の口蓋を深く貫いた。

 

 彼が剣を離すと同時に、蛇はドッと横様に床に倒れ、ひくひくと痙攣し始める。やがて蛇は黒い靄となって、空中に融けていった。その靄の一部を吸い込んだ瞬間、ドラコの頭の中に、様々な記憶の一場面が次々と浮かんで、砂嵐に消し去られていく。

 

 ――”ダイアゴン横丁で、胸の中に飛び込んで来たイリスを抱き締め返した場面”――砂嵐が起きた――”イリスが怒って自分を責め立てている場面”――砂嵐が起きた――”イリスの膨大な量の宿題を手伝う中、早速サボり始めた彼女を叱った場面”――砂嵐が起きた――”イリスが自分のシーカー姿を見て頬を赤らめている場面”――砂嵐が起きた――砂嵐――砂嵐・・・

 

―――――――――

 

 

 

――――――

 

 

 

―――

 

 気が付くと、ドラコは箒にまたがり、降りしきる雨に打たれるまま、途方に暮れていた。競技場からは大勢のブーイングが響き渡り、プレッシャーに押し潰されそうなドラコを嘲笑い、責め立てている。

 

「ドラコー!がんばれーっ!」

 

 不意にイリスの声が聴こえた。ドラコが視線を下げると、クィディッチの観客スタンドにイリスがいる。びしょ濡れになるのも構わずに、一生懸命声援を送っていてくれている。

 

「あきらめちゃダメ!夢だったんでしょ!」

 

 

 瞬きをした瞬間、ドラコはあの靄の世界へ戻っていた。足元に倒れ伏した少女を見つけ、形振り構わず抱きかかえる。――イリスだった。ゴーストのように半分透き通っていて、体じゅう傷だらけだった。イリスは弱々しく呼吸を繰り返しながら、ドラコを見つめた。労しげに頬を撫でるドラコの手にそっと触れ、イリスは涙に滲んだ声で囁いた。

 

()()()()()

 

 突然、世界は不気味なエメラルド色に染まった。くぐもった爆発音が彼方此方で発生し、地面がグラグラと大きく揺れて、ケシの花が次々に萎れていく。ドラコは応えるようにイリスの手を掴みながら、はっきりと理解した。この少女は”自分の持つイリスの記憶”なのだと。一際強い爆風が吹き荒れて、ドラコの意識はプツリと途切れた。

 

 ドラコは静かに目を覚ました。――彼はイリスが掛けた”忘却術”の一部を破り、記憶の欠片を取り戻した。イリスは”忘却術”を掛ける時、()()()()()()()()()。”秘密の部屋”に関係した記憶以外の、自分と関わった記憶全てを、忘却させるのではなく()()()()()()()()()()()()()だ。

 

 それはより自然にドラコが日常生活を送れるようにするための計らいだったが、薄めた記憶は想起しにくくなっただけで、ドラコの心の内に確かに存在していた。夜空に輝く星々が昼間に見えないように。非常に強い執念と想い、そして切っ掛けがあれば、記憶を取り返す事は不可能ではなかった。

 

 彼はゆっくりとした動作でベッドから立ち上がり、窓辺へ近づいた。マルフォイ家は客人として招かれているため、一般のキャンプ場ではなく、特別区域に建築された別荘に宿泊している。カーテンを開けて外の様子を見ると、キャンプ場の上空に緑色の光が花火のように次々と打ち上がっていった。黒々とした集団が、空中に何かを浮かばせて振り回している。爆発音と、人々の悲鳴や怒号、笑い声が飛び交っている。そんな非現実的な光景をドラコは無表情で見つめながら、手首に巻いた銀のリボンを解いてギュッと握り締めた。

 

 やがてドラコは自室を出て、広々としたダイニングルームへ向かった。窓際の近くに置かれた椅子に腰掛けて、ナルシッサが外の様子を静かに眺めている。ルシウスの姿はない。時々炸裂する緑色の光が、彼女の険しい表情を映し出している。ドラコが母親の対面に腰掛けると、彼女は我に返ったかのように息子を見つめ、微笑んだ。

 

「大丈夫ですよ、ドラコ。あの集団は純血の者に害を成しません」

 

 ドラコはその事に応えず、黙ってナルシッサの前に銀のリボンを突き出した。彼女の顔が見る見るうちに冷たく凍り付いていく。

 

「母上」ドラコははっきりと言った。

「イリスの事を思い出しました」

 

 余りの事にナルシッサは言葉を失い、どうする事も出来ずにドラコの目を見つめた。――この子はイリスの事をファミリーネームではなくファーストネームで呼んだ。”忘却術”はそう簡単には破れない。イリスの力がまだ未熟で魔法が不完全だったのか、ドラコの魔法力が非常に強かったのか。だがナルシッサは、魔法が破られたのはそんな単純な理由だけではなく、何か大きなものの力が働いているような気がした。

 

 思い返せば、夫が”イリスの呪いが発動した”と言った日に、息子は不思議な夢を見たと打ち明け、それからずっと塞ぎ込むようになった。そして奇しくも”死喰い人”達が大騒ぎをしたこの日に、ドラコは記憶を取り戻した。

 

 ――かつてドラコはエルサに命を救われた。今回の出来事がその事と関係があるのか、それとも呪いや魔法を打ち破る程の思いや絆が二人の間にあるのか。ナルシッサには分からない。ただ、()()()()()息子は二度目の生を受けたのか、その理由が今なら分かるような気がした。ドラコは体の中から毒を吐き出すように苦しげな声で、言葉を続けた。

 

「イリスと僕はとても親しかった。だけど今はそうじゃない。どれだけ思い出しても、僕らが仲違いをした原因が分からないんです。それに夢の中でイリスは僕に助けを求めていた。どうすれば彼女を助ける事が出来るの?」

 

 俄かに窓の外が強く輝いて、大勢の悲鳴が上がった。程なくして別荘の玄関で物音がし始めた。――夫が帰って来た、時間がない。ナルシッサは夢中でドラコの手を握り締め、押し殺した声で言った。

 

「ドラコ。()()()()()()()()()()()()()()()()()。父上にもです。私からはこれ以上、何も言えない。そしてどうすればイリスを助ける事が出来るのか。その答えはあなた自身の手で見つけるのです」

 

 やがてダイニングルームの扉を開け、マルフォイ家の当主であるルシウスが帰って来た。ドラコは静かな決意を秘めた眼差しで、銀のリボンをポケットに突っ込み、父の目に触れないようにした。




GW終わるまでにホグワーツ行くまでのシーン書き終われて良かった…。
というかシリウスの醸し出す安心感が半端ない…。なんかもう全てをまるっと解決してくれそうな気がする。前回しんどいなんて言ってごめん。
ドラコの心理描写が分かりにくかったら修正いたしますので、仰ってください(*´ω`)

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